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常々思っています。いまの人間に必要なのは、「本能」をきちんと働かせることだと。食べ過ぎや飲み過ぎ、若い女性の薄着、若い男性の子ども好き、子どもの夜更かし、よい子を演じる子どもたち……、枚挙にいとまがありませんが、本能と逆行するような行動を取る人種が多くなっていると思うのは私だけでしょうか。結果、肥満や婦人病、不妊症、児童福祉法違反などの犯罪、子どもの生活習慣病や家庭内暴力、精神障害などといういやな末路を導いていくのです。「本能」というのは、実にありがたいというか、生命活動にとって必要不可欠であり、これが働いている限り、自爆することがないようにできているわけで、不活性状態では不具合が起こることは必至だということなのです。私は「本能」の働きが結構高い方だと思います。お酒の影響などで食欲中枢が鈍り、食べ過ぎるようなことがあると(滅多にありませんが)、その後必ず食べられなくなります。気持ち悪いとか、胃が痛いといった症状で、“食べ過ぎ”た事実を知らせてくれます。飲み過ぎもそう。“飲みたくない”というごく自然な体の反応によって、アルコールを受け付けなくなります。本能が健全に働けば、現代人が冒されている病の多くを撲滅することができるのではないかと思います。話は変わりますが、私はガンになったことがあるのではないかと思っています。ある外科医が言った言葉が忘れられません。「ガンは早期発見早期治療(切除手術)が基本。発見したガンは切除することが決まっているので、そのガンが自然に消滅するのを見ることはありませんが、もしかしたら治る(消滅する)ことがあるかもしれません」と言ったのです。私の体の中で、小さなガンができては治り、を繰り返しているように思えて仕方がありません。というのも、2年近く前、胃痛が余りにも長く続くので、仕事の段取りいがうまくいった日に、急遽大学病院の分院に駆け込みました。胃痛に気づいて30日以上が経過していました。無理を言って内視鏡の検診をしてもらいました。「あー、出血の跡がたくさんありますね」確かに、画面に映った私の胃には、ところどころに黒い斑点のようなものがあります。そのことを言っているのかほかに何かが見えるのかは不明でしたが、検査後、ファイバースコープを抜き取りながら臨床検査技師が「悪いときに来てくださいね。治ってから来られても、何もできませんし。つらい症状を治すのが病院ですから」と言った言葉が印象的でした。つまり、自然に治癒したのです。体の防御本能が働いて、ストレスや過労や暴飲暴食による身体機能の低下や衰えを補正してくれたのだと思います。父親が50歳くらいのとき、胃のあたりに異常を感じたため国立病院に出向いて検査をしてもらったところ、「以前に肺病を患われていらっしゃいますね」と言われたそうです。もちろん、肺病(肺結核)を患った記憶も、治療した事実もなかったそうです。ただ「思い返してみると、39歳のとき、確かにつらかった。体重が減ったし、夜も疲れるようになったし」結論は、自然治癒力による完治。にわかには信じがたいけれど、確かに医者にかからずに、自分で治していたのだと思います。人間には、というか、生物すべてには、自然治癒力があり、それは本脳が正常に働いていればごく当たり前の身体機能だと思います。これが正常でないのが現代人。「ストレス」という名のもとに暴飲暴食を正当化し、偏ったし好を制御することなく爆発させて体によくないものばかりを食し、あるいは、体力の限界を超えた遊びを是とし、本脳の領域を無視した生活を続けています。メタボリックシンドロームなどというのは、それの結果であると言えるでしょう。脳(本脳)の静かな反応を反映できる肉体でありたいと、そうでないと、ギリギリの状況で生きている自分の生命活動が脅かされると、危機感があるからこそ、本脳がフルに働くのだと思います。節約遺伝子を持っている農耕民族の日本人には、飽食は必要ないし、最小限の食料で生きられるのだから、ダイエットなどと中途半端なことを考えずに、生命ギリギリの「断食」を断行しても大丈夫でしょう。ダイエットのみならず、自然治癒力に代表される身体機能を正常に働かせるために、ギリギリの状態に身を置いて、頑張りたいと思います。そして、本脳を覆い隠してしまうほどの心の病の元凶を自らが排除できるような強さを身につけたいものでありまする。
2007.01.31
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ラジオ番組の情報コーナーの原稿を書いています。今回の番組は8年以上になるかな。前の番組も7年くらい書いていました。特番やら短期間で終わった番組やコーナーやらもあります。いまの番組は月~木の帯で、日曜日にも違う番組の原稿を書いています。よく考えたら、その局の開局以来、16年間休みなく書いています。何年もやっていると、何回も同じテーマで書くことを強いられます。春は「お花見情報」「花粉対策」「新人の心得」「ビジネスマナー」、夏は「海開き情報」「紫外線対策」「スキンケア」、秋は「観月情報」「紅葉情報」「ボディケア(ダイエット)」「読書の秋」「スポーツの秋」、冬は「あたたかく過ごす方法」「風邪予防」「クリスマス」「エコ生活」「除夜の鐘・初日の出情報」といった具合に、季節ネタはどうしても毎年のように登場し、そのたびに違う切り口を探らないといけません。結構大変です。自分の知識と記憶を頼りに、各方面に取材して裏を取り、取材先の公表を許可してもらうのですが、何せ帯番組ですから、時間に制限があります。「原稿をチェックさせろ」「取材に来い」「HPにリンクを張れ」などとややこしいことを言う取材先にはほとほと困ります。それでも、裏の取れないような情報は出せません。大手出版社から出版されている書籍や公的機関が発表しているデータを使うのが基本で、厚生労働省や通産省などに何度電話したか、数えればキリがないほど。でも、それが宿命です。「マス」の媒体にかかわっている人間が最低限守らなければならないルールです。「そんな安い原稿料でそこまで……」と言う人はたくさんいます。それもそうなのですが、だからといって裏付けのない情報を出すのは、帰結点としておかしい。「安かろう悪かろう」は、マスメディアの情報においてはあてはまらない発想です。なぜなら、影響力が大きいし、日本人はマス媒体に対して「妄信的」な民族だからです。どうしてそこまで信じ込み、行動や考え方までを支配されてしまうのかが理解できない。でも、そういう民族なのです。だから、「納豆騒動」が起こったのです。“食べて痩せる”という本末転倒な発想を信じてしまうこと、マスメディアが言うとおりに行動することに、わずかな疑問すら感じないということ、そして、“捏造と虚偽”がわかったときに恥じ入ることなく怒りや憤怒を爆発させる人々がこれほど多く存在することこそ、いまの日本が内包する危うさを露呈するものだと感じました。マスコミの力が強過ぎる。偏った報道、ある一定の方向からしか論説しないコメンテーターやキャスター、あるいは報道姿勢そのものに深く洗脳されていることに、国民は気づいていないのです。いまのブームは、公務員の裏金・長期療養と自治体破綻、政治家の政務調査費、議員宿舎、教育問題……。それぞれについての思いはいずれ改めて書くとして、一つだけ言えるのは、“食べて痩せたい”などという楽して自分に都合のいい結果を望むような人種は決して痩せられないということ。「食べない」「動く」「神経使う」ができる人は、太りたくても太れない体質になっているはず。「食べる」「動かない」「神経使わず」の無神経人間だからブクブクと太るのだという結論は、極論でしょうか。“ストレスのはけ口が食べること”という人がいますが、それはストレスではなく、不満だと思います。極度のストレスは内臓の働きを極限まで低下させ、“食べたい”と思う余地を与えないのです。なぜなら、ストレスの影響をモロに受ける自律神経は、消化器系の働きを司っているからです。食べる、太る原因を自分以外のものに求めている間は痩せるどころか、どんどん太ってしまうでしょう。そのたぐいの人々が、納豆を買いに走ったと予想しているのですが、あながち間違いではないように思います。
2007.01.28
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(十二)看護師への思い「どんな具合ですか?」そう言った来訪者の目は冷ややかで、表情も動きも極めて無機質な感じだった。「えっ、と……」男は素性のわからぬ来訪者にとまどっていた。男のその様子に気づいた来訪者は、口の端に、わずかに嘲笑にも似た歪みを見せながら言った。「総務の小田ですが。状況を確認に来ました。具合はいかがですか?」「あ……」男は焦った。小田といえば、自分よりも3期上で、平の自分とは違って出世の波に乗った総務部の次長だった。いくら部署や年齢が違うからといって、総務部次長を覚えていないというのはまずかった。「え、ああ、少し落ち着きました」男は緊張によどむ言葉に、さらに焦りを募らせた。「どんな事故だったんですか?」「人身事故でした。踏切で……」そこまで言うと、男の脳裏に血まみれの青白い遺体の残像が蘇った。それは、それを見た瞬間より生々しく、その物体から抜けた魂が、いまここにいるかのようなおぞましい感覚を男に与えた。それは、男にとって予想外の現象だった。課長との会話、救急隊員とのやりとり、医師の問診、看護師との談話……、その中では遺体の残像は蘇らなかった。男は気分が悪くなり、嗚咽を漏らした。「おぉ……」すると小田が男に近づいて言った。「大丈夫ですか? 看護婦さんを呼びましょうか?」男は、気分が悪くなると同時に動悸が激しくなったのを感じた。しかし、さっき来た看護師の蔑むような目を思い出してさらに不安定になった。「い、いえ……何とかなりそうです」小田と名乗る男は、コートの内側から手帳を取り出し、小刻みに指先を動かして何かを書き入れている。男の心の中に疑念が芽生えた。『遅刻や入院の理由を明確にするための確認なのか、後で整合性をチェックするための情報収集なのか……。いや、小田が感じた自分に対する疑問や批判を克明にメモっているのかもしれない……』男は急速に疑念の蟻地獄に落ちていくのを感じた。青くなった男の顔を見て、小田が言った。「看護婦を呼びましょう。真っ青ですよ」小田は病室を出て、看護師を呼んでいる。間もなく、さっきとは違う年配の看護師が病室に入ってきた。「どうされました?」男は、言葉に詰まった。自分で自分の状態を把握できずにいたのだ。年配の看護師は素早く腕帯をはめ、〈シュポシュポシュポ〉空気を入れ始めた。男の脳裏には、フラッシュバックのように青白い礫死体が何度も浮かんでいた。「異常に血圧が高いですね。脈拍数も上がっています。そうなるような何かがありましたか?」看護師が小田に聞いている。「いえ。具合を尋ねただけです」小田は極めて冷静な声で答えている。男は断末魔のような苦しい声を上げた。「うぉぉぉぉ」「どうされました? 苦しいですか?」「き、気持ちが悪い……」「大丈夫ですよ。降圧剤が必要なほど血圧が高いわけではないし、心拍数も大したことはありません。不安になる必要はありませんよ」そう言われて男は我に返った。記憶が蘇っただけのことだった。何ら怖がることも、忌むこともない。ただ単に目にした光景に過ぎない。しかし、小田の無機質な中に浮かべられた男を嘲るような表情は、男にとっては言いようのないほどの不安感を与えた。その不安が、男に意外な言葉を吐かせた。「やはり、どこかに異常があるのかもしれません。先生に、再検査をお願いしてください」そう言えば、とりあえず状況を理解し、小田が社に戻ってくれるような気がしたのだ。「先生に相談します」年配の看護師がそう言った刹那、男はあることに思い至った。「さっき来てくれたナースはいますか?」あの、若くてかわいい看護師にこの状況を見てもらいたかった。疑いの眼差しを向けたあの看護師に自分の異常を主張したかったのだ。「だれか来ましたか?」「え、ええ。体温と血圧を測ってくれた、若くてかわいい看護師さんです」「え……、体温と血圧を? ……だれかしら」年配の看護師は怪訝な表情を浮かべた。男は急速に不安になった。看護師のことではなく、小田の心証が悪くなることにだった。男はちらりと小田を見た。小田の懐疑的な視線が男に注がれているのを確認し、男はさらに不安になった。しかし、放ってしまった言葉は、男をある意味窮地に追いやることになる。もっともこのとき、男にそのことを理解できる勘はなかった。 〈つづく〉
2007.01.24
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(十一)眠れぬ時間男は目をつぶった。朝、あと5分眠ろうか起きようか迷いながら、結局5分間をフイにした無念をここで晴らそうと思った。目を閉じると、意外なことに気づいた。『病院とは、こんなに騒々しい場所なのか』もちろん、ナースセンターに隣接した部屋であることもその原因だと思われた。しかし、病に苦しみ、休むことが仕事といっていいような病人が、こんなに騒々しい中で一体安眠を得ることができるのだろうかと疑問にさえ思った。『関係ない。自分はきょうの夜まで過ごすだけだし、病気でもない』そう思った刹那、あることが思い出された。『部長へのプレゼン、どうしよう。企画書などまるっきりできていないし、内容すら考えていない。〈新製品のプロモーション戦略〉……、そんなことが一営業部員に考えられ、成果が上がるんだったら、こんな薄給に甘んじているわけがない……』男は落胆していく気持ちを支えるように考えた。『いま考えても仕方がない。ここで何をどうすることもできない。とにかく、夜、家に戻ったら、何とかする手立てを考えよう。そうだ、少し眠ろう』目を閉じながら、外の物音を聞くともなく聞いていると、『出社したくないなら、ここに夜までいらしていただいて…』と言った駅員の言葉が耳の奥から聞こえてきた。男は驚いて目を開いた。『なぜわかったのだろう。自分でも気づかぬうちに、それらしい事を口走りでもしたのだろうか……。これからどうなるのだろう。入院費、鉄道会社からの尋問、……あ、もしかしたら、警察の取り調べもあるかもしれない……』男の心を再び煙幕がかかったような疑念と不安が覆い始めた。それを振り払うように男は自らに言い聞かせた。『大丈夫。自分のムチウチは、だれも否定できない事実だ。ムチウチだと言い通せばいい。……そうだ、追い詰められたら、日常の仕事のストレスの影響だとすり替えれば言い逃れできる』男は、自らが発案した強引な結論を導いてほんの少し安心した。再び眠ろうとした男のまぶたの裏側に、先ほど看護師の『救急隊員もお医者様もあなたの言葉を信じるはずがありません』と言った口元と瞳が蘇った。『なぜ信じるはずがないのだろう』男の疑問は堂々巡りだった。それをわかっていながら、考えずにはいられなかった。『どんな答えが自分を待っているのだろう。……いや、看護師の勝手な憶測や意見に過ぎないのかもしれない。……考えても無駄だ。それこそ、無駄な憶測をするに過ぎない』男は今度こそ眠ろうと思った。『勘の悪い男……』その言葉が男の脳裏に鳴り響いた。認めたくないが、ここまで来ると、認めざるを得ない事実であることは明白だった。目覚めてからの出来事が走馬灯のように男の脳裏に蘇った。しかしとのとき男は突然、意味不明なまでのプラス思考に転じていた。『おかげで、こうして清潔なベッド眠ることができるし、かわいい看護師に会えた。通常なら、いまごろ上司に叱られているか、客先で頭を下げているところだ。同僚には悪いが、これから夜までゆっくりと休ませてもらう』男はようやく眠る体制に入った。病室の外の物音にもすっかりなれたようだった。〈コンコン〉だれかがドアをノックした。すっかり眠るつもりでいた男は、安眠を妨害されたことに強い不満を感じながら、ドアを振り返った。ドアを開けて入ってきたのは、自分と同年輩か、少し上くらいの男性だった。男はその顔にうっすらと見覚えがあるように感じた。しかし、だれなのかはっきりとは思い出せないでいた。「どんな具合ですか?」男に問う来訪者のその無機質な表情を眺めながら、男は、安眠どころではない事態がやってきたような予感を感じていた。そして勘の悪い男のその予感は……。 〈つづく〉
2007.01.22
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ここのところ仕事が忙しく、2日連続でブログの更新ができなかった。昨日は、午前様にならずに帰宅できたので、夜食の「はちのす」をボイルし、洗濯機を回しながらいざ、ブログの更新をとパソコンを開けて「迷う男」第11話を書き始めた。前回、前々回との整合性を確認しながらの作業は時間を要し、しかもお酒を飲みながらでは、なかなか執筆ははかどらなかった。そして不覚にも午前2時くらいに、パソコンを抱えたまま眠り込んでしまった。次に目が覚めたのが4時少し前。パソコン画面を見ると、自分でも意外なほど長文を書き上げていた。最後のシメ部分を書き終えたのが4:10ころ。内容にそれなりの満足をしていたせいか、わずかにうれしさを感じながら「登録」ボタンをクリックした。次の瞬間、顔から血の気が引いた。恐怖の「メンテナンス画面」が出現したのだ。以前にも経験したことがあった。「迷う男」の第8話をアップしようとしたときだった。今回も前回と同様、せっかく書いた小説が、跡形もなく消え去ってしまった。恨めしやメンテナンス!せめて、メンテナンス実施日を管理画面の目立つ位置に表示してほしい。前回の大々的なメンテナンスからさほどたっていないし、管理画面の変更があったばかりだから、まさか今朝メンテナンスしているとは……。前回のことがあって以来、アップする前にWordにコピーするようにしていたが、今朝は寝ぼけていて、手ぬかった。がっかりしてパソコンを閉じ、ふて寝した。朝、出勤するために7時に起きたとき、悪夢を思い出して気分が悪かった。と同時に、書いた内容をほとんど覚えていない自分にも気分悪かった。第8話と同様、第11話も今朝書いたのとは違うストーリーになってしまうはずである。いいのか、悪いのか。お昼から、ラジオ番組の取材でスペイン料理の名店に行く。きっと、素晴らしい人とおいしい料理に出会えるはず、と自分を励ましながら、重い三脚とデジカメを携えて行ってきまーす!
2007.01.21
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(十)看護師の瞳(3)男は胸の鼓動が高鳴る中、その鼓動の原因がまっすぐ男を見詰める看護師の瞳のせいなのか、嘘を隠し通せるかどうか不安だという心のあらわれなのかよくわからないまま、看護師が近づいてくるのを茫然と見ていた。「体温と血圧は異常がないですよ」看護師の瞳から読み取れる感情の強さは揺るぎなかった。「気分が悪いことが体温や血圧に反映されないことは多々あります」冷静で表情のない言葉を吐きながら、男を見下ろす看護師に、男は説明のできないほどの強気をもって言った。「じゃ、何のために測ったんですか? 私の言っていることが、うそだという証拠の一つですか?」看護師は、目の端に笑みのような緩みを浮かべながら言った。「うそ? 何を主張するためのうそですか?」男は茫然とした。「何」を言うわけにはいかなかった。この看護師は、これまでのいきさつの詳細を知らないかもしれない。しかし、この余裕の表情は、担当のあの医者から因果を含められたとしか思えなかった。「知っているんでしょう?」「何をですか?」「私がこの病院に運ばれたいきさつを」「鉄道事故に遭われたことは聞きました。症状は理解できるものでしたが。それ以外に、当医院の医師が我々に伏せている事実があるのでしょうか」「あ、……そ、それは……」男は冷静になろうと思った。ここにいる理由は何だったのか、何をしようと思っていたのか、ここに何を求めていたのか、一から思い返そうと思った。しかし、若くてかわいい看護師を前にして、ややこしくてうざったい事情は思い浮かぶ余地がなかったし、思い浮かべない方がいいと、暗に感じていた。「い、いや、……事故で気分が悪くなった影響で、思考もマイナーになってしまって……。救急隊員やお医者さんが、私の言っていることを信じてくれていないような気がして……」看護師は男の目をじっと見据えて言った。「お医者さまも救急隊員も、あなたの言ったことを信じるわけがありません」男は目の前が暗くなるのを感じた。看護師の通る声と歯切れのいい言葉が男の胸に突き刺さった。男をさらに落胆させたのは、看護師の緩やかな口元だった。ストップモーションがかかったようにゆっくりと、大きな動作で開いた口元がもう一度「信じるわけがありません」と言っている。『この看護師はすべてを知っている』と感じた。知った上で、自分を婉曲な表現で責めようとしていると直感した。「信じてもらえないならいい。何らかの手を使って私の不本意や無念をあなた方や鉄道会社にわかってもらう。法的に立証されれば、痛みを負った私の気持ちがわからないと断言するような病院にだって、何らかのペナルティが課せられることだろう。世話になったのに申し訳ないが、やることはやらせてもらうよ」一気に言い切った男は、心の中ではほっとしていた。しかし、言ってしまった顛末として、今後、何らかの攻防があることは理解できた。そして、勝ち目は全くないことはわかっていた。看護師が口元を緩め、こう言った。「なぜ、救急隊員と医師があなたを信じないのか、言いましょうか?」言われた男の体は言葉に緊縛されていた。看護師の言葉に二の句が告げなかった。看護師がこちらを見据えていた。開いた口から発せられる言葉が気になった。やがて、看護師の口から言葉がこぼれた。「言いましょうか?」男には、詳しい意味がわからなかった。それらしいことを想像することはできたが、看護師の真意を図りかねた。看護師の表情がまた変わった。「ゆっくりお休みください。数時間後に血圧と体温をお計りいただきます。そのときに理由を言います。何か、ご要望はありますか?」「……」「何かありましたら、このボタンを押して呼んでください。では」看護師はコールボタンを示して言った。男には、発する言葉がなかった。看護師は退室するためドアに歩み寄った。男は看護師を注視していた。そして、ちらっと見えた横顔には、不遜な笑みが浮かんでいるように感じた。男は、次の検温までの、不安で居心地の悪い時間を想像して萎えた。しかし、“居心地が悪い”程度で済むはずはなかった……。 〈つづく〉
2007.01.17
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専門学校のプロモーションの仕事の依頼が来た。「全入時代」ゆえ、専門学校も学生獲得に四苦八苦しているようだ。何を隠そう(隠していない。何度も書いている)、自身も専門学校の教師をしていたことがある。1年生の担任で、2年生も教えていた。あのころは、買い手市場だったので、放っておいても入学希望者がやってきた。また、「大学」と「専門学校」の区分けが明確で、金銭的、能力的、あるいは親の教育方針等々で大学に行かない、または行けない人間が、少しでも優位な就職先をGETするために行くのが専門学校だった。しかし、少子化のこの時代、大学とて学生獲得に躍起になるのは当然で、専門学校的な技能を教える大学があちこちに出現している。この状況は、専門学校にとってはたまったものではない。あの手、この手でプロモーションをしかけるが、いかんせん、大学ほどの修学人数が確保できていない専門学校は、費用がない。本音を言えば、「学校の内容がよければ、学生は集まってくる。質の高い先生を引き抜いてきて、他ではやっていない、しかしニーズが見込めることを教えればいい。宣伝費をかける必要はない」ということだが、それでは仕事が成り立たないので、何かを考えて提案しようと思う。~~~~~高校生の皆さん、このブログを見たら、意見を下さい。●専門学校を選ぶ基準は何ですか?●どんな方法で専門学校の情報を得ますか?●専門学校に行こうと決める時期はいつですか?
2007.01.16
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(九)看護師の瞳2男は、ナースの表情が緩んだことに、わずかな安堵を感じた。『この看護師は、自分の入院のいきさつを知らないのかもしれない』と思った。それならば、こんなかわいい看護師に見守られて、心置きなく眠れることがこの上なく幸せだと思えた。「お熱と血圧を測らせてください」そう言うと、ナースは体温計を男に渡し、男の腕に血圧計の腕帯をはめた。男は左脇に体温計を挟み、左腕に巻かれた腕帯に、どんどん圧力がかかっていくのを感じていた。〈シュポシュポシュポ/ドクドクドク〉こんな色気のある看護師に、血圧を測られるということだけでも血圧が上がるのに、嘘をついているというやましさや、鉄道会社や会社からの反応がとてつもないストレスであることは間違いなく、それが血圧には確実に、自覚はないが熱にもある程度反映されると確信していた。「はい、ありがとうございます」看護師が男から体温計を回収した。「問題ありませんね」その言葉を聞いて、男は焦った。何かあってもらわねばますます疑いの目を向けられる。日頃の不節制の成果がここで出てくれなければ意味がない。「とても気分が悪いんですよ」男の声に振り返った看護婦の目には、明らかな疑念が見てとれた。男の中で、何かが弾けた。「何ですか、その目は」男は、言った自分に激しく後悔した。しかももうとまらなかった。「私のことを知っているんですか?」男の声に反応した看護婦は、ゆっくり男のベッドに近づいてきた。 〈つづく〉
2007.01.15
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(八)看護師の瞳男は無機質な病室の天井を見詰めるともなく見詰めていた。『厄介だ……』ため息とともに、声にもならない声が男の口から漏れた。その声に驚いて、男は自らの言葉の意味を探った。いろいろな厄介が思い浮かんだ。“部長へのプレゼン”“課長への言い訳”“駅員との対決”……、どれも勝利の可能性が薄いように思える。落胆の感情とともに、朝からの出来事を思い返した。寝坊をし損ねて気分が悪く、座っていきたくて電車を1本遅らせ、ようやく座れたと思ったら老婆がそれを苛み、乗換駅まで立って我慢しようと思ったら人身事故で……。致し方なく遅刻を伝えるために電話したら、すっかり忘れていた部長への社内プレゼンのことを告げられて気持ちが萎え、勢いに任せて申告した体調の不具合が抜き差しならぬ状態に自分を追いやってしまったのだ。迷いながら選択してきた事柄のほとんどが、自分の思いと逆に向かってしまう運命の理不尽を感じた。そういえば、生まれてこの方、思いと逆に展開する人生だったと思い至った。例えば、病気を治そうと町医者を訪ねたら、誤診で病気が治らないばかりか、スリッパの洗浄不備で水虫を移されてしまったとか、好きな女の子ができそうになると、友達が先に告白してしまったとか、好きな女の子が近づいてきたら、友達のことを好きだから伝えてほしいと頼まれたりとか、何時間も待って話題の福袋を買ったら、全く使えるもの、欲しいものがなくて、親に無償進呈してしまったり……。〈コンコン〉ノックの音がした。男は我に返った。ナースが入ってきて、幾つかの検査や指示をするのだろうと想像した。それが終わったら、少しの睡眠をもらおうと男は思った。いつもの通勤より神経も使ったし、体力的にも疲れていたと実感していた。開いたドアの隙間からは、若くて、かわいくて、匂い立つようなナースの姿が見えた。「失礼します」入ってきたナースは、男が想像する“ナース”に見るような「清浄」「清廉」「誠実」といった雰囲気ではなく、「色気」が漂う女性だった。男は、気分の高揚を感じ取った。卒がない駅員や、老獪な医者が自分に与えた緊張感とはまた違った緊張感を感じながら、しかし、すぐそばにいるそのナースに、猛烈な緊張感を感じる自分を意識しながら、男は言った。「私は気分が悪いんだ」……言った言葉尻から、男は自分の異常に気づいていた。驚いて振り返るナースの視線が男の瞳につき刺さった。アリ地獄から抜け出そうと思っていたはずが、さらに逃れられそうにない、急激なすり鉢状の深い穴にはまっていく自分を認識したのだ。振り返った看護師の目尻が緩んだときには、男の、それまでの気持ちはすべて吹き飛んでいた。しかしそれは、しばらくの安堵と快楽でしかなかったと、後に彼は知ることになる。 〈つづく〉
2007.01.14
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ここのところ、「迷う男」という小説を書いています。実は、下書きやプロットの設定をせず、ブログの「日記を書き込む」をクリックしてからその回のストーリーを考えて書くという無謀な挑戦で8回まで書きました。「えっ、8回?」と思った方もいらっしゃるでしょう。そう、7回までしかアップされていません。何と8回目は消えてしまったのです。昨夜。これまでの中でも、最も字数が多かったと思います。書き終えて、「登録する」ボタンをクリックしたら…「メンテナンス」画面が出現しました。いやな予感がし、背筋が凍りました。予感は的中。せっせと書いた小説は、どこを探しても戻ってきません。何ということ。「一度書いたのだから、覚えているでしょう。微妙な違いはあっても、同じような内容を書けるはず。また書けばいいじゃない」そう。それは正論です。でもしかし!覚えていないのです。毎回そうですが、夜書いてアップし、朝、出勤してから自分のブログにアクセスして読み、「へぇ、こんなこと書いたんだ」と感心していました。秘かなファンだったのです。夜は大抵酔っぱらっています。平生ならブログを書くのに30分もかからないのに、1時間以上かけて書き、おかしな文章でも余り気にせずにアップできたのは、二人目の私がいたからだと思います。ゆえに、一人目の私が思いつかないような展開やセリフが書けたのだと思います。いえ、決して、二人目の私の方が創作力があるというようなことではなく、一人目の私にとって意外性のあるストーリーを思いつく、ということに過ぎません。8回目は、結構面白くできていたと思います。でも、もうどこにもありません。下書きもなければ、バックアップもなく、推敲もせずにアップするという方法をとっている私のミスです。仕方ありません。というわけで、8回目は明日以降にアップします。ちょっと萎えています。わずか2分差でアウトでした。メンテナンスが恨めしい。日曜というのに、いまから仕事です。余計に萎えます。でも幸い、お天気がいいので、ブラインドを上げてお天道様に元気をもらって頑張ります。 南無
2007.01.14
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(七)アリ地獄の恐怖駅員のにこやかな顔が男の視界を覆った。「気になる症状は、すべて先生にお話いただけましたか?」男を見下ろす駅員の顔は、棘を隠した植物のように静かで、なのにそら恐ろしい雰囲気を漂わせていた。「症状って……、気分が悪いと言っているのに、頭部レントゲンとCTだけなんて、おかしくないですか?」男は、何かを言わなければならないと思った。言葉を発しなければ、この場ですべてが終わり、チャンチャン、ということになると察知した。事故に遭ったこと、次の駅まで歩いたり、救急車に乗ったりしたこと、病院に来たこと、老獪な医者の言葉攻めに遇って、ドギマギしたことすべてがフイになることが口惜しかった。それとは別次元だが、これがなければ無理などしなかった“出社したくない”という理由も男の行動を後押ししていた。「事故と気分が悪いとの因果関係を考えますと、急ブレーキによる頸部から頭部への衝撃が原因と思われます。それは、おわかりですね?」男は迷った。〈はい〉と言ってしまっては、駅員に論破されそうな気がする。しかし、〈いいえ〉と言ったとしてもそれが通用するとは到底思えなかった。なぜなら、駅員の論拠の方が正しいと思えたし、根拠も明確だと感じた。「わ、わかります」「それ以外に、どこをどう検査してほしいとおっしゃるのでしょうか。どうか、忌憚なくおっしゃってください」“忌憚なく”と言った駅員の表情が、より引き締まったのを男は見ていた。男は完全に怖じ気づいていた。仕方ないことだ。「具合が悪い」ということ自体が架空の事実で、それにまつわることを言うのは空想に過ぎない。言葉を発すれば発するほど、墓穴を掘ることになることは理解できた。「わ、私は専門的なことはわかりません。でも、気分が悪いことは間違いない」男はそう言いながら、その主張が余りにも無根拠で、意味のない言動であると思えた。が、後には引けない。すると駅員は、表情を緩めて言った。「わかりました。では、しばらくこの病院でお休みください。体を休めれば、体調も戻られるでしょう」「そ、それは、私が気分が悪いと言っているのは、妄想だとでもおっしゃっているんですか?」男は声を荒らげながら、不安感の混じっている高い声に“まずい”と我ながら驚いていた。「お客様、お気を悪くなさらないでください。我々の業界ではお客様が訴えられる症状についての原因の分析は長い時間をかけて蓄積されたデータがありますし、その情報はお医者様と共有しています。事故に遇った方の症状をお聞きした時点で病名がわかるほど系統立った診療分野でして、初めて事故をご経験なさったお客様がパニック状態でいらしたとしても、その対応方法も我々は熟知しているのです」「あ、あなたは、私がパニックに陥っていて、おかしなことを言っているとおっしゃるんですか?」「パニックに陥っていらっしゃるようではありませんが……失礼ながら、気分が悪い理由は精神的なものではないかと。出社したくないなら、ここで夜までいらしていただいて構わないように手配いたします」男は言葉を失った。この駅員はすべてを見通していると思った。しかし、男は、駅員が発してくれた配慮のある言葉にそのまま従っていいものかを迷った。ここまでやったのだから何らかの特典を手にしたいという気持ちもあったし、明らかに自分よりも立場が上の駅員を打ち負かしたいという気持ちもあった。だが、自分の気持ちを見通している駅員に対して何をどうすれば一発逆転ホームランになるのか、皆目検討がつかなかった。「わ、私は例外だ」男は自分の発した言葉に驚いた。意図せずに口をついた言葉だった。「これまでの例にないこともあるかもしれない」言った自分が恐ろしくなった。アリ地獄にはまった瞬間のもがくアリが頭に浮かんだ。「経過観察しましょう」あの医者だった。いつの間にか、男の傍らに来ていた。「症状が急転するようなときにも対処できるようご入院ください」「に、入院?」男は意外な展開にとまどっていた。きょう、出社できなければ、それでいいと思っていたし、やってもらいたいのは検査だった。入院となると、会社や、部長への対応が大きく変わる。「入院の患者さんが移動する。ナースセンター横の個室を準備してくれ」医者がポケットからPHSを取り出して、どこかと交信した。男は脱力した。もう抗えないと思った。「会社とご家族に連絡させていただきます。この用紙に連絡先をご記入ください」そう言ってボードに挟んだ用紙とボールペンを差し出す駅員の顔を見る力も男にはなかった。「おっしゃっていただければ、私が書きますが」男は暗い穴の中にいた。これからの展開が全く読めず、会社の反応、上司の反応、部長の心証……。激しい脱力感と虚無感に襲われながら、心の片隅で「少し眠れる」ことに、わずかの魅力を感じていた。しかしその「魅力」さえもが、粉々に打ち砕かれるまでにそう時間を要さなかった。 〈つづく〉
2007.01.12
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(六)笑顔の裏側で分厚い壁の向こうの臨床検査技師の言葉を聞きながら男は先ほどの出来事を反芻していた。『どうしてあの医者は、ほかに異常を訴えた人間がいないことを知っていたんだろう。……きっと、あの駅員が事細かに告げ口したに違いない。“あのエセ患者は会社に行きたくないから、口実を探すのに必死だ”とか、“保障金目当てだから、鉄道事故で保障される範囲内の訴えをつぶしてくれ”とか、“後々ゴネ得をたくらんでいるかもしれないから、医学的な裏付けを与えないようにしてくれ”といったような因果をあの医者に含めたに違いない、と、根拠がないながらも、確信に似た強い感情を抱いた。『あの駅員は、鼻持ちならない。気をつけないと』と男は気を引き締めた。「はい、お疲れさまでした。撮影は終わりました」臨床検査技師の声で男は我に返った。駅員と医者は敵であると感じた。臨床検査技師も敵の可能性はあるものの、表情を見ると優し気に感じる。自分を疑っていないのではないかと、ふと思った。「ありがとうございました」そう言った刹那、男はある疑念にさいなまれた。『撮影時間が短かった。適当に処理したのではないだろうか。脳に異常があると仮定した検査なら、慎重にするはずだ。最初から、脳への異常などないと思いながら検査したのではないだろうか。いや、もしかしたら、撮影などしなかったのかもしれない』「先生……」そう言ったなり、何も言わない男を訝しがった臨床検査技師がマイクを通して言った。「何か不都合がありましたか?」男はしばし言葉を失った。物理的な不都合も、肉体的な不具合もなく、健康であるのが当たり前という状況にありながら、いまやってもらった検査以上のことをしてもらうとしたら、どんなアピールがあるだろうかと考えた。「この検査で何がわかったのですか?」とっさの出来事とはいえ、男は、自分が発した言葉に驚いた。「え……、脳の血管異常や外傷の有無、血栓などの脳関係と、循環器系の異常がわかります。それ以外に何か気になることがありますか?」医師が言った。「え、いえ……」口ごもった男の口から、神のお告げのように言葉があふれた。「そうですか。私は全く問題のない体なのですね。よかった。気分が悪いとか、体の所々が痛いと感じたのは私の勝手な感覚だったのでしょう。こういう事故の経験の豊富な、優秀なお医者様がご指導してくださるのですから、心配がないはずだ。待てよ……、そんな万全な状況であるにもかかわらず、私の体がおかしくなったときはどうなるのだろう。事故では何もなかったと、あたかも嘘つきのように言われ、体が不調だと言っているのに疑いの眼差して見られるばかり、検査というと、される側が内容すら理解もできない状況で……』そこまで言うと、老獪な医者の笑顔が引きつった。男がすかさず言った。「私は、事故が私の体に悪影響を与えたと感じています。相違点があるなら、事故が私の体に全く悪影響がなかったということを証明していただきたい」男の気持ちが楽になった。それは、医師の顔にわずかながら不穏な雰囲気が漂ったからだった。しかしその後すぐさま、男の瞳に緊張が走った。「お疲れさまでした」そう言いながら近づいてくる駅員が、目の端に映ったからだった。駅員は、例のごとくにこやかだった。本心を見せない、冷たい笑顔を浮かべながら、近づいてきた。 〈つづく〉
2007.01.11
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(五)口八丁への関門看護師に促されて男は診察室に入った。そこには、いかにも老獪な医者がいた。「大変でしたね。お仕事は大丈夫ですか?」「あ、は、はぁ、会社には連絡しました。上司も了承してくれました」「そうですか。気分が悪いのに、会社への連絡を欠かさないとは、律儀で正直な方ですね。なのに運が悪い。同じ電車に乗り合わせていた方の中で、あなたのほかに異常を訴えられた方はいないそうですね。飛行機事故で500人中1人だけ助かったというような事例の、ちょうど逆ということでしょうか。神や仏の存在を疑ってしまいますよね」男は息をのんだ。何と饒舌で、人(後ろめたさのある)の心をえぐるような語彙を連発するのかと、恐れすら感じた。「え、えぇ、そう思います。自分でも不運だと感じています」男は、この医者の誘導尋問には乗るまいと思っていた。しかし自信はなかった。本当に気の毒そうな顔をして、〈神や仏の存在を疑ってしまいますよね〉と言われると、『済みません! 神や仏に顔向けのできないような嘘をついています』と懺悔してしまうのではないかという衝動にかられている自分を感じていたからだ。「で、どこがどうか、遠慮なく言ってみてください。事故のショックで、あり得ないような体の反応があるかもしれません。そのようなことは、こちらとしても十分承知していますから」〈あり得ないような体の反応〉とはどういうものか……、男は考えながらも、ある意味で自分の言ったことの中で整合性のとれないことは〈事故のショック〉ととらえてもらえるのではないかと、わずかながら安堵した。「気分が悪いんです」「いつからですか?」「え?」「気分が悪いことに、いつ気づきました?」男は迷った。駅員には、停車してしまった電車から降りて次の駅に歩いてくる間と言ったが、救急隊員にはどう言っただろうか。上司にはどう言ったんだろう……。記憶をたどろうとしつつ、何気なくふと上げた目線の先に、医者のにこやかな表情なのに、異様に鋭い視線を向けているのを見て、男は完全に思考が停止したのを感じた。「いつだったか……」「事故直後ですか? それとも次の駅まで歩いてから?歩いている間かな?」「あ……、歩いている途中だったと……」「歩いているとき、何を考えていましたか?」「か、会社に行かないと、と……」「何か重要な業務があったのですか?」「きょうは、部長への社内プレゼンがあって……」「それは大変でしたね。検査にはそう時間がかかりません。所見では、頸椎ねんざだと思われます。簡単な検査で終わりますから、すぐに出社して、部長さんへの社内プレゼンを成功させてください」男は焦った。それでは、“骨折り損のくたびれもうけ”以外の何ものでもない。きょう一日がつぶれなければ意味がない。「え、け、けい…何とかって、見ただけでわかるんですか?気分が悪いって言っているのに……、付き添いの駅員さんは気の済むように検査してもらえって言ってくれましたよ。見た目だけで済まそうというんですか?」声を荒げてしまったことに、男は後悔しながらも、血圧と心拍数が上がり、自制できない自分をもてあましていた。「もちろんレントゲンは撮りますよ。念のため、脳のCTも撮っておきましょう。それ以外に、ご希望の検査はありますか?」「あ……」男は言葉に詰まった。どんな検査を申請したら、整合性が取れ、健康への道を歩み始められるのかと迷ったのだ。しかしそれは、徒労に過ぎなかった。幾ら考えても医学的知識のない男に、答えが導き出せるはずがなかった。しかし、何かを言うしかなかった。「な、内臓に問題はないんですか?」男の切羽詰まった表情を目の前に、老獪な医者が表情を緩めて言った。「急ブレーキで、内臓が異常を来すということは考え難いですが、そうおっしゃる理由があるなら、お教えください」男の心の中に“後悔”の二文字が浮かんだ。〈言わなければよかった〉と思ったときにはもう遅い、ということだと悟った。「い、いえ、気分が悪いので、胃腸にも何か影響があったのかと単純に思っただけです」「え、気分が悪いというのは、胃腸ですか?」男に表情がなくなった。医者の意外な質問に、思考が停止した。「あ、い、いえ……」「では、頭痛は?」「べ、べつに……」男は、医者の目が鋭くなったのを感じた。男は焦って言った。「検査はしてもらえないんですか?」医者は余裕のある笑顔で言った。「もちろん検査します。では、検査室に行きましょうか」男は途方もない後悔が心を覆っていくのを感じた。検査で何か異常が出るはずがなかった。痛みも苦しみもないのに、レントゲンやCTに何かが写るとは思えるはずもないと思えた。さらには、医者の視線に、駅員と同じ匂いを感じた。丁寧で、親切な口調であるにもかかわらず、こちらを蔑み、疑い、嘘を見抜こうとする視線の鋭さは、うしろめたい男には、凶器に匹敵するものだった。男は検査室に足を踏み入れた。するとそこには、臨床検査技師と言われる人物がいた。レントゲンやCTのプロである。判断は医者がするとしても、毎日多くの撮影をし、症状を把握し、病名を見抜いているプロである。電車事故の内容と、男が訴える症状と、写った画像を分析すれば、自分が嘘を言っていることが確定的になるのにそう時間がかからないことは予想できた。しかし、そこで諦めるわけにはいかなかった。少しでも時間を引っ張って、出社しなくてもいい状況をつくらないといけなかったからだ。男は、隣室からマイクを通して出される臨床検査技師の指示を聞きながら、どう言えば嘘がバレずに済むかを必死に考えた。このままでは、口八丁の実力を発揮する機会を得られぬまま、嘘つきのレッテルを貼られることは明白だと感じられた。このときはまだ、男の心の中に、『ここを何とかやり過ごせば、何とかなる』という妄想が、わずかながらもあったようだった。 〈つづく〉
2007.01.10
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(四)不吉な予感救急車は病院に到着した。付き添いの駅員が言った。「私は検査が終わるまでお待ちしておりますので、お医者様に症状を忌憚なくお伝え下さり、心行くまで検査していただきますように」男はたじろいだ。全身を検査してもらうつもりだったが、検査の挙げ句、何もなかったことがわかったら、この駅員は何と言うだろう。さっき見た、鋭い視線を思い出して背筋が冷たくなった。「あ、え、あぁ、そうします。済みません」男は、自分が何気なく発した“済みません”が、この駅員にどういうふうに受け取られるかを考えながら、病院のエントランスを救急隊員に促されてスルーした。『どう言おう。ほかにけが人がいないなら、気分が悪いというだけで救急車を要請したのは行き過ぎと取られるのは必至で、ややもすると犯罪絡みの事情があるのではないかと詮索されて、痛くもない腹を探られかねない。面倒くさいことにならないようにするには……』男は必死にストーリーを考えた。会社に言い訳ができ、病院に疑われず、駅員を納得させるストーリーを。幾ら考えても、整合性のとれるストーリーは男には思いつかなかった。知識がなさ過ぎた。けがやその症状、それに対する傷病としての保障の有無など、それまでそんなことに関係せずに生活してきた男にとってすべての用件を満たす言い訳をする自信は全くと言っていいほどなかった。しかし、言い訳のときが刻々とやってくる。男は反芻した。これまでに自分が発した言葉を思い返した。「気分が悪い」「体をひねった」「首が痛いような気がする」……。男はひらめいた。『もしも、物理的、医学的な裏付けが得られないので、明確な診断が下せない、というような、際どくもあいまいな判断だったときは、日頃のハードワークを理由にしよう。事故の衝撃により、不安定な精神状態をさらに不安定にさせ、常日頃持っていた精神面の不安定を助長させたと。幸いにというか……、自分に運よく、物理的、医学的な根拠が見つかったときは、極力浮かれた言動を避け、清廉な雰囲気を前面に押し出し、医者にも駅員にも悪印象を持たれないように留意しながら手八丁口八丁で何とか切り抜けよう』と。男はそれまで、「手八丁口八丁」というのは、誠実さがなく、嘘をつくことをいとわず、その場その場で言い逃れをする人間の行為を表した言葉だと思っていた。しかし、切羽詰まった状況になると、少々理解のベクトルが変わるものだと思った。自分もこれで逃れなければならない局面に接していることがおぼろけながらわかっていた。しかし男は、「手八丁口八丁」の本当の意味をこの後知ることになる。 〈つづく〉
2007.01.09
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この週末は、楽天市場で購入したミート系食料を堪能しました。まずは「はちのす」添付されていた「召し上がり方」には、“自然解凍か流水解凍の後鍋でボイルし、塩をつけて”と書いてありましたが、私は、以前よく行っていた韓国料理店で教えてもらった「チョジャン」をつくり、これをつけて食しました。★チョジャンのつくり方 味噌(大豆片のない滑らかなもの)、酢、みりん、砂糖 韓国唐辛子か豆板醤(分量は適当。なめてみて、おいしい ポイントを探してください。酢をすし酢にすると、砂糖は 不要です)肉厚で歯ごたえがあり、はちのす独特の香りが残っていて、とてもおいしかった!一口大のボイルした切り身が真空パックになっているのですが、少々大き目ですから、半分くらいにスライスするとちょうどいいと思います。それから、「とんかつ」。冷凍モノは初めての購入で、半信半疑だったのですが、これも及第点。おいしく食べるコツは、揚げ過ぎないこと。余熱で火が通るので、揚げ色が薄いくらいで大丈夫。うちでは、とんかつソース、ケチャップ、ウスターソースとからしを混ぜたソースで食べましたが、大根おろしとポン酢で食べるのもおいしいと思います。大根おろしは、水に放して洗い、リードなどの不織布のペーパーでこして絞ると独特の臭みが消えます。うっかり食べてしまって、半分になっていますが、参考までに画像を……。最後は「モツ鍋」。モツというと、シマチョウやスジ、センマイ、アカセンなど複数のホルモンが入っているのだと思っていたら、残念。コテッチャン(小腸)だけでした。ボイルの加減なのか、柔らかくて歯ごたえがなくなってしまっているので(コテッチャンは本来そういうものかも)、鍋より炒めものの方が向いていると思います。300gで500円そこそこというのは、とてもお買得です。ごま油を熱して豆板醤を入れ、香りが立ったら野菜と牛モツを加えて、醤油か焼肉のたれで味付けすれば、モツ炒めのできあがり。うちでは鍋にしました。鰹だしと鶏ガラスープのだしに醤油、みりん、酒、豆板醤、ニンニクスライスを加えてスープが完成。キャベツ、マメもやし、ニラ、えのき茸と牛モツが具材ですが、豆腐や薄揚げ、タマネギなどもモツ鍋に合います。シメは雑炊。溶き卵を回しかけ、青ネギをたっぷり振り掛けます。「はちのす」も「とんかつ」も「牛モツ」も、とてもリーズナブルだし、小分けパックになっているので、二人家族のうちでも重宝します。一度お試しを。
2007.01.08
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ここ3日間のブログは「迷う男」という小説を書いています。ご覧になった方は「何これ?」と不思議に思われたと思います。ふと、思ったのです。最近の男性は迷うことが多いと。デート中でも、仕事をしていても、暮らしの中でもいつも迷っている。「君がいいんだったら、それでいいよ」こっちは、それが希望なのだと思ってそうすると、「僕はあっちの方がよかったんだけど、君はこっちの方が好きだろうと思って」そんなことをいま言われても。私だって、あっちの方がいいいと思ってたんだから。“優しさ”だと言えばそうだろうけれど、優柔不断とか、決断力がないと言えばそうとも言えるのではないでしょうか。で、この小説を思いついたというわけです。毎日更新する体力はないかもしれませんが、ちょっとずつ書いていこうと思います。よければ、定期的にチェックしてみてください。きのうときょう、楽天市場で購入した食材を食しています。予想よりおいしかったし、リーズナブルだったので、久々に充実した食生活を送っています。明日はそのご報告ができると思います。レシピつきで。画像もあるのですが、半分ほど食べてしまってから、「あ、ブログで紹介せな!」と、携帯カメラを構える私に、「そんなん撮るの?」と怪訝な目で見る同居人を制して撮影したもので、UPする勇気があるかどうかわかりませんが……。明日は成人の日。親が同席するという異常な成人式が各地で繰り広げられるのでしょう。大荒れの日本列島が彼らの前途を暗示しているようです。。。
2007.01.07
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(三)幸いに潜む不幸救急車が来た。男は、自分以外にもけが人がいると思っていたが、発車直後で余りスピードが出ていなかったからか、皆、出勤することに必死なのか、男のほかに救急車を要請した者はいないようだった。「けが人の方はどちらですか?」救急隊員の呼びかけと、それに呼応して周囲の人間が一斉に注目した。男はたじろいだ。『まずいな……、もう大丈夫と言おうか……。しかし、診断書をもらわないと会社には言い訳できないし、このまま会社に出るわけにはいかないし……』どうしようか迷っている男の傍らにいた駅員が大声を上げた。「こちらです。この方です」周囲の目が男に注がれた。「歩けますか? ストレッチャーを要請しますか?」駅員に問われ、男はまた迷った。『この状況で立って歩くと、救急車を要請するほどのことかって、みんなに思われないだろうか。しかし、ストレッチャーにのっけてもらうほどのけがじゃないことは、病院に行けばばれてしまう……、どうしよう』迷っている男の元に救急隊員がやってきた。「どんな症状ですか? どこか痛いですか?」「あ……、いえ、あっ、ええ。首のあたりが……」言った後、男は後悔した。“気分が悪い”と言えばよかったと思った。痛みなどない上に、首、と場所を限定すると、うそだとばれてしまう確率が高くなる。「むちうちの可能性がありますね。歩けますか?」「え、ええ」救急隊員に付き添われて、男は救急車まで歩いた。ほんの20mくらいの距離だったが、男にとっては、何倍もの距離があるように感じた。『あの程度のブレーキでけがするわけないさ』と周囲の人々が思っているように思えて仕方がなかった。やっとの思いで、男は救急車に乗り込んだ。さっきの駅員も乗り込んできた。「症状を詳しく教えてください」救急隊員に言われて、男は思わず口走った。「痛みというより、気分が悪い方が……」「痛みがなく、気分が悪い? それとも、気分は悪いが痛みもあるような気がする? どちらですか?」「痛みは……、あるような、ないような」「それ以外の症状は?」「いまのところ、ないと思います」「わかりました」そう言うと、救急隊員は病院と交信し始めた。男はほっとした。とりあえず病院まで行けば、何とかなると思った。「ご気分がお悪いところ、申し訳ございませんが、2、3質問させていただきます」付き添いの駅員が言った。「は、はぁ」「お客様は、何両目にお乗りになっていましたか?」「えっと……」男は迷った。車両によって、受ける影響が違うだろうことは予想できたが、どこに乗っていたと言ったらいいのかわからなかったし、嘘を言ってバレると、そちらの方が厄介だと思った。「ホームに入ってきた電車に飛び乗ったので、何両目かは……」男は我ながらうまく言い逃れができたと思った。「乗車駅はどちらですか?」「角間市です」「階段のすぐそばにとまった車両にお乗りになった?」「え、あ、まぁ」「前寄りの階段ですか? 後ろ寄りですか?」「う、後ろです」「では、5両目ですね」駅員は、ボードに挟んだ調書とおぼしき用紙に何やら書き込んでいく。「お立ちになっていたんですね」「そ、そうです」「どんな状況だったかお教えください」男はまた迷った。本当のことを言うと、けがなどするはずないとわかってしまう。少し誇張した表現をしなければいけない。が、どう誇張したらいいのか、回らぬ思考で懸命に考えた。「えっと……、つり革につかまって、考え事をしていました。きょうは、部長への社内プレゼンがあって、そのことを考えていると、急に電車がとまって……」「転んだり、どこかに体をぶつけたりしましたか?」「え……、それはありませんが、つり革がひっくり返ったので、体を強くひねりました」「腰ですか?」「え……、首、背中、足も……」男はかすかに感じていた。駅員が自分のことを多少なりとも疑っているということを。事務的に質問しているようだが、『うそをつけ!』と心の中でなじりながら言葉を発しているということを。「あなたは、私の言うことが嘘だと言うんですか?」男の口から、男自身が意図しない言葉が飛び出した。最も驚いたのは男だった。駅員はゆっくり目線を上げて男を見た。鋭い目線をにわかに温和な表情に変えて言った。「とんでもありません。私は社への報告書をつくるのが仕事ですから、必要なことだけをお聞きしているのです」「私は、気分が悪いと言っているんです。救急車の中でそんな矢継ぎ早の質問に答える義務があると、あなたは言うんですか?」「大変失礼いたしました。あとの質問は診断が終わってからにします。配慮いたしませず、申し訳ございません。ただ、保障等の手続きに必要なことですので、ご協力いただきたいと思います」「あ、……わ、わかりました」駅員の冷静な言葉に、男は『しまった!』と思った。自分から『嘘をついています』と言っているような行為だったと自戒したが、もう遅かった。男の発した言葉が、嘘のスパイラルにはまっていくきっかけになることに、男は気づいていなかった。一つの嘘のために100の嘘をつく必要があることを、さらに、それには特殊な才能が要ることに、男が気づくことになるのは休息と現実逃避を夢見ていた病院でのことだった。 〈つづく〉
2007.01.07
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(二)不幸中の幸い人身事故を起こした電車を降り、線路を歩いて次の駅まで歩く途中、男は、先頭車両の左の先に白い布を見つけた。「何だろう」と思った刹那、〈人身事故〉という車内アナウンスを思い出し、白い布の下に遺体があるという想像が、男の脳裏をかすめた。慌てて目を背けようとしたとき、一陣の風が吹き抜けた。白い布がふわっと浮き上がり、遺体の右側があらわになった。男は、目を背けようとしていたにもかかわらず、遺体を凝視してしまった。男性だった。中年男性だったが、衣服は身に着けていないようだった。それでも、パンツは履いているようだった。コートの要る季節に、パンツのみで街を歩いていたとは考え難かった。以前、レールと車輪に挟まったものはすべてはぎ取られるというようなことを聞いたことがあった。衣服は車輪がはぎ取ったのだろう。それはやり過ごせたが、どうしても見過ごせないものがあった。遺体の顔が血みどろだったことだ。瞬時に目を背けたが、残像が鮮明に残った。青白い遺体に真っ赤な鮮血……、男にとって、余りにも衝撃的な光景だった。男はようやく一つ先の駅に到着した。しかし、乗り換え駅はさらに一つ先である。駅員に聞いても、運転再開のメドは立たないということだった。時計を見た。通常より30分近く遅れている。いますぐにでも、会社に電話を入れなければ、と携帯電話を手に取った。しかし、何度発信しても、つながらない。事故のせいかどうかはわからないが、男の周辺からの発信が集中しているのだろう。男は携帯での連絡を諦めて、公衆電話を探した。予想以上に電話待ちの列ができていた。しかし、連絡の手段はこれしかないと、列に並んだ。結局、男に順番が回ってきたのは、20分後だった。しかも、電話に出た上司の課長は、「きょうは、部長に対する四半期の目標の社内プレゼンだろう。事故による延着とは伝えておくが、心証には責任は持てんぞ」と言う。確かに、部長に、社内プレゼンに怖じ気づいたと思われる可能性もなくはなく、延着の理由を知ったとしても、平社員に対して一度持ってしまった心証を翻すのは大変だということも理解できる。ところが、男にはラッキーだった。男はすっかり、社内プレゼンのことを忘れていた。朝からどうも気分が悪いと感じていたのは意識外にあったが、社内プレゼンのせいかもしれないと思った。部長に提示できるほどの資料も企画書もできていない。もしかしたら、この事故がいい口実になるかもしれないと思った。男はとっさに思いついた。事故による急ブレーキで、体に何らかの影響があったと言えば、会社に行かなくて済むかもしれない。「何とか出社しようと、次の駅まで歩いてきましたが、急ブレーキのときにどうにかなったのか、どうも気分が思わしくありません。後で後遺症のようなものが出るといけませんので、このまま病院に行きます」男は、我ながらうまい言い訳ができたと思った。「そうか、それはいけない。保障問題にもかかわるから、検査してもらいなさい」男は「助かった」と思った。むち打ちなどというのは外からわかるものではないし、といって、保障しなくてもいいというものでもない。とりあえず申告して、病院に連れて行ってもらおうと思った。そうすれば、半日以上がフイになり、社内プレゼンも先送りされ、もしかしたら、保障金が出るかもしれない。どこも悪くはないが、金が出るなら病院通いしてもいいし、幾ばくかの金で示談に持ち込んでもいい。この機会に、体の隅々まで検査してもらい、健康への道を歩み始めるのもいいと思えた。朝から気分が悪かったが、これは不幸中の幸いだと思えた。一石何鳥もあるように思えたのだ。早速駅員に申告した。「急ブレーキの影響か、どうも気分が悪い。首か背中に異常があるのではないかと思う」「そうですか、それはいけません。救急車を呼びますので、しばらくお待ちください」救急車を待つ間、男はほっとしていた。朝からずっと悪かった気分も少し癒えた。会社に行かなくてもいいという事実と、病院で休むことができ、朝の睡眠不足がわずかでも解消できるのではないか、という期待があったからだ。部長や課長の顔も脳裏をよぎったが、それよりも、朝から悪かった気分がすっかり解消されていることがうれしく、血まみれの主には申し訳なく思いながらも、事故に遭遇したことがこの上なくラッキーだと思えた。間もなく起こるアンラッキーなことどもを想像するすべもなく、ただ、安堵の表情を浮かべる男だった。 〈つづく〉
2007.01.06
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男は小奇麗なレストランの前で佇んでいた。そして、いつものように迷っていた。メニューに、価格に、いや、店自体を選択することに迷っていた。それは、男を象徴する姿だった。あのときもこうして迷っていた。そして、ようやく訪れたチャンスを、いともあっさりと失ってしまったーー。(一)気分が悪いその日は朝から気分が悪かった。目覚ましが鳴り、飛び起きたが、あと5分寝ようか、起きようかと迷った。迷っている間に5分が過ぎてしまい、「こんなことなら、寝ると決めればよかった」と、損した気持ちになった。歯磨きをするとき、電動歯ブラシを使うか、普通の歯ブラシを使うか迷ったが、重い電動歯ブラシを持つのがうざったかったので、普通の歯ブラシを使った。しかし、電動歯ブラシほどきれいに磨けていないような気がして気分が悪かった。家を出るとき、コートを着ていくかどうか迷ったが、天気が悪く、気温が低そうだったので、着ていくことにした。起きたときから気分が悪かったので、電車では座りたいと思った。1台電車をやり過ごし、列の先頭に並んで次の電車を待った。電車がホームに滑り込んできた。すかさずドアの前に立ち、ドアが開いたと同時に左側に乗り込んだ。「ない」空席がなかった。右側を振り返った。「あった」3人分ほどあいている。踵を返したところで、若い男女がドカッと座り込んだ。いかにも“今風の若者”の二人だが、女性が男性に絡みつくように寄り添っている。3人分の座席を二人で占領しているのだが、男には注意する勇気がない。急行や準急に乗り換える大勢の客が降りるターミナル駅で座れるだろうと考えた。男はふと気付いた。「暑い」寒いと思ってコートを着てきたが、飽和状態の湿気とむせかえるような熱気に、衣服の中が高温になっていることがわかった。「ハーフコートかジャケットでよかった」男は、重いウールのコートをうとましく思った。ターミナル駅に到着した。乗り換え客がたくさん降りたため、座席があいた。男はすかさず座った。とにかく座りたかった。座れてほっとした。ドアが閉まり電車が発車した。ふと連結部に目をやると、足元のおぼつかない老婆がいる。ゆっくり、男の方に歩を進める。男はいやな予感がして顔を上げた。「し、しまった」〈優先座席〉に座っていた。老婆が来ないことを祈った。しかし、その期待はもろくも打ち砕かれ、老婆が男の前に立った。男はいやな表情を見せることなく、「どうぞ」と老婆に言って立ち上がった。老婆は遠慮がちに辞したが、「ありがとうございます」と言って男の座っていた座席に座った。男は空席を探した。「あった」空席を見つけ、そちらに移動しようとしたとき、ドアが開いた。ものすごい数の客が乗り込んできた。空席は瞬く間に埋まった。「くそっ」しかし、男は思い直した。「あと二駅だ。乗り換えてから座れるだろう」乗り換え駅まで二駅であることに気付いた男は、次に乗る電車に望みをつないだ。と、その刹那、電車は急ブレーキをかけて停車した。車内がざわついた。「何だ、何があったんだ」2、3分経過したところで、車内アナウンスがあった。「ただいま、踏切で人身事故が発生しました。しばらく停車します。お急ぎのところ恐れ入りますが、少々お待ちください」男は気分が悪くなった。「前の電車に乗っておけばよかった…」結局、運転再開のメドが立たないということで、線路の上を一駅近く歩かされることになった。「遅刻だ…」男は、果てしなく深くて暗い穴に落ち込んだかのような気分に陥った。 〈つづく〉
2007.01.05
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*2006/12/29分に加筆します。 2006年の日本は、「いざなぎ景気」を超えるほどの好景気だと言われました。ある分野では、そうかもしれません。でも、その分野に属する人間はごくわずかで、そのわずかな人間が利益をむさぼり、その下級(企業間の主従関係において。決して「人間的」とか「地位」ではありません)に属する人間には過酷な条件で発注する、あるいは、発注を条件に無理難題な課題を与えるという、余りにも理不尽な状況下で、景気を実感する機会も与えられずにただひたすら額に汗する日々を余儀なくされた人種が、不公平感を抱いきつつ新年を迎えたことは想像に難くありません。それでも、餅を焼き、おせち料理をほお張り、おこたに入って味わう家族の団らんの温かさに、ささやかな幸福感を感じるつましい人々がいかに多いか。しかし、こういう人々が、実は世の中を支えているのです。金融機関や大企業に属する人々、マネーゲームで大金を手にする人種は、何もできない。何かを創り出す技術も、力を貸してくれる人脈も、自らが生み出したノウハウも何もない。ただ、「金銭」を使って人を動かし、できたものを買い取るだけです。創ってくれる人がいなければ、どうにもならない。大手メーカーとて同じです。大枠の製造技術はあっても、部品や加工原料がなければ、一からは創れない。なのに、協力会社や技術者をいじめます。特に金融機関はひどい。新しい会社を設立するとき、まず銀行に資本金を預ける必要があります。有限会社は最低300万円、株式なら1,000万円です。預けた銀行に「預かり証」というのを発行してもらい、これを法務局に提出しないといけません。「預かり証」というのは、A5判程度の紙に宛名と日付、預かり金額、設立企業名、発行者が記入してあるごく簡単な書面です。フォーマットがあれば、作成するのに5分もかからないような書面を発行してもらうのに、10,500円取られます。法務局での登記が済み、無事、会社を設立する段取りが整うと、取り引き銀行を決める必要があります。当然、「預かり証」を発行してもらった銀行に口座開設を申請します。すると、「審査します」と言う。耳を疑います。300万なり、1,000万なりを預けているのに、審査が必要だと。そもそも、何を審査するのでしょう。後日、「審査が通りましたので、口座をつくりに来てください」との連絡。再度足を運びますが、“ありがとう”も“恐れ入ります”もない。本当に腹が立ちます。腹が立つ根本原因は、やはり「税金投入」でしょう。困ったときに、国民の税金を何百億も入れてもらっておいてその態度は何だ! という気持ちが強い。中小企業への貸し渋り、貸しはがしで、幾つの企業が倒産し、何人の経営者が自殺に追いやられたか。そして、それによって売り掛けのあった幾つの企業が困窮したか、連鎖倒産したか。そんなことに関係なく、金融機関は未曾有の利益を出し、行員は驚くほど高額な賞与をもらったようです。資本主義経済の中で生きているのですから、金のあるところが強いという構造になっていることは致し方ないと思います。しかし、その構造がどうも歪んでいるように思えて仕方がないのです。弱い者いじめの政治がなされ、弱い者を見殺しにし、金の集まる特定のところに都合のいい構造がつくり上げられているように思えて仕方がない。結果、高い技術を持っている貴重な技術者が中国へ流出し、中小企業が支えてきた製造技術がすたれ、製造部門が空洞化しています。日本経済を支えているのは輸出に強い業種だけとなり、国内における第一次産業も、第二次産業も脆弱化する一方です。こんな「いじめ」の構造を改善しようとしない国だから、子どもの世界にも以前にはなかったような陰湿で強烈ないじめが生まれ、潜伏化してよりひどい状況になる。モラルやルールが軽視され、弱い者いじめを正当化するような社会へと変化すると、「振り込め」に代表される詐欺が横行し、若い人間がいとも簡単に犯罪に走る。だれでも簡単に犯罪を犯せる国だと知って、外国人が犯罪を目的に大挙して押し寄せてくる。犯罪を恐れ、毎日が恐怖の連続と言えるほど社会が荒れると人々の心がすさみ、犯罪に対して鈍感になり、親兄弟をも手にかける人間が出現する。それを見てますます人の心がすさみ、社会が荒れて犯罪が増え、悪質化する。悪のスパイラルです。戦後60年をかけて、徐々に人間がおかしくなり、社会がすさんでしまいました。社会という構造物の土台はもう崩壊寸前です。シロアリ(税金に群がる役人や政治家)やカビ(犯罪者やモラルを失った集団)、湿気(まともに教育できない教育者、間違った思想を植え付ける教育者)、成分不明の物質(働かず、社会に貢献しない者たち)、そもそも、構造物を支える力のない大地(社会力。モラル、ルール、常識に支えられた盤石なものであるべきだが、いまの日本は脆弱な砂の大地)のせいで、間もなく崩壊を迎えるでしょう。それではいけない、と皆が目覚めたときから、構造物の補修か、もしくはスクラップ・アンド・ビルドが始まり、60年の倍か、それ以上の歳月をかけて建て直すことになるのです。目覚めるのが先になればなるほど崩壊の危険は高まり、建て直すのに時間がかかることは言うまでもありません。さて、皆が気づくのは、いつになるのでしょうか。
2007.01.04
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親殺しだ、子殺しだ、核だ、拉致だ、偽ドルだと世の中まことにかまびすしい限りですが、そんな人間界の雑事に関係なく、陽は昇り、海は波打ち、花は咲き、実はなり、鳥はさえずります。ふと、実家の庭先を見ると、きれいな鳴き声の先に見慣れぬ鳥がいます。小さな体、機敏な動き、そして、目の縁が白い。メジロです。都会では、滅多に見られぬ野鳥です。でも、父が言うには、鳴き声の主は違うらしい。「あれや」と指さされた先を見たら、スズメとハトの間、いやハトくらいの大きさかな。動きが機敏だから、小さく見えるのかもしれません。しかし、セキレイにしては頭部の比率が大きいし、羽の勢いが弱い。瞳の大きさはハトの愛らしさに近く、横から、正面から見詰め合ってしまいます。「何?」「モズや」。正しいかどうかはわかりませんが、『も~ずが枯れ木で鳴いている~』という歌にぴたりと合うような鳥です。写真を撮ろうとしたのですが、頭のいい野鳥なのでしょう、一度もシャッターの間合いにおさまることなく飛び立ってしまいます。で、モズがとまっていたモッコクの木の写真だけでもUPしておきます。右はゆずの木で、左がモッコクの木です。小さな赤い実を目当てに、いろんな鳥がやってきます。春にはウグイスが美しい声でさえずります。人間の憂いなどとは関係なく、光量や、温度や、湿度や、その他諸々の自然の要素を嗅ぎ分けて、動物も、植物も強く、したたかに生きていきます。自然は、人間の俗事を受け入れるほど小さな存在ではないということでしょうか。人間である自分の位置づけを、しばし考えてしまう自分がいました。今年は、「生命」の本当の意味をきちんと考えたいと思いますーー今年の抱負かな。
2007.01.03
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大晦日からきょうまで、実家で過ごしました。海がすぐ近くにあるので、元旦は初日の出を見に行くのが新年の定番行事です。スカッと晴れた元旦はそんなに多くなく、晴れていても大抵海のすぐ上に雲があります。いまの土地に実家が移ってから13回目のお正月ですが、海の上に全く雲がなく、直接海から太陽が昇ったのは3回だけ。そのうち1度は富士山が見えました。雨だったのが2回、あとは、雲の上に太陽がお出ましになるのを待つことに。今年も雲があって、日の出の時間より4、5分遅れての初日の出になりました。大きくて、明るくて、ダイナミックな初日の出でした。思わず手を合わせて、健康と安寧を祈りました。今年はどんな年になるでしょうか。血生臭い事件や、世界の平和を揺るがすような無謀な行為に出る国があらわれないことを祈るばかりです。“一年の計は元旦にあり”と申しますが、まだ、具体的な計画は立てていません。でも今年は、できる限り具体的に緻密に、実行可能な卑近な目標と、少し無理して野望や希望を盛り込んだ、長期目標を掲げたいと思います。ブログは……、違ったスタイルや掲載内容を考えて、長期目標の実現の端緒にしたいと考えているきょうこのごろです。本年も、何とぞよろしくお願いいたします。
2007.01.02
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