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徳川時代の碩学である静岡の山梨稲川という人があります。 この人はその学問からも、人間からいつても、非常偉い人で、戦前にやつとこの人の全集ができた。 この人の説によると、文と武との従来の相対的な考え方を数歩進めて、次のように説いています。 従来は文と武とを対立的に考えて、武はどちらかというと暴力の行使であり、文は平和の象徴であつて、往々にして相容れないものでありました。 そしてどうも文に流れると文弱になる。 武に流れると暴力になる。 そこで両方のもつ弱点を補うために、文武は車の両輪のごとく相伴うべきものであるという程度に過ぎなかつた。 稲川はこれをさらに進めて、武はそういうものでなく人間の現実は色々の邪悪の力と戦わねばならない。 それが人間の避けられない現実の姿である。 その邪悪の力と戦つてわれわれの生活、理想を一歩一歩作り上げてゆく実践力―それを武というのだとしています。「暁鐘」 安岡正篤 明徳出版社
2014年11月28日
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昭和十年前後の幾年かのあいだに、青年将校の活動が社會を衝動させた。 これが突發的な單獨事件ではなくて、ふかく歴史の核心にふれるものであつたことは、疑う餘地がない。 かれらはさかんに行動した。 そして、しきりに主張し聲明をした。 それらはみな同じ基調によって貫かれていたが、これがかれらのすくなくとも主観的動機であつたことは、たしかである。 ここに世を憂うる同志たちが激越な調子で主張しているのは、つぎのようなことである――。 a. 重臣、政黨、財閥、官僚の腐敗堕落。そしてこの呪われた支配階級の中には、軍閥まで入つている。 b. 農民勞働者階級が苦しんでいる。 c. しかも、對外関係は危い。 d. すなわち、國は頽廃して存亡の淵にある。 e. これを革新して救うためには、國民前衛隊の暴力による直接行動の他にはない。 f. そして、これは天皇の名と権威によつて行われ、その實行は天皇の意思にそうものである。―― このような動機から、青年将校たちは、政黨・財閥・官僚・軍閥の代表者をつぎつぎと殺し、あるいは殺そうとした。これによつて構成される「天皇制」を仆そうとした。「昭和の精神史」 竹山道雄 新潮叢書
2014年11月27日
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大分前、ある彫刻家と雑談したことがあった。 その人は山種美術館との関係で山崎種二氏を知っていた。 彼は言った、「あの人はお金の達人です」と。 面白い言葉だ、お金はだれでももっている。 しかしそれはすべての人がお金の達人ということではない。 私はその意味を聞こうとしたが、自らはお金の達人でないその人には巧みな説明はできず、ただ、大彫刻家が鑿(のみ)をもっているのを見るようだと言った。 私はさらにしつこく訊ねた。 彼の説明を私なりに理解すると次のようになる。 この相場師にとっても、普通の人間にとっても、原則は同じだということである。 相場の原則とは、簡単にいえば「安いときに買って高いときに売る」ただそれだけである。 さらにその値段は公表されているのだから、だれでもこの原則は理解できる。 いや、理解という言葉が不必要なほど簡単なことだ。 だが、これが、達人にならないと絶対に活用できない。 できないから素人は損に損を重ねてついに自分も崩壊する。 この差はどこから出てくるか。 「例へば碁打ちの上手が、何時間も、生き生きと考へる事が出来るのは、一つ或は若干の着手を先づ発見してゐるからだ。発見してゐるから、これを実地について確かめる読みといふものが可能なのだ。人々は普通、これを逆に考へ勝ちだ。読みといふ分析から、着手といふ発見に到ると考へるが、そんな不自然な心の動き方はありはしない。ありさうな気がするだけです。それが、下手な考へ休むに似たり、といふ言葉の真意である」(『私の人生観観』)と小林秀雄は記しているが、その彫刻家の言ったことも同じであった。 大彫刻家が鑿をもって大理石の前に立つ。 彼は「一つ或は若干の着手」を発見しているから、何時間も生き生きと考えることができる。 そして彼は山崎種二氏も同じだと感じたがゆえに、「お金の達人」と呼んだわけである。 思索、すなわち「何時間も何時間も生き生きと考える」とはこういう状態を言うのであり、いわば世人の考えていることとは逆なのである。 これを知っているのが達人であり、そうなってはじめて、簡単な原則が活用できる。「小林秀雄の流儀」 山本七平 新潮社
2014年11月26日
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彼はあたたかく、共感的で、自分自身他人を尊敬できる人間であると確信をもっていなければならない。 また、本質的に民主的な人間でなければならない。 それは心理学的に言うと、他の人たちに対し、ただ彼等が人間であり唯一人しかいないという理由で、彼等を純粋に尊敬できる人間でなければならないということである。 一言で言えば、彼は情緒が安定しており、健全な自尊心をもっていなければならないのである。 それに加えて、彼の生活状況は良好で、自分自身の問題にだけ心を奪われないでいられなければならない。 すなわち、幸福な結婚生活をし、経済的にも恵まれ、良い友人に恵まれ、人生を愛し、いつも楽しく過ごすことができなければならないのである。「人間性の心理学」 A・H・マズロー 産業能率大学出版部
2014年11月25日
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利益のためには、自国の欲望を押さえて相手国と協定や条約を結ぶ、あのきわめて多元的な西洋各国の「国際社会」のルールは、東アジアにはまったく存在しないものであった。 東アジア人から見ると、これはまさしく正義の仮面を被った悪魔の顔である。 しかし表からみれば、強権の衣の下に甘い文明の香りを漂わせている、万国に通じる「道徳的公法」でもある。そういう二重性によって特徴づけられるのも、このリアリティに発する所以である。 われわれには、とにかくこの二重性がよく見えない。 西洋のありとあらゆる試みが、文明の輝きにだけ見えたり、または、うかうかして戦略と暴力を共に備えた強権の前にたじろぐのみで、相手がよく見えないままに、ついには屈服する事になったりするのも、西洋文明が基本的にこの二面性を抱えていることに気がつかないせいである。「国民の歴史」 西尾幹二 産経新聞社
2014年11月21日
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「仁道により人をあぐるは、上に任する人の大決断にあらぎれば、あげられし人も迷ひ罰せられし人も時をうたがひ、天の雨気を催し、降りもせず、晴もやらず、陰欝の候にひとしく、はては一藩分裂のいきほひになりゆき、治めんと欲して治むること能はず、政道地に落ちぬべし。人を活かすも仁なり。人を殺すも仁なり。なんぞ婦女子の如く慈悲遠慮を以て仁とせんや。大政事の本は遂に決断の二字に落着くべし。」 なかなか英傑らしいですネ。 決断とか果決とか面白い字であります。 これは果物をまびくという意味です。 果樹を栽培するのにうまく枝を剪定したり、果物を間引きませんと、木は弱るしいい果物にならぬ。 けちな考でぶらさげておいたらだめになる。 大抵の人間はけち臭い欲を持つているものだから、その欲につられて果断、果決ができない。 これをやらぬと時勢は救えない。 我々にしてもそうです。 けちな欲で固まつたら偉くならぬ。 思い切つて私欲に対して果断、果決をやらなけれはならない。「暁鐘」 安岡正篤 明徳出版社
2014年11月20日
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批評しようとする心の働きは、否定の働きで、在るがままのものをそのまま受納れるのが厭で、これを壊しにかかる傾向である。 かやうな働きがなければ、無論向上といふものはないわけで、批評は創造の鹽である筈だが、この傾向が進み過ぎると、一向鹽が利かなくなるといふをかしな事になります。 批評に批評を重ね、解釋は解釋を生むといふ具合で、批評や解釋ばかりが、鼠算の様に増え、人々はそのなかでうろうろして、出口がまるで見付からぬ、といふ事になる。 當人達にしてみれば、うろうろしてゐるどころの段ではない。 烈しく働いてゐる積りであらう。 又、確かにこの働きはジャアナリズムの上に現れて、そこに文化の花が咲いてゐる様に見えもしよう。 併し、賓は、凡そ堪(こら)へ性のない精神が、烈しい消費に悩んでゐるに過ぎず、而も何かを生産してゐる様な振りを、大眞面目でしてゐるに過ぎない。 まことに巧みに巧んだ精神の消費形式の展覧である。「無私の精神」 小林秀雄 文藝春秋
2014年11月19日
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ヨーロッパやアメリカの少なからぬ人びとが、さまざまな理由、時としてはまったく正当と思える理由から現存する社会に不満を抱いていることは、私も充分に知っている。 彼らは、なんとかしてよりよいシステムを、「人間的な、あまりに人間的な」諸害悪がより効果的に処理されるようなモデルを、いたるところに追い求めている。 ある者は中国のモデルにとびつき、ある者はスウェーデンの、またある者はイスラエルのキプツに希望を託している。 「古きよき時代」を懐古的に夢みる人びともいれば、過剰な消費を廃した「簡素な共同生活(コンミューン)」に解決を求める人びともいる。 けれども、日本を手本にしようという人間は一人もいない。 日本は「モデル」ではないからだ。 日本の社会を知的論理的に整理することは西欧のどの社会に比べても不可能の極みだし、「人間的な、あまりに人間的な」諸問題を超越しようなどとは、日本人は考えつきもしないだろう。 それにもかかわらず日本は、極端に困難な前掟条件 - 資源不足、過剰人口を乗り越えて、貧困、飢餓、過激な社会的諸対立などの問題を解決している世界唯一の国なのである。 しかも特筆すべきことは、日本はその際に古来の固有の文化を踏みにじったり、家庭、友人関係、各種グループ、労働機構などにおける人間的な価値と人間関係を犠牲にしたりすることがなかった、という点なのだ。 日本から、なんらかのまとまった図式なりイデオロギーなりを引きだすことはできない。 スイス的感覚とはあまりにかけ離れた日本人が住んでいる滋賀県が、「日本のスイス」とはなりきれないのと同じに、ヨーロッパのどこかの国を「ヨーロッパの日本」と化してしまうことはできない。 しかし、日本人は百年以上も前からヨーロッパから学び、学んだものを日本化してきた。 もしヨーロッパが、この精神的社会危機の時代にあって、不遜な態度をすて、人間性の尺度にもとづいて謙虚に反省するならば、日本から学ぶことは多く、またそれを自己の社会に同化させてゆくことができよう。 これこそが真の相互関係の基盤であり、「ギブ・アンド・テイク」の交友関係への唯一の道である。 今日おざなりにされているこの努力こそが、将来あらゆる面において、双方に豊かな実りをもたらしてくれるのである。 「心の社会・日本」 ロレンツ・ストウッキ サイマル出版会
2014年11月18日
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自分とは何かということを考える時、人間の本性とはそもそも何かを考える必要が出てきます。 この時、昔からよく引き合いに出されるのが、性悪説と性善説です。 このどちらを自分の考え方の基本に置くかで、人生は変わってくると思われます。 というのは、人間は頭で考えて、その指令で動く生き物です。 ですから、この知的生物の特性として、考え方が変われば行動が変わるという特性があります。 行動が変わるということは、当然の帰結として、結果が変わるということです。 結果が変わるということば、人生の軌跡が変わるということです。 ですから、いい生き方をするためには、その基本となる考え方を正しくして、自らのフィロソフィーにまで高めることが必要なのです。 実はそれが哲学の本当の目的なのです。「私の人生観、歴史観」 渡部昇一 PHP
2014年11月17日
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人間というものは、物質も同じことですが不思議な「結び」から発達するのです。 この結びによつて、これは最近流行の原子の研究が最も誰にも良くわかる真理を現わしております。 全ての物質は原子がどういうふうに結び合つているかということから千変万化するのです。 それと同じように、自然界の生物も、我々人間も、この人間の事業も、全て結びつきから、どういうものがどういうふうに結ばれるかということから始まるのです。 千変万化するのです。 この結びようによって非常にプラスにもなる、最近実に面白いと思いましたのは、私の親友に薬学の大家がおるのです。 彼の話に、たとえば有名な風邪薬アスピリンを○・五飲む、効くことは効くが副作用があって胃を悪くする。 ところがアスピリンを〇・三、ピラミドンを○・二にしてその○・五を一つにして飲むと○・五アスピリンを飲んだよりははるかに良く効いてそうして副作用がない。 昔から単味といいまして、薬は一色ではいけない、必ず合わす、それを「配剤」という。 「天の配剤妙なるかな」という言葉があります、これは教うるところ妙であります。「暁鐘」 安岡正篤 明徳出版社
2014年11月14日
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日本人が今いちばん誤解している歴史観は、次のごときものである。 ヨーロッパ文明の祖先に古代ギリシア文明があり、キリスト教文明と重層をなし、三千年に及ぶ自発的で独創的な一大普遍(ふへん)文化を形成してきた、というものである。 これがしかし誤謬(ごびゅう)なのである。 キリスト教文明が根幹にあることは否定しないが、そのキリスト教も、彼らの使用文字も、西アジアからの伝来にすぎない。 古代ギリシアに関していえば、現在のヨーロッパ各国人は直系の子孫でもなんでもない。 途中で民族大移動があったし、千年にわたる中世の暗闇(くらやみ)があり、地中海はほぼ全域にわたってこれほどの長い期間、イスラム世界の支配下に入った。 ギリシアやローマの古代の歴史伝統は一度は断ち切られているのである。「国民の歴史」 西尾幹二 産経新聞社
2014年11月13日
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・春風(しゅんぷう)をもって人に接し、秋霜(しゅうそう)をもって自ら肅(つつし)む (言志後録 三三条) ・自ら責むることに厳(げん)なる者は、人を責むることもまた厳なり。 人を恕(じょ)することに寛(かん)なる者は、自ら恕することもまた寛なり。 みな一偏たるを免(まぬが)れず。 君子はすなわち躬(み)みずから厚(あつ)うして薄く人を責む。 (言志録 三十条) ・躬(み)みずから厚くして薄く人を責むれば、すなわち怨みに遠ざかる。 (論語 衛霊公篇)「いかに人物たり得るか」 神渡良平 三笠書房
2014年11月12日
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私たち西欧の人間は、「大地を征服せよ!」と学んだのだ。自然を飼いならせ、自然を配下にせよ! われわれ人間は一段高い存在なのだ、神の似姿なのだ、被創造物の中の最高の存在なのだ!と。 やっと最近になって、自然を大切にしようという考えが流行しだした。 自然はわれわれが必要とし、利用しなければならない環境だからである。 それにひきかえ日本人は、功利という次元を超えて、自然とずっと深く直接的に結びついている。 それにもかかわらず日本人は、厳しい規制ができるまでは空気や水をめちゃくちゃに破壊してはばからなかったし、美しい風景をまるで野放図な無法建築物によって滅ぼしてしまった。 そして法の番人のいない所、例えば湖岸やピクニックの場所などでは、みずから作りだした醜悪さに目をつぶってしまうのだ。 ちょうどあのスピーカーの騒音に耳をふさいでしまうように。 それとも、これは、自然というものは人間によって滅亡させられることなどは絶対にあり得ないのだ、という彼ら特有の感情の表れなのだろうか。 それがゆえにかえってのんきに安心していられるのかもしれない。 自然はまた人間であり、食事をする箸でもあり、そこで寝起きする畳でもあり、高層ビルのアパートの中の鉢植えでもある。さらに自然は破壊的な台風でもあり、壊滅的な地震でもある人間性の醜い面の証しとして、汚染そのものでさえもあるのだろう。「心の社会・日本」 ロレンツ・ストウッキ サイマル出版会
2014年11月11日
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競合技術の分野で、新しいプロセス、新製品の開発に成功した企業を見てみると、その企業には、必ず原動力となっている中心的技術者がいる。 もし、その人達がいなかったら確実に失敗していたであろう。 そのような人達は、通常三つの資質を持っている。(1) ハードワークを遂行するのに必要な、強固なモチベーション(動機付け)を持っている。(2) 企業内で、必要な時間、開発費、設備費を獲得するための、十分な力量を持っている。(3) 必要な技術的知識に卓越している。 もし、(1)か(2)に欠けていれば、プロジェクトはスタートしないであろう。 また、(3)がないと、数回試みたのち、プロジェクトは多分失敗するであろう。 そして、成功に至る前に、首を切られるであろう。「イノベーション・スタイル」 S・J・クライン アグネ承風社
2014年11月10日
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自己批判だとか自己精算だとかいふものは、皆嘘の皮であると、武蔵は言つてゐるのだ。 そんな方法では、眞に自己を知る事は出来ない、さういふ小賢しい方法は、寧ろ自己偽瞞に導かれる道だと言へよう、さういふ意味合ひがあると私は思ふ。 昨日の事を後悔したければ、後悔するがよい、いづれ今日の事を後悔しなければならぬ明日がやつて来るだらう。 その日その日が自己批判に暮れる様な道を何處まで歩いても、批判する主體の姿に出會ふ事はない。 別な道が屹度あるのだ、自分といふ本體に出合ふ道があるのだ、後悔などといふお目出度い手段で、白分をごまかさぬと決心してみろ、さういふ確信を武蔵は語つてゐるのである。 それは、今日まで自分が生きて来たことについて、その掛け替へのない命の持續感といふものを持て、といふ事になるでせう。 そこに行為の極意があるのであつて、後悔など、先き立つても立たなくても大した事ではない、さういふ極意に通じなければ、事前の豫想も事後の反省も、影と戯れる様なものだ、とこの達人は言ふのであります。 行為は別々だが、それに賭けた命はいつも同じだ、その同じ姿を行為の緊張感の裡に悟得する、かくの如きが、あのパラドックスの語る武蔵の自己認識なのだと考へます。 これは彼の観法である。認識論ではない。「無私の精神」 小林秀雄 文藝春秋
2014年11月07日
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「読書は楼に宜し。其の快五あり。剝啄(はくたく)の驚無きは一の快なり。遠眺すべきは二の快なり。湿気床を浸すなきは三の快なり。木末竹顚、鳥と交語するは四の快なり。雲霞高簷(えん)に宿するは五の快なり。」 読書は高どのがよい。 その快が五つある。 訪問者のノックの音が聞えない。 遠見、見晴らしがきく。 湿気が床を浸すことがない。 木の梢、竹の頂にいる鳥共と話を交せる。 雲霞高簷に宿する――これは餘程高いところでなけれはならぬ。 こういう境地をもつているのは楽しいことですね。 たまたま旅館などに泊つても、山の湯の宿にいても、朝目を覚した時などこの言葉を思い出します。「暁鐘」 安岡正篤 明徳出版社
2014年11月06日
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戦争は、一たん起つてしまえば、後はもう力勝負である。 そこにいたるまでの過程――これがもつとも大切な観點である。 あの混沌たる激動の時期におこつたことの中で、比較的にはわれわれにも實體がよく分つている現象を、私は三つあげることができると思う。 その一は青年將校の運動であり、その二は軍の團體精神であり、その三は大東亜共栄圏建設と國内改革のための新體制運動である。 これらの事件は、いずれも歴史の展開の重大なステップであり、これを無税し回避することはできない。 また、その性格を歪めこじつけて解繹することによつて、全體を構成することはできない。 そして、これは社會の面前で公けに行われ、その経緯も内容もほぼ明白であり、その當事者たちの意欲についてはたくさんの記録を直接の史料として讀むことができる。 われわれの記憶もはつきりしている。 これをとりあげることは悪意的な選擇ではなく、方法が制限された者にとってのさしずめ妥當なことだろうと思う。 これを手がかりとして、何事かを見ることはできないだろうか? この三つの窓から覗いたとき、謎につつまれた歴史の姿はどんなものなのだつたろう?「昭和の精神史」 竹山道雄 新潮叢書
2014年11月05日
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日本は一九世紀のなかばまで約二五〇年間、あらゆる外国に対してほとんど密閉状態にあった。 だからわれわれヨーロッパ人にとっては、「隣国」という存在が長い歴史を通して良きにつけ悪しきにつけごく当り前のものとなっているのにひきかえると、一般の日本人には今日でもなお外国、外国人というのはなんとなく不慣れで奇妙な存在であり、ヨーロッパは日本人の心情からしたらごく遠い世界なのである。 日本人に国家としての意識が薄いのは、このことにもよっていると思う。なぜなら、自己の存在の意識化は他者を意識することによって初めて起るものなのだから。 したがって、ごく上級のインテリでさえも、外国に長く住んだり、自分の国を距離をおいて眺める訓練をしていない場合には、「日本的とは何か」という問いになかなか答えることができない。 日本人同士でいる場合には意識するまでもなく皆が皆「日本的」なのだし、そう生きているのだから、こんな問いを発する必要がまるでないのである。 しかし、いやそれだからこそ、日本人ほ外国人と直接対応したとたん不安な状態に陥り、自己同一(アイデンティティ)の危機にさらされてしまう。 これは、外国人が理解不可能な日本の社会に対した時とまったく同じ反応である。「心の社会・日本」 ロレンツ・ストウッキ サイマル出版会
2014年11月04日
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