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その後、イザナギは黄泉の穢れから身を清めるために、 竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(をど)の 阿波岐原(あはきはら;現在の宮崎県宮崎市阿波岐原町)で 禊を行いました。 この時にもさまざまな神々が生み出されたました。 衣を脱ぐと十二神が生まれました。 「上流は流れが速い。下流は流れが弱い」といって、 最初に中流に潜って身を清めたとき、二神が生まれた。 この二神は黄泉の穢れから生まれた神です。 次に、その禍(まが)を直そうとすると三神が生まれました。 水の底で身を清めると二神が生まれました。 水の中程で身を清めると二神が生まれました。 水の表面で身を清めると二神が生まれました。 その最後に左の目を洗うと 天照大御神(あまてらすおほみかみ)が生まれました。 右の目を洗うと月読命(つくよみのみこと)が生まれました。 鼻を洗うと 建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)が生まれましたた。 「三貴子(みはしらのうずのみこ)」と呼ばれる3柱、 すなわち、 アマテラス(天照)・ツクヨミ(月読)・スサノオ(須佐之男)を 生んだのです。
2021年11月30日
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伊邪那美命は自分の醜い姿を見られたことを恥じて、 黄泉醜女(よもつしこめ)に伊邪那岐命を追わせました。 伊邪那岐命は蔓草(つるくさ)を輪にして 頭に載せていたものを投げ捨てました。 すると葡萄の実がなり、 黄泉醜女がそれを食べている間、逃げました。 しかしまだ追ってくるので、 右の角髪(みずら)につけていた 湯津津間櫛(ゆつつなくし)という竹の櫛を投げました。 するとタケノコが生え、 黄泉醜女がそれを食べている間、逃げました。 伊邪那美命はさらに、 8柱の雷神と黄泉軍に伊邪那岐命を追わせました。 伊邪那岐命は十拳剣で振り払いながら逃げ、 ようやく黄泉の国と地上の境である 黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に着いたとき、 坂本にあった桃の実を3つ投げたところ、 追ってきた黄泉の国の悪霊たちは逃げ帰りました。 ここで伊邪那岐命は、 桃に「人々が困っているときに助けてくれ」と言って、 意富加牟豆美命(おほかむずみのみこと)と名づけました。 最後に伊邪那美命本人が追いかけてきたので、 伊邪那岐命は千人がかりでなければと動かないような 大岩で黄泉比良坂をふさぎ、悪霊が出ないようにし、 その岩をはさんで対面してこの夫婦は別れることとになりました。 このとき伊邪那美命は、 「私はこれから毎日、一日に千人ずつ殺そう」と言い、 これに対し伊邪那岐命は、 「それなら私は人間が決して滅びないよう、 一日に千五百人生ませよう」と言いました。 これは人間の生死の由来を表しているのです。
2021年11月29日
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大八洲国やその他の小さな島々を産んだ 伊邪那岐命・伊邪那美命は次に神々を産みました。 ここで産まれた神は 建物の材料や構造を示す神および 風の神・木の神・野の神といった自然にまつわる神々です。 その後もさまざまな神々を生み出してゆきますが、 これらを「神生み/神産み」といいます。 しかしイザナミは火神・カグツチを産み出す際に 大火傷を負ってしまい、この世を去ってしまいます。 残されたイザナギは 亡きイザナミに会いたい気持ちを募らせて 黄泉国へ赴きますが、 彼女が黄泉の住者になってしまったことを思い知って 逃げ帰る羽目になり、永遠に離別することとなりました。
2021年11月27日
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つぎの神が生まれました。 これが埿土煮尊(うひぢにのみこと)と 沙土煮尊(すひぢにのみこと)です。 つぎに大戸之道尊(おほとのぢのみこと)と 大苫辺尊(おほとまべのみこと)が生まれました。 つぎに面足尊(おもだるのみこと)と 惶根尊 (かしこねのみこと)尊でがうまれました。 つぎに生まれた神が伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と 伊弉冉尊(いざなみのみこと)です。 イザナギとイザナミの二神が高天原の神々に命じられ、 日本列島を構成する島々を創成しました。 イザナギ・イザナミの二神は自らが造ったオノゴロ島に降り、 結婚して最初の子・ヒルコが生まれました。 ところが、交わり方に間違いがあったことから失敗し、 不具の子でした。この子を海に流した後、 次の子・アワシマが生まれたが、 またも正しく生まれてこなかったため、 二神は別天津神に教えを乞い、 そうして改めて正しく交わり、 生み出したのが淡道之穂之狭別島でした。 次に淡道を含む「大八島」と呼ばれる 島々(日本列島)を次々と生み出していきました。 これらを「国生み/国産み」といいます。
2021年11月25日
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「日本書記」によると、 むかし、天と地とがまだ分かれず、 陰と陽ともまだ分かれていなかったとき、 この世界は混沌(こんとん)とし て鶏の卵のように形も決まっていなかったし、 また、それはほの暗く、広くて、 物のきざしはまだその中に含まれたままでした。 やがて清く明るい部分はたなびいて天となり、 重く濁った部分は滞って地となったのです。 しかし、清らかでこまかいものは群がりやすく、 重く濁ったものは固まりにくいものです。 したがって、天がまずでき上がって、 地はのちに定まったのです。 そうしたのちに、神がその中に生まれたもうたのです。 そのありさまは、 開闢(かいびやく)のはじめ土壌が浮かび漂うこと、 ちょうど魚が水に浮かんでいるようでしたが、 そのとき、天と地の中間に一つの物が生まれました。 その形は葦(あし)の芽のようであって、 これが国常立尊〔もっとも貴い神を尊といい、 それ以外は命という。 どちらも美挙等(みこと)とよむ。以下みな同じ〕 という神となったのです。 つぎに国狭槌噂(くにのさづちのみこと)、 つぎに豊斟渟尊(とよくみぬのみこと) という神が化(な)りいでたもうたのです。 あわせて三はしらの神ですが、 この三はしらの神は乾道(あめのみち) すなわち陽の気だけで化(な)りたもうた神であり、 純粋の男神でした。 聖書の天地創造は神の「光あれ」という 言葉(ロゴス)で始まっていますが、 日本の記紀はもっと科学的な記述なのです。
2021年11月24日
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記紀(きき)とは、 『古事記』と『日本書紀』との総称です。 『古事記』の「記」と『日本書紀』の「紀」を併せて 「記紀」といいます。 両書とも、奈良時代に編纂された日本神話や 古代の歴史を伝えている重要な歴史書です。 我が国は、『日本書紀』がいうように 紀元前六六〇年が起源の現存する世界最古の王朝です。 三世紀初頭には前方後円墳をつくっているくらいですから。 ふつう王朝は二百年もてば長いほうです。 三百年、四百年だと、そうとう長い。 五百年もった王朝なんて、 今までの人類史全部見てもいくつもないです。 ビザンチン帝国とかローマ帝国とか、 いくつかありますけれども、ほとんどありません。 でも、我が国は二千六百七十二年ということです。 『古事記』『日本書紀』は、 和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、 元明天皇に献上された現存する 日本最古の歴史書であり一言でいえば、建国の書です。
2021年11月22日
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これまで日本は支那大陸や朝鮮半島経由で 丈化や文明がもたらされたと考えられてきまた。 しかし、本当にそうでしょうか。 日本には旧石器時代の遺跡が世界的にみても 非常ににたくさん存在します。 これが意味することはアフリカを出て 世界中に散らばった人類は支那や朝鮮半島よりも 先に日本に来ていたということです。 そもそも、なせ人類はアフリカを離れたのでしょう。 それは「太陽が昇るところに行く」というのが 動機になったのではないでしょうか。 あらゆる文明を紐解けば、 ほとんどの地域で太陽神が信仰されています。 エジプトではラー、ギリシャではアポロ、 ケルトではヘルメス、ペルシャではミトラ……… 人類には太陽を敬う気持ちがあったのです。 日本こそは「太陽の昇る場所」として、 人類が目指した最後の目的地でした。 世界で主だった文明が生まれたのとほぼ同時期に、 日本にも文明が存在しました。 それは大陸から伝来したのではなく、 アフリカを出てから何世代もかけて日本にたどり着いた 我々の祖先が生み出したものなのです。
2021年11月19日
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『神の国』には「二国史観」あるいは「二世界論」 と呼ばれる思想が述べられています。 「二国」あるいは「二世界」とは、 「神の国」と「地の国」のことで、 前者はイエスが唱えた愛の共同体のことで、 後者は世俗世界のことです。 イエスが述べたように「神の国」は やがて「地の国」にとってかわるものである と説かれています。 しかしイエスが言うように、 「神の国」は純粋に精神的な世界で、 目で見ることはできません。 アウグスティヌスによれば、 「地の国」におけるキリスト教信者の共同体である 教会でさえも、 基本的には「地の国」のもので、 したがって教会の中には 本来のキリスト教とは異質なもの、 世俗の要素が混入しているのです。 だが「地の国」において 信仰を代表しているのは教会であり、 その点で教会は優位性を持っていることは 間違いないといいます。
2021年11月18日
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アウグスティヌス(354年~420年)は、 北アフリカのタガステ (現在、アルジェリアのスーク・アハラス)に生まれました。 391年、北アフリカの都市ヒッポ (当時、カルタゴに次ぐアフリカ第2の都市)の教会の司祭に、 さらに396年には司教に選出されたため、 その時初めて聖職者としての叙階を受けました。 410年、ゴート族によるローマ陥落を機に噴出した 異教徒によるキリスト教への非難に対し、 天地創造以来の「神の国」と「地の国」の 二つの国の歴史による普遍史(救済史)の大著 『神の国』によって応えました。 この著作はアウグスティヌスの後期を代表する著作です。 430年、ヨーロッパからジブラルタル海峡を渡って 北アフリカに侵入したゲルマン人の一族ヴァンダル人によって ヒッポが包囲される中、 ローマ帝国の落日と合わせるかのように、 古代思想の巨人は8月28日にこの世を去りました。
2021年11月17日
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プロティノス(205年~270年)は プラトン(紀元前427年 - 紀元前347年)より 500年以上も後の生まれで、 当時は様々な神秘主義思想が唱えられていた時代です。 イタリア半島南西部にあるカンパニアに プラトンの国制を実現する都市 「プラトノポリス」を建設することを計画しましたが、 皇帝側近者の反対に合い頓挫します。 晩年は流行病に罹り、 そのためローマを離れてカンパニアに居住しました。 最期は弟子であり医者であるエウストキオスに看取られました。 臨終の言葉は「我々の内なる神的なものを、 万有の内の神的なものへ帰すように、今私は努めているのだ」です。 彼の思想はヌメニオスの剽窃であるという嫌疑をかけられましたが、 これはプロティノスの弟子アメリオスにより論駁されています。 ただしネオプラトニズムの創始者とはいっても、 プロティノス自身には独自な説を唱えたという意識はなく、 プラトンの正しい解釈と考えていました。
2021年11月16日
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アウレリウス(在位161年頃~180年)はストア派の哲学者です。 第16代ローマ皇帝(在位:161年 - 180年)でもあり、 学識に長け、彼の著作である『自省録』への評価を通じて 今日も維持されています。 これは『国家』を執筆したプラトンの時代から 学識者にとって理想とされた「哲人君主」の 実現例と見なされているからです。 また、後漢書に見られる大秦国王の安敦とは、 彼のことです。 良く国を治めた事からネルウァ、 トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌスに 並ぶ皇帝(五賢帝)と評されました。 対外政策ではパルティアとの戦争に勝利を収めましたが、 蛮族への予防戦争として始めた マルコマンニ人、クアディ人、サルマティア人 などへの遠征(マルコマンニ戦争)は長期戦となり、 国力を疲弊させ、自らも陣中で崩御しました。
2021年11月15日
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ヒッパルコス(100年頃~178年頃)は、 太陽および月の大きさと距離とを決定した アリスタルコスの仕事うけついぎました。 かれは、二つのちがった緯度上で月の高度を観測し、 月は地球の直径の三六倍ほど離れていることを見出しました。 これはすこし大きすぎますが、 アリスタルコスが、 地球上の観測者にとって月に対する角度から得た、 地球の直径の九倍という値を大いに改良したものです。 ヒッパルコスの仕事は、 アパメイアのポセイドニオス(紀元前約一三五ー五一)と、 その門人ロドスのゲミノス(紀元前七〇年ころ)によって、 継承されました。 ポセイドニオスは、ロ ドスとアレクサンドリアとの距離と緯度の差とを測って、 地球の大きさを新たに測定しました。 かれの得た値はラフトステネスの値より小さかった。 しかし、古代最後の注目すべき天文学者プトレマイオスが この値を採用したため、 一般に認められた値になりました。 クラウデイオス=プトレマイオス(紀元後第二世紀の前半)は、 アレクサンドリアで、 紀元後一二七年と一五一年とのあいだに観測した値は、 ヒツバルコスの観測よりも精韓さが欠けていると、 四分の一度の誤差を示したが、ヒツバルコスの観測は、 六分の一度以内まで正確でした。 しかしながら、 プトレマイオスの地球から月への平均距離の概算 (地球の直径の二九.五倍)は、 ヒツバルコスの概算よりも現在の値(三〇・二倍)に近いのです。
2021年11月12日
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セネカ(ラテン語: Lucius Annaeus Seneca、 紀元前1年頃 - 65年 4月)は、 ユリウス=クラウディウス朝時代 (紀元前27年 - 紀元後68年)の ローマ帝国の政治家、哲学者、詩人です。 ローマ皇帝ネロの幼少期の家庭教師としても知られ、 また治世初期にはブレーンとして皇帝を支えていました。 ストア派哲学者としても著名で、 多くの悲劇を著作に記し、 ラテン文学の白銀期を代表する人物と位置付けられています。 65年、ネロを退位させて ガイウス・カルプルニウス・ピソを 皇帝に擁立する陰謀計画が露見しました。 ピソを始めとした一味が捕らえられる中で 共犯者の一人アントニウス・ナタリスが セネカが関与していると名指ししました。 ネロはセネカを尋問するべく役人を送りました。 しかし、セネカが曖昧な対応に終始したため ネロはセネカに自殺を命じました。 タキトゥスによると、セネカは 始めにドクニンジンを飲んだが死に切れなかったため、 風呂場で静脈を切って死に至ったとされています。
2021年11月09日
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ルクレティウスは エピクテトス(前50年頃~135年頃)の 言葉を引いて説明します。 「友人に手紙を書くべきとき, 文法は書き方を教えてくれる。 しかし手紙を書くべきかどうか, 文法は教えてくれない。」 これは,「手紙を書くべきかどうか」 という刺激に対する反応であり、 行動主義的ないし価値的な関心を重視するが, 文法には関心を持たないことを示しています。 チョムスキーも批判するように 言語の豊かさや創造性は文法的な起源を持ちます。 言語理解の困難性は、 言語とは決して単なる(習慣)の集合などではなく、 動物の使うコミュニケーションとは明らかに異なる という事実をスキナー的な「価値・行動」では説明できず、 チョムスキー的な「認知・論理―文法」を いかに理解するかが言語理解を深めるということでしょう。
2021年11月08日
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ルクレティウス(ラテン語: Titus Lucretius Carus, 紀元前99年頃 - 紀元前55年)は、 共和政ローマ期の詩人・哲学者で エピクロスの思想の宇宙論を詩の形式で 『事物の本性について』として著し(前99年~前59年)、 その中で「自然の先ず第一の原理は、 次の点からわれわれは始めることとしよう。 即ち、何ものも神的な力によって 無から生ずることは絶対にない、という点である。 …そのわけは、よし仮りに無から物が生ずるとしたならば、 あらゆる物からあらゆる種類が生じるであろうし、 種子を必要とするものは、全く何もないであろうからである。 まず、海から人類が、 大地からウロコを持つ魚族が生じ得るかも知れないし、 天空からは鳥類が忽然として出現し得るかも知れないし、 牧畜その他の家畜や、野獣のあらゆる種類は、 何処から生まれたともわからず、耕地と荒野とを問わず、 一面に充満するであろう」とのべました。 そして説明の付かない自然現象を見て恐怖を感じ、 そこに神々の干渉を見ることから人間の不幸が始まったと論じ、 死によってすべては消滅するとの立場から、 死後の罰への恐怖から人間を解き放とうとしたと解説しました。
2021年11月05日
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韓非(前280年頃~前233年)の生まれた戦国末期は、 春秋五覇の時代を経て 徐々に統一の機運が生まれ始めた時期で無論、 諸国の存亡を賭けた戦いの連続であり、 国家同士の総力戦でもありました。 そして過酷な生存競争は、 人材登用の活発化にも繋がっていきます。 それまで君主の血統に連なる公子や 貴族によって運営されていた国政も、 階級が下の士大夫や素性の知れない遊説の徒などに、 まかされることも珍しいことでは無くなっていました。 迅速に適材に委ねる必要があったのです。 しかし、結果として、 当時の王権は特定の士大夫や王族に壟断されることが多く、 国そのものを奪われてしまう例も起こっていました。 そこで韓非は分断され乱脈化した 君主の権力を法によって一元化し、 体系化することにより強国になるべきだと考えたのです。 韓非は性悪説を説く儒家の荀子に学びましたが、 非違の行いを礼による徳化で矯正するとした 荀子の考えに対し、 法によって抑えるべきだと主張しました。
2021年11月04日
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