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サミュエル・P・ハンティントンは 中華文明、ヒンドゥー文明、イスラム文明、日本文明、 東方正教会文明、西欧文明、ラテンアメリカ文明、 アフリカ文明 を八大文明といっています。 日本列島は豊かな自然に恵まれ、食料は豊富でした。 人々が太陽の昇るところとあこがれ、 東へ東へと歩み続けてきただけのことはあるのです。 こういう条件の中では、 人々は争う必要がありませんでした。 実際、この時代に 大きな戦争があったことを示す遺跡や遺物は まったくありません。 争いがないのですから、 防備を強固にすることも 兵器を発達させる必要もなかったのです。 また、人々が強力な権力のもとに集まり、 結束を固めなければならない理由も ありませんでした。 互いに助けあっていく ゆるやかな共同体で十分だったのです。 言葉も話し言葉で意思が通じました。 約束事を確かなものにするために 文字にする必要はなく、 口約束だけでこれも十分でした。 このことはいまの日本人の気質の中にも 多分に残っています。 日本語の 「言葉(ことば)」という文字でもわかるように、 「こと=事」が大事であって、 「は=菓」は、 木の葉のように枯れたり落ちたりするという、 言葉不信の習慣が すでに出来上がっていたと思われます。 文字を必要とするのは 相互不信の社会であったとも考えられます。
2021年02月26日
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縄文期には、 全国に大規模集落があった可能性があります。 三内丸山遺跡は、 三十五ヘクター~の面積を持つ大きな集落であり、 住居域と墓域が分かれていたことが明らかになっています。 そこには 直径約一メートルの栗の木を使った大型建造物や、 長さが三十メートルを超える大型竪穴住居、 盛り土や道路などがあったことも明らかになっており、 食料としても栗、クルミ、豆、ゴボウ、ヒョウタン、 エゴマ、麻などが栽培されていました。 野性のヒエなども保存され、 決して農耕を知らなかったわけではありません。 またこの地では産出しない ヒスイ、コハク、アスファルト、黒曜石などが 出土したことから、 遠方との交易が行われていたでしょう。 三内丸山の廃棄場の部分からは、 土器や石器以外に、皿、鉢、 櫛(くし)の漆器(しっき)なども出土し、 すでに漆(うるし)の専門の職人がいたのです。 この発見からは、 当時、すでに土器をつくる専門家がおり、 彼らが「芸術家」として燃えるような 装飾土器をつくり出していた可能性があります。
2021年02月25日
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縄文時代を通じて日本列島は 一面に森林に覆(おお)われていました。 東日本は大体においてブナの森が広がり、 ほかにナラ、クリ、クルミといった 落葉広葉樹林(らくようこうようじゆりん)に覆われ、 縄文後期にスギ林が拡大しました。 西日本は早くからスギ林があり、 ブナ、ナラが退いて、 かわりにカシ、シイ、クスなどの 常緑広葉樹林((じょうりょくこうようじゅりん)、 照葉樹林:しょうようじゅりん)がとって代わりました。 縄文時代の遺跡(いせき)の大部分は、 東日本に集中しています。 つまり、縄文文化は、 冬は木の葉が落ちるナラ林の自然を 基礎(きそ)にして成立し、発展したものです。 西日本に遺跡の分布は薄く、 人口も東側に偏(かたよ)っていました。 縄文時代は食料採集社会といわれてきたましが、 最近では一定規模の 栽培農業が行われていたことがわかりました。 縄文前期の青森県三内丸山遺跡 (さんないまるやまいせき:五千五百年前―四千年前) の発見は驚異的な衝撃を与えました。 遺伝子配列が野性のクリの実とは異なり、 同一にそろっているところから、 クリの栽培が注目されました。 縄文後期には、クリの自然分布をはずれた 北海道の石狩低地にまでクリは広がっていますので、 縄文時代の半ばから クリの栽培が行われていたと推論できるのです。
2021年02月24日
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これは、マルクス主義に代表されるような、 経済史観とは違う考え方です。 経済史観は、人間の行動は 物質に規定された「物欲」にもとづく 「利己心」によるものだとしています。 最初の経済学者といわれるアダム・スミスでさえ、 そう思っていました。 常に生存競争をしないと 生きていくことができないと考える 西洋の人々は、 それが当然だと思うのでしょう。 しかし人間同士が 過剰な競争をしなくても生きていける 自然環境をもっていた日本では、 それは二次的なことにすぎません。 「物欲」や「利己心」を意識するのは、 個人同士が競い争うときだけです。 共同体の中では、 抑制すべきこととされているのです。 ユネスコでは生物多様性条約をうけ、 生態系を環境財と位置づけ、 持続可能性の観点からも 「自然との共生」を重視します。 その代表格として日本の里山があります。 人間の手が入ることで生態系が維持され、 人間も営みに必要なものを享受する互換関係は 正しく「自然との共生」であり、 SATOYAMAイニシアティブとして 国際社会に広まりつつあります。
2021年02月22日
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西洋の場合は、神聖ゴッドです。 唯一絶対の神。 宇宙、天地を創り出した創造主、これが神です。 絶対の存在ですね。 ゴッドは全知全能ですから、完璧な存在です。 そしてすべての答えはそこにあります。 おそらく人格も高潔、 捻(ね)じ曲がった性格というのは 考えられないですね。 だから、人々は少しでも神に近づきたいと、 正しい神への道を歩もうとします。 これがキリスト教の世界観です。 それに対して『古事記』は、 大宇宙があって、 あとから神様が生まれました。 そして、この神様は不完全なのです。 西洋では全知全能の神なのですが、 『古事記』での神は不完全なのです。 神様だって恨んだり、 嫉妬したり、いじけみたり、 いろいろと感情をむき出しにするのです。 まるで人間と同じような感じなのです。 ですから、全知全能の神、 もしくは創造主としての神、 そのような神様は日本の世界観には登場しません。 『古事記』の書き出しを見るだけでも、 そういった性格の違いが明らかです。
2021年02月19日
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『古事記』では世界が最初にあるのです。 神様は後から出現します。 恐らく世界の宇宙空間とか 大自然のエネルギーとか何かしらで 神をボンと生み落としたのでしょう。 ところが『聖書』は逆です。 『旧約聖書』ですと、 神様がまず先に存在している。 その後にある天地創造というのは、 神様が天地を創造するわけです。 天地はいかにつくられたかという部分ですが、 聖書には五日と半日で 世界を創ったと書いてあります。 大宇宙が先か、神様が先か。 これは『古事記』と『聖書』では まるっきり逆だということです。 『古事記』には神様が どのように現れたか書いてあります。 神様の誕生の瞬間が書かれている。 ところが『旧約聖書』には、 神様がどう生まれたか書いてないんですよ。 最初から神様はいるのです。 その神様が大宇宙をつくる、 天地を創造するところから 『旧約聖書』が始まるのです。
2021年02月18日
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あの世は、この世とあまり変わりはなく、 ただこの世と全てがあべこべである という違いがあるだけである。 この世の右が左、左が右、昼は夜、夜は昼、 夏は冬、冬が夏という違いがあるだけである。 死ねば、 人は祖先の待っているそういうあの世へ往き、 しばらくあの世に滞在して、 また同族の子孫となってこの世へ帰ってくる。 とすれば、 全ての人は祖先の誰かの生まれ変わりで、 人は全てこの世とあの世を往き来する。 それはどこか、 ニーチェの永劫回帰の思想と似ている。 美的価値への注目、 伝統的価値の尊重、 宗教性への回帰、 この三つの力が働いているからこそ、 日本人の精神は安定しているのであり、 それが社会、政治、経済の基礎にあるからこそ、 私たちは、 日本人として世界で生きていけるのです。
2021年02月17日
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縄文土器の中には、 火焔土器と呼ばれるものがあります。 装飾性の強い、 炎を思わせるダイナミックで 躍動的な造形が特徴です。 火焔土器のような造形的にすぐれた 素晴らしいものはほかにありません。 火焔土器は日本最初の芸術作品といっていいでしょう。 なぜ縄目の文様がつけられたのでしょうか。 古くから日本人の暮らしの中にあるものを通して、 推測することはできます。 縄で思い浮かぶのは、 神社の拝殿の正面に飾られている注連縄(しめなわ)です。 神木とされる巨木の幹にも 注連縄が巻かれているのを見かけます。 お正月の玄関飾りも多くは縄で出来ています。 これらは張られた縄の内側が 清らかで神聖であることを示しています。 縄は外から穢(けがれ)たものが入ってこないようにする 境界でもあったと思われます。 貯蔵用にしろ、煮炊き用にしろ、 土器の内側に入れられるのは大切な食べ物です。 穢れ、非衛生的なものが入ってはなりません。 縄目の文様はそれを防ぐ意味があるのでしょう。 また、土器が、清らかで神聖なものだ という気持ちを表していると思います。 祖先たちは清らかなものを 大切にする気持ちが強かったのです。 縄文土器には炎だけでなく、 水の動き、雲の動き、大鹿の角などを思わせるものもあります。 自然に親しみ、おそれ敬い、 それを形にとらえて表現した祖先たちの心が感じられます。
2021年02月16日
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土器の発明は 生活の大きな革命であったに違いありません。 なぜなら、それは食糧の幅を飛躍的に広げたからです。 それまで、 生で食べるか焼いて食べるしか方法のなかった食べ物が、 煮るとか蒸すという方法によって 一挙にその幅を広げ、その質を豊かにしたのです。 東アジアで起こった、 このような生活の革命が もっと評価されてもよいでしょう。 従来のヒトの文化史は生産の用具の発明が基本であり、 金属器、すなわち銅器、鉄器の発明が 画期的な意味を持つものとして評価されますが、 土器の発明はあまり重視されません。 土器は森から生まれました。 森の木の葉が積もってよい粘土となり、 土器が出来たのです。 この土器を持った漁撈採集文化、 それが高度に発展した縄文文化が約一万年の間、 日本列島に花開いたのです。 この縄文文化、森の文化こそ日本文化の基層文化であり、 弥生時代に稲作農業が日本に入ってきた時も、 この基層をなす縄文文化に 大きな影響を受けざるを得なかったのです。
2021年02月15日
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縄文語は悠久の昔、 一万年ほど前に形成されてから 継承使用されてきたが、 二千年前に渡来人の勢力下で変形されて 弥生語を生みだすに至りました。 やがて、縄文語は 文化語としての弥生語に制覇されて 日本列島の周辺部に残存することとなったのです。 周辺部とは東北地方と琉球列島を意味します。 そこで、縄文語の歴史を考えてみると、 次のような時代区分が考えられます。(1)縄文語前期‥縄文語が成立した時期(2)縄文語中期‥琉球縄文語が本土縄文語から分離した時期(3)縄文語後期‥渡来人の文化が侵入する直前の時期(二千二百年ほど前)
2021年02月12日
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縄文式土器時代は普通には 新石器時代とよばれています。 しかし、厳密に考えれば間題があります。 ヨーロッパでの文化の推移としては、 旧石器時代・中石器時代・新石器時代・ 青銅器時代・鉄器時代という順序に 時代区分が立てられており、 新石器文化の特徴として、 第一に農耕と家畜飼養、 第二に巨石墳墓、 第三に土器・磨製石器の使用が、あげられ、 それが西紀前四、五千年に発渡したとされています。 日本の縄文文化も、 これとほとんど同じころ出現しており、 そこには打製石器の他に確かに磨製石器も見え、 また巨石墳墓らしいものも現われてはいます。 しかし、右の三特徴の中の最も主要条件ともいえる 農耕と家畜飼養が確認されるまでに至っていません。 したがって、厳密な意味では、縄文文化は、 ヨーロッパでいう 新石器文化にふくめにくいことになります。 こうした理由から、 縄文文化を外から新石器文化の影響をうけた 中石器文化だと主張する学者がある一方に、 この時代に米作以外の農耕の存在を推測する 学者も現われているし、 また、農耕と土器とを必然的に結合させる ヨーロッパ的規準に 無理があると指摘する学者もあり、 まだ定説が立つまでに至っていません。
2021年02月10日
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比較言語学というのがあって、 インド・アリアン語族については、 その原語から分かれて、 現在のインドからイラン、ギリシア、ローマ、 近代西欧語に何年くらい前に枝分かれしたかが、 十分に調べられています。 ところが東洋の諸言語については、 インド・アリアン語族の歴史よりずっと複雑で、 今のところ十分な分析はできていません。 とくに日本語については、この起源は不明です。 私は日本語は日本で作られたと考えています。 もちろんホモサピエンス・サピエンスが、 きわめて早期に日本に渡ってきて、 列島内に固定されたのですが、 日本語はどの言語の範囲にも入りません。 日本で作られたのです。 このような言語を数十世紀も保持してきた日本人が、 他の民族とまったく異なった心情を持つことは当然で、 脳の言語部の機能が原初のまま 今日まで変化しないで続いてきたのです。 列島全体が均一な言語で覆われ、 近似した言語が近辺にさえ一つもないということは、 日本人とその国家の起源が、 太古から正しく列島内に局限されてきたことの証です。 脳の言語部の機能が変わるほどの大量の異種族の流入は、 なかったのです。
2021年02月09日
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私は民族の性格、文明の型は、 彼らが使う言語によって 大枠として規定されていると考えています。 在米邦人でも、一世と二世はずいぶん異なります。 日本語で子供の時から育てられたか、 あるいは英語で育てられたかの差が、 決定的なのです。 アメリカ人、ヨーロッパ人でも、 日本で、日本語で育つと、心の深いところで 日本人の性格を持つようになると思われます。 これは脳の機能でも説明できます。 一般に左脳と右脳といわれている部分の聴覚機能が、 日本語で育つと変ってしまうのです。 たとえば秋の野にすだく虫の音を、 日本人は情感をもって聞きますが、 西洋人はもちろん、お隣の韓国人も、 単なる雑音として聞くという 角田忠信氏の発見があります。 この一事でも、日本語がいかに特殊か、 したがって日本人とその作る文明が、 他のあらゆる民族のそれと異なるかがわかります。 すなわち、日本語は 日本人の存在の根源につながっているのです。
2021年02月08日
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小泉保氏は、現在われわれが話している方言を 逆にたぐって原縄文語に達するという理論によって、 原日本語、すなわち縄文語の黎明期を 約六千年前の縄文前期に置いて 縄文語の復元を目指す 詳細な日本語系統論を展開しています。 結論だけを言えば、 「日本語は縄文文化とともに始まったと考えてよいと思う。 そして一万年にわたる伝統をもっていることになろう」 と述べられ、 弥生時代に新しい政治的中枢を握った人たちの言語が 文化的優位に立って、 他の言語に強い影響力をおよぼしたことは当然考えられるが、 それもまた縄文語の一変種にすぎません。 基底にあったのは、どこまでも縄文人の原縄文語です。 縄文時代の列島内でも、 単一等質な状況でなかった可能性は もちろん高いのですが、 一万年もの長期の時間尺のなかで、 比較的安定した一定空間において、 密閉はされていないが攪拌もされない状況下で、 しだいに原縄文語が、 日本語の祖語として成立を見たと考えることは、 ごく自然な推測といえましょう。
2021年02月05日
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いまから一万年二千年前までの新石器時代、 それから一万年にわたる縄文時代、 いまから二千三百年前に始まった弥生時代、 つづく古墳時代という 考古学の物的証拠に基づく時代区分は ゆるぎない定説です。 周辺言語との同系性を証明する 比較方法の手がかりがつかめないとするならば、 日本語は、日本列島が孤立して以来一万年の間に、 この島国の中で形成されたと考えなければなりません。 日本列島が大陸と地続きの時代には、 大陸から固有の言語をもつた種族が この島へ渡ってきたでしょう。 しかし、この国土には一五万年以上前から ヒトが住んでいたという考古学的確証があり、 島国となった日本に縄文文化が醸成されてきた以上、 これと歩調を合わせる形で、 異質の複数言語が競合しながら 次第に統一され原日本語が定立されたと 推測するしかないでしょう。
2021年02月04日
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和辻哲郎(一八八九-一九六〇)は、 著書『風土』の中で、 日本人の国民性論の形で打ち出し、 日本のモンスーン風土の中で、 「台風的な忍従性」と表現しました。 歴史家・鈴木成高(一九〇七-八八)は、 内に「激動」の潜在性を秘めつつ、 あえて変化を避けているように見える、 このような日本精神のあり方、日本史の特質を 「よくよくの無変化」 (『世界史における現代』)と言いました。 「豊かに流露する感情が秘かに持久しつつ、 その持久的変化の各瞬間に突発性を含む」と概括し、 この「しめやかな激情」「戦闘的な情淡」、 それが「日本の国民的性格に他ならない」(『風土』) と和辻は言いました。 これは、自然風土から国民性を論じた 一種の「日本人論」ですが、 それを歴史のダイナミクスにおいて見てゆくことで、 より堅実な文明論として 提起できているように思われるのです。 たとえば、日本の天皇にしても、 平時は水面下に身を沈めていますが、 国家または文明の危機が本格化し、 そのユニークな役割がどうしても必要となったときに、 急に浮上するのです。 それが、日本文明に特有の「瞬発適応」であり、 私はこれを「弥生的なるもの」と呼びます。 そして、 そうした歴史の危機を乗り切ることができると、 また水面下に沈む。 そのような、 無変動と静謡の中から 強靭な適応力と自己革新の能力を瞬時に浮上させる 日本文明特有の周期的サイクルが、 日本の文明史のパターンとして、 はっきり見いだせるのです。
2021年02月03日
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「縄文」の何をもって、 日本文明の「核心」と見るか は自ら別問題です。 それを停滞ではないとしても、 「無変動性」や「平和的共生」の側面 だけに見いだしたなら、 日本文明の全体的特質を速断することになります。 縄文文明が本当に「無変動」であったならば、 たとえば、ローマ帝国以後のエジプトのように すっかり滅んでいたはずです。 たしかに表面無変動であるかのように見えますが、 縄文文明の基底には、 縄文性そのものを超える大きな 「文明的地下水脈」があったのです。 縄文を含めた日本文明全体は、 じつはものすごい変動にも堪えられる 「秘めたるダイナミズム」を核心に持っていたのです。 縄文文明の中にも、 つねに「弥生的なるもの」が秘められていたのです。 縄文一万年の間に、 何度もくり返し「弥生化の時代」があり、 そうでなければ安田氏が言うような 壮大な縄文文明の成果はありえなかった。 この点が日本文明史の構造と特質を考える上で、 非常に重要です。 そして、この「秘めたるダイナミズム」が 弥生時代の到来に際して十全に発揮され、 以後も日本文明の最深部に保持されつづけ、 日本文明生存の根本的なメカニズムとして はっきり内包されてゆくこととなったのです。 これは、歴史時代に入ってからの日本文化、 とくに彫刻や絵画芸術の特質として、 「その内奥に緊張感を秘めた、 外面の均衡と静謐(せいひつ)」と 称される日本文明のある種、 核心的なものとつながってくるのです。
2021年02月02日
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環境考古学者の安田喜憲氏は、 日本の縄文文明をエジプト文明と並ぶ 長期無変動文明であると述べています (『世界史のなかの縄文文化』及び『縄文文明の環境』)。 安田によれば、日本人の祖先である縄文人は、 世界に先駆けて定住革命と土器革命を成し遂げたのです。 エジプト文明、メソポダミア文明、インダス文明などの 古代文明が誕生した時代、 日本の縄文時代中期の文化にも大きな展開があって、 三内丸山遺跡に見られるような、 「縄文型都市」が出現したというのです。 エジプト文明やインダス文明などよりも 「はるかに高い文化的水準に達していた 「新石器文化」の中で誕生した「縄文型都市」は、 当初の段階ではエジプトやインダスの初期の 都市遺跡より高いレベルに達していた可能性があります。 古代の人々が、日本海、東シナ海を 縦横無尽に航海して環日本海交流をしていたのです。 今必要なのは日本人の祖先として 何といっても一万年内外の超長期にわたって この列島内部で自己発展を遂げてきた 「縄文文明」というものが、 日本文明の基層の一大構造としてあることを 主張することです。
2021年02月01日
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