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明治維新以降の日本の資本主義はどのようにして発達してきたか、キリスト教徒である犬養光博氏は4月25日の東京新聞に、次のように書いている;◆市民犠牲に富国強兵 遠賀川流域に広がった筑豊炭田には、多いときは300を超える炭鉱(坑)がひしめき合っていた。しかし、その炭鉱が、零細・小・中・大手に分かれていたことを知る人は少ない。 大阪生まれのぼくが、初めて学生キャラバンに加わって筑豊の直方(のうがた)駅に着いた時、「なんや、大阪や京都とあんまり変わらんな」と思った。『筑豊のこどもたち』や『追われゆく坑夫たち』を読んでいたぼくには、筑豊中がどこも、その本に描かれている悲惨な状態だという思い込みがあったからだ。 土門拳の『筑豊のこどもたち』の写真展が地元田川(福岡県田川市)で開かれた時、かなりの批判が寄せられた。それは、「あの時代、われわれはあんな惨めな状態ではなかった。土門拳は悲惨な所ばかり撮ったのだ」という類いのものだ。決して間違った批判ではないが、大手の炭鉱労働者には1950年代の後半から始まっていた小・零細炭鉱の閉山がどんなに悲惨なものであったか、理解できなかったのだと思う。 あの有名な三井三池闘争(1959~60年)は総資本対総労働の対決と言われ、大きな影響を後の歴史に与えたが、ぼくたちがキャラバン活動をした元炭鉱はすでに閉山していたし、もし活動していたとしても、労働組合などつくれる状態ではなかった。 先に触れた黒い羽根募金運動は1959年9月に東京都と福岡県から始まって全国に広がったのだが、全国から多くのお金や物品が集まった。三井三池闘争に加わった労働者からも多くの支援があったと思うのだが、その時の気持ちはどんなものだったのだろうか。自分たちと同じ炭鉱労働者が、失業に追い込まれている、同じ労働者としての支援だったのだろうか。 ベトナム戦争を取材したジャーナリストの岡村昭彦は「同情は連帯を拒否したところに生まれる」と言っているが、「黒い羽根募金」によって集まった膨大なお金や物品は「かわいそうな筑豊の失業者」を憐(あわ)れんで出されたもので、同じ炭鉱労働者に連帯して、その権利を守る闘いに参加するものではなかったのではないか。 土門拳は「悲惨」な所ばかりを撮ったかもしれないが、その「悲惨」さが筑豊の零細炭鉱で起こっていたことが大手の炭鉱労働者には認識できなかったのだ。しかも、多くの場合、その大手の炭鉱のすぐそばに小・零細炭鉱が位置しているのだ。筑豊の炭鉱数は景気が良い時には増え、景気が悪くなると減る、減るのは小・零細炭鉱だ。 ぼくが住んだ金田町(現在は福智町)にもそんな小・零細炭鉱が2つあったが、町の多くの人に、名前は知っていても一回も行ったことがない、と言われたことに驚いた。 労働者の連帯のことを先に書いてしまったが、三井・三菱をはじめとする財閥や筑豊御三家と呼ばれる麻生・貝島・安川そして籾井炭鉱に至るまで、今財界や政治分野で活動している多くの人々が、筑豊で得た資本のおかげを受けている。 ”不慮の事故”という形で、一体、何人の人々が筑豊で命を落としていっただろう。上野英信先生は「わが国の石炭産業史は、まさしく炭鉱労働者の血をもって書かれた日本資本主義発達史そのものである。これより深い血の海に浮かぶ歴史は、戦史以外にない」(写真万葉録・筑豊7)と書いておられる。 何故、こんなに多数の犠牲者を出しておきながら、企業側は生きておれるのだろう。後にカネミ油症事件に遭遇して、公害被害者が死んでいくのに、どうして企業は生き延びられるのだろう、と同じことを考えさせられた。 市民が殺されれば、殺害者は確実に罰せられる。それを当然だと思っているぼくたちが、企業の犯罪にどうしてこんなに寛容なのだろう。近代日本の歩みを振り返って、明治以来の国是「富国強兵」がその原因だと思い当たった。富国(企業)と強兵(軍隊)が国是で、企業と軍隊の犯罪はこれを罰しない。いちいち罰していたら、国が成り立たない、と考えてしまったのではなかろうか。 「富国強兵」は日本の敗戦でも崩れることなく国是となって、ぼくたちはそれ以外の国是を考えることもできなくなってしまったのではないか。 筑豊はぼくにこんなことを考えさせた。(いぬかい・みつひろ=日本基督教団無任所教師)2015年4月25日 東京新聞朝刊 12ページ「市民犠牲に富国強兵」から引用 私たちは学校教育で、明治政府の政策が「富国強兵」であったことを学んでも、国が豊かになって兵隊が強くなるのは結構なことだといった程度の認識しか持たず、実際にはそれがどのようなものであったか、その本質を知ることは中々難しいのではないでしょうか。その点、ここに引用した記事は「富国強兵」の本質をズバリ抉り出していると言えます。明治の政府は、国の経済を支える大資本の育成のために労働者の命と暮らしを犠牲にしたということです。戦後は公害に対する企業責任の追及が行なわれるようになりましたが、しかし、「富国強兵」の思想もまだまだ生き延びており、原発事故で10万人以上の市民が住む家を失っても誰一人責任を追及されることがないのは、その良い例ではないでしょうか。このような悪弊も、これからの人たちは克服していかなければなりません。それにしても、私が学生だった70年代では、こんなことを書くのは歴史家の羽仁五郎先生くらいのものでしたが、時代が進んで、東京新聞にもこういう記事が出るようになったとは、実に感慨にたえません。
2015年05月31日

アメリカの軍事予算を食い物にして繁栄してきた旧来の「軍産複合体」は、近年のソフトウェアの発達についていけず、昔のような存在感に陰りが見え始めたと4月25日の東京新聞が報道している; 戦後の国際社会に大きな影響を与えてきた米国の「軍産複合体」と呼ばれる体制が揺らいでいる。情報通信(IT)技術の発展など、従来の軍需産業では生み出せない高度技術が次々に誕生し、対応できなくなっているためだ。武器輸出を原則認めた日本の企業にも触手は伸びる、との指摘も出ている。(ワシントン・斉場保伸、写真も)■「コストかさむ」 軍産複合体のあり方についてワシントンで議論が高まったのは、「軍産複合体の終焉(しゅうえん)」と題する論文がきっかけだった。ウィリアム・リン元国防副長官が執筆し、米有力外交専門誌「フオーリン・ポリシー」に昨年末掲載されたこの論文は、グーグルなど高度技術を持つ企業を例に、「ペンタゴン(国防総省)はどうグローバル化に適応するのか」と問い掛けた。 かつては高度な軍事技術が世界の技術革新を牽引(けんいん)し、民間の電化製品などに転用されていった。しかし、近年の民間企業のロボットやIT、ナノテクノロジー(超微細技術)などの技術は軍需産業をしのぐものも多い。リン氏は「ペンタゴンが軍産複合体にこだわっていては無駄なコストがかさむ」と主張した。■改革進める6強 これに対し米戦略国際間題研究所(CSIS)のグレゴリー・サンダース研究員(35)は「国防総省は、ビッグシックスと呼ばれるロッキード・マーチンなど巨大軍事企業から調達する兵器の額はほぼ横ばいを維持しながらも、新技術を取り込めるよう改革を進めている」と指摘。米紙ニューヨーク・タイムズは2月末、米国の軍事的優位を維持するための新たな動きとして、「ペンタゴンはこれまでほとんど接点を持ってこなかったシリコンバレーのハイテク企業に接近している」などと報じた。■平和利用変質も 技術革新に対応して米国が模索する新たな動きは、武器輸出を原則認めた日本にも影響を与えそうだ。 「海外からの調達をどの程度にするかという問題はあるが、国防上必要と判断すれば米国は採用するだろう」とサンダース氏。 国家安全保障が専門のセンター・フォー・ニュー・アメリカン・セキュリティー(CNAS)のアレクサンダー・サリバン研究員(27)は「日本の政策転換をきっかけに、探知機能の高いセンサーなど、日本企業の技術が注目されている」と指摘。これまでは平和利用されていた日本企業の高度な技術が、米軍事企業に納入する形で軍事転用されていくことも増えるだろう、との見方も広まっている。◆肥大化の懸念今も 米識者に聞く「軍産複合体」 国防総省と軍隊、民間の軍需産業、そして政治が一体化した米国の軍産複合体。アイゼンハワー大統領が1961年1月の退任演説で「軍産複合体が民主主義を危険にさらしてはいけない」と警告を発したこの体制の問題点について、安全保障が専門の国際政策センターのメルピン・グッドマン氏(77)に聞いた。 「米国内には、至る所に軍事関連施設や軍事工場などがあり、議会は防衛産業へのテコ入れを雇用、経済対策と同様にみている。それは票と密接に結び付いているだけに、いったん拡大すれば、縮小させるのは極めて難しい」 「軍需産業は利益を追求し、軍は影響力の拡大を目指す。そして産業界から献金を受けた議員たちは議会で国防予算の拡大を後押しする。肥大化に歯止めがかからなくなってしまう。積極的に海外で戦うしかない、という議員の主張の背後には軍需産業がいると考えるべきだ」2015年4月25日 東京新聞朝刊 12版 3ページ「揺らぐ米の軍産複合体」から引用 一昔前は軍事技術の開発が民間産業隆盛の源であるかのように吹聴され、今日地球上の多くの人間が恩恵を蒙っているインターネット技術も、元はと言えば軍事目的の通信技術であったが、この世界もやはり「奢れる者は久しからず」合衆国の軍事予算を湯水のように消費して巨額の富を築いたロッキードやボーイング、レイシオン等の大企業は開発努力を怠ってシリコンバレーの中小企業に追い抜かれそうな様相のようである。考えてみれば、ベトナム戦争に敗北して以来、湾岸戦争もアフガン、イラク侵略戦争も、アメリカは多額の予算をつぎ込んだにも関わらず、それを上回る利益を上げていないのではないか。戦争をしても儲からないということになれば、やはりこれからの国際紛争は話し合い解決の道を選択せざるを得ないであろう。したがって、安倍政権がやろうとしている「戦争法案」は、世界の潮流とは隔絶した「ガラパゴスへの道」となっている危険性が大きい。
2015年05月30日
安倍首相の非常識な「安全保障」認識について、23日の東京新聞は次のように批判している; 安保法制の国会審議が始まる。それに先立ち、安倍首相は自衛隊の海外派兵の要件に「電力不足」の可能性を挙げた。中東での資源確保が戦争の理由ということだ。現代に帝国主義の論理を復活させるような非常識な認識に驚く。この法制には「対テロ戦争」の色彩も濃い。しかし、その破産に世界は苦悩している。内向きの論理を優先させ、国際情勢を誤読すれば、破局は避けようがない。(白名正和、三沢典丈) 「生活物資の不足や電力不足によるライフラインの途絶などで、武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶ可能性がある。存立危機事態に該当するかどうかは客観的、合理的に判断する」。18日の参院本会議で、安倍首相はこう発言した。 存立危機事態は安保法制関連法案の中で、武力攻撃事態法改正案に登場する。 「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」と定義され、集団的自衛隆行使の要件となる。 首相の発言はホルムズ海峡での機雷掃海を念頭に、原油などの輸入の障害を想定したものだが、翌19日の参院外交防衛委員会では、中谷元・防衛相が「天然ガスとか原子力(の燃料)とか」も含まれると発言。質問した維新の党の小野次郎議員は「歯止めなし、際限なし」と批判した。 ホルムズ海峡はペルシャ湾の出口に位置し、最短部分の幅は約30キロ。日本が輸入する原油の8割が通過する。だが、一般財団法人・日本エネルギー経済研究所の坂梨祥(さち)研究主幹は「米国とイランはデタント(緊張緩和)の流れにある。海峡封鎖が起こる可能性は考えにくい」と指摘する。 両国関係は2013年にイラン大統領にロウハニ師が就任して以来、対話に転換。イランの核開発問題をめぐる米ロなど6カ国とイランとの協議は、最終解決に向けた枠組みの設定で合意が成立している。 イエメン情勢をめぐる摩擦はあるものの、過激派組織イスラム国(IS)に対しても協調関係にある。 「対外的に孤立する海峡封鎖に、イランが出るとは思わない。米国も、新たにイランと事を構えるとは考えられない」(坂梨氏) そもそも日本の電源構成で、石油は全体の約17%(12年度)。国内には、半年分が備蓄されている。 なにより、驚くべきは資源確保という自国の幸福追求のために武力を行使できるという首相の認識だ。 千葉大の栗田禎子教授(中東現代史)は「国際的に認められているのは、自国の主権や領土が脅かされるというやむにやまれぬ事態での最小限の反撃のみ。自国の利益を追求するための戦争という考えは、帝国主義そのもので、歴史上のもの。国際的な常識からも外れている」と指摘する。 03年のイラク戦争では、米国の石油利権の確保という狙いがささやかれた。しかし、ブッシュ大統領(当時)は少なくとも、表向き口にはしなかった。栗田教授は「資源確保は先の大戦の理由と重なり、日本の暴走だと国際社会に受け止められかねない。独善的で、国際常識を欠いた発言だ」と語った。2015年5月23日 東京新聞朝刊 11版S 24ページ「常識外れの安保法制」から引用 この記事が指摘するように、最近のイランは国際社会との対話を重視する路線に転換しており、以前のように国際社会から孤立も辞さないという強硬な姿勢は無くなりつつあるし、まして石油輸出で経済が成り立っているのに、自国の主張を通すためにホルムズ海峡を機雷封鎖したのでは、自分で自分のクビを締めることになるので、安倍首相が例に持ち出す「機雷除去」などあり得ない話だ。そんなあり得ない話を持ち出して、それにあわせた法律を作るなど正気の沙汰ではない。その上また、それ以前の話として、自国のエネルギー確保のために憲法が禁じる武力行使をやろうというのは、戦前の日本を支配した帝国主義者の発想であり、我々は1945年8月のポツダム宣言受諾で、このような勢力は日本から永久に排除したはずであった。それが今日の日本に蘇っているのは、あのとき処分すべき「戦犯」をGHQの手抜きで生きながらえさせてしまったことにある。我々はポツダム宣言の初心に帰って、わが国の帝国主義、軍国主義勢力の排除に立ち上がるべきである。
2015年05月29日
日本に民主主義は可能なのか、23日の東京新聞投書は次のように述べている; 18日朝刊1面の「辺野古反対 沖縄県民大会」を読んで、東京新聞のぶれない報道姿勢に久しぶりにすがすがしい高揚感を覚えました。 世論を無視し、民主主義を否定するかのような安倍総理の政権運営に怒りの毎日でしたが、「屈しない」のボードで埋め尽くされた県民大会、沖縄のことは沖縄の民が決める。民主主義の原点だと再認識いたしました。安倍政権の強引な政治が続き、もう日本では民主主義が機能していないと感じていましたが、沖縄で脈々と息づいていることを確信いたしました。 沖縄だけでなく日本全国に勇気を与え、あきらめずに声を上げ続ければ流れを変えることができます。 原発再稼働や憲法改正の動きも国民の声を無視しては進まないことを政治家は知るべきだと思います。2015年5月23日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「発言-『屈しない』に民主主義見た」から引用 本土ではメディアの経営者が総理大臣と嬉々として食事を共にし親交を暖めている体たらくで、本来の権力監視がまったく機能しておらず、戦前のように政府の広報機関に堕落するのは時間の問題で、こうなると民主主義はお仕舞いです。しかし、沖縄の場合は事情が異なるようで、沖縄の複数のメデイァは連日、沖縄県民の辺野古基地建設反対の声を報道しており、このような本来の使命を忘れないメディアが存在する所には民主主義が健全に発達する可能性があります。私たちは沖縄の声と連帯して、日本の民主主義をまもっていくべきです。
2015年05月28日
憲法違反の戦争法案を閣議決定する日の東京新聞に、この違法な法案に対する不安を訴える投書が掲載された; 12日の朝刊は、安保法制の与党合意を受け、政府は14日にも関連法案を閣議決定し、週内に国会に提出する、と報じていました。与党協議では法整備をする上で、日本が戦闘に参加する場合の基準が厳格化されなかったとあります。 基準があいまいなままでは、日本への直接攻撃がなくても自衛隊の武力行使が可能になり、戦闘を行っている国へも後方支援が可能となります。後方支援は立派な戦闘行為であり、戦争になれば後方支援部隊から先に攻撃される可能性はあります。やがて犠牲者も出るでしょう。 公明党は歯止めをかけたと言っていますが、ほぼ自民党の原案通りです。メディアや国民が疑問の声を上げ、明確な歯止めを求めていきましょう。2015年5月14日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「発言-基準あいまい、安保法に疑問」から引用 わが国憲法はわが国政府が国際紛争の解決に武力を用いることを禁止しており、国際紛争解決のための戦力の保持も禁止している。にも関わらず、現在の自衛隊を海外の紛争地に派遣して、場合によっては戦闘行為もやるという法案は、明らかに憲法違反である。そのような法案を何故政府が平気で国会に提出するのかといえば、安倍政権が「集団的自衛権の行使は憲法違反ではない」と宣言したから、違法性はないという理屈であるが、これは間違いだ。憲法をどのように解釈するかは、一内閣の決定で決められるものではない。戦後の歴代内閣は、まともに憲法を読んで、そのとおりに国家を運営してきたが、安倍政権は歴代内閣の憲法解釈を、国民に諮ることも無く勝手に変更したのであるから、この罪は重い。おりしも、東京都は昔いた横暴な知事が勝手に始めた銀行を、民間に売り渡して都庁は銀行業務から撤退することになったと報じられているが、銀行というのは行政がやるべき仕事ではないのだから当然である。安倍政権が強行する戦争法案も同様に、与党が数の力で強行採決しても、やがては次の政権によって廃止されることになるに違いない。
2015年05月27日
平和外交を強く訴える投書が、14日の東京新聞に掲載された; 平和を維持するため武器を備え、平和を壊す相手に武力攻撃をすることが「普通の国」なのですか。軍隊を持つことが「普通の国」なのですか。 私は違うと考えます。もし、武力を備えることが「普通の国」ならば、日本は特殊な国のままでよいと思います。武力を持てば使いたくなるのは、人間心理として当然でしょう。平和を維持するために、武力攻撃を武力で抑える。結果、報復の連鎖を起こします。 そうではなく、外交で平和を維持するべきだと考えます。日本は戦後70年間、平和を維持するための武力行使もせず、外交努力を積み重ねてきました。この成果を世界と共有し、水平展開するべきだと考えますが、間違っているでしょうか。私は、武器を購入するための税金は納めていません。2015年5月14日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「発言-武力ではなく、外交で平和を」から引用 この投書は一見シンプルに見えて、いくつもの世の中の真実というものを含んでいます。武力を持てば、それを使いたくなるのは人情というもので、しかも現実には、そのような人情のほかに装備した武器を消耗して次の武器を発注し、経済を活性化するべきだという安倍晋三のような政治家が、口では「積極的平和主義」などと言いながら、実際にはしなくてもいい戦争に自衛隊を行かせようとする。やはり、安保法制をいじることは許してはなりません。現在の日本は、これまで通りの平和外交を堅持して、70年間戦争をしないでやってきた記録を、80年、90年と積み重ねて次の世代に継承するのが、最も望ましい国のあり方というものでしょう。
2015年05月26日
作家の森村誠一氏は、日米両政府の防衛新指針について、14日の東京新聞に投書して次のように批判している; 安倍晋三首相の暴走は、もはやとどまるところを知らない。日米両政府の防衛新指針(ガイドライン)は、要するに「商取引」である。安倍政権が最も脅威とする中国の尖閣諸島進出に、米軍の支援を買い取ろうとして、米国が最も警戒する中国の蠢動(しゅんどう)を抑えるために自衛隊の活動地(水)域を世界全域に拡大したのである。 もともと米国は、日本領有の岩だらけの小さな島などに関心はない。尖閣支援を餌に、自衛隊の軍事力を超安値で買い取ったようなものである。米国に圧倒的に有利な(商)取引を国会を素通りして、安倍首相の独断で行い、自衛隊を売り渡したのである。つまり隣家との境界にある小さな石ころを守るために、累代の家訓を破り家族にも相談せず、先祖伝来の家屋敷を手放したようなものだ。 日米同盟は両国に公平なものではない。本来、米国の軍事力は全世界に及び、それに対し日本自衛隊は、憲法9条限界の法理の妥協と国民の認知による専守防衛を隊是としている。日米対等同盟は、あくまでも9条の妥協範囲である。これを、国民を軽視し、沖縄を置き去りにして、首相の独断で、同盟という名分のきわめて不公平な商取引によって手前勝手な契約を交わしたのである。 日米防衛新指針は、日本の安全よりも、威信低下や財政難に悩む米国にとって干天の慈雨のような取引である。わが国の存続と国民の命と人生にとって明白な危険の被害者は、まず世界のどこの戦場にも派遣される自衛隊員とそのご家族である。そして隊員の大量退職を補う国民徴兵となり、日本はいつか来た道を歩むことになる。2015年5月14日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「ミラー-専守防衛覆す日米同盟」から引用 安倍晋三が民主主義の政治家であるなら、国民の意志を無視して自衛隊をアメリカに売り渡すようなことはしないはずだ。戦後レジームからの脱却などといって独立国としての自主性が大切であるかのようなセリフを吐きながら、やってることは徳川幕府並みの不平等条約の締結だ。安倍政権後の日本政府は、また何十年かかけて不平等条約の是正に取り組まなければならない。そんな無駄をしなくてもいいように、今のうちに安倍政権の暴走を止めるべきだ。
2015年05月25日
わが国の政界は議員の世襲に対する適切な規制がないために、社会的な経験を積むことも無く不正な競争が横行し、たたき上げの政治家よりは有利な条件で議員になっているため、政界全体のレベルが沈下し人材が枯渇してタレントの人気投票のような選挙が繰り返され、政治が閉塞しているのであるが、これがどうも、政界のみならず、官僚の世界もかなりの劣化が進んでいる模様で、外務省官僚のレベル低下について、4月14の東京新聞は次のように報道している; 特派員の記事で本社に抗議されたり、御用学者を推薦されたり・・・。海外のメディアや識者から「日本政府から圧力を受けた」との告発が相次いでいる。外務省は「報道の自由は尊重している」と主張するものの、かえって日本の言平判を落としているようだ。(鈴木伸幸) 「東京で五年勤務した外国人特派員の告白」と題した特集記事が、日本外国特派員協会の機関誌「NUMBER1 SHIMBUN」最新号に掲載された。寄稿したのは、独紙フランクフルター・アルゲマイネのカルステン・ゲルミス記者。2010年1月から東京で勤務し、今月で任期が切れる。注目は、安倍政権の歴史観を批判した記事に対する日本政府の反応だ。 「フランクフルト総領事が本社を訪れ、国際報道の責任者に抗議文を手渡し、『この記事が中国の反日プロパガンダに使われる』と主張した」。どの部分が誤りなのか尋ねたが、外交官は直接答えず、「金が絡んでいる」と言い出した。執筆の意図については「中国ビザを取るために中国に好ましい記事を書いていたのではという解釈まで示した」という。 ゲルミス記者の話では、外務省の「圧力」が強まったのは2014年だ。この年に何が起きたかといえば、慰安婦問題で朝日新聞が一部記事を取り消すなど大きな動きがあった。 外務省は、米大手教育出版社「マグロウヒル」の教科書に「慰安婦を強制連行した」などの不適切な記述があるとして訂正を要求。執筆者のハワイ大准教授に接触して修正を求めたそうだ。これには、米国の歴史学者19人が「政府による圧力」との声明を出して反発した。 米紙ワシントン・ポストなどによれば、外務省は外国特派員らに対し、安倍政権の考え方に近い識者から見解を聞くように誘導していた。政府に批判的な識者については「信用できない」と触れ回っていた。 外務省の伊藤恭子国際報道官は「報道や表現の自由は尊重している。その上で、事実関係に誤りや誤解があれば申し出をすることもある。(ゲルミス記者の歴史観の記事に対しては)アルゲマイネ紙に反論を掲載した。総領事が抗議した際にピザや金の話はなかったと認識している」と話した。 外務省から「政権に批判的な識者」として名指しされていたとされる中野晃一・上智大教授(政治学)は「知り合いの特派員が外務省職員から『中野は信用できない』と聞いたそうだ」とした上で、「外務省のやり方はマイナス。記者の習性として逆に話を聞きたくなるし、陰で国家がコソコソとやる方が不信感をもたれる」と首をひねる。 米国の教科書については「記述に問題がないわけではないが、事実認定が難しく、さまざまな説がある。米国の学者は真偽論争ではなく、政府の介入に『ノー』と言っている。それを理解しないと、日本の国際イメージが損なわれる」と指摘した。 実際、海外の日本研究者の間では日本政府への不信感が募っている。山口智美・米モンタナ州立大准教授(文化人類学)は「『政府見解と違う』と外交官が訪問して抗議するなんて聞いたことがない。何か勘違いしているのではないか」と指弾した。2015年4月14日 東京新聞朝刊 11版 26ページ「『政府から圧力』相次ぐ告発」から引用 外務省が他国の教科書にクレームをつけるなどというのは非常識である。しかも、その内容が「白いうさぎ」を「黒いからす」と言うような明白な誤りならまだしも、「慰安婦を強制連行した」という表現は「全ての慰安婦は全員、強制連行された」というなら間違いであっても、一部には強制連行された被害者もいるのであるから、まったくの間違いとは言えない。そういう些細なことに一国の外務省がクレームをするというのは、その「一国」の品格をそれなりのレベルに引き下げる効果しか生まないことくらい思量するのが一流の官僚というもののはずだが、どうもその辺が理解できずに安易に他国の教科書会社にクレームをするというのは三流の官僚のやることで、こういう路線を続ければやがては国全体が三流になる日もそう遠くはないのかも知れない。
2015年05月24日
税金で賄われている大学の学生に君が代を歌わせるのは当然という下品な答弁をした安倍首相を、4月11日の朝日新聞コラムは次のように批判している; 「感想」を求められ、つい本音が出たのだろうか。国立大学の入学式や卒業式で国旗を掲揚し、国歌を斉唱するのは当然だという野党議員に、安倍首相が答えた。「税金で賄われていることに鑑みれば、正しく実施されるべきではないか」 おとといの発言だ。大学によって国旗国歌の扱いが違う現状を正すべきだという趣旨だろう。しかし、税金を持ち出すのは穏やかではない。従わなければ国からの交付金を減らす。そう受け取る関係者はいないか。憲法が保障する「学問の自由」への配慮が見えない。 首相の言葉は往々、身もふたもない。先月には自衛隊のことを「我が軍」と呼んだ。戦力には当たらないと歴代内閣が積み重ねてきた答弁もどこへやら、ここでも憲法上の原理原則は顧みられていない。 旧聞ながら、民主党議員に日教組をめぐるヤジを飛ばした一件は、後にその内容を訂正するという珍事に至った。憲法学者の長谷部恭男(やすお)・早稲田大教授は先日の本紙で「自由すぎる首相」と呼んでいた。言い得て妙だ。 建前ばかりの政治はもう結構という気分なのかも知れないが、有権者の目にはどう映るだろう。少し前の朝日川柳に〈「我が軍」はまさにしっかり粛々と〉とあった。本音むき出しの政治はしばしば軽率な言葉に足をすくわれる。 国旗国歌については、文科省が今後、各大学に「適切な対応」を要請するという。特に権限があってのことではなくて、ただの「お願い」だそうだ。ならばなぜ税金を持ち出すのか。2015年4月11日 朝日新聞朝刊 14版 1ページ「天声人語」から引用 この記事によれば、過日、首相が野党議員の質問中に品の無いヤジを飛ばし、しかもその内容が間違いだったので後で訂正して謝罪した件を「珍事」と言っているが、あれはそんなものではなく、れっきとした「不祥事」であって、責任を追及して辞任に追い込むべき筋合いのものである。しかし、野党もメディアもそのような戦う姿勢を示さずにいるのは、それだけ我々の社会はフトコロが深いのだと言いたいのかも知れないが、当の安倍晋三のほうは、そのフトコロに付け込んでやりたい放題である。朝日は「本音むき出しの政治はしばしば軽率な言葉に足をすくわれる」などと言ってるが、安倍はその辺をきちんと計算しており、きわどいことは言っても言質をとられないように微妙な言い回しをしているという点も我々は見落とすべきではない。
2015年05月23日
安倍政権が想定する集団的自衛権の行使とは、どのような事態に対応することを想定しているのか、安倍首相の説明する事例の具体的な矛盾を指摘する投書が、4月10日の朝日新聞に掲載された; イランの核開発問題解決への道筋を示す「枠組み」に、米欧など6カ国とイランが合意した。最終合意に向けて不透明な部分はあるが、大きな前進といえるだろう。 私が疑問に思うのは、安全保障法制を巡る議論の中で、安倍晋三首相が集団的自衛権行使の代表的事例として頻繁にあげる中東ホルムズ海峡の機雷除去の問題だ。ホルムズ海峡は、ペルシャ湾の出口にあたる原油の輸送路で、機雷をまくとすれば、海峡に領海をもつイランを想定しているのだろう。 しかし、イランは一昨年の穏健派ロハニ大統領就任以来、米欧との対話路線にかじを切り、経済制裁をなくして経済を立て直そうとしている。今回の枠組み合意にもそれは表れている。このような取り組みを一歩一歩進めているときに、海峡封鎖のような行動に出て国際社会を敵にまわすようなことをするだろうか。 日米同盟の深化を図ろうとするあまり、集団的自衛権ありきで、わかりやすい事例として、海峡封鎖で石油が来なくなったら大変だと言いたてているのではないか。代表的事例すら疑問符がつくようでは、集団的自衛権全体が怪しくなる。一から点検が必要だ。2015年4月10日 朝日新聞朝刊 13版 18ページ「声-機雷敷設、ますます非現実的に」から引用 安倍首相の発言は、出来損ないの中学生の作文のように、いつも矛盾を含んでいる。去年の集団的自衛権行使を容認する閣議決定のときにも、非常事態で在外邦人が米軍の艦船で避難する時に、その邦人を乗せた米軍艦船を自衛隊が防衛できないのではまずいから、そういうときに集団的自衛権を行使するのだという説明であったが、その後の報道によれば、米軍は非常時に避難する外国の民間人を艦船に乗せたりはしない決まりになっており、安倍首相の説明は現実にはあり得ない話であることが明らかになっている。今年になって首相が盛んに説明に取り上げているホルムズ海峡の機雷除去も、上の投書が指摘するとおり、今さらイランが自分で自分の首を絞めるような馬鹿げた作戦をやるわけがない。安倍政権のこのようなデタラメな説明について、野党とメディアは徹底的に問題を追及し責任を取らせるべきである。
2015年05月22日
憲法改正という問題について基本的な考えを確認する投書が、11日の東京新聞に掲載された; 憲法記念日にあらためて日本国憲法について考えた。私は憲法を改正すること自体には反対ではない。時代に合わない条文があれば変えるのは当然だろうと思う。ただし、絶対に変えてはならないものがある。 それは中学校の公民の教科書にも載っている日本国憲法の三原則である。すなわち、「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の三つ。人類が多くの血を流してようやく到達した理念だ。したがって、これらの原則は日本国憲法だけに当てはまるのではなく、全人類が共有すべき普遍的な原則であると考える。 憲法改正の議論は、「変えてはならないこと」について、歴史的な背景も含め、政治家も国民も十分に認識を共有した上での議論でなければ意味がない。2015年5月11日 東京新聞朝刊 11版 5ページ「発言-憲法3原則は不変の理念だ」から引用「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の三原則は、戦後70年間、私たち日本人が学んできた憲法の柱であって、わが国の主権者は天皇であってはならず、また、将軍であってはいけない、これが第一の原則。基本的人権の尊重は絶対の価値であって、異常事態の場合は政府が規制するとか、公共の利益のために制限されるなどということがあってはなりません。そして、わが国は戦争をしてはならないので、軍隊も持つことは許されない、これが第三の原則です。これら三原則は、上記の投書が指摘するとおり、全人類に普遍的な原則ですから、変更することは許されません。たとえば、わが国の民主主義が進んで、特定の家族が特権的身分を保証されるのはおかしいという時代になれば、憲法第一条を廃止して宮内庁を民営化しようというようなレベルの憲法改正は、十分あり得る話ですが、「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」つまり9条を変更するということは論理的にあり得ないと、こういうコンセンサスを確立した上でなければ、改憲論議は時期尚早だと思います。
2015年05月21日
安倍首相がアメリカの議会で演説したその内容について、11日の東京新聞投書は次のように述べている; 安倍晋三首相は米上下両院合同会議の演説で、日米同盟強化を華々しくうたい上げた。違和感があったのはアメリカ民主主義について述べた以下の言葉、「私の名字ですが、エイブではありません。アメリカの方に時たまそう呼ばれると、悪い気はしません」だ。 エイブは第16代アメリカ大統領エイプラハム・リンカーンの愛称だ。同大統領がゲティズハーグで行った演説「人民の、人民による、人民のための政治」は、民主主義の神髄として語り継がれている。首相は演説で、日本人は民主政治の基礎をこの一節に求めてきたと語った。大統領の愛称にあやかり、民主主義の守護神であるかのように振る舞いたいのだろうか。 それなら沖縄の基地問題を、この一節に沿って真撃(しんし)に再考してほしいものだ。2015年5月11日 東京新聞朝刊 11版 5ページ「発言-『エイブ』の名、首相は値せず」から引用 自民党が「人民の、人民による、人民のための政治」をモットーとして政治を行なっているのであれば、国会の議論を途中で遮って強行採決で教育基本法を改悪したりするのはおかしい。また、この投書が訴えるように、人民のための政治をやるのであれば、沖縄の人民が反対している辺野古の基地建設の強行も見直し、沖縄県知事との忌憚の無い意見交換をするべきではないのか。
2015年05月20日
日本の首相としては初めて米国の上下両院合同会議で演説した安倍首相を評価はできないとする投書が、11日の東京新聞に掲載された; 安倍晋三首相は米国の上下両院合同会議で演説しました。賛否両論ありますが、私は評価しません。安倍政権は「積極的平和主義」を盾に集団的自衛権行使を容認し、世界中に自衛隊を派遣できるよう、米国従属の政策に寄与することを鮮明にしたからです。 今回の訪米でオバマ大統領から破格の歓待を受けたとのことですが、米国の国益に寄与する話ですから至極当然でしょう。 かねがね首相は、国民の平和な暮らしと安定を掲げていますが、戦後70年培ってきた安全保障政策を政権の一存で、国民(国会)への説明不十分のまま、国外で言明したのは、憲法改正の地ならしのためでしょうか。原発再稼働、沖縄の基地移設を含め、国民への説明は極めて不十分です。2015年5月11日 東京新聞朝刊 11版 5ページ「発言-米追従の演説、評価できない」から引用 安倍首相の言うこととやることは、いつも矛盾します。国民の平和と安定が大切だと言いながら、戦後70年間、国民の平和と安定を守ってきた憲法9条を曲げて、自衛隊を海外で戦闘できるようにするのは矛盾です。また歴史の観点から言っても、日本は明治維新以来の路線が1945年8月に破綻して以来、それまでの国家体制から戦後レジウムに転換して今日の繁栄を築きました。しかし、安倍首相は就任当初「戦後レジウムからの脱却」を度々口にして、まるでアメリカから独立して自分の国は自分で守る普通の国になるのだと、日本人のナショナリズムに訴えるような話をしていたのに、ふたを開ければ何のことはない、自衛隊を米軍に差し出して「戦後レジウムの更なる強化」になっているに過ぎない。このような大きな矛盾をしでかしても当の本人は何とも思っていないのは、さすが反知性主義・ヤンキー型政治家の面目躍如です。
2015年05月19日
国際平和はどのように構築されるものか、11日の東京新聞投書は次のように述べている; 戦争は互いの間に「恐れ」があると起こります。その「恐れ」を取り除けば「平和」になります。恐れを取り除くためには対話をし、信頼関係を築くことです。無知や臆測で相手を判断すると恐れるばかりです。 特に国際関係では、自国の考え方や習慣をもとにして判断すると、大したことでなくても「恐れ」になります。経済、政治、国境等の「恐れ」になる材料をバラまけば、相手は「恐れ」、殺し殺される戦争が起こります。武器等による力の抑止では新たな恐れを生みます。恐れを除くのに必要なのは対話や交流です。 安倍首相、あなたにしていただきたいことは、平和のためにこの「恐れ」を取り除くということです。平和への適切な対応ができるように祈っています。2015年5月11日 東京新聞朝刊 11版 5ページ「発言-対話に努めて『恐れ』除いて」から引用 安倍首相は沖縄の米海兵隊が戦争を抑止しているなどと言いますが、これは世の中の真実を見損なった発言ではないかと思います。日本を取り巻く近隣諸国が日本の領土を侵食して来ないのは、海兵隊が怖いからではなく、無駄な争いを起こして自国と相手国の住民の命を失う事態を引き起こしたくないからであり、そのような問題を起こして国際社会から制裁されるよりは、問題を話し合いで解決し良好な経済関係を継続するほうが遥かにメリットが大きい、この現実が最大の要因です。したがって、このような方向で国際平和を充実させていくには、集団的自衛権の行使などという愚行はやめて、「戦争をしない国」としての日本ブランドをより充実させていくのが、私たちの日本のあるべき姿というものでしょう。
2015年05月18日
国立大学は税金で賄われているから君が代を歌えなどと、どこのヤクザのセリフかと思うような安倍首相の発言を、11日の東京新聞投書は次のように批判している; 安倍晋三首相は先の参院予算委員会で、国立大学での国旗掲揚や国歌斉唱について、「税金で賄わわれていることに鑑みれば、教育基本法の方針にのっとって正しく実施されるべきではないか」と述べ、下村博文文部科学相が学長に要請する考えを示したという。法令の裏付けがないというが、もとより行うべきではない。 「税金で賄われている」というが、税金はこの国に住む民衆が納めており、その中には、戦時中、学徒出陣で学業半ばにして日の丸の旗、君が代の歌に送られ、戦地に赴いた元学徒兵がいることだろう。 学徒出陣は、安倍首相の祖父岸信介氏が閣僚を務めていた東条英機内閣が1943年に在学徴集延期臨時特例を公布し、文系学生の徴兵延期を撤廃、同年10、11月に徴兵検査を実施し行われた。 その年、神宮外苑競技場で行われた出陣学徒壮行会で、雨の中、学徒兵を見送った元女学生は、90歳になった今も、日の丸を見るとその時を思い、涙を流す。日の丸・君が代と当時の若者の悲しい歴史である。安倍首相は、この歴史を忘れてはならないだろう。 現在の教育基本法は、民衆の大反対を押し切って、2006年に安倍首相が強行採決したものである。その時も今も、民衆の意見を聞かないのか。 集団的自衛権の行使を容認し、米軍に従って日本の若者を戦場に送ろうとする安倍首相に、私は謹んでお返ししたい。 「国政が、税金で賄われていることに鑑みれば、憲法の方針にのっとって正しく実施されるべきではないか」と。2015年5月11日 東京新聞朝刊 11版 5ページ「ミラー-国立大での君が代 反対」から引用 この投書の主張は当然である。国立大学の学生に君が代を歌えなどと言う前に、安倍政権は当時の東条内閣の決定で何千人の大学生が戦地に送られて、そのうちの何人を帰らぬ犠牲者としたのか一人ひとりの名前を明らかにして慰霊碑でも立てて「二度と若者を戦地に送るようなまねは致しません」という誓いを立ててからでなければ、君が代を歌えなどと言えた義理ではありません。そもそも学問は自由な精神活動によってもたらされるもので、政府から「あの歌を歌え」とか「この歌を歌え」などと指図されることなどあってはなりません。どんな歌をうたうのも学生の自由であって、戦後、昭和天皇が進講を受けるために京都大学を訪ねたとき、京都大学の学生はインターナショナルを歌って天皇を出迎えたという輝かしい歴史もあります。君が代ごときで日本の大学の歴史を汚してはなりません。
2015年05月17日
安倍政権がすすめる憲法破壊の行為について、憲法記念日の東京新聞コラムに、法政大学教授の山口二郎氏は次のように書いている; きょう3日は憲法記念日である。今のところ、憲法典は制定以来変わっていないが、世の中では憲法を破壊する出来事が相次いでいる。本欄でもたびたび紹介したジョージ・オーウェルという英国の小説家は、全体主義国家における苛烈な支配を描いたディストピア(ユートピアの反対)を描いた。当代の日本では、物語を実際にどこまで実現できるか、国を挙げて実験しようとしている。 全体主義の一つの特徴は、為政者が自分の都合のよいように言葉をねじ曲げて、国民からの異議申し立てや批判を無意味化する点にある。今の日本の為政者は平和とは戦争のことであり、自由とは為政者の指図に従うことと思っているようだ。 先日訪米した安倍首相の発言にも、その種のねじ曲げがあふれていた。首相は、日米両国が民主主義を共有すると誇らしげに言ったが、米国へのサービスで安全保障法制を夏までに成立させると公約した。首相は行政府の長であって、国会の法案審議を指図する立場ではないはずだ。仮に国会が首相の意のままに法案を成立させるなら、日本の議会制民主主義はインチキということになる。 憲法とは、人間がさまざまな愚行や失敗を経てたどり着いた文明そのものである。人間が人間らしく生きるためのルールである。われわれが人間でありたいと思うなら、今改憲を許してはならない。(法政大教授)2015年5月3日 東京新聞朝刊 11版 27ページ「本音のコラム-文明としての憲法」から引用 言葉の意味をねじ曲げて国民の批判を無意味化するというのは自民党の得意技で、戦争準備の法案を「国際平和支援法案」などというのはその典型です。過去には十分な収入がない障害者が支援センターを利用できなくなるような改悪をした、その法律を「障害者自立支援法」などと称した例もあり、枚挙にいとまがありません。こういう悪政をいつまで続けさせるのか、有権者の自覚が期待されます。
2015年05月16日
わが国憲法が保障する「平和的生存権」について、3日の東京新聞は次のように論評している; 憲法の前文の中に「ひとしく恐怖と欠乏から免(まぬ)かれ、平和のうちに生存する権利を有する」という記述がある。「平和的生存権」と呼ばれるものだ。近年は憲法の目指す理想や抽象的な概念でなく、具体的な国民の権利として認める判決も出ている。「『戦争できる国』に進もうとしている今こそ、大切にしたい」。憲法学者らはあらためてこの権利の価値に着目する。(安藤恭子)▼思いの原点 米軍普天間(ふてんま)飛行場(沖縄県宜野湾市)から200メートルのアパート5階。新型輸送機オスプレイの低いエンジン音が昼夜問わず、専門書であふれる室内に鳴り響く。 「沖縄の住民は、生きることの総体を、基地によって侵害されている」。憲法学者の小林武・沖縄大客員教授(74)は静かに語る。愛知大を定年退職した4年前、平和的生存権が日常的に侵されている現場を実感しようと、移り住んだ。 思いの原点は米国統治下の1959年、沖縄県石川市(現うるま市)の小学校で起きた米軍機墜落事故にある。児童ら17人が死亡、約200人が負傷し「占領地の住民の命はあまりに軽い」と憤った。 沖縄には今も全国の米軍基地の74%が集中し、米兵が絡む事件事故が後を絶たない。名護市辺野古(へのこ)では反対の民意を押し切り、新基地建設に向けた海底ボーリング調査が進む。 「これらは全て平和的生存権の侵害に当たる。憲法に照らせば、政権は主権者の国民にひれ伏さなければならないが、力で踏みにじっている」。小林さんは建設に反対する名護市長の私的懇話会に加わり、法律家の立場から支えている。▼時代で変化 平和的生存権は9条の戦争放棄とあわせ、憲法の平和主義を形づくる。しかし「抽象的概念にすぎない」とする最高裁判決もあり、裁判で争える具体的な権利とはほぼ認められてこなかった。 転機となったのは、自衛隊のイラク派遣で、戦闘地域に多国籍軍の兵隊を送った空輸活動を「違憲」と判断した2008年の名古屋高裁判決。平和的生存権を「裁判所に保護・救済を求められる異体的な権利」とし、市民が訴える根拠にできると認めた。 「時代によって、新たな意味を持つようになるから、憲法はおもしろい」と小林さんは語る。 その一つが、戦没者遺族らが13年の安倍晋三首相の靖国神社参拝を「違憲」と訴えた集団訴訟。政教分離の原則違反や平和的生存権の侵害を根拠に、国や首相に損害賠償や公式参拝差し止めを求めている。 「近隣諸国との関係を悪化させ、軍事的な衝突が起こる危険性を高めただけではない」。弁護団長の木村庸五さん(71)は、首相の参拝が平和的生存権侵害に当たる理由をこう続ける。 「日本を『戦争できる国』に変えようとしている政権の首相が、国に命をささげた戦死者を『英霊』と美化する神社に参拝することは、国民に戦争を受け入れさせる精神的な基盤づくりにつながるからだ」 山中光茂・三重県松阪市長も4月、集団的自衛権行使を認める安全保障関連法の違法性をめぐり、平和的生存権を根拠に、近く集団提訴する計画を発表した。▼問われるもの 先の大戦の反省を踏まえて生まれた平和的生存権だが、12年に自民党が発表した改憲草案に、この権利は記されていない。「平和的生存権を明確に認めれば、日本中どこにも基地は造れなくなる。防衛政策を進めるには邪魔でしょうね」と小林さんは読み解く。 自民党は来年夏の参院選で改憲勢力による3分の2以上の議席獲得を果たせば、国会で改憲原案を発議し国民投票を目指す構えだ。木村さんは言う。「日本人が再び戦争に参加し、死者を出す時期はもう迫っている。改憲で問われているのは、国民一人一人が平和的生存権の重さを理解し、今の憲法を守るかどうかだ」2015年5月3日 東京新聞朝刊 12版 2ページ「重み増す平和的生存権」から引用 この記事が指摘するように、首相や国会議員の靖国参拝は政教分離規定に抵触するのみならず、国民の平和的生存権を脅かすものですから、二重の憲法違反です。今後は私費でマサカキを奉納するなどという悪習も控えるべきです。
2015年05月15日
きのうの欄に引用した護憲派の投書は、軍隊を認めないでどうやって国を守るのかという不安を抱く人々に対し「安全保障への考え方は憲法に明示されています」というもので、私などは「なるほど」と納得しますが、軍隊がないと不安だと思っている人々にとっては何だか木で鼻をくくったような返事で、益々不安を募らせるのではないかと危惧されます。そこで今日は、もう少し噛み砕いて説明した投書を引用します; 日本人は金輪際、武器を持たない。そのことを示した憲法そのものが「国民守る策」だと思う。 他国を自ら攻めることなく、ひとりの外国人も傷つけないことが、国民を守ることにつながる。そのような国に敵対して、武力攻撃すれば世界から非難されるからだ。戦後70年の歩みが、そのことを示している。現憲法に日本人は守られてきたのだ。 以前、先輩の社会科教師が、生徒に憲法前文の暗唱を課しておられた。憲法に込められた意味をよく考え、次世代にぜひとも受け継いでほしいと考えられたからに違いない。 世界情勢が不安定な今だからこそ、9条による「不戦の奮い」を高く掲げたい。ほかに目新しい策などは必要ない。憲法ほど強力な安全保障策はない。丸腰ほど強いものはないのだ。2015年4月1日 朝日新聞朝刊 14版 18ページ「どう思いますか-攻めないことが日本を守る」から引用 この投書が示すように、自らは武装せず他国を攻撃はしないという姿勢で臨む、これが平和を恒久的なものとする上で最善の方策であるということです。武力による制圧などというものは一時的なもので、長続きしないことは歴史が証明しています。戦後70年間、日本は武力行使しない国として国際社会の信頼を得てきました。この伝統を、私たちはより一層充実させていくべきで、積極的平和主義などと欺瞞に満ちたコジツケを弄して自衛隊を海外派兵する安倍政権のやり方は邪道です。戦争法案は廃案にする以外に道はないものと考えるべきでしょう。
2015年05月14日
護憲を主張する人々は国防や安全保障のことを考えていないという、いささかピントのずれた投書が2月21日の朝日新聞に掲載された;◆護憲ならば国民守る策を示して 安全保障については、政府が一番の責任を負うことは言うまでもない。選んだ国民にも責任はある。ただ、責任の重さにおいて、政権以下だが一般国民以上だと私が考える人がいる。護憲派の政治家や学者、実務家、メディア関係者など、護憲を「商売道具」とする人たちだ。 しかるに彼らは、その責任をどれだけ果たしてきたのだろうか。 単に戦争反対を叫び、憲法改正論議の入り口に立ち塞がってきただけではないか。「9条で平和を守れる」「改憲論者は戦争したい人たち」と画一的な論法を押し通してきた。 そのことが、現政権に閣議決定による集団的自衛権の行使容認という安易な道を選ばせたとはいえないか。論点は、改憲に賛成か反対かではない。国民を守る上でリスクの低い具体策は何かということだ。その提案がない批判に説得力はない。護憲を主張してきた方々に、今こそ出番だとエールだけは送ろう。2015年4月1日 朝日新聞朝刊 14版 18ページ「どう思いますか-▼2月21日付け掲載の投稿(要旨)」から引用 この投書は改憲論者に特有の誤謬に基づいて書かれている。それは軍隊がないと国を守ることができないという先入観で、あたかも憲法9条があるためにわが国は丸腰になっており、いつ外国に占領されてもおかしくないとでも言いたげであるが、結局、それは現行憲法をよく読んでいないための誤解に過ぎず、軍備を持たずにどのように国の安全保障を確保するか、憲法は明示している。4月1日の朝日新聞に掲載された投書は、次のように示唆している;◆憲法にある安全保障の理念 護憲の人は提案をというご意見ですが、憲法に対する理解が根本的に違っていると私には思えます。安全保障への考えは、憲法の中にきちんと盛り込まれているからです。 もちろん憲法が示し得るのは国としての理念であり、具体策ではありません。しかし、憲法の前文や9条で不戦を明確に示したことで、安全保障への考え方は完結していると思います。 不戦の理念を掲げていれば、戦争になる可能性は低いと思います。政治家や軍人が勝手なことをやれるような憲法と比べれば明らかです。現憲法の下では戦争が一度もない事実が、それを示しているのではないでしょうか。 憲法は、個人に対する国家権力の過剰な行使も制限しています。その意味でも「国民守る策」は十分に規定されているといえます。2015年4月1日 朝日新聞朝刊 14版 18ページ「どう思いますか-憲法にある安全保障の理念」から引用 2番目に引用した投書は当ブログが再三に渡って主張してきた考えと同じです。戦後の日本政府は、この憲法の理念に従って国家を運営してたのであり、それで国家の存立が危うくなる事態は生じておりませんし、今後も生じることはないでしょう。もちろん、こういう憲法があるからといって何もしなくていいというものではなく、国際紛争を未然に防ぐための不断の努力が必要であることは当然で、隣国との間に歴史認識を巡って波風を立てるような政権は、あまり長く続けさせないということも平和を維持するに当たって必要と思います。
2015年05月13日
自民党が報道機関の幹部を公然と呼びつけて恫喝するという民主主義社会にあるまじき事態について、慶応大学教授の粂川麻里生(くめかわまりお)氏は3日の東京新聞コラムに、次のように書いている; 近ごろ、自民党の政治家が報道機関の重役を”どう喝”したというようなニュースをよく目にする。最近も、4月17日にNHKの堂元光副会長と、テレビ朝日の福田俊男専務が自民党の情報通信戦略調査会に呼び出されて、非公開で事情聴取された。 だが、東京新聞は意外にクールだった。4月21日の『こちら特報部』では、「圧力は政治の常道」「弱腰のメディア側」と、政権与党からの「圧力」を「今も昔もあること」とし、むしろメディア側に批判や抵抗の姿勢がないことを問題視していた。ごもっともである。 たとえテレビの許認可権は政府が握っていようとも、メディアにはその姿勢を広く公衆に問う手段が与えられているのだ。言論で戦わなければ、報道機関は敗北主義に堕すのみである。 他メディアを批判するだけあって、東京新聞の戦う姿勢は、頼もしい。同紙は4月22日の朝刊1面で、自衛隊による他国軍支援が国会の事前承認を必要とするのは、「国際平和支援法」(仮称)の対象となる、比較的危険度の低い事態「のみ」であることを報じた。 「武器供与」などについては「重要影響事態安全確保法」(仮称)が、さらに重大な「武力行使」には「武力攻撃事態法」(改正案)がそれぞれ適用され、これらのより危険度の高い事態においては、「例外的に国会の事後承認が認められる」というのである。しかも、この3つの事態の境界は、かなり曖昧だというのだ。この日の東京新聞は1面のみならず、「核心」(3面)や社説(5面)の欄なども用いて、この問題を詳しく論じていた。 もちろん事は国防であり、戦争である。あらゆる決定が国会の承認を経なければならないのでは、らちが明かないのは当たり前だ。しかし、だからこそ、自衛隊の派遣には慎重な歯止めがなされなければならない。今のままでは結局、「いざとなったら、われわれの判断に全面的に任せてください」という政府に、事実上、白紙委任状を出すのと同じことになる。 驚くべきことに、このような重大事をきちんと指摘していたのが、私の知る限りでは東京新聞ただ一紙だったのである。他の大手紙はそろって、「例外なく事前承認が必要になった」と書いていた。まさに「御用記事」である。われわれ一般国民は、権力と癒着して「報道ごっこ」でお茶を濁す輩(やから)と、毅然(きぜん)たる批判精神を貫くジャーナリストをしっかり区別し、後者を支えていかねばなるまい。 私の職場などでも「苦情」や「クレーム」を恐れる風潮は、強くなっている。しかし、ファイティングポーズを取らなければ無条件で負けになるのは、ボクシングだけではないのだ。(慶応大学教授)2015年5月3日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「新聞を読んで-両拳を高く掲げよ」から引用 戦前の新聞は負け戦も「勝った」と報道して政府と軍部に忠実に行動して国民を欺いたのであったが、その姿勢は現代にも受け継がれて、今また「赤旗」と「東京新聞」以外は自民党と政府に都合の良い記事を書いて国民を騙しているわけだ。騙すほうも騙すほうだが、騙される方も騙される方である。安倍政権の目的は、今はいい加減な言葉を羅列してとにかく憲法違反の「戦争法案」を次々と成立させて、その後でこれらの法律と矛盾することが書いてある憲法はおかしいから改正するべきだ、と言い出す作戦だ。こういうくだらない作戦に騙される国民が過半数を超えないことを祈るのみである。
2015年05月12日
国会に提出されてもいない安保法制法案が、まるで成立した後でもあるかのように勝手なことを米国政府と約束してきた安倍政権を、文芸評論家の斎藤美奈子氏は、4月29日の東京新聞コラムで次のように批判している; 「次からはウチの子どもたちもおたくのケンカに参加させますんで」。父ちゃんが外で勝手にそう約束してきたら、家族は怒りますよね。 「先に家族の合意を取れよ」「っていうか、ひとんちの争いに、なんで関係ないオレらが参加しなきゃならないんだよ」って話ですよね。 「日米両政府は、外務・防衛閣僚会合(2プラス2)で自衛隊と米軍の役割分担を定めた日米防衛協力指針(ガイドライン)の改定に合意した」とは、そういう意味だと私は理解している。 つまり決め方も決めてきた内容もムチヤクチャなのだ。国会に提出されてもいない安保法制法案を前提にした日米の約束(決め方)。地理的な制約も時間の制約も取り払った「地球規模かつ切れ目のない」形での米軍に対する自衛隊の協力支援(決めてきた内容)。 一昨年成立した特定秘密保護法も、昨年、閣議決定というインチキな方法で通した集団的自衛権の行使容認も、すべてはこのための布石。今度は国会に提出する現行法11本の改定案を「一つの法案にして一括提出」したいと言いだした。 家族の比喩を使ったけれど、国民(主権者)も国会(国権の最高機関)も無視する首相は、自分は家長だくらいに思っているのだろう。閣僚は家臣団。国民は領民。まるで戦国大名だ。ここが民主主義の国とはとても思えない。(文芸評論家)2015年4月29日 東京新聞朝刊 11版S 27ページ「本音のコラム-家長のやり方」から引用 安倍政権のやり方は、まるでペテン師のようである。集団的自衛権の行使容認を決めるとき、自民党は「自衛隊が公海上で米軍と行動を共にしているときに、米軍が攻撃されても自衛隊が何もできないというのはおかしい」という単純な例え話を持ち出して、例え集団的自衛権の行使を容認するとしても、極めて限定的であるような話をしていたが、いざ閣議決定した後になってみると、自衛隊は日本の近海だけではなく、世界中のどこにでも出かけていく話になっている。国民はまんまと騙されたのである。こういうことを平気でやってくる政権に比べれば、民主党政権はまだマシだった。国民も考え直す時である。
2015年05月11日
テレビ朝日は番組に出演したコメンテーターの発言が「不適切」だったので、番組責任者と役員を処分することになったと、4月29日の東京新聞が報道している; 「報道ステーション」で元経済産業省官僚の古賀茂明氏が「官邸からバッシングを受けてきた」などと発言したことについて、テレビ朝日は28日、報道局の担当部長ら3人を戒告処分とし、早河洋会長ら3人が役員報酬を自主返上する、と発表した。 NHKも同日、報道番組「クローズアップ現代」でやらせがあったと指摘されている問題で、「過剰な演出や誤解を与える編集があった」などとする調査報告書を公表。番組を担当した大阪放送局記者を停職3カ月とするなど関係者15人の懲戒処分を明らかにした。 古賀氏は3月27日の放送で、テレ朝の早河会長らの意向で「今日が最後(の出演)」と発言。安倍政権に批判的だとして官邸からバッシングがあったと述べて、古舘伊知郎キャスターと口論になった。 会見した吉田慎一社長は「番組進行上、不適切な事態に至ったことを深く反省している。混乱を防げなかった責任は当社にある」と謝罪。これに対し古賀氏は、本紙の取材に「今回の処分は、自民党に対する単なるアリバイ作り」と述べ、「放送法に言及されて、テレ朝は自民党の圧力に屈した。言論機関として恥ずべきことだ」と話した。 立教大の砂川浩慶准教授(メディア論)は「放送現場が萎縮する恐れがある。古賀さんのように自由に発言するコメンテーターを採用せず、当たり障りのないコメントをする人を使うようになれば、多様な論点が失われる。生放送は避けて不適切な発言は編集でカットするということにもつながりかねない」と指摘。「せめてコメンテーターの発言の自由は担保すると明言するなど、プラスの姿勢を示すべきだ」と語った。 一方、NHKの調査委は、事実の捏造(ねつぞう)につながるやらせはないとしたが、記者が部屋にいた中で取材相手を隠し撮りふうに撮影したことなどを、過剰な演出と判断。28日放送の「クローズアップ現代」で検証報道をして謝罪した。 これに対し、上智大の碓井広義教授(メディア論)は「伝えようとしたことと事実にズレが出てきたときに、記者が構成したいストーリーに映像を当てはめていったように見える。何がどう過剰なのかは報告書を読んだ限りでははっきりしない。『やらせ』という言葉を外したいから『過剰な演出』という言葉になったのか」と話している。2015年4月29日 東京新聞朝刊 12版 1ページ「テレビ朝日 報ステ関係者を処分」から引用 番組内での古賀氏の発言は「報道」ではないのだから、自民党からのバッシングがあったか圧力があったかという事実関係の問題ではなく、単に古賀氏がそう感じているという気持ちを表現しただけに過ぎない。したがって、番組があのようになったからと言って番組責任者や役員の責任云々というのはテレビ朝日が安倍政権に阿っているのであって、これは報道機関としてあるまじき姿勢である。テレビ局の外部の人間として出演しているコメンテーターには自由に発現させるべきである。その点、当ブログなどはコメンテーターがどんなウソやデタラメを書こうが、それは書いた本人の自己責任であって、書かせた私の責任が問われることは無い。テレビ番組もそのようにあるべきだ。一方、やらせ番組が問題になっているNHKでも担当者が処分されているが、こちらは少し甘いと思う。この「やらせ」は悪質だから、会長に責任を負わせて辞任させるべきなのに、当の会長は涼しい顔をしているのはおかしい。安倍政権下だから、こういう変な事態になっている。
2015年05月10日
自民党が社民党・福島議員の質問について、表現の自由を侵すかのような議事録修正を要求したと、4月18日の朝日新聞が報道している;<自民、異例の議事録修正要求 福島氏の「戦争法案」発言> 社民党の福島瑞穂氏が参院予算委員会で安倍晋三首相に質問した際、政府が提出をめざす安全保障関連法案を「戦争法案だ」などと述べたことについて、自民党の理事は17日、一方的な表現だとして修正を求めた。国会発言を削除・修正するのは国会の権威や人権を傷つけたり、事実関係を間違えたりした例が大半。政治的な信条に基づく質問の修正を求めるのは異例で、論議を呼びそうだ。 福島氏は1日の参院予算委で、与党が協議中の安保関連法案について「安倍内閣は14から18本以上の戦争法案を出す」などと質問した。 安倍首相は「レッテルを貼って、議論を矮小(わいしょう)化していくことは断じて甘受できない」と反論したが、福島氏は重ねて「戦争ができるようになる法案だ」と指摘。この質疑を受けて、岸宏一委員長(自民)は「不適切と認められるような言辞があったように思われる。(予算委)理事会で速記録を調査の上、適当な処置をとる」と述べていた。■福島氏、修正要求拒否 自民党は、福島氏の質問について「『戦争法案』と再三決めつけており、レッテル貼りだ」(予算委委員)と問題視。自民の堀井巌・予算委理事が17日、福島氏と面会して「戦争法案」とした部分を「戦争関連法案」などに修正するよう要求したが、福島氏は拒否した。 福島氏は面会後、朝日新聞の取材に「国会議員の質問権を、こういう形で抑え込もうとするのは極めておかしい。表現の自由に関わる」と語った。 質疑の動画は現在、ネット上で公開されているが、文書として記録した議事録は公開されていない。今後、自民が福島氏の対応に納得せず、記録の修正を求めれば、一連の質疑が「未定稿」として扱われ、議事録は公開されない可能性もある。 自民はまた、民主党の小西洋之氏が3月の参院予算委での質問で、安倍内閣が集団的自衛権の行使容認を閣議決定したことに絡んで「安倍総理を支える外務官僚を中心とした狂信的な官僚集団」などと発言したことについても、削除か修正を求めている。■専門家「議論の抑圧につながりかねない」 政府提出の安全保障関連の法案について、野党が国会質問で「戦争法案」と批判する例は過去にもあったが、与党側が修正を求めたことはなかったとみられる。1999年の周辺事態法案の審議では、共産党議員が同法を「戦争法案」と批判。当時の小渕恵三首相は「御(おん)党から言えば、戦争法案ということであると思うが」と答弁していた。 そもそも、国会での発言が問題視され、議事録から削除・修正されたのは、国会の権威や人権を傷つけたり、国民の権利を侵害したりしたと受け取られるような例にほぼ限られてきた。 2010年には、民主党政権の仙谷由人官房長官が中国漁船衝突事件に関する資料を、国会内で写真記者に撮影された。仙谷氏が委員会で「とう撮された」と発言したため、与野党が問題視。「とう撮」ではなく「撮影」との表現に修正された。 前田幸男・東京大准教授(政治学)は「与党にとって都合が悪いから直せと言うのであれば、国会の議論の抑圧につながりかねない。『言論の府』である国会で、あってはならないことだ」と指摘する。 ◇ 1日の参院予算委での質疑は次の通り。 社民・福島瑞穂氏 安倍内閣は14~18本以上の戦争法案を出すといっている。集団的自衛権の行使や後方支援という名のもとに戦場の隣で武器弾薬を提供することを認めようとしている。 安倍晋三首相 そういう名前をつけて、レッテルを貼って、議論を矮小(わいしょう)化していくということは断じて甘受できない。我々が進めている安保法制は、日本人の命と平和な暮らしを守るために何をすべきかという責任感の中から、しっかりと整備をしていきたいということである。 福島氏 これは集団的自衛権の行使を認め、後方支援という名のもとに武器弾薬を提供するわけですから、戦争ができることになると思う。これを戦争法案、戦争ができるようになる法案だから、その通り。 岸宏一予算委員長 福島瑞穂さんの発言中、不適切と認められるような言辞があったように思われるので、後刻理事会において速記録を調査の上、適当な処置を取ることとする。2015年4月18日 朝日新聞デジタル 「自民、異例の議事録修正要求 福島氏の『戦争法案』発言」から引用 野党議員の言葉が自分たちの悪政を暴く表現だから変えさせようというのは、正に言論の抑圧で、議事録修正とは歴史修正以前の目の前の事実の隠蔽であり、政権党の横暴極まれりである。こんなことがまかり通れば、日本の民主主義は終わりだ。それにしても、安倍首相は福島議員の質問を「レッテルを貼って議論を矮小化」するものだと批判するから、それでは首相はどのような高尚な理論を持っているのかと思ったら、日本人の命と暮らしを守るために自衛隊の海外武力活動を可能にするのだと言う。そんなことをしたら日本を敵視しない国まで敢えて敵に回すことになって、かえって日本人の命と暮らしは危険になる。結局、安倍晋三のアタマは相変わらず空っぽで口先だけの屁理屈であることを露呈している。この一件がどういう結果になったか、4月29日の東京新聞が、次のように報道した;<「戦争法案」発言の修正要求、自民が取り下げ> 社民党の福島瑞穂副党首が参院予算委員会で安全保障法制を「戦争法案」と呼び、自民党が不適切な表現だとして議事録の修正を求めていた問題で、岸宏一委員長は28日、発言をそのまま議事録に記載することを決め、各党に伝えた。自民党が事実上、要求を取り下げた。 これを受け、福島氏は記者団に「表現の自由へのすさまじい侵害だ。なぜ野党の質問を検閲し、今の段階で取り下げるのか直接聞きたい」と語った。 問題になっていたのは1日の質問で「内閣は5月に戦争法案を出すと言われている」と述べた部分。安倍晋三首相が「典型的なレッテル貼り」と反発し、自民党は発言撤回や議事録修正を求めたが、福島氏は拒否していた。2015年4月29日 東京新聞朝刊 12版 6ページ「『戦争法案』発言の修正要求、自民が取り下げ」から引用 自民党が議事録修正を言い出したのは、極めて重大な憲法違反の事案で、言い出した自民党が取り下げたからというので終わりにするべきではない。国会は第三者委員会を設置して、どのような経緯で自民党から憲法違反の要求が出たのか、その責任の所在を明らかにして責任者を処分するべきである。※お断り 引用した記事中に「とう撮」との記述がありますが、これを原文の通りの標記にすると楽天ブログではエラーになるので、一部をひらがな標記にしました。
2015年05月09日
平和憲法を蔑ろにする安倍政権を痛烈に批判する投書が、4月15日の東京新聞に掲載された; 学徒出陣で戦地に行った人が言ったという。「国は国民を守るためにあるのではないか、私たちは死ぬために生まれてきたのか、もう少し生きたかった」と。その人は祖父の友人である。 「悲惨な戦争だった」。人がこう言うのをよく聞く。近隣のアジア諸国にとっては、旧日本軍の侵略と蛮行のために、悲惨な戦争だった-。日本国民にとっては、前線に送られるばかりか、空襲が来ると分かっているのに逃げられず、国民を守るべきはずの国に殺されたため悲惨な戦争だった-。だけど、何が悲惨だったのかを本当に分かっている人が、今、どれだけいるだろうか。そして、本心から国のための戦争だと思っていた人が、どれほどいたのか。 そんな戦争から70年たった今、日本はせっせとリターンを始めている。悲惨だった戦争は美化され、平和憲法は崩れ去ろうとしている。あの戦争での体験を自分たちの子どもに経験させないように、また、国の権力によって殺されることがないようにと、戦後培ってきた尊い平和もなくなろうとしている。それも人為的に-。 先の戦争で、国民を見捨てる側だった政界からは、あの戦争に対する反省が、あまり伝わってこない。平和な温室にいて、物事を広く平等に見ることができなくなってしまったのか。せめて、安倍晋三首相の暴走くらいは止めてほしかった。 彼の言う積極的平和主義のもと、海外に派遣されて死ぬのは、若者である。指示を出し、守られている首相ではない。ただでさえ少子高齢化が深刻なのに、この国はどうなってしまうのか。2015年4月15日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「ミラー-悲惨な戦争へリターン」から引用 時の政権が必死になって国民の心に教育勅語を叩き込んだ時代に「国は国民を守るためにあるのではないか」と、まともなことを話す人がいたとは意外な感じがするが、考えてみればまだ百年も経っていない近い過去のことだから、人々の考えも現代とそれほどかけ離れたものではなかったのかも知れない。小学校で高天原の伝説の授業を聞いていた生徒が「でも、理科のとき先生は雲は水蒸気が集まったものだと言ってたよ。だから、もし雲の上に神社とか馬とかいたら、そういうのは全部地面に落っこちてくるはずだよ」と発言してこっぴどく叱られた、という戦前の思い出を書いた記事を読んだこともあります。要は、こどもにも判る幼稚な話がまかり通って、人々は心の中で「おかしい」と思ってもそれを口にせず、唯々諾々と軍と政府が推進する戦争政策に従ったわけです。まるで、安倍首相が幼稚な憲法論や歴史観を述べても、誰もそれを「幼稚すぎる」と批判しないで黙っているのと同じです。しかし、現代には戦前と一線を画す要素も数多く存在するので、これらを有効に活かして、再び国の進路を誤るような愚は避けたいものでございます。
2015年05月08日

きのう引用した「しんぶん赤旗」の記事は、その続きで、二審で原告勝訴の判決を出した鈴木敏之元裁判長のコメントを紹介している; 日本は戦争拡大で労働力が不足し、1939年から終戦まで朝鮮人約70万人(日本政府調べ)を強制運行しました。 それでも足りず、政府は企業の要請に応え、「華人労務者内地移入に関する件」(42年)を閣議決定。日本軍が中国の兵士や農民らを捕まえ、強制運行しました。政府、軍、企業が一体となって行った戦争犯罪です。 日本外務省の「華人労務者就労事情調査報告書」(46年)によると、3万8935人の中国人が運行されました。炭鉱、港湾、発電所など35企業が経営する135事業場で重労働を強いられ、死者は6834人(59年、厚生省)に上りました。 働かせた企業は、中国人らに賃金も十分な食事も支給しませんでした。にもかかわらず終戦直後、賃金や経費の一部を国が補償するという、国家補償金を不当に取得しました。◆”時効で終わり”は正義に反する原告勝訴の広島高裁判決を書いた元裁判長、弁護士 鈴木敏之(さとし)さん; 私は判決で、「その実態は奴隷的労働というに等しく、著しい人権侵害を伴うものであった」「戦後も後遺症や病気に悩まされ、経済的困窮を余儀なくされた」と実態を明らかにしました。 私たち3人の裁判官は、裁判上明らかになった事実を積み重ねてゆけばゆくほど強い衝撃を受け、事実の重みを実感しました。 一方、西松建設は強制連行・強制労働に関する資料に虚偽を記載したり、終戦後に国家補償金を得るなどしていました。 ”時効だから終わり”という西松建設の主張を認めていいのかどうか、徹底的に反窮(はんすう)しました。その結論として「損害賠償義務を免れさせることは著しく正義に反し、時効の援用は権利の濫用(らんよう)で許されない」と判断しました。最高裁もこの判断は認めたと思います。 裁判官を退官し、弁護士になった直後の2012年10月、初めて記念碑前の集いに招かれました。碑を仰ぎ見たら高裁判決と碑がつながり、感慨深くなって涙がこぼれそうになりました。 草の根で裁判を支援し、和解事業を成し遂げたみなさんの信念に頭が下がります。正義を求める粘り強い努力が、事件の解決を大きく進めたと思います。2015年4月26日 「しんぶん赤旗」日曜版 19ページ「牛馬以下の扱いだった」から一部を引用 この記事によれば、日本政府は敗戦後に独自に調査を行なって、朝鮮人を70万人連行したとか、中国人を3万9千人強制連行してそのうち6834人が死亡したというような情報を持っていることが判ります。しかし、戦後の日本政府がしたのはこれらの被害者に対する直接の損害賠償ではなく、強制労働という犯罪行為を行なった企業に対する国家補償だったとは呆れた話です。広島県の正義感あふれる市民団体の粘り強い努力の結果、西松建設に関する事件が上記のように解決をみたことは、私たち日本人の誇りです。群馬県にも同様に誠実に事実を調査した市民団体が存在しますが、「群馬県議会は日本の恥である」ことを国民は忘れてはならないと思います。
2015年05月07日

戦時中に中国人を強制連行して厳しい労働環境で酷使した事件は、戦後の裁判で原告が敗訴するも、その後の話し合いで原告と被告が和解した様子を、4月26日の「しんぶん赤旗」が次のように報道している; 戦後70年の節目の年に、私たちが向き合うべき歴史問題に中国人強制連行・強制労働があります。日本がアジア諸国と和解し、友好に向かうために忘れてはならない問題です。広島県の安野(やすの)発電所建設の場合を見ると-。 本吉真希記者 広島県山間部の安芸太田町。いまも電気を送り続ける中国電力安野発電所(水力)があります。アジア太平洋戦争末期の1944年8月、発電所の建設に中国人360人が強制運行され、過酷な労働を強いられました。 当時、中国人は1日12時間超の2交代で約8キロの導水トンネルを掘る作業に従事。頭上から水が滴り落ちるなか、朝鮮人がダイナマイトで爆破した砕石をトロッコで運び出す危険なものでした。◆29人が死亡 食事は1食につき饅頭(マントウ)1個か茶わんすり切り1杯のコーリャン飯。カビや砂が混じっていることも。薄手の上着とズボンだけで雪の積もる冬を越しました。 当時18歳の曲福先さんは45年3月ごろ高熱を発し、朝食も取れない状態で仕事に就かされました。日本発送電(当時)から建設を請け負っていた西松組(現西松建設)の現場監督から殴る蹴るの暴行を受け、その夜、死亡しました。 「病気になっても医者にみせず、収容所の寝床に放置されていた」。当時を知る85歳の栗栖薫さんは「人間としての扱いではなかった」と告発します。 日本の政府と企業による犯罪行為で、29人が死亡しました。(原爆の死者5人を含む)◆記念碑建立 「牛や馬以下の扱いだった」と当時の辛苦を訴えた呂学文さん(2003年、82歳で死去)。呂さんらは93年から再三来日し、西松建設に謝罪と補償を求めてきました。しかし西松建設はかたくなに拒否。生存者3人と遺族2人が98年、西松を相手に広島地裁に提訴しました。 地裁では原告が敗訴(02年)しましたが、広島高裁で逆転勝訴(04年)。最高裁は「日中共同声明で裁判上の個人請求権は放棄された」として、再び原告敗訴の判決(07年)。しかし「上告人(西松建設)を含む関係者(日本政府)において、被害の救済に向けた努力が期待される」と異例の付言がつきました。加害と被害は事実として確定しました。 違法献金事件で批判されていた西松建設は09年10月、付言を踏まえて被害者と和解しました。 和解(骨子別項)に基づき、日中双方参加の「西松安野友好基金運営委員会」を設立。被害者と西松建設の連名で「安野 中国人受難の碑」を建てました。捜し出した248人の受難者・遺族に補償金を支給し、6回に分け希望者173人が安野を訪問。昨年10月の和解事業報告書の発行をもって主な事業が終了しました。 基金運営委員会委員長の内田雅敏弁護士は「事実の認識と承認こそ、和解を成り立たせる土台」だと話します。 20年を超える活動で実態を明らかにしてきた市民団体「広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会」。同会事務局長の川原洋子さんは「同じ過ちを繰り返さないよう、毎年行う記念碑前の集いやフィールドワークを通して次の世代に歴史を継承していきたい。草の根の民間交流を積み重ねた先に、日中友好はある」と確信します。2015年4月26日 「しんぶん赤旗」日曜版 18ページ「牛馬以下の扱いだった」から一部を引用 裁判で勝訴したとは言うものの、原告と和解し鎮魂の記念碑を建立した西松建設と市民団体は立派です。このような悲劇を繰り返さないために市民団体の活動は役に立つことと思います。それに比べると、同じく市民団体が建立した朝鮮人受難の碑を、賛成多数で撤去した群馬県議会は非常識極まるもので、まことに群馬県議会は日本の恥と言って過言ではありません。
2015年05月06日
ソウル大学教授の朴吉吉熙(パクチョルヒ)氏は、安倍首相の外交に関する姿勢について、4月26日の東京新聞に寄稿して次のように述べている; 安倍流外交は評価できるところが多い。首相官邸が中心になってよく整理された理念と原則を貫いている。地球儀を俯瞰(ふかん)する外交というように近隣だけではなく、世界全体を対象にした外交を展開している。また、国際社会に積極的に責献しようと前向きなメッセージを発信している。安倍晋三首相の下で日本外交は変わったなという印象を与えたに違いない。ただ、安倍流外交に肯定的な面はあるものの、アジア外交には違和感を持つところが多い。端的に言えば、安倍流のアジア外交は人をいらいらさせる。誠実さと真摯(しんし)な姿勢より、核心的なところを避けてくぎをさすような小技が目立ち、必要以上の不信を招いている。 まず、歴史認識問題。アジアの国々が安倍首相に今までない新しい反省や謝罪を求めているわけではない。河野談話や村山談話をそのまま継承してくださいと願っているだけだ。しかし、歴代内閣の方針を引き継ぐと言いながら、河野談話の検証を行った。そのまま継承するのであれば検証の必要はなかった。慰安婦のことを考えれば心が痛むと述べながら、慰安婦を強制動員したことはないと公言している。最近慰安婦は「人身売買」だったと表現したが主語がない。誰が何のためにというところが読みきれない。「総じて自分の意思に反して動員された」という河野談話の核心的なところを認めているかどうか微妙である。 村山談話も継承するという立場であるが、侵略の定義を曖昧にしているところもあるし、植民地支配に対しての謝罪や反省は一歩引いている。バンドン会議での演説では侵略に対しては反省の意を表明したが、植民地支配、おわびには触れなかった。前の談話と同じ言葉を繰り返すならば談話を出す意味がないとまで言い切っている。侵略と植民地支配に対しての「痛切な反省と心からのおわび」が基本精神であることを軽視しているような言い方ではないか。 バンドン会議で反省の弁を述べた翌日、3人の女性閣僚が靖国を参拝した。安倍首相の本意ではなかったかもしれないが、閣僚の行動は内閣の方針を測る極めて重要な基準である。本当に河野談話、村山談話を継承するのかと疑われても仕方がないかもしれない。 次は隣国に対しての認識。安倍首相は今年に入ってから「韓国は最も重要な隣国」という表現を使っている。それ自体が事実に反しているわけではないが、韓国の民主化と経済成長の後、長く使われていた「民主主義と市場経済という価値観と体制を共有する国」という表現を外している。歴史問題で日本を困らせて中国に傾斜しているように見える韓国にいら立ちを感じるのは理解できないわけでもない。しかし、世界の誰が見ても疑いのない民主主義と市場経済の国である韓国を米国の同盟国である日本が認めないのはなぜか。 米国を挟んで日本と韓国が協力するのは自由主義的国際秩序をともに守り、民主主義と市場経済を東アジアに限らず世界に広げるためではないか。米国はアジアへの回帰と再均衡戦略の実現のために日韓関係の早期改善を心から願っている。歴史認識の違いがあって日本がアジア外交に躊躇(ちゅうちょ)するのは分かる。しかし、米国の同盟国とそうではない国を峻別(しゅんべつ)しないのは安倍流外交の方針にも反することではないか。(ソウル大学国際大学院教授)2015年4月26日 東京新聞朝刊 12版 4ページ「時代を読む-不信を招く安倍流アジア外交」から引用 この記事が指摘するように、安倍首相の言動の矛盾は山ほどある。河野談話を継承すると口では言いながら、しかし「検証」はする。一事が万事この調子だから、もはや信用はできない人物である。隣国の人の目にもそう見えているのだから、国民の目には尚更である。多分、安倍晋三氏はその単純な性格から、自分は総理になれば何でもできると思い込んでいたに違いない。ところが、そう簡単に憲法は変えられないし、河野談話も村山談話も自分では継承するつもりは微塵もないのに、継承すると言わなければ総理の座に留まって入られない、そういう現実に納得がいかないから、国際会議では「戦争への反省」を口にしつつ、閣僚には靖国神社を参拝させるという「矛盾」を矛盾とも思わずにやってしまうわけだ。こういう困難を抱えた人物に無理に総理をやってもらう必要はないので、早めにもっとましな人物と交替してもらうのが国益というものではないか。
2015年05月05日
政府と自民党が準備している安全保障法制というのは、憲法違反の「集団的自衛権行使」を前提としているので、これも憲法違反である。この問題について、法政大学教授の山口二郎氏は、4月26日の東京新聞コラムで次のように述べている; 集団的自衛権行使容認の閣議決定を受けて、与党は安全保障法制の骨格を固めた。これは平和や安全という名の下に国民をペテンにかける、法体系の破壊行為である。 そこでは、自衛隊による武力行使、他国軍隊への支援について(1)存立危機事態、(2)重要影響事態、(3)国際平和共同対処事態という三つの事態が想定されている。(1)については個別的自衛権のみならず、わが国の存立を脅かす他国への攻撃に対しても集団的自衛権を行使するとされる。(2)については、日本周辺に限らず、米軍や他国軍への後方支援も可能とされる。 しかし、法律でそれぞれの事態を定義できるのだろうか。具体的な状況がどれに該当するかは、その時々の政府の判断に任されるに違いない。新聞各紙は、自衛隊の海外派遣について「例外なく国会による事前承認を必要とする」と報じたが、それは(3)の場合だけである。要するに、この法制が実現すれば、政府が独断で事態を過大な危機と捉え、自衛隊を出動させ、武力行使ができるようになるということである。言うまでもないが、後方支援は戦闘の一環であり、相手方からの攻撃を招く。 意味不明の言葉が並び、国民のあずかり知らぬうちに自衛隊が戦争に参加できるようになる。これこそ国会の異常事態である。国民が出動して、止めさせるしかない。(法政大教授)2015年4月26日 東京新聞朝刊 11版 29ページ「本音のコラム-異常事態」から引用 わが国憲法は国際紛争を解決するのに武力を用いることを禁止しており、国が軍隊を持つことも禁じている。ただ、万が一防衛活動が必要なときに備えて自衛隊が存在するだけだ。にも関わらず、安部内閣が憲法違反の法律をでっち上げて自衛隊を海外の紛争地に派遣して被害にあった場合、国民は憲法違反容疑で安倍晋三を告発するべきだ。その上で、被害者への損害賠償を安倍晋三に支払わせ、また自衛隊を海外派遣した費用も国庫に返納させなければならない。
2015年05月04日
自民党が放送局の幹部を呼びつけて事情聴取をするという、まるで戦前が復活したかのような事件について、文芸評論家の斎藤美奈子氏は4月22日の東京新聞コラムに、次のように書いている; 何事も渦中にいるときは「いま何が起きているか」がわからないことが多い。「戦時下の日本では異常なことが起きていたのだ」と人々が知ったのは敗戦後だった。 「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」(「道程」1914年)や「智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ」(「あどけない話」『智恵子抄』1941年所収)など、国語の教科書にも載っている詩で知られる高村光太郎は、日本文学報国会詩部会会長を務めるなど、戦時中は熱心な戦争協力詩人だった。 「つひに太平洋で戦ふのだ。/詔勅をきいて身ぶるひした」「身をすてるほか今はない。/陛下をまもらう。/詩をすてて詩を書かう」とは「真珠湾の日」(『暗愚小伝』所収)という詩の一節。これは戦後(1947年)に書かれた詩なのでまだ自省的だが、戦意高揚をあおる戦中の詩はそりゃ強烈だった。 光太郎に限らず戦争に協力した文学者は少なくない。彼らは当時「何が起きているか」がわからなかったのだろう。 ひるがえって現在はどうか。自民党の情報通信戦略調査会がNHKとテレビ朝日の幹部を呼びつけ、事情を聴くという異常な事態。これが報道の自由の侵害、言論統制の一環でなくて何だろう。このままでは戦中に逆戻り? いやいやいや、私たちすでに渦中にいるのである。(文芸評論家)2015年4月22日 東京新聞朝刊 11版S 29ページ「本音のコラム-渦中の人」から引用 むかし陸軍、いま自民党。日本が「8・15」の悲劇をまた繰り返すとすれば、それは自民党のせいである。公明党にも多少の責任があるかも知れない。わが国が法治国家であるなら、まず第一に憲法を守るべきである。憲法は言論・報道の自由を保障しており、また放送法も第3条が「番組編集にあたって何人からも干渉・規律されない」と明記しており、第4条に義務として、「公安・善良な風俗を害しない、政治的公平、報道は事実をまげない、意見が対立している問題はできるだけ多くの角度から論点を明らかにする」と書いてあるが、テレビ出演した元官僚の古賀氏の番組降板にあたっての言動は、本人の感想を述べたまでであって、事実を曲げた報道をしたわけではない。自民党の違法な越権行為の責任こそ追及するべきである。
2015年05月03日
テレビ番組を降りることになった古賀茂明氏が、最後の放送で打ち合わせにない政府批判の発言を行なった件について、19日の東京新聞コラムは次のような論評を掲載している; テレビ朝日「報道ステーション」での古賀茂明さんの告発をめぐり週刊誌界でもさまざまな議論が起きている。『SAP!』4月14・21日号でコラムニストの勝谷誠彦さんらが言及したのが、プロのコメンテーターなら生放送であれをやってはいけないという意見だ。 そうした批判に対しては、古賀さん自身が『週刊現代』4月25日号のコラムで「テレビコメンテーターの種類」と題して反論している。また古賀さんがメディアに対する政権からの圧力を指摘していることに対しても、本当に圧力があったのかと懐疑的な意見もある。それに対して『サンデー毎日』4月26日号のインタビュー記事で古賀さんは、メディア現場で自主規制が横行しているとあらためて指摘している。 自主規制の場合、圧力といっても実態が見えにくいわけだが、その議論が行われている最中の4月17日、自民党の情報通信戦略調査会がテレビ朝日とNHKの幹部を呼びつけて事情聴取を行った。 メディア界への揺さぶりが一段階強まったといえる動きだが、今後、メディア界は一丸となってはね返していくことができるのかどうか。新聞は今回、中央紙は全て自民党の介入を批判しているが、そのトーンはさまざまだ。週刊誌は次号で今回の事態をどう批判するのか。特に昨年のバッシング以来おとなしくなったと言われる『週刊朝日』と『アエラ』には頑張ってほしい。<以下は省略>(月刊『創』編集長・篠田博之)2015年4月19日 東京新聞朝刊 12版 27ページ「週刊誌を読む-メディア一丸 はね返せるか」から引用 古賀氏が番組を降りることになったのはテレビ局の番組編成上の判断なのか政府からの圧力が原因なのか、現状では「闇の中」であるが、「プロのコメンテーターなら生放送であれをやってはいけない」というのは程度問題であり、古賀氏の場合は腹に据えかねると思ったのだからあのような言動になったのであり、一つの表現としてあって然るべきと思います。あり得ないのは、批判されたことに腹を立てて放送法をちらつかせて番組批判をした菅官房長官の態度であり、スケールの小さい政権だなとの印象を強くしました。さらにあり得ないのは、そのテレビ局の幹部を呼びつけて事情聴取をした自民党である。自民党に何の根拠があって人を呼びつけたりできるのか。そんなものは無視していいのに、ノコノコ出かけるテレビ局幹部も幹部である。「権力の監視」「真実の報道」を使命とする報道機関の自覚があるのか、疑問を感じる。
2015年05月02日
翁長雄志氏が沖縄県知事に就任して以来、一貫して面談を拒否してきた安倍首相と菅官房長官であったが、首相の訪米を前にようやく菅官房長官が翁長知事と会談したときの様子を、4月16日の東京新聞コラムで法政大学教授の竹田茂夫氏が、次のように論評している; 今月初めの翁長雄志(おながたけし)沖縄県知事の発言は衝撃的だった。菅義偉官房長官との会見で辺野古への基地移設を強行する安倍政権を批判したのだが、犠牲を強いられてきた沖縄の歴史的経験に無頓着な日本人への痛烈な一撃でもあった。 約20万もの人が斃(たお)れた沖縄戦、先祖伝来の土地の強制収用、苛酷な米軍統治、だまし討ちの沖縄返還(核持ち込みの密約)等の経験が凝縮されて、独りよがりの疑似ナショナリズムの批判ともなっている。基地移設は絶対に不可能だという趣旨の発言からは断固たる政治的意思を読み取るべきだ。 翁長発言の真意はどうあれ、かつて居酒屋談議と揶揄(やゆ)された沖縄独立論が現実味を帯びてきたという。松島泰勝氏の『琉球独立論』は、沖縄と日本の現実-沖縄の植民地化、米国との軍事同盟、抑止力による安全保障-に対して、琉球の政治的・経済的独立、非武装中立、国際関係の網の目による安全保障をそれぞれ対置する。30年以上も昔の川満信一氏の「琉球共和社会憲法C私(試)案」は、国家や覇権や軍事的暴力を突き抜けたユートピアから逆に現実を照らし出す。 日本は帰るべき祖国ではなかったという沖縄の人々の痛切な思いにどう応えるべきか。琉球ナショナリズムにはわれわれ日本人の顔が映し出されている。(法政大教授)2015年4月16日 東京新聞朝刊 11版 29ページ「本音のコラム-琉球ナショナリズム」から引用 沖縄県にある米軍基地の大部分は、沖縄戦で上陸した米軍が不法に占領したもので、サンフランシスコ講和条約が発効した後は、日本政府が米軍の引き続いての沖縄占領を了承したもので、その後も米軍は必要な基地を建設するのに法律的な手続きは一切せずに、武器で住民を脅して強制的に立ち退かせるという暴挙を繰り返した。そのような歴史に本土の住民はまったく無関心で、戦後の何十年間も大部分の米軍基地を沖縄に押し付けて、地理的条件だから仕方が無いなどと言ってるのだから、沖縄独立という発想が出てくるのも無理はありません。本土の住民が沖縄の独立に反対だなどと、言えた義理ではないでしょう。
2015年05月01日
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