全30件 (30件中 1-30件目)
1
橋本龍太郎内閣のときに内閣法制局長官を務めた大森政輔氏は、集団的自衛権行使が憲法違反であることについて、20日の東京新聞で次のように述べている; 集団的自衛権行使を解釈変更で認めるのは、憲法9条に照らし認められない。 解釈変更と今回の法案が憲法上認められないのは、議論するまでもない。国会では常に問題にされ、政府の説明は国際法上は有しているが憲法9条に照らすと行使は認められないと一貫してきた。ほとんど自民党内閣がそう言い続けてきた。それが突如、憲法解釈の変更で認められるとなった。今更解釈変更と称してできるはずがない。 解釈変更で武力行使できる新たな要件に、従来の「国民の生命、権利が根底から覆される事態」に「明白な危険がある場合」と余分な文言がついた。国民の生命、権利が覆される状態にまだない段階で武力行使する。9条とは相いれない。 何をやるかの説明でホルムズの機雷掃海の話が出てくる。これで集団的自衛権を行使できるのなら、どんな事例でも理屈をつけたらほとんどできるようになる。非常に限定されているような文言だが、政府がやろうと思えば理屈がいくらでもつけられる要件だ。あの文言はうそを言っていることになる。違憲ということは明らかだ。2015年6月20日 東京新聞朝刊 12版 6ページ「政府の理屈で武力行使」から引用 国民の生命や権利が根底から覆される事態になった場合は自衛隊が出動するというのは、従来の政府の見解であったが、これに「明白な危険がある場合」であると政府が判断した場合も自衛隊が出動できるという点が、専守防衛を逸脱した「憲法違反」となるわけです。結局、この記事が指摘するように、安倍首相は口では「憲法の論理は変更されておらず、だから合憲だ」と言いたいわけであるが、これは明らかなウソです。安倍氏はオリンピック誘致のときもウソをついたが、ここでもまたウソを言っている。こういう言動をとる人物を首相にしておいては将来に禍根を残すというものでしょう。 それにしても、集団的自衛権行使を批判すると「攻められた時は貴殿だけしんでください」などと言う人もいますが、こういう人の発想というのは、敵国というものが既に存在していて、いつか寝ている間にこっそりやってきて日本人は寝首を掻かかれるという前提に立っているのでしょうけど、それはおとぎ話の世界であって、現実にはあり得ない話です。現代では、隣国が戦争準備どころか、ミサイルの実験準備でさえ事前にわかってしまう時代ですから、知らないうちに敵軍に包囲されていたなどということがあり得ないことくらい、小学生にもわかる理屈です。そのような愚かな思い込みを脱皮するべきでしょう。私たちは戦後70年間、国際紛争の解決に武力を用いなかった、それでも国際平和に貢献することができた、この現実に自信と誇りを持つべきです。
2015年06月30日
第一次小泉内閣のときに内閣法制局長官を務めた秋山収氏は、集団的自衛権の行使が必ずしも違憲とは言えないと言う立場であるが、それでも安倍政権がやろうとしていることは違憲であると、20日の東京新聞で説明している; 集団的自衛権の行使を容認する政府の新解釈は、通常の言語感覚で理解すれば違憲とまで断ずべきものではない。ただ抽象的で多様に解しうる表現を使っているために「歯止め」が不十分だ。できるだけ自衛隊の活動の範囲を広げたい政府の具体的な運用の説明には、合憲の範囲を超えて違憲になるものを含んでおり、違憲の運用が行われる恐れがある。例えば「ホルムズ海峡が機雷で封鎖された場合、一定期間エネルギー危機に陥る」とか、「自衛隊を戦闘に派遣しなければ米国世論に見放され、日米安保が瓦解する」などの理由で派兵がなされるケースだ。 首相の対応を初めから見ていると、一国のリーダーとして国を参戦に導くことの重さや苦渋がほとんど感じられず、解釈の範囲を広げられるだけ広げようという姿勢が見える。このような人を最高責任者に持つことに強い不安を覚える。2015年6月20日 東京新聞朝刊 12版 6ページ「参戦に導く苦渋見えぬ」から引用 このように「集団的自衛権も合憲である」という立場からも、安倍政権がやろうとしていることは明白に憲法違反である。政府自民党は、このような専門家の意見の前に謙虚であるべきだ。法律のプロの目から見ても、安倍晋三のような者が最高責任者であることに強い不安を覚えるというのであるから、国民は事態の深刻さを理解するべきだ。安倍政権には即刻退陣を求めるべきだ。
2015年06月29日
小泉内閣のときに内閣法制局長官を務めた阪田雅裕氏は、現在安倍政権が国会に提出している安全保障関連法案が憲法違反である理由を、20日の東京新聞で次のように説明している; 集団的自衛権の行使はこれまでおよそ認められない、必要ないと考えられてきた。法律の考え方は、理屈と事実をどう当てはめるかという問題がある。これまでは全否定だったが、自国の安全、侵略と関係あるような個別的自衛権と同じレベルのものもあり得る、としたのだろう。 問題は、なぜそのように変える必要があるのかという十分な説明ができなければならないことだ。安全保障環境が変わったとの抽象的な説明しかしていないが、他国への攻撃に対処することが、国民を守ることとどう結び付くのか。分からない。 憲法で武力行使が許されるのは、日本に影響があるようなことでは足りず、経済的な損失程度なら憲法の基本的論理の外になる。 他国に対する攻撃でわが国に戦火が及ぶような状況という説明で、安倍普三首相は「戦禍」(戦争による被害)という意味で言っているが、その程度ではだめで、「戦火」、まさに戦争が国に及ぶ状況でなければ従来の論理には合わない。政府は中東・ホルムズ海峡での機雷掃海もあり得ると言っているが、憲法論理の枠内に入らない。ホルムズ海峡での事態も法案に当てはまる可能性があるとの政府の説明なら違憲だ。2015年6月20日 東京新聞朝刊 12版 6ページ「『ホルムズ海峡』憲法逸脱」から引用 この記事は論理が明快である。ホルムズ海峡が機雷封鎖されて日本に石油が届かなくなった程度では自衛隊を出動させる根拠にはならない、ということである。安倍首相は、エネルギーを絶たれれば日本国存立の危機だなどと言っているが、そんな脅しに騙されてはならないということです。考えてみれば、世界のどこかでアメリカ軍が攻撃されたからと言って日本人の生命が脅かされるわけではないのだから、そんなものが日本国の存立を脅かすわけがありません。要するに、安倍政権の説明はもはや論理が破綻しているのであって、これ以上議論しても意味がありませんから、来週さっそく廃案とするべきでしょう。
2015年06月28日
2006年から2010年まで内閣法制局長官を務めた宮崎礼壹氏は、安倍政権の憲法解釈変更やそれにまつわる安全保障関連法案の違法性について、20日の東京新聞で次のように述べている; 集団的自衛権の行使に関する憲法解釈は、1972年の政府見解で説明されている。安倍政権はこの72年見解の論理は維持しながら、集団的自衛権の一部が限定的に認められると主張している。 だが、この見解はそもそも、憲法上、集団的自衛権の行使が許されないことの理由を説明したものだ。 当時の吉国一郎内閣法制局長官は「論理的帰結としてわが国への侵略がない場合の武力行使は、憲法上許されない」「憲法をどう読んでもだめだ」と語っている。集団的自衛権の行使は、まだわが国が侵略を受けていない段階で武力行使することだから、9条でどうしても読めない。 少しは集団的自衛権もいいじゃないかというが、72年見解は今のところはだめとか、ごく少しであればいいとか全く何も留保していない。それを根拠にするなんて180度違う話だ。 72年以降も国会で質疑がたびたびあった。だが、集団的自衛権が限定的とか一部とか認められる余地は、全くないと示されている。 安倍政権の新解釈は、都合のよいところだけ取り出し、最小限の集団的自衛権なら当てはまるというが、それはまったく無理。これまでの政府見解から断絶した考えだ。 今回はあまりにおかしな、ひどい議論が行われている。72年見解の部分部分をつぎはぎし、集団的自衛権が認められるかどうかは事実の当てはめにすぎないと強弁するのは、こじつけ以外の何物でもない。 現在の横畠裕介長官が最近、非常に問題のある解説をしている。72年見解で憲法が武力行使をぎりぎり容認している「外国の武力攻撃で国民の生命、権利が根底から覆される急迫、不正の事態」の「外国の武力攻撃」に、「『他国への外国の武力攻撃』も含まれる」とした。 ものすごく形式的な読み方をすればいいと思っているが、これは「日本に対する武力攻撃」と読まなければおかしい。何重の意味でもそんなことは読めない。 政府解釈の根幹は変わっていないなどととても言えない。今までの論理を捨てるなら別の大きな問題となるが、法的な連続性が保たれているというなら、その主張は無理、うそだ。法案は違憲というのが正しい。2015年6月20日 東京新聞朝刊 12版 6ページ「歴代の政府見解と断絶」から引用 この記事が指摘するように、集団的自衛権というものはその一部を行使するとか条件をつけて限定的に使用するというような、安倍首相が説明するような考えは、わが国憲法が認めるものではありませんから、これはどう説明しようとも明らかな憲法違反であることは否定できません。したがって、政府が国会の会期をどこまで延長しようと違憲性が消えるわけではありませんから、これは廃案とする以外に道はないということです。
2015年06月27日
11歳の小学生が、国会のヤジについて17日の東京新聞に投書して、次のように批判している; 先日、テレビで国会審議の様子を見ていたら、質問している人の後ろで大きな声がしていたので何かと思ったらヤジを飛ばしていた。ずいぶん失礼な人たちだと思った。そして、新聞記事によると、安倍晋三首相までも野党の女性議員にヤジを飛ばしたらしい。 ヤジを飛ばすことは話をしている人にとても失礼だ。なぜ、そんなことが国会で許されるのだろう。学校で僕たちが先生や友だちにヤジを飛ばすなんて、考えられない。もしそんなことをしたら、すごくしかられる。それを選挙で選ばれた国民の代表の人たちがしているなんて信じられない。 子どもにしてはいけないと言うことを、大人はするべきでないと思う。2015年6月17日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「発言-国会でのヤジ、信じられない」から引用 安倍首相はとうとう小学生からも批判されるようになってしまった。国会は話し合いの場なのだから、与野党は互いの主張に耳を傾け対立する問題の妥協点を探るのが仕事である。その任務を忘れて発言を妨害するようなヤジを飛し、野党の質問には問題点をはぐらかすような答弁をする、こういう誠実さに欠ける人物を首相にしておいては国益が損なわれる。
2015年06月26日
誠実さのかけらも無い安部政権の政治姿勢をするどく批判する投書が、17日の東京新聞に掲載された; 小学生の息子と「誠実」とは何か、を話し合った。 「自分にうそをつかないことかな」と私が言うと、「テレビに出ていた科学者の人はどうなの?」と聞く。彼が言っていたのは理化学研究所の元研究員のことだった。「そうだね、一生懸命に研究していたのに、最後は自分でも何をしているのか分からなくなっちゃったのかな」と私。 誠実さとは、自分自身にうそをつかないことではないかと思う。一方、政治に目を転じると、誠実さの欠如は甚だしい。特に、安倍晋三首相は、東京電力福島第一原発事故について「放射能汚染はアンダーコントロール(管理されている)だ」と、実態とは懸け離れた願望のような絵空事を言い放つ。 そして、論理も言葉も破綻していることに気付かず自国防衛を旗印にして、「自衛隊だって戦えば強いんだ」とでも言いたげな顔をして、日本を「戦争できる国」へと導く。さらに、政府一丸となって、日本が海外で他国同士の争いに首を突っ込むことも「専守防衛」だと言ってのける。 安倍首相の誠実さの欠如は、自分の願望しか見えない、また、見ようとしないことだと思う。 今、日本にとって大事なのは、仮定の軍事的緊張を論ずるよりも、避けて通れない現実の問題を解決することだ。 安倍首相はじめ政府には、生活再建のめどがたたず苦しむ東日本大震災の被災者や、福島第一原発の溶け落ちた核燃料の処理など、現実の難題から目をそらさず、きちんと向き合い誠実に対応してもらいたい、と思う。2015年6月17日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ「ミラー-政府は『誠実』になれ」から引用 安倍首相は事故を起こした福島原発の放射能汚染水はアンダーコントロールだと公の場で発言したが、それから1ヶ月もたたないうちに福島では汚染された地下水が太平洋に流出したと報道されたのであった。したがって、アンダーコントロールとの発言は真っ赤なウソであった。また、中国の軍事予算の増大が日本にとって危機であるかのように言うが、米ソの冷戦が厳しかった時代のソ連機の領空侵犯とそれに対する自衛隊のスクランブル発進の回数は現在の比ではなかったのであるから、それに比べれば、現在の日本は平和な環境にある。要は安部首相が自衛隊に武力行使させたいだけのことだ。こういう政権だから、国民は信用するわけにはいかない。
2015年06月25日
下村文科相は国立大学の学長らに国旗掲揚と国歌斉唱を要請したと、17日の東京新聞が報道している; 下村博文(はくぶん)文部科学相は16日、国立大学の学長を集めた東京都内での会議で「国旗と国歌の取り扱いについて、適切にご判断いただきたい」と述べ、入学式や卒業式で国旗掲揚と国歌斉唱を行うよう求めた。法的な根拠がない異例の要請で、大学側からは憲法が保障する「学問の自由」や「大学の自治」を揺るがしかねないとの批判も出ている。 下村文科相は要請後、記者団に「最終的には各大学が判断されることで、大学の自治や学問の自由には全く抵触しない。お願いしているだけで、介入ではない」と強調。1999年に国旗国歌法が施行され「広く国民の間に定着している」と根拠を説明した。 しかし、終了後に取材に応じた出席者らからは、異論や戸惑いが聞かれた。国旗掲揚はしているが、国歌斉唱はしていない滋賀大の佐和隆光学長は「来年以降も現状を続けようと思っている。教育研究面で納税者に貢献することがわれわれの責務で、必ずしも国の要請に従う必要はない」と強調。国旗掲揚、国歌斉唱とも一度も実施したことがない琉球大の大城肇学長は「かなり混乱するので、学内での議論は棚上げしたい」と話した。 今回の要請のきっかけとなったのは、4月の安倍晋三首相の国会答弁。国旗掲揚と国歌斉唱について「(国立大が)税金で賄われていることに鑑みれば、正しく実施されるべきではないか」と答弁していた。 背景には、国立大全86校中、今春の卒業式で国旗掲揚を行ったのが74校、国歌斉唱が14校にとどまるという実態がある。国旗掲揚と国歌斉唱の指導を明記した学習指導要領に基づき、ほぼ全ての公立小中高校が入学式などで実施するのと事情が異なる。 大学では戦前、研究や言論が国家権力に抑圧され、戦後に自治や学問の自由が認められてきた経緯がある。会議に出席しなかった国立大の幹部は「大学経営が厳しい中、国は運営費交付金の減額をちらつかせ、大学が今まで守ってきたことを曲げさせようとしている。公権力の介入はあってはならない」と批判した。(沢田敦、安藤恭子)2015年6月17日 東京新聞朝刊 12版 1ページ「国旗・国歌国立大に要請 学長ら異論、戸惑いも」から引用 下村文科相の国立大学学長への要請は法律上の根拠のない専横である。なぜ法律がないかと言えば、もしそういう法律があればそれは直ちに憲法に違反するため無効となる、だから国会はそのような立法をしない。だから下村文科相も口では「お願いしているだけで、介入ではない」といいつつ、しかし、来年の3月から4月にかけて、文科省は全国の国立大学にスパイを派遣して調査し、日の丸・君が代を無視した大学の職員の給与は大幅カットするなどの嫌がらせをする可能性は極めて高い。考えてみれば馬鹿げた話であるが、安倍政権だけに、これはあり得る。こんなことが法治国家であっていいことだろうか。
2015年06月24日
11本もの安保関連法案を一括審議している国会について、三重県議会は慎重審議を求める意見書を採択したと、17日の東京新聞が報道している; 三重県議会は16日の本会議で、安全保障関連法案について政府に慎重な審議を求める意見書案を賛成多数で可決した。 意見書案は第一会派の民主・連合系「新政みえ」が提出。議長を除く50議員のうち、自民の2会派と公明を除く27議員が賛成した。 意見書案では、政府は海外での武力行使をしないとの平和憲法の原則を転換しようとしながら審議を簡略化していると指摘。結論ありきで法改正を強行する姿勢は容認できないと批判する。また、国民の多くが政府の説明を不十分と感じ、憲法学者も集団的自衛権の行使を認める解釈や法案が違憲であると指摘しているとして、通常国会での成立にこだわらず、慎重な審議を求めている。 新政みえの北川裕之議員は賛成討論で「国会の議論に県議会が関わるべきではないとの声があるかもしれないが、国民の命や立憲主義に関わる事態を看過できない」と主張。自民の小林正人議員は「国会で専門的な議論を重ねており、審議を簡略化して結論ありきだとの指摘は適切ではない」と反論した。 意見書は首相や官房長官、衆参両議長に提出する。2015年6月17日 東京新聞朝刊 12版 2オページ「安保法案政府は慎重審議を」から引用 安倍政権が国会に提出した安保関連法案は、戦後70年間、わが国が歩んできた平和国家の原則を転換しようとするものですから、これは半年や一年で結論を出せる話ではありません。いくら会期を延長しても足りるものではありませんから、とりあえずは廃案にするべきでしょう。このような意見書をまとめる三重県議会は立派です。史実を隠蔽する群馬県議会など足元にも及ばないと言っていいでしょう。
2015年06月23日
戦争法案を国会に提出しておきながら野党の質問にまともな答弁ができない安倍政権を、14日の「しんぶん赤旗」コラムは次のように批判している; 「戦争法案」を審議する衆院安保法制特別委員会。5月27・28日の日本共産党の志位和夫委員長の質問で一気に関心を呼んでいます。29日付の「日刊ゲンダイ」の”答弁不能「つまり」「つまり」を連発 安保法制委安倍首相また天敵に完敗の赤っ恥”の見出しは、人目を引きました。 追い打ちをかけたのが、4日の衆院憲法審査会。自民、民主、維新推薦の憲法学者全員が、「安保法制」は「憲法違反」だと意見を述べました。 自民党は火消しに躍起ですが、6日放送のTBS系「NEWS23」の「変わりゆく国・安保法制(13)」では、「何か事が起きたら常に”存立危機事態”にあてはまる」(阪田雅裕氏)、「憲法を改正しない限り、集団的自衛権行使は認められない。今回はあまりにも乱暴」(宮崎礼萱氏)と、歴代内閣法制局長官から断言されました。コメンテーターの姜尚中氏は、「(中谷元・防衛相の)”憲法を安保法制にどう適用させるか”というのは本末転倒」と言います。 6日の「報道特集」(TBS系)では、自民党幹事長時代、イラク特別措置法制定に関わった山崎拓氏も登場。「イラクに(自衛隊が)行ったわが国の方針は、結果的には間違いだった」と認めました。安倍首相の唱える「積極的平和主義」も「国策として誤りだ」と。続いて、東本願寺(真宗大谷派)の「立憲の精神をじゅうりんする行為を絶対に認めるわけにはいかない」とする声明を紹介。戦争する国にさせない思いは高まる一方です。 そんななか、6日の「ウェークアップ!ぷらす」(日本テレビ系)の「憲法審査会の参考人は人選ミス」という論調は奇異に感じました。今、「安保法制は合憲」という憲法学者がいるのでしょうか。170人余の憲法学者が「違憲」とする声明を発表しています。市民のたたかいと国会論戦が大手メディアを元気づけているようです。(なかつくま・たくぞう=元ワイドショープロデューサー)2015年6月14日 「しんぶん赤旗」日曜版 35ページ「メディアをよむ-『戦争法案』に批判次々」から引用 戦争法案はその根底に憲法違反の「集団的自衛権」があるのですから、それを前提にした法案が合憲なわけがありません。答えに窮した内閣法制局長官は「例えばフグの毒は、その肝にあるのであって、肝を避けて食べれば毒にあたることはない」と話したそうですが、集団的自衛権の場合は、合憲部分と違憲部分に区分けすることはできず、部分的「集団自衛権」のつもりで出かけても、一発弾が飛んでくれば、あとはそのまま戦争に突入ですから、国民は言葉の遊びに黙れてはなりません。
2015年06月22日
与党が推薦した参考人も野党が推薦した参考人も一致して集団的自衛権の行使は憲法違反であると発言した「衝撃」について、14日の「しんぶん赤旗」は次のように論評している; 「あり得ない」「相当やばい」-。「戦争法案」を強行しようとしている自民党議員らに衝撃が走りました。衆院憲法審査会(4日)で、与野党から推薦された参考人の憲法学者3氏全員が、「戦争法案」は「憲法違反」だと表明したからです。戦争法案の根幹が問われる事態です。田中倫夫記者 同審査会に参考人として出席したのは、長谷部恭男(やすお)・早大教授(自民推薦)、小林節(せつ)・慶大名誉教授(民主推薦)、笹田栄司・早大教授(維新推薦)の3氏。「安保法制」(戦争法案)への認識を問われ、「集団的自衛権の行使が許されるというその点について、憲法違反だ」(長谷部氏)、「私も違憲と考える。憲法9条に違反する」(小林氏)、「定義を踏み越えてしまったというところで、やはり違憲だ」(笹田氏)と全員が、戦争法案は「違憲」との認識を示しました。 同審査会で日本共産党の大平喜信議員は、米軍への後方支援(兵たん)など「安保法制はどれをとっても、(武力行使を禁じた)憲法9条に反しているのでは」と指摘。3氏は「武力行使との一体化が生ずる恐れが極めて高くなる」(長谷部氏)、「一体化そのもの。露骨な戦争参加法案であり、ついていけない」(小林氏)、「私もそうだと思っている」(笹田氏)と違憲性を強調しました。小林氏は「長谷部先生が銀行強盗して、ぼくが車で送迎すれば、一緒に強盗したことになる」と皮肉りました。◆「憲法を適応」 「与党が推薦した人まで違憲だと断じたことは、この法案の根幹にかかわる」(自民党関係者)と与党は大ショック。菅義偉官房長官は記者会見で「まったく違憲でないという著名な憲法学者もたくさんいる」(5日)と弁明したものの、具体的な名前をあげることはできません。自民党は急きょ、「決して憲法違反だとか立憲主義の逸脱ということはありません」との反論文書を作成したほどです。 憲法研究者ら173人が発表した、「戦争法案」は「憲法9条違反」だとして廃案を求める声明(3日)の賛同者は、さらに広がっています。 5日の安保法制特別委員会では、中谷元・防衛相が「現在の憲法をいかにこの法案(戦争法案)に適応させていけばいいかという議論を踏まえ閣議決定を行った」と答弁。憲法より法案を上に置くこの発言にも批判が巻き起こっています。2015年6月14日 「しんぶん赤旗」日曜版 2ページ「戦争法案は『違憲』-与党大ショック」から引用 3人の参考人が「違憲だ」と証言したその日の記者会見で、菅官房長官は「まったく違憲ではないという著名な憲法学者もたくさんいる」と大見得を切ったものの、著名でたくさんいる割にはすぐには名前を出せない、つまり、本当はマイナーで誰も知らないような学者だったわけです。それから数日たって、自民党は党員向けに「集団的自衛権は合憲です」という文書を配布するのであるが、その内容たるや「違憲だ」と発言した3人の憲法学者に対する反論は一切なく、単に今までの説明を繰り返しただけというお粗末なものでした。自民党にはこんな文書で納得するような政治家しかいないとすれば、深刻な問題ですが、いずれにしても現在審議中の安保法制案は違憲であるということがはっきりしたからには、このまま審議を継続するわけには行きません。与野党でよく話し合って、審議未了、廃案とするしかありません。
2015年06月21日
沖縄県民の間に少しずつ広がり始めた日本国からの分離・独立について、哲学者の内山節氏は、5月10日の東京新聞に次のように書いている; 辺野古の米軍基地建設の動きをみていると、状況に変化が芽生えつつあるような気がしている。というのはこの問題をめぐる切り札を、沖縄の人々がもちはじめたのではないかとも感じられるようになってきたからである。 基地建設を進める政府の切り札はお金でしかない。沖縄の振興予算をつけるとか、逆に予算面で追い詰めるとかである。これまではそれが切り札としての役割を果たしてきた。ところが予算面で希望がかなえられなくなっても構わないという雰囲気が広がってしまえば、それは切り札としての役割を果たさなくなる。 ところがいま沖縄では、じわじわと沖縄独立論が広がってきたのである。独立してしまえば、沖縄は日米安保条約の適用外だ。つまり全基地の撤去を要求できることになる。沖縄が独立する現実的な方法があるのかどうか、また独立後に単独国家としてやっていけるのか、そういうことが議論に上がるようになってきた。もしも独立されれば日本は沖縄を手放すことになるのだから、政府としては認めがたい問題だろう。そうである以上独立論が広がっていけば、それが切り札になってしまう。本当に独立するかどうかは別として、そういう意見をもつ人々がふえていくと、政府はこれまでのような高飛車な態度はとれなくなるのである。 振り返ってみれば、かつて沖縄は独立した琉球王国だった。沖縄の人々は遺伝子的には日本とのつながりが深いという研究もあるが、琉球王国は1429年に成立している。1609年に薩摩の侵攻を受け、江戸時代は薩摩の従属下にある独立国という立場だった。最終的に日本に併合されたのは、明治時代の1879年である。 沖縄は日本の時代よりも独立国の時代の方がはるかに長いし、独自の文化や言葉をもっていた。 20年ほど前に東北のある村長と話をしていたとき、その村長は「不可能なことを承知で願望を述ベさせてもらえば、江戸期の幕藩体制の時代に戻りたい」と話してくれたことがある。その頃は江戸=東京に村が従属することはなかった、という意味である。自分たちで自分たちの世界をつくることができた。地方創生とは、国のメニューに従って地方や地域をつくることではない。地方や地域が自立性をもち、独自の地域を創出していくことである。国の方針に従っていくうちに地域が衰弱していった明治以降の歴史を、どのようにして変えていくのかがここでは問われている。 地方が力をもつということは、独自の考えや方針で地方、地域がつくられていくということであり、それは一面では国と地方との間に新しい緊張感が生まれるということでもある。ときに国と地方との間に対立が生まれ、ときに協力関係を結ぶ。そういう自立的な力を地方がもちながら、独自の地方を創生していくことが本物の地方創生である。 とすると今日の国と沖縄の関係は、いま国が掲げている地方創生が本物なのかどうかを見極める試金石なのかもしれない。沖縄の人たちがつくろうとしているこれからの沖縄を尊重することなくして、地方創生などあり得ない。独立論が芽生えてくる背景にあるものは、基地問題だけではなく、国と地方の関係の問い直しでもある。(哲学者)2015年5月10日 東京新聞朝刊 12版 4ページ「時代を読む-沖縄独立論という切り札」から引用 戦後70年間、沖縄の人たちは東京の政府の言うことを聞いていればやがては良くなると信じてこれまでやってきたと思いますが、既に結果は出ており、東京の政権は沖縄の米軍基地を永久的なものにするつもりのようです。一方、沖縄はもともとは日本や中国、朝鮮と適切な距離を保って平和に何百年も暮らした実績もあるのですから、軍事基地を押し付けられて我慢しなければならない理由はどこにもありません。沖縄の経済は米軍でうるおっているというのは真っ赤なウソで、沖縄県民の総所得に占める米軍からの収入は1割にも満たないのが現実で、基地負担に対する東京の政府からの交付金も沖縄の経済を活性化する効果は乏しく、沖縄経済の最大の問題は米軍基地の存在が経済活動を妨げていることです。したがって、沖縄が昔のように発展するためには米軍基地の撤去はどうしても必要なことであり、東京の政府に基地撤去の方針がない限りは独立するしかないという結論にならざるを得ません。沖縄独立というと、独立したとたんに日本の自衛隊が占領するとか米軍が制圧するとか、中国に占領されるだろうなどと言い出す人々もいますが、これからの時代は国際世論がそのような暴虐を許しません。だから世界最強の米軍でも、ベトナムでは負けたしアフガン、イラクを未だに占領もできなければ混乱の収拾もできていない。軍事予算を増大させて人目を引く中国でさえ、フィリピン占領はおろか尖閣諸島にも手は出せず、南シナ海の岩礁を埋め立てて滑走路を作るなどというケチなことをやるのが精一杯、これが現状です。強力な軍隊を誇る英国でさえ、スコットランド独立論に対し軍隊による威嚇はできなかったのですから、沖縄県が公式に独立を検討し始めても、誰もそれを止めることはできません。これからは、そういう時代です。むしろ積極的に独立を支援しようという心ある日本人は少なくないと思います。
2015年06月20日
安倍政権が「日本の集団的自衛権行使が憲法違反に当たらない」とする根拠として挙げている砂川判決について、9日の東京新聞は次のように論評している; 安倍首相はミュンヘンでの記者会見で、他国を武力で守る集団的自衛権の行使容認を合憲と位置づけた根拠として、砂川事件の最高裁判決を持ち出した。だが、砂川判決は、日本が攻撃されたときに反撃する個別的自衛権を認めた判例で、集団的自衛権は認めていないというのが一般的な学説だ。それを根拠としていること自体、憲法解釈変更の正当性を疑わせる。 砂川判決が根拠に浮上したのは憲法解釈の変更を閣議決定した昨年7月以前。自民党の高村正彦副総裁らが主張し、首相も乗ったが、批判が相次いだため、あまり触れなくなっていた。1年以上が経過し、4日の衆院憲法審査会で憲法学者から「違憲」の指摘を受けた後、初の説明の場となった今回の記者会見で反論材料に使った。今後も首相は「砂川判決があるから合憲」との論理で押し通すとみられる。 しかし、自民党推薦の参考人ながら、憲法審査会で「違憲」と断言した長谷部恭男早稲田大教授は1年前、本紙に「砂川判決から憲法上、集団的自衛権が行使できるとする結論は無理がある」と明言。こうした判決を持ち出さざるを得ないところに、政府の論拠の乏しさが表れている。(高山品一=安倍首相同行)2015年6月9日 東京新聞朝刊 12版 1ページ「『安保法案 合憲』強調 首相 砂川判決を引用」から引用 一年前に出したら、あまりにも批判を浴びたので、その後は触れないようにしていたら、誰も何も言わなくなったので、政府もそのままだんまりを決め込み、それを批判する野党もメディアも「砂川判決は根拠にはなり得ない」とは言わなくなって今日に至っているというのでは、安倍政権の思う壺です。この後また、しばらく経ってから誰かが「集団的自衛権行使は憲法違反だと思う」と言い出したら、安倍政権は「いや、砂川判決があるから違反ではない」と言い、「それは根拠にはなり得ない」と言われたらだんまりを決め込む。こういうふざけた態度の連中に、いつまで政権を任せるのか。馬鹿にされているとは夢にも思わないらしい自民党支持者の気が知れない。
2015年06月19日
集団的自衛権の行使を前提とした安保法案は合憲であると主張する安倍首相に、その根拠を尋ねたら「砂川事件の判決」を挙げたと、9日の東京新聞が報道している; 【ミュンヘン(ドイツ南部)=高山晶一】先進7カ国(G7)首脳会議(サミット)は8日(日本時間同日)、中国を念頭に、東シナ海と南シナ海での力による「現状変更の試み」への反対などを盛り込んだ首脳宣言を採択して閉幕した。安倍晋三首相はその後、内外記者会見に臨み、他国を武力で守る集団的自衛権の行使容認などを含む安全保障関連法案に関し、憲法学者から「違憲立法」との指摘が相次いでいることに対し「憲法の基本的論理は全く変わっていない」と反論し、法案撤回にも言及しなかった。 首相は法案が合憲との根拠について1959年の最高裁による砂川事件判決を挙げ「わが国の存立を全うするために自衛の措置を取りうることは国家権能として当然のこと」と指摘。その上で今回の集団的自衛権の行使容認に関し「他国の防衛を目的とするのでなく、最高裁判決に沿ったものであるのは明白」と述べた。 砂川事件は57年に東京都砂川町(現立川市)の米軍立川基地拡張に反対し、基地内に立ち入ったデモ隊の一部が日米安全保障条約に基づく刑事特別法違反の罪で起訴され、裁判で米軍駐留の合憲性が問われた。最高裁判決は日本の個別的自衛権を認めたもので集団的自衛権は問題になっていないとの考えが一般的学説。 また首相は会見で、集団的自衛権の行使を認める場合の武力行使の新3要件にも言及。他国への攻撃であっても日本の存立が脅かされ、国民の権利が覆される明白な危険があるといった新3要件に基づき「憲法の基本的な論理は貫かれている」と強調した。新3要件に適合するかどうかは政府の判断に委ねられ、行使の基準があいまいとの指摘には答えなかった。2015年6月9日 東京新聞朝刊 12版 1ページ「『安保法案 合憲』強調 首相 砂川判決を引用」から引用 砂川事件の判決は日本国としての集団的自衛権の行使をテーマにした裁判の判決ではないのだから、首相の説明は欺瞞であることは素人にも判るし、多くの法律専門家も一様に「集団的自衛権の行使容認」の根拠にはならないと指摘している。にも関わらず、そのような常識の指摘に耳を貸さず、百年一日のごとく「砂川事件判決があるから、集団的自衛権の行使は憲法違反ではない」などと念仏のように唱えるだけというのは、情け無い話だ。また、記者団が「集団的自衛権行使の基準があいまいではないか」と指摘しても、それに答えないという態度は誠実さに欠ける。当ブログが落書き同然のゴミみたいなコメントを無視するのとはワケが違って、一国の首相ともなれば、国民の些細な疑問にも誠意をもって応える誠実さが不可欠である。
2015年06月18日
日本が戦前の36年間、朝鮮半島を植民地として支配したことやその間に労働者を強制連行した問題について、日韓基本条約で解決済みとする態度は誠意に欠けるとする声が日増しに強まっている。7日の東京新聞は、近代史研究家の竹内康人氏にインタビューした結果を次のような記事にして報道している; 「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産登録に、韓国が「朝鮮半島出身者が強制労働をさせられた炭鉱などが含まれている」と反対している。本格的な調査が行われていないこともあり、強制労働の実態ははっきりしない。どんな実態で、どう考えるべきなのか。最近の研究結果を盛り込んだ「調査・朝鮮人強制労働」の著者で近代史研究者の竹内康人さん(58)=浜松市=に話を聞いた。(三沢典丈) 戦時中、朝鮮半島から動員され、強制労働をさせられた人数を、日本政府は60万~70万人と発表している。しかし、竹内さんは「新たに発見した資料を踏まえると、動員数は約80万人に上る」と語る。 竹内さんは昨年、国立公文書館で、1939~44年度の動員数などをまとめた表を発見した。旧内務省警保局が管轄していた内鮮警察の資料に含まれていた。この表と朝鮮総督府の資料を突き合わせ、動員数を割り出した。 39~41年度は8万人前後、42、43の両年度は12万人。44年度は29万人を動員する予定だったことが分かったという。 強制的に動員された労働者は炭鉱のある福岡県や北海道など各地に振り分けられた。竹内さんは「炭鉱や鉱山での採掘、発電所や鉄道、飛行場の工事などで働かされた。現存する施設も多い。労働は社会資本に形を変えた」と指摘する。 だが、日本政府は本格的な強制労働の実態調査を行っていない。1965年の日韓基本条約で、強制労働に関する請求権問題は「解決済み」という立場を取っているからだ。 こうした態度に、竹内さんは「朝鮮半島からの動員に対し、日本政府は歴史的責任がある。被害を訴える人がいる以上、賠償基金をつくるなどして、決着をつけなければ解決したと言えない」と強調する。 韓国では、強制動員被害の真相究明と被害者を支援する政府主導の委員会があり、補償のための財団設立の動きもあるという。韓国内では、強制労働をさせた日本企業の賠償責任を認める判決も相次いでいる。 戦時中、約2万人を強制的に働かせたドイツのフォルクスワーゲンは戦後、資料館などで負の歴史を伝え、動員をした地域の自治体に助成金を出すなど補償に努めた。「労働力として使い捨てられた人の悲しみや苦しみを理解せずに、世界に開かれた企業と言えるのか。基金を立ち上げ、補償すべきだ。日本の企業にも問題解決を図ろうという文化が求められる」 竹内さんは今回の世界遺産登録申請についても、「長崎県の端島炭坑(通称・軍艦島)で残っているものの多くは明治期でなく1910年代以降に造られたもの。明治期に限定せず、他国から動員された人々の歴史も踏まえた展示も必要ではないか」と指摘した。 「調査・朝鮮人強制労働」は「炭鉱編」「財閥・鉱山編」「発電工事・軍事基地編」「軍需工場・港湾編」の全4編。80年代からの調査結果を基に、一昨年から今年3月にかけて出版した。産業別に連行開始時期や動員数、死者数、強制労働をさせられた人の証言、炭坑跡、追悼碑の写真も盛り込まれている。 「強制労働をさせられた人は、国家にとって人的資源とされたにすぎない。しかし、そこから人間の尊厳を読み解き、一人一人の歴史に思いをはせる想像力が求められる」2015年6月7日 東京新聞朝刊 11版S 26ページ「歴史的責任 直視を」から引用 麻生セメントのように、戦前朝鮮半島から強制連行した労働者をただでこき使って、そこから得られた利益を溜め込んで大財閥になった企業は、現在も日本で隆盛を誇っているのですから、それらの企業が協力して被害労働者を救済する基金を設立して贖罪するのは、人道上当然のことです。日本政府も65年の条約で韓国政府を黙らせることに成功したなどと愚かなことを言わずに、被害労働者の救済をバックアップするべきです。
2015年06月17日
安倍首相が党首討論の場で「ポツダム宣言は読んでいない」と発言した日のテレビ報道について、法政大学名誉教授の須藤春夫氏は5月31日の「しんぶん赤旗」コラムで、次のように述べている; 5月20日の党首討論のハイライトは、共産党の志位和夫委員長が安倍晋三首相にポツダム宣言の認識をただした論戦にあったといえます。 7分間の短い持ち時間で歴史認識の核心を突く質問に、安倍首相は「ポツダム宣言をつまびらかに読んでいない。論評を差し控えたい」と発言。アジア太平洋戦争を侵略と認めたくない安倍首相は、ポツダム宣言を読んでいないと開き直って逃げたのです。 「戦争の善悪の区別がつかない首相に戦争法案を提出する資格はない」と志位委員長がズバリと指摘したのは当然です。 20日夜のテレビニュースでこの重要なシーンを詳しく報じたのは「報道ステーション」(テレビ朝日系)だけでした。「ニュース23」(TBS系)は安倍首相の”つまびらかに読んでいない”発言をカットしており、NHK「ニュースウオッチ9」はトップ項目にクルマ業界の新車販売戦略を長々と触れ、党首討論は3番目の扱い。しかも志位委員長のポツダム宣言質問にはまったく触れずじまいです。 安倍政権のメディアコントロールが物議を醸している時期だけに、安倍首相のもっとも痛いところを突いたやりとりは自主規制して報じないのかと疑いたくなります。マスメディア側もポツダム宣言が日本の「戦後」の出発点、原点との認識を欠いていたので、やりとりを捉えきれなかったのでしょうか。そうだとすると、ジャーナリズム失格です。 インターネットのブログやツイッターでは、ポツダム宣言発言事件が大きな話題と反響を呼んでいただけに、マスメディアの落差が目につきます。 国会では戦争法案の本格的な議論が始まりました。メディアは安倍政権の欺瞞(ぎまん)的な国会答弁をあばいて、国民の知る権利に応える報道に全力を傾けてほしいものです。(すどう・はるお=法政大学名誉教授)2015年5月31日 「しんぶん赤旗」日曜版 35ページ「メディアをよむ-”ポツダム”報道の落差」から引用 日本の首相が野党の追及をかわすために「ポツダム宣言は読んでいない」などと発言するのは実に重大な背信行為というものですが、その実態を報道しないというテレビの隠蔽体質は、報道機関失格と言って過言ではありません。テレビ局のトップが首相と食事を共にして親交を暖めているのでは、そのテレビ局の社員はいきなり解雇などという目に会わないように、ヤバいニュースは差し控えるというのは自然な流れで、こうして日本のファシズムが形成されていくわけです。このようなファシズム形成の流れに「歯止め」として作用するのが、上記のような批判的論評であり、「しんぶん赤旗」はわが国のファシズム・ストップの重要な役割を果たしていると言えます。
2015年06月16日
ポツダム宣言の内容について共産党委員長の質問を受けた安倍首相が「つまびらかには読んでいない」と言って明確な回答を避けた事件で、日本列島には衝撃が走りました。戦後民主主義の出発点ともなったポツダム宣言を読まずに首相をやってるとは、日本国民も舐められたものです。5月31日の「しんぶん赤旗」は、次のように批判しています; 国会の党首討論(20日)で、安倍首相が仰天発言-。日本共産党の志位和夫委員長とのやりとりで、”ポツダム宣言は読んでいない”と言いだしたのです。「戦後レジーム(体制)からの脱却」をとなえる首相が、戦後世界の出発点となった宣言すら”読んでいない”と公言したことに衝撃が広がりました。 志位氏が党首討論にのぞんだのは11年ぶり。総選挙の躍進を受け実現しました。 「過去の日本の戦争は『間違った戦争』だったという認識はありますか」。志位氏が問うと、首相は「節目に出されている政府の談話全体として受け継いでいく」というだけで、戦争の判断は答えません。 志位氏は、日本が1945年8月に受諾した「ポツダム宣言」に言及。同宣言は第6項で日本の戦争を「世界征服」のための戦争だったと明確に規定。第8項では、日本の戦争を「侵略」と規定し、「暴力と強欲」で奪った地域の返還を求めた「カイロ宣言」の履行を求めています。 「ポツダム宣言の(間違った戦争という)この認識を認めないのか」と迫る志位氏に、首相は「私はまだ、その部分をつまびらかに読んでいないので承知しておりません。論評はさし控えたい」とのべ、議場がざわつきました。 「侵略戦争」はおろか、「間違った戦争」だとも認めない首相。志位氏は最後に強調しました。 「いま進めようとする集団的自衛権の行使とは、日本への武力攻撃がなくても、米国が、世界のどこであれ、戦争に乗り出したさいに、その戦争に自衛隊を参戦させるものです。日本の戦争の善悪の判断もできない総理に、米国の戦争の善悪の判断ができるはずがない。戦争法案を出す資格はありません」<野中元官房長官らも驚く>◆ 野中広務・元官房長官、24日のTBS「時事放談」「志位さんは過去の戦争のいかに愚かであったかという責任を国民の前でお尋ねになりましたが、安倍総理は具体的に答えようとせず、しかもポツダム宣言すら読んだことのないような・・・」「わずかでもあの戦争に参加したことのある経験のある私があの姿を見ておって、死んでも死にきれない気持ち」◆ 評論家の寺島実郎氏、24日のTBS「サンデーモーニング」「ポツダム宣言はまだ読んでいないなんて話になっているんじゃ、もう絶句するような状況だ」◆ 「朝日」22日付「天声人語」「ポツダム宣言は戦後の世界秩序の起点の一つだ。首相はそれも読まずに、『戦後体制(レジーム)からの脱却』を唱えてきたのかという批判が出たのは当然である。基本的な歴史の知識すら欠くのでは、と疑われても仕方がない」=== ●ポツダム宣言第6項 日本国国民を欺瞞し、これをして世界征服の挙にいづるの過誤を犯さしめたる者の権力および勢力は永久に除去せられざるべからず ●カイロ宣言 日本国の侵略を制止し、かつこれを罰するため今次の戦争をなしつつあるものなり…(略)…日本国はまた暴力および貪欲により日本国の略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし※いずれも抜粋===◆本心は「あの戦争は正しかった」-思想家 内田樹さん 志位委員長の「ポツダム宣言の(間違った戦争という)この認識を認めないのか」という詰問に対して、安倍首相が「ポツダム宣言の内容をつまびらかに知らない」というきわめて問題の多い発言をしてまで、質問に対するイエス、ノーの回答を拒んだという点を重く見たい。 首相は事前に質問の内容を知らされておらず、とっさの判断だと思うが、「先の大戦が誤った戦争であった」ということを認めるくらいなら、「ポツダム宣言を読んだことがないほど無知な首相」という汚名を着る方を選んだ点に、安倍首相の政治的メッセージは明らかに示されている。 彼は先の戦争は「正しい戦争」だったと信じている。ただ、それを公言することは旧連合国(とくにアメリカ)との外交関係に致命的な傷を与えることが確実なので対外的には「心で思っているが口にできない」。 だが、外交関係では「口にしたこと」だけが問題となり「心で思っていること」は問われない。一方、わが国内では政治家がいくら食言しても前言撤回しても誰もとがめず、政治過程は政治家が「心で思っていること」を何度(そんたく)しつつ展開する。 つまり、首相は対外的に「無知」とみなされるリスクを冒しても、対内的に「あの戦争は間違っていない」というメッセージを非言語的なしかたで発信することを優先したのである。2015年5月31日 「しんぶん赤旗」日曜版 5ページ「ポツダム宣言 読んで無い 首相答弁に衝撃」から引用 常識的に考えて、日本の首相が先の大戦の結果であるポツダム宣言を読んだことがないというのはあり得ない話で、上記の記事が示す首相答弁の数日後、維新の党の議員が出した質問主意書に対しては言い訳がましく「読んでいないわけではありません」というような答弁書を出している。要はポツダム宣言を読んだか読んでないか、という点ではなく、ポツダム宣言が述べている「日本は侵略戦争をした」「間違った戦争であった」という点を安倍首相が認めるか認めないのか、である。この点への答弁をしないで誤魔化すために、実際には読んでいるのに「つまびらかには読んでない」と、実に不誠実な答弁をして、対外的には「無知」とみなされるリスクを冒すどころか、実情をさらけ出してしまったわけである。こういうレベルの人物を、いつまでわが国の首相にしておくのか、国民はよく考えたほうがいい。
2015年06月15日
憲法違反だろうがなんだろうが、とにかく自衛隊を紛争地域に派遣して武力行使をやらせたい安倍首相について、法政大学教授の山口二郎氏は5月31日の東京新聞コラムに、次のように書いている; 安全保障法制の国会審議が始まったが、安倍晋三首相以下、閣僚の論理破綻はすでに明らかである。日本人の生命とは無関係に、ともかく自衛隊に海外で武力行使をさせたいということこそ、安全保障法制の真の目的である。安倍首相のこのこだわりは、合理的な説明を超えている。 彼の心理を説明する際、私は詩人石原吉郎の次のエッセーを援用している。石原はシベリア抑留の経験を振り返り、こう書いている。 「作業現場への行き帰り、囚人は必ず五列に隊伍(たいご)を組まされ、その前後と左右を自動小銃を水平に構えた警備兵が行進する。(一歩でも列を外れれば逃亡とみなしてその場で射殺してよいという規則があり、実際に不運な捕虜が殺された。)中でも、実戦の経験が少ないことに強い劣等感を持っている17、8歳の少年兵に後ろに回られるくらい、囚人にとっていやなものはない。彼らはきっかけさえあれば、ほとんど犬を撃つ程度の衝動で発砲する。」(「ペシミストの勇気について」) 実戦の経験がないことに劣等感を持つ少年兵。安倍晋三を評するに、これ以上の言葉はないと思う。戦後日本は、実戦を放棄してきた。それは卑怯(ひきょう)な逃避ではなく、国民としての決意だった。劣等感を持つのは安倍首相の勝手だが、国民を道連れにするなと言いたい。(法政大教授)2015年5月31日 東京新聞朝刊 12版 27ページ「本音のコラム-劣情の政治」から引用 安保法制案について多くの国民が疑問に感じているのは、どのような場合に自衛隊を海外派遣するのかという具体的な説明がないことです。それでは話し合いにならないからと出してきた条件が「他国が攻撃されることによってわが国の存立が根底から覆される事態」などという意味不明の「条件」が出され、そのような「事態」であるのかどうか、誰が判断するのかというと、それは「政府」だというのであるから、これでは法律はあっても無いのと同じで、政府はやりたい放題ということになってしまう。安倍政権のこのようなデタラメを国民は許してはなりません。
2015年06月14日
慰安婦問題について、ソウル大学教授の朴吉吉熙氏は5月31日の東京新聞で、次のように問題点の整理をしている; 今年に入り日本の歴史解釈に関する3つの声明や公開書簡が出された。2月初めには19人の米国の歴史学者が、日本政府が慰安婦に関する教科書記述変更のために圧力をかけたことに対し、失望と憂慮を表明した。続く5月5日、187人の欧米の日本研究者と歴史学者が慰安婦問題に関する日本国内の右よりな歴史解釈に疑問を投げかけ、正確かつ正当な歴史認識を持つべきだと声を上げた。 その公開書簡にはジョン・ダワー、アンドリュー・ゴードン、エズラ・ボーゲルなど、世界的に著名な日本専門家が多く名を連ねた。最終的には450人を超える日本研究家がこの公開書簡に支持を表明したと報じられている。さらに25日には、歴史学研究会など16の日本国内の歴史学関係団体が慰安婦の強制連行に根拠がないという主張は不当な見解であるという厳しい見方を示した。 日本と欧米の歴史学者による立場表明であるという点でこれらは政治的な非難声明ではない。また名を連ねる日本専門家が必ずしも進歩的研究者ではないことにも説得力がある。韓国や中国ではなく、米国を中心とする歴史学者たちからの発信には傾聴せざるを得まい。3つの声明の共通項が慰安婦問題であったこと、そして日本国内の一部の右よりな慰安婦問題の認識に対し、批判的な立場を表明したことに注目すべきである。 3つの声明を見ると、以下の3点が際立っている。第一に慰安婦の募集と組織的管理に関し、軍の関与を裏付ける多くの資料と証言が歴史研究者によって、すでに発掘されたという主張である。慰安婦動員の際の強要や物理的な力の行使がなかったとしても彼女らは総じて本人の意思に反して連行されたと言明している。これは河野談話の基本精神につながる視点である。 第二に、人道に対する罪においては、被害者の数が問題の本質ではないという点である。被害者の数と無関係に非人道的行為であったとの立場から、慰安婦の総数に誤りがあるという主張を批判している。南京における30万人の中国人虐殺に関し、実際はその十分の一程度だったであろうという右派の主張と同じく、数の大小によって歴史的事実が変わるわけではない。 第三に、慰安婦が経験した苦労は事実上性奴隷と呼ぶに等しい筆舌に尽くしがたい暴力であったという点である。これは慰安婦が金銭を得る目的で自発的に売春行為をしたという見方に真っ向から反論している。性売買契約が結ばれていたとしても、それは不平等のもとの不公正なものであり、構造的な強制が存在したとの解釈である。 要するに、部分的事実と信条によってのみ偏った議論を展開するのではなく、慰安婦問題の全体像を把握し、公正な議論をすべきだという知的忠告である。これは歴史学者としての彼らの正当な主張であろう。またこれらの研究者による声明は、慰安婦問題が戦後日本の誇りに傷をつける結果を招かないよう配慮すべきであると提言している。これは日本に対する愛着があってこその行為と思われる。今後期待される日本の国際的役割の拡大に慰安婦問題が弊害とならないためにも、安倍内閣はこの問題の迅速な解決を目指すべきではないか。(ソウル大学国際大学院教授)2015年5月31日 東京新聞朝刊 12版 4ページ「時代を読む-慰安婦問題の認識 転換を」から引用 この論文は被害者がカミングアウトしてから今日までのいきさつを踏まえて、よく問題点が整理されている。慰安婦を集めるに当たって暴力的な強制連行があったかどうかという点は本質的な問題ではないこと、正確な被害者数が確定されていないからといって、それが問題を軽視する理由にはなりがたいこと、一部に自発的に慰安婦になった者がいたとしても「性奴隷」という問題の本質は変わらないことなど、私たちは慰安婦問題について認識を改める必要があります。特に安倍首相を筆頭とする一部の右よりの人たちは、部分的事実を針小棒大に強調して、あたかもそのような史実は無かったかのように話を誘導しようとするのは真実を歪めるもので、かえって国際社会に恥を晒す結果にしかならないことを自覚するべきです。
2015年06月13日
傍若無人な言説で人気取りをした石原都知事の専横で始まった東京都が経営する銀行が、結局都民の血税約1千億円をドブに捨てる結果となって、都庁が銀行経営から撤退することになったと5月27日の東京新聞が報道している; 東京都の石原慎太郎元知事が主導し、都が多額の出資をして設立した新銀行東京が、東京都民銀行と八千代銀行による地方銀行グループ「東京TYフィナンシャルグループ(FG)」と経営統合する方向で交渉が進んでいることが、関係者への取材で分かった。 都は新銀行東京の株式の84%を保有し、議決権を持つ。経営統合は、新銀行東京が東京TYFGの傘下に入る方向で調整されているとみられる。実現すれば、新銀行東京に対する都の影響力は大幅に小さくなり、都は事実上、銀行経営から撤退する。 新銀行東京は、石原元知事が中小企業への支援対策として設立を主導し、都が1000億円を出資して2005年4月に開業した。無担保無保証を看板に融資を伸ばしたが、ずさんな審査に基づく融資があったとされ、不良債権が膨らみ、08年3月期決算での累積赤字は1000億円を超えた。 信用リスクを機械的に判別する審査に依存した安易な融資を見直した結果、10年3月期から純利益は6年連続の黒字となり、順調に再建を進めていた。 <東京TYフィナンシャルグループ> 首都圏を地盤とする地方銀行の東京都民銀行と第2地方銀行の八千代銀行が経営統合し、2014年10月に設立した持ち株会社。東京都民は77店舗で東京都の東部に、八千代は84店舗で神奈川県北部や東京都西部に営業基盤がある。15年3月期連結決算の純利益は572億円。15年3月末時点の預金残高は東京都民が2兆3797億円、八千代は2兆1227億円。2015年5月27日 東京新聞Web「『都民・八千代銀』傘下入り 新銀行東京が交渉」から引用 大手銀行からの融資が難しい中小企業に対して行政が資金的な支援をするなどと、いかにも人気取りの「思いつき」政策であったが、やはり銀行業務よりはもっと行政らしい政策で中小企業支援をするべきであったのであり、何しろ威勢のいい口調でまくし立てられると、誰もそれにまともに反論しようとせず、取り巻きがみんな付和雷同し、まるでファシスト政権のような有様であった。が、やはりダメなものはダメで、今回は1千億円をドブに捨てた責任を曖昧にするために、負債をつけたまま民間銀行に引き取らせることになったものである。一時的に変な政治家がでてきて非常識な政治を行なっても、社会に復元力があれば変な政策はこのようにして淘汰されて社会は元に戻ることができる。安倍政権がやっている憲法違反の数々も、我々の社会に復元力があれば次の政権で、憲法違反の法律は次々と廃止させることになる。
2015年06月12日
慰安婦問題解決のための日韓両国政府の努力がどこまで進んでいるか、4月24日の朝日新聞は次のように報道している; 日韓の元慰安婦支援団体が23日、国会内でシンポジウムを開き、慰安婦問題をめぐる(1)事実認定(2)公式謝罪(3)賠償の3点を軸とする提言を改めて確認した。韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会(挺対協)の尹美香(ユンミヒャン)・常任代表は提言について「まさに私たちが求める解決」と述べた。 提言は、8カ国・地域の元慰安婦支援団体が昨年6月、東京で開いた「日本軍『慰安婦』問題アジア連帯会議」でまとめられ、内閣府に提出された。日韓両国政府は今年に入って局長級協議を重ね、慰安婦問題解決の具体案を模索してきた。韓国世論に強い影響力を持つ挺対協が提言を改めて確認したことで、今後の日韓協議に影響を及ぼす可能性もある。 提言は、1993年の河野洋平官房長官談話(河野談話)を継承・発展させ、旧日本軍が軍の施設として慰安所を設置・管理したことなどを認めるよう日本政府に求めている。そのうえで公式謝罪と、謝罪の証しとして賠償を求めている。 シンポには、元慰安婦への「償い事業」を手がけた「女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)」元専務理事の和田春樹・東京大名誉教授も参加した。「今回の提言は解決案に近い。安倍晋三首相は朴槿恵(パククネ)大統領と会う機会に、慰安婦問題の解決を呼びかけてほしい」と述べた。(編集委員・北野隆一)2015年4月24日 朝日新聞朝刊 14版 33ページ「慰安婦問題、提言を確認 日韓の団体シンポ」から引用 日韓両国政府の間では、河野談話を基調に解決を目指す合意ができているが、その一方で河野談話発表の後、防衛省戦史研究所では日本軍が慰安所の運営に当たって、仔細な運営規則を定めた等、明らかに日本軍が慰安所の運営に関与したことを示す公文書が発見されているのであるが、未だ日本政府は公式に「日本軍が慰安所を運営した」ことを認めていない。この日本政府の矛盾した態度は遠からず改められるべきであり、それによって慰安婦問題はスムーズに解決の方向に向かうはずである。
2015年06月11日
まるで「侵略戦争なんて、やっていない」とでも言いたがるかのような自民党の政治家の歴史に対する態度について、東京大学教授の高橋哲哉氏は、4月24日の朝日新聞で次のように語っている;■証拠重ねた歴史、政治家は尊重を 高橋哲哉・東大院教授 文書資料や証言を中心に記述され、語られてきた歴史が、時の推移を経て見直されることは当然ある。歴史記述や歴史観の修正自体は、学問的にも正当なことだ。 しかし、現在の歴史修正主義が否定的に語られるのは、証拠を積み上げ確立してきた歴史を、根拠が薄弱なまま疑わしいと主張するからだ。論理的な飛躍を犯しながら、自分たちが否定したい事柄は「捏造(ねつぞう)だ」と言い、修正を図る。 日本は敗戦後、アメリカの庇護(ひご)の下で経済成長にいそしみ、真に過去と向き合ってきたとは言いがたい。帝国主義時代の精神性やものの見方が清算されずに、残っているとも言える。その中で、1990年代後半から歴史を見直す動きが激しくなった。戦争の被害者自らが、日本による侵略と植民地支配の責任を問う声を上げると、それに反発する形で歴史修正主義的な言説が広がった。 だからこそ、政治家の歴史に対する姿勢が問われる。民主主義や平和を追求するなら、人々の権利を侵害した歴史を直視し批判的な認識を持つことが必要だ。政治家は歴史家による事実の探求の成果を尊重した上で、自己の判断と認識を磨き続けなければならない。(聞き手・藤原慎一) * たかはし・てつや 1956年、福島県生まれ。哲学者。東大大学院総合文化研究科教授。著書に「犠牲のシステム 福島・沖縄」「靖国問題」など。2015年4月24日 朝日新聞朝刊 14版 4ページ「証拠重ねた歴史、政治家は尊重を」から引用 昔の自民党であれば、安倍政権のような横暴を許さないリベラルな力がしっかり作用していたのですが、近頃のレベルの低下と質の劣化は目を覆うばかりです。南京大虐殺については、これはもはや否定しがたい史実となっていますが、それでも被害者数が確定されていない点を弱点であるかのごとく「攻撃」して、挙句「だから南京大虐殺は虚構だ」とする言説が、戦後何回も出てきては否定されています。慰安婦問題も同様で、本人の意思に反して慰安婦になることを強制された「性奴隷」の慰安所の運営に軍が関与していたことが問題の本質であるのに、慰安婦の集め方が「暴力的な強制連行」であったかどうか、そのような集め方を指示した公文書が存在するのかという、女性の被害とは本質的に関係ない部分に論点をずらして、問題を誤魔化そうとする姿は、経済大国と言われる国の政治家にしてはあまりにみすぼらしい愚かな姿と言うほかありません。かくなる上は、高橋教授の助言に素直に耳を傾け、堂々と歴史を直視できる度量を身につけてほしいものでございます。
2015年06月10日
わが国の原発政策には、何が欠けているのか。東京大学教授の藤垣裕子氏は、4月23日の朝日新聞で次のように語っている;■議論に市民交える仕組み必要 藤垣裕子さん(東京大学教授) 原発の再稼働差し止めを求めた仮処分の申し立てについて、二つの地裁が異なる判断を示しました。なぜ異なるのか、議論すべきですし、とりわけ高浜原発(福井県高浜町)の再稼働を認めなかった福井地裁の決定については、社会に対する問題提起として受け止めるべきだと思います。 同じ裁判長が昨年5月、大飯原発(同県おおい町)をめぐる訴訟でも住民側勝訴の判決を言い渡しましたが、その中で、人々が生命をまもり生活を維持するための人格権を前面に出し、経済活動としての原発の稼働はそれより劣位にあるとしました。また、東京電力福島第一原発の事故後に、そうした重大事故の具体的な危険性が万が一でもあるかという判断を避けることは、裁判所に課せられた最も重要な責務を放棄するに等しい、とも言っています。 高浜原発の決定も具体的な危険性を認め、いずれも、相当の覚悟を持って書かれた画期的な判断だと思います。反原発か推進かといったレッテルを貼って矮小(わいしょう)化するのではなく、議論をするきっかけにすべきです。 *<三つの問題提起> 提起された問題の第一は、私たちが求める豊かさとは何か、です。たとえ原発が動かないために燃料代が増えて貿易赤字が出ても、人々が安心して暮らせることに重きを置くのか、つまり、人格権は電力など経済より上だと考えるのかどうか。 第二は、原発ガバナンスのあり方です。原子力規制委員会が再稼働の前提となる新規制基準をつくりましたが、専門家による閉じられた空間で決まり、社会の声は反映されていません。専門家と市民では、安全の考え方にギャップがあるのに、埋めようとする努力がなされていません。 第三は政策決定のあり方です。民主党政権が2012年に、将来のエネルギーに関して行った討論型世論調査などは世界的に注目され、「日本ではエネルギー政策に国民を交えた議論をやっている」「原発事故は日本の公共政策をこんなにも変えたのか」と国際会議などでもよくいわれました。原発事故後の日本がどう変わるのか、世界で注目されているわけです。 討論型世論調査のようなやり方を規制基準づくりにも導入するなど、市民参加のあり方についても世界の範となるようなことをしてほしい。あれだけの事故を経て結局何も変わっていない、となったら、大変恥ずかしいですし、日本という国への評価も下がってくるのでは、と心配です。 *<監視の目を重視> 米国の科学技術史家は原発事故後、日本の原子力技術者は米国の技術者が直面してきた「世間一般による監視の目」からあまりにも切り離されていたことに驚いた、と書きました。 原発のように、不確実性がからむ科学技術の問題は、専門家だけの判断に任せるわけにはいきません。欧米ではこの監視の目が重視され、たとえばどこにダムをつくるか、といった問題でも市民を交えた議論が不可欠です。意見の違う専門家、そして、一般市民の意見をいかに取り込むかがきわめて重要なのです。 「世界一厳しい基準」というだけでなく、なぜこの数字なのか、説明することが不可欠です。このプロセスが依然として踏まれていないことが不信感を生んでいます。本来、こうした議論をし、監視の目となる場は、国会であり、メディアや社会運動などの公共空間です。高浜原発や大飯原発については、裁判所がいわば監視の目としての役割を果たしたことになります。公共空間での議論が十分でないために、司法がその役割を負わされた、ということでしょう。しかし、裁判所だけがそういう場ではないはずです。 どんなエネルギーを選び取るのか、市民が議論して決定に参加するシステムをつくるという課題が社会に突きつけられています。 (聞き手・辻篤子) * ふじがきゆうこ 62年生まれ。専門は科学技術社会論。東京大学助手、科学技術政策研究所主任研究官、同大准教授を経て10年から現職。著書に「専門知と公共性」など。2015年4月23日 朝日新聞朝刊 12版 17ページ「(耕論)原発政策、欠けた視点」から一部を引用 この記事は高浜原発の再稼働を禁じた福井地裁の仮処分決定について、その意義をわかりやすく説明していると思います。住民の生活を破壊する危険を侵してでも経済活動をする自由というのは、住民が命を守り生活をする権利よりも劣位にあるというのは、基本的人権を尊重するわが国憲法の精神というものでしょう。その他にも、日本の原子力技術者は米国に比べて世間の目から遠ざけられていたと言う点も、今後は改善されるべきです。それにしても、何かにつけて評判の悪い民主党政権も、原発事故の直後の姿勢は国際的にも高く評価されていたわけで、こういう優秀な面があったにもかかわらず、どうにもならないヤンキー政権に変えてしまったのは残念なことでした。
2015年06月09日
真の安全保障は軍隊によるものだという投書が、4月8日の朝日新聞に掲載された;◆(声)軍隊による真の安全保障を 憲法を改正し、自衛隊を軍隊に変えようとの意見が出されている。自民党も、「国防軍」の創設を含む憲法改正草案をつくった。自衛隊は原則として、敵国が攻撃を開始するまで出動できないなど、外国の軍隊に比べ、制約が多すぎる。自衛隊を軍隊として認知することは妥当ではないだろうか。 中国から、日本が軍拡を進めているといった恣意(しい)的な批判を受けることがある。だが、中国こそ東シナ海や南シナ海へ海洋進出し、挑発行為を繰り返す。領土問題をみても、日本が毅然(きぜん)とした対処能力を保持することは必要だと思う。 日本は戦後70年、戦争をしかけたことはない。9条の改正に反対する人は、自国の平和主義に自信を持てないのではないだろうか。 軍隊は、人体の免疫機構のようなものと考えれば、改憲も受け入れられやすいと思う。免疫力がなければ、人は有害な細菌などに侵され、生きてゆけない。国も防衛体制に不備があれば、危険な状態に陥りかねない。また、自衛隊の海外への派遣も増えている。時代に即して憲法を変え、軍隊による真の安全保障を考えるべき時ではないか。2015年4月8日 朝日新聞デジタル 「声-軍隊による真の安全保障を」から引用 この投書を書いた人は、おそらくわが国の近代史を真剣に勉強したことのない人に違いありません。議論の最初に先ず敵国が存在するという前提になっているところからして、まともな常識を持った人物とは言えません。自衛隊は原則として、敵国が攻撃を開始するまで出動できないのは当然のことで、そのような「専守防衛」をモットーにした組織でなければ、いずれは戦前のような殺人者組織に成り下がってしまうことは明らかですから、これを憲法を変えてまで通常の軍隊にする必要なないと言えます。真の安全保障は軍隊によるというのでは、わが国の戦後70年はニセモノの安全保障だったということになり、先人の努力を侮辱する発想です。戦後の70年間の日本政府は、国際紛争の解決にあたって武力及び武力による威嚇などを行使せずにやってきたことは高く評価されるべきであり、実際に国際社会ではそのように評価されていることに私たちは自信と誇りを持つべきでしょう。軍隊が人体の免疫機構だなどと言ったのでは、比喩に使われた医学用語のまったく見当違いな使い方に医学者は怒り出すと思います。軍隊は平和国家を蝕むがん細胞のようなもので、憲法9条の改変を認めてはなりません。 この投書に対して、4月23日の同紙には次のような反論が掲載されています;(声)非軍事こそが平和をもたらす 「軍隊による真の安全保障を」(8日)を読んだが、私は次のように考える。 日本人の多くは、自国だけでなくアジア・太平洋に未曽有の悲惨さをもたらした先の大戦で、戦争に懲りた。その心で平和憲法を受け入れたはずだ。9条こそが、日本は戦後70年にわたって戦争をしかけたことはないという実績をもたらした。 ところが平和主義に自信を持てない人たちが、日米同盟の名の下に自衛隊の増強を進めようとしている。自衛隊の海外派遣に対する国民の「免疫力」を高め、集団的自衛権の行使も容認し、法整備の段階に至っている。 投稿者は、改憲して自衛隊を軍隊として認知することを妥当とする。中国に対して毅然(きぜん)とした対処能力を保持するのは必要だという。しかし、これでは互いに軍備を増強していくことにつながらないか。戦争になる危険が増し、かえって安全保障を害することになると思う。 真の安全保障は軍隊を持たず、敵をつくらず、どの国とも友好的な信頼関係を築くことだ。懸案は外交的解決に徹し、国際平和貢献も非軍事に徹することだ。2015年4月23日 朝日新聞朝刊 12版 16ページ「声-非軍事こそが平和をもたらす」から引用 この投書は正論を述べている。中国が軍拡をやっているから日本も、というのでは戦争を始める危険性が高まるのだから、それは安全を保障することにはならない。中国はつい数十年前までは貧乏でまともな軍備をもてなかった、その反動で今は得意になって軍備に金をつぎ込んでいるようであるが、やがてはそんな軍備が何の役にも立たないことに気が付くときが来ます。アメリカを見ていればわかることで、世界最強の軍隊をもってしてもイラク一国をコントロールすることも出来ず、かえって混乱と悲劇を招いている。こんな迷惑な組織を、憲法を改正してまで作る必要はないでしょう。わが国はこれまでの路線を継承して、非軍事の国際平和に貢献する国家であるべきです。
2015年06月08日
4月16日の朝日新聞デジタル(WEBRONZA)に掲載された東京大学・須藤教授の「国旗掲揚・国歌斉唱と愛国心」について、4月21日の朝日新聞が次のように紹介している; 国立大学の入学式、卒業式で国旗掲揚と国歌斉唱を行うのは当然だという趣旨の質疑応答が国会であった。東京大学教授の須藤靖氏は「国旗掲揚・国歌斉唱と愛国心」(16日)で、「異論を許さず強要する姿勢こそが、真剣に憂慮すべき問題」だと論じた。 国会でも言及された教育基本法から、教育の目的や大学に関する条文を紹介したうえで、「教育とは、ある特定の国の国益とは無関係に、より広く人類社会そのものを支えていくために不可欠でもっとも重要な営みであることが明記されている」との見方を示す。 そのうえで、「教育基本法に謳(うた)われた教育の目的が達成された結果として、我々はそのような環境を提供してくれた国を愛するようになる。国を愛する人間をつくるための教育ではない」と指摘する。 職業柄、多くの国を訪れ、多数の外国共同研究者と公私ともに親しくしてきた経験から、「日本に生まれたことを誇りに思っている」「生まれ変わるとしてもまた日本人でありたい」からこそ、「強要は、愛国心を生むどころか、全くの逆効果になる」「強要と教養は相容(あいい)れない」と訴える。(編集長 矢田義一)2015年4月21日 朝日新聞朝刊 12版 16ページ「(WEBRONZA)『強要』で愛国心が育まれるか」から引用 もともと愛国心というものは、生まれた国で成長する間にその国の文化や伝統に触れて育まれるもので、学校やその他の公の場で誰かに強要されて身につけるものではありません。教育の目的が自国を愛する国民を育てることというのは、戦前の日本がやったことで、その結果は1945年8月15日に出されました。その後、私たちの日本はそのことを真剣に反省し、教育に国家権力が介入することの致命的な欠陥を学んだのでしたが、戦後70年に近づくにつれて、そのような反省が忘れ去られて、再び「過ちの道」へ向かっていることを、私たちは考え直さざるを得ません。
2015年06月07日
きのう引用した外村先生のインタビューの続きは、次のようになっている; ――「募集」段階では強制とは言えないという人もいます。 「初期の段階から当局は深く関わっていました。たとえば会社の募集係に同行し、日本人の警官が家の前に立つ。役人から呼び出しがかかる。それだけで多くの朝鮮人が恐れをなし、おとなしく応じたのです。断って大変な目に遭った、というような話が出回っていましたから。それが植民地というものです。その後、戦局が悪化するにつれ、暴力性は誰の目にも明らかになっていきました」 ――最後は徴用までした、と。 「そこが誤解されがちですが、『徴用』は国民徴用令に基づき、国が責任をもって配置するもので国の栄誉を担う労働者だったんです。弔慰金や別居手当など援護もついてきた。だから日本人は戦争初期から徴用されました。ところが、朝鮮人にこの制度が適用されたのは戦争末期の44年です。徴用令を適用しないまま、多くを動員したのが特徴でした」 ――なぜでしょう。 「日本人と違って、ちゃんとした権利を持つ主体ではなく、法に基づく行政命令がなくても動かせる、と見なされたからでしょう。安くても、厳しい職場でも、つべこべ言わずに働いてくれるだろうと。差別意識があったのです」 ――最近の外国人労働者問題の議論に似ていますね。 「そうなんです。人手不足が深刻な分野で、賃金アップや労働環境の改善によって日本人を定着させるのではなく、低賃金でも働いてくれそうな外国人を期間を限って連れてくる、という発想は同じです。省庁をまたいで人員確保に関わる部局が多数あり、利害や思惑の違いを抱えていて、きちんとした方針を打ち出せなかった点も似ている。結果として、なし崩し的に動員が広がっていきました」 ■ ■ ――裏側から、日本帝国のどんな姿が見えてきましたか。 「戦争に勝つための国家運営や構想、政策とはほど遠かった現実です。総力戦では、まさにその国の素の姿が現れます。英国のように労働運動が盛んな国では、労働者の意見を取り入れたほうが生産性も上がると考えた。日本では民主主義も労働運動も弱かったので『ともかく働け』となった」 「朝鮮に長く住んだ役人の中には、創氏改名に反対した人もいたんですよ。ところが、そういう声は上に届かず、現地の事情に疎い役人が無理な計画を立てた。動員数を達成するため老人や病人まで送り出し、すぐに送り返すようなことまで起きていたのです」 「民主主義を欠いた社会が、十分な準備も態勢もないまま無謀な目標に突き進めば、結局はその社会でもっとも弱い人々が犠牲になる。社会全体も人間らしさを失っていく。そういう歴史として記憶すべきだと思っています」 ――戦後70年で出す首相談話が議論になっています。 「朝鮮半島で起きた歴史を踏まえれば、村山談話にも小泉談話にもあった『植民地支配』への『おわび』は盛り込んで当たり前です。ただ、特定の言葉が入るかどうかだけが注目されることには違和感もある。村山談話には『若い世代に語り伝えて』いくとありますが、では歴代政府はその後、何をしたのか。もっと具体的な行動を積み重ね、信頼関係を築くことこそが大切なはずです」 「日本には朝鮮をルーツに持つ人も、中国をルーツに持つ人もいます。戦後は一緒に手を携えて、民主的で平和な日本を築いてきました・・・ということが言えるようになればいいのですが」 ――歴史を見る目も、外交関係に引きずられがちですね。 「その時期を生きた私たちの祖先を尊重したい、という思いは私も同じです。ただ、足尾鉱毒事件を闘った田中正造は、日韓併合で浮かれているような民族は滅びると批判していた。朝鮮の植民地官僚の家庭で育った作家の梶山季之も、日本人の責任を問う作品をいくつも残しています。植民地支配に何の矛盾も感じずに職務を遂行した人だけを、私たちが継承すべき日本人の姿だ、歴史だと言うのは、とても不自然です」 「怖いのは、学校教育の現場で、強制連行の問題は厄介だから触れずにおこう、という雰囲気が広がることです。その気配はすでに現れている。生徒にしてみれば授業では教わらず、書店に行けば嫌韓本が山積みなんです。なかった論を信じ込みはしないまでも、語られてきた歴史は少し違うのではないか、という疑いを持つ人が増えてもおかしくない」 「追悼碑の問題も、自治体は明らかに腰が引けている。地元の人々が強制連行の歴史を掘り起こした地域も少なくないんです。そんな歴史があったということを自治体トップがきちんと認め、発信する。歴史の真贋(しんがん)を見抜く力が、いま私たちに求められています」 (聞き手・萩一晶) * とのむらまさる 66年生まれ。早稲田大学社会科学研究所助手をへて07年から東京大学大学院総合文化研究科准教授、今春から教授。著書に「朝鮮人強制連行」。2015年4月17日 朝日新聞朝刊 13版 15ページ「(インタビュー)強制連行、史実から考える」から後半を引用 植民地支配下の朝鮮においては、日本企業の人事担当者が労働者募集で朝鮮人の民家を一軒一軒訪ねていくとき、警察官や役人も同行すると、日ごろから官憲の暴力的な支配を受けていた人々は断ったらどんな目に会うかと恐れて、やむを得ず応募する、こういうやり方はやはり「強制的」と表現するのが妥当です。慰安婦募集の場合にも、そのような証言は多数あります。労働者募集については、国民徴用令という法的手続きを経て朝鮮人も日本人も平等に扱われたなどと、史実を知らずに主張する人たちもいますが、それは過去に目をつむって虚しい言い訳を言ってるだけであり、独り善がりに過ぎません。正しい歴史認識が必要とされる由縁です。
2015年06月06日
歴史学者で東京大学准教授の外村大氏は、戦時中の朝鮮半島からの労働者強制連行について、4月17日の朝日新聞で、次のように語っている; 戦時中、日本に動員された朝鮮人犠牲者の追悼碑を、撤去するよう求める動きが最近、各地に広がっている。「強制的」という文字をテープで隠したり、副教材から説明を削除したりした自治体も現れた。史実に揺らぎが生じているのか。朝鮮人強制連行の歴史を追いかけて20年以上になる外村大・東京大学教授に聞いた。 ――強制連行の歴史に長くこだわってきたのは、なぜですか。 「どうせ韓国の味方でしょうとか、どうも『反日』らしいとか、色眼鏡で見られがちですが、私は日本近現代史の、実証を重んじる研究者です。戦前の日本帝国の実像は、裏側からのほうがよく見える。今後、日本がどんな社会をつくっていくかを考えるうえでも大切な歴史です。韓国・朝鮮人のためというより日本人自身のため、未来のために記憶し、伝えていくべきだと思っているのです」 ――強制連行は「なかった」と主張する人がいますが。 「とんでもない。朝鮮半島で、日本内地への暴力的な労務動員が広く存在していたことは、史料や証言からも否定しようがありません。政府は1939年から毎年、日本人も含めた労務動員計画を立て、閣議決定をした。朝鮮からの動員数も決め、日本の行政機構が役割を担った。手法は年代により『募集』『官あっせん』『徴用』と変わりましたが、すべての時期でおおむね暴力を伴う動員が見られ、約70万人の朝鮮人が主に内地に送り出されました」 「こんな当たり前の史実が近ごろ、なぜか曲解される。誤解や間違いも目立つ。歴史家の常識と、世間の一部の感覚とが、ずれてきたように感じています」 ――なぜ、こんなことに? 「特に90年代半ばからですね、史料の発掘が進み、いろんな話が出てきました。朝鮮人の待遇が日本人よりよかったとか、自ら望んで来た人がいたとか。いずれも事実の断片ではあるんですよ。じゃあ暴力的な連行や虐待は例外的だったかというと、それは違う」 「事実というものは無限にあるものです。都合のいい事実だけをつなぎあわせれば別の歴史も生まれる。でも、それは『こうあってほしい』というゆがんだ願望や妄想に近い。慰安婦問題で国が直接、連行を命じた文書が出ていないことに乗じ、強制連行までも『なかった』ことにしたい人がいるのでしょう」 ■ ■ ――事実の断片と歴史の本筋。どうすれば見分けられますか。 「何が一般的で、何が例外的な出来事だったかを見分けるには、幅広い史料にあたり、ミクロとマクロの両方から押さえる必要があります。日本の統治機関である朝鮮総督府の調べでは、太平洋戦争開戦前年の40年に朝鮮農村で『転業』を希望していた男性は24万人程度しかいなかった。朝鮮内部の動員や満州への移民もありましたから、その年だけでも底をつく人数です。翌年から人集めが大変になったのは疑いようがない」 「実際、内務省が調査のため44年に朝鮮に派遣した職員は、動員の実情について『拉致同様な状態』と文書で報告しています。厚生省から出張した職員も45年1月、村の労務係の言葉として、住民から『袋だたきにされたり刃物を突きつけられたり命がけ』だと報告している。それほど抵抗が広がっていたのに、日本帝国は無理に無理を重ね、逆に動員数を増やしていったのです」 ――そこまでして動員したのは、なぜですか。 「政府が目指していたのは、あくまでも戦争勝利でした。そのために労働力を総動員し、石炭や食料を増産しようとした。朝鮮人の多くが投入されたのも炭鉱です」 「炭鉱は重要産業なのに人手不足で困っていた。待遇が悪く、監獄部屋に象徴されるように労務管理も劣悪だったからです。本来なら機械化と意識改革を進めるべきでした。しかし業界は朝鮮農村の困窮や無知につけ込み、安い労働者を確保しようとした」 「ただ、朝鮮に行政機構は整っていませんでした。識字率が低く、ラジオはおろか電気すら通っていない村々で、日本内地に渡る労働者を集めるのは非常に困難な作業だった。とにかく若い男を呼び出し、最後はトラックに押し込むような事態になったのです」(後半は省略)2015年4月17日 朝日新聞朝刊 13版 15ページ「(インタビュー)強制連行、史実から考える」から前半を引用 戦争中は、朝鮮半島から労働者を大量に強制連行したという話はよく聞きますが、なぜそんなことをしたのか、どのような実態だったのか、この記事を読むとよく分かります。戦争が長引いて、本土の男性がほとんど前線に動員されたから労働力が不足したというのは一面的で、実際には召集されずに本土に残った日本人男性もいたのであったが、人件費を節約したい企業が安い賃金で劣悪な労働環境で働かせようとしていたから、日本人は誰もそんな仕事をやろうとせず、朝鮮半島から連れてくるほかなかった。しかも、希望して日本に来たのはごく一部で、大部分は「拉致」同然に強制連行したと、当時の公務員が記録しているのであるから、「強制連行」に疑問を差し挟む余地はありません。わが国の各地に建立された朝鮮人労働者の追悼碑を大事にし、このような悲劇を二度と繰り返さないための戒めとするべきです。
2015年06月05日
高浜原発の再稼働を即時差し止める福井地裁の仮処分決定を高く評価する投書が、4月16日の朝日新聞に掲載された; 関西電力高浜原発3、4号機(福井県高浜町)の再稼働を即時差し止める福井地裁の仮処分決定は、合理的な判断と言えよう。原発事故に恐れおののく国民の不安を、人格権への侵害と捉えた点で評価できる。 仮処分決定では「本件原発の事故によって住民らは取り返しのつかない損害を被る恐れが生じ、訴訟の結論を待つ余裕がなく、規制委の設置変更許可がなされた現時点においては、保全の必要性も認められる」としている。原発再稼働を推し進める政府の原発政策に、見直しを迫る内容だ。 安倍政権は、原発を廃止する気は毛頭ないようだ。不安を訴える多くの人々の声に耳を傾けないままに見える。仮処分決定後も、菅義偉官房長官は「独立した原子力規制委員会が、新基準に適合するか判断をしたものだ」「粛々と進めていきたい」と語った。規制委の新基準について「緩やかにすぎ、安全性は確保できない」と断じている福井地裁の決定を、何とも思っていないかのような発言だ。 今回の仮処分決定は、まさに立法、行政、司法という三権分立システムにおける司法の機能を遺憾なく発揮した。権力を縛る憲法の「高性能」を、目に見える形で証明したといえよう。2015年4月16日 朝日新聞朝刊 12版 16ページ「声-国民の不安に応えた仮処分決定」から引用 今回の福井地裁の仮処分決定に関する菅官房長官の発言は、論理をすりかえて巧みに問題を隠蔽しようとする卑怯な話法である。原子力発電の規制基準などというものは、人間の力でできる範囲内で設定されたものに過ぎず、一方で原発の事故は人間の力をはるかに超えるレベルで発生することは我々は3・11で体験したばかりである。だから、規制委員会の田中委員長も新規制基準に適合したからといって安全性が保障されたというわけではないと発言している。それでもなお、菅官房長官は「独立した原子力規制委員会が、新基準に適合するか判断をしたものだ」と発言して、官房長官自身、事故は起きないなどとは一言も言わず、しかし「新基準に適合したものだ」と、そこまで発言して、後は何も問題はないかのような表情を見せるだけ、それで原発再稼働を推し進めるというのであるから、これでは本職の詐欺も真っ青の手口である。原発は稼働すれば事故の確率はゼロではないのだから、これは稼働させてはならないものである。他の産業技術でも、事故が絶対ゼロということはないかも知れないが、それらの場合は原発のような大規模な取り返しのつかない事故ではないから、ある程度事故の可能性を低く抑えることができれば、それで良しとされるが、原発の場合は、そういうわけにはいかないということを、我々は3・11で体験して知っている。それでも稼働しようとすることは人格権への侵害である、という裁判所の判断は、高く評価されて当然である。
2015年06月04日
福井地方裁判所が関西電力高浜原発の再稼働を禁止する仮処分決定をしたことに疑問を呈する投書が、4月16日の朝日新聞に掲載された; 関西電力高浜原発3、4号機の再稼働を禁じる福井地裁の仮処分決定は疑問だ。「世界一厳しい」とされる新規制基準に基づく原子力規制委員会の審査に合格しているにもかかわらず、裁判長は新規制基準について合理性を欠くと指摘し、「緩やかにすぎ、安全性は確保されない」と断じた。はたしてこの決定に合理性はあるのだろうか。 安全性とは何なのか。混沌(こんとん)とした現代社会において、何が安全なのだろうかと考える。風水害や津波、地震、火山の噴火などの天災は起こりうるものだ。そんな不測の事態に対処するのが、危機管理体制ではないだろうか。 関電に予期せぬ事故の発生に対応する能力が要求されているのは当然だ。しかし、どんな天災が起きるのか分からないとの不安感から、「絶対的な安全対策」を求めるのは、非現実的でけっして科学的でもないだろう。 安全審査に合格したという事実とそれに基づく行政の判断を覆すには、科学的で合理的な根拠を地裁は示さなければならない。そうでなければ、司法の「傲岸(ごうがん)」とのそしりさえ免れないのではないだろうか。2015年4月16日 朝日新聞朝刊 12版 16ページ「声-仮処分、合理的な根拠を欠く」から引用 この投書は高浜原発の再稼働を禁止した仮処分決定に合理性があるだろうか、と言ってるが、合理性が疑われるのはこの投書そのものだと思います。多分、この投書の主は福井地裁が出した仮処分決定の内容を読まずに、世界一厳しい新基準をクリアしているのだから危険なわけはないだろう、という推論に基づいている。しかし、福井地裁では今回の決定を出すにあたって、新規制基準を仔細に検討し、具体的な問題点を指摘して、これでは十分な安全が確保されているとは言い難いとの結論に達したのであるから、疑念があるというのであれば、実際に福井地裁が出した決定書の、どの部分がおかしいのか具体的に指摘するべきである。ちなみに、規制委員会の田中委員長自身、委員会は当該原発が新基準に適合しているかどうかを判定するのみであって、安全を保障するものではないと明言しているし、「世界一厳しい」とされる新規制基準も、文学的表現として「世界一厳しい」だけであって、専門家の間では、完璧な安全性を目指すにはまだまだ甘いという批判があるのだから、福井地裁の判断は極めて現実的で妥当な判断であると言えます。
2015年06月03日
学校や大学に国旗・国歌を強制するのは間違いであると主張する投書が、4月15日の朝日新聞に掲載された; 日本の義務教育は、検定の名の下、教科書に「政府見解に基づいた記述」を書くことが求められ、道徳も教科化されて、子どもの心の内面が評価対象になる。 教育の「調教化」ではないかと懸念していたところ、今度は国立大学に国旗掲揚や国歌斉唱を要請するという。安倍晋三首相は、その根拠として「税金でまかなわれている」からというが、勘違いしていないか。税金は政府のものではなく、市民、国民のものだ。 さらに、「金を出すから口も出す」という考えも間違っている。教育には金を出しても口を出してはならない。それが「学問・教育の自由」であり、政府に都合のよい「調教」が間違っていることは歴史が証明している。 「日の丸・君が代」を多数決で国旗・国歌と法制化したことは認める。だが、それを掲揚・斉唱するか否かは価値観や心の問題であり、強制・要請すべきではない。 それを認めれば、戦前の国家神道や教育勅語のもと、国のために命さえ捧げるべきだという価値観に国中が染まっていった道を再びたどり、その価値観に従わない者はまた「非国民」と差別される時代を招くことになりかねない。2015年4月15日 朝日新聞朝刊 12版 16ページ「声-国旗・国歌の強制、間違っている」から引用 この投書は論旨が明快である。国立大学が税金で賄われているといっても、その税金は自民党のものではなく、国民のものだ。国民といえば自民党支持者もいるかも知れないが共産党支持者もいるし、どの政党も支持しないという人々もいるのであるから、自民党政府の意向を大学に押し付けるというのは、国民の一部の考えを押し付けるもので、これは民主主義社会にあるまじき話であり、間違った考えである。そもそも学問研究は、世の中の真理の探究が目的であり、国の利益に貢献するためにやるものではない。また、教育も、戦前であれば国を守る兵隊を育成するのが目的であったが、そのような間違った「常識」は、戦後改められて、今では世界のどこへ行っても自立した一人の人間として立派にやっていける人間を育てる、これが教育の目的である。したがって、世界中から人が集まるようなときには、日本のマークはこれだよ、という識別のためには日の丸を使うとしても、学校の卒業式や入学式にいちいち飾って拝むような馬鹿げた風習は、やめたほうがいい。
2015年06月02日
税金で賄われている国立大学では国旗掲揚と国歌斉唱が正しく実施されるべきだという過日の安倍首相の答弁を支持する投書が、4月15日の朝日新聞に掲載された; 国立大学の入学式や卒業式での国旗掲揚や国歌斉唱について、安倍晋三首相が「正しく実施されるべきだ」と述べ、文部科学省が各大学に要請するそうだ。私は国粋主義者ではないが、要請は当然と思う。 憲法の保障する「学問の自由」を実現する大原則が「大学の自治」で、このような要請はその大学自治を脅かすと憲法学者は述べていた。しかし、「学問の自由」「大学の自治」とは別問題だと私は考える。 教育は、国家の中で意図的、計画的に行うべきものだ。国の指針はあってしかるべきではないか。 小中高校の入学式や卒業式でも、国歌斉唱に加わらない教師がいるという。戦後、日本は民主国家として自由を尊んできたが、自由をはき違えていないか。「自由の国」米国でスポーツの試合前、国民が堂々と国歌を斉唱している光景を見るにつけ情けなく思う。 国旗や国歌は戦前の軍国主義を想起させるという人がいる。間もなく終戦から70年。そんな心配は、もはや無用ではないだろうか。いまは国旗を堂々と仰ぎ、国歌を朗々と歌える時代であると思う。2015年4月15日 朝日新聞朝刊 12版 16ページ「声-堂々と国歌歌い国旗仰ぎたい」から引用 この投書は誤謬と欺瞞に満ちている。堂々と国歌を歌いたいというのは、個人の勝手であって、好きなときに好きな場所で好きなように歌えばいいのであり、「これは国歌だから、あたなも歌うべきだ」という強要は、民主主義の社会にあっては「ご法度」というものです。 国立大学の財政は政府の方針でいかようにもなり得るので、学問の自由を保障するためには、政府は財政権限をちらつかせて圧力を加えるかのような言動は差し控える、これが戦後歴代内閣の姿勢でしたが、下品なヤンキーもどきの政権が出てきて、歴代政権が守ってきた矜持を無視する言動に出ると、調子に乗った品の無い投書も出てくるというのは残念なことです。 この投書は「教育は、国家の中で意図的、計画的に行うべきものだ」と述べて、人間の教育を動物の調教と同じだと思っている、こういうレベルでは話になりません。教育基本法というものを学習する必要があるでしょう。 「自由の国」アメリカではスポーツの試合の前に国民が堂々と国歌を斉唱している、などと書いて、まるで国歌斉唱の点で日本はアメリカに劣るかのような言い回しですが、これは事実を誤認しており、日本でもプロ野球の試合前や大相撲の千秋楽では国民が堂々と君が代を歌っているのですから、この点、アメリカには負けてはいません。 また、軍国主義を想起させる問題について、70年もたったのだからもういいじゃないか、という主旨のようですが、70年たってもまだ問題解決されずに「被害者」のままの人たちが国の内外に大勢生存していることを知らない、というのでは社会人としても如何なものかと思います。 朝日新聞に、このような愚劣な投書が掲載されるようになったのには理由があります。それは、新聞界全体の低迷で、今後人口の減少にともなって新聞の発行部数も当然減少するわけで、新聞各社が部数維持にしのぎを削っており、朝日新聞も従来のようにリベラルの立場を鮮明にして部数を増やす戦略から、右寄りの読者層の抱え込みの戦略に転換する必要に迫られており、今後はリベラルな記事だけではなく右寄りの読者も満足させる紙面構成になるものと思われます。
2015年06月01日
全30件 (30件中 1-30件目)
1
![]()
![]()
![]()