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18日に開催されたある市民団体主催の講演会について、23日の「週刊金曜日」は次のように報道している;『君が代』強制の歴史と現状に関し、学習会や教育行政への要請等を行なっている「学校への君が代斉唱・日の丸掲揚の強制を憂慮する会」は1月18日、東京都内で藤田昌士(ふじたしょうじ)・日本教育方法学会理事(立教大元教授)の講演会を開催した。 藤田さんはまず、戦前戦中(1937年当時)「アマテラスらの神々が高天原(たかまがはら)という雲の上にいた」と教え込まれた尋常小学校五年生の児童が、「この前、『雲は水蒸気でできている』と教わった。水蒸気なら、スサノオがはいでアマテラスの機屋(はたや)に投げ込んだ牛馬の皮は下に落っこちてしまう」と、発言しただけで、教師はその児童を立たせ、「不敬罪だ」とお説教したなど、忠君愛国教育の非科学性を紹介。 その反省の上に「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って」と、教育への党派的な不当な支配の介入を禁じた1947年教育基本法第10条の意義を強調した。 また、47年教基法の立案を担った田中二郎・文部省審議室参事ら監修の『教育基本法の解説』が、教育の目的の「平和的な国家及び社会の形成者の育成」を「国際社会を含むもの」と明言していることから、アジア諸国等「外からの眼差し」に対し、どう行動するかが大切、と提起した。 続けて、96年に同氏が留学したカナダのオンタリオ州の公立学校では朝礼か終礼で国歌斉唱を行なってはいるが、教育委員会規則は「児童・生徒の判断で歌わないとか参加しないとかの自由」を認める(18歳未満は保護者の申し出)良心条項を設けており、同州教委の話から教師にも保障していると推察される、と説明。 「『君が代』を強制している学習指導要領や都教委通達は最低限、良心条項を明記することが義務。盛らないのは反人権だ」と批判した上で、「良心や信教の自由からの不同意を周りの人に理解してもらうには、歴史認識の問題と切り離さず説得することが必要」と締めくくった。 (永野厚男・教育ライター)2009年1月23日 「週刊金曜日」735号 6ページ「金曜アンテナ-『君が代』実施に良心条項明示は最低限の義務」から引用 日の丸・君が代の強制が何故いけないか、理解できずにいる当ブログ常連コメンテーター諸君には、参考になるニュースではないかと思う。それから、この記事には図らずも「教育の目的」についての言及もあり、「平和的な国家及び社会の形成者の育成」と表現している。学力テストの点数を競うのが目的なのではない、ということを学んでほしいものである。
2009年01月31日
「君が代」不起立を理由に再雇用を拒否するのは違法であるとする判決を、20日の東京新聞は次のように報道している; 卒業式での君が代斉唱の際、校長の職務命令に反して起立しなかったことを理由に定年退職後の再雇用を認めなかったのは違法だとして、元都立高校教諭申谷(さるや)雄二さん(62)が、都に再雇用や約480万円の損害賠償などを求めた訴訟の判決で、東京地裁は19日、「職務命令違反をあまりに強調しており、裁量権を逸脱している」として都に約210万円の支払いを命じた。 渡辺弘裁判長は「原告は戒告処分を受けた後の定年退職まで、教育現場を混乱させたくないという理由から職務命令に従い毎年起立してきた」と指摘。「事情を一切顧みず、起立しなかったことを過大視した判断は、合理性を著しく欠き、再雇用への期待を大きく損なった」と判断した。 一方で、起立を求める校長の職務命令については「教職員への特定の思想の強制や禁止には当たらず、思想・信条の自由を保障した憲法を侵害するとはいえない」とした。 申谷さんは再雇用しなかった処分の取り消しも求めたが、判決は訴えを退けた。申谷さんは判決を不服として控訴する方針。 東京地裁は昨年2月にも、再雇用拒否をめぐる同様の訴訟の判決で、裁量の逸脱を認め、再雇用を拒否された元職員らへの賠償を都に命じている。 判決によると、申谷さんは2004年3月、都立高の定時制の卒業式で、君が代斉唱時に起立せず、戒告処分を受けた。06年10月、退職後の再雇用・再任用を申請したが、07年1月に不合格とされた。 判決後に会見した申谷さんは「一部主張が認められた部分は喜んでいるが、再び教壇に立つのが裁判の目的。今後も努力していきたい」と語った。 園田喜雄・東京都教育庁選考課長の話 主張が一部認められなかったことは、大変遺憾。判決内容を詳細に確認して、今後の対応を検討していく。2009年1月20日 東京新聞朝刊 11版S 1ページ「『君が代』不起立の元教員-再雇用拒否は違法」から引用 この記事によると、判決は都教委が、起立しなかった元教員がどのような事情で起立しなかったのかを一切顧みなかったと指摘している。結局、都教委は「一度でも『お上』に楯突いた者は、こういう目に会うのだぞ」と、他の教職員や一般人を恫喝するのが目的だったのであり、特定の思想・心情を押し付けるものであることは明白である。このような行為が法治国家において許されてよいはずがない。
2009年01月30日
君が代斉唱のときに起立しなかったことを理由に退職後の再雇用を拒否した都教委を敗訴とする判決が出たことを、20日の読売新聞は次のように報道している; 東京都立高校の卒業式で、国歌斉唱の際に起立しなかったため、定年後の再雇用選考で不合格にされたのは違法だとして、元都立高教員・申谷(さるや)雄二さん(62)(さいたま市)が都を相手取り、不合格処分の取り消しと損害賠償を求めた訴訟の判決が19日、東京地裁であった。渡辺弘裁判長は「起立しなかったのは1回だけで、都教委の判断は、裁量権の乱用にあたる」と述べ、都に211万円の支払いを命じた。処分取り消し請求は却下した。 判決によると、都教委は2003年10月、卒業式などで国旗に向かって起立し、国歌斉喝することを義務づけ、従わない教職員は服務上の責任を負うとする通達を出した。申谷さんは04年3月、勤務先の都立高の卒業式で起立せず、都教委から戒告処分を受け、06年10月、定年前に再雇用申請したが、不合格になった。 判決は、起立命令自体は思想・良心の自由を保障した憲法に違反しないと判断したが、通達前は不起立を理由に再雇用されなかったケースがなかったことなどから、不合格は不当と認定。再雇用された場合に、申谷さんが得られる1年分の報酬を賠償額と算定した。 判決後、申谷さんは「都教委の違法性が認められたのは良かったが、自分が求めているのは再び教壇に立つこと」と話し、控訴する意向を示した。2009年1月20日 読売新聞朝刊 13版 33ページ「国歌不起立で教員再雇用せず-都に211万円賠償命令」から引用 君が代斉唱時に起立しなかったことくらいで、人の働く権利を認めないとする都教委の態度は裁量権の乱用と言われても仕方が無い。社会通念からも妥当な判決といえる。しかし、起立命令自体が思想・良心の自由を保障した憲法に違反するかしないか、という点についてはもっと深く検討する必要があったのではないだろうか。
2009年01月29日
淡路島で弥生時代の鉄器を製造した工房跡が発見されたと、22日の読売新聞が報道している; 兵庫県淡路市(淡路島)の垣内(かいと)遺跡で、鉄製の武器などを生産した弥生時代後期(1世紀中頃~3世紀初め)の鍛冶(かじ)工房跡10棟が見つかったと、市教委が22日、発表した。弥生時代最大規模の鉄器生産工房で、鉄器の製作技術や流通ルートを解明するうえで重要な手がかりとなる。 <写真1面> 遺跡は標高約200メーチルの丘陵にあり、面積は約1・8ヘクタール。2007年度からの調査で見つかった竪穴建物跡計17棟のうち、10棟が工房跡と判明した。うち直径10メートル前後に達する大型の建物跡も3棟あり、壁際に柱を立てて中央の作業空間を広く取っていた。 これらの工房跡は、中央に高温で赤く焼けた炉跡があり、周囲からは鏃(やじり)などの鉄器とその未完成品や鉄片計75点のほか、砥石(といし)や台石、石づちなどの製作道具がまとまって出土した。また、中国か朝鮮半島から持ち込まれ、鉄器の材料として使われた可能性がある大型鉄板(縦約5センチ、横的20センチ、厚さ約3センチ)も見つかった。 鉄器生産は弥生時代中期(約2000年前)に、朝鮮半島から九州北部を経て、日本海、瀬戸内海沿いなど複数ルートで東へ伝わったとされるが、実態はよくわかっていない。 村上恭通・愛媛大教授(冶金考古学)は「当時の鉄器生産の状況を伝える最東端の遺跡。鉄器生産技術の波及を考えるうえで、淡路島の重要性が増した」と高く評価している。2009年1月22日 読売新聞朝刊 14版 34ページ「鉄器流通解明に道-垣内遺跡」から引用 鉄器に限らず、仏教や漢字、箸を使う食事の作法、陶磁器の製法等など、様々な文化が朝鮮半島から伝わった。
2009年01月28日
前駐日米大使のハワード・ベーカー氏は、15日の日経新聞「私の履歴書」で、米国がパナマに対し運河を返還したころのいきさつを、次のように回想している; 太平洋とカリブ海を結ぶパナマ運河は長い間、米国にとって戦略的な要衝だった。この運河について、米・パナマ両国は米側に独占的な運営権を与える「パナマ運河条約」を結んでいた。後にこの条約は米・中南米間に横たわる「不平等関係」の象徴となり、中米諸国における反米感情を生み出す源にもなっていた。 1977年8月、カーター大統領はパナマ国内での反米感情の高まりなどを睨(にら)み、パナマ運河返還を決断、新たな条約をパナマと締結する考えを発表した。それまで米国が独占していた運河運営権を1999年12月31日正午(パナマ時間)にパナマに返還するという内容だった。 大統領の新方針に対して、米世論は一斉に反発した。当時の世論調査によれば、回答者の78%が運河返還に反対で、賛成はわずかに8%だけ。当時、「重要な外交案件について熟考を求められたら、必ずそうします」とカーターに約束していた私は即座に「上院で(批准を)検討する前に世論を納得させる必要がある」と助言している。 とはいえ、それまで私はパナマ運河に無関心だった。年中行事のように共和党保守派によって提出される「パナマ返還反対決議」にも熟考することなく署名していた。だが、上院・共和党のリーダーとして、もはやそれは許されない。私は様々な意見を聞き、この問題を真剣に考えた。結果、新条約締結が南米諸国のモラル回復だけではなく、長期的には米国の安全保障にも資するとの結論に至った。 政治的なリスクが大きいパナマ返還について、当時の側近らは何度も再考を促した。「大統領選に出るつもりなら、条約賛成はやめておいた方がいい」というわけだ。私はこう反論した。「大統領選にどのような影響を与えるのかという基準をもってすべての行動を決めるなら、大統領選への出馬以前に私は大きな失敗を犯すだろう」と。 78年1月、私はカーターの了解を得て、同僚議員とともにパナマに向かった。当時、軍事クーデターを経てパナマの支配者となっていたのはトリホス将軍である。迷彩服姿で我々を出迎えたトリホスはパナマ全土をヘリコプターで案内した後、我々を会談場所となる海辺の別荘へと導いた。彼の側近の一人には後にパナマの独裁者となるノリエガ将軍もいた。 席上、「上院は新しい条約を批准するのか」と尋ねるトリホスに私は「修正条項を付帯しなければ無理だ」と指摘、その場で二つの修正条項を手渡した。そこには有事の際、運河先端に米艦船が展開できること、運河閉鎖を試みる勢力に米軍が武力をもって対抗すること、の二つが記されていた。 「つまり、あなたは新しい条約を交渉しに来た?」。長い沈黙の後、血走った目で私を詰問するトリホスに私は「修正条項なしに上院は批准しない。カーター大統領もそれを承知している」と突っぱね、何とか同意を取り付けた。 それから20年以上たった1999年12月14日、パナマで運河の返還記念式典が行われた。式典にはクリントン大統領の名代として出席したカーターの顔もあった。だが、私とギリギリの駆け引きを演じたトリホスは81年に不可解な飛行機事故で他界し、晴れの舞台に立つことはなかった。(前駐日米大使)2009年1月15日 日本経済新聞朝刊 14版 36ページ「私の履歴書-パナマ運河返還」から引用 カーター大統領がパナマ運河返還を決断した時、米国世論の78%が返還に反対だったとは、アメリカ人が如何に自分勝手な人たちかということを物語っている。しかし、より大局的な観点から米国の国益を考えて「返還」を誠実に実行した、当時のカーター大統領とベーカー国務長官は、立派な政治家であったと言える。
2009年01月27日
映画監督の是枝裕和氏は、14日の読売新聞でテレビの功罪について次のように述べている; 「民主主義にとっては映画よりテレビのほうが重要だ」 これは友人のテレビ番組制作者が、自らの仕事に対する自負を込めて語ったとても印象的な言葉なのだが、そこには鋭いテレビ論が含まれていると思っている。 『広告批評』という雑誌の最新号で、「テレビのこれから」という特集が組まれていて、テレビ関係者やクリエイターたちへの興味深い、テレビについてのアンケートが掲載されている。彼らが放送史上で「これが私のベスト3」として選んだテレビドラマの番組名を目にすると、やはり僕も自分史の断片が鮮明によみがえってくる。 今の若い子たちが20年後に同様の経験をテレビを巡ってするのかどうか、よくわからないが、40代になってクラス会などを開くとやはり当時の番組の話題で少なからず盛り上がる。こういった類(たぐい)の、たわいもない連帯も含め、テレビは私を私「たち」に変化(錯覚?)させる癒やしの道具としての側面を間違いなく持っている。 その最もわかりやすい形がオリンピックやワールドカップといった国家イベントであろう。本来はナショナルなものとの一体化は厳に慎むべきメディアが、その倫理観をかなぐりすてて「ガンバレ日本」を連呼し、私に対して私たちへの同調を強いる。そのことが国家にもメディアにも個にも正当化された時、私たちから他者を失わせる。それはすなわち、私たちを人間からただの人へと矮小(わいしょう)化させることになる。つまり、この同一化の先にある連帯は結果的には私たちを孤立化へ向かわせるということである。 テレビは私を私「たち」へ導くのは巧みだが、そこに「間(あいだ)」を創出することは苦手である。これはインターネットにも共通する欠点だと思うが、冒頭の友人の発言は、テレビメディアというものが、映画よりもより私たちの生活の近くにあるが故に、その中に間を作り出すための他者との出会いの場としての可能性が高いという認識から生まれた言葉だと僕は考えている。 目的を持って劇場を訪れた観客との出会い以上に、それはもちろん偶然的で一過性の出会いかもしれないが、テレビがそのように私たちを孤立化へと向かわせるのではなく、私の家の窓のカーテンを揺らす風であり得る可能性を、彼も僕も、まだ信じている。2009年1月14日 読売新聞朝刊 12版 17ページ「メディア-テレビが持つ癒しの力」から引用 この文章のポイントは、「本来メディアはナショナルなものとの一体化は厳に慎むべきである」点と、テレビが番組によっては強力な「同調圧力」を生み出すという点である。
2009年01月26日
空気を読めない麻生内閣に対して、14日の読売新聞「編集手帳」は辛らつな批判をしている; 戦前に船会社を興して三大成り金のひとりと呼ばれ、戦後は第5次吉田茂内閣の農相を務めた内田信也氏に、語り伝えがある。乗っていた列車が転覆事故を起こした。 「神戸の内田だ。金はいくらでも出す、助けてくれ」。そう叫んだと、岩波書店刊「一月一話」などの書物は伝えている。ご本人の回想によれば「金はいくらでも…」とは言っていないそうで、世人がやっかみ半分に尾ひれをつけたのかも知れない。 「総理の麻生だ。定額給付金その他、景気対策に金はいくらでも出す。政権を、自民党を助けてくれ」。首相がそう叫んだわけではないが、世間の耳には聞こえたのだろう。 本紙の世論調査で78%の人が定額給付金に「反対」と答えた。支給をやめ、雇用や社会保障に振り向けるよう望む声が多数である。ご機嫌取りに小遣いを配るような、一票ほしさの『釣り餌(え)』を鼻先に垂らされた不快さを、多くの人が感じたらしい。 内閣の不支持率もついに7割を超えた。自腹の内田氏とは違い、「いくらでも出す」金は税金である。政権の転覆事故が起きる前にもう一度、進むべき線路を点検したほうがいい。2009年1月14日 読売新聞朝刊 14版 1ページ「編集手帳」から引用 かつては公共事業に予算を充てることを「ばら撒き行政」と批判したものであったが、そういう批判を無視してもっと直接的に「ばら撒き」を実行しようというのが定額給付金であり、そんなことをしたら「鼻先に釣り餌を垂らされた」と感じる国民がいることを、行政を司る人たちには考えてほしいものである。
2009年01月25日
5日の読売新聞コラム「記者ノート」には、大変興味深いことが書いてあった; 「ある意味で、最も新自由主義が進んだ国かもしれません。何しろ中央政府がないのだから」。アフリカ現代政治を専門とする遠藤貢(みつぎ)・東大教授(46)が冗談交じりに語る国がある。海賊の横行によってにわかに「近い」存在になったアフリカ・ソマリアのことだ。 この国は1991年に政権が崩壊して以来、中央政府がなく、氏族などが割拠する「破綻(はたん)国家」となっている。そして究極の民営化、つまり無法化によって成長したビジネスが、身代金目当てに船を襲う海賊だった。国連の発表によれば、海賊は2008年だけでも1億2000万ドル(110億円)の身代金を掌中に収めたとされる。 「ソマリアには資源がないため、国際社会が関心を向けず、内政不干渉の原則もあって十数年も放置した。その結果が今の事態を生んだ」と遠藤教授は語る。各国は重要な海上航路であるソマリア沖の警備へ動き出しているが、「ソマリア自体が崩壊国家のままという状況は変わりそうにない」。 ところが、教授によれば、ソマリアでは携帯電話が通じるほか、コーラの生産工場が稼働するといった闊達(かったつ)な経済活動も見られ、アメリカ在住のソマリア人からの送金もあるという。「崩壊国家でも、それなりに安定して生活する仕組みがつくられているのです」 国際社会は、領域内で暴力を独占管理し、対外的に代表を持つ「国家」で構成するという建前を持つ。ソマリアのような対外的な顔のない破綻国家でも人々が生活し、ビジネスが成り立つということは、国際政治学者の竹田いさみ・独協大教授(56)によれば、「近代がほころび、前近代が戻ってきていることなのかもしれない」。 昨年は金融危機で小さな政府を掲げる新自由主義が退潮した年だった。今年はソマリアのような『前近代化』も念頭に置きつつ、「国家」や「政府」というものの意味が問い直される年になるのではないか。 (植田滋)2009年1月5日 読売新聞朝刊 12版 20ページ「記者ノート-『国家』や『政府』の意味」から引用 海賊の横行は困ったことで解決されなければならない問題であるが、イギリスのサッチャー政権やアメリカのレーガン政権、日本の小泉・竹中が目指した「小さな政府」は、突き詰めればソマリアのようになるというのは、なにやら教訓めいていて面白い。
2009年01月24日
空幕長を更迭された挙句、定年退職扱いされた田母神氏の在職中の勝手な行動は、国民の平和的生存権を侵害する仕業であったとして、損害賠償を求める訴訟が起こされたと、11日発行の「週刊金曜日」が報道している; 埼玉県の会社員Aさんが「平和的生存の権利を奪われた」として、侵略戦争を正当化した論文を発表後、退職金7000万円(推定額面)を受領して定年退職した田母神俊雄・前航空幕僚長に2万円の慰謝料を求める訴えを昨年12月3日、東京簡易裁判所に起こした。同月23日、「極めて高度な憲法上の判断」を要するため東京地裁に移送された。 訴状が指摘する田母神氏の違法行為は以下の点など。 小松基地司令時(1998年~99年)、小松市主催のイベントで自衛隊関係の挨拶はなしと決定されたが、当日は制服着用の上、副官を伴って押しかけ、「行政の決定を無視して実力行使」した。 統合幕僚学校長在任中(02年~04年)に、「脱専守防衛教育」「文民統制蹂躙教育」「自衛隊の先制攻撃教唆」「攻撃的兵器肯定教育」「日本国憲法体制転覆教唆」を行なった。地位を利用した脱法行為の隊員への教唆にあたる。 さらに空幕長時代、陸自出身の佐藤正久参院議員の資金管理団体への献金は、政治活動を制限する自衛隊法第61条違反、との主張だ。Aさんは「選定当事者訴訟」(共同訴訟)を考えている。2009年1月11日 「週刊金曜日」7ページ「金曜アンテナ-田母神氏に会社員が損害賠償請求訴訟」から引用 自治体主催のイベントに現職自衛官が制服で乗り込んで、勝手に演説をぶつとは言語道断である。イベント主催者は警察を呼んで、不法侵入罪でつまみ出すべきであった。このような狼藉をはたらく者を空幕長に任命した内閣も責任を問われるべきであり、政府は文民統制の意味を踏まえた上で制服組の言動には十分注意を払う必要がある。
2009年01月23日
大量の生活困窮者を生み出した労働者派遣法を改正しようという動きに対して、資本家階級が否定的な態度をとっていると、6日の朝日新聞が報道している; 労働者派遣法の改正をめぐり、製造業派遣の規制を盛り込む動きが急浮上してきた。製造業による大量の「派遣切り」に批判が集まる中で、規制強化に向けた動きが強まりそうだ。ただ企業経営や雇用への影響は大きく、是非をめぐって与野党間で議論になりそうだ。 「国際競争力を維持・強化し、国内に一定の雇用を確保するために不可欠」として、一貫して労働者派遣の規制緩和・拡大を求めてきた経済界。失業者の急増にセーフティーネット(安全網)の充実などを主張しているが、政界に広がり始めた規制強化の動きには否定的だ。ただ、派遣社員の削減を社会的に非難されており、規制強化反対へと具体的に動き始めるかどうかは不透明だ。 「雇用調整を弾力的にできなくなれば、日本メーカーは中国や台湾のメーカーにますます生産を委託するようになる。景気が回復しても国内に雇用は戻らないだろう」。ある大手電機メーカーの役員は5日、製造業派遣が禁止された場合の影響をこう指摘した。別の大手電機メーカーも「正社員を増やす方向で議論が進めば人件費の増加につながる」と心配する。 派遣会社や請負会社などの製造現場での活用について、企業側は「経営に柔軟性を与え、長い目で見て成長につながる」(桜井正光・経済同友会代表幹事)、「企業は(労働)需給調整が可能となり、働く側には働き方の多様化というメリットがある」(岡村正・日本商工会議所会頭)などと評価してきた。規制強化を含む雇用形態の抜本的な見直しは「やるべきではない」(桜井氏)と否定的だ。 一方で、景気悪化に備える雇用対策については企業も必要性を認め始めた。日本経団連の御手洗富士夫会長が、朝日新聞社のインタビューで「ここまで急激に(景気が)深いふちに落とし込まれるとは予測しておらず、一歩遅れた」として、請負会社の支援を検討する意向を示したのが代表的だ。経団連で今春闘での経営側指針をまとめた大橋洋治副会長も、5日の連合の新年交歓会で「雇用の維持拡大に労使間で真摯(しんし)な協議を行うのが重要だ」と、歩み寄りの姿勢を見せた。 (冨田佳志)2009年1月6日 朝日新聞朝刊 14版 6ページ「派遣法改正に是非論」から引用 工場で労働者を働かせるためには、経営者と労働者が対等な立場で雇用契約をする、これが当たり前である。「働き方の多様化」などというものを希望する者は、親や他の家族の収入があてに出来るとか、特殊な環境にある極わずかな数で、その他の99%は自力で生活するために働くのである。それにもかかわらず、経営者がその門戸を労働者派遣法を悪用して狭めているから、しかたなく派遣労働に甘んじているのだ。そのような悪法は改められて当然である。正当な労働報酬を払いたくないがために、国際競争力云々を持ち出すのは卑怯というものである。
2009年01月22日
昨年11月末に政府が、イラクに派遣した航空自衛隊に撤収命令を出した翌日、東京新聞は次のような解説記事を朝刊に掲載した; 政府は28日、イラクで空輸支援活動をしている航空自衛隊部隊の年内撤収を決め、浜田靖一防衛相は撤収命令を発令した。これで約5年に及んだ自衛隊によるイラク支援は終了する。政府が自衛隊を派遣した判断は検証されず、憲法上の派遣根拠も明確でないまま、幕引きを迎える。 (清水孝幸) 浜田氏は同日の記者会見で「一人の犠牲者を出すこともなく、無事に任務を遂行し、国際社会から高い評価を得た」と強調した。だが、自衛隊のイラク派遣ではいまだ多くの疑念が残ったままだ。 一つはイラク派遣の正当性だ。2003年3月に米国がイラク戦争を始めると、小泉純一郎首相(当時)はすぐに支持を表明。7月にイラク特措法を成立させ、翌04年1月に陸自、3月に空自部隊を派遣した。 その後、米国が開戦の根拠とした大量破壊兵器は見つからず、日本でも開戦支持の判断や自衛隊派遣の正当性が揺れ始めたが、小泉首相の後を継いだ安倍普三首相(当時)は「間違っていなかった」の一点張り。政府内で当時の判断や責任を検証することなく、ずるずると活動を続けた。 もう一つの疑念は憲法との関係だ。 自衛隊にとってイラクは初めての「戦地」派遣。戦闘に巻き込まれれば、海外で武力行使を禁じた憲法に抵触しかねない。政府は「非戦闘地域」という新たな概念をつくり、憲法との整合性に腐心したが、その定義をめぐり小泉首相が「自衛隊が活動する地域が非戦闘地域」と述べるなど迷走。今年4月には名古屋高裁が空自のイラク派遣に「違憲」の判断を示した。 イラク撤収後は、自衛隊による国際貢献の中心はアフガニスタン支援になる。政府はインド洋での給油活動を継続する新テロ特措法改正案の早期成立に全力を挙げるが、米国から新たな支援を求められる可能性もある。 なし崩し的に自衛隊の海外活動を拡大するのはやめ、まずはイラクの活動を検証する必要がある。そのためにも空自は何を運び、どんな作戦を支援したのか情報公開は欠かせない。2008年11月29日 東京新聞朝刊 12版S 2ページ「イラク空自に撤収命令-正当性、根拠 疑念残し」から引用 記事が指摘するように、開戦の根拠であった大量破壊兵器が見つからなかった問題について、政府は国民の税金を使って自衛隊を派遣した責任があるのだから、国民の前に責任の所在を明らかにするべきである。また、司法の場では自衛隊を海外に派遣することは憲法に違反するとの判断が示されているのであるから、三権分立の観点から、政府は司法判断に対して謙虚であるべきだ。
2009年01月21日
元ワイドショープロデューサーの仲築間卓蔵(なかつくまたくぞう)氏は、11日の「しんぶん赤旗」日曜版のコラム「メディアをよむ」で、年末年始のテレビを次のように批評している; 年末年始のテレビ番視といえば、「お笑い」「バラエティー」「スポーツ中継」が定番ですが、ことしは、ひと味違っていました。 まず目についたのは、非正視労働者の大量解雇、中小企業の倒産など切実な問題を、かなりの時間をとって報道したことです。 ここには、解雇された人たちの労働阻合結成が相次ぎ、会社側と交渉を重ねたこと、日本共産党の志位和夫委員長などが、大企業の経営陣や日本経団連と直接交渉をしたこと、「年越し派遣村」に、多くのボランティアが参加したことが背景にあるのでしょう。メディアは正面から報じ、「社会的な問題」として広く訴えました。 国と大企業が責任を放棄し、年末年始を「どう生きようか」と悩んでいた人たちは、厚労省が講堂を開放したり、東京都が廃校の活用に踏み切ったり、ハローワークが出張窓口を開設したりしたことに、少し勇気と元気を持てたことでしょう。運動とメディアの連携の成果を実感しました。 もう一つ印象に残ったのは、「NHKスペシャル 新春ガチンコトーク! 世界はどこへ、そして日本は」(1日)と、TBS系「サンデーモーニング アメリカのたそがれ 世界の危機」(4日)の特集番組です。 「Nスぺ」は、竹中平蔵氏に、金子勝氏、山口二郎氏、斎藤貴男氏らが「まず構造改革の失敗の総括を」と質問。竹中氏は「問題はこれからどうするかだ」というばかり。小泉路線の破たんを浮き彫りにしました。 「サンデー」は、産軍複合体から抜けられない米国や、投機に躍ったアイスランドの財政危機など、資本主義のあり方を問いました。「一つの時代が終わった。やり方を根本的に変えなければいけない時代にさしかかった」とコメンテーター。両番組に拍手です。 私たちも、メディアリテラシーを発揮しなければならない年です。2009年1月11日 「しんぶん赤旗」日曜版 35ページ「メディアンをよむ-ことしは一味違った」から引用 庶民の視線からの報道が増えることを希望します。
2009年01月20日
政治学者で東京大学教授の御厨貴(みくりやたかし)氏は、3日の朝日新聞に寄稿し、低迷する日本の政治について次のように述べている; 戦後64回目の正月を迎えた。政治も経済も社会も、すべてに行き詰まり感がある。敗戦以来、今日まで終止符を打たれることなく、したたかに生き抜いてきた『戦後』の価値観やシステムだが、外からは金融危機、内からは政治危機の形で、リセットの圧力が加えられている。 1945年に始まる長い期間、政治の世界では早くから脱『戦後』のかけ声がかけられていた。だがいずれも実体を伴わずに消えてしまう。歴代首相を振り返ってみよう。 □ ■ □ 『戦後』を形作った吉田茂が退陣した後の56年、「経済白書」は「もはや戦後ではない」と高らかにうたった。しかし岸信介が60年の安保改定で『戦前』の幻影を呼び覚ました結果、次の池田勇人は高度成長政策で『戦後』をいま一度演出しなければならなくなる。 続く佐藤栄作は約8年の政権を通して「沖縄の返還なくして戦後は終わらない」と訴え続けた。返還は実現したものの、『戦後』の安定的な秩序を確認するにとどまった。 佐藤を範とした中曽根康弘は82年、「戦後政治の総決算」を華やかに宣言して登場した。国鉄改革など『戦後』改革に着手したものの、イデオロギー面を含めた『戦後』からの転換は未完に終わる。 90年代は『戦後』の限界が指摘され、政治改革や行政改革さらには憲法改正など「改革」が時代のキーワードとなった。もっとも、89年に「昭和」から「平成」への代替わりと重なり、戦後憲法に育まれた最初の象徴天皇が登場、『戦後』的価値の肯定と再確認が行われた。 「ぶっ壊す」と「構造改革」を叫び続け、5年半の長期政権を維持した小泉純一郎は、90年代に有名無実化していた「55年体制」と「自民党一党優位体制」にとどめを刺した。しかし新しい何かを生み出すことはなかった。 初の戦後生まれの首相となった安倍晋三は「戦後レジームからの脱却」をストレートに訴えた。しかしまことに皮肉なことに、安倍は『戦後』の枠組みに足をとられ、わずか1年で退陣を余儀なくされる。戦後憲法下の二院制国会で論理上おこりうる、衆参『ねじれ』状況を招いてしまったのだ。福田康夫もなす術(すべ)もなく、やはり1年で職を辞し、総選挙で勝てるタマとして選ばれた麻生太郎は早くも迷走状態のただ中にいる。 90年代からの小選挙区制の導入を前提とする「政権交代を可能とする二大政党制」は、ここへ来て、見果てぬ夢ではなくなるかもしれない。しかし問題は「総選挙による政権交代」の意味を、当事者たる政治家も有権者もマスコミも考えていないことだ。政権交代は『戦後』の延命を目指すものなのか、それとも終止符を打つものなのか。曖昧(あいまい)なままだ。 勝てるタマだったはずの麻生首相はその器ではないと見なされ、二重権力状況に慣れ親しんだ小沢一郎民主党代表は首相になりたくないのではないかと疑われる。「首相を選ぶ選挙」にしては、何とも情けない状況に陥ってしまっている。 □ ■ □ 必要なことは何か。あまりにも長く続き、歴代首相が克服できなかった『戦後』を終わらせるための総選挙であり政権交代であると、どちらもはっきり示すことだ。もちろん一度の総選挙で『戦後』がガラリと変わることはありえまい。しかし今年こそは『戦後』の終わりの始まりと認識すべきだ。そして『戦後』を乗り越えるために『強い首相』を作り出す必要がある。 本来、『強い首相』は現行憲法が想定したものだった。帝国憲法下の弱い首相の反省の上に立って、明快に強い首相を規定しているのだ。「55年体制」や「自民党一党優位体制」が崩壊してもなおその残滓(ざんし)にとらわれているから、『強い首相』が実感できないのである。 これまで『戦後』に着目しその転換をはかろうとした首相は、安倍を除いていずれも長期政権であった。長きがゆえに尊からずだが、『強い首相』は長期政権によって初めて思い通りの統治ができる。解散はあるにしても、せめて衆議院の任期と同じ4年は政権を担当せねば、話になるまい。そして与えられた時間を有効に使うために、昼は官邸で、夜や休日は公邸で、政治空間をフルに活用すべきだ。 政治家は現行憲法の原則や規定に戻ってはどうか。そこには『強い首相』と『機能する国会』がある。もろもろの政治慣習から解き放たれ、原点からコトを考えるようになろう。そうすることによって『戦後』を自覚的にリセットし、政治の新たな飛翔(ひしょう)を可能にすると思われる。 そして、逆説的だが、『戦後』から解放されて初めて、戦後憲法の改正が現実の日程に上ってくるに違いない。2009年1月3日 朝日新聞朝刊 12版 6ページ「私の視点-『戦後』乗り越える強い首相を」から引用 吉田内閣以降の歴代内閣に関する記述は、おおむねそのとおりと言えるが、現在の政治の低迷が戦後の政治体制に起因するかのような表現は、根拠を欠いており、学者が書いた文章にしてはあまりにお粗末というほかはない。 戦争が終わった後のことを『戦後』と言うのであるから、次の戦争が起きないかぎり、戦後は何十年たっても『戦後』であり続ける。我々は、戦争を放棄した戦後体制を永遠に継続するべきなのである。それが国民の意思でありわが国憲法の目指すところである。昨今の政治の低迷は、先代のやったことを猿真似するしか能の無い世襲政治家によってもたらされたものであるから、これを打破するには、有権者が安易に世襲政治家に投票することを止めて、問題を解決するにはどのような政策が必要か、誰に投票するのが最善か、自分の頭で考えて投票することである。戦後体制をリセットするだの、憲法を改正するだのと大げさな話を持ち出さなくても出来る話だ。
2009年01月19日
福岡市で開催されたトークイベントに出席した作家の大西巨人氏の様子を、8日の読売新聞は次のように伝えている; 戦後文学の傑作『神聖喜劇』の作者大西巨人さん(89)=写真=が、郷里の福岡市で開かれたトークイベントに出席、年齢を感じさせない旺盛な創作意欲を見せた。 もともと夜型の仕事ぶりが高じ、近年は朝の5時ごろまで原稿用紙に向かう。「なるべく短く書きたい。本人が先にくたばってしまうから」と笑わせながらも、書き出すと筆が止まらないようだ。死刑廃止問題などをテーマにした八つの殺人事件をめぐる物語『八つの消滅』に現在取り組み、8部構成の長大な物語『世紀送迎篇』の構想もある。 「どの作品もライフワークのつもり、頂上を極めるつもりで書いているが、終わったらこれじゃあだめだとなる。『神聖喜劇』を脱稿したときだってそれは同じ。それが文学、芸術なんです」と語った。 その約25年かけて執筆した『神聖喜劇』も話題にのぼり、超人的な記憶力を駆使して軍隊の上官と闘う主人公・東堂太郎の名について、東堂は東の国、太郎は男、つまり「日本男児」を象徴する存在として命名したことを明かした。 戦争中、対馬の砲兵連隊に配属された作家は、格差社会という言葉に象徴される暗い世相について、「昭和5/6年、(戦争へと突入していく)満州事変のころを連想する。反社会主義的なものが跋扈(ばっこ)するという意味においてだ。このごろも社会主義的なものは不評だが、それなくして人間世界の向上はないと考えている」ときっぱり。「お互い努力して世の中をよくしましょう」と、会場に呼びかけた。 (矢田民一也)2009年1月8日 読売新聞朝刊 12版 15ページ「『神聖喜劇』の後も頂上追求」から引用 社会主義といえばロシア革命がすべてであるかのように思い込んでいる人は多いが、それは誤りである。マルクスの『資本論』に革命のやり方が書いてあるわけではないし、レーニンと当時の共産党のやり方が唯一の革命のやり方でもないからである。しかし、ロシア革命が起きたことによって、西側諸国にも、労働者の権利を擁護する法制度が整備されたのは、やはり社会主義思想のちからであり、大西氏が言う「社会主義思想なくして人間社会の向上はない」という意見に、私は賛成である。
2009年01月18日
日本が国際刑事裁判所に加盟したのは、2007年10月1日であった。当時の朝日新聞は、次のように報道した; 日本は1日、戦争犯罪などを裁く国際刑事裁判所(ICC、オランダ・ハーグ)に加盟し、ICC設立条約の105番目の締約国になる。最大拠出国として全体の22%にあたる年約30億円を負担。裁判官補欠選では斎賀富美子・人権担当大便を擁立する。ICCは戦争犯罪や集団殺害などの罪を犯した個人を裁く初の常設国際法廷。独立した検察官が捜査・起訴の権限を持つ。(ブリュッセル)2007年10月1日 朝日新聞朝刊 14版 7ページ「国際刑事裁判所 日本きょう加盟」から引用 わが国が国際刑事裁判所に加盟したのは喜ばしいことである。このような国際貢献を、もっと早くから行うべきであった。 しかし、わが国政府が同盟国呼ばわりしているアメリカは、この時点では国際刑事裁判所加盟を拒否していた。その理由は、アメリカの場合、世界中のあちこちで、CIAや米軍や海兵隊が様々な違法行為をやってきた手前があるため、これに加盟したら即座に検挙される疑いが濃厚だからである。多分、今もまだ未加盟のはずだ。こういう国こそ、テロ国家の指定を受けるべきであって、他国をテロ国家呼ばわりできる立場ではないのである。
2009年01月17日
早稲田大学政経学術院教授の毛里和子氏は、昨年の朝日新聞「シリーズ・識者に聞く-東アジア近現代史の10大出来事は?」に応えて、次のように述べている; 東アジアの近代は「西洋の衝撃」に始まる。アへン戦争で清王朝衰退と近代中国への苦難の道が始まり、日本は開国と大政奉還で対応した。明治維新は、その日本が東アジアで近代化に先陣を切ったことを意味するのか、あるいは東アジアにおける日本の野望を方向づけたのかなど、新たに問われるべき点は多い。 日清戦争を機に、東アジアの国際秩序は日本による中華帝国の再編へと大きく変わった。李鴻章外交が台湾を割譲したことは日中戦争への伏線になったし、今に続く「分断中国」の淵源(えんげん)となった。日清戦争は、その点できわめて現代的な意味を持っている。 05年の第2次日韓協約、10年の「韓国併合に関する条約」で大韓帝国は消滅し、朝鮮は日本の植民地になった。「創氏改名」が象徴するように、軍事的、経済的、文化的にも特異な植民地と言える。近代日本の朝鮮人蔑視(べっし)、朝鮮支配は、なぜ世界に類例のない構造と内容を持ったのかが解明される必要がある。 31年の関東軍による満州事変から、慮溝橋事件をへて日本は中国と全面戦争に入る。日本の華北侵略は中国を抗日ナショナリズム一色にまとめ、日本は膨大な人と資源を消耗して惨敗した。この戦争とその評価で、日中は今も歴史認識をめぐる根深い対立を引きずっている。 対中軍事作戦で泥沼化した日本は米英と開戦し、戦争資源獲得を狙って東南アジアへの侵攻も始めた。米英軍の圧倒的軍事力で42年半ばから戦況は悪化の一途だったが、日本指導部は「玉砕」の道を選んだ。戦争突入に合理性はあったのか、どこで止めるべきだったのか、最終責任はどこが負うべきかは、はっきりさせるべき課題だ。 欧州での冷戦開始を受けて、東アジアには中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国が生まれた。50年からの朝鮮戦争と中国参戦が東アジアの分断構造を決定的にし、その状況は72年の米中接近と日中国交正常化まで続く。だが社会主義は中国に一体何を残したのか。毛沢東の正負の「遺産」を腑分(ふわ)けできずにいるのを見ると、人民中国成立の意義はまだ確定できない。 敗戦後、日本は占領軍の手で民主化が行われ、平和憲法も施行された。だが「移植」された面だけでとらえるべきではない。大正デモクラシーのように戦前からの基礎が「移植民主主義」を根づかせ、日中戦争、太平洋戦争の惨禍が日本国民に平和主義をもたらした。民主主義、平和、経済成長は、戦前期に対する日本流自己否定と自己批判であり、戦後東アジアの発展モデルとなり、大きな資産になったことは否定できない。 分断された朝鮮半島の南部では、軍事政権を経て民主主義への移行が始まった。背景には中間層の出現や軍事独裁を許さぬ国際環境がある。民主制が定着したとは言えないが、韓国の民主化は、台湾でのそれと相まって東アジアの政治体制に大きな影響を与えている。 中国は大躍進運動や文化大革命で世界から大きく取り残された。毛沢東が去り、四人組が失脚した後、78年に登小平らの手で経済発展へと向かう。「四つの近代化」と「GDP4倍増」計画である。経済の脱社会主義化と、外資や技術を導入する開放政策、特に92年に登小平が指示した市場化の加速で、中国経済は驚異的成長をとげている。これがいつまで続くか、「大国中国」は世界の秩序をどう変えるのか。これからの世界の重大関心事である。 (聞き手・福田宏樹)2008年1月29日 朝日新聞朝刊 13版 15ページ「シリーズ・識者に聞く-東アジア近現代史の10大出来事は?--新中国の意義 いまだ確定せず」から引用 東アジアの近代史には、究明されるべきテーマがまだまだ残されているようである。尚、上の引用した記事中の「登小平」という表記は、当ブログでは正しい漢字を表示することが出来ないので、当て字を使用しました。
2009年01月16日
元日の朝日新聞朝刊は、中国の胡錦濤国家主席が演説で台湾に対する平和関係の構築を呼びかけたと報道している; 【北京=峯村健司】中国の胡錦濤(フーチンタオ)国家主席は31日、台湾政策について演説、「話し合いを通じて敵対関係を終わらせ、平和的関係を構築しよう」と述べ、軍事面での相互信頼システムの構築を台湾の馬英九(マーインチウ)政権に呼びかけた。 胡主席は台湾側に対し、「一つの中国」の原則を維持さえすれば「いかなる問題についても話し合い、未来志向で建設的な態度で臨み、ともに努力する」と訴えた。台湾企業の中国進出や三通(直接の通商、通航、通信)の拡大のほか、人的交流の拡大など6項目を提案した。対中強硬路線を掲げる台湾の野党、民進党に対しても「台湾独立の立場を改めれば正面から対応する用意がある」とした。2009年1月1日 朝日新聞朝刊 14版 6ページ「平和関係の構築 台湾へ呼び掛け-中国・胡主席」から引用 中国と台湾の間の問題は、うわべは共産党と国民党の争いのように見られがちだが、実は台湾には、国共内戦で台湾に逃げ込んだ国民党支持の中国人と何百年も前に台湾に移住した中国人との摩擦とか、その他にも9つの互いに異なる文化を持つ先住民がいるとか、複雑さを内包した問題である。これは、武力によって解決できる問題ではないので、いつまでも対立を続けるよりは、話し合いで解決するのが、双方にとっても、周辺諸国にとっても最善の方法である。
2009年01月15日
近代日本政治外交史が専門の早稲田大学教授・劉傑(りゅうけつ)氏は、朝日新聞の企画「シリーズ・識者20人に聞く-東アジア近現代史の10大出来事は?」に応えて、次のように述べている; 一番重要なものは、1945年の日本の敗戦でしょう。中国大陸には、その後の内戦を経て、共産党政権による国ができる。日本は占領下で民主的な新国家として生まれ変わる。植民地だった朝鮮半島、台湾は日本から解放される。そういう意味で東アジア全体として、一つの時代が終わり、新しい時代を迎えた。また、原爆投下によって世界は「核の時代」に入った。 以下は時系列で説明するが、2番目は日清戦争。中華帝国から台湾を獲得した日本の世界観は一変した。一方、敗れた中国にとっては改革を本格化するきっかけとなった。大量の留学生が日本に向かい、現代に影響を及ぼす改革派が歴史に大きな足跡を残した。日本を通して西洋に学ぶ、という中国大陸の新しい動きが出始めた。 3番目は日露戦争。白人国家への勝利は太平洋戦争にいたる日本人の戦争観と自己認識を決定付けた。戦争は局外の中国に被害をもたらす一方中国のナショナリズムを刺激したという側面も重要だ。 4番目は「中国同盟会の東京での成立」。清朝を倒そうという中国の革命派たちが最終的には東京に集まった。1911年に清朝を倒した辛亥革命は各地域の独立を求める反乱がきっかけだったが、1905年に成立した同盟会は立派な目標を掲げていた。中国の新しい国家づくりの原点はここにある。大陸侵攻をもくろむ日本は、孫文が指導する革命との関係も深かった。複雑な日中関係の象徴的な出来事が同盟会の成立だった。 5番目は日本による韓国併合。日本からすれば東アジアでの帝国的な立場を確立したことは大きい。一方、朝鮮半島にとっては、屈辱的な歴史の傷跡になってしまった。 6番目は「対華21ヵ条の要求」。この要求で日本が直接に得た利益は決して多くないが、中国人に「侵略的な日本」というイメージを植えつけた。この日本外交の失敗は、中国のナショナリズムへの無理解によるもので、ほとんどの為政者はその後もこれに気づくことなく、満州事変や日中戦争へ突き進んだ。 7番目は満州事変。短期間で満州国の建国まで実現した軍部の暴走は、昭和前期日本の政治構造を映し出す一方、いわゆるアジア・太平洋戦争の出発点となった。 8番目は、1936年の西安事変。35年から36年ごろは、日本と中国は全面戦争を避けられる兆しも見られた。日本には従来の高圧的な態度を見直し、中国のナショナリズムを理解しようという動きも現れた。しかし、これは中国大陸の日本軍への波及効果は限定的で、中国の対日不信を払拭(ふっしょく)することにも至らなかった。西安事変によって、「一致抗日」が中国の進む方向として定着し、蒋介石が共産党に対する討伐作戦をやめた。中国の「抗日戦争」は事実上このときに始まった。国共合作は、共産党が全国の統一政権を樹立する第一歩となった。日中戦争前のこの突発事件が中国とアジアの運命を変えた。 9番目に挙げた朝鮮戦争には、中国が参戦し、米中関係に影を落とした。冷戦の時代が始まり、朝鮮半島、台湾海峡の分裂が定着し、東アジアの構図ができる。昭和の戦争への総括が米国の占領政策の下、早々と終了し、東アジアに重大な課題を残した。戦争で日本に経済成長の転機が訪れる。 最後は、中国の改革・開放。49年以降の中国再建は、80年代からの改革・開放で本格化する。中国の台頭は、冷戦後のアメリカの世界戦略と世界の政治経済秩序に根本的な変革をもたらした。東アジアの未来は中国の進む方向にかかっていると言える。 (聞き手・佐藤和雄)2008年12月31日 朝日新聞朝刊 12版 11ページ「歴史は生きている-日本の敗戦でアジアは新時代に」から引用 劉傑教授の歴史観は、概ね正論を語っていると言える。「対華21ヵ条の要求」を出した頃の日本政府は、当時中国に芽吹きつつあったナショナリズムを認識し損なって、それが後の大きな落とし穴になったことは、多くの歴史家が指摘するところである。 また、昭和の戦争への総括が米国の方針転換で早々と切り上げられたために、その後の東アジアに重大な課題を残したと言っているが、これは十五年戦争の被害国に対する日本の不十分な保障を、アメリカの圧力を利用して相手国に無理やり承服させたことを指している。アメリカにしてみれば、冷戦対策として日本を西側の強力な駒にしたかったので、日本が過大な賠償金を支払って国力を疲弊させたのでは、その目的にそぐわないので、フィリピンやその他の被害国に対して、日本が提示した条件を呑むように圧力をかけたという経緯がある。そんなことも知らないで、日本はドイツと違って賠償金を立派に支払っているなどと大口を叩く当ブログ常連コメンテーター諸君には、歴史の事実というものを、もっと熱心に勉強していただきたいものである。
2009年01月14日
去年の今頃の話だが、茨城県つくばみらい市でDV防止講演会が一部の市民団体の妨害で中止されるという事件があった。そのときの「しんぶん赤旗」日曜版は、次のように報道した; 茨城県つくばみらい市で1月20日に予定されていた市主催のDV(ドメスティックバイオレンス=配偶者からの暴力)防止講演会が、「DV防止法は家族を破壊する」などと主張する団体の抗議を受けて、突然中止されました。市は「混乱を避けるための苦渋の選択だった」と説明。講演会の再実施を求める声が広がっています。 平川由美記者 つくばみらい市は男女共同参画事業の一環として、講演会「自分だけガマンすればいいの? DV被害実態の理解と支援の実際」を予定していました。講師は東京フェミニストセラビィセンターの平川和子所長(内閣府専門調査会委員)。心に傷を負った女性や子どものケアを長年続けながら、DV被害女性のための緊急介入と自立支援の活動を行ってきました。 平川さんが市から講師を依頼されたのは昨年10月。以来、市と共同作業で準備を進めてきました。市は女性市民の10%以上が「殴るけるなどの身体的暴力を受けたことがある」と回答した調査結果を提示。DV防止の取り姐みが急務であることを確認し合いました。 ところが今年(引用者注:2008年のこと)に入って「DV防止法犠牲家族支援の会」「主権回復を目指す会」などが講演会の中止を市に要請。中止しない場合は反対意見を述べる時間を設けるよう求めました。市は、DVを犯罪とする法のもとでの啓発事業である講演会に、DVを肯定する意見のための時間を設けることはできないとして拒否。 これを不服として両団体の会員数人が1月16日早朝、市役所内に拡声器を持って押しかけ、職員に対するひぼう中傷をまくし立て、講演会の中止を詰め寄り、当日には街宣活動を行うと予告。市は参加者に危険が及ぶことを恐れ、やむなく中止を決めました。 平川さんは言います。 「これは講演会主催者と私に対する暴力であり、参加市民に対する暴力です。暴力で言論を封殺する団体に憤りを感じるとともに、市側の安易な決断と危機管理のなさが残念でなりません。DVという暴力を防止する責務を担う自治体が、少数の暴力に属するようでは、DV被害者や子どもの安全をどうやって確保していけるのでしょうか」 折しも今年1月11日に改正DV防止法が施行されたばかり。これまで都道府県のみに義務づけられていたDV防止と被害者支援に関する基本計画の策定が、市町村の努力義務となり、つくばみらい市でも施策をより充実させていこうとする矢先でした。よい家族とは DV問題に取り棍んできた鈴木隆文弁護士は、「DV防止法は、国運の女性差別撤廃条約や女性に対する暴力撤廃宣言など、国際的な男女平等の流れと連動してつくられたもの」と指摘します。 「DV防止法に反対する団体は『夫の暴力を理由にした離婚は家族を破壊する』と主張していますが、女性の犠牲の上に成り立つ家族って何ですか? 家族の出発点は安全と安心です。よい家族とは、笑顔があふれる家族ではないでしょうか。そんな家族を築くためにこそ、DVについての十分な啓発が必要なのです」 一方、つくばみらい市と同じく平川さんの講演会を1月27日に予定していた新潟県長岡市は、「DV防止法犠牲家族支援の会」などの抗議を受けながらも、予定通り開催しました。 主催の長岡市教育委員会によると、「家族の中の暴力を見聞きして傷ついた子どもの心の回復のために何ができるのか、実践に基づいたお話でした。120人が参加し、質疑応答もなごやかに進みました」。『焦る』改憲派 福島大学の中里見博准教授(憲法学)は、「今回の事件によって、他の自治体などがDV根絶のための啓発活動を自主規制するようなことがあっては絶対にならない」と強調します。 「家庭という密室で起きるDVはずっと見過ごされ、深刻化してきました。しかし被害女性と支援者の長い間の運動が実って『DVは重大な人権侵害であり、犯罪である』と法的に位置付けられたのです。社会がDV防止の活動をタブーにしてしまったら、この問題をまた密室の中に封じ込めてしまうことになります」 今回のDV防止法への攻撃は、性教育や夫婦別姓、日本軍「慰安婦」問題などへの一連の攻撃と軌を一にしている点でも、重大な事件です。中里見准教授は「憲法9条改悪とつながっている。男女平等家族では、国のためにたたかう男性もそれを支える女性も育たないという焦りがあるのではないか」と分析します。 今月1日つくばみらい市に対して、講演会中止に抗議し、再実施を求める2600人分の署名が提出されました。市は「再実施は未定。検討していきたい」と話しています。2008年2月17日 「しんぶん赤旗」日曜版 9ページ「DV講演会中止なぜ-つくばみらい市」から引用 男女共同参画とかDV防止法とか、こういうものに反対する人たちの考えは理解が困難である。ここに引用した記事にあるとおり、中里見准教授の分析があたっているのかどうか、大変興味深い。 昔、電力会社が事業を開始するに当たって、街路に電柱を立てて電線を引く計画を発表したとき、新しいことに保守的な人たちは「そんなものを作ったら、山のタヌキが電線を伝って里に下りてきて畑を荒らすことになる」と言って反対したそうだが、引用した記事のDV講演会を中止させた人たちも、そういうレベルの人たちなのかもしれない。
2009年01月13日
企業収益を労働者に分配せずに経営者や株主の配当に回すのは間違いであると、経済同友会終身幹事の品川正治(しながわまさじ)は12月28日の朝日新聞で、昨今の企業経営者を痛烈に批判している; 職を失う非正規労働者が今年10月から来年3月までに8万5千人に達すると厚生労働省が発表した。来春採用の内定を取り消された大学生や高校生も800人近くいるという。異常な数字である。 米国発の金融危機が欧州や新興国を巻き込み、実体経済に波及した。それが日本では雇用という経済社会の基本を揺るがす問題として浮かび上がっている。「構造改革なくして成長なし」という成長至上主義の呪縛にとらわれた米国型改革で派遣労働が緩和された結果、労働者が最大の犠牲を強いられている。 これまで日本の資本主義には、果実は国民が分けるという実質があった。それが修正主義と批判され、果実は株主や資本家のものという考えが幅を利かせた。いったんは回復した景気の実感さえ得られないまま、リストラという名目で労働者への分配は減らされ、浮いた利益を配当に回すことで経営者の報酬を増す。そういう米国型の経営手法が当然とされてきた。 非正規労働者を調整のための「物」とみなす風潮の横行に今年、労働者の危機感は高まった。小林多事二の小説「蟹工船」が若い人たちの間で話題となり、「搾取」という古い言葉が議論に欠かせなくなった。労働者の危機感は現実となり、いまや「路頭に迷わせるな」というこれまた古い言葉が、切実さをもって復活している。 話が飛ぶようだが、私は憲法9条を行動の指針としている。復員の船の中で初めて読んだ条文の根底に、国家ではなく、人間の目で戦争をとらえる確かな視線を感じたからだ。経済も人間の目でとらえることができるか。経営者として私は自ら問うてきた。 現状はどうか。人間の目どころか国家の目でもとらえられないものに、経済は変質した。国際金融資本や多国籍企業の視線に、国家も国民も振り回されている。痛みは大きいが、米国型金融資本主義が崩壊したことに安心さえ覚える。あと5年も米国化が進行していたら、経の変容は行き着くところまで行き、労働者も今以上に商品化されていたことだろう。 米国では80年代から進んだグローバル化も、日本で本格的に進んだのは00年以降のことだ。日本企業はまだ米国型に百%染まってはいない。役員会で労働者を切って配当を確保しようとする財務担当者に対して、雇用を守ろうと必死に主張する人事担当者がいると信じたい。 雇用の確保が成長を遅らせるという反論に対する答えはノーだ。家も借りられず結婚もできない若い労働者は、内需のマーケットから完全に除外されている。彼らの生活の再生産と将来設計を可能にする雇用の保障は、長い目でみて外需頼みから内需への転換を促す要素になるはずだ。 経営者は本来、資本家のためだけではなく、従業員や代理店などすべての利害関係者のために仕事をするものだ。いま、職と家を失った非正規労働者の受け皿を、他の企業や自治体が用意する動きが急速に広がっている。彼らは人間の目で、人間を見ている。あなたには見えますかと、経営者に聞くとよい。 (聞き手・今田幸伸)2008年12月28日 朝日新聞朝刊 12版 7ページ「人間見ようとしない経営」から引用 「構造改革なくして経済成長なし」という小泉路線の誤りを、政府は早急に修正するべきである。
2009年01月12日
秋田県では、学力調査の結果を勝手に公表した県知事を現場の教育委員会が批判していると、12月27日の朝日新聞が報道している; 全国学力調査の市町村別の結果が公表された秋田県で、県内25市町村教育委員会のうち、少なくとも15の教委が、来年度の参加について、見合わせを含めて検討することが26日分かった。朝日新聞が各教委に取材したところ、寺田典城知事が文部科学省の実施要領に反する形で公表に踏み切ったことへの反発が強く、態度を硬化させていた。 不参加を含めて検討すると答えたのは15市町村。小・中学校とも1校の藤里町教委の古川弘昭教育長は「(町の成績が公表されると)次はどの子の成績がどうだ、という話にならないか。子どもたちを見る周りの目が心配だ」。大館市教委の仲沢鋭蔵教育長は「実施要領を無視された。県や県教委を借用できない」と話した。 井川町や能代市など、すでに参加を決めていた教委も、「公表で事情が変わった」として再検討する。いずれの教委も年明け以降、教育委員会会議などで、参加、不参加を決めるという。 県教委は今秋から、公表するよう市町村教委を説得していたが、「序列化が心配」などとして反対の声が相次ぎ、数値を公表した教委はなく、25日に、寺田知事が独自の判断で公開した。 これまで学力調査に不参加だったのは、愛知県犬山市だけ。文科省は来年1月下旬までに各都道府県教委を通じて、全国の市町村教委の意向を聞くことにしている。 また、塩谷文科相は26日、会見で「公開で何をしようとしているのか。知事が教育的にこういうことでやりたいというなら、教育委員会と話をすればいい。無視して独断で発表したのはやっぱり問題じゃないですか」と批判した。2008年12月27日 朝日新聞朝刊 14版 31ページ「学力調査公表 揺れる秋田」から引用 この期に及んで文科相の、まるで他人事みたいな発言はいただけない。全国一斉にやらなくても、同じレベルの情報を得ることが可能であることは、きのう引用した朝日の社説が指摘しているとおりである。無駄なカネをかけてまでやってみて、このような混乱を引き起こすのであれば、やはり、やり方を再考するのが大人の態度というものであろう。
2009年01月11日
全国学力調査の結果を勝手に公表した秋田県知事を、12月27日の朝日新聞は社説で、次のように批判している; 秋田県の寺田知事が、文部科学省の意向に反して全市町村別の平均正答率を公表した。 全国学力調査の結果公開をめぐる混乱がいっそう広がっている。 都道府県が市町村別の結果を一覧できる形で公開するのは、序列化や過度の競争を招く恐れがあるので控える。公表するかどうかは市町村が判断し、公表する際は結果だけではなく対策も合わせて明らかにする。これが文科省が決めたルールである。 これに対し、寺田知事は「公教育はプライバシーを除いて公開が基本」「有益な情報がごく一部の教育関係者に独占されている」などとして公開に踏み切った。 寺田知事は、以前から記者会見などで公表の意向を明らかにしていた。とはいえ、突然の発表は各市町村の教育委員会どころか県の教育委員長らにも寝耳に水だったようだ。 しかも、大阪府の橋下知事の場合とは違い、どの市町村も自らは公表しない意向だったにもかかわらず頭越しに強行した。 このやり方は乱暴にすぎる。朝日新聞の調査に秋田県内の市町村の約半数が、来年度からの参加について見合わせを含め検討する意向を示したのも当然だろう。 ただ、知事が公表に踏み切った理由そのものについては、同意できないわけではない。情報公開の観点からみても当然だ。追随する自治体が出てくるかも知れない。 何よりあきれるのは、この流れに右往左往している文科省の姿である。 文科省は、全国学力調査を40年ぶりに復活するにあたって、かつての教訓から過度の競争や序列化を再燃させないように配慮したという。都道府県による市町村別結果の公表をひかえさせたことも、そのためだった。 確かに知事が発表するという秋田の例は想定外だったかもしれない。しかし、情報公開請求があれば公開せざるを得ない事態に陥ることは十分に予憩されたことだ。文科省が県別の成績は自ら公表しておきながら、都道府県には市町村別の公開を禁じるというのは何とも筋が通らない。 そもそも制度設計に無理があったのだ。今頃になって文科相に「悩ましい」と嘆かれても困る。 ここで考えるべきは、こんな混乱を招きながら調査を続ける必要があるのか、ということだ。 文科省は、学力の状況を全国的に把握し、指導に生かすためとして調査を始めた。全員参加としたため、毎年50億円以上にのぼる予算と膨大な手間がかかる。しかし、そこで得られる結果は抽出調査でも十分可能だ。 この費用があれば、どれだけ教員や学校施設の充実に回せるだろうか。2008年12月27日 朝日新聞朝刊 14版 3ページ「勇気ある撤退を求める」から引用 直属の県教委にも相談しないで公表したというのは、確かに暴挙と言われてもしかたがない。知事とは言いながら、寺田典城氏は教育については素人である。学力調査の結果を「有益な情報」などと言っているが、どのような意味で有益なのか、首をかしげざるを得ない。教育はスポーツではないから、テストの点数で優劣を競うという発想からして間違っている。
2009年01月10日
いわゆる「田母神論文」の内容のどこが史実と相異するのか、12月7日の「しんぶん赤旗」日曜版は、次のように分析している; 12月8日、太平洋戦争開戦から67年を迎えます。田母神前空幕長は論文で「日本が侵略国家だったなどというのは濡れ衣(ぬれぎぬ)」と史実をさかさまに描いています。「満州事変」から日中戦争、太平洋戦争はどういう性格の戦争だったのか。当時の政府文書などをもとに見てみました。「満州事変」(柳条湖事件)(1931年9月) 日本の中国侵略が公然と始まり、その後の日中対立の起源になったのが1931年9月の「満州事変」(柳条湖事件)です。田母神論文はこの事件には一切言及がありません。それには理由がありました。 「今回の事件は、まったく軍部の計画的行動に出たものと想像される」 事件翌日の9月19日、外務省在奉天林総領事はそう報告する電報を打っています。 実際に奉天(現在の濱陽)郊外の柳条湖で満鉄の線路を爆破したのは関東軍(「満州」に駐屯した日本軍)。日本軍はこれを中国軍のしわざだとして満鉄沿線を占領します。 日本政府は外務省の報告で、事件の真相を翌日には知りながら、中国側を非難する声明を出しました。 事件は関東軍によるものという事実は、田母神氏も否定することができません。日中戦争(1937年7月~) 1937年、中国への全面的な侵略戦争が開始されます。 政府は、翌年1月、天皇が出席し、国家の最高戦争指導機関である御前会議で、日中戦争への対応を決めます。 「支那(中国)現中央政府が和を求めてこない場合は、帝国は今後これを相手とする事変解決に期待を掛けず、新興支那政権の成立を助長し、現政府に対しては、帝国は壊滅を図る」(1938年1月、御前会議決定の「支那事変」処理根本方 針) このとき、中国側に日本が講和条約交渉の条件として要求したのが、以下の項目です。▽中国は満州国を承認する▽中国は排日反満州政策を放棄する▽北京を中心とする華北地方と内モンゴルに非武装地帯を設定し、日本軍を駐屯させる▽上海などを中心とする日本軍占領地域にも非武装地帯を設定し、日本軍を駐屯させる この戦争目的は以後も繰り返し確認されます。中国東北部、華北、内モンゴルの支配権を獲得し、上海などその他の地域についても軍事的、政治的、経済的な支配におきたいという狙いが示されています。「生存圏」決定(1940年9月) 日本が侵略の矛先を向けたのは中国大陸だけではありません。 太平洋戦争開戦1年以上前の1940年9月、政府と軍の戦争指導機関である大本営政府連絡会議は日本の「生存圏」の範囲を次のように決めました。 「皇国の大東亜新秩序建設のための生存圏として考慮すべき範囲は、日満支(日本・満州・中国)を根幹とし、旧独領委任統治諸島、仏領インド〔インドシナ〕および同太平洋島峡(とうしょ)、タイ国、英領マレー、英領ボルネオ、蘭領東インド、ビルマ、オーストラリア、ニュージーランドならびにインド等とす」 日独伊の3国軍事同盟を結ぶにあたって、東南アジアから太平洋の全域、インドにいたる広大な地域を、日本の勢力圏として承認を得たいという願望が見えます。 田母神氏は、太平洋戦争はルーズベルト米大統領の仕掛けた罠にはまったといいます。しかし、1940年7月の「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」(大本営政府連絡会議決定)で、日本は北部仏印(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)進駐を決定。9月に進駐を開始し、フランスやイギリス、オランダなどとの対立を決定的にします。 開戦1カ月前の1941年11月2日には「帝国国策遂行要領」で「対米英蘭戦争を決意」。対米英戦争を12月上旬に起こし、戦争準備を完遂することを決めます。 太平洋戦争はまさに日本が主導的に起こした戦争だったのです。「御前会議」(43年5月) 1941年8月、米英が発表した大西洋憲章がかかげた「領土不拡大」「主権の回復」などは、戦後の国際秩序の重要な原則になりました。 それに対抗して日本が発表したのが「大東亜共同宣言」(43年11月)です。この会議に向け、43年5月に「御前会議」で決めた「大東亜政略指導大綱」には、日本の本音が書いてありました。 「『マライ』『スマトラ』『ジャワ』『ボルネオ』『セレベス』は帝国領土と決定し重要資源の供給地として極力開発ならびに民心把握に努む」 石油やゴム、スズなどの産地であるこれらの地域は資源のために帝国領土とするという、日本に都合の良い議論を展開し、しかもこの部分は「当分発表せず」としていたのです。 太平洋戦争の目的は、アジア・太平洋地域での日本の支配の確立と領土拡大にあったことをこれらの政府文書は物語っています。 田母神氏は日本の戦争で「多くのアジア・アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった」などと自賛しています。 現実はどうか。 1951年のサンフランシスコ講和会議で、日本の戦争のおかげで独立を果たしたと感謝を述べた国があったかと問われた日本政府はこう答弁しました。 「そのような国はなかった」(1988年5月、参院外務委員会)2008年12月7日 「しんぶん赤旗」日曜版 10ページ「日本の国家と侵略戦争の真実」から引用 「田母神論文」の内容がデタラメであることは、世間が周知するところであるが、個々のテーマによっては必ずしもそうとは言えず、当ブログの常連コメンテーターの中にも、日本軍の侵攻は東南アジア諸国が独立する手助けになったなどと妄想をいだいている者がいる。しかし、実際のところは、政府答弁のとおり、そのような国はない。
2009年01月09日
大佛次郎論壇賞を受賞した反貧困ネットワーク事務局長の湯浅誠氏は、12月17日の朝日新聞に寄稿して、次のように述べている; 今回、大変栄誉ある賞を受賞させていただいたが、率直に言って、複雑な思いがある。 『反貧困』という本を書いて、貧困などないと言われてきた日本の貧困の実態を告発し、それに抗する人々の奮闘を描いたわけだが、では状況が劇的に変化したかと言えば、大きくは変化していない。 すでに大量の報道が出ているように、世界同時不況の影響で製造業の現場では「派遣切り」が横行している。単なる雇い止めを超えて、違法な予告手当なしの中途解雇も少なくない。もちろん被害は製造業非正規に止(とど)まらず、建設業・サービス業等にも波及し始めている。 私の所属するNPOもやいにも、相談者が訪れ始めている。キヤノンのある工場で働く派遣労働者は、05年から偽装請負→派遣→請負とめまぐるしく雇用形態を変更させられながらも、3年以上まじめに働き続けてきたが、今月4日から待機を命じられた。期間満了を迎える25日には、あっけなく更新を拒絶され、仕事を失い寮も追い出されるのではないかと不安のどん底にある。 回の不況「人災」 日本経済にとって、今回の米国発不況は「天災」のように言われることがある。しかし、アメリカン・スタンダードをグローバル・スタンダードと言い換えて、新自由主義的資本主義に無批判に追随してきた経営者団体、規制改革会議・経済財政諮問会議等の責任は大きく、その意味では「人災」である。にもかかわらず、反省の弁は聞こえてこない。結局、自己責任論とは、自己責任を棚上げする人たちが主張していたものなのだ。私たちが、そんな下劣なものに引きずられる必要はない。 私たちの取るべき責任は他にある。それは、市民生活が健全に保たれるように政府・企業を監視し、法を守らせ、一人一人の命と暮らしを守る政治を行わせる、という責任である。「お金がないから仕方ない、不況だから仕方ない」と言って、結果的に覇者の命を削ることになる政策を採用しようとする政治家は、いくらでもいる。しかしそのとき、医者は「この患者を見殺しにしろと言うのか」と、介護ヘルパーは「この寝たきりのお年寄りを放置しろと言うのか」と、労働者は「今日まで一緒に働いてきたこの仲間を路上に放り出せと言うのか」と異議申し立てしなければならない。それが、市民としての責任だ。 私たちの毎日は、「この人、あの人」と名指せるような家族・友人・同僚らとの身近な関係の中にあり、その一人が苦しんでいれば心ざわつき、死ねば悲しい。それが私たち市民の日常であり、その平凡な生活を守るのが政治の役割に他ならない。難しそうな顔をして国家財政の危機を語る政治家に、私たちは一瞬もひるむことなく、「この命、この生活を守れないならば、あんたは政治家失格だから退場しなさい」と言っていい。 そうするとすぐに「では財源はどうするのだ」と威嚇されることがある。2年前まで、私たちにとって「埋蔵金」など存在しなかった。しかしそれが「ある」ということになった。私たちに真実は伝えられておらず、したがって正確な判断もできない。それは私たちの責任ではない。「財源問題は、すべてがきちんと整理されて公開してくれるなら検討しますよ」と答えればよく、そんな威嚇にひるむ必要はない。 主権は民にある 結局、私たちはナメられてきたのだ、と思う。自らの責任を棚上げしたところでの自己責任論や、情報公開なき財政危機論で黙らせられる、と見くびられてきた。私たちに責任があるとしたら、そこにこそ責任がある。私たちは、どんな悪政にも黙って付き従う羊の群れではない、と示さなければならない。政権を担う人たちには、私たちを恐れてもらわなければいけない。そのとき初めて社会は健全となり、悪化し続けてきた世の中に、折り返し点がもたらされるだろう。主権は民に在る。私たちはもう一度、その原点を思い起こすべきだ。2008年12月17日 朝日新聞朝刊 13版 28ページ「回顧2008-政治の監視、市民の責任」から引用 憲法に「主権在民」と書き込んで60年以上たつが、一人一人の国民の自覚はまだ不十分である。だから、官僚や政治家は財源が無いなどと言って自衛隊の武器を購入する傍ら、社会保障費を減らしてきた。その結果、格差社会の到来となってしまった。この不正な状態を是正するには、まず「主権在民」を自覚することが重要である。 トヨタ、ソニー、キャノン等の大企業は過去数十年間、十兆円を超える莫大な内部留保を溜め込んできており、2年や3年赤字決算したところでビクともしない体力を持っている。そんなことはおくびにも出さずに、赤字だから人を減らすなどという資本家の横暴を許してはならない。
2009年01月08日
内海愛子著「キムはなぜ裁かれたのか」(朝日選書)について、立命館大学教授・赤澤史朗氏は、12月14日の朝日新聞に次のような書評を書いている; 戦後60年以上たつのに、日本の戦争責任の問題は終わっていない。それは日本政府による戦争被害者への補償が、公平さを欠いていたためである。また戦争の被害と加害の問題は入り組んでいて、理解が難しいからでもある。本書は、朝鮮人元BC級戦犯の運命に焦点を当てて、戦争責任の問題を考察したものだ。 BC級戦犯裁判は、捕虜を虐待した罪で裁かれることが多かった。戦犯裁判の記録から知られるのは、南方の捕虜収容所の凄惨(せいさん)な実態である。そこでは捕虜の食糧と医薬品が決定的に不足しており、コレラや赤痢の伝染病患者が急増していく。 軍は捕虜を使って飛行場や鉄道を建設することを決めながら、捕虜の生存の条件を配慮しなかった。現場では無理な完成予定に合わせて病人まで駆り出して使役し、多くの捕虜が死ぬ結果となった。日本の軍や外務省は、捕虜を過酷に扱えば国際問題化するという認識が乏しく、捕虜の国際法上の権利を守ろうとは考えていなかった。 他方で収容所の末端の監視員には、朝鮮人などの軍属があてられていた。戦後に戦犯として裁かれた彼らには、捕虜の扱いについての権限が小さいのに虐待の責任を問われたことへの不条理感があった。また本国が独立したのに、過去に日本人であった資格で裁かれることを、納得しかねていた。 連合国の戦犯裁判の記録と朝鮮人元戦犯の証言とには、食い違いもある。だが著者は両者を付き合わせて事実を究明し、どちらも戦犯裁判の全体像を理解する一部だと位置づけている。 著者はかつて『朝鮮人BC級戦犯の記録』で朝鮮人戦犯が、日本人戦犯には与えられた補償の支給からは除外される差別を描いた。その状況は今も変わっていない。その後著者は、欧米人捕虜の残酷な被害の実態や、その虐待が日本軍の捕虜政策の構造的な特質に由来していたことを解明してきた。簡潔な記述の中にも、著者が発掘してきた戦争責任問題への多角的な視点が、詰め込まれている好著といえよう。2008年12月14日 朝日新聞朝刊 12版 13ページ「キムはなぜ裁かれたのか-戦争責任問題への多角的な視点」から引用 このような研究がますます進んで、現在と将来の日本人に過去の戦争の実態や問題点が明らかになることを希望します。
2009年01月07日
永住外国人の選挙権付与に前向きの民主党と公明党を、永住外国人の団体が選挙応援することになったと、12月12日の朝日新聞が報道している; 在日本大韓民国民団(民団)が次期衆院選で、永住外国人選挙権付与に賛同する民主、公明両党候補を支援することになった。民団は衆院選を選挙権付与の「天王山」と位置づけており、選挙戦に一定の影響を与えそうだ。 民主党の小沢代表は11日、東京都内であった民団中央本部の会合に出席して連携を確認。「我々が多数を形成すれば、日韓の残された懸案を着実に処理します。ご理解いただき大変ありがたい」と謝意を伝えた。 小沢氏は2月、韓国で就任直前の李明博(イミョンバク)大統領と会談し選挙権付与への積極姿勢を表明。党の諮問委員会も「付与すべきだ」とする答申を出した。民団側はこうした経緯をふまえ、鄭進団長らが9月、民主党本部に小沢氏を訪ねて支援の意向を伝えていた。 民団は在日韓国人ら約50万人で構成。民主党側は、日本国籍を取得した人を含めた有権者への呼びかけなど、「かつてない規模の支援が見込まれる」(小沢氏側近議員)と期待している。 ただ、付与法案には党内に慎重論があり、法案化作業は停滞。公明党提出の法案も成立のめどは立っていない。民団の支援は賛成派候補を集中的に後押しすることで膠着(こうちゃく)状態を打破する狙いがあり、将来の「民公連携」の誘い水になる可能性もありそうだ。 (松田京平)2008年12月12日 朝日新聞朝刊 14版 4ページ「民団、民・公を選挙支援へ-永住外国人に選挙権期待」から引用 党内に慎重論があるとは言うものの、民主党の前向きの姿勢は評価されるべきである。そのような姿勢で支持の輪を広げていって、ぜひとも次回の総選挙では過半数を制して政権を奪取してほしいものだ。民主主義に背を向ける自民党は世の中の進歩から取り残されるという、良い教訓になるであろう。
2009年01月06日
先月、朝日新聞社と東京大学が共同で行った次期総選挙の立候補予定者に対するアンケートの結果、自民・民主両党の候補者とも憲法改正への意欲が減退していることが分かった、と12月12日の朝日新聞が伝えている; 次期衆院選の立候補予定者に対する朝日・東大共同調査では、一時高まった憲法改正の機運が薄れてきている様子がうかがえた。 「改正すべきだ」から「改正すべきではない」までの5段階で考えを聞いたところ、民主は「改正すべきだ」が21%で、05年調査(46%)から半減した。自民も05年の87%から75%に減った。 次期衆院選で「最も重視する政策」を選んでもらったところ、「憲法」は自民、民主ともにゼロ。自民は72%が「景気対策」と答えた。民主党も「その他」を除けば「景気対策」が最多だったが、18%にとどまり、年金の15%、医療の11%が続いた。 05年は自民党が憲法改正草案をまとめた年。07年には憲法改正の手続きを定める国民投票法が成立したが、その後は改憲の旗を振った安倍首相が退陣し、憲法審査会も開けずにいる。一方で不況が深まり、暮らしに直結する課題への対応を優先せざるをえない。そんな状況が反映したといえそうだ。 9条については、自民の83%が「変える方がよい」と答えたのに対し、民主は78%が「変えない方がよい」で、両党の立候補予定者の意識には大きな開きがあった。2008年12月12日 朝日新聞朝刊 14版 4ページ「朝日東大共同調査-改憲機運 自・民とも薄れる」から引用 安倍内閣の性急な改憲への動きに対して、当時の参院選で国民が「NO」の意思表示をしたことが、今回の調査に現れている。国民の暮らしは、憲法の不備によって困窮しているわけではないので、そうなるのは当然である。 民主党の枝野議員は改憲派と言われているが、彼の改憲の目的は「立憲主義を鍛えるために改憲するのだ」と言っている。そのような方向での憲法改正なら、検討しても良いのではないかと私は思う。 しかし、大部分の自民党の改憲派は「立憲主義」の意味を理解しておらず、憲法の中に「国民が守るべき義務」などというものを書き込もうなどと言っている。私はそういう低レベルの議論には反対である。また、大部分の自民党の改憲派の目的は、憲法9条を変えることである。これは、憲法学上も認められない。国民主権と平和主義、人権尊重は、わが国憲法の基本原則であって、これを変更するということは、「憲法改正」の域を超えた「国家の基本原理の否定」、すなわちクーデターに等しい許されざる行為である。そういう意味で、私は自民党や右派の人々が主張する改憲論に反対である。 なお、「立憲主義」については下記のサイトに詳しい解説があるので、ぜひとも参照していただきたいものである。 「伊藤真のけんぽう手習い塾」http://www.magazine9.jp/juku/003/index.html
2009年01月05日
わずか2ヶ月前に「選挙に勝てる顔」などと称して麻生氏を総裁に選んでおきながら、ちょっと支持率が下がったからといって手のひらを返すような動きが起こったことに対して、有権者の怒りの投書が、12月12日の朝日新聞に掲載された; 新聞によれば、麻生首相の支持率が下がったとか求心力がなくなったとかで、首相の足を引っ張る動きが目立ち、自民党の中がごたごたしているようである。 だが、よく考えてみてもらいたい。わずか2カ月余り前、麻生氏を圧倒的多数で総裁、首相に選んだのは自民党議員らではないか。政策がうまく進まない責任を首相に押し付け、次の選挙で負けるかも知れないと、首相に背を向けるなど国民に対する背倍行為ではないか。 自分たちが選んだ総理総裁なのだから、良い政策をみなで考え、あくまでも首相を支えていく。それが人倫の道だ。党利党略ならまだしも『個利個略』によって右往左往することは、自民党の公認をもらって議員に選ばれた者として恥ずかしくないのか。 私は社会的常識に欠けると言われた医師の一人であるが、この程度の常識は持ち合わせている。自民党を支持する団体の一員であるが、もう自民党には投票できない。2008年12月12日 朝日新聞朝刊 12版 18ページ「声-首相を支えぬ自民情けない」から引用 私は自民党支持ではないので、この党の中がどうなろうと知ったことではないが、しかし、はたから見ても自民党員の言動はおかしいと思う。小泉、安倍、福田、麻生と、どれも自民党員は国民に受けがいいはずと思って総裁にしたのであったが、当たったのは小泉だけで、あとの3人はハズレだった。そもそも、総裁を選ぶのに、ろくな政策論争もなく、ルックスや家柄などで有権者の支持を得ることが可能だなどと考えている時点で、有権者をバカにしている。そういう政党から有権者が離反していくのは理の当然というものであろう。自民党はもう終わったと言っていいのではないだろうか。
2009年01月04日
おととい昨日と引用した山田氏の論文で、大日本帝国憲法の条文を根拠にした天皇の戦争責任否定や、昭和天皇が戦争について詳しく知らされていなかったという理由で責任がないとする主張は成り立たないことが論証された。 それでは、何故、東京裁判ではその責任が問われることがなかったのか。同論文は、終章で次のように述べている; <戦争責任>を<敗戦責任>と置き換えることで、天皇とそれに連なる権力機構の相当の部分を温存することに成功した日本の「終戦」のあり方そのものが、天皇の<戦争責任>回避のための政治過程であったといえる。天皇の「聖断」という形で「終戦」をむかえ、連合国による東京裁判が始まるまでの間に、日本の国家権力内において<戦争責任>の配分(責任のがれと責任の押しつけ)がおこなわれた。天皇と宮中側近、旧重臣の一部(米内光政(よないみつまさ)・岡田啓介(おかだけいすけ)・若槻礼次郎(わかつきれいじろう)ら)が、GHQ関係者と連絡をとりつつ、天皇の「潔白」を主張し、<戦争責任>を陸軍を中心とする三国同盟推進派に押しつけていく。GHQ側も、天皇の<戦争責任>問題を棚上げにし、天皇を占領政策の同盟者に引き込んでいくのである。 一般に、アメリカは占領政策に利用するために天皇制を存続させた、と論じられることが多い。だが、アメリカ政府にとってみれば、戦時中に日本軍国主義の中心人物として世界に宣伝してきた昭和天皇と、戦争が終わったからといってすぐに手を結ぶのは、内外の世論対策という点からするとむしろ危険なカケであった。アメリカが利用したいのは、昭和天皇のカリスマ性であって、必ずしもシステムとしての天皇制そのものではなかったと思われる。したがって、アメリカにとって天皇制の利用・存続は、昭和天皇の天皇在位が前提となる。もちろん、天皇利用を内外世論に納得させるためには天皇が「無罪潔白」であることがどうしても必要であった。 マッカーサーは、軍事秘書ボナ・フエラーズ准将の進言をいれて、調査なしで天皇個人を利用することに決した。マッカーサーがこの判断をくだすにあたっては、1945年9月27日に、天皇自身がアメリカ大使館に赴き、占領政策への積極的協力をみずから申し出たこと(天皇・マッカーサー第一回会談)が大きな影響を与えたと思われる。 マッカーサーにとって、占領政策の積極的協力者であることをみずから表明した昭和天皇の利用価値はきわめて高かった。だが、体制内にあっても、昭和天皇を退位させることで天皇制を維持しようとしていた勢力は、むしろ占領統治にとって邪魔者でさえあった。それゆえ、東久邇宮(ひがしくにのみや)は早々に失脚せざるをえず、最も急進的な退位論者であった近衛文麿(このえふみまろ)にいたっては、GHQの「協力者」の地位から一変してA級戦犯容疑者とされてしまった。 GHQによるこうした路線と日本の保守勢力の思惑を根底でささえたのが、昭和天皇自身に退位の意思がなかったという事実である。天皇は、一時的に退位について口にしたことはあったが、近衛らが想定した天皇退位、高松宮摂政という路線に根本的に反対であり、自分自身が在位し続けることこそが天皇制を存続・安定させる唯一の道だと信じていたのである。参考文献H・ビックス『昭和天皇』上下 (講談社、2002年)藤原彰『昭和天皇の十五年戦争』 (青木書店、1991年)山田朗『昭和天皇の軍事思想と戦略』 (校倉書房、2002年)吉田裕『昭和天皇の終戦史』 (岩波新書、1992年)歴史科学協議会-編 木村茂光・山田朗-監修「天皇・天皇制をよむ」東京大学出版会刊 251ページ「日本の敗戦と天皇の<戦争責任>回避」から引用 戦争で負けるまでは国のトップとして国民を支配していたが、負けたら今度は進駐軍司令官に協力を申し出て、己の責任を免れることに成功したのが昭和天皇であった。
2009年01月03日
昨日の日記に引用した山田氏の論文では、天皇の戦争責任否定論が根拠とする(1)大日本帝国憲法の規定(2)天皇制政府の実態のうち、「(1)大日本帝国憲法の規定」を詳しく検討すると天皇の戦争責任を否定する根拠にはならないことを論じたが、「(2)天皇制政府の実態」を見た場合はどうか。同論文は次のように述べている; 天皇の<戦争責任>否定論の第二の類型は、「実態」からの<戦争責任>否定論、すなわち天皇の実質的権限の否定、軍部・政府の天皇無視などを根拠とする否定論である。つまり、天皇は一種のロボットで、政策決定や戦争遂行に主体的に関与しなかったとか、天皇は戦況を知らされていなかった、といった類の議論である。 近年の歴史学的な諸研究の蓄積・進展によって、天皇の「実態」からする<戦争責任>否定論は、すくなくとも学説レベルでは、かなり克服されたといってよい。昭和天皇は、国家意思形成、とりわけ軍事戦略・作戦の決定に際して、しばしば重大な役割を果たしてきた。昭和天皇は、陸海軍から量・質ともに当時としては最高レベルの軍事情報を毎日「戦況上奏」として提供されていたし、その情報が意味することを理解し、軍がとるべき手段について独自に検討する軍事的知識と能力を有していた。国家意思の発動、とりわけ軍の機関意思の発動としての戦略・作戦の決定に天皇は、随所で様々なレベルの影響をあたえていたのである。 昭和天皇は、十五年戦争の期間に、大元帥としての自覚と能力をしだいに高めつつ、軍部が提供する軍事情報とみずからの戦略判断を基礎に、国家指導層への「御下問」「御言葉」を通じて国家意思形成(戦争指導・作戦指導)に深くかかわった。天皇は戦略や作戦について、統帥部の方針や具体化の方法をかならずしも無条件で認めていたわけではない。 十五年戦争における戦略・作戦の決定という問題に限定しても、様々な場面において、昭和天皇が国家意思の形成に具体的な影響を与えている。 また、二・二六事件や1945年8月9-10日・14日の御前会議(いわゆる「終戦の聖断」)などの事例に見られるように、通常の国家意思決定システムが不完全にしか機能しない時に、天皇という機関が国家意思の最終決定システムとしての役割を果たした。これは、明治憲法体制のもとで、天皇という機関こそが、究極の危機管理システムであったことも示している。歴史科学協議会-編 木村茂光・山田朗-監修「天皇・天皇制をよむ」東京大学出版会刊 251ページ「『大元帥』の実態を無視した『天皇ロボット』論」から引用 敗戦直後に多くの政府資料が意図的に焼失したとは言え、残された史料も多く、御前会議での天皇の発言なども検討すると、とても軍部や政府のロボットだったとは言えないわけで、戦争責任は明白である。
2009年01月02日
戦前の大日本帝国憲法では、天皇がこの国を統治する者として立法・行政・司法の頂点に君臨したのであるから、その天皇の命令で行った戦争について天皇が責任を問われるのは当然のことである。ところが、世の中には「天皇の政治的行為はすべて国務大臣の副署なしには有効にはならなかったし、旧憲法55条には『国務各大臣が天皇を輔弼しその責に任す』と規定されているから、天皇には一切責任が無い」と主張するものがいる。そのような主張のどこが間違いか、明治大学文学部教授・山田朗氏は、「天皇・天皇制をよむ」(東京大学出版会刊)の中で次のように述べている;戦前の政治実態を無視した<天皇無答責論> 天皇の戦争責任を否定しょうとする論は、大別して、(1)天皇の法的機能からの、すなわち<天皇無答責(むとうせき)論>を中心とする大日本帝国憲法の条文を根拠とする否定論と、(2)天皇の「実態」からの否定論、すなわち天皇は実質的に統帥(とうすい)大権を行使したり、戦略・作戦の決定に関与したりすることはなかったのだから責任も生じないとする否定論がある。 天皇の<戦争責任>否定論の第一の類型は、天皇の憲法上の機能からの<戦争責任>否定論である。それには大別して、大日本帝国憲法第3条「天皇ハ神聖こシテ侵スヘカラス」(天皇神聖条項)を根拠とする<天皇無答責論>と、第55条「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼(ほひつ)シ其ノ責ニ任ス」(国務大臣の輔弼条項)を根拠とする<輔弼機関答責論>とがある。両者は、天皇は責任を負うべき存在ではなく、責任は輔弼者たる内閣が負うという表裏一体の関係にある。大日本帝国憲法の天皇神聖条項を根拠とする<天皇無答責論>は、そもそも旧憲法の条文解釈という以前に、立憲君主制=君主無答責、という考えが暗黙の前提となっている。西欧の立憲君主国の憲法には、神聖条項とはセットになって明確な無答責条項が盛り込まれていることが多いからである。つまり、大日本帝国憲法第3条の神聖条項にもとづく<天皇無答責論>は、一種の拡大解釈であり、立憲君主制=君主無答責という西欧の理念が前提となっているのである。しかし、大日本帝国憲法における天皇の地位を、実質的な国民主権と両立する可能性を内包している西欧の立憲君主と同等とする論にはそもそも無理がある。 <天皇無答責論>と表裏一体の関係にあるのが、大日本帝国憲法第五五条を根拠にした<輔弼機関答責論>である。第55条には、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責二任ス (2)凡テ法律勅令其ノ他国務こ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」とあり、輔弼責任者である国務大臣の副署なくしては天皇は大権を行使できず、政策の結果生じた諸問題については、政府(内閣)が総ての責任を負う、という解釈である。この解釈を拡大すると、天皇は、国家意思の決定としての政策の裁可に際しては、すべて政府の意向に従い、天皇の意思をさしはさむ余地はなく、政策を左右する権限はない、ゆえに政策の結果生じた問題についても責任を負う存在にはなり得ない、との論理となる。昭和天皇自身による戦後における弁明も、まさにこの論理である。 しかし、<輔弼機関答責論>も、昭和戦前期の日本における統帥権の独立という政治実態を全く無視した議論である。憲法第55条は、軍事命令発令の責任の所在については全く触れておらず、第11条の統帥権の発動にともなう責任については、発令者たる天皇にしか帰することができないのである。軍令機関(参謀本部・軍令部)の長である参謀総長や軍令部総長は、明確に責任が規定された輔弼者ではなく、天皇に直属する幕僚長であり、大元帥・天皇の命令を「伝宣」(伝達)する権限しかもたなかったのである。 つまり、天皇の法的機能を根拠とする否定論は、立憲君主制の一般的な理念を前提とし、むしろ大日本帝国憲法が運用されていた、とりわけ昭和戦前期の政治体制の実態にはそぐわない議論であるといわざるをえない。歴史科学協議会-編 木村茂光・山田朗-監修「天皇・天皇制をよむ」東京大学出版会刊 250ページ「昭和天皇と戦争責任」から引用 戦後何回か、昭和天皇は戦争について発言し自分は憲法の規定に従って行動しただけであって、ことさら責任を問われる立場ではないと言ったが、それは過去の実態を無視した言い訳に過ぎなかったということである。
2009年01月01日
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