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小田若菜 『サラ金嬢のないしょ話』講談社文庫サラ金嬢によるサラ金業界内情解説本。ドラマチックな暴露が載っているわけではないが、その道には疎いので「なるほどね」と楽しみながら読めた。本を読む分には面白いのだが、お世話にはなりたくない。読後ネットサーフィンをしていると、サラ金に関するホームページがごろごろ。本以上に生々しそうなオーラに怯み結局詳しくは見ていないのだが…。この手のエッセイは、世の中にはいろいろなことがあるということを知る機会になる。次はどんな業界のものを読もうか。
2006.09.30
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ルース・ベネディクト『菊と刀 日本文化の型』講談社学術文庫 “菊と優美と刀の殺伐”日本人論の源流。日本人にとっても勉強になる。現代の日本人から見て違和感を覚えた点もいくつかあるが、本質的な指摘は鋭く説得力もある。ただ、昔の小説や映画や歌に出てくる古き良き日本の話を読んでいるような、どこかくすぐったい気分にさせられた。では、いまの日本には当てはまらないのかといえばそうでもない。何気ない日常のあれこれを振り返って考えてみると、指摘されたとおりであることも多い。敗戦で変わったところもあるが、本質的なところはそう簡単に変わらないのだろう。今日の日本人も、恩と義理を蔑ろにすることは出来ない。また、私も常に恥をかかぬようにとビクビクしている。侮辱を受けると憤りを覚え、汚名をすすがねばならぬと思う。高校での勉強方法は正に日本的で、精神主義的な苦行のごとき修養だった。ただ、義務や義理、恩に報いるといったことへの意識は、近年低下傾向にある気がする。ある意味当たり前すぎてこれまで特に意識してはいなかったのだが、日本人にはとても多くのことが要求されている。よき日本人であるということは簡単ではない。
2006.09.23
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石原慎太郎『太陽の季節』新潮文庫1955年に発表され、賞賛と非難を巻き起こした問題作。発表当時、このかなり無軌道で出鱈目なアンモラルな若者像は、新鮮な衝撃を社会に与えた。しかし時は流れ、もはや時代はこの小説を追い越したのかもしれない。もっと陰惨で救いようのないような悲劇的な事件が新聞やテレビで伝えられる。とは言うものの、私のような平凡な若者にとっては、いま読んでも『太陽の季節』は衝撃的な話である。そこまで自由奔放な生き方は、私には無理だし、またしたいとも思わない。しかし、もう少しは大胆に生きてみるのも悪くないのかもしれない。私は人から、若者らしくないといわれているのが、どうもそれは既製の価値や倫理に縛られすぎているからだろうと思う。まあ単に趣味が古臭いだけなのかもしれないが。それはともかく、この本を読んで若者らしさに対する憧れのようなものを覚えた。ただ、当時の流行した若者像と、現代の気の利いた若者像とは違う。では、いまどきの若者のトレンドに憧れるのかといえば、正直分からない。
2006.09.19
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阿川弘之 北杜夫『酔生夢死か、起死回生か。』新潮文庫阿川弘之と北杜夫の対談集。別に今日が敬老の日だからというわけではないが、老大作家先生の文壇交遊録を読む。確かにこれは若い者にはちょっと真似できない作品。
2006.09.18
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加藤典洋『敗戦後論』ちくま文庫「戦後」とは何か?文学と政治から「戦後」の問題を検討する、ラディカルな評論集。そもそもの前提として、先の戦争を「義」のない侵略戦争と捉える見方に賛同しかねるのだが、そのことはさておき、本書の感想をば。戦没者の追悼については後ほどまた詳しく感想を書く。憲法のねじれについては、まったく持ってその通りだと思う。武力を放棄する憲法を武力で押し付けられる。国民の手で改憲できれば良かったが出来なかった。次第に価値を否定できないと感じるようになっただけでなく、説得される主体ごと変わってしまった。加藤氏は、「ねじれているが、よいものだ、という形にしない限り、わたし達自身に抑圧さ、わたし達は、最初からこの平和憲法を実質的には自分で欲したのだと考えるか、最初からこの平和憲法を欲していないし、いまも欲していないのだと考えるしかなくなる」と書く。まあ、戦後60年もこのねじれをねじれと意識することなく、あるいは意図的に無視してきたのだから、タイミングを完全に逸してしまった以上、ねじれているがよいものだと言いながら、状況に解釈をあわせ続けることになるのだろう。火事の中で、自分の上に誰かが覆い被さったため助かった人が、自分を守って死んだ人を否定する。加藤典洋は、戦後日本による先の戦争の否定をこのように例える。この例えは分かりやすい。日本の戦没者をどう捉えるかという問題を考えるときに、このような例えは有用なイメージだ。革新的な人は、二千万人(この本では二千万人ということになっていた)のアジアの死者への謝罪を声高に叫び、「悪辣な侵略者」にほかならない自国の死者を見殺しにする。一方で保守的な人は自国の死者を清い存在として弔おうとする。この対立の構造は、二つの異なる人格間の対立ではなく一つの人格の分裂であると、本書で加藤氏は主張する。「内的自己」は弁護し、「外的自己」は詫びる。この分裂が、一人の政治家があるときは「日本は正しい」といい、あるときは「日本は間違っていた」という矛盾した発言を繰り返す理由である。本書は、日本が心から謝罪をするためには、ジキル氏とハイド氏の人格分裂を克服しなければならない、また人格の統合によって国民というナショナルなものの回復が可能となる、と結論付ける。この人格の分裂説はなかなか面白い。あの戦争を否定する立場の人にとっても、いつまでも自国の死者を蔑ろにし続けることは厳しい。また、あの戦争に大義があったとの主張は、なんとかして失言や妄言の類にし、分裂を克服して謝罪主体を構築しなければいけない。そのような文脈では、完全に賛同することは出来ないが、納得は出来る。保守と革新の分裂のみならず、特定の主義主張を持っていない現代人は個人の中にその分裂を抱えていそうだ。私の友人が時々ちぐはぐな事を言うのも、大方「内的自己」と「外的自己」が葛藤しているからだろう。斯く言う私さえ分裂していないとは言い切れないという気になってくる。しかし、これはそもそも「義のない、悪い戦争で死んだ使者を、残された者はどう弔うのがよいのか」という議論で、あの戦争に大義があったとする立場あるいは義のあるなし以前に自衛のための不可避の戦争だったとする立場から見ると、腑に落ちないものがある。確かに国民というナショナルなものの回復は大事だ。しかし、すべての日本人があの戦争について共通の認識を持たなければならないとは思わない。保守派、改憲派と革新派、護憲派の論は本質的に相容れないもので、人格分裂の克服は実際問題不可能に近い。そのため、加藤氏も指摘するように「敗れた国の国民であるわたし達に、ある種日本国民としての誇り、矜持が宿ることはない」ことが大きな問題となっている。ではどうすればよいのかということだが、私にはまだ分からない。最後に公共性について感想を。正直な話、共同性なるものの実感がつかめない。第二次世界大戦が共同性の器を壊して以降、悲しみがわたし達を分裂者にするとのことだが、その共同性に変わる公共性がわからない。これまでの民族や国民や階級といった共同性ではない、個人を単位とした公共性(アーレント「わたしはわたしの友人「しか」愛せません」)が共同性に置き換わることは果たして可能なのか。仮にこの新たな公共性によって分裂を克服できたとしても、それが「ある種日本国民としての誇り、矜持」にどう繋がるのかよく分からない。まだまだ勉強不足なので、今後はその辺も深く考えていきたいと思う。
2006.09.14
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ランディ・カッシンガム『訴えてやる!大賞 本当にあった仰天裁判73』 ハヤカワ文庫アメリカの馬鹿げた民事訴訟のコレクション。笑えるけど笑えない。自分の不注意でコーヒーをこぼしてやけどを負ったステラばあさんは、コーヒーを販売したマクドナルドを訴えて多額の賠償金をせしめた。アメリカではこの手の無茶苦茶な訴訟が珍しくもなんともないということは、もはや日本でも周知の事実となりつつある。訴訟社会アメリカにおいてはこのような裁判も、ごくごく自然に受け入れられているのだと思っていたがそうではないらしい。日本人が変に感じるその手の訴訟は、アメリカ人の目から見ても変なものに見えるようだ。むしろアメリカでは「被害者意識の蔓延」「訴訟コストの増加」「訴訟対策の為の保険料等の値上げ」などが、深刻な問題として議論されているようだ。本書では、いかにもアメリカ的なおかしな訴訟の例がたくさん紹介されているのだが、笑ってばかりもいられない。たいていのアメリカの流行は、遅れて日本に入ってくる。このような馬鹿げた訴訟の文化も入ってこないとは言い切れない。
2006.09.12
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秦郁彦[編]『昭和史20の争点 日本人の常識』文春文庫月刊誌『諸君!』に掲載された特集「昭和史・日本人の共有常識」の加筆修正増補改題版。昭和史(主に大東亜戦争がらみ)のさまざまな争点について、その研究の第一人者がわかりやすく解説。南京大虐殺、創氏改名、ハル・ノート、従軍慰安婦、毒ガス・細菌兵器、昭和天皇の戦争責任、東京裁判、憲法改正といった昭和史の争点について、一家言ある人は意外と多い。この一億総評論家時代ともいわれる現代において、皆好き勝手持論を振り回している。そのこと自体は大いに結構で、私もぜひ友人と喧々諤々の議論を繰り広げたいと常々思っている。しかし、このような素人評論家のなかには、雰囲気だけで論じたり、黒を白と言いくるめようとしたりするものも少なくない。これはまずい。議論を建設的方向に進めるためには、本書のようにさまざまな事実の積み重ねを提示し、それを論拠に主張を展開する必要がある。それとは逆に、まったく無関心な人は意外と多いようだ。これも、興味がない人ほど流言飛語に惑わされやすく、問題である。嘘八百を吹き込まれても、その欺瞞に気付かない恐れがある。何はともあれ、戦後ことあるごとに物議を醸してきたこれらの議論について一度学んでみようかという気があるならば、この本をお読みになるといいだろう。物事を筋道を立てて考え、さまざまな論拠を挙げて、より客観的事実に近い歴史像を提示するのというのが、この本のスタイル。専門的に学ぶにはこれだけでは足りないが、とりあえずの常識のおさらいにはもってこいの一冊である。これらの問題に関心がなかった人には、よいきっかけになるだろう。自虐史観を信奉している人も、アジアの特定の国や日本の一部の進歩的なマスコミによる歴史観を再検証してみると新たな発見があるかもしれない。本書の20の争点の中で、特に面白かったものを挙げる。「創氏改名は強制だったか」:韓国人・朝鮮人が自ら望んだということはもはや有名な事実だが、韓国人である呉善花によって論じられているため、なぜ望んだのかという理由に説得力がある。姓と氏の違もポイント。「日米は暗号を相互解読していたのか」:恥ずかしながら私は日本による暗号解読について感心を持ったことがなかった。勉強になった。「慰安婦制度は必要悪だったのか」:『親日派のための弁明』で有名な金完燮が、公娼制度が現地での強姦の被害を大幅に軽減したという事実を紹介。慰安婦問題は、イメージ先行による議論が多いトピックなので、その制度の内容と当時の時代的状況、他の国の状況を知らなければ、議論がそもそも成り立たない。「日本の「戦後補償」はドイツに及ばないのか」:立派なドイツ、だめな日本という戦後補償の俗説を拭い去る。賠償という点ではどっちもどっちだが、イメージ戦略の点ではドイツはクレバーで日本はマジメすぎるのか。「学生の左傾化はなぜ終わったか」:戦前の「マボ」(マルクスボーイ)「エガ」(エンゲルスガール)と、戦後の全共闘をダブらせる。ファッション性から学生の左傾化の興隆と衰退を論じるのが面白い。その伝でいくと、私も女学生にもてたいならば、こんなところでこんなことを書いていてはダメだ。「歴史教科書ではなぜ被害者数がインフレになるのか」:普通の人ならこれを読めばあまりにもひどい教科書会社の実体について義憤に燃えるはず。デタラメな数字の由来を一つ一つ検証していくのを追うと、ミステリ小説を読むかのごときスリリングさも味わえる。
2006.09.10
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山口瞳ほか『諸君、これが礼儀作法だ!』新潮文庫何事にも先達は必要である。昨年のいま頃は、そろそろ就職活動をせねばと張り切っていた。社会に出るうえで必要な常識を学ぶぞと、熱意に燃えてこの本を購入したのだが、結局、飛び級で大学院に進学し就職は先送りになった。そのためこの本を今まで読まずにいたのである。しかし、当然のことだが学生にも礼儀作法は求められる。ということで、引っ張り出してきて読んだ。私は礼儀も作法もなっていないので、参考になった。この本の内容は今の感覚からすると少々古めかしい。しかし、そもそも礼儀作法は時代によってころころ変わるものではない。本筋の普遍的で不変的なところだけでも覚えておけば、何とかなるだろう。一応断っておくが、この本はマナーについてのこまごまとした具体的なことを実践的に教えてくれるハウツー本ではない。もっと根本的なことが書かれた、礼儀作法の達人によるエッセイといったところだろう。世の中には、礼儀作法やマナーを扱った本が数多くある中、なぜ私はこの本を選んだのか。それは、一度、山口瞳のエッセイを読みたかったからである。山口瞳といえば、万年筆独特の良い書き味を「ヌラヌラ・スルスル」と表現した人。この表現は、もはやその道では当たり前の言い回しになっている。万年筆好きとして、山口瞳の作品は一度読んでみたかったのである。
2006.09.08

「尋常小学国語読本」「尋常小学修身書」北海道に旅行に行き、にしん御殿小樽貴賓館(旧青山別邸)を見学してきた。そこのショップで見つけて衝動買いしたのが、この尋常小学国語読本と尋常小学修身書の復刻版だ。当時のままの紙質・版型・製本で復刻されたものであるので、当時の雰囲気が伝わってくる。購入したのは、尋常小學國語讀本 巻一 (第三期国定本 大正7年~昭和7年使用)小學國語讀本 巻一 (第四期国定本 昭和8年~昭和15年使用)尋常小學修身書 巻一 (第三期国定本 大正7年~昭和8年使用)尋常小學修身書 巻一 (第四期国定本 昭和9年~昭和15年使用) の四冊。歴史的仮名遣いで書かれているものの使われている言葉はいまのものと同じなので、現代の中学生に歴史的仮名遣いを教える際のテキストによさそうだ。内容も小学生向きのやさしいものなので、古典作品の意味をつかめない生徒でも取っ付きやすいはずだ。あるいは、簡単すぎて笑い出すかもしれない。
2006.09.05
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