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何か大きな出来事があると、次々と「こと」が起こる我が家です。 3年前、給湯器のマザーマシンが大破、泣く泣く買い替え、3ヵ月後水道のパイプに壁の中で穴が開き、水がひたひたたれて床下が大水、壁を壊して修理の騒ぎ、極めつけはその年末、愛車がスーパーの駐車場でもらい事故。軽トラとぶつかった乗用車が驚いてハンドル切って、うちの車にドスン、がりがりぼこぼこぼこ・・・。 今リフォームをしていますが、まず電子レンジが不調に。(これは直りました) そして、ぶうが新型インフルエンザになり、工事はいったん延期。 次には何が起きる?と思っておりましたら、「私」が壊れました!! ぎっくり腰です! リフォームのためにひたすら荷物を動かし、廃棄し、寝不足が続いていました。 工事が始まると、いつも寝ていた一階の場所は結構ほこりっぽく、ぶうを二階で寝せることにしたのですが、おとうがもちろん背負うとして、遅くなるときはいったんソファーに寝て夜遅く帰ってきてから二階に運ぶのです。でも、「いったん寝付いてから起きることになってかわいそうだー」と、「よし、おかあが運んでやる」とがんばってしまいました。 ぶうを背負って、すでに重くてひざは立たず、背中に乗せて階段をオオトカゲのように這い登ったのです、二晩も。 少しずつ痛かった腰が、三日目、歩くこともままならなくなり、おとうに出勤を遅くしてもらい整形に連れて行ってもらうと、さらに激痛!目の前が暗くなり脂汗・・・。杖のじいさま、ばあさま通り越して急患扱いでベッドへ。でも横になる体勢にもなれない・・・。大騒ぎしてレントゲン捕った結果は、「ひどいぎっくり腰ってやつだね」とのこと。 「三日間は絶対安静。何もしちゃだめ。どっちみち激痛で、何もできないけど。一週間くらいでもとにもどりますよ」 自己診断は、即入院だったんですけど。 ぎっくり腰がこんなに痛いとは! 手足、内臓、頭は元気なのに、体の真ん中が機械で絞られたような激痛です。 立つも座るも横になるのもできない、痛みの治まる姿勢がない! リビングのソファーの背もたれにしがみつき、3泊4日しました。 リフォームで来た大工さんとは同じ家の中にいながら、携帯で話。 ぶうが心配して「大丈夫?大丈夫?」と聞いても、顔を向けることさえできません。 原因は、過労とぶうを無理して背中に乗せたこともありますが、加齢も大きいようです。背骨を支える筋力が衰えている・・・。 3日目には、あーら不思議、痛みがなーい。 体をまっすぐにできず、ひざも腰も曲げよろよろあちこちつかまりながら歩いていたのに、3日目にはうそのように痛みがひいたのです。 悪い夢から覚めたような感じです。 この間、ぶうは二人分の夕飯のお弁当をスーパーに買いに行ったり、部活で遅くなっても自分で車いすで真っ暗な道を帰ってくるし、「何か買って帰ろうか?」とメールをくれるし、なかなかの活躍でした。夕飯は、おとうが大なべにカレーを作ってくれたので、それでしのいだのですが、お米もといでセットしました。 ぶうは、いざとなればなんでもできるやつかも。大人の片鱗を感じました。 私は、すでに無理ができない・・・。 人には「無理はいけない」と言うし、自分自身も力を超えてまでは絶対やらないのが信条だったのに、ちょとのがんばりがこんな結末。 今、すっかり元気なのですが、自分自身の衰えにちょっとがっかりです。
2009年10月31日
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今うちは、建売住宅に住んでいて、そこをリフォームしようとしています。 アパート~公団~マンション~建売一戸建て、と住んできました。 私も主人もふるさとを出て、大学行って、東京で働いたので、親の家を離れてからの住宅歴は風呂無しアパートから始まります。 人よりものすごーーーく遅れて結婚して、ぶうが生まれました。そのときは、東京に近いマンションにいました。 私も働くつもりでしたので、電車系の交通の便はいいところを選んだのですが、駅の周りは細い路地が多く、道路まで商品を並べてる店が続く商店街、あふれる自転車、歩道もなく車が行きかう、言ってみれば「下町の活気がある町」でした。ものすごく楽しい町だったと思います、ぶうが健常児だったら。 ぶうには二分脊椎という障害があって、生まれてすぐの脳外の手術とか歩行は無理だろうとか、いろいろ予想もしていないショッキングなことが突然押し寄せてきて、親である私たちは本当にパニックでした。 (家には関係ないですけど、同じように遅くに恵まれた子供だった方は「どんな子でも抱きたかったの」と言っていました。不妊治療を受けながら授かった方も「たった一回のチャンスだと思ったから、わかっていても産んだのよ」と言ってました。この方はその後、次々と恵まれたんですけどね。うちは、というと遅いだけに「子供はできなかったら、それなり」くらいの甘い気持ちでしたから、現実は重かったですね) ぶうが運ばれた病院は、住んでいたところからは遠く、車は高速道路でなければ無理だし、電車でも乗換えが何度も必要で、2時間以上かかりました。当初、月に何度も、下手したら週に何度も通う必要がある?くらい重く考えて、大慌て。車は、父が使い古した車をもらっていたのですが、私は、当時ペーパードライバーで、鍵をひねってエンジンかけるのが精一杯。というのは、ごちゃごちゃした細い道に囲まれた地域を車で走る度胸は、とてもなかったのです。 それが迷路を抜けて高速に乗って、交通量激しいジャンクションも乗り越えて、知らない町の山の中の病院に新生児を乗せて通う?! 何か急変があったらどうする? もうもうもうもう引越ししかない!と、ぶうが退院しないうちから思いつめてしまいました。 「引越しします」という私たちに、看護士さんたちも医師たちも「そこまでしなくてもー。通院も間が開いてきますよ」と思えば皆さん言ってくださったのですが、とにかく手に入れたばかりのマンションを売って、病院に通える範囲で家を探すことにしました。 まず、病院に近い町のアパートを見てまわりましたが、当時アパートはどこもエントランスに階段があるとか2階以上しかあいてないとか、「歩行ができない」=車いすが予想されるぶうにはいいと思われるところがなく、マンションも希望したけれど、時期が悪く空きが無し。3っつくらいの町を見て歩きましたが、うまく見つかりませんでした。 それで、土地を手に入れて建てるか、建売を買うかとなりました。宅地開発地が何箇所かありましたが、「今手に入れたい」という急な話ではまた難しいことがわかりました。「ここからここまでの区域の建売販売」があっても、坂の斜面に作られた宅地だったりすると、どこも入り口が長い階段になっていたり(まさに私の実家)、駅からすごく遠かったり。やっぱり家って、じっくり考えて吟味して手に入れるものなんです。 「土地」もそのとき、売りに出ているものは、形が南北に細長かったりの扁平ばかり。でもなんとかバリアフリーの小さな家を建てようか・・・とも思いましたが、私の父が「家はどんなに思い入れて作っても、10年たてば手を入れたくなる。今から建築士だ工務店だって探すなら、建売の条件のいいのを買って将来リフォームすればいい」とアドバイスくれたんです。 ぶうは、退院して元気でしたが、休日のたびにかごに入れられて車であちこち連れまわされて、あるときピクピクと手を震わせました。これは、痙攣だったんです!!! 親の都合で連れまわして、疲れたのが原因? 念のためにとデパケンシロップという抗痙攣薬を定期に飲むことになってしまって、もう何やってるんだろうと激しく落ち込む出来事もありました。(本当に幸いなことに、これはしばらくして再発がなく、薬をやめて様子を見る~現在に至るのです。本当にラッキーでした) もうがまんして、売るのを取り消す違約金を不動産屋に払ってもこのまま住もう、と思ったとき、偶然売れ残りの建売物件で、よさそうなものがあったんです。 その1・玄関の段が1段だけ。(これは将来スロープをつけやすい) その2・土地が平ら。(車いすでも走れる) その3・駅まで歩ける。(かなり勤務地から遠いので、プラスバスは使えない。車いすでも駅まで行ける) この3つは絶対の条件でした。そのほか、 その4・トイレと洗面・浴室が近いのでリフォームしやすいかも。 その5・家の中は平ら。(家によっては部屋と部屋の間に段があるのがおしゃれ・・・の設計) その6・新しく開発したところなので、大きな通りには歩道がある。 これで行くか・・・。もうこれ以上探してもない、と思えるし。 と、現在の家に越してきたのです。ぶう、6ヶ月のときでした。 おとうの勤務先からは遠く、職場で指折りの遠距離通勤になりましたし、わたしの「仕事はする」なんてのは溶けてなくなりましたが。 後から、確かに小児病院に行く回数は、思ったほどは頻繁じゃないし、あわてて引っ越すことはなかったな、と思います。 だけど、どっちみちあの町にはぶうには住めなかった・・・。歩道もない細い道に車に人に自転車。本当におもしろいんですよ、エネルギッシュでいろんなお店があって。でも車いすでは無理。 それから新しく住んだ町は、勤め先からは遠くなりましたが、主人の実家にぐっと近くなりました。後々主人の両親が病気を得て入院、亡くなることになり、病院に通いこみました。前に住んでいたところからだったら、とても無理で、親も姉弟の縁も切れていたかもしれません。(だいたい、主人と舅は、ものすごく仲が悪くて「川から流れてきたのを拾った」と言われたそうです、顔はそっくりなのに)越したときは、意識しませんでしたが、結局とても助かった場所にもなりました。 もし、今、障害がある子がいて、家を探している人がいたら・・・。 ○あわてないで。 ○車いすが予想されたら、とりあえず平地。 ○医療、教育、就労と子供が育っていくにつれ、一番必要なものは変わってきます。すべてに完璧な場所は、そうはあるとは思えません。家族が笑って暮らせるところだったら、そこが理想の家。 ○ある程度のバリアフリーの家を最初から建てるのもいいでしょうが、どこまでの障害になるか、見極めてから融通が利くように。すべての障害・・・知・肢体・視・聴にオールマイティーはなかなか無理。良かれと思ったものが、結局邪魔かもしれないし、さらに工夫が必要かもしれません。また、ある程度のバリアは、逆に感覚を育てるとも言いますし。一歩外に出たら、理想の世界はないのですから。 それと場所。できたらいざというとき、助けてくれる親族がいるところはいいですよね。それは先々、むこうに何かあったときこちらも助けられるということです。 でも、そうはなかなかいきません。ほとんどの人が、親族とは孤立無援です。 だけど、住めばどこでも都。かえってその方が、絆の輪は、広がるようにも思います。遠慮なく、どんどん手を貸してもらいましょう。友達を増やしましょう。弱い立場のママって、けっこう多いですよ。私はダウン症の子のママが多いです。 何人かの友人は、転勤と持ち家で悩んでいました。病院のこともあり、単身で行ってもらうか、一緒に行くか。 単身でパパに行ってもらってた経験を持つ友人は、迷う人にいつも「最低でも上の子がしっかりして、下の子が小学校に入るまでは、一緒に行きなさいよ」とアドバイスをしてます。小学校に入るまでの母のストレスは、かなりきついというんです。 「いつも忙しくていないも同じ」とか「いても何もしないんだから、かえってむかつく」とかよく言うけど、思えばパパに怒りがむけられたのは、実はストレスの対象を移す効果があって、貴重だったのだそうです。パパにむかつくことがないと、頭の中は、子供をめぐるいろんなことだけがぐつぐつ煮詰まる、それが障害持った子がらみだったりすれば、まわりは誰もわかってくれない思いがつのります。母のカリカリが、ストレートに子供に向けられるのもよくないしね。 実際、彼女は反対したけど、「医療と療育環境は変えられない」と小さな二人の子供と残った友人は、近所づきあいや障害を持たないほうの子の友達の親との付き合いに疲れてしまって、半年で「やっぱり行く。心がだめになっちゃう」と引っ越していきました。 医療は、日本で言えば、整ってないところもあり、拠点の病院まで遠くて苦労する地区もあるようですが、命にかかわる状況でなければ、小さなときは一緒にいるのが親も子も一番いいと思います。外国に(しかも先進国じゃない)だって行った人もいます。緊急のときの指示を英語で書いてもらって(英語圏じゃないけどね)、一年に何度か飛行機で定期健診と必要な日常の薬をとりに通ってました。 リフォームしてますが、この先もこの家に住むのかどうか、決めてるわけではありません。この場所は、隣近所がすごくいい人だし、ぶうが通った小・中学校があって、幼馴染がいっぱいいます。 でも、ぶうは、この先どうなるのか、今の政治状況では考えても仕方ないと思います。本人の希望だって、まだまだ未知です。 そんなに大きな才能や「どうしても」という希望がないほとんどの子は、まず自立を考えて、その「自立」の仕方がなるべく自分に合った形であるように努力するのだと思います。で、ぶうは?わかりません。 とにかく「これで決まり、完璧」は、どこにもない。今のところ、ここでちょっと工夫してみます。
2009年10月20日
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今週から、家のリフォーム工事に入っています。 目的は、もちろんぶうの行動をスムーズにするため、バリアフリー化です。 家の中で、一番困っていたのは、トイレでした。普通のトイレですから、車いすですぐ手前まで行って、座るところに手を置いて「えいっ」っと飛び移ります。トイレに座ったら、扉は閉めることができず、オープン。来客のときは、必ず家族が閉めますし、終わったあと、またドアを開けて廊下にころがってズボンをはいて、車いすに乗るんです。 また、便は「洗腸」という方法を使っていて、トイレで一時間くらいこもるのですが、その後お風呂に入るのに、便や尿は途中で少量でも出てしまう可能性もあり、紙おむつははかずに移動します。方法は、私が抱える、または自分でハイハイ。洗面所とお風呂がひとつのスペースですが、すぐ脇が玄関。玄関をお尻出したまま男子高校生が移動するというのは、ちょっとかわいそうです。 写真左が、問題のトイレ、右が下を抜く予定の洗面台。トイレと洗面台は壁一枚なので、それをとって、一つのスペースにする予定です。トイレ、洗面、お風呂を一つのスペースにして広い引き戸を設けることにしました。トイレも引き戸にします。それと5センチほど高かったトイレの床を下げて車いすで中まで入れるようにします。洗面台は下を抜いて車いすでも足が入るようにします。 (今まで、朝の洗面は、横向きに車いすをつけてタオルを濡らして顔をふいていました) トイレの中は、壁を一部くりぬいてぶうが洗腸で一時間こもる時用に机を仕込み、紙おむつ用のボックスが隠れるようにして、トイレに座ったまま手も洗える手洗い器を設置することにしました。 それから、今回のリフォームを決意した大きな理由は、このままだと、ぶうは永遠に二階建ての我が家の二階に行けないという事です。中学一年で側わんの手術をして以来、3年間、二階に行ったことはないんです。おとうがおんぶして何回か特別にあがっただけで、日常は無理。 二階建てで、一階は、台所とリビングと和室、二階が寝室、子供部屋等のつくりの我が家は、3年間、一階にぶうの机や本棚など身の回りすべてを置き、一階でぶうが寝て、親がぶうが行けない二階で寝ることに抵抗があって、3人とも一階で寝て、行動のほとんどを一階ですごしています。2階は、物置と雨の日の洗濯物干し。 なんとも不自然。これをいつまで続けるか。 ぶうは運良く公立高校に行くことになりました。それで、私立に行ったと思えばと、最初イスに座って移動する「階段昇降機」を入れようと考えました。 でも、これは直線階段なら70万円、一曲がりで倍の140万円になるそうです。我が家は上り口、3段分が90度に曲がっています。それに、乗り心地がけっこう怖い。ぶうはそれでもいいとしても、将来私の老両親も使うかも、自分も使うかも、と思うと、どうなの・・・と迷います。 それに、太いパイプが階段にむき出しで、コンパクトにたためるとはいえ移動のイスも出っ放しです。 そこで、進められたのが、簡易ホームエレベーターです。畳半畳ほどのスペースで一階分の移動ができるエレベーターがつけられるというのです。値段は113万円か168万円。大きさ二タイプのみです。 基礎工事をするなど今まで考えられてた大掛かりなものとは違い「家電」なんだそうです。大きな四角柱の家電製品(組み立てるので、設置運び込みはコンパクト)を置く感覚なんだとか。 残念ながらコンパクトすぎて車いすごとは入れないんです。でも、中にイスを置いて一階と二階に置けば乗り移れるとわかりました。うちには中学まで学校で使ったものと、側わんにはよくないと、途中で使用をやめた車いす(体の脇が布なので支えられないのです。後でメーカーとは違う車いす屋さんが無理やり脇にプラスチックのガードを溶接しました)、二台があります。 使い勝手、値段など天秤にかけて、実際に設置したお宅も見せてもらって、エレベーターに決めました。 うちには、一階押入れ、二階子供部屋の入り口の位置でつなげられるそうです。 写真左の壁の向こうが押入れで、ここにエレベーターが付く予定です。押入れ半分つぶします。 そうなると、二階のぶうの予定部屋の入り口変更の必要があり、二階の押入れをつぶして設置し引き戸にすることに。二階のトイレも引き戸にして床の位置をさげます。(写真=右) それからついでに、台所の悩みの作りつけ台をちょっと変えてもらいます。トイレの壁の向こうは台所なので、台所の食器棚を動かします。壁を必要な分トイレで使って薄いながら台所から使えるように区切ってもらいます。 だいたい、以上がリフォーム予定の内容なのですが、これらは、まず市の福祉センターの「リフォーム相談コーナー」(老人介護と障害者むけ)を利用しました。 無料で、市の相談員と建築士さんが、家を実際見て、困っているところを聞きいてアイディアと図面と見積もりをしてくれます。 その図面と見積もりは、「そうですか」と受け取るだけでもいいし、ほかでやってもらってもいいし、この図面で直に大工さんや工務店に頼んでもいいし、そのままこの建築士さんに頼んでもいいのだそうです。 うちは、この建築士さんのバリアフリーを進める考え方や「アイディア」が気に入ったし、大工さんに頼むとしても、建築士さんに間に入ってもらうほうがよいだろうと、そのまま福祉センターボタンティアグループ所属の建築士さんに頼むことにしました。 建築士さんを頼むと割高なのですが、大正解だったと思います。 特定のメーカーや業者とは関係ありませんから、できる限り使いやすくて値段も安く、と考えてくれます。 だから、便器も洗面台もそのまま使うし、移動する押入れは、前の枠をそのまま再利用します。棚の深さ・大きさ、入り口の広さや位置、何回考え直したことでしょう。でも、毎回どんなことも可能かどうか、それは有効かアドバイスしてくれます。(実際始まって変えたところもあり) ぶうが、インフルエンザにかかったときも、すぐ一週間の延期を手配してくれました。 今回のリフォーム目的は、あくまでぶうが使えるようになので、「プチ・バリアフリー」です。 ぶうは「障害者」なのですが、「元気で健康な障害者」なんです。トイレも自力で手で支えて座れますので手すりはないし、お風呂も自分で入れるので触りません。玄関も手で支えて車いすを自力で乗り移れるのでそのままです。入り口も自分で開け閉めできますので、そのまま普通のドアで引き戸にはしませんでした。 市から、障害者・介護目的のリフォームには70万円、依頼者に収入がある場合は半額、補助が出ます。一家族一回のみの補助だそうです。 最初、これを使おうと思っていたのですが、今だと半額補助だということと、のちのち、もっとバリアフリー化の必要があるだろうとも考えました。相談員の方もお風呂は高齢者には使いにくい構造で、事故がおきやすいと、指摘されましたし、玄関も高齢になると問題かもしれません。ぶうには必要ないので、家の中に一箇所も手すりがありません。 つぎにリフォームを考えるときは、ぶうのためでなく「高齢」が主題でしょう。 なので、今回は補助を使わず、と決意しました。 でも、これは、同年代の仲間は大反対。「そんなけっこうな補助、もうなくなっちゃうよ」「さあ、自分のためのリフォームにとっといた補助を使おうと思ったら、ぜったいマボロシになってる」というのが大方の予想。んんーー、考えればそうかも。 でも、とにかく動き出しました。 我が家のリフォームです。
2009年10月19日
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お彼岸のときに蒔いた大根の種、筋蒔きにして双葉、3,4枚本葉と育つにつれ、摘み菜にして食べるつもりでした。それが左。 でも、ぶうの学校の文化祭、インフルエンザと田舎の家に行き損ねていると、こんなになっちゃいました!もう葉は5枚も6枚も出ていて、みっちり芽が出たダイコンさんたちは、すでにひょろけて青息吐息・・・。 あわてて間引きしましたが、「だんだんにつまんで」なんて流暢なことは無理で、間引いた菜が山。一度にとれても、とても食べ切れんー。 間引いた苗は、あっという間にしおれてしまって、分けるにもちょっと気が引ける状態に。 こうやってなかなか通い菜園は、うまくいかないんですなー。
2009年10月17日
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家をリフォームすることになり、いろんなものを捨てています。 こんなものが出てきました。ぶうの装具の数々です。 小さなものから大きなものまで、ずら~。(これでも、全部ではないのです。業者さんに引き取ってもらい損ねたものです) ぶうの足の状態は、腿の上のほうが触るとわかるだけで、表はひざ関節から下、裏側はお尻から感覚がありません。(L1~2) 二分脊椎症で生まれたとき、左足首から先がひどい変形で、こぶしのグウの形をしていました。 股関節はまったくはまらずはずれたまま、ひざも曲がらず、腰から下は、二本の枯れ木がぶらんとたれさがっているようでした。しかも一本はグウ。 その形を整えるために、二回手術をしました。目的は、靴を履くために、です。 「靴」をはくのは、ものすごく重要なことです。「靴」は装具であれ普通の靴であれ、足を入れて最低体重を支えられなkればなりません。それがグウでは、装具でも合わせられないのです。 これは、一番最初に作ったシャーレ式ギブスです。生まれてすぐのNICUから退院するときに作ったので、捨てずにとっておきました。 これは、ちょっと今回は捨てないでおこーっと。(これだからかたづかないんじゃ!!!) ちいっちゃい!手のひらサイズです。まず、棒のような足に可動域を少しずつ与えるよう、ひざのマッサージをして、10度、20度と角度をつけたこのギブスを腿からあてて、包帯でまくのです。子供の成長力はすばらしく、「棒」もだんだん足らしくなってきたのには、びっくりしました。 半年後、膝90度固定のプラスチックの装具を作りました。皮のベルトがついて、ちょっと成長したように感じましたが、腿から固定してるのは身動き取れないし、重いし、ぶうには、つらいものだったと思います。 1歳で、膝はまあまあ問題ないくらい曲がるようになって、装具も膝から下の短下肢装具にしました。膝の関節周りの骨等が成長したということもあったんです。 その後は、手術後もグウに戻りたがる左足の矯正のために、定期的に成長に合わせて短下肢装具を作っています。 内反足、外反足は、麻痺した腱の神経のアンバランスからくるようですが、ぶうの場合は幸か不幸かそれを超えてまひしてるので、それとはまた違う矯正目的です。 これは、一番気に入ってたクマ柄の装具です。左足の変形が進む時期で、作ってすぐ合わなくなってしまい、手術となりました。その後は、また手術後の形に合わせた装具になったので、本当に何ヶ月も付けられなかったし、この柄は「廃盤」で、二度とは使えず・・・、一番残念な装具です。 ピンクなんていうのもありました。なぜか、ぶうが希望したんです。誰か好きな女の子のまねをしたかったのかもしれませんね。 左は、ぶうの立位~歩行を目指すための「骨盤帯付長下肢装具」です。コネクションが足首、膝、腰についていて、はずすと右のように自由になります。 自由に動ける形にした装具にごろんと転がって入って、かかとからベルトを締めていき、コネクションを固定して、まっすぐになったら、抱えて立たせます。 つかまり立ちができるようになったら、平行棒にチャレンジし、歩行器で振り子のように足を振って前に進む「大振り歩行」を練習して、クラッチで歩けるまで行きましたが、とにかく装具をつけるのが大変。クラッチ歩行は家では危なくてできず、本当にリハビリのためだけの「歩行」でした。 小学校に上がって、自分でとうてい複雑なこの装具をつけられないし、安全で確実な移動手段としての「歩行」ができない等、「実用性がないものを続けていても・・・」とリハセンターより三行半。わかっていたものの、「これで二度とぶうは立つことはない」と帰りの車の中、私は涙でした。 一番最初のものと、まるで思い出のためだけに作ったような最後の装具です。こんなに成長したんですね。せっかく買ったクラッチも最後には腕が入らなかったくらい大きくなってました。 これは、側わん矯正のためのコルセットです。わきの下からお尻まで覆います。やはり、最初と最後を並べてみました。左端は、大きさを比べるためのノートです。 4歳から13歳まで使いました。夏は付けてられないし、でも側わんは進むし、つらいコルセットユーザーでした。このコルセットシリーズは、足用とは違う装具屋さんなので、色も何も希望はだせません。せめても、とシールがたくさん貼ってあります。 中1で手術になりましたが、コルセットを使わなければもっと早くに手術になっていたのかどうか・・・、それはわかりません。でも、手術の時期は重要なのだ、と手術になってわかりました。成長期が終わるまでに側わんが体に悪影響があるほど進まなければ、逃げ切り。手術が早い時期にせざるおえないと、その後の成長に合わせて何回か手術をしていくことになるそうです。ぶうは、まあまあいい時期だと言われました。たぶん、その後の成長を考えても逃げ切れるだろうと。 そんなこんなで、押入れの多くのスペースを占めていた装具たち。 さよならすることにしました。 まま、代表選手だけには記念に残ってもらうのですが・・・。 でも、よく考えると、短下肢用や体幹用コルセットはなんとか燃えないゴミ用の袋に入って、ほかのゴミと一緒に出せるのですが、骨盤帯付長下肢装具は、ちょっとー。これが外に置いてあったら・・・? んんん・・・どう考えても不気味。後で考えよう。 装具は、棒のような足が曲がるようになり、立つ経験もできて、少し歩行の夢も見て、曲がった背骨を支えてくれました。 感謝!! 感謝です!!! 装具さんたち、ありがとう! バイバ~イ!!
2009年10月15日
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とうとうバレンタイン監督のロッテマリーンズでの姿、見られなくなってしまいました。 お別れセレモニーのあったマリンスタジアムも、最後の試合だったKスタ宮城も、台風の余波で大雨。まるで劇的なシチュエーションを作るための小道具のようにも見える「雨」でした。 やっぱり「華」がある! スポットライトを浴びて、スタンド中(プラステレビやネットで見てるファン)を胸きゅんとさせるのは、長島さん・王さん、そしてボビーだと思いますわー。そこに降る雨!映画だってこうはうまく作れませんよ。 お別れセレモニーでマイクの前に立ったボビーは言いました。 「みなさんに本当に伝えたいことがある。だから日本語で言います」 なんて誠実!なんて泣かせるの! 試合が終わってからベンチでしきりに書類のようなものを、見ていたんです。時々目頭を押さえながら。あれは、この挨拶の原稿だったんですね。 「耳の奥に応援の声が残っています。マリーンズを愛しています!」 ううううっっ・・・。 ぶうと母は、インフルエンザ対策のため別々の部屋で見ながら、同じように泣いていたのでしたー。 5億円の契約料は確かに問題だし、ほかにもいろいろあったらしいんだけど、でもスタジアムをミーハーでも十分楽しめるようにしたのは、ボビーだと思うんです。 試合中にものすごく集中してる姿は美しかったし、笑うとアメリカンらしく、本当に愛嬌があってあったかでした。 ロッテが日本一になったときからぶうは、プロ野球に興味を持ち始め、それで随分共通の話題を持つ友達ができたんです。 ボビーが去って、一ファンとして一人歩きするぶうかな? 一緒に小宮山兄さんが引退しました。やっぱり華やかな引退セレモニーでした。 やめる時、こんなスポットライトを浴びて球場を去れる人って、どんな人?努力99の幸運1かなー。 たくさんの選手が、死に物狂いの努力をしてるわけで、でも怪我もあるし、そのまた上の努力をしなければ残れない? 「生きてくすべてをかけてきた」という彼の言葉は重いなー。 バーナムJr.という選手が、今期のみで契約打ち切りになったんだけど、彼はマイナーや台湾のチームを渡り歩いて、ロッテに来たんです。体は小さいし、そうは成績残せず、「バレンタイン監督に5億も払ってるからこんなろくでもない選手しか取れない」と言われたものです。日本のチーム選手とファンの関係を見て「ファンとの交流なんて初めて体験した。すごくうれしい」と言ってたそうです。でも、たった一年でおしまい。また、野球をやらせてくれるところを探して旅に出るのかな。 彼もまた、野球が好きで好きで極めようとしている一人なんでしょう。ミーハーなおばさんとしては、もっといさせてあげたかったなー。 そうそう、それに雨の中、いっしょに別れを惜しんでくれたのは、二日とも楽天さんでした。テレビのアナウンサーも「本当に温かいファンですよね、楽天は」と言ってました。これにも涙が出ましたね。 さあさあ、つぎは「西村マリン」。 最後は、ごたごたで西岡にファンの批判横断幕が出るような始末になったスタジアム。 心機一転、二度と悲しい思いを一般ファンにさせないようがんばって!
2009年10月09日
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ぶうが、とうとう出しました! インフルエンザウイルス検査にて、陽性反応。新型です。 あらら~。来週火曜日までお休みです。 先週金・土とぶうの通う高校は、文化祭でした。 どの高校もインフルエンザ感染者は出ているので、その人数・状況によって、公開・非公開(保護者のみor内部のみ)・中止に決めているそうです。ぶうの通う学校では、学級閉鎖が9月の間に2クラスありました。そこで、決定は「非公開・保護者のみ」。 ぶうたちのクラスの出し物は「お化け屋敷」。机を積み上げて迷路を作って、黒幕を張っただけらしい(混んでて中には入りませんでした)単純なものでも、外の廊下にはたくさんの女子生徒さんが並んでいました。ぶうにとっては、初めて「お客様」を相手にする文化祭で、内輪だけとはいえものすごく面白かったらしいです。おばさんから見ると、3年生などは、同じ「お化け屋敷」でも、ディスプレーに凝って教室を、古い汚れたレンガ模様を描きこんだダンボールで囲ったり、入り口を赤く汚して「血」に見せたり、すごいわーと思うけど、ぶうたち1年生はなんと簡素・・・、でもみんなよく悲鳴をあげてくれて、中には泣いてしまったお嬢さんもいたとか。さすが多感な高校生・・・。 吹奏のほうも、文化祭にむけて遅くまでの練習が続いていましたから、当日学校中から舞台を見に来る人が集まって、大成功だったようです。ぶうとしては、たくさんミスを犯して「ちょっと振り返りたくない」そうですが。 わたしは、PTAの役員になっていて、PTAコーナーのバザーや焼きそば販売など、朝から追われていました。外で気持ちよく「いらっしゃい!いらっしゃい!ヘイ,お待ち」とやってましたら途中で雷雨・土砂降り・・・。テントを急遽張り、バザー物は撤収し、大騒ぎ・・・。そしてぶうの演奏は聞き逃したー、不覚!!! などという間にも、廊下で「なんか体調限界。俺、帰る」「え、お前、顔真っ赤じゃん。インフルエンザじゃねーの?」なんていう会話が聞こえてきました。本当にでっかい山のような高校生の顔はほってって目まで真っ赤です。絶対怪しい!!! そして、先生たちの会話。「こういう時って、文化祭あけにばっと広がるんだよね。お化け屋敷とか、密室になるところは、まず出るね」だって。 ぶうのクラスじゃん。 2年生は、修学旅行を控えていて、説明会で「直前に中止もありえます」と言われたとか。 そして、日曜の夕方、「頭痛い、のど痛い」と始まったのです。 月曜日の朝も38度調度くらいだったので、ただの風邪かもと思ったのですが、検査したとたん看護士さんが「出ましたよ!!こっちに来て!」とあっという間に隔離生活スタート。 4年前に罹ったときは「タミフル」でした。今回は「リレンザ」。専用のキットを使って吸引するんですね。2部屋しかない我が家の一部屋をぶう専用にして食事も別。この部屋に入るときは必ずマスク。かたわらに消毒スプレー。来週月曜日まで、この生活です。「はあ~、入院を思い出すなー」だって。 夕方には39度まで上がりました。うわさどおり、のどがものすごく痛いそうです。でも、体の節々が痛いーということはないそうで、食事も普通に食べています。 次の日、学校に電話しましたら、まったく驚いた風もなく「インフルエンザ?はい、わかりました。一週間の体温をつけてください」のみ。そして友達から連絡メールですよ。 「やばいぜ、学年閉鎖!」 なるほどねー。次々とインフル報告で、学校も驚く声も出なかったというわけですね。クラスによっては、0から週明け20人もの感染者が出たのだとか。 今週、ずっと雨だから車での送り迎えがなくなったし、台風も来るし、みんな休みだし、まあいいか・・・。 でもでも、学年全員休むというので、生徒は教科書全部持ち帰りを命じられ、宿題プリント山のように出されたのです。ぶうの分を隣の町から通う柔道部の見上げるような坊ちゃんが届けてくれました。発症から3日目。もう熱が下がってるので、後半は暇。ありがたやー。 でも、しかし、ですよ、前から予約していた歯科、ぶうも母もキャンセル。 そしてなにより、我が家にとってはものすごく迷って決意した、一大リフォーム工事が始まる予定でした。初日からNG。謝りまくりで、一週間なんとか延期してもらいました。はあ、最初からくじける~。 リフォームは、トイレ周りなどなのですが、押入れの位置を変えるのもあり、空けなきゃいけない部屋や押入れのものを運び入れた部屋があり、直前に使える部屋は2部屋になっていました。それが一つはぶう専用!布団もパジャマも最低限しか出してないのに・・・。(荷物をかきわけ引っ張り出しました) 今頃は、「我が家のリフォームについて報告しましょうー」のはずが、静かに沈んだ雨の一週間になりましたー。明日は台風? マスクをして、閉じこもっておりましょう。
2009年10月07日
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