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昨日今日と余震は感じられませんでした。 どうなんでしょう…、うちの方はこの後…。学者さんたちは、まだまだM7~8あるかも、と言いますが、終にしてほしい! そうは生活に影響を受けなかった自分は何ができるだろう、と思います。 私として、今出来ることは、こまめに安心なところに募金をする。(駅前などでは、あきらかにあやしい「東日本大震災支援募金、お願いしまーす!」があります。いろんな人がいますから、こちらも注意しないと) それからぶうが読まなくなった絵本を、ボランティア団体に持って行きました。 「ぐりとぐら」のいくつかのシリーズ、「エルマーの冒険」、「ぼくは王様」、スウェーデン(たしか)のベスコフの絵本(シュタイナー教育者ご推薦)等々、親の思い入れを跳ね返し、読み聞かせもむなしく、ぶうがまったく興味を持たなかった絵本の数々です。 もういいかげん、読んでみようか、と言えなくなった本のかわいそうなこと・・・。 これらは、もしもう一度見たくなったら図書館に行けば良いのだし、親戚のチビちゃんも新しい本を手にすることでしょう。 ほこりを拭いて、記念撮影をして、スーパーの片隅に「被災地に絵本を送ろう!」と活動してデスクを置いている団体に渡してきました。最終的に6千冊以上集まったようです。「ぐりとぐら」が、誰かの心を少しでも温かにできたらうれしいです。うちにいるよりこれらの絵本もずっとうれしい! それから、一番心に置いているのは「忘れない」です。今起きている事実も心もです。 3・11の未曽有の大災害のことはもちろん、計画停電、暗くて棚ががら空きのスーパー、200キロ先の福島原発の影響で水が大変、野菜も出荷停止といった自分の身の回りの生活のこと、これからどう復興するのか、原発はどうなるのか、等々見たことを、忘れずずっとしつこいほどに語るのです。うるさいばあさんだと言われても、伝えるのです。 これが出来るのは、高校生以上、被災していたら中学生まで。あとの世代へ引き継ぐ最重要責務を負っているのです。自分はもう忘れやすい世代だし、今の10代に超期待です。 そして、家族も家も失ったたくさんの方達の悲しみ、亡くなったたくさんの方達の無念、忘れない。 本当にあまりに失った規模が大きく、福島の原発は先行きどんどん不透明で、あんなに離れてるのに影響があったりで、まだまだ不安なのですが、とりあえず少し「出来ること」自分なりに、してみてるのでした。 そうそう、ぶうの学校にも福島から転校生がやって来ましたよ。ウェルカム! ともに歩もう!です。
2011年04月21日
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今年は咲かなくていい!という気持ちでしたが、否応なしに、季節は進みますね。桜、満開。いつもならちょうちんが飾られ、エンドレスの演歌が流れ、たくさんの人が集まって、飲めや歌えの大宴会・・・という桜の山。今年はひっそり、静かです。渡る風とうぐいすの声だけが聞こえてきます。停電は、暖かくなって中止になりましたが、実施中は、車の移動は怖いし、買い物と思ってもお店がやってるのかどうか(大きなスーパーは閉まってしまうので)わからず、住んでる地区から出られない、という感じでした。うちのところは、計画停電から外れて(大きな鉄塔がある?なにか重要らしい)、「あんな田舎の住宅地が停電しないなんて」とひんしゅくかってました。道一本むこうの小学校やショピングセンターが停電してるのに申し訳ない!と思いつつ、寒いとそーっと温かくしてしまいました。ごめんなさい!スーパーのペットボトル売り場はまだ、「水は一家族一本です」とか「母子手帳のある方のみ」。うちは、みんなでかいし、もう私なんか蓄積しても関係ないので、水、特には買いません。そのほか、ヨーグルト、納豆がだめですね。「納豆食いてー!と話したんだ」、とぶうが言うのです。高校生が、納豆食いたい…。21世紀で聞くとは…。野菜は、産地によってはやはり売れ残ってます。照明は暗いし、棚はすかすかで、昔のいわゆる「東側の国」みたいです。本当に戦時中みたいだと感じる今日この頃です。ぶうたちは、授業中、マナーモードにしてある携帯が一斉に「地震警報」を鳴らすそうです。教室中に、学校中に地震警報がなり、全員、先生も一瞬揺れを確認し、「ほーっ、大丈夫」。一度は部活中に震度5でした。ゴーッと最初の一音で、全員演奏やめ、シーン、グラッでざっと机の下へ入ったそうです。地震慣れ~!スーパーへの道で、歩いてる人みんなから警報が聞こえたこともありました。ドラマなんかでしか、もちろん見てませんが、まるで「空襲警報」みたいです。震度4や5では、電車は止まらなくなりましたね。揺れが日常でしょうか。学校は、普通に行っています。部活もあります。でも、いろんな行事が中止になり、この先も予定がわかりません。停電、夏が怖いです。福島原発、まだまだ先が長そうです。あの日の前と後、生活も心も私の周りは同じに見えて違う…不思議な日常です。
2011年04月16日
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ぶうは、2歳から市の肢体不自由児母子通園施設に2年間通っていました。 ここでは、母子でふれあう体操とか、大きなトランポリンとか天井からつるした巨大ハンモックに入るとか、わくわくすることがたくさんありました。 ただ、ぶうは、歩行はなかなかむずかしいものの、それなりの成長があり、同じ年頃の子の刺激がもっとほしいかな、と考えるようになりました。 3歳頃のぶうは、歩行困難に加えて言葉も遅れておりましたし、手先は二分脊椎児によく見られる不器用さを超えて「訓練が必要」とされるレベルの動きの悪さでした。 目で見て、それを手に伝える度合いが極端に阻害されてるのです。例で言うと、大きなリンゴの絵があると、「リンゴだ」とわかるのですが、これが2ピースにわかれると付けることができないのです。大きなリンゴの絵が二つに分けたらわからない・・・、大人には理解出来ない世界でした。 クレヨン持てない、ボタンの意味が分からない・・・影響は生活にも及びます。 通園施設も心理の先生も、 「やるべきことはたくさんある、まだまだ成長過程」と言ってくれてるのが救いでした。(でも中には『だいたい最初のレベルで決定する。このレベルの成長以上になるとは思えない』という心理の先生もいました。だから何人もの方に精神発達は診てもらいました) その「やるべきことのひとつ」は、保育所に入ることでした。 保育所は、いろんな年齢の子がいます。ぶうのように歩けなくても赤ちゃんがいるし、排泄障害のぶうのようにおむつの子もたくさんいます。 ハンディがあっても、違和感が少ないのでは、と考えました。 それからなにより、中にいる時間が長い。ぶうに重要なことは、生活力をつけることでした。 着替え=ボタン、ズボン、靴下そして靴も、大きな課題でした。これができないと、子供の最初の社会生活はひとりではできない、かなり手が必要になると感じました。 手の右へ左への動きがスムーズでない(本当に不思議です)ぶうには、たとえばボタンは片方から押して穴に入れて、もう片方の手の指で引っ張るという高等技術。わけわからないのです。麻痺した足に靴下・靴を自分で履くのはまたまた至難の技でした。 その他、いろんなこと…クレヨン持つとか粘土こねるとか、人の言う事理解するとか、その年令並みの普通のことが、届きそうで届かない、親からみるとはがゆい状態のぶうでした。 これらを、時間がゆったりある保育所で、周りから刺激をもらいながら習得したらよい、というのです。 リハでは、歩行訓練のPTに加えて、手先のことや目で認知する訓練のOTも受けていました。同じ年頃の子供たちの中ですごすことが一番の刺激で、訓練の効果も上がると期待されました。 それが、幼稚園だと、同じ年齢のしかも規定の枠に入る子供たちが集められています。理解のある園だとしても、幼稚園にいる時間は、保育所に比べるとかなり短いです。 よって、希望は保育所でしたが、当時うちのほうの自治体の保育所の状況は、障害児は軽度知的障害まで。肢体不自由は絶対だめ。クラッチでさえ認められない というひどいものでした。 肢体不自由児は、幼稚園もなかなかない・・・、受け入れてくれる、そして車でなんとか通えるところは隣町のカトリックの幼稚園だけでした。 というわけで、ぶうは、幼稚園に行ったのです。「愛」のあふれる園でした。 はっきり言って、つらかったです。つらかったのは、ぶうより母だったかもしれません。それはフリーページに書く予定です。 幼稚園で遊んだあと、よく遊ぶ約束をしていました、みなさん。ぶうは一度も誘われたこともないし、本人が「遊びたい」と言ったこともありませんでした。仲間になる、はなかなか難しい、と感じていましたから、園から出たあとは、他の園児と遊ばせたいとも思わなかったのですが、もう少し保育時間が長ければ、遊ばなくても、いるだけで刺激はもらえたと思うのです。そのへんも、ぶうには保育所がよかったなーと思うところです。 それぞれ、親の考えや思い、お子さんの状況、それに幼稚園でも保育所でも方針等ありますから、なんとも言えませんが、ぶうのような子には、少し長い時間の保育が欲しかった・・・でした。
2011年04月07日
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