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五宝滝散策の後は、岐阜県可児市瀬田長山にある「明智長山城址」を目指す。途中381号線を走り、岐阜県加茂郡八百津町と岐阜県可児市の木曽川に架かる東海環状自動車道の木曽川橋(きそがわばし)の下を通過。岐阜県可児市瀬田長山にある「明智長山城址」に到着。住宅街の中に残る小山全体に削平地(さくへいち)が築かれているようであった。 住宅街の裏にある山道脇に駐車し散策開始。築城年代は定かではないが明智頼基によって築かれたと云われる。明智氏は美濃国守護土岐成頼の子土岐頼基が可児郡明智八郷を領して明智氏を名乗った事に始まる。天文21年(1552年)明智定明は斎藤道三と戦って討死し、一族は離散し、定明の子定政は家臣に守られて菅沼常陸介を頼って落ち、後に徳川家康に仕えて土岐氏に復姓したという。戦国時代に織田信長に仕えた明智光秀の出自については定かではないが、一般的にこの明智氏の一族といわれるのだと。明智城址公園散策路マップ。 西出丸跡と刻まれた石柱。落ち葉が一面に。木耳(きくらげ)を発見。雨に濡れて光る紅葉のモミジ葉。明智城址記。明智城は、張り出した尾根や谷などの自然地形を生かした典型的な中世の山城で、長山城または明智長山城と呼ばれている。明智氏がおよそ215年間にわたり居城とたが、城といっても天守閣等の派手な建物はなく、周囲に土塁や逆茂木を廻らした中世の典型的な山塞。そして、弘治2年(1556年)、斉藤道三の息子で稲葉山城主斎藤義龍の攻撃を受け落城した。そのとき、明智城代明智光安は弟光久ら870余人を集めて籠城。しかし義龍軍は3,700余の軍勢で2日間にわたり攻撃。光安は光秀に明智家再興を託し、一族もろとも落城前に自刃したと。城は落城後再興されることはなかったと。明智城址の碑。『可児市は、戦国時代の悲運の武将「明智光秀」の生誕の地である。康永元年(1345年)に美濃源氏、土岐市下野守頼兼が名字を「明智」と改めて初代明智家棟梁となり、明智荘瀬田の当地に明智城を築城した。以来、およそ215年間、ここに山城を構えていたが、弘治2年(1565年)に当時の美濃国の支配者、斉藤道三とその子義龍の争いに巻き込まれ、義龍に追い込まれて落城。最後の城主であった光秀は、城の脱出に成功して明智家を再興したが、ここへは戻らず、彼の死後も、再びここに築城されることなく明治維新を迎えた。城は自然の地形をうまく利用した典型的な中世の山城で、この山の中央主峰、標高175米の頂上に本丸を築き、ここを中心として、いくつかの別の峰に小城塞、見張り台、城郭施設等を配置させてあったと考えられる。居館跡には「光秀産湯の井戸」と伝承されている井戸があり、当時使用されていた土器破片が出土している。また、出丸付近には落城の際の戦没者を葬った「七ッ塚」がある。 昭和48年には一族の供養等「六親眷属幽魂塔」が発見されている。 可児市』と。土岐桔梗紋の下に「美濃国明智莊 明智光秀公 生誕地 可児市」と書かれた幟。明智城 本丸跡。七ッ塚。落城の際の戦死者を葬ってある出丸付近にある七ツ塚。陽光が無くとも真っ赤に輝くモミジ葉。更に近づいて。二ノ丸跡。コウライ(カニ)オヤニラミの化石が日本で初めて発掘されたと。この淡水魚は現在日本に生息していないと。朝鮮半島と中国の一部だけに生息していると。この魚がここで発掘されたというのは1800万年前、日本と朝鮮半島が地続きだったいう証だとか。大手門方面にはこの先を。雨に濡れた真っ赤なモミジ葉の輝きを楽しみながら車へと進む。モミジの樹の後ろには馬防柵が。葉が紅葉するのは、気温が下がると葉の付け根に「離層」と呼ばれる層ができ、葉で作られた糖分が枝に回らなくなる。その後、糖分はアントシアニンという赤い色素に変わり、葉が色づくことになる。モミジやウルシといった落葉樹が代表的。イチョウなどは「黄葉(こうよう)」と呼ばれ、葉緑素が分解されて黄色の色素カロチノイドが残ることで色づくと。日本の紅葉と言えば多彩な色の変化、そして落ち葉としても絵になるその美しさ。日本の紅葉は、外国のそれと比べてはるかに色彩豊かで世界一美しいと言われているのです。欧米の紅葉が黄色を主体とした単色の情景に対して、日本の紅葉は赤や緑や黄色のコントラストが美しく、より情緒的で人々の心に響く情景であるのです。更に、そこに紅葉しない緑の葉と、たまに、雪も積もったりするから尚更美しいのです。毎年、この時期には日本人に生まれて良かったとの想いが更に高まるのです。以前訪ねた岐阜県恵那市明智町にある明知城址(あけちじょうし)が明智光秀生誕地であると思っていたが、可児市にある、ここ明智長山城である可能性が高い事を学んだのであった。★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 次に岐阜県可児市にある明智一族の菩提寺・「天龍寺」を訪れた。 好き嫌いとかの概念を外れ、歴史上これだけ興味を引く人物は少なく、もし明智光秀が歴史上存在しなかったら、また、もし本能寺の変がなかったならばと想像するに、歴史の観点が大きく変化したに違いないことを、大変興味深く感じるのである。更に今年9月に、明智光秀が「本能寺の変」で織田信長を討った10日後に、紀州の武将、土橋重治に宛てて書いた直筆の手紙が見つかったとニュースで。土橋は紀州の「反信長」のリーダー格とされ、手紙には、信長によって追放された室町幕府最後の将軍、足利義昭の入京を承知したとする内容が記されているのだと。光秀は、義昭と連携していた土橋に対して「(将軍の)入京をお受けしました」と述べていると。文中に義昭の名前は出てこないが、「上意」「御入洛(じゅらく)」という貴人にしか使わない言葉が出てくることから「信長亡き後、こうした表現がなされる対象は義昭のほかに考えられない」と。よって、本能寺の変の動機は「義昭との関係を復活させた光秀が、まず信長を倒し、長宗我部や毛利ら反信長勢力に奉じられた義昭の帰洛を待って幕府を再興させる政権構想を持っていたのでは」との説が有力になって来たと。 天龍寺・山門。この地域には「可児家」があることも山門前の墓地の石碑から知る。天龍寺案内板には、次のように記されていた。『天龍寺 山号 青雲山天龍寺は永平寺を本山とする曹洞宗のお寺で、「聖観世音菩薩」をご本尊としています。このお寺は寛永2年(1625)武儀郡下有知村(現関市)龍泰寺の末寺として同寺20世鰲山正雪禅師を招請して開山した由緒あるお寺です。大正12年3月の焼失以前は、本堂、開山堂、明王堂、鐘楼門などを有する堂々とした一大伽藍のお寺でした。本堂は昭和45年10月に落慶、その後庫裏、山門、開山堂などを再建し現在に至っており、可児新四国36番札所ともなっています。また、明智一族の菩提寺として毎年光秀公の法要が営まれており、本堂には日本一といわれる大きな光秀公の位牌が祀られています。境内の東北部には、日本では3つしかないという北向地蔵がみられます。・・・以下略』山門を潜ると正面に本堂が。 本堂内には日本では3つしかない北向地蔵もあると。早朝のため、残念ながら本堂正面の扉は閉まっていた。「瀬田おたすけ観音」が本堂の右に。本堂前には獅子に乗り経典を持つ文殊菩薩の石像が。反対側には象に乗った普賢菩薩。こちらは何を持っているのであろうか。境内の枯山水の庭園の奥の築山も紅葉。駐車場の奥に鐘楼。『柿撮れば 鐘が鳴るなり 天龍寺』・・・詠み人知らず。駐車場の横手奥、紅葉の樹木の下に、歴代明智一族のお墓と云われる供養塔、五輪塔が。大きな石灯籠の横に「明智氏歴代之墓所」 と刻まれた石碑も。裏山に散在していた墓石や石仏などを集めて整備したもので、明智氏のどなたの墓碑かはわからないとネット情報にて。「明智氏歴代之墓所」 としては寂しい墓所なのであった。枯山水の庭の石の廻りには緑の苔が。雨後の美しい苔の姿。再び山門そして白壁を。時間が早いため、本堂内部の見学は出来なかったが本堂内部には六尺一寸三分(184cm)と巨大な光秀公の位牌が安置されていると。そして御朱印も残念ながら時間の関係上、頂けなかったのであった。 【http://commufa203.mino-ch.com/c1404.html】より転載
2017.11.30
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今年も11月22日深夜から25日夜まで岐阜、愛知の「紅葉の雲海」を求めて旅友のSさん、そしてスペイン、中欧を共に旅した横浜在住のUさん、そして愛知県岡崎市在住のKさんの4人で晩秋の紅葉そして寺巡り、ドライブを楽しんで来ました。東海道線が人身事故で不通とのことで、横浜市営地下鉄の駅にUさんを私の車で迎えに行き、その後茅ヶ崎のSさん宅へ。私の車をSさん宅に預け、今回もSさんの愛車JUKEで23時前に出発。圏央道茅ヶ崎ICから高速道路に乗り東名高速道路に入りひたすら雨の中、岐阜に向かう。途中、掛川SAで仮眠、この後も逐次トイレ休憩、コンビニで軽食を調達し最初の目的地である五宝滝入り口にある「五宝滝公園」に早朝6時前に到着。まだ薄暗いため車の中で明るくなるのを待ち、6:40過ぎに散策開始。ここ五宝滝は5つの滝からなる全国でも有数の名瀑。全て合わせると落差80mになる一の滝・二の滝・三の滝と、剣豪 宮本武蔵が修行をしたという伝説が残る、二天の滝・円明の滝があるのです。「五宝滝公園」の橋の上から。下には八百津町上水道の水源でもある荒川が勢いよく流れていた。公園への橋を渡ると宮本武蔵のレリーフが。宮本武蔵は京の都で沢庵和尚について禅の修行をしていたが、沢庵は「禅の極意は、愚堂に習え」の一言を残して美濃国に行くことを進めた。愚堂とは美濃国八百津の大仙寺八世住職愚堂国師のことで、京の都で沢庵和尚との禅問答をした程の名僧。その愚堂に教えを乞うために武蔵が座禅を組んだのが、ここ八百津の大山寺境内にある座禅岩と。二天の滝では、武蔵が滝に打たれて修行をしたという言い伝えが今も残されていると。 五宝滝入口案内図。 遊歩道が途中で分岐しており、左折して山に入れば五宝滝周遊コース、直進すれば「宮本武蔵コース」と。五宝滝周遊コース 案内板。 遊歩道が途中で分岐しており、左折して更に山に入り五宝滝周遊コースを進む。赤い二天橋手前を左に。最初に三の滝。更に上って行くと展望台を兼ねた東屋からの視線の先に赤く色づいた木立と滝が見えた。これが総落差80m、一・二・三の滝の全景。 二の滝の前には赤い太鼓橋が見えた。周囲には真っ赤にそして真っ黄色に染まった木々が。そしてその間を裂くように白き帯が。 二の滝をズームで。 五宝滝は珍しい三段の滝。一の滝が44m、二の滝は23m、三の滝が13mあって合計は80m。 二の滝への落口。 一の滝、そして二の滝。二の滝は忠実にも大小二本の滝。真っ赤な太鼓橋をズームで。 紅葉を終わったモミジ葉が水の流れの脇に。私も『濡れ落ち葉(ぬれおちば)』にならぬようにと・・岩にへばり付いた落ち葉を一枚拾う。 一の滝。そして来た道を下り、二天橋を渡り五宝滝方面に向かう。 「二天の滝」が見えて来た。 一、二、三の滝に比べ、二天の滝は、流量も少なく、薄暗いところに。宮本武蔵が修行したと伝えられる滝。あの剣豪がこの滝の滝つぼで・・・イメージするだけで歴史好きには堪らない空間。宮本武蔵の剣術「二天流」にちなんで「二天の滝」と名付けられたと。 そして更に急な赤の階段を登って行った。 そして5番目の滝「円明の滝」。こちらも、宮本武蔵政名が創流し鳥取藩で伝えられた剣術の流派の武蔵円明流(むさしえんめいりゅう)からの命名。ここでも武蔵が修行したと。そして全ての滝を訪ねた後は下山し、五宝滝公園に戻る。 再び宮本武蔵のレリーフの見える荒川に架かる橋の手前からの風景。 渓流沿いの「武蔵広場」では、趣のある水車小屋では水車が回っていた。 荒川沿いを上流に向かって進むと山の頂上付近から雲が湧き上がってきていた。早朝の五宝滝を3人占めし、紅葉の雲海の中で流れ落ちる5つの白き帯を楽しんだのであった。
2017.11.29
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三重県・津での3日目の朝、現場の近くで野生の鹿が迎えてくれた。我々の車をじっと見つめる雄鹿。 そしてその後から3頭の鹿が更に姿を現す。4頭の家族であろうか? そしてこの日の昼食は、昨日訪れた北畠神社の横のレストランへ。この日も晴天で見事な紅葉を楽しむことが出来た。 レストラン横の黄葉も見事。 店の名は『美し郷 霧山 雪姫亭』。地元あまご料理や山菜料理など、本格的な料理から軽食まで楽しめる店と。店の名前『雪姫亭』は雪姫の伝説から。織田信長と北畠具教の和議の条件として具教の娘であった雪姫は信長次男の織田信雄に嫁ぐことになったが,具教は暗殺され雪姫は自害しようと果たせずこの北畠氏館の桜の木に縛られていた。それを白い狐が救出したという話。店の内部も落ち着いた雰囲気。 この日は天ぷら定食を注文。ミニうどんも付いていた。店の前からの紅葉。 輝く赤の世界。 そしてこの日の仕事を終え、事業所の若手に車で津駅まで車で送っていただく。途中に多くの案山子が見送ってくれていた。 車を駐め、案山子の姿を楽しむ。テニスで遊ぶ父子の姿。 何とテニスボールが空中で静止。よく見ると釣り糸をボールに貫通させ、その釣り糸をお母さんが引っ張っているのであった。 『八手俣川の恵み』との看板が。 赤子を抱く母親の姿。 お父さんは子供3人を乳母車に乗せて。 下之川部落に住む親子の共同製作作品か?『交通安全』の表示も。家族で案山子造りを楽しむ微笑ましい姿が思い浮かぶのであった。 銀杏も黄色の葉を落とし始めていた。 君ヶ野ダムの姿が車窓に。 ダム湖沿いの紅葉を楽しむ。 紅葉のトンネルを進む。この付近は、春の桜、夏の新緑、秋の紅葉、冬の雪景色と四季折々の景観が楽しめるのです。特に春の桜と噴水、それらがダム湖に映る姿は圧巻。春は1500本の桜。この秋は紅葉がダム湖を彩るのです。 紅葉はやはり青空と光がMUST。 君ヶ野ダムが正面に。 雲出川水系八手俣川にある重力式コンクリートダム。 堤高/堤頂長/堤体積:73m/323m/331千m3であると「ダム便覧」に。更に雲出川沿いを走ると美杉町竹原地区の写真左手に沈下橋(潜水橋)が。沈下橋は川面から数mしか離れていないので増水時には水中に沈む橋。流木などが引っかかるのを防ぐため、柵やガードレールもなければ、車一台がやっと通れるくらいの幅しかない橋。高知・徳島・大分に多い。四国の四万十川にもまったく負けていない姿であるがこの様な岩がゴロゴロしている場所での沈下橋は山中の沢に架けられているもの以外はあまり見たことがないのであるが。そしてその下流には巨岩がゴロゴロと。この巨岩は君ヶ野ダムが出来る前に上流から流されて来たものであろうか? そして16時前に津駅に到着し、急行みえで帰路についたのであった。
2017.11.28
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11月15日~17日まで三重県・津市に仕事の応援に行って来ました。事業所から昼食の店に車で。この辺りは紅葉の真っ盛り。昼食の店は老夫婦が運営する「旬のお食事処 みすぎ」 。名物のカツ丼を注文。漬物、味噌汁も付いていました。そして食後にコーヒーのサービスも。 オーダーが出てから肉を切り揚げる絶品。ご飯の姿が見えない具たくさんの大盛り。そして仕事の現場に帰る途中で北畠神社に立ち寄りました。この場所は三重県津市美杉町下多気字上村。「歴史のふるさと 多気探訪マップ」 北畠氏一族の居館だった東御所(六田館)跡や美杉ふるさと資料館等、見所は多いと。「美杉 案内板」 。「森林セラピー基地」の文字が。既に定着していた「アロマセラピー」に準じて林野庁長官によって作られた造語で、2005年に林野庁が発表した森林セラピー基地構想に基づき2006年から具体化された「科学的エビデンスを持ち,予防医学的効果を目指す森林浴」が行える場所。ここ美杉地域は、東海地方で初めて森林セラピー基地の認定を受けたと。大宮戸川に架かる朱の太鼓橋の近くのモミジも紅葉のピーク。 参拝と紅葉を目的に早速、北畠神社()と北畠氏庭園の散策を開始。 陽光を反射して輝くモミジ葉。 『光降るごとく雨来て山桜 和生』 と刻まれた歌碑。この碑の前を左に行くと霧山城へ。 右に進むと北畠神社境内入口の二の鳥居前へ。国の史跡「多気北畠氏城館跡」に鎮座し、初代伊勢国司として南朝奉護に尽くした北畠顕能(あきよし)を主祭神とする。『由来書によれば、北畠具房(ともふさ)の4代孫鈴木孫兵衛家次が寛永20年(1643年)3月、旧縁の地に小祠を設けて北畠八幡宮と称したのが創祀という。ただし、当初は八幡神の勧請のみで、顕能を奉祀したのは元禄年間に下るとの説もある。やがて八幡三神に倣い、北畠親房・顕家を合祀する。1881年(明治14年)11月村社北畠神社に改称。1907年(同40年)12月多芸村内の16社を合祀し、1916年(大正5年)宝庫・社務所などを整備。1928年(昭和3年)10月社殿を新造して主神を遷座し、11月10日別格官幣社に昇格した。別当寺の真善院が現在の庭園の位置にあったが、天保11年(1840年)春に火災に遭い、再興しないまま1898年(明治31年)廃絶した。』 と。種に塗られた大きな手水舎。 ここ北畠神社は北畠顕能を祀っているが、父親房・兄顕家は大阪の阿倍野神社、また顕家は福島県伊達市の霊山(りょうぜん)神社にも祀られていると。 この辺りに居館の入り口があった事が発掘調査で判ったと。 北畠神社拝殿。 赤い拝殿には、天狗面が飾られていた。 祭神は、村上源氏中院家の流れをくむ名家であり、南北朝に活躍した南朝の忠臣・北畠親房の三男北畠顯能であり、父・北畠親房と、兄・北畠顯家を配祀。北畠顯能は、伊勢国司として当地に居城を構え、伊勢北畠家の起源となった人物。当社は、織田信長に滅ぼされるまでの230年間、伊勢国司として威を張っていた北畠氏居館跡に造営された神社。滅亡後、当地は土民の耕地となっていたが、寛永二十年、一族の末裔鈴木孫兵衛家次が小祠を設け、八幡神を勧請して、北畠八幡宮と称するようになったと。 中門から本殿。 本殿。 北畠神社は、南北朝時代に南朝に仕えた忠臣にして、後に伊勢国司に任ぜられた北畠氏を祀った神社。南北朝時代の公卿・武将。親房の長男。鎮守府将軍となり、新田義貞と共同して足利尊氏に対抗する。後醍醐天皇の比叡山への遁入を守護し、父・義貞と尊氏と戦い九州へ敗走させる。顕家蓬奏(建武政府に対する六ヶ条からなる意見書)は、最後の出陣に当たって後醍醐天皇に上呈したものである。延元3年(1338)歿、21才。 境内の祭神は花将軍と謳われ、足利尊氏がもっとも怖れた若き天才・北畠顕家像。 北畠顕能歌碑。 『いかにして 伊勢の浜荻 吹く風の 治まりにきと 四方に知らせむ』平成9年夏の発掘調査で中世館跡としては日本最古の石垣が発掘されたとのこと。 境内の築山。見える石が日本最古の石垣なのであろうか?いや、最古の石垣は地中に埋まっていたのだ。絶景かな、絶景かな。 黄金の絨毯が境内に拡がる。 本殿左の奥にあるのが多芸神社。 留魂社(りゅうこんしゃ)。 北畠具行卿、北畠満雅卿、北畠具教卿 北畠一族並に家臣、郎党、農民の戦死者を祀ると。 礎石建物跡。 細川高国、本居宣長がこの神社を訪ねた折に詠んだ和歌であると。★『絵にうつし 石をつくりし 海山を 後の世までも 目かれずや見む 』・・細川高国 細川高国が大物崩れの戦いに敗れ自害するとき、北畠晴具へ送ったとされる辞世の句。 ★『君まさで 経りぬる池の こころにも いひこそいでね 昔こふらむ』 ・・本居宣長 明和9年(1772)の春、本居宣長が吉野からの帰途、伊勢本街道を通り、飼坂峠を越えて 詣でたとき先祖の本居惣助が北畠家の家臣であったことを懐かしく思い出し、 ここの庭園に佇み詠んだ和歌 北畠氏館跡庭園 案内札。1936年(昭和11年)9月、「北畠氏館跡庭園」として国の史跡及び名勝に指定された。北畠氏の居城跡は別途「霧山城跡」として同年に国の史跡に指定された。2006年(平成18年)7月に「北畠氏館跡庭園」と「霧山城跡」の2件を統合し、指定地域を追加の上、「多気北畠氏城館跡 北畠氏館跡 霧山城跡」の名称で改めて国の史跡に指定されたと。 格子戸の隙間から「北畠氏館跡庭園」を撮影。『「米字池」と呼ばれる池泉は複雑な形をなし、屈曲する護岸石組みは豪快で力強く、 東側には高さ約2mの須弥山石を中心にした立石枯山水が組まれています。 築山には樹齢400年以上の巨樹が聳え、しっかりと大自然と調和しつつ、 しかも質実剛健、武将好みの男性的な庭園です。発掘調査の結果、池は16世紀代に造られた ことが分りました。これは、7代国司北畠晴具の時代、享禄元年(1518)頃管領細川高国の 作庭という説に合致しています。』 と説明書きに。社務所。御朱印をいただきました。 帰路に再び太鼓橋のモミジを。 霧山城址(きりやまじょうし)のある霧山周辺の案内図。霧山城または多気城(たげじょう)は、伊勢国一志郡多気(現在の三重県津市美杉町上多気および美杉町下多気)にかつて存在した日本の城。城跡は日本国の史跡に指定されている。伊勢国司から戦国大名となった北畠家北畠氏の本拠地であり、16,000騎を有する大将にふさわしい城郭であったと。近くには美杉町地域の歴史・文化財を紹介している「美杉ふるさと資料館」もあるとのこと。
2017.11.27
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関西空港内のホテルの私の部屋からの日の出を楽しむ。 時間は6:24。部屋からはターミナルビルの屋根が一面に見えた。 そして東の空が刻々と赤く変化。 金剛・和泉葛城山系の山の上にこの朝の日の出。時間は6:39。 そして見る見るうちに太陽の丸い姿が大きく見えてくる。 山の端と太陽の別れの瞬間。 そしてまん丸な太陽が姿を現す。時間は6:44。 我が部屋に朝の陽光が。自分の姿を。 照明の傘の影がくっきりと壁に。 ピーチ航空(Peach)仙台便第一便か? ホテルのフロントロビーには「真田幸村二枚胴具足」甲冑と六文銭の籏が展示されていた。 そして、その隣に見事な「几帳(きちょう)」も展示されていた。几帳は、平安時代以降公家の邸宅に使われた、二本のT字型の柱に薄絹を下げた間仕切りの一種。 華麗な源氏物語の世界をモチーフに、御所車と四季の花を独自の技術で織り上げた宝石の錦織とのこと。 そして帰路も新大阪駅まで特急「はるか」 を利用。関西空港連絡橋を渡る。連絡橋を渡り阪神高速4号線湾岸線は大阪方面へ阪和線の線路は大阪に向けて大きくカーブ。 高級高層マンションが左手に、つい先日訪れたマンションか。 地上300m日本一の超高層ビル「あべのハルカス」が見えてきた。梅田スカイビル。地上40階・地下2階、高さ約173メートルの超高層ビル。タワーイースト(東棟)、タワーウエスト(西棟)の2棟で構成され、その頂部を連結するように円形の空中庭園展望台を設置した構造が特徴。淀川を渡り新大阪駅へ。新大阪から新幹線に乗り換え新横浜へ。うとうとしていると名古屋駅を出た直後。庄内川を渡る。 山裾の鉄塔の数に驚く。 浜名湖競艇場と新居の町をつなぐ白亜の橋、サンマリンブリッジ。 ボートレース浜名湖。 浜名湖。 多くの養殖場が湖面に拡がっていた。ノリ養殖であろうか。 弁天島近く。 中央の白き建物は浜名湖ロイヤルホテル。浜名湖周辺には多くのメガソーラーが。浜松駅近くの浜松アクトタワー高さ212.77m/地上45階で静岡県では一番高いビル。地下1階~地上8階が商業施設、9~27階がオフィス、28~44階が「オークラアクトシティホテル浜松」、45階が展望回廊。天竜川を渡る。掛川城。安部川。そして富士川からの富士山。山頂の雪はほとんど消えていた。そして暗くなり、車窓からの写真撮影は終了。そして新横浜で下車し地下鉄で帰宅したのであった。
2017.11.26
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敦賀駅から徒歩15分強で氣比神社神宮入口に到着。福井県中央部、敦賀市市街地の北東部に鎮座する。敦賀は天然の良港を有するとともに、北陸道諸国(現在の北陸地方)から畿内への入り口であり、対外的にも朝鮮半島や中国東北部への玄関口にあたる要衝。神宮はそのような立地であることから、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社であったと。この日は大鳥居は改修工事中であった。表参道入口には「官幣大社(かんぺいたいしゃ) 氣比神宮」と刻まれて碑が。官幣大社は日本において官(朝廷、国)から幣帛(へいはく、神社や神棚に供える供物)ないし幣帛料を金銭として至急される神社。 『「古事記」、「日本書紀」では早い時期にこの神宮についての記事が見えるが、特に仲哀天皇(第14代)・神功皇后・応神天皇(第15代)との関連が深く、古代史において重要な役割を担うと。また、中世には越前国の一宮に位置づけられており、福井県から遠くは新潟県まで及ぶ諸所に多くの社領を有していたと。社殿のほとんどは第二次世界大戦中の空襲で焼失したため、現在の主要社殿は戦後の再建。空襲を免れた大鳥居は「日本三大鳥居」にも数えられる壮麗な朱塗鳥居であり、国の重要文化財に指定されている。また境内社の角鹿(つぬが)神社は「敦賀」の地名発祥地であると伝える。その他祭事では多数の特殊神事が現在まで続き、古図、古面等の有形文化財を伝えている。』と氣比神宮境内案内図。朱の太鼓橋を渡る。氣比神宮のシンボルでもある工事中の大鳥居。もともとは東側の参道に建てられたものが、何度か災害などで倒壊し、康永2年の暴風で倒壊していたものを1645年に旧神領地の佐渡から奉納された榁(むろ)の大木で再建され、西門に建てられたものが現在の鳥居。以前は国宝に指定されていた全高11mの木造鳥居は、現在は重要文化財に指定。広島県の厳島神社と奈良県の春日大社と並び、日本三大鳥居(日本三大木造鳥居)と呼ばれる鳥居の一つであると。他の三大鳥居が世界遺産の神社にあることを考えれば、この気比神宮の大鳥居は世界遺産級のスケールを感じる重厚感のある大鳥居。 大鳥居の写真が本殿横に。木造朱塗の両部鳥居で、高さ10.93m、主柱間7.45m。笠は銅板で葺き、八角の控柱の上に笏谷石製の笠を載せ、基礎部もまた笏谷石とする。大規模な朱漆塗の鳥居であると。 表参道を境内に向けて進む。 手水舎。 社務所。 旗携松(はたかけまつ)。 南北朝の争乱の延元元年(1336)、北朝方の足利軍に対して、気比神宮宮司・気比氏治が南朝方として神宮の神旗を掲げた松である。今は旧松根から芽吹いた2代目の松であると。 松尾芭蕉像。片雲の風にさそわれて元禄2年3月27日江戸深川の草庵を立った芭蕉は日々旅を栖として敦賀に杖を止めたのはその年の8月14日夕刻であると。『月清し遊行のもてる砂の上』と「おくのほそ道」にこの句をとどめたと。 向って左奥に「芭蕉翁月五句」の碑があり、次の五句が刻まれていた。「国々の 八景更に 気比の月」「月清し 遊行のもてる 砂の上」「ふるき名の 角鹿(ツヌガ)や恋し 秋の月」「月いつく 鐘は沈る 海の底」「名月や 北国日和 定めなき」芭蕉句碑には次のように刻まれたいた。向って右側の碑には気比のみや 『なみたしくや 遊行のもてる 砂の露』 向って左側の碑みは松尾芭蕉杖跡再び『なみたしくや 遊行のもてる 砂の露』 そして『月清し 遊行のもてる 砂の上』氣比神社 本殿入り口。 『氣比神社』と書かれた扁額。 外拝殿氣比神社 境内。 「氣比神宮」の主祭神は「伊奢沙別命(いざさわけのみこと)」。古くから海上交通や衣食住全般の神様として崇められてきたが、特に農業、漁業、海運業の方々の信仰が強いとのこと。毎年6月15日に行われる御田植祭は、1000年以上の歴史を持つ「氣比神宮」を代表する神事。9月には山車が市内を巡幸する神幸祭、例大祭なども行われ、敦賀一帯が賑わいを見せると。「氣比神宮」の参拝は、正式参拝でない限り外拝殿の手前までと。 工事中の大鳥居の扁額が展示されていた。有栖川宮親仁威親王染筆であると。 九社之宮、神明両宮入口が拝殿の左、鳥居の奥に。左手より、天井弉奈彦神社(式内社)・天伊弉奈彦大神、天井弉奈姫神社(式内社)・天比女若御子大神、天利劔神社(式内社)・天利劔大神、鏡神社・神功皇后宝鏡、林神社・林山姫神、金神社・素盞鳴尊、劔神社・姫太神尊であると。 九社之宮の奥に末社・神明両宮が。左、豊受大神(外宮)、右、天照皇大神(内宮)外宮は慶長17年3月28、内宮は元和元年9月28日それぞれ勧請奉祀されたものと。 神明両宮前から九社之宮を見る。 東門。 東門を出ると紅葉の林が拡がっていた。 左手に車御祓所。 青空、紅葉、黄葉のBEST MIX。 喫茶・売店 「ゆーかり」 氣比宮古殿地。氣比之大神降臨の地であり神籬磐境(ひもろぎいわさか)の形態を留める「土公(つちぎみ、どこう、どくう)」の遥拝所と。「土公」はなぜか小学校の敷地にあるとのことで見ることは出来なかった。 末社・式内社大神下前神社。御祭神・大己貴命、氣比大神四守護神の一つとしてもと天筒山麓に鎮座されていたのを明治年間現在地に遷座、稲荷神社と金刀比羅神社を合祀。 大神下前神社の右にある末社・兒宮(このみや)。御祭神は伊弉冊尊。神社パンフレットには「徳川時代から子育ての神と称され小児の守神として信仰が篤い。」と。 鹿角神社。祭神は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)。敦賀の地名由来になった渡来人ツヌガアラシトを祀る摂社角鹿(つぬが)神社は『延喜式神名帳』に小社として記載されている。古く政所神社とも称し、また正安3年(1301年)までは境内の表口であったことから門神(かどかみ)とも称されたと。 紅葉の葉の隙間から陽光が。 絵馬堂がひっそりと。 神水池(南の池)には鯉がのんびりと。暫くすればここにも逆さモミジの姿が。 絵馬堂内部には様々な絵馬が掲げられていた。 絵馬というと初詣の時などに書く小さなものをイメージするが、室町時代ごろからはこのように大きな扁額式の大絵馬が現れたと。安土桃山時代になると、著名な絵師による本格的な絵馬が人気となり、絵馬を展示する絵馬堂も建てられるようになったと。しかしここの貴重な絵馬は保存修復が急務であると感じたのであった。 南参道への太鼓橋。 銀杏の黄葉も今が盛り。 東門から拝殿境内に戻ると正面に授与所が。 境内授与所で御朱印を頂きました。 授与所からの境内。 最後に猿田彦神社を訪ねる。 気比大神を案内される神であり、交通安全、家内安全の御神徳が高いと。 氣比神社の参拝を終え、急ぎ足で待ち合わせ場所の敦賀駅まで戻りったのであった。そして元同僚の車で事業所へ。途中、道の駅 若狭おばまで昼食。未だに「obama」元大統領の姿が。そして店内の壁には、毛筆書きで面白い言葉が。「失敗が成功の母ならば父は一体どこで何をしてるんだ」 「井の中の蛙 大海を知らずとも 精一杯泳ぐ」 「世界平和の前にまず家庭内平和」 「転んでもタダ起きる」 「なすがままならきゅうりはぱぱ」 真ん中に「俵越山美術館」 の文字が。
2017.11.25
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仕事の応援で福井県に行って来ました。新幹線で米原まで行き、北陸本線・特急「しらさぎ」にて敦賀駅へ向かう。途中、車窓左手にドーム状の建物が。滋賀県長浜市にある県立の屋内スポーツ施設・滋賀県立長浜ドーム(しがけんりつながはま-)。2015年11月、募集していた命名権の取得候補者が長浜バイオ大学を運営する関西文理総合学園に決まったと発表され、2016年1月より2019年3月までの予定で「長浜バイオ大学ドームの愛称が使用されていると。琵琶湖沿いを電車は走る。琵琶湖畔には墓地も。長浜びわこ大仏が左手に。平成6年に平安山・良畴寺(りょうちゅうじ)境内に完成した28m(台座込み)の如来様。 長浜城。羽柴秀吉(豊臣秀吉)が築城し城跡で模擬天守(長浜城歴史博物館)であると。 余呉湖の釣り堀。余呉湖は 琵琶湖の北側に位置し、琵琶湖とは賤ヶ岳(標高422m)で隔てられている。舞鶴若狭自動車道高架橋が前方に。 敦賀駅に定時に到着。駅ホームのベンチには、恐竜のモニュメントが座っていた。ここは恐竜王国 福井。 改札を出たところにJR敦賀駅員手作りの顔出しパネル「SL『大谷吉継号』」が。敦賀発展の立役者となった大谷吉継と鉄道をテーマにしたと。 1時間ほど早く到着したので、氣比神社の散策に向かう。駅前ロータリーには、都怒我阿羅斯等( つぬがあらひと ) の像。『日本書紀』に伝わる古代朝鮮の人物。 氣比神宮(福井県敦賀市)の社伝では、都怒我阿羅斯等は敦賀の統治を任じられたとする。また、氣比神宮境内摂社の角鹿神社(式内社)はその政所跡であるとし、現在は都怒我阿羅斯等が祭神とされていると。都怒我(つぬが)が訛り敦賀となったと。これが地名「敦賀(つるが)」の由来であると。シンボルロード。敦賀駅から気比神宮までの道をシンボルロードとなっている。歩道に「銀河鉄道999」と「宇宙戦艦ヤマト」のモニュメントが展示されているのであった。敦賀観光案内サイトによると『なぜ、敦賀の街に松本零士氏の両作品をモチーフとしたブロンズ像が並んでいるのか。そのヒントは「銀河鉄道999=鉄道・科学・未来」「宇宙戦艦ヤマト=港・科学・未来」。敦賀は日本海側で最初に鉄道が敷かれた街。かつて、東京とパリを結ぶ「欧亜国際連絡列車」が敦賀港駅を経由して走り、昭和32年には国内では最初の本格的交流電化が完成、さらに昭和37年には、完成当時日本一、世界第5位の北陸トンネルが開通した。敦賀は日本海側の交通の要所として「日本でも有数の鉄道と港の町」だったのだ。このシンボルロードに設置されているブロンズ像は、1999年に敦賀港開港100周年を記念して、市のイメージである「科学都市」「港」「駅」と敦賀市の将来像を重ね合わせて設置されたもの』 『心の旅 敦賀への道』敦賀がいつまでも平和でまほろばとなることを願っていると。 氣比神宮境内に向かってシンボルロードを歩く。『銀河鉄道999』『少年 星野鉄郎』 『メーテルとの出会い』 『母との記憶』 『旅立ち』 『永遠の星の海』 『迷いの星』 『ガラスのクレア』 『エメラルダス』 『時間城』 『友の眠る星』 日本原子力発電(株)敦賀事業本部、ソ連領事館跡地に建っていた。『フロメシューム』 『限りあるいの地のための戦い』 『別離』 『青春の幻影』 道路の反対側にも多くの像が展示されていると。 歩いて来た商店街を振り返る。商店街、ほとんどがシャッターが降りていた。この日水曜日が定休日かともおもったっが、人口減少、原発の廃炉での補助金削減、観光客が来ないことなどを含め、深刻な状況?。敦賀原発は今年の4月に廃炉が決定されて原子力規制委員会が計画承認されたのだ。24年をかけて解体が計画されているのだ。
2017.11.24
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先日、タマネギ(玉葱)の苗の植え付けを行いました。今年は種蒔きからではなく、ネット通販で2種類の苗を100本ずつ購入しました 知多早生3号。『辛味・刺激が少なく糖度12度以上にもなり、メロン級の甘さの玉ねぎ!!肥大良く玉太りが良いので甘味が増し、収穫したては最高に甘くサラダ・生食では抜群の食味です!』と。 もう1種類はF1ネオアース。 『肥大力バツグン!安定した肥大性を誇り、作りやすい大玉がこちら。数ある晩生系のなかでも、特に萌芽が遅いタイプで、貯蔵病害にも強く、なんと約9か月も貯蔵が可能です。皮は色濃く、よく密着し、実にツヤやか。「美味しい玉ねぎ」としても話題に!』 と。 穴あき黒マルチを敷き植え付けの準備をしておきました。 そして1本ずつ丁寧に植え付け。 マルチングで育てる時は指の第二関節まで穴をあけて深植えに注意しながら1本ずつ苗を植え付けて、苗が倒れないように株元を指でしっかり押さえ土としっかり密着させます。根が十分に張ってない頃に霜柱ができると、根ごと地表に浮き上がってしまうことがあるからです。植え付けた後は苗の先端が茶色くなって萎れたようになりますが、新根が出ると元気になるので心配はいらないのです。 養蜂場の畑にも植え付けました。 タマネギは春になって植えた株の6~7割の茎葉が倒れた頃が収穫適期となるのです。タマネギは、地上部が倒れても、まだ葉が青ければ、肥大します。しかし、収穫が遅くなれば~なるほど玉葱が腐りやすくなるばかりか~保存性が損なわれ、貯蔵性も悪くなるので、栽培農家は、倒伏していない玉葱もわざと倒し、最後の肥大を促すそうです。倒伏開始から1週間ほど経ったら、タマネギ球を傷つけないように収穫するのです。玉ねぎは、湿気に弱いため冷蔵庫の保存よりも、常温で風通しが良く日の当たらない場所の方が長持ちするのです。日陰で風通しが良い湿気の少ないところに吊るしておくのが1番なのです。
2017.11.23
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11月19日の我が家からの晩秋の夕焼けです。野菜を収穫に家の横の畑に出ると、西の空が真っ赤に染まっていたので部屋に戻りカメラを持ち出し暫し撮影。 真に日の入りの瞬間に。 夕日が箱根の双子山の頂上に沈んでいきました。 二子山無線中継所の鉄塔も確認出来ました。 富士山も赤く染まり頂上そして尾根から白雲が湧き上がっていました。 そしてこの日の日没。 上空の雲も真っ赤に染まり周囲が輝いていました。 日本大学生物資源科学部の本館と富士山。 富士山の山の端から白き雲が更に激しく。 電線、電柱が無ければ・・・と我が儘にも。
2017.11.22
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ソラマメの種蒔きを10月30日に行いました。今年も種はネットで「打越一寸」を購入。3粒莢率が高く、総着莢数の多い多収型品種であり寒さにも比較的強くて、つくりやすい品種なのです。 今年もポットに種を蒔きました。直播きが一番簡単ですが、中には発芽しないものもあり、その場合の補充が難しいのが難点。更に発芽時に野鳥等に突っつかれないように最初からネット等で覆わなければならないのです。 ソラマメのお歯黒を斜め下にして、少しくぼんだ方を斜め上向きにして土に差し込むのです。こうすると発芽しやすいとのこと。そして培土に挿していくのだが、その時大事なのは豆の尻1/3ほどを地面から出しておくこと。これは、 豆が窒息しないようにするため。ソラマメは酸欠に弱いようです。よって全部埋めてしまうと、酸欠で弱ってしまい芽が出てこないものが多くなるのです。今年の培土もサカタ「ソイルミックス」 。黒ピートを混合し、天然の水分を含んでいるので、他の培養土や肥料を加えずに開封後すぐに利用できるのです。 同時ににスナップエンドウも2種類の種を蒔きました。 こちらはポットに3粒ずつ。 そして11日後の11月11日のスナップエンドウの発芽の状況です。 こちらはソラマメの11月14日の状況。ほぼ芽が出そろいました。 スナップエンドウも発芽後順調に成長。 そして11月19日のソラマメ。既に4葉になろうとしています。今年は1~2日の遅れはありましたが、全てが発芽してくれました。 スナップエンドウも更に順調に大きくなっています。そしてサヤエンドウも。 ソラマメは虫害ではアブラムシが最も大敵。防除はまず、タネまき部または定植用穴に浸透移行性殺虫剤のオルトラン粒剤を散布。さらに、畝にはシルバーマルチを敷きました。 シルバーマルチは、光の反射による忌避効果で、アブラムシ等の害虫が付きにくくなるのです。植え付けは、今度の日曜日を予定しています。このシルバーマルチも何年目の再使用でしょうか。 そして冬野菜も順調に成長し収穫の時期が迫っています。 ブロッコリー。 カリフラワーも既に10cm程度の大きさに。白菜。 ニンニク。 キャベツ。 こちらは芽キャベツ。 レタス。 カブは既に大きなものをおろ抜きながら、漬物で楽しんでいます。 大根も5cm以上の太さに。 青梗菜(ちんげんさい)。 紅白の縮れ葉ボタンは、正月を待たずにかなり大きくなってしまいました。 定植したイチゴ苗。米糠を施肥。 孫達のお持ち帰り用にプランターにも定植。
2017.11.21
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長谷寺に向かう途中、飛鳥駅前を通過。以前、ここからレンタサイクルで飛鳥の遺跡を散策したことを想い出す。天武・持統天皇陵(檜隈大内陵)(てんむ・じとうてんのうりょう(ひのくまのおおうちのみささぎ)。天武天皇と持統天皇は亡くなってからも共に眠っており、夫婦仲が良かったと。 奈良桜井市方面に進む。 そして長谷寺(はせでら)に到着。長谷寺は、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派総本山の寺。山号を豊山神楽院と称する。本尊は十一面観音、開基(創立者)は僧の道明とされる。西国三十三所観音霊場の第八番札所であり、日本でも有数の観音霊場として知られる。 駐車場に車を駐め、仁王門への坂道を上る。 仁王門が見えて来た。 長谷寺 境内案内図。 仁王門。長谷寺の総門。入母屋造、本瓦葺の三間一戸の楼門。平安時代、一条天皇の時代頃に創建された。その後度重なる火災により焼失し現在の門は1885年(明治18年)に再建されたもの仁王門の扁額。 「長谷寺」という大額の文字は後陽成天皇の宸筆。 阿形像。吽形像。長谷寺のある初瀬山の山麓から中腹にかけて伽藍が広がる。入口の仁王門から本堂までは399段の登廊(のぼりろう、屋根付きの階段)を上る。 宗寳蔵(しゅうほうぞう)。右手に長谷寺に伝わる国宝・重要文化財の宝物公開で知られる宗宝蔵が姿を現した。長谷寺は牡丹の名所であり、4月下旬〜5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になり、古くから「花の御寺」と称されていると。 登って来た下登廊。 手水舎。 「中登廊」を登りきったところに、「蔵王堂」が。 上って来た中登廊。 「上登廊」を最後まで登りきり、正面の奥に見えるお堂が「愛染堂」。天正16年(1588年)、観海上人の再建。内陣には愛染明王像が安置されていると。 長谷大黒天。 長谷寺 本堂(観音堂)内部。護摩焚きが行われていた。焚き上げる護摩木の煙が天に届くことで、天は食をいただくことができ、代わりに人に福を与えるとされていると。 長谷寺本堂の舞台からの長谷寺境内の眺め。 「大悲閣 」と書かれた扁額。 舞台から、少し離れた所にある朱塗りの五重塔も見えた。 大悲閣の説明も。 護摩の炎には、神仏が宿り炎が神仏や龍神の姿を表すこともしばしばあると。 三百余社(さんびゃくよしゃ)は、登廊を上りきった場所にある鐘楼の左手前に位置する祠。江戸時代前期の1650年(慶安3年)に造られた一間社春日造、銅板葺きの建物。1986年(昭和61年)12月20日に国の重要文化財に指定された。 鐘楼。1650年(慶安3年)建立。1986年(昭和61年)12月20日、重要文化財に指定された。 開山堂(かいざんどう)。開山堂は、長谷寺を開山した徳道上人(とくどうしょうにん)を祀る堂。徳道上人は、奈良時代の高僧で、727年(神亀4年)に聖武天皇の勅願により、東の丘(現在の本堂(観音堂)のある場所)に本尊十一面観世音菩薩を安置し長谷寺を開山したと。徳道上人像。 帰りに宗寳蔵に立ち寄る。宗寳蔵内部の展示仏像。 登廊を見下ろす。 そして帰路に。38号線を北に進み、名阪国道をひたすら走り、関インターからから1号線、そして東海JCTから伊勢湾岸自動車道⇒東名高速道路をひたすら走る。途中刈谷SAでラーメンで腹ごしらえ、そして日本坂SAにて休憩、仮眠し足柄SAで0時に以降に茅ヶ崎で高速を下りるための時間調整。そして茅ヶ崎のSさん宅に0:20過ぎに到着。自分の車に乗り換え深夜1時前に帰宅したのであった。4泊6日での車による四国八十八箇所遍路巡りそして四国からの帰路は関空近くの元同僚宅にお世話になり深夜まで飲み語り合い、翌日は高野山金剛峯寺、奥の院、そして高取城址、長谷寺を巡り,何と走行距離2140kmの旅であったのだ。その殆どを旅友Sさんが運転、私は助手席から車窓の風景を楽しんだのであった。Sさん、安全運転お疲れ様でした。ありがとうございました。そして次回の四国八十八箇所遍路巡りは来年3月の桜の季節か? --------------完--------------------------
2017.11.20
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高野山の後は高取城址へ向かう。城は、高取町から4キロメートル程南東にある、標高583メートル、比高350メートルの高取山山上に築かれた山城。元和元年(1615年)の一国一城令の際も重要な山城として破却を免れ、現在に至るまで石垣や石塁が残されているのだ。日本百名城の一つであり、2014年8月27日に訪ねているが、この時にはスタンプのみで本丸までは歩を進めていないのであった。車で林道をひたすら上り、七つ井戸の麓より散策開始。七つ井戸を縦断する石段から一気に二ノ丸へ。途中、スズメ蜂、毒ヘビ注意の看板が。急な石段が上までずっと続いていた。脇には段々に構成された井戸郭的な場所が多く並んでおり、七つ井戸の名前の所以となっているのだと。このあたりから、総石垣だった城の片鱗が見えて来た。更に階段を上る。「井戸あり」の看板も。七つ井戸最後の郭の部分から、その上にそびえる二ノ丸の石垣を見る。石垣の表面の姿が全く違う。二ノ丸の石垣はかなり整備の手が入っているようで、苔の類が全て綺麗に剥がされたのであろうか。御城門より二の丸方向を撮影。新櫓跡への階段。太鼓櫓跡。新櫓跡からの二ノ丸。二ノ丸。二の丸の大きさは東西に約65メートル×南北は約60メートルで、主な建設物として、二の丸を守る北側中央にある「十三間多門」と「西江角櫓」、北西には「火之見櫓」、南西に「客人櫓」、南側中央に「御風呂屋」、そして中央に「二の丸御殿」が建設されていたと。新櫓跡。「高取城址」と刻まれた石柱。 天守台脇にあった歌碑。城下町より望む姿は「巽高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」と謡われた。なお、佐とは高取の旧名である。(ウィキペディアより)天守台石垣。 天守台石垣は打込みハギで、隅部は算木積みで反りのない工法。 本丸へ。『南北朝以来、越智・本多・植村氏の居城として使われてきた。元弘2年(1332年)、南朝方に属した高取の豪族、越智八郎が築城。越智氏の時代(1533年)までは、深谷峻崖の天険を利し、橋梁を設け本棚を廻らしたカキ上げ城で本城は貝吹山城であった。その後、郡山城主となった豊臣秀長の命を受け、天正13年(1583年)に本多氏が入城、時の軍学者、諸木大膳技師長となり、石塁を築き土塀を廻らし、本丸に大小の天守閣を起こし、多門を連ね、幾多の櫓楼を配して、山城に平城の築城技術の長所を採用し、要害堅固と美観の完成で面目を一新。近世的城郭として整備された。本多氏が絶えた後、譜代の大名の植村家政が寛永17年(1640年)に入城。明治2年(1869年)の版籍奉還まで、14代に渡り居城した。版籍奉還により明治政府の管轄になり、明治6年(1873年)に廃城となった。』と高取町観光ガイドより。 古木の切り株の上にミニ天守が。本丸への虎口。更に本丸に向けて進む。山頂に三角点も。 紅葉が進めば更なる絶景に。 天守閣跡から本丸。 本丸・・・東西75m×南北60m。約8mの石垣に囲まれていた。1.高取城「天守台」・・・天守台下は打込みハギと算木積みの石垣 高取城天守台の穴蔵・・通路が約3m2.三重三階の「小天守」・・東西12m×南北13m。3.二重三階の「硝煙御櫓」4.虎口の「具足櫓」5.虎口の平櫓の「鉛御櫓」。 「高取城の再現図」(奈良産業大学 高取城CG再現プロジェクトによる)手前からが大手道のある登城ルート。天守閣廻りの再現CG。 【http://www.nara-su.ac.jp/archives/takatori/ 】より転載大手門跡か。東西南北案内石。南東方面には大峯山や大台ケ原といった奈良県の屋根が見えると。国見櫓跡から。天気が良ければ生駒山、二上山等が見えるのであったが・・・。 本丸から虎口を見る。非常に複雑な石垣。 現在天守はないが、美しく積み上げられた石垣が山のいたるところにあり、当時のスケールを実感出来る空間。 上ノ門の礎石 。猪が地面を掘り上げた跡が至る所に。 本丸の石垣の下の説明板。 高取城 沿革。南北朝時代,吉野方に味方した越智氏の支城の一つであったが,戦国時代に入ると,大和郡山城を居城とする筒井順慶が,郡山城の詰の城として本格的城郭に改めた。さらに豊臣秀長が郡山城主となると,新しい縄張によって築城したと伝えられる。日本三大山城 説明板。 日本国内では最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられる。 再び本丸石垣。 虎口。石垣の石の一部は、飛鳥の古墳の石、例えば石舞台古墳の羨道の天井石とか、廃寺の礎石とかが転用されていると。 七ツ井戸跡のうちの一つ。 往時の連立式天守を思い描きながら下山し、次の目的地の長谷寺を目指したのであった。
2017.11.19
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク金剛峯寺を後にし、車で奥の院に向かう。 再び鐘楼「六時の鐘」を車窓から。奈良県道53号高野天川線を進む。成福院「摩尼宝塔(まにほうとう)」 御本尊は、なんと!!ビルマ(現ミャンマー)から、直接、寄贈された「釈迦如来(しゃかにょらい)」。 「魔尼宝塔」は三層八角形の堂で、成福院の境内に建立されている。宝塔の内陣の壁には、仏画が約15,000体も貼られており、地下は八角の地下道を巡る場所になっていると。奥の院参道ガイドマップ。 中の橋からの入り口。ここから弘法大師廟まで約1km。参道の両側に石灯籠が並ぶ。色々な有名企業の慰霊塔などが参道の両側に。新明和工業株式会社の慰霊碑兵庫の航空機メーカー、新明和工業株式会社は今にも宇宙に発射されそうなロケットが。全国建設専門工事業団体連合会 慰霊碑。日本しろあり対策協会の慰霊碑。日本しろあり対策協会は「しろあり やすらかにねむれ」と。福助の慰霊碑。福助人形が高い場所に鎮座。救世観音像。奥の院の銀杏の黄葉も今が盛り。日産の慰霊碑。日産は作業員風の像が建っていた。黄葉を楽しみながら奥に進む。紅葉が鮮やかな英霊殿入口。更に奥に進む。参道の両側に杉の巨木がそしてその下に多くの墓碑が。加賀前田家二代利長墓所。前田利長(1562~1614)は、前田利家の長男。利家没後、徳川家康に与して、関ヶ原の戦いの後、加賀藩百二十万石の初代藩主となった。慶長19年(1614)に没し、この石塔はその1年1ヶ月後に母芳春院(ほうしゅんいん)の勧めによって、弟で養子の二代藩主利光(後の利常)が建立した。高野山で三番目に大きい石塔で「三番石」と呼ばれる。訪ねる人も少ない多くの墓石が。浄土宗の開祖、法然上人圓光大師の供養塔。安芸(あき)浅野家墓所。奥の院参道も終わりに近づいた辺り、右手にある安芸・浅野家の墓所。浅野家といえば播州赤穂の浅野家の方が有名だが、こちらはその本家筋にあたると。越前松平家(えちぜんまつだいらけ)の石廟(せきびょう)。これは結城秀康と母(長勝院)の石廟。秀康は、徳川家康の次男として生まれたが、豊臣秀吉の養子になり、その後、秀吉に鶴松が生まれたため、さらに結城家の婿養子になった人。その後、松平に復姓したが、1607年には家康に先立って他界。秀康の石廟は、その長男の「越前松平忠直」によって1607年に造られた。母(長勝院)の石廟は、1604年に造られている。「松平秀康及び同母霊屋史跡」は2004年7月に世界遺産に登録された。浅野内匠頭墓所。奥の院参道の終点に近い、もうすぐそこが水向地蔵というところにある浅野内匠頭墓所。中央が「冷光院殿前朝散大夫吹毛玄利大居士」と刻まれている浅野内匠頭の墓。大石内蔵助が主君内匠頭の冥福を祈って建てたと。左は「忠誠院刃空浄剣居士外四十六士各霊」と刻まれていている赤穂四十七士菩提碑。忠誠院刃空浄剣居士は大石内蔵助の戒名。この墓所は参道に面しているので多くの人が足を止めていた。奥の院・頌徳殿。御供所の隣に建つ頌徳殿(しょうとくでん)は「茶処」とも呼ばれ、お茶のお接待を受けられる休憩所。大正4年、開創1100年記念事業の一環として建てられた大正建築。蝋燭台が並ぶ。織田信長墓所。 そもそも信長は、高野山を攻めた憎き「敵将」だったはずであるが・・・・ここに??死ねば敵も味方もないのであろう。 織田信長斯公墓の文字が。別の角度から。豊臣家墓所。豊臣家墓所で確定しているのは秀吉公、秀吉の母、秀吉の異父弟・大納言秀長夫婦のものと。中央奥の一番大きな五輪塔は「豊臣太閤秀吉公」とはっきり読めたが、そのほかは?。豊臣家には他に秀吉の父をはじめ、奥方の「ねね」「淀君」、子供の「鶴松」「秀頼」、異父妹「朝日姫」、切腹させられたものの「秀次」も考えられるが、五輪塔は全部で六基。秀吉と母、秀長夫婦で残りは二基。この二基に祀られているのは誰?。肥前島原 松平家墓所。この墓所の五輪塔は整然と並んでいた。1668年より肥前島原藩主。6万石。家祖は松平第3代信光の七男忠景の次男・忠定。十八松平のひとつ、深溝松平家。1524年より深溝城主。深溝城は愛知県額田郡幸田町深溝。愛知県幡豆郡吉良荘の吉良氏(元禄赤穂事件の吉良さんち)と徳川家康との戦いの拠点。4代家忠は家康の関東へのお引越に伴い武蔵忍藩1万石。1600(慶長5)年、伏見城の戦いにおいて、守将・鳥居元忠の副将格として伏見城で籠城、討死。家忠の子・忠利は、関ヶ原後に三河深溝藩1万石へ旧領復帰。その後転々として、1668年より島原藩主と。加賀前田利長夫人墓所。崇源院 徳川秀忠夫人 墓所。高野山・奥の院「一番石塔」。徳川二代将軍の秀忠の妻(崇源院/江姫)の五輪塔。「この塔は、高さ6.6mで、台石は八畳も。「崇源院」は、波乱の人生を送った浅井長政の「浅井三姉妹」の末っ子「江姫(ごうひめ)としての名前が有名で親しまれている。使われている石は瀬戸内海の島から切り出されたもので、これを船で海から紀の川と運び、町石道を人力で運び上げたものだと。。越前松平家墓所(重要文化財)これは結城秀康(右)と母(左)の石廟。秀康は、徳川家康の次男として生まれたが、豊臣秀吉の養子になり、その後、秀吉に鶴松が生まれたため、さらに結城家の婿養子になった人。その後、松平に復姓していますが、1607年には家康に先立って他界。秀康の石廟は、その長男の「越前松平忠直」によって1607年に造られた。母(長勝院)の石廟は、1604年に造られたと。「松平秀康及び同母霊屋史跡」は2004年7月に世界遺産に登録。 蓮華院墓所との立て札。天樹院千姫 供養塔。千姫(せんひめ)は、安土桃山時代から江戸時代の女性。豊臣秀頼・本多忠刻の正室。父は徳川秀忠、母は継室の江。播磨姫路 本多家 墓所。本多忠政は天正18年小田原攻めに初陣、元和3年播磨国姫路に転封、翌4年姫路城を修築した人物。肥前島原 松平家 墓所。寄り添う五輪塔。島原藩は幾度か藩主が入れ替わった後、松平氏が7代にわたり治めたと。加賀 前田利長夫人栄姫(えいひめ)の墓所。織田信長の5女。参道を挟んで向かい合う、利長夫妻。長州 毛利家 墓所。奥の院の石塔は「五輪塔」といって、大日如来を象徴した塔。空輪=一番上の宝珠形の石風輪=上から二番目の半月形の石火輪=真ん中の三角形の石水輪=下から二番目の丸い石地輪=一番下の四角い石と呼ばれ、それぞれを表す梵字が刻まれていた。ビルマ方面戦没英霊納骨塔「パゴダ」。高麗陣敵味方戦死者供養碑。1597~8(慶長2~3)年・慶長の役で戦死、横死・病死した人々は数知れず。敵方兵81500人以上、味方兵3420人とも。慶長の役から帰国した島津義弘・忠恒(家久)父子が、敵味方の双方の戦没者の菩提を葬うために建立した供養碑。石材は琉球石。高野山にあるはずのないこの石は、島津家が運んで来たと。伊予 大洲 加藤家 墓所。元和三年(1617)加藤貞安が入り大洲藩として江戸時代が終わるまで加藤氏が領主として続いたと。住友氏族墳。石田三成 墓所。石田三成が30歳のときに生前葬をして建てたもの。天正18年(1590年)当時ではこの五輪塔が一番大きかったとのこと.伊達政宗 墓所。伊達政宗1周忌のときに立てられた五輪塔。この五輪塔の周囲に後を追って殉死(切腹)した20人の墓があるのだと。20人もの殉死の墓があるのは奥の院では珍しいとのこと。奥の院内に伊達家は2ヶ所の墓所があると。武田信玄・勝頼 墓所。 紀州初代藩主 徳川頼宣 墓所。御供所で高野山・奥の院の御朱印を頂きました。「弘法大師」の文字が。 一の橋から参拝し、御廟まで約2キロメートルの道のりがあり、おおよそ20万基を超える諸大名の墓石や、祈念碑、慰霊碑の数々が樹齢千年に及ぶ杉木立の中に立ち並んでいた。 奥の院参拝を終え、車に戻り高取城址を目指したのであった。
2017.11.18
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク更に金剛峯寺の伽藍堂塔の散策を続ける。三味堂。済高座主が929年(延長7年)に建立した堂で、済高がこの堂で「理趣三昧」と言う儀式を執り行っていたことにより三昧堂と呼ばれるようになった。元々は総持院境内にあり後に伽藍に移された。この時修造に西行法師が関わったと。現在の堂は1816年(文化13年)に再建されたもの。 東塔。白河法皇の御願により1127年(大治2年)に創建された塔で、本尊に尊勝仏頂尊、脇侍として不動明王、降三世明王の二尊が祀られている。江戸時代に塔が再建されたが、1843年(天保14年)に焼失し、その後再建されていなかったが、1984年(昭和58年)に現在の塔が再建されたと。 蛇腹坂を下り金剛峯寺境内に向けて歩く。六時の鐘。金剛峰寺の正面左前方、伽藍の入り口となる高い石垣の上にある鐘楼。かつて豊臣秀吉の勇将であった福島正則が両親の追善を祈り1618年(元和4年)に建立。1640年(寛永7年)に正則の子、正利によって再鋳され、鐘銘が仮名まじり文である事でも知られている。現在も午前6時から午後10時までの偶数時に時刻を知らせる鐘として使われていると。6時から22時までの偶数時に12回うたれる。なので、合計で108つ。修行僧の還俗への思いを断ち切る為のものか。こちらにも赤く染まり始めたモミジが。 総本山・金剛峯寺。格式高い、正門入口。 「総本山 金剛峯寺」と刻まれた石柱。 金剛峯寺は元は真然大徳の住まいがあったところで、天承元年(1131年)鳥羽上皇に許しを得て大伝法院を建立。その後、豊臣秀吉が亡き母の菩提を弔うために木食応其上人に命じて建立させた寺院で「青厳寺」と呼び、応其上人の住まいになった。その後、再三の火災により焼失したが、現在の本殿は文久3年(1863年)に再建された。現在は、奥の院祖廟を信仰の中心として結成された高野山真言宗三千余寺、信徒約1千万人の総本山として高野山真言宗管長兼金剛峯寺座主の住まいとなっていると。また、栄耀栄香と富貴のパワーがもらえるエネルギースポットとしても有名。高野山金剛峯寺が迎えてくれる最初の表門。この門は金剛峯寺の建物の中で一番古い正門といわれる門で、情緒あふれる門。往時の時代でこの正門を利用ができたのは、位の高い重職などだけだったと。文禄2年(1593年)に再建されたもので、400年以上もの間ここ高野山を見守って来たと。 主殿は、秀吉が亡母の菩提を弔うために建立した建物「金剛峯寺」という名称は、弘法大師が『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』というお経より名付けられたと。東西60m、南北約70mのこの主殿(本坊)をはじめとした様々な建物を備え境内総坪数48,295坪の広大さと優雅さを有していると。主殿の中には、歴史に名を残す狩野探幽筆の襖絵『松に群鶴』、豊臣秀次切腹の「柳の間」にある山本探斉筆の襖絵『雪柳白鷺』、豪壮ながら生活感が溢れた台所など見所が多彩。金剛峯寺の御朱印をいただきました。鐘楼。表門を潜って右にある建物が、金剛峯寺の前身「青巌寺」の時代の鐘楼。その構造形式から、1860(万延元)年の大火で類焼後、主殿などの建物と共に鐘楼もその4年後に再建されたもの。桁行・三間、梁行・二間、袴腰付入母屋造りの形式で、県指定文化財。石崎光瑤作 襖絵『虹雉』全12枚が、特別公開中であった。高野山では、奥の院の参道をはじめ高野杉の高木が林立していて山の霊気を高めている。金剛峯寺の中で奥の院霊木として直径2メートルもの輪切りの幹が展示されていた。樹高 57.00メートル 直径 2.78メートル 根元周囲 7.00メートル。三鈷杵( さんこしょ)。密教では,杵(きね)の形をした中央の握り両端に鈷の突起をつくりその鋭さによって煩悩を打ち破り,菩提心(仏性)をあらわすための法具である。空海が唐から帰国の際、師の恵果和尚から送られた密教法具の一種である三鈷杵を東の空に向けて投げた。帰国後その三鈷杵を探し求めていると、高野山の松の木に引っかかっているのがわかった。そして高野山の地が真言密教の道場として開かれ、この松は「三鈷の松」といわれた。そのため高野山では「飛行三鈷杵」を大切にし、厳重に保管して来たと。両端の鈷数や形によって独鈷杵,三鈷杵,五鈷杵,九鈷杵,宝珠杵,塔杵,九頭竜(くずりゆう)杵などがある。独・三・五鈷杵は古いが,宝珠・塔杵は新しく,九鈷杵,九頭竜杵はチベットの杵の影響を受け,宋,元代に多いと。「遍照金剛」と書かれた御朱印を頂きました。播龍庭(ばんりゅうてい)。金剛峰寺の奥殿を中心とする我国最大の石庭でその広さは5000余坪。京の白川砂と四国の名石を使用。勅使門より左側に雄龍、右側に雌龍を配するように造られ、金胎不二(こんたいふに)を表すと。雲海の中で龍が奥殿を守っていると。石庭の奥にもモミジが。 金剛峯寺の堂内を回っていると、拝観ルートの途中で新別殿に出た。大勢の参詣者が休憩できる大広間で、ここで僧侶の法話を聞きながらお茶とお菓子のお接待を受けることが出来た。 この日の法話を行うのは、中堅の僧侶。 座禅している僧侶像が話しかけて来そう。 再び表門。 蛇腹坂(じゃばらみち)を駐車場に向かって戻る。壇上伽藍に通じる、幅およそ3メートル長さ100メートルの道。この道は、ほんの少しの傾斜がある上り坂だが、色付き始めた木々もあり、赤や黄色の色鮮やかな紅葉を楽しむことも出来た。。蓮池。干ばつに苦しむ人々を救うために善女竜王像と仏舎利を祀った池。 紅葉が始まった逆さモミジが。
2017.11.17
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク翌朝のT邸からの朝焼け。 ベランダから見る日の出。 朝食も豪華そのもの。 Tさんにお礼そして再開を約束してこの日の最初の散策地の高野山に向かう。途中、24号線沿いにあるの道の駅 「紀の川万葉の里」に立ち寄る。販売所にはこの地の特産の各種の柿が販売されていた。土産に真っ黒な粉が吹いた柿を土産に購入。これぞ思い荷物にならない車で移動の特典。 県道480号線を世界遺産の高野山に向かって車を進める。 花坂不動尊。参詣道の道中安全の守護を願い、表高野に位置する花坂の地が不動尊建立に最適な浄地であるとの霊示を受け、花坂不動尊を建立開眼した。霊験あらたかな不動明王像を彫刻し、本堂に本尊として安置。境内に日本有数の大きさの不動明王立像と、黄金の大日如来像が建立したと。大門(だいもん)を車窓から。高野山全体の総門。1705年再建。国の重要文化財・世界遺産。中門前の駐車場に車を駐め、金剛峯寺の伽藍堂塔を訪ねる。伽藍堂塔 境内配置図。中門。高野山の中門は、江戸時代の天保14年(1843年)の大火事で燃え尽きてしまい、以降、平成の現在まで「中門跡地」として残っていた。しかし、平成27年の高野山開創1200年の記念の際に、173年ぶりにこの「中門」を再建しようという話が持ち上がった。平成27年の高野山開創1200年記念の記念事業の一環で、中門再建計画が企画され工事実施。ここで再建されたのは、中門だけではなく、かつて中門に安置されていたとされる、運派が彫ったとされる「仁王像」も同時に再建されたと。中門正面手前の左側が「持国天」。中門正面手前の右側が「多聞天」。 中門裏側の正面から見て左側が「増長天」。中門裏側の正面から見て右側が「広目天」 。 境内の紅葉も始まっていた。ピークは後10日間か? 金堂。高野山開創当時「講堂」と呼ばれていた「金堂」は、平安時代半ば頃より高野山の総本堂として重要な役割を果たしてきた建物。現存する金堂は、7度目に再建されたもので1932年(昭和7年)に完成したもの。内部には仏師・高村光雲による本尊・薬師如来(秘仏)が祀られており、内壁には木村武山による壁画が描かれている。「金剛峯寺」の御朱印。六角経蔵(ろっかくきょうぞう、壇場伽藍)。六角経蔵は「鳥羽法皇」の菩提(ぼだい)を弔う為に、皇后の「美福門院(びふくもんいん)が、1159年(平治元年)に建立した経蔵。 山王院。弘法大師は高野山の開創に際して、日本古来の神々と仏教との融和のため、高野山の地主神として、丹生明神(にうみょうじん)と高野明神の分霊を高野山の守護神として「御社(みやしろ)」に祀った。この「御社」の拝殿として山王院は建立されたと。山王院本殿(御社)。そしてこの小さな山王院本殿には神仏習合の原点ともいうべき重要な意味のある社。山王院本殿は、その重厚感のある造りからそれぞれが立派な堂のように見えるが、御社の拝殿として建てられたものであり、現在の建物は1594年に再建された。山王院本殿は、伽藍大塔の西に約100メートルも離れた少し高い場所に。御影堂。弘法大師の持仏堂として建立されたが、後になって真如親王直筆の「弘法大師御影像」を奉安したことから御影堂と名づけられた。高野山内でも最重要な聖域とされ堂内には限られた人しか入ることが出来なかったが、近年旧暦の3月21日に行われる「旧正御影供」の前夜、御逮夜法会の後に外陣への一般参拝が許されるようになった。外陣には弘法大師の十大弟子像が掲げられていると。准胝堂(じゅんていどう)。弘法大師が得度の儀式を行う際に自ら造立したという本尊、准胝観音を祀る堂。伽藍が建立された当時は食堂に安置されていたと伝わっており、973年(天禄4年)頃にこの堂が建立されこちらに祀られるようになったと伝わっていると。幾度も焼失し現在の堂は1883年(明治16年)に再建されたもの。 孔雀堂。もともとは鎌倉時代初期の正治元年(1199年)、京都・東寺の延杲(えんごう)が雨乞いを成就させたことがきっかけとなり、後鳥羽上皇の命により建立された。 この22年後に承久の乱を起こして鎌倉幕府に敗北、隠岐に配流された後鳥羽上皇であったが、この頃は朝廷の権力を掌握しており、積極的な院政改革を行なっていた。 正治二年(1200年)に安置された本尊の孔雀明王像は快慶の作で、重要文化財に指定、(霊宝館所蔵)。 孔雀堂の建物は昭和元年の大火で焼失、昭和58年(1983年)に再建されたもの。孔雀堂 内部。孔雀明王像は、壇上伽藍孔雀堂の元本尊で、快慶作の端正で美しい仏像(重文・快慶作)。写真に写っているのはレプリカか?鐘楼。剛峯寺の前身であります青巌寺の鐘楼とのこと。西塔。大日如来の密教世界を具現するため、空海が設計し、仁和2年(886年)に空海の弟子で甥でもある真然が建立。現在の建物は江戸時代末期の天保5年(1834年)の再建で、内部には金剛界の大日如来と胎蔵界の四仏が安置されている。 御影堂周辺の紅葉。 紅葉のピークには別世界が拡がるのであろう。 高野山のシンボル、高さ48mの金剛峯寺根本大塔。 空海が816年(弘仁7)7月に高野山開創の勅許を得たのち建立に着手し、没後半世紀を経て完成した。現在の建物は1932年(昭和7)に着工し、38年に完成したもので、16間四面、高さ16丈の2層の多宝塔様式の塔。主尊は胎蔵界大日如来(たいぞうかいだいにちにょらい)で、これに金剛界の阿(あしゅく)・宝生(ほうしょう)・無量寿(むりょうじゅ)・不空成就(ふくうじょうじゅ)の四仏を配している。内陣の16本の柱には堂本印象(どうもといんしょう)の描いた金剛界十六大菩薩(ぼさつ)の仏画があると。「大日如来」「根本大塔」の御朱印を頂きました。 大塔の鐘 高野四郎。弘法大師が大鐘の鋳造を発願され、真然大徳の時代になってようやく完成したと伝わる「大塔の鐘」。火災等により度々鐘楼が焼失し、改鋳が繰り返され現在の銅鐘は、1547年(天文16年)に完成したもの。直径が約2mと非常に大きく、日本で4番目に大きな鐘であったことから「高野四郎」の愛称で呼ばれるようになったと。現在でも使われており、午前4時、午後1時、午後6時、午後9時、午後11時と1日5回時刻を知らせていると。境内、中央に大会堂、その右に三昧堂、東塔。 愛染堂(あいぜんどう)。四海静平、玉体安穏を願い後醍醐天皇の御願により1334年(建武元年)に建立された。本尊として愛染明王を祀り、愛染明王護摩と長日護摩が行われる場所。災害に何度か遭い再建されており、現在の堂は1816年(文化13年)に再建されたと。 大会堂(だいえどう)。鳥羽法皇の皇女・御辻斎院内親王が父帝の追善のために建立された堂で、元々別の場所からこの場所へ移された。徳川時代から大法会がある時にまずこの堂に会して行列を整える事から大会堂と呼ばれていると。現在の堂は、1848年(嘉永元年)に再建されたもの。本尊に阿弥陀如来を祀り、脇侍に観世音菩薩と勢至菩薩が祀られている。
2017.11.16
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87番札所:長尾寺の次は結願札所の88番札所:大窪寺へ向かうのであるが、今回の遍路旅では徳島、香川のみであり、高知、愛媛の札所は未制覇であるため、88番札所:大窪寺は次回に結願の寺として再度訪れることを決定。そしてこの日は、私が現役時代の同僚、そして現在は関西国際空港内の事業所に勤務し泉佐野・日根野に住むTさんのご自宅を訪ね、泊めて頂けることに。高松東自動車道の津田寒川ICから高速自動車道にのり泉佐野を目指す。津田の松原SAに立ち寄る。 土産にさぬきうどんを購入。 高松自動車道の鳴門JCTから神戸淡路鳴門自動車道へ。大鳴門橋を通過。大鳴門橋(おおなるときょう)は、徳島県の鳴門市鳴門町土佐泊浦(大毛島孫崎)と兵庫県の南あわじ市福良丙 (淡路島門崎)と間の鳴門海峡の最狭部を結ぶ吊り橋。橋長は1,629 メートル (m)、中央径間は876 m、幅は25 m、主塔の高さは144.3 m。 徳島県を代表する観光地のひとつであり、鳴門側から橋脚付近まで、橋桁下部に設置された延長約450 mの遊歩道である「渦の道」を進むと、展望台から鳴門海峡のパノラマや、足元から45 m真下に鳴門の渦潮を見下ろすことができるのだと。今回は鳴門海峡の渦潮を走行中の車窓から楽しむ事が出来た。 淡路島を縦断し淡路ハイウェイオアシスで車を駐める。 明石海峡大橋(あかしかいきょうおおはし)の雄姿を楽しむ。 全長3,911 m、中央支間1,991 mで世界最長の吊り橋である。1998年(平成10年)の開業以来、10年以上の長きにわたり「ギネス世界記録」に認定。1998年(平成10年)4月5日に供用が開始された。建設費は約5,000億円。建設当初は全長3,910 m、中央支間1,990 mであったが、1995年(平成7年)の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)による地盤のずれが発生し、図らずも全長が1 m伸張することとなってしまったと。「日本発祥の地 日本の神々 誕生の地 おのころ島」と刻まれた石碑。遠い遠い神代の昔、まだ世界には形がなかった頃、国土創世の為、天より遣わされた伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉冉尊(いざなみのみこと)の二柱の神は、どろどろの世界を凝り固める為、「天の沼矛(あめのぬぼこ)」で大海原をかきまわした。すると、その矛より滴る雫が、自ずと凝り固まって島となったという。 それが「自凝島(おのころじま)」である。 明石海峡大橋はパールブリッジの別名もあるようだが知らなかったのである。 明石海峡大橋 ライトアッププログラム。ライトアップの種類(パターン)は、全28種類(パターン)。季節と時間で、色々な種類(パターン)があるようだ。 淡路島内のみならず、本州と四国を結ぶ3本の本州四国連絡橋(本四架橋)ルートの一つ「神戸淡路鳴門自動車道」として供用されており、交通量も本四架橋の橋の中では最も多く、四国と近畿、更には本州の各大都市間を結ぶ交通の要になっている。2014年(平成26年)4月から「新たな高速道路料金」が導入されたことにより本四道路は全国路線網に編入され、垂水IC-淡路IC間の普通車の通行料金はETC車900円、現金車2,370円。 明石海峡大橋を渡る。 橋を吊るワイヤーを支える主塔は2基で、高さは海面上298.3 m。 明石の街並み。 正面は神戸市垂水区。垂水JCTから阪神高速5号湾岸線~第2神明道路へ。 右手に神戸ポートタワーが。 神戸税関の前を通過。 港湾幹線道路(ハーバーハイウェイ)・摩耶大橋からの神戸の街並み。 今話題の神戸製鋼所神戸製鉄所近くの赤い橋を通過。 そして淡路SAから3時間で泉佐野・日根野のT邸まで110kmを旅友Sさんの運転で走破し最後にやや道に迷ったがなんとか予定から30分遅れの19時に到着。T邸の部屋に案内されるとお手製の料理の数々が食卓に、そして仙台に住む奥様から地元名物の「ハラコ飯」も。これぞVIP待遇そのもの。何と日野根邸のご主人お手製の「本日のおしながき」も準備されていた。前日の発熱もあり、食欲も完璧では無かったが多いにフルコースを楽しませて頂き夜遅くまで久しぶりに語り合ったのであった。 そして後片付けもせずにいつの間にか??爆睡。
2017.11.15
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク86番札所:志度寺11号線を走り、志度湾に出て直ぐに道の駅「源平の里むれ」に立ち寄る。「源平の里むれ」は、源平屋島合戦の古戦場として有名な場所に位置し、海を望む風光明媚な道の駅。海岸沿いの広場には石のモニュメントが展示されていた。「風を呼ぶ」佐藤幸子 作。「門ーMUSE LOVE」川島猛 作。志度港を望む一角にある駐車場に到着。八栗寺から8km、15分の場所。志度寺 境内配置案内図。 仁王門をくぐり、参道を進むと正面に薬師堂、その左に閻魔堂があり、さらに大師堂がある。本堂は大師堂の左にある。納経所は仁王門をくぐって右を進むとある。 我々は駐車場から近い裏口から志度寺境内へ。奪衣婆堂(だつえばどう)。奪衣婆というのは、三途の川のほとりにいて、亡者の着物を奪い取る鬼婆のこと。奪い取られた着物は、衣領樹(えりょうじゅ)と呼ばれる木の枝にかけられ、その枝の垂れ具合で亡者の生前の生前の罪の重さを計るのだと。五重塔。五重塔は、高さ33m。1973年から着工され、1975年5月に落成。地元出身の実業家竹野二郎によって寄進されたと。四国八十八ヶ寺の中で、五重塔があるのは竹林寺、本山寺、善通寺、志度寺の4ヶ所だけと。五重塔は、擬宝珠高欄を付した縁をめぐらし、中央間板唐戸、脇間連子窓、中備えは三間とも間斗束。鐘楼。本堂。本寺の縁起によると、志度浦にたどり着いた霊木を凡薗子尼(おおしそのこに、智法尼とも)が草庵へ持ち帰り安置し、その霊木から本尊(十一面観音)を造立し、堂宇が建立されたという。創建は626年(推古天皇33年)のこととされている。681年(天武天皇10年)には藤原不比等が堂宇を増築し、「死度道場」として名づけたという。不比等に関わる「海女の玉取り」伝説は謡曲などでも知られる。また、693年(持統天皇7年)には不比等の子・藤原房前が行基とともに堂宇を建立し、寺名を「志度寺」に改めたと伝えられている。室町時代には四国管領の細川氏が代々寄進を行い繁栄するが、そののち戦乱により寺院は荒廃する。藤原氏末裔の生駒親正による支援などを経てのち、1671年(寛文10年)、高松藩主松平頼重の寄進(本堂・仁王門)など、高松藩主松平氏により再興された。 補陀洛山 清浄光院 志度寺(ふだらくさん せいじょうこういん しどじ) 宗派 真言宗善通寺派本尊 十一面観音 創建 推古天皇33年(626年)開祖 凡薗子尼(おおしそのこに)所在 香川県さぬき市志度1102番地本尊真言 ”おん まか きゃろにきゃ そわか” 大師堂。初老の外国人の歩き遍路の御夫妻に一期一会。三尊仏。『高松藩初代藩主 松平頼重公が三人の近習を弔うために建立した三体の仏像(中央は阿弥陀如来、左は観音菩薩、右は薬師如来)。頼重公が若い頃、些細なことから三人の近習、甲賀八太夫、甲賀五左衛門、大西主膳に切腹を命じた。家老が、三人ともまだ若く、将来は藩のためにも役立つこともあろうから一命だけはと助命嘆願したが、頼重公は一向に聞き入れず、三人は切腹して果てた。それから何年かの歳月が流れ、晩年になった頼重公は、若いときの短期で三人を切腹させたことを深く後悔した。そこで、隠居後の住まいであった「お山御殿」石清尾八幡宮の南=宮脇村(現高松市宮脇町)に三人の供養のための三尊仏を作って安置し、朝な夕なに冥福を祈った。お山御殿が取りのけになり、三尊仏が残っていたのを、元禄十五年(1702)当時の志度寺住職「同性(どうしょう)」が、藩に願い出て、志度寺の境内に移転した。』と説明板に。薬師堂。 納骨堂。中門。 仁王門。三棟(みつむね)造りと云われる東大寺転害門(てがいもん)と同じ構造で、寛文建築の特徴を良く著している。円柱の本柱四本の前後にそれぞれ四本ずつの控柱があって、三間一戸八脚門、切妻造り、本瓦葺で、本堂と同時期建立の木割りの太い八脚門である。天正11年(1583年)讃岐に進攻した土佐の長宗我部元親が、山門を潜ろうとした時急に馬が動かなくなった。不思議に思って元親が両脇の仁王像を見ると、「後光」がさしていたので部下に命じ、志度寺を焼く事を禁じ、恭しく寺仏に礼拝して古高松に引き上げたと伝えられると。仁王門には運慶の作といわれる木造金剛力士立像が立っており、巨大わらじがぶら下がっていた。これは讃岐藩主、松平頼重により寄進されたもので、全国的にも珍しい三棟造りとなっていて、重要文化財に指定されている。両像共に桧材の寄木造り彫眼の像で、写実的に表現された大作で、豪快。像高は口を大きく開けた阿形(あぎょう)が304cmで、口を結んだ吽形(うんぎょう)は325cmであると。金剛力士立像 阿形像。 金剛力士立像 吽形像。 境内は緑豊か。 境内には心安まる美しい顔の石仏が。観音様? 隣にも。薬師如来様? 悲願金剛地蔵菩薩像。手水舎。 閻魔堂。閻魔堂は、高松藩初代藩主・松平頼重公が寄進した堂で、その名の通り閻魔様をお祀りしている。毎月この日・17日は閻魔様に会える日であった。写真の中央が閻魔様。左右にいるのが従者で、向かって右側が「司命(しみょう)」という罪状を読み上げる係で、左側にいるのが「司録(しろく)」という、判決文を記録する係だと。 よく見ると閻魔様の頭に仏頭が。嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれると、子供の頃祖母から。四国八十八ケ所光明真言一億萬遍塔。 四国八十八カ所のご本尊が刻まれていた。仏の徳の光が遍く届くようにとの強い願いが込められている石碑である。 境内には屋外専用蚊取り装置が。プロパンガスの燃焼によって発生した二酸化炭素を、特殊スクリーンを通し蚊の嫌う成分を取り除き、地表に向けて放出。空気より重い二酸化炭素は広範囲に拡散して、蚊をおびき寄せるようであった。賀茂社と天神社? 南無阿彌陀仏と刻まれた石仏。 古跡 海女の墓。海女だった不比等の妻が宝珠を龍神から取り返した伝説は能や謡曲でも有名と藤原房前(藤原不比等の次男)が母のために建立したと言われる「海女の墓」。命日である旧暦の6月16日には、「志度寺の十六度市」が開催され、年に一度、本尊の御開帳も行っていると。 生駒親正墓塔(いこまちかまさぼとう)。 白色の角礫凝灰岩で作られた、総高2.78mの墓塔である。墓塔に刻まれた種字は風化が著しく消滅している。生駒親正は美濃国に生まれ、織田信長に仕え、のち豊臣秀吉に従って戦功をたてた。天正15年(1587)赤穂6万石から讃岐17万石の領主となる。親正は地元郷士を重用して善政をしき、高松城・丸亀城を築いて、今日の高松の基礎をつくった。慶長8年(1603)2月13日、78歳で生涯を閉じた。生駒家は志度寺を崇敬し,寺領を寄進したり、定め書を下して当寺の興隆をはかる。三代正俊は慶長15年(1610)に、母永福院とともに、親正の菩提を弔うために、海女の墓の東方に五輪塔を建てた。高松の弘憲寺にも親正の墓があると。 高浜年尾(虚子の長男)の句碑。「盆に来て 海女をとむらう 心あり」。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------87番札所:長尾寺 志度寺から長尾寺は3号線を南下すること7.5km、15分。途中、讃岐うどん屋で遅めの昼食。 セルフでかき揚げとゲソ揚げを。 そして今回の遍路の最終目的寺の87番札所:長尾寺に到着。 長尾寺経幢( ながおじきょうとう ) 経幢は、経文を埋納保存する施設、もしくは供養の標識として鎌倉時代中期頃からつくられるようになった。長尾寺のものは屈指の古さを誇ると。山門前、向かって左側の覆屋の中に立っている経幢。幢身の北面に「弘安六年(1283)歳次、癸未七月日」の紀年銘が刻まれ、鎌倉時代の弘安六年(1283)に奉納されたことがわかると。向かって右側の覆屋。幢身の北面に「弘安第九天(1286)歳次、丙戌五月日、大願主、大工・・、・・・」と刻む。弘安九年(1286)に奉納されたことがわかる。仁王門。日本三大名門の1つという。寛文10年(1670年)建立とされ、三つ棟木という珍しい工法で知られる。阿形像。 吽形像。 長尾寺 境内配置案内図。仁王門をくぐって正面に本堂、その右に大師堂がある。納経所は本堂の向かいにある。 門をくぐる真上には吊り梵鐘が下がっていたが、綱は無く。どの様に打つのであろうか? 楠の大木。 手水舎。墓塚。 東門。栗林公園の北側にあった正門(延享年間建築)を大正2年に払い下げを受け忠実に再現移築したと。薬師堂。 内部。 大師堂手前の地蔵群。 本堂を太師堂前から。 大師堂。 彫刻も見事。 賓頭盧様は真っ赤。 本堂。寺伝によれば天平11年(739年)、行基が当地で霊感を得て聖観音菩薩像を刻み、堂宇に安置したのが始まりとされる。空海(弘法大師)が渡唐前、当地に滞在し、年頭7日目の夜に護摩符を丘の上より人々に投げ与えたとの伝説があり、これは毎年1月7日の「福奪い」として今に伝わっている。天長2年(825年)、唐より帰朝した弘法大師によって霊場と定められた。幾度かの兵火により堂宇は失われたが、その都度歴代藩主によって再建されている。なお、静御前が源義経と別れた後、母の磯禅師と共に当寺を訪れ、得度したとの言い伝えもあり、静御前の位牌が本堂の左脇陣にある。 2014年5月18日だけ本尊が開帳されたと。本堂内部。補陀洛山 観音院 長尾寺(ふだらくさん かんのんいん ながおじ) 宗派 天台宗本尊 聖観世音菩薩 創建 天平11年(739年)開祖 行基所在 香川県さぬき市長尾西653番地本尊真言 ”おん あろりきゃ そわか” 本尊の「聖観世音」と書かれた扁額。 本堂回廊から境内を見る。 護摩堂。 大きなお地蔵様の脇に「静御前剃髪塚」が。源義経の愛妾、静御前が長尾寺で剃髪し尼になり髪を埋めた剃髪塚であると。 大きなお地蔵様。本坊膳所の特別門か? 本坊膳所入口門。 自在天堂。ここは、「天満大自在天神」で、菅原道真公の御霊を祀っていると 。再び境内を。 村岡大僧正頌徳碑。四国霊場87番札所、長尾寺さんの十五代住職を務めた「村岡俊嶽大僧正」。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。
2017.11.14
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク84番札所:屋島寺一宮寺から11号線を利用して屋島寺に向かう。途中、栗林公園が左側に。屋島の名称は屋根のような形状に由来し、高松市のシンボル。また、いにしえから瀬戸内海の海路のランドマークであり、海外交流交易海路に面した要衝。屋島は南北5キロメートル・東西3キロメートルの島。南嶺の標高は292.0m・北嶺の標高は282m、山頂は平坦で、端部は急崖で囲まれた台地の地形(メサ)である。両者は細い尾根で接続されている。山上に多島海が眺められる展望景観を有し、1934年(昭和9年)3月16日、国立公園として初の瀬戸内海国立公園に指定された。 一宮寺から17.5km、40分で屋島ドライブウェイを使って、屋島山上の駐車場に到着。 ここは源平屋島合戦場の舞台になった地。源平屋島合戦図屏風(弓流し図屏風)。本図は,『平家物語』第11巻に記された源平の屋島合戦中,もっとも有名なエピソードのひとつである「弓流」に題材をとっている。その内容は以下のとおり。勝ちにのっていた源氏勢は,船に逃げた平氏の軍兵たちを追って,馬の太腹が水につかるほどに海中に乗り入れて攻め戦っていた。そんな中で,義経はどうしたことか,自分の弓を平氏勢の熊手にかけられて落としてしまう。周りの臣下たちが「弓よりも,お命の方が大切です。お捨てなさい。」と口々に言うが,義経は何とかむちで弓をかき寄せて,拾うのに成功した。このことで,あとで家臣たちになじられられた義経は「弓が惜しくて拾ったのではない。もし私の弓が二,三人でなければ張れないほどの強弓であったなら,わざとでも落とすのだが,私のひ弱な弓を敵が取って,『これが源氏の大将九郎義経の弓だ』といって,ばかにするのが残念だから,命がけで取ったのだ」と語り,すべての人がその心意気に感心した。本図は「弓流」を八曲一隻という大画面を生かして比較的大きい人物を配して描いており,非常に珍しい構図となっている。いささか金の方が強いような印象を受けるが,金地金雲の金と海の濃紺とが見事にお互いを引き立て合って,画面をひきしめている。また,それ以外の色彩の豊かさも目につく作品で,武将たちの衣装や甲,乗っている馬など,色鮮やかに描き分けられている。第八扇が殆んど一面金箔であるという構図の不自然さから,もとは八曲一双の屏風であった可能性が高い。 源平屋島合戦 主な登場人物が絵と共に説明されていた。 源平屋島合戦パネル。 屋島寺 境内配置案内図。車遍路は東大門から入って行くことになり、千体堂、三体堂、大師堂の順になる。歩き遍路は山門を通り、四天門を通って正面に本堂、本堂の手前を右に進むと右手に納経所、正面に大師堂がある。朱に塗られた東大門。 石仏がお出迎え。 十一面観音像。 五重塔。 見事な彫刻の大きな石鉢。天女の姿が。境内中央を眺めると、千躰堂と三躰堂の向かいに鐘楼堂があり、鐘楼堂の奥に宝物館が建っている。宝物館の右に見えるのが屋島寺本堂。 天平勝宝6年(754)唐からはるばる来日した鑑真和上がここを通ると屋島の山上に瑞光が見えたので船をとめて屋島の北嶺に登り、仏像や経典を納めて開基した。のち弟子の恵雲師がこの地に堂宇を建て初代の住職となった。弘仁6年(815)この地を訪れた弘法大師は、瑳峨天皇の勅願により、北嶺にあった伽藍を南嶺に移し、十一面観音菩薩像を刻んで本尊とした。その後戦乱によって衰退したが、歴代の藩主によって修榎され現在に至っている。千躰堂(せんたいどう)。本堂に向かって右のところにある、千手観音(せんじゅかんのん)を安置する堂。三躰堂(さんたいどう)。 釈迦如来、阿弥陀如来、そして鑑真和上を祀る。一丸不動尊。不動尊の誓願は、人間の悩みの原因である無明(むみょう)を断ち切って、本当の幸せを授けることにあると。我々の真心が通じるならば、どのような願いでも必ず一願は成就すると。 不動明王像が中心に。 大師堂。弘法大師(こうぼうだいし)―空海(くうかい)を祀る。 大師像に会うことが出来ました。 熊野権現社。 蓑山大明神。「本堂」の右側に、複数の鳥居とともに巨大な「狸」の石像が安置されていた。 四国狸の総大将「太三郎狸」と呼ばれる土地の氏神。子宝、縁結びや家庭円満などの神さま。 本堂。南面山 千光院 屋島寺(なんめんざん せんこういん やしまじ)宗派 真言宗御室派本尊 千手観音創建 天平勝宝6年(754年)開祖 鑑真所在 香川県高松市屋島東町字屋島峯1808番地本尊真言 ”おん ばさら たらま きりく” 屋島寺本堂内部。壁際のひじ形の模様や天井の格子状の模様など細部にまで、こだわったつくりが美しいです。「廣大智慧觀」と大きく飾られた額は、「こうだいちえかん」と読みます。「あらゆるものを平等に観ずる心」という意味と。高松藩主「松平頼恭」(まつだいら よりたか)によって書かれた。松平頼恭は、人々の声を聞くために投書箱を設置した話が残っており、世の中を平等に見ようとする意志をもって、政治を行っていたのだと。 山門(仁王門)。 阿形像。 吽形像。 不喰之梨(くわずのなし)の石碑。 月光殿の門。 本坊。 源平屋島合戦800年祭記念の供養塔と合戦の模様を描いたレリーフ。 四天門。阿波蜂須賀家の寄進である。 阿吽形像。 宝物館。本堂に隣接する、貴重な寺宝や源平合戦に関する宝物などを収めた資料館。那須与一の子孫が寄進した「源氏の白旗」や「源氏の勝臼」。土佐光起筆「屋島合戦屏風」、「源平盛衰記絵巻」、狩野深信筆「源平合戦絵図・那須与一の扇の的」などの絵画が収蔵され、屋島寺と屋島の歴史に触れることができると。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------85番札所:八栗寺 「源平屋島古戦場」屋島のドライブウェイを下る途中に、こんな看板が設置されていた。屋島の合戦となった場所を見渡せるポイントで、車を停められるスペースが設けられていた。 屋島山頂の談古嶺展望台から檀ノ浦古戦場を眺める。入り江の両側に源平合戦にまつわる遺跡が点在している。向こう側は五剣山であるが雲に隠れていた。 談古嶺から瀬戸内海を望む。やや右に見える山の向こう側に見えるのが「船隠し」。 八栗ケーブル(やくりケーブル)駅に到着八栗ケーブルは、香川県高松市牟礼町牟礼の八栗登山口駅から八栗山上駅に至る四国ケーブルのケーブルカー路線。四国八十八箇所第八十五番札所の五剣山八栗寺への参詣者で賑わう。毎月1日の縁日には早朝4時15分から運行されると。 路線距離(営業キロ):0.7km 軌間:1067mm高低差:167m 最急勾配:288‰大人上り 560円 下り460円 往復 930円と料金が微妙。ケーブルカー駅前の源氏池にはホテイアオイが満開中。白い花びらに入る紫色の模様が幻想的なホテイアオイ。見た目は繊細ですが、繁殖録がとても強く、今では世界中で増えすぎて世界十大害草の1つに数えられているのです。 ケーブルカーを利用しなくても八栗寺に行けるとチケット売り場の女性から聞き、急遽車に戻り出発し15分ほどで八栗寺駐車場に到着。八栗寺本坊入口門。 八栗寺 境内配置案内図。歩き遍路は山門から入って正面に本堂、その手前左に納経所、右にずーと進んでいくと大師堂があり、その向こうに多宝塔がある。ケーブルカー利用は、ケーブル山上駅を出て進み左に曲がり道なりに行くと多宝塔、大師堂、さらに参道を行くと正面に聖天堂があり、その左が納経所で、右上に本堂がある。 寺伝によれば空海(弘法大師)がここで虚空蔵求聞持法を収めた際、五本の剣が天から降り蔵王権現が現れて、この地が霊地であることを告げた。空海は降ってきた剣を埋め、天長6年(829年)に再訪し八栗寺を開基したと。なお、寺名の由来は二つあり、一つは、空海が唐より栗子を八つ海に投入、漂着した所に仏法が栄えるゆえ、帰国できたときにはその地に寺を建立せんと願をかけたという説と、寺の奥ノ院である五剣山頂上より眺望が良く八つの国が見える、八国寺が八栗寺になったという説がある。 多宝塔。昭和59年10月建立された総桧づくりの建物で本尊は金剛界大日如来。内部は四方の壁面に八祖大師と十二天像、来迎壁の裏面に尊勝曼陀羅、四方の扉には八大菩薩が極彩色を以って描かれていると。 多宝塔の下の各種の石仏が迎えてくれた。 大師堂。八栗寺本坊から本堂に向かう途中にある堂。当山の開祖である弘法大師像を安置。 十二支守本尊。五剣山を模したミニ五剣山の前側には八角柱の台座と写経を納めた石室があり、上にはブロンズの十二支尊像が祀られていた。平成四年(1992年)寄進されたと。十二支尊像は子年が弥勒菩薩、丑年が勢至菩薩、寅年が阿弥陀如来,卯年が聖観世音菩薩、辰年が如意輪観音、巳年が虚空蔵菩薩、午年が地蔵菩薩,未年が文殊菩薩、申年が大威徳明王、酉年が普賢菩薩、戌年が大日如来、亥年が釈迦如来と。 地蔵菩薩像。授けにご利益のあるお地蔵さま。地蔵堂。地蔵菩薩の御真言は「オンカカカビサンマエイソハカ」。 木食以空上人像。天尊行者として名高かった木食以空上人が八栗寺に歓喜天を勧請し、寺の繁栄の礎を築かれたことをたたえて、昭和四十年(1965年)に建立された像で、姿は上人の自画像をもとに。ちなみに、肉類や五穀を食べず、木の実や草などを食して修行することを「木食」と言うと。 境内入口から、正面は聖天堂。 大師堂。 聖天堂。 八栗の「お聖天さん」として親しまれ、商売繁盛や学業成就、縁結びにご利益がある。御真言は「オンキリクウギャクウンソワカ」と唱えます。お聖天さまが勧請されて以来、八栗寺では毎朝御祈祷が行われ、大縁日・大般若法会は1月・5月・旧暦9月16日に行われると。また、毎月1日・16日の縁日にも多くの人が商売繁盛・縁結び・学業成就を願いに参拝されると。「歓喜天」の左には「軍茶利明王」、右に「十一面観音菩薩」が祀られている。手水舎。 護摩堂。歓喜童子(お聖天さまの子)が祀られていると。毎月15日・月末午後7時から聖天尊護摩供養がここでおこなわれている。納経所の隣にあり、護摩祈祷所や鐘の拓本、天狗の面などがあると。納経所。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 お迎え大師。その目は、本堂の方角にむけて注がれていると。素朴な石仏。 石灯籠とモミジ葉。 鳥居の先に二天門。 二天門には、天部の仏神で四天王の一尊「持国天」と「多聞天」が祀られていた。持国天と多聞天。二天門から境内を見る。 本堂。 寺伝によれば空海(弘法大師)がここで虚空蔵求聞持法を収めた際、五本の剣が天から降り蔵王権現が現れて、この地が霊地であることを告げた。空海は降ってきた剣を埋め、天長6年(829年)に再訪し開基したという。なお、寺名の由来は二つあり、一つは、空海が唐より栗子を八つ海に投入、漂着した所に仏法が栄えるゆえ、帰国できたときにはその地に寺を建立せんと願をかけたという説と、寺の奥ノ院である五剣山頂上より眺望が良く八つの国が見える、八国寺が八栗寺になったという説があるのだと。本堂内部。五剣山 観自在院 八栗寺(ごげんざん かんじざいいん やくりじ)宗派 真言宗大覚寺派本尊 聖観音創建 天長6年(829年)開祖 空海(弘法大師)所在 香川県高松市牟礼町牟礼字八栗3416番地本尊真言 ”おん あろりきゃ そわか” 十一面観音像。十一面観音菩薩は、聖天様の本地仏であり、衆生の迷いを救い、願いを叶えると。昭和五十一年(1976年)に寄進された。背面の地層は、1000万年以上も前のものと。 鐘楼堂。 本尊身代わり仏。 本堂から二天門方向の境内を見る。 修行大師像と多くの石仏。 本坊西門。紅葉時には美しい景観を楽しめる事間違いなし。
2017.11.13
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク82番札所:根香寺白峯寺から約15分、深い緑そして紅葉が始まりかけた道走ると根香寺(ねごろじ)に到着。山門(仁王門)。阿形像。 吽形像。巨大草鞋 根香寺 境内配置案内図。山門の左側の林の中に牛鬼像がある。山門をくぐり数段下り進むと今度は上りの石段があり、上がって行くと右に大師堂、左に納経所がある。さらに石段を上がり上り詰めると正面に本堂が見えるが左の薄暗い回廊の中を巡って本堂に至る。杉木立の中にある仁王門をくぐると、いったん石段を下り、木々の間の参道を通り、また石段を上がって境内に出る。参道沿いや境内にはカエデの木が多く、紅葉のシーズンには全山が赤く染まってみごとな眺めが楽しめるのだと。階段横には白き流れが。根香寺石柱。仁王門を振り返る。水かけ地蔵。牛頭観音。役の行者像。根香寺開創1,100年を記念して、昭和6年に安置。開基は、弘法大師と智証大師であるが、山岳仏教と結びつき、大護摩祈祷も盛んであったと。笑っているのか? 手水舎。白猴欅(はっこうけやき)。樹齢1600年とも言われるケヤキの老木であり、香川県の天然記念物に指定されていたが枯死した。名の由来は智証大師が寺院創建の折にこの樹を伝って下りてきた白い猿が大師を手助けしたと言われる伝説に由来する。平成3年(1991年)に株を生えていた場所に置き、屋根を付け保存されていた。五大堂。五大尊の像を拝観できると。鐘楼は修復工事中であった。延命地蔵堂。竜宮地蔵尊。大子堂。大子堂内部。更に本堂への階段を上る。重要文化財の木造千手観音立像 。桜材の一木造りで漆箔、163.3cm平安時代の作。この寺の本尊である。33年に一度開扉の秘仏。昭和30・2・2指定。本堂。寺伝によれば、空海(弘法大師)が弘仁年間(810年 - 824年)にこの地を訪れ五色台の五つの峰に金剛界の五智如来を感得し密教の修行にふさわしい台地であるとし、その一つである青峰に一宇を建立し五大明王を祀り「花蔵院」と称し、衆生の末代済度を祈願する護摩供を修法をしたと伝えられている。その後、円珍(智証大師)が天長9年(832年)に訪れたさい、山の鎮守である市之瀬明神の化身の老翁に、蓮華谷の霊木で観音像を造り観音霊場の道場をつくるよう告げられた。すぐさま円珍は、千手観音像を彫像し「千手院」を建てて安置した。この霊木は香木で切り株から芳香を放ち続けたことから、この2院を総称して根香寺と呼ばれるようになったと。後白河天皇から勅願所として帰依も厚く繁栄したが、戦国時代には兵火にあい衰微した。しかし、慶長年間に高松城主・生駒一正が復興、さらに寛文4年(1664年)高松藩初代藩主松平頼重が再興した。なお、このとき真言宗から天台宗に改宗されたと。青峰山 千手院 根香寺(あおみねざん せんじゅいん ねごろじ)宗派 天台宗単立本尊 千手観音創建 弘仁年間(810年 - 824年)開祖 空海(弘法大師)、円珍(智証大師)所在 香川県高松市中山町1506番地本尊真言 ”おん ばさら たらま きりく そわか” 本堂内部。回廊。万体観音。本堂前の凹字型回廊に、全国の信者が奉納した3万3千体の観音像が並んでいた。これは圧巻。再び回廊。灯籠も美しかった。回廊を外から。阿弥陀堂。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 伝説の牛鬼像は駐車場の横の木々に囲まれていた。江戸時代の初め頃、この地には牛鬼がいて人や家畜に危害を加えていた。そこで弓の名手であった山田蔵人高清に退治を依頼した。高清は3本の弓で見事に牛鬼を退治した。高清は退治した牛鬼の角を切り取り、根香寺に奉納し菩提を弔ったと伝えられている。現在、根香寺にはその牛鬼の角と呼ばれるものと、牛鬼の姿が描かれた掛け軸が伝わっていると。------------------------------------------------------------------------------------------------83番札所:一宮寺 根香寺から県道16号線を東に向かう。瀬戸内海そして島々の景色を車窓から楽しむ。176号線に右折し12号線に入り約19km、30分強走り一宮寺(いちのみやじ)駐車場に到着。 駐車場近くの西門から境内へ。 一宮寺 境内配置案内図。通常は仁王門とは反対の裏側にある西門の前に駐車場があるので、そこから入っていくと本堂左手に至り、大師堂は本堂の右側にあり、護摩堂は大師堂の左にある、納経所は本堂から仁王門に向かうと左手にあり、鐘楼は右手にある。参拝順路沿いに枯山水庭園が。多くの墓石、石柱が壁沿いに。 菩薩堂。 水掛不動尊。 こちらが仁王門。 阿形像。吽形像。 本堂。 サンゴジュの赤い実か? 鐘楼。 庫裏と納経所。岸信介元総理の揮毫による般若心経記念碑が境内に建立されているのだが・・・・??地蔵堂。 観音像。 厄除弘法大師。 手水場。弘法大師が清めの水を注いでくれました。本堂。寺伝によれば、義淵により法相宗の寺院として大宝年間(701年 - 704年)に建立され、年号にちなみ大宝院と称したと伝えられる。そして、和銅年間、諸国に一の宮が制定された際、讃岐一宮・田村神社の第一別当として行基が堂宇を改修し一宮寺と改めたという。その後大同年間(806年 - 810年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備し、106cmの聖観世音菩薩像を刻んで本尊として安置し、真言宗に改宗した。1584年(天正12年)の兵火により焼失するも、宥勢大徳により中興される。延宝7年(1679年)に時の高松藩主である松平頼常によって田村神社の別当寺を解職され、明治の神仏分離より200年も早く神仏の分離が行われ、現在に至っている。 神毫山 大宝院 一宮寺(しんごうざん だいほういん いちのみやじ)宗派 真言宗御室派本尊 聖観音創建 大宝年間(701年 - 704年)開祖 義淵所在 香川県高松市一宮町字宮西607番地本尊真言 ”おん あろりきゃ そわか” 大師堂。奥に鎮座する大師像を拝顔できた。護摩堂。護摩堂内部。 近年新築され、不動明王像を拝顔できた。 稲荷堂。 薬師如来を祀る石の祠。地獄の釜の煮えたぎる音がする祠で、悪いことをした人が頭を入れると抜けなくなると云われていると。一宮御陵。三基の宝塔。江戸時代の神仏分離の際に田村神社から移築された。田村神社の祭神である孝霊(こうれい)天皇・百襲姫命(ももそひめのみこと)五十狭芹彦命(いそさせりひこのみこと)の供養塔と言われていると。 無縁墓地か? 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。
2017.11.12
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク80番札所:國分寺前夜の発熱も、解熱剤の効果もあり、体調も戻り、この日も早朝6:30にホテルを出発。国道11号線を利用して約13km、30分弱で國分寺に到着。仁王門。仁王門前の立派な松が迎えてくれた。仁王像。 外側には仁王像を配し、内側には大わらじを飾っていた。阿形像。 吽形像。國分寺 境内配置案内図。仁王門をくぐり八十八ケ所の石像が両脇にならぶ参道を進むと左に閻魔堂があり右に四国最古の釣鐘があり、さらに行くと礎石のならぶ間を行き小さな橋を渡ると正面に本堂が立つ。本堂を背に左手を進むと白い多宝塔があり、それが大師堂である。その右の門から遍路用品のならぶ店内に入るとそこが大師堂拝殿であり、納経所でもある。本堂への参道を進む。讃岐国府跡推定地の東方2kmに位置し、一帯は讃岐国の中心地であり多くの遺跡が発掘されている。現在の境内は、創建当時の国分寺の伽藍と重複している。伽藍跡は全国に残る国分寺跡の中でも保存状態が良く、国の特別史跡に指定されている。なお国分寺跡で特別史跡であるのは、当寺の他に遠江国分寺跡と常陸国分寺跡のみである。そのほか、本堂・本尊・銅鐘が国の重要文化財に指定されている。國分寺のミニ四国八十八カ所巡拝・御砂踏道場入口の大師像。ミニ四国八十八カ所巡拝・御砂踏道場。四国八十八箇所の各本尊の仏像が配されており、ここでお遍路をすることができるようです。この寺・國分寺は右側に。北向地蔵。千体地蔵堂。ここにも大師像。境内の五重塔。國分寺案内図は錆の発生が激しく更新が必要か。 鐘楼。奈良時代に鋳造された四国最古の鐘であるとされています。また、案内板によれば以下の様な伝説があるようです。『昔、讃岐国の安原郡百々渕(どどがふち)に大蛇が棲んでおり、付近の住民を悩ましていた。 そこで弓の名手・戸次八郎(べっしはちろう)が国分寺の千手観音に「一矢当たれば千矢の霊験あれ」と祈願し、鐘を冠って渕に望み、そこに現れた大蛇を見事に退治した。 その後、龍神の夢告げ(神託)により、国分寺に奉納された』と。『慶長14年2月2日、当時の高松藩主・生駒一正(いこまかずまさ)が朝夕の時鐘にしようと、田一町を寄進して鐘を城内に持ち帰ったところ、鐘は少しも鳴らずに城内外で怪異が起こるようになった。そのほか悪疫も流行し、遂には一正も病床に伏すようになったという。また、毎夜鐘が夢枕に立ち「もとの国分へ帰りたい」と泣いたため、これは鐘の祟りに違いないと恐れて、同年3月14日に返された。そのとき「鐘がものいうた国分の鐘が、もとの国分へいぬというた」という歌がつくられ、当時の証文が現存する』と。 焔魔堂。お迎え弁財天。 毘沙門堂願掛け金箔大師。金箔を貼って諸願成就を祈願することができると。境内の池。旧金堂跡(手前)と現本堂。池に架かる橋を渡ると正面に本堂の姿が。橋の上から、池の中に立つ弁財天を。手水舎。延命地蔵尊。本堂。5間四方の入母屋造で、本尊・千手観世音菩薩の立像は5.2mで四国一の大きさ。本尊と本堂、鐘楼は国の重要文化財に指定。奈良時代の講堂跡に立ち、その礎石を再利用している。本堂は5間四方の入母屋造で、重要文化財。白牛山 千手院 国分寺(はくぎゅうざん せんじゅいん こくぶんじ)宗派 真言宗御室派本尊 千手観音創建 天平勝宝8年(756年)以前開祖 行基所在 香川県高松市国分寺町国分字上所2065番地本尊真言 ”おん ばさら たらま きりく” 本堂回廊から境内を。春日明神も境内に。福龍。竜の形をした古木であり、以下の様な謂れがあるとされていると。『空海(弘法大師)が四国巡錫の際、国分寺の本尊の千手観音像が損傷しているのを見かけた。そこで、観音浄土に祈願すると天から霊木が降り授けられ、その霊木を以って尊像を造り、修法したという。この古木はその霊木の残木であり、これを御衣木(枯れ木さん)と称する。』と。お願い弁財天。財運福徳を授ける神として霊験あらたかと。正面から弁財天を。良縁えんむすび。金箔縁結び。願掛け不動明王。成満大師ここにも。仏足石。釈迦如来。大師堂(弘法大師礼拝殿万霊塔)は納経所とつながつていた。 大師様にもお会いできました。。本堂内部の不動明王像。中門と奥に納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 福松。境内には見事な枝振りの松が多数あったが、珍しいのはそのうちの1本。大師堂のすぐ横にある松の木を見上げると、まっすぐ延びた幹の中央にこんもりと繁った葉の塊があり、まるで鳥の巣のようになっていた。------------------------------------------------------------------------------------------------81番札所:白峯寺國分寺から180号線の坂道を上り、白峯寺を目指す。車窓から山裾の街並みが雲の下に。白峰寺 全図。 白峯寺 境内配置案内図。高麗門形式の七棟門を入ると、茶堂、御成門、勅使門があって門の中には客殿、庫裡、納経所がある。さらに左へすすむと宝物館や不動堂、宝庫などの建物が並び、正面が勅額門、ここを入れば崇徳天皇の廟所・頓証寺殿である。本堂は勅額門の手前からの右投を登りつめたところにある。 山門前の修行大師像。 五社稲荷大明神。 昭和二十六年(1951年)建立。歌碑。 境内への入口は、巨大な杉に迎えられる白峯寺の山門。この山門は「七棟門」と言い、高麗形式の門の左右に2棟の塀を連ねた珍しい堀重門で、棟数あわせて7棟、故にこの門を七棟門と呼んでいる。左右から中央に積み上げられた屋根の形はまことに面白く、白峯寺名物の一つ。享保3年(1803)に再建された。 御成門。享保九年(1724年)建立。 客殿入口か。 客殿 案内板。護摩堂。山門の正面には、護摩堂があり、本堂大師堂まで行けない方はここでお参りするための大師像ある。 白峯寺では、参拝者の開運厄除・身体健固等を祈願し、境内に十二支守り本尊と七福神像を祀っていた。 護摩堂には辰・巳・酉。護摩堂内部。 山門を境内側から。 白壁の建物は宝物館。 弁財天。手水舎。 勅額門の手前から右に折れ、92段の石段を上ると、樹林に覆われて本堂が建っている。静かな山寺で、古刹のしっとりとした佇まい。 更に階段を上がる。本堂。弘法大師は、白峯山中に如意宝珠を埋め、井戸を掘り、衆生済度の誓原を行ったという。その後の貞観2(860)年ちしょう智証大師が白峯大権現の神託を受け、瀬戸内海の流木で千手観音を刻み、本尊として祀ったと伝えられている。 綾松山 洞林院 白峯寺 (りょうしょうざん どうりんいん しろみねじ)宗派 真言宗御室派本尊 千手観音創建 弘仁6年(815年)開祖 空海(弘法大師)、円珍(智証大師)所在 香川県坂出市青海町2635番地 本尊真言 ”おん ばさら たらま きりく” 本堂前の五重塔は苔むして歴史を感じさせた。 勅額門。 延宝八年(1680年)建立。重要文化財の勅額は宝物館にあり、門にはレプリカが掛けられている。両脇には、源為義と源為朝の武者像が守護しているが普段は扉が閉められ見えない。なお、この門には新造された像で、元々の像は金刀比羅宮・白峰神社に明治31年移されたと云われている。頓証寺 勅額門 勅額のレプリカ。後小松天皇自筆の「勅額」が残っており、国の重要文化財に指定されていると。 勅額門を振り返る。 崇徳天皇御廟所 頓証寺殿(とんしょうじでん)。崇徳上皇は、平安時代の末、保元の乱(1156年)に敗れ、今の坂出市あたりに流された。伝説によると、都を恋しく思いながらさみしく日々を過ごしていた上皇は、せめて自分の書き写したお経だけでも都の寺に納めたいと願った。しかし、都の貴族たちはこのお経には呪いがこめられていると考え、これを都に持ち込むことを許さず送り返してきた。そこで上皇は、都の貴族たちに深い怨みをいだき「魔王となってこの世を悩まし、乱してやろう」と、自らの指を食いちぎり、流れる血で呪いのことばをお経に書いて海に沈めた。その後、上皇は深い怨みを持ち、悲しみのうちに亡くなったと。哀れな死を遂げた崇徳天皇には、古くから怨霊伝説があると。崇徳天皇の死後すぐに武士である平氏が権力を振るうがその間に太郎焼亡・次郎焼亡の大火事が起こり、末期には叛乱が相次ぎ、更には養和の飢饉が起こる。そして平家の都落ち後の木曾義仲による暴虐と、京には凶事が連続した。やがて源平争乱を経て鎌倉幕府が成立、承久の乱で後鳥羽上皇を流刑に処するに至ると、朝廷ではいよいよ崇徳の祟りが起こったと恐れたと。中央に天皇の尊霊、向かって左は鎮守白峯大権現、向かって右は御念持仏十一面観世音を祀っている。建物は延宝八年(1680年)松平頼重、頼常両公の再建。 相模坊大権現像。相模坊大権現はかつて相模の国(神奈川県)の大山に君臨した修験の大行者でその名を相模坊と称した。後に讃岐の国、白峯山に入山し、当山の修験行者(山伏)集団の統括者<大先達>となり、その神通力、法力により行者集団から大権現として祭祀されたその無限大の法徳により、霊威のある聖地白峯山の守護神(鎮守)として崇め祀られた。また崇徳天皇の守護神(謡曲 松山天狗、雨月物語、等に詳述)としても有名である。当地方の鎮守として衆生の諸々の願い事(海上、交通、家内、商売、健康、等)を叶えてくれる権現様。石像は、ご本尊秘仏の故、前仏として建立された尊像。 頓証寺の左手には白峯御陵遥拝所があり、傍らに西行法師石像が。西行法師廟参の遺跡。西行法師の石像が安置されていた。案内板には次の歌が。『よしや君 昔の玉の床とても かゝらん後は 何にかはせん』【たとえ君よ、あなたが昔、玉座に着いておられたところで、こんなお姿(死者)になられた 以上、それがなんになりましょう。そういう現世の執着を忘れ去って成仏なさいませ】と。この歌は西行が上皇のご霊前に捧げた鎮魂絶唱の歌として今に広く知られる歌であると。頓証寺殿の奥が、白峰御陵(しらみねごりょう)。第75代崇徳天皇は保元の乱(1156)により讃岐に流され、林田の雲井御所で3年間、府中の木の丸殿御所で6年間、合わせて9年間を過ごされ、46才で崩御(1164)された。御遺詔により、白峯で荼毘に付し、そこに御陵を築いたのであった。全国に天皇御陵多しといえども、こんなに遠隔の地にあるのは珍しい。また、これが悲劇を物語っているともいえると。石灯籠。坂出市文化財保護条例に基づく重要美術品。寺伝によれば、文治年間に源頼朝が為義・為朝の菩提のために奉納したものといわれているが鎌倉後期のものであるらしい。頓証寺灯篭という形式をなすものであると。 鐘楼堂。 明治時代の再建。 薬師堂。宝形造りの大師堂は、文化八年高松藩主松平頼儀公により再建された堂で、中央に弘法大師、左に稚児大師、右に庚申の本地仏青面金剛が祀られているとのことであったが扉が閉まっていた。行者堂。安永八年(1779年)再建。中央に役行者、周りに十王、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩を安置。 廻向堂。平成十五年(2003年)建立。中央に阿弥陀如来を安置。脇に永代供養者の霊を祀る。裏に永代供養墓が。阿弥陀堂。 他人とは思えない体つきの布袋様。笑顔が素晴らしい。 瑜祇塔(ゆぎとう)。『瑜祇塔の正式名は、金剛峰楼閣瑜祇塔(こんごうぶろうかくゆぎとう)であり、金剛智三蔵訳の「金剛峰楼閣一切瑜伽瑜祇経」に基づいて建立されます。瑜祇経は密教の根本である金剛界と胎蔵界の両部は本来同一のものであるという精神を説いたもので、重要な経典の一つであります。古来より日本仏教は、伽藍建築様式を確立し各地に伽藍が建立されました。伽藍境内の最も特徴的な堂宇が多宝塔形式の塔(四角、六角、八角等の多角形の屋根を持つ建物又、三重、五重、七重、等の多層の屋根を持つ建物)であり、その多宝塔形式の原型とされるものが瑜祇塔で、古の形をインドのストゥーパー(塔)に求めることが出来ます。当、瑜祇塔は元三谷寺 法印 圭應僧正、発願により文政12年、巳丑、仲春(1829、陰暦2月)当山 法印 而住僧正代に建立された。山主』と。 大黒様。境内の紅葉も始まっていて美しかった。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。
2017.11.11
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク78番札所:郷照寺道隆寺から郷照寺へ向かう途中、左手の車窓にゴールドタワーが姿を現した。ゴールドタワーは、香川県綾歌郡宇多津町にあるガラス張りのタワー。高さ:158m(127m:展望台) 竣工・オープン:1988年3月18日改装・リニューアルオープン:2004年8月1日そして20分ほどで78番札所:郷照寺(ごうしょうじ)に到着。郷照寺 案内板。 地元の人から「厄除うだつ大師」と呼ばれ親しまれる郷照寺。毎年正月には厄除けを祈願して10万人もの参拝客が訪れると言う宇多津町内の高台にあり瀬戸内海の眺めを楽しむことが出来る寺。江戸時代、鐘が割れて鳴らなくなった時、大阪からお遍路に来ていた鋳物師が鏡を入れて造りなおしたところとても良い音色で鳴り、その音色に誘われて龍神が現れたという伝説があると。 郷照寺 境内配置案内図。山門をくぐり、左側の石段を上がると駐車スペースになっていて左側にある鐘楼と手水舎の前の数段の石段を上がると左に納経所、右向こうに本堂がある。本堂左の通路を通り石段を上がると正面に大師堂がある。 正面下に観世音菩薩像そして遠くに瀬戸大橋を望めるはずであったが・・・・。 郷照寺仁王門 鐘楼。 手水舎。 本堂。 寺伝によれば、行基が神亀2年(725年)に一尺八寸(55cmという説も)の阿弥陀如来を本尊として開基、当初は道場寺と呼ばれていた。大同2年(807年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備した。その時に厄除の誓願を修し大師像を納め、それが「厄除うたづ大師」として信仰されていると云われている。仁寿年間(851年から854年)には理源大師が阿弥陀三昧の行を修した。寛和年間(985年から987年)には恵信僧都が釈迦如来の絵図を納め釈迦堂を建立した。正応元年(1288年)には一遍上人が遊行の折に3か月逗留し踊り念仏の道場を開いた。その後も栄えたが天正の兵火(1576年から1585年)で堂宇を焼失するも寛文4年(1664年)高松藩主松平頼重により再興、その時の住持と徳川家の関係により、時宗に属し郷照寺と改称。このため四国八十八箇所では珍しい異なる2つの宗派が共存する寺になっているのだと。仏光山 広徳院 郷照寺(ぶっこうざん こうとくいん ごうしょうじ)宗派 真言宗&時宗本尊 阿弥陀如来創建 神亀2年(725年)開祖 行基所在 香川県綾歌郡宇多津町字山下1435番地本尊真言 ”おん あみりた ていぜい からうん” 庚申堂。庚申信仰を伝える堂で、ご本尊には6本の手をもつ青面金剛と、三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)が祀られているのだと。ポックリさま。本堂の右に。撫で仏。 庚申堂の左横に。本堂の奥から石段を上ると「厄除うたづ大師」で知られるという大師堂。 「厄除大師」と書かれた赤い提灯がいくつも。 大子堂天井。 「厄払祈願殿」と書かれた木札が左に。厄年は体調の変化も起こりやすい時期・・・厄年は災難や不幸に遭遇することが多いとされる年齢のこと。男女で厄年は異なるが、一般的にみて、体調の面でも社会的役割の面でも大きな変化が起こりやすい年齢のため、現在でも厄年を意識する人が多いのだと。【男性】25歳、42歳、61歳男性の42歳は「死に」に通じる大厄とされていると。【女性】19歳、33歳、37歳、61歳女性の33歳は「散々」に通じる大厄とされていると。 古い石仏や新しい石仏がたくさん境内に点在していた。 淡島明神。江戸時代初めの頃、讃岐国では様々な病気が流行し、お産の後に身体をこわす女性がたくさんいた。そこで高野山の以空上人に相談したところ、以空上人が郷照寺を訪れ「このお寺をお参りする女性たちが丈夫に健康で幸せな生活ができますように、良い縁に恵まれ子供が授かり、安産で生まれますように」と誓願なされた。そして淡島からご本尊を勧請して、この淡島明神堂を造られたと。それから淡島大明神は多くの女性の守護神となったのだと。 常盤明神の朱の鳥居の前には多くの種類の仏像が並んでいた。 中央に修行大師像。その右側に浪切不動明王。 花瓶を逆さに持つ仏像は? 赤い手すりの階段を降りると万躰観音洞 これぞ万躰観音。 釈迦如来。 多くの墓石がある境内。 白壁が美しい境内。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 --------------------------------------------------------------------------------------------------79番札所:天皇寺鳥居には「崇徳天皇」と書かれた扁額が掲げられており、ここは保元の乱に敗れ讃岐で崩御された崇徳上皇にゆかりのある場所。赤鳥居の奥にあるのが、崇徳上皇の霊を奉る白峰宮。天皇寺の山門は白峰宮の「三輪鳥居(みわどりい) 」が兼ねていて、鳥居から直進すると白峰宮、参道の左右は天皇寺という珍しい配置になっていた 。「三輪鳥居」は明神鳥居と同じような建て方であるが、明神鳥居の左右に、わき鳥居をつけたもの。4本の柱を並べ、入り口が3ヶ所あり。「天皇寺」と刻まれた大きな石碑。崇徳天皇社が創建されてからはその別当となり、天皇にゆかりの深い寺ということから「天皇寺」と称するようになったと。明治初年の神仏分離令によって摩尼珠院は廃寺となり、崇徳天皇社は白峰宮と改称し初代神官には摩尼珠院主が赴任した。また、明治天皇の宣旨により崇徳院御霊は京都白峯神宮へ戻られた。 その後、明治20年に近く(約2km北の林田町)にあった末寺の高照院が移転して七十九番札所を引き継いだと。「さぬき十五社 第九番 白峯宮」と刻まれた石碑。天皇寺 境内配置案内図。四脚の赤い鳥居をくぐり、正面奥は白峰宮であり、その手前を左に行くと天皇寺の本堂とその左に大師堂がある。右の門を入って行くと本坊がありその右側に納経所がある。白峰宮本殿の向って右を通り境内を通り抜け裏に通ずる車道を500mほと行くと八十蘇場の清水と地蔵堂があると。 境内を進む。正面に白峰宮が。菊の御紋が入った境内の馬の像。 白峰宮の手水舎。 白峰宮。 「白峰宮」と書かれた扁額。白峰宮内部。地蔵堂か? 茶堂? 天皇寺の手水舎。 大子堂。 本堂。2016年2月17日より1年間、本尊と脇仏日光月光菩薩は本坊にて御開帳された。本尊の中には伝弘法大師作の十一面観音が胎内仏として納められていると云われている。金華山 高照院 天皇寺 (きんかざん こうしょういん てんのうじ)宗派 真言宗御室派本尊 十一面観音創建 天平年間開祖 行基所在 香川県坂出市西庄町字八十場1713番地2本尊真言 ”おん まか きゃろにきゃ そわか” 境内から本坊への門。 見事な境内の植栽。 納経所。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 「三輪鳥居」を境内から。 最後に80番札所:國分寺を目指し門前に17時直前に到着。しかし仁王門は17時に閉まってしまうとの事でこの日の遍路は諦め高松市内のビジネスホテルへ。ホテルに着くと、発熱を感じたのでこの夜の外での夕食は諦め、旅友のSさんから解熱剤を頂き、おとなしく早めにベッドに潜り込んだのであった。
2017.11.10
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク76番札所:金倉寺善通寺から76番札所:金倉寺 ( こんぞうじ ) までは25号線に出て瀬戸内海に向かって走り21号線に出ると直ぐ。善通寺から4.5km、約10分で到着。笑顔の七福神が出迎えてくれました。境内の参道を歩いて行くと次々に七福神が迎えてくれたのです。寿老人。 福禄寿。 金倉寺の境内で祀られている神社。名前は?忠魂社? 仁王門。 阿形像。 吽形像。 金倉寺 境内配置案内図。山門から入り、参道を進むと正面に本堂、本堂の右手に納経所、左に進むと大師堂がある。 境内はかなり広い、正面に本堂。 右手に手水舎。 柱の数が多い鐘楼。 智証大師一千年遠忌供養塔と刻まれた石碑(左)。水子地蔵尊(中央)。こちらは智証大師一千百年遠忌供養塔と刻まれた石碑。 本堂。宝起5年(774)弘法大師の甥に あたる智証大師の祖父、和気道善 の開基で、当時は道善寺といった。この方はのち延暦寺5代の座 主となり三井園城寺を賜わったが、この地は智証大師の誕生地でもある。天安2年(858)唐から 帰られた智証大師が、先祖菩提のため堂塔を修理し、延長6年 (928)醍醐天皇の勅願によりこの 地の郷名をとって金倉寺と改めた。その後寺運は大いに栄え広大な 寺領や多くの堂塔を有する大寺になった。南北朝や室町時代の 兵火によって堂塔のほとんどを焼 失したが、寛永19年(1642)藩主松平公によって再建され現在に 至っていると。 本堂には所願成就の巨大な「願供養念珠」があり、大きな数珠を引くと、数珠が回り、上に上がった数珠が落下。その時に下方の数珠に当たって「パチ、パチ」と音がはじけたのであった。 本堂のガラス扉の前、賽銭箱の前に五鈷杵(ごこしょ)が鎮座。杵(きね)の形をした中央の握り両端に鈷の突起をつくりその鋭さによって煩悩を打ち破り,菩提心(仏性)をあらわすための法具である。 七福神の見事な木彫り。 鶏足山 宝鐘院 金倉寺 (けいそくさん ほうしょういん こんぞうじ)宗派 天台寺門宗本尊 薬師如来創建 宝亀5年(774年)開祖 和気道善所在 香川県善通寺市金蔵寺町字本村1160番地本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか” 本堂内部。本尊薬師如来のほか、不動明王、阿弥陀如来を安置する。天満宮。 山伏姿の入山大師・ 智証大師(円珍)の像。賓頭盧様。 金倉寺の絵馬は、黄金の小判形 。寺名が「金倉寺」であるから?訶梨帝母堂(かりていもどう)。金倉寺は、安産や子育て・女性守護の神・訶梨帝母尊(かりていもそん・鬼子母神)が、日本で初めて現れたという寺。本堂横には訶梨帝母尊を祀る訶梨帝堂があり、子宝を願う女性が多くお参りに訪れていると。太子堂。 智証大師(円珍)像が中央に弘法大師(空海)像が右陣に神変大菩薩(役の行者)が左陣に安置されている。智証大師の両脇仏として伝教大師と天台大師が大きな宮殿に納まっている。四国八十八箇所の寺院で、大師堂に弘法大師以外の「大師」を中央に祀るのはここだけ。大師堂の奥に続く奥殿にもその三尊の仏像が祀られていると。 太子堂内部。 太子堂を横から。 大師堂(祖師堂)の扁額。智証大師像が中央に、弘法大師像が右に、神変大菩薩(役の行者)が左に。四国霊場で大師堂に弘法大師以外の「大師」を中央に祀るのはここだけであると。 境内の神社の祠を横から。 不動明王像。恵比須神も雨に濡れて。 乃木将軍袖章記碑。この寺の境内には乃木将軍の仮住まいがあった事、そして将軍を訪ねてきた女房を会わずに返したと言う逸話が書かれた看板と「乃木将軍、妻返しの松」があるとのことであるがその看板と松には気が付かなかったのであった。 護国院殿像(乃木希典)。毘沙門天様。 ぐち聞きわらべ。「頭をなでて ぐちをささやいて ください」と。ぐちもなかったですが、頭はなでて来ました。 子育地蔵。安産や子育てに御利益があるそうだ。 納経所。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------77番札所:道隆寺金倉寺から25号線、21号線を利用して走ること4km、10分で77番札所:道隆寺(どうりゅうじ)に到着。仁王門。阿形像。 吽形像。 道隆寺 境内配置案内図。仁王門を入ると参道一番奥に本堂があり、その手前の右に大師堂、左に納経所がある。小さいさまざまな祠は本堂を取り巻くように点在する。本坊は、仁王門の門前の右にある遍路用品店と境内の間の道を進み突き当たりを右に行くとある。 境内、正面に本堂。 参道の脇には全国各地の観音霊場の本尊が255体安置されていた。 鐘楼。 粟島堂。 本堂手前まで観音像が。 弘法大師に許しを請う衛門三郎の像が大師堂前に。衛門三郎は、四国お遍路をした最初の一般人で、伝説上の人物。 大子堂。大子像を拝顔できました。寿老人。本堂。 天平の頃この付近は桑園であった。寺伝によれば、和銅5年、当地の領主である和気道隆が桑の大木が夜ごと怪しい光を放ったのでその方向に矢を射ると、矢が乳母に当たり誤って殺してしまった。これを悲しんだ道隆は桑の大木を切り、薬師如来を刻んで堂に安置したのが起源であるという。道隆の子の朝祐は、大同2年(807年)唐から帰朝した空海に頼み、90cmほどの薬師如来を彫像し、その胎内に道隆の像を納め本尊とし、また、空海から受戒を受け第2世住職となって、七堂伽藍を建立し父の名から「道隆寺」と号した。そして、第3世は空海の実弟の真雅僧正(法光大師)が継ぎ23坊を建立、第4世は円珍(智証大師)で五大明王を彫像し護摩堂を建立し、第5世の聖宝(理源大師)の代には「宝祚祈願所」となり大いに栄えた。 しかし、貞元年間(976年から978年)の大地震による被害や、康平3年(1060年)の兵火や、天正の兵火による災難にあって興亡を繰り返したと。本尊の薬師如来を中心に多くの仏像が堂内部に。 桑多山 明王院 道隆寺(そうたざん みょうおういん どうりゅうじ) 宗派 真言宗醍醐派本尊 薬師如来創建 天平勝宝元年(749年)開祖 和気道隆所在 香川県仲多度郡多度津町北鴨一丁目3番30号本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか” 多宝塔。 賓頭盧さま。 賓頭盧さま 案内板。釈迦の直弟子の一人で十六羅漢の第一であると。観音像の先にぐち聞き地蔵の姿も。 高祖大子千五十回忌之塔。 潜徳院殿堂(せんとくいんでんどう)。 堂内には眼病平癒に霊験あらたかとされる目なおし観音が祀られている。 稚児太子像。灌頂堀。 納経所。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。
2017.11.09
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク74番札所:甲山寺出釈迦寺から74番札所:甲山寺(こうやまじ)までは48号線を利用して10分弱。境内には山門が二つ、本堂前に二つ目の山門が。「醫王院」と書かれた扁額。 甲山寺 境内案内図。山門をくぐり右に手水舎を越え、左に曲がり中門をくぐると右手に納経所、わずかな石段を上がると本堂その右の続に護摩堂、左に数段上がると大師堂があり、鐘楼がその先にあり、その向こうに毘沙門窟入口があり、中に毘沙門天の石像が祀られている。 手水舎。 伝説では、壮年期の空海が寺を建立しようと幼きとき遊んだこのあたりを探索していると老翁が現れ、この地にお寺を建立すべしとお告げをした。この地の岩窟に住む毘沙門天の化身と悟った空海はこの岩窟に毘沙門天を祀った。 その後、嵯峨天皇の勅命を受け別当として満濃池の修築を命じられた空海は、この地で薬師如来を刻み修法すると数万の人々が集まり、無事に築造を完成に導いた。弘仁12年(821年)その功績に対して朝廷から二万銭が与えられ、その一部によって堂を建立したのが当寺の始まりであるという。甲山(標高87.2m)には、室町時代に天霧城の出城があったと云われていて、山頂に石舞台跡があり、頂上には神武天皇孝明天皇震儀石がある。また、当寺から山頂に向かう山道には江戸時代末期に開かれたという西国三十三所の石仏が並んでいる。 下の境内から鐘楼を観る。 太師堂。2014年に大師像が開帳された。鐘楼。 毘沙門天尊。 仏の世界の東西南北を守護しているのが、四天王。東は持国天、西は広目天、南は増長天、北は多聞天が護っています。多聞天は、別名「毘沙門天」ともいわれ、74番札所の「毘沙門天」を祀る堂がこれ。親子地蔵尊。 淡島大明神。 本堂。 檜の一木造りで、重厚な姿と力強く引き締まった表情が印象的な「薬師如来像」が祀られていると。医王山 多宝院 甲山寺(いおうざん たほういん こうやまじ)宗派 真言宗善通寺派本尊 薬師如来創建 弘仁12年(821年)開祖 空海(弘法大師)所在 香川県善通寺市弘田町1765番地1本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか” 修行大師像。 金木犀が満開中。 しかし既に雨に打たれた花が。 正面に本堂、左手に鐘楼。 鐘楼と毘沙門天尊。 納経所。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------75番札所:善通寺甲山寺から1.4km、約5分で「お願い事が善く通る寺」・善通寺(ぜんつうじ)駐車場に到着。しかし寺号の実際は、弘法大師・空海の父の名・佐伯善通 ( さえきのよしみち)に由来すると。善通寺 境内配置案内図。総面積約45,000平方メートルに及ぶ広大な境内は、「誕生院」と称される西院「伽藍」と称される東院、の東西二院に分かれています。金堂、五重塔などが建ち並ぶ「伽藍」は、創建時以来の寺域、御影堂を中心とする西院「誕生院」は、弘法大師が御誕生された佐伯家の邸宅地にあたり、ともに弘法大師御誕生所としての由縁を今に伝えていると。まずは西院「誕生院」を訪ねる。山門をくぐり右に手水舎を越え、左に曲がり中門をくぐると右手に納経所、わずかな石段を上がると本堂その右の続に護摩堂、左に数段上がると大師堂があり、鐘楼がその先にあり、その向こうに毘沙門窟入口があり、中に毘沙門天の石像が祀られている。空海記念碑。中国西安市の青龍寺跡に建てられたものを縮小復元したもの。 交通安全地蔵尊。済世橋(さいせいばし)。 この橋は、弘法大師が中国に御修行の砌(みぎ)り洛陽の洛水に架かる天下の名橋、天津橋を渡られた。その故事により、このところ天津橋を復元し往時を偲ぶもの。下を流れる弘田川。 駐車場から石橋(済世橋)を渡るとそこに唐風の正覚門が。ビルマ戦での戦没者供養塔のパゴダ。1941年の太平洋戦争開戦後間もなく、日本軍は援蒋ルートの遮断などを目的としてビルマへ進攻し、勢いに乗じて全土を制圧。連合国軍は一旦退却したが、1943年末以降、イギリスはアジアにおける植民地の確保を、アメリカと中国は援蒋ルートの回復を主な目的として本格的反攻に転じた。日本軍はインパール作戦を実施してその機先を制しようと試みたが、作戦は惨憺たる失敗に終わった。連合軍は1945年の終戦までにビルマのほぼ全土を奪回。日本人の戦没者は18万名に達したと。パゴダの手前に「遍照」の石碑。弘法大師の精神「仏の光明」で全てに優しく分け隔てなく、遍く照らし世のため人のために尽くすこと。遍照閣への参道の左手に 十二支守り本尊が並んでいた。戦争犠牲者慰霊供養塔。 聖天堂。 歓喜天が祀られ どんな願い事でも叶えてくれ約束を守らない者には容赦なく罰を与える神様。国鉄四国総局殉職者慰霊碑(左)と光明殿(右)。光明殿は納骨永代供養塔とのこと。善通寺では宗旨、宗派を問わず供養してくれるのだと。御影堂と聖霊殿を結ぶ回廊の下を潜る。 戒壇巡りは真っ暗な通路を法号を唱えながら精神修養の道場。途中の祭壇で再現された弘法大師の声を聞くことが出来ると。地蔵堂(国登録有形文化財)。ほやけ地蔵が祀られていると。頬にやけどの痕がある娘が、日参し祈願したところきれいにとれ、地蔵尊の頬に痕が移ったというお地蔵さんをお祀りしていると。やけど、しみのある人に信仰が篤いと。護摩堂。 聖霊殿。1940年建築の仏堂、登録有形文化財。 延命龍観音菩薩像。足元に竜がどぐろを巻いていた。この延命観音菩薩は呪いや毒薬の害を除いて下さる仏と。 金堂から移されたという五百羅漢。 護摩堂から聖霊殿への回廊に祀られていた。不二地蔵菩薩像。手水場。 御影堂(太師堂)。 御影堂の前から稚児大師像の後ろ姿を。幼少時は真魚(まお)と呼ばれ、聡明で信仰心の篤い子供だったと。仁王門。 扁額には「遍照金剛閣」 と。金剛力士像、阿形像。 吽形像。 観智院。大同二年弘法大師が創建。善通寺が最盛期だった弘安年間には、四十九の塔頭が散在していたが、当院はその時、十善坊と称し、寺内塔頭の筆頭として、一山の寺務を掌握していた。中世に入って、現在の院号に改められた。本尊の観音は、子安観音と呼ばれ、高松藩主松平公の側女が尼となって住んでいた庵のご本尊を移したものと言われる。大正二年火災に遭い、十四年に再建されて現在に至っている。修行大師像。毘沙門天 華蔵院。商売繁盛の守り神とされる毘沙門天。中門は改修工事中。境内の西辺中央、釈迦堂の正面に建つ。一間一戸楼門、入母屋造本瓦葺。下層では左右に袴腰状の板壁を設け、虹梁には雲龍や鶴を彫る。上層は桁行三間梁間二間とし、吹き放つ。軒は総反りで垂木を扇に配り、優美な意匠とする。特異な外観をもつ門。中門を潜り、創建地である東院境内へ。善通寺は、弘法大師の父で地元の豪族であった佐伯善通から土地の寄進を受け、大同2年(807年)、佐伯一族の氏寺として、弘法大師(空海)の師であった恵果が住していた長安の青龍寺を模して建立したといわれ、創建当初は、金堂・大塔・講堂など15の堂宇であったと。こちらにも塀沿いに五百羅漢が。佐伯祖廟(さえきそびょう)。『弘法大師は宝亀5年(774)、讃岐国多度郡屏風浦(善通寺)にお生まれになりました。この地方の豪族、佐伯直田公(さえきあたいたきみ)・善通卿と玉寄御前(たまよりごぜん)の三男です。この佐伯祖廟堂には父君善通卿と母君玉寄御前の御尊像を泰安してあり、「佐伯明神」、「玉寄明神」と称しております。なお五色山の頂上には佐伯家代々の霊廟がございます。』と案内板に。直ぐに目に付いたのが、境内に入って直ぐ右側に巨大な天蓋の様な樹冠を持つ「五社明神の大クス」と呼ばれる大楠。三帝御廟。三帝とは、鎌倉後期に讃岐国主になった大覚寺統の後嵯峨上皇、亀山上皇、後宇多上皇の事で、善通寺興隆に大きな援助をされたと。五重塔。1884年再建。高さ43m(礎石上〜相輪頂上)、総欅造、三間五重塔婆、本瓦葺。五重塔は4代目の塔として江戸時代末期の安政年(1854年)に着工し、3代の棟梁が携わって、明治35年(1902年)に竣工した。鐘楼。江戸時代末期再建。桁行三間、梁間二間、入母屋造、本瓦葺、初層袴腰、上層は擬宝珠高欄付縁。子授招福大師像。善通寺 金堂。伽藍は戦国時代に焼失しており、金堂は元禄12年(1699)の再建。伽藍の中央に建つ金堂は、一重、もこし付で、本格的な禅宗様仏殿の形式をもつ。屏風浦五岳山 誕生院 善通寺(びょうぶうらごがくさん たんじょういん ぜんつうじ)宗派 真言宗善通寺派本尊 薬師如来創建 大同2年(807年)開祖 佐伯善通 所在 香川県善通寺市善通寺町三丁目3番1号本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか” 扁額。金堂前から中門方面。後ろに善通寺の五岳山が見えた。東院仁王門(南大門)を境内から。この先には善通寺市の大通りである中通りになり、以前は商店街に出る赤門と同様に、参拝者の多く出入りする門の一つであったと。南大門前から五重塔を。「五岳山」と書かれた扁額。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。
2017.11.08
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク72番札所:曼荼羅寺弥谷寺から72番札所:曼荼羅寺までは約6.5km、15分。駐車場に車を駐めると、目の前には白塀に囲まれた美しい芝生庭園が。山門(仁王門)。 仁王像は金網で保護されていた。 何とか金網の網目にレンズを入れて。曼荼羅寺 境内配置案内図。山門をくぐり進むと本堂、その手前を左に行くと大師堂、右に進むと納経所がある。縁起によると、創建は四国霊場で最も古い推古四年(596)。讃岐の領主・佐伯家の氏寺として創建され、初め「世坂寺(よさかでら)」と称していた。弘法大師がこの寺を訪れたのは唐から帰朝した翌年のこと。亡き母玉依御前の冥福を祈るためだったともいわれている。唐の青龍寺にならって伽藍を三年がかりで建立。本尊に大日如来を祀り、唐から持ち帰った金剛界と胎蔵界の曼荼羅を安置し、寺名を「曼荼羅寺」に改めとた。鎌倉時代には、後堀河天皇から寺領を給わるほど栄えた。 しかし、1560年の兵火で焼亡、さらに、1596年に戦火を受けたが復興していると。 山門を潜り本堂に向かって歩く。 本堂の古い鬼瓦(明治9年)で、境内右手に展示されていた。手水舎。 延命地蔵尊。 修行大師像。 鐘楼。 笠松大師。 笠松大師。笠松と呼ばれていた「不老の松」の幹に刻んだ弘法大師座像。お遍路は笠松大師をさすっては在りし日の姿を偲んで行くと。 平成14年までは立派な「不老の松」があったようです。 樹齢1200年を超す「不老の松」で高さは4m足らずですが直径が17〜18mもあり、菅笠をふたつ伏せたような印象的な姿で県の自然記念物にも指定されていた。しかし、松食い虫に浸食され、平成14年に伐採されてしまったと。大日如来像。福禄寿。観音堂。 昭和9年、昭和59年と50年毎に建立された石塔が2本。太師堂。 太師堂内部。 大師像を拝顔出来ました。 延命地蔵堂。 愛染堂。地蔵堂。 八幡宮。 水子供養地蔵尊。 「実相院殿観月宗真大居士菩提」五輪塔 。護摩堂。 内部。 本堂。 ここは四国内の寺で一番古いとされているとあります。推古天皇の時代からだと。 我拝師山 延命院 曼荼羅寺(がはいじざん えんめいいん まんだらじ) 宗派 真言宗善通寺派本尊 大日如来創建 推古天皇4年(596年)開祖 行基所在 香川県善通寺市吉原町1380番地1本尊真言 ”おん あびらうんけん ばさらだどばん” 堂内の扁額には「大日閣」の文字が。毎年、彼岸の入りの日に、本尊金剛界大日如来が開帳されると。賓頭盧尊者(びんずるさん)。 福禄寿。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------73番札所:出釈迦寺曼荼羅寺から73番札所:出釈迦寺(しゅっしゃかじ)は300mの距離。本堂に向かう参道を上る。 出釈迦寺 境内配置案内図。山門を進み右に折れると左に納経所があり、正面に本堂、その右側が大師堂と並置されている。本堂の左の石段を上がると赤い壁の地蔵堂があり、その先に奥之院遥拝所と大きな石の台座に虚空蔵菩薩石像があり、眼前に奥の院のある我拝師山がそびえる。種田山頭火の「山あれば山を観る」と刻まれた石碑。裏には「雨の日は雨を聴く」と刻まれていたのであろうか?寺伝によれば、空海(弘法大師)が7歳の時に倭斬濃山(わしのやま)(現、我拝師山)に登り、「仏門に入って多く人と衆生を救いたいのです。私の願いが叶うなら釈迦如来様、お姿を現して下さい。もし、願いが叶わないのなら私の命を仏に供養します」と願い、山の断崖から谷へと飛び降りた。すると、落下する空海の前に釈迦如来と天女が現れて抱きとめ、「一生成仏」と宣し、彼の願いが成就された。感激した空海は、釈迦如来が現われた山を「我拝師山」名づけ、その山に出釈迦寺を建立し、釈迦如来の尊像を刻んで本尊としたと。現在の当寺の奥之院である山上のお寺は、曼陀羅寺の奥之院であったが、1600年代半ばに我拝師山の麓に寺が建立された。山上が札所であるが麓の寺でも納経するようになっていた。しかし、1920年(大正9年)に札所は麓の寺に移されたと。 修行大師像。「四国霊場 第七十三番 我拝師山 出釈迦寺」と刻まれた石柱。「子宝の三鈷の松」。ここにも修行大師像。境内から遠く瀬戸内海が見えた。 参道の右側には「干支別守り本尊」がずらりと。子、牛、寅、卯、・・・とそれぞれの干支によって異なる御本尊の石像が刻まれ、並んでいた。我が寅年は虚空蔵菩薩。山門が現れる。山門は2008年落慶と。「我拝師山」(がはいじさん)と金字で書かれた扁額。恵比寿像。求聞持大師像(ぐもんじたいしぞう)。弘法大師7歳の捨身誓願の霊跡であるとともに、お大師様が四国八十八ヶ所ご開創の砌り、再度当地に巡錫、虚空蔵求聞持の法を修行され、故に当山院号を求聞持院と号します。この求聞持の法とは虚空蔵菩薩のご真言を一百萬遍お唱えする法で、そのご修行のお姿が当山求聞持大師像です。この求聞持の法を修することによって一切の教法の文義悉く暗記する事が出来るといわれています。 太師堂。太師堂内部。 仏足石。 水子地蔵尊。地蔵堂。捨身ヶ嶽遙拝所(しゃしんがたけようはいじょ)。弘法大師が真魚(まお)呼ばれていた7歳の時、我拝師山に登り「将来仏門に入って、仏の教えを広め多くの人々を迷いから救いたい。この願いが叶うかどうか、お釈迦様の証をお示しください。もしもそれが叶わないなら、この身を諸仏に供養としてささげます。」と願い、断崖絶壁から飛び降りた。すると、紫色の雲が湧き、羽衣をまとった天女が舞い降り、雲の中で弘法大師を抱きとめた。天女が真魚を飛び降りた場所に戻すのと同時に紫色の雲が湧き、釈迦如来が現れ「一生成仏」と宣し、彼の願いが成就された。その後、成人した弘法大師は、お釈迦様のお姿を拝んだお山というところからこの山を「我拝師山(がはいしさん)」と名付け、山頂に釈迦如来像を刻んで安置し、堂宇を建て「出釈迦寺(しゅっしゃかじ)」と名付けた。この場所は「捨身ヶ嶽禅定」といわれ元は札所でしたが、1600年代半ばに我拝師山の麓に寺が建立され、1920年(大正9年)に札所は麓の寺に移されたので、今は奥の院としての役割を果たしている。また出釈迦寺は、大師が虚空蔵菩薩の真言を100万回唱える「虚空蔵求聞持の法」の修行をした地としても知られており、院号の「求聞持院」もここから来ていると。虚空蔵菩薩像。再び修行大師像。新しい鐘楼。鐘も新しそう。今年の5月に落慶法要とのこと。出釈迦寺本堂が左手に。右に太師堂。我拝師山 求聞持院 出釈迦寺(がはいじざん ぐもんじいん しゅっしゃかじ) 宗派 真言宗御室派本尊 釈迦如来創建 奈良時代後期~平安時代初期 開祖 空海(弘法大師)所在 香川県善通寺市吉原町1091番地本尊真言 ”のうまく さんまんだ ぼだなん ばく” 弘法大師作の本尊・釈迦如来はすだれ越しにうっすらと浮かび上がっていた。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。
2017.11.07
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク70番札所:本山寺国指定重要文化財「仁王門」。鎌倉時代の建物、正面三間奥行二間の切妻造り、本柱四本の前後に八本の控柱があるので八脚門とも言う。組物・肘木・虹梁・冠木など和様を主体として禅宗様や天竺様式を組み合わせ、新しい様式を見せて美しく、他に類例がない貴重な建物であると。金剛力士像。阿形像。吽形像。 「本山寺五重塔 平成の大修復」と書かれた浄財勧募の看板。四国霊場88ヶ寺のなかで、五重塔が建立されている寺は4ヶ寺で、そのうち香川県内の霊場の3ヶ寺にある。本山寺は香川県の西部に位置し、四国霊場第70番札所であるが、国指定重要文化財は仁王門と本堂が指定されている。 本山寺 境内配置案内図。二王門をくぐると正面奥に本堂があり、その手前右に大師堂がある。納経所は本堂の左側を通過し奥に進み本坊の門をくぐり中に入って左にある。 鐘楼。 拓魂堂。この近辺から満州開拓団に参加して戦争の犠牲になった方々の冥福と永遠の平和を祈願しているものと。香川県指定有形文化財「鎮守堂」。南北朝から室町時代初期の作で善女龍王像が安置されている。雲を呼び雨を降らす力を持つ請雨秘法の霊神と。 正面に本堂が現れた。 右手に大門。 「十王堂」。死後の世界に10人の王がいて生前の罪を裁く、十王は冥界における10人の裁判官で最も権威あるのが閻魔王。 十王堂 内部。手水場。 五重塔は平成の大修復工事中。 五重塔の姿。 五重塔の相輪の実物が展示されていた。太師堂。 太師堂内部。堂内奥の弘法大師像より5色の「結縁綱」が伸びていました。綱に触れることで、大師様と縁を結ぶことができるという「結縁綱」。私もしっかりと握って来ました。 修行大師像を本堂を背景に。 国指定重要文化財・国宝の「本堂」。鎌倉時代の建物で、寄棟造り本瓦葺き、屋根の線がなだらかで美しい、桁裄五間、梁間五間で、堂内は外陣、内陣(広く)後陣(狭く)を自由に納めている点が極めてたくみで、これが平面的特徴である仏壇及び厨子も当初のもので、建築的にもすぐれている。 七宝山 持宝院 本山寺(しっぽうざん じほういん もとやまじ) 宗派 高野山真言宗本尊 馬頭観音創建 大同2年(807年)開祖 空海(弘法大師)所在 香川県三豊市豊中町本山甲1445番地本尊真言 ”おん あみりと どはんば うん はった そわか” 本堂説明板。寺伝によれば、大同2年(807年)、平城天皇の勅願寺として、空海(弘法大師)が自ら刻んだ馬頭観世音菩薩像を本尊、阿弥陀如来と薬師如来を脇侍として開創し長福寺と称したという。この時、本堂はわずか一夜でできたという「一夜建立」の伝説がある。中世には寺領2000石、24坊を持つ大寺となって栄えた。天正年間(1573年 - 1593年)、長宗我部氏の戦により讃岐国の主要寺院の大半は兵火を受けた。当寺も例外ではなく諸堂を焼失したが、境内に攻め入る兵士を斬られながらも止めようとする住職を振りきり攻め入った兵士が、本堂内陣の厨子を開いたところ阿弥陀如来の体から血がしたたり落ちるのを見て驚き、本堂(国宝)と仁王門(重要文化財)は焼かずに撤退したという。その阿弥陀如来は「太刀受けの弥陀」と呼ばれる。 その後、江戸時代には領主の生駒氏と京極氏により再興され、天保年間(1830年から1844年)には本山寺と改称されたと。本堂正面入口部。頑張れカエル!!本尊は四国霊場唯一の馬頭観世音菩薩。境内には馬の像が2頭寄り添っていた。 天保4 (1833) 建設の宝蔵。赤堂(大日堂)。江戸時代中期建設。 本坊。江戸時代末期の嘉永5年(1852年)焼失後の再建。 中門。 宝蔵の横の門。 境内の納骨塔の上にもやや年老いた弘法大師像が。 満州開拓慰霊堂(阿弥陀堂)。 堂内部。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------71番札所:弥谷寺国道11号線(伊予街道)を進み進むと右手前方に、香川県の丸亀市と坂出市の境に位置する山である標高: 422 mの飯野山(いいのやま)が見えた。別名を讃岐富士と呼び、讃岐七富士のひとつに数えられている山。「ふれあいパークみの」の近くを右折し山道を進むと71番札所:弥谷寺(いやだにじ)の駐車場に到着。標高382mの小高い弥谷山、その中腹に貼り付くように弥谷寺はあった。弥谷寺 境内配置案内図。俳句茶屋を越えると山門があり、さらに長い石段の参道を登っていくと大きな金剛拳菩薩が迎えてくれる。その先に赤い手すりの108階段を上り詰めると目の前に大師堂がある。右に進むとすぐ左上に多宝塔があって稲荷社はその脇にある。鐘楼は正面にあり、その前の石段を上って行くと途中の右に観音堂、左に十王堂があり、上り詰めると正面に岩窟の護摩堂がある。その護摩堂の右脇の急斜面に荒れた激急坂歩道の上に権現堂が見える。護摩堂を左に進むと水場があり、石段は二手に分かれ右の方に上がると途中、岩壁に阿弥陀三尊磨崖仏があり、それを過ぎるとやっと本堂がある。納経所は大師堂の中にあり、洞地蔵尊は大師堂中央あたりから斜面外を望めばある。なお、寺を去るとき、決して振り返ってはいけない、それは死者を背負って帰ってしまうからとの云い伝えがあると。雨も強く降っていたので階段を上るのを諦めて往復750円のマイクロバスを利用して太子堂近くの本坊まで。2台あるバスの1台はのナンバーは88-71と88ヶ所巡りの71番札所に拘っているのであった。バスを降りるとそこは本坊。本坊門。太師堂への階段を上る。再び案内図。歩き遍路の「百八階段」を見下ろす。108段という数字は、108の煩悩を落とす、12ヶ月+24節気(春分、冬至などの季節指標)+72候(古代中国の季節方式)で1年を表すそして四苦八苦を落とす(4×9+8×9)という意味があるのです。108回撞かれる除夜の鐘も同じような意味が。 手水場。太師堂手前の大黒天像。太師堂内部。大師が学び、密教修行をしたとされる獅子の岩谷が太子堂内の奥に。「大師堂」内に納経所があり、奥の院「獅子之岩屋」も同じ建物内に。供養堂。 寺伝によれば、聖武天皇の勅願により行基が堂宇を建立し、光明皇后の菩提を弔うため、大方広仏華厳経(伝・光明皇后書写)を祀り、寺院を創建したとされる。当初は中国、四国の八国が眺められたことにちなみ蓮華山八国寺と称したという。また、空海(弘法大師)は7 - 12歳の期間、当寺にある岩窟である獅子之岩屋で学問に励んだという。807年(大同2年)、唐より帰国後の空海は当地を再び訪問し蔵王権現のお告げにより千手観音を安置し、唐から持ち帰った金銅四天王五鈷鈴を納め、伽藍を再興した。また、求聞持法を修していると五本の剣が落ちてきたことから山号を剣五山、谷が多いことから寺名を弥谷寺と改めたという。 多宝塔。 報恩供養塔。 修行大師像。 鐘楼堂。 観音堂。 十王堂の回廊に安置されていた鐘。 鐘楼を見下ろす。 岩窟の護摩堂。 護摩堂内部。 宝篋印塔(ほうきょういんとう)。更に本堂への急な階段を上る。 水場。 死者を供養する弥谷参りでは、死者の霊を水場で降ろす習わしとなっていると。薬師堂。本堂への参道脇には多くの石仏が。 「本堂」への石段の途中には山の岩肌に彫られた「阿弥陀三尊磨崖仏」が 本堂。剣五山 千手院 弥谷寺(けんござん せんじゅいん いやだにじ) 宗派 真言宗善通寺派 本尊 千手観音創建 奈良時代開祖 行基、聖武天皇(勅願)所在 香川県三豊市三野町大見乙70本尊真言 ”おん ばさら たらま きりく” 上って来た階段。 五輪塔再び阿弥陀三尊磨崖仏。 雨霧城主「香川家」代々の墓。天正13年8月、秀吉の四国攻めにより香川氏滅亡して400年詣でる人とてなく、半ば土砂に埋もれ雑草に覆われて密かに眠っていた。場所はこれより上方100m本堂西「西院(さいいん)」の旧跡にあった。昭和59年住職建林良凞が回向のため、現在地に移したものである。権大僧都法合徳實像。残念ながら、バスに乗ってしまったため仁王門、仁王像にはお目にかかれなかった。そして納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。帰路の下りもマイクロバスにて。こちらも71番札所に拘って。
2017.11.06
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク68番札所:神恵院大興寺から68&69番札所の神恵院&観音寺に向かうが、駐車場がなかなか見つからず迷う。何とか裏の駐車場に車を駐め坂道を下るといきなり境内に出る。山門まで戻り遍路開始。山門(仁王門)には68番札所:神恵院と69番札所:観音寺の二寺の文字が。「七宝山 観音寺 神恵院」の文字が。2つの札所が1つの境内にある珍しい霊場。阿形像。吽形像。神恵院 境内配置案内図。仁王門をくぐり参道を進むと石段があり上り切ると右に鐘楼があるが、左に折れまた右を見るとお堂の向こうにコンクリート打ちっぱなしの建造物があり、その中の石段を登ると本堂がある。大師堂は戻って降りた右手にあり、納経所は本堂と反対側の門をくぐり右に進むとある。庭園は観音寺の方であるが、神恵院の本堂に上がった左側から眺めることができる。境内に上がる階段が前方に。鐘楼。近くに寄り鐘楼を見上げる。鐘楼の中に入って見上げれば天井一面に渦巻く見事な雲海模様。四隅に龍を配し、その間を雲海模様が埋め、それぞれの側の中央にはビリケン像のような人形が様々な姿態で屋根を支えていた。神恵院 本堂入口。法相宗の日証が琴弾山で修行をしていたところ、琴を弾く老人が乗る舟を海上に見た。この老人は八幡大明神であることを知った上人は、その琴と舟を祀り琴弾八幡宮と名付けた。行基が養老6年(722年)に訪れた後、大同2年に空海(弘法大師)が阿弥陀如来を描き本尊として安置し、琴弾山神恵院(じんねいん)として第68番札所に定めた。以来明治初期までは神宮寺として琴弾八幡宮が第68番札所であった。しかし明治政府による神仏分離令により琴弾八幡宮は琴弾神社と神恵院とに分離されることになり、神恵院は麓にある観音寺境内に移され、阿弥陀如来図も移転に伴い観音寺境内の西金堂(さいこんどう)に移された。近年、神恵院本堂が鉄筋コンクリートで新築され、その西金堂は薬師堂に戻され、西金堂の横にあった神恵院大師堂は台風で失われたので、十王堂の右半分が大師堂になっている。本堂。琴弾山 神恵院(ことひきさん じんねいん)宗派 真言宗大覚寺派本尊 阿弥陀如来創建 大宝3年(703年)開祖 日証上人所在 香川県観音寺市八幡町一丁目2番7号本尊真言 ”おん あみりた ていぜい からうん” 本堂内部。回遊式日本庭園「巍巍園(ぎぎえん)」第45世太政大僧正道尊の作庭。太師堂。大師像を拝顔できる。向かって右側が大師堂で左側は閻魔堂。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------69番札所:観音寺 観音寺 境内配置案内図。仁王門をくぐり参道を進み石段を上りきると右手に鐘楼、さらに奥に朱塗の本堂がある。大師堂は先ほどの階段を上りきった所に戻り、右手二つ目の堂である。 伝承によれば、大宝年間(701年 - 704年)に、法相宗の日証が琴弾山で修行をしていたところ、琴を弾く老人が乗る舟を海上に見た。この老人が八幡大明神であることを知った上人は、その琴と舟を祀り琴弾八幡宮と名付けた。その神宮寺として建立され神宮寺宝光院と称していた。寺伝によれば、行基が養老6年(722年)に訪れた後、大同2年 (807)空海(弘法大師)が第7世住職として入山し、奈良の興福寺を模して、中金堂に聖観世音菩薩像を刻み本尊とし、西金堂、東金堂など七堂伽藍を整備し、名称も観音寺と改め札所のひとつにしたと。 本堂。 寄棟造、本瓦葺き。室町時代建立の前身堂の部材を用いて延宝5年(1677年)に建立されたもの。国の重要文化財指定名称は「観音寺金堂」であると。 本堂内部。七宝山 観音寺(しちほうざん かんのんじ)宗派 真言宗大覚寺派 本尊 聖観音創建 大宝3年(703年)開祖 日証上人所在 香川県観音寺市八幡町一丁目2番7号本尊真言 ”おん あろりきゃ そわか” 大日如来坐像は当寺の本尊(伝・聖観音)で像高103.0cm、平安時代(11世紀)の作。法界定印に蓮華を持し胎藏大日如来と聖観音が一体となる姿であるという。その左右に安置される薬師如来坐像(向かって左)と釈迦如来坐像はともに像高75.0cm、平安時代(11 - 12世紀)の作。 境内から階段上の薬師堂を見上げる。 五智如来(ごちにょらい)像。五智如来は、五大如来ともいい、密教で5つの知恵(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)を5体の如来にあてはめたもの。 金剛界五仏のことであると。 薬師堂への急な階段を上る。 薬師堂。元神恵院本堂で、本来の薬師堂に戻っているのだと。本尊は大きな薬師如来坐像、向かって右脇には胎蔵界大日如来坐像が。 黄金の弘法大師? 心経殿はコンクリート製の多宝塔で、本尊は金剛界大日如来坐像。 愛染堂。修復され2017年5月14日に開眼法要が行われたと。手水場。太師堂。大師像を拝顔できました。 納経所への門。納経所への入口。2寺共通の納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 正面に大きな楠木が。根元が盛り上がっていたが、これは根元の岩盤が固いため下に根を張れなかったので上に盛り上がっているのだろう。 駐車場に戻る途中、境内の隅の山の麓にも小さな大日堂祠が。 ここにも小さな祠が。 歴代の住職の墓か?
2017.11.05
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク65番札所:三角寺この日は四国巡礼3日目の10月16日。6時過ぎにホテルを出て高知自動車道に向かう。川之江JCTから松山自動車道へ。三島川之江ICで下り65番札所:三角寺に向かう。 高知のホテルを出発し、1時間で65番札所:三角寺に到着。73段の石段を上って釣鐘が架かる山門(仁王門)に向かう。山門(仁王門)。鐘楼門。山門には重さが150貫という梵鐘が吊されていた。 「三角寺」と書かれた扁額。 阿形像吽形像。 三角寺 境内配置案内図。73段の石段を上って釣鐘が架かる山門を入り右に納経所があり、参道を左に進むと右手に、弁財天のある三角池、薬師堂、一番奥に本堂がある。大師堂は本堂手前の右の丘に建っている。寺伝によれば天平年間(730年‐749年)に聖武天皇の勒願により行基が開基したとされる。空海(弘法大師)が来訪した際、本尊である十一面観世音と不動明王を刻み、三角形の護摩壇を築き21日間降伏の秘法を施したとされる。三角寺の寺号はこの護摩壇に由来する。境内には三角の池が残り、そのときの名残とされる。嵯峨天皇が本尊を深く信仰し、寺領300町歩を下賜し、堂塔を建造したとされ、往時は12坊を持ち、七堂伽藍を備えていたという。天正9年(1581年)の長宗我部元親軍の兵火で焼失し、現在の建物は嘉永2年(1849年)に再建されたものであると。 客殿 方丈。休憩所。 三角寺という寺名の由来となったのは大師堂の脇にある三角の池(みすみのいけ)。弘法大師が護摩修行をしたとされるが、その修行を行った三角形の護摩壇の跡地がこの池の正体。三角の池の中には、護摩壇の代わりに七福神の女神である弁財天が祀られている小さな堂が建っていた。境内は紅葉が始まっていた。 薬師堂。 疣や魚の目が治るご利益があるといわれる。疣は松かさのようにぽろりと落ち、魚の目には蛸の絵を描いた絵馬を奉納して祈る。蛸の吸盤が魚の目を取るという。太師堂。 大師堂は往時、山を越えた仙龍寺だったが分離したとき弥勒堂を大師堂とし、大師像は向かって右側に鎮座していると。手水場。 小林一茶の歌碑が隣に。寛政7年(1795)に訪れたとき、『これでこそ 登りかひあり 山桜』と詠まれたと。山内は樹齢3、400年の桜が爛漫となる名所であると。本堂。寺伝によれば天平年間(730~749年)に聖武天皇の勒願により行基が開基したと。空海(弘法大師)が来訪した際、本尊である十一面観世音と不動明王を刻み、三角形の護摩壇を築き21日間降伏の秘法を施したと。三角寺の寺号はこの護摩壇に由来。境内には三角の池が残り、そのときの名残と。嵯峨天皇が本尊を深く信仰し、寺領300町歩を下賜し、堂塔を建造したとされ、往時は12坊を持ち、七堂伽藍を備えていたと。天正9年(1581)の長宗我部元親軍の兵火で焼失し、現在の建物は嘉永2年(1849)に再建されたものと。 由霊山 慈尊院 三角寺(ゆれいざん じそんいん さんかくじ)宗派 高野山真言宗本尊 十一面観音創建 天平年間(730年‐749年)開祖 行基 所在 愛媛県四国中央市金田町三角寺75 本尊真言 ”おん まか きゃろにきゃ そわか” 本堂内部。本尊の木造十一面観世音立像は子安観音として厄除観音としても信仰されている。妊婦が寺の庫裡にある杓子をひそかに持出し、出産の際に床下へ置くと安産になるという言い習わしがあり、寺では妊婦が杓子を持ち帰るのを見てみぬふりをし、妊婦は安産の後は新しい杓子を持ってお礼まいりにくる習慣がある。また、子宝に恵まれない女性は裏の入口でしゃもじをもらい、自宅に持ち帰り使用して子授けを祈願する。60年に一度申子の年に開帳される秘仏。延命地蔵菩薩。 ズームにすると顔の表情が変わった様に見えるのであった。こちらも延命地蔵菩薩? 境内の最奥から。 賓頭盧様。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 三角寺を後にすると、山道から川之江の街並み、丸住製紙の煙突が。車窓から川之江城の姿を楽しむ。------------------------------------------------------------------------------------------------67番札所:大興寺 66番札所:雲辺寺はロープウェイで上るとの事で、雨の中では下界の景色も見えないので次回に回す事を決断して67番札所:大興寺を目指す。大興寺前の田園の長閑な風景の中で素朴な地蔵様が迎えてくれた。地蔵さんの下にも、「へんろ道」の表示と手の形の矢印が刻まれていた。小さな橋を渡ると山門(仁王門)が。 仁王門は文保2年(1318年)建立。高さ3.14m、伝・運慶作(実際の作者は不明)、鎌倉時代の作。四国霊場八十八ヶ所の中では最大の仁王像。阿行像。吽行像。 大興寺 境内配置案内図。小さい川をわたり仁王門をくぐると石段があり上り詰めると右に鐘楼左に手水舎、正面に本堂、本堂の左奥に弘法大師堂、右奥に天台大師堂がある。本堂の向って左側が納経所になっている。境内の東側に一段高くなって熊野三所権現をまつる祠があると。修行大師像。 寺伝によれば、天平14年(742年)に東大寺の末寺として建立された。その後、最澄の影響で天台宗となる。火災により焼失していた諸堂を、嵯峨天皇の勅願によって空海(弘法大師)が弘仁13年(822年)に現在地より北西約1kmに熊野三所権現を鎮護する霊場として再興し、また、本尊に薬師如来と脇侍に不動明王と毘沙門天を刻んで堂宇を建立し安置したと。その後も東大寺の末寺として真言宗24坊、天台宗12坊の僧堂が連ね、空海と最澄の教えを修行する道場として栄えた。 しかし、天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって本堂以外を焼失。慶長年間(1596年 - 1615年)に再建されたものの再び焼亡、本堂は寛保元年(1741年)に建立された。 また、境内南側の熊野三所権現は明治の神仏分離までは当寺住職が別当を兼ねていた。 昭和の末までは、地元でもっぱら、小松尾寺と呼ばれていたと。 山門を入ってすぐ右にある小松尾寺のカヤ:樹高20m、胸高幹周3.92m、樹齢およそ1200年。香川県指定自然記念物。境内への階段が前方に。 石の五重塔。 境内。 正面に本堂。手水場。 鐘楼。 水子供養地蔵尊。 本堂。寛保元年(1741年)に再建されたもの。61年に一度の本尊開帳が2017年3月26日から5月8日まで行われた。宮殿には本尊および脇仏・不動明王立像と毘沙門天立像が扉は別であるが同じ空間に入れられている。また両脇陣には十二神将が6体ずつに分けられ置かれている。また宮殿背後の左側には閻魔大王とその脇侍がいると。小松尾山 不動光院 大興寺(こまつおざん ふどうこういん だいこうじ)宗派 真言宗善通寺派本尊 薬師如来創建 弘仁13年(822年)開祖 空海(弘法大師) 所在 香川県三豊市山本町辻字小松尾4209番地本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか” 本堂には多くのロウソクが灯されていた。 赤いローソクは「七日燈明」で有名なのだと。境内の銀杏も黄葉を始めていた。 大興寺の県指定有形文化財。 弘法太師堂。 太師堂内部。 水子供養地蔵尊と鐘楼。 天台太師堂。 境内の池と池に浮かぶ「金仏地蔵」 穏やかな表情の地蔵様。 寺務所入口の黒門。 境内の連絡回廊。 三鈷の松越しの本堂。 三つの葉のある三鈷の松葉を財布に入れておくと、金運がアップするといわれていると。仁王門を境内側から。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 「おへんろさん休憩所」の案内の看板を見かけたが、結局横を通らなかった。
2017.11.04
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク25番札所:津照寺最御崎寺から室戸スカイラインを下っていくと眼下に土佐湾に拡がる室戸漁港、室戸岬町が。再び55号線を高知方面に右折し土佐湾沿いを15分ほど進む。室戸漁業市場の近くに津照寺の仮駐車場があるとのことであったが、駐車場に辿り着くのに苦労。何とか車を駐め遍路開始。第25番札所:津照寺の山門。 柱に屋根がついた簡素な門。津照寺 案内板。ここは高知県、徳島県にはなかったこの様な案内板。津照寺 境内配置案内図。麓の山門を入ると右側に大師堂と納経所が、左側に一木神社がある。正面の石段で山を登っていくと途中に鐘楼門がある。125段を登り詰めると右手に手水鉢があり、コンクリート造りの本堂が建っている。ここからは室津の港や太平洋が一望できる。右側に太師堂。125段の階段を上る。 写経大師尊像。 丸みを帯びた唐風:鐘楼門本堂へ上る125段の石段の途中にあり、上層は鐘楼堂で両側に仁王像を安置した変形の二重門である。 赤の涎掛けを掛けた地蔵が並ぶ。右に曲がった階段を上ると本堂が姿を現した。手水場。 本堂は近代的なコンクリート造り(昭和50年竣工)。室津港を見下ろす小山の上に所在する「津照寺」は、地元では、津寺(つてら)と呼ばれている。大同2年(807)に、この地を巡錫した弘法大師は、海の安全大漁を祈願して開基された。船人、漁師の信仰は厚い。別名「楫(かじ)取り地蔵」とも言われていると。山の形が、地蔵菩薩の持つ宝珠に似ているところから、霊地とし、地蔵菩薩像を刻まれ本尊として、宝珠山真言院津照寺と号された。長宗我部氏の庇護を受けて津寺村と称して七町余り地高を有していた。その後山内氏が入国して、更に、一町五反余りの田畑を寄贈され、寺院の運営も藩営とされ隆盛を極めていた。明治の改革により寺領は、政府に没収され小作農民に払い下げとなり、寺は廃寺とされた。明治16年寺名復興を許され、現在に至っていると。宝珠山 真言院 津照寺(ほうしゅざん しんごんいん しんしょうじ)宗派 真言宗豊山派本尊 延命楫取地蔵菩薩創建 大同2年(807年)開祖 空海(弘法大師)所在 高知県室戸市室津2652本尊真言 ”おん かかかびさんまえい そわか” 本堂内部。 本堂の屋根の「宝珠」と「水煙」。境内から太平洋そして室津港を望む。 本堂建立記念碑。 本堂から階段を下りる。素朴な地蔵尊。 漁業殉職者霊塔。毎年、5月中旬には漁業殉職者慰霊祭と共に盛大な大祭が催されている、主催者である室戸漁業協同組合が時代の流れと共に高知県漁業協同組合に統合され室戸支所になっても祭りは変わらず連綿として受け継がれていると。一木神社。普請奉行として室津港改修工事を担当した一木政利(一木権兵衛政利)は、工事が難行したために、一身を海神にささげることを約して竣工を祈願し、改修が終わると約を違えず人柱となったといい、地元町民がその死を悼んで、延宝7年(1679年)に港を見下ろす山の中腹に神として祀るようになったと。稲荷大明神。 太師堂。 太師堂入口横にはこの寺を描いたこの地域の子供の絵画が展示されていた。 六地蔵。 納経所。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 三地蔵菩薩。 室津港工事のお邪魔石。この大石は室津港の工事中、邪魔になり、工事は難航したと。これを助けたのがご本尊。お陰で室津港は竣工する。住民は感謝して境内に安置したと。 ------------------------------------------------------------------------------------------------26番札所:金剛頂寺 室戸岬の北西、土佐湾に小さく突き出た行当岬(ぎょうどうみさき)。その頂きに緑に囲まれた26番札所:金剛頂寺(こんごうちょうじ)があった。仁王門に向かって61段の厄坂を上る。数え年で61歳は男女の本厄の歳。厄坂ということで、蓮の花の形が埋め込まれた石段にお賽銭の1円玉数え切れないほど置かれていた。 仁王門には3mほどもあろう巨大な草履が。阿形像。プラスチック製?の如き表面。吽形像。 金剛頂寺 境内配置案内図。駐車場から厄坂の石段を上って途中に山門があり、さらに上り詰めると広い境内に入る。すぐ左側に手水場が、左に回り込むと大師堂がある。正面奥に間口の広い鉄筋コンクリートの本堂が建っている。本堂手前に鐘楼、数々の重文が収蔵されている霊宝殿は本堂の左にあり地下でつながっている。境内伽藍エリアから左方向に数段下りると小さな池があり中に弁財天の祠がある。その先に行くと宿坊があり、さらに奥の本坊と通路でつながっていて、通路の本坊側に護摩堂がある。本坊の下段に魚籃観音石像がある。大師堂に向って右前に一粒万倍の釜がある。納経所は本堂の手前左にある。智光上人廟は鐘楼と本堂の間から山林の中に入った奥にあり、その途中にヤッコソウの自生地がある。 階段の上に本堂が見えて来た。 境内。階段上の参道中央に石灯籠そしてその先に大きな屋根を持つ本堂。 手水場。太師堂。左手にかって、「大師と天狗が問答をした」とのレリーフそして空海の歌碑が。 空海の歌碑。『法性の 室戸といえど 我が住めば 有為の浪風 よせぬ日ぞなき』香炉堂と大香炉そして奥に本堂。 本堂。 寺伝によれば、平城天皇の勅願により大同2年(807年)に空海(弘法大師)が薬師如来を刻んで創建し「金剛定寺」と号し女人禁制であったという。次の嵯峨天皇が「金剛頂寺」の勅額を下賜し、その寺名に改められた。『南路志』(江戸時代の土佐の地誌)所収の寺記によれば、大同元年、唐から帰国途次の空海が当地に立ち寄り創建したとされる。同寺記によれば、さらに次の淳和天皇も勅願所とし、住職も十代まで勅命によって選定されたという。延久2年(1070年)の「金剛頂寺解案」(こんごうちょうじげあん、東寺百合文書のうち)によれば、当時の寺領は現・室戸市のほぼ全域にわたっていた。室町時代には堂宇を罹災したが、長宗我部元親が寺領を寄進しているほか、土佐藩主山内家の祈願所とされ、復興は早く整備された。その後、明治32年(1899年)の火災で伽藍を焼失し、本堂ほか現存する堂宇は再建であると。 「瑠璃光殿」と書かれた扁額。薬師如来が祀られた本堂は「瑠璃光(如来)殿」とも呼ばれる。幸い開帳されていたので、本尊と脇仏、十二神将像などを拝観できた。龍頭山 光明院 金剛頂寺(りゅうずざん こうみょういん こんごうちょうじ)宗派 真言宗豊山派本尊 薬師如来創建 大同2年(807年)開祖 嵯峨天皇(勅願)、空海(弘法大師)所在 高知県室戸市元乙523本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか” 捕鯨八千頭精霊供養塔。さすが高知県。鐘楼。 霊寳殿。正倉院を思わせる形状を持った霊寳殿には、国指定重要文化財7点をはじめとした、平安朝古器、仏具、仏画、古文書など50点あまりの寺宝を後世に伝えるため、厳重に保管されていると。 一粒万倍の釜。大師が粥を炊くと一粒が万倍になったと伝えられる釜。稚児大師尊像。左に「がん封じ乃椿御霊木」。その名の通り、撫でると癌封じなるといわれる霊木。「がん封じ乃椿」金剛頂寺の御詠歌が刻まれていた。 『往生に 望みをかける 極楽は 月の傾く 西寺のそら』大師立像。大師様がこの場所で天狗と問答して、天狗を足摺岬に封印したそうで、足摺岬方向に睨みをきかせる方向に建てられているのだと。接待所。檀家の方達が当番制で美味しいふかし芋とお茶がお接待されると。しかしこの日は雨のためか、それとも時間が遅かったのか既に閉店。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 時間的にこの日の遍路はこの寺で終了とし、今宵の宿の高知駅近くのビジネスホテルに向かう。55号線で奈半利を通過中に、大きな看板に目がとまりました。 『なはり 素通り禁止八策』と。遍路道中に学んだ土佐弁講座。「いお」は魚?道路沿いの何カ所かに津波避難センターが。 無事、高知駅近くのビジネスホテルにチェックイン。近くの鮮魚店に入りこの日の反省会。ビール片手に名物「かつおの藁焼き」や高知名物を注文。 締めは徳島ラーメン。ニンニクたっぷりの味噌味ラーメンを完食したのであった。
2017.11.03
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク23番札所:薬王寺平等寺から再び55号線を利用して、海岸線の日和佐道路を30分程走ると阿波徳島「発心の道場」の最後を飾る23番札所:薬王寺に到着。仁王門。 阿形像。 吽形像。 薬王寺 境内配置案内図。国道に面して立つ単層の仁王門を入ると左手から石段が始まる。33段の女厄坂の途中右手に鐘楼があり、石段が終わる絵馬堂を通って42段の男厄坂につながる。上りきったところに本堂が建つ。本堂から左に進むと大師堂があって、その向かいに十王堂と地蔵堂がある。本堂の裏には肺大師があり、右手の還暦厄坂を上ると本寺の象徴と言ってもよい瑜祇塔が特異な姿を見せている。瑜祇塔の階下は戒壇めぐりで薬師三尊が祀られ、1階は五智如来を祀っていて展示室にもなっており、2階は展望台で、見学は有料である。なお、納経所は石段を下りて、仁王門に向かって右手および、鐘楼の段にある本坊入口近くの2か所あると。本堂に向かう参道には石灯籠が並んでいた。 女厄坂の途中右手に鐘楼。厄除けの鐘であり厄年の数だけ打つと 厄が鳴り落ちるといわれていますが・・・・。33段の女厄坂を上ると絵馬堂。絵馬堂にある大香炉は、昭和34年のもの。前方に42段の男厄坂。手水場。魚籃観音。中国、唐の時代、仏が美しい乙女の姿で現れ、竹籠に入れた魚を売りながら仏法を広めたという故事に基づいて造形されたもの。本堂。ご本尊は前向きと後ろ向きの二体の薬師如来像が祀られていると。 1188年の火災の時、ご本尊薬師如来は光を放ち 自ら王厨子山に避難しその後本堂が再建され新しい本尊を安置すると王厨子山に避難していたご本尊薬師如来が再び 光を放って戻り、後ろ向きに本堂に入ったといわれ「後ろ向き薬師」として伝えられていると。 医王山 無量寿院 薬王寺(いおうざん むりょうじゅいん やくおうじ)宗派 高野山真言宗本尊 薬師如来創建 神亀3年(726年)開祖 行基 所在 徳島県海部郡美波町奥河内寺前285番地1 本尊真言 ”おん ころころ せんだり まとうぎ そわか” 鎮守堂。肺大師。本堂裏手にあり、ラジウムを含んだ霊水で肺病などに効能があるという。秋篠宮悠仁親王さま御誕生 慶祝 お印「高野槇」。太師堂。宝形造り本瓦葺、4間半四方 文政3年(1820年)の建立。堂内部。弘法大師坐像〔天文19年(1550年)造〕を中心に龍猛・龍智・金剛智・不空・善無畏・一行・恵果(各二尺)の真言宗八祖坐像をお祀りすると。大師堂から左に進むと地蔵堂。入母屋造り 本瓦葺、正面2間・奥行き3間。地蔵堂内部。地蔵菩薩半迦座像3尺5寸、聖観音立像2尺、弥勒菩薩、不動明王立像2尺をお祀りすると。十王道堂前の灯籠群。生前の罪を閻魔大王中心に十人の王で裁く、冥界の裁判官が祀られているのだと。薬王寺の象徴と言ってもよい朱色と白の鮮やかな美しい宝塔・瑜祇塔(ゆぎとう)が特異な姿を見せてくれた 昭和38年(1963年)の建立。宝形屋根をもつ宝塔形の塔。銅板葺・高さ35m。還暦厄坂。鎮守堂。左:賓頭盧尊者 右:寿老人。賓頭盧尊者は十六羅漢の第一尊者。衰老の僧形として安置されるが、文殊菩薩ともいう 。除病の撫仏(なでぼとけ)として、広く寺院の外縁に安置されている。寿老人は阿波七福神霊場の一つ・『富貴長寿の神様』無病息災・厄除・長寿を授けて下さる神様で、財宝に恵まれ地位名誉を得て、健康で長生きさせて下さる。霊牌堂。大楠は美波町指定天然記念物。 境内から「日和佐湾」、「日和佐城」とを眺める景色もなかなかの見もの。「日和佐城」は一昨年秋に日本百名城スタンプラリーで立ち寄った城。本坊。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ------------------------------------------------------------------------------------------------24番札所:最御崎寺23番札所:薬王寺をあとにし、55号線・土佐東街道を、太平洋を左手に見ながら室戸岬を目指してひたすら進む。途中、右手にちょっと変ったモスクの様な建物海陽町観光協会の建物が。 広場の片隅に「すこやかに さわやかに おおらかに 平成九年 尾崎将司」と白く彫られた石碑が。尾崎将司は1947年 尾崎家の長男としてこの近くの徳島県海部郡宍喰町に生まれます。1964年 地元の徳島海南高校のエース打者として春の選抜高校野球にて全国制覇し、翌年に西鉄ライオンズに入団。わずか4年で退団してプロゴルファーに転身。1971年 プロデビュー2年目の9月には「日本プロ」で初優勝を飾ります。1973年 年間5勝を挙げて初めて賞金王となり、ジャンボ全盛期時代に突入。1996年 11月17日、ダンロップ・フェニックス3連覇でプロ通算「100勝」を達成。これを記念して建てられた石碑とのこと。更に太平洋と海岸の景色を楽しみながら室戸岬へ。前方に「夫婦岩」が。室戸岬町と佐喜浜町の境にある鹿岡鼻にあり、海中からまっすぐに立つ二つの岩柱。夫婦岩は全国各地にあるが規模が大きい部類に入るのだと。そして室戸岬に近づくと、右手前方に白き青年大師像(明星来影寺)が。この像は昭和59年11月、大師の徳を慕う信者や一般の方々の寄進によって建立されたもので、青年空海の力強い生き方がしっかりときざみ込まれていると。台座の5mを含んだ像全体の高さは21m。前回訪ねたので今回はパス。そして室戸岬を通過し、室戸スカイライン方面へ右折。急勾配を上りきった先、左カーブを曲がった先が駐車場。高知県の遍路の最初の寺:薬王寺からここまで約80km、90分のドライブ。駐車場から山門までは比較的緩やかな上り坂。山門まで徒歩約3分で左手に山門が見えて来た。いよいよ今回のお遍路の高知県の最初の寺・24番札所:最御崎寺へ。 お迎え大師像。仁王門前にも修行大師像が。楼門式仁王門。表と裏に、仁王像が2対立つ。表の阿形像。表の吽形像。最御崎寺 境内配置案内図。門を入ると右に袴腰造の鐘楼堂、虚空蔵菩薩石像、多宝塔などがあり、左に土俵、大師堂がある。この先左手に手水場、納経所があり正面に本堂が建っている。本堂裏には霊宝殿、聖天堂、護摩堂などが並び、最奥の宿坊である遍路センターの建物内には遍路休憩所がある。岩見重太郎・薄田隼人塚。 豊臣秀吉に馬廻衆として仕えたと伝わる。秀頼には三千石で仕えていた。剣の道を極めるため、諸国を武者修行の旅に出たが、天橋立での仇討の助っ人をした話や信州松本の吉田村で狒々退治をした話など著名。大阪冬の陣と言われる慶長19年11月には大いに戦って有名をとどろかし、さらに翌元和元年五月の夏の陣では、ついに惜しくも戦死したと。無縁仏塚か?境内。正面に本堂。島田信保大僧正像。大正13年大学を卒業し、東京・無量寺で修行した後、四国霊場第二十四番札所最御崎寺の住職を拝命。昭和58年真言宗豊山派大僧正。平成元(1989)年2月最御崎寺名誉住職。住職在任中、寺院の整備に尽力する一方、幅広い分野で地元室戸市の文化、社会福祉の向上に貢献したと。相撲練習場。現在でも使われているのであろうか?十一面観音像。 更に境内を本堂に向かって進む。右に鐘楼堂。 鐘楼堂正面。袴腰造、慶安元年(1648年)、土佐藩2代目藩主・山内忠義によって寄進された。昭和59年に新しい鐘楼堂が建立された為、現在は使われていない模様。鐘石。くぼみに石が置いてあり、この石で大きな石を叩くと、澄んだ音色がするのです。するとこの音が冥土まで届くのだと。一種の冥土への通信装置なのだと。 香炉堂と大香炉。弘法大師像。虚空蔵菩薩。子育地蔵尊。 手水場。多宝塔とその前に十三重塔。昭和55年建立。RC造。但し外装である扉、連子窓、組物、彫刻、軒下一式などは木材で造作。内装も四天柱・側柱を除き木造であろう。一辺5.5m、高さ約20m。 本堂。空海は都での学問に飽き足りず、19歳の延暦11年(792年)頃からの約5年間、山林修行を続けた。空海の『三教指帰』には「土州室戸崎に勤念す」(原文は漢文)とあり、室戸岬にほど近い洞窟(御厨人窟)で虚空蔵求聞持法に励んだとされる。寺伝によれば空海は大同2年(807年)に、嵯峨天皇の勅願を受けて本尊の虚空蔵菩薩を刻み、本寺を開創したとされる。当初は奥の院四十寺のある四十寺山頂にあり、現在地に移ったのは寛徳年間(1044年 - 1055年)頃といわれていると。室戸山 明星院 最御崎寺(むろとざん みょうじょういん ほつみさきじ)宗派 真言宗豊山派本尊 虚空蔵菩薩(秘仏)創建 大同2年(807年)開祖 嵯峨天皇(勅願)、空海(弘法大師)所在 高知県室戸市室戸岬町4058-1 本尊真言 ”のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おんあり きゃまり ぼり そわか” 本堂内部。 本堂前からの境内。本堂裏の鐘楼。鐘を突くお遍路御夫妻の姿が。霊宝殿。毎年11月の第1日曜日に公開され、重要文化財の宝物が拝観できると。合わせて、室戸岬灯台と室戸岬特別地域気象観測所(旧室戸岬測候所)の公開があるのだと。六地蔵。仁王門を境内から。大師堂。大師像を拝顔できました。 大師堂の脇に眼病平癒の「一畑薬師」が勧請されていた。 納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 仁王門を出て最御崎寺をあとにし、徒歩にて2分程の室戸岬灯台を訪ねた。 周辺は、室戸阿南海岸国定公園に指定され、太平洋を望む風光明媚の地。光達距離26.5海里(約49km)は日本一。また、日本に5箇所しかない直径2.6メートルの第一等フレネル式レンズを備えた第1等灯台でもあると。 最御崎寺の山門から駐車場に向かう帰路の参道の、山門の先の右側の低い塀に沿って、吉井勇の歌碑が建っていた。 『空海を たのみまいらす 心もて はるばる 土佐の国へ 来にけり』
2017.11.02
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク21番札所:太龍寺「西の高野」と言われる、四国霊場の中でも群を抜く、壮大なスケールを誇る「第21番札所 太龍寺」のロープウェイ駐車場に到着。ロープウェイが開通したのは、平成4年7月の事と。ロープウェイの駅の駐車場と入口の間に架かっている朱の「開運橋(かいうんばし)」と鷲の里駅(道の駅鷲の里・観光物産センターに併設)。 太龍寺ロープウェイ。 徳島県那賀郡那賀町の鷲の里駅(道の駅鷲の里に併設)から阿南市の太龍寺駅を結ぶ四国ケーブル(株)のロープウェイ路線。太竜寺山の山頂に所在する四国八十八箇所第21番札所の舎心山太龍寺への直通路であり、多くの参詣者で賑わう。従来同寺は徒歩でしか登れないうえ、遍路ころがしの一つと呼ばれる難所であったが、このロープウェイ路線の開通で多くの参拝者が容易に登れるようになったと。太龍寺の本堂が描かれた遍路ポスター。世界遺産への登録を目指していると。 太龍寺ロープウェイは全長2,775mで西日本最長。101人乗り、所要時間約10分。切符は往復2470円。 この日の往路は、我々2人と中年御夫婦の4名のみ。2つの山と1級河川・那珂川越えを行う珍しいロープウェイ 。支柱の数:2基 支柱の高さ:1号支柱42m 、2号支柱24m。ケーブルの直径:60mm。ゴンドラの床にグレーチングの設置された孔が。下方に那賀川(なかがわ)という川が綺麗に見えた。徳島県を流れる那賀川水系の本流で、一級河川。「山犬ヶ嶽の尾根に5匹の狼がおります。」とガイドから。石像だがここから何とか小さく見えたがかなりの大きさであると。いったいどうやって運んだのか。ガイドによるとこのロープウエイを使っての作業と。歩き遍路にはここは阿波の三難所と言われているところ。「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と。山犬ヶ嶽には、今から千二百年ほど前の平安時代に、 たくさんの日本オオカミ(山犬)の群れが暮らしていたそうで、 弘法大師 空海は、舎心ヶ嶽 岩上で百日間の修行中、 山々に響くオオカミの遠吠えを聞いたのだと。天気が良ければこの様にズームで。 【http://newsnaka.blog6.fc2.com/blog-entry-109.html】より転載ロープウェイ山頂駅の太龍寺駅に到着。太龍寺 境内配置案内図。山門から長い参道を進むと右側に六角経蔵、護摩堂、持仏堂(本坊)、納経所があり、この先の石段を上って行く。石段の途中に鐘楼門が設けられている。上り詰めて左に進むと奥に本堂が建ち、その左後ろに求聞持堂がある。本堂とは逆の右に進むと橋を渡った先に大師堂拝殿がある。履物を脱いで拝殿回廊を回り込んで拝殿裏に行くと大師堂奥殿がある。多宝塔は本堂と大師堂の間の丘の上に立つ。なお、ロープウェイ利用の場合は、山頂駅舎出口の前の石段を上り詰めると本堂の正面にでる。山頂駅舎出口の前の石段を上る。 ロープウェイ利用者用の手水場。更に階段は続く。 旅友のSさんはご自分の年齢の「70歳・息災延命」の場所で記念写真を。しかし写真を見ると密かに1歳サバを読んでいた、いや逆サバ行為。人は誰でも年齢より若くありたいと願うもの。 そして本堂へ。空海(弘法大師)の24歳での著作である三教指帰(さんごうしいき)の序文に「阿國大瀧嶽に…勤念す」と記されており、大瀧嶽は現在の大竜寺山であると考えられている。19歳で都の大学での学問に見切りをつけて修行に入った空海が、現在の境内の600m ほど西にある舎心嶽の岩上で百日間の虚空蔵求聞持法を修したとされる。山号はその舎心嶽から、寺名は修行中の空海を守護した大龍(龍神)にちなんでいると。 延暦12年(793年)に桓武天皇の勅願によって堂塔が建立され、空海が虚空蔵菩薩像などを刻み安置したと伝えられている。皇室や武家からの信仰が篤く寺勢は栄えたが、天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失し衰退、その後も復興と荒廃を繰り返すが徳島藩主蜂須賀家の保護によって再建されたと。 舎心山 常住院 太龍寺(しゃしんざん じょうじゅういん たいりゅうじ)宗派 高野山真言宗本尊 虚空蔵菩薩 創建 延暦12年(793年)開祖 桓武天皇(勅願) 空海(弘法大師) 所在 徳島県阿南市加茂町龍山2本尊真言 ”のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おん あり きゃまり ぼり そわか” ご本尊の「虚空蔵菩薩」 と書かれた扁額。境内の多宝塔、観音堂へ向かう道。 弁財天堂。 多宝塔への階段を上る。 多宝塔。法界虚空蔵、金剛虚空蔵 宝光虚空蔵、蓮華虚空蔵、業用虚空蔵と五尊で一組の五大虚空蔵が奉安されていると。功徳は息災増益すなわち災を除き寿福を授ける尊像。特に天変地異の安穏を折り、60年に1度巡る辛酉歳の除災に祈願された。この多宝塔は江戸時代・文久元年(1861)辛酉歳に建立、銅瓦葺、高さ 約18m、一辺6.38m。天気が良ければ大鳴門橋が見えるのであったが、一面白の世界。 太師堂。 高野山奥の院を模倣し、拝殿の彫刻は四国八十八カ所中最も繊細な描写で中国の神話、民話が刻まれていると。太師堂内部。宗祖弘法大師傾が安置され、大師の十弟子が璧に描かれていた。奥殿 御影堂(みえいどう)御影堂内部。 中興堂。 長範僧正(第4世・平安後期)と亮山僧正(第22世・江戸前期)を祀っている。長年の歳月を経て、隣どうしに生えている杉と桧の根が共存した『異株同根』と呼ばれる樹。 岩肌に這う根の廻りにも小さな数々の仏像が。 龍美聖観音。 修行大師像。 相輪橖(そうりんとう)(江戸時代 文化13年 1816年)。相輪橖の建っている場所には興願寺に譲った三重塔が建っていたと。鐘楼門。鐘楼門内部には、綱がぶら下がっており、天井に掛かる鐘を鳴らすことが出来た。こちらが歩き遍路の境内への道。 この下に仁王門があったが様だが・・・・・。本坊、持仏堂と続く境内。 本坊は明治27年(1894)の火災により焼失し、再建されて現在に。寺務をかね寺の職員が生活する場所。持仏堂内部。龍天井。竹村松嶺による龍の絵が大廊下の天井に描かれていた。 護摩堂。 明治27年(1894)の大火災により焼失し、再建され現在に。護摩堂には「大龍嶽」と書かれた扁額が。護摩堂内部。本尊は興教大師作とつたわる不動明王。 六角経蔵。 仏教のすへての経典すなわち一切経を収蔵する施設のことでこの経蔵には版木印刷の一切潅が収められていると。以前の一切経は三代将軍徳川家光公の寄進による物であったが焼失し、現在の一切経及び経蔵は安政3年(1856)に収蔵されたものと。納経所前のハイビスカスも雨に濡れていた。 桔梗の花も。 納経所。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 ロープウェイ山頂駅に向かって下る。山城の如き城壁。 ロープウェイ山頂駅。 太龍寺から700m程登った山頂に祀られた修行大師像の写真が待合室に。あと1ヶ月もすればこの写真の如くの紅葉の世界が。帰りのロープウェイは我々二人占め。 蛇行する川を越えて大龍寺から下るロープウェイ 。道の駅出口に「コイの袋入れ 鯉の袋は再利用します」と。朱の開運橋の下の池には大きな鯉が泳いでいたので、この鯉を掴み取りして入れる袋?おそらく鯉の『餌』の袋入れであり『餌』の字が抜けている事間違いなし。------------------------------------------------------------------------------------------------22番札所:平等寺 195号線に戻り阿南市に向けて走り、途中右折し284号線に入り、木材置き場のあるT字路を右折し 住宅街を走ると左手に22番札所:平等寺の駐車場があった。ここまで14km弱、25分の行程。小雨の降り続く中遍路開始。階段の上の山門(仁王門)が迎えてくれた。入母屋造楼門、金剛力士(仁王)像を安置。 阿形像。 吽形像。平等寺 境内配置案内図。道路に面した13段の石段を上がって山門をくぐる。左に鐘楼があり、その先に大師堂、その横に小さな観音堂がある。右には納経所があり、その先に手水場が、左に鏡の井戸と地蔵石像の祠がある、正面に42段の男厄坂が左には緩やかな33段の女厄坂があり上り詰めると本堂が建つ。本堂左のほうに護摩堂がある。 仁王門を潜り境内を見る。 寺伝によれば、空海がこの地で厄除け祈願をすると五色の雲がわき金剛界大日如来の梵字が金色に現れた。さらに、その端相に加持すると薬師如来像が浮かび上がったので、錫杖でその場に井戸を掘ると乳白色の水が湧いた。その水で身を清め百日間の修行をした後薬師如来を刻み、堂を建てて本尊として安置したのに始まるという。寺名は、この霊水により、人々の平等な幸せを願い、また、一切の衆生を平等に救済する祈りを込めて「平等寺」と称されたという。七堂伽藍や12の末寺を持つまでに栄えたが、天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火で焼失した。享保年間(1716年 - 1736年)になって照俊阿闍梨によって再興されたと。修行大師像。 水子地蔵尊。 鐘楼。 本堂から仁王門へ数本の綱が渡されていた。「縁の綱」、「善の綱」と呼ばれこれに手を触れれば、本尊に触れたと同じ功徳(くどく)があるという。手水場。 緑の紅葉と洋蘭ががあしらわれていた。地蔵菩薩。 六地蔵。 その脇にも様々なお姿の石仏が。 白水の井戸。この水は万病に効くとの言い伝えがあると。 本堂への階段には1段1段に1円玉が奉納されていた。 これは厄年の人が、年齢の数だけ1円玉を置くことで、厄が落ちると言われているのだと。階段を上がり本堂に到着。 本堂を斜めから。 本堂前の花堂には多くの生花が奉納されていた。 本堂内部。 ご本尊の薬師如来像。 脇陣の不動明王坐像 。内陣の天井絵は四国八十八箇所の本尊を外陣の天井絵は多くの草花が描かれていた。 ご本尊「薬師如来」 と書かれた扁額。仁王門まで繋がれた綱。 本堂から眺める仁王門の背景の山が弘法大師が寝ているように見えるのだと。なるほど。米国の人類学者フレデリック・スタール( (Frederick Starr)博士(1858~1933年)が四国遍路でこの寺を訪れた際に残した資料が本堂に展示されていた。博士は文献に記録が残っている中で最も古い外国人遍路とされるのだと。大正6年&10年に歩き遍路を二度、大正10年の歩き遍路は35日で結願していると書かれていた。 英語で「南無大師遍照金剛」を意味する「To the Honor of Kobo Daishi」 とサイン入りで書かれていた。仁王門下に寺を後にする和服の女性群の姿が。午前中は、この方々が太子堂前の黄色のテントにて、お接待をしてくれていたのだと納経所の女性から。時間は既に12時過ぎ。もう少し早く辿り着けば良かったのだが・・・・。白水山・ミニ八十八ヶ所巡礼道。 護摩堂。 不動明王坐像、脇仏:聖徳太子・毘沙門天が鎮座。太師堂。 大師像を拝顔できた。 納経所前から太師堂、護摩堂を見る。 黄色のテントには人の姿はなし。御納経を頂く旅友Sさん。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。
2017.11.01
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