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今日・大晦日(おおみそか)は、1年の最後の日。もうすぐ今年2017年も終わります。 今年も正月飾りの準備をしました。まずはスーパーで鏡餅のお飾りセット付きを購入して来ました。中には一体型の樹脂に包まれた鏡餅、三方・御幣付き四方紅・扇・鶴水引飾り・ミカンなどがセットで入っていて至れり尽くせり。鏡型のパッケージの中に個包装された小餅が入っているはず。箱の組み立てマニュアルを参考に組み立てました。そしてウラジロ(裏白)とユズリハ(譲り葉)との上にダイダイ(橙)を。ウラジロは常緑葉であることから長寿を、ユズリハは新しい葉が出てきて初めて古い葉が落ちることから、次世代に家系を譲って絶やさないとの願いが込められています。ダイダイは、家が「代々」栄えるとの語呂から縁起ものとして使われるようになったのです。鏡餅とダイダイセットを床の間と神棚に。神棚も清掃し、新たな牛蒡注連も取り付けました。「注連縄」は、神聖な場所と他を区別する縄で、新年に神棚や家の門口に張り、紙垂(しで)・御幣(ごへい)を垂らすのは、その家が歳神(としがみ)さまをお祀りする神聖な場所であることを示すものなのです。 そして略式門松用の一組の松〈雄松と雌松〉を購入してきました。「輪飾り」という文字通り輪の形のしめ縄を松と一緒に。玄関には、今年は小さめの落ち着いた物を。玄関入口内部には、妻が正月飾りのセットを。破魔弓。羽子板。そして秋口から菜園で育ててきた、紅白の葉ボタンを玄関先に。我が部屋のカレンダーも2018年のものに。パソコン操作中も見える場所にも、西欧名画集のカレンダーを。テレビ台にも銀行で頂いた小さなカレンダーを。そして来たるべき新年はサラリーマンにとっては8日まで正月休みの大型連休になる方が多い事が解るのです。その年の世相を漢字一文字で表す師走恒例の「今年の漢字」が12月12日発表され、2017年は「北」に決まったと。北朝鮮のミサイル発射や核実験の強行、九州北部豪雨、北海道産のじゃがいもの不作、北海道日本ハムの大谷翔平選手や清宮幸太郎選手、競馬キタサンブラックなどが選ばれた理由として挙げられたのです。 【https://www.j-cast.com/2017/12/12316388.html】 より転載そして、私の今年の漢字は『動』でしょうか。41年間のサラリーマン生活を卒業し、今年は年金生活2年目でしたが趣味の養蜂、菜園そして海外旅行、四国八十八箇所巡り、寺社御朱印集めと「動」き回りそして時々卒業した会社の事業所支援や教育、と想いの外、活き活きとした毎日忙しい活「動」の1年となりました。年始から、今年も自分なりの価値観をもち、趣味やさまざまな活「動」に意欲的に行「動」し『アクティブ シニア ライフ』を維持しようと考えました。今年もサラリーマン生活ではあまり使わなかった?「脳」を使った気もなんとなくしますし、脳全体が復活し活性化した気もします。それなりにリズミカルでとてもよい時間を過ごせた気がしているのです。4月にはいつもの旅友とバルト三国を「動」き回って来ました。バルト三国は、バルト海の東岸、フィンランドの南に南北に並ぶ3つの国を指し、北から順に、エストニア、ラトビア、リトアニア。 バルト三国は近代以前はそれぞれ独自の歴史を歩んでいましたが,18世紀には次々と帝政ロシアの支配下となったのです。ロシア革命後の1918年に各国そろって独立を果たしたが,1940年に今度はソ連に併合される。それから半世紀後に東欧革命が勃発。1991年に再びバルト三国は独立を果たしたという「動」乱の歴史のある国々を巡ったのです。実はバルト三国とも人種が異なり、それぞれに違う言語を持つ国であることを知ったのです。全ての首都を順に訪れると、それぞれにたどって来た歴史が違うのだと強く感じられたのです。各首都にある歴史地区は世界遺産に登録されており、これらの旧市街を早朝から旅友と2人でスマホに道案内されながら「動」き回ったのです 更に9月には同じく旅友とベトナム縦断の旅を。ハノイ⇒ハロン湾⇒ダナン⇒ホイアン⇒ホーチミンとこれも「動」き回ったのです。ベトナム戦争の終結から40数年。GDPは1980年後半から10倍以上の伸びて「奇跡の復活」といわれるベトナムを肌で感じる事が出来たのです。日本とベトナムの関係は古く、1600年代前半に江戸幕府が鎖国するまで続けられていた朱印船貿易までさかのぼるとのこと。古い町並みがユネスコの世界文化遺産に登録されているホイアンには、400年前に1000人以上の日本人が移り住み「日本町」がつくられていたのだと。日本人が作ったといわれる「来遠橋」、通称「日本橋」がその象徴でありここも訪ねたのです。ベトナムの紙幣にも描かれた名所で、いまも多くの観光客で賑わっていたのです。隣の「中国町」は閑散としており、我々の現地ガイドも「日本のほうが親しみやすい」「中国のイメージはあまりよくないからね」と印象の差を語ってくれたが、我々に対するリップサービスの言葉だけではなさそうだと感じたのであった。そしてベトナムの道路を所狭しと「動」き回る自「動」二輪車バイクのカオスの世界に迷い込む毎日であったのです。そしておととし・一昨年末には、長男夫婦に第一子の女児が誕生し、岡山までジジババの顔を見せに行って来ました。3年前、一昨年と年末に孫の誕生が続き、年末は忙しく活発に「動」き回る日々となったのです。そして今年は久しぶりに「動」から「静」へと変化した落ち着いた年末となっていると夫婦共に感じているのです。・・が年末ジャンボの結果次第では一転して・・・????とも(笑)。 更にこのブログも今年2017年も皆勤賞?を達成できたのです。 アクセス数も145万回を示しています。毎日平均1500~2000回のアクセスを頂いているのです。 あくまでも備忘録・訪ねた場所の復習の場として『徒然なるままに、日暮らしパソコンに向かいて、心に映りゆく由無し事を そこはかとなく書きつくれば、 怪しうこそ物狂おしけれ』の精神で自分の足跡をと。 来年も、今年の学習や体験を活かしながら、更に活き活きと活「動」し、好奇心をいつまでも忘れずに、何か新しい事にも挑戦したいと大胆にも?思っているのです。昨年も同じ事を書いた記憶がありますが、慣れた日々の繰り返しではなく、新しい発想でいろんな『志』を『織』りなし更なる自分自身を『創』り『真』に、実り多き『樹』となるべく、老体にむち打ち更なる自分磨きの1年にもしたいと欲張って考えているのです。 この1年間 いろいろとお世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。皆様、良き新年をお迎え下さい。
2017.12.31
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今年も岡山の大切な方が、一斗缶入りの殻付き牡蠣を送って下さいました。昨日30日・18時前にクール宅急便で突然の襲来。宅急便のおじさんから「重いですよ」の言葉が。早速、開封して見ると岡山名産特選殻付牡蠣が、一斗缶にこれでもかと、入るだけ詰め込んでくれていました。 早速この日の夕食は殻付き生牡蠣を妻と堪能。この日はポン酢とケチャップで。妻の匠の技でアッと言う間に「オイスターバー」にいるような姿で食卓に。既に「牡蠣打ち」のプロ、 きちんと貝柱も外れて匠の技。 ずっしりと重く身入りのよい大きな牡蠣・「海のミルク」は真にミルキーそのもの。 ぷりっぷりっの生牡蠣を一口で含めば、まさに「口福」と言える瞬間がそこに。 白ワインならぬビールを片手にあっと言う間に完食したのです。 もちろん家族2人では食べきれませんので、我々夫婦それぞれのの知人、友人、そして子供に電話を掛け取りに来てもらったり届けに行ったり、慌ただしい、しかし贅沢な至福の時間を過ごしたのです。 そして牡蠣フライでも楽しませて頂きました。濃厚な味。我が菜園のブロッコリーも。Sさん、いつもいつもお心遣いありがとうございます。最近はお陰様で年末の我が家の恒例の(高齢の?)ビッグイベントとなりました。「口福」な「牡蠣タイム」を暫くは楽しませていただきます。良き新年をお迎え下さい。そして若い親子3人の「子守」もよろしくお願いいたします。
2017.12.31
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『鎌倉散策 目次』👈リンクこの日の晩秋の紅葉巡りの最後は、鎌倉の紅葉の穴場の妙本寺(みょうほんじ)へ。妙本寺は鎌倉市大町にあるの、日蓮宗の本山(霊跡寺院)。山号は長興山。前方に総門が見えた。妙本寺の総門の傍らには比企能員邸址の碑が。碑には「比企能員は頼朝の乳母・比企禅尼の養子であるが、禅尼とともにこの地に住した。この地を比企ヶ谷というのもこのことに基づく。能員の娘は頼家の寵愛を受け、若狭局と称しており、(頼家の)子の一幡を生む。建仁3年(1203)に頼家が病になると母の政子は関西の地頭職(じとうしき)を分け、頼家の弟千幡(せんまん、後の実朝)に授けようとした。能員はこれに怒り、密かに北条氏を討とうと謀をめぐらせたが、かえって北条氏のためにこの地において滅亡した」といった意味の言葉が刻まれているのだ。妙本寺比企谷幼稚園。昭和10年の頃、大正12年の関東大震災によって倒壊し、その復興を待ち望まれた、当時比企谷妙本寺の支院であった大円院境内に建築工事が始まり、昭和12年3月八角形の夢殿を模した見事な建物が完成された。これは、当時の比企谷妙本寺貫首島田勝存上人の発願による、宗教的情操を基盤とする幼児教育の殿堂、比企谷幼稚園で、昭和12年4月開園始業したと。妙本寺方丈門。妙本寺 案内図。本堂への階段を上る。階段上には鐘楼が。二天門前の紅葉。モミジが陽光に輝いていた。そしてその後ろに二天門の見事な彫刻が。この彫刻の前で手を拍つと龍が鳴き声をあげるという「鳴龍」の伝説も残されていると。二天門を正面から。仏教の守護神である四天王のうち、持国天と多聞天(毘沙門天)を安置していることから「二天門」と呼ばれている。2011年(平成23年)9月に保存修理が終わり、美しい姿が蘇っている。朱の門であるが、あいにく逆光であった。向かって右側が持国天。持国天は東方を守護。左側が多聞天。多聞天は南方を守護。ものすごい形相で邪鬼を踏みつけて。二天門を潜ると広い境内の先に大きな祖師堂が。境内左手にあるのが巨大な日蓮聖人銅像。二天門を祖師堂側から。妙本寺の祖師堂はその棟札から天保九年(1838)と推定されていると。桁行 (正面) 五間、梁間 (奥行) 六間で、瓦葺き入母屋造り。正面は約 18.7m、奥行きは 約 19.7mの堂々とした建造物。 軒の周りは、禅宗様で、尾垂木が上下二本でている二重尾垂木で、三手先の斗栱を柱の上とその中間(中備え)のも配している。斗栱の部材も大きい建物にふさわしく大型のもの。軒の周りは、禅宗様で、尾垂木が上下二本でている二重尾垂木で、三手先の斗栱を柱の上とその中間(中備え)のも配しています。斗栱の部材も大きい建物にふさわしく大型のもの。向背 (正面に突き出した屋根の部分) は海老虹梁や籠彫手挟、虹梁受けに花の籠彫り、中間に龍の丸彫、木鼻の獅子鼻・象鼻とするなど、彫り物に見るべきものも多々。祖師堂内部。祖師堂横にあったのが「万葉集研究遺跡」の石碑。竹御所が葬られたという新釈迦堂の供僧仙覚の万葉集研究を顕彰した碑。竹御所の墓(新釈迦堂)の入口に建てられている。竹御所とは鎌倉幕府第2代将軍源頼家の娘。政子の死後にその実質的な後継者となる。幕府関係者の中で唯一、源頼朝の血筋を引く生き残りである竹御所は、幕府の権威の象徴として御家人の尊敬を集め、彼らをまとめる役目を果たした人物と。1246年(寛元4年)、仙覚は四代将軍・藤原頼経の命により『万葉集』の校合を行い、1253年(建長5年)には後嵯峨上皇に奉献している。その後も研究を続け、1269年(文永6年)には『萬葉集註釈』(萬葉集抄、仙覚抄)を完成させたと。仙覚の生没年等の詳細は不明だが、妙本寺で滅んだ比企氏の出身とする説があると。祖師堂の回廊から鎌倉の紅葉の穴場のこの見事な紅葉を楽しむ。鎌倉最大級の木造仏堂である祖師堂周辺の紅葉の景色は圧巻。これ以上の言葉は邪魔。 祖師堂から二天門を。境内の横の銀杏の紅葉はこれからか。祖師堂横には比企一族の供養塔が建てられていた。『吾妻鏡』によれば、源頼朝の乳母を務めた比企禅尼は、1159年(平治元年)の「平治の乱」に敗れ、翌年伊豆国に流された頼朝を支え続け、1180年(治承4年)に源氏再興の挙兵を果たすまでの約20年の間、仕送りを続けていたという。そのため、比企禅尼の養子比企能員(ひきよしかず)は、頼朝の信任が厚く、二代将軍頼家の乳母夫となり、さらに娘の若狭局が頼家の側室となって一幡を出産するなど権力をつけ、北条氏と並ぶ存在となった。しかし、1203年(建仁3年)、比企能員は、北条時政によって暗殺され、比企一族も北条義時らによって攻められ滅亡したと。市指定 天然記念物の銀杏の老木。これも比企一族の墓であろうか?二天門を斜めから。そしてこの日の「昼間」の晩秋の鎌倉紅葉巡りの〆に再び二天門の紅葉を。そして再び鎌倉駅まで徒歩にて戻り、ここから江ノ電で長谷寺へ。そして「長谷寺の紅葉のライトアップ」を楽しんだのであった。 ・・・もどる・・・ --------晩秋の鎌倉紅葉巡り 完----------
2017.12.31
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『鎌倉散策 目次』👈リンク更に鎌倉散策を続け荏柄天神社(えがらてんじんしゃ)参道に到着。長治元年(1104年)に創建。源頼朝が鎌倉幕府開府にあたり鬼門の方向の守護社として社殿を造営、さらに徳川家康が豊臣秀吉の命で社殿の造営を行ったと。現在は菅原道真を祀る神社。荏柄天神社の石碑には、『「和名鈔」当郡に「荏草」と記せる郷名あり。今、その名を失すれども、当社付近の旧称なりしがごとし。草に「かや」の古訓あれば、「えがら」は「えがや」の転訛なるを、後、文字をさえ今のごとく改めしものか。社前の松並木を、古来「馬場」と称す。本社はもと、中央に管公(菅原道真)束帯の坐像、右方に天拝山祈誓の立像、左方に本地仏十一面観音の像を安置せしも、勧請の年代を伝へず。頼朝公はじめて大蔵の地に幕府を設けし時、当社を以て鬼門の鎮守となす。爾来、歴代将軍の尊奉せし所。天文年間(1532~1555年)、北条氏康社前に関を置き、関銭を取りて社料に供せしめし事あり。徳川氏の世には、鶴岡八幡宮造営の節毎にその余材残木を受けて、本社修造に抵(あ)つるを例とせしと云ふ。』と書かれていると。荏柄天神拝殿・本殿(重文)。寛永元年(1624年)に鶴岡八幡宮若宮の旧本殿を譲り受け移築されたと。社務所。ここ荏柄天神社は、 鎌倉を代表する学問の神様。荏柄天神社は、福岡市の太宰府天満宮、 京都市の北野天満宮とともに日本三天神に数えられている。お守りは守袋、梅守、祈願鉛筆、祈願絵馬 、祈願はちまきなど受験に欠かせない祈願グッズが各種揃っているのだ。 拝殿横の壁にはたくさんの合格祈願?の絵馬が。絵筆塚。平成元年(1989)には、清水崑の遺志を受け継いだ横山隆一をはじめ漫画家154人のカッパの絵を青銅にレリーフした筆形の「絵筆塚」を建立された。高さ3m20cm、最大直径1m、重さ800kgもあると。漫画家を目指す人にとっては、大きなパワーを得られる場所であると。カッパのレリーフが飾られた筆形の塚をズームで。 熊野権現社へ。二階堂の鎮守だった社で、1873年(明治6年)、荏柄天神社に合祀されたと。熊野権現社は山の洞穴内に鎮座。奥に熊野権現の石祠が。熊野三柱神である伊邪那岐命(イザナギノミコト)、伊邪那美命(イザナミノミコト)、天宇受売命(アメノウズメノミコト)が祀られているのだと。神輿庫。大銀杏。鎌倉では一番古い樹齢900年以上の銀杏の木と。境内には尾崎迷堂の句碑が、御神木の大銀杏の下に建てられていた。尾崎迷堂は、杉本寺の住職も勤めた僧侶。僧侶のかたわら俳句に精進し、土地の人々と俳句を通じて交流を深めた人物でると。句碑には「大慈咲き大悲さきたるさくらかな」と刻まれ、右大臣・実朝の姿が偲ばれる。裏面には「荏柄天満天神献詠 鎌倉右大臣 実朝の忌なりけり」と刻まれているのだと。荏柄天神本殿。三間社流造、銅板葺き。若宮旧本殿は正和4年(1315年)の鎌倉大火の後、翌正和5年(1316年)に建立された。記録によれば、中世、近世を通じてたびたび修理が行われているが、社殿全体が再建された記録はない。移築と度重なる修理を経ているとはいえ、鎌倉地方における中世建築の稀少な遺構の一つである。関東大震災でも被害を受け、幣殿と拝殿は震災以降の再建。次に近くにある鎌倉宮へ向かう。護良親王(もりながしんのう)を祭神とする神社。明治天皇から武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武の新政に尽力した親王の功を賛え、親王が捕えられていた寺の跡地に今の鎌倉宮が出来たのだと。 建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社。神社本庁の包括下には当初より入っていない単立神社。別名 大塔宮(おおとうのみや)。鎌倉宮・一&二の鳥居は全国的にも大変珍しい「白地に赤」の配色。白は「純真無垢、純粋」、赤は「赤誠・赤心、まごごろ」の意味が込められていると。 鎌倉宮 配置案内図。 拝殿への階段。祭神である護良親王は後醍醐天皇の皇子で、父とともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現したが、その後、足利尊氏との対立により足利方に捕えられて東光寺に幽閉され、建武2年(1335年)の中先代の乱の混乱の中で尊氏の弟の直義の命で、家来である淵辺義博(ふちべのよしひろ)によって殺められたのだと。階段の右横には「厄割り石」の置かれた祠が。拝殿の前に置かれてある「かわらけ」(有料)に息を吹きかけて身体の中の悪いものを移し、そのかわらけを地面に埋め込まれた「厄割り石」に投げて割ります。かわらけが割れることで厄払いになるといわれています。そして階段上に鎌倉宮 二の鳥居。手水舎。手の汚れを洗う場所とともに心の塵を洗いおとすこと、心の煩累(はんるい)を洗い去り浄める場所と。拝殿。鎌倉宮拝殿・本殿の裏側には、護良親王が幽閉されていたとされる土牢があるとのことであるが有料であった。拝殿向かって左の「南方社」と右の「村上社」の2つ境内社があり「村上社」の前には「撫で身代り」像が。「村上社」には、「元弘の変」において護良親王の下で戦い、親王の身代わりとなって自刃した村上義光(むらかみよしてる)が祀られていると。村上義光は、1333年(元弘3年)、窮地に立った護良親王を救うため「われこそは護良親王」と身代わりとなって自刃したという。2004年(平成16年)12月20日、台風で倒れた境内の樹齢103年の欅を使って彫られた像が村上社前に置かれたこの「撫で身代り」像。「撫で身代わり」と呼ばれ、病気や厄除けの身代わりにご利益があるとして多くの者が参拝しているのだ。撫でるとと体の悪いところを身代わりになってくれるとされると。私も頭と顔とお腹を丁寧に撫でたのでした。社務所入口門。社務所前より境内に向けて。社務所前の庭の紅葉を楽しむ。休憩所(太平殿)には鎌倉宮の獅子頭が展示されていた。そして拝観後、鎌倉宮からはバスに座って鎌倉駅まで戻る。更に頑張って駅前にある大巧寺を訪ねる。大巧寺は別名「おんめさま」とも呼ばれ、安産祈願の寺として知られている。「おんめさま」とは「お産女様」(おうめさま)が訛った言葉で、境内に祀られている「産女霊神」を指す。私も孫の誕生の前には安産祈祷と安産お守りを授かる為に何回か訪ねた寺。本堂。安産祈祷は毎朝住職が本堂で産婦の安産を祈願する祈祷で、出産予定日まで続けられる。産婦に授与される安産お守りはお札、腹帯守、麻紐、秘妙符から構成される。このうち、腹帯守は腹帯に入れるお守りで帯祝いの時に使う。また麻紐は産後、産婦の髪を結ぶお守りになる。秘妙符の中には粒が3つと折り紙が入っている。粒のうち1つは出産予定月の朔日に飲み、他の二つは陣痛が始まった際に飲む。折り紙は色によって性別を占うものといわれており、赤だと女子、白だと男子が生まれるという伝承があるのだと。犬はお産が軽く安産であるという伝承から、犬を縁起物として扱っている。このため戌の日は吉日として安産祈願者で混みあうことが多いと。来年は戌年でもあり参拝客が増えるのであろう。そして本覚寺(ほんがくじ)へ。日蓮宗の本山(由緒寺院)で山号は妙厳山。本尊は釈迦三尊像。身延山の久遠寺にあった日蓮の遺骨を分骨したため「東身延」とも呼ばれる。若宮大路に向けて入り口を作ってはいけない規則があったため、本覚寺は小町大路(辻説法通り)に入り口を向けているのだと。現在の本覚寺の山門がある場所の前には、夷堂と呼ばれる堂があったと。この夷堂は、源頼朝が鎌倉幕府の開幕の際に、幕府の裏鬼門(南西)にあたる方向の鎮守として建てたとされ、天台宗系のものであった。文永11年(1274年)に佐渡配流から帰った日蓮が一時、この夷堂に滞在し、辻説法などの拠点としていたとのこと。山門(仁王門)。江戸時代のもの。明治初期に三浦半島の寺院より移したという。巨大な仁王像 阿像。仁王像 吽像。手水舎。夷堂。前身となった天台宗の夷堂は、本覚寺の創建時に境内に移されたが、明治の神仏分離令によって寺とは分離され、地区の七面大明神、山王台権現を合祀して蛭子神社(ひるこじんじゃ 「蛭子」は「えびす」とも読む)となった。昭和56年(1981年)に本覚寺境内に再び夷堂が再建されたと。人形塚。毎年10月の第一日曜日に行われる人形供養は、「物を大切にする」という考え方から始められたものと。本堂で供養法要が行われた後、人形のお焚き上げがあるのだと。寺務所・僧坊。本堂。本堂は大正時代の創建。 何故か山門と本堂は一直線上にないのだ。 鐘楼 応永17年(1410年)銘の梵鐘。日出上人が木更津八幡宮の別当寺で法論に勝ち、従者に持ち帰らせたと伝えられていると。日蓮上人分骨堂とその前の紅葉。本堂右側にあるこの分骨堂には、日蓮上人の墓がある身延山から分骨された遺骨が安置されていると。 赤い帽子と前掛けをしている「しあわせ地蔵」が境内に。願い事をとなえながらその頭をなでると願いがかなうと言われていると。私もこの地蔵様にも「・・・・・」 と唱えながら。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.12.30
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『鎌倉散策 目次』👈リンク鎌倉歴史文化交流館から更に歩を進め小町通りを歩き右に曲がると鶴岡八幡宮の境内に到着。鶴岡八幡宮は、正月三が日の初詣客の数が、毎年、全国10位以内にランクインする全国有数の神社で、鎌倉を訪れる多くの人が立ち寄る、鎌倉観光のメッカ。鶴岡八幡宮 若宮大路 大鳥居(三の鳥居)。中央の段葛(だんかずら)は、神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮の参道、若宮大路のなかで、二の鳥居から鶴岡八幡宮までの車道より一段高い歩道をいう。終着点にはここ三の鳥居がある。2014年末(平成26年)の整備工事によって、桜の植え替えが行われ、樹齢5年程度の若い樹が移植されている。太鼓橋。三の鳥居を過ぎてすぐのところにある源平池にかかっている石橋。昔は、太鼓橋を一気に渡ると出世するという言い伝えがあったようだが、現在は柵が置かれ通行禁止になっている。私が子供の頃は、この橋を駆け上った記憶があるが。鶴岡八幡宮 境内案内図。 太鼓橋の右(東側)に北条政子が造ったと伝わる源平池の源氏池がある。今はその時期ではないが、源氏の象徴の「白」の蓮の花を植え、三つの島を配したと。三は産に通じ、子孫の繁栄を意味するのだと。現在も三つの島があり、写真右の島は旗上弁天社(はたあげべんてんしゃ)。ここには北条政子が平家の滅亡を祈願した弁財天座像が祀られていたと。旗上弁天社の紅葉も美しかった。源氏池に浮かぶ島のひとつにまつられている「旗上弁財天」は、鎌倉・江ノ島七福神の弁天様に指定されており、正月には七福神めぐりを楽しむ多くの人々で賑わうのだ。再び鶴岡八幡宮の参道に戻る。表参道を進むと、舞殿(下拝殿)が正面に。1193年に造営された舞殿は鶴岡八幡宮若宮の回廊跡に建っているのだ。ウィキペディアによると『義経の側室静御前は文治2年(1186年)3月に母の磯禅師とともに鎌倉に送られる。同年4月8日、静は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた。静は、しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しきと義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させるが、妻の北条政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡う でしょう」と取り成して命を助けた。『吾妻鏡』では、静の舞の場面を「誠にこれ社壇の壮観、梁塵(りょ うじん)ほとんど動くべし、上下みな興感を催す」と絶賛。この時、静は義経の子を妊娠していて、頼朝は女子なら助けるが、男子なら殺すと命じる。閏7月29日、 静は男子を産んだ。安達清常が赤子を受け取ろうとするが、静は泣き叫んで離さなかった。磯禅師が赤子 を取り上げて清常に渡し、赤子は由比ヶ浜に沈められた。 9月16日、静と磯禅師は京に帰された。憐れんだ政子と大姫が多くの重宝を持たせたという。その後の消 息は不明』と。左手に大きな手水舎。この日は舞殿で結婚式が行われていた。舞殿を回って前から。大石段の上が鶴岡八幡宮 本宮(上宮)。石段の上に立つ楼門にかけられている扁額(へんがく)の「八幡宮」の文字。「八」の文字をよく見ると、2羽の鳩の形をしている。鳩は八幡神の使いとされ、鶴岡八幡宮の境内にもたくさんの鳩がいて、大切にされているのだ。鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣した人の土産として有名な鳩サブレーは豊島屋の初代店主である久保田久次郎が鶴岡八幡宮を崇敬しており、本宮の掲額の「八」が鳩の向き合わせであることと、宮鳩が多数いるところから着想を得たためと言われているのだ。鎌倉幕府の三代将軍・源実朝が暗殺されたときに、暗殺者(実朝の甥の公暁)が、この木の陰に身を隠していたとの伝説から、「隠れ銀杏」とも呼ばれた大銀杏は、2010年3月の強風時に、惜しくも倒壊してしまったのだ。現在、親木から生えた若芽を育成し、大銀杏の再生をはかっているのだ。「がんばれ大イチョウ」の木札には子供達の様々な想いの書き込みが。「また歴史に残る大木になれ」とも。倒壊し切り倒され、根元の部分を移植された大銀杏の親木からも若木が芽生えて成長中でこの日は黄色く黄葉していた。鶴岡八幡宮 拝殿。中央からの撮影は禁止とのことで参拝の後に斜めから。宝物館手前には巨大な神輿が並んでいた。おみくじ・お守り・お札売り場。大石段を降り若宮の角を左折して進むとそこは柳原神池(やないはらしんち)。かつて、この辺りは「柳原」と呼ばれ、柳の名所となっていたと。「年経たる鶴ヶ岡辺の柳原青みにけりな春のしるしに」は、三代執権北条泰時が詠んだ歌といわれている。この日は柳では無くモミジの紅葉が美しかった。鶴亀石。白旗神社の手前には、「鶴亀石」という2つの大きな石が祀られていた。水で洗うと鶴と亀の模様が浮かび上がると言われる、なんとも縁起の良い石なのだと。雨の日には、鶴と亀の模様が浮かび上がるのであろうか?確認できないのが残念。ただ、触れるだけでもパワーがもらえる、あるいは良運が訪れるということで、触って帰る方も。そして私も二つの石を。「鶴岡八幡宮」の境内の一角にあるのが「白旗神社」。境内の中にあるため、独立した神社ではなく鶴岡八幡宮の摂社ということになっていると。白旗神社は、神奈川を中心に関東・中部・東北地方に70数か所あるらしい。しかし関西方面にはないとのことであるが。私の家から車で10分くらいに場所にも「相州藤沢 白旗神社」がある。藤沢宿西方面の総鎮守。 もとは相模一の宮の寒川神社の寒川比古命の分霊を祀り、寒川神社と呼ばれていたというが、その創建年は不明。寒川比古命と歴史上のヒーロー・源義経公をお祀りしている。のちに、奥州平泉で自刃した源義経を祭神として祀ったことから、白旗神社と呼ばれるようになった。 伝説によると、奥州平泉の衣川館で自刃した義経の首は、腰越の浜で首実検が行われた。その後捨てられた首は、潮にのって境川を上り、白旗神社近くに流れ着き、里人に洗い清められ葬られたと伝えられているのだ。 この鎌倉の白旗神社は源頼朝をご祭神としてお祀りしている神社である。白旗というと戦いにおいては降伏するときの旗のイメージが強いが、もともとは源氏の旗印。平家は赤旗。源平の戦いでは紅白別れての戦いだったと言うこと。運動会で紅白に別れるというのは、こういう習俗的なところが受け継がれているのだろう。紅葉を楽しみながら再び源平池方面に歩を進める。この辺りは紅葉がピーク。神苑ぼたん庭園は休園中であるとの表示が。畠山重忠邸址の石碑は、鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の東の鳥居を出たところに建てられていた。『吾妻鏡』の建久10年(1199年)の条には、「畠山次郎重忠の南御門宅」とあると。畠山重忠は、源頼朝に仕えた武将。頼朝の挙兵時には大庭景親に従ったが、間もなく頼朝に従い、頼朝の鎌倉入りでは先陣を勤めた。宇治川の合戦では、おぼれかけた大串重親を岸にほうり投げたといい、一ノ谷の合戦のひよどり越えでは、愛馬を背負っておりたという伝説が残ると。段葛の造営や佐助稲荷神社の建設に力を尽くしたが、頼朝死後、北条時政に騙され武蔵国二俣川(横浜市旭区)で最期を遂げたと。店の前庭の休憩場所には真っ赤な大きな蛇の目傘が。ここに座って暫し休みたかったが・・・・。源頼朝の墓所入口に到着。 建久9年(1199)12月27日源頼朝は、御家人の稲毛重成の亡妻の供養のために、相模川にかけた橋の完成祝いに出掛け、その帰り稲村ガ崎で落馬したのだ。その落馬が原因で、翌年の建久10年(1199)1月13日に53歳で亡くなり、大倉法華堂跡(現在の白旗神社)に葬むられたと。ややピンボケであるが、歌碑には「君出でて 民もしづまり 九重の塵も おさまる世とはなりけり」と書かれていた。歌は明治時代から昭和時代にかけての歴史学者、大森金五郎の作であると。現在の墓は白旗神社のすぐ横の階段を登った所にあり、江戸時代に島津氏によって建てられたもの。建久6年(1196)から頼朝が亡くなった正治元年(1199)までの3年間、鎌倉幕府の公式記録「吾妻鏡」から頼朝の死亡に関する記録が抜けている(仏事の記録はあり)のだと。そして頼朝の死は謎に包まれていると言われているのだと。源頼朝の墓 説明板。法華堂跡 石碑。法華堂跡は、大倉幕府跡の裏山にある源頼朝墓を中心とする史跡。治承4年(1180年)に平氏との富士川の合戦の後、鎌倉に戻った源頼朝が、鶴岡八幡宮の東側にある大蔵郷に建てた館が、大蔵御所でありこれが大倉幕府跡。法華堂とは、1189年(文治5年)、源頼朝が聖観音像を本尊として建立した持仏堂のこと。持仏堂は、頼朝の死後「法華堂」と呼ばれるようになり、現在、源頼朝墓が建てられているこの場所が法華堂の跡だといわれているのだ。源頼朝の墓へは、大倉山の南につくられたこの石段を上って行った。50段以上はあったのではないか。源頼朝の墓は大倉山の斜面の常緑樹を背景として、静かに佇んでいた。ボランティアと謂うオジサンから暫し源頼朝の墓についての説明を聞くが写真は写さないで欲しいと。法華堂跡(現在の白旗神社)と源頼朝の墓は、1927年、それぞれ国の史跡に指定された。その後、文化庁では調査の結果から法華堂と源頼朝の墓は同じものだった可能性が高いと判断し、範囲を少し広げて、2000年1月の官報で「法華堂跡(源頼朝墓)」とすることを発表したと。もしかしたらこの墓は単なる「記念碑」であり、源頼朝は法華堂跡すなわち白旗神社の地下に眠っているのかもしれないとも。高さ186cmの五層の石塔には多くの花が左右に手向けられていた。階段を下り左に曲がって進み島津忠久、大江広元、北条義時の墓に向かう。 南側から墓へ通じる階段を上る。鎌倉市雪ノ下3は鎌倉時代に大倉御所があり、その北側に源頼朝を葬った法華堂があった。寺院の堂舎は残っていないが、江戸時代に薩摩藩が再建した頼朝の墓があり、その東側の平場が第2代執権北条義時の墓所とされ、更にその奥の斜面に大江広元・季光、島津忠久の墓がある。左側が毛利秀光(伝大江広元の子),中央が大江広元,右が島津忠久(伝源頼朝の子)の墓と言われている。毛利季光墓毛利季光は、大江広元の四男。季光はその四男で毛利氏の祖である。相模国毛利庄を父から受け継いで毛利氏を称し、自身の武功によって安芸国吉田荘の地頭職を得た。ただ、季光は妻の実家である三浦氏の反乱に与して自害している三浦泰村の妹を妻とし、宝治合戦では三浦方につき、三浦一族と共に源頼朝の法華堂で自刃した。季光の娘は北条時頼の正室となっていたが、戦後離別したという。季光の墓は、1921年(大正10年)、鶴岡八幡宮西側の鶯ヶ谷の山にあったものが移されたといわれている。大江広元墓の石碑。大江広元は、源頼朝の政務の側近として「政所別当(長官)」を務めた人物。大江広元・季光、島津忠久の墓は崖に穿たれた石窟の中で、階段は下から別々にあるが、墓は同じ形式で3基並んでいた。島津忠久墓島津忠久は、九州島津氏の祖で、源頼朝の子ではないかとされているが定かではない。江戸時代には、島津藩主や家臣が墓参したという。現在の墓は、1779年(安永8年)に修造されたもので、源頼朝の墓とともに島津重豪が整備したものであると。墓から階段を降ると平場になっており、右側にやぐらが。中には墓石らしき物と共に、『三浦若狭守泰村外一統五百余人』と書かれた卒塔婆が立っていた。三浦若狭守泰村は、宝治元年(1247年)の宝治合戦で、北条軍と安達軍の前に大敗し、妻子一族郎党と共にこの鎌倉の法華堂で自害して果てた人物。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.12.29
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『鎌倉散策 目次』👈リンク銭洗弁財天を後にし、坂を下り右手に折れ更に進むと左手にあったのが佐助稲荷神社(さすけいなりじんじゃ)・下社。下社の内部。祭神は宇迦御魂命(うかのみたまのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、佐田彦命(さるたひこのみこと)、大宮女命(おおみやひめのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)。下社の横にあるのは十一面観世音菩薩が安置されている小さな祠。縁結びの神様であると。徳川時代、足柄郡の尼寺から縁あって当地に安置された木像十一面観音は、良縁にうすく諦めて仏門に入られた美しい尼姫君、赤松幸運(あかまつこううん)がこの世の若い男女に良縁あらんことをと祈りつつ彫られたと伝えられていると。更に真っ直ぐ進むと参道には数え切れないほどの朱色の鳥居が続いていた。鳥居は、神様の世界と人間の世界の結界の意味があり、朱色は魔除けの色とされ、多くの神社仏閣で用いられているのだ。異空間へ迷い込むが如し幻想的な光景。拝殿前の階段の両脇には佐助稲荷神社と書かれた幟が。社伝によると、平治の乱後に伊豆に配流された源頼朝の夢に、この神社の神霊が現れて挙兵を勧め、「前右兵衛権佐」だった頼朝を助けたため、この名が付けられたと。手水舎。佐助稲荷神社 拝殿。源頼朝を歴史的快挙に導いたという伝説から、鎌倉の最強の「出世稲荷」と言われているのだと。私もしっかりとお参りしては来ましたが??・・・・時遅し!!拝殿横にはこれも数え切れないほどの小さな狐様が奉納されていた。狐は穀物が実るころ、山から下りてきて人里に姿を現したので、神様のお使いとされたと言われているのだと。本殿に上る階段の横には真っ赤な幟がこれも両脇に。この階段の先には年代の古い稲荷様とお社が並んでいた。こちらも苔と稲荷様と銀杏が風景に溶け込んでいて、独特の雰囲気を感じられたのであった。拝殿の右奥にあるのは泉狐霊。霊狐泉のある稲荷山は、古くから麓の田畑を潤す水源であり、里人は、この生命の湧き水を「霊狐の神水」と呼んだのだと。拝殿脇の右階段を上り小さな本殿へ。本殿前にも無数の狐様が。苔むした岩に鎮座する可愛らしい狐様。拝殿前から朱の鳥居がトンネルの如く並ぶ参道を見る。いったい鳥居の数は?今も増え続けているのであろうが。佐助稲荷神社を後にし、民家の脇を歩いて行くと赤い実が撓わに付いたピラカンサスの巨木が。このトンネルの先は?この先の隧道が出来る以前の旧隧道か?紅葉を楽しみながら歩を進める。佐助隧道を歩く。そして鎌倉歴史文化交流館に立ち寄る。ここを訪ねるのは初めて。鎌倉歴史文化交流館入口。 企画展「甦る永福寺」を楽しむ。(館内は撮影禁止)。『永福寺は、奥州合戦等で命を落とした源義経や藤原泰衡らをはじめとする諸霊を供養するため、源頼朝が建立した寺院です。壮大華麗な大寺院として隆盛しましたが、室町時代の火災以降は再建されず、のちに廃寺となってしまいました。史跡永福寺跡の発掘調査は、昭和56年度に試掘調査を開始して以来、平成19年度まで長きにわたり実施してきました。その結果、それまで幻であった永福寺の姿が明らかとなりました。二階堂・阿弥陀堂・薬師堂が複廊で繋がり、翼廊・中門・釣殿といった寝殿造り風の建物と一体の建物群を構成していること、建物の前面には大きな池があり、橋が架けられていたこと、周囲の山にも人の手加わり、堀切や経塚がつくられていることなど、多くのことが解りました。』(上記と下の写真は鎌倉市HPよりの転載) 発掘調査の成果と最新のCG技術で再現された永福寺大伽藍は平等院鳳凰堂の如し。歴史文化交流館の庭の紅葉。ツワブキ(石蕗)の黄色の花も。葉は蕗(ふき)に似ている。名前は”つや”のある葉から”つやぶき”。それが変化して「つわぶき」になったのだと。そして次に鎌倉・鶴岡八幡宮に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.12.28
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『鎌倉散策 目次』👈リンク樹木の根が露わになった山道を上り切り、坂を下った場所にあったのが葛原岡神社(くずはらおかじんじゃ)。 葛原岡神社は、後醍醐天皇の側近・日野俊基(ひのとしもと)を祀る神社。明治天皇が日野俊基に従三位を贈り、1887年(明治20年)に創建された。日野俊基は荒廃した鎌倉幕府を倒すため、後醍醐天皇を中心としたクーデターを計画するが、事前に計画が漏れ、ここ葛原岡で切られることになった。現在では由比ガ浜地区の鎮守(ちんじゅ)として人々の信仰を集めていると。奥に本殿が。 手水場。魔去ル石葛原岡神社の「魔去ル石」は、「かわらけ」に魔が去るように願をかけて投げつける石。「魔が去る」が転じて「勝る」につながり、幸せを勝ち取ることができるという。藤原仲能の墓の碑。「此処は道智塚或は阿古耶尼(あこやに)の塚と伝へられしも 海蔵寺伝に拠り 藤原仲能の墓所と考察せらる 仲能は従五位下前能州大守にして鎌倉幕府評定衆たりしが 後年 海蔵寺中興の大檀越(檀家長)となり 建長八年(1256)十二月九日寂し 道智禅師と称(たた)へられしものの如く 其位牌同寺に現存す」意味は「この場所は、道智(どうち)の塚または阿古耶尼(あこやに)の塚であると伝えられていますが、海蔵(かいぞう)寺の伝えによりますと、藤原仲能(なかよし)の墓と考えられます。仲能(なかよし)は、鎌倉幕府の重臣でしたが、その後、海蔵寺の発展に尽くしました。 1256年12月9日死に、道智禅師と言われたらしく、その位牌(いはい)がこの寺に現存しております。」合鎚稲荷神社(あいづちいなりじんじゃ)。鎌倉時代の鍛冶職人(刀工)、五郎入道正宗に縁のある稲荷社だと。戦国時代、正宗の子孫は北条氏綱から無量寺ヶ谷に土地を与えられ、そこを屋敷とした。その屋敷跡とされる場所に大正時代に建てられたのが合鎚稲荷社だと。2013年(平成25年)に葛原岡神社へ移された(現在の建物は新たに造られたもの)。縁結び石縁結びの利益があり、良縁に恵まれるとされる「縁結び石」は平成22年冬に良縁の願いを広く叶えるために右「男石」、左「女石」に御霊をお迎えして祀ったと。社務所で縁結びのお守りを授かると赤い糸のついた五円玉が頂けると。それを自分の手で縁結び石のしめ縄にしっかりと結びつけるようだ。神社境内近くの公園の紅葉も見事。陽光が射し込み朱のカオスの世界を。銭洗い弁財天方面に向かうと右側にあるのが葛原岡神社の祭神である日野俊基の墓。日野俊基は、1324年(正中元年)、後醍醐天皇の倒幕計画に参加した罪で捕らえられ、日野資朝とともに鎌倉に護送された(正中の変)。この時俊基は許されたが、資朝は翌年佐渡に流された。後醍醐天皇は、万里小路宣房を鎌倉へ派遣し、「告文」をもって弁明したことにより罪に問われなかった。「告文」とは、天皇が告げ申す文で、武家に出すことは前代未聞だったと。1331年(元弘元年)、後醍醐天皇は再度倒幕計画を企てるが、これが露見し、日野俊基は再び捕らえられ、翌年6月3日、葛原ヶ岡で処刑された(元弘の変)。俊基は、鎌倉に入ることなく仮粧坂のここ葛原ヶ岡で斬首されたと伝えられている。同じ頃、佐渡に流されていた日野資朝も処刑され、後醍醐天皇は隠岐に流されたのだ。 「俊基朝臣墓所」と刻まれた石碑。ここは源氏山公園内。源氏山は白旗山または旗立山とよばれたこともあるようだ。緑豊かな自然に囲まれ、公園のすぐわきには、鎌倉の七切通しの一つであり、国の史跡でもある化粧坂切通し(けわいざかきりどうし)が。元弘3年(1333)5月18日、新田義貞の鎌倉攻めの時、激戦地となったつづら折の坂道である。わずか80m程の坂道であるが幕府軍の抵抗は激しく、新田軍は、4日後の21日になっても突破できなかったと。化粧坂切通しは、鎌倉七切通しの一つで、武蔵方面から葛原が岡を通って鎌倉へ入る切通し。現在でも現役の道であるが、もちろん!!舗装はされていなかった。源氏山公園広場に到着。源頼朝像。平安時代の、後三年の役(1083~1087)に源頼朝の先祖である源頼義(八幡太郎)は、陸奥の豪族・安倍氏の討伐に出陣。その時、ここ源氏山の山上に白幡を立てて、氏神の岩清水八幡宮に戦勝を祈願し、出征した。源頼朝も此れに習って、平家追討の時、この山頂で、源氏の戦勝を祈願したと言われていると。昭和40年に出来たこの源氏山公園。桜(4月)、紫陽花(6月)、紅葉・さざんか(11月)の時期が美しく人気の公園である。それにしても優しい顔の源頼朝像なのであった。源頼朝像の先の高台のモミジは紅葉の真っ盛りであった。暫し紅葉の風景を追いかける。サザンカもモミジ葉を背景に。紅葉のプロセスが解る姿。朱の滝の如し。ピンクのサザンカの花も青空に映えて。そして坂を下って行くと右手に銭洗弁財天入口が。 銭洗弁財天宇賀福神社は、お金を洗うと何倍にも増えて戻ってくるといわれる霊水「銭洗水」が湧く神社。銭洗水は境内の洞窟(奥宮)で湧き、ご利益にあずかろうと多くの参拝客が訪れる。 また、弁財天の縁日である巳の日は特にご利益があるとされ、一段と賑わいを見せる。平安末期、鎌倉は災害が続き貧困にあえぐ庶民のために,源頼朝が世の救済を祈願した処。巳の年の文治元年(1185)の巳の月、巳の日の巳の刻、宇賀福神から「この地に湧き出す水で神仏を供養せよ、そうすれば天下泰平の世が訪れる」と源頼朝の夢にお告げがあり、そこで源頼朝はこの地に社を建てて宇賀福神を祀った。その後、世の中の混乱は収まったと伝えられている。この話が発展していつの頃からか、その霊水でお金を洗うと倍になると言う信仰が生まれた。鎌倉五名水の一つである。洞窟の口もとに社があり、社は宇賀福神で洞窟の中の社は銭洗弁財天。四方を急峻な崖で囲まれており、入り口は隧道になっている。銭洗弁財天 境内案内図。奥宮への入り口 。宇賀神と弁財天が祀られている洞窟前のお参りどころ。本宮。日本神話に登場する水の神様・市杵島姫命が祀られていると。大きな外置屋根付香炉からは線香の煙がモウモウと。奥宮。宇賀神と弁財天が祀られている洞窟。ここで湧き出る霊水は「銭洗水」と呼ばれる鎌倉五名水のひとつ。この水でお金を清めると、心の不浄も清められ金運上昇のご利益があるとされている。また、洗ったお金はすぐに使うほどご利益が大きいとも。弁財天の縁日である巳の日は特にご利益があるとされ、一段と賑わいを見せると。子供達が楽しそうにお金を洗っていた。私???も持ち金全部を。七福神社。商売繁盛のご利益があると。さらにその奥に見える社は、下之水神宮。この地から湧き出る霊水の守護神として、「水波売神(みずはのめのかみ)」という水の神様が祀られていると。社の脇には、岩壁から水が湧き出ていた。一条の滝・滝口をズームで。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.12.27
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『鎌倉散策 目次』👈リンク円覚寺の拝観を終え、県道を左手に進む。200メートルほど行くと右手に東慶寺があり、さらに200メートル程真っ直ぐに進むと、横須賀線の踏切が見えて来た。その50メートル程手前の右手に浄智寺への道が。浄智寺 MAP。浄智寺惣門(高麗門)「寶所在近」の文字が掲げられた惣門。高麗門は2本の本柱の上に切妻の屋根をのせ、本柱の後ろに控柱を立てて、両柱間に小さな切妻屋根を付けた形状の門。その前の池には苔むした石の反橋がかかり、その脇に鎌倉十井のひとつ「甘露ノ井」がある。杉林に囲まれた参道は鬱蒼としていて、その先に鎌倉では珍しい唐様の鐘楼門(山門)が。手前の鎌倉石の階段も美しく、すり減った鎌倉石が歴史を刻む古刹の佇まいをみせてくれていた。入山のチケットを購入し浄智寺境内へ。浄智寺は、鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院。臨済宗円覚寺派に属する。鎌倉五山第4位。山号を金宝山(きんぽうざん)と称する。中世から江戸時代にかけて「金宝山」と「金峰山」が混用されてきたと。本尊は阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来の三世仏で、それぞれ過去・現在・未来を象徴。境内は「浄智寺境内」として国の史跡に指定されているのである。2007年に再建された高麗門・鐘楼門は「山居幽勝」の額が掲げられ、花頭窓のある上層には1649年(慶安2年)の梵鐘が吊るされている。曇華殿(どんげでん)と呼ばれる仏殿。本属は珍しく室町期作の木像三世仏坐像で県指定重要文化財。向かって左から阿弥陀・釈迦・弥勒の各如来で、過去・現在・ 未来の時を代表しているのだと。鎌倉地方に多い衣の裾を台座に長くたらした様式が見どころと。鎌倉仏の特徴をよく表しているとのこと。脇にも仏像が。左が二祖国師・孤雲懐奘禅師真像?右は宗覚禅師像か?曇華殿前の境内には散り落ちた銀杏の葉が一面に。丸い石のオブジェは、世界平和の碑。こちらの銀杏の老木にはまだ真っ黄色の葉が残り陽光を浴びて輝いていた。陽光の当たり方でここまで落葉の時期が違うのか?人間も同じかとふと。曇華殿裏の竹林。寺の裏手には谷戸が広がり、鎌倉ならではのやぐらも見ることが出来た。 そしてやぐらの中には墓石が並んでいた。 かつて、水を貯めていた横井戸。 東慶寺奥の墓地の峰まで最短距離でトンネルを掘ろうとしたらしいのだと。狸塚。浄智寺に狸が三匹いるのだ。田舎の宿屋や酒屋、一杯飲屋の店頭に置かれている「信楽」風の陶器。大きな一体が親爺、一粒種の子供がその足下に一体そしてその前に母親が。背後には穴が開いていて、此処が狸家族の棲家のよう。ネット情報によると『浄智寺裏山には、タヌキやハクビシンが生息していて、時々、車にはねられたりして死んでいる。そんな動物たちを葬ったのが狸塚。』と。布袋様への参拝路の小さな素掘りトンネル。素掘りのトンネル内の階段を上る。トンネルを出ると右手に美しい紅葉が迎えてくれた。陽光も射し込んで。江ノ島鎌倉七福神、布袋尊。裏手には谷戸に江ノ島鎌倉七福神のひとり、愛嬌のある布袋尊が。この布袋様は鎌倉七福神の一神。参拝客に撫でられたお腹と胸は黒光り。そして私も布袋様のお腹を撫でて、その後自らのお腹にも手を。しかし決して腹黒にはならぬようにと戒めつつ。境内裏手の紅葉を暫し楽しむ。 そして珍しいものを発見。三角カラーコーンには地蔵様の姿が。調べてみると『2015年に行われた「鎌倉のお寺さんに地蔵コーンを寄進した~い」プロジェクト(http://iikuni-kamakura.jp/pj/IknT4514023)』活動の品と。客殿から庭への眺めも絶景。浄智寺の紅葉もこの週が見納めか。棟門。書院から出口に向かうところにある門。2本の柱と控え柱に屋根がのり扉の付いた棟門。棟門前の渋柿。扉に葵の紋が付いているが、どうやら家康公がちょくちょく旧鎌倉郡の野庭城~玉縄城周辺に鷹狩に来た際に、浄智寺に山門を寄進したそうで、それ以来、葵紋の使用を許されたのだと。棟門前からの境内。浄智寺境内の今年の紅葉散策もこれが見納め。浄智寺は葛原岡ハイキングコース登山道への入り口となっていた。鐘楼門を横目に裏山に進んで行く。竹塀( 建仁寺垣)と門。こちらは民家の門か?美しい淡いピンクのサザンカの花。皇帝ダリアと紅葉。急な山道に差し掛かる前に見かけた大変趣のある門。こちらは濃いピンクのサザンカの花。葛原岡神社への標識。木々の根っこが露出して、ここが階段の如き細い山道を上って行った。 更に急な坂道を上り終わり、今度は坂を下って行くと真っ黄色な銀杏の大木が迎えてくれたのであった。
2017.12.26
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今年も九州・佐賀・伊万里にお住まいの親友が天然牡蠣がを送って下さいました。天然牡蠣ですのでやや小ぶり、殻が厚いですが、その分美味が濃縮されているのです。天然牡蠣(岩牡蠣)は深場に棲んでいるので敵も多く、殻もごつごつした非常に厚い殻となるとのこと。一方真牡蠣は浅瀬に棲んでいて殻も岩牡蠣に比べると薄いのだと。何年ものなのでしょうか? そして早速妻が匠の技で殻を開け、もちろん生牡蠣を楽しんだのです。ケチャップとレモン汁を軽く掛け、口に入れると海の潮の香りがパーと拡がったのです。。天然ものの方がコクがあり濃厚。養殖ものもクリーミーでもちろん美味ですが、天然ものと比べると少しあっさりとした?印象を受けるのです。次回は焼き牡蛎、それとも牡蠣フライで、いやいやまだまだ生牡蠣でと。そして近くに住む孫達にもと。そして同じ日に、これも毎年の事ですが妻が購入した活き「松葉ガニ」が到着。これもクール宅急便で送られて来た、発泡スチロールの蓋を開けると、身動きせず。長旅で「活き」松葉ガニではなくなってしまっているのかと思いましたが、その内に妻から動き出したと。顔をズームで、やや不気味な姿。TAGには「島根県・隠岐 松葉ガニ」の品質保証書?がしっかりと取り付けられていました。箱の中には(株)丸八水産のパンフレットも。『松葉ガニや越前ガニは、そのズワイガニ(本ズワイガニ)を水揚げ産地によって呼び分けた名前で、種類としてはズワイガニであるとのこと。松葉ガニは、山陰地方の京都府から島根県の漁港で水揚げされる雄蟹ズワイガニ。越前ガニは、越前地方(福井県)の漁港で水揚げされる雄ズワイガニであると。ズワイガニの別名で特に有名なのが、松葉ガニと越前ガニだが、その他、石川県の加賀・能登地方で水揚げされる加能ガニ、北海道で水揚げされる北海松葉ガニ、山形県の庄内地方で水揚げされるヨシガニといった別名もあるのだと。 また、最近は漁港ごとで差別化(ブランド化)をはかるために、松葉ガニの中でも呼び名が細分化されており、香住ガニ・間人ガニ(たいざガニ)・柴山ガニ・津居山ガニ・大善ガニという名で売り出しているところもある。 ズワイガニはオスとメスで大きさがかなり違うため、多くの漁港では性別でも違う名前が付けられており、オスには上記のような、松葉ガニ・越前ガニ・香住ガニ・間人ガニなど、メスにはメガニ・オヤガニ・コッペガニ・コウバコガニ・セコガニ・セイコガニ・クロコといった名前が付けられている。』とネット情報から。そして妻が早速大きな鍋で塩茹でに。お皿の上で鎮座。不気味な顔からやや不満顔?に。そして妻と2人で、暫し会話も無く蟹を楽しむ沈黙の時間が。そして蟹味噌(蟹味噌様)もたっぷりと。蟹味噌の味は、ズバリ「蟹が濃縮」された味なのです。しかし折角の活きた松葉ガニですので、次回は刺身にも挑戦してみたいのです。そして先程、近くに住む孫達が活きた松葉ガニに御対面している姿の写真も娘から送られて来ました。4歳と2歳の孫達ですが、怖がることもなく笑顔の姿が。そして同じく茹でガニで楽しんだ模様。そして「2人にだいぶ取られました」との文字が。 そして昨夜は、牡蠣フライで楽しみました。更にクリームシチューも。牡蠣の他は全て我が菜園から。焼き牡蛎でも楽しみました。濃厚な焼き牡蛎も堪能させていただきました。Nさん、いつもいつもお心遣いありがとうございました。口に含んだ瞬間に広がる海の香り、内側から溢れるようなジューシーな食感、クリーミーで濃厚な味わいを多いに夫婦で楽しませていただきました。 そして、何と今度は塩釜産の殻付き牡蠣が元同僚からも。生食用のむき身の牡蠣も一緒に送って下さいました。袋には「万石浦(まんごくうら)」の文字が。この宮城県石巻市の万石浦(まんごくうら)湾や牡鹿半島に位置する荻浜湾は「世界の牡蠣王」と呼ばれた「宮城新昌」が牡蠣の種苗・養殖の最適地として研究・開発に取り組んだ地であり、この地で行った養殖研究は今や世界の食用牡蠣の80%が石巻にルーツを持つと言われるとのこと。早速、こちらも生でご馳走になりました。北上川の恵みで育つ石巻産の「万石浦カキ」はとろりととろけるようなミルキーそのもの。さすがに食べきれませんので、我が実家と姉にお裾分けしたのでした。Tさん、いつもいつもそしていつまでもお心遣いありがとうございました。
2017.12.25
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『鎌倉散策 目次』👈リンク円覚寺境内の最奥?の黄梅院(おうばいいん)まで行きここから引き返す。右手に仏日庵(ぶつにちあん)。8代執権北条時宗の廟所(開基塔)。9代執権貞時・14代執権高時も合葬されている。本尊は地蔵菩薩。北条氏滅亡後は衰退したが、室町時代に鶴隠周音が再興して塔頭とした。本堂には地蔵菩薩坐像(鎌倉地蔵霊場十四番)と鶴隠周音像を安置。開基廟には十一面観音坐像(鎌倉観音霊場第三十三番)と北条時宗・貞時・高時の木像を安置。再び正続院(しょうぞくいん)・舎利殿入口まで戻る。正続院は開山である無学祖元(仏光国師)の塔所。舎利殿の他、その奥に開山堂(非公開)が。右に禅堂(正法眼堂)がある。禅堂は関東大震災で倒壊したのち1930年に再建したもの。奥の舎利殿(国宝)はかなり頭でっかちな建物。手前に正続院の唐門。今年の国宝・舎利殿の特別公開は11月3日を含めた3日間行われたようである。方丈(ほうじょう)。方丈は元来は寺の住持の住む建物を指すが、現在では各種儀式・行事に用いられる建物となっていると。方丈 百観音。江戸時代、拙叟尊者(せっそうそんじゃ)が境域に岩窟をうがって百体の観音像を祀ったことに由緒を発す。その後荒廃したが、明治21年渋川禅師が発願して西国三十三体の観音像を新らたに刻み、補陀落迦観自在窟と 名づけて境内の一部に安置した。百観音霊場の由来は、養老二年(718)徳道上人が開設した西国三十三観音霊場と、鎌倉時代、観音信仰に篤かった源頼朝が開いた坂東三十三観音霊場と、その後に出来た秩父三十四観音霊場の総称とされていると。西国33+板東33+秩父34=100観音であるようだ。昭和五十八年この地に移し多くの人々に参詣して頂くことになったと。円覚寺派宗務本所。方丈の唐門。天保十年 (1839) の建立で、桁行きはおよそ3.3m。彫刻が見事。唐破風の懸魚には菊の花と葉、大瓶束の両側には亀に波、その上には雲形が彫られている。台輪と虹梁の間には鳥と松などが見られ、対する奥側には龍が。両扉にある龍・雲・波濤の彫り物も見事。方丈は書院や庫裏と言った建物で構成されているようだ。方丈唐門手前の紅葉。仏殿横に安置されていた比較的小さな鐘。この鐘は本来は何処にあった鐘なのであろうか?居士林前の紅葉も見事。陽光がここにも射し込み赤の世界が拡がっていた。石仏も紅葉の美しさに感嘆の表情を。赤の輝きをズームで。再び選仏場。座禅道場である選仏場内部。内部には薬師如来立像(南北朝時代)を安置。仏殿側から三門(山門)。仏殿正面。仏殿の釈迦如来像。天井に描かれた白龍図。仏殿内部の仏像。右が無学祖元禅師座像、左が達磨大師座像と説明板から。三門(山門)を境内入口側から。天明5年(1785年)、大用国師誠拙周樗が再建したものと。「円覚興聖禅寺」の額字は伏見上皇の筆。楼上には十一面観音、十六羅漢像などを安置。弁天堂・鐘楼へ続く階段はかなり急。弁天堂。北条貞時は、洪鐘鋳造の成功に感謝して弁天堂を建立。江ノ島にあった弁財天が円覚寺の鎮守として祀られた。弁財天は弘法大師の作ともいわれ、江ノ島の弁財天とは夫婦弁天と呼ばれている。弁天堂 内部。鐘楼。梵鐘は、1301年(正安3年)の刻銘のあるもので、「洪鐘」(おおがね)と呼ばれている。大旦那は九代執権北条貞時で、鋳物師は物部国光。総高259.4cm、口径142cmで、鎌倉時代の代表的な形態を表している(鎌倉で最大の梵鐘)。昭和28年11月14日、建長寺の梵鐘とともに国宝に指定されていると。眼下に東慶寺が。この後訪れるつもりであったが紅葉は既に終わっているようであったので止めることを決めた。円覚寺総門下の紅葉を再び。ズームでこれでもかと。白鷺池の逆さモミジは、陽光そして青空を背景に輝きが増していた。円覚寺から踏切を渡り浄智寺に向かう。そして振り返って。いやここは未だ円覚寺境内。そして次の訪問地の浄智寺に向かう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.12.24
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『鎌倉散策 目次』👈リンクブログアップが遅くなりましたが、今月上旬に晩秋の鎌倉紅葉巡りに行って来ました。小田急線、JR東海道線、横須賀線を乗り継いで8時前に北鎌倉駅に到着。下車するとホームは通学の学生で溢れていました。そして円覚寺総門下に。円覚寺は、鎌倉市山ノ内にある寺院。山号を瑞鹿山(ずいろくさん)と称し、正式には瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)と号する。臨済宗円覚寺派の大本山であり、鎌倉五山第二位に列せられる。本尊は宝冠釈迦如来、開基は北条時宗、開山は無学祖元である。調べてみると、新たに寺院を建立することを「開山(かいさん)」といい、その初代住職のことも同じく「開山」と呼ぶ。その際に経済的、政治的援助をした人物、つまりいわゆるパトロンのことを「開基(かいき)」と呼ぶとのこと。なお、寺名は「えんがくじ」と濁音で読むのが正式であると。階段下の紅葉。漸くモミジ葉に朝の陽光が。しかし未だ総門は閉門中。しばし円覚寺前を散策。いや下記の如くここも境内である事を知ったのであったが。踏切を渡り山門に向かってシャッターを押す。総門前の白鷺池(びゃくろち)の水面に映る逆さモミジ。横須賀線の踏切を渡った向かい側に位置する池で、円覚寺境内の一部であると。明治時代、軍港横須賀に通じる鉄道(現・JR横須賀線)の建設にあたって、無理やり円覚寺境内に線路を通過させたため、このような位置関係になっているのだと。「白鷺池」の名前は、開山無学祖元が鎌倉入りした際に、鶴岡八幡宮の神の使いが白鷺に身を変えて案内したという故事に因むという。総門前の階段を清掃する僧侶の姿が。陽光が更にモミジに射し入って来て美しさを増す。円覚寺の総門には、山号の「瑞鹿山」(ずいろくさん)の額が掲げられている。鎌倉時代当時、ここには縁起物(瑞獣、ずいじゅう)とされる希少生物・白鹿が群れを成して生息していたことによるもの(瑞鹿山→めでたい鹿の山)らしい。そして定刻の8時に開門。先程階段を清掃していた僧侶が門を開けてくれた。チケット売り場で拝観料300円を支払い入山。総門を円覚寺境内側から。絵になる光景。円覚寺境内MAP。円覚寺山門。山門前の左の階段に進む。こちらの階段にも清掃する僧侶の姿が。桂昌院の背の山の上部の紅葉は既に終わっていた。選仏場。元禄12年(1699年)建立の茅葺き屋根の建物。坐禅道場である。内部には薬師如来立像(南北朝時代)を安置する。仏殿が再建されるまでは、この堂が仏殿を兼ねていたと。選仏場の角のモミジの紅葉。居士林(こじりん)前。夢窓疎石の直弟子であった円覚寺56世曇芳周応(どんぽうしゅうおう)の塔頭で正式には済蔭庵(さいいんあん)と言うと。 現在は禅道場「居士林」として在家の禅道場として有名。 居士(こじ)とは在家の禅の修行者のこと。円覚寺の奥に向かう境内参道を進む。寿徳庵(じゅとくあん)に向かう階段途中の紅葉。第66世月潭中円(げったんちゅうえん)の塔所。山号は南山。本尊は聖観音。正面に仏日庵、そしてその前の見事な紅葉が見えて来た。妙香池(みょうこうち)、その左上が正伝庵(しょうでんあん)。妙香池は夢窓疎石作と伝える庭園の遺構。正伝庵は第24世明巌正因の塔所。本尊は宝冠釈迦如来。方丈庭園。方丈背後のこの庭園には心字池が配されている。心という字をかたどっていることからこのように呼ばれ、禅宗様式の庭となっていると。舎利殿への入口の紅葉。続燈庵(ぞくとうあん)入口。第30世大喜法忻(だいきほうきん)の塔所。山号は万富山。本尊は観音菩薩。黄梅院(おうばいいん)入口、山門。第15世夢窓疎石(夢窓国師)の塔所。山号は伝衣山。本尊は千手観音。文和3年(1354年)、華厳塔(三重塔)の跡地に夢窓の弟子の方外宏遠が開創。聖観音堂。美男蔓(ビナンカズラ)、実蔓(サネカズラ)の実。キイチゴを大きくしたような真っ赤な丸い集合果。瑞々しく旨そうであるが食べられるのであろうか?境内の立像仏。こうありたいと。こういうあなたでも。黄梅院の山門から仏日庵方面を。 ・・・つづく・・・
2017.12.23
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『鎌倉散策 目次』👈リンク箱根、江の島探索でブログ掲載の順序が逆になってしまいましたが、12月4日に鎌倉の紅葉散策に行って来ました。そしてこの日の最後の訪問場所は11月25日(土)~12月10日(日)まで行われていた長谷寺の紅葉ライトアップ。到着時間はまだ明るい16時。大きな提灯と「門かぶりの松」が迎えてくれました。山門の親柱は直径40センチもある四脚門で、鎌倉市内の四脚門では建長寺、円覚寺、妙本寺に次ぐ大きさ。長谷寺は、浄土宗系統の単立寺院。山号を海光山、院号を慈照院と称し、長谷観音と通称されている。本尊は十一面観音、開山は僧侶の徳道上人とされる。坂東三十三箇所観音霊場の第四番札所である。伝承では長谷寺の創建は奈良時代とされているが、中世以前の沿革は明確でなく、創建の正確な時期や経緯についても解明されていない。寺伝によれば、天平8年(736年)、大和の長谷寺(奈良県桜井市)の開基である徳道を藤原房前が招請し、十一面観音像を本尊として開山したという。山門に巨大な赤い提灯が掛かっていて、長谷寺と白抜きで書かれて遠くから目を引くのです。チケットを購入し、暫しチケット売り場の裏の喫茶店で暗くなるのを待つ。そして16:30になり入山。長谷寺境内案内図。ライトアップまで境内散策。工事中の為か大黒堂の入り口近くにいつもある「さわり大黒天」の姿はなかった。堂内にあった大黒様。こちらは弁天堂の福徳弁財天。書院の枯山水庭園。そして点灯開始は16:40。暗くなるにつれて境内の庭園の妙智池と放生池の2つの池の逆さモミジが美しさを増して来た。放生池のライトアップされたモミジを別の角度から。階段を上り地蔵堂前まで。地蔵堂裏に安置された無数の小さな地蔵(千体地蔵)も美しくライトアップされて。更に観音堂のある上の境内に向けて階段を上っていくと、モミジ葉の間からブルーの濃い光が。ブルーにライトアップされた鐘楼は神秘的な光景。ブルーの阿弥陀堂の中に黄金色の阿弥陀如来様の姿が。ここ長谷寺の阿弥陀堂に安置されている「阿弥陀如来像」は、源頼朝が42歳の厄除けのために建立したという伝承から「厄除阿弥陀」と呼ばれ、青く光る扁額にも。鎌倉六阿弥陀の一つ。この「阿弥陀如来像」は、もとは廃寺となった誓願寺の本尊だったと。当初の阿弥陀堂は、現在の地蔵堂付近にあったとのこと。観音堂も青く染められて。長谷寺の本尊は、「木造十一面観音」。721年(養老5年)、開山の徳道の願いによって、稽文会(けいもんえ)と稽主勲(けいしゅくん)という二人の仏師が、一本のクスノキから二体の十一面観音像を彫り上げたと。一体は奈良の長谷寺に安置されたが、もう一体は「有縁の地に出現して人々を救うように!」という願いから、行基によって海に投げ入れられたのだと。その観音像が15年後、三浦半島の長井の浦に流れ着いたことから鎌倉に遷座されたのだと伝えられているのだと。しかし、現在安置されている「十一面観音像」は、徳道の時代のものとは言い難く、室町時代以降の作と考えられると。「十一面観音像」は、高さ9.18メートルで日本最大級。オレンジと青のコラボ。空も青く染まって。釈迦如来座像を正面から。ブルーに光る観音堂を背景に横から。反対側から。釈迦如来坐像その四隅に仏教の守護神・四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)が。四天王は怒気すさまじい形相で邪鬼を踏みつけて、お釈迦様の東西南北を護っている。増長天(ぞうじょうてん、ぞうちょうてん)は、四天王の一体、南方を護る守護神。経蔵手前の紅葉。見晴台からの由比ヶ浜海岸、材木座海岸そして海の向こうにリビエラ逗子マリーナが。再び観音堂の青き輝き。経蔵奥の竹林も美しくライトアップ。これこそ日本だけしか見ることが出来ない世界か。材木座海岸の灯りを背景に水子塚。青の世界の中に吸い込まれるが如し。観音ミュージアム入口にあった金色の観音様はやさしい微笑みで。ライトアップの影も美しく。再び観音堂を大きな石灯籠の前から。老松もブルーに染められて。かきがら稲荷。長谷寺の境内にある稲荷神社で、本尊の観音像が海を漂っている際、像に不着して当地に導いたという「かきがら稲荷大明神」を祀っている。階段を下りながら宝生池を見下ろす。再び宝生池を覗き込むが如きモミジ。地蔵も可愛らしく。3人仲良く。こちらは1人であるが笑顔で。妙智池とその池の麓に立つ石灯籠。最後に再び宝生池の逆さ紅葉を今年の見納めに。完全に暗くなり水面の逆さ紅葉も輝きを増していた。そして長谷寺を出て再び山門と松の緑が輝くライトアップを。強大な提灯も更に赤の輝きを増して。長谷観音バス停からJR藤沢行きのバスに乗り帰路に。そして藤沢駅南口ロータリーのイルミネーション。木々は太い幹の部分のみ。 その後ろに青のイルミネーションが輝く。地上の植栽も様々な色に輝いていた。2階コンコースに上がって。青のイルミネーションが輝いていた。今や冬のイルミネーションに欠かせない「青色発光ダイオード」。2014年のノーベル物理学賞は、この青色に人生を捧げた男達に輝いたのだ。世界が「青」を求めてから、実現するまでにかかった時間は確か30年以上。そして小田急線に乗り帰宅の途へ。
2017.12.22
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これも12月上旬の事ですが、自宅から車で10分ほどの場所にある俣野別邸庭園に紅葉見物に行って来ました。俣野別邸庭園は旧住友家俣野別邸とも呼ばれ、1939年(昭和14年)に当時の住友家当主であった16代住友吉左衞門が発注した住宅で、住友家の東京本宅の別邸として現在の東俣野町の丘陵地に建築されたもの。庭園詳細MAP。北口駐車場に車を駐め俣野別邸への細い坂道を上り散策開始。11月27日~12月17日まで行われている「もみじ祭り」のポスター。もみじ祭りの間には、いろいろな催しが行われるようであった。。歩道脇には真っ黄色に色づいた木々が。山吹であろうか?邸宅への階段を上る。1998年ごろまでは住友家に縁の者が生活していたが、2000年に相続税として国に物納され、政府に所有権が移った。2004年7月に国の重要文化財に指定され、保存と一般公開に向けて2008年1月から修復工事が進められていたが、2009年3月15日に焼失。その後、建物を再建したこの本邸(俣野別邸)が平成29年4月より開館したのである。邸宅の裏に回ると庭の隅には真っ赤なモミジが。もみじ坂そして休憩棟方面に歩を進める。葉の茎も赤くなった山漆の紅葉。緑と黄色の黄葉のコラボ。もみじ坂入口の真っ赤な紅葉。ズームで。陽光も射し込み黄色も負けじと。庭園広場の外れからの俣野別邸。見事な紅葉&黄葉の下を歩く。ナンテンの真っ赤な実。陽光に輝くモミジ葉が次々に目の前に。サザンカのピンクの花。更に陽光に輝く見事な色彩の中を歩く。真っ白な綿花が。白く柔らかな綿毛が盛上がって、一見花が咲いたように。ドウダンツツジの真っ赤な葉。山アザミであろうか?銀杏の老木も青空に映えて。ツワブキの花。ハナミズキの実も真っ赤。そして「もみじ祭り」の観賞を終え駐車場へ。そして駐車場脇の銀杏の大木の黄葉を最後に。そしてこの後、2人で孫の顔を見に。
2017.12.21
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そして帰路に江の島シーキャンドルのあるサムエル・コッキング苑に入場する。 明治時代の英国人貿易商「サムエル・コッキング」に由来した和洋折衷で昼間であれば南国ムード溢れる植物園。中国の伝統的な建築物「騁碧亭」(ていへきてい)も黄色のイルミネーションに囲まれ。ライトアップに朱の柱が輝いていた。更に近寄って。 黄色の光のトンネル。苑に入って直ぐの四角いモニュメント。紫のシャンデリアが美しく。光のトンネルと江の島シーキャンドル。光のトンネルの中に。 江の島シーキャンドルも定期的に色を変えて。赤から薄紫に。光のトンネルを江の島シーキャンドル側から。光のトンネルの中から江の島シーキャンドルを。 なかなか撮影するのは難しい。やはり三脚が必要であったが・・苑内は使用禁止?別の場所から。一面の青の世界。木道に沿って青の世界の中を。江の島シーキャンドルには上らなかった。そして帰路に。途中正面下にヨットハーバーの灯りが。再びみどりの広場に。黄色の広場に変身中。帰路も黄金の世界に迷い込む。ようやくイルミネーション撮影の要領も掴み始めたが・・・。江の島の猫もイルミネーションを見に来ていた。昔、我が家に来ていた野良猫「クロクン」の姿を想い出す。朱の鳥居と仲見世通りが眼下に。そして江の島永代橋からの相模湾沿岸の灯り。小田急線片瀬江ノ島駅もライトアップされていた。赤い光を纏って竜宮城は更に赤く輝いていた。朝の3時前からの長い一日の行動を終えて自宅に19:30に帰宅したのであった。
2017.12.20
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西浜からの日没の絶景を楽しんだ後は、江の島弁天橋を渡り江の島で開かれている江の島・2017『湘南の宝石』のイルミネーションの観賞に向かう。2003年に新しい江の島展望展望灯台(江の島シーキャンドル)が完成後、官民一体となった藤沢市の地域振興事業としてより大規模なイベントに生まれ変わり、『 湘南の宝石 』として2012年には関東三大イルミネーションに、そして現在では、毎年全国のイルミネーションランキング上位に位置するまでに至っているとのこと。しかしこの時間は江の島シーキャンドル(展望灯台)のイルミネーションは未だ。この時の時間は16:50。江の島入口の殆どの店舗は既に点灯済み。江の島弁天橋を渡ってすぐにあるのが青銅製の鳥居。この鳥居は、1747年(延享4年)に建立され、1821年(文政4年)に再建されたもの。この鳥居から、瑞心門前の朱塗りの鳥居までが江島神社の門前町で、既に点灯済みの旅館、土産物屋、食堂などが並んでいた。江の島弁財天仲見世通りの明りが灯された灯篭には江の島に伝わる天女が浮かび上がっていた。そして下には、相模湾に浮かぶ江の島、江島神社の鳥居、江ノ電が美しく。仲見世通りを過ぎると江島神社の赤い鳥居が見えて来た。鳥居の奥の瑞心門は既にライトアップ。石段を上ったところにある龍宮城を模した楼門。壁や天井には、片岡華陽が描いた牡丹や唐獅子の絵画が飾られていた。唐獅子はご祭神の守護と参拝者に厄災がふりかからないよう、祈願の意味が込められているのだ。階段の途中正面では弁財天と童子が迎えてくれた。瑞心門から石段を数段上った所にある福石(ふくいし)。出世運アップのスポットとのこと。江戸時代の盲目の鍼医・杉山和一(後の杉山検校)は、福石の所で弁財天から鍼術のヒントを授かり、最高位の関東総検校まで昇り詰めたのだと。辺津宮(へつみや、下之宮(しものみや))。宗像三女神の三女・田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)を祀る。この辺はライトアップされていなかった。そして奉安殿。辺津宮の左側にある八角堂。神奈川県の重要文化財に指定されている八臂弁財天(はっぴべんざいてん)と、日本三大弁財天のひとつとして有名な裸弁財天の妙音弁財天(みょうおんべんざいてん)を安置。江戸時代には、この江島弁財天への信仰が集まり、江の島詣の人々で大変な賑わいを見せたのだ。そしてみどりの広場には黄色のイルミネーションが拡がっていた。最新LEDによる最高峰のクオリティで繊細かつ色鮮やかに輝く情景を演出!。鮮やかな黄色のトンネル。黄色で飾ることにより、明るいムードを演出。そして展望灯台に向かう。正面の2本のパームツリーも黄色くお色直し、その間からライトアップのシーキャンドルの姿が。ズームで。江の島サムエル・コッキング苑の前の亀ヶ岡広場。江の島シーキャンドル(展望灯台)のライトアップも見えた。よく手入れされた植栽や木々に、全面のイルミネーションが美しかった。一番奥に4つの白きアーチが。門の下でカップルが自撮りする姿も。オレンジ、黄色、白のコラボ。江の島シーキャンドルは帰り道で立ち寄ることに。大木もタイマーにより様々な色にライトアップ。 更に奥の院に向かって進むと左手に江の島大師が。ウィキペディアによると『江の島にはかつて552年に起源をもつとされる神仏習合の金亀山与願寺があり、また、814年には弘法大師空海が参拝し社殿を創建したと伝えられている。しかしながら、明治維新期の廃仏毀釈や神仏分離令により、与願寺の神道部分は江島神社となって存続する一方で、寺は廃され僧侶は全員僧籍を離れて神職となった。江の島大師は、島から仏教寺院がなくなって百数十年を経た1993年(平成5年)、1964年(昭和39年)に廃業した旅館「江の島館」跡地に、最福寺 (鹿児島市)の関東別院として創建された。本尊は不動明王で、室内にある像としては国内最大の高さ6mの威容を誇り、赤不動とよばれている』と。真っ赤な仁王像・阿像。吽像もライトアップされて。江の島大師の前庭に建つ仏像。こちらにも。山二つ。中津宮から歩いて約7~8分。大きな海食洞の天井部分が陥没した跡で、上から見ると瓢箪のようにくびれ、ちょうど山が二つに分かれているように見えるのだ。約4万年前のものから遥か1650万年前のものまで、悠久の時を重ね形成された地層が、海側の山、サムエル・コッキング苑側とそれぞれに見る事が出来る。また、削られた山間からは相模湾が見え、独特の風景を楽しめるのだが、この時間では相模湾は良く見えなかった。江の島シーキャンドルを振り返る。道の両側は、土産物店等の商店であるが、この辺りの店は殆どが既に閉まっていた。奥津宮周辺のライトアップもなし。 そして左に折れ、恋人の丘「龍恋の鐘」へ。「恋人の丘」の相模湾が見渡せる位置には、「龍恋の鐘」と呼ばれる小さな鐘が設置されていた。この場所は龍と弁天様が結ばれた場所らしく、鐘を二人で鳴らすと別れないと謂われているとのことだが、誰もいなかったので1人で鳴らして来たが・・・・如何に???。フェンスには多くの南京錠も。
2017.12.19
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この日・12月14日の夕方に江ノ島海岸に夕日とイルミネーション・2017江の島『 湘南の宝石 』を見に行って来ました。小田急線で片瀬江ノ島駅に。片瀬江ノ島駅の駅舎は竜宮城をイメージした個性的なデザイン。そして片瀬江ノ島駅の前に架けられた橋・弁天橋からの江の島。中央のアーチも西日に輝いていた。「かながわの橋100選」の橋で長さは88m。橋中央のオブジェ「雲の形」。ただの塊に見えそうだが実は女性の横になっている裸像。国道134号線の片瀬橋の向こうに夕日が。まずは片瀬海岸西浜に向かう。片瀬漁港にある像「海の詩」。江の島を背景に大きな鯛をかかえた青年がアクロバチックなポーズで異彩を放っていた。台座には2006年の片瀬漁港整備祈念と。制作者は鵠沼在住の芸術家・親松英治とのこと。そして片瀬海岸西浜からの富士山。時間は16:17。そして伊豆半島に沈む夕日の姿。夕焼けに反射する水面、そして黄金に輝く一筋の帯が。黄金の帯をズームで。刻々と変わっていく水面の輝きを追いかける。ゆっくりと伊豆半島に沈むころ、海の色も少しづつ深みを増して行くのであった。波打ち際まで黄金の帯が伸びてこの日最後の輝きを。富士山の上空も僅かに赤く。箱根・双子山上空も茜色に染まっていた。海岸の人の数は少なく。日没場所は静岡県の伊豆半島北東部の山稜にある玄岳(くろたけ)付近であろうか?そしてこの日の日没、時間は16:25。 富士山の姿も穏やかに1日を終わろうとしていた。真っ赤に染まった雲も刻々と色合いを変えて行った。伊豆半島の山々の山の端。鳥たちも塒(ねぐら)へと群れを成して。双子山を再び。日没後の幻想的な時間帯。その後間もなく、空が濃い青色に染まり、相模湾や湘南の街並みが徐々に闇に包まれる薄暮となって行くのです。空の濃い青色を背景の像「海の詩」を再び。そして2017江の島『 湘南の宝石 』のイルミネーションを楽しみに江ノ島弁天橋に向かう。江の島、江ノ島と表現方法が微妙なのである。
2017.12.18
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大観山からの夜明けの絶景を堪能した後は、再び車に乗り込み芦ノ湖湖畔まで坂を下る。そして湖畔に到着し箱根駅伝往路のゴール地点の奥の駐車場に車を駐める。芦ノ湖湖畔は風がやや強く湖面は荒れていたが三国山に隠れながらも遠く富士山の頂上が見えた。湖畔にはこの日の出番を待つ海賊船が2隻停留中。バーサ(左)&ロワイヤル2(右)。2隻の船には「歓迎 箱根駅伝」の横幕が掲げられていた。毎年1月2日、3日に行われる東京箱根間往復大学駅伝競争往路ゴール、復路スタートの石碑。来年の1月2日にこのゴールを最初に通過する大学は?そして我が母校は?仙石原に向けて車を進める。ここが箱根駅伝の往路5区20.8km、高低差800mを登り終えた最後の上り坂道。途中、元箱根で再び車を降り湖畔に。ここからは富士山の雄姿が再び。そして芦ノ湖に向かっている箱根神社の平和の鳥居も朝の陽光を浴びはっきりと見えた。1952年(昭和27年)、今上天皇の立太子礼とアメリカ合衆国をはじめとする連合国との講和条締結を記念して建てられたもの。1964年(昭和39年)には、御鎮座1200年と東京オリンピック開催を記念して、講和条約に調印した吉田茂によって揮毫された「平和」と書かれた額が掲げられているのだ。湖畔の後ろの斜面でヤマガラ?を発見。 芦ノ湖での釣り人の姿が。左腕には遊漁券が。ワカサギやニジマス釣りであろうか。芦ノ湖畔の箱根神社・一の鳥居を潜る。湖畔を走り、箱根ロープウェイの桃源台駅前を通過。そして仙石原ススキ草原に到着。コンビニで軽食を購入し、車の中で軽く2人で腹ごしらえ。仙石原のススキ草原の野焼きは、毎年3月の上旬に行われると旅友Sさんより。この日もこの場所に陽光が射し込めば、鈍い黄金色の絨毯を敷き詰めたかのように色づいたススキの穂が、陽光を受けてキラキラと輝くのであろうが・・・。そしてSさんが以前訪ねたことがあると言う寺を訪ねる。向かったのは、仙石原の交差点のすぐそばにある長安寺。曹洞宗の寺でもとは箱根姥子山長安寺として延文3年(1356年)に創立されたが、明暦元年(1655年)現在のここ仙石原に移ったと。その後享保年間に山号は龍虎山と改めた。参道入口には石の門柱が建っていた。向かって右の門柱には「湖上有山々遠近」、左には「波間無路々縦横」と掘られていた。入口左の小さな池には逆さ杉が美しく映っていた。 上の写真を180°回転してみました。素晴らしい光景でした。 山門。山門には「東国花の百ヶ寺」の札が掲げられていた。山門の扉には見事な彫刻が。これは現代彫刻家による彫刻作品であろうか?瀟洒な本堂。創建当時のものと言われ、戦後に屋根、壁は改装されたと。古井戸。鐘楼。紅葉は既に完全に終わっていたが五百羅漢が裏山に300体近くあることでも有名とのこと。喜怒哀楽、豊かな表情の五百羅漢が点在していた。喜怒哀楽の表情を浮かべた実に人間味ある姿が次々と。自分に似た羅漢さんがいないかと探すが・・・。五百羅漢の表情の豊かさは、悟りを開き心に曇りが無くなった事を表しているのだろうか?私もこんなふうに人生を楽しみたいものだが・・と浜松・方広寺で多くの五百羅漢に巡り会った時と同様に。来年は紅葉真っ盛りの下で、この人間味ある五百羅漢を一体ずつゆっくりと見て回りたいとも。お賽銭を要求しているが如き羅漢さんも。これも悟りを開いた姿か?親子の羅漢像か?更に国道138号線の坂道を上り、御殿場方面へ向かい 乙女トンネルを通過。乙女トンネルを抜けると左手に乙女峠『ふじみ茶屋』。ここで一時停車し富士山の雄姿を再び。手前は御殿場の街並み。茶屋はこの日は木曜日で定休日。茶屋の横には金太郎とクマが相撲を取っている?銅像が。金太郎の尻は撫でられてテカテカに。金太郎の尻を撫でると良い子に育つと謂われていると。遅ればせながら私も撫でて来ましたが・・・。そして更に御殿場に向かって乙女道路を下る。東名高速には乗らずに下の道を走る。前方に東名高速道路・左ルートの高架橋が。そしてJR東海・御殿場線・山北駅に立ち寄る。山北駅の「ポッポ駅前屋」。昔の山北駅の賑わいを残したいとの思いから始めた店であると。昼は定食、夜は居酒屋として酒を楽しめるようだ。そして山北駅の改札口を出て右側に山北町ふるさと交流センターが。1Fは、「やまきた町 観光案内所」にもなっていた。山北町が鉄道の町であったことから、旧国鉄のSL機関庫をイメージ。屋根に突き出した2本の煙突は、SLの排煙口だったものと。主に町産材・県産材を使用し、残りは産業交流を行っている新潟県旧山北町(さんぽく)(現村上市)のスギ集成材製品を使用し建築したのだと。線路の高架橋を渡り、山北鉄道公園に保存されている蒸気機関車D52-70号機を見に行く。 D52形蒸気機関車は戦前に計画されたKD54形の案を元に、D51形と同一の軸配置でボイラーを可能な限り大型化、火室前方に大きな容量の燃焼室を設けて効率を向上、粘着重量の増大や重量配分の変更を図るとともに出力を上げ、ボイラー大型化の効果により最大動輪周出力は1,660馬力と、日本の蒸気機関車の中では最高の出力を持たせるものとなったのだと。今年も2日前の12月12日に動いたとのこと。しかし、運転はボイラー復元による石炭燃焼ではなく、大型コンプレッサーを2基搭載して、圧縮空気を動力源としたのだと。運転距離は公園内の現行軌道を12m延長して、なんと動輪2回転分だと。D52の車輪(ロッド式駆動)も手入れ十分。そして山北駅に戻ると駅前にはレトロなバスが。レトロ調のボンネット型の小型バスで、色は山北町の花「やまぶき」色と町の自然の豊かさを表現した深みのある緑色のツートンカラー。富士急湘南バス(株)が運行している山北町循環バスと。最後に河村城址歴史公園を車で訪ねる。車を降りると案内図が。白い部分が川村城郭址そして薄茶色の部分が掘りとのこと。 本城郭を目指して上がって行く。しかし予想以上に思階段の傾斜がきつくて息を切らしながら上がっていった。この場所は畝の水溜まり・・・ではなく 「お姫井戸」という伝承の再現だと。古い絵図にはこの畝堀の辺りに井戸の記載があり、河村城落城の折、姫が井戸に身を投げたという逸話があるのだと。ただ・・発掘調査の結果は、畝堀はあったが井戸はなかったと判明していると・・・・。更に息を切らしながら、せっとと登って行くと、まずは、本郭脇の小郭と茶臼郭が見えて来て、その間の堀は「畝堀」(障子堀)が右手に。畝堀は以前訪ねた山中城と同じ。ウィキィペディアによると『河村城は平安時代末期に藤原秀郷の流れをくむ河村秀高によって築かれたとされる。建武の新政・南北朝時代に入ると、河村氏は新田氏に協力し南朝方につき、北朝方の足利尊氏と対峙したといわれ、1352年(南朝:正平7年、北朝:文和元年)から2年間、河村秀国・河村秀経らは新田義興・脇屋義治とともこの城に立てこもり、畠山国清を主将とする足利尊氏軍の攻撃をしのいだとされる。しかし、南原の戦いで敗れ落城し河村一族の多くは討死し、新田義興・脇屋義治は中川城を経て甲州に逃れたとされる。その後は、この城は畠山国清や関東管領上杉憲実を経て、足利持氏の属将、大森憲頼(氏頼の弟)の支配するところとなる。戦国時代に入ると後北条氏の支配を受けるようになった。元亀年間(1570年(元亀元年) - 1573年(天正元年))には甲斐国の武田信玄の侵攻の際に補強され、その後、周辺の諸城とともに後北条氏と武田氏の間で争奪合戦があったとされる。1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐で、この城は落城し廃城となった。』本丸全体は長さ100mくらいの変則な三角形をしていた。全体が芝?で整地されており、周辺にベンチ、案内板、社、碑などが。 大きな石に河村城址図が描かれているものが埋め込まれていた。本城郭(くるわ)には、小さな社が建っていた。ここからは富士山の姿が頂上右のみが僅かに見えたのであった。川村城址碑。本城郭から小郭、茶臼郭を望む。本城郭・蔵郭間の尾根を人工的に切断して堀とした堀切に架かる再現された木橋を渡る。堀切は、幅20m、深さ8m、堀底50cmの急傾斜。堀切内から4本の柱穴が見つかったと。橋脚の幅は4m、堀をまたぐ柱の間は8mあった。柱穴に残った炭化した柱の炭素測定から400年ほど前に伐採した木材であることが分かったのだと。そして蔵郭から東方面を望む。手前から大庭郭・近藤郭・蔵郭・本城郭と続く。郭間にはそれぞれ堀切が。そして帰路に。東名高速道路の大井松田IC付近で必ず目に入る建物が下の道からも見えた。これは第一生命大井本社の本館であったが、この大井本社が2011年に閉館し43年間の歴史に幕を閉じたのであったが現在は使われているのであろうか?ネットで調べてみると、現在はブルックスホールディングス大井事業所となっていると。コーヒーなどの通信販売事業を展開する株式会社ブルックス、コーヒーの生産部門を担う株式会社ブルックス・ファーム・コーヒーなどの関連会社からなる企業グループとのこと。そして蘇我梅林を通過し国府津に出て国道1号線に。海産物・農産物直売所に立ち寄り、地元のみかんと海産物を購入。そして昼食は茅ヶ崎・柳島海岸にある「網元料理あさまる」で。私は名物の「しらす御膳」を楽しむ。自漁船『あさ丸』で獲った新鮮な湘南しらす料理を存分に味わえる豪華な定食。野菜などは混ぜずに、生のしらすだけを独自のテクニックで揚げる『しらすかき揚げ天』は、外はサクサク、中はふんわり!さらに獲れたて鮮度抜群の生しらすに自慢の自家製釜揚げしらすと、まさにしらす尽くしを満喫。そして茅ヶ崎の総鎮守「鶴嶺八幡宮」の一の鳥居の前を右折し再び国道1号線に出てSさん宅に到着。そしてこの日も朝3時前から約12時間の活動を終え自宅に戻ったのであった。
2017.12.17
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この日12月14日は、箱根・大観山からの夜明けそして富士山の雄姿を見に早朝から旅友Sさんの車で連れて行って頂きました。2:45に自宅を我が車で出発し、茅ヶ崎に住むSさん宅で愛車DUKEに乗り換え3:10過ぎに出発。西湘バイパス、箱根新道を進み、4時過ぎには目的地の箱根・大観山展望台に到着。気温はマイナス4℃との表示でいきなりの酷寒の地へ自宅を出て1時間半にて。駐車場へのゲートが閉まっていた為やむなく道路脇の安全な場所に車を駐め暫し待機。この日・14日(木)は、三大流星群のひとつ「ふたご座流星群」が見頃とニュースで。月明かりの影響は少なく、放射点が高くなる夜22時頃からが観察におすすめと。時間はかなり遅いが寒さにめげず美しい星空をしばし見上げる。すると10分に1個ほどの流星を発見その後も5個ほどの流星の姿を楽しむ事が出来たのであった。そして東の空には有り明けの月が美しく。まだ暗い6時前の富士山の姿を。富士山の裾野には細長い灯りが確認出来た。静岡県裾野市に位置するスキー場・スノータウン イエティとのこと。まだ日の出には30分以上前の6:11の富士山。左の白の1本の筋の如き場所がスキー場・スノータウン イエティ。東の空が赤く染まって来た。時間は6:12。そして相模湾の奥には大島の姿もはっきりと。そして電線の間に熱海・初島の姿が。富士山の裾野の奥には既に雪を頂く南アルプスの姿も。そして手前には芦ノ湖。左から聖岳、明石岳、悪沢岳。雲一つ無い富士山をズームで。芦ノ湖に浮かぶ海賊船の姿も右手に。駒ヶ岳そしてロープウェイ頂上駅の姿。箱根火山の中央火口丘である標高1,327mの箱根駒ヶ岳の頂上部と、芦ノ湖畔の箱根園と結び、山頂部は芦ノ湖や富士山などを見渡せるなど展望に優れ多くの観光客が訪れる山。今年は未だ積雪が少ないのでは。そして富士山の上空の空が淡いピンク色に染まり始めて来た。ズームで。時間は6:40過ぎ。そして東の空は更に赤さを増して来た。富士山の上空全体がピンクに。黒い雲の上が朱色に染まる。そして雲の合間に太陽の姿が。時間は6:44前。そして太陽が雲の上に姿を現す。この日の朝の陽光が。富士山も淡いピンクに染まる。箱根外輪山の三国山の頂上にも陽光が。三国山は山の名の通り、静岡、山梨、神奈川県の三県の境界線に位置する山。紅く染まることはなかったが、薄いピンク色に染まる霊峰富士。ジワジワと陽光が芦ノ湖を目指して。色合いもピークに。時間は6:49。巨大な大沢崩れ(おおさわくずれ)の端も茶色に。富士山上空の空も青く変化。大観山から見える南アルプスを含む山々の名前が。こちらは丹沢山地の山々の名を。左から駒ヶ岳、上双子山、下双子山、明神ヶ岳。大観山スカイラウンジを歩道橋から。富士山上空がほぼ青空に。相模湾の朝。遠く江ノ島が左手にそして三浦半島が拡がっていた。大沢崩れに近いのジグザグの登山道・吉田ルートもはっきりと。歩道橋の階段と柱の間に。反対側も。そして芦ノ湖面への陽光もカウントダウン開始。ゴルフ場の先には駿河湾の水面も。そして陽光が芦ノ湖湖面に漸く辿り着く。時間は7:03。再び南アルプスの姿。大観山を後にし「天閣台」から見た富士山と芦ノ湖。ちょと木が育ちすぎているので・・・。少し歩いて展望台に移動。相模湾の水面も朝の陽光に輝いていた。黄金に輝く水面そしてきらめく山の端。刻々と変化する黄金の輝き。伊豆大島の姿と初島の姿を再び。そして見納めの富士山と芦ノ湖の完全コラボ。
2017.12.16
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半僧坊への回廊の天井には多くの十二神将(じゅうにしんしょう)の顔が。十二夜叉大将、十二神明王(じゅうにやしゃたいしょう/しんみょうおう)ともいい、薬師如来および薬師経を信仰する者を守護するとされる十二体の武神である。十二神将は、薬師如来の十二の大願に応じて、それぞれが昼夜の十二の時、十二の月、または十二の方角を守るという。そのため十二支が配当されると。また、十二神将にはそれぞれ本地(化身前の本来の姿)の如来・菩薩・明王があると。勢至菩薩を本地とする伐折羅大将(ばさらたいしょう)は十二支の丑(うし)が配当。よって丑の時の守護神とされるのだ。半僧坊真殿の正面の向拝(こうはい)には明治の彫刻家・後藤岩五郎の作『昇り龍下り龍』の一木彫の彫刻が。向かって左が「昇り龍」、胴体の右端にこちらを向くように頭部が。今にも動き出しそうな迫力と躍動感に圧倒されたのであった。全長は3m近くか。右側の「下り龍」は左端の反対側に頭部が。赤いびんずるさま。明和5年(1768)以来、参道脇の選ばれた十の清絶な境を方広寺十聖境と名づけ今なお伝えられていると。十景第九 玄聖関(げんしょうかん)聖域たる開山廟への玄関。願王塔。本堂裏の回廊からの紅葉と五百羅漢。「らかん乃庭」。与謝野晶子の歌碑も。「奥山の しろがねの気が 堂塔を 阿まねくとざす 朝ぼらけかな」。回廊の奥から紅葉の美しいらかんの庭を。阿弥陀仏?らかん乃庭から階段を上れば上天台舎利殿に。途中の六地蔵。 涅槃乃庭。井伊直政の母君像。方広寺は、直政の母(奥山因幡守朝利(いなばのかみともとし)の女(むすめ))の出身である奥山家ゆかりの寺。こちらは木喰(もくじき)上人作の像。江戸時代の中頃から後半(徳川吉宗から家斉の時代)に生きた僧侶で、身延町古関の生まれ。役行者像(えんのぎょうじゃぞう)。外に出て再び紅葉の後ろの亀背橋を見る。鉄骨製のトラス橋であることが解るのであった。帰路はらかん坂を下る。下り坂で上を見れば杉の林の前にも真っ赤なモミジが。そして下を見れば「散り紅葉」 が。紅葉巡りは上、下と忙しいのであった。 円明閣の前にも。半僧杉。左手にそびえ立つ立派な杉の木は「半僧杉」と呼ばれ、方広寺の鎮守様である「奥山半僧坊」の化身との言い伝えがあると。「大本山 方広寺 もみじまつり」と書かれた行燈(あんどん)そして苔むした岩の周囲には五百羅漢が鎮座。11/21~29まで期間限定のライトアップを行っているよであった。昼の厳かな雰囲気とは趣きの異なる、神秘的・幻想的な世界がここでも拡がるのであろう。十景第六 遊龍窟(ゆうりゅうくつ)羅漢の渡る石橋あり、崖上の瀑布は龍が遊ぶ窟(ねじろ)。アーチ状の石橋と羅漢像。奥山半僧坊 方広寺の不思議のひとつ、石橋上の羅漢像。 日によって見える数が違うと言われているのだと。この日は座像が4体そして中央に立像が1体の合計5体の羅漢像が。この付近の紅葉はこれからか。哲学の道の朱の鳥居は両部鳥居(りょうぶとりい)であることに気がついた。本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある鳥居。この荒れ果てた階段を上がると何処へ?ここが昔の参道なのか?十景第五 貝葉谿(ばいようけい)。貝葉(経文)を模した一板橋を渡れば威儀正しい羅漢尊者の聖域。涅槃仏(ねはんぶつ)が。涅槃仏とは、釈迦が入滅する様子を仏像としてあらわしたもの。ほとんどの像容は右手を枕とするか、もしくは頭を支える姿である。基本的には、頭は北向き、顔は西向きとされる。これが後に、一般の俗人が亡くなった時に「北枕」とされる由縁となったのだと。笑顔の五百羅漢が見送ってくれた。赤門が前方に。左手に十景第三 羊膓石(ようちょうせき)。渓流に沿う道は、曲がりくねった(羊膓)岩場道。奥山半僧坊大権現と書かれた入口。ここ奥山公園は桜の名所、3月下旬になればこの池の周りはピンク一色に変わるのであろう。池には「夢の浮橋」と名付けられた木の橋が渡されていて、橋を渡りながら、池の鯉や周囲の木々」の紅葉を眺めることが出来た。ここの紅葉は始まったばかり。カルガモ?もノンビリと。黒門を横から。そして帰路へ。時間は15:45。再び浜松いなさICまで行き新東名高速道路に。そして途中静岡SAにてトイレ休憩。東名高速道から圏央道へ、そして寒川南ICで高速道路から一般道路へおりSさん宅に19:45過ぎに到着。そして私の車にUさんを乗せ地下鉄の駅まで送る。そして20:30過ぎに我が家に帰宅したのであった。今回の走行距離はほぼ1050km、これをSさん1人で全て運転。お疲れ様でした。ありがとうございました。 ---------------------完-----------------------
2017.12.15
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香嵐渓を後にし、浜松に向かうが対向車線は大渋滞中。時間は12:37。いつになったら香嵐渓に辿り着くやら?ライトアップが目的なのか????昨年、ホテルで見た地元テレビではMCが「ライトアップ見物は14時頃をメドに香嵐渓に到着するのがお勧め。14時だなんて中途半端な…と思われるが、中途半端な時間だからオススメなのだ。14時という時間は、朝から渋滞に巻き込まれて香嵐渓へ来た人々が漸く帰る時間であり、15時過ぎからはライトアップ目当ての方々が香嵐渓へやって来る。ちょうどその谷間の時間が14時くらいだ。」と。我々は、渋滞を右に見遣りながら順調に鞍ヶ池スマートICから東海環状自動車道に。豊田東JCTから新東名高速道路に。新東名・浜松いなさICから一般道で方広寺に向かう。そして香嵐渓から約1時間で方広寺に到着。方広寺は今年の4月に「女城主・井伊直虎 ゆかりの里へ」の寺巡りで既に訪れたが、紅葉シーズンも人気とのことでこの日に再び訪ねたのであった。総門。堂々とした佇まいの門(通称黒門)をくぐると、いよいよここから方広寺の境内。黒門は高麗門と呼ばれている形式。開いた扉が濡れないよう、左右に扉を納める小さな屋根が設けられていた。大本山方広寺の第三代管長である足利紫山(あしかがしざん)老子の揮毫による「地自有霊」の扁額が掲げられていた。右から「地自有霊」(ちおのずかられいあり)と読むのだと。 黒門を潜り右手の駐車場に車を駐める。総門手前の食堂・ゑびすやで戻り昼食。店内には様々な吊し雛が。なめこ入り山菜蕎麦を楽しむ。毎日主人が打つという蕎麦は、山の幸いっぱいの山菜で絶品。こんにゃくも自家製味噌だれで楽しんだのであった。そして土産にも帰りに購入。店のおばあちゃんと話をすると、義兄が我が私鉄の駅の近くに昔住んでいたと。再び総門を入ると拝観受付があり、散策開始。方広寺 案内図。弁天堂。弁天堂の池の岩の上には龍が。赤い社の前には「出世弁財天」と刻まれた石碑が。説明板には『宝永4年(1707)開創と伝える享保11年(1726)に江戸に出て開帳金山弁財天として定着し大繁盛江戸百社弁財天に列した(享和雑記所載)。寛政4年(1792)に主宰した谷沢禅流寺と講中により、当本山に移したという。以来、半増坊と共に当山鎮守として祀られ出世開運・金運のご利益が顕著である。』と。浜松市北区引佐町奥山にあるここ「大本山方広寺」。臨済宗方広寺派の大本山。山号は深奥山、寺号は詳しくは方広萬寿禅寺と称する。別称、奥山半僧坊。本尊は釈迦如来。奥浜名湖の自然の中にひっそりとたたずむ「湖北五山」のひとつ。総門から少し進むと朱色が美しい山門(通称赤門)が。門の前のモミジはこれから。ここから本堂へと続く参道沿いでは表情豊かな”五百羅漢”が迎えてくれたのであった。往路は哲学の道を上る。五百羅漢は、釈迦入滅後の教典編纂の第一結集(けつじゅう)と第四結集に500名の仏弟子達が集まったことが由来。五百人の羅漢さまが仏法を護ると言う伝承から信仰を集めていると。大鳥居。「奥山大権現」と書かれた扁額が。様々な石仏、五百羅漢が山の斜面に。五百羅漢像の中には、必ず自分に似た石像が見つかると言われていると。ここ方広寺の五百羅漢は、一箇所に集中していると言うよりは、境内のあちこちに散らばっていると言う印象。少々厳しい顔つきのお方。こんな顔の方が卒業した会社にも・・・。自分に似た石像は?体つきはこれか?前方の木橋を渡って進むと石段があり、その上に堂があり、これが「椎河龍王堂(しいがりゅうおうどう)」。椎河大龍王堂。方広寺を開いた後醍醐天皇の皇子 無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ)が遠江の国鹿島を行脚中、増水した川に阻まれ難儀していた時、現れた龍神がその身を橋として無文元選禅師を渡した という言い伝えから、その龍神を祀った堂なのだと。更に上って行くと、赤の亀背橋(きはいきょう)が前方に見えて来た。見上げると、鐘楼そして円明閣が見えた。円明閣は2012年にリニューアルが完了した宿泊研修施設とのこと。振り返ると三重塔。大正12年、京都山口玄洞氏の寄進により建立。亀背橋の右岸右正面。鉄骨トラス橋、切妻屋根銅板葺、長さ:25.6m、幅:2.8m。橋の左岸と右岸は高低差があり、谷川口(右岸)は階段になり屋根も4段になっていた。架橋:1387年頃、改築:1960年頃であると。鮮やかな赤い欄干の亀背橋を渡る。左手に七尊堂。国指定の重要文化財で、応永8年(1401)建立の棟札(むなふだ)があると。したがって、この堂は、静岡県内最古の木造建築。七尊菩薩とは、富士浅間大菩薩(ふじせんげんだいぼさつ)・春日大明神(かすがだいみょうじん)・伊勢大神宮・稲荷大明神(いなりだいみょうじん)・八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)梅宮大明神・北野天満大自在天神。柿葺(こけらぶき)で、鎌倉末期の様式を今に伝えていると。境内に入ると右手に鐘楼。方広寺 大本堂。1371年(建徳2年)に後醍醐天皇の皇子無文(むもん)元選禅師が創建した禅寺で、臨済宗方広寺派の大本山。正式な名称は『深奥山 方広萬寿禅寺(じんのうざん ほうこうまんじゅぜんじ)』この本堂は明治38年から大正7年にかけて竣工されたもので、間口32m奥行27mの東海屈指の建物。中央の山号が書かれた大額「深奥山(じんのうざん)」は山岡鉄舟居士の書によるものであると。杉の大木に囲まれた60ヘクタールの広大な境内に総門、山門、本堂、七尊菩薩堂、半僧坊真殿、三重の塔、上天台舎利殿など60棟余の堂宇が立ち並ぶ古刹。本尊は釈迦如来だが、明治14年の山林大火の際に開山円明大師の御墓所と半僧坊仮殿が焼け残ったことから、火防の神として信仰を集めていると。また、鎮守の半僧坊権現が海難を逃れた故事にちなみ『奥山半僧坊(おくやまはんそうぼう)』の名で知られていると。厄除、商売繁盛をはじめ諸祈願成就の祈願所として有名と。大本堂前中央に五百羅漢奉納の案内 一体二十万円と。境内各所に安置される五百羅漢の石像は、拙巌(せつがん)和尚の発願で、明和7年(1770年)に完成したものだが、上記の如く今も寄進を受け付けているのだと。境内には様々な石仏が。方向寺本堂 大鬼瓦。平成22年の大改修で付け替えられ役目を終えた大鬼瓦。大本堂 拝観入口。右手に御朱印受付所。御朱印は昨年既に頂いたのです。この日は『禅堂・明治天皇行在所特別拝観』が行われていたので料金を払い拝観に。大河ドラマ「おんな城主 直虎」のロケ地となった、方広寺の「禅堂」を初公開していると。ここ禅堂は修行僧たちが坐禅修行に励む道場で、ドラマでは幼い次郎法師が修行するシーンが撮影されたのだ。また、あわせて「明治天皇行在所」も初公開中。行在所は、明治初年の御遷都御東上の斎、新井宿にて明治天皇が宿泊された建物を移築したもの。いずれも通常は完全非公開の聖域なのだと。禅堂でのロケの際の集合写真パネルも。「直虎(おとわ)」が真ん中に。直虎(おとわ)が幼いころが滞在し、遊んだ寺がここ方広寺。もともと井伊家とは深いつながりがあり、祖父の井伊直平や祖母の菩提寺はこの方広寺の末寺であると。本堂に戻り本堂内部の見学。本堂参拝後は伽藍内を順路に従い拝観。開山堂前庭は枯山水庭に。砂紋は美しい水の流れを。観音堂に向かって屋根付きの回廊を歩く。本堂回廊から本堂入口を見る。本殿。開山堂内部。額に入った絵画の如し。回廊と山の斜面の紅葉も美しかった。開山堂から勅旨門を。開山・無文元選(円明大師)は、元亨3年(1323)2月15日、後醍醐天皇の皇子として、京都において誕生。母は昭慶門院。父の後醍醐天皇が崩御した翌年の1340年に建仁寺で出家し、明窓宗鑑・雪村友梅などに師事。1343年、中国の元に渡ることを志し、博多聖福寺の無隠元晦(むいんげんかい)に参禅。その後元に渡り福州大覚寺で古梅正友に参禅し、各地を巡拝。日本に帰国した後は、各地に庵をむすび、奥山朝藤に招かれて遠江国方広寺などを開いた。禅師のもとには、その名を聞いて、多くの修行僧が集まり、日夜修行に励んだと。明徳元年(1390)方広寺で68歳で亡くなったと。現在のこの開山堂は昭和10年(1935)、足利紫山老師が建立したもの。
2017.12.14
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駐車場に戻り、車で急なクネクネとした坂道を上り足助城に向かう。足助城は、発掘調査に基づき整備された、全国でも初めての試みの山城。標高301mの真弓山の山頂を本丸として、四方に張り出した尾根を利用した、連郭式の山城で、真弓山は足助の町並みを眼下に見下ろす事が出来る要衝の地。香嵐渓もみじまつり、小原四季桜まつりにあわせて2つのまつり会場間で期間限定の臨時バスが運行されるようになっている模様。足助城は、「真弓山城」とも呼ぶが、「松山城」「足助松山の城」とも呼んだと。鎌倉時代に足助氏が居城したという、「足助七屋敷(足助 七城)」の一つとも伝えられるが、発掘調査では、この時代の遺物は発見されず、現在残された遺構は、15世紀以降に鈴木氏が築城した跡と考えられると。鈴木氏は三河の松平清康(家康の祖父)の侵攻を受け、一旦は松平氏に下るが、以後何度か離反帰服を繰り返した。最終的には家康の頃に松平氏の軍門に下り、家康が関東移封となるとそれに付き従ったため、足助城は廃城となったと。入場料300円を払い足助城に入場。真弓山城墟碑、別名 日月の碑。「日月の碑」解説。当初、足助氏の本城は真弓山と思われており、笠置山に馳せ参じた足助氏を称えたこの碑が本丸に建てられていた。現在は公園入口近くのここに移されたと。戦国時代の三河の国と信州とを隔てる砦のような山城が山の頂に復元されていて、今までの城という概念と違い、戦略的な砦的な要所としての居城。城壁というよりは山の急傾斜を巧みに利用した見所満載の山城で、全国的にもあまり見られない珍城。正面には土砂崩れの復旧の跡も。西の丸に向かう途中、南の丸・腰曲輪に巨大な石が剥き出しに。マムシグサの赤い実。この果実は秋に橙色から赤色に熟し、トウモロコシに似た形状の果実。西の丸にある西物見台。西の丸と南の丸を結ぶ通路にある小さな曲輪。建物の基礎がみつかったが、足助城で基礎を使った建物跡はこの曲輪だけと。西の丸と西物見台 案内板。この西物見台は、大きな岩盤の上にあると。2.7×5.4mの矢倉は、掘っ建て柱の建物。2層にしたのは、間近まで他の建物が建てられたためであろうとのこと。西の丸の周囲には柵列が。南の丸のくぐり戸。この曲輪は、角ばった扇形に造られている。台所の役割をもつ曲輪で、復元した建物跡の他に、カマドに使われた石や炭などがみつかっていると。 南物見台。これは、物見櫓で敵の動きや近隣の城へ狼煙(のろし)をあげたりするのに使われていたと。残念ながらこの櫓には上ることが出来なかった。南の丸の紅葉。南の丸からの展望。南ノ丸にあった竃(かまど)。そして足助城のシンボルの真っ赤な古木のモミジに再会。青空と陽光に映えて真っ赤。毎年、その年の天候により色が微妙に変わるのである。本丸の下で存在感を示しているのであった。暫くこの赤に魅入る。毎年この赤が楽しみなのである。本丸腰曲輪側からの展望。美濃(岐阜県)の東部の街道を、正面に望むことが出来た。この道を進むと長野県飯田市方面に。遠くホテル百年草の建物も見えた。ここも来年の宿泊候補地か。 そして本丸の高櫓。足助城の中心である本丸は、足助の町並みを眼下に見下ろすとともに、信州と美濃への街道、岡崎・名古屋への街道を望むことが出来る(標高301m)。発掘調査に基づき、掘っ建て柱の高櫓と長屋が復元された。高櫓は、江戸時代の天守閣にあたるもの。本丸 案内板 は陶磁器製。シンボルのモミジもこれが今年の見納め。長屋が復元されている。長屋は11.5m×1.8mの細長い建物で北側が7尺の柱間、南側が6尺の柱間と変則的な間取りとなっていると。長屋の屋根は半榑熨斗葺(はんくれのしぶき)と言う方式で仕上がっているとのこと。本丸から臨む足助の街並み。モミジ葉も黄色から赤へと変身を始めていた。足助城の散策を終え本丸からの散策路を下る。駐車場前の國光稲荷大神。石造りの鳥居。素朴な社。そして今年の足助、香嵐渓の散策を終え、帰路の途中の最終目的地の浜松・方広寺に向かったのであった。
2017.12.13
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更に紅葉のカオスの中を進む。現在、香嵐渓にはイロハカエデ・ヤマモミジ・ウラゲエンコウカエデ・オオモミジ・コハウチワカエデなど11種類の楓があり、今ではその数4000本とも言われ、見事な景観に。 ここにもライトアップ用の竹あかりが。香積寺の山門近くにある漢詩碑。作者の服部承風は愛知が生んだ現代の代表的漢詩人で、昭和58年秋に門下生と香嵐渓を訪れた時の五言律詩が刻まれているとのこと。「来尋風外寺 初地蘚苔芳 巴水劃塵境 楓林擁佛堂 衣添紅葉色・・・」黄葉の中に真っ赤なモミジが存在感を主張。奥に香嵐渓・香積寺の25世住職であった風外本高(ふうがい・ほんこう)の「風外碑」が。黄色と赤のコラボレーションがここにも。上ばかり見つめていたが、足下にも緑の美しい姿が。繰り返しになるが、香嵐渓のもみじは、寛永11年(1634)に香積寺(こうじゃくじ)11世住職の三栄和尚が巴川沿いのこの参道に植樹したのが始まりとされ、般若心経を一巻読むごとに楓や杉を1本ずつ参道に植えたのだと。その後、大正から昭和の初めにかけて住民も植え足し、この素晴らしい紅葉名所が生まれたのだ。赤きモミジ葉の間から巴川の白き流れも楽しめた。巴川を覗き込むように川面の上に枝を延ばしているモミジ樹。香嵐渓には赤い橋が架けられており、待月橋(たいげつきょう)と呼ばれる美しい橋は香嵐渓のシンボル。紅葉の名所と言われているが、紅葉のこの時期に限らず四季折々の美しさが楽しめる。春は新緑の緑とともに美しい花々があちこちで見られ、夏から秋にかけては緑が一斉に色づく光景が美しいと。冬はしんしんと降り積もる雪に風情を感じ、日本の四季を贅沢に楽しむことが出来るのだと。一度新緑、そして雪の香嵐渓も見てみたいとも。折しも豊田市のケーブルテレビ局ひまわりネットワーク・「じもサタ」が待月橋下の河原で公開生放送を実施中。足助地区で、地域に伝わる盆踊りに取り組んでいる足助香嵐渓音頭保存会のオバチャン達が「足助音頭」「香嵐渓音頭」等の踊りを披露。いつまでも、どこまでも続く紅葉・黄葉の世界。待月橋麓の「五色もみじ」。「五色もみじ」は名前の通り、緑・黄緑・赤・橙・黄と五色のグラデーションが見事。「五色もみじ」を横から。巴川の河原で遊ぶ観光客の姿も。ここから見える銀杏は完全に葉を落としていた。何故か「五色もみじ」の美しさに惹かれ巴川越しに。この日の巴川の流れは速く。川沿いの商店街を散策。地元のおばあちゃん手作りのこんにゃくの味噌田楽を3人で楽しむ。飯盛山の錦の紅葉・黄葉。森林公園にもなっている飯盛山には、平安時代から南北朝時代にかけて足助一帯を支配した足助氏の居城があった。飯森城址は現在でも曲輪や空堀など中世城砦の形態をとどめ、西三河高原の代表的な遺構とされる。森林公園入り口には六地蔵が祀られている。別名延命地蔵とも呼ばれているのだ。ここから飯盛山に登り始めるとすぐに、開花時期4-6月のカタクリの群生地もある。柿の実も散り行く落ち葉の如くに。逆光の紅葉は絵になる世界。再び巴橋からの香嵐渓。西町第2駐車場脇から再び「紅葉の雲海」に入る。左手に朱で香嵐渓と刻まれた石碑。「香嵐渓 」という名の由来は、「飯盛山からの薫風は、香積寺参道の青楓を透して巴川を渡り、香ぐわしいまでの山気を運んでくる。山気とは、すなわち嵐気也」。これからとって、昭和5年に香嵐渓と命名されたと。先程説明した延命地蔵と六地蔵尊。飯盛山裾野の大師堂。巴川沿いの道から見上げると、上にこの太子堂が建っていた。法隆寺の夢殿のような六角堂で、中には聖徳太子像が祀られている。太子堂の裏手からも飯盛山に登ることができるのだ。「もみじのトンネル」の途中にあった石仏は、お地蔵さまのようにも見えたが、顔が彫ってあるわけではなさそう。川面からの反射光が葉の間から。ここが「もみじのトンネル」。背の高いもみじが参道の両端に植えられていた。もみじの下の地面にも、落ち葉が積もっていて美しさを倍増。香嵐渓には約4000本のもみじが植えられているとのことで、赤、橙、黄色 と色を重ねた見事さに、思わず感嘆の声を。草葺き屋根にも落ち葉が。モミジ葉には藁葺き屋根が似合うのであった。輝く赤を切り裂くが如き幹の黒。香嵐渓広場では「松平わ太鼓」の披露が行われていた。威勢よく打ち鳴らされる大太鼓の音色が紅葉の香嵐渓に響き渡っていた。モミジ葉全身に陽光が降り注ぐ。その樹の影も美しかった。私の写真を観て、何を感じられるだろうか。一度は見てみたいと思う空間であること間違いなし。こんな幻想的な光景が愛知県豊田市で愉しめるのです。実際に見れば、もっと感動するのです。私が10年近く毎年通うのも納得いただけると思う空間なのです。紅葉の中の巴川の白き流れ。今年の香嵐渓も見納め。天気にも恵まれて、たっぷりと「もみじ狩り」を楽しめた大満足の香嵐渓。いつまでも立ち止まっていたい幽玄な空間。
2017.12.12
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一の谷手前の落部駐車場の前から香嵐渓(こうらんけい)の紅葉巡りを開始する。香嵐渓は、愛知県豊田市足助町にある矢作川支流巴川がつくる渓谷。愛知高原国定公園の一角に当たる。1634年(寛永11年)頃に香積寺第11世住職三栄和尚が巴川から香積寺に至る参道にスギやモミジを植えられたのが始まりとされ、大正末期から昭和初期には住民のボランティアでモミジの大植樹が施された。イロハモミジ、オオモミジなど11種のカエデが約4000本あると言われており、赤や黄色に色づく景色は壮観。今年の11月1日(水)から30日(木)まで開催される香嵐渓もみじまつり期間中は21:00までライトアップされ、夜の幻想的な景色も楽しめるのだ。香嵐渓 案内図。 飯盛山(いいもりやま)の裾野を流れる巴川の下流に向かう飯盛山側が紅葉スポット和風料亭・一の谷前から三州足助屋敷(さんしゅうあすけやしき)へと歩いていく。最初は一の谷前の紅葉。小さな池の上の紅葉。陽光が射して、枯れ葉が覆う地面は黄金の輝き。絶景の紅葉の谷で、世界で唯一人「山頂音楽家」のイザナギさんのシンセサイザーの音色が白いテントの下から聴こえて来た。聴き入る多くの人たちが。 こちらは黄葉。そして紅葉。皇帝ダリアも懸命に。紅葉の樹木の間から巴川の水面が光る。 朱の吊り橋・香嵐橋を既に多くの観光客が渡っていた。 橋の上から巴川そして一ノ谷。香嵐橋を渡り対岸からの眺め。川見駐車場の横の川岸を暫し歩く。薫楓橋(くんぷうばし)が前方に。 三州足助屋敷手前の土産物屋に立ち寄る。「香嵐渓もみじまつり」の今年のポスターが貼られていた。大きな梨・愛宕梨。大正生まれの品種で、「二十世紀」と「今村秋」が親とされるが、正確な来歴は不明。晩生種で、平均1kgにもなる超巨大果ナシ。大きいものでは3 kgを超えると。蜂屋柿と富有柿。蜂屋柿は渋柿、よって干し柿にするかそのまましばらく置き充分に熟してから食べてくださいと。柿の中でも実が非常に大きく立派なもの。ここ足助や猿投の農家では、干し柿用として、この様に市場で売りに出しているとのこと。三州足助屋敷に到着。三州足助屋敷は、昭和55年に開館した施設で、生きた民俗資料館といわれていると。かつての豪農屋敷を再現し、長屋門、母屋、竹屋などは茅葺の木造建築。足助屋敷の中では、かつてこの地域で行われていた「炭焼き」「木地」「紙漉き」「機織り」など、暮らしに必要なものは手づくりしていた10種の"手仕事"が行われている。 手仕事の中には、体験できるものもあるとのこと。三州足助屋敷の銀杏の古木は既に葉を落としていた。緑、黄色、赤のコラボレーション。香積寺(こうじゃくじ)への階段を上る。香積寺は、愛知県豊田市足助町飯盛にある曹洞宗の寺。山号は飯盛山(はんせいざん)。開基は関白二条良基、足助重範の娘・滝野と、孫である成瀬三吉丸基久・基直(成瀬氏の先祖)などで、滅亡した足助氏の菩提を弔うために飯盛山(いいもりやま)の足助氏の居館(飯盛山城)跡に建立された。応永34年(1427年)、白峰祥瑞禅師により開山。寺号は維摩経香積仏国品から名付けられた。香嵐渓のもみじは,香積寺十一世の三栄和尚が参道脇に般若心経を一巻詠む毎にカエデやスギを一本ずつ植えたのが始まりと伝えられているのです。階段上からの巴川方面の絶景。超人気の撮影スポット。ここも無電柱化して欲しい場所。香積寺の山門と紅葉。人の少ないときに撮りたかったが・・・。再び巴川方面を。「足助町観光協会 50周年 記念楓」と刻まれた石碑。階段上の左側にあった小さな石仏。香積寺 境内香積寺境内の紅葉も美しかった。再び香積寺 山門。素朴な姿の山門。山門を潜った先に有る階段を登ると本堂が。本堂前の階段手前から山門を振り返る。本堂境内から。赤と黒の世界。香積寺 木造毘沙門天立像(もくぞうびしゃもんてんりゅうぞう).。本殿右側には木造毘沙門天立像が安置されていた。平安時代に製作されたもので高さは1.7m。香積寺で一番古い仏様で,少し丸みを帯びた姿。H27年8月に豊田市指定有形文化財に。御朱印を頂きました。竹にも紅葉シーズンを意識した竹あかり彫刻が施されていた。本堂境内から山門を。幽玄・神秘的な世界。山門を額縁にして。石灯籠を額縁にして。反対側の石灯籠からも。
2017.12.11
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明治期に作られた田町新道を進むと店も少なくなって来た。左手には足助の隠れたもみじの名所、観音山が。賑わいもこの辺までというところに「大観音城」という看板が。大観音城は真弓山城(足助城),飯盛山城,臼木ヶ峯城,城山城, 成瀬城、および黍生城(きびゅうじょう)と共に足助七城(足助七屋敷)に数えられる。足助七城のなかでは東端に位置し、真弓山城(足助城)とは足助川を挟んだ対岸の山に築かれている。 観音山入口の階段を登る。牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)。牛頭天王は日本における神仏習合の神。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされたと。社の内部。向かいの飯盛山の頂上にも漸く陽光が。雑草が生え放題で荒れ気味の参道には朱の鳥居の奥に小さな稲荷社の祠も。手前の鳥居は今にも倒れそう。そして参道には、ぼんぼり(雪洞)も立てられていたがこれも傾いたものが多く。しかしここは、紅葉の穴場。この朝も我々3人以外に人の姿はなし。香嵐渓周辺で最初に陽光が射し込み見事な世界が拡がっていたのです。落ち葉に覆われた、そして小枝が至る所に横たわった参道を上りながら照紅葉を楽しむ。見上げる顔が真っ赤に染まりそう。これぞ、「紅葉の雲海」紅葉には陽光がMUST。今年も観音山の見事な紅葉に出会えたのであった。登り口から10分程で観音寺下の曲輪のある広場に到着。ここには東屋もあり足助の街並みが見えた。しかし足下は猪が掘ったと思われる小さな穴が至る所に。曲輪のある広場の周囲の紅葉。石の階段上に見えるのが観音寺。左手には石垣も。本堂は、かなり傷んでいて、「倒壊の恐れあり」の看板が。しかし、ここはこの城の武将の居館があったらしいと。本堂から山頂までの間に曲輪が続き、山頂の主曲輪から派生する東尾根と北尾根にも曲輪を確認することができるようであるが、整備された道は無く素人には?本堂正面右には、堂の中に多くの石仏が納められていた。本堂の周囲はこれも荒れ果てた竹林で囲まれていた。そして本堂前に立つ観音様の背後から後光が。帰路も足下を気をつけながら紅葉を楽しむ。この時間になると飯盛山の東側全体に陽光が。 そして再び足助の街並みそして足助川。 御嶽大神と書かれた幟が。 再び足助の旧街道を歩く。「中馬のおひなさん」のポスター。 足助の古い町並みに並ぶ民家や商家に古くから伝わるおひなさんや土びな(土人形)を玄関先や店内に華やかに飾り、道行く人々に町並み散策を楽しんでいただこうと始まった足助の大きなイベントのひとつと。「足助祭り(足助八幡宮例祭)」のポスター。 足助まつりは、足助八幡宮(白鳳3年創建)のお祭り。 文正元年(1466年)再建の本殿は国の重要文化財に指定。遺されている文化財も多く、特に慶長17年(1611年)に奉納された「鉄砲的打図板額」(県文化財)は、東京オリンピックで射撃競技のプログラムの表紙に使用されたと。1700年代中期以前より、現在に近いの形のお祭りが行われていたと。西町、新町、本町、田町の4台の山車が有り、町内を引き回す。かつては、5日間かけて行われていましたが、現在は2日間に縮まり、土曜日を試楽祭、日曜日を本楽祭と呼んでいる。土曜の夜は御神輿渡行もあり、町内を御輿が巡行されると。猪肉のコロッケ(シシコロッケ)が食べたいと店を覗く旅友2人。しかし残念ながら時間が早く未だ準備中。 足助陣屋跡。慶安2年(1649年)に越後国村上藩から12万石で陸奥国白河藩に加増入封した本多忠義の5男本多忠周(ただちか)が、天和元年(1681年)三河国加茂郡に5千石分知されて陣屋を構えた事から始まると。お天王はんの祠。「お天王はん」の謂。「普光寺(ふこうじ)」、善光寺ではない。山号は御所山。本尊は聖観世音菩薩。本堂は1727年(享保12年)に建立された。江戸時代後期の俳人で足助味噌だまり商人でもあった板倉塞馬の菩提寺で、境内には「加茂墨炭の祖」としての顕彰碑と辞世の句とされる句碑「雨ののち よい月夜かな 桜かな」がある。ここ中馬街道は、長野の善光寺詣りをする人々が多く通ったところから「善光寺街道」とも呼ばれていたと。「おびんずるさん」と呼ばれる賓頭尊者が祀ってあった。賓頭尊者というのは、自分の痛いところと同じところを撫でてお祈りすると治ると。千手観音像。 堂の内部。 足助川とその奥に足助バイパス。「弘法大師尊御守護」 と書かれた幟の立つ祠。弘法大師像か。 足助川に架かる木製の狭い橋・落合橋を渡る。飯田街道(県道420号線)に架かる巴橋そして巴川も見えた。巴橋からの香嵐渓。紅葉の見所(左側)には未だ陽が射し込んでいない。 「香嵐渓」と書かれた標識。 行列のできる人気のうなぎ屋「川安」。私も数年前に一度楽しんだ店。香ばしさや皮のパリパリ感は絶妙であった。既にこの日の予約用のノートには何名かの名が記載されていたと旅友のSさんから。そして車が駐車している落部に向かって歩く。
2017.12.10
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香嵐渓を訪ねるこの日の朝は、大渋滞を避けるた為に5:50にホテルを出発。繰り返し訪れた中で、香嵐渓駐車場に7寺迄に辿り着けば渋滞に巻き込まれないことを学習済み。ホテルを出発しようとすると、前日まで今回の旅を一緒に楽しんだ岡崎市に在住のKさん御夫妻が早朝にもかかわらず見送りに来て下さったのだ。そしてお土産まで頂いたのであった。Sさんはこの日はお孫さんとの約束があると。そして健康と来年の再会を約束して出発。香嵐渓目指して車は順調に進む。香嵐渓まであと2kmの表示板。そして全く渋滞に巻き込まれること無く、7時前に余裕で 落部駐車場に到着。しかし既に駐車場には何台かの車が到着済みなのであった。暫くは車の中で待機。この後、足助の街並み散策、そして城山・大観音寺城跡の紅葉を訪ねる予定なのであるが、城山に陽光が当たり始めるのは7:30過ぎからであるとこれも学習済みなのである。そして7時を過ぎて、車から出て散策開始。道路脇の南天の実は真っ赤で鈴なり。マンホールの絵には、香嵐渓のモミジと巴川に架かる「待月橋」や地元で親しまれている手作りのあかり「たんころりん」と名物の五平餅が描かれていた。鳳来寺道(県道420号線)の坂道を下る。道路脇の紅葉の見事なアンジュレ-ション。そして飯田街道を横断し、足助の街並みに向けて足助川に架かる橋を渡る。足助の旧街道の散策開始。『足助は、三河から信州を結ぶ伊那街道(中馬街道)の中継地であり、物資運搬や庶民通行の要所として栄えた在郷町。重要な交易物であった塩はここで詰め換えられ、「足助塩」「足助直し」と呼ばれた。近世後期から有力商人が現れ、資本の蓄積が進みました。安永4年(1775)の大火直後から町は再建され、今も町並みには江戸時代中期から明治末までに建てられた建物が数多く残り、全体の34%を占めている。大正期や戦後のものでも伝統的な町遺影の形式を路襲するものもあり、古い町並みの景観が保たれてきた。 明治44年(1911)に国鉄中央線が開通すると、物資輸送基地としての機能は衰退しますが、その後も林業・養蚕業の流通市場や金融資本が蓄積し、東加茂郡の中心として歩み続けた。昭和5年の足助大橋の完成に伴い、県道飯田街道(旧伊那街道)は現国道153号に付け替えられ、足助の町並みは次第に主要交通路から外れていくことになったが、それが現在まで町並みが残る一つの背景となった。』と。早朝の為、足助の街並みには人の姿は殆ど無し。数年前に無電柱化が完了。地蔵堂。この堂は本来、紙屋鈴木家所有の堂であったが、昭和18年香積寺に寄贈されたと。平成27年2月に伝統的建造物群の補助金で修復された。堂守はいないが、町の有志でお守りしていると。ご本尊の地蔵菩薩はめずらしく座っている。ここには、願いを叶えてくれる「抱き地蔵」と、痛いところと同じ部分をさすると治ると言われる「おびんずるさん」が鎮座。足助郵便局。1872年(明治5年)に足助郵便取扱所として開設したと。平入り型の商家・田口家。平入りは棟に対して垂直な入口で、軒先が道路側に。対して妻入りは棟に平行な入口で、軒先は横に。軒下には多くの燕の巣が。旅籠 三嶋屋。三嶋館は元は呉服屋であったが明治時代に入り旅籠となったと。天井の高い商家・白木屋の土蔵。加東屋(かとうや)。加東家は幕末の三河最大の一揆といわれる加茂一揆で住民の標的となったと。井筒亀(いづかめ)。明治20年創業。中馬街道、伝統町並み沿いにある純和風3階建、文化財も並ぶ和食処。茶室風、書院風など、趣向を凝らした部屋があると。駐車場の壁には、猪の毛皮が干されていた。ここの猪鍋は美味であるとのことであるが・・・・。日月もなか總本舗 川村屋。大正5年の創業の老舗。中馬館。大正元年、稲橋銀行足助支店として建てられた建物で、昭和57年に閉館となり、現在は資料館として使われている。特徴として、明治から大正にかけての地方銀行の姿をよく残しており、現在は県の文化財指定。『あすけの芸者さん あすけの白蓮さん』展を開催中。新田町の入り口にあるお釜稲荷の大鳥居。足助稲荷大明社(通称:お釜稲荷神社)。今から700年程前の昔、一升釜を下げた老人が現れて、占いから予言まで百発百中という能力持っていたという人で、付人がたくさん教えを乞いに来たと。そして持っていた一升釜でご飯を炊いては「さあ、食べなされ」といって振る舞うが、一向にご飯はなくならなかったと。村人が不思議に思って尋ねてみると、「我は、これより三十里離れた山奥に住む平八稲荷である」といって、姿を消してしまったと。それから数百年後、足助の領主・本多淡路守様の夢枕にお告げがあり、淡路守様はこの釜を探し出され、陣屋の裏に祀られたと。この様な奇妙な伝説を持つ直径2メートルの釜を祀っていた。(写真右)大きな立派な看板がある『丸一志賀商店』(酒屋)。自販機が邪魔と毎年感じるのであるが・・・。向かいの山の頂上には陽が射してきた。右手に山城屋旅館が。来年はこの旅館に泊まりライトアップ鑑賞か?
2017.12.09
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曽木公園の「紅葉の雲海」を堪能した後は、小原・四季咲き桜に向かって県道363号線を走る。途中瑞浪市の交差点の前方に、突如としてとてつもなく大きな狛犬が現れた。瑞浪市の八王子神社にある巨大な阿吽の狛犬。高さ3.3m、幅1.56m、奥行き2.4m、総重量は15トン!世界一大きな狛犬としてギネスにも認定されているのだと。ここ岐阜県の中濃地方、土岐市や瑞浪市は、古くから陶器の制作が盛ん。この伝統が独特の「美濃焼」として開花し、現在でも志野・織部・黄瀬戸など、味のある焼き物が人気。そんな町の特性を生かした美濃焼きの狛犬がこれと。県道419号線を走り、豊田市小原北部生活改善センター前の無料駐車場に今年も駐車し散策開始。川見四季桜の里に向かう。途中、道路脇の高台には今が盛りの紅葉が我々を迎えてくれた。陽光が差し込み得も言われぬ光景が。黄色と赤の混沌・カオスの世界。そして足下は黄金の錦の絨毯。カオスが至る所に。緑、黄、赤への変化の過程を見せつけてくれた。ズームで。そして道路の反対側には四季咲き桜が開花を始めていた。ズームで。秋の四季咲き桜だけでなく「小原の春」も忘れずにと。そして川見四季桜の里の絶景に出会う。四季桜というのは、1年に2回開花する桜のこと。春だけでなく秋も花が咲くので、紅葉と桜が一緒になっているという、ちょっと不思議な光景を見ることが可能。紅葉の赤と桜のピンクの組み合わせは不思議な世界。満開にはチョット早くピンクの色がやや淡かったが贅沢は言うまい。四季桜と紅葉の共演を見るなら、ここがイチオシ。山に1,200本の四季桜があって、桜と紅葉が一緒になっている風景が見事。以前は、この山の散策路を登りながら紅葉と桜の“共演”を楽しんだのであるが・・・・。紅葉で赤く色付いたイロハモミジと美しいコントラスト。田代川の清流も存在感を。野鳥・鴨?もつがいで花見に来ていた。紅葉と四季咲き桜のBEST MIX。白き流と真っ赤に染まったモミジ葉。民家に繋がるこの橋も川見四季桜の里の展望場所。柿の実は野鳥の訪れを待っているのか?それとも持ち主の方が写真撮影用に残してくれているのか?この民家の御先祖がこの山に四季咲き桜の苗を植え始めたのであろうか?モミジの樹も川面に自分の姿を映すが如くに。川面と紅葉のコラボを追いかける。更に。これでもかと。そして今年も駐車所の横にある樟茶屋(くすのきちゃや)を訪ねる。場所は『北部生活改善センター』の目の前。横では小原の米、新鮮な野菜や漬物、土産物を販売。店内には今年の「小原四季桜まつり 11/1~30」のポスターが。ここ樟茶屋の五平餅はユニークなひょうたん型。当茶屋の店主が、食べやすく、他にはない変わった形の物を提供しよう、とこの形になったとは以前店主のオジサンから。味噌や醤油をベースにゴマやクルミ、落花生が入った自家製みそのいい香りが食欲をそそるのであった。そしてこの日の濃厚な観光予定を全て完了し、この日の宿の東岡崎にあるホテルへ向かう。帰路のスタート直後に右手には瑠璃光山薬師寺が。こもも川見四季咲き桜の展望スポット。地元の人から「川見の薬師さん」と呼ばれ親しまれている真言宗高野山派古刹。本堂に安置されている寄木造りの薬師如来像は室町時代後期に作られたもので、市指定の文化財。 本堂は階段を88段、33段、42段のぼった上にあり何度か訪ねた寺。車窓左側には小原の泥打観音(どろぶちかんのん)の堂(後ろ側)が。ここの観音様は泥が好きなのです。伝説によれば、この観音様は田んぼの泥の中から発見されたと。農夫がきれいに洗っておまつりしたが、翌日にはまた泥の中に埋まっていた。そうしたことが何度かあったので、人々は観音様に泥をぶつけてお参りするようになったと。またあるとき、宿をもとめた旅人が、泥打観音の堂に泊めてもらおうとして、泥だらけの堂や観音様を水できれいに洗ってやったと。すると、突然体が痛みだし、その夜のうちに死んでしまったと。 そういうわけで、この観音様は今でも泥だらけであるし、堂にも泥をぶつけたあとが沢山あるのであった。私も以前にこの観音様に泥を投げつけたのであったがそれは何年前か?車窓から四季咲き桜と紅葉の共演を楽しみながらの帰路に。そして日没の夕焼けも。翌日の香嵐渓での快晴を願いながら。そしてホテルに到着しチェックイン後は「世界の山ちゃん」へ。しかし店の席が開いているのは喫煙席のみとのことで諦め別の店を探しに。東岡崎駅から徒歩1分の駅近の『魚河岸居酒屋 三代目魚誠』に入る。4人で様々な料理の味を、そしてビール、ハイボール等々・・・・。そしてこの夜も部屋に戻り、シャワーを浴び、翌朝の早朝5:50出発の為の目覚ましをセットしバタンキュー。
2017.12.08
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次に、昨年も訪れた「曽木公園」の紅葉を訪ねる。曽木公園は、土岐市の最南、国道363号沿いに位置し、飛騨・美濃紅葉33選にも選ばれた、紅葉の名所として人気のスポット。ライトアップが毎年11月中旬~下旬にかけて行われ、大小八つの池の周辺に約100基のライトがカエデ、イチョウ、ツツジを照らすのであった。昨年の池に映る「逆さ紅葉」は幻想的であり、吸い込まれそうな美しさを存分に堪能したのであった。県道363号線沿いの曽木公園入口の紅葉は我々の到着を待っていてくれたのであった。しかし、今年のライトアップは11/10~19日に既に行われ、終了していたのであった。この事実は、事前に解っていたが、昨年の紅葉が忘れられずに、昼間の紅葉が何処まで残っているかが楽しみで、再び訪ねたのであった。そして公園内に入ると、なんとまだまだ紅葉の真っ盛り、そして幸運にも雲の合間から陽光が差し込み美しくモミジ葉が輝いてくれたのであった。観光客の姿も思いの外少なかった。皆、ライトアップが終了したこと事から、モミジ葉は既に散ってしまっていると感じているのであろうか?そう言う私もそう思っていたのであったが。なるほどドウダンツツジは既にほとんどの葉を落としてしまっていた。そして陽光が射し込みだした。陽光に美しく輝くモミジ葉を求めて公園を動き回り写真撮影を。この美しさに説明の言葉は不要。しばし「紅葉の雲海」をお楽しみ下さい。昼間の陽光に映る「逆さモミジ」も素晴らしかった。看板の「曽木公園」という文字は、池側には池に映るのを想定して逆さに描かれていてこれが水面に映り昨年は大感動。この辺の「遊び心でクリエイト」にも感動しきりなのであった。曽木公園と書かれた看板を反対側から。昼間でも薄くではあるが池に映る曽木公園の文字が確認出来たが。更に紅葉を追いかける。ピンクのサザンカの花片と紅のモミジのBEST MIX。ほとんどの池に「逆さモミジ」が姿を現してくれたのであった。黄金に輝くモミジ葉。ライトアップが短期間で終了してしまったのは、落葉が始まるとこの池の如くに落ち葉が池の水面に浮かびこれを除去する必要があるのだろう。そしてライトアップの電気代予算もあるのであろうし交通規制等もあり延長は出来なかったのであろうか。曽木公園の「燃える秋」・「紅葉の雲海」の空間にいつまでも身を置いておきたかったのであった。何とも言い現わす事が困難な紅色・黄色・緑・・・・そしてこれが映る水面。燃える秋 水面に映る 照紅葉(てりもみじ)・・・・詠み人しらず
2017.12.07
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350号線の飛騨川に架かる青柳橋を渡る。道の駅 「可児ッテ」が右側に。「可児ッテ」(CANITTE)とは珍しい名前なのでスマホで調べてみると、 CANI(可児)・CAN(可能性のある)+MITTE(ドイツ語で中心)の造語であるようだ。チョット凝り過ぎと感じるのは私だけであろうか?そして「鬼岩公園」近くで車を駐め散策開始。この近くは「紅葉」が真っ盛り。こちらは「黄葉」の真っ盛り。「飛騨木曽川国定公園」との表示板が。岐阜県下呂市から美濃加茂市にかけての飛騨川流域と岐阜県瑞浪市付近から愛知県犬山市付近にかけての木曽川中流域を中心とした国定公園。1964年3月3日指定。飛騨川、木曽川の河川美が特色。苔むした岩を覗き込むように黄葉がそして落ち葉と水の流れ。鬼岩公園 案内図。鬼岩公園には実に多くの遊歩道が張り巡らされているようだが、大まかに分類すると、可児川源流に沿って谷底を進む青の渓谷コースと、その右岸に黄色の臼岩・展望台コース、左岸岩壁上のオレンジの蓮華岩・太郎岩めぐりコース、そして赤の岩谷めぐりコースのの4通り。我々は青の渓谷コースを上り途中から黄色の臼岩・展望台コースに入り最後に再び青の渓谷コースに戻り蓮華岩の見える場所で引き返したのであった。国道21号線を渡り公園の中へ歩を進める。見上げると山の上には巨大な岩が。風雪に洗われた花崗岩の巨岩怪石が、周辺の緑と美しいコントラストを織りなす様はまさに絶景。 飛騨・美濃紅葉33選にも選ばれ、巨石が周りの紅葉と美しい対比を織りなす様子は、まさに絶景参道には所々に鬼の姿が。鬼岩という名は、およそ800年ほど昔、この岩山に関の太郎という鬼人が住み、近郷近在の住人や東山道を山越えする旅人に悪業の限りを尽くしたので、御白河法王の命を受けた纐纈源吾に依って誅伐されたという伝説にちなんでおり、“恐ろしや次月の里の鬼すすき”の古句が今も伝えられているのだと。鬼人が住んでいたという鬼の岩屋をはじめ、太郎岩・まな板岩・鋏岩・源吾岩・首洗池等の名が伝説と共に残っていると。休憩所にいた赤鬼は長期休暇中のようであった。最初は紅葉を楽しみながら山道を登って行った。巨岩の割れ目の間を進む。赤い見返り橋。見返り橋からの眺望。この先には木道が設置されていた。山道の途中には鹿威しとその下にお風呂で遊ぶ子供の水車のオモチャとが2段に。鹿威しの湧き水がオモチャの水車にかかり回転、さらにその水が黄色の水車にと水のハイブリッド利用。途中、東屋風の休憩所が。ここでしばし休憩し息切れを鎮める。『奇岩の流れは一時水の姿を消し、この辺りから岩谷が形成され巨大な岩の下に潜入します。もう少し登って下さい。其の光景の一部が「口の岩谷」「中の岩谷」「奥の岩谷」となって皆さんを秘境ご案内いたします』と。巨大な丸い奇岩。展望岩。濡れていないので滑らないが、雨の日は滑って真っ逆さまに転落の可能性も。屏風岩。真に巨岩、奇石、怪石。臼岩休憩所。臼岩より登ってきた方面を見下ろす。御嶽神社と刻まれた石碑。蓮華岩。蓮華とは蓮の花、スイレンのことを指しますが蓮の花の蕾のように見えるからこの名が?蓮華岩を見て下山。鬼岩湯元館。鬼岩で唯一の地下1632mの東海随一の天然・希少ラジウム温泉が自慢の宿。鬼岩公園の登山の後は道の駅 志野・織部に立ち寄る。そして「ひつまぶし」を楽しむ。現役時代に名古屋の「蓬莱軒」&「しら河」で食べた事を想い出しながら。さすがに陶器の町。美濃焼がずらりと道の駅店内に並んでいた。焼き物スペースが大半で様々な皿や器が所狭しと。そして巨大ないちごパフェ?も。これも苺一会(いちごいちえ)。
2017.12.06
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木曽川沿いの駐車場に車を駐め、木曽川沿いの入口から「太田宿中山道会館」を訪ねる。中山道会館は中山道太田宿の歴史文化、江戸時代の宿場や旅の様子を紹介する展示室や飲食コーナー、物産展示コーナーなど交流と出会いの総合施設。会館入口では、菅笠(すげがさ)を被った道中姿の武士が迎えてくれた。展示室入口には鎧・兜が展示中。展示室には中山道太田宿の歴史文化・江戸時代の宿場や旅の様子など貴重な展示物が。太田宿が最も栄えた江戸時代を再現していると。中山道太田宿、福田屋、太田宿ゆかりの人々。中山道69次、美濃16宿。太田の渡し。千両箱。江戸の千両箱展が行われていた。江戸初期の千両と言えば今の貨幣価値で言えば約一億円、今でも宝くじで庶民が夢に見る額!ただし、幕末頃には五千万円程に下落してたと。売店では八百津の蜂蜜も販売されていた。単価:6~7円/gの蜂蜜。太田宿中山道会館を出て、木曽川堤防沿いの道を歩く。常夜灯を模した時計台。木曽川。中山道の三大難所のひとつとして、「木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」とうたわれた「太田の渡し」は、ここより少し下流にあったと。中山道に戻り太田宿散策を続ける。手前の肥料商の辰巳屋とその隣に永楽屋呉服商そして2階が白壁の鮎の甘露煮の魚徳 。辰己屋の現在の建物は昭和6年建築で黒色の漆喰壁で大正ガラスが使われた町家風建築。永楽屋には屋号の永楽通宝の家紋が。小松屋吉田家住宅。吉田家は、旧中山道太田宿の街道沿いに位置し、幕末から明治初期には旅籠(はたご)を営んでいた。かつての宿場町だった名残を示す旅籠の遺構として重要な存在と。現在は、「旧小松屋」の名で親しまれ、無料休憩所として開放されていた。祐泉寺。文明6年(1474)土岐源氏・土岐頼政次男の東陽英朝禅師(大道真源)により創建された。祐泉寺境内にある写真左の美濃西国27番目の札所「瀧場観音」は、宿の大火でも焼失を免れた為「火伏観音」とも呼ばれ、多くの人の信望を集めたのだと。祐泉寺 境内。往時、枡形の辺りが土田の渡し場跡。その為、祐泉寺の山門は木曽川に向けて建てられているのだと。御朱印を頂きました。祐泉寺 鐘楼。季節外れの花が。芭蕉句碑には「春なれや なもなき山の 朝がすみ」。この辺りの景観がヨーロッパ中部のライン川に似ていることから“日本ライン”と命名した地理学者「志賀重昴墓碑」が。太田稲荷。内部。祐泉寺近くの「枡形」。枡形とは、直角に設けられた二つの城門と城壁とで囲まれた四角い空き地。敵の直進をさまたげ、勢いを鈍らせる為のもの。 江戸時代のはじめに制定された宿場は、一種の城塞の役割も持たされて整備され、この場所の如く宿場の出入口には必ず枡形が設けられたと。ここでも街道を二度直角に曲げ、外敵が進入しにくいようにしていることが理解出来た。秋葉神社。美濃加茂市の下水マンホール。太田の渡しが描かれていた。旧十六銀行太田支店跡。明治40年(1907)築、昭和27年(1952)4月、太田町や近隣の町・村が合併して美濃加茂市となり、同40年10月までの58年間銀行として使われた。 内部には当時の金庫が残されており、2Fの窓部分の格子や鬼瓦の「銀」文字などから当時を偲ばせる建物であると。現在は一般の住宅として使われているのであろうか?中山道分間延絵図。中山道分間延絵図は、寛政(かんせい)12年(1800)に幕府の命令によって作成された「五街道分間延絵図」全91巻の一部で、10巻からなる。縮尺は1800分の1。街道を管理する道中奉行(どうちゅうぶぎょう)の役人が実測し、街道周辺にあるものを詳しく記したものと。御代桜(みよざくら)醸造。明治26年(1893)創業で、江戸時代には酒販売と茶屋を営んでいたが、太田宿本陣を務めた福田家から酒造権を譲り受けたと。路地沿いには奥には黒塗りの酒蔵が見られた。国重要文化財 旧太田脇本陣林家住宅。旧屋敷が続く。旧太田脇本陣林家住宅隠居家「旧太田脇本陣林家住宅」は、江戸時代に中山道51番目の宿場である太田宿の脇本陣として機能していた。創建年代は、主屋のうだつの鬼瓦に銘が記されていることから、明和6年(1769年)と判明。林家は江戸中期、脇本陣を勤めるかたわら庄屋として尾張藩太田代官の指揮下で宿の行政事務を取り、また、家業として質屋や味噌・溜の製造販売も営んでいた旧家。最盛期には、東西25間の間口、土蔵9棟、馬屋3棟、離れ座敷などを持つ壮大な構えであったと。旧太田宿本陣門。太田宿本陣福田家は、表門が唯一遺構として残されていると。この門は、文久元年(1861)皇女和宮通行の際に建てられたものといわれていると。皇女和宮が通った道はこの中山道だが、なぜ東海道でなかったのか。中山道にしたのは、いくつかの説があるが、この縁組の反対派が、和宮奪回を企てていることから、より危険性の少ない中山道にされたと。御輿入れの行列(50km)は、世界でも比類の無いことで、総費用は今のお金にして約150億円かかったと。別の説として東海道には薩埵峠(さったとうげ、静岡県)という峠があるからだと。「去った」に通じ、縁起が悪いと。これは、俄に信じられないが、そんな理由だけで中山道を通ることになったとも。太田宿中山道会館入口の左側。入口右側。会館象徴ともなっている「榎とやどりぎ」。★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★次に向かったのが可児市の住宅街の中にある「川合次郎兵衛塚1号墳」。ウィキペディアによると『川合次郎兵衛塚一号墳(じろうべえづかいちごうふん)とは、岐阜県可児市川合にある方墳。古墳時代後期(7世紀後半)築造されたと考えられる。すべて川原石で葺かれていた墳丘は二段に築かれており、平坦な所にもこぶし大の石が敷かれている。古墳からは 3つの横穴式石室が発見されており墳丘の中央の巨大な主室をはさんで左右にそれぞれ西副室、東副室が造られており、この3つの石室は古墳を築くと同時に造られたものではなく、東西各副室は後で増築されたものであると考えられている。主室は玄室、羨道・前庭部に分かれており、玄室はさらに2部屋(後室、前室)に区切られている「複式構造」となっている。周濠の保存状態も良好で、幅は約8メートル、深さは2~2.5メートルで、主室正面、南東角、東側中央付近、北東角には陸橋があったとされている。平成7年(1995年)6月、岐阜県史跡に指定される。』と。名称は「次郎兵衛塚一号墳」となっているが、川合次郎兵衛という人物が葬られているということではないようだが・・・・??。次郎兵衛は誰?1辺約29.5m・高さ約6.5m、2段築成の方墳で墳丘全体は葺石で覆われ、周囲を幅約8m、深さ2~2.5mの濠がめぐる。埋葬施設は南東に開口する横穴式石室で、墳丘中央に主室とその両側に副室が構築されている。主室は奥行約15.5m、西副室は奥行約7.4m、東副室は奥行約1.7m。出土遺物は玉類や耳環、鉄鏃、須恵器など。7世紀初頭の築造。主室は複数回にわたって追葬が行われているようだと。1994(平成6)年に市指定史跡指定。1995(平成7)年に県指定史跡指定。
2017.12.05
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翌朝も郡上八幡のホテルで早朝起床。郡上八幡城の人気の秘密は、「雲海」「城下町」「紅葉」とのことで、この日も6:30にホテルを出発し、再び郡上八幡城の雲海を見に4人で向かう。帯曲輪から桜の丸南西隅櫓を見る。真っ赤に染まった石垣の下。天守台のある桜の丸への正門(大手門)。両側の土塀には、〇や△の狭間(さま)が見えた。郡上八幡の街並み。残念ながらこの日の雲海は山の上のみ。天空の城、日本のマチュピチュと言われ、兵庫県朝来市の竹田城が脚光を浴びたのは数年前だが、実は郡上八幡城でも負けず劣らず素晴らしい天空の城を見ることが出来る日があるとSさんから。しかしこの日は、真下にかつての三の丸跡に建つ安養寺本堂、右に吉田川と八幡町中心市街地、遠くに東海北陸自動車道などが一望出来てしまったのであった。昨日は訪ねなかった「松の丸」へ。松の丸からの天守。松の丸隅櫓は2層2階そしてそれを繋ぐ城壁。郡上八幡城天守閣裏にある「凌霜の森」にある凌霜隊(りょうそうたい)の慰霊碑。凌霜隊は、慶応4年(1868年)に郡上藩の脱藩士によって組織された部隊。戊辰戦争において、会津若松藩の白虎隊と共に旧幕府側に立って新政府軍と戦ったのだ。碑には凌霜隊の説明文と、凌霜隊士名が刻まれていた。ドウダンツツジも真っ赤に染まり存在感を。石垣の端から天守閣を。仮設テントが邪魔。松の丸隅櫓下から桜の丸隅櫓方向を。昨日よりも真っ赤に感じられた郡上八幡城の紅葉を4人占め。我々4人以外に人の姿に出会わなかったのであった。そして駐車場に戻る途中から、小雨が雪に変わってきた。今年初めて体験する雪、これも一期一会。車のフロントガラスにも雪が。★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★そしてホテルに戻り朝食。朝食も多くの品が。そして8:30にホテルを出発し長良川沿いを進むと、左手高台にユニークな建物を発見し急遽立ち寄る。ここは「日本まん真ん中センター」であると。「日本まん真ん中センター」の全景。この建物は日時計としてデザインされており、建設時の自治体名(美並村)にちなみ高さ37.3m(みなみ)で世界最大級の日時計となっていると。日本一巨大な円空彫り不動明王像。全国を渡り歩き約5万体を彫り上げたとされる円空上人の出生には諸説あるが、ここ美並町は円空出生の地として有力な説の一つと。それを裏付けるかのように、円空はここ美並の粥川寺で得度をし、数多くの円空仏を彫り、全国を渡り歩くようになった後もたびたびこの美並の地を訪れてたくさんの円空仏を残したと。まん真ん中を記念したこんなオブジェも。ここにも円空彫り・薬師如来像。カブトムシ?のオブジェ。こちらは蝉?バッタ?センターの建物の中に入る。日本まん真ん中センターは、500人収容の多目的ホールや会議室、図書室を設けた多目的施設。また、美並町ゆかりの「円空」の足跡などを研究展示した「円空研究センター」や「人口重心地」を表したモニュメントにもなっている世界最大級(37.3m)の日時計が組み込まれた施設外観など、美並町の主要な観光施設。建物中心部を貫く日時計の黄金棒の先端は、建物内部フロアに描かれた「岐阜県美並町」に。「日本の真ん中美並」と。「美並町」の何が日本の「真ん中」かというと、『日本の人口重心』が真ん中ということらしい。ネットによると『人口重心とは、日本全土を平面とみなし、その上に分布している人間一人一人がすべておなじ重さであるとして、日本の人口を1点で支えて平衡を保つことのできるところが、人口の重心地です。重心地の計算は、各市町村の人口すべてが市町村役場の位置にあると仮定し、都道府県の人口重心を算出します。この都道府県の人口重心を基に算出されたものが日本の人口重心になります。これにより美並町は過去4回(昭和55年、60年、平成2年、7年)に人口重心となっています。』★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★そして更に長良川沿いの156号線を美濃加茂市を目指して進む。途中右手の山の上に城らしきものを発見。スマホで調べてみると岐阜県美濃市泉町小倉山にある小倉山城(おぐらやまじょう)。小倉山城は 慶長10年(1605年)飛騨高山藩主であった金森長近の隠居城として築かれた城で、別名「小倉居館」とも。金森家が無嗣断絶で改易されたことにより、わずか6年で廃城になったと。そして美濃加茂市にある龍安寺に立ち寄る。龍安寺は、美濃加茂市伊深町に位置し、17世紀の後半、永安寺の跡地に再興されたものと。立派な山門の鐘楼門が有名で、建立はおよそ300年以上前とされ、近在にはない総欅造りであることなどから、美濃加茂市の建造物文化財に指定されていると。この鐘楼門には梵鐘「鴻鐘(こうしょう)」が吊りさげられ、銘文から南北朝時代の末期の至徳元年(1384年)に美濃源氏の系統の土岐義行から寄進されたことがわかっていると。この梵鐘は、南北朝後期の工芸技術をよくあらわし、県の工芸文化財に指定。本堂。梵鐘「鴻鐘」が見えた。龍安寺の前の畦道脇には素朴な石仏が誰かの顔に似て。★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★更に進むと「蜂屋交番」と書かれた交差点が。何故か「蜂」に敏感な私。そしてこの交差点を右折。瑞林寺(ずいりんじ)を訪ねる。瑞林寺は、岐阜県美濃加茂市蜂屋町にある臨済宗妙心寺派の寺。室町時代に創建されたお寺で朝廷や、将軍に「蜂屋柿」を献上したことから、「柿寺」とも呼ばれ親しまれていると。「蜂屋柿」とは、美濃加茂市原産の渋柿で平安中期に美濃国の国司が朝廷に干し柿として献上し、「所給枝柿甘於蜜房…(蜜より甘い干し柿であった)」と高い評価を得て「堂上」の名が与えられた。堂上とは朝廷への昇殿を許された格を持つという意味。歴代将軍にも献上されて来たと。千年の歴史を持つ干し柿の王様と呼ばれ、明治33年(1900)のパリ万博では銀牌、明治37年(1904)のセントルイス万博では金牌を受賞したのだと。境内の地蔵尊。観音像。「二十六世 登山記念」と刻まれた石碑が。山門を入ると本堂が正面に。「皇風永扇」と刻まれた石柱。皇風とは、天皇の仁政(じんせい)、天子の徳のこと。仏教が栄え、天皇の仁政が長く続くようにとのことでしょうか。手水舎。本堂。本堂内部。「選仏場」と書かれた扁額のある御堂。選仏場とは僧堂を意味しているのであろうか?境内は美しい枯山水の庭園が拡がっていた。そして美しい砂紋がまっすぐ横に引かれていた。この瓦は寛政六年(1794)に本堂にあげられていたものと。「温故知新」の文字が印象的。鐘楼。別の角度から。真っ赤な南天の実も青空に映えて。
2017.12.04
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永保寺の紅葉溢れる庭園そして2つの国宝の建築物を鑑賞後は郡上八幡に向けて車を走らせる。中央自動車道・多治見IC から高速道路に乗り、東海環状自動車道・美濃関ICから東海北陸自動車道へ。郡上八幡ICから一般道で郡上八幡城へ向かう。城山公園前から交通整理員の指示に従いハーザードランプを点滅させながら郡上八幡城への一方通行の坂道を上る。本丸への登城口にある郡上八幡城案内図。小雨の中、駐車場から天守を見上げる。 10年前の「日本100名城」選定の際は、惜しくも候補には上がったものの選定には至らなかったが、今年4月の「続日本100名城」には遅まきながら141番目で無事選定が決定。同じ岐阜県では、郡上八幡城の他「大垣城」「苗木城」「美濃金山城」が選定されたと。なお「続日本100名城」のスタンプラリーの実施も予定されているが、その準備の為、実施には半年から1年はかかるのではないかと。来春の四国八十八箇所巡り結願の後は、これに果敢にチャレンジするか????「首洗い井戸跡」「関ヶ原の戦い」で討ち取られた武士の首についた血や泥を、首実検のために洗い清めるために使用された井戸跡。 本丸への登城口を進むと「桜の丸隅櫓」が前方に。郡上八幡城 天守を見上げる。西側隅櫓方面への階段。正門への大手道は石段。復元された正門は白く美しかった。腰曲輪からの郡上八幡の街の眺望。遠くに東海北陸自動車道の高架橋が見えた。大手道からの天守閣。山間の町並みを望む場所に『南無妙法蓮華経』と書かれた石碑。最後の紅葉の後ろに郡上八幡城 天守閣。郡上八幡城は1559年(永禄2年)に遠藤盛数が砦を築いたことからはじまる。遠藤盛数の長男、慶隆が城主のころ本能寺の変がおきたが、羽柴秀吉と対立する織田信孝の傘下だったため追放されてしまった。1588年(天正16年)、稲葉貞通が城主となり、現在の郡上八幡城の基礎となるような大改修がおこなわれたと。その後、「関ケ原の戦い」の功によってふたたび遠藤慶隆が城主となる。以降、遠藤氏5代、金森氏2代、青山氏7代と城主がかわりながら、郡上藩として幕末まで藩庁として機能した。現在建てられている郡上八幡城天守は1933年(昭和8年)に大垣城を参考に模擬天守として建てられたもので、2つの隅櫓とともに全国にさきがけて再建された。模擬天守ではあるが、郡上八幡城は日本最古の木造再建天守。海抜353.95mの八幡山山頂に4層5階の城として建てられているのだ。力石。『この二つの石は、寛文七年(一六六七)城主遠藤常友が城を修理するため領内から多数の人夫を集めたとき、その中の一人である大和町の作兵衛(通称、赤髭)が城下の河原から背負ってこの地まで運び上げたものである。(重さ約三五〇キロ・長さ約一メートル・厚さ約三〇センチ)奉行の村上貞右衛門がその力量のすぐれているのをみて激賞すると彼は感涙し、たちまち力尽きてその場で卒倒し息絶えてしまった。奉行は憐れに思ってこの石の使用を禁じたが、昭和八年(一九三三)に天守閣を建設する際この石が草の中に捨てられているのをみた古川七兵衛氏が作兵衛の心根が世に忘れられたのを嘆き、この地に碑として安置して顕彰しその礎石にことのあらましを記したものである。』と。天守閣建造は険しい山頂の地形から当時の土木技術ではたいへん困難な工事であった。特に土台となる石垣の構築はたび重なる崩壊があった、と伝えられていると。そんな折、 栗巣村(現在の大和町)から切り出して運んだ天守閣の主柱となる檜の巨材が神路村(現在の大和町)までさしかかると急に動かなくなった。村人総出で木を曳く作業にあたったが、その中にいた「およし」という娘が手を添えると不思議と木は動き、とうとうおよしは木を曳く人夫や村人たちといっしょに城の築造現場まで来てしまった。その頃、石垣の崩壊に頭を悩ませた普請奉行は当時の慣習であった人柱を決め、そのおよしに白羽の矢が立った。 里の小町といわれた当時19才のおよしは白のりんずの振袖に白の献上の帯をしめ、城山の露と消えたと伝えられていると。『城山の 露と消えゆく 人柱』 再建された城でありながら、司馬遼太郎氏はその著である「街道をゆく」の中で戦国時代の荒々しさを偲ばせる野面積(のづらづみ)と呼ばれる石垣とともに「日本で最も美しい山城であり、隠国(こもりく)の城。」と評されているのです。郡上八幡城の見学を終え、下り専用の坂道を下り城山公園で車を駐める。本丸跡の城山公園に建つ 山内一豊公と妻千代の像。司馬遼太郎”功名が辻”で夫のために妻がヘソクリで名馬を買い与える有名なシーン。大河ドラマ放映の頃(2006年)に建てられたとか。なぜここに功名が辻かというと、旅友のSさんのデジブックによると、千代の出生がここ郡上八幡(しかも初代城主 遠藤盛数の娘)とする史料が伝わると。近江の浅井家の家臣の娘とばかり思っていましたが。郡上八幡城天守が一豊と妻千代を見つめていた。これぞ真っ赤っかなモミジ。その下には錦の絨毯。★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★八幡城を下城し郡上八幡の古き街並み散策に向かう。正面に安養寺(あんにょうじ)そして右側に「史跡 八幡城 登口」と刻まれた石碑が車窓から確認できた。安養寺は、岐阜県郡上市八幡町柳町にある浄土真宗大谷派の寺院。山号は遠郷山(えんごうざん)。郡上御坊とも呼ばれ、郡上一帯における真宗大谷派の中心的な寺院である。間口、奥行き共に16間の本堂は岐阜県下で最大といわれていると。佐々木高綱の三男・高重が出家し西信を名乗って近江国蒲生郡に「安要寺」として創建したと。残念ながら、この寺で御朱印を頂ける時間には訪ねることが出来なかった。 郡上八幡城下町プラザ裏の駐車場に車を駐め、郡上八幡の城下町の古き街並みの散策開始。郡上八幡城下町中心にある季節料理が自慢の老舗旅館・満州屋。郡上八幡おみやげお食事処 流響の里(りゅうきょうのさと )。イワナ(岩魚)の炭火焼き。しかしこれは全てサンプル。飲食店の店頭や店内に陳列された、料理メニューの模型、「食品サンプル」。実は岐阜県・郡上八幡は食品サンプルの一大生産地。ここ郡上八幡 は食品サンプルの生産量日本一で、全国シェアの約60%を占めていると。職人さんが一品一品手作りし、全国へと出荷していると。海外からの観光客にも大人気で、多くの外国人が日本人の匠の技をお土産に買って帰ると。白龍(しらたき)稲荷神社。吉田川に架かる宮ヶ瀬橋の北側新橋の一本下流に架かる橋のすぐ近く、家並みの中に突然岩山があり見上げると二階建ての屋根より高い場所に鎮座。疫病を鎮めるために創建された。 神の使いである白蛇の修行場と言われていると。宮ヶ瀬橋手前右側の店 源楽。ラーメン・ギョウザ中華料理屋も昔の建物で。宮ヶ瀬橋を渡る。下を流れる川は長良川に流れ込む吉田川。この建物は閉鎖中か?その手前にあるのが「さんぷる工房」。さんぷる工房は、築百五十年の町家の中で食品サンプルを見て、ふれて、作って楽しめる観光施設。甘そう!!早くフキンを!!体験コーナーではレタスを作っていた。新町通りへ。徹夜で郡上踊りが行われる通りの一つ。斉藤美術館。郡上八幡の中心地にある茶道具を中心とした美術館。代々収集愛用した名物茶碗をはじめ、書画や陶磁器、漆器等の美術工芸品を展示していると。文化財指定の母屋にはカフェ「町家さいとう」と和雑貨コーナーも。「やなかの水のこみち」。繁華街の新町から角を曲がった町なかの一服の清涼剤のような路地。玉石を敷き詰めた道と水路、柳の並木、大きな家屋敷。水のせせらぎを聞きながらレトロな町を散策できるスポット。吉田川や長良川で採れた玉石を郡上八幡に因んで8万個並べて綺麗な模様を描いているのだと。おもだか屋 民芸館。1960年から先代の水野柳人が集めた奥美濃の民芸品を中心とした、きわめて特徴あるコレクションを展示している。水のせせらぎの中には輪になった人々?をモチーフにデザインした照明が。玉石を敷き詰めた道も芸術作品。水飲み場の照明も舎の中に。宗祗水。室町時代の連歌の達人・飯尾宗祇がこの湧水の傍らで庵を結んで愛用したことから「宗祇水」と呼ばれるようになったと。飲料水や生活用水として湧水が今も使われている場所・「水舟」。「水舟」とは郡上八幡特有の水利用のシステム。湧水や山水を引き込んだ二槽または三槽からなる水槽のうち、最初の水槽が飲用や食べ物を洗うのに使われ、次の水槽は汚れた食器などの洗浄。そこで出たご飯つぶなどの食べ物の残りはそのまま下の池に流れて飼われている鯉や魚のエサとなり、水は自然に浄化されて川に流れこむしくみになっている。そのほとんどは個人の家の敷地内にあるのでなかなか目にふれることはないが、観光用に設置されたものが町のあちこちにあり、町歩きで乾いた観光客のノドをうるおすのに一役かっていると。上流から順に使い方が示されています。上流から飲料水⇒米等洗い場(スイカ冷やしに利用)⇒野菜等洗い場⇒さらし場(桶等をつけておく)。美しい照明。 折しも郡上八幡城のライトアップが始まっていた。 駐車場への帰路の角には「郡上おどり」の像が。郡上おどりは、郡上八幡で開催される伝統的な盆踊り。日本三大盆踊り、三大民謡(郡上節)に数えられると。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★そして長い1日の観光を終え、今宵のホテルへ。チェックイン後早速温泉に。大浴場そして露天風呂から美しい自然が一望でき、清流のせせらぎを耳にしながら7種類の天然温泉を楽しんだのです。そしてこの夜の夕食会場へ。先ずはビールを大ジョッキーで。 そして次から次へと食べきれないほど出て来る料理を堪能したのです。 隣のテーブルには父親の80歳の誕生祝いに家族で宿泊しているグループも。誕生祝いのケーキの御裾分け(おすそわけ)も頂いたのです。 そして20:00~21:00の舞踊ショーを4人で楽しんだのです。会場内での舞踊ショー中のビデオでの撮影、舞踊ショーのブログへの写真掲載はしないで欲しいとの挨拶が。この夜は大衆劇団『劇団澤宗(げきだんさわしょう)』の舞踊&歌謡ショーを最前列で楽しむ。澤宗城栄(じょうえい)率いる劇団澤宗。久しぶりの大衆演劇を大いに楽しみアッと言う間の1時間だったのです。大衆演劇では一部の有名役者を除いて、役者の多くはメディアにほとんど出演しないため、一般的な知名度は高いとは言えないのでは。しかし全国に120前後の劇団があり、それぞれ10名ほどの団員を抱え、全国で大衆演劇の役者はおよそ1000人ほどいると以前テレビで。これは日本の他の伝統芸能である歌舞伎や文楽、大相撲などと比べても相当多い数なのだと。この日に踊りを披露した若手劇団員の中から、 次の『下町の玉三郎』の誕生を多いに期待したいのであった。 そして部屋に戻り、長い1日の疲れそしてアルコールも多いに廻りアッと言う間に爆睡へ。
2017.12.03
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昼食はひそかな人気であるとの「ダムカレー」をTRYしに「ひだまりキッチンSoramame」を訪ねる。しかしこの日は団体の予約が入っている模様で一般の営業は12:30~との表示が。まだ11時過ぎなので、諦めて2軒目の店、「そば游居 珍竹林(ちんちくりん」を訪ねるがこちらは休店日か電話をかけても応答なしでここも諦める。昼食は暫し諦めて丸山ダム展望台に向かう。国道418号の旧道沿いで、旧八百津発電所資料館より東へ1キロ半ほど。狭い道だが、道路南側に開けた場所があり、そこが適当な駐車場所。丸山ダムをほぼ真上から見る感じで、堰堤と丸山蘇水湖を見渡せることが出来た。展望台は階段を上がった場所。奥は崖の上なので、眺めはよい。横長の小公園という感じで、東屋やベンチがあり、長さは100mほど。右の方からは、丸山ダムを下流側からなかなかいい角度で望むことができる。ほぼ真横から見おろせるところもあり、展望台の配置が良く出来ていた。丸山ダムは、岐阜県加茂郡八百津町と可児郡御嵩町との境、木曽川水系木曽川に建設されたダム。高さ98.2メートルの重力式コンクリートダムで、洪水調節・不特定利水・水力発電を目的とする多目的ダム。戦後の大ダム建設の先駆けとして大規模かつ本格的な機械化手法を全工程で行い、後の日本土木技術の礎となったと。現在は国土交通省中部地方整備局と関西電力とが共同で管理しているとのこと。ダム湖(人造湖)の名は丸山蘇水湖(まるやまそすいこ)。この日は幸運にもダムが放水中。真っ白な帯が轟音を轟かしほぼ真下に100m程を落下。そして最下部へ。現在、丸山ダムはダムの機能を増強するために日本最大級のダム嵩上げによるダム再開発事業を行っていた。この再開発によって新しく建設されるダムは既に新丸山ダム(しんまるやまダム)と命名されていると。新丸山ダムが完成するとどのように変わるのですか?国内最大級の嵩上げ(24.3m)。既設の丸山ダムのやや下流に丸山ダムと一部が重なる形で新ダムを建設。既設のダムの機能を維持しながら工事を実施していると。完成するとダム湖の水位は平常時で6.5m高くなると。水位の上昇について、分かりやすいように目印が設置されていた。新丸山ダムの水位は、石垣下の既設道路の上にあった。 よってこの既設道路は完全に水没してしまう模様。ダム湖の景色が大きく変わりそう。展望台の楓の真っ赤な紅葉も見事。ダムの見学を終え、私が先頭で車に戻ると運転席の窓が全開で、中からブザーがけたたましく。運転手Sさんが愛車に戻りエンジンをかけるがウンともスンとも。Sさんが何度もTRYするがエンジンはかからなかった。更にブースターケーブルも車にないと。ブースターケーブルは、主に自動車のバッテリーのトラブルにより、エンジンを始動させることができなくなった自動車を救援するためのカー用品。救援を要する自動車へ他車から電気を供給するケーブル(電線) の事。AT車であるがダメモトで車の押しがけに挑戦したくともギアチェンジがニュートラルに移動せずパーキングの位置から動かないので車を押しては動かせないのであった。そうこうしている内に観光の老夫婦が車で我々の車の近くに駐車。事情を説明し幸い携帯されていたブースターケーブルを連結しエンジン始動に挑戦するも何故かエンジンはかからないのであった。やむなくSさんがJAFに電話し、事情を説明すると、何時間後に到着できるか折り返し電話すると。山奥でもあり3時間程度の救援待ちを覚悟し、試しに私がエンジン始動に挑戦すべく車内に。ギア位置がパーキングである事、サイドブレーキが引かれていることを確認後、ブレーキペダルを踏みながら、エンジンスタートボタンを押すと一発で「ブルン、ブルン」と嬉しい音が。私は慌てて何回もエンジンをふかしまくったのであった。この間30分か。そしてSさんはJAFにキャンセルの電話を慌ててし、なんとか事なきを得たのであった。 一体、何が起きていたのであろうか。私の経験から、ブザーが30分程度鳴り続ける程度で今まで走り続けていた車のバッテリーがあがる事は考え難い・・・と考えながらも。 更に動き出した車の助手席で『バッテリーが残っているはずなのに、動かない、いや動けない自分』の姿に密かに思いを馳せる自分がいたのであった。 そして全員で安堵?しながら岐阜県可児郡御嵩町の381号線沿いにある寿司屋「利休」で昼食。店内は七五三のお祝いの家族客がおり、やや混んで賑やかであった。「お気軽善」を注文。ランチサービスの天ぷら他。そして並寿司。仕上げは茶碗蒸し。★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★そして次の訪問場所の永保寺(えいほうじ)に向かう。永保寺は、岐阜県多治見市にある臨済宗南禅寺派の寺院。鎌倉時代(1313年)に開創された、小高い虎渓山(こけいざん)に佇む禅寺。正式名称は臨済宗南禅寺派 虎渓山永保寺。「虎渓」の名前の由来は、夢窓疎石がこの地を訪れた際、中国 蘆山の虎渓の風景(現在は世界遺産)に似ていたことに由来すると。鎌倉末期に建てられた「観音堂」と「開山堂」は国宝に指定され、池泉回遊式庭園は国の名勝に指定。11月下旬には樹齢約700年の大銀杏をはじめとする紅葉が見事で、市民や観光客を魅了。毎年3月15日には収蔵してある貴重な文化財や史料の一般公開が行われます。2003年の火災で本堂と庫裏が全焼しましたが、再建を願う市民を中心とした募金活動によって2007年に庫裏が、2011年6月に本堂が、以前と同じ姿で再建されたとのこと。虎渓山永保寺 境内配置図。参道を進んでいくと、 右手に獅子吼庭(ししくてい)が。地蔵様、お釈迦様が祀られてて飛び石が敷かれた不思議な空間。参道沿いの紅葉も見頃。白塀と紅葉のアンジュレーションが見事。参道の坂道を下っていくと本堂の屋根が左手上に見えて来た。本堂(華蔵庵)。2003年の火災で本堂と庫裏が全焼したが、再建を願う市民を中心とした募金活動によって2007年に庫裏が、2011年6月にこの本堂が、以前と同じ姿で再建されたと。 虎渓山専門道場。1830年に開山仏徳禅師500年遠諱を記念し、春応禅悦により僧堂が開単された。 その後明治初期には僧堂閉単もあったが、明治14年(1882)開山仏徳禅師550年遠諱を期に柏樹軒潭海玄昌禅師により再開単され、臨済宗南禅寺派虎渓山専門道場として現在に至っていると。 庫裏が大銀杏の後ろに。 池泉廻遊式庭園。京都の西芳寺(苔寺)をはじめ、鎌倉の瑞泉寺、京都の天竜寺、山梨県塩山市の恵林寺など夢窓国師の作による庭園が各地にあるが、 この庭も国師の代表作の一つ。自然の地形、景観を巧みに利用して築造され、中世禅宗寺院の庭園として高い価値があると。樹齢700年の大銀杏が黄金色に輝き、燃える様に色づくモミジが池を囲む。樹高25.3m、目通径1.38m、枝張20.5mと。この大銀杏は多治見市指定の天然記念物。開山・仏徳禅師(ぶっとくぜんじ)お手植えの木として伝えられている老木。平成15年の火災では、大銀杏も半分が焼けてしまったが、傷跡を感じさせることなく力強く色づく銀杏には多くの人が励まされていると。鐘楼。臥竜池(がりゅういけ)と六角堂と無際橋(むさいばし)がおりなす浄土教的庭園の様式を感じさせる庭園。臥竜池淵に小さな祠が。国宝 観音堂(水月場)。夢窓国師が建立された建物で現存する唯一のもので、 桁行三間、梁間三間、一重裳階(もこし)付、入母屋造、檜皮葺となっていて、水月場とも観音閣とも呼ぶと。夢窓国師が虎渓に来られて1年、正和3年(1314年〉40歳の時に建立されもので、禅宗の伽藍の中では一番大切な仏殿すなわち本殿のこと。明治34年3月国宝に指定され、さらに文化財保護法によって昭和27年改めて国宝に再指定されたと。正面観音開きの桟唐戸には上半に精巧な美しい花狭間の組子がはめこまれている。また須弥壇の上の岩窟式厨子には県の重要文化財に指定されている聖観世音菩薩の坐像が本尊として納められていた。観音堂前の池は臥竜池と呼ばれ、心字池とも言われていると。臥竜池に架かる橋は無際橋を渡る。現在ではこうした屋形のある橋は珍しく、昔は一時仮の土橋だった時代があったとも言われているが、 国師の作庭にこの種のものがあったとされ、昔からの形を伝えるものと考えられていると。無際橋の上から臥竜池の紅葉を。無際橋を振り返る。無際橋は当初いつ架けられたか、確実な資料はないが、文明10年(1478)にかなり大掛かりな架け換えが行われたことを裏付ける証拠があると。ただ古い時代の無際橋の姿については、想像の域を出ない。現在の無際橋は、橋長16.7m、幅員1.6mで、橋端から橋上頂部までの高さは2.6m、ほぼ円曲線の反りが付けられている。橋の中央には、行梁とも一間の切妻造檜皮葺の屋根をもつ亭舎が建てられており、柱の真々で桁行が1.9m、梁間が1.7m、外側に腰掛け付きの欄干が設けられている。橋の形態としては室町時代に溯ることが出来ると。苔の上に落ちたモミジ葉も存在感を主張。張り巡らされた低い瓦塀・信長塀が大小の池とそれをつなぐ流れの美と紅葉のBEST MIX。これぞ一面の「黄葉」。開山堂に向かって歩く。 臥竜池の奥側から無際橋そして大銀杏を。 岩の上に建つ六角堂(霊擁殿)。 『梵音岩城の六角堂には千体地蔵がまつられており、願をかける人が地蔵を借り、願がかなうと新しい地蔵を添えて返されています。滝の水は虎渓山北西にある「しでこぶし」群生地付近の湧水を集めたものです。』 一辺が1.2m程度の小さな堂で、臥竜池に水を落としている岩山の上に建っていた。屋根は茅葺きで、まるで仙人の住まいの如し。開山堂が正面に見えてきた。 この地は虎渓山と呼ばれ、虎溪西国三十三観音がある。第二十九番の馬頭観音像。国宝 永保寺 開山堂(僊壷堂) 。1352年頃に足利尊氏が建立したといわれ純正唐様建築の国宝。正面に見えるのが外陣(昭堂・礼堂とも言う)、その奥に相の間そして内陣(祠堂)が続いていると。寛政四年(1792)の住持歴代には、「開山塔」(祠堂)貞和三年(1347)造立と記述されているが、外陣(礼堂)はやや遅れて建立されたものと考えられていると。外陣(礼堂)は桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、檜皮葺で、内陣(祠堂)は桁行一間、梁間一間、 一重もこし付、入母屋造、檜皮葺。この開山堂は名勝庭園内の臥竜池を回った一番奥の僊壺洞(せんこぼら)に築造され、夢窓疎石や仏徳禅師が山居されていたとされる 盤礴庵(ばんばくあん)や大包庵(だいほうあん)の跡が林になっていると。 再び臥竜池に戻り境内を見る。風が無い早朝であれば、見事な逆さ銀杏、逆さモミジの姿が楽しめるのであったが。白壁に映るモミジの陰も美しかった。 再び人の少ない無際橋を。池の此岸(煩悩にまみれた世界)と彼岸(煩悩から解放された世界)を結ぶ橋。無際とは限りのない永遠という意味で、此岸も彼岸も表裏一体ということを表しているのだと。一般拝観者は立入禁止の禅堂(獅子窟)・旧禅堂・楓樹林の入口にあたる立派な門。 門の扉の紋越しに紅葉を。門の十六菊紋の隙間からも見事な紅葉が。菊紋の中心にレンズを入れて撮影。 「水月場」「虎渓山」と書かれた御朱印を頂きました。再び国宝 観音堂(水月場)を斜め後方から。塔頭の続芳院(ぞくほういん)。本尊は観世音菩薩。永保寺の輪番をつとめ護持にあたって来たと。 虎渓山東雲峰続芳院(こけいさん とううんぽう ぞくほういん)が正称。釈迦牟尼仏を本尊とする臨済宗南禅寺派の禅宗寺院。開基は果山正位の法孫、玉霄正深禅師(1402年示寂)。 駐車場に戻る途中の出店で五平餅を楽しみました。
2017.12.02
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天龍寺の見学の後は、愛知県岡崎市に在住のKさんと合流するために、名古屋鉄道広見線の駅・新可児駅に向かう。そして待ち合わせ時間の9時に無事合流し4人での紅葉巡りのドライブのスタート。次の訪問場所の八百津・「杉原千畝記念館」に車を走らせる。再び東海環状自動車道の木曽川にかかる木曽川橋の下を通過。木曽川に架かる下渡橋を通過し350号線に。左手奥に木曽川橋の姿が。山の広葉の木々の黄葉もスタート。杉原千畝記念館まで10kmの表示が。日本の外交官であった杉原千畝は、第二次世界大戦中、リトアニアの「カウナス」で日本国政府の指示にもかかわらず、生命線となる多数の日本通過ビザを独断で発給し、多くのユダヤ人らを含む数千人の避難民を救ったことで世界から称賛を受けている人物。今年の4月に、バルト3国を旅した時にリトアニア第二の都・カウナスにある杉原記念館を訪ねた際に、日本にも生まれ故郷のここ岐阜県八百津町に杉原千畝記念館があることを知り訪ねたいと思っていたのである。【https://plaza.rakuten.co.jp/hitoshisan/diary/20170426/】参照ください。杉原千畝記念館に到着し、駐車場に車を駐める。八百津(やおつ)の街の案内地図が駐車場横に。八百津町は、北の飛騨川と南の木曽川に挟まれた集落で、海抜120m前後の河岸段丘に沿って住宅、農地が広がっているが、過疎化が進んで人口が減少傾向にあると。八百津の地名の由来は、古代の地名からであるとするもの、町を流れる木曽川に丸山ダムができる以前は木材を流しており、それを集積する港(津)が多い(八百)、などがあると。ユニークなデザインの杉原千畝記念館の展示室。彼の生まれ故郷である岐阜県八百津市のここには「人道の丘公園」が。雲も放射状に拡がっていた。シンボルモニュメント。平和を奏でるモニュメントと呼ばれ、160本のパイプからなるパイプオルガンをイメージしたモニュメント。デザインは伊井伸。最大高さは6.85m。杉原千畝記念館。建物は檜材を使用した伝統工法で造られ、岐阜県21世紀ふるさとづくり芸術賞を受賞。ナチスドイツから逃亡してきたユダヤ人を救出するためにビザ発行を行った当時のカウナス領事館における杉原千畝による仕事を再現した様子などが展示されていた。地元岐阜県の総檜(そうひのき)造りと新伝統工法の木組みフレームによる展示室。 岡崎のKさんが入場無料になる書類を準備してくれていて、全員フリー入場。杉原千畝記念館の入館証(パスポート)。表紙に「愛・勇気・心」という言葉が。『人を思いやる愛の力のゆえに勇気を出して自分で決断し たビザの発給。杉原千畝の出会った「いざという時」を、 あなたも迎えた時、勇気を持てるか、同じ決断ができる だろうか・・・心の中で問うかもしれません。彼の決断 には、その場にいた妻や子供の愛の支えがありました。 愛が愛を導いたともいえる、人の心の温かいつながりを、 小さくても真実な愛の偉大な力を、感じてください。』 と。パスポートの内部。館内には、杉原千畝氏の生涯や当時の文献・資料などが展示されているだけでなく、ホロコースト(大量虐殺)や戦争についての展示もなされており、様々な歴史に触れることができたのです。また、訪れる外国からの来館者のために、展示の説明は日本語だけでなく、英語とヘブライ語でも表記されている場所も。窓から人道の丘を見る。八百津の街ガイドポスター。八百津町 眺望 。蛇行する流は木曽川。窓の下の山裾には四季桜?が開花を始めていた。決断の部屋。当時のヨーロッパはナチス・ドイツ軍の脅威に飲み込まれ、ユダヤ人は迫害され大虐殺などが行われていた。ドイツ軍がポーランド侵攻し、多くのユダヤ人たちは隣国リトアニアへ逃げ込みますが、リトアニアはソ連への併合が確実となり、助かる道は日本通過ビザを得て、第三国へ逃げるのみ。そしてビザ発行を求めたユダヤ人難民が「私たちを助けて下さい」「命を助けて…」と杉原千畝がいる領事館へ次々に押し寄せて来た。そんな緊迫した状況を再現させた「決断の部屋」と名付けられた「杉原千畝記念館」にある一室。彼がどんな気持ちでビザを発給したのか、日本の政府にどんな思いを持っていたのか、木で囲まれた穏やかな空間でその席に座って、思いを馳せることが出来る空間。「命のビザ」を書き続けた領事の机(再現)に座り杉原千畝記念館の入館証(パスポート)にサインする旅友二人。 終戦後、日本に帰国した彼を待ち受けていたのは、勝手な行動による外務省の辞職勧告。そして「藤沢」での彼の一家の生活は困窮するも、語学が堪能だったこともあり単身でモスクワに赴任し、1986年に86歳でその生涯を「鎌倉」で閉じたのであった。しかし彼が、人として行った行為を認められたのは、なんと…、彼の死後14年も過ぎた2000年になってのことだったのだ。杉原千畝の日本政府に対する公電と、その意思に反する外務省返電の数々が展示されていた。この様な電報の展示はリトアニアの元日本国在カウナス領事館・現杉原千畝記念館にはなかったのではないだろうか。ゲストルームには杉原千畝の杉原千畝に関する様々な書籍が並んでいた。私の既読の本も何冊か。杉原千畝の人物絵画も展示されていた。穏やかな顔に信念の眼(まなこ)が。杉原千畝記念館碑。 命のビザの杉原千畝をデザインしたラッピングタクシーが八百津町を拠点に稼働しているのだと。その他に八百津祭り・久田見祭りをデザインしたラッピングタクシーも稼働中と。右サイドには執務室でペンを取る千畝とビザに押されたスタンプをデザイン、左サイドには、ビザを求め領事館に押し寄せた難民たちと優しいまなざしの千畝の姿がデザインされていた。そしてフロントには、「杉原ビザ・命の軌跡」。杉原千畝が発給した日本通過ビザで助けたれた人々の命のルートを表現。土・日・祝日は、どちらかの1台が観光シャトルタクシーとして無料で運行しているのだと。1日9便で、八百津町ファミリーセンター-杉原千畝記念館ー八百津町商店街間を運行中と。この日の運転手がタクシーのデザインを駆使して、杉原千畝の行動を丁寧に説明してくれた。ところで、実は以前から杉原千畝の生誕の地について話題になっているのである。これを知ったのは、今年4月にリトアニア・カウナスにある杉原記念館を訪ねる前に自宅で予習をしていた時にネットで。実は、彼が生まれたのは実家のあったここ「岐阜県八百津町(やおつちょう)」ではなく、戸籍抄本から杉原千畝の出生地が「岐阜県美濃市」となっていると。問題なのは、2000年以降に、杉原千畝の手記から「岐阜県の美濃市の教泉寺で生まれた」という記述を「岐阜県の八百津町で生まれた」と意図的に書き換えた人物がいるということなのだと。詳細に興味のある方は【http://libpsy.com/sugihara-chiune/3920/】等を参照頂きたく。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 八百津・「杉原千畝記念館」を後にし 「旧八百津発電所資料館」に向かう。旧八百津発電所は旧名古屋電力が着工し、1911年(明治44年)に旧名古屋電燈により竣工し、1974年(昭和49年)に廃止された八百津発電所の本館を博物館として活用したもので、1998年4月に開館。同年5月には発電所本館、放水口発電所が、2005年7月には水槽、余水路が「旧八百津発電所施設」として重要文化財に指定されているのだ。駐車場に車を駐め、木曽川に向かって階段を降りる。旧八百津発電所は明治・大正・昭和の3代にわたり活躍して来たが、昭和46年の新丸山発電所(関西電力)の完成を機に、昭和49年に運転を休止し、約63年にわたる発電の歴史に幕を閉じた。 関西電力では昭和53年に発電所施設を地元八百津町に譲渡したもの。この旧八百津発電所は、平成10年4月20日、「旧八百津発電所資料館」としてオープンし、同年5月1日に国の重要文化財に指定された。リニューアルされた同資料館は、歴史を感じさせる発電機やしゃ断器をはじめ現存している発電所として極めて珍しい「放水口発電所」が見学できる。また、八百津町の郷土資料も展示されていた。資料館が前方に見えて来た。木曽川の流は速く。「旧八百津発電所資料館」に向かう途中の紅葉も見事。陽光が射してきたので急いでシャッターを。放水口発電所。放水口発電所は、電気需要がひっ迫した大正6年に、八百津発電所の放水を利用して造られたもので、出力1,200kWの発電施設。発電設備は日立製作所の発電機1基を露出型フランシス水車4台で廻すという他に類例のない設備であると。4台の錬成水車を低落差用に採用したのは、過度期の使用例であり、日本の水車製造技術の水準と特徴を示す貴重な産業遺産で、現存している例のないものであると。旧八百津発電所資料館・本館。レンガ造りモルタル塗りの堂々たる外観。画像右が送電棟、画像左が発電棟。旧八百津発電所資料館入口。入館券を300円で購入。本館入口受付。横には2Fへの階段が。本館1階の入り口を入ると、町民ギャラリーもあった。送電棟内部の展示。昭和12年製の変圧器が3基展示中かつては母線室という部屋だったらしい。隣接の発電棟に移動すると巨大な水車(中央)と発電機(右) がデーンと。水車と発電機を直結した発電装置が3組。当初の設備は米国モルガン・スミス社製水車4台と、ジェネラル・エレクトリック社製の発電機4台が設置され、出力7,500kWを発電するもので、当時の日本では有数の発電設備。水車が破裂するといった事故もあったたが、その原因解明と改良により、日本の水車製造技術が向上するという役割も果たした。大正13年までに4台とも電業社製に交換され、発電機も芝浦製作所がコイルを巻き換え、出力総計9,600kWの発電設備となったと。八百津は木曽川の舟運で栄え、木曽木材を筏(いかだ)に組んで運んでいたと。八百津祭りで使われる山車(だし)や山車の引手の衣装が展示されていた。毎年4月第2日曜日の本楽と前日の試楽の2日間、八百津の産土神(うぶすながみ)である大舩神社を中心として行われると。祭日には船を形どった山車3台(三台を合わせるとみごとに一隻の船の形に)が曳き出され、町内を練り歩く。美しく飾られた勇壮なだんじりは、どっしりと重く大きなかけ声とともに曳っぱられ、男達の巧みなテコ捌きで街並みを練り歩く姿は熱気にあふれ、別名「けんか祭り」とも呼ばれていると。記念館窓からの紅葉。発電装置の、分解展示されていない2ユニットの一つ(最奥)。変圧器1~3号。2F窓からみえる木曽川の風景が心地良く。発電装置の、分解展示されていない2ユニットを2Fから見る。電力産業史と八百津発電所の紹介コーナーも2Fに。水車、発電機の組立図も展示されていた。久多見まつりの紹介コーナー。毎年4月第3日曜日に久田見の氏神である神明・白鬚両神社で行われる祭り。6両の絢爛豪華な花山車の上で繰り広げられる、からくり人形劇が見ものと。本館1階の入り口付近には町民ギャラリーも。地元の方が彫った不動明王像や木仏が。見事なそして精細に仕上がった能面も。発電所の姿を描いた絵画も。木曽川沿いの森林の麓の紅葉。ヨーロッパ風建築の面影を残したモダンな建物は歴史そして優雅さと風格に満ちあふれ、レンガ造りモルタル塗りの堂々たる外観は、歴史浪漫の世界へタイムスリップさせてくれたのであった。そして日本の水力発電の歴史も学ぶことが出来たのであった。
2017.12.01
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