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徳川将軍家墓所を見学に。徳川将軍家墓所への通路の両側にも、カラフルな千躰地蔵尊が。 正面の門は旧国宝で、「鋳抜門(いぬきもん)」といわれ、文昭院殿霊廟(徳川家6代・家宣公)の宝塔前の「中門」であったものを移築したと。左右の扉は共に青銅製で5個ずつの葵紋が配されていた。扉の右側には昇り龍が鋳抜かれていた。 左側には下り龍が。 四菩薩像。向って左から文殊菩薩(もんじゅぼさつ)<卯年守本尊>虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)<丑寅守本尊>地蔵菩薩(じぞうぼさつ)<子育地蔵>普賢菩薩(ふげんぼさつ)<辰年守本尊> 。チケット売り場で宝物館とのセット券を購入し霊廟内へ。 将軍の墓所にしては質素な雰囲気。しかしかつてはそれぞれの将軍ごとに墓所や本殿、拝殿などのさまざまな施設が設けられていたと。昭和20年、戦争によってそれらのほとんどが焼失・破壊してしまったと。増上寺は徳川将軍家の菩提寺として、かつては二代秀忠の霊廟を中心とした南廟(現在のゴルフ場敷地)と六代家宣・七代家継の霊廟を中心とした北廟(現在の東京プリンスホテル敷地)があり、その華麗さは日光東照宮を凌ぐとさえいわれていたが、昭和20年(1945年)3月の東京大空襲によりその大半が焼失。昭和33年(1958年)に実施された改葬により、徳川家の墓所は安国殿裏手のこの一画にまとめられたのだ。 旧増上寺御霊屋の写真。モノクロだが豪華絢爛さが伝わってきた。頂いたパンフレットの将軍家墓所宝塔配置図。 向かって右側。 向かって左側。宝塔には石製と青銅製の2種類が確認できたのであった。 十二代家慶 【慎徳院殿(しんとくいんでん)】家斉公の第2子として、寛政5(1793)年に出生。天保8(1837)年、十二代将軍に。天保の改革に着手するものの改革は失敗に終わり、幕府は没落の道を進むことに。嘉永6(1853)年、あわただしい世情の中61歳で逝去。九代家重 【惇信院殿(じゅんしんいんでん)】吉宗公の長子として、正徳元(1711)年に出生。生まれつき多病で、49歳で将軍職を譲り、宝暦11(1761)年、51歳で逝去。調査によると、重度の歯ぎしりにより発音障害があったようですが、復元された容貌は歴代将軍の中でも最も美男子であったようで、遠くから拝謁する大名にとっては気高く見えたと。七代家継 【有章院殿(ゆうしょういんでん)】家宣公の第3子として宝永6(1709)年に出生。父の逝去、兄二人の早世でわずか3歳にして七代将軍職を継ぎます。正徳5(1715)年皇女八十宮と婚約するも、元来が病弱で実現を見ぬまま翌正徳6(1716)年に8歳で亡くなられた。廟は文昭院殿廟に並んで造営された。 六代家宣【文昭院殿(ぶんしょういんでん)】綱重公の子として寛文2(1662)年に出生。宝永6(1709)年将軍職を継ぎ、新井白石等を重用し政治の刷新をはかり、生類憐みの令を廃止するなど、「正徳の治」をなしとげますが、将軍職わずか3年にして病に倒れ、正徳2(1712)年、51歳の生涯を閉じました。増上寺の北霊域に造営された文昭院殿廟ですが、参詣した永井荷風は、荘重美麗な外観への驚きと神壇・壁画・天井画・欄間彫刻を配した内部の「秩序の世界」に感嘆し、その著「霊廟』の中で「広大なる此の別天地の幽邃なる光線と暗然たる色彩と冷静なる空気とに何かしら心の奥深く、騒々しい他の場所には決して味われぬ或る感情を誘い出される」と告白しています。 十四代家茂【昭徳院殿(しょうとくいんでん)】 紀伊徳川家、斉順の第2子として弘化3(1846)年に出生。安政5(1858)年将軍家の養子となり十四代将軍に。しかし、世継問題と日米通商問題で幕府は大きく揺れ、井伊直弼によって安政の大獄が始まったが、事態収拾のために公武合体策をとり、和宮親子内親王(静寛院)を正室に迎えた。尊皇攘夷派と幕府の対立が激化するなかで、家茂公は長州征伐を指揮しますが、出征途中の大坂城で病のために逝去。慶長2(1866)年、享年21。 二代秀忠【台徳院殿(たいとくいんでん)】 秀忠は家康の第3子として、天正7(1579)年に出生。慶長10(1605)年、二代将軍に就任。将軍職にあること18年をかぞえ寛永9(1632)年、54歳で逝去。大葬の式は行われず霊柩を増上寺に迎え、二月十日より当時の最高の技術者が動員され、霊廟が順次造営された。台徳院殿廟奥院に杷られた宝塔は、装飾華麗で当時の芸術の粋をつくしたものであったが、惜しくも木造のため戦災で焼失してしまったと。 静寛院和宮 十四代将軍家茂の正室、静寛院和宮は仁孝天皇の第8皇女として弘化3(1846)年に出生。6歳の時に有栖川宮と婚約が成立していたが、婚儀間近になって公武合体策によって降嫁。家茂の死後、落飾して静寛院と称し、波乱万丈変転厳しい時代のなか、江戸城無血開城、徳川家存続、夫君追善に力を尽くし、明治10(1877)年31歳という短い生涯を閉じた。没後遺体は京都へ戻すよう沙汰があったが、本人の遺言にしたがい、家茂公と同列に並んで増上寺に祀られたと。合祀(ごうし)塔 現在の合祀塔には、家光公第三子で家宣公の実父である徳川綱重をはじめ、家光公側室で五代綱吉公の生母桂昌院、十一代家斉公正室広大院、家宣公側室月光院ら南北の御霊屋に祀られていた歴代将軍の夫人や子女の多数が埋葬されていると。なお宝塔は月光院輝子の墳墓に祀られた宝塔が使われているのだと。 徳川将軍家墓所門を墓所内部から。 こちら側にも昇り龍の鋳抜きが。下り龍。 安国殿、仏殿の裏側。
2017.03.31
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参道から大殿前に至る階段...18段。阿弥陀仏の本願、第18願。 大殿に登る階段...25菩薩をあらわし、25の階段となっています。 増上寺・大殿と東京タワーのコラボレーション。「増上寺」と書かれた扁額。 正面では無く右側の入口から本堂へ。大殿の内部。ご本尊の阿弥陀如来。 高祖善導大師。 僧侶が舞楽を奉納する際に使う太鼓等の道具か? 大殿回廊から境内、三門を見る。 増上寺境内の西側を大殿回廊から見る。 正面左側は増上寺会館。蘇鉄と三波石(さんばせき)。三波石は、群馬県藤岡市などで産出される岩石。青緑色で白い縞模様があるものが、よく庭石などに利用されているのだと。 安国殿と東京タワー。戦災で焼失した大殿の代わりに仮本堂としていた建物を、昭和49(1974)年、新大殿完成の折りに境内北側に移転し、御堂「安国殿」とした。老朽化のため、平成23(2011)年法然上人八百年御忌を記念し、念仏信仰の拠点として徳川家康公が成し遂げた"天下泰平の世(安らかな国づくり)"を願い、新しい安国殿が建立したと。 安国殿には、徳川家康が深く崇拝した念持仏の秘仏、黒本尊阿弥陀如来が祀られている。安国殿内部。本堂中央に本尊である、恵心僧都の作と伝えられる秘仏「黒本尊」。そして右側には阿弥陀如来立像。左には皇女和宮の等身大の御像および徳川家御歴代並びに一門の尊霊の位牌等が祀られていた。安国殿前から大殿を見る。西向聖観世音菩薩方面を見る。 西向聖観世音菩薩(にしむきせいかんぜおんぼさつ)。鎌倉時代、執権・北条時頼公が観音山(現:東京タワー)に辻堂を建て、鎌倉街道(現:六本木方面)に向けて安置した石像の観音様。子育て・安産に霊験あらたかと。昭和50(1975)年浄土宗開宗八百年記念の境内整備事業として、現在の安国殿前に尊像を遷座、昭和55(1980)年1月に観音堂落成。江戸三十三観音札所で聖観音像は子育て開運の利益大と言われていると。「西向観音」と書かれた扁額。西向聖観世音菩薩の前には、おびただしい数のお地蔵さんが。子どもの無事成長や健康を願って、順次奉安されていると。風車が圧巻。「千躰子育て地蔵尊」。安産、子供の無事成長、健康を願っていると。 ズームで。 石仏も。 増上寺境内の西側には、可愛い地蔵がずらりと並んでいた。4月2日~7日に開催される「御忌」のポスター。「一筆写経」 の案内。安国殿の片隅に筆ペンと用紙が用意されていて、書写した写経と納経料の500円を納めると南無阿弥陀仏の御朱印がいただけると。「黒本尊」の御朱印を頂きました。こちらにも「千躰子育地蔵尊」。千躰子育地蔵尊は子育てや安産にご利益あり、子供の無事成長や健康を願って、子育て地蔵が順次奉安され続けていて、赤い頭巾をして風車を持っている服を着た可愛い地蔵さんが並んでいた。熊野(ゆや)神社。元和10(1624)年、当寺第十三世正誉廓山上人が熊野権現を増上寺鎮守として東北の鬼門に勧請したもの。『熊野』は「クマノ」・「ユヤ」と二通りの呼称がありますが、ここでは「ユヤ」権現として親しまれているのだと。手水舎。「熊野みこし講 創立40周年記念碑」。記念碑正面には、創始者である綿貫次郎氏の名前と熊野みこし講の発足について、石碑に彫刻されていた。「め組」殉難碑。「火事と喧嘩は江戸の華」と言われたが、火事を消し止める火消しは、その「粋」のさいたる職業であったかもしれない。芝で火消しというと、「め組」である。実際、増上寺の境内には、増上寺門前を守った町火消し「め組」の碑がこれ。享保元年(1716)建立というから290年前に建てられたものである。これは、「め組」の殉難者・物故者の供養碑であるが、増上寺自体は寺社奉行、大名火消しの管轄であったと。弔魂之碑(ちょうこんひ)。西南の役(せいなんのえき)で戦死した看護卒(かんごそつ:看護師)の供養碑で、明治11年(1878)に建てられた。題額は山岡鉄太郎(鉄舟)。筆塚。比較的新しい石碑のようで「心と創造」と刻まれていた。筆塚は古くなった筆を供養し、筆への感謝と勉学の向上を願うもので、こちらの筆塚は平成16年に建てられたもので子どもたちへ 学べよ 努めよ 今がその時ですと彫られていた。。阿波丸事件殉難者之碑。第二次世界大戦も終りに近い、昭和20年(1945)4月1日夜半、台湾海峡で米国潜水艦クイン・フィッシュ号に不法撃沈され、2000人以上の乗船者のほとんどが死亡した事件。この不法撃沈され世界最大の海難事故となった犠牲者の御霊を慰める慰霊碑。南無阿弥陀仏平等・・・と刻まれた石碑。再び安国殿と東京タワー。
2017.03.30
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この日もお世話になった会社の先輩の慰労会に参加。この日も早めに家を出て、まずは東京都港区芝公園四丁目にある浄土宗の寺院増上寺を久しぶりに訪ねたのであった。都営地下鉄大江戸線で大門駅で下車しA6出口から地上に。 「二代広重作 東海道名所之内 芝増上寺」 の浮世絵。増上寺の朱に塗られている総門は、俗に大門と呼ばている。江戸時代には門の手前に橋が架かっていたと。芝大門交差点の西にある増上寺大門。東京・芝のランドマーク芝大門。明治初頭に増上寺からこの大門を譲り受けた東京都が昨春、138年ぶりに無償で返還したとのこと。門の下に車道が通っているという、ちょっと珍しい光景。門の歩道部分は両側とも工事中で白いフェンスに覆われていた。 大門の横にある浮世絵「江戸自慢三十六興」のレリーフ。右が背景が二代広重で、人物が三代豊国によるもので毎年9月の芝明神の生姜市(だらだら祭り)の光景とのこと。左が初代安藤広重の筆。安政5年といえば、幕末。その翌年には江戸が大地震に襲われますから、この賑わいぶりはその前の様子。 この地域は増上寺の門前町として発展した場所であり、多くの狭小な町が混在しており中心となる大きな町が存在しなかった。そのため、この地域の俗称である大門(増上寺の大門に由来)を町名・芝大門に採用することになったとのこと。 右手には歴史を感じる「源興院」の塀と門が。 そして増上寺前の交差点へ。 前方の巨大な「三解脱門」が迎えてくれた。増上寺の表の顔として、道行く人々に威風堂々とした姿を見せる三解脱門(三門)。元和8年(1622)に建立された。増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されている。三解脱門とは3つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門のこと。手前の芝公園 ・歴史の1ページと題された説明ボード。芝公園一帯は、江戸時代には増上寺の境内であった敷地が、明治6年の公園制定の太政官令によって公園として開放された、日本最古の公園の一つ。第二次世界大戦後、政教分離政策のために増上寺と切り離され、敷地の外周部分は都立芝公園に、この一角は様々ないきさつを経て、現在は港区立芝公園となっていると。都立芝公園案内図。 そして増上寺に到着。「浄土宗 大本山 増上寺」 と刻まれた石柱。朱の壁には花頭窓が。徳川将軍家の墓所 拝観と篠田桃紅 作品無料公開 の案内。三門の左側には「御忌(ぎょき)」 と書かれた立て札が。御忌とは、浄土宗の元祖法然上人の忌日法要のこと。4月2日~7日に催されると。増上寺 案内板。 増上寺 境内MAP。大門から大殿本堂に至る道程は、穢土(えど・我々の世界)から極楽浄土に至る世界を表しているのだと。三門をくぐり、煩悩を解脱して、大殿へと向かうと、本尊である阿弥陀仏が鎮座し、西方極楽浄土の如き、西に位置している点が特徴と。そのため、増上寺の大殿の荘厳は、極楽の世界を視覚的に表現した造りになっていると。増上寺三解脱門をくぐり抜けて直ぐの左側に聖観世音菩薩像が。 聖観世音菩薩像は昭和57年に発生したホテルニュージャパンの火災事故で死亡した33名の供養のため建立された被災者慰霊像であると。 仏足石。仏足石は仏の足うらの形(千輻輪相)を石に彫りつけたもの、インドでは仏像が刻まれる以前は仏足石や菩提樹などで釈尊を象徴的にあらわし、人々はこれらを仏として礼拝したのだと。石の表面に足の形が彫られているようですが、はっきりとは見えませんでした。白い部分が足の中心の場所。 この仏足石は、当山第70世福田行誠上人の代、山内宝松院松涛泰成上人の発願により明治14年(1881)5月に建石されたもので、側面には仏像、経文、由来などが刻まれていた。「魚供養之碑」 説明板には「魚がしに会社を起こし、水産物を商って三十七年ひたすら業界の発展と社会への貢献を志し、困難を克服して現在に至った足跡を顧みるとき、感慨ひとしお無量なるものがある。今日あるは、水産物とりわけ魚類のおかげであることに思いをいたし、深い感謝をこめて、ここに魚供養碑を建立するものである。 願わくは、生業を同じくする人々よ、しばし歩みをここにとどめ、彼らのために感謝の祈りを捧げられんことを。」供養碑の裏面の説明は碑の解説看板と同じである。ブッシュ槙。米国第41代ブッシュ大統領が副大統領として昭和57年(1982)4月24日来日の際、ここ増上寺に参詣し、記念としてこの樹(コウヤマキ)を植えたのだと。浄土宗吉水講記念碑。吉水講とは、戦後の混乱期に浄土宗諸師により発足した吉水流詠唱の法会。「吉水」とは、宗祖法然上人がお住まいになられていた、現在の総本山知恩院周辺の当時の地名に由来しているのだと。 境内から三門を振り返る。 手水舎。 この水盤舎は、もと清揚院殿(3代将軍家光の三男で6代将軍家宣の父親、甲府宰相とよばれた徳川綱重)の霊廟にあったのもの。綱重は、延宝6年(1678)になくなり、最初小石川伝通院に葬られたがその後、家宣の代に、増上寺に改葬されたと。 東京大空襲の際にほとんどが焼失し唯一残ったもので、この水盤舎は、徳川将軍家霊廟建築を伝える数少ない遺構。巨石の石灯籠も。 三門をはいった参道の右手には、大きな鐘楼と鐘が。鐘楼堂は寛永十年(1633)に建立されたが、現在の鐘楼堂自体は戦後の再建によるもの。鐘楼堂に収められている大梵鐘は、延宝元年(1673)にあまりの大きさに七回の鋳造を経て完成し、江戸三大名鐘の一つに数えられています。重さはじつに4000貫(約15t)もあります。延宝元年(1673)に完成した、高さ2m42cmの関東地方最大級の大きさを誇る大梵鐘。除夜の鐘の前には鐘楼堂で法要が営まれる。年明けと同時に増上寺法主によって鐘が打ち鳴らされる。 写経塔。信者の写経は、境内中程に建立されたこの写経塔へ、永代にわたり奉納されると。聖鋏観音像。 この聖鋏観音像は、昭和56年(1981年)8月3日、国際美容協会会長・山野愛子が願主となって大本山増上寺境内のこの地に建立、開眼された。願主の一生がハサミに支えられ、お陰によって生かされたことへの深い感謝と、ハサミの中にみる己れを滅して他を整え美しくする働きを、観音様と拝む心とによって聖鋏観音像造立を発願。法然上人歌碑 左右にあるが左側のが下写真。「池の水 ひとのこころに 似たりけり にごりすむこと さだめなければ」変わりやすい人の心を池の水にたとえて歌に示されたもの。 「月かげの いたらぬ里は なけれども ながむる人の こころにぞすむ」観無量寿経に説く「光明は遍く十方世界を照して念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」の意を法然上人が歌に示されたものであると。
2017.03.29
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我が家の狭い裏庭のユキヤナギが開花を始めています。 地面の際から枝がいく本にも枝垂れて、細く、ぎざぎざのある葉をつけています。花は、この3月から4月にかけて、雪の如き白き小さな花を枝全体につけるのです。その様(まるで”白い柳”)から和名・ユキヤナギ(雪柳)がついたとのこと。 別名に、小米花(こごめばな)、小米柳(こごめやなぎ)などがあるとのこと。美しい純白の5弁の花。 葉が柳の葉に似て細長く、枝いっぱいに白い花を雪が積もったように咲かせるのです。花がいっぱい散ったあとの地面も雪がパラパラと積もったように見えるのです。昨日の朝は、箱根や千葉、茨城方面でも積雪が。そして栃木県那須町の那須温泉ファミリースキー場の第2ゲレンデ周辺で雪崩が起き、男子生徒ら8人が死亡 とのテレビニュースが。桜やチューリップとともに春の訪れを告げてくれる花の1つとなっています。雪柳(ユキヤナギ)の花言葉は『愛嬌』『愛らしさ』『賢明』『殊勝』『静かな思い』とのこと。小さく可憐な白い花にちなんで、「愛らしさ」という花言葉がつけられたと。また、「静かな思い」は、枝を埋め尽くすほどたくさんの花を咲かせるにもかかわらず、しとやかな印象を受ける事に由来するのだと。 「雪柳 吹雪のごとく 咲き始め」・・・・・・詠み人知らず
2017.03.28
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昨日の早朝に我がブログにアクセスするとカウンターの数字が1,110,527回と1,111,111 回に近づいていることに気がついたのです。昨日は孫が我が家に遊びに来て、これを19:30過ぎに自宅を出て送り届けました。帰宅してみると回数はそして暫くすると、1,111,111回を通過したのです。カウンターをズームで。 日時は2017/03/26 20:45。 管理画面です。ここにもトータルのアクセス数「1,111,111 アクセス」と。アクセスレポート画面です。最近は500回~1250回/日 、平均800回/日前後ののアクセスを頂いている事が解るのです。ブログを開始したのは2008年4月。 最初のブログは2008.04.06 「太陽光発電工事開始」でした。 開始日の2008.04.06からの日数です。日数8ヶ年353日、延べ3,275日なのです。そしてブログアップ回数は3266件となっています。開始初期の1年は空白の日もありましたが、その後はほぼ皆勤賞。 我がブログの現タイトルは「JINさんの陽蜂農遠日記」 です。いずれも趣味の陽:太陽光発電蜂:養蜂農:農園遠:国内&海外旅行に関する「備忘録」なのです。これからも毎日の出来事を「つれづれなるままに、日くらしパソコンにむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」 の精神で、あくまでも「備忘録」として、このブログを書き続けて行きたいと思っています。
2017.03.27
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少し時間が経ってしまいましたが、先月長男の第一子の女の子の「お宮参り」を長男夫婦が住む都内の神社で行いました。(藤沢のおじいちゃんより)♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥藤沢のおじいちゃんは物忘れが激くなってきたので、おじいちゃんに代わり私・「樹」が自ら、当日を思い出しながらこのブログを書くことにしました。 お母さんの実家のある岡山で生まれ、2ヶ月ほど岡山のおじいちゃん、おばあちゃんにお世話になりましたが、春も近づきだんだん暖かくなって来たのでこの前日に、岡山から、おかあさん、岡山のおじいちゃん、おばあちゃんの4人で一緒に都内の家に戻ったのです。新幹線も初めて乗りましたが、楽しかったですがチョット居眠りしすぎてしまいました。品川駅で下車し、これから暮らす家(自宅)に到着。自宅の壁には、雛人形5段飾りの織物を飾ってくれていました。祝い着(掛け着)を見つめる岡山のおじいちゃんとおばあちゃん。そしてその写真を撮る藤沢のおじいちゃんです。私は昨年・平成28年12月27日に誕生しました。名前は「樹」です。 何かこれまでとは違う景色だなあ~~。 おばあちゃんが準備してくれた祝い着(掛け着)です。縮緬地(ちりめん)に花柄などをあしらった「友禅模様」の祝い着。そして記念撮影の為に近くの写真屋さんに全員で向かいました。 お父さんもこの日はいつも以上に笑顔で足取りも軽く。私はお母さんに抱っこされてお父さんの嬉しそうな顔を見て大満足。この日は大安のため、私と同じく多くの記念撮影のお客さんで店内は混んでいました。 私の記念撮影の準備状況を笑顔で見つめる家族達です。藤沢のおばあちゃんも、この日の為に着物を新調してくれたとのことです。 そして、写真屋さんのオジサンが面白い声を出す匠の技で、私を笑わせようとしたのです。今日は混んでいることも解っていましたので、早く笑顔の写真を撮ってもらう必要があったので、その空気をしっかりと読み取り、私もいつのまにか笑顔になってしまったのです。家族みんなも、写真屋さんのオジサンからいろいろ言われ、なかなか私の笑顔とタイミングが合わなかったのです。私もいろいろな衣装、ポーズで写真を撮ってもらいました。なんとか記念撮影も無事終わり、自宅近くの神社へみんなでお宮参りへ。 快晴のこの日、風もなく太陽が眩しかったのです。 おとうさんは雨男と皆から言われているようですが、これからは私を連れて行ってくれれば!!神社本殿。 両親がお宮参りの手続きを社務所にて済ませてくれました。 藤沢のおばあちゃんも、緊張して私を抱いてくれ、お母さん、岡山のおばあちゃんが祝い着を整えてくれていました。 私は藤沢のおばあちゃんに抱かれて満足・ご機嫌でした。 そして守り神である産土神(うぶすながみ)に私の誕生を報告し、家族全員で健やかな成長を願ってくれたのでした。途中、神主さんの声にチョットびっくりしましたがじっと我慢したのです。私は既に「空気読めるんだも~~ん」。そしてお母さんとも神社前にて記念撮影。 泣くことも無くお利口さんにしていたとみんなが褒めてくれました。 両親と一緒に。 岡山のジ-ジ、バ-バと一緒に。 女性4人で仲良く。0歳の私そして20代~60代と。お父さんが絵馬に願いを書いて奉納してくれました。 「まっすぐ 大きくなりますように」と書いてくれました。頑張りま~~す!!そして自宅に一度戻り、タクシーにて近くの店の食事会に行きました。 両親がコースを予約してくれていました。 店が、お祝いの鯛の姿つくりをプレゼントしてくださいました。私は慣れない1日でしたので、少し疲れてしまいました。 皆は美味しそうに料理を楽しんでいました。 私はおかあさんのオッパイだけで大満足。ところで私の血液型はB型、O型? でも少し大きくならないと! そしてデザートです。 帰りには店の方も見送ってくれました。 お天気に恵まれ、無事にお宮参りを終えることができて、みんなほっとひと安心思い出に残る良い一日になりました 私も写真が楽しみで~~す。♡♡そして藤沢にあるお父さんの実家にも、おばあちゃんが雛人形の7段飾りを飾ってくれているのです。内裏雛の女雛(めびな)も私に似て美人なのです。
2017.03.26
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石原裕次郎を偲びながら再び仏殿へ。反りが入った入母屋造(いりもやづくり)の屋根、裳階(もこし。庇(ひさし))の下には、三手先(みてさき)の組物(くみもの)がびっしり並ぶ。鎌倉時代以降、三手先の組物は五重塔・三重塔などに用いられ、禅宗以外の宗派では本堂には使われなくなってきていると。平屋の本堂に裳階が付けられ二階建風に見えるのも、古代はともかくとして鎌倉時代以降では禅宗様式の特徴と。「大雄寶殿(だいゆうほうでん)」と書かれた扁額。ご本尊は釈迦牟尼如来(坐像、木彫) 。北部金鶏門。北部金鶏門を潜り仏殿の後ろの方に回ると、白い塀に囲まれた御霊殿(ごれいでん)が。昭和12年(1937)、後醍醐天皇の600年御遠忌を記念して建立。後醍醐天皇は、太祖・瑩山禅師の高い徳風の評判をお聞きになり、信仰上の10か条にのぼる疑問を提示されたところ、禅師は見事に答えたことから、元亨元年(1321)、「曹洞出世の道場」の綸旨を下賜され、總持寺は官寺に昇格した。門は閉ざされていましたが、御霊殿には、後醍醐天皇の尊像、尊儀をはじめ、後村上天皇、後奈良天皇、後陽成天皇、明治天皇、大正天皇、昭和天皇の御霊が奉られていると。 北部金鶏門を潜り仏殿の隣にある「大祖堂(瑞応殿)」に向かう。大灯篭とその後ろにコブシの白い花が。手水舎。大祖堂。大祖堂は、一般的にいわれる開山堂と法堂を兼ねた本堂客殿。千畳敷の内中外陣と、982坪の地下室を有し、瓦葺形の銅版屋根は53トンに及ぶと。貫首禅師演法の大道場たるのみならず、諸種法要修行の場と。この殿堂の内陣の奥には「伝灯院」として、高祖大師・太祖大師・二祖国師・五院開基の尊像及び独住禅師のご真牌が奉安されているのだと。 大祖堂」正面。五七桐(ごしちのきり)紋は、總持寺の寺紋。「大祖堂」 と書かれた扁額。 堂内部。 何とも不思議な枝振りの巨木。 大祖堂と侍局との連絡通路下を潜り奥へ進む。 右側にある侍局(跳龍室)は大本山住職の住まい。侍局(跳龍室)は美しい白壁に囲まれていた。ここは表方丈の間と内寮との二つに分けられていると。跳龍(ちょうりゅう)室は上間・下間とがあり、約50畳の広さとのこと。 表方丈(おもてほうじょう)の、「紫雲臺(しうんたい)」。大正4年(1915)築。方丈とは住持の居室。なかでも表方丈とは總持寺の住持たる禅師(ぜんじ)が僧侶、檀信徒と会見する間をいう。内部は書院造となる。 入母屋造の屋根に、唐破風の向拝がせり出している。 「紫雲臺」 と書かれた扁額。「待鳳館(たいほうかん)」。主体部分は大正4年(1915)築。昭和32年(1957)移築。總持寺における迎賓館としての役割を持つ。 禅宗様の「反り」が入った屋根の堂が多い總持寺にあって、待鳳館はふっくらとした「むくり」の入母屋屋根を持つ。この主体部分は尾張徳川家旧書院を移築したもの。玄関部分は唐破風。こちらは大正元年(1912)築。主体部分は関東大震災(1923)で被災してしまい、玄関部分が残ったと。 「待鳳館」と書かれた扁額。 待鳳館前からは香積台の巨大な屋根が見えた。 百軒廊下。 百数十メートルはあろうかという、長い廊下。白壁と木材の柱と梁の遠近法の直線美は圧巻。香積台(こうしゃくだい)。庫院(くいん。庫裏に相当)の建物で大正9年(1920)築。境内の東に位置し、寺務所となる建物。参拝者の諸堂内部拝観(有料)や予約不要の座禅会参加(有料)などの総受付がある。 反りの入った切妻(きりづま)の堂々たる屋根に、切妻破風(きりづまはふ)の玄関。妻壁(つまかべ)には火灯窓(かとうまど。つりがね型の窓)などの装飾が施され、これぞ禅宗寺院の庫院。香積台入口から靴を脱いで建物内へ。休憩所&土産物売り場。 峨山韶碩(がさんじょうせき)禅師は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての曹洞宗の僧。能登国の出身。總持寺第2世。正中元年(1324年)、瑩山禅師より總持寺住職を任せられ、拄杖・払子・法衣などを受けた。こうして峨山は總持寺2世となり、その後40年以上にわたって曹洞宗発展の基礎を築いたと。峨山韶碩禅師の略念表。 大黒天[木造]。 大本山總持寺香積台(こうしゃくだい)(総受付)の正面奥には、木彫りで日本一大きいといわれる高さ約180センチメートルの大黒尊天がお祀りされていた御朱印を頂きました。 おさすり大黒。 もちろん私も三さすりで。香積台の入口に巨大なしゃもじ。 その下には木彫りの大黒様の姿がここにも。 金鶏門を振り返る。 三門に向かって左側に大きな切妻造り鉄筋コンクリートの堂宇がみえた。地上四階、地下二階、9400平方メートルの広さがあり、檀信徒研修道場、各種セレモニーの会場となっており、宿泊施設も整っていると。能登・祖院にあった三本の龍形の松にちなんで「三松閣」と呼ばれている。 左前方に三門、右側に開花間近の寒緋桜 (かんひざくら)。再び巨大な三門。 広大な總持寺境内を約2時間弱散策したのであった。敷地面積は約50万m2あり、横浜市鶴見区の広域避難場所の1つに指定されているのだ。境内には仏殿、大祖堂をはじめ多くの堂宇があり、鶴見大学などの学校施設もあった。本尊釈迦如来像を安置する仏殿よりも、道元、瑩山紹瑾など歴代の祖師を祀る大祖堂の方が規模が大きいのが特色。境内には横浜市で起こった鉄道事故である桜木町事故(1951年)と鶴見事故(1963年)の慰霊碑が建立されていたのであった。太平洋戦争中、東京警備軍横浜警備隊が置かれ、1945年(昭和20年)8月終戦反対の反乱を起こしたとのこと。 そしてJR鶴見駅まで往路と同じ道を歩き、京浜東北線で都内に向かったのであった。
2017.03.25
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梅寿庵前のロータリーからの向唐門(むかいからもん)またの名を「勅使門」。總持寺は、後醍醐天皇から「日域無双の禅苑たるにより、曹洞出世の道場に補任す」との綸旨を賜り、以後、歴代天皇より勅願寺として仰がれたので、「勅使門」の名を残しているのだと。禅師の入山式や、正月・7月のみたままつり・11月の移転記念日の時に開扉されると。切妻造,檜皮葺の四脚門で,前後に唐破風を付けている。木鼻や頭貫など彫りの深い細部を備え,両側面の花狭間や組物間彫物などが精緻。桁行約6mと大規模で,両側に築地塀が延び,仏殿前方の重厚な景観を形造っていた。そして広い大駐車場の奥まで歩を進める。大駐車場はかっては竜王池という名の綺麗な池であったとのこと。ネパール旅行の時に見たストゥーパ(仏塔)の如き慰霊碑。紋章の上に「大学」の文字が。何の慰霊碑? 鶴見事故慰霊碑。鶴見事故とは、昭和38年(1963年)11月9日午後9時40分、東海道線新子安・鶴見間の滝坂不動踏切から、鶴見寄り約500m地点で、脱線転覆した下り貨物列車に衝突した上り横須賀線電車が脱線し、さらにさしかかった横須賀線下り電車が衝突した三重衝突事故である。この事故は死者161名、重軽傷者119名の犠牲者を出す大惨事。私が中学1年の時の出来事、国鉄に勤めていた父にも動員がかかったことを覚えている。「日本同志援助中国革命追念碑」 2代目の放光観音(ひかりかんのん)像放光観音像は、本山が能登から移転後15年ほど経った大正14年、本山としての寺容も整ったことと、 大事業が滞りなく進んでいることを感謝して建てられたものだと。畜霊塔。 と殺された狂犬病犬や動物たちの霊も慰霊することを目的とし,募金運動を展開し昭和3(1928)年12月18日供養 式を開催・除幕したとのこと。寒緋桜 (かんひざくら)、別名「緋寒桜」(ひかんざくら)も赤い蕾を。 釣り鐘状の花が特徴で、葉は秋になると紅葉すると。「雲水群像」。 雲水群像は昭和49年(1974)寶物殿前に建立された。雲の行くまま、水の流るるままの拓鉢遍路をして精進する僧を、雲水と呼ぶ。彫刻家・矢崎虎夫氏が透徹した禅の精神と情熱を傾倒して制作されたのが、この「雲水群像」であると。昔、フランス・パリを訪れた時に、ヴァンセンヌの森にも同じ像があったのではと???宝蔵館「嫡々庵(てきてきあん)」(旧、宝物殿)は金色に輝く擬宝珠(ぎぼし)を頂いた建物で、開祖瑩山禅師650回大遠忌の記念に建立。向唐門を内部から斜めに。泥土をつき固めて作った塀・築地塀(ついじべい)のレンガ色?が美しかった。黄金の菊の紋が2つ。 向唐門から三松閣(さんしょうかく)の屋根が。 中雀門(ちゅうじゃくもん)。中雀とは、鍮石(ちゅうじゃく)、 つまり真鍮の異名、昼を表すのだと。 右手奥には香積台(こうしゃくだい)が。 中雀門に近づくと門の奥に仏殿(ぶつでん)が見えて来た。 百軒廊下(ひゃっけんろうか)。長さ164m。東西の殿堂群をつなぎ合わせて、外苑と内苑とを分ける廊下。通称「百間廊下」と呼ばれていると。廊下の途中にはそれぞれ、朝を表す「金鶏門」(東)、昼を表す「中雀門」(中央)、夜を表す「玉兔門」(西)と呼ばれる脇門(通用門)があるのです。 中雀門は潜る事が出来ない?構造なので玉兎門を潜り歩を進める。左手の木々の奥には、七堂伽藍の重要な堂宇に大僧堂が。大僧堂は、雲水僧が集まり来るという意味で「雲堂」、また仏祖を選出する道場の意から「選佛場」、あるいは古木然として兀坐を行じているので「古木堂」などの名称があると。 百軒廊下の下を潜る通路も。玉兎門(ぎょくともん)。 百軒廊下の階段部分。 振り返って中雀門を見るとその先に向唐門が。 仏殿(ぶつでん)。七堂伽藍の中心部に配置されている殿堂で、「大雄宝殿(だいゆうほうでん)」とも呼ばれています。中央の須弥壇上に禅宗の本尊である釈迦牟尼如来(坐像、木彫)を祀っています。如来は、死の恐怖、病気、四苦八苦など様々な衆生の悩みや苦しみを救済するため、その具体的な請願によって出現される仏です。尊像は、右手を施無畏印、左手は与願印の印相をしている。この印相は、人々の不安をとり除き、あらゆる願いをかなえてくれる大慈悲の心を表現。ご本尊の脇侍として向かって右は比丘相の迦葉尊者、左には若年美顔相の阿難尊者。放光堂(ほうこうどう)。明治44年(1911)11月5日、總持寺が能登から移転されて、最初に法要が厳修された記念すべき建物。この堂宇は安政年間(1850年代)に山形・鶴岡の総穏寺本堂として建立されたが、總持寺移転に際して特別に献納された由緒があり、当時は、大祖堂として中心的な役割を果たしたのだと。鐘鼓楼は放光堂から衆寮に通じる回廊の中にある。禅門の行・住・坐・臥、日常生活の合図は、すべて言葉ではなく梵鐘、木版、雲版、太鼓などの打楽器群の合奏によって、全山に休まず有時を刻み、報知されると。蟇股(かえるまた)と欄間(らんま)に施された、浪形のみごとな彫刻。北部玉兎門を潜る。左手に墓所案内所か?墓所案内図。入口に「石原裕次郎氏の墓処」と書かれた札が立っていた。広大な墓地を案内に従い奥に向かって歩く。再び案内板。石原裕次郎さんが永眠している墓。中央に岡山産の御影石の五輪塔が。 昭和62(1987)年07月17日 午後4時26分、肝癌のために死去 享年52歳。入口の左右の石には「裕次郎」と刻まれていた。今年ははや没後30年。元東京都知事の兄の最近の姿をどう感じているのであろうか? 「美しき者に微笑を 淋しき者に優しさを 逞しき者に更に力を 全ての友に思い出を 愛する者に永遠を 心の夢醒める事無く」 と石原裕次郎の墓の石碑には、冒頭の石原まき子夫人の詩が刻まれていた。「日本中で最も愛された男」と称された石原裕次郎のポリシーは、「人の悪口は絶対に口にするな、人にしてあげたことはすぐ忘れろ、人にして貰ったことは生涯忘れるな」だったと。 私は反省しきり!! 戒名:陽光院天真寛裕大居士。私の戒名は「陽蜂院菜遠楽仁大居士」か??(笑)。
2017.03.24
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横浜・桜木町で起きた電車事故で亡くなられた103人を供養する桜木観音の横には「三寶荒神祈祷殿」の看板が。三寶荒神祈祷殿への参道石段と赤地に「三宝大荒神」と白抜きされた多くの幟。見えにくいが「穴熊稲荷大明神」の横に記入されている「白字会」とは総持寺の文字担当のグループの名前とのこと。三寶殿への参道階段を上っていくと右側ににあるのが穴熊稲荷大明神。穴熊とはイタチ科の動物で狸に似ている。狸汁は穴熊を使うという。稲荷信仰は、仏教と習合して、人々の心のよりどころであり、また狐に跨がり剣と宝珠を持つ姿で五穀豊穣をもたらし、福の神として、ひろく信仰されていると。 穴熊稲荷大明神の幟。 朱の鳥居が並びその先に穴熊稲荷大明神の小さな社殿が。 「自由党追遠碑」(大正10年(1921年)銘)。西園寺公揮毫。立憲旧友幽明会の建立。裏面に総裁故板垣退助、会長大江天也、幹事長斎藤珪次、建碑委員長杉田定一らの名が刻まれている。杉田は自由党結成に参加し、立憲政友会結成にも尽力、第一次西園寺内閣のときに衆議院議長を務めた。立憲政友会は自由党の流れをくんでいた。總持寺三門を丘の途中から。「宮崎丸 常陸丸 平野丸 欧州戦乱殉難会員之碑」。大正3年・第一次大戦勃発第一次大戦で撃沈された宮崎丸、常陸丸、平野丸の犠牲者を悼む殉難船員の碑。日本郵船の商船5隻がドイツ海軍の攻撃で多くの犠牲者が発生したと。大正7年に建立。幅が約 1.5 m ,高さ約 4.5mの大きな石碑。筆は東郷平八郎。「殉難船員之碑」(大正8年(1919年)銘)。別の大きな石碑の表面に“殉難海員之碑''と横書きされ,下に”八坂丸“から”徳山丸“までの5隻が撃沈された日時と海域が細かい漢文で刻まれていた。裏面には各船の犠牲者の名前が彫ってあった。平成23年3月11日の東日本大震災は、奇しくも曹洞宗大本山総持寺が石川県・能登からこの関東の鶴見の地に移転してから丁度100年目に当たる年であったと。 東日本大震災から6年となった今年の3月11日、県内各地で追悼行事が行われ、多くの人が鎮魂の祈りをささげた。 被災地への慰霊と早期復興の祈りを込めて建てられた「祈りの鐘」には、多くの拝観者が鐘を鳴らし、手を合わせたと。 色彩豊かな千羽鶴と共に。平成救世観音。大本山總持寺の境内、仏殿横に平成20年6月に建てられていた聖観世音菩薩像は、三門そばのこの丘の上に平成23年3月に移設され、新たに「平成救世観音」と名付けられた。観音像は東北方面を向いて設置され、震災犠牲者の慰霊と被災地復興を祈り続けると。日本郵船・巴野莱吉氏の像。この場所には日本郵船関連の石碑(慰霊碑)、石像が多いのであった。 ここにも日本郵船関連の「小松原安吉君 坂本鍵造君 双魂碑」。「ラッド博士之碑」。日本の心理学の草創期において活躍した外国人。明治時代伊藤博文の補佐をし、外国人として初めて「旭日勲章」を授かった人。そして一番奥まで三寶殿への参道が続いていた。總持寺の守護神は荒神様(三大荒神)。三寶殿(さんぼうでん) 。總持寺三世太源宗真禅師(普蔵院開基)の成徳道風を敬慕した難陀竜王が禅師の血脈(禅師の法戒)を授けられた。そのお礼に荒神を奉納したと。禅師は、これを受けて当本山の鎮護の神として、永久に仏・法・僧の三宝を守護する三寶大荒神として祀られたことに由来すると。「三寶殿」の扁額。様々な色のダルマが描かれた絵馬。 ダルマの色には下記の意味があるようです。赤:家内安全・開運吉祥緑:身体健勝・才能開花黒:商売繁盛・事業繁栄青:学業向上・才能向上平成29年、酉年の絵馬。 右には「平成二十九年丁酉歳」の文字が。十二支とは「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」。酉は10番目。ところで十二支の「支」に注目です。これ酉は「干支(かんし、えと)」の支。 では「干支」の「干」は何なのか。それは十二支とはまた別にある十干というもの。「甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(つちのえ)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)」。これが十干なのです。 これを毎年順番に繰り返しています。2017年は4番目の丁(ひのと)の年。つまり、干支は十干と十二支を組み合わせたもので作られているので、2017年はただの酉年ではなくて、「丁酉(ひのととり)」の歳と言った方が正確なのです。十干の10種類と十二支の12種類ですから組み合わせは「10×12=120通り」となります。ですが、干支は60通りしかないのです。 何故ならば組み合わせがあるのは「十干の偶数番目×十二支の偶数番目」と「十干の奇数番目×十二支の奇数番目」。「十干の奇数番目×十二支の偶数番目」と「十干の偶数番目×十二支の奇数番目」の組み合わせはないのです。例えば、「甲子」はありますが、「甲丑」はないのです。よって干支は60通りしかないのです。よって干支は60年で1周し元に戻るのです。60通りの理由は陰陽五行説にあるようですが詳細は【http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n277929】を参照ください。 「還暦(かんれき)」とは干支(十干十二支)が一巡し誕生年の干支に還ること。人の年齢について言う場合が多く、数え年61歳(誕生年に60を加えた年)を指すのです。因みに1950年生まれの私は【庚寅(かのえとら)】で還暦は遠い過去の出来事。三門の東を登った小高い丘陵を雙眸丘(ふたみがおか)と言う。大梵鐘が、この丘にあった。 大鐘。大正2年(1913)に、1万6千人ほどの願いや祈りを淨財にして鋳造され、関東一の大きさを誇る。鐘銘は独住4世・石川素童禅師、勧進元は後に9世の伊藤道海禅師。平成7年(1995)秋に横浜市指定文化財に。この鐘は重さが18.75トンもあり、大晦日には一般参詣者も、この大梵鐘を撞くことができると。芭蕉菴桃青像。芭蕉230年追悼碑、大正12年11月建碑。裏面にある句の一つ「総持寺の鐘や五月の晴れ上がるー春鶴」。「大坂事件記念碑」。大阪事件とは、1885年に起こった自由民権運動の激化運動の一つ。この付近には政治色の強い多くの石碑が並んでいた。丘を下りると左手に、梅壽庵(ばいじゅあん)と香炉舎その後ろに水子地蔵尊 。梅壽庵。水子供養の相談ごとや慰霊者の受付所。梅壽庵の本尊は地蔵願王大菩薩。また、梅壽庵横に水子地蔵尊が祀られてあり、参詣の方が多く献花が。
2017.03.23
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この日は、都内に向かう前に鶴見の總持寺を初めて訪ねました。JR鶴見駅で下車し、線路沿いを横浜方面に歩くこと5分強。右手に總持寺の入口が見えて来ました。巨大な石に「大本山總持寺」と刻まれた石碑が鎮座。總持寺は、神奈川県横浜市鶴見区鶴見二丁目にある曹洞宗大本山の寺院。曹洞宗には、大本山が2つあるのです。ひとつは福井県にある大本山永平寺(だいほんざん えいへいじ)であり、もうひとつは横浜市にあるここ大本山總持寺(だいほんざん そうじじ)。これを両大本山というのです。両大本山は曹洞宗寺院の根本であり、信仰の源。大本山の住職の正式な呼び方は貫首(かんしゅ)といい、「禅師さま」と親しく呼ばれていると。ここの大本山の山号は諸嶽山(しょがくさん)。本尊は釈迦如来。寺紋は五七桐紋。 石川県にあった諸嶽寺を、1321(元亨元)年、太祖瑩山禅師が諸嶽山總持寺と改められたのが始まり。明治時代の焼失を機にこの地・横浜市に移転したと。境内への参道。 巨大な總持寺 常夜灯・右。 常夜灯・左。 参道横の並木の間にも「大本山総持寺」 と刻まれた石柱が。總持寺の総門。 總持寺中興の祖といわれる石川素童(そどう)禅師(1841~1924)が揮毫(きごう)されたもので、總持寺の祖院がある能登には、みごとな龍の形をした三本の松樹があったことに由来しているのだと。この総門は、禅宗寺院の第一門としては珍しく、特異な高麗門(こうらいもん)の様式で建てられていると。「三樹松関(さんじゅしょうかん)」と書かれた扁額。 総門の左側には、築地塀(ついじべい)を背にして「延命地蔵尊」が祀られていた。 このお地蔵さんは、悲恋の物語を秘めているとの伝承があり、能登の祖院では「三味線地蔵」と呼ばれていると。総門を内側から。 総門には、棟つづきの右奥に「新到安下処(しんとうあんげしょ)」が。仏の道を志す修行僧が、最初にワラジを脱ぎ、宿泊する建物。 總持寺境内図も巨大。 敷地は15万坪を超えると。三門(さんもん)。1969年(昭和44年)落成で、鉄筋コンクリート造りでは日本一の大きさを誇ると。高さ37メートル。普通は「山門」と呼ばれるものですが、空(くう)・無想(むそう)・無作(むさ)の三解脱(さんげだつ)に入るという意味から「三門」といわれていると。三門正面の扁額には總持寺の山号「諸嶽山(しょがくさん)」と書かれていた。三門楼上には、観音・地藏の放光菩薩像と十六羅漢像および四天王像が祀られていると。 三門の左右には阿吽の金剛力士(仁王)像が置かれ、元横綱・北の湖の15歳の姿をモデルにしたと。金網で囲まれているためにピントが合わないため、下の隙間から撮影。阿像。 上半身はやむなく網越に。吽像。 こちらも網越に。山門を抜けると正面には巨大な石灯籠が。左手には観音様が。国鉄桜木町事故供養塔 「桜木観世音菩薩立像」。1951年(昭和26年)4月24日 桜木町駅で焼死者106人・重軽傷者92人を出す大惨事の列車火災事故が発生したのであった。乗客はドアが開かなかったため脱出できず、多くの死傷者を出したと。この事故後、自動扉つきの客車内には乗降扉非常圧搾空気開放弁(非常ドアコック)の設置と表示が義務化され、緊急時にドアを乗客が手動で開けられるよう法令が改正されたのだと。
2017.03.22
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先日のテレビ「林先生が驚く初耳学」でやっていた数字の話です。数字「142,857」は不思議な挙動を示す数字であると。 142,857に1から順番に数字を掛けて(乗算)いくと142,857×1=142,857 これは当たり前。142,857には6つの異なる数が使われています。その中で最も小さい数が1142,857×2=285,7142倍すると、2番めに小さい数である2が先頭に来て、その並びを保ったまま8,5,7と続き、先頭の1に戻って次の4に続きます。142,857×3=428,5713倍すると、3番めに小さい数4が先頭で、そこから同じ順番にグルグル数字が回ります。142,857×4=571,428142,857×5=714,285142,857×6=857,1424倍、5倍、6倍と、順に先頭に来る数が5、7、8と大きくなりますが数字の順番は変わらずグルグル数字が回って行くのです。ここまでは、テレビでやっていた内容であり、私も以前から知っていた話なのですがNETで調べてみるとこの先があるのです。 このように、2倍、3倍、4倍と掛け算をしたときに、その各桁の数の順序を崩さずに巡回させた数になる整数を「巡回数(サイクルナンバー Cyclic number)」と呼ぶとのこと。他に588,235,294,117,647、52,631,578,947,368,421434,782,608,695,652,173,913等があるとのことです。例えば588,235,294,117,647×2=117,647,588,235,294とやはりグルグル数字が回っています。そして先ほどの142,857に7を乗ずると142,857×7=999,999と6桁の数字ですので先頭に来る数字がありませんので999,999となってしまうのです。すなわち6桁の最大数に変身するのです。さらに1+4+2+8+5+7=27⇒2+7=914+28+57=99⇒9+9=18⇒1+8=9142+857=999⇒9+9+9=27⇒2+7=9 しかも 142,857×2=285,714 + ) 142,857×5=714,285 999,999また 142,857×3=428,571 + ) 142,857×4=571,428 999,999すなわち結果は驚きのオール9。まるで何か奇跡でも起きたかのような計算結果。不思議ですよね!! 更に乗ずる数字を増やしていくと左端の数を移動して右端の数に加える操作をすると、また「142,857」の順序が現れる。すなわち、次のようになる。•142,857× 8=1,142,856→ 1に6を加える→142,857•142,857× 9=1,285,713→ 1に3を加える→285,714•142,857×10=1,428,570→ 1に0を加える→428,571•142,857×11=1,571,427→ 1に7を加える→571,428•142,857×12=1,714,284→ 1に4を加える→714,285•142,857×13=1,857,141→ 1に1を加える→857,142•142,857×14=1,999,998→ 1に8を加える→999,999•142,857×15=2,142,855→ 2に5を加える→142,857•142,857×16=2,285,712→ 2に2を加える→285,714 更に、先ほどの「142,857」を2乗してみます。142,857×142,857=20,408,122,449この数は11桁の数です。これを上の5桁と下の6桁に分けます。20,408と122,449です。これを足します。20,408+122,449=142,857です。ほんとに?! すごい!!このように、元の数を2乗して、偶数桁だったら真ん中から上の桁と下の桁で2つに分ける。奇数桁だったら、真ん中で分けるときに、下の桁のほうが数字が一つ多くなるように分ける。こうして出来た2つの数を足したら、2乗する前の数に戻るような、そんな数のことを「カプレカ数」と言うのだと。 カプレカ数の■定義1。他には上記の如く1, 9, 45, 55, 99, 297, 703, 999, 2223, 2728, 4879, 4950, 5050, 5292,・・・・のように、たくさんあるのだと。やってみるとなるほど!!カプレカ数■定義2。 この不思議な数字「142,857」は1/7=0.142857124857・・・・・・・と循環小数になることと関連があるとのこと。 そして2&5以外の素数pにおいて1/pは循環小数となり(p-1)桁で循環すると。2, 5 以外の素数 p に対して、循環節と循環のパターンを示したものです。素数 p を与えたときに, 循環節の値を, 具体的に p の式で表す方法は未だ証明されたないとのこと。 まだまだ興味の湧く「数の不思議」はいろいろあるのですが、「何の役にたつの?」と言われると・・・・・・????しかし、技術屋の端くれとしては、先日の「ピラミッド 5,000年の嘘」と同様にほっておけないテーマなのです。以上 超暇なオジサンの独り言でした。
2017.03.21
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昨秋にポットに種を蒔き定植したスナップエンドウは、この冬はビニトンで保温、防寒し、最近の気温上昇もあり大きく成長を始めました。 この日はビニトンを外し、支柱設置、網掛けを行いました。 約1m間隔に支柱を立て、インシュロックで固定しました。 そして両側に網を掛け梱包紐で固定。 最後にハモグリバエ対策を実施。害虫捕獲粘着紙、ビタット トルシーは、農園やハウスで飛行する害虫を捕獲するのです。ビタット トルシーの鮮やかな黄色が飛びまわる害虫を寄せ集め、強力粘着材がビタットキャッチ!!雨にも強く、設置も簡単だと言う商品なのです。。 この写真は数年前のハモグリバエの被害の写真です。ハモグリバエの幼虫は、葉の内面に入り込みジグザグに移動しながら食害します。その跡が絵のように見えることから「エカキムシ」とも呼ばれています。1匹であれば葉の外観を損ねる程度の被害ですみますが、大量に発生すると葉に穴があくこともあります。また、葉っぱの変形や枯れ、落葉が増えるといった被害も多くなるのです。既に花の咲いている株もあります。別の畝にも支柱、網掛けを行いました。 そして空豆のネットも外しました。 こちらにもハモグリバエ対策を。 株も高さ50cm弱まで成長してきました。 多くの花も着き始めているのです。
2017.03.20
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三寒四温を繰り返しながら季節が変わり、二十四節気では「雨水」、「啓蟄」の時期も過ぎ春分の日も近づいて来ました。そして我が家の庭の様々な種類のスイセンも開花を始め楽しませてくれています。黄色い小ぶりな水仙・黄房水仙。日本水仙の黄色バージョンの感じなのです。小型のラッパ咲きスイセン。 従来の八重咲きスイセン。 これも黄房水仙ですが、房の黄色が微妙に異なるのです。房だけ薄い黄色のラッパ水仙。マウントフッドは徐々にクリーム色に変わるスイセン。 八重咲きスイセン白のラッパ水仙。 ラッパ水仙・デゴイ。 そして村崎のヒヤシンス。 こちらはピンク。 そしてまだまだ別のスイセンも蕾を大きくしているのです。
2017.03.19
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来月・4月下旬にバルト三国への旅行を計画しています。パスポートの残有効期限・3ヶ月がギリギリですので、パスポートの更新を行いました。 この10年間、ヨーロッパを中心に南米、アフリカ等、毎年海外旅行を楽しんで来ました。既パスポートのあるページの見開きです。ヨーロッパ・EURO各国にはシェンゲン協定が締結されておりヨーロッパの国家間において国境検査なしで国境を越えることが出来る国が多いため、入国、出国の国のスタンプのみとなっています。これがなければ、あと10個程度?の出入国スタンプが増えているのでしょうが。最近では「シェンゲン圏内では人が国境を越えて自由に移動できるために、難民やテロリストが容易に拡散する懸念があり国家の安全保障の観点からシェンゲン協定には重大な問題がある。」との熱き議論も。日本のスタンプは四角・□が出国、丸・○が入国。右手のEU(ヨーロッパ)の出入国スタンプ。向きがバラバラなのは国民性?矢印の向きで出入国を表し、右上のマークが交通手段を表しています。 ドイツ・ミュンヘンに飛行機で入国し、スロベニア(SI)から車(バス)で出国しHR(クロアチア)に車(バス)で入国したのです。最近では、スタンプを押されないケースも多くなっているのです。査証(VISAS)の必要な国もまだまだあるのです。2009年のブラジルの査証(VISAS)。これは、2010年のネパール旅行時の査証(VISAS)。2014年のロシア連邦の査証(VISAS)。地元の行政センターに行き、10年の更新の為の申請書をもらって来ました。 申請書の記入例に基づき書き込みました。 申請書以外に必要なものは、既パスポートと写真1枚のみ。本籍等に変更が無ければ戸籍謄本は必要ないと。3月2日に書類を準備し、近くのパスポートセンターに届け出ました。そしてその時点で、既パスポートには「VOID(無効)」の穴が。 そして10日後の3月13日に受け取りに行って来ました。印紙を購入し、自筆署名し受け取り。 10年更新の手数料は16,000円。都道府県の旅券事務所での人件費などが2,000円、パスポート作成費や情報管理費といった外務省の直接経費が4,000円、残り1万円は邦人保護費に充てられるのだと。10年の更新手数料は現在日本が世界一高い?5年にしようかとも思いましたが・・・・・。 金額より年齢からですが。更新パスポートです。 日本のパスポートには有効期限が5年間のと、10年間の2種類あります。5年間が青(紺色)、10年間が赤と色分けされているのです。男女の違いで青と赤があるのではないのです。(笑)ちなみに、未成年は5年間の青のパスポートしか作れません。しかしその他の色の日本のパスポートもあるのだと。3色目は、緑のパスポート。公用パスポートといって、政府関係者、JICA職員、大使館の職員などに交付されると。表紙の表記は、”OFFICIAL PASSPORT”。ちなみに、私の持っているのは”PASSPORT”としか書かれていません。更に4色目は、茶色のパスポート。外交官やその家族、皇族の方々に対して交付されるとのことです。パスポートナンバーは変更になりました。 ICチップのページです。 更に日本のパスポートについての豆知識です。以前テレビ番組「トリビアの泉」で紹介されていましたが1)「パスポートの中には、「JAPAN PASSPORT」の文字が1360個隠されている」と。もちろん偽造防止用とのこと。まずは最初のページの最下部の波の上。つぎのページには全体の薄い模様の中に510個も。(赤くなってはいません)。写真、パスポートNOのページの表面のシールのような部分にはホログラムが施され、透かしとは別の富士山や桜の花びらが散りばめられているのは有名。そして、上部の「日本国」の上下の線、背景の波にも「JAPAN PASSPORT」の文字が。顔写真の周り、下にも。次のページからの「渡航先」、「追記」、「査証」、「注意」の文字の下の線は「JAPANPASSPORT」の文字が白抜きで表示されているのです。2)各ページには「桜」の透かしも。3)まだまだ色々な高度技術が。https://www.youtube.com/watch?v=iCCm58-i3dQhttps://www.youtube.com/watch?v=BdIC3lCiMashttp://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg14285.html そしてその国民が査証(ビザ)なしで入国出来る国数の順位です。(2016年)ヨーロッパが上位にいるのはシェンゲン協定の影響がある事は事実。1位はドイツで全世界218カ国中177カ国にビザなし入国が可能。日本は5位で173カ国。短期の観光でも査証は必要な国は下記。https://www.tokutenryoko.com/service/visa/list/ビザ免除待遇を受けた国の数で、その国の国際地位が分かると。一般的に、国家の発展が遅れており、民主的でなく、武力衝突やテロの発生する危険が高い国ほどビザは免除されにくいのだと。「Visa Restrictions Index 2016」です。中国のパスポートは査証(ビザ)なしで入国可能な国がわずか50しかなく、世界で87位。北朝鮮は42カ国で95位とのこと。しかし今回の事件で国の数が更に減ること間違い無しであろう。最下位はアフガニスタンの25カ国とのこと。【https://www.henleyglobal.com/files/download/HP/hvri/HP%20Visa%20Restrictions%20Index%20160223.pdf】 また、「外務省は昨年2016年5月に、パスポートの査証欄の背景を現在の桜模様から、葛飾北斎の浮世絵「冨嶽三十六景」に変更すると発表した。2020年の東京五輪・パラリンピック前の19年度に導入する。査証欄の大幅なデザイン変更は1947年以来約70年ぶり。 東京五輪で訪日外国人の増加が予想されるため、新旅券を導入し、偽造対策とする。10年旅券は冨嶽三十六景のうち、有名な「凱風快晴(赤富士)」や「神奈川沖浪裏」など24点を査証欄に全面印刷する。5年旅券は16点。ページごとに柄が異なるため偽造しにくい。透かしや特殊インキなどの偽造防止技術も用いる」と。 そして最後に日本のパスポートの所有権は「日本国」にあると。有効期間中は、個人が国から預かっている大切な公文書だと。
2017.03.18
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大倉山記念館の見学を終え、さらに奥にあるという大倉山公園・梅林に歩を進める。途中、右手には新川崎方面のビル群が見えた。 大倉山公園の左手には東屋も。 そして大倉山公園・梅林の入口へ。 大倉山公園 梅林マップ。大倉山公園梅林には、32種類、約200本の梅の木があり、毎年1月下旬から3月にかけて、早咲き→中咲き→遅咲きと、順番に開花していき、長い期間梅を楽しむことができると。一つの枝に淡い紅、紅、白の花が咲き乱れる「思いのまま」や、花弁を支える萼(がく)の部分が緑色の「緑萼梅(りょくがくばい)」など珍しい梅もああるのだと。 梅の開花はこの日は五分咲き程度か。 青空を背景に白梅が。 こちらは薄いピンクの梅。 臨時の出店もあり、おでん、そば、うどん、たこ焼き、酒まんじゅう等を販売中。 この白梅は満開か。 紅梅も満開。 「玉簾」 の札が。「春日野」。 「淡路枝垂」。 道を隔てた場所には「福徳文殊菩薩」の赤い旗が。 更に進むと右手に「曹洞宗 龍松院」山門が。初代小机城主笠原信為が笠原氏の菩提寺として小机に開基した雲松院の末寺として、二代目小机城主笠原康勝が開基した寺。山門右に石仏石塔。右は青面金剛庚申塔、日月、三猿、鶏に大きな邪鬼が刻まれていた。 六地蔵。手前の石碑には「浮かびて 小さき 泡一つ はかなく水に 消えゆきぬ 面影さえもありなしの 追うに術なき 哀れさよ 南無や能化の 地蔵尊 南無や能化の 地蔵尊」 境内と本堂。残念ながら境内に入れるのは檀家さんだけ?。山号は「虎石山」 。再び梅林に戻ると、前方に清き水の流れが。 「鹿児島紅」。ピンクも満開。 老木も頑張っていました。 帰路はオリーブ坂を下る。 大倉山記念館裏手から大倉山駅方面に向かう坂。途中、祠内に奉られている青面金剛庚申塔。 そして大倉山駅に向かう左手にあった高野山真言宗寺院・歓成院に立ち寄る。 山門前の六地蔵。山号は「妙智山」。歓成院は、善通法印(永禄18年1567年寂)が創建したと。旧小机領三十三所子歳観音霊場12番、東国八十八ヵ所霊場23番。境内と本堂。 手水舎。空海像。「歓成院」 と書かれた扁額。鐘楼。鐘楼の前には水車が回っていた。 そして大倉山商店街、エルム通りを大倉山駅に向かって進む。 「大倉山エルム通り」には白い外壁の重厚な佇まいの建物が並んでいた。通り沿いに並ぶ商店のほとんどがそうした意匠の建物になっており、「エルム通り」全体が統一された印象であった。もちろん、これは通りの北側の丘上に建つ、大倉山のシンボルでもある「横浜市大倉山記念館」がギリシャ建築を思わせる意匠の建物であるために、そのイメージに統一しようというコンセプトなのであった。 そして大倉山駅に到着し、往路と同じルートで帰宅したのであった。
2017.03.17
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3階の第二集会室、第三集会室への通路。 戻ると中央吹き抜け部にはステンドグラスからの黄金の光が。 ホールでは11時からクリスタル ボウル演奏会が開催されると。 建物四隅に配置されていたベンチで一休み。 殿堂を取り囲む形で、回廊(かいろう)があり、ここで第10回 港北美術展が開催中とのことで鑑賞に。大きな折り鶴。 水彩画。 油絵。中庭の珪化木。木化石とも呼ばれるように、古代に何らかの原因で土砂等に埋もれた樹木が、膨大な年月をかけ地層からかかる圧力により木の細胞組織の中にケイ素と酸素、水素との化合物であるケイ酸を含有した地下水が入り込むことによって、樹木が原型を変えずに二酸化ケイ素(シリカ)という物質に変化することで、石英や水晶などと同様に固くなり、化石化したものであると。写真展示コーナー。 迫力満点。1階の第8&9集会室への通路。 1階中央階段裏には、「留魂礎碑」が。これは創設者の遺志を尊重し、1930年(昭和5年)4月9日に挙行された鎮礎式において、本館中央の地下30尺(約9メートル)に埋められた「留魂碑」を記念するもの。 ここは集会所。教会にあるような椅子。木製のベンチも長野宇平治のデザイン。昔はこのベンチがホール内に置かれていたと。建物の列柱と同様、脚部も下方に向かうに従い細くなる「プレ・ヘレニック」様式。再びホールへの中央階段。来館記念スタンプをGET。入口横にも石のベンチが。 駅前から坂道を上ってきた人が、汗を拭き、心を落ち着けてから入館できるように作られたものであると。ファザードの天井部分。 太くなった柱上部。 外には多くの園児の姿が。この場所は「相棒」始めいろいろなドラマのロケで使われて来たと。記念館の東側に廻る。公園から来ると記念館の裏手から入るかたちになる。このカーブ状の入口階段が美しかった。東館は図書館。当時は米国製の最新書架で、書籍運搬用のリフト・乾燥空気の送風装置を備えると。現在は図書閲覧室および大倉精神文化研究所の研究室。 「大倉精神文化研究所」と刻まれた石碑。 裏側から大倉山記念館を。高さ約25.5メートルの塔がある中央館屋上のプレヘレニック様式の円柱は全周にあることが確認できた。手前はホールの屋根部分。西館は、旧研究室。知性・教養を司る場とされた。現在、第1~10集会室として公開、利用されているとのこと。 再び正面から。青空を背景に白が輝く。 柱の頭が太く下に行くほど細くなるクレタ・ミケーネ様式の円柱がこちらからも。神殿の台座の左右ににある青銅色の装飾は日本の寺院風。 ガス灯も美しいデザイン。
2017.03.16
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この日は横浜市港北区の大倉山公園内に位置する文化施設・横浜市大倉山記念館(よこはましおおくらやまきねんかん)を訪ねました。2月19日のBS朝日「百年名家」・丘にそびえる“古代神殿”~ギリシャ以前の建築様式 横浜「大倉山記念館」~ を見て、行ってみたいと思ったのです。相鉄線で横浜駅へ、そして東横線で大倉山駅へ。駅前の横浜開港150周年、港北区区制70周年を記念して建てられたモニュメント。これは、有名なニケの像の翼と神殿の柱を象(かたど)ったもの。ニケは、ギリシア神話に登場する有翼の勝利の女神。駅横のケンタッキー前の坂の下に。平成21年(2009年)11月に建てられたとのこと。英語ではナイキ(Nike、英語発音: [ˈnaɪki])と発音。世界的スポーツ用品メーカー「ナイキ」社の社名はこの女神に由来。トレードマークはこの女神の翼をイメージしたものであると。線路に沿った大倉山記念館への急な坂を上る。坂の名は「記念館坂」。 坂道の先には「大倉山公園」と刻まれた石碑が。 「大倉山公園」案内図。 広さは6.9ヘクタール。市の公園となったのは昭和59年(1984)であるが、それ以前からの歴史も長いと。そして階段の上に白き円柱のあるギリシャの神殿を思わせる建物が垣間見えて来た。 ギリシャの神殿を思わせる建物・大倉山記念館。実業家の大倉邦彦により1932(昭和7)年、「大倉精神文化研究所」の本館として建てられた。設計したのは、明治から昭和初期にかけて活躍した建築家、長野宇平治で、北海道銀行本店や三井銀行神戸支店、横浜正金銀行東京支店など、数々の銀行建築を手がけ、ヨーロッパ古典様式の建築家として第一人者であったと。研究所の設計をするにあたり、「東西文化の融合」を掲げた大倉邦彦の理想に深く共鳴した長野は、古典主義にとらわれることなく、ギリシャ建築創成期のクレータ文明に由来する「プレ・ヘレニック様式」という世界的にも希少な建築様式を用いたのみならず、東洋の意匠も取り入れ、まさに東西文化が溶け合った独特の様式美を持つ建造物を創り上げたと。西洋建築の源流であるギリシャ建築創成期のクレーター文明に由来するプレ・ヘレニックの様式の上部が太く下部が細くなっている独特な形の円柱が。 閑静な住宅街に、まるでそこだけ時空が異なるような佇まい。建物の白と、空の蒼のコントラストがひときわ美しい空間。そして柱の内側には黄褐色のステンドグラスが確認出来た。屋根の上に東洋のインド風の装飾 色は日本の青銅色。 蓮の葉と花?をイメージ。柱の上、三角のペディメント(破風・はふ)の妻壁(つまかべ)には、東洋で吉事の前兆(瑞兆)として現れる鳥・鳳凰のレリーフが見られた。 そして中央に八咫鏡(やたのかがみ)。正倉院御物を模した物で彫刻家、水谷鐵也(高村光太郎の同期)の作。チョット陰が邪魔。陰がなければ・・・。八咫鏡をはさんで二羽の鳳凰が雲を踏み蓮の花をくわえた姿が彫刻されているのです。建物は鉄骨鉄筋コンクリート造りで、中心部に塔屋のある中央館と殿堂、背面には中庭を囲む回廊があり、さらに東館、西館を加えた5棟から成る複雑な構成に。 こちらは西館正面。西館の建物の四角形の柱も上部が太く、下部が細く。 その上の三角窓はミケーネ起源のこれもプレ・ヘレニック様式のデザインと。玄関ポーチはギリシャ有史初期、アテネをはじめ各地にアクロポリスが築かれたころ(紀元前400年代ごろ)のギリシャ神殿風。かの有名なパルテノン神殿などのスタイル。正面エントランス部にも、上部が太く下部が細くなっている独特な形の円柱が用いられていた。正面の屋根の下に帯状に繰り返される楕円形のフレーズ(帯飾り)が。トリグリフという縦溝の装飾と半ロゼット(半円状で花びらのようなデザインが囲む部分)が。エントランス。上部、円盤列や連続螺旋模様はクレタ起源のデザイン。エントランス上部には二重丸と渦巻きを2段に並べた平面的な意匠が。 重厚なドアとデザイン。 上部、円盤列や連続螺旋模様はクレタ起源のデザイン。奥の二重扉も同様なデザイン。 ポイントとして扉や壁の中央に配置される10弁の花びらのロゼット模様。菊の模様ではないのだと。 中央に巨大な階段と重厚なホール(殿堂)への扉が。上部の三重の三角が印象的。思わず吸い込まれるような空間。ホール入口の重厚な扉の左右のこの二連の渦巻き状の造形は、ペルシャのペルセポリスの柱頭に使われているものと同じであると。 外側には10弁の花びら・ロゼットとその内側には日本的な二段まんじゅうのような意匠。 殿堂は、宇宙全体の中の自己を自覚する場として、この建物の中心的役割を持つ講堂で、その意匠はクノッソス宮殿の円柱の様式を使いながら、柱の上部に日本建築の斗拱を思わせる組物を用いた和洋折衷とも言える独特な空間構成。殿堂の内部は総て木造になっており、正面左右に太い、これもプレ・ヘレニック様式の無垢の欅の1本柱が2本ずつ建っていた。殿堂内は荘厳な木造空間なのであった。天井の檜材の幾何学的模様の装飾も圧巻。 財団法人大倉精神文化研究所は現在も「大倉山記念館」内で活動を継続し、付属図書館も一般に開放されていた。 館内の机の脚等もプレヘレニック様式のものであると。階段の石の黒ずみが歴史を感じさせ、不思議な雰囲気を醸し出していた。階段踊り場を支える極端に下に細くなった柱。再び階段手摺のデザイン。三角と連続螺旋。 館内案内板。 欄干のデザインも下が細くなった人型。高さ25.5mの塔がある中央館。エントランスホールは人間の「心の間」を表し、約21mの吹き抜け天井の上部には黄褐色のステンドグラスが巡らされていた。 階段ホールを見下ろす。ステンドグラスの下には、東京美術学校教授・水谷銕也による鷲と獅子の彫刻が合計16体。全てが違う方向を見つめ、どれかが移動する私を常に見張っているのであった。真ん中の獅子が私を見つめていた。 この獅子は私が移動しても目を反らさないのであった。 真下から約21mの吹き抜け天井を見上げる。吹き抜けは黄金の世界。
2017.03.15
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驚くべき事に、この遺跡の帯を地球の赤道であると見なし、北極の位置を定めると・・・。ギザとナスカを結ぶと大ピラミッドの黄金比に一致すると。ギザ~ナスカ、ギザ~テオティワカンは等距離。アンコールワット~ナスカとモヘンジョ・ダロ~イースター島は等距離。イースター島~ギザまでの距離は黄金数の10000倍。ピラミッドの大きさが地球の大きさと深い関わりがあると。2底辺の和=460mは赤道上の1秒間の移動距離にほぼ等しいと。新幹線(しんかんせん)の最高速度はだいたい時速()280km=77m/sですから、地球()はその6倍以上)のスピードでまわっていることになるのです。クフ王のピラミッドの高さが地球と太陽の一番近い距離の1/10億になります。大ピラミッドの高さを10億倍すると、地球から太陽までの距離の1億4700万キロになると。同じくピラミッドの高さを43200倍すると地球の半径になると。そして、ピラミッドの総重量の100兆倍が地球の重量と同じと。 更にピラミッドの内接円と外接円を描く。 ピラミッド底辺の外接円から内接円を引くと、その差が299.79613mとなり、光の速度とほぼ同じような数字が導かれるのだと。 単位は全く桁違いですが、光速は299792458 m/s。確かに数字は良く似ていますが、ここまで来ると流石に????と。 しかしピラミッドから浮かび上がる数字は『神の業』と。 パイオニア探査機の金属板 (Pioneer plaque) 。この金属板は1972年と1973年に打ち上げられた宇宙探査機パイオニア10号・11号に取り付けられた銘板で、人類からのメッセージを絵で記したものである。 ここに刻まれているのは、人間の性別や、探査機と比較した体格、太陽系における地球の位置。複雑な情報を記号化した幾何学的な図形である。探査機が打ち上げられる数千年前、大ピラミッドの建設者たちは、同様に幾何学図形を残した。ただし、相手は宇宙の生命体ではなく、未来の人類だったのだ。つまり我々だと。ピラミッドが正確に東西南北を示していることから天体観測施設説という意見も有力。 ピラミッドの4角は4つの星座を表す。おうし座、獅子座、さそり座、みずがめ座。鷲はさそり座を、天使はみずがめ座を示す表現は、大聖堂にも見受けられると。獅子座とみずがめ座を結ぶのは、“獅子と天使の軸”。ギザに置かれたそのシンボルが、人面獣身のスフィンクスである。スフィンクスが建設されたのは、大ピラミッドより後とされ、関連はないと見られてきた。全体の位置関係を改めて検証している。大ピラミッドの側面を5倍に拡大して当てはめると、3角形の1辺がスフィンクスの頭を貫通すると。ピラミッド底面の正方形を横に並べ、右辺を垂直に下ろすと、またもやスフィンクスの頭にぶつかると。 2つのピラミッドの頂点の軸が交わる点を中心に描いた円も、スフィンクスの頭を貫通すると、これでもかと。 地球上における時北極の位置は、一定していない。1年間に40キロ近く動いていると。近年、その移動速度が速まりつつあることがわかり、状況が非常に懸念されていると。 長さ4万キロ、赤道から30度傾いた円周は、歳差運動と磁極の動きを知らせているのか?磁極の逆転は、過去に100回ほど記録として発生していると。磁極の逆転が起こった場合、地磁気は最大で数週間失われかねない。地殻が大変動を起こす恐れもある。大気とともに宇宙からの放射線を遮る地磁気が消えれば、地球は焼かれてしまうに違いない。 恐ろしい結論に至ったが、私たちはこれから、地球の動きを注意深く見守っていく必要がある。危険を回避する手だてがあるからこそ、建造者たちは古代から警告を発したのに違いないと。 ギザのクフ王のピラミッドは完成時の高さ146m、底辺230m。1つ数トンもの巨石を驚くべき精密さで積み上げたギザの大ピラミッド。現代の技術でも建造が難しいとされるこの巨大な建造物は、建設期間わずか20年で作られたという。車輪もない時代に本当にそれが可能だったのか。そもそも本当にそれは王の墓なのか。考古学から一度離れ、建築学や物理学、さらに地質学や数学、天文学などの専門家に意見を仰ぎ、ピラミッドの常識を検証し直していくドキュメンタリー映画なのであった。そんなピラミッドの謎について事実を基に新たな仮説を組み立てたのが、このドキュメンタリー映画だが、かなり衝撃的な仮説が展開されているのも事実。ピラミッドを作るために必要な計算法、円周率という考えやメートル法、黄金数という数学的知識が記録として存在していなかった時代にどう割り出していたのかという謎にも直面しているのであった。そして、ギザのピラミッドから数千キロも離れたイースター島やマチュピチュ等で同様の精巧に作られた遺跡があるという事実も発見。お互い交流がなかったはずなのに、遠く離れた場所で同様の技術が使われ、存在していたと。 そして新たな感動は、地球上に存在するそれら遺跡の場所が、法則(円周率や黄金数を基に)を伴って上手く配置されていたということ。例えば、イースター島からエジプトのギザを直線で結ぶと、その間に他の遺跡が直線上に収まるように存在していたり、またスフィンクスやピラミッドは、それ自体が宇宙の天文学を計るための大きな時計の役割になっているという結論にまで至っているのであった。 やや、無理と感じる仮説もあったが、全体的には技術屋としても十分理解出来る論理展開なのであった。そして、映画の結論は、5000年以前にはギザを中心とする高度な文明が栄えていたが、隕石の衝突や、気候の変動で文明が崩壊し、ピラミッドなどのような遺跡を残して、失った文明を後世の人々へ伝えるへメッセージだ!!と、締めくくっています。この結論に頷くことは出来ませんが、それもありなんとも・・・・・・。 不思議なことにピラミッドには設計図が存在しないのだと。たくさんの石碑や壁画は残っているにもかかわらず、設計図がないことには違和感を覚えざるを得ないが、いずれこの設計図が発見され、今回の仮説が実証される日が遠くない日に来ることを祈るのみであるが、私が生きているうちには??。 ----------完--------
2017.03.14
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四面の広さの和を底面の広さで割ると黄金数になると。黄金数とは、二次方程式X^2-X-1=0の正の解。つまり、黄金数φ=(1+√5)/2≒1.618。黄金数Φに1を加えると黄金数の2乗になると。Φ+1=Φ^2逆に黄金数から1を減じると黄金数の逆数になると。Φ-1=1/Φ黄金数は宇宙の普遍的な数であると。黄金数は天体の動きや、鉱物の結晶に認められるほか、植物や動物の形状にも当てはまると。そればかりか、人体の比率や芸術作品を始め、私たちの生活のなかにも潜んでいるのだ。2底辺の和を全体の高さで割ると円周率Π=3.1416に近い数字になると。すなわち(230.36+230.36)/ 146.59=3.1429また、2底辺の和を地下からの全体の高さで割ると黄金数の2乗になると。2底辺を地上の高さで割れば円周率Π。地下からの高さで割れば黄金数Φの2乗だ。この二つの数値が偶然得られた可能性は、無きに等しいと。円周率Π、黄金数Φの2つの数値は偶然得られた数字ではないと再び。古代エジプトでは、単位として1キュービットという単位を使っていたと。その長さは、1キュービット=0.5236mです。(王の間へ通じる傾斜路の幅は1.04m=2キュービット)とするとピラミッドは一辺が230.36m/0.5236m=439.95 約440キュービット高さが146.59m/0.5236m=279.97 約280キュービットとなると。1925年に1キュービット=0.5236mと正式に定められたと。直径1mの円を描くとその円周の長さは3.14m。それを6等分すると0.5236m=1キュービット1キュービット0.5236mの5倍=2.618=Φ^2=(1.618)^2大ピラミッドの形状にも言及。正方形の中心を頂点に立ち上げれば、様々なピラミッド型になる。大ピラミッドは、4辺の和と等しい円周の円を描き、その半径を頂点の高さに設定していたのである。円周率Πと黄金比Φを抜きに、このような設計は不可能だと。 側面の2等分線を底辺の長さで割ると黄金数。高さを底辺の半分で割ると黄金数Φの平方根。すべて偶然の一致の可能性は??と。王の間の寸法などにも、黄金数Φは現れている。これらを偶然と呼ぶには、かなり無理がありそうだ。外形や玄室、地下を含めた全体の高さは、意図的に設計されていたとみられる。円周率Πと黄金数Φは、随所にちりばめられていると。王の間の底辺の総和は円周率Πの10倍。短辺の一つを引くと黄金比の2乗の10倍。作者の意図は、細部の隅々に反映されています。偶然などあり得ません と。『それがギザの大ピラミッドなのである』と。Π-Φ^2=1キュービット になると。再び、ギザを通過する赤道から30°の幅100kmの円周上には数多くの古代遺跡が並んでいると。これらの遺跡の配列は現在GPSで確認済みであると。私も上記地図を作り始めましたが、これを既に作った方がいらっしゃいましたので転載させていただきました。【http://hemitotsy.blog.fc2.com/blog-entry-100.htmlより転載】 一直線に並び得たのはなぜだろうか?とこれからの大きな課題と問題提起。しかし、赤道から30°の幅100kmの帯から外れる古代文明も多々あるではないかと。更に3000年以上も離れたような遺跡について、単に直線で結べるから関係があるのだ、太古の文明の証拠だとは、論理が飛躍しすぎているとの見解も多々あると。なるほど、これだけ数学や数字を駆使しての論理展開をやるなら、この赤道から30°の幅100km内の古代文明の存在に因果関係・相関関係の「統計解析」をやり報告すべきではないかとも思うのである。やってみたが相関関係があることを証明できなかった為に??しかしながら上記問題提起は今後も議論が繰り返されること間違い無しなのです。何故30°も含めて夢のある大きな人類史の課題なのではないでしょうか。 【http://hemitotsy.blog.fc2.com/blog-entry-100.htmlより転載】 ------------つづく----------
2017.03.13
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久しぶりに地元のTSUTAYAでフランス人監督パトリス・プーヤル監督、エジプト・キザの大ピラミッドの謎に迫ったドキュメンタリー映画・『ピラミッド 5000年の嘘』を借りてきた。この映画は1999年にパトリス・プーヤル監督がジャック・グリモーの37年間に及ぶピラミッドの調査と研究を6年間に渡り、徹底的に検証した作品との事。2007年に映画を撮影開始して、ようやく2012年に日本で劇場公開となった作品。紀元前2700年から2500年代に建造されたエジプトの遺跡「ギザのピラミッド」をあらゆる面から検証し、ピラミッドの常識を覆す真実を明かす歴史ドキュメンタリー。エジプトを専門とする考古学者のみならず建築や人類学、物理学などさまざまなジャンルの学者や研究者が新説を証言。墓というだけではなく地理学・天文学の観点から重要な役割を果たしていた事実がかなり論理的に解明され、技術屋の私にとってはピラミッドの不思議に驚かされたのであった。『ピラミッド5000年の嘘』の作品の中で、エジプト考古学者たちが唱える説に物を申したこの作品、監督のメッセージは「自分達で考えて欲しい」ということを映画を通じて訴えているのです。(以下の写真は原則として、テレビ画面を撮影したものです) 『REVELATION』とは「暴露された事物」・「意外な新事実」 このドキュメンタリーでは、冒頭に数々の疑問・課題が提示されています。 NO1.ピラミッドの底は、大きな岩の塊が残されている。 そして周囲6000ヘクタールを覆う礎石の重さは一つだけでも 乗用車1台の重さ。この重大な事実を指摘した学説はほとんどない。 NO2.800Km遠方から運んだ玄室用の130個の花崗岩は一つあたりで最大70トン。 これを積み上げる作業は現在でも困難であろう。 NO3.大ピラミッドには不釣り合いなほど小さな玄室が3つしか存在しない。 長さ90m、幅90cmの通路が地下の間まで下降する精度は驚異的だ。NO4.形も大きさもバラバラな乗用車並みの重さのある石を総重量620万トン 200万個も積み上げる精度は今日でも通用するだろう。 一番上の玄室は、完璧な水平と垂直を維持している。 一見するとバラバラのように構成されているに見えるが、法則性があって 積み上げられている。法則性がきちんとされているからこそ、高い耐震性がある ピラミッドになっており、何回かの巨大地震にも完全に耐えたと。 NO5.ピラミッドが示す北は誤差が100分の5度未満。 現代に匹敵する精度。 NO6.20世紀に入って、春分・秋分の時期に四面がさらに中心線から2つに分かれて 見えることが観測されている。わずかに内部に屈折した八面体となっている。 (しかし、何故最近の写真でないのか不思議) NO7.建設期間は通説では20年だが、その工事期間で200万個以上の石を 積み上げるのは可能か。 もし定説どおりに、クフ王のピラミッドが20年で建設できたというのであれば、 20年未満の統治だったクフ王の墓という説そのものも、崩れれてしまうのではないか。 1日12時間、無休で200万個の石を積んだとしても、1個あたりの作業時間はわずか2分半。NO8.まだ車輪や鋼鉄が存在しない時代に銅製のノミや石、麻縄といった道具だけで 唯一現存する世界の七不思議は築かれたことになる。 たったこれだけで。 ドキュメンタリーではこの『クフ王のピラミッド』のとっても不思議な謎をテーマにして話が進みます。それに対して、これを否定する考古学者も頻繁に登場。更に映像はギザを中心に赤道を30度(何故30度かは言及なし)傾けた幅100kmほどの一直線上の帯上にイースター島やマチュピチュ、西安の古墳など世界遺産を含めた巨大な遺跡が存在していると。主な遺跡群は、ペルーのナスカの地上絵、オリャンタイタンボ、マチュピチュ、サクサイワマン、アルジェリアのタッシリ・ナジェールの岩絵、エジプトのギザの大ピラミッド、ヨルダンのペトラ遺跡、パキスタンのモヘンジョ・ダロ遺跡、インドのカジュラホ、タイのスコータイ、カンボジアのアンコールワット、西安、そして、最後にイースター島のモアイ像が並ぶと。 メキシコの古代都市テオティワカンも。ピラミッドの頂上にはキャップストーンと呼ばれる四角垂のブロックがあったと考えられており、キャップストーンが発掘されたものもあると。ミニピラミッドとも呼べるピラミッドの縮小モデルだったと。大ピラミッドと同じく底辺と高さの関係でもπを導き出せるのだと。その寸法は底辺1.57m 、高さ1m。底辺1mの2倍でも3.14=π(パイ)の値が導き出せると。しかし、古代エジプトでは、未だメートル法は存在せず、単位として1キュービットという単位を使っていたと考えられていると。その長さは1キュービット=0.5236mであったと。しかし高さは1mとなっておりメートル法を既に理解していたのかとも。クフ王の大ピラミッドには円周率や黄金率や光の伝搬速度を示す数値が内包されているのだと。よって大ピラミッドの設計は綿密な計算に基づいていたのだと。クフ王の大ピラミッドは、頂上部は欠け、現在の高さが138.74mになっているが、本来の高さはh=146.59m。そして底辺は一辺が230.36m(各辺の平均値の誤差11cm)。高さを2で割ると王の間の頂点に一致すると。高さを3で割ると、王の間の天井の位置の高さになると。高さを4で割ると、王妃の間の頂点の位置となると。高さを5で割ると、地下室の床と一致。高さを7で割ると、王妃の間の底面と一致すると。 ----------つづく---------
2017.03.12
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靖国神社の境内を散策する。境内の右手奥にあるのが「游就館(ゆうしゅうかん)」。遊就館は、靖国神社境内に併設された同社の祭神ゆかりの資料を集めた宝物館。幕末維新期の動乱から大東亜戦争(太平洋戦争)に至る戦没者、国事殉難者を祭神とする靖国神社の施設として、戦没者や軍事関係の資料を収蔵・展示している。「特攻勇士之像」。特攻隊は敵艦船に突入、散華していったのだ。「青銅八十封度陸用加農砲」。安政元年(西暦1854年)、湯島馬場大筒鋳立場で鋳造。 「青銅百五十封度陸用加農砲」。嘉永2年(西暦1849年)、薩摩藩で鋳造したもの。 「海防艦顕彰の碑」。船団護衛や沿岸警備を主任務とした海防艦を顕彰。 「パール博士顕彰碑」極東国際軍事裁判(通称 東京裁判)でインド代表判事を務め、裁判官の中でただ一人、被告団全員を無罪とする意見書を提出したラダ・ビノード・パール博士の功績を伝えるため、平成17年(2005)に建てられました。パール博士の「無罪」の論拠は下記。(1)戦争を行ったこと自体を犯罪として個人の責任を問うことはできない。(2)被告らが共同謀議して戦争を遂行したとは言えない。(3)戦争中の日本軍の残虐行為の罪を問おうとするなら、 原爆を投下して 非戦闘員を無差別に殺害したアメリカの行為をも裁かなくてはならない。「母の像」この像は、苦難と孤独に耐えながら子供を育て上げた戦争未亡人への敬意と感謝を込めて、昭和49年(1974)に建てられました。立派に成長した子供(遺児)たちが奉納したもので、「お母さん、ありがとう」の気持ちの表れです。 「ビルマ戦域の遺品」。 「鳩魂塔」。通信に使われた伝書鳩の霊を慰撫するため、昭和57年に奉納された。 「戦没馬慰霊像」。戦場で死んだ軍馬の霊を慰撫するため、昭和33年に奉納された。 「軍犬慰霊像」。戦場で死んだ軍犬の霊を慰撫するため、平成4年に奉納された。 最近建てられた?休憩所か。 「靖国会館」一階は参拝者休憩所。 「鋼製三十封度船用加農砲」 この大砲は、ロシアから寄贈された「30ポンドキャノン砲」。「相撲場」明治2年(1869)、靖国神社の鎮座祭に際して大相撲が奉納されて以来、春の例大祭には、横綱をはじめ全力士による奉納相撲が執り行われます。その日、相撲場は大勢の見物客(無料)で賑わいます。 そして「国技相撲像」。 「行雲亭」。月曜日から土曜日まで、裏千家淡交会東京支部役員の先生方による茶道教室が開かれています。 「靖泉亭 」。「神池庭園」。神社の森に囲まれて静かに佇む神池庭園は、都会の喧騒を忘れさせてくれる空間。 回遊式の庭園で、庭園の中に散策路が設けられていますので、さまざまな角度から鑑賞することができたのです。この庭園の一番の見所は、深い山の中を思わせる滝岩組み。長い脚と嘴を持つ白鷺(しらさぎ)が羽を休めていた。 岩島、そして靖泉亭を神池庭園越しに。 「洗心亭」入口門。洗心亭は昭和36年(1961)に建てられた茶室。「憲兵の碑」まで・・・・。軍人勅諭の碑のそばに立てられていた。「鎮霊舎」。 靖国の敷地内には、靖国に合祀出来ない日本人や世界各国の戦没者をまとめて祀る「鎮霊社」という小さな社。「南門」。 「神道無念流道場跡」。神道無念流、斎藤弥九郎の道場、練兵館は、現在の靖国神社境内付近にあった。高杉晋作、桂小五郎らが入門し、剣術の腕を磨いていた。練兵館は、玄武館、士学館とともに幕末三道場の一つ。))が創始した、幕末期の江戸3大道場のひとつ。長州藩の桂小五郎が塾頭を務めていた。 が創始した、幕末期の江戸3大道場のひとつ。長州藩の桂小五郎が塾頭を務めていた。 靖国神社境内の桜の標準木。 東京の桜の開花宣言を行う、標準木がこの桜の木。游就館1Fを訪ねる。 零戦五二型(三菱第4240号機)。この零戦は昭和49(1974)年、南洋、ラバウルの旧日本海軍航空基地で見付かった主翼胴体と昭和59(1984)年、ミクロネシア、ヤップ島で発見された5機の零式艦上戦闘機を日本に持ち帰り、昭和55(1980)年頃から復元を始めたと。 C56型31号機関車(C5631)。大東亜戦争中、南方の輸送力を強化する目的から160両製造されたC56型蒸気機関車のうち90両が徴用されタイ・ビルマ方面に送られたとのこと。このC56型31号機は日本陸軍がタイ・ビルマ間に建設した有名な泰緬鉄道に投入され戦後はタイ国鉄で使用された。昭和59年に同じくタイ国鉄で使用されていた C56型44号機と共に日本に返還された。 八九式15cmカノン砲。いわゆるカノン砲で長砲身と長射程、高い命中精度が特徴。展示されているこの砲は沖縄戦で奮戦した独立重砲兵第百大隊の所属で戦後、米軍から日本側に返還されたもの。 九六式15cm榴弾砲。支那事変から大東亜戦争にかけて使用された日本陸軍の榴弾砲。横の食堂で遅めの昼食に「海軍カレー」を楽しみました。 天気も悪くなったこともありますが、有料展示見学は「敢えて」止めました。 田安門 高灯籠。帰路の田安門から濠の外の左側が九段坂公園で、そこに常燈明台(じょうとうみょうだい)が。どこか灯台の雰囲気があるもので、通称「九段の常燈明台」といわれています。 正式には高燈籠(たかとうだい)といい、明治4年に靖国神社に祭られた霊のために、神社の正面九段坂沿いの角(道路の北側)に建てられました。高さは16.8mあり、上部は洋風、下部は和風の様式となっています。 これは明治になって大いに西洋の文化を入れ始めた時代の象徴でもあったと。そして強風の中、九段下から地下鉄に乗り、中央林間経由で帰宅したのであった。
2017.03.11
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迎賓館を参観の後は、再び四ツ谷駅まで戻りJR総武線で飯田橋駅まで。目的地は「靖国神社」。早稲田通りを皇居方面に進む。 歩くこと15分ほどで靖国神社入り口に到着。大鳥居の前の通りを隔てた場所に戦没者慰霊碑がああった。オーストラリア方面の戦没者慰霊碑「濠北方面戦没者慰霊碑」。昭和39年に建立されたこの石碑。「濠北方面戦没者慰霊会」の戦友は親族が丁寧に管理しているのであろう。「第一鳥居(大鳥居)」大正10年(1921)、日本一の大鳥居として誕生した第一鳥居は、「空をつくよな大鳥居」と歌われて親しまれていたが、長年の風雨で損傷がはげしくなり、昭和18年(1943)に撤去。現在の第一鳥居は戦友たちの奉納により昭和49年(1974)に再建されたもので、高さは25m。大鳥居前の狛犬像と「靖國神社」と刻まれた社号標。靖國神社は九段坂の坂上に東面して鎮座し、日本の軍人、軍属等250万人を御柱として主な祭神として祀る神社。境内は、桜の名所として知られる他、大鳥居が東に向いている、数少ない神社の一つでもあると。第一鳥居(大鳥居)前の巨大な石灯籠。 参道を進む。 広い参道の両側には大きな銀杏の木が。 靖国通り側からの入り口にある石鳥居。 「大村益次郎胴像」が参道の中央に。近代日本陸軍の創設者で靖国神社の創建に尽力した大村益次郎の銅像で、明治26年(1893)、日本最初の西洋式銅像として建てられた。 幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者。維新の十傑の一人に数えられる。ここ東京九段下の靖国神社は、戦前は陸軍省の管轄であった、そこで、陸軍の長である山形有朋は大村を顕彰し1893年、日本最初の西洋式銅像として靖国神社にこの大村益次郎の銅像を立てたと。「靖国の時計塔」。 「第二鳥居」。明治20年(1887)に建てられた第二鳥居は、青銅製の鳥居としては日本一の大きさ。 第二鳥居前の巨大な石灯籠(右)。昭和10年に富國徴兵保険(現在の富国生命)が奉納した日本一の大灯籠。向かって右が旧海軍の有名戦闘場面が描かれているレリーフが下部に。これは日露戦争の旅順港閉鎖での広瀬中佐の図で、他にも日露戦争の日本海海戦の東郷司令長官を描いた三笠艦橋の図や、日清戦争で清国の北洋艦隊を破った黄海海戦の図などがある。 第二鳥居前の巨大な石灯籠(左)。 左に旧陸軍の有名戦闘場面が描かれているレリーフが下部に。 これは「清国事変 天津城ノ攻撃」の図で、義和団の乱の様子を描いていると。他にも上海事変の爆弾3勇士の図などがある。「第二鳥居」を潜る。 左手に「大手水舎」。 昭和15年(1940)にアメリカに在住する日本人の方々から奉納されたと。この手水盤は花崗岩で作られており、重さは18トン以上あると。 「神門」。神門は昭和9年(1934)に建てられたもので、平成6年(1994)の修復工事で、屋根の葺き替えが行われた。 中央の二つの扉には、直径1.5メートルの菊花の紋章が取り付けられていた。 左手の桜の林の奥にあるのが、「斎館・社務所」。 「中門鳥居」現在の中門鳥居は平成18年(2006)に建て替えられたもので、埼玉県の檜が用いられていると。 そして「拝殿」 。拝殿は明治34年(1901)に建てられたもので、この前には賽銭箱が置かれており、通常はこの場所で参拝する。拝殿の屋根は、平成元年(1989)に葺き替えられたと。警備員がいて、参道中央からの拝殿撮影は禁止と。「到着殿」。靖国神社に参拝する華族や政府要人、外国からの賓客が利用するものとしてつ くられ、当初「記念館」とも呼ばれた。地方から参拝に来た遺族の控え室にも使われたと。木造平屋で、江戸時代の藩邸や近代では華族などの邸宅の玄関に使われた大振りな唐破風 の車寄せが賓客用の玄関を象徴する、近代和風の一典型。二重垂木や柱頭の舟肘木など、神社であることを意識しているのが特徴。「参集殿」平成16年(2004)に建て替えられたもので、個人や団体で昇殿参拝する方々のための受付や控え室がある。参集殿内部には巨大な部屋が。御朱印をいただきました。拝殿の奥に本殿が見えた。本殿の屋根の千木と鰹木が見えた。「能楽堂」この能楽堂は明治14年(1881)に東京・芝公園に建てられたもので、明治36年(1903)に靖国神社に奉納、移築された。この舞台では神霊を慰めるための能や日本舞踊などの芸能が行われる。能舞台に描かれている松の絵は「鏡板の松(かがみいたのまつ)」と呼ばれる。そのうちに稽古が始まった。
2017.03.10
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我が家の脇の菜園のイチゴも冬の寒さに耐え元気に越冬してくれています。本葉5~6枚の葉がしっかりして根がよく張っている苗を選び10月下旬に植え付けました。植え付けは、株間25~30cmの2条千鳥植えとする。この場合、根は深く、株元は浅くなるように植え付け、その後十分潅水をして活着を促したのです。 イチゴは秋に低温にあうと花芽ができ、さらに日長が短く気温が下がると苗が休眠・矮化(株が小さくなる)します。休眠中の苗は、たとえ生育適温になっても休眠を続けます。普通は11月中下旬に最も休眠が深くなり、一定の低温に一定期間あうと休眠が破れて生育を始めるのです。 休眠中に枯れ葉も増えていますので、この枯れ葉を除去しました。併せてハコベやホトケノザなどの冬雑草や自然に生えたスミレ?をきれいに抜きとりました。 そして今年1回目の施肥を行いました。化成と鶏糞を混ぜ合わせ畝の両側に。そして軽く糠も。 イチゴ苗の中央にも糠を薄く蒔きました。イチゴが甘くなると農友から。そして土寄せし肥料と糠を土に漉き込みました。 そして数日前にかなりの雨も降りましたので、この日に黒マルチを敷きました。 目的は保温と乾燥防止、土のはね上がり予防のためにポリフィルムで土を覆うのです(マルチング)。黒マルチでおおうと雑草も生えませんのでメンテが楽なのです。盛り上がっているイチゴの株の位置のところのポリフィルムに摘まみ切り目を入れ、イチゴの葉を傷めないよう丁寧にフィルムの上に出してやったのです。そして風で飛ばされないよう周囲のすそに土寄せして土を掛けました。。 既に花芽を付けている株も。 そしてプランターの苗にも枯葉取りと施肥を行いました。今年は孫用に4個のプランターに植え付けておいたのです。 こちらも。そして4鉢ともビニールトンネルに入れてやりました。これにより新葉の生長も進み、開花も早まり収穫も早まることがねらいなのです。 イチゴがきれいな大きな実をつけるためには大切な工程があります。それは花が咲いたら行われなければならない受粉という工程。確実に受粉ができていないと実ができなかったりいびつな形のイチゴができてしまうのです。基本、植物の受粉は虫や鳥、風などによって自然受粉をしています。その中で一番活躍するのが我がミツバチなのです。気温も上がり15℃を超えると活動を開始し、我がイチゴ畑にも訪花してくれるのです。
2017.03.09
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先日、我が実家の竹藪に蕗の薹(フキノトウ)を採りに行って来ました。竹藪の竹の落ち葉から緑の頭を出していました。フキノトウはつぼみの部分にあたり、この花が咲いた後には地下茎から伸びる葉(ふき)が出て来るのです。春の季節を表現する、山菜として日本料理には欠かせない食材なのです。 フキノトウは春先にいっせいに芽を吹き出すのです。自生している天然物は、この付近では2月中からに出て来るのです。毎年春を告げるニュースとしてフキノトウが出始めるとツクシなどと共に、ニュースやその地方地方の新聞で取り上げられることが多いのです。 締まりがあり、つぼみがまだ硬く閉じていて、周りの葉で花芽が見え始める位までの物が美味しいのでこれを収穫しました。大きくなり過ぎた物は苦味も強すぎて美味しくないので、小ぶりの物を選んだのです。そしてまずは蕗味噌を作ってみました。味噌とミリンとを合わせて、それに軽く茹でたフキノトウを刻んで混ぜ込みました。これを鍋ですぐに炒めて、水分を飛ばしたのです。 最後に仕上げの砂糖を少し加えて出来上がり。もちろんお酒のあてに。残りは妻が。 フキノトウの天ぷらに。 冬ごもりを終えた熊は、目覚めてまずふきのとうを探すとテレビのMCが。あの苦みは、体が目覚めるために必要なのかもしれません。春先にしか味わえないふきのとう。天ぷらやふきのとう味噌で、ほろ苦さを楽しみ春の到来を実感したのです。
2017.03.08
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いよいよ入場。西側の入り口から入るとでーんと聳え立つ建物が、目の前に現れた。迎賓館赤坂離宮 前庭の正面入口。賓客は、この玄関から入り、中央階段を上って2階の部屋に進むのだ。 日本初の本格的な西洋建築として作られたものの、屋根には甲冑を着た武将を配置するなど、日本らしさも取り入れている。鎧兜が左右で違っていて、更に腰紐の結び方も勝手違いであり、しかも左右で口が開いてるのと閉まっているのとで、阿吽像になっていた。 阿像。吽像。天球儀と霊鳥の装飾。建築家の片山東熊は何度か欧米に出張して建築について学んでいるが、この装飾はアメリカの建築家ブルース・プライスのアドバイスで作ったものといわれていると。「鎖国がとけてからまだ間もない日本が世界にはばたいていけるように」という願いが込められているのだと。手前には装飾が美しい照明灯が。 正面玄関への緩やかなスロープが両脇に。 建物の正面(玄関左側)壁のモチーフ。 楽器や楽譜、絵の具や絵筆など芸術の繁栄を願うレリーフが。玄関左のドア。 こちらは日本政府の紋章「五七の桐」が。正面玄関中央の鉄の扉はフランスのシュワルツ・ミューラー社から購入したものと。中央の扉の上部だけには十六葉菊紋が。扉には桐の葉の紋章もついている。3枚の桐の葉の上に花が左から5枚、7枚、5枚とついている。これを「五七の桐」といい、皇室の象徴であり、日本政府の紋章にも使われているのだ。玄関右のドア。こちらも日本政府の紋章「五七の桐」が。 建物の正面(玄関右側)壁のモチーフ。農作物や農機具、工具など農工業の発展を願うレリーフが。当時の流行の先端、アールーヌーボの門 (東側)迎賓館赤坂離宮の建築様式は一般的にネオ・バロック様式といわれる。迎賓館赤坂離宮 前庭から見た全景は画面に入らず。建物の外壁は、茨城県産の花崗岩。東西125m、南北89m、高さ23.2m 。前庭は広々としていて、くつろいだ気分になれるのであった。前庭には移動喫茶店が。 モデルの如き女性も迎賓館をバックに写真を撮ってもらっていましたが、撮影も終わった模様。コーヒーを注文し、丸テーブルの横の椅子で迎賓館を眺めながら一休み。 中門の扉は金とブルーの彩り。そしてその奥に正面入口へ続く道。 前庭の数本の木の上部は1本仕立てに。 迎賓館赤坂離宮 東衛舎。 東衛舎の玄関の上の飾り。 迎賓館赤坂離宮 西衛舎。西衛舎の玄関の上の飾り。 ここにも「五七の桐」が。 この丸い建物は?トイレではなく、衛兵?の休憩所? 迎賓館赤坂離宮 正門(内側から)これも国宝。 上部には菊の紋が。 正面から正門を。 しかしフランスのベルサイユ宮殿を模して造られたとも言われているネオ・バロック様式の洋風建築物のこの「迎賓館」でもてなされて本当に国賓、公賓は喜ぶのだろうか?が実感なのであった。それが分かっているからこそ、新たに膨大な費用をかけて京都・迎賓館を造ったのであろうが。機会があれば京都・迎賓館も訪ねてみたいのである。
2017.03.07
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迎賓館本館の見学を終え、主庭に向かう。途中見事に手入れされた松が右手の庭に。 そして主庭に入り、迎賓館を主庭側(本館南面・裏側)から斜めに見る。建物の南面のベランダには、イオニア式の大円柱が24本並び、ルーブル宮殿の東面とよく似ている。南に面した主庭は全面砂利敷きで、中央には噴水池や花壇が設けられており、そのまわりには枝振りのよい松が植えられていた。 主庭には紅白の葉ボタンが見事に円形状に植えられていた。 迎賓館の主庭側(本館南面・裏側)正面。 ここは敷地外からは見ることができない方向からの外観。本館の裏側にも出入り口があり階段で降りられるようになっているが立ち入り禁止のポールが。正面中央と違って背面のペディメントの十六葉菊紋章の脇は興味深いことに西洋の甲冑?。周りはアカンサス(Acanthus、ハアザミ、葉薊)と言う説もありますが実がなっており柏の葉のようにも。 東側の「東の間」とドーム。「東の間」は、迎賓館の東玄関の上の2階 にある部屋で、控室、記者会見、少人数の会議など に使われています。部屋の広さは約100m2で、三面の窓にはステンド グラスがはめ込まれていた。本館南面・東側。 本館主庭の噴水。この日は噴水の水は残念ながら。 別角度から。 グリフォンらしき銅像が4体。 グリフォンとは鷲(あるいは鷹)の翼と上半身、ライオンの下半身をもつ伝説上の生物。 花びらのような形状をした噴水池の中に、皿を伴った、西洋庭園風の噴水が2段重ね(下に4基、上に1基)で噴水池の中央に置かれていた。 噴水越しの本館。 本館南面全体。 グレイが基調の建物に少し目立ったのが真新しい赤銅色の雨どいの高級感。当時の流行の先端、アールーヌーボの門を横から。 前棟西側のドーム状建物。 再び西側の本館入り口の前を通る。 主庭から西門の近くにあるゲートから直接前庭に。
2017.03.06
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この日は迎賓館・赤坂離宮の見学に行って来ました。今年に入り、1月5日(木)から3月6日(月)まで、一般公開を行っているのです(毎週水曜日は休館日。)。ネットで申し込みましたが、希望日にはならず、妻が都合がつかず、単独で行って来ました。JR四谷駅から迎賓館までは徒歩約7分の距離。迎賓館に向かって5分ほど歩くとすぐに迎賓館が見えて来た。迎賓館・赤坂離宮は、昭和49年4月(1974)に国賓等を迎える国の施設として総理府(現内閣府)に設置された。 世界各国から国王、大統領、首相などを迎えたり、主要国首脳会議(東京サミット)などの 国際会議が開催されている迎賓館。迎賓館正面に向かって歩く。迎賓館・赤坂離宮はこの正門、東西衛舎、主庭噴水、主庭階段も含めて国宝。正門の上部には、皇室の施設であることを示す「菊の御紋」。八重菊を図案化した十六八重表菊の紋章が刻まれていました。 正門前の係員に案内され西門に向かう。道路の反対側には「学習院初等科」正門が。 入場の整理券を示し、迎賓館西門から入り、首都高速4号新宿線上の橋を渡る。 荷物のX線検査の後、1000円の入場券を自販機で購入。迎賓館参観案内図。左側は庭園入場口。 迎賓館入り口が前方に。 迎賓館・本館1F入り口から内部へ。内部は「撮すな、触るな、食べるな等々」 。迎賓館・赤坂離宮は、明治42年(1909年)に東宮御所として建設された、日本最初の西洋風 宮殿建築。 戦後、皇室から行政に移管され、政府の施設として利用されていたが、 わが国の国際社会への復帰に伴い、外国の賓客を国として国際儀礼を尽くして接遇する施設 の必要性が高まったため、昭和43年(1968年)から5年余の歳月をかけて旧赤坂離宮の改修 が行われ、現在の迎賓館が完成。 本館は村野藤吾、和風別館は谷口吉郎の設計協力により、田中角栄政権当時に現在の迎賓館が完成。新装なった迎賓館に迎えた最初の国賓は、1974年11月に現職のアメリカ合衆国大統領として初来日したジェラルド・フォード。赤坂離宮は、当時のわが国の建築、美術、工芸界の総力を結集した建造物であり、明治期の 建築界における本格的な近代洋風建築の到達点を示していると。わが国の建築を代表するも のの一つとして、文化史的意義の特に深い建築物であることから、平成21年12月(2009年)に 本館、正門、東西衛舎、主庭噴水池、主庭階段が重要文化財、国宝に指定された。 迎賓館本館内部の撮影禁止でしたので、パンフレットからの画像です。正面玄関の真上にある「彩鸞の間」大鏡の上とマントルピースの両脇には「鸞(らん)」と呼ばれる架空の鳥をデザインした金色の浮き彫りがあることから「彩鸞の間」と。晩餐会の招待客が国賓、公賓に謁見したり、条約の調印式や国賓、公賓などのテレビインタビューの際に使用される部屋。室内の装飾は、19世紀初頭ナポレオン1世の帝政時代を中心に、フランスで流行したアンピール様式となっています。天井や壁は金箔が施された石膏の浮き彫りで装飾されています。天井のヒダの模様は当時遠征時の移動に使用したテントの天井に模したもの。東西に10枚の大鏡が配置され、部屋を広く見せている。迎賓館の西側に位置し、広さがおよそ300m2ある「羽衣の間」。首脳会談の会場として、また在日外交官が国賓、公賓に謁見したり晩餐客の招待客に食前酒や食後酒を供する為に使用されると。平成26年4月の米国・オバマ大統領との「日・米首脳会談」にも使用された「羽衣の間」。3基のシャンデリアは明治の創建時にフランスに注文したものでバカラ社のガラスが使われている。およそ7,000個もの部品で組み立てられ、高さ3m、重さ約800kgで、迎賓館で最も豪華なもの。「羽衣の間」の天井には、謡曲の「羽衣」の景趣を描いた290m2にも及ぶ大絵画が描かれている。曲面図法で描かれており、丸く広く見える。「中央階段」。2階大ホールから見下ろす中央階段の床には、イタリア産の大理石が張られ、その上に赤じゅうたんが敷きつめられている。階段の左右の壁には、フランス産の大理石が鏡張りされている。また、欄干はフランス産の大理石であり、その上に8基の黄金色の大燭台が置かれている。「大ホール」。中央階段を登った正面にあるホール両脇の壁は合わせ鏡になっており、どこまでも続く廊下のような広がりのある空間を演出。また左右に飾られている油絵は小磯良平の作品。向かって左側は「絵画」、右側は「音楽」。欧州産の各種大理石がふんだんに用いられている大ホール。「花鳥の間」。「花鳥の間」という名は、天井に描かれた36枚の油絵や、欄間に張られた錦綴織、壁面に飾られた30枚の楕円形の七宝などに花や鳥が描かれていることに由来。周囲の腰壁は茶褐色のシオジ材で板張りしてあり、その壁の中段を飾るのが七宝。下絵は日本画家の渡辺省亭が描き、明治期の七宝焼の天才・涛川惣助が焼いたもの。この部屋は、主に国・公賓主催の公式晩餐会が催される大食堂で、最大130名の席が設けられると。花鳥の間(七宝額「矮鶏」)。「朝日の間」はこの日は見学できなかった。「朝日の間」という名は、天井に描かれた「朝日を背にして女神が香車を走らせている姿」の絵に由来。周囲の16本の円柱はノルウェー産の大理石です。壁には、京都西陣の金華山織の美術織物が張られ、床には、紫色を基調とした47種類の糸を使い分けて桜花を織り出した緞通が敷かれていると。この部屋は国・公賓用のサロンとして使われ、ここで表敬訪問や首脳会談等の行事が行われると。朝日の間(天井絵画。迎賓館本館内部の見学を終え、順路に従い進むと入口と同じ場所に出たのであった。
2017.03.05
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河口湖遊覧船乗り場の近くの大駐車場に車を停め散策開始。 徒歩にて「天上山公園 カチカチ山ロ-プウェイ」に向かう。 標高856mの河口湖畔駅から1,075mの富士見台駅まで高低差219mを登ることわずか3分。頂上から徒歩にて45分で下るルートもある。アジサイ時期にはお勧めのコースであると。頂上駅・富士見台駅からは河口湖のほぼ全体が見渡せた。 河口湖の面積は富士五湖では2番目の大きさで、最大水深は精進湖とほぼ同じで 14.6m の深さ。湖の中央に鵜の島(鸕鷀島)と呼ばれる小さな島がある。「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録されているのだ。遠くに、白く輝く南アルプス の赤石岳、荒川岳の頂上付近の姿が見えた。展望台からの富士山の頂上は雲の上に顔を覗かせていた。 展望台には人気のスポット、ハートの中心に「天上の鐘」が。富士山と向かい合うように設置されており、富士山をバックに人気の撮影ポイント。富士山のパワーを全身に感じながら鐘を鳴らしたり、撮影するのも絶好のロケーション。富士山を仰ぎ見ながら鐘を鳴らし、祈ることによって「縁結び」 「無病息災」を叶えてくれるはずと。 山梨の百名山の一つである三つ峠の登山者や観光客の安全、健脚を祈願してうさぎの御神体をお祀りする「うさぎ神社」。両脇には狛犬ならぬ「狛うさぎ」が2体おり、頭を伏せている「夢見兎」の頭をなでると“知恵授受”、後ろ脚で立ち上がっている「富士見兎」の脚をなでると“健脚”と、それぞれ思いを込めて配していると。 平成24年4月27日(金)、河口湖畔の天上山公園カチカチ山ロープウェイの展望台「かわらけ投げ」をリニューアル。天上山には縁結びの神様として有名な磐長姫命と、美と富士山の神様として知られ木花開耶姫命の姉妹二神が祭られているのです。 しかしこの日は「うさぎ神社」、「かわらけ投げ」は工事の関係で休止中で一時引っ越し中?。「うさぎ神社」は何処に?後ろのトイレの如き仮設ハウスの中に?昔話 「カチカチ山」は「昔々ある日のこと、おじいさんは畑でいたずら好きのタヌキを捕まえました。おじいさんは家に帰り、おばあさんはタヌキ汁を作ってくれるよう頼むと、再び畑に出かけました。ところがそのすきにタヌキはおばあさんを騙して殺し、ばばあ汁をつくりました。おじいさんはタヌキに騙され、ばばあ汁を食べてしまいます。そうと知ったおじいさんはおいおいと泣きました。それを見かねたウサギがやってきて、おばあさんの仇討ちを始めるのです。タヌキの背負った薪に火をつけて大火傷を負わせ、やけどの後に辛子を塗り、船遊びに誘ってすぐ沈む泥舟に乗せて(ウサギは木の船で)溺死させ、おばあさんの敵討ちを果たす」という話。この昔話の舞台といわれているのがここ天上山。 しかし、子供の頃の記憶に反してこれが意外と怖い話なのであった。太宰治 小説 「カチカチ山」 は有名な御伽噺を太宰治がユーモアたっぷりにアレンジして書いた作品。出てくる兎を十六歳の美少女に、狸は自称十七歳、実は三十七歳のモテない男に設定して、笑える恋愛小説に仕上げている作品とのこと。今度一度読んでみたい。そしてこの小説を執筆した頃の太宰治の心は波静かなのであったのであろうか?しかし最後に、この小説の終わりには「女性にはすべて、この無慈悲な兎が一匹住んでいるし、男性には、あの善良な狸がいつも溺れかかってあがいている」との文字があると。富士山のマメ知識。富士山の山頂は静岡、山梨両県に属さず浅間神社の私有地と。富士山に初登頂したのは聖徳太子と伝えられていると。富士五湖とは、山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖。冠雪していない富士山の山肌を朝日が照らし赤く染まった富士山を『赤富士』。 冬季限定で富士山が冠雪した状態で朝日に照らされ赤く染まった富士山を『紅富士』と。 お土産物売り場の「たぬき茶屋」。「たぬき茶屋」は、天上山を訪れる人々の憩いの場となるよう、昔話などに登場する“峠の茶屋”をイメージした、日本情緒を感じさせるデザインの建物。 たぬき茶屋では、炭火を使ってその場で焼き上げる串団子「たぬき団子」が人気。富士山の裾野全体が見渡せました。残念ながら富士山の前に雲が。 暫くすると富士山の頂上をかすめて飛行機雲が。 下りのロープウエイを待っていると上りのロープウエイの天井には狸の駕籠舁(かごかき)が。 この日の河口湖の水面は静かに鏡の如し。 我々の乗るロープウェイの天井にはウサギの駕籠舁(かごかき)が。 ロープウェイを下りながら河口湖の風景を鳥瞰で楽しむ。 目の前に河口湖大橋が。河口湖大橋自体の橋長は500mとのこと。 車に戻り、河口湖畔を走り、河口湖大橋を渡る。 残念ながら河口湖面に映る逆さ富士は見ることが出来なかった。 車を走らせ富士山世界遺産センターを訪ねる。 富士山世界遺産センターシンボルマークが溶岩の上に。 シンボルマークのコンセプトは「うかびあがる富士」とのこと。富士山そのものを表現するのではなく、太陽を背景にそのシルエットをうかびあがらせたと。よって丸いのは太陽とのこと。富士山の総合案内所のある富士山世界遺産センターの北館(旧富士ビジターセンター)は入場無料。・信仰展示ゾーン 古来からの信仰の対象であった富士山。富士山と富士山周辺の世界遺産構成資産を 紹介。 ・自然展示ゾーン 富士山と周辺の自然史や特色をわかりやすく紹介。 ・芸術展示ゾーン 富士山を題材にした、様々な創作活動について紹介。北斎の富岳三十六景を展示中。神奈川沖浪裏。 凱風快晴。 こちらは歌川広重 富士三十六景 甲斐大月ノ原。 河口湖からの逆さ富士の大きな写真も展示されていた。ここで旅友のSさんと写真を取り合う。 テラス展望台からの富士山の山頂は雲に覆われてしまっていた。 そして昼食は更に車を走らせ中央自動車道の下を潜り新倉富士浅間神社近くの店へ。かなり入りくんだ場所にありカーナビの力に感謝。 純正吉田うどんの店。店の名は「手打うどん しんたく」民家を改造したような店で、テーブルが7つ。水はセルフサービスで、天かすは自由にと。天ぷらは既に品切れとのことで「肉うどん」大盛りを注文。うどんはかなりコシがあるもののツルツル感はあまりなし。馬肉はじっくり煮込まれていて脂が落ちていて、少し固め。ゴボウは逆に柔らかく甘くて旨い。汁は濃い目ですが、うどんを壊さない感じ。キャベツがよいアクセント。 食べ終わってから替え玉があることを知ったのでした。そして帰路は東名御殿場ICから海老名JC経由でJR茅ヶ崎駅へ。茅ヶ崎駅でT&Oさんと別れSさん宅に到着。Sさん宅でお茶をご馳走になり、知床土産もいただいて帰宅したのでした。運転を頑張ってくれたNさん、お疲れ様でした。ありがとうございました。これに懲りずにこれからも「爺守り」よろしくお願いいたします。
2017.03.04
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翌朝5時前に同部屋の3人は起床。3人で6時前に保養所内の温泉に入りに行く。そして8時からの朝食を待つ。我が部屋からは山の頂の隙間から富士山の白き頂上だけが僅かに見えた。 朝食を済ませ8:45に保養所を出発。 途中、乙女峠(おとめとうげ)で車を停め、富士山の絶景をカメラ撮影。標高1,105m。古来、富士山の眺望に優れた景勝地として知られ、富士見三峠(ふじみみつとうげ)の一つに数えられる(他の二つは、御坂峠と薩埵峠)と。箱根の仙石原に「とめ」という名前の若い女性が住んでいた。「おとめさん」と呼ばれていたこの娘は父の病の治癒を願い、この峠を越えて御殿場の地蔵堂へ百か日の願掛けに参拝し続け、最後には願いが叶い父の身代わりとなってこの峠で亡くなった。この「おとめさん」の逸話から「乙女峠」と呼ぶようになったという伝承が残ると。江戸時代になると仙石原には関所が設けられ、通行の際はここでしばしば足止めされた。このことから「御留峠」(おとめとうげ)と呼ばれるようになり、これが「乙女峠」へと変化していったとの説もあるようだ。 ふじみ茶屋の金太郎像。金太郎と熊が相撲をとっている像が。金太郎の尻は撫でられてテカテカに。金太郎の尻を触ると良い子になれると。遅ればせながら撫でて来ましたが・・。乙女峠を下り、御殿場市内に。富士山の姿がだんだん大きくなってきた。 そして保養所を出発してから1時間ほどで忍野八海に到着。天然記念物である「忍野八海」は、富士山の伏流水に水源を発する湧水池。富士信仰の古跡霊場や富士道者の禊ぎの場の歴史や伝説、 富士山域を背景とした風致の優れた水景を保有する「忍野八海」は、世界遺産富士山の構成資産の一部として認定されている。忍野八海 配置図。 富士山の形の下から大量に湧き水が出ており、看板には「30秒間、名水に手を入れてみて下さい。(指だけはお断り)つめたいよ~」。 手を入れて記念撮影するカップルの姿も。 そして中池へ。 忍野八海では最大の湧き水量を誇ります。 この池には横穴があり、一番奥までは 55m もあるとのこと。昔、水中の TV 撮影中に事故があり、ダイバーが2名ほど亡くなっているとか....。 見た目は浅そうでしたが、最深部は 3 ~ 5m の深さ? 富士山の姿も見事。 近くの小屋の内部では水車を使ったそば粉挽きも行われていた。 右は土産物屋、左奥には民家が。 旅友のSさんとツーショット。 数mに及ぶ藻が湧き水の流れに沿ってゆらゆらと。 梅花藻ではなさそうであったがこの藻の名は?髭をはやした老父?それとも河童?の像か。 水車小屋と富士山。 残念ながら逆さ富士は見ることが出来なかった。ズームで。 土産物屋には懐かしき飴が売られていました。孫娘にと・・・・しかしグッと我慢。そしてお土産用にいろいろな浮世絵風の「不思議なタオル」も販売されていました。このタオルをお風呂(40度以上)に浸けると・・・・・?とのこと。歩道のコンクリート下から湧水が溢れ中池へ。 売店を通り抜けると「長寿の泉」が。早速、柄杓で一杯飲んできましたが・・・・?「忍野八海神の水」。ペットボトルに、入れている観光客の姿も。中池の周囲には茅葺きの土産物屋が。この日も中国人の観光客に圧倒される。オバチャンも中国語で呼び込みを。観光客の8割が中国人と。これぞインバウンド‐ツーリズム(inbound tourism)!!そして我々は4月にアウトバウンド(Outbound)!!中国からの観光客のおかげでにぎわっている観光地が増えてきた。そこはもうほとんど中国。日本人なのになぜか感じるアウェイ感。特に、この忍野八海のような無料の観光地は今後ますます中国人観光客が増えるだろう。広大な中国の地でもこのような湧水の場所はほとんどないのであろう。黄海、東シナ海沿岸の地勢は比較的平坦で高い山が無いし、降水量も少ないためここ忍野八海の如き清らかな湧水を見る、飲む事が出来ない?以前訪ねた九寨溝まで行かないと見られない光景なのか?中池中央の丸い池。水深は7mと。 富士山の姿を再び。自宅から見る富士山とは反対側の姿。雪の量は反対側の方が少ないか? 更新されたのか木材の色が新しい水車。 「濁池」 。澄んだ「濁池」。言い伝えでは、この池は澄んだ水で村人の飲用として使用されていたが、ある日、みすぼらしい行者がこの池の地主の軒先に立ち、一杯の水を求めたところ、家の老婆が断った途端に池が濁ってしまったのだと。昔の鋼板製水車は定年退職? 榛の木林資料館入口。榛の木林資料館は 18世紀後半に建てられた現存する忍野(おしの)村最古の茅葺き民家渡邉(わたなべ)家を開放した資料館。館内には、当時そのままの家具や家財道具、蚕の養殖場、徳川時代の 武具、重要書類などが展示されています。また、敷地内には、忍野八海の1つ、【底抜池】や、鯉の池、ニジマスの触れる池などが存在すると。「忍野元八湖は古くから富士御手洗元八湖として、富士修験の霊場であった。 富士講の信者は、富士登拝に先立ち、8つの湖沼群において水行を行ったとされ、それぞれ「富士外八湖」、「内八湖」、「富士山根元八湖」として記録に残っています。 八つの池(現在の忍野八海)は、「富士山根元八湖霊場」と名付けられ、略して、「元八湖霊場」と言われるようになったとされています。」 と。富士五湖水位図。本栖湖、精進湖、西湖は同じ水面高さであり繋がっているのであろう。河口湖と山中湖の水位差150m近くあることを知ったのであった。そしてこの忍野八海の水面高さは標高936m。そして次は河口湖畔へと。
2017.03.03
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河津町の桜鑑賞を終え、次の目的地は南伊豆町。海岸沿いを南下すると左手に伊豆諸島の島々がはっきりと確認できた。雲の下に三角形の利島、そして右手に小さな島・鵜渡根島、更に右に新島、式根島、三宅島、神津島と続いていたのであった。 車窓からエメラルドグリーンに染まった海岸風景を楽しむ。 下田の町を通過。幕末、日本が鎖国政策に終止符を打ち、開国という大きな転換を迎えようとしていたとき、その歴史の一幕にこの下田が登場。嘉永7年(1854年)、風待港だった下田港に、ペリー提督率いるアメリカ海軍が日米和親条約により黒船に乗って来航。下田は黒船来航、開国の歴史のもつ古くからの歴史の町なのです。道の駅 開国下田みなと 近くにはクルーズ船・黒船「サスケハナ号」の姿が。 稲生沢川にかかる「人魚橋 」を通過。橋の四隅には白き人魚像が佇んでいた。 そして南伊豆町・菜の花畑に到着。この場所は日野で「ひの」ではなく「ひんの」と読む地。 第19回「みなみの桜と菜の花まつり」が2/10~3/10で開催中。 菜の花畑前のコンビニに車を停める。買い物、トイレを済ませ散策開始。菜の花畑には木道が設置され、菜の花畑の中に入っていけるのでした。 約3ヘクタールの休耕田に広がる黄色の絨毯を敷き詰めたような日野菜の花畑。 この菜の花畑にもミツバチの羽音は聞こえて来なかった。 菜の花畑を歩くと、菜の花の香りが漂っていたのであった。 南伊豆町・下賀茂温泉 「みなみの桜と菜の花まつり」ガイドマップ。 南伊豆町の河津桜見学のために136号線を西に進む。来の宮橋近くの駐車場に車を停め、 青野川沿いの堤防を上流に向かって散策開始。 河津町の桜に比べて、葉桜が進んでいると思いきやさにあらず。こちらは今が満開状態。河津町に比べて海岸からの距離があるので気温が低いのであろう。観光客も比較的少なく穴場なのであった。 巨大な松ぼっくりにカラフルな布をアレンジした作品も見本として?展示中。店のおばあちゃんの自信の作品とのこと。 人も出店も少ないので、試食もなく(笑)、全員のんびりと河津桜を楽しむ。 青野川沿い約4.2キロメートルに植栽された約800本の河津桜。距離は長いですが、その分人混みも少なくゆったりのんびりと桜を楽しむことが出来たのです。 青野川沿いに2本のピンクの帯が。 河津町の桜に比べて幹が若い感じ。 堤の法面には菜の花が比較的少なかったが。 2本のピンクの曲線の帯とその中央に陽光を浴びて水面が白く輝く曲線の帯が。前原橋を渡り対岸を戻る。 太い幹に幼枝に可憐な小さな花が。 ピンクの曲線の美。 右手には大きな温室が。温泉熱を利用したメロン栽培で、日本で最初の温室メロン栽培地であると。南伊豆町の中心地にあるここ下賀茂温泉は、中央を青野川が流れかっては加茂川と呼ばれていた。川のいたる所から湯が湧いており、そこを掘って石で囲み河原の湯として利用したのが始まりで永禄3年(1560)の発見と言われていると。現在、110余の源泉が有り、また、噴出温度が100度を超える自噴泉は10数本もあると。下賀茂の空には一年中湯けむりが立ちのぼる湯けむりの里であると。町営温泉「銀の湯会館」正面。 南伊豆町営温泉「銀の湯会館」は、平成28年3月1日(火)に、リニューアルオープン。露天寝湯の新設やサウナ、脱衣室の拡張の設置など温泉浴場の魅力をさらに高め、食事のみでの利用も可能な食事処、裸足で歩く健康遊歩道の新設をはじめ、エントランス、休憩室周りも刷新。町営温泉「銀の湯会館」の敷地内に建てられていた「幸田露伴文学記念碑」 。下賀茂滞在中に詠んだ「風さむく松にはふけど湯のやまのかひには梅のはやさきにけり」の歌が刻み込まれていた。河津桜は、開花時期が長いこと、開花と共に濃さを増すピンクの色と花の密集度が人気なのです。 橋の上にも河津桜並木があるような光景。 橋の名前も風流、魅力的な「ゆけむりはし」。 河津町、南伊豆町の河津桜の花見を堪能した後は、マーガレットラインを走り西伊豆海岸を目指す。西伊豆海岸に入り136号線を北上する。 雲見海岸からの富士山の雄姿。西伊豆の美しい海岸線が続く松崎の中でも特にお薦めがこの雲見海岸と。室崎手前の道路沿いの少女像と像に留まるカラス(本物)。国道136号線には道路沿いにこの様な彫刻像が多く有ったのです。 よって道は「彫刻ライン」とも呼ばれていると。 室崎手前で富士山の雄姿が前方に再び。 仁科漁港で遅い昼食。昨年も同じ店での昼食だったのであった。何故か「仁科」には縁のある私なのです。 魚介類の直売所と食堂が一体となっている漁協直営の店。生憎、観光客でピークの時間。「いか様丼」 を注文し待つこと20分。店の名は「沖あがり食堂」。 食堂の目の前で水揚げされたスルメイカを氷で〆て甘さを引き出したイカを使用した丼。「いか様丼」はスルメイカの刺身と漬けにした刺身が両方味わうことができる丼。夕日に見立てた黄身は地元仁科の養鶏場から直接仕入れた新鮮なものとのこと。 なるほど西伊豆のこの付近は夕焼けの人気スポットなのである。 昼食を楽しんだ後は、更に車を箱根に向けて進める。シニア4人+1人での旅であったので「恋人岬」は今年はパス。目の前に再び富士山の姿が。 土肥で海岸と別れ右折し伊豆半島中央部に進むと左手の山の上の白きドーム・「天城ドーム」が姿を見せた。 愛称は、BIG-SUN(ビッグサン)。ソフトボールの日本代表チームの強化合宿に頻繁に使われるなど、静岡県のソフトボールのメッカ的役割を持っている他、テニス、フットサルなどの各種球技に幅広く使われている。屋根は開閉式。人工芝は砂入りのものが採用されていると。時間の関係上、韮山反射炉、三嶋大社の観光は次回に。 三島を通過し国道1号線の松並木の坂を上る。 前方に三島スカイウォークの橋脚の一部が車窓から見えた。 2015年に開業した日本一長い歩行者用吊り橋「三島スカイウォーク」。 箱根峠から芦ノ湖スカイラインを利用して仙石原へ向かう。 更に進むと折しも左手に日没の光景が。 芦ノ湖スカイラインレストハウス フジビュー手前の駐車場に車を停めしばしシニア4人+1人での夕日鑑賞。 以前に読んだ本?を思い出したのです。「その昔、私たちの祖先は常に移動していた。その場にとどまっているようでは、新しい発見や進化はなかったのだ。だから、夕焼けを見たときに「美しいな。あの夕焼けの先にはもっと美しいものがあるかもしれない」と感じたのだと。もし、そこで何も感じなかったなら移動することもなかったし、体力もどんどん衰えていっただろう。つまり、「夕焼けを見て美しいと感じる」のは、我々が一日の疲れを癒し、明日を向って生きるために必要な「能力」とも言えるのだ。」 と。時々刻々と赤い雲の色合いが変わって行く時間、そして明日を向って生きるための時間を楽しんだのです。 そして芦ノ湖沿いを走り、仙石原すすき野原前を通過。 そして、運転手のNさんの頑張りで、予定の18:00保養所チェックインに間に合ったのです。ここで偶然、ネパール旅行、イグアス&マチュピチュ旅行を共にした80歳を超えた大先輩のHさんに5年ぶりに再会出来たのです。ビール、ワイン、焼酎で食堂のタイムリミットまで大いに飲み、大いに食べ、大いに語り合ったのでした。その後はカラオケルームで更なる頑張り、皆さん若いのです。私はもっぱら観客に徹し?、プロの歌を楽しませて頂いたのです。そして 22:30には部屋に戻り私は爆睡へと。
2017.03.02
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今年も伊豆・河津桜を見に、元同僚、旅友の総勢5人で行って来ました。6:30に茅ヶ崎・Sさん宅に集合ということで都内在住の2人は車で直接、私は6:00前に自宅を出発して茅ヶ崎へ。予定通り6:30前にSさん宅で合流し、Nさんの車で茅ヶ崎から西湘バイパスを利用し二宮駅へ向かいました。左手前方に大磯港。 二宮駅でOさんと合流し、再び西湘バイパスで伊豆半島へ向かいました。車は小田原で真鶴道路方面へ。 相模湾からの日の出。 熱海海岸自動車道、国道135号を利用して南下。道の駅 伊東マリンタウンでトイレ休憩。更に南下すると左手下に稲取漁港と稲取温泉が。そして9時過ぎに予定通り河津桜駐車場に渋滞にも巻き込まれず到着。駐車場横の菜の花畑は満開、朝の陽光を浴びて黄金に輝く。 河津桜とは静岡県賀茂郡河津町にて毎年2月上旬から咲き始め3月上旬までの約1ヶ月に渡り咲く早咲きの桜です。花が大きくピンク色なのが特徴のこの桜は本州でも早咲きの種類に分類され開花の過程も楽しめます。花はカンヒザクラとオオシマザクラの自然交配と考えられてます。ここ河津町では昭和50年4月に河津町の木として認定されており毎年2月上旬より約1ヶ月間”河津桜まつり”を開催多くのお花見客で賑わうのです。河津桜 お花見マップ。河津川沿いの堤防上の桜がビューポイント。まずは近くの1本桜「かじやの桜」へ。原木から接ぎ木で生産された苗の一期生にあたると。樹高はやや低めですが見事な枝ぶりで、原木と間違える人もいるほどと。民家の庭先に植えられている「かじやの桜」。 これぞ桜のパラソル。そして空は青。この家の先代主が「鍛冶屋」であったと。ネット情報では「原木」は半分くらい葉桜になっているとのことであったが「かじやの桜」は見事な鮮やかな濃いピンクの花をつけ、多くの観光客がカメラを向けていた 。 河津桜の2017年・今年のポスター。2/10~3/10まで第27回河津桜まつりが開催されているが、3月になると葉桜となり3/10には完全に散っているのであろう。今年の開花はやはり1週間以上早かったということか。 河津川の堤防に向かって歩く。途中、ミカンやポンカン等々様々な柑橘系の果物が販売されていた。そして河津桜堤防に到着。満開のピークは過ぎていたが、菜の花と共に迎えてくれた。 下流側はピークを過ぎていると店のオバチャンから。よって上流に向かって歩を進める。やや葉が姿を見せている樹もあるがまだまだ菜の花と共に見頃。 ピンクと黄色は相性が良いのであった。 菜の花も満開であったが、何故か未だミツバチの姿は確認できなかった。 遊歩道横には多くの出店が。そして試食も出来たのであった。丹波焼き栗。 各種ドラーフルーツ。ここでも試食させて頂きました。 「極上ハリコ」 ハリコとは「針子(はりこ)」と書きサンマの幼魚と、店員の女の子から。一本一本一生懸命に並べたと。こちらでも、練炭火鉢上で焼いているものをご馳走になりました。イチゴ大福の製作途中? 河津川の両岸に河津桜の並木が続いているのです。 川の水も綺麗に。 こちらはニジマスの塩焼き。試食コーナーはありませんでした。 金目鯛や各種魚の干物もセット販売中。 この河津桜の下の黄色の花は菜の花ではなさそう。 河津桜と戯れるメジロを発見。 エビ詰め放題で1000円。 吊るし雛も売られていた。 巨大な吊るし雛?が一人孤独にテントの横の地面に。 巨大な松ぼっくりも販売中。ダイオウマツ(大王松)と言う葉の長い松とこれも店のオバチャンから。 清き白き川面と淡きピンクの花びら。 ピンク、白、黄色のBEST MIX。春の訪れを実感できる光景。 かわづ花の会の花壇。ご主人は河津桜の手入れ、奥様はまつり出店の準備と花壇の準備に忙しかったのであろう。 青空にピンクは似合うのであった。 鴨ものんびり花見をしながら餌を探していた。 河原に下りて二本のピンクの帯を追いかける。 見上げると。 鈴なり・撓わの花。 河津町の河津桜を堪能して、次の菜の花、河津桜を目指して更に車で南伊豆町に向けて車を走らせたのであった。
2017.03.01
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