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昨年のスムシ攻撃により巣碑が食い荒らせれてしまったため、巣枠から食い荒らされた巣碑を取り壊し、巣枠を綺麗に洗浄しました。 『巣礎』とは蜂の巣になる基礎の板。この板に蜜蜂が巣を作るのです。蝋で出来た板です。6角形が薄くプリントしてあり、蜂が巣を盛りやすいようになっています。薄黄色から黄色で良い匂いがするのです。 巣枠に張ってある鉄線を、蝋で出来た巣礎に埋め込むわけですが色々試行錯誤の後に、現在では半田ゴテを使用しています。 半田ゴテの先端に小さなダブルクリップを取り付けた強力な武器。これで連続的に半田ゴテにより電気加熱しながら、鉄線の上を、僅かに凹になったクリップの背中部分を滑らせることにより、スムーズに鉄線を埋線することが出来るのです。 先ずは巣枠の針金の下に巣礎をSETしました。 そしてクリップの付いた半田ゴテでゆっくりと針金の上を押しながら滑らしました。上の針金の部分が完成状態。下の針金はこれから。 別のカメラで接写してみました。蝋が溶けきれいに針金を埋めています。 約15枚の巣礎張りを行い、鉄線巣枠の巣礎張りは完了したのでした。
2017.06.30
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今年も我が趣味の菜園のトウモロコシが収穫できるようになりました。この日は2本を収穫し家に持ち帰りました。 トウモロコシの収穫時期は短いとされているので、タイミングを逃さないようにして、収穫する必要があるのです。とうもろこしの収穫のタイミングとしては1・ひげが出てから20~25日2・ひげが褐色になってから3・粒が丸みを帯びている4・房が太く実がしまっている が収穫の目安となると昔母から。早朝に収穫し、皮を捲ると黄色と白の実が姿を現しました。朝一で取れたトウモロコシが、一番糖分を蓄えていて美味しいのです。この日は妻が外出していましたので、自分用に1個をセルフで塩茹でしました。 そしてトウモロコシが茹で上がったら、そのまま10分間ゆで湯につけたまま放置。そうすることで、適度に粗熱が取れると同時に、トウモロコシに塩が入り、食べたときにより甘く感じるようになると教わりました。ジューシーで甘く新鮮なトウモロコシをかぶり付いたのでした。水から茹でることによって、実の中に水分が蓄えられて、更にジューシーに茹で上がると。次回はこれにTRYしたいと思っています。
2017.06.29
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我が趣味の養蜂場のある菜園の片隅にある「ビービーツリー」が梅雨のこの時期に開花を始めています。ビービーツリーは最強の蜜源植物とも言われています。花の比較的少なくなったこの時期に花を咲かせ、その蜜がたくさんの昆虫を集めます。1ヶ月にわたり次々と花をつけるため、 貴重な夏の蜜源植物なのです。ビービーというとBee Beeでミツバチを意味する英語のように思いますが、実は、花が咲くと蜜を求めてたくさんの昆虫が集まるため、近くを通るとその羽音がビービーという音を立てているからの名前とも言われているのです。 和名はイヌゴシュユとも呼ばれていると。更に海外では、A magnet for honeybees(ミツバチ磁石)の異名もあるのだと。枝の先端に、ガクアジサイの中央の小さな珊瑚状のものに似た花をつけています。 趣味の養蜂を始めた8年前に通販で苗を購入し定植したのです。 ビービーツリーの下に行くと、この日の朝もビービーと羽音が聞こえて来ました。この木の下では、我がミツバチそして放花した他のハチ楽員のオーケストラ演奏を生で聞き、楽しむ事が出来るのです。この写真にも花を訪れる大きなハチの姿が偶然に写っていました。 こちらにも。白い小さな花にはミツバチや他の虫たちそして野鳥までもが蜜を目当てに集まって来ています。 こちらの花には大きなクマンバチ(左)が、そして右にも。後数日経てば満開状態になるでしょうか。 我がミツバチも放花し、蜜を集めていました。すばしっこいミツバチの姿を写すのはなかなか素人には難しいのでした。 やはり、ややピンボケですが。これは日本ミツバチ?我が蜂箱には空室がありますので、どうぞ引っ越してきて下さい。そして体の大きなクマンバチも訪れていました。木の下の畑には、開花した後の花片?が既に落下しています。 そして我がミツバチ群も群勢を高めています。この群は3段積み。 巣箱入口にはミツバチ嬢立ちが頻繁に出入り。 7月初めには、今年最初の採密を予定しています。 それまでに、我がミツバチ嬢がこのビービーツリーから多くの蜜を集めて欲しいと願っている趣味の素人養蜂家なのです。
2017.06.28
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先週、6月22日の夕方に妻から夕焼けが美しいと。急いでカメラを片手に我が家の裏に。北西の空が真っ赤に染まっていました。ズームで。濃いピンクと紫のBEST MIX。更にズームで。電信柱、電線が邪魔ですが。遠く丹沢の山も僅かに映っていました。赤と紫の範囲が時々刻々と変化していたのです。ところで「空が真っ赤になる程の夕焼けは、地震の前兆である」という話を、耳にしたことがあるのです。実際、「夕焼けが起こった後、地震が起きた」という事例も多く報告されているとのことで、信憑性が高い話と考えている人も多い、とテレビで大学教授?から聞いた記憶もあるのです。先日のあの夕焼けも今回の長野の地震と・・・・と、ふと今想ったのですが・・・・????25日午前7時頃、長野県南部を震源とする地震が発生し、長野県の王滝村と木曽町で震度5強の強い揺れを観測したとテレビのニュースで日曜日にしきりに。今後は、科学の進歩とともに、夕焼けと地震発生の関係の因果関係が見つかることを個人的には期待したいのですが・・・・・その頃は空の上に??。
2017.06.27
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『鎌倉散策 目次』👈リンク明月院のアジサイを楽しんだ後は北鎌倉駅に向かう。この日は17:30集合で茅ヶ崎駅での飲み会の予定。時間があるので、最後に執権北条泰時ゆかりの寺・常楽寺(じょうらくじ)を訪ねることとし、大船駅方面に向かって更に徒歩で進む。そして道路沿いに植えられていた様々なアジサイを更に楽しんだのであった。 そして北鎌倉駅から徒歩20分強で常楽寺入口に到着。 「粟船山 常楽禅寺」と刻まれた寺標が左手に。常楽寺は、鎌倉市大船にある臨済宗建長寺派の寺院。山号は粟船山(ぞくせんざん)。本尊は阿弥陀三尊。嘉禎3年(1237年)の創建で開基は北条泰時。この泰時が妻の母の菩提を弔うため、栄西の弟子の退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を開山として、創建した粟船御堂(あわふねみどう)がその前身。泰時の没した(1242年)後、孫の時頼(五代執権)が蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を住持として迎え、寺名も泰時の法名をとり『常楽寺』としたのだと。常楽寺(じょうらくじ)1237年、鎌倉幕府三代目の執権北条泰時が、妻の母の供養のため建立した粟船御堂がはじまりで、寺の名である常楽寺は、北条泰時の法名「常楽寺殿」からとられたものといわれています。仏殿には、本尊の阿弥陀如来像、脇侍の観音・勢至菩薩像の三尊仏が安置されており、天井には狩野雪信が描いた龍の図があります。また、仏殿の裏へまわると、北条泰時の墓もあります。国指定重要文化財に指定されている鎌倉最古の梵鐘は、鎌倉三大名鐘のひとつであり、現在は鎌倉国宝館に預けられています。 ● 宗 派:臨済宗建長寺派 ● 山号寺号:粟船山常楽寺 (ぞくせんざん) ● 建 立:嘉禎三年 (1237) ● 開 山:退耕行勇 (たいこうぎょうゆう) ● 開 基:北条泰時山門。17世紀ごろの建立で鎌倉市の指定文化財。歴史を感じさせる茅葺の四脚門。山門の扁額には山号「粟船山」 の文字が。創建当時は密教系寺院、また、浄土系寺院でもあったとされているが、次第に禅宗色が強まり、後に臨済宗の寺となったと。建長年間、時の執権・北条時頼によって宋の禅僧、蘭渓道隆が鎌倉に招かれた。蘭渓ははじめ常楽寺の住持となり中国風の禅宗を広め、寺には多くの僧が蘭渓の教えを乞うために訪れたと。境内のガクアジサイ。 永年の風雪に耐えてきた大銀杏の老木の前には「涼蔭」 と刻まれた石碑が。大銀杏は大風や地震で傾き、昭和13年の暴風で完全に倒れ、これを有志で復旧したと石碑に。なるほど銀杏の木は中心部分は枯れているが、周りに新しい若枝木が育ち繁茂していた。「凉蔭之是銀杏樹開山禅師御手植也大正六年秋大風の為に傾斜大正十二年大地震の為に更に傾斜〇後支柱を施す然に年々傾斜の度を増す昭和十三年八月三十日夜暴風の為に全く倒尽す〇に於て檀信及有志の援助を仰き以て復旧す 時昭和十四年一月 建長曇〇時保書 現常楽禅寺〇道建」仏殿(神奈川県文化財)。 本尊は阿弥陀三尊像。阿弥陀如来像、脇侍の観音菩薩像、勢至菩薩像のほか、蘭渓道隆像が安置。天井には狩野雪信筆の「雲龍図」が描かれていた。文殊堂。 蘭渓道隆ゆかりの文殊菩薩坐像が安置されている。鎌倉や北鎌倉と離れた大船にあるため訪れる人は少なく、ひっそりと静寂そのもの。仏殿背後に墓石塔が三基並ぶ事が刻まれている石碑が。 石碑には、中央 再中興龍淵胤和尚墓 安政四年(1857)三月二十日左 圓通大應國氏師墓 延慶元年(1308)十二月廿九日右 開基北条泰時公墓 仁治三年(1242)六月十五日右側が北条泰時公の墓。北条泰時は義時の子、1183~1242年。父・義時の没後三代執権に就任(1224年、41歳)鎌倉時代を代表する名執権と言われ、執権在任18年に及び、数多くの足跡を残していると。右は龍淵和尚、左が大応国師(南浦紹明)の墓と。龍淵和尚は中興開基と伝えられ、大応国師は建長寺十三世を勤めた高僧。 本堂。 庫裏。 常楽寺を後にし、大船駅に向かう。途中右手に大船警察署が。 途中、岩瀬あじさい公園があり立ち寄るが・・・。 草ぼうぼうの荒れ果てた公園。アジサイの姿は皆無であった。 そして鎌倉市の今泉、今泉台、岩瀬、大船を流れ、柏尾川と合流する砂押川沿いを歩く。 桜並木の下のアジサイを楽しみながら歩く。以前はここ岩瀬には資生堂・鎌倉工場があり、その近くに我が卒業会社の独身寮が当時あり、私も何度かその独身寮の同僚の部屋を訪ねた事を懐かしく想いだしながら大船駅に向かったのであった。そして2000年までここ鎌倉市大船にあった映画スタジオ・松竹大船撮影所は、現在、鎌倉女子大学と鎌倉女子大学短期大学部の大船キャンパスとなっていたのであった。
2017.06.26
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『鎌倉散策 目次』👈リンク東慶寺から明月院まで徒歩にて10分弱で到着。平日の金曜日でしたが、流石に明月院(めいげついん)へ向かう観光客は多かったのです。明月院は、鎌倉市にある臨済宗建長寺派の寺院。山号を福源山と称する。本尊は聖観音、開基(創立者)は上杉憲方、開山(初代住職)は密室守厳(みっしつしゅごん)。アジサイの名所として知られ、「あじさい寺」の通称があるのです。明月院入口。 明月院 配置図。総門。 明月院境内に咲く縁が赤紫色のアジサイの花 アスチルベ?深紅のバラ。 この青い花は? フウリンソウの様な気もしますが・・・。黄色のバラ。 北条時頼公廟所。 北条時頼公墓所。緑に囲まれた月笑軒というカフェが。明月院のあじさい カフェでは、「抹茶と和菓子のセット」やジュースなどが楽しめるようであった。境内の青のアジサイ。 明月院の境内にある木の橋・桂橋には多くのカメラマンが。なるほど橋の上から見る鎌倉石の参道のあじさいは絶景であった。これぞ「明月院ブルー」 縁が赤紫色のアジサイ。 白から赤への変身の過程を自ら示してくれていた。 「明月院ブルー」のガクアジサイ。紫と白そして青の競演。 カシワバアジサイ。 「花の寺 明月院」。明月院のあじさいは95%が姫アジサイで、ガクアジサイなど他の品種は所々で見かける感じ。この時期のアジサイは花菖蒲、つゆ草と共にこの季節の「心の化粧色」であると。開山堂。禅興寺の明月院境内にあった宗猷堂を後に開山堂としたもの。堂内中央に開山密室守厳の木像,向かって左に最明寺,禅興寺,当院の歴代の住持の位牌が祀られていると。開山堂前の花想い地蔵。この地蔵さんはいつも季節の花を抱えていると。 地蔵さんの立て看板には、『人は離れしも はかない花の思い出の中に生きています 大切な人との別れ いとおしい物との別れ そんな時 ふと目に止まった花が どんなにか心を慰めてくれたことでしょうか いつくしみ深き花地蔵』との文字が。やぐら。開山堂の裏手の山腹に,間口約7m,奥行き約6m,高さ約3mのやぐらが。鎌倉で最大級のやぐら。 やぐらの壁面中央には,阿弥陀如来像,多宝如来,両側には十六羅漢の浮彫りが彫られていた。やぐら中央には宝筴印塔(上杉憲方の墓)が。 小さな祠に入った六地蔵も「明月院ブルー」の涎掛けを。六地蔵の手前には「明月院ブルー」のアジサイが。 「詫び寂び」の世界に誘うが如き竹扉。大小の地蔵様が並ぶ。 手入れの行き届いた枯山水庭園。 枯山水とは石と砂で山水の風景を表す庭園の形式。明月院のこの枯山水は「須弥山(しゅみせん)」を形どり仏教観を表現していると。本堂の一番奥にある丸窓は「悟りの窓」。 丸窓の向こうにはハナショウブ。ハナショウブが咲いている間は、本堂裏の庭園が公開されていた。明月院の撮影ポイント「丸窓」までは長い行列が。 水かめ(睡蓮鉢)にはこんなアートな作品が。金魚は作り物ですが、涼しげな雰囲気。 「明月院ブルー」 へあと少し。こちらのガクアジサイも。 散策路の竹林。 竹林には、「福源山」と刻まれた瓦などが無造作に置かれていました。 総門から中門への参道を人がいない瞬間に遭遇し慌ててシャッターを。ここは「明月院ブルー」のカオス。 明月院ブルーと一言でいっても、淡い青から濃い青まで様々な青色が。 そして「明月院ブルー」 のZENITHへ。
2017.06.25
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『鎌倉散策 目次』👈リンク妙本寺の総門を潜り、帰路を真っ直ぐ進むと正面に大きな山門が見えて来た。ここは本覚寺(ほんがくじ)。本覚寺は、日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は妙厳山。本尊は釈迦三尊像。身延山の久遠寺にあった日蓮の遺骨を分骨したため「東身延」とも呼ばれると。二代目住職の日朝上人にちなんで通称「日朝さま」。日朝上人は、眼病の治癒で非常に信仰を集めたという。その理由は激務がたたり、日朝上人は65歳の時に両目を失明。ところが「まだやり残した仕事がある」と一日に一万回「お題目」を唱えるなどして願を掛け、3年後に奇跡的に視力を取り戻したのだと。また、若宮大路に向けて入り口を作ってはいけない規則が当時あったため、本覚寺は小町大路(辻説法通り)に入り口を向けているのだと。そして山門(仁王門)の手前に「夷堂橋(えびすどうばし) 」 と白く書かれた石碑が。この橋は鎌倉十橋のひとつ。ここには昔、夷堂があったと言います。碑文には「この川は現在は滑(なめり)流といいますが、 昔は場所によって多くの呼び 名がありました。上流では胡桃(くるみ)川といい、浄明寺 門前では滑川といい、文覚 (もんがく)屋敷跡の辺りでは 坐禅(ざぜん)川といい、この辺りでは夷堂川と呼び、延命寺の辺りはすみうり川と言い、閻魔(えんま)堂址の辺は 閻魔川と言いました。」 と。山門(仁王門)の阿形像。 吽形像。 山門(仁王門)からの境内そして本堂。 1274年(文永11年)、佐渡流罪を許されて鎌倉に戻った日蓮は、夷堂を拠点として活動し、その後、日出が日蓮ゆかりの地に本覚寺を建てたと。そのときに、夷堂も仁王門近くから本覚寺の中に移されたという。 明治になると神仏分離令が出され、夷堂は移転して蛭子神社に合祀されたが、1981年(昭和56年)、本覚寺内に再建されたのだと。夷尊堂と書かれた扁額。屋根には九輪が載る。 「人形塚」の碑。毎年10月の第一日曜日に行われる人形供養は、「物を大切にする」という考え方から始められたものと。本堂で供養法要が行われた後、人形のお焚き上げがあると。手水舎の見事な対の龍。 鐘楼。応永17年(1410年)銘の梵鐘。創健者の一条院日出が木更津八幡宮の別当寺で法論に勝ち、従者に持ち帰らせたと伝えられていると。 本堂。大正時代の創建。本尊は釈迦如来。赤い帽子と前掛けをしている「しあわせ地蔵」が境内に。願い事をとなえながらその頭をなでると願いがかなうと言われていると。そして境内の紫陽花。 ご朱印を頂きました。「眼病救護」という文字が印象的。 そして再び鎌倉駅へ向かう。途中のマンホール。中央に時計塔そして鎌倉市の木はヤマザクラ、市の花はリンドウ。 そして鎌倉駅から横須賀線に乗り北鎌倉駅で下車し東慶寺(とうけいじ)に向かう。東慶寺は、鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺院。山号は松岡山、寺号は東慶総持禅寺。開基は北条貞時、開山は覚山尼と伝える。現在は円覚寺末の男僧の寺であるが、開山以来明治に至るまで本山を持たない独立した尼寺で、室町時代後期には住持は御所様と呼ばれ、江戸時代には寺を松岡御所とも称した特殊な格式のある寺であった。また江戸時代には群馬県の満徳寺と共に幕府寺社奉行も承認する縁切寺として知られ、女性の離婚に対する家庭裁判所の役割も果たしていたのだと。 山門に向かう途中の庭には各種アジサイが開花。カシワバアジサイ。白い花は円錐状あるいはピラミッド型に付く独特の形状。 そしてとりどりのアジサイが開花中。 そして階段の上には藁葺き屋根の山門が。 山門を潜って左側に茅葺屋根の鐘楼が。 現在の鐘楼は大正5年のもの。関東大震災で唯一倒れなかった建物であると。梁に大震災のとき梵鐘が揺れてめり込んだ跡が残ると。東慶寺には鎌倉時代末期に造られた梵鐘があったが今はここになく、静岡県韮山の本立寺にある。現在の梵鐘は南北朝時代の1350年に鋳造されたもので神奈川県重要文化財に指定されている。そして再びアジサイが迎えてくれた。 右手に仏殿。もともとは、鎌倉尼五山第一位で廃寺となった太平寺の木造聖観音立像(土紋装飾が施された仏像)を安置するために建立されたのだと現在、木造聖観音立像は松ヶ岡宝蔵に安置。)。現在の仏殿は1935年(昭和10年)に建立されたもので、旧本堂(仏殿)は横浜市の三溪園に移築されているとのこと。本堂横の水月堂には、木造水月観音半跏像が安置されていると。 仏殿は、「泰平殿」と呼ばれ、本尊は釈迦如来坐像(南北朝時代)。本尊の左には二十世天秀尼像、右には開山覚山尼像と五世用堂尼像が安置されていると。 境内の中央に鎮座する金仏そしてその後ろに花菖蒲田が。本堂前に鎮座するこの露座佛の視座は一直線に時宗の眠る廟の方角を捉えて瞑想しているのであった。もちろん視線の先は山門の遥か向かいの山、円覚寺の時宗の廟。この書院は、大正期の建立。それ以前の書院は、1634年(寛永11年)、徳川忠長屋敷から移築されたものだったが、1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊。現在の建物は、その当時の間取りで再建されたものであると。 緑煌めく世界、そして秋には紅煌めく世界に。 東慶寺は鎌倉の花菖蒲の名所。 色とりどりの花菖蒲が咲き乱れていた。 そして境内の奥の山道の岩肌にはイワタバコが開花中。この時期、鎌倉の花といえば真っ先に紫陽花が思い浮かびますが、寺の裏山などの岩肌に紫色の星形の花を咲かせるイワタバコこそ鎌倉らしい花なのかも。残念ながら仏殿(本堂)裏の岩肌を覆い尽くすイワガラミはこの日は公開されていなかった。そして再び山門を潜り明月院に向かったのであった。あるく
2017.06.24
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『鎌倉散策 目次』👈リンクJR鎌倉駅東口 から若宮大路を横断し海岸方面に歩き、鎌倉郵便局前の交差点を左折し進むと10分ほどで妙本寺(みょうほんじ)総門が見えて来た。妙本寺は、神奈川県鎌倉市大町にある、日蓮宗の本山(霊跡寺院)。山号は長興山。この地は比企能員一族が住む谷戸(やと)であったところから「比企(ひきが)谷(やつ)」と呼ばれている。しかし、比企一族は建仁3年(1203年)に権力保持を目論む北条一族によって滅ぼされたのだ。その争いを「比企の乱」と呼ぶと。比企能員邸址と刻まれた石碑。 妙本寺は、日蓮聖人を開山に仰ぐ、日蓮宗最古の寺院。開基は、比企能員の末子で、順徳天皇に仕えた儒学者比企大学三郎能本。総門を潜ると右手に大円坊、現在は比企谷幼稚園となっている。 妙本寺境内案内図。方丈門奥の紫陽花が迎えてくれた。方丈門から本堂への階段通路は閉鎖中のため横の参道を二天門に向かって進む。 参道の木漏れ日も清々しく。 杉木立の参道を上ると正面に「二天門」。仏教の守護神である四天王のうち、持国天と多聞天(毘沙門天)を安置していることから「二天門」と呼ばれている。ベンガラ塗りの鮮やかな色が印象的であったが逆光。 2011年(平成23年)9月に保存修理が終わり、美しい姿が蘇っていた。 二天門の欄間の飛龍(右側の龍)。ここだけ極彩色。この下で手を叩くと龍の声が聞こえるという言伝えがあると・・・・????。 向かって左側が多聞天。北を守護、毘沙門天とも。右側が持国天。東を守護。境内には大きな日蓮聖人説法像が。日蓮聖人は、貞応元年(1222年)、安房小湊(千葉県小湊)に生まれ、12歳で清澄寺に入り、16歳で出家、仏教諸宗が様々広まっている中で、天変地異や飢餓などで人々が苦しんでいる有様に心を痛め、仏の真実の教えを求め続けて、32歳まで鎌倉諸大寺、高野山、そして比叡山と諸宗の諸大寺に遊学し、遂に「一切衆生を救う教えは法華経である!」との確信を得て、今から760数年前、建長5年(1253年)4月28日、立教開宗の宣言。これが日蓮宗の始まり。日蓮聖人は、当時政治文化の中心であった鎌倉の町の辻々に立って教えを説き、「法華経こそお釈迦さまの真実の教えである!目覚めよ、人々!」と説いたと。この銅像は、平成14年、第79世 加藤日暉貫首の代に日蓮聖人立教開宗750年ならび鎌倉布教750年を記念して建てられたのだと。 手水舎。 祖師堂。祖師堂は、妙本寺の中心的な建物で、日蓮、日朗、日輪が祀られている。第二祖の日朗の創建。現在の建物は、天保年間(1830~1843年)に、第四十七世日教によって再建されたと伝えられている。鎌倉最大級の木造仏堂建築で 桁行 (正面) 五間、梁間 (奥行) 六間で、瓦葺き入母屋造り。正面は約 18.7m、奥行きは 約 19.7m の堂々とした建造物。 祖師堂の向背の彫刻も見事。 向背下の龍の彫り物。 獅子の彫り物。 格子の蔀戸(しとみど)(ガラス入り)。祖師堂内部の厨子。日蓮聖人像が祀られていると。祖師堂前にはドクダミの花が。 何と八重のドクダミの花。 密集した葉の間から4枚の白い花弁状の苞をパッと広げ、苞の真ん中からとんがり帽子のような花序を覗かせる八重の花を開かせているドクダミ。八重のドクダミの花を見るのは初体験。祖師堂の廻り縁に腰掛け暫し休憩。目の前には新緑のモミジ葉が陽光を浴びて輝いていた。 向背内部の手挟み(たばさみ)の部分には花の彫刻が。 廻り縁から境内そして二天門を見る。 祖師堂の左側に石段があり山へ上って行く道が。その石段の上り口脇右に「万葉集研究遺蹟」の碑が。石碑の上部に篆書(てんしょ)という書体で記されていた。この地にはかつて新釈迦堂があり、そこの供僧(ぐそう)の仙覚(せんがく)は、新釈迦堂とその僧坊で寺務のかたわら万葉集の研究をしたと。仙覚は「万葉集」の本文校訂など業績をあげ「万葉集」の研究者。建仁2年(1203)の生まれと推測され、出生に関しては不詳だが比企氏ゆかりの者とも。境内の墓石には城の如き立派なものも。 比企氏一族の墓。石垣で一段高くなった所に五輪塔が4基並んでいた。その、右側のものは妙本寺開基の日学夫妻の供養塔、左側のもの比企能員夫妻の供養塔と。日学は比企能員の末子能本の法名とのこと。寿福院の逆修塔。比企氏一族の墓の並び右手にある立派な大五輪塔。逆修塔(ぎゃくしゅとう)とは生前に死後の冥福を祈って建立した供養塔。塔の各部に「妙・法・蓮・華・教」の五文字が刻まれ、側面に「加賀太守宰相卿之御母公 寿福院殿日栄逆修」と刻まれていた。(1624建立)。寿福院は千代といい、加賀前田家藩祖の前田利家の側室で利常を産んだ。利常が藩主(三代藩主)になると、慶長19年(1614)藩主の生母として、芳春院(利家の正室「まつ」)と入れかわりに人質としてに江戸へ下ったと。その後、寛永8年(1631)江戸藩邸にて没した。日蓮聖人説法像の反対側、墓地前の一画に竹矢来で囲まれた場所が在ります。一幡袖塚。3代将軍を約束された一幡は、母親である比企能員の娘若狭の局と共にこの比企邸で暮らしていたが、北条氏の焼討に遭い討死した。死体は見つからなかった。そこで、焼跡から見つかった一幡の着物の袖を埋めて墓とした。小さく可愛らしい五輪塔であった。一段高い場所には鐘楼が。妙本寺本堂。総門と祖師堂の中間あたりにある本堂。社務所が右手に。 ご朱印を頂きました。 左手は書院。そして人の少ない境内の紫陽花の花をゆっくりと楽しんだのであった。 そして最後に蛇苦止堂(じゃくしどう)を訪ねる。蛇苦止堂は若狭局(わかさのつぼね:讃岐局(さぬきのつぼね)と同一人物と。)を祀っている。1203年(建仁3年)、比企能員が北条時政邸で暗殺され、比企ヶ谷の比企一族は、北条義時らに攻められ滅ぼされた(比企の乱)。二代将軍源頼家の側室であった若狭局(能員の娘)は、家宝を抱えて井戸に飛び込み自害したと伝えられている。後に文応元年(1260)のその日の夕刻、後の執権・北条政村の娘が突然錯乱しそして語り始めた。娘の口をかりて話始めたのは「讃岐局」を名乗る怨霊。「われは大きな角の生えた大蛇となって比企ヶ谷の土中で火炎のごとき苦を受けている」と。その場にいた者たちは身の毛もよだつおもいで恐れおののいたと。その後政村は経典を写し讃岐局を供養した。また加持祈祷をして政村の娘を癒したと。そこで妙本寺建立にあたって、若狭局(=讃岐局)の怨霊を鎮めるため、蛇苦止大明神として祀ったと。
2017.06.23
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『鎌倉散策 目次』👈リンク葛原岡神社を出て銭洗弁財天に向かう右手には小さな公園が。所々に既に?紅葉したモミジの木々が。 そして5分ほど坂を下ると右手に銭洗弁財天(ぜにあらいべんざいてん)宇賀福神社の入口が。銭洗弁財天宇賀福神社は、お金を洗うと何倍にも増えて戻ってくるといわれる霊水「銭洗水」が湧く神社。銭洗水は境内の洞窟(奥宮)で湧き、ご利益にあずかろうと多くの参拝客が訪れる。 また、弁財天の縁日である巳の日は特にご利益があるとされ、一段と賑わいを見せる。平安末期、鎌倉は災害が続き貧困にあえぐ庶民のために,源頼朝が世の救済を祈願したところであると。巳の年の文治元年(1185)の巳の月、巳の日の巳の刻、宇賀福神から「この地に湧き出す水で神仏を供養せよ、そうすれば天下泰平の世が訪れる」と源頼朝の夢にお告げがあり、そこで源頼朝はこの地に社を建てて宇賀福神を祀った。その後、世の中の混乱は収まったと伝えられている。この話が発展していつの頃からか、その霊水でお金を洗うと倍になると言う信仰が生まれた。鎌倉五名水の一つである。洞窟の口もとに社があり、社は宇賀福神で洞窟の中の社は銭洗弁財天である。四方を急峻な崖で囲まれており、入り口は隧道(トンネル)になっている。 まるで洞窟のような素掘りのトンネルをくぐって境内に。 手水舎。 トンネルを抜け出ると、続いては数多の鳥居が並ぶトンネルへ。これらの鳥居は過去の様々な人々によって奉納されたもの。 鳥居を潜らず見に行くとあるのが七福神社。こちらは商売繁盛のご利益があると。 下之水神宮。こちらには「水波能売命(みずはのめのかみ)」という水の神様が祀られていて、湧き水が小さな滝のように流れていた。上之水神宮。こちらも下之水神宮と同様に「水波能売命」という水の神様が祀られていると。 境内案内図。休憩所の裏にも鳥居が続いていた。 社務所で100円を納め、線香とろうそく、ざるの3点セットを分けてもらい、ろうそくの火を点けてから線香を立て、その後に社にお参りをするのだと。 銭洗弁財天 本社へお参り。ざるを持って「奥宮」と呼ばれる洞窟の中へと。この洞窟の中には水が湧き、この場所で銭(お金)を清めるのです。丁度小学生の遠足?と重なり奥宮内部は大混雑で賑やかであった。子供達も硬貨や1000円札を必死に!清めていた。私もざるの上に財布から出した1000円札を置き、柄杓で汲んだ湧き水をかけて必死に!!清めたのであった。周囲を見渡してみると、千円札や硬貨だけでなく、1万円札など、財布の持ち金を全て?出して清める若者の姿も。更には、宝くじやクレジットカードまで清める若い女性の姿も。社務所でご朱印を頂きました。 休憩所で水分補強。境内の土産物屋は子供達で混雑。 そして再び隧道を潜り神社を後にする。 銭洗弁財天から5分ほど進んだところに、右折すると佐助稲荷、真っ直ぐ進むと鎌倉駅への分かれ道があった。佐助稲荷を目指すことにし右折。そしてさらに緩い上り坂を歩いて行くと、佐助稲荷神社の幟旗が現れた。そして左手に佐助稲荷神社の下社が。 社殿の右手には、十一面観世音菩薩と書かれた祠が。「相州鎌倉隠里 佐助稲荷神社由緒当社は源頼朝公の再建せし古社にして御祭神は宇加御魂命(うかめみたまのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、佐田彦命(さるたひこのみこと)、大宮女命(おおみやめのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)。往古頼朝公伊豆蛭ヶ小島の配所にて、平家討伐を日夜念じをりし折、稲荷の大神気高き老翁の姿にて夢に現れ給い、挙兵をうながし、その時期を啓示し給えり。頼朝公天下一統の礎を固めし後、稲荷神霊の加護に感謝し畠山重忠に命じ、佐介山隠れ里の霊地を選び社殿を造建せしむ。人々の信仰きわめてあつく、出世稲荷としてその御神徳は広く関東一円に拡がりたり。さらに寛元の頃(13世紀中)鎌倉に疫病流行せし時、佐介稲荷の大神再び奇瑞を現し給い、霊種をして薬草を生ぜしめ病苦の者、ことごとく癒し給いぬ。以来、神威更にかがやき、商売繁盛、病気平癒、大漁満船、学業成就の霊験顕然たり。例祭 2月初午 正午縁結び十一面観世音菩薩徳川時代、足柄郡の尼寺から縁あって当地に安置された木像十一面観音は、良縁にうすく、諦めて仏門に入られた美しい姫君、赤松幸運がこの世の若い男女に良縁あらんことをと祈りつつ彫られたと伝えられています。」更に山の奥にある、佐助稲荷神社の拝殿を目指す。正面に赤い鳥居そして幟が幾重にも続いていた。 連なる赤い鳥居をくぐりながら参道を更に進む。 参道横の小さな祠にも多くの陶製狐が鎮座。どうやら縁結びの神様らしく、キツネ達もすべて一対(ペア)。社務所を越えてさらに右手の奥に進んだ先に、「霊狐泉(れいこせん)」と書かれた建物が。昔から麓の田畑を潤してきた水源で、霊狐の神水と称えられている湧水とのこと。 近くにユキノシタの花が咲いていた。 花は5弁で、上の3枚が小さく濃紅色の斑点があり基部に濃黄色の斑点があり、下の2枚は白色で細長い。子供の頃、このユキノシタの葉は山菜として、天ぷらで食べた記憶があるが最近は無し。階段の上には拝殿が鎮座。源頼朝が伊豆の蛭が小島にいる時、宇迦御魂命が翁の姿で夢枕に立ち、平家討伐の挙兵をするのは、今だ! 勝利は間違いないであろう、というお告げがあった。そして頼朝は冶永四年(1180)8月17日に挙兵し、平家討伐を果たした。頼朝は幕府を開いて、初期の目的を達成したお礼として、畠山重忠に命じて、建久年間(1190)に、ここを霊地と定めて稲荷の社殿を造営させたと。頼朝は若い時、兵衛佐であったので佐殿と言われていた。その佐殿を助けた神と言うことで佐助稲荷と言われたのだと。 拝殿内部。 拝殿に向かって右手が開けたスペースになっていて、そこに社務所が。 ご朱印を頂きました。さらに上がると本殿があった 本殿への階段を降り、拝殿の左側には苔むした数々の石灯籠と鎮座する白い可愛い狐像が数え切れないほど奉られていた。銭洗弁天の近くだが、あまり訪れる人がいないようで圧倒的に空いていた。ゆっくり雰囲気を味わうには穴場。そして鎌倉駅西口に向かって歩を進める。途中「蓮華寺阯」の碑が。「蓮華寺ハ仁治元年(1240)北条常時ノ創元ニカカリ 僧良忠ヲ開山トセシガ 寛元元年(1243)之ヲ材木座ニ遷シ 寺号ヲ光明寺ト改メシ由伝ヘラル 又一説ニ蓮華寺ハ経時ノ菩提ノ為 建長三年(1251)北条時頼之ヲ建立シ 後弘安二年(1279)ノ頃 武州ヘ遷セリトモイフ 此谷ヲ佐介ヶ谷(さすけがやつ)ト唱フ」【蓮華寺は、1240年に、僧侶の良忠(りょうちゅう)を開山として、北条常時(つねとき)が、建てました。 1243年に、この寺を材木座に移し、寺の名前を光明寺と改めたと伝えています。また一説によると、蓮華寺は経時(つねとき)の菩提(ぼだい)のため、 1251年に北条時頼(ときより)が建て、その後、1279年の頃に、武蔵(東京都)へ移したともいわれています。この谷を佐介ヶ谷(さすけがやつ)と言います。 昭和九年(1934)三月 鎌倉町青年団建 「この石碑は、 昭和九年に鎌倉町青年団により蓮華寺跡と思われる松が谷内(登記所西側谷戸)に建てられたものですが、藤沢-鎌倉線の開通に伴い、この場所に移されたものです。従って現在地は遺跡ではありません。】蓮華寺は、1240年(仁治元年)、四代執権北条経時が開山に然阿良忠を迎えて創建した寺院。1243年(寛元元年)には、材木座に移され光明寺と改められたという。光明寺の裏山には北条経時の墓があるとのこと。そして鎌倉駅西口に到着。西口広場にある鎌倉駅旧駅舎の時計塔。現在の駅舎に改築される際に市民の要望によって保存されたと。地下道を利用して東口に向かう。地下道の壁には『フクちゃん』などで知られる戦後日本を代表する漫画家,横山隆一氏による壁画が。かつて1934年から1962年まで続いた祭り「鎌倉カーニバル」がモチーフになっているのだと。 横山氏は鎌倉市名誉市民でもあり,かつては鎌倉市役所付近に邸宅を構えていたのだと。 そして東口にも美しいアジサイが咲いていた。 鎌倉駅東口を振り返る。
2017.06.22
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先週末に鎌倉のあじさい巡りを兼ねて鎌倉の神社仏閣を散策してきました。まずはJR大船駅からバスにて約25分で桔梗山へ。 ここから目指すは葛原岡神社(くずはらおかじんじゃ)。桔梗山のバス停から葛原岡神社へ向かう山道沿い、そして境内は多くのアジサイが楽しめる鎌倉のアジサイ見物の穴場なのです。長谷寺や御霊神社、極楽寺、明月院等はアジサイ客で平日でも大混雑である事をニュースで知り、これを避けたのです。 バス停近くの住宅の法面で、様々な色のアジサイが迎えてくれたのです。 そして山道を登りながら進んでいくと、様々な種類、色のアジサイが次々と。 そして急な階段が迎えてくれましたが、励ますかのように真っ青なアジサイが階段途中に。 そして山道を上ること20分、葛原岡神社の鳥居前に到着。 葛原岡神社は後醍醐(ごだいご)天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基(ひのとしもと)卿をお祀りする神社。境内の池には花菖蒲も開花中。 赤い睡蓮も。 別の場所から。縁結び石。縁結びの利益があり、良縁に恵まれるとされる「縁結び石」は平成二十二年冬に良縁の願いを広く叶えるために「男石」「女石」に御霊をお迎えして祀っったのだと。社務所で縁結びのお守りを授かると赤い糸のついた五円玉が頂け、それを自分の手で縁結び石のしめ縄にしっかりと結びつけるのだと。 「縁むすび絵馬」「恋みくじ」。 境内にある合鎚稲荷社(あいづちいなりしゃ)。 鎌倉時代の鍛冶職人(刀工)、五郎入道正宗に縁のある稲荷社だと。戦国時代、正宗の子孫は北条氏綱から無量寺ヶ谷に土地を与えられ、そこを屋敷とした。その屋敷跡とされる場所に大正時代に建てられたのが合鎚稲荷社。2013年(平成25年)にこの葛原岡神社へ移された(現在の建物は新たに造られたもの)と。 葛原岡神社への手水場。主神である日野俊基が祀られている神社の本殿はこじんまりとした建物。華やかさはないが、周囲の木々に守られるように鎮座している様子は神さびていた。本殿の脇には、旧本殿に飾られていた昇運の神龍が。雲をかきわけて上昇していく神龍は、開運のご利益があると評判と。120年間本殿を守ってきた石の彫刻で、神社の中では歴史があるのだと。立身出世を望む方はお参りするのがおすすめと。 日野俊基の終焉の地の石碑。 俊基卿終焉之地と刻まれていた。日野俊基は、「元弘の変」で捕らえられ、1332年(元弘2年)6月3日、ここ葛原ヶ岡で斬首された。明治時代になると、日野俊基は倒幕の功労者として評価され1887年(明治20年)、日野俊基を祭神とするこの葛原岡神社が創建されたと。境内の池には湧き水が竹を伝って流れ落ち涼しげ。境内のアジサイ 鳥居の隣にある「魔去る石」。 「魔が去る」が転じて「勝(まさる)」ということで、幸せを勝ち取る石と呼ばれていると。魔が去るように願いを込め、盃をこの石に当てて割れれば、幸せを勝ち取れるのだと。盃が割れない時は、拾って砕けるまで投げていいと。 社務所。 ご朱印を頂きました。 葛原岡神社の鳥居の傍らに建てられている「藤原仲能之墓」碑。「此処ハ道智塚或ハ阿古耶尼(アコヤニ)ノ塚ト伝ヘラレシモ 海蔵寺伝ニ拠リ 藤原仲能ノ墓所ト考察セラル 仲能ハ従五位下前能州大守ニシテ鎌倉幕府評定衆 タリシガ 後年 海蔵寺中興ノ大檀越(檀家長)トナリ 建長八年(1256)十二月九日寂シ 道智禅師ト称(タタ)ヘラレシモノノ如ク 其位牌同寺ニ現存ス」【この場所は、道智(どうち)の塚または阿古耶尼(あこやに)の塚であると伝えられていますが、 海蔵(かいぞう)寺の伝えによりますと、藤原仲能(なかよし)の墓と考えられます。 仲能(なかよし)は、鎌倉幕府の重臣でしたが、その後、海蔵寺の発展に尽くしました。 1256年12月9日死に、道智禅師と言われたらしく、その位牌がこの寺に現存しております。】藤原仲能は、鎌倉幕府の評定衆を勤めた人物で、1253年(建長5年)、六代将軍宗尊親王の命によって、七堂伽藍を有する寺院を建立し、海蔵寺の中興に尽くした。死後、道智禅師といわれたと。この場所は、「道智の塚」または「阿古耶尼(あこやに)の塚」と伝えられていたようであるが、海蔵寺の言い伝えでは「仲能の塚」となっているらしい。海蔵寺には、仲能こと道智禅師の位牌があるとのこと。 葛原岡神社前の「こもれび広場」で水分補給。銭洗い弁天に向かって進むと直ぐに、国指定史跡 日野俊基墓入口が右手に。日野俊基は、1324年(正中元年)、後醍醐天皇の倒幕計画に参加した罪で捕らえられ、日野資朝とともに鎌倉に護送された(正中の変)。この時俊基は許されたが、資朝は翌年佐渡に流された。後醍醐天皇は、万里小路宣房を鎌倉へ派遣し、「告文」をもって弁明したことにより罪に問われなかった。「告文」とは、天皇が告げ申す文で、武家に出すことは前代未聞だったと。 繰り返しになるが、1331年(元弘元年)、後醍醐天皇は再度倒幕計画を企てるが、これが露見し、日野俊基は再び捕らえられ、翌年6月3日、ここ葛原ヶ岡で処刑された(元弘の変)。俊基は、鎌倉に入ることなく仮粧坂の葛原ヶ岡で斬首されたと伝えられている。同じ頃、佐渡に流されていた日野資朝も処刑され、後醍醐天皇は隠岐に流されたと。
2017.06.21
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大船フラワーセンターからの帰路にこれも久しぶりに定泉寺・「田谷の洞窟」に立ち寄りました。 車を入り口前の駐車場に停め散策開始。 田谷の洞窟のある定泉寺は天文十三年(1544)の創建と伝わっています。境内にあるこの有名な田谷の洞窟は正式名称を田谷山瑜伽洞(たやざんゆがどう)と云い、全長1kmにも及ぶ人工洞窟で、真言密教の修行場として活用された地底伽藍。また、境内にあった著書『田谷の洞窟』によれば、古くは古代横穴住居跡、もしくは古墳跡であったとも云われています。そしてさらに、定泉寺は和田義盛(和田合戦)の三男で朝比奈三郎義秀の邸跡でもあるそうです。境内には朝比奈三郎が日夜礼拝していたと伝わる朝比奈弁才天が祀られていました。 永大供養墓 大日堂。 境内の修行大師像。定泉寺本堂。真言宗大覚寺派、ご本尊:厄除身代り阿弥陀如来:不動明王 :弘法大師田谷の洞窟・正式名称を田谷山瑜伽洞(たやざんゆがどう)の入口。大人一人400円で、小さなロウソクを灯しながら、暗くてひんやりと寒い洞窟内を進んで行きました。全長1kmにも及ぶ洞窟内案内図。洞窟は10個前後の広い空間を通路で結ぶような形で作られているが、この広い空間や通路の壁面や天井には曼荼羅、十八羅漢、刈萱道心の仏教説話などが彫られている。また西国三十三所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所、四国八十八箇所の壁画はそれらをすべて回ることで巡礼したことの代替とするものであると。入口からは想像もつかない程の、長い迷路のような洞窟が広がっていた。鎌倉時代から続く修禅道場で、今までの大地震にも耐えぬいてきた一枚岩でできていると。今となっては洞窟内ところどころに小さな電球が灯され、順路も書かれていますが、中は暗くて静寂に包まれた巨大迷路・・・ここも借り切り状態で一人で入るには少し勇気がいりました。 阿吽の獅子・昇龍。洞窟内には所々に照明そして蝋燭のが灯が。 秩父三十四観音霊場。胎蔵界曼茶羅(種字曼茶羅)。 梵字(ぼんじ)。 四十九院種子曼荼羅。 通路のところどころで広めの空間があり、そこでは曼荼羅が形作られていたり、御仏が祀られていた。弥勒菩薩像。 五大明王。 秩父三十四観音霊場。 そして再び入口に戻る。 朝比奈弁財天(右)。出口左には子安地蔵尊が。 年ごとにたくさんの水子供養の水子地蔵が安置されていますした。衣類を纏った地蔵尊も。それぞれの想いが感じられました。 玉石。この玉石を撫でてからその手でお腹をさすると玉のような赤ちゃんに恵まれると。玉石の脇に「おんばらだはんどめいうん」の札が建ててあった。 歌碑。「御先祖乃 由縁の寺や 蝉時雨 やま」 ご朱印を頂きました。
2017.06.20
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『鎌倉散策 目次』👈リンク更に散策は続く。 盆栽展示場。 スカシユリの群落。 黄色、白色も。 白のホタルブクロ。この和名は、子どもが袋のような花にホタルを入れて遊んだことに由来。芝生広場の花壇。マリーゴールド、サルビヤの帯が続く。 花の間を歩く。 サルビヤ・スプレンデス 「トーチライト」 。マルバデイゴ。デイゴは沖縄の県花、アメリカデイゴは鹿児島県の県木に指定されているとのこと。このマルバデイゴはブラジル、アルゼンチン原産。日本には江戸時代に渡来。 チュウキンレン(地湧金蓮)。中国南部(雲南省)からインドシナ半島の山地(標高2000m前後)に自生するバショウ科ムセラ属の耐寒性多年草で、バナナの仲間。観賞温室では「花」をテーマに熱帯・亜熱帯の花の美しい植物、約1200種・品種を通年楽しめるよう植栽展示しているのだと。ドーナツ型のユニークな温室は、風通しが良く、光をたくさん採り入れられるよう設計され、植物の種類や性質に合わせ「らん室」、「ハイビスカス室」、「すいれん室」など6室に分けられていた。入口には洋蘭 パンダが。 ハイビスカス 「アマン」 。「ブリリアント」 上を向いたピンクのハイビスカス。 ピンクのブーゲンビリア。 オレンジのブーゲンビリア。 コダチヤハズカズラ (木立矢筈葛)。 アフリカの中西部が原産。熱帯に生える蔓性の小低木。ヒメアリアケカズラ (姫有明葛) 。 ブラジルが原産。花は濃い黄色のトランペット形で、花弁の内側に淡い赤褐色の縞があります。ハリセンボンのような奇妙な果実をつけます。ほこばヤトロファ。 パキスタキス ルテア。西インド諸島から南アメリカが原産です。茎の先端に、長さ10センチほどの黄色い苞をつけ、その中に白い花を咲かせます。ふつう花期は5月から11月ごろですが、温度さえあればいつでも開花します。別名で「うこんさんご(鬱金珊瑚)」とも呼ばれます。 べにまつり。 アリストロキア ギガンテア。ブラジル原産のつる性の植物。大きな30cmほどの花がぶらさがって咲きます。 ひすいかずら(翡翠葛)。 花房は50~100センチくらいあり、大形。1つ1つの花は長さ6~8センチの爪形で、翡翠のような青緑色をしている。ひめばしょう。 バナナ。イランイランのき。 イランイランという語はタガログ語 (ilang-ilang) に由来し、「花の中の花」という意味である。インドネシアには新婚夫婦のベッドの上にイランイランの花を散らす風習がある。????。 トーチジンジャー。 インドネシアからマレーシアあたりの熱帯アジアを原産とするショウガ科エトリンゲラ属の多年草植物。別名「カンタン」。ヘリコニア。熱帯アメリカ原産でオウムのくちばしが連なったような鮮やかな「花序」を鑑賞するため温室植物として栽培され、花卉としても出荷される。 「すいれん室」睡蓮「アフター グロー」睡蓮「クリント ブライアント」。睡蓮「ティナ」。 「スター オブ サイアム」 。睡蓮「セント ルイス ゴールド」ゲンペイカズラ。妻が庭に植えたいと言う花。 カラジューム。 和風庭園「吹合の庭」と花菖蒲。この庭は、池を中心とした小さな回遊式庭園で、本館に近い東半分は平安朝の要素を、また西半分は江戸風の要素を組み合わせて作られていると。そしてほぼ一人占めのフラワーセンターを後にしたのであった。
2017.06.19
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『鎌倉散策 目次』👈リンク続いて花菖蒲園へ。菖蒲(あやめ)・菖蒲(しょうぶ)・かきつばたの違いは★花菖蒲は花の種類は多く紫系統の他に黄色や白、絞り等、多彩であるがどれも 「花弁の根元のところに黄色い目の形の模様」がある。★かきつばたはあまり種類は多くないが、「花弁の弁の元に白い目型の模様」があるのが特徴。★あやめも花の種類は多くないが「花弁の元のところに網目状の模様」がある。まずは肥後系(熊本系)松平菖翁より譲り受けた品種をもとに、江戸時代末期から肥後藩士らによって改良が進められた品種群とのこと。百夜車(ももよぐるま)皇玉(こうぎょく)。舞子の浜(まいこのはま)。 神子神楽(みこかぐら) そして通路の反対側には伊勢系の花菖蒲が。伊勢系は江戸時代末期に熱心な花菖蒲愛好家の紀州藩士吉井定五郎が、江戸菖蒲のなかから、花弁が垂れ下がり、狂いのあるものを選び出し、改良を重ね、伊勢系を作り出したと考えられています。伊勢系は「よく垂れていますなあ」と言うのが最高の賛辞だと。堺の黄金(さかいのおうごん)。 新猩々(しんしょうじょう)天平の夢(てんぴょうのゆめ)。 魁(さきがけ)。 口紅(くちべに)。 紅の糸(べにのいと)。 雪嵐(ゆきあらし)。 秋の色(あきのいろ)。 藤の雪(ふじのゆき)。 交雑種系へ。愛知の輝き(あいちのかがやき)。金冠(きんかん)。 長井系へ。長井系は山形県長井市あやめ公園に保存され、江戸中期頃の花菖蒲の姿に近い品種群で、ノハナショウブの面影を残す。花径12cm前後の小輪花が多く、可憐で群生が美しい。深山紫(みやまむらさき)。 萩小町(はぎこまち) 朝日の峰(あさひのみね)。 野川の辺り(のがわのあたり)。 長井薄紅(ながいうすべに) 江戸系へ。江戸時代後期の天保年間(1830~43)のころ、東京都葛飾区堀切に小高園が開園し、江戸末期から明治大正時代にかけて江戸人士の行楽の地として賑わいをみせた。そして、次々と数多くの品種が作出され、江戸花菖蒲と呼ばれるようになった。水玉星(みずたまぼし)。 初葵(はつあおい)。山里(やまざと)。泉川(いずみかわ)。紅公子(べにこうし):左と和田津海(わだづみ):右。紫衣の誉れ(しいのほまれ)。大船系。この系統は明治から大正時代に、現在のフラワーセンタの場所にあった県立農事試験場で品種改良されました。桃李の粧(とうりのよそおい)。藤壺(ふじつぼ)。心の色(こころのいろ)野路の里(のじのさと)花の都(はなのみやこ)。神楽岡(かぐらおか)春の名残(はるのなごり)。湘浦(しょうほ)。水精の玉(すいしょうのたま)。 梅雨の頃の代表的な花の一つ花菖蒲を大いに楽しんだのであった。花菖蒲、アヤメ、カキツバタ等の見分け方、そして数種類の系統、特徴があることも学んだのであった。
2017.06.18
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『鎌倉散策 目次』👈リンクそして次にはバラ園へ。バラ園入り口のつるバラ。 そして入口左には雨に濡れたハマナス(浜茄子)。 なるほどこれもバラ科バラ属の落葉低木。「ハマナス」の名は、浜(海岸の砂地)に生え、果実がナシに似た形をしていることから「ハマナシ」という名が付けられ、それが訛ったものであると。漢字の如きナス(茄子)に由来するものではないのだと。そしてバラ園全景。バラ園は中央の休憩所を中心に原種、オールドローズ、四季咲きのモダンローズ、つるばら約1200株、350品種を系統ごとの特性を生かしつつ景観を重視した立体的な植栽になっていた。 エクセルサ。別名「レッド ドロシー パーキンス」。鮮やかなローズレッドの小輪房咲き。名前が分からないので銘板を併せて撮影して来ました。ブリタニア。白地にはっきりとしたローズ色の覆輪。 光彩。赤色の大輪薔薇。 サラバンド。半八重咲きの燃えるような朱色の美しい花。 トーナメント・オブ・ローゼス。花弁の中心部がサンゴ色になる。半剣弁高芯咲き。グレーフィン・ソニア。花弁の表が藤色で裏が赤紫。半剣弁咲き。気温によって色が変化するバラとのこと。 クイーン・エリザベス。 クイーン・エリザベスの品種名は、1952年に女王となったイギリスのエリザベス女王の戴冠にちなんで命名された。現在のエリザベス女王を象徴するバラとしては、やや初々しさのある色味ですが、即位当時26歳のエリザベス女王に捧げられたバラ故に、この色のバラが選ばれたのも頷ける。「クイーン・エリザベス」は、1979年に南アフリカのプレトリアで開催された世界バラ会議で殿堂入りしたと。サン・ガッディス。花の名は「太陽の女神」を意味すると。すっきりと上向きに咲くその姿まるで女神を見るがごときか。中央の休憩所。ここも人の姿はなし。 花に囲まれた小さな家。チャールストン。黄色に赤い覆輪がかかり、最後は赤でおわる華やかな色彩で、誰でも踊れるダンスとして一世を風靡した「チャールストンダンス」を彷彿とさせるからの命名と。ミラベラ。ミラベラというのは圧倒的な美しさを意味する女性名で、ラテン語のmirabilis(不思議な:英語のmiracleに発展)を語源とすると。雨の中でも香りを放ち、柔らかな明るい黄色がよく映えて不思議にいざなうミラベラの花。 ゴールドマリー’84。赤みのある濃い黄色で房咲き、花弁の外側に赤みがさしていた。マーガレット メリル。 これも良い香りが確認出来た品種。レモン香?をふくむすがすがしい白ばらの香りが。バラ園出口(入口)。雨も止んできました。そしてその奥には花の終わったしゃくやくの庭園が。
2017.06.17
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『鎌倉散策 目次』👈リンク今週初めに、雨の中ですが、大船フラワーセンターに行ってきました。正式には『神奈川県立フラワーセンター大船植物園』。昭和37年(1962年)に開園、私もこの植物園を訪れるのは半世紀以上ぶりか?旅友のSさんが先日訪ね、デジブックにアップしたものを見せて頂き睡蓮、花菖蒲、バラ等が咲いているとのこと、更に老朽化対策等のための改修工事に伴い、平成29年7月から翌春まで休館との情報あり、久しぶりに行ってみたくなり急遽出かけたのです。自宅からカーナビに従い車で約20分で植物園駐車場に車を停めて入場。65歳以上は何と100円、有り難いことです。入口には見ごろの花が紹介されていました。大船植物園園内マップ。この日はかなりの雨量で入園者の姿は極めて少なし。 階段下の広場に置かれた大きな鉢には蓮の花が雨に濡れながらも開花。 ピンクの蕾も水滴を載せて。 蓮の葉の中央には雨粒を集めた水滴が。葉を触ってみると、丸い水滴は、葉っぱの表面でコロンコロンと転がりました。 石のゲートの如きモニュメント。 花時計。 すいれん池の前の休憩ベンチには数人の客が座っていたが、私と入れ替わりに席を立ったのであった。池には睡蓮の花が開花中。噴水の先にはカンナの花そしてその後ろには開花を待つ蓮が。純白そして中央が黄色の睡蓮の花。 水面に浮いたように大きな花を咲かせる『睡蓮』。 『水蓮』ではありません。睡蓮と蓮の違いは、睡蓮は基本的に葉に切り込みが入りますが、蓮には入っていないのです。青の睡蓮。 これぞ画家クロード・モネが咲かせることを熱望した青い睡蓮!?そして後ろの花壇には様々な花が。トレニア、サルビヤ 品種はトーチライト。まさしく、トーチライトのように、赤い光を放っているようです、更に奥にはペチュニア・・・・・・と様々な花が。 フイリクサヨシ(斑入り草葦)か?雪が積もっているかのように。 そして食虫植物展が第二展示場で開催中。 ウツボカズラは食虫植物の代表的な一種で、ボルネオ、スマトラを中心に熱帯アジア、マダガスカル、セーシェル諸島、ソロモン諸島、ニューカレドニア、オーストラリア北部に90種が自生。ヒョウタンウツボカズラとも呼ばれるとのことで捕虫袋は長さ10~15cm、緑色で先端部が赤みを帯びていた。捕虫袋の中の液体のほとんどは水だが消化液が含まれているため、虫などを消化することができるのだと。 ハエトリグサ(蠅捕草)。葉を素早く閉じて獲物を捕食する姿が特徴的で、ウツボカズラと並ぶ有名な食虫植物。葉が筒状になった食虫植物であるサラセニア。筒状の葉を持ち、それを虫を捕らえる落とし穴として使う食虫植物で、湿地に生える多年草。イトバモウセンゴケ。細長いモウセンゴケ特有のねばねば付き捕虫葉を持つ種類。そして第1展示場前のロックガーデンの池。 こちらの池にも睡蓮の花が。 こちらはピンクの花。 ここフラワーセンターのこの日は、切れ込みが入った丸い葉を水の上にいくつも浮かべ、その傍らに白、黄、赤、青紫、ピンクなどの美しい睡蓮の花が楽しむ事が出来たのです。日差しが強まる時刻に花を開き、弱くなると再び眠るように花を閉じることから「睡蓮」という名前が付けられたと。 睡蓮の魅力に取りつかれ、後半生たくさんの睡蓮を描いた画家にクロード・モネが。彼は生涯200点以上もの睡蓮を描いたとされ、異なった光線の下でいくつもの顔を見せる睡蓮を描き続けたのです。 一昨年9月、高知県を訪ねた折、北川村「モネの庭」マルモッタンを訪ねたことを想い出したのです。画家クロード・モネが愛した庭を再現した世界に2つしかない庭園とのことであった。この時は残念ながら池には睡蓮の花は咲いていませんでしたがこの人同様に大きな鉢に様々な色の睡蓮が咲いていたのでした。
2017.06.16
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この日はじゃがいもの収穫をおこないました。まずは『インカのめざめ』の収穫です。 揚げジャガ、茹でじゃが、サラダなどにジャガイモの糖度は一般的に5度程度なのに対して、インカのめざめは6~8度と糖度が高く、甘みと濃厚な味わいが特徴で、ねっとりした口当たりとさつまいものような食感があるのです。表皮は、普通のジャガイモとあまり変わらない色ですが、ひと回りほど小さめで、大きさに大小があるのです。ジャガイモはナス科の野菜で、原産地は南アメリカのチリだと。栄養価の点でも、ビタミンCの含有量が多く加熱しても壊れにくい。ビタミンB1、カリウム、ナイアシンなど栄養価の高いアルカリ性食品。「インカのめざめ」の黄色はカロチノイド系色素ゼアキサンチンで、活性酸素を消し去るなどの機能性があるのだと。 そしてこちらは男爵系じゃがいも『シンシア』。 フランス生まれの品種を北海道で育んだじゃがいも『シンシア』目が浅く、たまご型でつるりとキレイなかたち。煮くずれしにくく、どんな料理にもよくあうのだと。風味は他の品種にくらべて“濃厚”、粘性も強め。『シンシア』は香りが高く、豊かな味わいにつけ加え、粘質できめが細かいため、煮くずれしにくく、どんな料理にもよく合うのです。蒸かしじゃがバターはもちろん、カレーやシチュー、コロッケ、ポテトサラダなどお好みの料理で楽しめる品種なのです。 そしてたくさんのネギの苗を義兄から頂きましたのでこれを定植しました。 まずは根っこの鬚根を写真右の如く切り取りました。葱苗に限ったことでなく、花木を植え替えるときにも根と枝葉のバランスをとるために根を短くしたり枝を切り詰めたりします。葱苗は、葉を切るわけには行かないので根だけを切ると言うより短くして植えたほうがよく育つのだと以前に農家の方から。 幅20センチ、深さ30センチ程の植え溝を堀り、植え溝を作りました。そして堆肥と化成肥料を混ぜたものを軽く溝の底に敷きました。 ネギは寄せ植えした方が、お互いに助け合うために生育がよくなるので、株と株の間は狭めて密植にしました。 根が隠れ、株が倒れない程度に覆土しました。(浅植えにする)植え溝の中にワラを敷きつめるのが良いのですが、ワラがなかったのでこの日に収穫したジャガイモの茎葉を代わりに敷き詰めました。ネギの根は酸素要求量が大きいため、植え溝にワラ他を入れて、土の通気性を良くするのです。併せてこれによりネギの根っこの乾燥も防げるのです。1ヶ月後に最初の土寄せをするまで、植え溝はこの状態のままにしておくのです(埋め戻さない)。 今度の土、日に孫がジャガイモ堀に来るとのことですので、我が家の横のジャガイモはその日のためにそのままにしています。
2017.06.15
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養蜂場のある菜園のソラマメの収穫も終わりましたので、引き抜きシルバーマルチも撤去しました。そして消石灰を全面にまきました。養蜂箱の前のタマネギ、ニンニクも収穫し、同じく黒の穴あきマルチを撤去後こちらも消石灰を。そして隣で菜園をやられているSさんの耕運機をお借りし耕耘作業を行いました。何度も往復し綺麗に耕しました。この広さを鍬を用い人力で耕すのは、体力的にも今や至難の業なのです。養蜂巣箱の前のタマネギ、ニンニクの後地も耕しました。養蜂巣箱の前を耕すときには念のため養蜂面布(覆面布)を被りました。ミツバチ嬢が耕運機の音に興奮して刺す可能性があるからです。そして昨日は待ちかねた久しぶりのタップリした降雨。雨もこの耕した土地にタップリと染み込んでくれたはずです。さてさてこの場所には何を蒔こうか?植えようか?と。ミツバチ嬢の為に蕎麦の種?それともコスモス畑に?
2017.06.14
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我が家の門の横の金糸梅が黄色の花を撓わに付けています。中国原産で、江戸時代の宝暦10年(1760年)に渡来したといわれる。花の形が良く梅に似ており、色が黄色であることが名前の由来。我が家の金糸梅は下垂性で、花弁はオシベと長さがあまり変わらず、あまり大きく開かない品種。花径は3センチくらいで、花弁にはそれぞれ切れ込みが入る。花の真ん中には1つの雌しべがあり、柱頭(雌しべの先端で花粉の付着する部分)は5つに裂ける。雌しべを取り囲んでたくさんの雄しべがあり、5つの束になっている。雄しべの長さは花弁よりは短い。園芸品種であるヒペリカム・ヒドコート(大輪金糸梅)では、大輪の名にふさわしく花弁が大きく、全開する品種。そして今年も、朝に花の近くに行くとブンブンと羽音が聞こえて来るのです。我がミツバチが数十匹放花しているのです。花の中に入ろうとする我がミツバチ。後脚には大きな花粉球を付けています。花粉球は、体毛に付いた花粉を脚で集め、後脚にまとめて作るのですが、これを作るのは、花蜜と花粉を主食とする花蜂類の一部に限られ、ハナアブなどが花粉球を作ることはないのです。ミツバチ以外では、マルハナバチなどが有名。働き蜂の採餌蜂が餌場(花)に向けて巣から飛び立つ前は、蜜胃と呼ばれる蜜を貯めることの出来る場所(内蔵の一部)に、往復できる量のハチミツをあらかじめタップリと貯め込むのです。花粉球作成までの流れは下記の如し(我が養蜂の教科書から)1)花(雄蕊)に体を擦り付けて、全身の体毛に花粉を付着。2)蜜胃からハチミツを少量吐き戻し、前肢を湿らせます。 花粉はそのままでは固まり難いので、吐き戻したハチミツを少量加えてこね上げ、 まとまり易くする。よって花粉を採取するハチは、往復の燃料にプラスして、 この花粉を固めるのに使う分のハチミツも余分に持っていくのです。3)前肢、中肢、後肢、それぞれにある「花粉ブラシ(特殊なブラシ状(櫛状)の毛)」を 巧みに使い、体に付いた花粉をかき集めます。主に前肢では頭部、中肢では胸部、 後肢では腹部に、付着した花粉を集めています。4)集めた花粉を前肢 → 中肢 と送り、最終的に後肢にまとめて行きます。5)まとめた花粉は後肢の「花粉圧縮器」と呼ばれる場所で圧縮し締め固めます。 この圧縮機で締め固めることで、持ち運びにも耐え得る強固なものになるのです。6)以上のような流れで花粉玉が作られてゆきますが、一連のこの作業は通常、 花から花へ移動する際のホバリング中に行われています。上記の如き手順で一生懸命に花粉を集める我がミツバチ。我がミツバチとは異なる全身真っ黒なハチも放花中。円形に並んだ雄しべの上をグルグル歩き回って効率よく花粉を集める回転集粉行動を見ることが出来るのです。吸蜜は行わず、花粉集めに専念しているようです。一度金糸梅の花から飛び立つも、よほど花粉の量が豊富なのか同じ花に舞い降りて集粉再開するミツバチ嬢の姿が。そして巣箱の中では、女王蜂が盛んに産卵中です。蜜も大分集めてくれています。7月初めには今年最初の採密が出来るでしょうか。
2017.06.13
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美術館の隣にあった『御幸亭』。明治天皇が御小休された離れ座敷を復元したものと。茶室「結仁斎(ゆいじんさい)、水屋などを備えた伝統的な和風建築。御幸亭前の庭園は「松榧園(しょうかえん)」。ここには家康公お手植えの松や、馬つなぎの榧(かや)の木があったことが松榧園の名前に由来すると。美術館敷地内にある東海道由比宿交流館。カルチャー、観光、レストの3つのエリアから成り立っており、由比の歴史に触れたり、観光情報の発信、地域のふれあいの場として多目的に利用できる施設。交流館入口から芝生広場、物見塔を見る。 交流館にある由比宿の模型。別の角度から。旧東海道沿いに由比宿の街並みが拡がっていた。本陣。 五重塔。山口の瑠璃光寺五重塔の模型がありましたが、宿場とまったく関係がなく何故に?帰宅して調べてみると、先代 岩邊光雄製作の五重の塔のミニチュアで由比本陣公園内のここ東海道由比宿交流館で展示している模様。1/12スケールで、1年半ほどかけた力作とのこと。木のぞうがん展が開催されていた。木象嵌(もくぞうがん)は種々の色相を持つ天然木材を用いて絵画や図柄を嵌めこんで表現する木画技術。富士山。 越中八尾おわらの風の盆。 花菖蒲そしてカワセミ。富士川SAからの富士山。そして広重美術館前の水路には亀がノンビリと日向ぼっこ。昔は馬の水呑み場であったと。屋敷の前にこういう水呑み場があるのは珍しいのだと。当時は水深60cm前後あったと。本陣の前の旧街道沿いには多くの昔の建物が残っていた。表門の反対側には『正雪紺屋』が。 江戸時代初期から四百年も続いている紺屋(染物屋)で、由比正雪(1605~51)の生家といわれていると。藍甕(かめ)や神棚、染物道具、用心篭中などの道具や仕事場が昔のまま残されており、当時の歴史を物語っていた。また、裏庭の祠(ほこら)には、正雪を祀ったといわれる五輪塔があると。由比・脇本陣跡。旧家平野家である。かつての由比宿脇本陣饂飩屋屋(うんどんや)四郎兵衛跡。饂飩(うんどん)とは耳慣れないが、麺のうどんのこと。現在の建物は百数十年前に改築されたものであるが、梁などは当時のままのものもあるとか。また、脇本陣を営んでいたときの資料や美術品も保存されているとのこと。明治の郵便局舎(平野氏宅)。江戸時代文書の送達は飛脚便で行われ飛脚屋と呼ばれていたのだ。由比宿西の入口・由比川橋の袂にある「常夜灯」。 橋を渡り右側にあった『玉鉾』で遅い昼食。店内は、綺麗で落ち着いた雰囲気。 桜えび定食を注文。内容は、生の桜海老、釜揚げの桜海老、そして掻き揚げ。そして店の女将さんに、ビールも入り歩き疲れたので、タクシーを呼んで欲しいと頼んだところ、何と店のご主人が由比駅まで車で送って下さったのでした。感謝、感激、これぞ一期一会。帰路は由比駅から熱海行きの電車に乗る。そして東海道線の車窓から富士の姿を楽しんだのであった。 そして熱海駅で東京行きの電車に乗り換え、小田原手前で相模湾の姿が。 そして18:30過ぎに静岡散策を終え帰宅したのであった。
2017.06.12
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次に東海道の宿場町「由比宿」の本陣跡地である、由比本陣公園内に開館した東海道広重美術館を訪ねる。 江戸時代の浮世絵師・歌川広重(1797-1858)の名を冠した、日本で最初の美術館。収蔵品は、広重の代表的な東海道シリーズ『東海道五拾三次之内』(保永堂版東海道)、『東海道五十三次』(隷書東海道)、『東海道五十三次之内』(行書東海道)の他、晩年の傑作『名所江戸百景』など、風景版画の揃物の名品を中心に約1,400点を数えると。 表門入口を反対側から。明治天皇、今上天皇、皇后の行幸啓記念碑も。 配置案内図。表門を入ると目の前に広い芝生広場、そして右側には東海道由比宿交流館が。広重生誕220周年記念『浮世絵と広告』 と題した特別展が開かれていた。現代では美術作品として鑑賞されている浮世絵版画だが、江戸時代では商業的なメディアとしても扱われていたと。特に広告的な側面は強く、浮世絵版画の名所絵や当時の書物である版本に看板やのれんなどの広告媒体を描く、対象商品を描きこむなどの手法で商品の宣伝がなされていたのだ。東海道広重美術館正面。 東海道広重美術館」は1989年から5年の歳月をかけて行われた、「江戸文化に触れる!」をテーマとした一連の整備事業の中で、荒廃していた由比本陣跡に造られました。 かつて土蔵が建ち並んでいたとされる場所に造られたこの美術館は、3階建の洋風建築となっており、由比本陣公園内の他の建築物とは、一線を画すものとなっています。1994年にオープンしたこの「東海道広重美術館」は、約400坪という延床面積を生かした展示内容が魅力となっており、広重をはじめとした「浮世絵」作品のすばらしさを今に伝えるだけでなく、江戸文化を代表する「錦絵」(木版画)がどのように作られていくのかといった流れの説明から、クイズに解答しながら見てまわれる企画展など、月替わりで、趣向が凝らされた展示が行われている。物見塔。 表門、芝生広場を振り返る。 江戸時代の本陣で使われていた本陣井戸が当時のままに。 エントランスホール。 館内は3階造りで展示コーナーは1&2Fの模様。 売店。 浮世絵版画体験コーナー。美術館入口。 美術館内は人も少なかった。 歌川 広重(うたがわ ひろしげ)は、江戸時代末期の浮世絵師。本名は安藤重右衛門。江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった。かつては安藤広重(あんどう ひろしげ)とも呼ばれたが、安藤は本姓、広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはないのだと。広重の死絵(しにえ)(3代豊国筆、安政5年(1858年))。三代豊国が広重が亡くなったのを悼んで画き版行された「死絵」で、したがって、剃髪し、手に数珠を持つなど死装束をしているのだと。死絵は、今日でいう死亡広告。 ゴッホやモネなどの画家に影響を与え、世界的に著名な画家。 左が広重、右がゴッホの作品。そして売店の東海道53次の浮世絵作品を撮影させて頂きました。まずはここ『由井』。これぞ薩埵峠からの風景。難所である薩埵峠(さったとうげ)を越えた先、富士と駿河湾が一望できる地点から描いた明るい絵。足のすくむ断崖からへっぴり腰でのぞく仕草をして、眼前に開けた風景を眺める旅人の姿が小さく描かれています。岩肌をあらわにした山道の険しさと、静かで広々とした海上とを対比させ、立体的に見せた傑作といわれています。まずは『日本橋 朝の景』。江戸から京都へ向かう東海道の起点である日本橋。その東海道を描いたシリーズの巻頭を飾るにふさわしく、参勤交代の大名行列が朝早く江戸を出発する様子が描かれています。一方で、魚を天秤棒で担いだ一団が、向こう岸にあった魚河岸から仕入れを終え、行商に出かける様子も描かれており、江戸で一番賑わっている早朝の日本橋の活気が伝わってきます。そして我が『藤澤 遊行寺』 藤澤は、時宗の総本山である清浄光寺の門前町として生まれ、東海道の宿駅となり発展。清浄光寺は、宗祖の一遍上人が修業のため全国を遊行したことから遊行寺ともいわれています。正面に描かれている大鳥居は、ここから約5キロ先にある江ノ島弁財天の入り口を示しています。藤澤宿は、詣の人々で賑わっていました。『平塚 縄手道』 唐ヶ原(もろこしがはら)のくねったあぜ道(縄手道)の先に平塚の宿場がありました。「く」の字に曲がった道によって、丸い形をした高麗山(こうらいさん)との距離感を出し、さらに富士山を遠くにのぞかせた盛り沢山の構図には、広重のサービス精神が読み取れます。現在でも平塚駅を西に歩いていくと、正面に高麗山が見られます。『小田原 酒匂川』 酒匂川は、富士山の東側から小田原を経て相模湾に注ぎます。春から夏にかけて増水する酒匂川には、客や荷物を担いで渡る人足(にんそく)がいました。対岸には北条氏の居城であった三層四階の小田原城が見え、遠くには箱根連山が描かれています。川を渡る旅人の苦労も大自然のなかに埋没してしまうほど雄大な風景が広がっています。『箱根 湖水図』東海道最大の難所の登りも終わりに近づく頃、岩肌を露出した険しい二子山が間近に迫り、遠く芦ノ湖が見え始め、白い富士山がかすかに望めます。列をなして山間を歩む大名行列、カラフルな彩色でそそり立つ山々の描写は、立体感を助長し傑作に仕上がっています。まもなく湖面の脇にある厳重な関所を通らなければなりません。『三島 朝霧』三島は、箱根越えをする旅人で賑わった宿駅でした。朝霧の中、三島神社の前を行く旅人の姿を見事に表現しています。駕籠(かご)に乗る人物、馬に乗る人物だけを線で描き、鳥居・人家・遠くの旅人などは線を用いず、ぼかしの濃淡だけで奥行きを出しています。板の面を巧みに生かした技法で、大変美しい仕上がりになっています。『原 朝乃富士』原の宿を出てまもなく、湿地帯のような浮島ヶ原が広がります。ここから見る富士は、巨大で均整のとれた優美な姿をしています。山頂は画面からはみ出し、その高さを強調しています。旅人が足を止め、振り返って眺めたほどの去りがたい風景です。鍋鶴が田圃におりて、餌を求めているあたりは、昔の東海道ののどかさがうかがえます。 『蒲原 夜乃雪』は私の好きな一枚。取り立てて何もない淋しい蒲原の宿場の風景を、広重は傑作に仕上げています。人影もまばらな夜の街道、音もなく深々と降る雪の情景は、絵師の心象風景でしょうか。完成度の高い構図、ふっくらとした新雪の柔らかさも感じるねずみ色の濃淡で表した雪の量感、人間と自然との調和した描写は、地名を超越した普遍的な風景画として強い印象を与えます『庄野 白雨』、これも秀作。 「白雨」とは、夕立やにわか雨のことです。突然の風を伴った激しい雨に、坂道を往来する人々を生き生きと描写したこの図は、広重の最高傑作の一つとして知られています。強風に揺れる遠景の竹薮を、輪郭線の無い二重のシルエットにして奥行きを出し、降る雨の角度を変えるなど、技法的にも新たな試みをし、成功しています。『四日市 三重川』、風の音が聞こえてくる作品。 強風に葦がなびき、合羽の裾が翻す旅人と、飛ばされた笠を追う旅人が叙情的に描かれています。動きのあるこの図は、東海道五十三次のなかでも秀作として評価の高い作品です。この絵は四日市宿の近くを流れる三重川(三滝川)のあたりの様子で、二人の旅人の様子や柳枝のしなり具合からも、この地方の風の強さがわかります。 『亀山 雪晴』強風に葦がなびき、合羽の裾が翻す旅人と、飛ばされた笠を追う旅人が叙情的に描かれています。動きのあるこの図は、東海道五十三次のなかでも秀作として評価の高い作品です。この絵は四日市宿の近くを流れる三重川(三滝川)のあたりの様子で、二人の旅人の様子や柳枝のしなり具合からも、この地方の風の強さがわかります。 『京都 三条大橋』 「京師(けいし)」とは、京の都、つまり京都のことです。賀茂川に掛かる三条大橋の上に立つと、約500キロの東海道の旅路もいよいよ終わりです。眼下には賀茂川がゆったり静かに流れ、江戸とは趣を異にする大原女や京女が行き交い、京の繁華が描かれています。遠くに東山を眺めると、長かった旅が終わった安堵感が伝わってきます。
2017.06.11
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三保の松原から清水駅にバスで戻る。清水駅、江尻口の階段。東海道53次の宿場だった江尻と、前後の宿場町の地図、そして、壁には、さくらももこ氏デザインの、江戸時代風の絵が。 清水駅改札入口手前。 ホームからの富士山と丸いモニュメント。駅前に丸いモニュメントの中に富士山が見えるポイントがあるようだが再び駅を出てカメラに納める時間なし。 富士山頂をズームで。 電車の先頭車両から富士山を。上は東名高速道路。 由比駅手前からの富士山。 冬であれば純白の富士山が見えるのだ。 由比駅で電車を降りる。ホームからの富士山。 由比桜えび通り入口。由比名物「桜えび」の巨大モニメントがお出迎え。由比駅に設置してあった東海自然歩道の案内図。浜石岳と薩埵峠(さったとうげ)のハイキングコースが示されてあったが、この日は時間が足りなく薩埵峠は諦める。 今年の冬に再チャレンジ?ここは東海道53次の油比宿と興津宿の間にある清水区今宿。由比桜えび通りは駅前から由比宿まで旧東海道の通り。桜えびやしらすを売る旧街道の店。 由比川橋が正面に。由比川の河口部に架設した県道橋で、旧橋が老朽化したため、99年に架け替え工事に着手。 広重 江崎屋版東海道五十三次由井かち渡り木版画浮世絵が橋の欄干に。 清水銀行由比支店本町特別出張所。国の登録有形文化財の大正時代(大正14年)の建造物。庚子銀行(かのえねぎんこう)の本店社屋として建てられ,後に合併を経て現在に至る。立面は4本のイオニア式柱頭を持つ柱を立て,古典様式の基本に則る。内部は吹抜けの広い空間を持つ。小規模ながら洗練された様式を持つ,大正期の地方における銀行建築の好例であると。 由井宿羽根ノ屋脇本陣の向かい、明治の郵便局平野家住宅のとなりは「東海道由比宿おもしろ宿場館」ここまで由比駅から歩くこと25分弱。なにか動き出しそうな雰囲気で大きな口を開けたユニーク人形。弥次さん、喜多さんなのであろうが、この日は何故か一人のみ。江戸時代にタイムスリップしたようなかつての由比宿の旅籠、桶屋、寺子屋などの町並みを再現。おみやげ処の「弥二喜多屋」のほか、2階には由比名物の桜えび料理が食べられる展望レストラン「パノラマテラス海の庭」が。 チケットを購入し、土産物売り場の奥のおもしろ宿場館(資料館)に入る。暖簾をくぐると宿場町が再現されていた。こちらは鍛冶屋。何故か人形の顔は皆同じに見えたのであったが。こちらは桶屋。寺子屋。 染物屋?結いの地蔵。旅籠?旅籠の呼び込みの女に捕まるユーモラスな姿。江戸時代の度量衡法。江戸時代の貨幣。本陣奥間に参勤交代の家臣の姿。 華絢爛な大名駕籠。紀州和歌山大名と女中頭と仲居。琴を弾く姫君。由比宿の語源。江戸時代、東海道の由比宿、難所・薩埵峠、「東海道の親不知」。古くは、「油井」・「湯居」・「由井」とも表記。語源は「結」、労力交換のような共同作業を行ったとする説、東西の産物を交換する市のような場所とする説などがある。また、共同漁労「ゆいが浜形態」に関連し、「もやい(舫い)」・「もやい(催合い)」からとも考えられると。東海道53次の宿場の戸数や人口の一覧表が。 当時の由比の宿場の鳥瞰図と現在の道路と新幹線の位置も。地下には「由比正雪」に関する資料も。由比 正雪は、江戸時代前期の日本の軍学者。慶安の変(由比正雪の乱)の首謀者である。名字は油井、遊井、湯井、由比、油比と表記される場合もあると。慶安の変は慶安4年(1651)由井正雪・丸橋忠弥らを首謀者とする浪人の反乱計画。未然に発覚し、正雪は自刃、一味は捕らえられた。こちらは正雪紺屋の裏手にある正雪供養のための五輪塔。非公開。画像はおもしろ宿場館のもの。由比さくらえび漁も紹介していた。参勤交代の姿も描かれていた。
2017.06.10
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静岡駅から東海道線下り線に乗り清水駅で下車。清水のメインストリートである「さつき通り」。中央分離帯で見かけたサッカーをする像。市民球団清水エスパルスの地元だけあって、街角にもサッカーを盛り上げようとする息吹を感じるのであった。 清水駅から三保松原入口までは3番線から出発のバスで移動(360円) 約25分で「三保の松原入口」でバスを降りる。道路の先の正面には富士山の雄姿が。 御穂神社入り口の信号を渡り三保の松原方面に徒歩で向かう。正面に御穂神社の脇門の鳥居が見えた。鳥居前の突き当たりを右折そして左折し進むと左手に御穂神社の入口鳥居が。この右手が三保の松原に向かう500mの『神の道』が伸びていた。松の保全のため根を踏まないようボードウォークになっていた。 三保の松原案内図。三保の松原は、静岡県静岡市清水区の三保半島にある景勝地。その美しさから日本新三景、日本三大松原のひとつとされ、国の名勝に指定されている。また、ユネスコの世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産に登録されている。三保松原は約7kmの海岸に約3万本の松が生い茂り、松林の緑、打ち寄せる白波、海の青さと富士山が織りなす風景は歌川広重の浮世絵や数々の絵画・和歌に表現されて来たのだ。そして三保の松原入口に到着。土産物屋ではお茶や安倍川餅、釜揚げシラス、桜エビ等が売られていた。 海岸に向かって松林の中を進む。 『羽衣伝説』で有名な『三保の松原』天女の羽衣伝説~『昔々、三保の村に伯梁という漁師がおりました。 ある日のこと、伯梁が松の枝にかかっている美しい衣を見つけて持ち帰ろうとすると、 天女が現れて言いました。 「それは天人の羽衣です。どうかお返しください。」 ところが伯梁は大喜びして返す気配を見せません。 すると天女は「その羽衣がないと天に帰ることができません」と言って泣き出しました。 伯梁は天上の舞を見ることを条件に羽衣を返しました。 天女は喜んで三保の春景色の中、羽衣をまとって舞を披露。 やがて空高く天に昇っていきました。 満月の夕刻、美しい月明かりの中で踊ったと言われています。『羽衣の松』 天女が羽衣をかけたとされる「羽衣の松」は、御穂神社の参道「神の道」の先にある御穂神社の御神体。祭神の三穂津彦命(大国主命)・三穂津姫命が降臨する神域。初代「羽衣の松」は1707年(宝永4年)の富士山の噴火(宝永大噴火)で海に沈んだと伝えられている。2010年(平成22年)、二代目の「羽衣の松」の立ち枯れが進んだことから、三代目の「羽衣の松」が認定されていると。 英語で説明された石碑と右手には万葉集『風早之 三穂乃浦廻乎 榜舟之 船人動 浪立良下(風早の 三穂の浦廻を 漕ぐ舟の 舟人騒く 波立つらしも) 風の強い三穂の浦を漕いでいる船の舟人が大声を挙げている 沖では波が立ちはじめたらしい 』そして蒼き駿河湾が目の前に。その先には伊豆半島。 羽車神社は、二代目「羽衣の松」の隣に鎮座する御穂神社の離宮。創建年は不詳だが、羽車に乗って三保の浦に降臨した神を国土和平のために御穂神社に鎮座し、離宮として羽車神社が設けられたと伝えられ、江戸時代には羽車磯田社と呼ばれていたという。現在の羽車神社は1956年(昭和31年)の再建。 左手には、昭和31年の羽車神社 再建乃碑が。 駿河湾には大きな貨物船の姿が。この船の下には桜エビ、深海魚が。 そして世界遺産 三保の松原・富士山。 波打ち際から望む富士山はまさに圧巻。その素晴らしさは、大正5年に日本新三景の名勝地に選ばれたほど。 やはり富士山頂南面の雪の残量は我が家から見る富士の山頂のり少なかった。 松原、富士山、砂浜、駿河湾の絶景を大いに楽しみ再び松林へ。日本新三景の碑。 日本新三景:耶馬渓(大分県)、三保の松原(静岡県)、大沼公園(北海道)(大正5年)日本三景:松島(宮城県)、天橋立(京都府)、宮島(広島県) (大正4年)世界遺産の碑。ユネスコの世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産に登録。 松林の道路脇には、昔の歌人の三保の松原を詠んだ句が紹介されていた。 東海道十九 隷書版 五十三次 江尻 (サントリー美術館蔵)三保半島から富士を望む図。画面下の松が茂っている所が三保の松原。神の道を戻り御穂神社へ向かう。羽衣の松に来臨した神は、約500mの松並木、通称「神の道」を経て御穂神社に迎えられると。樹齢200~400年といわれる老松に囲まれた厳かな松並木を歩くと、心が洗われるような感覚を得ることが出来たのであった。松の保全のため根を踏まないようボードウォークとして整備され、三保松原に関連した歌や物語を書いた案内板を楽しみながら散策することが出来たのであった。 吉田兼好&小堀遠州の歌。 文部省唱歌『羽衣』。 『三保の松原の思ひ』 廣津和郎 謡曲『羽衣』。 『東海道名所図会』 『わがそでの記』 高山樗牛。『閑吟集 三保が州崎』 『ちゃっきりぶし』 『大正少年唱歌 羽衣』 そして正面に御穂神社の石鳥居が。 祭神は次の2柱。・大己貴命(おおあなむちのみこと、大国主) - 別名「三穂津彦命(みほつひこのみこと)」。・三穂津姫命(みほつひめのみこと) 『由緒略記創建の時は不明であるが、千古の昔より、三保の中心に鎮座し、三保大明神とも称せられ、国土開発の神、海の神と崇められると共に天から天女が舞い降りた「羽衣伝説」ゆかりの社として名高く朝野の崇敬をあつめた延喜式内社である。中世以降、武士の崇敬篤く、殊に徳川幕府は慶長年間に壮大な社殿群を造営寄進したが、寛文八年落雷のため焼失し、今の社殿は、その後仮宮として建てられたもので、本殿は清水市指定文化財に指定されている。信仰は三保の氏神様、清水・庵原の総氏神として親しまれ、文化発祥の地である。祭神の神徳により、御祭りや正月など全国各地より多くの人々が参拝する「御神木羽衣の松」の名社です。』 手水舎でお浄め。神馬舎。1773年(安永2年)の駿府大火で静岡浅間神社の神馬2頭が御穂神社へと逃れ、1頭は御穂神社に残り、1頭はもとに戻ったという伝説が残されている。元は左甚五郎作といわれる木製のものだったと。 子供の守り神・何でも叶う叶え馬と云われる純白の「神馬」が鎮座。境内末社。向かって左から磯前神社・呉服神社・産霊稗社・胡夫大夫神社・稲荷神社。舞殿。 社殿。 社務所。 ご朱印を頂きました。 こちらも左から八雲社・八幡社・神明社の末社。小安神社。そして再び三保の松原のバス停に戻り、バスにて清水駅に戻ったのであった。バスの社葬からも山頂に雲の無い富士山の姿を楽しむ事が出来たのであった。
2017.06.09
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紅葉山庭園から出て堀の橋を渡ると、「銀座の柳 二世」と書かれた看板が。昭和43年、銀座の柳並木より挿し木で植えたものらしい。 二の丸堀。本丸堀と繋がっていた、幅4.5m 深さ4m 長さ95mあり4回折れ曲がっていたと。石碑は「歩兵第三十四聯隊址」と書かれていて、この地に置かれていた歩兵第34連隊を記念する碑であることが分かった。 最後に東御門・巽櫓を見学。 東御門・巽櫓入口。東御門に入ると、徳川家康像が出迎えてくれました。「厭離穢土欣求浄土(おんりえど・ごんぐじょうど)」の旗は徳川軍の馬印。馬印とは、戦国時代から江戸時代において戦国武将達が己の位置・武威などを誇示する為に備の旗や自身の周りに置く印のこと。1560(永禄3)年に松平元康(後の徳川家康)は今川軍として出陣したが、今川義元は戦死するなど、織田信長に大敗。命からがら菩提寺の大樹寺に逃げ帰ってきた元康は先祖の墓の前で切腹をしようとした。それを大樹寺の住職登誉上人が「往生要集」に出てくるこの二句を使って、元康を説得したのだ。それ以来、元康はこの句を松平徳川軍の馬印としたのだと。「厭離穢土(おんりえど)」とは、浄土教の用語。この娑婆世界を「穢れた(けがれた)国土」として、それを厭い離れるという意味であり、「欣求浄土(ごんぐじょうど)」とは、阿弥陀如来の極楽世界は清浄な国土であるから、そこへの往生を切望するという意味。戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。その穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成すとの意味なのだと。 「蒔絵三つ折衝立」。この衝立は静岡漆器工業協同組合と静岡県蒔絵協同組合が静岡市の市花である立葵をテーマに1年かけて共同制作したものであると。 こちらは「天下普請」に参加した大名とその刻印。大名たちは自分たちが築いた堀の石垣や見えない部分の柱などに刻印を残したのだと。駿府城の縄張り。駿府城は3つの堀に囲まれた城であった。1605(慶長10)年、将軍職を秀忠に譲ると、家康は大御所として駿府に移住した。天正年間に今川館の跡に築いた駿府城を拡張し、全国の大名に命じて壮大な城を建設させた。これが「天下普請」。こちらは「築城屏風絵」。1607(慶長12)年の築城の様子や町の様子が描かれていると。駿府城の模型。駿府城の天守台は46m×56mとかなりおおきなもので、この上に平面積でも10間×12間(20m×25m)の5層7階建ての金属屋根の天守があったと。現在、天守の再建案が出ているそうですが、天守の設計図などは残っていないため、実際はどのような天守が建っていたのかを残すのは文面だけで、わからず現市長も消極的とのこと。駿府城のジオラマ。 東御門の鯱。雄鯱だそうで、銅製とのこと。 こちらは東御門の現在の鯱。 城下町駿府の都市計画図。 駿府城のジオラマの城内は名称入り。 駿府城下町行列図。 櫓からの中堀。 駿河人形のひな人形。節句用徳川家康鎧。 東御門を出て、巽櫓に向かう。巽櫓の1階は廊下と大部屋。櫓というのは城兵の待機所。 巽櫓の2階は展示室になっていた。 『駿府お茶臺道中』と書かれた籠。静岡市で毎年『駿府お茶壺道中行列』が開催されると。江戸時代、標高1200mの井川・大日峠にあったお茶蔵で夏を越し、秋になると駿府城に居城していた徳川家康に茶壺を献上したと伝えられていると。これを再現したものが『駿府お茶壷道中行列』竹千代手習いの間(復元) 家康が竹千代と呼ばれていた少年時代、8歳から12年間を今川家の人質として捕えられ、今川家の軍師・太原雪斎のもとで学問を習っていたと伝えられているのだ。伝統和船 焼津八丁櫓。 静岡県焼津市にある「八丁櫓」(全長13m、最大幅4・3m)といわれる伝統の和船。見学を終え再び東御門を潜る。 東御門正面を再び。 そして静岡駅まで往路とほぼ同じ道を戻ったのであった。
2017.06.08
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戦争犠牲者追悼碑・平和祈念像 母子像の碑『とこしえ』。説明板には『静岡市は先の大戦で16回の空襲を受けました。 空襲は当初こそ軍需工場などが主な標的にされていましたが 次第に非戦闘員である一般市民が住む民家を焼き払うことを目的にされるようになりました。 なかでも1945年6月19日深夜から20日未明にかけての静岡大空襲では 木造住宅を効率的に焼き払うことができる焼夷弾10万発により たちまち市街地全体が火の海となり逃げ場を失った2,000人を超える市民が 犠牲になり当時の市街地のほぼ全域が焦土となりました。』と刻まれていた。 そしてその近くに『やすらぎの塔』 が。しかし台座の上には何も無かった。気になったので帰宅してからネットで調べてみると、やすらぎの塔は昭和33年11月に自由民主党静岡県支部連合会と動員学徒戦歿慰霊塔建設委員会が主体となって建立し、駿府城公園に設置されたと。これは、先の戦争末期に、兵隊不足を補うために学徒に出陣が命じられ、ペンを銃に変えて多くの学生たちが公園内を行進し戦場に赴いた『学徒動員』の記念碑であったと。平成13年4月の地震により男性像の頭部が破損したため、彫像周辺を囲い、立ち入り禁止の看板を立てていたが、その後、製作者のご子息、彫刻家堤直美氏の「現況のままでは危険」とのご意見により像を台座から取り外し現在に至っていると。現在行われている駿府城跡天守台発掘調査現場。 徳川家康は将軍職を秀忠に譲り、駿府に移り住んだ。慶長12(1607)年、家康は、輪郭式で石垣を廻らせた三重の堀を持ち、本丸の北西には5層7階の勇壮な天守を配置した城を全国の大名に命じて築城『天下普請』させた。しかし寛永12(1635)年の火災により天守等の殆どの建物が焼失し、櫓、門等の建物は再建されたが天守は再建されなかった。以後江戸時代の駿府城は、建物の規模も次第に縮小していくこととなったのだ。 天守台石垣の残存状況の確認や正確な学術的データを得るため、平成28年8月から平成32年2月まで駿府城公園北西部にて発掘調査を行っているのだ。 発掘された天守石垣の姿。 明治期の天守台取り壊しにより埋め立てられた本丸堀の西側を掘り起こし、南北の長さ68メートル、最大高5・6メートルの石垣を確認したと。長さだけを比較すると、現存する江戸城天守台の約1・5倍に相当するという。多くの発掘員の姿も。 駿府城公園内の本丸跡には徳川家康の銅像が建てられていた。 ここにあるのは大御所時代の家康像。駅前の2体と合わせて、三世代の家康像に出会ったのであった。堂々とした体格で鷹を左手に乗せ、遠くを眺める鷹狩りの姿。先日テレビで見たお久の姿を思い出したのであった。お久は 初めは遠江国金谷村の鋳物師の後妻となり、娘(於八)を生む。しかし、お久が美人であることから代官が横恋慕し、夫を闇討ちにするという事件が発生。お久は3歳になる於八を連れて、謀殺された夫の仇を討ってもらおうと鷹狩に来ていたこの家康の一行の前に飛び出して直訴し、代官は処罰されることに。家康はお久を一目で気に入り、娘と一緒に拉致に近い形で浜松城に連れ帰り、側室として「茶阿局」と呼び、厚く寵愛したのだと。後に越後高田藩主となった松平忠輝、深谷藩2代藩主となった松平松千代を生んだのであった。県指定天然記念物『家康公がお手植えのミカン』。 このミカンは、「ホンミカン」と呼ばれる品種で、鎌倉時代に中国からはいったミカン(紀州ミカン)の一種。家康の駿府在城時に紀州から献上されたと。ミカンがなっている様子をこの目で見たいのであった。東照公御遺訓。『人の一生は重荷を背負うて 遠き道を行くが如し 急ぐべからず不自由を常と思えば不足なし 心に望み起らば 困窮したるときを思ひ出すべし堪忍は無事長久の基 怒りは敵と思え 勝つことばかり知りて 負くることを知らざれば害その身に至る 己を責めて人を責めるな 及ばざるは過ぎたるよる勝れり 徳川恒孝書』 家康は先人(信玄・信長・秀吉)の長所を取り入れ先人の失敗や自身の失敗を反省し、そのことを徳川政権に取り入れて約250年の長期安定政権を樹立したのであろうか。『マロニエ園』。運動用の広場に向かって正面に元市長の銅像が3体、その後ろ、横向きに民間人の銅像1体(茶木やぶきた種生みの親 杉山彦三郎) と記念碑1基(みかん青島温州生みの親 青島平十) 。北御門跡。北御門と馬場先御門は二の丸へ入る北側の出入口として設けられた門。現在は北御門の石垣だけが残っていると。紅葉山庭園を訪ねる。 玄関門でパンフレットをもらい、併せて無料音声案内を借りる。「紅葉山庭園」は、歴史的背景を活かし、城郭の大名庭園に見られるような、遊びと楽しさを基調として創られた。駿河の国の名勝を織り込んだ4つの庭を中心に、四季折々の表情を味わえる庭園。 玄関門を入り、まず最初に出会うのが四阿周辺の「里の庭」。菖蒲田にかかる八つ橋と開花真っ盛りの花菖蒲。 八つ橋周辺の花菖蒲は色鮮やかに、可憐に咲き誇る花の園。 紫、白、黄色のBEST MIX。 睡蓮の可憐な純白の花も負けじと。 箱根越えの石畳を思い出させる玉石の延段と、伊豆の代表的な風景である城ヶ崎・七滝・石廊崎・堂ヶ島・三滝・大瀬崎を池の石組みで表現した荒磯周辺。また州浜が広がる松原周辺は、伸びやかで悠々とした「海の庭」。右手には庭園の景観に溶け込む四阿(あずまや)が。 茶畑に見立てたサツキの畝と芝に囲まれた築山は、駿河の国の象徴・富士山。紅葉山庭園の中心となり、中腹の展望台からは庭園全体が見渡せた。また築山足元のゴロタ州浜は、穏やかな安倍川の流れを表現したもの。山から里へ、高低の変化も楽しい「山里の庭」。 築山中腹からの斜路は、ツタのからまる樹木が茂る山間の小径。このつたの細道を、曲がりくねって落ちる川の流れと紅葉谷を眺めながら行くと、奥には爽快な滝がひかえます。木漏れ日さす山道から滝へ、「山の庭」は回遊散策のクライマックスを演出。 三保の松原を再現した白き洲浜が手前に。 白き洲浜から四阿(あずまや)を見る。 庭園内の茶室(「雲海」と「静月庵」)。 緑豊かな水場は清々しかった。
2017.06.07
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高麗門から城内に入ると、直角に設けられた二つの城門と城壁とで囲まれた四角い空き地が。敵の直進をさまたげ,勢いを鈍らせる枡形門 。桝形門は要所に石落し、鉄砲狭間、矢狭間等をもつ堅固な守りの実戦的な門で、戦国時代の面影を残していた。そして右手の高麗門と櫓門の間の角の石垣が雁木状に積まれ、城壁には狭間が設けられていた。 東御門は、駿府城二ノ丸の東に位置する主要な出入口で、この門は二ノ丸堀(中堀)に架かる東御門橋と高麗門、櫓門、南および西の多聞櫓で構成されていた。前方に櫓門南面(正面)が。巨大な丸太梁。 カンナで細かく削って丸く加工していた。写真手前の梁は曲がった木材をうまく配置。まさに城という印象。櫓門を内側から。 駿府城下町の絵図。駿府城の東御門の近くに、かつての駿府城下町の様子を記した屏風状絵図が。本丸堀。駿府城には外堀・中堀・内堀と3重の堀があったが、そのなかでいちばん内側の本丸を取り囲んでいた堀(内堀)を「本丸堀」と呼んでいる。1896年(明治29年)の歩兵第34連隊の誘致に伴い、本丸堀は埋められたが、1990年(平成2年)の発掘調査によりその位置を確認し、現在公開されているのは南東の角部分。東側(東御門から入って正面)から見た本丸堀。堀の幅は約25mで両側は石垣となっており、本丸側石垣のうち、下段の2~3段は、慶長期築城当初の古い積み方の打込ハギおよび算木積み(角部)が残っているのだと。本丸堀の横には、静岡市の花・タチアオイ(立葵)が開花中。タチアオイが市の花に制定されているのは、もちろん徳川家の葵にちなんだものだが、徳川家の紋はフタバアオイがモチーフになっていて、このタチアオイの葉とは異なるのだと。本丸堀から巽櫓を見る。 城塀には駿府城二ノ丸、東御門、巽櫓の文字看板が。 駿府城御玄関前御門跡。『駿府城の中枢(ちゅうすう)である本丸への出入口には、南側の御玄関前御門(おんげんかんまえごもん)、東側の御台所御門(おんだいどころごもん)、北側の御天守台下御門(おんてんしゅだいしたごもん)の三ヶ所があります。この中で御玄関前御門は、本丸御殿へ至るための最も重要な門で、本丸の正面玄関とも言えます。門は、二ノ丸側から木橋を渡って高麗門(こうらいもん)を通り、石垣に囲まれた枡形(ますがた)内を東に折れて本丸へ入る構造になっていました。また、門に面する二ノ丸の一画は、橋をはさんで東と西が石垣造りの土手により仕切られ、敵が容易に進入できない仕組みになっていました。 』駿府城二ノ丸橋方向。 二ノ丸大手門跡。 二ノ丸御門は二ノ丸大手門とも呼ばれる門で、三の丸から二の丸に入るための正面出入口でしたが、1957年(昭和32年)に埋められてしまったと。そして約70m東側に新たに出入口が設けられたのだと。石垣には文字が刻まれていた。 天下普請で築かれた城ということもあり、駿府城で使われている石材にはさまざまな刻印が見つかっていると。300を超える刻印が見つかっており、刻印の模様は150種類にもなると。 坤櫓( ひつじさるやぐら)に歩を進める。 坤櫓は駿府城の二ノ丸の南西の方角に位置する櫓で、この坤(ひつじさる)という名は、築城当時には方位に干支が用いられていて、北を子(ね)として時計回りに割り当て、南西の方角は未(ひつじ)と申(さる)の間であるため、坤(ひつじさる)と呼んだことに由来。坤櫓の外見は、屋根が二重だが、内部は三階構造となっていた。櫓は矢蔵(やぐら)とも書かれ、平時は、武器庫として使用されていたことに由来するが、戦の時には、物見として、或いは、攻めて来る敵に対する攻撃拠点としての役割もあったと。 共通入場券を購入し内部へ。まずは入口のビデオコーナーへ係員に案内される。 ビデオは「徳川家康と駿府」という駿府城の歴史を紹介した映像(約5分)と、「駿府城坤櫓の復元」というこの坤櫓の復元工事の様子を紹介した映像(約5分)の2本。櫓内部では、建物構造を見やすくするため、床板の一部をガラス張りにして礎石、根太、大引や2階3階の床板の一部を取り外し松丸太の小屋組みを見ることが出来た。 坤櫓の構造説明図。建物の復元は、宝暦年間(1750年代)の絵図資料を基に行なわれたと。発掘調査では、櫓の北東側の基底部分(櫓台)に打ち込みハギの技法で積まれた石垣が角部分で約2.5mの高さで確認された。確認された石垣は、現在は埋め戻して保存されているのだと。 写真撮影スポット。 家康公時代の駿府城推定復元イラスト。 階の床板と天井板をすべて取り外しており、1階から3階の梁まで見通すことができたので、伝統的な工法によって復元された櫓の構造が一目瞭然。 徳川家康がオランダとの貿易を認めた際に出した朱印状の複製。原本はいまもオランダ・ハーグ?にあると。 明治時代の駿府城の様子を示す写真類。 残念ながら建築基準法の規制により、2階以上は入ることができないと。そのため2階の床を抜いて天井が見えるようになっている?2階、3階の床を抜いているので2階以上は入ることができない?
2017.06.06
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先週末に静岡・駿府城まで行って来ました。数年前に仕事で静岡県庁に行った折、帰路に訪ねましたが、その日は豪雨で当時の『日本百名城 スタンプ』をGETしただけで城内の散策は出来なかったのです。JR6:08発の沼津行きの電車に乗る。 昔は静岡行きや浜松行きの東海道線がありましたが、数年前に廃止されました。現在では最長が沼津行き、多くがが熱海、小田原止まりなのです。 小田原城が小田原駅を出ると左手前方に。 光る海・相模湾。 右手に富士山が見えて来ましたが山頂は雲の隠れていました。 富士川を渡る。 沼津で浜松機に乗り換え、約2時間半後の8:30に静岡駅に到着。 『家康が愛したまち 静岡』のポスター。徳川家康は幼年期、壮年期、そして晩年と3度の期間を駿府(現静岡市街地)で過ごしたと。このうち壮年期と晩年には駿府を自身の拠点に定め、駿府城を居城として整備。特に晩年の「大御所時代」には、家康率いる「大御所政権」が江戸幕府の補助的機関として大きな影響力をもち、駿府城下町も政治・外交の中枢都市として栄えたのです。 静岡駅前北口広場には2箇所に家康像があると。 竹千代像。今川の人質として駿府で過ごした幼年期の家康を表した銅像。「竹千代」は家康の幼名。 壮年期の家康像。家康の二度目の駿府居住の頃、家康40代後半の姿を表した銅像。題字は徳川宗家十八代徳川恒孝によって書かれているのだと。 徳川家康公像の背景に、巨大な葵の御紋が。未だ人通りの少ない地下道を利用して駿府城公園に向かう。 江川町通りから駿府城外堀前に出る。 外堀外縁の石垣・土塁は、1854年(嘉永7年)の安政東海地震による崩落や明治以降の改変によって積み直されている箇所が多いとのこと。駿府城大手御門。駿府城内へ入る正面出入口。三ノ丸堀を土橋で渡って、右手へ直角に曲がり渡櫓門(わたりやぐらもん)から城内へ入る構造になっていました。歩道には、渡櫓門の柱礎石の位置が記されていました。 この建物は「本庁舎」と呼ばれたり「旧庁舎」と呼ばれたりしますが、現在は静岡市議会議事堂として使われていると。 イスラム風ドームを戴く塔屋をはじめ、建物の全体に施されたスペイン風の意匠が特徴的で、国登録有形文化財にも指定されていると。「教導石」。教導石は、明治という新しい時代を迎え、「富や知識の有無。身分の垣根を越えて互いに助け合う社会を目指す」との趣旨に賛同した各界各層の人たちの善意をもって、1886(明治19)年7月に建立された。 碑の正面の「教導石」の文字は、旧幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟)の筆で、静岡市の明治時代の数少ない歴史遺産の一つだと。 教導石は、全体の高さが2m2cm。横には静岡から各地への距離が刻まれていた。 外堀で泳ぐ鯉と日向ぼっこする亀。 大きな亀が何匹も甲羅干し中。 静岡県庁。 静岡市旧庁舎のドームをズームで。 大手御門を城内から。大手御門の虎口は往時の姿をよく残していると。また、残存する石垣に天下普請を物語る刻印を確認することができるのだと。 そして県庁脇を進むと中堀に出る。右手に巽櫓(たつみやぐら)が姿を現す。 弥次喜多像。 十返舎一九の「東海道中膝栗毛」刊行200周年を記念して建てられた銅像。東御門の手前、巽櫓をバックに弥次さん(左)喜多さん(右)がベンチ とセットになって佇んでいる絶好の写真スポット。十返舎一九は静岡市出身と。中堀と東御門。 東御門・高麗門は、駿府城二ノ丸の東に位置する主要な出入口。手前に二ノ丸堀(中堀)に架かる東御門橋。 東御門橋からの二ノ丸堀(中堀)。そして駿府城内へ。
2017.06.05
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今年も、旅友のSさんから御自宅の庭から収穫された青梅を頂きました。そして早速梅酒造りに。流水で丁寧に水洗いを行いました。洗い終わったあとはザルにあけて水切り。大きいキズのあるもの、傷んだものがあれば取り除くのですが、Sさんが選り分けてくれていたようで全てOK。ザルにあけて水気を切った梅を、清潔なペーパータオルで水分をしっかり拭き取り、しばらく乾燥。 フォークの先を使って梅のヘタ(ホシ)を取り除き、一つ一つ瓶の中へ。 氷砂糖をスーパーで購入。 氷砂糖はやや控えめに600g?程に。氷砂糖はゆっくり溶けるので、梅の成分がしみだしてくる速度とバランスがいいのです。 1本は自宅にあったむぎ焼酎で仕込みました。 焼酎は1.8Lを注ぎ入れました。 もちろん瓶も丁寧に水洗いしペーパータオルで水気を完全に除去。梅、氷砂糖、焼酎を入れ密閉。 もう1本はいつものホワイトリカーで。 こちらも1.8Lを全部注ぎ込みました。 そして今年も2本の梅酒造りが完了し、台所床下収納の冷暗所に保管。10日程したら、瓶を優しく振って掻き混ぜたいと思っています。 これは瓶に入っていた数年ものの飲みかけの梅酒の中の梅。今回用の瓶が無かったので、残っていた梅酒を空き瓶に移したのです。フラッシュ付きで撮影してみました。何年ものなのでしょうか?丸さの残っているものは柔らかく美味。しかしこの梅を二つほど食べると、暫くすると体が熱くなって来ました。 毎年Sさんから青梅を頂いていますので、台所の床下収納には年代物の梅酒が何本も。そして後で気がついたのですが、今回のむぎ焼酎のアルコール濃度は25%。ネットには下記の如き情報が。『果実酒を作るための酒はホワイトリカー以外の他の酒でもぜんぜんOK。ただ一つ注意して欲しいのが、アルコール度数が35度以下になると、梅の成分が抽出されにくくなり、熟成も進みにくくなる。よって、他の酒を使うときはアルコール度数に注意が必要。アルコール度数が低い酒を使うとカビが生える危険性がありますからご注意を!』 と。さてさて如何に??。
2017.06.04
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先日、和歌山県に住む元同僚にソラマメ他の我が菜園の収穫物を送ったところお礼にと地元の名物の泉州ナスの漬物を送って下さいました。クール宅急便で糠に入った泉州ナスがビニール袋に包まれて。糠を掻き分けると紫の泉州ナスの姿が。泉州名物「水なす」の食べ方も添えられていました。泉佐野から旬の贈り物「水なす浅漬け」熊文の伝統漬けのぬか床で、丹念に仕上げたと。早速、夕飯時にビール片手に楽しませていただきました。泉州ナスは他のなすに比べずんぐりと丸みのある形で、皮も薄く、肉質の柔らかさ、甘味のあるみずみずしさ、水が滴り落ちるほど水分が多いのが特徴。昔の農家の人は、喉が渇くと水なすを搾って水分補給をしていたと。生食もできますが、糠床に漬け込んだ浅漬けや、漬物調味液に漬け込んだ漬物として食べられることが多いとのこと。この日はチョット醤油を垂らしていただきました。そして実は我が家でも泉州ナスを栽培中なのです。種をネットで購入し蒔きました。そして定植し現在の姿。漸く花芽が現れました。そして余った苗を別の場所にも。こちらは未だ未だの大きさ。今月下旬頃にはこの泉州ナスの収穫が出来そうです。我が家の水ナスも一般的なナスと比べて灰汁が少なく皮も薄くて、手で絞ると水分が出るほど瑞々しいのです。古くは畑の端に植えて、農作業の喉の渇きを潤すものだったと近所の農家の方から。本場の『水ナス』と同様に、ほんのりと甘みを持っているので生のまま食べる事が出来るのです。しかし、本場の『水ナス』は江戸時代頃から栽培があり、古くから大阪の泉州以外では育たないとされて来たと。今年の我が家の『泉州ナス』も一歩でもこの『泉州の伝統野菜』の味に近づければと。
2017.06.03
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目黒不動堂の裏、市街を見下ろす丘の上に、かなり広い墓所があった。その中に、「甘藷先生」として有名な江戸時代の学者青木昆陽の墓が。 青木昆陽は、元禄11年(1698年)生まれで江戸時代中期に活躍した儒学者、蘭学者。当時の南町奉行大岡忠相に取り立てられ、幕府書物の閲覧を許された。江戸幕府8代将軍徳川吉宗は、飢饉の際の救荒作物として西日本では知られていた甘藷(現在のサツマイモ)の栽培を昆陽に命じ、小石川薬園(小石川植物園)、現在の千葉市花見川区幕張、現在の千葉県山武郡九十九里町で試験栽培。この結果、享保の大飢饉以降、関東地方や離島でサツマイモの栽培が普及し、天明の大飢饉では多くの人々の命を救ったと。昆陽は、享保20年(1735年)に農書 『蕃薯考』(ばんしょこう) を発表したが、その中で救荒作物として有用な甘藷(かんしよ)の性質・栽培法などを詳しく記述したと。 そして目黒不動尊をあとにし、大鳥神社近くの店に向かう。途中道の右側にあったのが、成就院の山門。 天台宗の寺で山号は「不老山」。正式名は「不老山薬師寺 成就院」で、「蛸(多幸)薬師」の別名が。開創は天安2年 (858年)で、開山は慈覚大師円仁。慈覚大師が唐から帰国する際に海が荒れたため、御持仏の薬師如来を海神に献じたところ、波風が静まり無事に帰国。さらにこの薬師像がたこに乗って戻ってきたため、たこ薬師として祀ったのがこの寺の由来。それに因んで、本尊の薬師如来は3匹の蛸に支えられている蓮華座に乗っている。それが蛸薬師と呼ばれる由縁。一見たこ焼き屋風の看板には「ありがたや 福をすいよせる たこ薬師」と書かれ、蛸の絵馬が奉納されている。お守りも蛸だ。お静地蔵尊。石のお静地蔵尊・由来記には『右 准胝観音・聖観音・十一面観音 中 阿弥陀如来 左 金剛願地蔵・金剛幡地蔵・金剛宝地蔵 この石仏像は、徳川二代将軍秀忠公の側室、お静の方の発願で奉納されたものです。 お静は江戸城大奥にあがり将軍の寵愛を受け「お腹さま」となることを願い、 三体の観音像を納め奉り、その素願かない慶長十六年(一六一一年)に 男子「幸松麿」を授かります。・・・・』と。橋和屋地蔵と庚申供養搭。料亭橋和屋は尊王攘夷派の薩摩藩士がオランダ人ヒュースケン(ハリスの通訳)暗殺(1860)の密議の場所として有名と。この地蔵は橋和屋の主人が早世した娘のために建立したものといわれている。「霊験 蛸薬師如来」 の立て札。手水舎。 本殿には「不老山」と書かれた扁額が。「蛸薬師」と書かれた提灯が本堂前の両側に。 次に訪れたのは、「天恩山 五百羅漢寺」 ここ目黒にある天恩山五百羅漢寺は、元々は元禄八年(1695)松雲元慶禅師により、江戸の本所に建立された寺で、江戸時代は「本所の羅漢さん」と親しまれていたと。明治維新後の苦難(廃仏毀釈)を乗り越え、昭和56年に現在の堂が完成、「目黒の羅漢さん」として蘇ったと。入口左の不退法尊者像。宗派はかつて黄檗宗だったが現在は浄土宗系の単立。山号は天恩山。開基は松雲元慶、開山は鉄眼道光、本尊は釈迦如来。当初は本所五ツ目(現在の東京都江東区大島)に在り、徳川綱吉や吉宗が支援したが、埋め立て地にあったためか度々洪水に見舞われて衰退し、明治時代に目黒の現在地に移転。 境内は比較的狭く、大部分が近代的なビル。公道に面して鉄筋コンクリート3階建てのビルが建ち、この中に寺務所、書院、聖宝殿(しょうほうでん)などのほか、目黒霊廟(一般向けの屋内墓所)が。聖宝殿には寺宝や歴史資料が展示されている。屋上には安永3年(1774年)銘の梵鐘(平和の鐘)や、悪夢を食うとされる獏王の像 などがあるとのこと。300体以上の羅漢像を祀っていた(当初は536体あった)。 羅漢像は像高80 - 90cm前後の寄木造で、各像の表情、ポーズなどはすべて異なり、一般に仏教彫刻衰退期とされる江戸時代における代表的作品とのこと。 最後に 黄檗宗 海福寺を訪ねる。 海福寺四脚門。四脚門()は門の中央にある親柱2本の前後に2本ずつある4本の控え柱からきた名称で、日本建築の最も一般的な山門や表門の形式。海福寺()の赤い四脚門()は、明治期に廃寺になった上落合の泰雲寺()より明治後期に移築したもの。この門は軒回りや屋根に大幅な補修を受けていますが、木鼻、蟇股(かえるまた)、妻飾()り等の様式は江戸時代中期頃の標準的な特長をよく備えているのだと。妻飾りに「笹に雀」の宇和島伊達家()の紋が。四脚門手前の左には文化4年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑2基が。東京都指定文化財とのこと。 『文化4年(1807)8月の江戸深川富岡八幡宮の大祭は11年ぶりに催されたため大変な賑わいであった。当日、人々は永代橋を渡って深川にやってきたが、その折、永代橋が崩落し多数の溺死者を出すという江戸はじまって以来の大惨事が発生した。この供養塔及び石碑は、その落橋事件の溺死者の100日忌、50回忌、77回忌、91回忌の折に、深川寺町通り(現江東区深川2丁目付近)にあった海福寺境内に建立された。溺死者440名とも言われた空前の大惨事を、江戸市民がどのように受けとめ後世に伝えていたかを明らかにすることができる都内における唯一の資料である。海福寺は、明治43年(1910)目黒区下目黒3丁目の現在地に移転したが、これら供養塔もそのとき一緒に移設され、現在に至っている。(東京都教育委員会)』 と。鐘楼。近世の中国風の鐘に似ながら、日本上代の鐘の形態を手本にした特異な考案で、江戸時代の梵鐘(ぼんしょう)の中でも類例の少ないもの。また、形状も端正で鋳技も精巧な優品。天和2年(1682)鋳造で、東京都指定有形文化財に指定。本堂。本尊は釈迦牟尼仏で、他に四天王像や隠元禅師の像、木造阿弥陀如来立像(区指定文化財)が安置されていると。武田信玄の屋形に置かれてあったと伝えられる九層の塔 。本堂の扁額は「泰雲」とある。黄檗二世木庵の書で、「泰雲寺」と書かれてあったものを、上落合の泰雲寺が廃寺となった折に、山門とともに、この寺に移されたと。道路の合流地点に松雲羅漢が。 天恩山五百羅漢寺の開基松雲禅師は、元禄年中、5代将軍綱吉公の生母桂昌院をはじめ江戸中の人びとから寄せられた浄財をもとに536体の羅漢像を彫刻し、本所五ッ目に五百羅漢寺を築いた傑僧であると。 そしてこの日18:30から開かれる元同僚の送別会に参加したのであった。
2017.06.02
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更に目黒不動尊(瀧泉寺)の散策を続ける。本坊・阿弥陀堂の左手(北側)にある観音堂。外の赤い幟(のぼり)には、「千手観世音菩薩」と。地蔵堂。元禄に造られたという地蔵堂には地蔵菩薩が。春洞西川先生碑。西川春洞は江戸生まれの書家。佐賀県生。唐津藩医元琳の子、寧の父。名は元譲、字は子謙、別号に稚学園・茄古山民・大夢道人等。春洞流は書道界に一大勢力を誇っていると。精霊堂。精霊堂には、六地蔵と地蔵菩薩、そして本坊地蔵堂と同じように閻魔大王と脱衣婆が祀られていた。六地蔵の頭上の壁面には「地蔵和賛」が書かれていた。わりと急な男坂階段の右側には緩い女坂の階段が。女坂の途中には、修験道の開祖 役の行者小角の銅造像があった。寛永8年(1796年)太田駿河守藤原正義作、目黒区指定文化財。足腰健全のご利益があるそうで、徒歩での散策が好きなの私はしっかりと膝を撫でて来ました。これも女坂沿いにあった神変大菩薩。 ここでも水の音が。シャチの水口。おそらく、屋根瓦の古いものの再利用であろう。男坂横から境内を。 毎月28日(この日)の目黒不動尊大縁日には、門前や境内に露店が並び、多くの参拝者が訪れるのだと。垢離堂。垢離堂は密教で如意輪観音の化身とされる神である青龍大権現を祀っていると。前不動堂は改修工事中。独鈷の滝の左方にある宝形造朱塗りの小堂。江戸時代中期の建築で、当時には将軍や大名たちも参拝したが、その際は一般参詣客は大石段を登ることは許されなかった。そこで、そのような場合でも一般参詣客が一応不動詣でが出来るようにと大石段の下に前不動堂を建立したと。 甘藷先生祈念碑。目黒不動尊には、サツマイモの栽培を広めた青木昆陽のお墓と「甘藷先生碑」があった。サツマイモは、江戸時代に琉球から薩摩を経由して日本に入ってきたが、やせた土地でも栽培できたことから、飢饉の時の救荒作物として重宝されたと。毎年10月28日には遺徳をしのんで、甘藷祭りが開かれ、サツマイモや大学イモを売る店が出て、大勢の参拝客でにぎわっていると。 北一輝先生顕彰碑。北 一輝(きた いっき、本名:北 輝次郎(きた てるじろう)は、戦前の日本の思想家、社会運動家、国家社会主義者。二・二六事件を引き起こした皇道派青年将校の理論的指導者として逮捕され、軍法会議にかけられ、死刑判決を受け刑死した人物。高さ約3m程の可成り大きい碑で、上に横に「北一輝先生碑」と彫って有る が、これは、生前一輝と親しかった、国民党の外交部長であった張群氏による 書だと。碑文は大川周明に依るものであると。 勢至堂。 江戸時代中期の創建とみられ、勢至菩薩像が安置されていると。本居長世の碑。本居長世は音楽学校で中山晋平、弘田龍太郎を教えるかたわら「七つの子」「青い目の人形」「赤い靴」「めえめえ小山羊」「お山の大将」のような作品を自身作曲して世に送り出した。特に大正9年(1920)、野口雨情の詩に作曲した「十五夜お月さん」はいかにも日本的な旋律に変奏曲的な伴奏を配したもので、この種の先駆的作品として重んじられた。本居長世はこれらの曲を作ったころ、この目黒不動のすぐ隣に住んでおり、月の夜にこの瀧泉寺の境内を散歩しながら想を練ったのだと。腰立不動。 妙なる力に おこされて 二度(たび)世に立(たつ) 不動尊かめの祝の 末広く 朝日ののぼる みごとさで東都のつどい 善男女 すくいとらすぞ 妙なる力山不動と呼ばれる腰立不動は立身出世の不動尊。仁王門から左手の一番奥にある結界の三界萬霊供養塔。三界とは、欲界、色界、無色界、万霊というのは欲、色、無色界の有情無情の精霊などのあらゆる世界を指している。それらを供養することが三界萬霊塔の役目で、ここでは地蔵菩薩がその役目を担っていると。北向六地蔵尊。東日本大震災慰霊として建立されたと。朱の三福神鳥居。 金明湧水福銭洗い。右手が豊川稲荷、左手が三福堂・山手七福神の恵比寿神が奉られていた。 「目黒不動尊 瀧泉寺」と刻まれた社号標。 天台宗泰叡山(たいえいざん)瀧泉寺は、大同3年(808)に慈覚大師が開創したといわれ、不動明王を本尊とし、通称 「目黒不動尊」 と呼び親しまれているのだ。仁王門の前には狛犬が護っており、階上には韋駄天が祀られているとのこと。仁王門。仁王門は三間一戸の朱塗りの楼門で、昭和三十七年(1962)再建の鉄筋コンクリート造り。那羅延金剛像(阿像)。密迹金剛像(吽像) 境内と正面の男坂手前には「釈尊降誕会」 の横幕が。仁王門の裏側には石膏製の真っ白な狛犬(阿像) 吽像。 仁王門手前の「比翼塚」。比翼塚は愛し合って死んだ男女を一緒に葬った塚。この塚は鳥取藩士平井権八とその愛人だった吉原の遊女小紫の二人を哀れみ建てられた。 平井権八は金を奪ったために鈴ヶ森の刑場で処刑され、愛人だった遊女小紫が後を追って自害した。この平井権八の話は、浄瑠璃や歌舞伎に脚色され、白井権八のモデルとなっていると。 権八・小柴の悲話を伝える比翼塚の説明板は更新が必要か。
2017.06.01
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