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8月26日(土)は旅友のSさんと奥多摩にある武蔵御岳山へレンゲショウマ(蓮華升麻)の花を見に行って来ました。早朝6時にSさん宅を出発し、寒川南ICから圏央道へ。 途中八王子JCT手前で事故渋滞に遭う。特に中央道方面は大渋滞。 渋滞を抜け予定より30分以上遅く圏央道・日の出ICから一般道へ。 国道411号線、45号線( 奥多摩青梅線)を利用して奥多摩方面に向かう。青梅マラソンはこの45号線を利用して行われる。正面に武蔵御岳山、そして頂上付近にケーブルカー駅の姿が見えてきた。「みたけ山 ケーブルカー あと1.5km」の案内板。そして武蔵御嶽神社の大きな朱の鳥居を潜る。 御嶽の「嶽」は御嶽神社で使うようで、御岳山、御岳登山鉄道は「岳」のようです。但しJRの駅名は御嶽駅とややこしい。更に2014年に噴火した長野県と岐阜県の県境に位置する御嶽山(おんたけさん、標高3,067m)と区別できるように御岳山?御岳山ケーブルカーの高架橋の下を潜り駐車場に。 滝本駅(たきもとえき)は、御岳登山鉄道が運営しているケーブルカーの駅。標高407.4m。 オジサンが土産用の生わさびの仕込みを。 乗車券販売機が2台。 「聖なる森のレンゲショウマ写真展」のポスター。この写真展はレンゲショウマ写真の第一人者である、写真家まえのかつみさんの写真展。御岳山 観光案内図。御岳山は、東京都青梅市にある標高929mの山。武蔵御岳山とも呼ばれる。秩父多摩甲斐国立公園の玄関でもある御岳山。古くから山岳信仰の対象となっており、山上には武蔵御嶽神社が建立されている。往復券を1110円で購入。この日の往復券での38人目の乗車?この日の4番目の8:15発のケーブルカーに乗車。この日8月26日(土)、8月27日(日)の2日間は7:15発臨時ケーブルカーの運行を行っていると。京王グループに属する御岳登山鉄道株式会社が運営。こちらは緑の御岳登山鉄道「武蔵」号。路線距離 :1,107 m 最大高低差 :423m最大勾配 :25度 平均勾配 :22度定刻に出発し赤が眩しい高架橋を進む。先頭窓際の特等席に立って風景を楽しむ。 そして前方に最大勾配:25度の線路が。 最大勾配:25度の線路を上る。 最大勾配斜度25度の急勾配を上ると中間地点へ。上からは赤い御岳登山鉄道「御嶽」号が下りて来てすれ違い。こちらには未だ乗客は乗っていなかった。 急勾配を6分弱程度で標高831mの御岳山駅が前方に。 大きな「レンゲショウマまつり」 の看板が正面に。御岳山駅前広場には記念撮影用の顔出しパネルが2種。 御岳山駅広場からは奥多摩の山々や多摩川沿いの街並みが見えた。 そしてこの日の第一目的の「レンゲショウマ」の花を愛でにレンゲショウマの群生地に向かい更に山道を上る。
2017.08.31
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青森空港待合室からの八甲田山をガラス越しに。八甲田山は、青森市の南側にそびえる複数火山の総称で日本百名山の一つ。「八甲田山」と名がついた単独峰は存在せず、18の成層火山や溶岩円頂丘で構成される火山群。青森県のほぼ中央に位置し、東北日本の脊梁(せきりょう)である奥羽山脈の北端。到着の遅れで15分遅れで青森空港を出発。 陸奥湾方面に向けて離陸し、暫くしてUターン。浪岡市内の 浪岡総合公園・浪岡野球場が写真下部に。岩木山が美しかった。 蛇行する米代川(よねしろがわ)。 米代川が蛇行を繰り返し能代市内に向かい流れる。 日本海に注ぐ米代川。 八郎潟(はちろうがた)八郎潟は、秋田県にある湖。二級河川馬場目川水系に属する。かつては面積220km2と、日本の湖沼面積では琵琶湖に次ぐ第2位であったが、大部分の水域が干拓によって陸地化され、陸地部分が大潟村になった。現在では日本の湖沼において18位の面積である。八郎湖や、八郎潟残存湖といった別名でも呼ばれる。 秋田県秋田市河辺三内の岩見ダム。ダム湖は「河北湖(かわきたこ)」。昭和62年、一般公募により決定。河辺郡と北秋田郡にまたがるので、それぞれの頭文字を取ったと。8/22~24の大雨により増水で水位を増した雄物川(おものがわ)。氾濫している様子が上空からも確認出来た。雄物川と下流で合流する淀川が氾濫し、地区のほぼ全てに当たる住宅9棟が全半壊するなど甚大な被害に見舞われた大仙市協和下淀川の川原地区。鳥海山(ちょうかいさん)。山形県と秋田県に跨がる標高2,236mの活火山。山頂に雪が積もった姿が富士山にそっくりなため、出羽富士(でわふじ)とも呼ばれ親しまれている。山形県中央部にある村山市を蛇行する最上川(もがみがわ)。中央に山形空港。山形県東根市(ひがしねし)にある特定地方管理空港。愛称はおいしい山形空港。宮城県道・山形県の境になっている奥羽山脈・蔵王連峰をまたぐ区間にクネクネと蛇行する「蔵王エコーライン」、そして赤い屋根の蔵王寺が確認出来た。宮城県刈田郡七ヶ宿(しちかしゅく)町にある七が宿ダム。宮城県最大のダムで堤高90.0mのロックフィルダム。東北最大の都市・仙台市の水がめの一つ。ダムによって形成された人造湖は七ヶ宿湖(しちかしゅくこ)。 摺上川ダム(すりかみがわダム)。福島県福島市飯坂町茂庭、一級河川・阿武隈川水系摺上川に建設されたダム。ダムによって形成された人造湖は、一般公募により茂庭っ湖(もにわっこ)と命名。福島県伊達(だて)市内と阿武隈川(あぶくまがわ)。 五色沼の桧原湖(ひばらこ)と秋元湖が見えた。小野川湖は雲に隠れていた。 福島県三春町の三春ダムにより作られた「さくら湖」。さくら湖にかかる福島県道144号谷田川三春線の橋・春田大橋(はるたおおはし)郡山市内。 福島県須賀川市内で阿武隈川に釈迦堂川が合流。福島空港。福島県石川郡玉川村と須賀川市にまたがって位置する空港。1993年(平成5年)にOPEN。「FUKUSHIMA」の文字が確認出来た。福島県東白川郡棚倉町にある日本の城・棚倉城(たなぐらじょう)が中央に。別名、亀ケ城。寛永2年(1625年)に丹羽長重によって築城。栃木県久慈郡那須塩原市にある横浜ゴム総合タイヤテストコース(D-PARC) 。ツインリンクもてぎ。栃木県芳賀郡茂木町にある自動車レース場である。1997年8月営業開始。四輪のSUPER GTや、二輪の日本グランプリが開催されている。栃木県芳賀郡茂木町(もてぎまち)にある日産自動車 UDトラックス茂木試験場。広さは2万3000平方メートルで国内最大級の試験路。4輪駆動車の開発に活用。遠く前方右側に富士山の姿が。 牛久沼(うしくぬま)上空を通過。茨城県龍ケ崎市にある一級河川利根川水系の小貝川支流に含まれる沼。小貝川(こかいがわ)上空。茨城県取手市、北相馬郡利根町と千葉県我孫子(あびこ)市の境で利根川へ合流する。全長111.8kmで、利根川の支流中で第2位の長さを誇る。昔は洪水をおこす「暴れ川」として知られており、我が会社の先輩もこの近くに住んでおられた事を想い出す。千葉県総合スポーツセンター陸上競技場と千葉県野球場そしてその間に走る千葉モノレールの懸垂式高架レールも見えた。 千葉駅上空から東京湾に出る。 三井造船(株) 千葉事業所。鳥居崎海浜公園と木更津海岸潮干狩場を結ぶ中の島大橋。 龍宮城スパホテル三日月。 そして着陸態勢に入る。15分遅れで羽田空港に着陸。 約1時間の飛行であったが、幸い窓際の座席を確保できたので、機窓からの東北の自然と街並みを楽しんだのです。
2017.08.30
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青森・五所川原での仕事の応援の帰路、現場所長が青森空港まで車で送って下さいました。飛行機の時間に余裕があるので「道の駅 なみおか」に立ち寄りました。 観光りんご園、ふれあい広場、りんどう(町の花)の丘などがあり自然に囲まれた道の駅。駐車場に車を駐め、散策開始。 「道の駅なみおか」は、国道7号線・青森~弘前間のほぼ中間地点に位置し、青森空港・浪岡ICも近くりんご生産日本一の町にあるのです。「ようこそ 青森へ」の観光案内地図嶽きみ(だけきみ)の販売も行われていた。「きみ」とは津軽弁で「とうもろこし」のこと。お盆が過ぎたこの時期頃から岩木山麓のとうもろこしの主産地である嶽(だけ)地区は日中と夜間の温度差がぐっと広がるのだと。約10℃以上にも広がる厳しい山の寒暖差が、ものすごく甘くてプリップリの、おいしいとうもろこしを育てるのだと。まさに、津軽ならではの自然環境が与えてくれる恵み!所長が私の1ヶ月遅れの誕生祝いにこの嶽きみを送ってくれると嬉しい言葉を。 既にりんごの販売所も。 「めんこい姫」、「はやて」 等の早生品種が販売されていました。「めんこい姫」は「大きさは200g~400gと早生りんごとしては大きめ。皮がパリッとしていて果肉はやや硬め、酸味があり爽やかな食味のりんごであると。こちらはリンゴの形をした「アップルヒル21周年記念祭」の看板。インフォメーション&情報交流室入口のチェーンソーアート「決め手くん」 。休憩所には第59代横綱 隆の里(旧浪岡町出身、享年59歳)が初優勝した際の記念額が飾られていた。地元のハチミツも。赤アカシア、百花、栗、とち、りんごの各種ハチミツ。 500gで3000~3800円。産地直売施設『浪岡アップル友の会』販売所。地元の農家約90会員が、地場産にこだわった農作物を提供しているのだと。商品には生産者の名前がつけられていた。どれもみんな自慢の自信作。 丘の上にある大きな百人テーブルからは、浪岡が一望できる眺めが最高と。 芝生の広場には印象的なオブジェが。 これは、愛(ロマン、ロラン像)というオブジェ。 作者は青森県出身の田村進。ソフトクリームを二人で楽しみました。 そして青森空港へ。既に道路の法面には一面のススキが。既にこの地は秋が始まっていました。花が咲き始めたころはまだ緑色のススキたちも、花が開ききるころには穂がふわふわと白くなり銀色に輝きます。さらに季節が進むと、ススキ全体が黄金色に変わってきます。この銀色から黄金色に輝く頃が、ススキ鑑賞のベストタイミング。総延長:1.74kmの青森空港有料道路はETCなし。軽自動車は150円。 そして空港ロビーでお土産に「十三湖しじみ」 を購入。写真がピント外れ。
2017.08.29
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この日の昼食は、近くにある「津軽ラーメン街道」へ。青森県五所川原市にある、複合型大型ショッピングセンターエルムの街・2階にある、フードテーマパーク・「津軽ラーメン街道」。2004年2月にオープンしたフードテーマパークで、ラーメンルネッサンスをテーマに環境演出された非日常空間の中、全国有力ラーメン店が出店しているのです。この日の「津軽ラーメン街道」への出店は麺屋「剛(ごう)」:鹿児島豚骨ラーメン専門店「神仙」:金沢濃厚味噌ラーメン「坂新」:会津・北方らーめん「札幌みその」:札幌ラーメン 「舞KAGURA」:中村屋出身店主の店「津軽ラーメン街道」入口。 奥に向かって入っていくと最初に「舞KAGURA」 。「坂新」「札幌みその」「津軽ラーメン街道」中央通路。 そして一番奥の「神仙」 に決定。津軽ラーメン街道史上最高の売上枚数を記録したと言う「金澤濃厚味噌ラーメン 神仙」。 そして「特製濃厚中華そば(980円)」を注文。スープは豚骨出汁。超こってりドロッと濃厚、というかややしょっぱい。麺は極細ストレート。具は豚肉、チャーシュー、メンマ、味玉、なるとまき、モヤシ、ネギ。大きなトロトロの角煮、味玉、チャーシューと、とにかく、肉のボリュームが・・・・・。しかし完食。替玉もありましたがさすがに。次回は別の店も楽しんでみたいと。美味しかったです。ありがとうございました。
2017.08.28
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この日の青森・五所川原のホテルからの朝日です。時間は5:05、津軽半島の付け根に横たわる山々が赤く染まっていました。五所川原の日の出の時間は04:56であるがまだ太陽は、津軽半島の付け根に横たわる標高549.2mの馬ノ神山から標高468mの梵珠山へと連なる山々の裏に。 馬の神山山頂には、青森県をエリアとする全テレビ局共同使用のデジタルテレビ放送並びに青森テレビ・青森朝日放送のアナログテレビ放送及びエフエム青森の親局や、警察庁などの業務無線の中継局が置かれている。 そして5:11に山の端からのこの日の日の出。ズームで。日の出をデジカメで追いかけました。そして太陽が半分姿を現しました。雲の赤さも少しずつ白く変化。更に白く。そして丸い太陽が。朝日を浴びた五所川原・克雪ドーム。そして西に位置する岩木山。頂上は雲に隠れていました。今年の夏至は6月21日。この地の日の出は4時7分。よってこの日までには1時間以上既に日の出の時間が遅くなっているのです。そして冬至の日近くには7時過ぎまでこの地には日が昇ってこないのです。因みに民間人が訪れる事が可能な日本最東端は、北海道の納沙布岬(北緯43度22分・東経145度49分)。この納沙布岬では6月12日から20日の9日間、3時35分に日の出となるとのことです。1年間で日の出・日の入りの時間が3時間も違うのが日本の特徴。
2017.08.27
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この日・8月23日は旅友のSさんからチケットを頂き、二宮に住む先輩Oさんとの3人で地元藤沢市民会館で開催された「JAさがみの観劇招待会『森 昌子コンサート』」に行って来ました。JR藤沢駅で10:30に待ち合わせし藤沢市民会館へ。入口で迎えてくれるのは、「平和の像 PEACE」 作者は藤沢高校の卒業生「熊坂兌子(なおこ)」市民会館の前庭にはサルスベリが満開。新たに購入したデジカメで花を撮すSさん。会場の藤沢市民会館正面。既に多くの観客が11時の開館を待っていました。「共済貯金 観劇招待会 会場」 さがみ農業協同組合」と書かれた看板が。木陰で開場を待つ人々。観劇招待会のポスター。この日はは茅ヶ崎・寒川地区・8月22日(火)~8月24日(木)開催の中日。上記3日間の毎日午前・午後の2回公演とのこと。 【http://ja-sagami.or.jp/tenpo/detail/013.html】招待基準は下記の如く預金平均残高が700万円以上、長期共済契約1500万円以上他の世帯と。 【http://ja-sagami.or.jp/tenpo/detail/013.html】 会場の藤沢市民会館 大ホール開場にに入ると、舞台には巨大な緞帳(どんちょう)が。歌川広重(うたがわひろしげ)作 「相州江乃嶋 辨才天開帳参詣 群集之図」を描いていた。江の島の弁財天は、技芸の神として信仰を集めたと。特に音曲の世界では講中を組んで江戸から参詣することが多く、六年に一度の開帳の時は、多数の参詣人で賑わったといわれる。ここでも江の島参詣に向かう四組の女講中を揃いの日傘で描き分けていると。この大ホールの座席数は1380席(1階:1024・2階:356)。「相州江乃嶋」をズームで。2020年のオリンピック・パラリンピック競技大会ではセーリング競技がこの江ノ島にて開催されるのである。ホール入口には8月9日に発売されたセルフカバー曲「哀しみの終着駅」のCDが販売されていた。ロビーには多くのご婦人達が。11:30の開演後は、撮影禁止。まずはJA役員7名が壇上に整列し理事長が挨拶。本来は茅ヶ崎市民会館での開催であるが耐震工事中のため場所を、ここ藤沢市民会館にしたと。森昌子をショーを十分楽しんでいただき、今後とも、貯金・共催事業をよろしくと。中学時代の同級生が壇上に。 11:45 ~ 12:05 までは「コント山口君と竹田君」のお笑いコンビによる漫談。 そして12:15 ~ 森 昌子ショーの開演。二部構成で、第一部の歴代の『日本レコード大賞作品』を小学生・女学生スタイルでコントを演じながら森昌子が歌を次々に披露。森 昌子が、ラーメン屋の小学二年生に扮してコントをしながら歌を披露する構成。「森昌子専属司会者」でラーメン屋を営む父親を演じる牧野尚之と彼女との息もピッタリ。併せて彼は森昌子のバックコーラス役も務める万能プロ。持ち歌も有り『水沢良』と言う歌手名で舞台に立つこともあるのだと。 2部は和服に着替え持ち歌を歌う。途中、芸能人の語りを真似て曲を紹介する声も流れる。 そして14:10過ぎに終演。 森昌子専属の楽団「森の音楽隊」を引き連れて、ステージ上で森昌子が熱唱するライブの懐かしい歌を存分に楽しませてもらったのであった。途中、舞台から観客席に降りた森昌子と握手も出来たのであった。恐らく観客の平均年齢は70歳以上 間違いなしなのであったが。 そして帰路は藤沢駅近くの居酒屋で喉を潤す。 私は途中で退席し、バスにて羽田空港へ向かったのであった。
2017.08.26
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今週の火曜日に妻と久しぶりに近くにある「飯田牧場」へ行って来ました。「日本一小さな牧場」と呼ばれ、この建物裏手にある下の写真の小さな牧場で搾られた原乳を使用した乳製品各種を販売しているのです。この牧場の一番のオススメは、何といってもフレッシュな牛乳なのだとか。脂肪分を均質化する、「ホモジナイズ」という処理を行っていないので、絞りたてに近い濃厚な風味が味わえるのです。また、ホルスタイン、ブラウンスイス、ジャージーの3種類の原乳を、独自の比率で配合していると以前店長のおばさんから。しかし一番の人気商品は、濃厚な味わいがクセになりそうなジェラート各種。ミルク、バニラなどの定番品から、季節ごとのフルーツなどを取り入れた季節限定品まで、常時かなりの種類を用意してあるのです。カップとコーンが選べ、シングルとタブルが。 我々が楽しんだのはソフトクリーム。ミルク、コーヒー、ミックスの3種類で濃厚な味で口溶けのなめらかさが抜群。店内の壁には芸能人のサインのある色紙が。そして次々にお客様が。そしてミルクハウスの裏では、その日本一小さい牧場の牛たちを間近で見ることができます。ホルスタイン、ブラウンスイス、ジャージーの3種類で合計10頭前後。暑さにめげず頑張って皆横になることもなく。しかし大きな扇風機も回っていました。暑くてチョット眠そう。フレッシュで甘さのある濃厚な牛乳、コクのあるジェラートなどを、ぜひお近くの皆さんも味わってみてはいかがでしょうか。
2017.08.25
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この日は、我が家の養蜂場のある菜園の片付けを行いました。スイカ、カボチャの場所の片付け。まだカボチャは蔓がまだまだ元気に育っていて、可愛そうでしたが。蔓の下に敷いてあった麦わらはそのままとし、一緒に漉き込むものとしました。周囲の除草も行うと、草が山のように。そして片づけた場所には消石灰を蒔きました。義兄が義兄の実家のトラクターを借りて来てくれ、耕耘の開始です。この大型トラクターでの耕耘無しでは、我が趣味の菜園の継続は難しいのです。人力による鍬で耕すのは体力がいるのです。みるみる白い地面が黒く変わっていったのです。100馬力以上はありそうな、本格的な農業用とらくたーなのです。綺麗に耕耘してもらいました。こちらも。これで、冬大根の種蒔きや、白菜、キャベツ等冬野菜の植え付け前の苗床造りができるのです。
2017.08.24
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先日、綾瀬にあるホームセンターからの帰路、ふと旅友のSさんから教えてもらった寺を想い出し、急遽寄り道し訪ねました。寺の名は神奈川県茅ヶ崎市堤にある浄土宗の寺院・浄見寺(じょうけんじ)。江戸時代の奉行・大岡忠相をはじめとする大岡氏の菩提寺として知られる寺。浄見寺の山門。淨見寺は、万人救済の信仰を確立した民衆仏教(鎌倉仏教)の先駆者、法然上人を宗祖にいただく浄土宗寺院。今から約400年前「芹沢山来迎寺五世深誉上人」を招請し大岡家二代忠右衛門忠政公自らが開基となる。寺号は大岡家初代忠正の法名『大綱院殿忠誉窓月浄見大居士』から四文字をとって、山号:窓月山、寺号:浄見寺。爾来今日まで大岡家累代の菩提寺。江戸時代の奉行大岡越前として知られる大岡忠相を輩出した大岡氏は、初代忠勝の三男である2代目当主大岡忠政の代に広忠の子徳川家康に仕え、家康の関東入国に従いここ高座郡堤村(茅ヶ崎市)に知行200石を与えられ本貫地とし、後には同郡の大曲村(寒川町)、高田村(茅ヶ崎市)を加え600余石となる。慶長16年(1611年)、大岡家2代目当主大岡忠政が、亡父の初代当主大岡忠勝を慰霊するために建立したのが、浄見寺の始まり。開山は深誉円察(一説に柴田勝家の子といわれる)。享保2年(1717年)に南町奉行となった大岡忠相は、翌3年に名主たちの意見も取り入れ、火消組合の組織化。享保15年(1730年)には、いろは47組を一番組から十番組まで10の大組に分け、大纏を与えて統括したと。大岡越前守墓提所と書かれた石柱の側には彼が組織した町火消しの大纏の絵が刻まれていた。弁財天座像の説明板。浄見寺所蔵の金剛製六臂(腕が6本)。室町時代作と見られている山門には山号の「窓月山」と書かれた扁額が。左手に手水舎。十三重石塔が手水舎の先に。十二という数は、十二因縁、十二支を意味。因縁を超えた十三という数、宇宙の摂理である十二支、十二か月を超えた十三という不思議な数に因んだと。また十三は十三仏の最後、虚空蔵菩薩をあらわしているとされ、十三重の塔は虚空蔵菩薩をあらわすと。旅立ちの法然上人像。浄土宗では法然を元祖と崇めている。慈母・水子観音像。観音像の左右に水子地蔵。境内の蓮の花。墓所入り口の階段の前に立つ六地蔵。浄見寺 本堂。「浄見寺」と書かれた扁額そして巾着袋の形をした賽銭箱。この形は宝袋型といい、江島神社の辺津宮にも同様なものがあったのでは。巾着袋の形をした賽銭箱には「大岡七宝」(おおおかしっぽう)という、大岡家の独占的家紋が刻まれていた。この「大岡七宝」は実は定紋ではないようです。本当の大岡家の家紋は「大岡玉垣」(おおおかたまがき)とのこと。よって大岡忠相が一代に限り?用いた家紋のようである。 植栽の中の石仏。本堂横の庭園。本堂を庭園側から。墓所入り口の階段の前に立つ延命地蔵尊。大岡氏一族の墓所にはこの右側の石段を上って行った。階段の入口右手には絵馬奉納場所が。こちらの正面にも「大岡七宝」が。大岡忠相の法名は「松雲院殿前越前刺史興誉仁山崇義大居士」であることを左にある位牌から知ったのであったが・・・。しかしネットでは「松雲院殿前越州刺史興誉仁山崇義大居士」とあるものも。こちら「州」が正しいようであるが真偽は如何に。大きな石灯籠の横には「大岡家一族墓所参拝の方はご喜捨(きしゃ)を」と。「ご喜捨」と言う言葉を初めて知った瞬間。階段を上るとアルミフェンスが設置されており、鍵がかかり墓地の内部には入れなかった。フェンス手前から大岡家系図を示す説明板を撮す。オハツキイチョウ神奈川県天然記念物で葉の上に銀杏のなる変種(県内で最初に発見されたもの)であると。墓所は柵に囲まれ中には入れないので柵の外から写真を。歌碑か?初代忠勝の墓石をはじめとして十三代まで一族累代の墓碑58基が並んでいるのだと。二代 三代 四代 と代々の墓が順に並んでいた。 四代の先の大きな四角の墓石が五代 大岡忠相の墓。五代 大岡忠相の墓。8代将軍・徳川吉宗が進めた享保の改革を町奉行として支え、江戸の市中行政に携わったほか、評定所一座に加わり、関東地方御用掛(かんとうじかたごようがかり)や寺社奉行を務めた。越前守だったことと『大岡政談』や時代劇での名奉行としてイメージを通じて、現代では大岡越前として知られている。通称は求馬、のち市十郎、忠右衛門。諱は忠義、のち忠相。十一代、十二代、十三代の墓。本堂前から山門方面の望む。毎年4月中旬の土曜と日曜の2日間に渡り大岡忠相の遺徳を偲んで、大岡越前祭(おおおかえちぜんさい)が行われると。土曜日は大岡家累代の菩提寺であるここ浄見寺で盛大な墓前法要と地元住民による地元まつりが実施され、日曜日は茅ヶ崎駅周辺を行列がパレードをするのだと。今年は4月22日(土曜日) 、4月23日(日曜日)に行われたと。 【http://www.chigasaki-cci.or.jp/echizen/】より そして次に山門の前にある茅ヶ崎市重要文化財・「旧和田家住宅」を訪ねる。和田家は、江戸時代に萩園村の村役人を務めた家柄。この建物は、同家11代和田清右衛門によって建てられた。移築復元のための解体作業中に「安政二(1855)年三月吉日」の年号のある棟礼が発見され、建てられた年代が明確になったのだと。建物は、桁行約21m、梁行約11m、面積約224m2、7つの部屋と広い土間のある大型民家。土間の上の天井。次に再び浄月寺の境内に戻り庭園の奥に向かう。この細い階段道を上る。同じく茅ヶ崎市重要文化財・「旧三橋家住宅」。案内板。この建物は、市内香川にあった。三橋家は香川の旧家で、江戸時代には香川村の中の、旗本戸田氏の知行地の名主を務めた。この建物には、文政11(1828)年の年号のある棟札や、建築経過を記録した「大工木挽萬控帳」(文政10年)などが付属していて、建てられた年代が明らかであると。建物は、桁行約19.4m、梁行約8.2m、面積約152m2、4つの部屋と広い土間、物置のある大型民家。しかしこちらの旧宅は維持管理不足を感じたのであったが・・・・。 大岡忠相をはじめとする大岡氏の菩提寺・浄月寺そして茅ヶ崎市重要文化財の2旧宅をほぼ一人占めで散策できたのであった。残念ながら、浄月寺の御朱印はご住職ご不在とのことで頂けなかったが御朱印を頂けるのは、大岡越前祭の開催日のみなのであろうか?
2017.08.23
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一昨日は自宅から車で10分ほどの梨・ぶどう園に妻と行って来ました。もちろん目的は秋の味覚の梨・ぶどうの購入です。果樹園ときくと、駅から遠い郊外にあるイメージですが、神山果樹園(こうやまかじゅえん)は小田急線・湘南台の駅からも歩いて5分ほどの場所。美味しそうな果物や野菜の並ぶ直売所を挟むように、摘み取りのできる果樹園が広がっているのです。こちらが梨(ナシ)園。果肉が緻密で特有の香りがあり、甘くてジューシーな「幸水」が撓わに。5号台風の強風にも耐えて。早生種の中でも特に収穫時期が早く、毎年真っ先に出回る梨として知られています。そしてこちらはぶどう園の入口上部。「藤稔(ふじみのり)」はひと粒がとても大きく30~35g。果肉が軟らかくジューシーな品種。我が藤沢市生まれの品種とのこと。「竜宝(りゅうほう)」は果汁たっぷりで、甘みと酸味のバランスが良い品種。梨園とぶどう園の真ん中の道路沿いにある出店。 竜宝。藤稔。ブラックビート。このブラックビートは1990(平成2)年に熊本県宇土郡不知火町において河野隆夫氏が、「藤稔」に「ピオーネ」を交配し、生まれた実生の中から選抜・育成した品種とのこと。ブラックビートも一粒試食させて下さいました。果肉はしっかりとしていて、かじった時に果汁が口に広がる感じ。適度な甘さと酸味があり、皮は比較的薄く見た目ほど渋みも強くないので、果肉と共に食べられるのだと。自宅用に梨の幸水の大きめのものを購入。竜宝も購入帰宅して早速楽しんだのです。「秋の味覚」人気ランキング、堂々のナンバーワンは「秋刀魚(さんま)」とのことですが今年は不漁になりそうとテレビニュースで。しかしこれから、梨、ブドウ、柿、栗、ミカンそして高価な松茸と楽しみな「秋の味覚」が次々と楽しめる季節の到来なのです。
2017.08.22
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国宝・「片輪車蒔絵螺鈿手箱」は、次の平安朝の工芸を代表する蒔絵の名品。「蒔絵」は漆で描いた文様の上に金粉や銀粉などを蒔く技法で、中国伝来の技法と考えられているが専ら日本で発達したのだと。金・青金の研出蒔絵と螺鈿を用いて流水に半ば浸された無数の車輪を描き,内面には金・銀の研出蒔絵で草花や飛鳥を散らしている。いずれも料紙装飾などに使われた当時流行の文様。 牛車の車輪が、乾いて割れないように水に浸した、平安時代の日本独特の光景が描かれている。なお,この作品は今日では手箱とよばれているが,装飾経を収める経箱として造られたものである可能性が強いと。 「故事人物蒔絵螺鈿瓶子」 江戸時代初期。特別注文によって製作されたと推測される極めて高品質の輸出漆器の例。 日本の伝統的漆器には見られない器形の一対のボトルで、各々に、猩々と菊慈童、葡萄棚と虎渓三笑という水または酒に関連の深い文様のほか、さまざまな幾何学文を表す。卓越した蒔絵と螺鈿による精緻な装飾が見どころ。 付描(つけがき)という、漆筆で線を描き金粉を蒔く精細技法。 人物に着物の絵柄まで精細に描き分けられている。 ヨーロッパにはない塗料「漆」。内面から湧き上がって来る様な優美な黒い優雅な輝き。黒に蒔絵の金というヨーロッパの宮殿には相応しい素材であったと。「花卉螺鈿書箪笥」 19世紀前半。螺鈿技法に、部分的に蒔絵を併用し、ヨーロッパスタイルの大型家具を装飾したもので、19世紀前期の長崎青貝細工の典型例である。家具の規模、卓越した螺鈿技術からみて、特別の注文に応じて製作されたものと想像される。現在知られている遺品の中では最も西洋趣味のデザインを示している点が注目される。 「花鳥螺鈿バイオリン箱」 江戸時代~明治時代。江戸時代末期から明治時代初めにかけて西洋向けに輸出された漆器の一つ。総体を黒漆塗とし、貝の下に彩色を施した伏彩色螺鈿技法で花鳥文様を表す長崎製の輸出漆器(長崎青貝細工)の典型的作例。 「扇面蒔絵螺鈿洋櫃」台付(17世紀)。物を納める櫃と台からなる作品。日本から輸出されたのは上の櫃のみで下の台はヨーロッパ製であると。ヨーロッパには漆がないので、ラックカイガラムシという昆虫を利用した模造漆で光沢を出していると。模様も似ているが、日本製の部分は螺鈿を用いているがヨーロッパ製の部分は金属の箔を用いているのだと。漆製品を模造してまでも欲しかったのだと。日本が漆作品を盛んに輸出していた17世紀、ヨーロッパの窓口になった長崎の平戸。平戸オランダ商館の輸入の記録にタイやカンボジアなど東南アジアから漆を輸入した記録が残っていたと。木の種類が異なるため樹液の色も質も大違い。日本の気候風土ではなかなか固まらず使い物にならないと多くの人は考えて来た。また、漆を意味するlackは、塗料とも訳せるため、これは漆の輸入記録ではないという人もいたのだと。 2004年、その謎を解き明かす発見が京都であった。高さ60cmあまりの壺の中にも外にも大量の漆が付着したままのものが、中学校の改修工事中に発掘されたのだ。この壺の周囲からは、刷毛やヘラなど漆職人の道具も見つかり、壺の漆を使って漆器をつくっていたのだ。そしてその漆はタイ産のものであった事が分析調査より判明したと。そしてタイ産の黒い漆は日本製の30倍もの値段で取引されていたことも。日本製の漆器は16世紀以降になると世界中に拡散した。輸出用の漆器は現地の好みにあわせるため、過剰なまでの装飾が目を引きます。そして17世紀半ば、江戸幕府の鎖国政策以後も漆器の輸出は盛んに行われていたと。 「草花文蒔絵盾」 17~18世紀。このイスラム色の漂う丸い盾は、インドから輸入された革製のものに日本で蒔絵を施し再輸出した物であると。こちらはオランダからの特注品「紋章付山水人物蒔絵皿」 江戸時代。直径が50センチ以上ある円形の大皿。中央にはアムステルダムで活躍したヒンローペン家の紋章が。金・銀・青金の高蒔絵を主体に、赤・緑漆も用いた精細な作風。大小の蒔絵皿は、17世紀後半から18世紀前半にかけて大量に輸出され、類品としては、紋章以外の図柄を同じくするファルケニール家紋入皿(アムステルダム国立美術館)や、家紋入山水人物文皿(九州国立博物館)が知られると。口縁部に、富士山にいたる東海道の様子や関所を表し、その中にはオランダ人らしき人物も描かれている。 オランダ商館長が長崎から江戸まで旅した時の風景であると。同時に国内向けの漆器も技術を洗練させていった。「金地笹葉蛍螺鈿蒔絵櫛銘「横笛」」 。全体に金粉をぎっしりと蒔く蒔絵の技法。笹の葉には螺鈿が使われている。そして明治時代の作品。明治6年にウィーンで万国博覧会が開催され、このタイプの作品を展示し人気を得たと。「花鳥人物蒔絵象嵌飾棚(芝山細工)」国立歴史民俗博物館。上段は中国の人物が描かれていた。当時の技術の結晶の宝庫と言える作品。 そして下段は日本人が描かれ、極めて細緻な技の結晶。 浮き彫り状の螺鈿、象牙を至る所に配置。貝殻の上に蒔絵を。 最後に「現代の漆・これからの漆」。乾燥性を改質したハイブリッド漆、微粒子化したナノ漆など、最新技術を用いた漆の可能性に言及しています。特集展示「楽器と漆」一節切(ひとよぎり、尺八の一種)、袖笙(携帯できる小振りの笙)、七絃琴(中国製の琴)など漆を用いた楽器が紹介。中でも目を引くのが、ずらりと並んだ鼓胴。蒔絵螺鈿でさまざまなデザインが施されており、歴博の所蔵となって以来、初公開であると。そして展示会場を出て、歴博ロビーに展示されている「根来寺多宝塔模型」。「東福寺三門 模型」 ロビーにある書籍売り場。この日は至る所に「URUSHI」と。 館内エントランスホールの南側のミュージアムショップの上に、屏風様に仕立てられた巨大なガラスが。この日は、たくさんの朝顔がせいいっぱいに蔓を伸ばし、暑さを和らげてくれていた。 ズームで寄ると青い朝顔の花が所々に。「緑の巨大なカーテン」そして「巨大な緑の屏風絵画」 。12000年以上に渡る漆の歴史を学び、日本人の巧みの技に感動し、帰路についたのであった。 ・・・完・・・
2017.08.21
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漆の分野の研究はここ10年の間に大いに進展しているのだと。考古学や美術史の研究者、植物学や分析化学の自然科学系の研究者が共同で研究して新しいことがわかって来た。その成果がこの展覧会であると。そして日本の漆文化の始まりを物語る遺跡が、この福井県の鳥浜貝塚。1962年護岸工事中に川底から見つかった縄文の遺跡。土器、斧、丸木舟などが発掘され、「縄文のタイムカプセル」と。 はるか縄文の昔から、日本人は漆器を作っていたのだと。漆器に塗ったのはこの漆の木から取れる樹液。縄文の人々はこの樹液をいつから利用していたのか。 実はウルシの仲間には極めてよく似た2つの木があるのだと。ヤマウルシは日本各地に自生するが樹液はほとんど採れない。樹液がふんだんに取れるのは中国原産のウルシ。日本には中国大陸から持ち込まれたと。ウルシとヤマウルシは木材の構造が極めてよく似ていて、発掘当時、僅かな木片から判別することは不可能であった。植物学者たちが日本全国のウルシとヤマウルシを徹底的に調査した結果、発掘から20年経った2004年に鳥浜貝塚から発掘された漆はヤマウルシではなくウルシである事を同定したと。内部の道管の径の分布の違いから判明したと。さらに2012年、工藤さんたちはこのウルシと判明した木材を最新機器で年代測定に挑戦。装置が導き出した数値は1万2600年前。これは従来の説を大きく遡るもの。これまで中国で見つかった最古の漆製品は7400年前のもの。日本に漆が入ったのもそれ以降であるというのが定説であったが、今回の調査で定説より5千年以上遡る時代にすでに日本にウルシが持ち込まれていた可能性が色濃くなったと。調査結果は、1万2千年前の人々が何らかの目的でウルシの木を守り、育てていた可能性が強くなった。当時何のために育て利用していたかはわかっていないと。土器の修復や道具の接着のために樹液を用いていたのかもしれないとの指摘もあると。現在、国産ウルシのおよそ80%を生産する岩手県浄法寺町。手入れされたウルシの林から樹液を取る作業は漆掻きと呼ばれる専門の職人の手によって行われている。漆の樹液は外の堅い樹皮を削り取った後、その部分に細く傷をつけることによって染み出てくるのである。漆は樹液を採取するまでに木の成長に10~15年の歳月がかかり、「ウルシ掻き」によって一本の樹からはわずか200mlしか採取できない。 しかも採れるのは1年のみでその後、その漆の木は切り倒してしまうのだと。漆掻きは縄文時代から4000年間、殆ど同じやり方で行われていると。朱色の漆。透漆(すきうるし)に赤い顔料を混ぜてつくる赤漆。 縄文時代、漆に混ぜた赤の顔料は2種類。酸化鉄のベンガラと水銀の鉱石を製錬した水銀朱。水銀朱の方がより鮮やかな赤を表現できると縄文人も解っていたと。関東から1000kmも離れた北海道から水銀朱を運んできたのではと。司会は井浦新,高橋美鈴、国立歴史民俗博物館教授・日高薫さん。「赤漆塗刻歯式櫛」 福井県鳥浜貝塚出土。年代測定の結果、約6100年前のものと判明している。ツバキ属の木材を削りだして作られている。一枚板から9本の歯を削りだした刻歯式と呼ばれる堅櫛。頭部のU字形の大きな2本の角状突起は、再生する鹿角の生命の永遠性や不老長寿の表徴とされている。縄文時代の櫛には、霊獣と漆の呪力が込められていた。縄文の朱漆が塗られた最高傑作の一つと。日本の漆文化・漆技術に大きな転機が訪れたのが6~8世紀の飛鳥時代・奈良時代。中国大陸から新しい高度な洗練された技術が遣隋使、遣唐使等によって入って来たと。その中に漆工芸の技法も数多く。「螺鈿玉帯箱(らでんぎょくたいばこ)(模造)/現品:正倉院御物」。螺鈿とは貝殻の真珠層を切り抜き貼り付ける技法。玉帯をおさめる円形印籠蓋造りの箱。奈良時代の螺鈿は木地に嵌入したものが多いが、この箱は漆塗面に螺鈿を施した唯一の奈良時代の遺品。木製黒塗で、蓋の中央に八弁八葉の唐花が金平脱(金の花文や鳥文を描いて、はりつけたり透し彫りにした文様である裁文を貼り、漆をかけた後に漆塗膜だけを削り文様を表す手法)と螺鈿で表わされ、そのまわりに八個の花枝文が旋回状に描かれている。そして各々の花芯には彩色の花文を沈めた上に水晶玉を嵌め込んでいる。さらに側面にも花弁、雲、飛鳥などを螺鈿で表わしている。阿修羅像(あしゅらぞう)国宝 興福寺蔵。脱活乾漆造(だっかつかんしつぞう)。「脱活」とは「張子の虎」のように内部が空洞と言う意味で「乾漆」とは「漆」が乾いて堅くなったと言う意味。木製の芯木で像の骨組みを作り、その上に粘土(塑土)を盛り上げて像の概形を作る。この上に麻布を麦漆で貼り重ねて像の形を作る。麦漆とは漆に麦粉(メリケン粉のようなもの)を混ぜてペースト状にしたもので、接着力が強い。像の形が完成した後は、背面などの目立たない部分を切開して中味の塑土を掻き出し、補強と型崩れ防止のために内部に木枠を組むと。乾漆技法の最高傑作・阿修羅像。左の顔 ⇒ 右の顔 ⇒ 正面の顔 と、阿修羅の成長過程を表しているともいわている。顔は幼さが残り、子供の様に細い腕 。繊細な表現は漆を使ったからこそ可能になったものと。正面と右の顔。正面と左の顔。 ・正面の顔:仏の教えに出会った瞬間(驚きと嬉しさのまじった表情)・左側の顔:今までの自分を後悔している姿 又は 過ちを認めきれない姿 (唇をかみしめている表情)・右側の顔:人間界を哀れんでいる姿 又は 懺悔(ざんげ)をしている姿(悲しげな表情)「脱活乾漆造」は中国から伝来した技術だが中国では古代の「脱活乾漆像」は残っていないと。それだけに古都奈良の「脱活乾漆像」群は世界的な貴重な遺産。現在でも、その乾漆の技法を後世に伝えようとしている細野勝氏。阿修羅像のレプリカを作ることによってその技法を紹介。 ・・・続く・・・
2017.08.20
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佐倉市民花火大会を楽しんだ翌日は、ホテルでの朝食後、国立歴史民族博物館に向かいました。京成電鉄・ユーカリが丘駅から京成佐倉駅に電車で向かう。途中車窓からは、昨日の花火大会で歩いた遊歩道が見えた。係員の方々が遊歩道のネットフェンスの片付けを行っていた。 オランダ風車「リーフデ」の前の観覧席の椅子も殆ど片付けが既に完了。そして京成佐倉駅で下車し駅前広場のバス停へ。そしてバスにて国立歴史民族博物館(歴博)に到着。歴博は既に9:30から開館中。歴博正面。歴博を訪ねるのはこれが5回目?入口右の掲示板にはこの日の目的の企画展示『URUSHIふしぎ物語-人と漆の12000年史-』のポスターが。その横には特別企画展『伝統の朝顔』のポスターも。国立歴史民族博物館入口。日本の考古学、歴史、民俗について総合的に研究・展示する博物館。通称、歴博(れきはく)。佐倉城趾の一角にあるのです。歴博の展示は概論的なものになることを避け、各時代ごとにその時代を象徴するようないくつかの事物(弥生時代であれば「稲作」、古墳時代であれば「前方後円墳」など)を取り上げたテーマ展示が主体となっている。展示室は常設展示の第1~第6展示室と、企画展示室に分かれている。常設展示は対象を高校生以上と想定し、復元模型やレプリカを多用しているのが特色。第1展示室・・・原始・古代第2展示室・・・中世第3展示室・・・近世第4展示室・・・民族第5展示室・・・近代第6展示室・・・現代この日は、2016年5月9日(月)から2019年春(予定)まで、展示の新構築(リニューアル)工事のため総合展示第1展示室「原始・古代」を閉室していた。入口右側には、掻いたあとのウルシの木が展示されていた。その年1年で漆を採り尽くして切ってしまう採取方法を殺し掻き、数年にまたがって採るやり方を養生掻きと言うのだと。日本では今は殺し掻きが主流であると。ロビー内にはカラフルに塗られた乗用車が展示されていた。解説によると、この車の車体には、福島県ハイテクプラザ会津若松技術支援センターが開発した「含漆UV塗料」を用いており、会津漆器を代表する蒔絵の菊桐模様をモチーフに、朱磨きの技法で装飾を施してあると。この塗料には漆を配合してあり、紫外線(UV)を当てると硬化する特色を持っていると。そして「環境にやさしい」「耐候性、耐摩耗性等に優れている」「素材を選ばずに塗装できる」「塗装作業性が良い」「漆特有の美しい仕上がりが得られる」などの特徴から、今後、様々な活用が期待されているとのこと。この車を、公道で運転してみたいと思ったのであった。これぞ「Japanesse Smart」!!『URUSHIふしぎ物語-人と漆の12000年史-』が7月11日(火)~9月3日(日)で開催されていることを、事前に佐倉のFさんから教えていただいていたのです。展示室館内は撮影禁止でしたので、帰宅後のこの展示会を紹介した番組NHK『日曜美術館「漆 ジャパン 一万二千年の物語」』の放送画面を撮影しましたのでこれによって紹介させていただきます。縄文時代からの歴史を持つ、URUSHI・漆。その人と漆の12000年(!)にもおよぶ、長い文化の痕跡をたどるのです。ウルシの木ってどんな木?からはじまり、漆掻きと漆の技術の発展、暮らしに使われた様子、漆芸を通した文化交流…などなど。重要文化財、国宝もふくめ、660点もの資料が贅沢に並んでいたのですフランス王妃・マリーアントワネットを初めヨーロッパの王侯貴族が愛した日本の工芸品「漆器」。宮殿には壁一面を漆の装飾で埋め尽くした部屋まで作られたと。 ヨーロッパには漆の木は存在しなかったと。今、漆を巡って、考古学、植物学などの新発見が相次いでいると。2012年福井・鳥浜貝塚から日本にて最古の漆の木が発見され12000年前のものとわかった。また、京都の遺跡では漆器の意外な製法が明らかになったと。調査メンバーの一人工藤雄一郎さん。日本人は12,000年以上の間、漆を利用してきたのだと。17世紀の工房からは日本の漆ばかりでなく、タイ産の漆も利用していたことも解ったと。西欧の人々は陶磁器を「china」と呼ぶ一方で、この漆器を「japan」と呼んで親しんだのだと。展覧会場入口。江戸時代の印籠。漆工芸でつくられた印籠・鴨蒔絵螺鈿印籠銘「観」18世紀。真ん中の鴨は焼き物の板を貼り付けている。鴨の頭の紺色とか羽の水色等様々な色が使われている。右上の水草の葉には螺鈿が使われている。下の右には盛り上げた上に朱漆。鳥の周りに荒目の金粉が撒いて暈かすように水面や廻りの雰囲気を表現していると。 ・・・続く・・・
2017.08.19
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昨日は気温も上がらず朝から比較的涼しい朝でしたので、我が西洋ミツバチの内検を行いました。現在7群飼育中ですが最大群勢の3階建ての群の巣内の状況です。先日追加した巣礎には既に蜜蝋で巣を盛り上げていました。 こちらも若いミツバチ嬢が懸命に家造りを。 こちらは蜜を貯留中。 そして中央のオレンジ色のお腹をした女王蜂は産卵に励んでいました。 今月の天候不良ですが、ミツバチ嬢は一生懸命蜜を集め濃縮し蜜蓋を被せています。 ほぼ巣枠全体に蜜蓋が完成している巣枠も。 新鮮な巣蓋は白く。そして中に貯まった濃度の濃い蜂蜜が透かして見えるのです。後1ヶ月程度で今年2回目の採密が出来そうです。 女王蜂も夏バテせずに産卵を継続し、巣蓋が全面に覆われた巣枠も。 成虫になり巣を出て空き巣になった場所には、既に女王蜂が産卵していました。 しかし、内検中にオオスズメバチ、黄色スズメバチも飛来してきました。雨が多いので、餌が捕れないため早くも西洋ミツバチを狙いに来ているのです。5匹ほど虫取り網で捕獲し、網の上から踏み潰し殺しました。もちろんこの時は、刺されないように防護服と面布を纏って。幸い、今のところスムシの被害も少なく、アメリカ腐蛆病の被害もなさそうです。それにしてもミツバチ嬢は太陽の姿を今や遅しと待っているのです。
2017.08.18
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今年も冬野菜の種蒔きを8月8日に行いました。まずは白菜「F1蔵錦」。12月上旬から3月下旬までの、約4か月もの長期収穫が可能。霜にあたるたび甘味を増し食味抜群。芯は濃黄色で美しい と。チョット白菜の種蒔きは早すぎたかも知れませんが、種蒔きの翌日には発芽し1週間後の現在の姿です。少し過密すぎましたので、おろ抜こうと考えています。そしてキャベツ「F1パークス」。イオウ病に強く作り易い!早生で裂球の遅い優秀品種。 カリフラワー「野崎早生」。生育力が強くつくりやすい、早どりできるカリフラワー。花蕾は純白、ち密でかたくしまり、厚みのある円形、重さは600g前後になると。」 ブロッコリー「F1まんぷくブロ」。どーんと盛り上がる頂花蕾は、締まり抜群で軸が太くてボリューム抜群!!しかも緑濃く花粉がよく揃い、見た目麗しいべっぴんブロッコリー。また、多く発生する側枝も約200gとボリュームがありと。昨年栽培種は側枝が少なかったので、今年はこれにしました。 ロマネスコ「サンロマネスコ」。カリフラワーの食感とブロッコリーの食味を兼ね備えた品種。花蕾部分は茹でると甘みを増し、芯の部分まで美味しく食べられます。ビタミンCも豊富でサラダなどに最適。寒さに強く栽培しやすい品種。 アイスプラント。南アフリカ原産の多肉植物で、塩分を吸収するという特徴。ほんのりとした塩味と、プチプチ・シャキシャキとした独特の食感で、話題沸騰の新野菜Eサラダの定番のレタスと比べて、カロチン・ミネラルが豊富。 芽キャベツ。栄養豊富な芽キャベツが、軸にびっしり実る!スープに丸ごと入れたり、サラダにも。妻の大好物で、今年もリクエストにお応えして。 葉ボタン「縮緬葉牡丹 白」。正月の玄関にプランターなどで。 葉ボタン「縮緬葉牡丹 赤」。 いずれの野菜も本葉4〜5枚が出た頃にポットに移植し更に大きくしその後畑に定植する予定なのですが・・・。そして連作障害を避けるために、同じ場所での栽培間隔を2〜3年あけるように心がけていますが、去年は何を何処にが、記憶が定かではないのです。旅友のSさんからも、白菜等の苗のリクエストがありましたので、今年は少し多めに種蒔きしましたが、太陽が顔を出し順調に育って欲しいのです。 それにしても今年の8月の日照時間は平年の1/4以下と。毎日が戻り梅雨の連続。関東甲信地方は、7月19日に「梅雨明けしたとみられる」と発表がありましたが「再び梅雨入りしたとみられる」の間違いではとも(笑)?太陽が恋しい、素人養蜂家、素人農夫なのです。
2017.08.17
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先週の山の日・11日の早朝に座間市にあるひまわり畑に行って来ました。いつものように旅友のSさん宅に6:30に到着。Sさんの愛車でひまわり畑会場に。 県道42号線が相模川を渡る座架依橋(ざかえばし)の下の「水と緑と風広場」の駐車場に車を駐めひまわり畑会場に。春にはこの付近の相模川の東岸の堤防に幅6m、全長約1.4kmに渡って芝桜が植えられた“芝ざくらライン”を楽しめる場所なのです。相模川堤防からのひまわり畑。平成6年から遊休農地の荒廃対策として始められた座間市の花「ひまわり」が各会場で咲き誇り、ここ座間会場では45万本の「ひまわり」が楽しめると前日のNHKニュースで知ったのです。 1~1.5m高さのひまわりが咲き誇っていました。 1994年(平成6年)には「かながわの花の名所100選」にも選ばれているとのこと。 ひまわりの孫のような宿根草のルドベキア・タカオも畑の畦道端で負けじと開花中。花弁は大きな1つの花のように見えますが、実際は頭状花序と呼ばれ、多数の花が集まって1つの花の形を形成しているのです。これは、キク科の植物に見られる特徴。外輪に黄色い花びらをつけた花を「舌状花」、内側の花びらがない花を「筒状花」と区別して呼ぶことも。 仮設の展望台も設置されていました。 展望台からの見事な黄色の海。 ひまわり(向日葵)の名前の由来は、太陽の動きにつれてその方向を追うように花が回るといわれたことから。ただしこの動きは生長に伴うものであるため、実際に太陽を追って動くのは生長が盛んな若い時期だけであると。若いヒマワリの茎の上部の葉は太陽に正対になるように動き、朝には東を向いていたのが夕方には西を向く。日没後はまもなく起きあがり、夜明け前にはふたたび東に向く。この運動はつぼみを付ける頃まで続くが、つぼみが大きくなり花が開く頃には生長が止まるため動かなくなるのだと。 ひまわり畑の中には1m幅ほどの見学通路も設けられていた。そしてその入口には「2017 Welcom to ZAMA」 と書かれたゲートが。「ひまわりのまち 座間 55万本」 のプレート。ひまわり畑は市内各地にあり、時期を変えて種まきを行っていると。見頃は、7月下旬には栗原会場(約10万本)、8月中旬にはここ座間会場(45万本)、2ヶ所合計55万本を楽しめるのだと。小田急線「相武台前駅」より座間会場までシャトルバス運行されていると。 カメラに三脚を付け、持ち上げてリモコンシャッターで撮影してみました。 「座間市ひまわりまつり」開催期間中は栗原・座間の両会場で切り花、農産物、特産品の販売を実施していると。 しかしこの日は早朝で開店前。休憩場も準備中。 一斉に背中を向けているひまわり畑。 ムクゲ(木槿)の花も。 仮設展望台下にはひまわりをあしらった各種の帽子が記念撮影用にぶら下がっていました。 帽子を借りて。 全て我々の方を向いてくれていました。 「座間なう。」 SNSやインスタグラムを意識した看板。ウェディングドレスを着て記念撮影するカップルの姿も。モデルによる撮影? 先日の台風の影響で、一部のひまわりが被害を受けていました。 フウセンカズラ(風船葛)。小さな白い花を付けていました。 ボタンクサギ。 約30年前の功労者像、「本多菊近翁」土地改良の碑。 座架依橋(ざかえばし)の下で交通整理の係員も準備中。 座架依橋(ざかえばし)のモニュメント。「座間市座間(ざま)と厚木市依知(えち)を架(か)ける」ので座架依橋と。こちらは「座間市大凧」の光景が描かれていた。 相模川と圏央厚木IC。 駐車場前の相模川堤防から再び東に向くひまわりを撮影。 帰路の車窓から「ガマの穂」 。私たち日本人にとって「ひまわり」とは夏の風物詩として有名な花という認識がありますが、実をいうとひまわりは日本には元々存在しない花なのです。また、ひまわりという花は一見すると大きな一輪の花に見えますが、実は形状や機能が異なる「2種類」の花(外側の舌状花(ぜつじょうか)一枚一枚と中心部分のひとつひとつの筒状花(とうじょうか))がたくさん集まって大きなひとつの花を形成しているのです。ひまわりの色は鮮やかな黄色というイメージが強いですが、最近では黄色以外にもレモン色やオレンジ色など多種多様なカラーのひまわりも花屋などで販売されるようになって来ているのです。さて、ここのひまわりはひまわりまつり終了後はどの様になるのでしょうか?「ひまわり油」を採取するのでしょうか?気になりながら自宅への帰路を。
2017.08.16
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今年も、長女の嫁ぎ先のご両親から、佐倉市民花火大会へのご招待をいただきました。13時前に自宅を出発し、戸塚駅から横須賀線で船橋へ。途中、左手に東京スカイツリーが車窓から。 京成電鉄のユーカリが丘駅近くにの宿泊ホテルで長女夫婦家族4人、長男夫婦家族3人と合流し合計9人で待ち合わせ場所の京成臼井駅へ17時に。そして、定刻前に合流し、ご準備いただいた冷たいアルコール、飲料、食料類をそれぞれキャリーカートに乗せ30分ほど歩き会場へ到着。花火会場は印旛沼湖畔の佐倉ふるさと広場周辺。花火会場までの道は毎年歩行者専用道路が次々と整備され、歩きやすくなっていました。この花火大会は関東では珍しい上空500mで直径約500mの大輪が咲く2尺玉4発や、音楽に連動して10分間6000連発の「ビッグプレミアムスターマイン」、そして、全国花火競技大会で通算16回の内閣総理大臣賞受賞・野村花火工業の尺玉30連発や関東では珍しい手筒花火など見どころ満載なのです。駅に貼ってあった今年の「佐倉花火フェスタ2017」 のポスター。この日のスケジュールは開会式 19:00~手筒花火 19:05~打ち上げ時間 19:20~20:30 とのこと。オランダ風車「リーフデ」は回転を止めていましたが、花火の開催を今や遅しと。佐倉のご両親が定員5名の有料枡席の観覧席を人数分事前に予約購入しておいて下さいました。 豪華なお弁当も準備して下さいました。 そして焼き鳥を楽しみながらビール片手に花火大会の開催を待ったのです。 雷雨も心配しましたが、会場に向かう途中ポツポツと一時雨が落ちて来ましたが何とか夕焼けが見えて来たのです。 今年で57回目を迎える佐倉市民花火大会は実は歴史の古い花火大会。 始まりは1956年、昭和31年で佐倉駅周辺で30発の花火を打ち上げた、可愛らしい規模の花火大会であったと。しかしその後、一時花火大会の開催が中止。その後、2007年平成19年に花火大会は復活を遂げ、 今では約1万発以上が打ち上がり15万人もの人が訪れる人気のイベントとなったとのこと。地元のケーブルテレビでも生中継されると。 そして19時を過ぎ、いよいよ天筒花火のOPEN。手筒花火は、人が小脇に抱えたまま燃焼させる手持ち花火で、全身に火の粉を浴びながらの演舞は真に圧巻。竹筒に火薬を詰めて荒縄を巻いた手筒から、豪快な火柱が十数メートルも上がるのです。佐倉市では、この手筒花火の火を印旛沼に古くから伝わる「龍神伝説」にたとえ、『竜火』と名づけていると。関東では珍しい、迫力ある手筒花火を間近で見られるのであった。私も席を離れ、天筒花火の近くに。「花火モード」で撮影しましたが・・・・。M(マニュアル)モードで絞りF7.1、シャッタースピード1/8秒を設定してTRY。旨く撮れました。 火の粉を豪雨の如く浴びる花火師の青年。 6人での天筒花火。 火柱は5メートル以上に(いつの間にか花火モードに)。そしてこの後、1時間以上の途切れのない打ち上げ花火が続いたのです。 3脚にカメラを載せ固定し、花火を肉眼で楽しみながらリモートでシャッターをひたすら押したのでした。 10分間6000連発の「ビッグプレミアムスターマイン」。 オランダ風車「リーフデ」の後方から。 そして風車後方上空から。 大会の目玉である二尺玉を今年も合計4発打ち上げ。上空500メートルで開花した直径約500メートルの大輪が真夏の夜空に。二尺玉花火が打ち上げられる花火大会は関東では数少なく、印旛沼湖畔から打ち上がるダイナミックな花火は圧巻なのでした。 そして20時過ぎにこの日の花火大会は終了。オランダ風車「リーフデ」も花火を堪能した模様でその余韻を楽しんでいるが如し。日本の夏の文化そして桜と同じく儚く、一瞬で消えてしまう美学を楽しんだのです。心配した孫の花火の音に驚き泣く姿もなく、彼らも花火を楽しんだのです。毎回思いますが、日本の花火は「職人芸」であり「技術」。そしてこの日まで花火造りに努力した「花火師」の姿を思い浮かべながらホテルへの帰路に往路と同じ道をゆっくりと。 Fさん、今年も我が家の家族全員9人でお邪魔し、巨大花火を楽しませて頂きました。本当に毎年毎年ご準備いただきありがとうございます。今年同様に、「大切な人」と迎えたい年中行事のこの花火大会を更に新たなメンバーを交えて来年はと!!。
2017.08.15
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三峯神社から278号線の坂を下っていくと、再び二瀬ダムが姿を現した。二瀬ダムは、秩父市の大滝地域(旧・大滝村)にある。ダム湖は「秩父湖」と呼ばれています。荒川本流をせき止めたダムで、奥秩父の深い谷にそびえている。1961年(昭和36年)に完成した高さが95.0m、長さが288.5mのダム。重力式アーチダムという形式で、堰堤がカーブした形に。 堰堤は交互通行でこの場所で信号待ち。二瀬ダムの堰堤上を走る。 秩父湖の水位は驚くほど低かったのであった。 そして遠くに吊り橋が。秩父湖に架かる吊り橋をズームで。吊り橋の長さは200.1m。200m以上の人道吊り橋としては全国でもかなり上位に入ると。 二瀬ダムを40号線上から。 降雨量不足による低水位と思っていたが、これもあるが『冷水放流、濁水の長期化現象を解消するための水環境保全対策として、選択取水設備 を発電用取水管に設置する工事』の準備の為に、水位を低くしている模様。そして143号線の旧道に入り、栃本関所(とちもとせきしょ)跡に到着。 栃本関所は、武蔵国と甲斐国の間の雁坂峠を越して通じる秩父往還(別称、甲州裏街道)にあった関所のひとつ。ウィキペディアによると『栃本関所は、江戸時代成立以前は軍事的な警備を目的としたが、江戸時代には、「入鉄炮出女」の監視の役割を果たした。また、栃本の奧にあった真の沢・股の沢・小荒川の金山の監視が重要な役割であった。寛永8年(1631年)栃本関所の警備強化のため、武州麻生村と甲州河本村に加番所が設置され、麻生加番所、川浦加番所とされた。関守は、栃本・上中尾・下納・大久保の四組が栃本関所・麻生加番所の警備を勤めた』 と。栃本関所は、「新編武蔵風土記稿」によると、秩父甲州往還に関門が置かれた。門の北側に名主宅をかねた番所があった。関所(大村家宅)は書類の消失により設置時期の関所の規模・構造は不明、関所は江戸時代中に数回の火災で焼失し、建て直された。当初は現存の大村家旧宅より大きかった。 現存の大村家旧宅敷地への入場は禁止されていた。 栃本関所より下方の急斜面を見る。 急斜面に民家が貼り付き段々畑が拡がっていた。 バス停『栃本関所跡』。 時刻表。上り、下りそれぞれ一日4便。 旧道から140号線本線に合流し雁坂トンネル方面に向かう。ここを右に曲がり上った場所にあるのが「出会いの丘」。新たに開通した雁坂トンネルを通じ埼玉・山梨両県が「出合う」場として、彩甲斐街道開通に合わせてオープンした施設。”さいかいかいどう”と呼び、”再会”をかけているとも。赤い鋼逆ローゼ橋。橋長:220.00m、幅員:9.25m 橋の名は「豆焼橋」 。奥秩父の名渓 豆焼沢 に架かる橋。奥秩父トンネル入口 雁坂トンネルを通過。埼玉県秩父地方と山梨県甲府市を繋ぐ雁坂トンネルの長さは約6.6 km(有料道路区間は延長 6,845m)あり、一般国道では最長である東京湾アクアトンネル(国道409号)に次ぐ2番目の長さを有すると 。雁坂トンネルが開通するまでは、国道140号は埼玉県秩父市から山梨県山梨市間は、自動車での通行はできず、国道140号に指定された登山道で、雁坂峠を通行しなければならなかったため、トンネル開通まで「開かずの国道」と呼ばれていたのだと。雁坂トンネル山梨県側出入口にある料金所。 西沢大橋(ループ橋)を通過。秩父多摩国立公園の雄大な西沢渓谷に架かるループ橋。西沢渓谷の入口にある道の駅 みとみ に立ち寄る。 ここで今回も地元直産の桃を購入。ぶどうは未だ販売されていなかった。すずめばちの巣 と いのぶた が展示されていた。ブタにイノシシを交配して作出し、食肉用の家畜としていのぶたを飼育したのは1970年と。東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)後、福島第一原子力発電所事故の影響による避難区域では、家畜となっていたブタと野生や家畜だったイノシシとが交配して生まれたイノブタが急増しており、農地や家屋を荒廃させる恐れが心配されている。2014年1月には、福島第一原発周辺でイノブタの繁殖がさらに進んでおり、将来の帰宅の障害にもなっているという。 すずめばちの巣と共に展示されていると言う事は、この地域でも多くの被害が発生しているのであろう。勝沼ICへの道 「フルーツライン」から、甲府盆地を一望。 勝沼ICから中央高速に乗るが、大月の先で渋滞発生しているとのことで、大月ICから河口湖方面へ進路変更。前方に都留市にある山梨県立リニア見学センター が見えた。山梨リニア実験線での走行試験の様子を見学したり、超電導リニアやリニア中央新幹線の概要を模型や各種の展示物等によって紹介し、次世代の高速鉄道と言われる超電導リニアについて理解を深めてもらう目的の施設。 山梨リニア実験線の下を通過。 品川~名古屋が2025年頃名古屋~新大阪間が2045年頃に開通予定のようであるが生きている間に国内でリニアモーターカーに乗れるチャンスが来るのであろうか。中国・上海の「マグレブ」で3回ほど時速431km/hを体験済みではあるが。富士急ハイランドのジェットコースターが左手に。 富士吉田インターチェンジ料金所を通過。 東富士五湖道路を経て御殿場ICから東名高速に入る。 東名足柄橋を通過。海老名JCTから厚木・平塚方面に。 通過は20:30過ぎ。 そして茅ヶ崎のSさん宅に到着し、自分の車で帰宅したのであった。 学生時代以来45年?ぶりの秩父の旅であった。かなりの強行軍(いつものことですが)でしたが、秩父の観光名所はかなり制覇しました。秩父札所三十四ヶ所観音霊場巡りの完遂は次の宿題?としましょう。早朝から終始運転してくれたSさん、お疲れ様でした。ありがとうございました。さて、盆明けの次のブログ取材の旅は何処に? ・・・・・・秩父へのドライブ 完・・・・・・・
2017.08.14
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140号線を進むと左手に三峯神社の表参道の入り口である一の鳥居が見えて来た。この白い鳥居から三峯神社への参道が始まるのです。 秩父市三峰にある三峯神社は奥秩父三峰山山頂、標高1102mに鎮座。この鳥居にかかる扁額は「三峰神社」と。埼玉県道278号である二瀬ダムの天端上を通過し三峯神社へ向かう。ダムによって出来た人造湖は秩父湖と呼ばれ、秩父多摩甲斐国立公園に指定されている観光地であり秩父市(旧秩父郡大滝村 (埼玉県))に位置。 山道をひたすら上り、有料駐車場に車を駐めた。昔、学生時代にこの三峯神社を訪ねた時は、ロープウェイに乗った記憶があるが2006年に老朽化などのため休止し、翌2007年正式に廃止となっているとのこと。 散策を開始すると、正面に三峯神社の三ツ鳥居。 三ツ鳥居(みつとりい)は、鳥居の様式の1つである。三輪鳥居(みわとりい)ともいう。1つの明神鳥居の両脇に、小規模な2つの鳥居を組み合わせたもので鳥居の柱は4本。 日本に約8万5千の神社がある中で、全国でわずか7つしかないという珍しい鳥居とのこと。そして一般的には、神社の参道や社殿の前に『魔除けのため』に配置される狛犬だが、ここ三峯神社の「お犬様」は犬ではなく、なんと「狼」。参道には苗木奉納などの多くの石碑が並んでいた。一番手前の石碑には『檜苗木参萬木』と刻まれていた。 本殿より手前にある、「奥宮遥拝殿(おくみや ようはいでん)」への階段を上る。 神社内で下界が一望できる唯一の場所とのこと。 こから妙法ケ岳山頂(標高1,329m)の奥宮を遥拝出来る場所であると。妙法ヶ岳は、ここから徒歩で約1時間強かかると。 そして、遥か下に表参道登山口の「大輪」付近、そしてその向こうに秩父市の中心市街地方面が見渡せるとのことだが、しかしこの日は一面白の世界のみ。 山中要作先生顕彰碑。 元埼玉県副知事。テレビ埼玉の代表取締役でもあったらしい。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)銅像入口。 神社の創始者とされる日本武尊は、東征の途中、甲斐の国酒折宮より雁坂峠を越えて三峰山に登り、遥かに国中の地理を見渡し、神威の擁護を願い、仮宮を造営してイザナギノミコト、イザナミノミコトを祀ったことに始まると。 霧の中に立つこの銅像は本体5.2m、地上15mの巨大なもの。また周囲には野口雨情、斉藤茂吉らの歌碑等も。 それにしても、掌が巨大過ぎたのです。三峯神社隋神門。元禄4年(1691年)建立。現在の隋神門は、寛政4年(1792年)に再建された物。 濃い紅の柱と鮮やかな装飾が印象的。随身門は、かつての仁王門。左右に武者像が。つまり仁王像は、仏教アイテムであるため、廃仏毀釈により置くことが許されなく、仁王像の代わりに武者像が置かれたのだと。むかって右手の随身は口をあけていた。寺の仁王像と同じで「阿像」・右大臣。神を警護する役の弓矢を携えた随身武者がお出迎え。 こちらは口を噤んだ「吽像」・左大臣。随身門をくぐり、更に進むと霧も広がり不思議と神聖な空気に変わったような気がしてパワーを感じたのであった。 随身門をくぐり抜けて200mほど行った先に、いよいよ拝殿・本殿へと続く石段が現れた。中央に青銅の鳥居。右に八棟灯籠。左に手水舎。 手水舎。この建物は間口3m・奥行2m60余、嘉永6年(1853)の建立。精巧な龍の彫刻が見事の一言。青銅鳥居を挟んで、手水舍の向かいに建つ八棟灯籠にも、手水舍同様の精緻な彫刻が施されていた。いずれも高い芸術性を感じさせる見事な作品。 この八棟灯籠は灯籠では珍しい木製であると。巨大な木造の八棟灯籠は朱塗りも鮮やかで、中国の故事に材を取るらしき彫刻でぐるりを飾られていた。 三峯神社拝殿。寛政12年(1800年)建立。1962年(昭和37年)改修。極彩色の彫刻で彩られていて、華やか。2004年(平成16年)に漆塗り・彩色復元工事が完成。 扁額は有栖川宮一品親王殿下の御染筆。 御神木 樹齢800年程とも言われ、左右両方とも実際に触れる事ができたのであった。拝殿は精巧な彫刻で煌びやかに彩色されていた。 左手には色彩豊かな龍の姿が。正面には七福神が。下段左には「布袋様」と「大黒様」の囲碁対決。右には習字を教える?「寿老人」。弁財天と吉祥天が双六(すごろく)?で遊んでいるところを、毘沙門天がのぞきこんでいる。右手には日の丸の扇子を持つ「恵比寿様」と大きな鯛に喜ぶ人物たちが彫られていた。 脇障子には「竹林の七賢人」?の姿が。拝殿横の石畳みに赤い眼の龍神さまが2012年の辰年に突如姿を現したのだと。 なるほど、日本昔話にでてくるような雰囲気の龍の頭の部分に見えますが。 社務所。 御朱印を頂きました。 拝殿を横から。小教院。現在の建物は、元文4年(1739)に再建されたものだが、平成3年に改修工事を行い喫茶店感覚で気軽に楽しんでいただけるスペースが設けられていると。 興雲閣では宿泊・日帰り温泉入浴も可能と。ここ大滝村では、平成4年に温泉の掘削に成功。参拝客にも温泉でゆっくりと寛いでいただこうと、大浴場に温泉を引き、入浴できるようにしたと。再び三峯神社、拝殿を見上げパワーを頂く。 そして下山途中の土産物屋で蜂蜜を発見。この時期に結晶化しているものもあり、こちらは昨年に採蜜したものか?
2017.08.13
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秩父市野坂にある札所12番の仏道山(ぶつどうざん)・野坂寺(のさかじ)を訪ねる。寺の入口には、大きな石標があり「臨済禅宗 南禅寺派 佛道山野坂寺」と。 参道の入り口で赤い帽子、涎掛けの地蔵様が迎えてくれた。 昔、甲斐の国の絹商人がここを通りかかったとき、山賊に襲われもはや叶わぬ命と一心に南無観世音を唱え続けた。すると肌のお守りが光明雷のごとく輝き、賊どもは眼を射られて逃げ去った。観音の功徳に感泣、後にこの地に堂宇を建て、観世音を勧請してまつったのが秩父札所12番寺の草創だと。 ご本尊は聖観世音菩薩立像で杉の一木造り、像高156糎の等身大で藤原時代の造りと。 階段の先に重厚感のある楼門が見えて来た。千社札に囲まれた「野坂禅寺」という扁額が掲げられていた。野坂寺のこの山門は、享保年間(1716~36)に建築した二層入母屋造り。明治末期の火災で寺は焼失してしまったが、幸いに山門だけは残ったと。入母屋二重垂木の八脚門で、左右に火灯窓(花頭窓)を配し、自然木の丸太を柱として上層・橡・勾欄をまわした簡潔で重厚なところは禅寺に似つかわしい風格。 桜門の花頭窓の中には閻魔大王や五官王、宋帝王、太山王、五道天輪王、変成王などの十王像が左右に安置されていた。中央に閻魔大王。中央に五動天輪王。楼門下の真正面の三面観音像・「あずかり観音」が迎えてくれた。普通であれば本堂の中や手水場の先に設置されているものだが、境内に入る前にまずは心を落ち着かせて欲しいという住職の意向で入口に安置したのだと。三面観音像のお顔を横から。 右側は怒り、中央は病気、左側は煩いを預かってくれると。 大きな牛がこちらを睨んでいたのです。「十牛観音」と言い、大きな牛の上に観音様が乗っているという不思議な構図の像。 「十牛観音」の祈る姿。 桜門1階の左側には、やはり木彫りの風神や雷神像などがガラスの奥に並んでいた。 風神、雷神、中央に山の神。 あずかり観音の裏側にも観音様が。 手水舎。観音様の右手からきれいな清水が垂れていた。これは、心身を浄める観音様の水。この裏山に湧く水をひいたものとのこと、年間涸れることがないと。野坂寺・本堂桜門を入ると、正面に昭和48年(1973)に再建された本堂が堂々たる姿を見せてくれた。毎年8月16日の夜に行われる盆送りは、境内に灯篭供養塔が組み立てられ、1200個の灯篭が高さ16mに積み上げられると。これに灯りがともり精霊送りが夜半まで続けられ、夏の夜の風物詩となっているのだと。内陣にまつられている御本尊は、藤原時代の作と伝わる高さ156cm、一木造りの聖観世音菩薩立像。 正面唐破風の下にある、精巧で大きな一木彫りの3頭の巻き龍の彫刻に目を奪われたのであった。 野坂寺の本堂の縁起図。「仏道山野坂寺 此の地にて甲斐の商人山賊に襲れた。守袋の観音像から光が 出て山賊の目を射た。以来山賊たちは仏道に精進する様になったと云ふ。」 と書かれていた。社務所で御朱印を頂きました。『仏道山 (梵字サ)白華殿 野坂寺』 と書かれていた。(梵字サ)は観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)そして「白華」も観世音菩薩の別名とのこと。寺に「蓮」は似合うのであった。白ではなく、クリーム色。約130個の鉢に50種類ほどの色とりどりの花蓮が植えられており、この時期は札所巡礼者の目を楽しませてくれるのだと。 今年は何度蓮の花を楽しんだのであろうか。 本堂前の参道の両側に赤い帽子、涎掛けの童顔の六地蔵が。この日は境内の植栽の手入れが行われていた。そしてお地蔵様の礎石には刻み文字が動ー直心 人の為に動く無畏の心友ー思心 思いやりの心、人と共に生きる心優ー温心 穏やかな心、灯のある心憨ー無心 無策の心子供のいたずら心の如し願ー祈心 喜んで人の為に祈る心空ー佛心 虚空の如く広く深く明るい心 こちらのお地蔵様には奥から「空」「憨」「友」と書かれていた。お地蔵様と蓮の花はよく似合うのであった。この像の下部には「願」 と刻まれていた。そして「睡蓮」の花も本堂脇に。 これぞ純白。 弁財天を祀るお堂(右)、五重の石塔(左)もあった。本堂横の山の斜面には大きな墓地が。そして南無不動明王 のぼり旗も。かわいい「おそうじ小僧」が箒を持っていた。 おそうじ小僧 歌碑。 そして 私は「ハーイサッサ ハイサッサ ハーイサッサ ハイサッサ ぼくは ぼくは 爺守(じじもり) 爺(じじい) 春 夏 秋 冬 朝晩 お寺の 御朱印 頂きに」
2017.08.12
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秩父神社の横にある「秩父まつり会館」 を訪ねる。秩父まつり会館は、毎年12月3日に行われる日本三大曳祭りの一つ『秩父夜祭』を資料や実演で紹介している展示館。館内に入ると1階の吹き抜け空間で、豪壮な秩父屋台ばやしの音が響くなか、提灯の明りが煌く笠鉾(かさほこ)と屋台を見る事が出来た。祭りの主役、笠鉾・屋台の常設展示コーナーには屋台・笠鉾(かさほこ)が各一台づつ展示。笠鉾。屋台。最初に係員に案内され3Dシアター「秩父まつり廻廊」を見る。3D用のメガネを渡され、席に着く。秩父夜祭りのハイライトが大画面いっぱいに写し出されて、屋台ばやしの実演は本番さながらの迫力で、観る人を、夜祭の世界に引き込んで行ったのです。再び笠鉾・屋台の常設展示コーナーに戻ると、プロジェクションマッピングが開始された。会館のメインとなるアトラクションのひとつ。秩父夜祭における屋台の曳行や街中の雰囲気を音と映像によりバーチャル体験できたのであった。夜バージョンでは武甲山や秩父の山々のシルエットも。花火も。 音も大音量で流れて、あの熱狂に包まれる秩父夜まつりを臨場感あふれる表現で、体感することができたのです。 そして階段を上がり2F展示コーナーへ。途中、秩父夜祭のポスターが。 2Fバルコニーからも国の重要文化財である笠鉾・屋台の常設展示コーナーを目の前でじっくり見ることができたのです。プロジェクションマッピングはこの2Fのバルコニーからもお勧め。笠鉾の先端には『秩父神社』の文字の万燈、波形せき台と真っ赤な太陽を表す天道が。白の造り花が3段に放射状に吊り下げられていた。 そしてこちらは屋台。 唐破風造りの見事な屋根。秩父の屋台の中では最大級で、屋根に乗る日本神話を題材とした巨大な彫刻と升組みを用いた腰組が特徴。 囃子手の姿も。 秩父まつり会館の2階に資料展示コーナーが。 秩父夜祭りを描いた絵画。 秩父神社の神楽、猿田彦大神の紹介コーナー。 宮地屋台芝居(歌舞伎)の上演風景の写真パネルや屋台芝居衣装を展示。 各種の大きさの花火と花火の模型 (8寸玉の断面も)。 秩父夜祭のメインイベント、団子坂(だんござか)の山車引き上げ場面。斜度25度の急坂を曳き上げるために、曳き子たちが力を振り絞ると。この間、花火の打ち上げが行われる と。笠鉾、屋台の紹介コーナー。 2F階段上から1Fの小舞台を見る。この舞台で秩父市出身の落語家・林家たい平の落語も?そして次に「ちちぶ銘仙館」 を訪ねる。ちちぶ銘仙館は秩父織物、銘仙等に関する民俗学上貴重な資料を収集、保管及び展示し、これらの資料を永く後世に伝え、あわせて伝統的技術を継承することを目的として設置されている施設。 本館やノコギリ屋根の工場棟などは、昭和5年建造の旧埼玉県秩父工業試験場を利用し、平成13年10月、国の登録有形文化財に登録されている昭和初期の特徴的な面影が漂う建物。 建物の布基礎は大谷石で美しい模様。建築家フランク・ロイド・ライトの影響を受けて、当時の先端をいっている建物だったとのこと。秩父の織元の製品を購入できる展示直売所。ノコギリ屋根の工場棟。 整経場。三角屋根の工場内には今も現役のイタリー式撚糸機や整経機が並んでいた。整経は必要な本数の経糸(たていと)を、長さを揃えて織り機に巻き付ける工程。織り上がる柄や意匠に応じて、経糸に色の違う複数の糸を使う場合は、デザインどおりに経糸を配列すると。 織体験室。高機(たかはた)を使って本格的な手織り体験ができるのだと。機織り途中の作品。 繭玉の保管所。 染色道具のひとつである「型紙」。和紙を柿渋で加工した型地紙に、 彫刻刀で繊細な紋様や図柄を彫り抜いたもの。秩父夜祭りを描いた「型紙」であろうか。 染場・染体験室。埼玉県内で盛んな藍染は「武州正藍染」と呼ばれ、江戸時代後半にまで起源を遡ることができると。藍の葉から自然発酵させた染料により染めるのが特徴。
2017.08.11
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秩父神社の駐車場に車を駐めるため、秩父鉄道の踏切を渡ると、秩父駅にSLが停車していることを発見。駐車場に車を駐め、徒歩にて再び踏切に急ぐ。 秩父鉄道保有のSLはC58 363号機。1944年(昭和19年)2月19日に川崎車輛(現・川崎重工業車両カンパニー)で製造。東北で長年の運行の後、1972年(昭和47年)10月2日に累計走行キロ数1,054千kmで廃車。廃車から15年後、国鉄分割民営化直前の1987年(昭和62年)3月に、翌年に開催された'88さいたま博覧会の目玉として復活することが決定し、車籍をJR東日本にて復活。1988年3月15日から秩父本線熊谷 - 三峰口間で「パレオエクスプレス」として運転を開始したのだと。 この日8月4日には秩父駅に止まっていたSLには「SLポテくまくんエクスプレス 」のプレートが蒸気機関車の煙室扉の下に。「ポテくまくん」は秩父市のイメージキャラクターであると。そして秩父駅を三峰口に向かって出発。 ガリガリ君のイラストプレートも横に貼られていた。 運転席の後ろの炭水車には石炭が満載状態。 チョコレート色の客車が4両牽引されていた。 そして秩父神社に向かう途中、秩父市秩父まつり会館の壁には秩父祭りの屋台の姿が描かれていた。 観光案内板。 秩父駅の周囲にも多くの秩父三十四ヶ所観音霊場の寺があることが解った。秩父神社に到着。秩父神社は国道299号線に面していた。神社前が変形の交差点になっており、参道である番場通りが南の秩父線御花畑駅方面へ延びていた。大鳥居。 鳥居をくぐると下境内となり、すぐ左手が手水舎。 見事な流水と亀の彫刻が随所に。神馬舎(秩父夜祭の時には御神馬が見られると)。 下境内は、夜祭の際には山車(屋台・笠鉾)が入り飾り置きなどが行われると。左側には神楽殿や本町屋台庫も。下境内から神楽殿を見る。 平成殿・社務所。 秩父神社は秩父地方の総鎮守で、秩父市の中心市街地にありました。遠い昔の「知知夫国」(ちちぶのくに)の時代に創建され、2100年の歴史を持つと。戦国時代に社殿が焼失したが、徳川家康公の寄進により再建されたと。下境内の参道を神門に向かって進む。 正面に数段の石段があり、その上に朱に黒瓦、金の装飾を付けた神門が。 拝殿前。 左側に御神降石。 柞稲荷神社(ははそいなりじんじゃ)。祭神は、◆倉稲魂神(うかのみたまのかみ)。立て札には、商売繁盛の神様とありました。名前の「うか」には、穀物・食物の意味があり、穀物の神様でもあると。また、京都の伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)としても広く信仰されている神様。 諏訪神社。諏訪大社では、上社の主祭神に建御名方神(たけみなかたのかみ)が、下社の主祭神には、妃神の八坂刀売神(やさかとめのかみ)が祀られている。そして、こちらの諏訪神社のご祭神も、◆建御名方神(たけみなかたのかみ)◆妃神の八坂刀売神(やさかとめのかみ)。 日御碕宮(ひのみさきぐう)。御祭神は◆須差之男命(すさのおのみこと) 。境内の銀杏の古木の乳根(ちちね)。 拝殿。 社殿は徳川家康による造営で、本殿・幣殿・拝殿が1つにまとめられた権現造の形式。ご祭神は四柱の神々。◆八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)~政治・学問・工業・開運の祖神~◆知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)~秩父地方開拓の祖神~◆天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)~北辰(北極星)妙見ととして鎌倉時代に合祀~◆秩父宮雍仁親王(ちちぶのみややすひとしんのう)~昭和天皇の弟宮様、昭和28年に合祀~拝殿の屋根の下(向背蟇股及び目貫)を見ると多彩な色合いが施された豪華絢爛な彫刻が見られた。大黒様と恵比須様の七福神の姿が。これらの彫刻は江戸時代初期の伝説的彫刻職人・左甚五郎の作品と言われていると。拝殿正面、南側の「子宝・子育ての虎」。現在の社殿は江戸時代の戦乱で武田信玄に焼かれた後、天正20(1592)年に徳川家康によって再建されたもの。寅年・寅の日・寅の刻生まれである家康の威厳を今に伝えると。 彫刻「北辰の梟(ふくろう)」このふくろう、体は本殿(南)を向いているのに、顔だけ180度逆の方向(北)を向いて、祭神である妙見菩薩を守っている。妙見菩薩は北辰菩薩とも呼ばれ、北辰すなわち北極星を神格化したものといわれている。ふくろうは古くから知恵のシンボル。秩父神社は学問の神様をまつっていることもあり、進学達成を願う人が多く訪れるのだと。彫刻「お元気三猿」本殿西側には「お元気三猿」の姿。同じ徳川家康ゆかりの神社だが日光東照宮の三猿「見ざる言わざる聞かざる」とはなぜか真逆で「よく見てよく聞きよく話す」を体現していると。彫刻「つなぎの龍」本殿東側には「つなぎの龍」と呼ばれる青い龍の彫刻。東の方角を司る四神の一つ。よく見ると鎖を巻かれた「つなぎの龍」。夜な夜な近くの池に現われたために鎖で繋ぎ留められたという伝説があると。御朱印を頂きました。
2017.08.10
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次に秩父市山田にある秩父四番札所・高谷山(こうこくさん)金昌寺(きんしょうじ)に向かう。途中車の前方に武甲山(ぶこうざん・ぶこうさん)の姿が現れる。明治時代よりセメントの原料として採掘が進められ。1940年(昭和15年)に秩父石灰工業が操業を開始して以降、山姿が変貌するほど大規模な採掘が進められ、とくに北斜面で山体の崩壊が著しいのである。山頂は雲に隠れていた。そして金昌寺に到着。正面の仁王門は秩父札所でも数少ない八脚門朱塗の桜門作り、江戸中期の建築で、草葺入母屋作りの屋根が大きく周囲を圧しており、二階正面には「高谷山」の額をかかげ、左右の金剛力士は身の丈七尺。楼上には西国三十三番の本尊など多数の石仏を安置。 仁王門手前の六地蔵。 開運稲荷大神。伏見稲荷の分祀と言われ、室町時代から五穀豊穣、商売繁盛、家内安全などを祈念して祀られていると。秩父札所の中で屈指の仁王門には2mほどの大草鞋がかけられていた。 木造りでは札所一番の大きさを誇る身の丈7尺(212cm)の仁王像(阿像) 吽像。 一歩足を境内に踏み入れるや、石仏の洪水攻めで、参道は言うに及ばず観音堂下の路傍、奥の院の崖下など現存1319体の石仏はただ壮観の一語に尽きるのであった。 十一面観音像の御堂の手前の右側の細長い祠に石仏が並んでいた。 一番奥の三体の仏様。 本堂への石段の右に建つ建物。 円窓の先には観音様のお顔が。 御堂の中の十一面観音像。 十一面観音像手前左には酒樽の羅漢が。この人物像は酒樽の上に座っていたのです。しかし徳利を持ち、頭上に大きな盃をかざした人で、地蔵さんではないのだと。実はこの地方の名主がモデルと。この名主が代官所で酒の失敗をし、以来禁酒の願をかけ、観音様の功徳によって、ついにその目的を果たし、盃を頭上にかざした姿は、酒断ち祈願の石仏であると。杯を頭から被って「もう飲みません。」という意味らしい。酒は、飲みすぎると失敗が多いと言う事を後世に戒めた像なのだと。私も他人事ではないと反省しきり!!??人物が腰かけている酒樽は、実は、中が空洞になっており、樽の下の部分には、穴があいてるのだと。もしかしたら、その昔は、この酒樽の部分に水を流して、樽の下にある穴から水を流していたのかも知れないのだと。境内の山の法面には、地蔵、阿弥陀、羅漢、観音、不動、十三仏等々数え切れない数の石仏が。 本堂手前の参道にも両側に石仏がずらっと。向こうに見えるのが本堂。 金昌寺の縁起図が本堂横の壁に。『荒木丹下 悪人荒木丹下を観世音菩薩が娘巡礼に身を変えて改心させ大善人とならしめた上思議な霊験なり』 と。『昔、この地に荒木丹下という男が住んでいた。ある時、一人の巡礼が食物を乞うのに立腹して、神国の米を仏に供えるいわれがあるものかと、巡礼に対して乱暴した。ところが、巡礼は少しもひるまず、仏の慈悲について語り、前非を悔いた丹下は篤く観音に帰依するようになった。そして、行基の作とされる高篠の観音を当地に移して、観音堂を建立した』と。 本堂へ右折するところに有る亀之子地蔵尊。古くは、十一面観音像の脇に池があり、池のほとりに安置されていて、亀の口から噴水が池に注ぎ、当時としては、珍しい石仏であったと。大正十年の現在の所に安置されたと。 本堂。正式な名は高谷山 金昌寺(こうこくさん きんしょうじ)。 「施無畏」と書かれた扁額が掲げられていた。施無畏者とは、無畏を施す者という意味で、一切の畏れを無くしてくれる,つまり、私たちの不安や心配ごと、恐怖心というものを取り除いていくれる者とのこと。本堂の回廊右手に、有名な子育て観音像がやさしいまなざしを投げかけていた。 子育て観音像、別名マリア観音と。膝に抱く赤子に豊かな乳房を含ませようとする姿の母親。満足そうな笑みとやさしいまなざしは、見る者の心を和ませるのであった。「秩父札所連合会」公式サイトによると、実は「寄進者の吉野屋半左衛門が、金昌寺のご本尊の霊験で子どもを授かったものの、その後子供と妻を相次いでで失った為、生前の母子の姿を形にして建立・供養した観音像」だと。慈愛に満ちた恍惚の顔の姿。 金昌寺のこの慈母観音を有名にしたのは、乳飲み子がむしゃぶりつく乳房の豊満さ と。母は、飲みやすいように右手でしっかりと乳房を持ち上げ、その児は、両乳首を親指と人差し指でつまんで飲もうとする、そのリアルな造形が、真に「慈母」を感じさせてくれるのであった。 境内の山の上方には六角堂が。 六角堂の横には、昔、ロッキード事件で有名な、荒船清十郎氏のお墓も有るのだと。オビンズル尊の像。頭の痛い人はオビンズル様の頭を、足の悪い人は足を撫でるとよくなると。石仏群をズームで。柔和な顔立ちに心惹かれたのであった。 金昌寺の住職は千体の石仏安置を発願したところ全国から3800体も集まったと。その後裏山の土砂の流出などでその数は減ったが、現在でも1300体以上の観音、地蔵、羅漢像が並べられているのだと。石仏を寄進したのは江戸が7割で、その他北陸、山陰、山陽などからも集まり、中には紀州家や越前家などの大名の奥女中からの寄進が30体ほどあったと。こちらは如意輪観音?石仏。 仁王門を境内より。仁王門の2階桜上にも多くの羅漢像が安置されていることが解ったのであった。 羅漢とは、釈迦の弟子で釈迦の教えを守り、尊敬される境地に至った者。社務所で御朱印を頂きました。中央に『新木大悲殿』の文字が。前述の如く、金昌寺の本尊である十一面観音は娘巡礼に変化し、荒木丹下という悪党を改心させたことから、金昌寺は別名「新木寺」と呼ばれていると。荒木観音の別当寺となる金昌寺は「東新木」という地名の場所にあったと。二人占めの金昌寺を後にし進むと、再び武甲山のはげ山の姿が。 そして「道の駅 ちちぶ」に立ち寄る。 羊山公園 芝桜の丘 のポスター。 百花蜂蜜がここでも売られていた。 「秩父で採りました!」と。奥秩父名物「岩魚すし」。「金色の岩魚すし」と呼ばれる贅沢な押し寿司。キメの細かい岩魚、淡白ながらもしっかりと深みのある味わいで、美味しいのだと。そして少し早いがここで昼食。秩父食堂の名物、 秩父名物わらじかつ丼と蕎麦のセットで1,100円を注文。豚ロースをたたいて薄くのばし、衣をつけて揚げたあと、あまじょっぱいタレがかけてあると。あまじょっぱいタレも旨くて、タレのしみたご飯まで気づけば蕎麦と共に、二人とも完食。「つゆだく」をお願いすればよかったと・・・、だが、秩父だけに「後の祭り」。
2017.08.09
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次に訪ねたのは秩父市栃谷にある四萬部寺(しまぶじ)。 秩父札所一番 誦経山(ずきょうさん) 四萬部寺。曹洞宗の寺院、札所巡りの巡礼者は殆どがここ1番からスタート。昔、性空上人が弟子の幻通に、「秩父の里へ仏恩を施して人々を教化しなさい。」と命じた。幻通はこの地で四萬部の佛典を読誦して経塚を建立。四萬部寺の名前はこれによるもの。一番札所・四萬部寺の山門をくぐると本堂の見える境内へ。手水舎。永代供養塔。お里帰りのお釈迦様。1911年に盗難にあい、79年に東京の古美術商で見つかった。「秩父一番」の銘が決め手だったと。地域や信者の人たちの募金によって戻ってきたといういい話。十二支守り本尊(八体仏)。鐘楼、平和の鐘、昭和26年鋳造建立と。本堂(観音堂)。内部の天井には龍の絵があると。正面の欄間には「地獄之図」「極楽之図」の彫刻が。「極楽之図」。本尊は聖観世音菩薩。本堂横の施食殿(施餓鬼堂)。毎歳八月二十四日に大施餓鬼の法供養を厳修するための堂。関東三大施餓鬼の一つ。施食殿の中央にある赤い八角綸蔵が見えた。寺務所で1番札所・四萬部寺で「巡礼装束一式」を揃える事が出来るのだ。秩父盆地一帯を巡る《巡礼道》は約100km(歩くと5日程)の道のりとのこと。私はこの寺務所で御朱印を頂きました。中央に『大悲殿』の文字が。ネットで調べてみると、『大悲とは観音菩薩の別名で、衆生の苦しみを救おうとする仏や菩薩の広大な慈悲の心を表す。つまり、大悲殿とは聖観音や千手観音や如意輪観音などの観音菩薩が安置されている建物のこと。建物自体に大悲殿と名付けている場合は少なく、観音菩薩を本尊として祀る寺院の場合は本堂を、本尊以外に霊場本尊や札所本尊として別の建物に祀る場合は観音堂を指す。御朱印の中央に墨書されることがある。』と。四萬部寺の境内には巡礼者用の立派な宿坊(簡易宿泊所)も。宿坊玄関。山門横のサルスベリの花も満開。その隣には赤いサルスベリの花も。本堂(観音堂)の裏の水子地蔵尊。命を授かり、この世に生まれる運命で在りながら、不運にも生を授かる事が出来なかった子供達・事故や病気の為に、この世を去った子供達・此の様に不幸な我が子の、安らかな幸せと笑顔を、願うのは『人の世の親の心』。
2017.08.08
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車は荒川を渡る国道140号親鼻橋(おやはなばし)を渡る。遠くに秩父鉄道の高架橋も見えた。和銅遺跡入口を左折し山道を更に上る。坂道の横の小さな駐車場に車を駐め、和銅採掘露天堀址の見学に向かう。「和銅 の 神 の 恵 み 案内板」聖 神 社 か ら 美 の 山 へ 続 く 坂 道 を 上 っ て い く と 、 ま も な く 街 な か の 騒 ひ じ りが し さ か ら 離 れ 棚 田 が 広 が る 山 里 風 景 が 目 に 飛 び 込 ん で き ま す 。 さ らに 「 和 銅 露 天 堀 り 跡 」 へ と 続 く 、 こ の 木 々 の 間 の 道 を 進 む と 、ま る で 時代 が 昔 に 戻 っ た か の よ う な 錯 覚 を 覚 え ま す 。飛 ぶ 鳥 よ り も 速 く 毎 日 都 へ 和 銅 を 送 り 届 け た 「 羊 太 夫 の 伝 説 」 が 残 され て い る こ と な ど も あ っ て 、 さ ま ざ ま な 場 面 で 当 時 に 思 い を 馳 せ る こ とが で き る 場 所 、 そ れ が 「 和 銅 遺 跡 」 と 言 え る で し ょ う 。神 の 恵 み の 和 銅 十 三 個 を ご 神 宝 と し て 祀 り 、 聖 神 社 が 和 銅 元 年( 七 0八 年 ) 二 月 十 三 日 に 創 建 さ れ て か ら 、 黒 谷 に は 「 十 三 」 に ま つ わ る 縁 起が 残 さ れ て い ま す 。 十 三 氏 子 ( 十 三 戸 の 氏 子 の こ と ) が 住 ん で い る 「 美の 山 」 を 流 れ 下 る 十 三 谷 、 春 秋 の 祭 り も 十 三 日 に 決 ま っ て い ま し た 。十 三 個 の 和 銅 石 の う ち 大 小 二 個 は 現 在 も 宝 物 庫 に 伝 え ら れ て い ま す十 三 谷 の う ち 何 本 が 銅 洗 堀 に 合 流 し 、 何 本 が 荒 川 や 横 瀬 川 に 直 接 流入しているか今 と な っ て は 確 認 の 手 だ て は あ り ま せ ん が 、 沢 筋 の 数 は十 三 本 に 近 い よ う で す 。な お 、 銅 が 産 出 さ れ る 土 地 特 有 の 植 物 と 言 わ れ る 「 花 筏 (は な い か だ)」(俗称「筏草(いかだそう)」 や俗 称 の み し か 伝 え ら れ て い な い 「 一 葉 羊 歯(ひとはしだ) 」 が 和 銅 山 にだ け あ る と い う 話 な ど も 、 こ の あ た り で は 言 い 伝 え ら れ て い ま す 。秩 父 市 秩 父 市 和 銅 保 勝 会」 と。「銅が出た 論より証拠 花筏 大濱利重」 の立て札が。花筏の木か?別名、ヨメノナミダ(嫁の涙)。北海道南部以南の森林に自生する。葉の上に花が咲くのが特徴であると。そして和同開珎を模した巨大モニュメントが目の前に現れた。日本通貨発祥の地と。「和銅露天堀り跡」の説明板。「和 銅 露 天 掘 り 跡 を 間 近 に 見 る こ と が で き ま す 地 質 学 上 で は 「 出 牛 ー 黒 谷断 層 」 と 言 わ れ ま す が 、 造 山 運 動 に よ る 基 盤 の 秩 父 中 古 成 層 と 、 堆 積 に よる 第 三 紀 層 の 断 層 露 頭 に 噴 出 、 凝 結 し た 自 然 銅 が 和 銅 ( ニ キ ア カ ガ ネ ) と呼 ば れ た の で す 。新 編 武 蔵 風 土 記 稿 ( 文 政 十 一 年 ・ 一 八 二 八 年 ) に 土 地 の 人 の 言 い 伝 え とし て 「銅 山 の 様 子 」を 「東 に 向 か っ て 急 坂 の 小 道 を 八、 九 町 (一 キ ロ 弱)も 曲 が り く ね り し て よ じ 登 る と 頂 上 に 出 る 。 大 岩 が に ょ き に ょ き そ び え立っ て い る 。 そ の 色 は 銅 色 ( 赤 黒 く 光 沢 の あ る 色 、 つ ま り あ か が ね い ろ ) がか っ て い る 。」と。露天堀址か。巨大モニュメントの和同開珎の文字の凹みにお賽銭が。そして車で上って来た坂を下り、聖神社に立ち寄る。元明天皇の時代に武蔵国秩父郡(現在の埼玉県秩父市)から自然銅(ニギアカガネ)が発見され708年(慶雲5年)正月11日に朝廷に献上された。これを大いに喜んだ元明天皇は、同日に元号を「和銅」に改元し、その後日本最初の流通通貨となる和同開珎を発行した と。和銅の発見、献上を喜ばれた朝廷は、勅使を遣わし祝山に神籬(神霊の宿るところ)を建てて金山彦尊を祀り祝典を挙げた。聖神社の創建は和銅元年2月13日で、祝山から銅洗堀を隔てて、蓑山(箕山、美野山、美の山)を背にした清浄の地を選んで遷座せられ、オホヒルメムチノミコト(天照大神)、クニトコタチノミコト(国常立尊)、カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)が併せ祀られました。その創建当時、採掘された和銅石13個(神社に現存するのは大小2個)と、元明天皇下賜の銅製の蜈蚣(百足)雌雄一対が御神宝として納められ、今に伝えられていると。聖神社一の鳥居と黄色の幟。手水舎。聖神社本殿。現在に残るのは文化4年(1807)8月再建のもので、昭和38年(1963)社殿を秩父市中町の今宮神社本殿から移築改修したと。こちらが本殿移築時に、移設された旧本殿。 本殿前にも巨大な和同開珎のモニュメントが。御朱印を頂きました。和同開珎の丸い形の多くの絵馬。金運成就 宝くじ 当選祈願。ズラリと並んだ絵馬には「宝くじで1億当たった」だの「ロト1等当選」だのと効果抜群?。もちろん私も、しっかりがっちりと拝ませていただきましたが・・・・。ご祭神は金山彦命、国常立尊、大日孁貴尊(天照大神)、神日本磐余彦命(神武天皇)の4柱に元明金命(げんめいかがねのみこと。元明天皇)を合祀すると。また伝説によると、黒谷の獅子舞は左甚五郎が黒谷の地に立ち寄り、竜頭を刻み聖大明神(聖神社)に奉納したことに始まると。和銅鉱物館。和銅鉱物館には聖神社秘蔵の左甚五郎作の竜頭を源とする「黒谷の獅子舞」の獅子頭なども陳列されていると。更に自然銅はもちろん、日本全土、東アジア、アメリカまで含めた広範囲に渡って収集された和銅関連の鉱石類、350点余りが展示。この聖神社は、和同開珎発祥の地であることから「銭神様」とも呼ばれ、お金の神様として有名。宝くじ祈願、ビジネス開運祈願、財布供養、馬券祈願に御利益があると。宝くじ当選御礼に年内に必ず来ることを誓って!!、聖神社を後にしたのです。
2017.08.07
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長瀞を後にし、車は宝登山神社へ。ロープウェイの運転開始時間は9:40が始発であるので。車で宝登山神社の奥宮に向かう。宝登山神社横の砂利道をひたすら頂上に向けてSさんの見事な運転で進む。そして15分ほどでロープウェイの宝登山頂上駅に到着。宝登山案内板。「蝋梅と梅香る宝登山」と。頂上駅のロープウェイはこの日の出番を待っていた。標高差236mを長さ832メートルで結ぶロープウェイ。宝登山頂からの長瀞の街並み。山頂駅裏の植栽には多くの花が植えられていた。ベコニア。山頂からは、秩父の山々は雲に隠れていた。車に戻ろうとすると、頂上駅の係員の男性から、我々が上って来た道は、一般車両は進入禁止であると。確かに「頂上には駐車場はありません」の表示は確認したが「一般車両 進入禁止」の表示は確認出来なかったのであった。車でその道を下り奥宮への参道石段への入口で停車。宝登山神社の主祭神は神日本磐余彦尊・大山祗神・火産霊神。階段を登ると奥宮の一の鳥居が姿を現した。宝登山神社 奥宮前。山犬の狛犬(阿形)。狛犬はあばら骨が見えている野生の山犬(狼)。これぞ、秩父にある神社の狛犬。山犬の狛犬(吽形)。宝登山神社由緒 掲示板。「今からおよそ千九百年前、第十二代景行天皇の御代のこと、日本武尊とその軍勢が東国地方平定の折、宝登山に登って神霊を拝しました。日本武尊が兵を従えて宝登山の麓へと進んで行くと森の中に岩に囲まれた清らかな泉がありました。日本武尊も兵もこの泉で「みそぎ」をして身を清めました。一隊は、頂上へ向かって登り始めました。しばらくすると山火事がおこりあっという間に、あたりは火の波に変わりました。一隊は日の渦に巻き込まれ脱出する事ができません。その時、突然現れた沢山の白犬、黒犬が風を切って猛火の中に飛び込んで行きます。犬たちは荒れ狂う炎の中で火を止めようと大活躍し、すっかり火は消えました。火を消した犬たちは日本武尊一隊を頂上へと導いて、頂上へ着くといつの間にか影のように消えていました。犬たちは山の神のお使いに違いないと日本武尊は神様に感謝し、心からお礼を申し上げました。日本武尊はこの山を「火止山(ほどやま)」と名付けられ、”神をお祀りするのにふさわしい、立派なお山"とされて、『神籬』(ひもろぎ)(御神霊をお迎えするための憑り代)をお建てになり、神武天皇、山の御神霊、火の御神霊の三柱をお祀りになりました。これが、当社の御鎮座の起源「宝登山神社の始まりです。その後「火止山」は霊場として栄え、弘仁年中に「宝珠の玉が光り輝きながら山上に飛翔する」という神変が起こり、山の名と神社の名はこの吉兆時により「宝登山」と改めて今に至りました。(宝登山神社参拝の栞より)」と。奥宮拝殿。奥宮の社務所は未だ開いていなかった為、奥宮の御朱印は頂けませんでした。山を下ると、左手には「宝登山小動物公園」が。そして宝登山神社を訪ねる。宝登山神社二の鳥居に架かった扁額。巨大な今年・平成二十九年の酉歳の絵馬。神楽殿。手水舎。拝殿。白き龍に囲まれた扁額。拝殿はとにかく豪華で色鮮やか。正面には龍の彫刻、左右両側には「二十四孝」の極彩色の世界が施されていた。龍の表情も見事。拝殿を別の角度から。社務所。御朱印を頂きました。拝殿裏の宝登山神社本殿。天満宮。稲荷大明神への参道。稲荷大明神。藤谷淵神社。明治時代まで、藤谷淵村(現在の長瀞町長瀞)の各所にあった8社の神社をこの地に遷座しておまつりしたのだと。大黒天。左肩に大きな袋を背負い、右手に打出小槌を持ち、米俵をふみ、いかにも福々しい姿。再び宝登山神社拝殿。
2017.08.06
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昨日は旅友Sさんと、秩父にドライブに行って来ました。当初は来週を予定していましたが、台風の進路も変化し天気が持ちそうなので急遽変更。いつものように早朝6時に茅ヶ崎のSさん宅を出発。寒川南から圏央道に乗る。 八王子JCTを通過。 鶴ヶ島JCTから関越道に。 そして花園JCTで降り一般道に。時間は8:23。 140号線を利用し荒川の渓流に沿って長瀞方面に向かう。 そして長瀞岩畳前の有料駐車場200円に車を駐め散策開始。 商店街の入口にはNHK・ブラタモリのポスターが。8月19日(土) 19:30~20:15に、長瀞の岩畳など、地質地形に本当に詳しいタモリさんと、秩父の歴史や産業・人々の暮らしについて放送されるようだ。まだ8:30過ぎで商店街のシャッターは殆ど閉まったまま。 そして駐車場から数分で長瀞岩畳入口に到着。 埼玉県長瀞町にある長瀞渓谷。その中心部にあるのが、この岩畳。荒川沿いに幅80m、長さ500mに渡って岩石が露出しており、その光景はまるで畳を一面に敷き詰めたように見えることから、そう呼ばれるようになったと。 天下の景勝地ここ長瀞の自然や特別天然記念物岩畳を見物しながら、変化に富んだ荒川の流れに身を任せ、スリル満点の舟下りをここから楽しめるのだ。静かな流の川岸には船下り用の船がこの日の出番を静かに待っていた。岩畳は三波川変成帯と呼ばれる変成岩帯が地表に露出しているところ。なめらかな壁面は、南北方向にのびる垂直の割れ目(節理や断層)にそって、岩がはがれ落ちて形成されたと言われていると。対岸の秩父赤壁。荒川による侵食のため急な崖で、特に岩畳付近の対岸のことを指す。中国揚子江が刻んだ「赤壁」に因んで名付けられた。黒色片岩中の鉄分が染み出し酸化したため赤くなったと。 早朝の荒川の静かな流と、川面に映る赤壁と緑が絶景。 青空も競演。 親鼻橋からここ岩畳(Aコース/約3キロ)と、ここ岩畳から高砂橋(Bコース/約3キロ)と全長約6キロを2区間に分けて運航。欲張りな人には親鼻橋から高砂橋の全コースの乗船がおすすめと。A&Bコースの片道の移動はマイクロバスのようだ。船頭さんの巧みな舟さばきで、緩急のある荒川の流れを、昔ながらのこの木舟が進んで行くのだと。 営業開始は9時から。ゴムボートによるラフティングも別の場所から楽しめると。木舟は客20名と船頭2人の22人がMAXと。岩畳の割れ目を流れ落ちる小さな滝。 長瀞船下り営業所。 片道のA&Bコースは大人1600円。 昨日の表示板がそのままに。「ただいまの当日券のお客様 約20分待ち」と。 この岩畳から出発するBコースは、広い川幅の急流スポット「大河瀬(おおかわせ)」が楽しめるようだ。穏やかな心落ち着く風景。 そして長瀞駅まで足を延ばす。長瀞駅は、埼玉県秩父郡長瀞町大字長瀞にある秩父鉄道秩父本線(秩父線)の駅。踏切を渡り長瀞駅に向かう。駅前広場の「長瀞は天下の勝地」 と刻まれた石碑。 長瀞ライン下り発券所。 宝登山神社の一の鳥居が見えた。 長瀞駅 駅舎。関東の駅百選の第1回選定駅とのこと。「長瀞驛」 と書かれたプレートは木製。駅舎内には女学生二人が電車を待っていた。 駐車場に戻る途中の豆屋さん・大沢屋。長瀞岩畳商店街にある無添加手作り甘納豆の製造販売元。 妻から美味しい甘納豆があるからと土産のリクエストがあったが時間が早いだけに諦めていたが、開店の準備中であったが戸が開いていたのであった。 妻のリクエストの応えて、紫花豆の甘納豆と、そら豆の甘納豆きな粉あえをそれぞれ550円で購入。
2017.08.05
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我が菜園のスナップエンドウの後地に定植した朝顔が開花を始めました。2種類の朝顔の種を購入し、成長させこの場所に植え付けました。 アーリーコールは、西洋アサガオと日本アサガオを合わせて作られた交雑品種。垣根や日よけに育てられることが多く、花の色は赤や青などの混合色をしており、中心部が白色なのが特徴。 変化朝顔とは、アサガオを品種改良して生み出されたものの総称。花びらや葉っぱの形、色、大きさが元のアサガオと違うことが特徴で、複色や絞り色の花びらの品種が有名。 白地に細い紺の筋が。 こちらも紫のアーリーコール。 今年は玄関脇にも、支柱を立てネットを張り植え付けました。 ほとんどの朝顔には、必ず白い模様があるのです。この白が猛暑の中、涼しげな風情をもたらしてくれるのです。やはり青系の朝顔が涼しさは勝ります。 朝顔の名前の由来は諸説あるようですが、早朝に咲いて午前中にはしぼんでしまうことから、朝の美人の顔のことを「朝の容花(かおばな)」と例えたことからきたというのが一般的だと。本当に美しさというものは儚いもの。有名な『源氏物語』の登場人物、源氏が恋い焦がれる美女“夕顔”も、その名前の印象通り、儚くこの世を去ってしまったのです。 そして家の境界のフェンスにも。 これから成長し、ミドリのカーテンになるのでしょうか。朝には時々、延びた蔓をフェンスに誘引しています。 朝顔は日本で改良技術が最も確立された植物の一つとなり、世界的に見てもこれほど形態が変化した園芸植物はないとのこと。ちなみに、朝顔は英語で「Japanese morning glories ジャパニーズ・モーニング・グローリー」と言われていると。もともとは中国原産だった朝顔が、今では海外で日本の花として認識されているのだと。 私の好きな和歌。「君こずば 誰に見せまし わが宿の 垣根に咲ける 朝顔の花」・・・和歌集『拾遺集』から現代語訳すると、「あなたが来ないのなら、垣根に美しく咲いている朝顔を誰に見せればいいのでしょう(見せる人はいない)」と。私は誰に見せまし??
2017.08.04
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我が家の横の菜園の入口にあるホウズキが橙色(だいだいいろ)の実を付けています。ホオズキの歴史的仮名遣いは「ほほづき」で、語源は以下の通り諸説あると。1.実が人の頬の紅色に似ていることから、「顔つき」や「目つき」などと同じ用法で 「頬つき」からとする説。2.果実から種子だけを取り除き、皮だけにしたものを口に入れて膨らまして鳴らす 遊びがあることから、「ほほつき(頬突き)」からとする説。3.「ホホ」というカメムシ類の虫がこの植物に集まってくることから、 ホホがつく意味とする説。4.実が火のように赤いことから、「ほほつき(火火着)」からとする説。5.ほおずきの方言は、全国的に「ふづき」が多いことから、陰暦七月の 「ふづき・ふみづき(文月)」が「ほおずき(ほほづき)」になったとする説。上記の説の中で、人の顔に見立てたとする「1」の説が有力であるとのこと。 【http://gogen-allguide.com/ho/hoozuki.html】より。ナス科の多年草。漢字では「酸漿」のほか「鬼灯」と書くのだと。中国語では酸漿の名のほかに「金灯」「錦灯籠」などとも言い、英語では Chinese lantern plant とも呼ばれていると。 漢字の「鬼灯」は、なにか雰囲気出ていると感じるのです。提灯のように見えるオレンジ色の萼(がく)の中は空洞で、赤い実が一つだけ入っています。 一つ取ってきました。 破いてみると、この実の中に、外側と同じオレンジ色の球形の ”ほんとの実”が。昔子供の頃、姉たちが球形の実をそっと押しながら柔らかくしてこの実の中身を出したり、楊子などで掻き出して皮だけにしたものを口にして、独特の音色を出して遊んでいた事を懐かしく想い出すのです。 そして実家のお盆の仏壇には、このホオズキをぶら下がっていたことも想い出すのです。きゅうりの馬と、なすの牛は精霊馬と呼ばれ、ご先祖様の行き帰りの乗り物、そしてほおずきは提灯の代わりだったのですね。そしてこんなホオズキも。葉脈と赤い実だけになる「透かしほおずき」の途中。そして「透かしほおずき」の完成品も。 雨や風にさらされているうちに自然と「透かしほおずき」ができるようです昨年、妻が気に入り、自然が造った「透かしほおずき」が玄関の靴箱の上に何個か飾っているのです。
2017.08.03
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我が家の庭のジンジャーが開花を始めています。温帯・熱帯アジア、マダガスカルにおよそ50種が分布する球根植物。草丈が2m程の大型の草花。先端の尖ったやや細長い葉を2列に並べて上に伸びて来ています。一般的に「ジンジャー」と言えばショウガのことを指しますが、園芸ではここで紹介するショウガ科ヘディキウム属のこの植物を指すのです。和名は「ハナシュクシャ(花縮砂)」と。乾燥した種子が漢方薬「縮砂」の原料になるシュクシャによく似ていることによると。日本では白花のほか「キバナ(黄花)シュクシャ」や「ベニバナ(紅花)シュクシャ」なども栽培されているのだと。ジンジャーは中米キューバ、ニカラグアの国花にもなっているとのこと。花の形が大きな蝶に似ていることから、スペイン語で蝶を意味する「マリポーサ」として親しまれている。英名でも「バタフライ・ジンジャー」や「バタフライ・リリー」「ジンジャー・リリー」などと呼ばれる。ジンジャーは観賞用のほか香水の材料にも。キューバでは花の名と同じ「マリポーサ」という香水が人気という。白花はハワイで首の花飾りレイとしても使われるのだと。異様に長い、雌シベが特徴。3個の花弁のように見えるのは雄シベ。僅かな香りも。これから開花する蕾。
2017.08.02
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今年も、早くも8月に入りました。昨日は我が家の横の菜園のイチゴの小苗取りを行いました。前日の久しぶりの雨、そして今日から数日は雨が期待できそうなので昨日行ったのです。イチゴは収穫時期の途中の親株からランナーという“つる”が伸び、その先に小苗が出来て来て、畝の間の地面に根を伸ばして来るのです。更に、この小苗がまた親株となり、どんどんランナーを伸ばして、次々と小苗を増やすのです。今年も、多くの小苗で地面が見えないほどになりました。 実はイチゴの果実の部分についている小さなツブツブが種で、それを蒔けばやがて発芽して苗が出来るとのこと。しかし、なぜランナーから小苗を育てるかというと、種から苗を育てるより、優れた苗を取り続けることができるからだと。逆に言うと、種からでは、親株から小苗へ優れた部分があまり遺伝されず、優良品種を作り続けることが難しいのだと。大きく育った小苗です。まだ、小粒のイチゴの実を付けてくれている株も。イチゴの小苗は、1番目の小苗は使わず、礎礼子の孫株、曾孫株を使うのです。理由は、1番目の子株は育ちすぎてる事と、親株の病気を引き継ぎ易くなっているからと昔、母から。 【http://blog-imgs-29-origin.fc2.com/g/a/r/gardening123/20090713144553206.jpg】より孫株、曾孫株の元気な苗を園芸スコップで堀あげました。親株1本からは、数本の元気な子株をとることができたのです。そして予め施肥したおいた畝に植え付けたのです。この苗を育てて成長させるのです。10月中旬~下旬頃を目安に畑に苗を再度移植し定植とするのです。苗はがっちりして大きく根がよく張っている、見るからに健康な苗を選ぶのです。定植は、株間25~30cmの2条植えとしています。この場合、根は深く、株元は浅くなるように植え付け、その後十分潅水をして活着を促すのです。この苗たちは我が家に来て何代目の小苗なのでしょうか。この様にイチゴは1年中、世話をしないとあの甘い大きな実を楽しむ事は出来ないのです。そして来年も大きな真っ赤な実との『イチゴ一会』を楽しみたいのです。
2017.08.01
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