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この日はゆっくりと10時にホテルを出発し、最初の観光地のトラカイ城に向かう。ヴィリニウスに移る以前にここリトアニアの首都が置かれていたトラカイは、赤煉瓦の湖上が水面に映る美しい観光地。 ヴィリニウスのホテルから28kmほどの、二つの湖に囲まれ、半島のような南北に延びるトラカイの最も古い地域。 バスを下り湖畔をトラカイ城に向かって歩くと右手前方に観光案内所が。 城の門楼へ続くガルヴェ湖の上に掛けられた橋を渡り進む。 門楼前に到着。リトアニア大公国(12世紀?〜1795年)時代の14世紀後半に最初に建てられた城。17世紀に巻き起こったモスクワ大公国との戦争で、城は損壊され再び建設されることはなく、徐々に荒廃の一途を辿った。第二次世界大戦後、大きな再建計画が1946年に開始され、1951年から1952年にかけて工事が盛んに行われた。再建工事の大部分が終了したのは1961年のことである。城は15世紀の建築様式で建設されていると。 城壁の所々には監視塔が設けられていた。リトアニアの国章の旗が青空に。赤い盾の中心に、銀色(白色)で右手で剣を振り上げた馬に乗った騎士が描かれている。騎士の持つ盾は青地に金(黄)の総主教十字(ヤギェウォ十字)。拍車と剣の柄は金(黄)で、馬具は青と金(黄)。この騎士は通称をヴィーティス(Vytis、追跡者)というと。 博物館見学と写真撮影許可用のチケットを購入し城内へ。 トラカイ城案内図。 トラカイ城の本丸が正面に。左側に兵の宿舎(現在は博物館)。建物の内側は広い庭となっており,馬に跨った将兵が隊列を組んで出兵の準備を整えた場所であったとのこと。中庭から入口方向を振り返る。 中庭では中世騎士に扮した男の寸劇が行われていた。 階段を上がり本丸に向かう橋を渡ると下には空堀が。往事はここまで水が入り込み水路となっていたのであろう。 本丸内部。 トラカイ城本丸入口の跳ね橋。本丸の入り口に連なる道には跳ね橋が設けられていた。高く強固な城壁と,この跳ね橋で滅多なことでは本丸まで侵入するのは困難であったか? トラカイ城本丸中庭。本丸には中庭が設けられ,そこに回廊が巡らされていた。また窓やドアもこの回廊に沿って設けられていた。そして外側はほぼ閉じた構造であり,外敵に対しては鉄壁の守り。剥がれた壁を覗くと,やはり石とレンガ造りであるが,レンガはゴシックレンガ呼ばれるタイプで,全体ではロマネスク要素を含むゴシック様式だと。 レセプションの大広間。大きな部屋で,外国要人の歓迎式典を行うなど,日本で言えば迎賓館の大広間に相当?屋根の構造が中東のバザール天井の如し。やはり城より砦。 壁には大きな戦場の油絵や肖像画が架けてあった。当初フレスコ画もあったのだが傷んで剥がれてしまったと。ヴィータウタス大公(在位1401~1430年)。ステンドグラスも小柄ながら美しかった。 これもヴィータウタス大公像?。 中世騎士像。 トラカイ城の最北端側。 再びステンドグラス。 本丸を出て次に右手の兵の宿舎・博物館を散策。 陶磁器。中国風扇子。 そして再び本丸を。 楼門を出て城壁周囲を一週する。本丸入口の跳ね橋手前の橋。 対岸の島の上の白き建物にもリトアニア国章がたなびいていた。 そして再び橋を渡りバスに戻る。この湖は冬は完全凍結すると。 そしてバスにて近くのレストランに移動し昼食。 トラカイに昔から伝わってきた伝統料理・肉入りパイ料理「キビナイ」 を楽しむ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.04.30
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5日目のこの日の朝も、6時過ぎに、前日の散策で時間の関係で上れなかったゲディミナス城の丘を目指してホテルを出る。ネリス川沿いを歩くと、朝日を浴びた使徒フィリップヤコブ教会が。そしてここヴィリニウスにはレンタルサイクルシステムが存在するらしく自転車が綺麗に並んでいた。 ネリス川沿いのジュヴィユ通りを歩くと前方に、複雑に曲がった水道管?とその先にゲディミナス城が姿を現した。 「エネルギーと技術の博物館」の先のネリス川に架かる橋を渡り大聖堂方面に歩を進める。 リトアニア国立博物館とその後ろにゲディミナス塔。リトアニアの歴史や民族文化に関する展示。ミンダウカス(Mindaugas)像。1253年に王位についたミンダウカス公は初代そして唯一のリトアニアの国王.13世紀に国家としてのリトアニアを形成したのがこのミンダウカス公。 リトアニア大公宮殿前の石像はモアイ像の如し。 リトアニアにキリスト教が浸透する前の土着信仰の神々の像とのこと。大聖堂周辺はもともと雷神ペルクーナスをまつる自然信仰の聖地。そして再びヴィリニウス大聖堂。十字架は後光が射していた。 青空に白く輝く鐘楼。 大聖堂の屋根上に立っている三聖人の像。 大聖堂 入り口上の聖カジミエル。 大聖堂入り口。 入口天井。 内部には日曜日の朝のミサを待つ人の姿が。ゲディミナス塔。 この門は閉まっていたが、パネルによると裏門からのルートもある模様。 幸い裏門は開いていたので、ここから石畳の坂道を上る。 思いの外急な坂。前方には運休中のリフトの頂上駅が。 先程歩いて来たルートが確認できた。 ゲディミナス塔近くの丘の上の城博物館。 ゲディミナス塔 聖ヨハネ教会方面の旧市街の観光の中心地域。 3つの十字架の丘。この地で殉教したフランチェスコ修道会の僧を悼むため、17世紀初めに木製の十字架が建てられた。その後、改修や撤去を経て、1916年にコンクリート製の記念碑が置かれたが、旧ソ連時代に破壊。1989年に復元され、ビリニュスのシンボルとなっていると。旧市街の眺めを堪能し丘を下る。 工芸博物館入り口。 昨日と同様にゲディミノ大通りを歩きホテルに向かう。国立ドラマ劇場の前の像を再び。Vladas Jurgutis像。リトアニアの司祭、経済学者、教授。リトアニア銀行の最初の会長として、「リトアニアリタスの父」と呼ばれている人物。ゼマイート像。リトアニア作家、教育者とのこと。 KGB博物館のとなりの小さな広場にある石を積み上げたこの記念碑。ソ連占領時代の犠牲者のためのもの。KGB博物館。旧ソ連領となる前からソ連のKGB(ソ連国家保安委員会)に監視されていたリトアニアの人々は、KGBの本部が置かれていたこの場所に連れて来られ、拷問を受けたり、シベリアに送られたりしていた。地下の留置所を含めこの建物は現在、博物館として一般に公開。建物の壁には、ここで犠牲になった人々の名前が刻まれていると。 ゲディミノ大通りをネリス川まで歩く。 リトアニア国立図書館。 国会議事堂。 聖母教会。 そして9時前にはホテルに戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.04.29
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聖ヨハネ教会が前方に。ヴィリニュス大学の中にある教会。旧ソ連時代、ここは科学思想博物館として使用されていた。内部には有名な学者たちの肖像画も飾られていると。 聖ヨハネ教会の尖塔。 大統領官邸の横入口。 官邸中庭。内部に入れる様であったが、セキュリティイチェックが厳しそうだったので時間も無く諦めた。大統領官邸正面。手前はダウカンタス広場(Daukantas Square)。16世紀ごろはヴィリニュス司教の住居であった。18世紀にロシア帝国に支配された時には、ヴィリニウス総督の住居となり、ロシア皇帝アレクサンドル1世やフランス王ルイ18世、ナポレオンなどがこの宮殿に訪問したと。1997年に改装され、それ以降はリトアニア大統領の官邸となっていると。大統領が官邸あるいは街にいるときは大統領の紋章の国旗が揚げられるのだと。この日は官邸にいたようであった。ヴィリニウス大学1579年に創立されたこの大学は、中央ヨーロッパでもクラクフのヤギェウォ大学、ケーニヒスベルクの大学に次ぐ古い歴史を誇る大学。1700年以降、ロシア帝国の領地になったヴィリニュスで、大学は反対運動の本拠となった。そのため大学はロシアにより、およそ1世紀もの間封鎖。敷地内には12の中庭があり、またバロック様式の建物にはフレスコ画が残されていると。聖ヨハネ教会の尖塔がこちらからも見えた。ヴィリニウス大学配置図 聖ミカエル教会。リトアニア大公国の最高位であったレオ・サピエカの命により、一家の廊として1594年から1604年にかけて建造されたルネッサンス様式の教会。1655年にはコサックの襲撃を受け建物の一部は破壊されたが、その後何度か改修が繰り返され現在に至った。旧ソ連時代は、建築博物館として使用されていたと。 聖アンナ教会(左)とベルナルディン教会(右)。聖アンナ教会旧市街の東側にあるこの教会は、15世紀末に建造されたゴシックの秀作といわれている建造物です。フランボワイアン式の華やかなファサードを持つ、この赤レンガ造りの教会は、その美しさからナポレオンが持ち帰りたがった、という逸話も残されていると。 教会内部。入ってすぐに目に入る主廊と主祭壇。美しいステンドグラス。 教会前で結婚式の記念撮影が行われていた。ベルナルディン教会。赤レンガのベルナルディン教会は15世紀に造られているが、現在の建物は16世紀の改築後のもの。聖アンナ教会と近接している。アダムミツキェヴィチモニュメント。 聖アンナ教会旧市街の東側にあるこの教会は、15世紀末に建造されたゴシックの秀作といわれている建造物。フランボワイアン式の華やかなファサードを持つ、この赤レンガ造りの教会は、その美しさからナポレオンが持ち帰りたがった、という逸話も残されていると。 ゲディミナス城。14世紀、大公ゲディミナスがトラカイからヴィリニュスに遷都した際に、城が築かれた場所。19世紀に帝政ロシアによりその大部分が破壊され、現在は監視塔として使われていたゲディミナス塔のみが残っていた。ここからは新市街と旧市街が一望できまると。「下の城」と呼ばれる王宮は、大聖堂のある広場に。この塔は丘の上に建っており、丘の上にはケーブルカーで上れるとのことであったがこの日は、土砂崩れも影響で運休中であった。 ゲディミナスの塔。リトアニア国旗の黄・緑・赤の3色旗が塔の上に掲げられていた。 王宮。代々のリトアニア大公居城(再建)、現在は博物館。 大聖堂はヴィリニュスのシンボル。18世紀のクラシック様式、鐘楼は高さ53m。 人間の鎖の起点。1989年ソ連からの独立を求めるバルト3国の人々は、手と手を握り、ヴィリニウス・リガ・タリンを結ぶ「人間の鎖」を作った。この広場はその起点。人々が連帯して世界に訴え、歴史を変えた記念すべき場所。文字はstebuklas(奇跡)と書かれていると。この上で時計回りに3回回りながら願い事をするとかなうらしいので私も。ヴィリニュス大聖堂。旧市街にあるカトリック教会の大聖堂。多神教の古代より雷神ペルクーナスの神殿があったとされ1251年、十字軍の弾圧から逃れるため、ミンダウガス王がキリスト教を受け入れて最初に建造した主教座教会。その後元の神殿に戻され、14世紀にキリスト教が国教となり教会が再建。建物は18世紀に大改築が行われ、現在見られる姿となった。正面の屋根にある聖スタニスラウス、聖ヘレン、聖カジミエルの3聖人の像は、旧ソ連時代には撤去されていたが、1996年に再設置されたと。 ヴィリニュス大聖堂広場のゲディミナス大公像。鎧に身を固めたゲディミナス大公が馬を従えた像。ヴィリニュス大聖堂前からケディミノ大通りを見る。大聖堂前のケンタッキーでトイレ休憩。品物を購入し、レシートのパスワードNoを押さないとトイレの扉が開かないシステム。 帰路はホテルまで徒歩にて。リトアニア国立ドラマ劇場前の怪しい3体の像。この3体の像は音楽・舞踏・学術・文芸などを司るギリシア神話の女神、ミューズ。女性なのか??それぞれ表情が異なりドラマ、悲劇、喜劇を表しているのだと。 クディルコス広場。ヴィンツァス・クディルカ(Vincas Kudirka )の像。リトアニアの詩人、医者、作家。リトアニア国歌「国民賛歌」の作詞者および作曲家。 ネリス川沿いの建物の壁には滝の姿を描いたアートが一面に。 大天使ラファエル教会。 使徒フィリップヤコブ教会をズームで。 そして18:30前にホテルに戻り19時からの夕食を。スープ。 メインディッシュ。 デザート。 そして部屋に戻り、この日の長い一日の反省会をウィスキー片手に旅友と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.04.28
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昼食は郊外の高速A1号線手前、ネリス川沿いのリトアニア料理を食べられる洒落たレストラン。店の名はMūsų Dvaras。マシュルーム スープ。リトアニア名物「ツェペリナイ」(ミンチのジャガイモ団子)。飛行船ツェッペリンに似ていることから命名されたとのこと。そして次の訪問地 ヴィリニウスまでの102kmの大移動。左手にヴィリニウス発電所。テレビ塔(326.5 m)。1991年にソ連からの独立を願って立ち向かった一般市民とソ連軍の争いの痕跡が残る歴史的建造物とのこと。現在は上層階に回転レストランもああるのだと。こちらは民間工場か。ネリス川を渡る。そして BEST WESTERN VILNIUS HOTEL に到着したのは予定より早く14時過ぎ。チェックインし、夕食の19時までは自由時間とのことで15時前にはフロントでTXを呼んでもらい旅友と二人でヴィリニウス旧市街の散策に出発。TXで旧市街の一番奥の「夜明けの門」まで9€で連れて行ってもらう。もちろん翌日の午後に正式観光が予定されていたが、その際に訪ねない寺院を中心に散策することにしたのであった。夜明けの門を潜り振り返る。聖テレサ教会。1633年から1650年にかけて建造された、初期バロックのファサードが特徴的な教会。装飾された渦巻き型のオベリスクが、どことなくローマ風建築。レンガ造りが多かったこの時代に、リトアニア大公国の副首相だったステーポナス・パツァスの保護と寄付を受け、花崗岩と大理石等の豪華な建造された美しい教会。教会内部。教会の中は広く 祭壇までいく道の間も非常に美しい壁画や美術品が。天井画。ステンドグラス。次に聖霊教会へ。入り口は可愛らしいピンクの外観。聖霊教会は、ヴィリニウスで最も古く、成熟した後期バロックの時代の最も贅沢に装飾された教会の一つ。教会の最初の建物は国のキリスト教への改宗前のゲディミナス時代には、この場所に立っていたと考えられていると。15世紀の初めに大公ヴィータウタスは、聖霊教会を建てたが1679年~1688年に教会が拡張され、再建されたと。聖三位一体教会。教会と修道院として使われていた、バロック様式の東方帰一教会。この東方帰一教会とは、16世紀にポーランドとの連合国として、ロシア正教徒の多いウクライナ、 ベラルーシに進出した際、宗教的妥協のために始められた「ユニエイト」(合同教会)に属す宗派で、ロシア正教の儀礼を残しながらもローマ法王の権威を承認した珍しい宗派の教会とのこと。城壁を内側から。円形城壁。ヴィルニウスは、かつては旧市街の周囲を城壁が取り囲む城塞都市。 しかし、現在では、その面影は旧市街南端の「夜明けの門」、そこから北東へ延びる城壁の一部、そして復元が完成したこの「円形城塞」が残る程度とのこと。円形城塞背後の城壁は、石積みの土台の上に赤レンガで築かれていた。ここは見張り櫓のようなものか。ミッショナリー教会。正教会大聖堂。 聖カジミエル教会を裏側から。聖カジミエル教会正面。17世紀初頭に建造されたイエズス会の教会。ここにはリトアニアの守護聖人である聖カジミエルが祀られています。ロシア=ポーランド戦争の時に火災に見舞われ、その後18世紀中頃にバロック様式で再建されました。後にロシア正教、そしてプロテスタントの教会となりますが、宗教が禁じられていた旧ソ連時代には博物館として使用されていました。独立回復後の1991年、イエズス会の教会として復帰。内部には聖カジミエルの生涯を描いたフレスコ画や後期バロック様式の祭壇が3つあると。オールセイント教会。聖母マリア教会の尖塔。旧市庁舎。旧市庁舎はそもそもゴシック様式の建物であったが、18世紀の終わりにクラシックな建物に改装された。かつては裁判所、財務室や武器弾薬庫などが置かれ、地下には刑務所も。現在は様々なイベントが年中開催されていると。聖ニコラス教会。リトアニアのなかでも最古とも言われる。14世紀半ばに作られた煉瓦作りの教会。聖ニコラス教会を横から。フランシスコ教会聖母マリア・フランシスコ修道院・昇天教会聖キャサリーン教会。1625-1743年に建てられた後期バロック様式の教会。教会の南東側はクリストファーが設計したプロビデンスチャペル。この建物も第二次世界大戦中に破壊され貴重な作品の多くを失ったとか。ソ連時代には、教会はヴィリニュス美術館に属していたと。 聖イグナトス教会。美しいアーチが印象的なイエズス教会。教会内部。奇跡的に残っている18世紀当時のフレスコ画が大切に保管されていると。聖トリニティ教会。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.04.27
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次いでカウナス城の前でバスを下車。この城は煉瓦造りの城で、前の広場には雷を待っている雷信仰の時代の人をデザイン化したカンクリニンガスの像が立っていた。 何故か私には「水戸黄門」像に見えたのであった。13世紀にドイツ騎士団の侵攻に備える国境(ネリス川)の土手沿いに構築された城塞であり、壁の厚さ2m、高さ13mもあったと。しかし、川の氾濫でいつしか城の崩壊が始まり現在は、修復された城壁と塔の一部のみが残っていた。カウナス城の碑。 空堀に架かる木橋とカウナス城。カウナス城とその後ろに聖ゲオロギ教会。リトアニアの国章であるヴィーティスと呼ばれる乗馬した騎士の絵の旗が。ドイツ騎士団との攻防に重要な役割を担ったカウナス城。今では朽ち果てた城壁を眺めながら、そんな歴史の一幕に想いを馳せてみたのであった。 聖ゲオロギ教会は15世紀のゴシック建築の教会。 カウナス司祭神学校。 先程訪ねたイエズス教会(後方)と旧市庁舎(手前)の尖塔は一つの教会の如し風景。 そしてメトロ・ポリスホテルへ。 杉原千畝が領事館から退避し、自ら列車にてリトアニアを避難する寸前に滞在していたホテルこそが、このホテル・メトロポリス。このホテルでもひたすら最後まで通過ビザを書き続けていたと言われる歴史を作ったホテル。プレートには1940年8月28日~9月4日まで滞在し、「命のビザ」を発給し続けたと。そしてカウナスの中心部で、今も当時のままに営業を続けていたのであった。 高級住宅地の狭い道路を曲がりながらバスが進むと杉原記念館に到着。正門には「希望の門 命のヴィザ」 の文字が。思いの外小さな、領事館というより普通の住宅なのであった。杉原記念館の外観を門から。現在記念館は地下1階のみとなっているが、正面の窓が当時の執務室。門の前に集まるユダヤ人に次々にビザを発給していたと言われているのだ。 現在の記念館入り口は横から。 杉原ー命の外交官基金 杉原記念館 と書かれたプレートが。 杉原千畝が書いたヴィザの写真。我々は、まず最初にやや広い部屋に通され、杉原千畝の生涯と功績を紹介する15分ばかりの映画を観た。部屋にはリトアニア、日本、オランダ、イスラエル国旗が。カウナスの各国領事の中で唯一ユダヤ人に同情的だったオランダ名誉領事ヤン・ツバルテンディクである。彼はカリブ海に浮かぶオランダ植民地キュラソー島なら、税関もないので入国できるということに目をつけ、キュラソー行きのビザの発給を決断したのであった。事の始まりは、1940年7月18日の早朝。表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然、多くの人たちの話し声で騒がしくなった。杉原が、カーテンの隙間から外を見ると、よれよれの服を着た老若男女たちが群れ集まっていた。新大陸への出国するために、シベリアと日本を経由する通過ビザを求めるユダヤ人難民たちだった。 当時、リトアニアは、ナチ・ドイツとスターリン・ソ連による強盗同士のモロトフ=リッベントロップ協定秘密議定書に基づいて、ソ連に占領されていた。そのためソ連は、もはや独立国ではないリトアニアに各国の出先機関は不要とばかりに、各国に大使館・領事館の閉鎖を求めていた。在カウナス日本領事館は、まだ開いていた数少ない国だった。その日本領事館に、必死のユダヤ人が最後の命綱として集まって来たのである。杉原は、母国にビザ発給の是非を尋ねる。ナチ・ドイツと同盟していた当時の日本の外務省は、ユダヤ人救援には当然に否定的だった。放っておけ、という答えだった。しかしキリスト教徒(正教会の信者)だった杉原は、必死の形相で通過ビザを求めるユダヤ人たちの窮状を見過ごせなかった。 大胆にも本国の訓令に反して、通過ビザを無断で発給することに決めたのである。1ヶ月で発給したビザの数は2139通にもなったと。ビザを書く指は腫れ、手はしびれた。妻の幸子夫人が腕をさすって、介助したと。ビザを書き始めたのが1940年7月29日。そこから日本領事館が閉鎖された8月25日、リトアニアを出国した9月5日まで。休む間も惜しんでビザを発給し続けた。最後はカウナス駅で列車が出発する直前まで手書きでビザを発給し、車窓から放るように手渡したと。 杉原が発給した通過ビザの実物。敦賀上陸と書かれている。在カウナス領事代理の杉原の署名がある。 日本各地からの訪問団の記録。 当時の外交官執務室を再現した執務室。机に座り杉原千畝領事の目線を体験することも出来たのであった。 そして当時の領事官で働いていた人の姿も。 様々な関係資料が壁全面に。 訪問帳には、この部屋を訪れた人々の様々な思いが綴られていた。 杉原千畝家族。中央が杉原千畝、左が妻の幸子で、右端が幸子の妹の菊池節子。杉原千畝は1986年、心臓病で86歳でこの世を去る。奥さまの幸子さんは2008年に他界。当時の領事官の人々。3人のご子息。第2次大戦の闇の中で、杉原千畝はなぜ、回訓に背き職を賭してまであのような決断ができたのか。千畝が残した数少ない下記のことばから、わたしたちは彼の思想、人間性にふれることができるでは。 『最初の回訓を受理した日は、一晩中私は考えた。考えつくした。回訓を、文字通り民衆に伝えれば、そしてその通り実行すれば、私は本省に対して従順であるとして、ほめられこそすれ、と考えた。仮に当事者が私でなく、他の誰かであったとすれば、恐らく百人が百人、東京の回訓通り、ビザ拒否の道を選んだだろう。それは、何よりも、文官服務規程方、何条かの違反に対する昇進停止、乃至、馘首が恐ろしいからである。私も、何をかくそう、回訓を受けた日、一晩中考えた。・・・果たして、浅慮、無責任、我無者らの職業軍人グループの、対ナチス協調に迎合することによって、全世界に隠然たる勢力を擁する、ユダヤ民族から永遠の恨みを買ってまで、旅行書類の不備、公安配慮云々を盾にとって、ビザを拒否してもかまわないが、それが果たして、国益に叶うことだというのか。苦慮、煩悶の揚句、私はついに、人道、博愛精神第一という結論を得た。そして私は、何も恐るることなく、職を賭して忠実にこれを実行し了えたと、今も確信している』 (『決断・命のビザ』より 渡辺勝正編著・大正出版刊)この様な人物を大学の先輩に持ったことに「感謝」 「感動」「感銘」 「感服」 「敬服」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.04.26
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この日も早朝起床し6時過ぎにカウナスの街の散策に出発する。まずはホテルから5分強の場所にあるカウナス駅へ。ドイツ軍侵攻に伴い隣国ポーランドから迫害を逃れて流入してきた大量のユダヤ人に対し、当時在カウナス日本領事館に領事代理として赴任していた杉原千畝(ちうね)は、盟邦ドイツへの配慮から査証発給を避けるよう訓令を発していた本国外務省の意向に反し、ユダヤ人に対して日本通過を可能とした査証及び渡航証明書を発給して欧州からの脱出を支援したのであった。杉原千畝がリトアニアからの国外退去を命じられドイツへ移動する際、汽車が発車する直前まで「命のビザ」を発給し続けたのがこのカウナス駅なのだ。 列車案内板、時間は6:24。ホームに出て、杉原千畝の記念プレートを探したが見つからなかった。 新型の電車が出番を待っていた。ホームにはオランダ・アムステルダムまで1576km、ヴィリニウスまで104kmの表示が。 カウナス駅を後にし更に歩を進めると前方にあったのがKauno Šv. Kryžiaus (Karmelitų) bažnyčia教会。 次に訪れた聖ミカエル教会(St. Michael the Archangel Church)。これがライスヴェス通りの端に通せんぼするが如く立っている巨大な聖ミカエル教会。カウナスがロシア帝国支配下であった1891~1895年にかけて、正教のカウナス要塞として新ビザンチン様式で作られたとのこと。第一次大戦でカウナス砦が陥落後、鐘はドイツに運ばれ、教会は1919年まで閉鎖。そして二次大戦中はカウナス砦のローマカトリック教会となり、またその後ソ連占領下ではキリスト教が奪われ、アートギャラリーとして使われた。独立回復後は再びローマカトリック教会として復活したと。 天を仰いで横たわる男の像は何を訴えていたのだろうか? 聖ミカエル教会の裏側。 暫く歩くと左手にナショナルムク・シアーリオニス美術館。 壁に描かれた不思議な絵。悩む?女性像。ホテルの近くにはロシア正教会が二つ。 ロシア正教会 Apreiškimo Švč. Dievo Motinai katedra。ロシア正教会 Kristaus prisikėlimo cerkvė 。そしてカウナスのバスターミナル。 ホテルに戻り朝食。 9:30に出発しカウナス市内観光へ。最初に訪れたのが、15世紀前半に建てられたゴシック様式のヴィタウタス大公教会。この教会はヴィタウタス大公が、タタール征伐に出かけた際に、戦場で奇跡的に難を逃れたことがあり、感謝の印に建てたものと言われていると。 この教会はネムナス川の横にあった。ネムナス川の流れは思いのほか速かった。1946年にカウナスは大洪水の被害に遭い教会も一部が水没したと。教会に取り付けられたプレート。洪水被害の最高水位が印されていた。 15世紀に建てられたゴシック様式の傑作と言われる「ペルクーナスの家」。ヨーロッパの古い言い伝え的な話だが、かつてこの場所には雷神ペルクーナスを祀る神殿があったのだと。その言い伝えを裏付ける証拠として19世紀に修築が行われたときに、30cmのブロンズ像が見つかったのだと。ただ、「ペルクーナス説」、「タタールによってもたらされたインドの神像だという説」という二つの説で論争が起こったと。この論争が原因なのか不明だがその像は、失われてしまい現在では残っていないと。像は失われたものの、ペルクーナスの名前は定着し今に至っているのだと。 カウナス旧市庁舎へ向かう道を振り返る。左側がヴィタウタス大公教会 、右側が「ペルクーナスの家」。 カウナス旧市庁舎(Kaunas town hall)広場に到着。塔を持つ白い建物がカウナス旧市庁舎だが私には教会のように見えたのであった。16世紀半ばに建設され,1775年,『白鳥』にも例えられると云う現在のバロック様式の優美な姿に再建されたそうだ.ロシア支配下時代は政治犯の牢獄,後に皇帝の別宅等々に変遷し,現在は結婚式場や婚姻届の提出場所となっているのだと。また旧市庁舎の古い地下室は、現代作家の陶器博物館として利用されていると。 市役所の前は広場となっており,タリンでも旧市役所前に広場があったのと似ていた。青空に映える旧市庁舎。 旧市庁舎入り口。左側に黄色・緑・赤の3色のリトアニア国旗が。黄色は太陽、光、繁栄、緑は自然の美しさと自由と希望、赤は大地と勇気と祖国のために流された血を表していると。右側はリトアニア国章。赤い盾の中心に、銀色(白色)で右手で剣を振り上げた馬に乗った騎士が描かれていた。イエズス教会(St. Francis Church & Jesuit Monastery)。旧市庁舎の左手に見えたのは,17世紀建立で,修道院併設のイエズス教会。他の教会同様,ソ連占領下では他用途に転用され,独立回復後教会に復活したと。ぱっと見,このイエズス教会が市役所,旧市庁舎が教会に間違えそうな雰囲気も。 この「考える人」?は詩人マイロニス 。市庁舎広場の水飲み場? ベルナディン修道院とその前に立つ銅像。旧市庁舎の右背後に隠れたように建っているのが、ベルナディン修道院だが、その門の右に人物像が立っていた。ガイド氏からも説明がなかったが、聖人なのか?。手元のガイドブックにも触れられていない。 書かれていたMotiejus Valančiusで検索すると、カトリック主教だが、19世紀リトアニア・サモギティア地方では有名な作家だったらしい。旧市庁舎広場は絵になる光景。 カウナス大聖堂(Kaunas Cathedral)。正式には聖ペテロ&パウロ大聖堂(St Peter and St Paul's Cathedral)と呼ばれ,聖ペテロと聖パウロに捧げたカトリック教会。翌日首都ヴィリニュスで訪ねた聖ペテロ&パウロ教会も同じ名を冠してあった。赤いレンガ造りの外側は直線主体の比較的さっぱりした形態だが,ゴシック様式だそうで,1671年頃建てられたと。そして1655年の戦禍で被害を蒙り,1671年にいくらかルネッサンス様式を付加して再建されたと。 カナウス大聖堂の内部。さっぱりした外側に対し,内部は多くの彫刻やフレスコ画で埋められ,とても見応えが。壁や柱が淡いピンクやパープル等で彩色され,所々に金箔が貼られ,華やか。こうした色使いで,ケバケバ感なくして落ち着いた美しさを演出していた。改装の一環として,1771年にポーランドリトアニア共和国最後の国王スタニスワフアウグストポニャトフスキ(Stanislaw August Poniatowski:1732~1798年)が内部装飾の基礎を作ったと。1775年には聖書台や聖歌隊席が設けられ,現在の形態になったのは1800年からのさらなる改築の結果だとのこと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.04.25
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リーガ大聖堂のステンドグラスの美しさの余韻に浸りながら、更に旧市街の散策を続ける。「三人兄弟の家」。三人兄弟の家は、三連を成すリガの典型的な建物。外観は建築当時の姿をほぼ留めており、3つともそれぞれの時代を表す特徴的な建物。向かって右端の建物は、15世紀に建築されたリガ最古の石像住宅で、階段式の切妻屋根とゴシックの壁龕で装飾。この住宅が建築された時代は、リガの土地問題が深刻ではなかったため玄関を石のベンチで飾っていたと。中央は、淡い黄色の外壁が印象的な建物。17世紀に建築され、正面はオランダのマニエリスム様式。最後に、向かって左端、17世紀末に建設されたグリーンの外壁の末っ子は、他の2軒に比べ幅の狭い建物で、バロック様式の破風が特徴的。現在、三人兄弟の家は、ラトビア建築博物館となっており見学することができるようだ。三人兄弟の目と鼻の先にも高い塔を持つ古そうな教会があり、そこがローマカトリック教会の聖ヤコブ教会。後で知ったのだが、塔の中程に突起物があり、”哀れな罪人の鐘”と呼ばれる鐘がつるされている。罪人の処刑が行われる際に、この鐘が鳴らされていたために、そう呼ばれていたと。1330年代、リヴォニア騎士団により建てられた城。その後騎士団とリーガ市民の衝突により破壊され、1515年に現在の城が完成。今は、大統領官邸として使われていると。現在はライモンツ・ベーヨニス大統領(2015年7月8日就任、任期4年)。 尖塔。 頂上には三つの金の星が。 白い教会は、聖母受難教会。 白の外壁に水色の尖塔が清楚でシンプルな印象を醸し出していたのであった。 教会内部。 ダウガヴァ川まで歩を進める。河岸にあるリーガの守り神のクリストファーの像。 顔にヒゲをはやして手に棒を持ち、キューピー人形?を肩に乗せてガラスケースに入れられていた。 ダウガヴァ川に架かるヴァンシュ橋。 ヴァンシュ橋近くからラトビア国立図書館をズームで。 NLL Buildingと呼ばれるこの建物は2014年に完成。ラトビア産まれの建築家、Gunnar Birkerts氏の設計によるものだと。 川の対岸のビルはスウェーデン中央銀行ビル。 リーガ港近くには、クルーズ船が停泊中。 ヴァンシュ橋の歩道からリーガ城を見る。 左にリーガ城、右にダウガヴァ川。右はラトビア国旗、何故か早稲田カラーに見えたのであった。左はラトビア共和国紋章。残念ながら裏側から。 少女像。シベリアに移送された子供達のための記念碑のようであった。リーガ城の大統領官邸入口。衛兵が門の両側に。バルコニー。ここに大統領が姿を現すのであろう。自由時間が終了し、ツアー仲間と昼食へ。リーガ城近くのレストラン Alus arsenals。地下の洞窟といった雰囲気の店。スープ。メインディッシュ。ビールも楽しんだ昼食後は、カウナスへ向けての長距離バス移動。聖母受難教会裏の石のモニュメントが車窓から。再び科学アカデミーの建物。リーガテレビ塔も車窓から。Rīgaの街とも暫しの別れ。Southem橋を渡りA7線に入る。E67号高速を利用して南下し15時過ぎにBAUSKAの街を通過。ラトビア⇒リトアニアの国境を停車せずにあっと言う間に通過し更にバスは進む。そしてカウナス駅前を通過しホテルに近づく。そしてこの日の宿、「IBIS KAUNAS CENTRE」に18:15に到着。我々のこの日の部屋。洗面所。そして夕食に。メインディッシュ。この日はデザート付き。夕食後は近くに新しく出来たスーパーマーケットへ。果物も日本以上に豊富。活エビを250g程とアスパラガスを一束購入。そしてエビは、旅友の電気釜で塩茹でに。ウィスキー片手にエビの塩ゆでと茹でアスパラを多いに楽しんだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.04.24
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リーガ旧市街の観光をスタート。 ラトヴィア・ライフル部隊の彫像。高さは10メートルはあろうか。ソ連によって建てられたという軍服外套を着た3人の立像。リーガ市庁舎を横から。ブラックヘッドの会館と左に聖ペテロ教会の尖塔。このアングルもリーガでは有名な人気の景色。リーガで最も華やかと言われるブラックヘッドの会館(ギルド)はリーガ建国800年祭を記念して再建された。ブラックヘッドとは未婚の貿易商人の友愛会で、将来グレートギルド(職業組合)を目指す若い貿易商人たちが親睦を図るための会館であった。14世紀の中ごろ創建され、その後何回か改築。1941年のドイツ軍の空襲で破壊され2001年に往年の華やかな全容が蘇ったと。時計の下にある4つの都市の紋章は4大ハンザ同盟都市で、左からリーガ、ハンブルグ、リューベック、ブレーメン。ブラックヘッド会館屋根の風見鶏ファザードには彫金細工の大きな青い色の時計。大時計は、月、日、時間、月齢を現していると。製作した時計職人は、2度と同じものを作れないように目をくりぬかれたと。紋章の下に飾られているのは、ギリシャ神話の神々。最高神ゼウスの代わりにポセイドンがいるのは、海上交易都市であるためであろう。ギリシャ神話の神々などの装飾(右)「ブラックヘッド」の命名のもととなった黒人の守護神、聖マウリティウスの像。ギリシャ神話の神々などの装飾(左)ブラックヘッドの会館の左側部分、左側屋根の風見鶏。ブラックヘッドの会館前にはリガの守護神であるローランドの像が。ローラント像は、中世文学「ローランの歌」に登場する、イスラム勢力と勇敢に闘ってその後伝説化された英雄ローラントを現したもの。石像は自由都市としての尊厳を象徴。昨年訪ねたクロアチアのドブログニクにもあったことを思い出した。再建されたリーガ市庁舎正面。市庁舎の風見鶏には最初に建立の1756年と。その後1941年の大戦で焼失し、2003年に再建されたのだ。聖ペテロ教会。リガのランドマークともなっている聖ペトロ教会の尖塔は、1690年に創建。この塔も何度も落雷による火災などで焼け落ち、その度に修復、改築を行ってきた。ロシアの支配下にあった1721年には、ピョートル大帝自ら消火活動にあたったと。現在の姿となったのは、第二次世界大戦後のことで、塔の高さは123.25m。塔にはエレベーターで昇ることができ、塔からは、リガの街を一望することができると。尖塔の時計は動いていないようであった。 教会入り口。聖ヨハネ教会はレンガ色の外壁の教会。聖ヨハネ教会の前にあるブレーメンの音楽隊の像。一番下にロバ、その上に犬、そして猫、一番上にニワトリなぜドイツでなくラトビアにもあるのかと思ったらリーガがブレーメンの姉妹都市だからと。ロバの前足を撫でながら願い事をすると願いがかなうと信じられているそうですが皆はなぜか鼻先を触っている!?そしてピカピカに。聖ヨハネ側の門、そして向こうがヤーネスの中庭。ヤーニスの中庭の城壁。ヤーネスの中庭出口門。そして再びKalēju通りからの入口門から出て振り返る。聖ヨハネ教会の近くにあるショッピングモール「ガレリヤ・ツェントゥルス」を利用してトイレ休憩。Kaļķu通りからの自由記念碑。ラトビア独立戦争(1918-1920)で殺された兵士に捧げられている記念碑。完成は1935年11月18日、高さ42メートル、石灰岩、石灰華、銅で作られている。記念碑の周囲の彫刻やレリーフは、13のグループに分かれており、それぞれラトビアの文化や歴史を表している。 記念碑の中心部分は上へ行くに従って細くなる四角柱型で、その上の銅像『自由の女神』の手には、金色の星が3つ掲げられている。3つの星はラトビアが独立したときの3つの地域を表しているのだと。さらに観光は続く。小ギルド・コンサートホール。 右手に大ギルド・コンサートホール。 屋根の上に猫(のオブジェ)がいる「猫の家」。昔リーガはハンザ同盟の都市として発展したが、その為ドイツ人の地位が高く、この家のかつての主人は、全て条件を満たしているにもかかわらず、ラトヴィア人という理由だけで、ギルドへ加盟を拒否されたことに抗議の意思を表すため、ギルドのあった場所に背を向けた猫を屋根の上にとりつけたのだとか。現在はそのギルドのあった場所はコンサートホールになっており、その音楽に誘われて、猫は向きを変えたと。 トンガリ屋根にちょこんと乗っている猫が一対。 リーヴ広場で奇妙な石の彫刻。ガイドからの説明もなく、ガイドブックにも載っていないので、正確なところは不明。 そしてリーガ大聖堂。1211年、アルベルト司教によってダウガヴァ川の近くに建てられた。その後、増改築が何度も行われ、ロマネスク建築、バロック建築などの建築様式が混在するようになった。現在の建築物は18世紀後半のもの。建設開始からの長い年月に地盤沈下した跡が判る。 大聖堂内部に入る。墓碑銘や司祭やギルドの墓石などが数多く展示されていた。リガ大聖堂の見どころの一つが、聖堂内を彩る美しいステンドグラス。 見所として、聖堂北側側面にあるリーガの歴史を映した4枚のステンドグラス。「ティゼンハウゼン一家や聖母マリア」。 ズームで。「アルベルト司教による大聖堂の創設」。 ズームで。 「1621年、スウェーデン王クスタフ?アドルフを迎える大聖堂前のセレモニー」。 ズームで。 「1525年、リガ市長に信仰の自由の宣告所を渡すリヴォニア騎士団長プレッテンベルグ」 。 ズームで。 更にステンドグラスの感動は止まらなかったのであった。 中央にはキリストが。 ズームで。赤が美しいバラ窓。 大聖堂内の見所のもうひとつとして、パイプオルガンがある。このパイプオルガンは6718本のパイプ,124本のストップを持つもので、1882年から1883年にかけて製作され、1884年1月31日に設置されたと。最も長いパイプは10mにも及び、建造当時、世界最大級のものであったが現在では世界で4番目に大きなパイプオルガンとのこと。残念ながら、行ったときは修復中?だったが、時間によっては生の演奏が聴けると。 たくさんの人物の彫刻が見守ってくれていた。大聖堂南側には、以前の修道院の回廊があり、大砲や大聖堂を飾っていた装飾品等が展示されていた。 塔の上で町を見守ってきた古い黄金の風見鶏。大砲? 大砲の弾。 回廊から内庭を。 回廊から尖塔を。 中庭内の最初の司教像。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.04.23
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この日の朝は雨のため早朝散歩は中止し、朝シャワーとパッケージングを部屋でゆっくりと。9時のホテル出発に合わせフロントに。 朝食はこの奥のレストランのビッフェで種類もソコソコ、味は結構美味しかった。 そして9時に出発し最初の観光場所の「中央市場」へ。雨の中、RIGA駅を右手に見てバスは進む。RIGA駅の裏に回ると、左手には巨大な21階建て「科学アカデミー」が見えた。 ラトビアにおけるソ連時代の支配を象徴する建物。バルト三国の中で唯一現存するスターリン様式の建物で、中央市場の裏手に位置する。同じような建物はワルシャワやモスクワの7シスターズに象徴されるように威厳のある重厚な建物。既に以前の旅行でモスクワ、ワルシャワ等でも散策し近くまで行き巨大さに圧倒された建物。ちなみにラトビア語ではZinatnu Akademijaという。そしてダウガヴァ川に出る。ダウガヴァ川は、ロシアのヴァルダイの丘に源を発し、ベラルーシ、ここラトビアを流れ、リガ湾でバルト海に注ぐ大河。前方にアクメンス橋そして三角形のおもしろい形の国立図書館の建物が見えた そしてホテルから20分程で中央市場に到着。かまぼこ型の屋根がユニーク。この建物は1930年代に作られたもので、元は飛行船ツェッペリンの格納庫だったと添乗員から。なるほど、どうりで巨大なわけ。 バスを下り中央市場の散策開始。この市場は東ヨーロッパにおいて最大の市場の一つであり、毎日8万〜10万人がここを訪れるのだと。ショッピ ングに人気の場所で、地方の農畜産物、また外国産のフルーツや工業製品などを販売していた。新鮮な魚、肉、野菜やその加工品、フルーツやベリー、ミルクやチーズ、エコ食品、カントリーブレッド、ハチミツなど、様々なものを販売。またその場で試食することもできた。市場に並ぶ屋台の数はおよそ 3,000 軒。広大なパビリオンを見るには、少なくとも数時間を予定しておくことをおすすめしたいのであった。見たこともない活魚の種類も多かった。 巨大な筋子(すじこ)。 ハチミツ売り場。 野菜売り場。 肉売り場。 アルコール売り場。 リーガ土産No.1(?)といえば、ブラック・バルサム。18世紀中ごろ、ウォッカをベースに24種のハーブをはじめ、様々な材料から作られたちょっと苦めの45度酒。“風邪気味かな”っと感じたら、温めたブラックカランツ・ジュースと混ぜて、グイッといくのが現地流とのこと。 ショッピングを楽しめるスポットは中央市場の周りにも。市場の真後ろにある倉庫ものぞいて見た。19 世紀後半に建てられた倉庫では、どことなくロシアの雰囲気が感じられる靴や衣料品等様々な日用品も売られていた。 市場の前にはトラムが乗り入れていた。こちらにもハチミツ、蜜蝋が販売されていた。 300~400gで3~4€と極めて安価にビックリ。中央市場の見学を終え、バスに乗り込み「ユーゲントシュティール建築群」に向かう。公園に突如現れた巨大なサルの宇宙飛行士。「猿の惑星」?これはロシアが宇宙に送った動物たちの慰霊碑のようなものだとか。そして小雨の中、「ユーゲントシュティール建築群」の観光を始める。リガ旧市街の北側に、ユーゲントシュティール(ドイツ語でアールヌーヴォーの意味)建築の建物が集中した一角があったのです。実はここに限らずリガ市内の建造物の約40%?はユーゲントシュティール建築なんだと。しかし『ユーゲントシュティール建築群』にある天才建築家・ミハイル・エイゼンシュテインの作品群はレベルが違い圧巻過ぎたのでした。リーガ出身で、サンクトペテルブルグで建築を学んだ建築家・ミハイル・エイゼンシュタインの作品は斬新かつ自由なスタイルで知られ、市内には彼がデザインした建築が18軒あるのだと。Kronvalda公園の向かいにあるMonika Centrum Hotels近くから見学スタート。エリザベテス通り33番地の建物は1901年のエイゼンシュテインの作品。 ファサードを飾る彫像群は見事。 Alberta iera(アルベルタ通り)に入る。アルベルタ通り12番地の建物(1903年 K.ペークシェーンズ、E.ラウベ)。 建物内には「リガ・アール・ヌーヴォー美術館」がある模様。アルベルタ通り12番地の建物(1903年 K.ペークシェーンズ、E.ラウベ)。 元建築家の住んだ住宅に作られた博物館。1907年に没したラトビア人建築家、コンスタンティーンス・ペークシェーンスによって作られたビルの中にあり、建築家が住んだ当時のインテリアも再現。入り口のらせん階段は美しすぎた。天井も階段にも劣らず。 アルベルタ通り13番地の建物( 1904年 エイゼンシュテイン)。動物、植物そして下の如く喜怒哀楽を表す人面、女性など無数の彫刻が。2002年に修復を終わり輝きを取り戻した建築の一つとのこと。アルベルタ通り11番地の建物は歴史を感じさせる共同住宅? アルベルタ通り8番地の建物(1903年 エイゼンシュテイン)。中心部の装飾が見事。珍しい青煉瓦が使われていた。 アルベルタ通り6番地の建物(1903年 エイゼンシュテイン)。赤煉瓦が美しい建築。右側上部には三つの人面彫刻が並ぶ)修繕中なのが残念であったが、維持していくためには・・とジッと我慢!!アルベルタ通り4番地の建物(1904年 エイゼンシュタイン)。最も完成度の高いユーゲントシュテイール建築の一つと。シンメトリーの正面入口(ファザード)中央の窓は美しい曲線で縁取られていた。 最上部の左右には建物を守護する2頭のライオンと中央には3つのメドゥーサ(ギリシア神話に登場する怪物)の頭が飾られていた。 隣の共同住宅。 アルベルタ通り2a番地の建物。一番上の窓に見える部分は「空を切り取るため」のもの。ガラスは嵌っておらず、この枠の向こうには部屋はない。 赤タイル付きの「柵」の如きファサードが印象的。女性やスフィンクス、人面など様々な彫像で装飾されていた。 エリザベテス通り33番地の建物。 人が建物の柱を必死に支えてる風。エリザベテス通り10b番地の建物(1903年 エイゼンシュテイン)最上部を飾るデフォルメされた人面が目立つのであった。ヤクザ(YAKUZA)レストラン。日本食チェーン店であるようだ。ご丁寧に”ヤクザ”とカタカナ名も。更に英語のYAKUZAのロゴにオシャレな?刀傷の装飾まで施していて、店名に対するこだわりが感じられるのであった。 しかし本物の方がこの店を見つけたら・・・??RIGA地方裁判所。 そして「ユーゲントシュティール建築群」の観光を終え、リガ歴史地区観光へと再びバスに乗り込む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.04.22
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市庁舎前のラエコヤ広場で自由時間に。我々二人はトーメの丘を目指す。事前にGoogle Mapで観光箇所をチェック済みであったので道に迷うことなく。建物の壁にタルトゥ大学本館のだまし絵が。昔のタルトゥ大学と街並が描かれていた。Lossi通りという狭い坂道を登ると、トーメの丘。しばらく登って行くと、左右に盛り上がった丘を連結している橋の下に出る。この橋は「天使の橋」と呼ばれていて、1838年に造られた。 タルトゥ大学の学長、G.F. パロットに捧げられたのだと。Lossi通りを南西に向かうと、再び橋が現れた。先程の「天使の橋」よりは大分黒ずんでいて、薄黒くて何とも陰気な感じで「悪魔の橋」と呼ばれていると。橋の完成は1913年。最初のエストニア共和国が誕生する5年前。「天使の橋」が大学の学長に捧げられたのに対し、この「悪魔の橋」はかつてのロシア皇帝アレクサンドル1世に捧げられた。さすがにまだロシア統治下だったので、献納の名目は「悪魔のようなロマノフ王朝の打倒を願って」ではなく、「ロマノフ王朝の300周年記念」だったようだが。 その当時からここでは歌のコンサートが開催されていて、天使の橋には女性が、そして悪魔の橋には男性が集ったと。ヨハン・スクデ(Johan Skytte)はスウェーデンの政治家(1577~1645)。ここタルトゥは、1621年より始まったスウェーデン・ポーランド戦争の結果、スウェーデン王国領になっていたのだ。トーメの丘の上には「大聖堂(トームキリク)」が。 ここがタルトゥのシンボル。現在は、東側(右)がタルトゥ大学歴史博物館に改修されていると。タルトゥ大学の歴史についての常設展示や特別展もあり、ミュージアムショップも併設されていると。 西側は、大聖堂の骨組みだけがそのまま残されていた。大聖堂の建設は13世紀の後半に始まったゴシック様式の教会の建設工事は難航したようで、日本の城にもある人柱伝説が残っていると。建設は15世紀にようやく完成し、タリンの「大聖堂」と同様、カトリックの聖地とされた。しかし16世紀の宗教改革で、タリンの「トームキリク」がルター派に鞍替えして引き続き聖地とされたのに対し、このタルトゥ「トームキリク」は打ち捨てられ、廃墟となった。 現在は塔が修復されて展望台になっているのだと。 西側の外部は破壊されてしまい、廃墟のようになっていた。 この木製の階段から塔に登れたのであろうか? トーメの丘の頂上には、エストニアゆかりの偉人たちの像が並んでいた。数ある像の中でも存在感があったのが、こちらの決意に満ちたというか随分と厳しい表情をしているのっぽの青年の像。足元の案内板によるとKristjan Jaak Peterson、19世紀初頭の詩人で、若くして亡くなった人だとか。彼が生前、思索しながらエストニアを放浪した時の姿を表現と。ビレム・ライマン(Villem Reimani)記念碑。エストニアの作家、農村教師。カール・エルンスト・フォン・ベーア は、哺乳類の卵子を発見したエストニア出身のバルト・ドイツ人発生学者、動物学者、人類学者、地理学者、探検家、博物学者。 タルトゥ大学(ドルパット大学)ギリシャ神殿のようなギリシャ式の円柱が並ぶ大きな建物。これが400年近い歴史を持ち、バルト地方最高の大学とされるタルトゥ大学(Tartu Ülikool、あるいはドルパット大学 Universitas Dorpatensis)。 スウェーデン王のグスタフ・アドルフが1632年に設立。当時のリヴォニアでは戦乱が続いたため、タリンに移転したこともあったが、後に戻って来たと。 19世紀に入ると大学としての本領を発揮し、特に医学や科学の分野で成果を上げた。現在の建物も、1806年に建設されたもの。内部では、リストやサラサーテなども演奏した豪華なホール(Aula)や、学生に懲罰を与えた部屋、ギリシャ・ローマ時代の彫刻などがあるタルトゥ大学美術館を見ることができると。そして今回の旅行で、熊本から参加のMさんの娘さんがこの大学に短期留学していると。そして我が市内の大学に在学し、昨年8月から休学しこの大学に留学しているのであった。そして娘さんと8ヶ月の再会を果たしたのであった。 聖ヨハネ教会。ラエコヤ広場からRüütli通りを北に進み、四本目のLüübeki通りを左折すると、右手に煉瓦造りの教会「聖ヨハネ教会(ヤーニ教会、Jaani kirik)」が。 聖ヨハネ教会は、北ドイツ・リューベックの人々が14世紀後半に建設した教会。教会の内部に入ることが出来た。14世紀後半にリューベックの職人たちによって建てられた教会。塔に上れるようであったが人もいなく?時間も無く諦める。天井の流線型のアーチが美しかった。ファザードや壁、内装の随所に素焼きの塑像が飾られているのが美しかったしかしたび重なる戦争によって多大な被害を受けたと。塑像の多くは数々の戦争で失われたため、残されたオリジナルの塑像は内部に展示されており、外壁に飾られているのはレプリカであると。 植物園の前の道路を隔てた場所には城壁跡が 。タルトゥ大学植物園(University of Tartu Botanical Garden)。1803年に設立され1810年の時点で4360種類もの植物があったと。エマユギ川にかかるアーチ状の歩道橋。 エマユギ川に浮かぶバイキング船と乗船場? タルトゥの戦争記念碑。1918年にエストニア独立宣言、1920年にここタルトゥにてロシアと平和条約締結。ピーター・ニコラウス・ジークフリート・フィールド像。エストニア語神学者、教育、公人エストニア暫定地方議会の 、 制憲議会と議会のメンバー。彼は、エストニア共和国の最初の教育大臣と。 文部教育省に建物の壁の像(右) 文部教育省に建物の壁の像(左) タルトゥの正教会(Tartu Dormition of the Mother of God Cathedral )入場は出来ずガイドブックにも記載の無い教会。 エマユギ川辺の公園に顔だけの銅像が。20世紀初頭の有名なエストニアの作家や脚本家、オスカー・ルツ、トゥーツの像。こちらには母と娘の像が。ラエコヤ広場全景。周囲の建物の色は落ち着いた雰囲気。 ラエコヤ広場に設置されているフレーム越しに。これぞ「絵になる街」。タルトゥ美術館は市庁舎広場に面した18世紀の傾いている建物。バークレイの家(Viltune maja Raekoja plats 18(Raekoja Square 18))とも。向かって左の壁は新しく基礎を造って建てたのに対し、川に面する右側は昔の壁の上に建てたため建物が傾いていると。地盤が軟弱なため木の杭では建物が傾いてしまったのだと。建物内には主に20世紀のエストニア絵画を所蔵すると。タルトゥ散策を終了し、リガまで約242kmのバス移動を開始。道路の両脇の白樺の林は青空に映えて美しかった。 再び見渡す限りの直線の高速道路をひたすら走る。 そしてリガの街に入ったのは18時前。 そしてこの日のホテル DAYS HOTEL RIGA VEF に到着。 最初はダブルベッドの部屋であったが何とかツインベッドの部屋に変えてもらう。 そして夕食後はまだ明るいのでホテル近くを散策。線路橋を渡る。 途中、愛車と同じ日産JUKEを発見し喜ぶ旅友のSさん。リガホーリートリニティ大聖堂。5個の大小ドームを持つラトビア正教会。 帰路のガード下にはトラムの基地が。 道沿いの体育館では室内でビーチバレーを楽しむ姿が。ホテルの部屋に戻り、3人で鰯の酢漬けで反省会後22時過ぎにこの日も爆睡。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.04.21
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2日目の朝は5時に起床。部屋のカーテンを開け外を見ると東の空が赤くなっていた。そして朝に見える下弦の月も。日の出は6時前。朝食前にホテルを撮影。Hotel Dzingelは緑豊かなノーメ地区に位置し、タリンの旧市街と旅客港まで車で15分程の幹線道路沿いの場所にあるホテル。ホテルの横の赤松の広場。そして7時過ぎにバイキングの朝食を楽しむ。出発は9:00とのことで旅友のSさん、熊本から単独参加の男性Mさんと三人でホテル周辺を散歩。ホテルの近くにあった石材工場の前にあった墓石。黒御影石?で40~50€近くの表示が。ホテル裏をタリン駅を出たディーゼル列車が。そして定刻の9時にタルトゥへ向けてバスは出発。E263号線は(英: European route E263) はエストニアのタリンから、ルハマを結ぶ、欧州自動車道路のBクラス幹線道路。ひたすら直線の道路が前方に。しかしまだ新緑には早く、花も少ない変化の少ない車窓風景が続く。途中トイレ休憩に立ち寄ったレストランは外見が変っていて風車小屋。添乗員の説明によると、かつてソ連時代にこの辺りは小麦の集団農場(コルホーズ)で、収穫した小麦をこの場所に集め風車で製粉していたと。ソ連から離脱した後に用がなくなり放置されていたのをある人が買い取りレストランに改造し商売を始めたとのこと。風車が目立つので客を呼び今では繁盛しているのだと。青空を背景に白樺の木?が美しかった。タルトゥ市内に入ると道路脇では大規模な重農機具の展示会が行われていた。Lai地区に入る。エマユギ川沿いのワバドゥセ大通りの文部教育省関連の下の写真の建物近くでバスを降りる。首都のタリンが政治・商業の中心であるのに対して、エストニア最古の大学があるタルトゥはエストニアの学問・文化の中心。公園の中を歩きこの日のランチに向かう。 ラエコヤ広場近くに立っていた父子?が手をつなぐ全身裸像。父子にしては身長に差がなさ過ぎか。この像は何を訴えていたのであろうか? 旧市庁舎に続く道。 昼食の店。 石の上にバターが。 メインデッシュは少なめ。 昼食後はピンクの可愛らしい色の建物・市庁舎へ。左右対称の建物。市庁舎のあるラエコヤ広場は何世紀もの間、タルトゥの中心であり、その歴史は古くに遡ると。この広場は13世紀からの街の中心で、市場や井戸があり、罪人への公開刑罰も行われていたと。今のように3階建ての石造建築が並ぶようになったのは、18世紀後半に街を焼き尽くした大火災の後。市庁舎(Raekoda)も1789年の建築で、当時のオランダの建築様式に影響されている。ネオクラシック様式の二階部分は、街の議事堂になっていた。地下は牢獄になっていた。現役の市庁舎として使われているが、中に入って展示物を見ることもできるのだと。今も広場ではクリスマスマーケットやハンザ・デーなど様々なイベントが開かれているのだと。 時間は13時と市庁舎の時計塔が。1998年には広場にキスをする学生の像とともに噴水が置かれ、町のシンボルとなっていると。傘を差しながらキスをする像が「キスの噴水」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2017.04.20
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出発日の朝は旅友のSさんが我が自宅に愛車・JUKEで5:50前に迎えに来てくれました。そして成田空港に向かい出発。自宅から戸塚を経由して横浜新道へと進む。そして首都高速横羽線、東関東道、新空港道成田で下車し、成田の駐車場に向かう。駐車場に着く。車の受け渡しはこの場所ではなく、成田空港第2ターミナル前に係員がいるからそこでとの駐車場の事務の女性社員から。再び車を走らせ 第2ターミナル前に7:50前に到着。集合時間は8:30であり余裕の到着。待つこと数分で係員が到着し、28日までの10日間の駐車の手続きを行う。 阪急交通社のカウンターに向かい、今回の旅行のツアーコンダクター(添乗員)の女性と対面。 直ちに成田空港内のJALチェックイン、出国手続き等の説明をいつものように受ける。そして今後の集合は搭乗ゲート前とのこと。そしてJALカウンターで荷物を預ける。座席は既にWEBチェックインで後方の55A、55Cの並びの席を確保済み。ユーロへの両替を行う。今回訪れるフィンランド、バルト3国は全て通貨はユーロ。そしてリトアニアは2015年1月1日からユーロ通貨に。そして出国手続きへ。 免税店でウィスキーを購入し、92番ゲートへ出発の30分前の10時過ぎには到着。この日の飛行機はJL413便のヘルシンキ直行便。 機種はボーイング787-9。そして10:50には成田空港を離陸し所要時間10時間20分の空旅がスタート。左下車窓にハート形の栃木県・群馬県・埼玉県・茨城県の4県にまたがる渡良瀬遊水池(わたらせゆうすいち)が見えた。渡良瀬遊水地は、足尾鉱毒事件による鉱毒を沈殿させ無害化することを目的に渡良瀬川下流に作られた遊水池。2012年(平成24年)7月3日、ラムサール条約に登録。 日光・男体山上空を飛行し新潟に向かって本州を横断。 日本海上空に入り佐渡島上空を通過するが雲に隠れて見えず。 離陸後の約1時間強でビールにありつく。 そして飛行機はロシア上空へ入る。 そして今回の最初の機内食を楽しむ。 そして機窓には白い世界が拡がり始めた。ボーイング787の窓は、大きく、外から客室に入る明かりをボタンから調整できるタイプ。2枚の薄いガラスの間にジェルの層が挟まれていて、電流がジェルに加えられると化学変化によってジェルが暗くなるのだと。窓は全てネットワークで繋がっていて、客室乗務員が個々の窓や一部のセクション、全ての窓を一斉にコントロールすることができるのだ。蛇行する白い川はロシア連邦シベリア南東部にある山脈であるスタノヴォイ山脈近く。そして前方に白きブル川が見えて来た。成田から常に太陽と追いかけっこしている我が飛行機。 そして2回目の機内食はスープ。食べるスープをコンセプトにしたスープ専門店「Soup Stock Tokyo」の一品。ポヴェネツキー湾上空。こちらは巨大なビニールハウスが並んでいるのであろうか? そしてヘルシンキ空港に近づくと機窓には高速道路が。 そしてフィンランド・ヘルシンキ空港に着離したのは現地時間14:15過ぎと予定よりかなり早め。 荷物の積み込みは全手動。 そしてタラップを下りバスで移動。 やはり10℃以下の涼しい気温。 無事、トラブルも無く、全員入国完了し待っているバスに向かう。ヘルシンキ・ヴァンター国際空港はフィンランド共和国の首都ヘルシンキの北15kmに位置。フィンランド最大の空港であり、北欧のみならず、中欧や東欧や、アジア各都市へ向けた便のハブ空港として機能。また、日本と欧州を結ぶ最短飛行距離の空港である上に、乗り継ぎ所要時間も短いため、毎年多くの日本人観光客が利用する空港。 そしてバスに乗り込みヘルシンキ西港に向かう。今回のツアーはご夫婦5組、二人連れ男性2組、二人連れ女性1組、単独男性1名そして単独女性1名の総計18名のツアーであることが判明。平均年齢はもちろん60歳以上? 大型バスの中は18名+添乗員、現地ガイドでありガラガラ、ユッタリ。一人がけで後部座席を確保。途中、一時期携帯電話のシェアーで世界を支配したノキア社は2013年9月にマイクロソフト社が買収されたのであった。 4/26日の帰路に宿泊するHOLIDAY INN WEST RUOHOLAHTI の前を通る。 そしてヘルシンキ西港にバスは到着。 ここから船でバルト海を横断し、エストニアの首都タリンへ向かうのであった。利用便は TALLINK Silja Line 18:30発EUROPA便。総トン数:59,914GT長さ :201.8m幅 :32.5m吃水 :6.8m最大速度:39.8 km/hチケットを受け取る。指定席はなく、自由に船内のビュッフェレストランや、ソファーのテーブル席を利用できるのであった。 12階まである船。 片道€49とのこと。フィンランドよりも物価(特に酒類)が安いため、多くのヘルシンキ市民が船内での買い物やタリン市内へ買い物客として訪れていると添乗員から。トランクを荷物専用室に預け、船室外に出てベンチに座り日光浴と景色を楽しむ。 本格的な春の到来を待ちわびる数々のヨット。 そしてバルト海に沈む夕日。時間は20:37。 記念に旅友とデッキでツーショット。 22時にエストニアの首都タリン港に到着。往路は3.5時間のバルト海クルージング。 タリンは、フィンランドの首都ヘルシンキ、ロシアのサンクトペテルブルクと同じく、フィンランド湾に面する主要都市の一つ。また、中世ハンザ都市の一つとして栄えた港湾都市で、現在もバルト海クルーズの主な寄港地の一つである。。フィンランド南岸のヘルシンキからタリンまでは85km、同湾東奥の以前訪ねたロシア・サンクトペテルブルクまではタリンから350kmの距離。そしてこの旅行最初のホテルへ待っていたバスで向かう。 途中ライトアップされていたタリン旧市街の「聖オラフ教会」の塔が車窓に。現在では旧市街で最も高い塔(123.7m)。タリンの旧市街から4kmほど離れた郊外のホテルに到着したのは22:35。 ホテル名は「DZINGEL HOTEL」。フロントロビー。 我々の部屋は515号室。部屋の壁には絵も写真もなく極めてシンプルなツインの部屋。着替えて早速この日の反省会をウイスキーグラス片手に暫し旅友と二人で。そして翌日の早朝起床の為に爆睡。 ・・・つづく・・・
2017.04.19
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【海外旅行 ブログリスト】👈リンク今年も明日・4月19日(水)から4月28日(金)までの10日間、バルト3国へいつもの旅友Sさんと観光旅行に出かけます。 以下の写真は、今回のツアー会社の阪急交通社のパンフレット&HPから転載させていただきました。バルト三国(バルトさんごく)は、バルト海の東岸、フィンランドの南に南北に並ぶ3つの国を指し、北から順に、エストニア、ラトビア、リトアニア。 歴史的に、エストニアやラトビアは北欧諸国やドイツと、リトアニアはポーランドとのつながりが深く、また3か国はロシアとも深く関わってきた。 三国ともロシア帝国に支配されていたが、ロシア革命の後、1918年に三国とも独立を達成。しかし第二次世界大戦中の独ソ不可侵条約における秘密議定書を発端としてソ連とドイツによる占領が続いた。1940年にソビエト連邦に併合され、ソビエト連邦構成共和国であるエストニア・ラトビア・リトアニアの各「ソビエト社会主義共和国」として連邦政府の強い統制下に置かれた。1941年に始まった独ソ戦によりこの地域はナチス・ドイツの支配を受けたが、1944年から1945年にかけて再びソ連に占領された。戦後、ソ連は自らが得た戦前の旧ポーランド領の一部をリトアニアに編入し、現在に至るバルト三国の国境線が確定。日本とバルト三国の友好関係は、日本が1921年に当時のエストニア、ラトビアを及び1922年に当時のリトアニアを国家承認したことから始まります。1991年9月のソ連からの独立直後、日本は政府ミッションを派遣し各国の独立に対する支持を表明。そして2016年はバルト三国と日本が新たな外交を開設してから25周年にあたった。この20年の間、日本と各国は政治、経済、人的交流の面で関係を深め2007年には天皇皇后両陛下がエストニア、ラトビア、リトアニアを訪問しいずれの国でもあたたかい歓迎を受けました。(外務省HPより)今回のツアーはJAL往復直行便を利用し、成田から出発する限定28名のツアー。 成田から往路10時間20分でフィンランド・ヘルシンキまで飛ぶのである。 そしてヘルシンキ西港からタリンクシャトル でバルト海をクルージングすること約2時間でエストニアのタリンに到着。 タリン(Tallinn)は、バルト海東部のフィンランド湾に面するエストニア共和国の首都。フィンランドの首都ヘルシンキ、ロシアのサンクトペテルブルクと同じく、フィンランド湾に面する主要都市の一つであり、2011年の欧州文化首都である。また、中世ハンザ都市の一つとして栄えた港湾都市で、現在もバルト海クルーズの主な寄港地の一つである。初日は夜遅くタリン郊外のホテルに到着。 タリンの観光は帰路であり、翌日はタルツゥに向かってバス移動。タルツゥに到着後は市内観光しラトビアのリガに向かって更に移動しリガのホテルに宿泊。 3日目は世界遺産のリガ歴史地区観光。リガ大聖堂、聖ペテロ教会、ブラックヘッドの会館、三人兄弟、ユーゲントシュティール建築群、自由記念碑、中央市場等を観光予定。そしてカナウスに移動し宿泊。 リガ歴史地区は、ラトビア共和国の首都リガの旧市街と新市街が該当し、リガは同国最大の人口を擁しています。また、「バルト海の真珠」と讃えられる美しい港町で、ユネスコの世界遺産に登録。 町の始まりは1200年。同年、ブレーメン司教アルベルトによって聖堂や兵舎が築かれ、1255年には大司教座が置かれました。1282年に、北ドイツの有力な都市連合、ハンザ同盟に加わり、13~15世紀にバルト海東岸の商業の中心地として、ロシアと西ヨーロッパ地域を結ぶ交易によって繁栄しました。旧市街には、中世ドイツの商業都市の特徴が見られ、とりわけハンザ同盟時代の町並みがよく残されています。ほぼ中心部にあるリガ大聖堂をはじめ、聖ヨハネ聖堂、聖ペテロ教会堂は13世紀に建てられました。リガ大聖堂は、その後18世紀まで増改築が繰り返されたため、ロマネスク、ゴシック、バロックなど、さまざまな建築様式が見られます。4日目AMはカウナスの市内観光。旧日本領事館、大聖堂、ペルクーナスの家、旧市庁舎、カナウス城を観光予定。 特に第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。1940年7月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られる。その避難民の多くが、ユダヤ系であった。「日本のシンドラー」などと呼ばれることがある。 5日目は同じくリトアニアのヴィリニウス市内観光。大聖堂、夜明けの門、旧市庁舎、聖ペテロ・パウロ教会を訪ねる。リトアニアの首都ヴィリニウス、タリンやリガと異なり中世にポーランドの影響を強く受けたので、天を突くゴシック教会は少なく、その代りにカトリック教会が多数を占めています。今まで見てきた街の印象と異なるのはそのためでしょう。聖ペテロ・パウロ教会はバロックの街ヴィリニウスを代表する建物で、建物そのものは1675年に完成しましたが、内装に30年掛かったと。そしてギリシア神殿のようなファザードを持つ大聖堂は、中世期にリトアニアがキリスト教に教化されたシンボルともいうべき教会で、13世紀の創建。今のようなクラシック様式に改築されたのは18世紀になります。ヴィリニウス市内観光の後は、トラカイ観光。トラカイ島城は、リトアニアのトラカイ、ガルヴェ湖上に浮かぶ島の上に建てられた城の名称。城は時折、「小さなマルボルク城」と呼ばれる。石造の城の建設は中世リトアニアの君主ケストゥティス (Kęstutis) により始められ、1409年頃に彼の息子であるヴィタウタスにより竣工へと至った。6日目はシャウレイに移動し十字架の丘を散策。十字架の丘は、リトアニア北部、シャウレイの北12kmに位置する巡礼地。リトアニアの観光名所として有名。その発祥は分かっていないが、初めてここに十字架が建てられたのは1831年のロシアに対する11月蜂起の後であると考えられている。数世紀を経て、十字架だけでなくイエスの受難像やリトアニアの英雄の彫刻、聖母マリア像、肖像画、ロザリオなどもカトリック教会の巡礼者によって置かれるようになった。十字架の正確な数は分かっていないが、約50,000であろうと推測されていると。そして再びリガまで長距離バス移動し、到着後は自由行動。7日目はピルスルンダーレへ移動しルンダーレ宮殿を観光。 ルンダーレ宮殿はラトビアで最も素晴らしいバロック-ロココ様式の記念建造物の一つ。1736−40年にビロン公の夏の宮殿として、ロシアの宮殿を手 掛けたラストゥレリにより建てられた。彼の作品はヤルガヴァやサンクト・ペテルブルグでも見られると。2階建ての宮殿には138の部屋があると。観光後はタリンに移動。8日目はタリン歴史地区観光。アレキサンドルネフスキー寺院、聖カタリーナの小路、旧市庁舎を観光。アレクサンドル・ネフスキー大聖堂はトゥームペア(Toompea)の丘に建っている正教会の教会。帝政ロシアの一地方にエストニアが組み込まれていた1894年から1900年の間にミハイル・プレオブラジェンスキーによって典型的なロシア復古主義のスタイルに設計され建設された。アレクサンドル・ネフスキー大聖堂はタリンにあって最大かつ最重要の正教会のクーポル付き大聖堂。 そして帰路もバルト海クルージングでフィンランド・ヘルシンキに移動し最後の夜はヘルシンキ市内での自由行動。 9日目、最終日はOPツアーを申し込み済みでスオメンリンナ要塞を見学予定。スオメンリンナの要塞は、フィンランドの首都ヘルシンキ市内の6つの島の上に建造された海防要塞。ユネスコの世界遺産に登録されており、観光客のみでなく、地元民にとっても、美しい行楽地として人気がある。当初の名前はスヴェアボリ(スウェーデンの要塞)だったが、1918年に愛国主義的な理由からスオメンリンナ(スオミの城塞)と改称された。 バルト3国の旅行に当たり、バルト三国の歴史、杉原千畝に関して予習。 バルト三国についても図書館の本を借り読んで見ましたが、それぞれの歴史は当然異なり複雑で十分理解するには至らなかったのですが。 地球の歩き方も購入。 そして最終旅行日程表とガイドブックも送られてきました。ホテルの位置も確認し、朝の散歩コースをイメージ済み。 今回の旅行に当たり、10年用のパスポートを更新したのです。そしていつものトランクに荷物をパッケージング。気温は我が家周辺の1ヶ月遅れのつもりで衣類を準備。 しかし、昨日はタリンでにわか雪が舞っていた模様。そしてリュックもいつものように。 行ってらっしゃい!!私は相撲力士の元大関・把瑠都(ばると、本名:カイド・ホーヴェルソン )私の故郷はエストニアのタリンから車で約1.5時間・70km程東のラクヴェレと言う街。ラクヴェレ城という中世の城のある街。美人が多いことでも知られるバルト3国を多いに楽しんで来て下さいね。男が死ぬまでに行くべき美女大国ランキング トップ5は1位 バルト3国 2位 ウクライナ3位 スウェーデン 4位 タイ 5位 アルゼンチン ですよ!!一期一会の出逢いを良い思い出に!!。 【http://bbt.ac/estonia_bizideacontests/より転載】14日夕方には、今回のベテラン添乗員の女性から携帯にTELが。旅行中の午前中は寒いことが予想されるので、防寒の準備をと。そして16日出発72時間前にネットで今回のJAL便(Boeing 787)の窓側・通路側の並び2席を確保しました。これでトイレ等に気楽に行けるようになりました。 今回も旅友のSさんの愛車で成田空港まで。我が家に5:45前後に迎えに来てくれるのです。パッケージングもほぼ目処が付きました。それでは行って来ます。中世の街並み、一期一会の出会いを楽しんできます。
2017.04.18
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次に龍潭寺(りょうたんじ)を訪ねる。寺伝によれば天平5年(733年)、行基によって開かれたとされ、当初の寺号は地蔵寺であったが寛治7年(1093年)に井伊共保が葬られた際にその法号から自浄寺と改められた。平安時代から井伊氏の菩提寺であり徳川四天王の筆頭井伊直政、幕末の井伊大老直弼など井伊家四十代を祀る菩提寺。元中年間(1384年 - 1392年)、宗良親王(後醍醐天皇の皇子)がこの寺を中興したとも。戦国時代の永禄3年(1560年)に戦死した井伊直盛がこの寺に葬られると、直盛の法号から龍潭寺と改められた。ちなみに龍潭寺のある井伊谷は井伊谷川と神宮寺川が合流する流域にあり水が豊富にある。龍潭寺の「龍」は水神の龍でもある。 龍潭寺山門。山門は、明暦2年(1656年)の建立と伝えられ、巴瓦(ともえがわら)には室町期のものも見られると。扁額は明暦元年(1655年)、第六回朝鮮通信使(家継将軍就任祝賀)の金義信(号は雪峰)の書による。幕府供応役の彦根藩主井伊直孝公の依頼により彦根藩滞在中に書いたものを揮毫したもの。 寛永8(1631)年に建立された東門(旧鐘楼堂)。龍潭寺の中では最古の建造物とのこと。庫裡(くり)(1815年建立。静岡県指定有形文化財)。拝観料を支払い、まず庫裏を上がり内部の拝観をはじめた。 庫裡の内部へ入ると建物を支える重厚な柱や梁が目に飛び込んで来た。龍潭寺は禅宗系の寺院であり、建造物に華美な装飾などはないが、だからこそ質素な美しさが際立って見えたのであった。丈六(じょうろく)の仏 (1729年建立)。木彫寄木造りの釈迦如来坐像で、身丈 2.80m(総丈台座共3.55m)。 本堂(1676年建立。静岡県指定有形文化財)。ご本尊は虚空蔵菩薩。また本堂には享保14(1729)年に建立された木彫寄木造りの釈迦如来座像や、旭英(きょくえい)筆の「龍虎襖絵」などがあった。そしてこの裏側に龍が描かれていた。本堂前の、浜名湖を表現しているという普陀落の庭。正面は仁王門(1987年建立)。この龍潭寺本堂の玄関から鶯張りの廊下を渡った西側には、江戸時代初期に活躍し、日光東照宮のねむり猫の作者としても有名な左甚五郎が彫った「竜の彫刻」が。廊下上部に置かれた「竜の彫刻」の存在感は大きく、訪れる人の目を釘付け。渡り廊下の先にあったのは大河ドラマにも一部出た、銀閣寺のような朱塗りの楼閣(開山堂)。内部に入ると井伊家の籠が。しかしかなり小さい籠。開山堂は、「遠州地方に禅宗を広めた黙宗瑞淵禅師」を祀っているのだと。御霊屋。井伊家御霊屋には、元祖・井伊共保公、22代・井伊直盛公、24代・井伊直政公の木像が安置され、大老・井伊直弼の位牌を初め多くの位牌がお祀りされていた。江戸時代に建てられ、県の文化財に指定されていると。龍潭寺庭園。小堀遠州による池泉鑑賞式庭園は「国指定名勝記念物 龍潭寺庭園」として国の名勝にも指定された名園。池泉鑑賞式庭園とは、『池などの水を使った「池泉」を本堂や屋内に座って「鑑賞」する庭園』のこと。庭園中央部分。「心」の形の「心字池」は大海を表していると。正面に見える小高い丘は山の峰、丸く刈られた木は山脈を表現。5月になればサツキが見頃を迎え美しい姿を示すのであろう。日本庭園には「蓬莱神仙思想」が多く取り入れられていると。龍潭寺庭園にも不老不死や永遠の繁栄の意が込められているのだ。海に見立てた池に浮かぶ岩は仙人の住む蓬莱島(蓬莱岩島 ほうらいがんとう)で、その左右には海にこぎ出さんとする亀(亀出島)、飛び立つ鶴(鶴出島)が表現されている。 庫裡の展示室にある井伊直虎像(池谷雅之作)。ご朱印を頂きました。御本尊の「虚空蔵佛」とスマートな筆致で書かれていました。鐘楼。祈りの鐘 で除夜と正月5日間は自由に撞く事が出来ると。遠江八景「五山晩鐘」の一つ。 方広寺の鐘も同じと。六地蔵。井伊家歴代の墓所。直盛の死後井伊家の当主となった井伊直親、直盛の娘で直親の死後の永禄年間に井伊家を取り仕切った女城主・井伊直虎の墓もあり、直親と直虎の墓は隣り合っている。 正面右に初代の井伊共保、左側には22代井伊直盛の墓。左側の列の奥から二番目が直虎の墓、一番左手前が直政の墓に。後醍醐天皇第四皇子・宗良親王(むねよししんのう、むねながしんのう)陵墓。井伊谷は井伊氏発祥の地で、宗良親王は井伊道政と井伊高顕に助けられ、この地で死んだと伝えられていると。皇族の陵墓とあって、みだりに立ち入ることはできなくなっていました。井伊社。22代当主となった「井伊直虎」は、苦境に立たされた井伊家を存続させるべく周辺諸国の様々な圧力や干渉の中を類まれな判断力と領地運営力で乗り切りつつ、後の徳川四天王となる井伊直政を育て上げ、井伊家再興の礎を築くこととなった。こうした井伊家と皇室の結び付きは明治期の井伊谷宮創建に際しても変わらず表され、親王様の御墓整備並びに井伊谷宮御鎮座が井伊家の多大なる貢献によって整ったことにより、明治八年井伊道政公・高顕公を御祭神として「井伊社」が井伊谷宮本殿横に創建された。 井伊谷宮。後醍醐天皇の皇子宗良親王を祭神とし、明治天皇の勅命により明治5年創建された新宮、旧官弊中社。起源は、延享2年(1745年)信濃の旗本知久監物頼久が龍潭寺十世住職獨叟法達の頼みにより境内に宗良親王の宝篋印塔を建立したことによる。昭和5年には昭和天皇が奉賛され、昭和58年には今上天皇が皇太子時代に奉賛された。ご朱印を頂きました。 参道鳥居から井伊谷宮社殿を振り返る。 井伊谷宮の参道入口はここ。 井伊家の祖といわれる井伊共保公出生の井戸を訪ねる。寛弘7年(1010年)正月、八幡宮の宮司が井戸の端に捨てられていた男の子を見つけた。その子は七歳までに八幡宮地蔵寺(現:龍潭寺)で養育され、遠州国司藤原共資の養子となり成人してから当地に戻り、地名を使って井伊共保と名乗り井伊家の祖と云われていると。井伊家の紋章は、この故事に由来し井戸(井筒)と傍らにあった橘の木となったと。 また、嘉永4年彦根藩主となった井伊直弼が御国入りの際、菩提寺の龍潭寺を参拝され、この井戸で和歌を詠んだと。『湧き出づる岩井の水のそこ清み曇りなき世の影ぞ見えつつ』。 井伊直親の墓は浜松市北区細江町の都田川の堤防沿いにあった。石碑の前の灯籠は、桜田門外の変で討たれた井伊直弼により嘉永4年(1851)寄進されたもの。 直虎の元許婚・井伊家第23代当主井伊直親の墓。永禄5年(1562)、家老の小野但馬守が今川氏真にざん言をしたため、直政の父・直親は弁明に駿河へ向かう道中、掛川城主朝比奈備中守によって謀殺された。 蜂前神社(はちさきじんじゃ)。直虎の花押が記された唯一の古文書「井伊直虎関口氏経連署状」を所蔵。応神天皇の時代、八田毛止恵が勅命によって遠江国に下向して開墾し、八ヶ前の地に本社勧請したのが始まりだといわれる。直虎書状は浜松市博物館に保管されていると。 社殿。本殿には、熯速日命を祀る。 境内後方の丘の上の桜も見事。 天王社。 折しも、「井伊直虎は男だった」なる説(小野政次説、井之次郎説)等が新聞等で賑わっているが、真実は如何に?そんな状況に対し、NHKでは「ドラマはあくまでフィクション」とのスタンスで通す様子だが、さりとて視聴者の我々からすれば何かモヤモヤとしたものが胸の中に生まれているのも事実なのであるが・・・・。 そして更に浜松駅方面に車を走らせ三方原古戦場跡に到着。戦いがあった場所ついては、三方原台地であるということ以外、詳しいことはわかっていないのだが、1984(昭和59)年、その歴史を長く伝えようと「三方原歴史文化保存会有志」の手により、三方原の一角であるこの地に碑が建立されたのだと。三方原霊園のこの場所を見つけるのに苦戦したが。若き日の徳川家康が、武田信玄に大敗北を喫した「三方ヶ原の戦い」。三方原台地の一角に、この辺りが戦いの舞台となったことを示す碑が建てられていた。 家康はこの敗戦を教訓とし、いかにして勝つか、信玄の戦法を積極的に学び、その後の数々の戦いに生かしていったといわれているのです。 最後に浜松城を訪ねる。 徳川家康が元亀元年(1570)に築城し、29歳~45歳までの17年間を過ごした浜松城。天正3年(1575)、徳川家康に仕えた井伊直政は、家康の小姓として仕え、武功を重ねていった。家康が出世の礎を築き、歴代城主の多くが後に幕府の重要ポストに登用されたことから、別名「出世城」とも呼ばれている。現在の天守閣は昭和33年(1958)に、天守門は平成26年(2014)に再建されたもの 浜松城公園内にある若き日の家康像。 浜松城天守を見ながら、桜の下でコンビニ弁当を楽しみました。残念ながら花見の宴とはなりませんでしたが。天守門から城内へ。城内からの天主門。平成26年3月に完成したばかりの天守門。櫓門(やぐらもん)という構造になっており、内部を見学することもできる。 徳川家康の築いた浜松城の城郭は南北約500m、東西約450m。三方ヶ原台地の斜面に沿い、西北の最高所に天守曲輪、その東に本丸、二の丸、さらに東南に三の丸と、ほぼ一直線に並ぶ、「梯郭式」の築城法。「梯郭式」とは、各曲輪が隣接しながら、階段状になっている様式のことで、本丸の背後が自然の防衛線になるような城に多く見られるのだと。 前身は曳馬城(引間城)で天文年間(1532~54)今川氏の属将飯尾氏の居城であった。永禄11年(1568)徳川家康が攻略、元亀元年(1570)岡崎城から本拠を移した。天正5年(1577)本多作左衛門を奉行に任じ曳馬城の城地をも含む大規模な城を築いた。これが近世城郭としての浜松城である。以来、家康は17年間在城する。江戸時代になって諸代大名十二氏二十二代が入れかわったと。 秋葉神社。家康が浜松城入城の際に勧請した歴史ある神社で、火の神様として有名。また、浜松の地を争った宿敵・武田家が滅亡した時に、家康は多くの旧武田の家臣を召し抱えたが、その際に家康への忠誠を誓わせた起請文をこの神社に奉納させていると。 浜松城の天守曲輪の一角、埋門のそばに井戸があった。当時の井戸と考えられるが、すでに深さは1mほどになってしまっており、水もなかった。 浜松城公園内をしばし散策。 浜松市戦災被爆者慰霊碑。浜松城公園庭園東門。綺麗に整備された日本庭園の池の水面には散った桜の花びらが。散った桜が水の上に帯のように浮かび流れる姿を筏(いかだ)にみたて「花筏(はないかだ)」と呼ばれています。 野生のリスがいました。野生といっても、もともとは浜松市動物園で飼育されていたタイワンリスとのこと。 そして浜松ICから第一東名を利用し、途中、中井SAにて腹ごしらえして帰路へ。旅ともSさんが作成してくれたこの日の行程表です。ドライブ距離約500kmの井伊直虎ゆかりの地「井の国」を急ぎ巡る旅であったのです。Sさん、運転お疲れ様でした。ありがとうございました。 -------完--------
2017.04.17
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車を走らせ方広寺(ほうこうじ)を訪ねる。方広寺は、静岡県浜松市北区にある寺院で臨済宗方広寺派の大本山。山号は深奥山(じんのうざん)、寺号は詳しくは方広萬寿禅寺と称する。別称、奥山半僧坊。本尊は釈迦如来。 1371年(建徳2年)この地の豪族奥山朝藤の開基により、後醍醐天皇の皇子・無文元選を開山として創建された寺。1587年(天正15年)後陽成天皇の勅願所となり、江戸時代には江戸幕府から朱印状が与えられていると。明治に入り臨済宗南禅寺派に属していたが、1903年(明治36年)独立して臨済宗方広寺派の本山となった。三重塔が駐車場の横に。この宝塔は大正12年、故間宮英宗管長発願で京都山口玄洞氏の寄進により建立されたもの。 受付でもらった方広寺案内図。駐車場から大本堂、境内を見下ろす。60ヘクタールの境内には大本堂、半僧坊真殿、三重塔など六十余棟の伽藍があると。 朱色の亀背橋。橋を渡ると大本堂の前に大本堂。扁額の揮毫は山岡鉄舟。方広寺の本堂大屋根は、平成20(2008)年から22(2010)年にかけて、屋根替えの大工事が行われた。そして、平成23(2011)年3月5日に落慶式が行われ、生まれ変わった。その屋根替え前の大鬼瓦が、本堂前にモニュメントになって展示。 大庫裏から堂内へ。県西部の円空彫りの愛好家でつくる「遠江円空研究会」の作品展が、方広寺で開かれていた。 観音堂。開山堂への回廊。 開山堂内部。五百羅漢が点在してるので、自分に似た羅漢様を探しながら歩く。半僧坊真殿からの開山堂。半僧坊真殿の天狗の面がお出迎え。「本堂」の裏にある「らかん乃庭」。一体20万円から奉納できるのだと。 与謝野晶子の歌碑も。「奥山の しろがねの気が 堂塔を 阿まねくとざす 朝ぼらけかな」。らかん乃庭から階段を上れば上天台舎利殿に。途中の六地蔵。 涅槃乃庭。 上天台舎利殿。 本堂裏の高所に建てられたこの舎利殿は京都銀閣寺風二層式でお釈迦様の歯の一部がスリランカ仏歯寺管長ワジール師によって奉納されたと。外に出て再び散策。観音堂への階段。方広寺は皇室にゆかりのある寺で、建物の正面には勅使門(ちょくしもん)が。半僧坊真殿を正面から。中国各地での修行を終えた開山禅師の帰国途上、海難の危機を救い、寺の守護を誓ったといわれる方広寺の鎮守『奥山半僧坊大権現』をお祀りしている。建物は、明治14年(1881年)の大火直後に三河の名工により建てられた権現造り。 半僧坊真殿の正面の向拝(こうはい)には岩五郎の作『昇り龍下り龍』の一木彫の彫刻が。向かって左が「昇り龍」、胴体の右端にこちらを向くように頭部が。今にも動き出しそうな迫力と躍動感に圧倒されたのであった。全長は3m近くか。右側の「下り龍」は左端の反対側に頭部が。 「半僧坊大権現」と書かれた大きな提灯。 奥の院への入口。ご朱印を頂きました。応永8年(1401年)建立の棟札を有する七尊堂。この堂は、七尊の名が示すように、富士浅間大菩薩、春日大明神、伊勢大神宮、稲荷大明神、八幡大菩薩、梅宮大明神、北野天満大自在天神の七神を合わせて祀る鎮守堂で、県下最古の木造建築物。鎌倉末期の建築様式を今に伝える堂で、昭和29年に国指定重要文化財に。駐車場に戻り車で黒門に向かう。黒門と呼ばれる総門をくぐると、右手に受付があった。こちらが正式の参道。 左側に池と出世弁天堂が。朱色のこの三門を潜り、暫くすると参道が二手に分れ、左手が『表参道』こと『哲学之道』右手がらかん坂。。哲学の道には朱の鳥居が。方広寺は寺だが、境内の半僧坊真殿は神社であるとのことで鳥居が建てられているのだと。 右側のゆるやかならかん坂を上る。方広寺の五百羅漢(らかん)と呼ばれる石像も有名。石橋の羅漢は5体。その後ろに滝が。 時には4体、時には5体となり方広寺の不思議の一つと。紅葉の時期に訪れたらもっと美しいと思われるので機会が有ったら再訪したいと。麓の「夢の浮橋」と桜の絶景。 竜ヶ岩洞(りゅうがしどう)に立ち寄る。竜ヶ岩洞は、静岡県浜松市北区引佐町田畑にある鍾乳洞。1981年に地主の戸田貞雄氏の許可を得た洞窟愛好家2名が発見したと。赤石山脈の支脈に位置する標高359.1mの竜ヶ石山にあり、洞窟を形成する石灰岩は2億5千万年前に生成された秩父古生層と呼ばれる地層で形成されている。総延長:1046m 一般公開:約400m 洞内気温: 年中18℃ 洞内見学ポイント: 約50ヶ所 地層 :秩父中古生層(2億5千万年前) 見学所要時間 :約30分(混雑時約45分) 仁王門。 乳石。 喜びの窓。風の吹き出す幅50×高さ10cmの小さな窓が、大空間発見の糸口となった。 ヘチマ フローストーン。1滴の地下水が、年月を経てヘチマの岩形を。その表面は、今もなお彫り続けられている。ワニの岩。びょうぶ岩。通路両側の石灰岩に、サンドイッチ状に挟まれていた輝緑凝灰岩が水に侵食されてできた、狭くて深い裂け目状の通路。マリア観音。敬虔なほのかな光が、静寂の中にひっそりとたたずむ マリアの姿を神秘的に映し出す。時々虹の後背が。慈母観音。黄金の大滝。洞窟のはるか天上から勢いよく落ちる水の落下は、まさに自然が創り出す荘厳なドラマ。滝の落差は約30mあり、地底の滝としては日本で最大級の規模。流れ石。水神様。鳳凰の間。まるで鳳凰が羽をいっぱいに広げ、見事に舞い上がるような雄大な姿は観る者の心を一瞬にして別世界に。黄金の富士。闇にきらめく石灰の中で、黄金色の富士がすべてを眺望するかのように燦然と。そして洞を出て足湯ならず鍾乳洞の水が流れる「足水」へ。 周囲の桜も今が盛り。
2017.04.16
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4/12(水)早朝から 現在NHKで放映されている、大河ドラマ『おんな城主直虎』のゆかりの里・井の国(浜松市北区)を、いつもの旅友Mr.S.さんと訪れました。自宅を5:30に出て6:00前にSさん邸に到着。Sさんの愛車に乗り換え圏央道から東名高速に。大井松田手前で富士山の雄姿が迎えてくれた。 鮎沢PA近くからの富士山。 新東名で島田金谷インターに近づくと、名物の「茶」文字の山が見えて来た。そして浜松いなさICから井伊谷城址へ向かう。 途中の道路脇の桜は満開。 静岡県浜松市引佐町、旧引佐町役場の北東500m。257号線の西側の井伊谷城址内にある二宮神社の石鳥居。 そして8:30に二宮神社に到着し女城主・井伊直虎 ゆかりの里の散策スタート。二宮神社御由緒『当二宮神社は多道間守と宗良親王との御二柱を御祭神としております。往古は三宅神社と称し奉り、天日槍尊の四世で、井伊郷の荘司三宅氏の始祖 多道間守の尊霊を奉祀した延喜式の式内社に列せられた霊社であります。第十一代垂仁天皇の勅諚に応え常世の国から我国へ橘を将来したのがこの祖神多道間守で当地発祥の井伊家は式内社渭伊神社を象徴する井桁と、当三宅神社の橘とを家紋と致しました。元中二年八月十日(西暦一三八五年)後醍醐天皇の皇子宗良親王が井伊城に薨ぜられるや九月南帝の勅使中院為久郷、中院少将定平朝臣下向、御連枝の方廣寺開山、圓明大師を御導師として葬送の御儀を執行い、当三宅神社に尊霊を合祀し奉り、慈来二柱の神霊を祭祀するため二宮神社と改称し奉りました。』 -境内案内板より- 上記の如く井伊家にかかわる多道間守(橘の家紋)と宗良親王がご祭神。宗良親王は「二宮」と呼ばれたために二宮神社と言われるのだと。天王社。 二宮神社から急な坂を上っていくと10分弱で井伊谷城跡(いいのやじょうあと)に到着。手前には虎口(大手口)と書かれたポールが立っていた。井伊谷城跡は井伊氏居城の痕跡が残る場所。標高約115mの丘陵に築かれた井伊谷城は、井伊氏発祥の城。井伊直親らが城主を務め、直親の死後に当主となった直虎の居城。 直虎と井伊家ゆかりの人物関係図を私の頭の整理用に。南側を土塁で囲んだだけの簡素な作りで、現在は城山公園として整備されていた。 土塁などの遺構が見学できた他、井伊谷の風景が一望できた。 井伊谷城からのパノラマの案内図。 手前左手の麓に二の丸と本丸跡地が。再び二宮神社の境内まで戻る。足跡石。 参道脇の鳥居脇の天神社の小祠。 二宮神社のすぐそばにある足切観世音(あしきりかんぜおん)まで移動する。宗良親王の念持仏(日常念持し礼拝する仏像)である身代わり観音を祀る堂宇。この堂宇を足切観音堂と言ってる。足切観音の由来は、延元(1336~7)の昔、戦乱のある日宗良親王は流れ矢を受けて落馬した。従者が介抱したが不思議にも傷跡がなかった。親王は夕刻、念持仏を礼拝したとき仏像をみると、仏像の御足あたりが血に染まって痛ましい限りであった。親王は「吾が身代わりになりたり」と言って益々信仰を深められた、との伝説があるとのこと。 直虎の叔父、直満らの屋敷跡と伝えられている。井殿の塚に到着。塚を覆う巨木はタブノキ。ここは井伊家弔いの地。今川義元に謀反の疑いをかけられ、 駿府で討たれた井伊直満と直義の墓がここに。井伊谷の人々がこれを悲しみここに塚を造ったと。幕末には大老・井伊直弼もここを参拝し、石垣を寄進したと。井殿の塚近くには紅白の枝垂れ桜が満開。 井殿の塚の道路の反対側の高台には晋光寺(しんこうじ)が。 臨済宗妙心寺派の寺。そして次に訪れたのは井伊氏居館跡。井伊氏の居館跡がこの地に想定されるのだと。井伊氏の本拠は、平時を過ごした居館と北西に位置する井伊谷城で構成されていたと。天保15年(1844)、近隣の二宮神社神主中井直怒が著した『礎石伝』には、当時の居館の様子が描かれていると。 居館の周囲には、方形に土塁や堀を巡らすなどほかにも多くの遺構が見られたことが伺えるのだと。しかし、現在では宅地化が進み、 南西隅に堀の跡が水路として残るのみであった。そして浜松市地域遺産センターを訪ねる。2017年大河ドラマの舞台となっている井伊氏ゆかりの地、井伊谷。井伊谷城の立地する城山のふもとにある「浜松市地域遺産センター」で戦国時代の井伊谷についての展示を行っていた。地形ジオラマへのプロジェクションマッピングや、井伊直親ゆかりの青葉の笛の再現、井伊谷城の復元模型や3D画像など、井伊谷の歴史がわかりやすく楽しめる特別展。 1Fエントランスホールには巨大な笛の顔出しフォトスポットが。 遠江に残る木喰仏が展示されていた。木喰五行上人(行道、明満。1718(享保三)年-1810(文化七)年は、江戸時代に全国を行脚した遊行僧で、60歳を過ぎた頃から人々の求めに応じて一木造りの仏像「木喰仏」を各地で刻んだ。1800(寛政十二)年、83歳の頃に木喰上人は当地浜松を訪れており、市内北区や浜北区には数多くの木喰仏が残されていると。その素朴な美は、民芸運動で知られる美術評論家の柳宗悦が見出し、今なお多くの人を魅了しているのだと。 開館記念特別展『仙石の井伊谷』が開催中。 2階展示室では、井伊直虎の生涯や井伊谷周辺の戦国時代の様子をプロジェクションマッピングとジオラマで物語風に紹介する「井伊谷戦国絵巻」や、城跡の推定復元ジオラマと360度動かせる3D画像により井伊谷城を俯瞰できるコーナー、井伊直親ゆかりの笛を再現した「青葉の笛」、北神宮寺遺跡を中心に井伊谷の中世遺跡の出土品などが展示されていた。 ジオラマで物語風に紹介する「井伊谷戦国絵巻」。NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」のスター。 こちらにも。 井伊直虎の菩提寺であり、晩年を過ごしたという「妙雲寺」を訪ねるがこの日は平日の為Closed。 臨済宗妙心寺派の寺院で、かつては自耕庵と呼ばれていたと。妙雲という名前は、直虎の法名「妙雲院殿月舩祐圓大姉」から来ていると。2015年井伊直虎、2016年直虎を支えた南渓和尚の位牌、肖像画などが発見されており、現在は曜日限定で公開されているのだと。 南渓和尚は、女性であった直虎を領主に推薦した人物。井伊家の御家再興に力を尽くした人物で、龍潭寺の2代目住職。屋根の鬼瓦も印象的。 妙雲寺の北方に100mほどにある井伊直虎の墓とのこと。近年、覆い屋根が作られたようであった。 祠の中には宝篋印塔が安置されていた。 そして謂伊神社へ。もともと龍潭寺の境内にあったと言われている謂伊神社は井戸や井水を祭祀対象とした神社で、やがて井伊氏の発祥とともに氏神となったと。後に井伊氏が渭伊神社を神仏混交方式とし、渭伊八幡宮と改称。明治元年(1868)の神仏分離令により、渭伊神社に戻ったと。本殿の裏にある天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡。この遺跡は大河ドラマの第1回にも出てきたのであった。高さ約20mの円錐形をなす小丘陵の頂上に、40m四方にわたって数十個の巨石が群在。この遺跡は出土品より、古墳時代から鎌倉時代まで実際に祭祀が行われた事を証明する磐座として全国的に貴重な遺跡。三つの岩塊からなり、時代によりそれぞれの祭祀場所は異なるが、基本的には南面が祭場。この事より神宮寺川の治水を祭っていたのではないかと。古墳時代の巨石遺跡ということで、パワースポットとしても近頃紹介されていると。
2017.04.15
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我が家の横の菜園の入口にあるハナカイドウ(花海棠)が開花しています。ハナカイドウの花はこの4月、枝先に紅色の花が、4~6個散形状に垂れ下がって咲くのです。我が家の物は一重咲きでしょうか。薄紅色があざやか。中国では、美人の形容に使われる花木。夏目漱石の「虞美人草(ぐびじんそう)」にも登場している花と。 丈夫で枯れにくいことから庭木や盆栽として昔から広く親しまれています。茎に沿って垂れるようにして花を咲かせることから、「垂糸海棠(スイシカイドウ)」とも呼ばれているとのこと。 桜よりハナカイドウが好きと言う人も多くいると。桜より長く花を楽しめることや、その美しさから多くの歌人たちのに読まれて来たことがその理由であると。 蕾の赤は開花した花よりも濃いのです。 我が家のハナカイドウは 紅の蕾が開花するとピンクに変わり、徐々に色が薄くなり白い花弁に変わり、散り際に葉が生えてくる種類であるようです。風に揺れる可愛い蕾の群れ。 その姿は、サクランボの如し。ハナカイドウの花言葉は 『艶麗』『美人の眠り』『温和』『友情』であると。この花言葉は、ほろ酔い加減で眠そうにしている美しい楊貴妃を見て皇帝が「海棠の眠り未だ足らず」といったことに由来。そのため、中国では「眠花」(カイドウ)と呼ばれ、美しい人を指す言葉とも。
2017.04.14
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我が家の横の菜園で育てているイチゴも気温の上昇とともにイチゴの生育は盛んになり、開花が始まっています。(ソメイヨシノの開花期とだいたい同じ時期。) 3月初めに、施肥の後に幅95cmの黒マルチをイチゴの株の上からかけ、マルチの周囲を土で押さえました。マルチの上からイチゴの株を探り、マルチを破ってイチゴの株を上にのぞかせました。果実が汚れるのを防ぎ、地温を上げるのに効果があるのです。 そして3月末から、新葉が次々に出てきて生長し、葉が立ち上がるように生長してきました。そして次ぎ次に 可憐な白い花を付け始めています。イチゴが花を咲かせる要因は日照時間の長さ(12時間)とほどよい気温とのこと。気温は15度くらいで高すぎても低すぎても駄目だと母から昔教わりました。 イチゴの花は、本来、虫たちの力を借りて受粉を行う植物。イチゴの花に集まってきた虫たちが、他のイチゴの花へと移っていく過程で、虫たちの体に付いた花粉も一緒に運ばれて受粉するというわけ。そして我がミツバチを発見。巣箱から直線距離で300mほどあるのですがしっかりと自分の役割を理解しているミツバチ嬢なのです。イチゴといえば美しい円錐形を思い浮かべますが、実はこの形はミツバチのお陰なのです。そしてこの日は野鳥対策に防鳥ネットを被せました。イチゴの実が色づき始めると野鳥が実を突っつきに来るのです。 余り網目の細かい物だとミツバチが中に入れませんので目幅が3cmのものを利用しています。そしてネット掛けの完成です。 養蜂場のある菜園のイチゴにも同様に。今年もイチゴ栽培は我が家の横の菜園が主体です。何故かというと、娘の意向で孫達が収穫時にミツバチに刺されないようにと。そして妻からは、極力完熟したイチゴを収穫したいので、収穫後に移動距離をなくし傷まないようにしたいからと。イチゴの右手は里芋の畝、そしてこちらにも地温上昇と除草用に黒マルチを敷設しています。 ミツバチの巣箱の前の空豆も日に日に生長して来ました。 そしてこの日は、空豆にも倒れ防止のロープを張りました。 ソラマメは、特に天敵のアブラムシがつきやすい野菜なのです。アブラムシは柔らかい茎の先端について、葉の汁を吸うため、株の生育やさやの肥大が止まってしまうのです。それだけではなく、アブラムシはソラマメ黄化病やソラマメモザイク病などのウイルス性の病気を媒介するので、見つけ次第ただちに駆除する必要があるのです。アブラムシは光るものを嫌うので、下に敷くマルチはきらきら光る銀色のマルチを敷設しています。ミツバチが傍にいるので極力消毒は避けたいのですが・・・・・・。アブラムシのたかっているところを、クラフトテープ、セロテープなどで、軽く押さえるようにして取り除きく方法や、牛乳、ビールをスプレーする方法もあるようですがTRYしたことはないのです。
2017.04.13
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一昨日、日大の 湘南キャンパスの桜見物の後に、農具を購入に近くのホームセンターへ。そしてその帰路、毎年訪れる引地川の桜鑑賞にも立ち寄って来ました。この場所は自宅周辺の『My HANAMI Point』の一つなのです。車を降り、円行新橋の上から引地川の両岸に咲くソメイヨシノを。川沿いの引地川を歩く。 川沿いのフェンスには桜の花の模様が。 カラスも花見中。 ここも真に満開中。 こちらも淡いピンクの美。 川面を覗き込むように伸びる枝、そして花。 先ほどのカラスか?川の中に入り餌探しか? 木によってピンクの色合いが微妙に異なるのであった。 川の水は少なく、川底も露出し、菜の花が逞しく咲いていた。手前には白のオオシマザクラが。植樹の際に紛れ込んだのであろうか? 川面に向かって伸びるかのように。 湘南台4丁目の橋を渡りUターンして対岸を歩く。こちらも川の上に桜の花のトンネルが出来るが如く。 川も緩やかな曲線で流れを変えていた。 そして樹齢60年?を超えて役目を終えた?老木のこの日の姿。 しかしこちらの老木はまだまだと。 前日の雨の影響で、川の水は茶色に。 オオシマザクラの枝には既に幼葉が。 この道の左の住宅は、この桜並木が自分の庭の如しでうらやましい限り。 この樹は今年は『お休み』それとも『喪中』か。青空、そして川の水が澄んでいればと我が儘な想いが。 そして円行新橋まで戻り、往復1km?の桜鑑賞を終えたのであった。 そして自宅への帰路、60年近く前に私が通った小学校で一時停車。私が在校中の昭和30年代には校庭の周囲、校舎の周りは桜の樹だらけでこの地域の随一の桜の名所であったが、寿命の為か桜の数が大幅に少なくなっていたのであった。 そして我が家の近くの公園の桜。ソメイヨシノとオオシマザクラが仲良く並んで。毎年この桜の樹の下で、我が地域の老人会の方々が花見の宴を行うのだが今年は既に行われたのであろうか?そして私もいつの日か、この桜の下に?いやいやまだまだ・・・!!そして、近い内に「世界三大花木」のひとつに数えられている桜に似た『ジャカランダ』の花の群生を見てみたいとも。ジャカランダの魅力は、なんといっても青紫とも藤色ともつかない神秘的な色の花。花が散ると藤色の絨毯ができあがるところも桜と同じ。桜を愛する日本人にとっては、特別に魅力的な花木ではないかと。その為にはプレトリアへ????
2017.04.12
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昨日は我が家の近くにある日本大学・湘南キャンパスまでお花見に行って来ました。今日は1日中雨との天気予報でしたので、ここの桜は今年のラストチャンスと思い自転車で出かけたのです。小田急線の踏切を渡ると湘南キャンパスの校内。ここの桜は一昨年の強風で古木が倒れたこともあり、安全を考慮し?上部の枝はかなり大胆に伐採されていました。 右手は日本大学生産資源科学部のグラウンドと本館。 左手に日本大学藤沢高等学校・藤沢中学校正門の桜も満開。 そして大学校内の桜並木。残念ながら曇り空であったが真に満開のソメイヨシノ。 ソメイヨシノは葉に先立って花を咲かせるのです。花径2、3センチの中輪で、一重咲き。花びらの形は楕円形で花の色は淡い紅色を帯びていますが、咲き進むと白くなるのです。一総につく花の数は3、4輪。 淡いピンクが可憐な美しさ。先日のテレビ「サイエンスZERO」で、『私たちが目にする桜の大半は「ソメイヨシノ」という品種。このソメイヨシノ、日本中にありますが実はほとんどクローン個体。クローンとは、まったく同じ遺伝子を持つ生物のことですが、実際DNA解析によってソメイヨシノが同じDNAを持つことが確認されている。明治時代以降ソメイヨシノはそのすぐれた形質を残すために、接ぎ木によって全国に植えられた。接ぎ木とは同じ遺伝子を持つ個体を複製すること、つまりクローンを作ること。ソメイヨシノはクローン繁殖という形でどんどん増えて来た。』と。更に『毎年、桜前線が発表されるがソメイヨシノはクローン植物なるがゆえに、遺伝子が同じなので、気温等の気象条件さえ一致すれば、遠隔地同士であっても「同時に一斉に」開花する性質がある。この開花点地をつないだ線が、「桜前線」であると。また、言い換えれば、世界でも類を見ない、全国津々浦々に配した生物気象観測レーダーと言えるのだと。しかし、最近、異常に開花が早い年が。地球温暖化の影響か?と危惧。あと数十年もすれば入学式には、満開の桜を見ることもできないのでは。』とも。グランドの緑の人工芝を背景に。 そして椿の真っ赤な花も私も忘れないでと。この桜並木はグランドの100m(8レーン)トラック沿い。校舎の間には枝垂れ桜も。 そして博物館前のオオシマザクラの巨木も満開。 こちらは真っ白の花。このオオシマザクラは、ソメイヨシノなどの多くの園芸品種を生み出した桜。また、私の好きな桜餅は、このサクラの若葉を塩漬けにした物を使用。高層の本館を背景にミツバツツジも。 校内の至る場所に桜の木々が。 日本大学は桜色がスクールカラーそして日本大学校友会の名は桜門会(おうもんかい)。 キャンパスには新入生への部活動への勧誘ポスターが。 多くの部員が新入生を勧誘中であった。 日本大学山岳部の横幕も鮮やかな桜色。 こちらは開花を始めたばかりの巨木の枝垂れ桜。 枝がやわらかく枝垂れる桜。しだれ桜(枝垂桜/糸桜)の花言葉は『優美』そして『ごまかし』と。「優美」という花言葉は、見た目の華やかな印象にちなんで付けられたと。そして「ごまかし」は、垂れ下がった枝の姿が何かを隠しているように見えることに由来すると。そしてキャンパス内の「しげまるの森」を散策。ここは森のはたらきを学べる樹木の見本園になっていた。「しげまる」くんは日本大学生産資源科学部のマスコットキャラクターと。「せいぶつしげんかがくぶ」の資源と顔がまんまるから。2013年の学園祭の投票で決定したのだと。ここを訪れる人は少なく、静かな花の空間をほぼ独り占め。 椿の多くの種類が開花中で、これをのんびりと楽しんだのであった。 ピンクの八重椿は筋の入った花びらが美しかった。赤筋入りの白色椿 白の花弁に赤い筋が幾筋か入る。 中心の白が輝いていた。卜伴(ボクハン)と言う名の藪椿か? 濃いピンクの斑点入り。 白の絞り模様。 我がミツバチ?と再会したのでズームで撮影。この時に限り僅かな日差しが。落ちた花も最後の美しさを。 南蛮紅?は九州各地の民家で広く栽培されている、朱紅色、獅子咲き、大輪の花。花も葉も大きく、珍しい花形と色合いが異国情緒をもつことからこの名が付けられたと。 可憐な純白。白侘助(しろわびすけ)は別名 唐椿(とうつばき)と。赤の絞り模様と大きな雄しべ。 赤幅が広い白覆輪の椿。 ソメイヨシノにも似た色合い。 見事な花びらの配置、そして深紅のバラの花の如し。 ピンクの絨毯。 薮椿(やぶつばき)か。 そして再び桜並木に戻る。樹齢50年以上であろうか。先ほどのテレビ放送では『病気に弱い性質も持つソメイヨシノ。折れた枝や枝の切り口から幹を腐らせる菌が侵入しやすく、樹齢50年を超えると幹の内部が腐ることから、「60年で寿命を迎えてしまう」という説も囁かれている。また、種で増えることができない園芸種のため、自然に新しい木が増えることもない。第二次世界大戦からの復興や東京オリンピックに合わせて植えられたものが多いことを考えると、心配な時期である。』 とも。再び日本大学藤沢高等学校・藤沢中学校正門の桜を再びズームで。 そして帰路へ。我が家の近くの家の花桃も白とピンクのBEST MIX。 春と言えば桜、桜と言えば花見。桜を愛する心は日本人の伝統文化のひとつ。花見は奈良時代の貴族が始めたイベントという説が有力で、最初は桜ではなく中国から伝来してきた梅だったと。それが平安時代には桜に変わっていたということから、桜を鑑賞する文化がいかに長く受け継がれて来ているかが良く分かるのです。その桜を見ることで春を感じ、気持ちが癒され、日本に住む良さを改めて実感したのでした。
2017.04.11
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なかなか気温が上がらず、桜の開花も遅れていますが、ようやく昼間の気温がコンスタントに15℃以上になり、我がミツバチ嬢も活動を開始して来ました。保温用発泡スチロールの箱の穴から頻繁に姿を現して来ました。 発泡スチロール箱を外し、巣箱の蓋を開けたところビックリしたようで多くのミツバチ嬢が飛び出しました。私も慌てて蓋を被せ、発泡スチロール箱も被せて元に戻しましたが何処に戻っていいのか迷っているのか、入口にミツバチ嬢達が集まっていました。 久しぶりの屋外なのか蜜蜂嬢達はウロチョロと。 巣箱の周囲の菜の花も満開を迎えています。 昨年秋に、保管しておいた種を蒔き育てて来た菜の花です。 チョット密に蒔きすぎ心配していましたが、見事に開花してくれました。 そしてもちろん、我がミツバチ嬢達が放花し蜜と花粉を集めています。 なかなかすばしっこく動く蜜蜂にピントが合わず、乱写ぎみでしたが何枚かはミツバチにピントが合っている写真も。 ズームでも何枚も。 こちらは水菜の花に集まるミツバチ。 こちらはカラシ菜? そして、同じく昨秋に巣箱のヤード裏に蒔いたレンゲも開花を始めて来ました。そしてレンゲの花にも既に訪れていました。 菜の花密、レンゲ蜜、桜蜜、ミカン蜜等を頑張って集めて欲しいのです。しかし我が養蜂場の周りの花の量では、我が家のハチミツは1種類の花の蜜から採られた「単花蜜」にはならずに、いくつもの種類の花から集められたハチミツ・百花蜜になるのです。 そしてこの蜂は我がミツバチ嬢ではなく、日本ミツバチでしょうか????お尻の色が茶色ではなく黒いのです。日本ミツバチさん、我が巣箱に引っ越しして来ませんか?居心地の良い空き室がたくさんありますので。
2017.04.10
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本館の隣には、ギャラリーやカフェ、ミュージアムショップを備えた新館がオープンしていた。本館の旧朝香宮邸から新館へ抜けるアプローチの波打つガラス窓も不思議。本館に隣接する新館には白く、ニュートラルな箱型の空間、ホワイト・キューブの展示室が設けられていた。そして土産物売り場も。開放的なアトリウム空間が広がり、ガラス張りのロビー&休憩室(ホワイエ)からは本館と庭園を見ることができた。ホール内では並河靖之氏の七宝焼きの製作工程がビデオで紹介されていた。 七宝焼(しっぽうやき、英語: enamel)とは、金属工芸の一種で伝統工芸技法のひとつ。金属を素地にした焼物ともいえる。金、銀、銅、鉄、青銅などの金属素地に、釉薬(ゆうやく)を摂氏800度前後の高温で焼成することによって、融けた釉薬によるガラス様あるいはエナメル様の美しい彩色を施す。日本語の七宝焼の名称の由来には、宝石を材料にして作られるためという説と、桃山時代前後に法華経の七宝ほどに美しい焼き物であるとしてつけられたという説があるとのこと。「細いところが早く溶けてしまわないために銀線をたくさん入れたり、広いところは銀線を少なくしたりとか」 「並河さんの場合、銀線の高さが非常に低いため何回も焼くことはできません」「これは特に、波のところに銀線の厚みをいろいろ変えることによって」 「銀線が焼き付いたら、面相筆をつかい、釉薬を線と線との間に盛ります」 並河靖之は、繊細な有線七宝により頂点を極めた七宝家。没後90年を記念する本展にて、初期から晩年までの作品を多いに楽しむ事が出来たのです。 そして新館、本館を出て、庭園の散策に。庭園の塀ににもアール・デコのデザインが。 右側から1階:小客室、ピロティーの奥に次室、大客室、大食堂2階:書斎、殿下居間、ベランダ、妃殿下居間屋上の開口部にも、アール・デコのデザインが。 大食堂の前には大きな老松が。 そしてその奥には本館と繋がっている新館が。 トサミズキ? 日本庭園内の茶室に向かって歩く。途中、清らかな水の流れも。 庭園の片隅にたたずむ茶室。 茶室「光華」 。木造瓦葺平屋建 延床面積:85.28m2 。 茶室「光華」は、朝香宮邸の建てられた5年後の1938年(昭和13年)に建てられ、「光華」という名称は朝香宮鳩彦殿下の命名。武者小路千家の茶人・中川砂村の設計の下で、大阪の数奇屋大工棟梁の平田雅哉が建築を担当。立礼の席・広間・小間の三席と水屋・立水屋などで構成されていると。この茶室の入口付近には「立礼の席」という珍しい椅子式の茶席があると。外国人向けに考案され、各流派家元の茶室に普及していたものだと。日本庭園は、池泉を中心にした回遊式庭園。 池には太鼓橋が架けられていた。 豊かな庭園の緑に茶室が溶け込む様は素晴らしく、紅葉の季節にはどんなにか感動的な景観になるだろうと想像を膨らませたのであった。池沿いには石灯籠が。 庭園の広場にあった安田侃の彫刻作品「風」。風の通り道の先には旧朝香宮邸が。美しく可憐な八重の椿がここにも。 古木の下に彫刻が。 フランスの彫刻家 オシップ・ザッキン作 「住まい」 。旧朝香宮の脇入口とその右の運転手室。 運転手室の窓のデザインもアール・デコ。 運転手室手前方本館2階方面を見る。 本館横の道を進み旧朝香宮邸を裏側斜めから。 東京都庭園美術館 新館の駐車場側入口。 見学を終え、帰りは通路横の花々を楽しむ。アセビの花。漢字で「馬酔木」の名は、「馬」が葉を食べれば毒に当たり、「酔」うが如くにふらつくようになる「木」という所から付いた名前であるとされると。 ソメイヨシノも開花を始めていた。 花は鐘形で色は白く、先の方は緑がかっている「アマドコロ」 。こちらのソメイヨシノも頑張っていた。 苔の緑も美しかった。 龍の如き古木の根が緑の海を渡っていた。 海外旅行にでも来ているような時間と空間、フランスと日本の巧みの技の知的な融合を、多いに楽しむことが出来たのであった。旧朝香宮邸そしてその部屋を利用した展覧会の余韻に浸りながら、目黒駅方面に向かって更に歩を進めたのであった。 -------完---------
2017.04.09
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一番奥の姫宮寝室前、第2階段と合流する居間風の部屋の照明はステンドガラス風。 天井に反射した光が美しい。なんとなく昔の金平糖の如し。姫宮の寝室が何故か手前の部屋に。家具もオリジナルのもの。 全体が桜材を使っていると。大きな姿見。やはり女の子の寝室。 この部屋の壁紙は80年以上前のオリジナルであると。スイスの壁紙メーカー、サルブラ社の「テッコー」。 通常は立ち入れない姫宮の居間。部屋の西側中央には見事なマントルピースが。 朝鮮半島産出の「朝鮮縞鼠」の一枚石の大理石で造られていると。 マントルピースの内側にはピンクと紫のBEST MIXな布目タイルが。 この部屋はモミジの材を使用。そして床は寄せ木貼り。 そして妃殿下の寝室。白を基調とした部屋であるが、写真ではテレビ画像のためか青くなって。昔はワインレッドの壁紙であり華やかな空間であったようだ。この部屋が妃殿下の最期の部屋と。ラジエターのデザインはグラジオラスの花模様が。 こちらのラジエターにもグラジオラス。 ご夫妻の浴室(通常は見学不可と)。国産の円と直線でデザインされたモザイクタイルも美しい。壁はフランス産の貴重な大理石。妃殿下の居間。高い天井を持つ開放的な空間。写真の掲げられている場所は少し奥まった床の間風の場所。アール・デコの空間に溶け込む和の世界。マントルピースのデザインは百合と青海波の和の融合。ラジエターカバー。照明は当時のアール・デコの最新デザインと。そして妃殿下専用のバルコニー。半円形に張り出した床にはモザイクタイルが。そして第二階段を使って1Fへ。壁の丸い明かり取りもアール・デコのデザインが。そして階段下の木製壁にも。
2017.04.08
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旧朝香宮邸2階でも催されている『並河靖之七宝展 明治七宝の誘惑―透明な黒の感性』の展示会場に。しかし内部の撮影は禁止されていたので、この後の画像は前日と同様に「百年名家」のテレビ画像で。 2階へのデザイン性の豊かな第1階段を上がる。白の大理石・イタリア産ビアンコ カラーラに赤い絨毯が敷き詰められていた。そして木目のように見える茶色の壁もスターピーテという大理石。そしてその上の手摺り部分の黒に金色模様の石も大理石。更にその上にはバラをモチーフにした金工細工が。踊り場に設えられた大きなガラス窓はカテドラルという大判の型板ガラス。ガラス表面に付けられた模様が光を透しながらも視線を遮る役割を果たしていると。更にその先には、見事なデザインの「照明柱」が迎えてくれた。これは宮内省 内匠寮(たくみりょう)にてデザインされた物と。階段と同様なバラのデザイン。そして柱の下部には多くの小穴が施された銅板が。朝香宮妃殿下のアイデアで、この穴の下には水が貯められ、一輪挿しの花を飾るのだと。そして階段の上は「2階の広間」に繋がっていた。この場所が朝香宮家ご家族の共有スペースであると。2階の配置図。青が朝香宮殿下、赤が妃殿下、緑が若宮殿下そして奥のピンク部が姫宮のそそれぞれの居室であると。それぞれが個室の居間、寝室を持つ皇室伝統の造りであると。「2階の広間」のレジスター。日本の伝統文様である「青海波文様」をアール・デコ風に仕上げたものと。そこに千鳥が飛び戯れるという和のデザイン。薄緑色の壁の設えにも同様な和のデザインが。ラフコートという、今は手に入らないアメリカ製の壁材が使われているのだと。漆喰が乾かないうちに、竹等で職人が描いた物であると。壁の模様が場所により微妙に異なるのは、担当した職人が異なるのだと。そして朝香宮殿下の居間へ。大胆な壁のデザインはここ旧朝香宮邸の主要室内の装飾を手がけたアンリ・ラパンの作。数年前に復元されたが、この色合いは非常に苦労したと。柱頭飾りが印象的な付け柱。実はフランスから送られて来た柱は寸法が足らず、このブロンズの柱頭飾りを付け足したと。内匠寮のこれぞ巧みの技。隣は書斎。一見円形に見える書斎であるが、四角形の部屋の四隅に飾り棚を設けて八角形の空間を作ったのだと。床にはアンリ・ラパン デザインの八角形の絨毯も。そしてこの机は、回転式。ここはシンプルなデザインの寝室。木製の扉は楠の一枚板、しかも玉杢(たまもく)と呼ばれるような樹木のコブのような所をスライスすると表れる木目模様。照明のデザインは内匠寮によると。建物の南側に設けられたモダンな雰囲気のベランダ。市松模様の床ももちろん大理石、しかも国産と。この空間に入れるのは朝香宮ご夫妻のみであったと。ここは普段でも公開されていない北側ベランダ(北の間)。床には涼しさを醸し出す渋めの布目タイルが施され、天井の照明を囲む材は柾目を生かしたチーク材。この部屋の窓から覗く中庭の風景。
2017.04.07
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玄関の天井と照明。 玄関の床のデザイン。 ズームで。 床全面のモザイクは細かい天然石で施工され、デザインは宮内省内匠寮技手の大賀隆が手がけたと。宮内省内匠寮(たくみりょう)技手。宮内省所管の建築から庭園、土木までの設計管理を司る部署で、朝香宮邸もこの内匠寮が設計と管理を行った。この時期の工務課は課長の北村耕造(1877–1937)のもと、建築係、土木係、庭園係、機械係に分かれており、技師と各係の技術者は合わせて100名を超えていた。朝香宮邸の建設では基本設計を洋行帰りの建築係技師、権藤要吉(1895–1970)が担当したと。正面玄関にはガラスのレリーフがあった。ルネ・ラリックのオリジナル・デザインによる「有翼女性像」。四体の 「有翼女性像」が玄関正面に。露出をいろいろ変えて撮影。 鋳型にガラスを流し込んでの造形とのこと。 女性像の周囲には羽と花の模様が。元設計では女性の裸像であったが、妃殿下の指示?で着衣をと。 立体的な女性像が施されたガラスレリーフ扉。 ラリックのガラスレリーフを正面にして左の扉は第一応接室に、右の扉は受付外套(がいとう)室につながっていた。左の第一応接室をガラス越しに。玄関から直接入ることの出来る部屋で、 応接の他、来賓の共の人が主人を待つために使用されたと。床は竣工当時のままの寄せ木作りで、壁はオリジナルと同系色の現行品に張り替えていると。照明もユニークなデザイン。 一階の部屋の配置図。白の部分が一般開放部。茶色の部分は非公開部分で厨房、維持管理者等の事務室、居住区とのこと。受付外套(がいとう)室の部屋からチケットを見せ奥に入り旧朝香宮邸と七宝焼展示の見学開始。 撮影はここまで。この先は撮影禁止と。この後の画像は「百年名家」のテレビ画像で。 大広間。大広間から「有翼女性像」の裏面側を見る。天井に40個の照明が整然と並ぶ配置は圧巻。大広間から次室を。アンリ・ラパンのデザインの「香水塔」は、1932年にデザインされたもので、謂わば室内用の噴水器とのこと。フランス国立セーヴル製陶所で製作され、フランス海軍より朝香宮家に寄贈されたもの。「香水塔」の黒の土台はコンクリート製であるがその上に黒漆が施されておりさらに両側の漆塗りの朱の壁にはプラチナ小片が散りばめられていると。朝香宮邸当時は上部のこの照明の内部に香水をたらして、照明の熱で香りを漂わせていたと。そんなことから香水塔と呼ばれるようになったとか。アール・ヌーボーの植物からの引用や有機的な曲線に対して、アール・デコでは直線と円を組み合わせた幾何学パターンが特徴と。アンリ・ラパンの写真。アンリ・ラパンを含め旧朝香邸の設計者の誰一人として来日したフランス人はいなかったと。妃殿下はフランス語が堪能であったため、設計・造形に多いに関与したと。大客室から次室の「香水塔」を見る。次室の扉を閉めると。銀引きガラス、エッチング、 フロスト仕上げの扉。心躍るデザインなのであった。大客室に二基吊り下げられいるこの照明は、金銀&エッジの効いたガラスの組み合わせから来るきらびやか印象の一般的なシャンデリアとは全く違い、厚ガラスにシンプルな装飾を施したもので、存在感はあるが明かりはとても優しい。マックス・アングランによる大客室エッチング・ガラス扉。ケシの花の如き模様が。扉の上部の金具装飾はレイモン・シュブの作品と。扉の横には大理石の暖炉も。セントラルヒーティングのラジエターカバー?は匠寮技手の設計。何と言っても素晴らしいのは、「大食堂」で、向こうに広々とした庭園が広がり、解放された気分になると。ここでもあちこちにラリックやラパンのデザインしたもので満ちている。庭園に面した半円形の六枚の窓から光が取り込めるようになっていた。イオニア式柱頭をもつ柱にはシコモール材が使われ、天井にはシャンデリアを囲む漆喰仕上げの円や石膏によるジグザグ模様が施されています。壁面の上部を囲むように木製ボードに描かれた壁画はアンリ・ラパンによるもの。この部屋の特徴的な所は装飾が「食べ物」で出来ている所。天井の照明がパイナップルとザクロがモチーフに。これもラリックの作。石膏の壁にあるレリーフは植物と花がモチーフ。壁は青く写っているが実際は白。マックス・アングランによる、エッチングガラスのパネルが嵌められていた。幾何学的?で不思議な模様。そして両面がそれぞれ異なるエッチング模様なのであった。薄茶のイタリア産大理石の暖炉。そして暖炉の上にはアンリ・ラパンの壁画が。マントルピースのレジスターは魚と貝のモチーフ。大食堂壁面レリーフ。イヴァン=レオン・ブランショの「戯れる子供たち」。小食堂。この部屋は朝香宮一家の日常の食事に使用された。西洋スタイルの朝香宮邸の中にあって珍しく、全体に「和」の要素が取り入れられた部屋。天井は杉の柾板(まさいた)が使用され、床の間も設けられている。床の寄木はローズウッドを中心にしてケヤキ材が施されており、その周りを黒檀で装飾している。ラジエーターカバーはブロンズ鋳物で製作。日本古来の「源氏香」の模様がデザインされていた。源氏香では5種類の香木を5包ずつ合計25包を混ぜ合わせて、そこから無作為に抽出した5包を順に焚いて、香席に5回聞香炉が回される。香席の客は、香りを聞いたら、紙の上に右から順に縦線を引き、同じ香りと思うものは、縦線の上の部分を横線で繋ぐ。そして、5回香りを聞いた後にその図を、源氏物語の巻名に当てはめられた「源氏香之図」に垂らし合わせて、巻名で答えると言う優雅な遊び。一つ飛びの互い違いの配置そして菱形の基調が美しさを増していた。調べてみると、最上段は第33帖「藤裏葉」(ふじのうらば)そしてその下は第8帖「花宴」(はなのえん)。大広間から二階に通じる第二階段。照明とともに、朝香宮邸に大きな彩りを与えている要素は、扉や階段、調度などの装飾。至るところに精緻なデザインが施されていた。この空間にアールデコの世界が凝縮。
2017.04.06
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先日のテレビ「百年名家」 で「旧浅香宮邸」を鑑賞していたので、目黒まで出かける用事があったこの日はここを訪ねることを決断。小田急線、東急田園都市線、東急目黒線、都営三田線を乗り継いで白銀台駅で下車。改札手前には見事なしかも巨大なステンドグラスが。大津英敏・多摩美大名誉教授(1943-)の「白金春秋」という作品。金色の説明のプレートには、次のような文が書かれていた。『生命の息吹きを感じさせる新緑の眩しさ 折り重なる景色のなかにたたずむ少女は、季節が移ろい、くりかえしてゆくように 人々の春秋も深まることを知っているかのようです。「その昔、白金長者ありけり」とうたわれたこの地に 現代文明の光が私たちをのせて走りゆく、時をこえて白金の物語が今、新たにはじまります。』 と。駅の近くに結婚式場などを備えた「八芳園」があり、そこの庭が描かれているのだと。 高さ2.4m、幅8.6mの巨大な作品。折り重なる景色のなかにたたずむ少女はなんとなく物憂げ。 そして目黒通りに面した出口へ。 目黒駅方面に歩いて行くと右側には東京大学医科学研究所附属病院の入口が。 その先の港区立白台児童遊園には真っ白に変身したユキヤナギが。 国立科学博物館附属 自然教育園も右手に。そして旧朝香宮邸入口に到着。1983年[昭和58年]10月1日から東京都庭園美術館として一般公開されているのである。東京都庭園美術館として 2017年1月14日(土)~ 4月9日(日)まで『並河靖之七宝展 明治七宝の誘惑―透明な黒の感性』が行われていた。朝香宮邸案内図。朝香宮邸は、朝香宮ご夫妻の熱意と、日仏のデザイナー、技師、職人が総力を挙げて作り上げた芸術作品と言っても過言ではない建築物。現在は美術館として使われているが、内部の改造は僅少で、アール・デコ様式を正確に留め、昭和初期の東京における文化受容の様相をうかがうことができる貴重な歴史的建造物として、国の重要文化財に指定されている。 入場券売り場。 美術館、庭園セット券を550円で購入。 朝香宮邸は戦中まで朝香宮鳩彦(やすひこ)という皇族の屋敷だった。終戦による皇籍離脱(皇族や華族が平民になること)で、その屋敷は売りに出た。その後紆余曲折を経て、現在は美術館として一般公開されている。一時期、外務大臣の公館だったこともあり、吉田茂が住んでいた、とか。この朝香宮鳩彦という人だが、もともとは久邇家に属する皇族で、昭和天皇の奥方の叔父にあたる。この方は、明治天皇の娘(允子(のぶこ))をめとったことで、新たな宮家の設立を許される。それが朝香宮家である。旧朝香宮 案内図 。旧朝香宮邸への緩やかに左に曲がった道を進む。 正面に建物が見えて来た。 道路脇には鮮やかな真っ赤な椿が迎えてくれた。 そして奥ゆかしいピンクの八重の椿も。 この建物は1920年代から1930年代にかけてヨーロッパの装飾美術を席巻したアール・デコ様式を現在に伝えるもの。アール・デコとは、1925年の4月から11月にかけてパリで開催された「現代装飾美術・産業美術国際博覧会(Exposition Internationale des Arts Décoratifset Industriels Modernes)」の部分の短縮「Arts Décoratifs」(装飾芸術)を略称アール・デコ(Art Deco)を由来とする名称であり、1925年様式(LE STYLE 1925)ともいわれていると。フランス人デザイナーが、主要部分を設計、内部装飾もフランスをはじめとする外国から輸入されたものが多用されているのだと。基本設計と内装の一部は宮内省内匠寮[たくみりょう] の建築家が担当し、アール・デコ様式に日本独特の感性を付け加えていると。正面左側は2F建て。狛犬が入口両脇に配置されていた。アール・デコの建物の入り口に狛犬、というのは、イメージがなかなか面白い館。朝香宮鳩彦王が、骨董店で購入した、お気に入りの狛犬とのこと。元設計は、ここにはアール・デコ様式の街路灯が設置される計画であったと。ところで狛犬や金剛力士像の阿像・吽像の見分け方は、向かって右が阿像、左が吽像。阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音であり、そこから、それぞれ宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされたと。2人の人物が呼吸まで合わせるように共に行動しているさまを阿吽の呼吸、阿吽の仲などと呼ぶ。狛犬の形相はすさまじく、阿像は鞠を足元に。吽像は子供を足の下に従えていた。 換気口?もアール・デコ様式の直線と曲線のコラボ。表から見た若宮寝室。 湾曲した部屋。エントランス。 エントランスの床の小松石は「三返小叩き」という仕上げになっていると。石の表面仕上げの一つであって、一枚刃で石面を2mm前後の間隔で叩き、平たんにする最上の仕上げであると。玄関前右にはパンフレットが。左側には、並河靖之 七宝展のポスターが。
2017.04.05
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我が家の庭の「庭梅(ニワウメ)」 が満開を迎えています。庭梅の名前の由来は「庭に植える木で梅に似た花を咲かせる」という非常にわかりやすくストレートな意味なのだと。見た目はあまりサクラっぽくないですが、分類上はサクラの仲間とのこと。 高さ1m前後の低木でそれ以上大きくならないのが特徴。低木のこの庭梅は手入れがいらないので楽なのです。この時期の4月初め頃、葉が出る前に2~3輪ずつ固まって枝を覆うほどたくさんの花を咲かせています。同時に薄緑の葉も下部を中心にところどころに。花びらは5枚で、花の中央にたくさんの雄しべが放射状に。原産地は、中国だが、万葉集に出てくるほど古く、万葉集では「唐様花(はねず)」と呼ばれていると。『山吹の にほへる妹が 朱華(はねず)色の 赤裳(あかも)の姿 夢に見えつつ 万葉集 11-2786』枝に沿ってたくさんのうすピンク色の花をつけています。庭桜(にわざくら)に形がよく似ていますが庭桜は八重で庭梅は一重なので区別できると。 下部の方には未だ丸いピンクの蕾も。 花後に球形で直径1cmほどの果実ができて6月~7月頃に赤く熟します。赤く熟した果実は新緑の葉とのコントラストも非常に良く鑑賞価値が高いのです。また、この果実は生食できますし果実酒、ジャムにもなるとのことですが未だTRYしたことはありません。
2017.04.04
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愛宕山の下をくぐる愛宕隧道。その手前左側に愛宕山に登るエレベーターがあったのでこれを利用。 愛宕山上のエレベーター出口には陸橋が。 そして広場に出ると左手奥にNHK放送博物館が。大正14(1925)年7月、日本のラジオ放送はここ愛宕山で始まったのだ。そんな“放送のふるさと”愛宕山に建つ、放送の歴史に関する展示をおこなう博物館。入場無料とのことで立ち寄ろうと思ったが開館時間が16:30 までとのことなので諦めたのであった。一の鳥居が迎えてくれた。鳥居の左手には手水社、右手には弁天さまを祀る社が建っていた。 愛宕神社は、火産霊命(ほむすびのみこと)を主祭神として祀る、火伏せに霊験のある神社。徳川家康公の命により、江戸の防火を願って慶長8(1603)年に創建。神社が建つのは、自然の地形としては東京23区でもっとも標高が高い愛宕山の山頂。 「海抜26メートルは都内随一の高さを誇り、桜と見晴らしの名所として江戸庶民に愛され数多くの浮世絵にもその姿を残しています。 明治元年には勝海舟が西郷隆盛を誘い山上で江戸市中を見回しながら会談し、江戸城無血開城へと導きました。鉄道唱歌にもその名が残り春は桜、夏の蝉しぐれ、秋の紅葉、 そして冬景色と四季折々の顔を持つ風光明媚な愛宕山として大変貴重な存在となっております。ほおづき市・羽子板市は浅草の市の先駆け、発祥の地として江戸時代の書「東都歳時記」にもその賑わいは記され、 現在は六月の千日詣り、羽子板絵馬にてその名残りをとどめています。」と境内の案内板より 。手水社。 参道正面。 狂歌合長者園撰。上部には弁天、恵比須、大国が描かれていて、天明期の狂歌師:大田南畝(蜀山人)等の狂歌が刻まれているのだと。そして下部には社頭霞、愛宕山、甲子などに分かれて石碑いっぱいに狂歌が刻まれていると。 弁財天社市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祀る末社市杵島姫命は水の神さま。池の傍らに建っています。弁天池の中の鳥居奥に水脈があり水が湧き出ていると。 愛宕神社の弁天池には木の舟が浮かんでいた。 福寿稲荷神社。宇迦御魂神(うかのみたまのかみ)を祭神とする末社。名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神。 太郎坊社猿田彦神(さるたひこ・天狗さま)を祀る末社 灯籠には灯が入っていた。 ほおずき市の時には、丹塗りの門の前に茅の輪が設置され、これをくぐると災いを避けられると。丹塗りの門。 主祭神「火産霊命(ほむすびのみこと)」を祀る社殿愛宕神社の御利益は、防火に限りません。水の神・罔象女命(みずはのめのみこと)、山の神・大山祇命(おおやまづみのみこと)武徳の神・日本武尊(やまとたけるのみこと)、将軍地蔵尊、普賢大菩薩を祀っていて、次のような御利益があります。招き石社殿の手前左側にあり、この石をなでると福が身につくといわれています。 桜田烈士愛宕山遺跡碑。桜田門外で井伊直弼大老を暗殺した水戸浪士たちは、ここに集合し桜田門に向かったと。江戸城・桜田門までは約2km。ここから歩いて20~30分の距離であると。 見下ろすと正に転がり落ちそうな急な階段。 参道にある86段の石段は、講談の『寛永三馬術』で有名な曲垣平九郎(まがき へいくろう)の故事にちなみ、「出世の石段」と呼ばれているのだと。三代将軍・家光公が増上寺に参詣の折、愛宕神社の前を通りかかった時のこと。愛宕山より漂ってくる梅の馥郁たる香りに気づいた家光公は、馬で梅を手折ってくるように供に命じた。急勾配の石段にほとんどの者が怖じ気づくなか、四国丸亀藩の家臣・曲垣平九郎が騎馬にて石段を登り、手折った梅の枝を献上したのだ。家光公は、平九郎を日本一の馬術名人とたたえたと。斜度が40度もある石段を馬で登るのは不可能に思えるが、明治以降3人が達成した記録が残っているのだと。曲垣平九郎の故事にちなんで「出世の石段」として知られているのだ。角があり、顔の表情がいい狛犬の先には女坂が出世の石段(男坂)より緩やかな上り階段。愛宕神社と刻まれた社号標の先に大鳥居と出世の階段。 隣の真福寺にある【勝軍地蔵菩薩】にお参り。1603年(慶長8年)、徳川家康の命により、徳川家康が信仰した勝軍地蔵菩薩を勧請し、愛宕神社を創建。同神社の本地仏として別当寺の円福寺に祀ったことにはじまると。明治の廃仏毀釈により円福寺が廃寺になると、勝軍地蔵菩薩像は近くの真福寺に移されたが関東大震災で焼失。1934年の弘法大師1100年御遠忌記念として銅製で復元され、現在は、1997年に建設された真福寺・愛宕東洋ビル一階外側に祀られているのだ。 虎ノ門ヒルズ森タワー 東京五輪組織委員会の事務所はこのビル内にあるのだ。東京都の小池百合子知事が家賃の高さにそして森喜朗会長に噛みついた例のビル。 そして歩を進め新橋駅の日比谷口(&銀座口)・SL広場に到着。「愛の像」 。昭和51年の寄贈時より30年間、広場中央に位置した噴水に設置されていたが、平成18年の広場改修工事に伴い、現在の機関車先頭部へと移動した。愛の像は「平和をモチーフとする母子のブロンズ像」とも呼ばれ、東京新橋ライオンズクラブ20周年事業として、この像を可愛がって頂き、新橋駅に集う人々に温かい愛を育ててもらえ様、願いを込めて寄贈された像であると。「乙女と盲導犬の像」 東京虎ノ門ライオンズクラブより盲導犬の普及活動を推進する為、昭和44年に建立された像。そしてSL広場の見える喫茶店で一休み。 そして大崎駅で下車し送別の宴の会場に向かったのであった。
2017.04.03
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増上寺黒門を出て右に曲がって進むと、増上寺の建物群からぽつんと離れて旧台徳院霊廟惣門(きゅうたいとくいんそうもん)があった。増上寺山内の南端に位置する台徳院霊廟は、寛永9年(1632)に造営されたもので、2代将軍徳川秀忠の廟所。芝の徳川家霊廟の中で、最も規模が大きく、地形の起伏を利用した壮麗な建築群を誇っていた。しかし、昭和20年(1945)の戦災に際して、罹災を免れたのはわずかにこの惣門、勅額門、御成門、丁字門のみで。惣門が現地に保存され、それ以外の門は狭山不動寺(埼玉県)へと移築されて現存。台徳院霊廟惣門は2代将軍徳川秀忠(台徳院)の霊廊惣門で3代将軍徳川家光が建立させたそうで、左右に金剛力士像を配置した立派な門。朱漆塗りの入母屋造八脚門で朱色が鮮やかで美しく歴史を感じたのであった。惣門自体が重要文化財の上、左右に配置されている木造仁王像は港区の有形文化財に指定されており、風格十分。阿像。 吽像。 惣門を潜り反対側から。 三間一戸の八脚門.屋根は入母屋で,前後に唐破風。唐破風には多くの黄金の徳川家・葵のご紋が。 水路跡。 更に日比谷通りを進むと右手に芝東照宮(しばとうしょうぐう)が。祭神は徳川家康。神体は徳川家康寿像。旧社格は郷社。日光東照宮、久能山東照宮、上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つとされる。増上寺の脇の道まで戻ると目の前に東京タワーの姿が再び。東京タワーの下の道を進むと前方に愛宕グリーンヒル森タワー愛宕マークヒル等の高層ビルの姿が見えた。 右手には東京プリンスホテル。 芝公園三丁目の交差点を左折すると、左手にあったのが雲晴院。浄土宗寺院の雲晴院は、松浦肥前守室(雲晴院尼)が檀主となり寛永10年(1633)建立、増上寺十七世照譽上人了學大和尚が遊學院と号して開山、後年法名より雲晴院と改号したと。聖観世音菩薩像。 左手に鎮座する石仏。 本堂。 「雲晴院」 と書かれた扁額。愛宕グリーンヒル森タワー、愛宕マークヒルと虎ノ門ヒルズ森タワー。 愛宕グリーンヒル森タワー、愛宕マークヒルの間にあるのが青松寺(せいしょうじ)。青松寺は、港区愛宕二丁目にある曹洞宗の寺院。山号は萬年山(ばんねんざん)。山門の扁額には「青松禅寺」 と緑の地に青の文字で。山号の「萬年山(ばんねんざん)」と書かれた扁額も。 山門の両脇には、薮内佐斗司作の仁王像が立っていた。左右、それぞれに向かい合って2体ずつという配置は永平寺で見たことがあったが、珍しいのであった。四体の像は「四天王」(してんのう)と呼ばれ、仏教世界観の中の須弥山(しゅみせん)の頂上に住まう帝釈天に仕え、仏法を守護することを念願としていると。それぞれの足元には、仏の示す親切がまだ分からない邪鬼を踏みつけているのだ。増長天(ぞうちょう)。世界の南方を守護する。五穀豊穣を司る。やり、戟を持つ。広目天(こうもく)。浄天眼をもって観察し、世界の西方を守護する。悪心をいさめ、仏心を起こさせるはたらきを司る。筆と巻子を持つ。反対側にも。左は多聞天(たもんてん)。夜叉を率いて世界の北方を守護する。毘沙門天ともいう。仏の道場を護って説法に耳を傾ける。剣と宝塔を持つ。また福徳を司るとして個別に信仰されている。右は持国天(じこくてん)。世界の東方を守護する。国を支える役を司る。芝というこの様な場所に、この様な大きな四天王を奉る立派な寺院があることに感激したのであった。中雀門。本堂。本尊は釈迦牟尼如来、脇侍に文殊、普賢の両菩薩を従えていると。「萬年山」と書かれた扁額。本堂前の仁王像・阿像。吽像。右手に観音聖堂。ここは礼拝堂とのこと。自己の内面と向かい合い、観音様の優しいまなざしに包まれて、穏やかなときをすごすことのできる空間であると。「観音聖堂」 と書かれた扁額が。坐禅堂の西側におわす観音菩薩像。愛宕神社交差点角にあったのが伝叟院。曹洞宗寺院の伝叟院は、愛宕山と号す。伝叟院は、青松寺第十世十洲補道大和尚が開山となり、正保3年(1646)に開創。現在曹洞宗大本山総持寺の出張所を兼務している模様。この寺は大正大震火災の際本区横死者の火葬場となつた場所であると。境内には百十数人の無縁の精霊を弔ふ為建設された、震災記念聖観世音菩薩像が立つ。此銅像は總高一丈六尺、帝室技藝委員高村光雲、並に山本瑞雲の原型を高橋凌雲が鋳造し、対象十五年九月一日に開眼供養したと。境内には別の石仏も。
2017.04.02
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大殿の地下にある宝物展示室へ 。常設展では、イギリス王室が保管している「2代将軍の墓所模型」 と増上寺に奉納された幕末の画家狩野一信の作「五百羅漢図」10点が展示されていた。徳川幕府の第2代将軍秀忠の墓所で、70年前の空襲で焼失した国宝建造物「台徳院殿霊廟(れいびょう)」の実像を唯一知ることのできる精巧な模型が英国で見つかり、徳川家康の没後400年目を機に4月から、霊廟のあった増上寺(東京・芝公園)で公開されることになったのだ。模型は実物の10分の1(幅約4m、奥行き約5m、高さ約2m)で、1910年(明治43年)にロンドンで開かれた日英博覧会の展示品として当時、東京市が著名な彫刻家、高村光雲ら東京美術学校の専門家の監修で製作した。展示後、模型は英王室直属機関のロイヤル・コレクションに渡っていたのだと。東京タワー。 常設展B1入口。 五百羅漢のポスター。 2代将軍の墓所模型の屋根部。 狩野一信の五百羅漢図。江戸末期から増上寺に秘蔵されてきた五百羅漢図は、平成23年に江戸東京博物館で全100幅が初公開され、翌年にはアメリカ・スミソニアン博物館でも公開されるなど、大きな話題となったと。10幅ずつを順次公開中とのこと。第 1幅~10幅 1月 1日(日)~ 4月17日(日)第11幅~20幅 4月26日(水)~ 8月28日(月)第21幅~30幅 8月30日(水)~12月25日(月) とのこと。「台徳院霊廟」の模型は明治時代にロンドンの日英博覧会に出品されそのままになっていた。精巧に分解修理され模型の展示方法に工夫がなされ室内も見学できたのであった。4曲一隻の書。 『観空』。 柳田泰雲の書。幻想的な作品。 「四季」 。縦2.5m、長さ25m、1974年の作品。篠田桃紅の作品。1913年(大正2年) 生まれ、103歳と。第1~10幅は羅漢の日常の暮らしぶりを表す場面が描かれていると。 再び外に出て、大殿の裏に向かう。巌谷小波句碑。 「桜咲く 日本に生まれ 男かな」1911年に作った文部省唱歌『ふじの山』の作詞者としても知られる他『一寸法師』も小波の作詞であると。大殿の裏は広い墓地。大納骨堂(舎利殿)。昭和8(1933)年に建立され、御本尊は高村光雲氏作をもとにした地蔵尊像。戦災の難を逃れた数少ない建造物で、昭和55(1980)年に現在地に遷座、開眼供養が厳修されたと。 貞恭庵(ていきょうあん)。十四代将軍徳川家茂公御正室、皇女和宮ゆかりの茶室。「貞恭」とは和宮さまの法号から名付けられていると。 四畳半二間の茶室からなる建物で、昭和55(1980)年に移築・改修。 庵の横には穏やかな中に厳しさを秘めた観音様。 貞恭庵を裏口から。圓光大師堂(えんこうだいしどう)。平成21(2009)年9月に竣工。建築様式は木造平屋建、妻入入母屋造、軒唐破風付吹放し向拝の意匠を施した和様の伝統建築。圓光大師とは、浄土宗の開祖、法然のこと。大本山の京都知恩院から法然ゆかりの遺物をもらい受け、それを奉納している。圓光大師堂と書かれた扁額。 こちらが圓光大師堂の正門。増上寺景光殿(旧広書院)表門。桟瓦葺の屋根を持つ一間一戸の四脚門(平唐門形式)。一時期、明治42年(1909)の火災により移転した護国殿の中雀門として、三解脱門を入った左手に立地していたが、建築当初の位置は明らかではないと。現在地には昭和53年(1978)に移築。墓地と大殿との連絡通路。 法然像(=御幼名・勢至丸さま)。光摂殿(こうしょうでん)。平成12(2000)年、「心を洗い、生きる力を育てる」ための講堂、道場として完成。三縁山広度院増上寺境内に三解脱門から入って大殿の左側、増上寺会館との間に位置する。館内には108畳敷もの大広間があり現代日本画を代表する120名による天井絵は四季折々の草花をテーマで目に触れた人を極楽浄土を想像させるものになっている。また、光摂殿は増上寺の境内に三か所有る式場の一つで、それぞれ使い方が決まっていると。参列者が500名までは「慈雲閣」で1000名までが「光摂殿」1000名以上になると「大殿」と言う事になると。参列者が500名とは相当な人物?光摂殿と大殿の間に東京タワーの姿が。 「光摂殿」と書かれた扁額。増上寺会館(寺務所)。昭和36(1961)年に竣工した増上寺会館の老朽化に伴い、法然上人八百年御忌に向けた境内整備事業の一環として、平成11(1999)年に建立。東棟・中棟・西棟の3棟からなる会館で、寺務所機能のほか、大食堂や和洋2種の各個室は参拝や法事、研修や修養会で来られる多くの方々に利用されていると。 「今日もまた 南無阿弥陀仏 すかりなは 導き受けて 日々に新たに」 経蔵。徳川幕府の助成により建立。内部中央に八角形の輪蔵を配する、九間半四面、土蔵造の典型的な経蔵で、都の有形文化財に指定されています。家康公が増上寺に寄進した宋版、元版、高麗版の各大蔵経が収蔵され、これは国の重要文化財に指定されていると。宝形造は、仏堂の屋根の隅棟が中央に集まり、四角錐に反りをもたせたような形。少し先のとがった丸い玉(宝珠)や、その下に四角な台(路盤)を載せていた。慈雲閣(じうんかく)(開山堂)。この御堂は、平成元年(1989)増上寺開山・酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人の550年遠忌記念事業の中心として、戦災で焼失した開山 堂の再建を企画、建築。二階中央には聖聰上人像、両脇にはその師・聖冏(しょうげい)上人像と中興の聰観智国師像が安置。現在は葬儀や年中行事など、多目的に利用できる設備。 増上寺会館東口。黒門を内側から。慶安年間(1648~1652年)、三代将軍家光公の寄進・建立。 御成門交差点付近の芝公園・みなと図書館・御成門小学校一帯にあった増上寺方丈の表門であった旧方丈門。明治時代に増上寺方丈に北海道開拓使の仮学校や海軍施設が置かれ、その後芝公園となったおり、鐘楼堂脇に移築したものを、昭和55(1980)年に通用門としてここ日比谷通り沿いに移築したと。土木建築殉教者慰霊塔。 黒門を日比谷通り側から。
2017.04.01
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