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大鳥神社ののちは、目黒不動尊(瀧泉寺)に向かう。目黒通りを進み左折し、目黒不動尊の裏門から境内へ。この裏門は通常は閉鎖されている模様。 暫く進むと前方に大きな鬼瓦が。 目黒不動尊 境内案内図。広い境内には数多くの仏様があちこちに祀られていた。本堂前広場の八大皇子の築山。八大童子とは不動明王に使える童子(眷属・脇侍)の事。鐘楼堂。災厄除 護衛不動尊。 子守延命地蔵尊。 目黒不動尊(瀧泉寺) 大本堂。不動尊本堂は第二次大戦の戦災で焼失したが、昭和56年に鉄筋コンクリート工法で再建。 江戸五色不動尊は、徳川家光が天海大僧正の献策により天下泰平を祈願し、設けたもので、目黒、目白、目赤、目青、目黄である。成立年代、寺の特定などには異論があると。 急な石段を登った先の一段高い土地に建つ。入母屋造に千鳥破風をもつ大規模な仏堂。傾斜地に建っており、清水寺、室生寺金堂や石山寺本堂のような懸造風の造り。懸造りとは崖や池などの上に建物を長い柱と貫で固定し,床下を支える建築方法。天井には日本画家、川端龍子の「波涛龍図」が描かれている。本堂内部には、開祖慈覚大師が刻んだといわれる不動尊像を安置。 不動尊本堂入口の天井からは、大きな「目黒不動尊」と書かれた赤い提灯が吊るされていた。浅草・浅草寺の雷門に吊るされている大提灯とよく似ていた。 本堂から境内&男坂を見る。 本堂横の桜は満開が近い。横から見ると本堂は多くの柱に支えられ、懸造りであることが理解出来たのであった。 お札やおみくじの売られていた寺務所。 意思不動尊。石不動様とも言うとのこと。不動明王。愛染明王。愛染明王とは、人間の煩悩と愛欲を転じて仏道に導く仏だと。剣を持ち、大きな光背を背負ったすさまじい姿ですが、縁結びの仏様としても信仰されていると。 微笑観世音菩薩像。すらりとした立ち姿で優しい微笑を浮かべている石像。男坂手前左には巨大な灯籠が。この青銅製灯籠は火消し衆が奉納した物で、纏が刻まれていた。手水舎。 百度石。 「お百度参り」をする際に往復の目安として設置されているのがこの石の柱。本堂から百度石まで引き返して1往復とするのだと。水かけ不動明王、独鈷の滝。案内板には「当山の開基は天台座主第三祖慈覚大師円仁で、千二百有余年前の大同三年(八〇八)大師自ら御本尊を彫刻し安置されたことに創まります。天安二年、大師が法具”独鈷”を投じて堂宇造営の敷地を卜されたところ、泉が忽ち湧出。涸れることのないその瀧泉は「独鈷の瀧」と称されました。大師はお堂の棟札に、「大聖不動明王心身安養呪願成就瀧泉長久」と認め「瀧泉寺」と号され「泰叡」の勅額を賜りし清和の御代に「泰叡山」が山号と定められました。春に花、夏瀧しぶき、秋紅葉、冬積もる雪と、関東最古の不動霊場は四季折折の風情が輝き、善男善女の心に安らぎをもたらします。「独鈷の瀧」は不動行者の水垢離場となり、江戸幕末には西郷南洲翁が薩摩藩主島津斉彬公の当病平癒を祈願されました。 目黒不動尊御詠歌清らけき 目黒の杜の独鈷瀧 災厄難を除ける不動尊ここに、身代りで瀧泉に打たれてくださる「水かけ不動明王」が造立され。より清らかな心と身で目黒の不動さまに参脂できることとなりました。合掌礼拝して「独鈷の瀧」の霊水をかけ、洗心浄魂されて、大慈大悲の不動明王と大願成就のご縁をお結びください。」 と。池の奥中央にあるのが「独鈷の滝」。今から1200年前、伝教大師最澄の弟子慈覚大師がこの瀧泉寺を開いたとき、大師が持っていた独鈷(どっこ)を投げたところその場所から滝泉が湧き出したと。独鈷とは密教で使う仏具の一種。金属製の、両端がとがった短い棒。青龍の吐水口から水が吐出されていた。ここが修行の場。 阿弥陀堂入口。 阿弥陀堂は瀧泉寺の本坊で、阿弥陀三尊(観音・勢至・阿弥陀)を祀っている。阿弥陀堂の寺務所にて御朱印をお願いしました。 「不動明王」 の御朱印を頂きました。大本殿の法要を済ませ阿弥陀堂に戻る僧侶の姿が。 不動尊本堂の裏に露座の大日如来坐像(銅造)が祀られていたた。この仏像のそばに立てられていた説明板によると、制作は江戸初期の1638年で、大衆の寄進により建立されたとのこと。江戸時代には、この仏像は露座ではなく堂の中に納められていたと。この大日如来像を囲むように庭の四方には四天王像が鎮座。広目天。多聞天。持国天。増長天。大日如来の後ろは、鳥居がす。その奥には小さな祠と地主神が。
2017.05.31
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大分前になりますが目黒を散策しました。旧朝香宮邸をあとにし、目黒駅方面に歩を進める。AOK MEGUROビルの壁は本物の蔓植物で覆われ、緑化、ヒートアイランド対策に貢献していた。様々な蔓植物が植栽されており、その描き出す色模様は一種の芸術品。 更に目黒通りを進むと右手にあったのが誕生八幡神社。太田道灌が夫人の安産祈願のために宇佐八幡を勧請して建てた。その後、無事に出産できたことから誕生八幡神社と命名されたと。 ビルの間にたつ小さな神社であるが目黒のサンマ祭りの会場でもあると。木製の本堂はこのコンクリートの鞘堂の中に安置されていると。 そしてその隣にあるのが高野山真言宗・ 高福院。永峯山 瑠璃光寺 高福院 (ながみねさん るりこうじ こうふくいん)。本堂とその正面に巨大な石灯籠が。ご本尊は大日如来。江戸時代、高福院は誕生八幡神社の別当であった。もともと高福院は高野山の山内子院で、行人方に属し、高野七弁天の一つ・舟引弁天(綱引弁天)を祀っていた。慶安元年(1648)この地に讃岐高松藩下屋敷が建てられた際、弘法大師ゆかりの寺院を建立することを望んだ藩主・松平頼重が高野山に要請し、良尊和尚によって移された(ただし、高野山の高福院も明治の頃までは残っていたようである)。現在のご本尊は大日如来になっているが、江戸時代の資料を見ると随求明王になっていると。本堂は、天保の改革で知られる水野忠邦から寄進されたものとのことである。 目黒駅の高架橋を渡り暫く進むと目黒新橋に到着。 下を流れるのは目黒川。この付近は桜の名所であるが、この日は開花までまだまだ。 目黒通りと山手通りの交差点の角にある大鳥神社に到着。手水舎。 言い伝えによると景行天皇の時代に当地に国常立尊を祀った社があり、日本武尊が東夷平定の折に当社に立ち寄って祈願した。その後日本武尊の霊が白鳥として当地に舞い降り鳥明神として祀られ、大同元年(806年)に社殿が完成したという。この年を大鳥神社では創建の年としており、これは目黒区最古であると。神社の酉の市は江戸時代の天保6年(1835年)に当地の農家が浅草から取り寄せて売ったことから始まったといわれている。現在でも11月の酉の日には境内には熊手を扱う店が軒を連ね賑わいを見せると。 授興所の文字が。 守札やおみくじを扱う社務所なのであろうか?御社殿の屋根の銅板葺替え工事と御社殿の保存修復並びに耐震補強工事が行われていた。昭和20年5月の大空襲に見舞われたが、氏子・崇敬者の奉賛により、昭和36年に拝殿、昭和37年には御本殿が復興し、旧社殿に勝る立派なご社殿が完成。しかしながら、55年の歳月を経て屋根の雨漏りの為、野地板・垂木・棟木など木材の腐食も進んだと。先人から受け継いだ御社殿を後世に引き継ぐ事業として、屋根の銅板葺替え工事並びに御社殿の保存修復補強工事を進めていると。 工事中でなければ・・・。白格子の美しい神楽殿。 「切支丹灯籠」 。 天文18年1949年、ポルトガルのフランシスコ・ザビエルが、天主教(キリスト教の旧教、カトリック教)をわが国に伝え、燎源の火の勢いで全国に広がったが、豊臣秀吉が天下を統一した1587年に、晴天の霹靂の如く、切支丹の禁止令と宣教師の追放令を出した。信徒の中心的信仰の十字架は、燈籠の竿に十字架を生かし、が作図されたが、燈籠の基礎をなくし、竿の下部を荒彫りとし、竿の下部を埋めることにした。そして、宇宙の中心に神が存在される教えを、礼拝物として○丸を描き宇宙を表し仮託礼拝対象物として形成した。その結果、燈籠の竿は形に出来上がったのだと。狛犬 阿像。 狛犬 吽像。 大鳥神社の隣にはあったのが天台宗 松輝山 大聖院。 開山:良順僧正(永禄5年1562年寂)、1557年に開創。大鳥神社のもと別当。ここにも「切支丹灯籠」が三体。 左の灯籠の支柱上部に ローマ字「FILI」の組み合わせ記号が彫られていると。この「FILI」はラテン語で 息子よ 御子よ キリストよ との意味だと。隠れキリシタンの崇拝物であることが解らないように 文字が簡単に解明できないように解りづらくしてある との説があると。島原藩主松平主殿頭(たのものかみ)の江戸下屋敷(三田千代が崎)の庭園の小祠(しょうし)にあったものだと。1926.10.(大正15)ここ、大聖院に移されたと。 見返りの阿弥陀道標。こちらの笠付石碑は、仏像の下に「目黒総ちん守 大とり大明神 みかへ里能りの阿弥陀佛」という文字が彫られている。本尊は、京都永観堂の像を模刻した阿弥陀如来像で、「見かへりの阿弥陀」と言われていると。しかしこの「みかえりの阿弥陀」は戦災で焼失したと。それを示す道標が境内に移されて残っていた。大聖院は隣接する大鳥神社の別当寺であったと。明治の神仏分離令で大鳥神社と分離したものと思われると。
2017.05.30
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羽田空港へは東京湾アクアラインを利用して向かう。この日の成田空港~羽田空港へのドライブは私の運転。東京湾アクアライン(とうきょうわんアクアライン)・東京湾アクアライン連絡道(とうきょうわんアクアラインれんらくどう)は、千葉県木更津市から東京湾を横断して神奈川県川崎市へ至る高速道路。東京湾アクアライン道路全体の総延長は15.1 kmで、このうち、東京湾を横断する木更津側の約4.4 km区間にアクアブリッジと呼ばれる橋と川崎側の約9.5 km区間に東京湾アクアトンネルと呼ばれるトンネルで結ばれているのです。そしてアクアブリッジは、日本第1位の長さ(全長4384 m)の橋梁。木更津人工島である海ほたるPAに立ち寄る。前方に「風の塔」 (川崎人工島)。人工島の外径は約195 mの円形で、中央部には海底トンネル換気用として、海上96 mの大塔と海上81 mの小塔の2つの換気塔が建つ。この風の塔は羽田空港に着陸する飛行機の窓からもよく見えるのです。遠く634mの東京スカイツリーの姿も見えた。横浜方面。 帆船をイメージしたデザインなのか?船の煙突らしきオブジェも見えた。海ほたる1階には海底トンネル掘削時に使用したシールドマシンの原寸大のレプリカ?が設置されていた。 海ほたるの川崎側最先端上部の広場。この先は川崎市浮島まで9km以上の海底トンネル。 夕日で東京湾の水面も輝き出した。 東京湾を大型貨物船がゆっくりと航行中。その上に羽田空港を離陸した飛行機の姿も。 千葉方面。そして東京湾アクアトンネルを通り羽田空港ターミナルに到着。バルト3国旅行中に大変お世話になった熊本市内にお住まいのMさんと再会を約束し、別れたのであった。この後は旅友のSさんに運転を交代し、東京湾岸道路を利用して我が家に向かう。横浜ベイブリッジを通過。 横浜湾。 70階建て、高さ296.33mの横浜みなとみらい21の中核を担っている超高層ビルの横浜ランドマークタワーが右手に。106 m高さの横浜マリンタワー。 そして羽田空港から約1時間で我が家の玄関前まで旅友のSさんの愛車で送っていただき10日ぶりの我が家に到着し、バルト3国旅行&房総巡りの旅が完結したのであった。
2017.05.29
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誕生寺の隣にある鯛の浦遊覧船入口が総門の右手、道を挟んで向かい側に。「鯛の浦」は、マダイが群泳することで知られ、鯛の浦タイ生息地の名称で、国の特別天然記念物に指定されている。天然記念物指定地域は、 200ヘクタールの海域と陸地で、海域内では釣り等の遊漁が禁止されているのだと。 誕生寺入口には巨大な「蘇生願満の大灯籠」が。 「大本山 誕生寺」 と刻まれた石碑。 総門。 総門の正面の彫刻は見事。いろいろな千社札(せんしゃふだ)が貼られていた。 総門を潜るとその先の参道両側にも石灯籠が。そして古木の松も。 誕生時 案内図。誕生水井戸。 総門と仁王門の間には誕生水井戸が。日蓮が産湯に使った井戸とのこと。貞応元年(1222年)2月16日、午前11時〜午後1時の間に日蓮は生まれた。その際、周辺ではにわかに清水が湧き出したと。生家は江戸時代の大地震により海没してしまったが、現在地に誕生寺が再建されると、当地にも清水が湧き出したと。井戸枠や石柱は寛永十年代(1633〜1642)に造られたもの。高僧には井戸や清水にまつわる逸話が多くあるが、日蓮も同様と。鎌倉にも鎌倉入りした日蓮が喉の渇きを覚えると水が湧き出たという日蓮乞水が残されている。誕生堂日蓮聖人御幼像の奥から道を上ると誕生堂が。誕生堂には日蓮の幼い像が安置。小型の坐像であり、帯刀していると。日蓮の両親は近くの妙蓮寺に墓地があるが、誕生堂にも両親が祀られているのだと。誕生寺では、日蓮聖人誕生の聖日である2月16日に聖人の誕生を記念し、報恩感謝のため誕生会大法要を行うと。この法要で中心となる行事がご幼像の徒御(とぎょ)です。普段は誕生堂にお祀りされているご幼像が、聖人のご両親のお墓がある妙連寺から、誕生の聖地である誕生寺まで輿に乗り大勢の僧侶や信徒を従えて行列するのだと。誕生寺にふさわしい法要。 そしてさらにその上方に見えるのが太田堂。この堂は、法華経の信仰者を守護する太田稲荷大明神を祀っていると。太田稲荷大明神とは、「太田家の守護神であるところの稲荷大明神」ということ。この太田家は、江戸城を初めて築いた、有名な太田道灌の出た家で、もとは丹波国太田郷(京都府亀岡市)から出た清和源氏の流れをくむ武家とのこと。 仁王門。総門を入ると大きな「小湊山」の額がかかる立派な仁王門が見えて来た。この仁王門は宝永3年(1706)に建立され、平成3年(1991年)に大改修された。千葉県指定文化財となっている。間口8間。宝暦年間の大火の際焼け残った最古の建造物。「小湊山」と書かれた扁額。両側の仁王尊は上総の仏師松崎右京大夫法橋作。阿形仁王像。 吽形仁王像。仁王門から総門方面を振り返る。 境内案内図。波除け宝塔。「三須安五郎翁」と刻まれていたが、どの様な人物か不明。日蓮聖人五百遠忌報恩塔(左)。塔身の正面には南無妙法蓮華経のお題目に続いて「日蓮大菩薩」と。 祖師堂への参道。 鯛塚。日蓮誕生の時に起こった三つの奇跡、三奇瑞の一つ、妙の浦(鯛の浦)の鯛を供養する墓。日蓮がうまれた時、生家の前に広がる海に轟音とともに五尺(1m50cm)以上もある雄雌二匹の鯛が飛び跳ねたと。その後もお七夜の日まで毎日やってきて聖人の誕生を祝ったといわれている。妙の浦の鯛は、聖人の化身とか使者であるといわれ、昭和42年(1967年)には特別天然記念物に指定され、現在でも禁漁が守られ大切に保護されているのです。 道標「従是七面堂太田稲荷道」。 日蓮聖人生誕700年記念碑。建立された年次は、やはり裏面に「紀元二千五百七十九年、聖誕六百九十八年、大正八年十一月十二日建之」とあり、生誕700年正当の2年前大正8年(1919)の御会式の日。彫刻は「横浜中島忠次郎」と。 仁王門を抜けると右側に鐘楼が。 鐘楼は文化年中の建立と伝えられていると。現在の梵鐘は昭和二十四年に作製されたもので、以前の梵鐘は昭和7年に戦争によって供出されてしまい残っていないと。忠霊塔。 日蓮聖人御幼像。仁王門と祖師堂の間には、日蓮聖人ご幼像が。昭和10年(1935年)に建立。日蓮聖人は、貞応元年(1222)2月16日、小湊片海の地に降誕。その時、庭先から泉が湧き出し産湯に使った「誕生水」、時ならぬ時に浜辺に青蓮華が咲いた「蓮華ケ渕」、海面に大小の鯛の群れが集まった「妙の浦」という不思議な「三奇端」が伝えられているのだと。聖人は幼名を善日麿といい12歳までこの地で暮らした。文永元年(1264)聖人は母梅菊の病を祈願し蘇生させる。延命した母梅菊はそれを記念し、「菩薩荘厳堂」を創建。その後直弟子日家上人が建治2年(1276)10月、聖人生家跡に一宇を建立し高光山日蓮誕生寺と称したのが当山の始まり。 水屋。仁王門から祖師堂への参道の中程右側に、鐘楼のように四方吹放ちの建物が。中央には、常に清水が一杯に張られた石造の大きな水盤が据えられ、数本の柄杓と手拭が備えられていた。祖師堂。10年の歳月をかけて弘化3年(1846年)に完成。日蓮宗では日蓮聖人像を安置する祖師堂は最も神聖な場所。生誕地の祖師堂にふさわしく総欅造り雨落ち18間4面、高さ95尺(約29m)という立派な建物。祖師堂の彫刻も見事。 正面の懸魚の飛龍と向拝の龍は石川鉄五郎作。ご朱印を頂きました。中央の朱印は「小湊山」、右上は「日蓮大聖人御誕生霊場」、左下は白抜きで「大本山誕生寺」。「蘇生延寿」の墨書は、文永元年(1264)日蓮聖人が父の七回忌と病の母の見舞いを兼ねて鎌倉より帰郷した際、すでに息絶えていた母のために祈祷されたところ、たちまち法華経の功徳現れて蘇生したのみならず、4ヶ月の寿命を延ばされたことに因むのだと。 宝物館。平成元年正月に新築開館され、面積366m2。常設展示・特別展示室に分れ、日蓮聖人御真筆、歴代の墨蹟、里見家、清正公、水戸光圀公等の遺墨、明治御皇室よりの拝領品、日蓮聖人御一代伝記画十八枚等を展示。 本堂(御影堂)。瑞応殿。 八大龍王の碑。 八大龍王は、天龍八部衆の一つである龍族の八王のことで、難陀(なんだ)龍王・跋難陀(ばつなんだ)龍王・娑伽羅(しゃから)龍王・和修吉(わしゅきつ)龍王・徳叉迦(とくしゃか)龍王・阿那婆達多(あなばだった)龍王・魔那斯(まなし)龍王・優鉢羅(うはつら)龍王をいい、法華経の守護神。 龍王堂。龍王堂には法華経の守護神である八大龍王が祀られている。八大龍王は仏教を守護する天龍八部衆の一つである龍族。龍王堂では、正月、5月、9月の18日に八大龍王の縁日として大祭が行われると。駐車場に戻る途中に宝塔が。 祖師堂の裏にある本師殿宝塔は、昭和63年の完成で、総高26m、塔体は印度砂岩の切石貼り。内陣に総高3mの釈迦牟尼仏こと釈尊像を安置。祖師堂の裏、道を隔てた裏手に本堂と客殿がある。 我が実家の宗派は日蓮宗であるが、亡き父母が日蓮宗総本山身延山久遠寺や都内の池上にある日蓮宗の大本山・池上本門寺に何度となく詣でた事は記憶しているが、この千葉小湊・誕生寺への参拝についてはあまり記憶が無いのであった。 しかし信仰心の厚い父であったので、必ずやこの日蓮生誕の地・誕生寺を訪ねていた事は間違いないであろう。
2017.05.28
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バルト3国の旅行記をブログアップしている間に1ヶ月以上が経ってしまいましたが成田空港でお世話になったツアー仲間と9時過ぎに別れ、ツアーを共にした旅友のSさんの愛車で房総巡りをした後に帰宅したのでした。今回のツアーで呑み仲間になった熊本から参加されたMさんの羽田空港から熊本空港への帰路便の出発時間が17時過ぎとのことで、 この房総巡りに参加して下さいました。九十九里浜の南端部に位置する一松海岸に到着。久しぶりに見る太平洋。一松海岸は200mにわたり一松海水浴場として整備されていた。太平洋沿いに全長2.8kmに渡って広がる海岸。夏期には海の家などの施設が整うのだと。海水浴場をはじめ釣り、マリンスポーツなど年間を通じて多くの波を求める若者たちや、年齢層を超えた人々も訪れ賑わうと。7月~8月は、絶好のシーサイド・レジャー・パラダイス。海岸近くには観音様が。太平洋に向って立つこの「長生観音」は、村の悠久の平和と村民の家内安全、繁栄、交通安全、海難無事故を祈願して平成2年(1990年)6月に建てられたと碑文に。次に大多喜城に向けて車を走らせ駐車場に車を停める。大多喜県民の森は大多喜城の近くに広がる森林公園。途中、21世紀の森という案内看板があちこちに立っていた。大多喜城に向けて徒歩にて坂を上る。バルト3国の長旅の疲れも無く3人とも元気。『大多喜城址』と刻まれた石碑。大多喜城は現在県立中央博物館大多喜城分館になっていると。そして『房総の城と城下町』の特別展示が開催されていた。 『空堀』の説明板。徳川四天王のひとり、本多忠勝を初代城主とする 大多喜城。 徳川家康の最重要側近として戦国の世を、生涯無敗で生き抜いた勇猛果敢な忠義一徹の武将『本多忠勝』、そして、慶長14年御宿沖で座礁したスペイン船乗員317名の命を救い、日本、スペイン、メキシコの友好交流の基を作った温情あふれる人間性豊かな『本多忠朝』。戦国の世から太平の世へと移る日本を背景にしたこの二人の親子のエピソードをNHK大河ドラマとして誘致すべく、NHK大河ドラマ「本多忠勝・忠朝」誘致実行委員会が中心となりその誘致活動を行っていたのです。坂を上り終わると目の前に大多喜城が姿を現した。 戦国時代から江戸時代かけて存在した城。初めは小田喜城(おだきじょう)と呼ばれていた。昭和50年(1975年)に城跡に天保6年(1835年)の図面を基にして天守が再建された。ごく最近の2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(122番)に選定されたと。屋根の瓦には2つの家紋が使われていると。最初の城主となった本田家の紋『丸に立葵』と最後の城主の松平家の紋『三つ扇』。 上総大多喜城絵図。大多喜城址からの田園風景。天保13年の天守焼失後、焼失した天守に代え「神殿」と称する建物が建てられたとされるが、大多喜藩が財政難に苦しんでいた時でもあり粗末な建築物だったのではないかとの説もあると。現在本丸には古絵図をもとに、三重四階の『模擬』天守が建てられていた。屋根には金の鯱の姿も。城址からの下りの坂道の両脇には新緑のモミジが陽光を浴びて輝いていた。バルト3国には未だなかった新緑を多いに楽しむ。そして更に南に向けて車を走らせ、途中鴨川で久しぶりの寿司を昼食に楽しみ、次の訪問地・日蓮聖人生誕の地『誕生寺』へ向かったのであった。
2017.05.27
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サツマイモの苗を近くのわいわい市で購入し植え付けました。まずは『ベニアズマ(紅あずま)』。紅あずまは関東で人気の品種。皮の色は少し紫がかった濃い赤色で、果肉の色が黄色く粉質で、繊維質が少なく、蒸したり焼くとホクホクとネットリの中間タイプのサツマイモなのです。焼き芋にした時は、果肉の色が黄色く、見た目からとても美味しそうに見え、甘味もあり、人気がある品種。株間30〜40cm間隔で穴を開け、深さ10cmくらいの植え穴を掘りました。植え穴の底に寝かせるように苗を置いたら、土をかけて鎮圧。この時、塊根の基となる不定根が良く出るよう、3〜4節が土に埋まるように植え付けるのがポイントなのです。そしてもう1種類は『安納芋』。安納芋も、焼き芋にすると蜜が出るほどの甘さが特徴。昭和63年に種子島島内で作られていたものを品種改良したもの。今春、息子が仕事で種子島に出張した折、送ってくれ美味しかったので栽培してみようと考えたのです。植え付け後は、たっぷりと水をやりました。かなり萎れていますが、数日で元気が出て来るのです。葉の付け根部分を多く埋めれば、芋の数が多く、小芋になり、少なく埋めれば、芋の数が少なくなり、大きな芋になる傾向にあるのだと農家の方から。ただし、サツマイモは作物の中でも最も乾燥に強い作物の一つとのことで、活着後は乾燥しても水やりの必要はないのだと。苗を植え付けてから2ヶ月くらいすると、蔓が伸びて四方へと広がります。このころから、「つる返し」といって、伸びた蔓を畝の中央や空いているスペースへと動かしてやるのです。蔓から発生した不定根はやがて肥大して小さな芋になることがあり、養分を多く必要として葉が過剰に茂り、蔓ボケの原因に繋がるため、蔓の節から発生した根を切るのです。定期的に蔓を持ち上げてひっくり返し、不定根を切って蔓から芋が出来るのを防ぐとしっかりとした大きさのさつまいもが出来る、と これも農家の方から。
2017.05.26
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我が家の横の菜園のトマトも順調に成長しています。バルト3国への旅行前に苗を購入し、4/中に植え付けました。そして約40日後の姿です。 苗も既に1m程の高さまで成長しました。それぞれの主幹を支柱に梱包紐で結わいて固定しています。既に開花を始めており、1週間に1~2回、トマト・ナスの着果、肥大、熟期に対して促進作用を有する植物ホルモン剤・『トマトーン』を霧吹きに入れて噴霧しています。ミニトマト『アイコ』の苗は大玉トマト『桃太郎』に比べて成長が早いのです。既に多くのミニトマトの実を付けています。 そして大玉トマト『桃太郎』の花。 既にこちらも負けじと5cmほどの大きさになって来ています。そしてわき芽欠きを確実に行っています。わき芽とは、頂芽ではない生長点=葉茎の根元から出る芽(枝)のことで、トマトは、一般に主幹一本仕立てで実に栄養を送るように育てるのです。トマトのわき芽をそのまま放置してしまうと、わき芽を伸ばすことに養分を使ってしまい、実が十分育たなくなってしまうことがあるのです。さらに、トマトのわき芽を放っておくと、葉が茂り過ぎて日当たりや風通しが悪くなり、病害虫の原因になったり実つきが悪くなります。そのため、トマト栽培において、わき芽かきはとても大切な作業なのです。そして取ったわき芽を挿し木にして増やしています。そして挿し芽が発根し成長を初めたものは、別の畝に定植。 毎日、成長している姿を確認出来るのです。後2週間もすれば 真っ赤なトマトが収穫できそうです。
2017.05.25
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朝、我が趣味の養蜂場のある菜園に行くと、最近は隣の畑の一段高くなった場所の樹木の下で私を迎えてくれるキジ君です。温室のガラスの反射光でやや逆光気味。そして暫くすると、この日は近くの荒れ地に移動し、「ケーン ケーン」と甲高い大声で鳴き、縄張り宣言を私に対しても?するのです。その後両翼を広げて胴体に打ちつけてブルブル羽音を立てる動作を繰り返すのです。これが「母衣打ち(ほろうち)」と呼ばれるもの。「母衣」とは戦国時代、鎧の後ろにつける布製の補助防具の事ですが、この母衣が風にはためく音に例えたものだとのこと。ズームで。我が国・日本は1947年(昭和22年)3月22日、日本鳥学会が国鳥として選定したのです。しかし国鳥が狩猟対象となっているのは、日本だけであると以前テレビのMCが。この春はまだパートナーの雌の姿は見ることができません。早朝は一人でお散歩、誰かに良く似ています。そして15m?以上近づくと、長い足で結構速く走り逃げていくのです。そして再び立ち止まり、ケーン、ケーン、バタバタと。そして時々は短い距離を飛ぶことも。キジは飛ぶことは苦手な鳥なので、低く短く矢のように飛ぶのです。雉という漢字の「隹」は「とり」の事で、「雉」とは 「矢のように飛ぶ鳥」という意味だそうです。さて、明日も私を迎えてくれるでしょうか?今度はパートナーも一緒にお願いします。
2017.05.24
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我が家の庭のフェンス沿いの2種類のゼニアオイ(銭葵)の花が開いています。草丈は100-120cmほど。地中海沿岸・南ヨーロッパ原産とのこと。日本には一説に元禄(1688-1704)以前、一説に宝永(1704-1711)年間に鑑賞目的で渡来したが、強健な性質から逸出し、現在では帰化植物のひとつとなっているようです。 この花は、一昨年種が飛んで来たのでしょうか畑の隅に出ているのを発見し鉢に移し育てた物をこの場所に移植しました。3cmほどの小さな薄紫色の花を咲かせています。 ゼニアオイは、花を銭に例えたものですが、どう見ても銭には見えません。この花の大きさが一文銭と同じくらいであったことから、ゼニアオイ(銭葵)と名付けられたと言う説もあるようですが、花の大きさだけで????。 薄紫の花びらに濃い紫の模様が。 そしてもう一種は種から育てた物。 花びらの紫が濃い種類。 残念ながらこの花に訪れる蜜蜂の姿は確認出来ていません。 しかしこの様に大きな株になるとは想像以上だったのです。これ以上大きく増えないような対策も必要と。
2017.05.23
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我が養蜂場の前のサルビア・ネモローサの花が咲き進み、長い花穂が満開となっています。養蜂場の案山子は元同僚の弟さんから頂いたマネキン。上着が破けていましたのでお色直しを先日しました。先日、長年勤め上げた会社の合併パーティーに招待され、その折若手が顔を黒く塗り舞台に立ち、ラッツ&スター(RATS & STAR)の衣装で歌を披露してくれたのです。その際の衣装を頂き持ち帰ってお色直しをしたのです。サルビア・ネモローサは、花茎がまっすぐに伸びて穂状に咲いています。花数が多く、宿根性のサルビアの中でも花が美しい種類。 一昨年、種を購入しプランターで育てた物をこの場所に移植しました。 耐寒性、耐暑性があり育てやすいのです。長い花穂に小さな花が密集して咲いています。花色は、この青紫のほかにピンクや白花もあるようです。そして我がミツバチがやって来て、一生懸命に蜜を吸っているのです。近くに行くとブンブンと羽音が聞こえて来るのでした。
2017.05.22
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我が趣味の養蜂場に植えたズッキーニ、カボチャが開花を始めています。まずはズッキーニの花。ズッキーニ(英名:zucchini、courgette)は、ウリ科カボチャ属の一年生の果菜。果実の外見はキュウリに似ていますが、カボチャ(ペポカボチャ)の仲間なのです。既にズッキーニが収穫できる状態になって来た株も。花は「花ズッキーニ」と呼ばれ、花心を取ったものを食用とします。雄花の方が味が優れるとして、イタリア料理では雄花のみを用いるが、雄花・雌花の区別をしない地域もあるとのこと。花は生でも食べられますが、通常は花の中に具材を詰め揚げるか炒めて調理されると。通常のズッキーニよりさらに未熟で花のついた状態で収穫し、花をつけたまま販売されるズッキーニも「花ズッキーニ」と呼ばれているのです。ズッキーニはカボチャの仲間ですので後に述べる株の中に雄花と雌花がある雌雄異花なのです。この花は雌花のようです。雌しべの傍に小さな虫が映っていました。そしてカボチャ。カボチャは雌雄異花。雄花には雄しべしかない、雌花には雌しべしかない。つまり自家受粉ができないってこと。一般的な花の中に雄しべと雌しべが見える。こういう花は風やら虫やらで自家受粉が出来る。つまり自分の雄しべの花粉で雌しべが受粉できるってことだ。カボチャは雌花は雌しべしか持っていないし、雄花は雄しべしか持っていない。そうすると誰かが雄花の花粉を雌花に運んで来てくれないと受粉できないのだ。誰が運ぶか? 一般的には虫が雄しべの花粉を雌しべに運んでくれるのを待つということになる。この日も、我が蜜蜂が一生懸命にその仕事をしていてくれたのです。
2017.05.21
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今年も我が菜園のソラマメ(空豆、蚕豆、英: Broad bean )も収穫に時期を迎えています。 別名もたくさんあるようです。ノラマメ(野良豆)、ナツマメ(夏豆)、テンマメ(天豆)、シガツマメ(四月豆)、コヤマメ(高野豆)・・・・。和名の由来は、豆果(さや)が空に向かってつくため「空豆」、または蚕を飼う初夏に食べ、さやの形が蚕に似ていることから「蚕豆」という字があてられた。酒処では「天豆」と表示している場合も多いのです。収穫の時期を迎えると、空に向かって立っていた豆果(さや)が地面の方向に向かってうなだれて来るのです。。 菜園からビールのつまみ用に収穫してきました。 「おいしいのは3日だけ」といわれるほど、ソラマメの収穫期間は短いのが特徴なのです。中には3~4粒のソラマメが。そして白いベッドに包まれて鎮座。 寒さの厳しい冬を乗り越え、この時期に旬を迎えるソラマメ。真っ白な綿の部分は、周りの条件の変化に弱い若く幼いソラマメを優しく包み周りの寒さや乾燥から守ってくれるのです。豆果(さや)を剥き豆を取り出しました。残った豆果(さや)も何かに利用できると良いのですが。白い綿をスプーンで刮ぎ取って、調理して食べられないのでしょうか。 美しい曲線美。 この日も塩茹でに。 そしてこの日の夕飯は、同じく我が菜園からの収穫物で。キャベツ、ピーマンは肉炒めで。サヤエンドウも。 そして実家の竹林から採ってきた蕗は伽羅蕗で。
2017.05.20
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バルト3国の旅行記を書いている1ヶ月の間にも色々な事がありました。先週末には毎年行われるミツバチの検査が行われました。みつばち飼育届けを提出しておきますと、管轄の湘南家畜保健衛生所長から、平成29年度の蜜蜂の腐そ病検査の実施について通知が届いたのです。 通知書には 1. 実施の目的 :蜜蜂の腐そ病の発生予防の為2. 実施の対象 :飼育されている蜜蜂の蜂群3. 検査の日程: 平成29年5月12日4. 検査の方法:臨床検査及び必要に応じて行う細菌検査による 6. 検査手数料 :1蜂群につき60円と書かれていた。趣味として蜜蜂を飼育し、自家消費できず余った蜂蜜等は売っている等の場合も従来から養蜂業者に該当すると扱われるのです。この日は11時に男女各1名の検査員が来られました。そして早速養蜂場の畑に案内しました。蜜蜂飼育で一番恐ろしいのは、腐そ病。腐そ病は発症したら、焼却する以外はないとのこと。伝染病ですから、蜂場内に万延し、地域へと拡大して行くのです。発症元になったら大変、病気を貰っても大変なのです。 蜜蜂を飼育している者には、家畜伝染病予防法に基づき、腐そ病検査を受けることが義務付けられているのです。 順調に群勢を強めているようです。 産卵も順調のようです。女王蜂も中央に確認出来ました。幸い、3群とも検査結果は陰性とのことで一安心でした。3群の検査で180円を支払いました。そして『蜜蜂のバロア病(ダニ)対策について』の書類も頂きました。ダニが雄の蜂児に好んで寄生する特性を利用して雄用巣礎枠を利用する方法も有効と。実はダニにとって、雄蜂巣房で育つことが好都合な理 由が存在するのだと。雄蜂の幼虫は成長が遅いために外皮が柔らかい期間が長い。 そのため、ダニの幼虫も体液を吸い易く、成長には都合がよい。封蓋期間も約 3日長いので、娘ダニが成熟するには雄蜂房の方が好都合であるのだと。 『巣房の大半が封蓋されたら(おおよそ 2.5~3 週間後)巣箱から取り去り、48 時間冷蔵すれば巣房の雄蜂蛹と共にダニを殺すことができる。 同時に次のダニのライフサイクルに合わせて別の雄蜂巣脾を挿入する。 巣脾を冷蔵した後は、これを掃除する必要さえない。再度巣内に挿入すれば、ミツバ チが自ら死んだ蛹とダニを取り出してくれる。 別の方法もあります。封蓋雄蜂は簡単に削り落とすことができるし、毎回ミツバチに造りなおさせることができる。 また、ガーデン・ホースの水の力で封蓋を除き、雄蜂蛹とダニを水圧で洗い流すことも できる。巣脾は完全な状態で残る一方、蛹とダニは洗い流される。』 だと。今度購入しTRYしたいと考えています。
2017.05.19
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予定通り、14時前にホテルを出発しヘルシンキ国際空港へ向かう。バスはヘルシンキの西、バルト海に浮かぶ島を繋いでいる高速道路51号線を進む。101号線へのインターチェンジにあったヨットの如きモニュメント。 ユニークな外装のビル。 高速101から45号線への乗り継ぎ空港へ向かう。そして14:30過ぎに空港へ到着。 ヘルシンキ・ヴァンター国際空港(フィンランド語:Helsinki-Vantaan lentoasema)は、フィンランド共和国のヴァンターにある国際空港。ヘルシンキ国際空港、バンター空港と呼ばれることもある。 フィンランド共和国の首都ヘルシンキの北15kmに位置する。フィンランド最大の空港であり、北欧のみならず、中欧や東欧や、アジア各都市へ向けた便のハブ空港として機能。この日の帰国便は17:20発 JL0414便 成田行き。荷物を預けると制限重量23kgを1.5kgオーバーと。1kg以内であれば許してくれる様であったが、1.5kgオーバーはNOと。実はそれを想定していて、トランクに2kg分ほどを別の袋に入れておいたのでこれをハンドキャリーとしてトランクから出して再検査は合格。 出国手続きもスームーズに終了し、17:30過ぎには離陸。約9時間半のフライトの開始。離陸後暫くして飛行機はUターンし進路へし、機窓からはヘルシンキ・ヴァンター国際空港の滑走路が見えた。ヘルシンキから東へ150キロほどに位置するクーサンコスキという、まだ50年しかたっていない新しい町の上空を通過。しかし機窓から真っ白の雲しか見えなかった。ここはなんでも製紙工場でもっている町で、ヨーロッパ最大?なのでは?。 ヴォルホフ(ボルホフ、ロシア語: Во́лхов)はロシア・レニングラード州の中部にある都市。サンクトペテルブルクからは東へ122km。 離陸後2時間ほどで夕食が出る。久しぶりの和蕎麦を楽しむ。 その後は、旅の疲れ?もありアルコールも程よく効き爆睡。気がつくと既にロシア・ハバロフスク上空へ。時間は日本時間4月28日6:30過ぎ。 軽食が出る。 日本海に出る。 佐渡島が機窓に姿を現す 雲の下に佐渡島の内海府海岸(うちかいふかいがん)が見えた。新潟市上空から本州へ。左下に新潟空港が見えた。 鹿島灘から成田空港へ。 そして成田空港に着陸。時間は予定通りの8:25。 10日ぶりの日本へ。 ツアー仲間の川崎からのご夫妻と、四国から参加の看護士二人の足取りは軽く。 入国手続きに向かう。 そして無事荷物を受け取り、お世話になった添乗員、ツアー仲間に挨拶しこの旅を無事終えたのであった。そして待っていた旅友Sさんの車で何故か3人で成田空港を後にしたのであった。 バルト3国そしてフィンランド・ヘルシンキの10日間の旅であった。そして今回も早朝起床し、タリン、リガ、カナウス、ヴィリニウスの街を歩き巡ったのであった。そして自由時間の夕方にもヴィリニウス、リガ、ヘルシンキの街の散策に出かけたのであった。そして上記都市の中心部にある観光名所は外側からではあるが、ほぼ制覇したのであった。バルト3国は限りなくヨーロッパに近い国と感じたのであった。 本来はエストニアはフィンランド系、 ラトヴィアはドイツ系、 リトアニアはポーランド系で、民族の歴史、 文化の伝統、 言語、 宗教はそれぞれ異なる。にもかかわらず、 この3国がひとくくりにされているのは、 バルト海に面しているという地理的な共通性のほかに、 ピョートル大帝の時代にロシア革命を機会に独立を獲得し、1940年に、 独ソ不可侵条約に伴う秘密協定によって、 ほとんど同時にソ連に統合されるという運命を共にしているからだと現地で学んだのであった。そしていわゆる社会主義化と粛清があり、 多数の国民がシベリアへ流された事も。、現在、 エストニアの人口は131万、 ラトヴィアは214万、 リトアニアは285万である。ソ連邦に「加盟」した時には、 この3国は元からの加盟共和国よりも生活水準が高かったし、今もほかの地域よりも消費物質を豊かに保たれているとも。エストニアはバルト3国の中で一番北に位置し、バルト海を挟んで西はスウェーデン、北はフィンランドと向かい合っている国。晴れた日にはフィンランドが望めるほどで、フィンランドと同じ文化・言語圏に属しているのであった。その首都タリンの旧市街を歩くと、中世そのままのパステルカラーの町並みが残り、早朝散歩の足音が石畳にこだましているかのようであった。タリンは北欧文化とドイツ文化がほどよく混ざりあった美しい古都なのであった。 今も高いインフレ率と失業で悩む国内とのことだが、物価の高い北欧からの旅行者にとっては、特に物価の安さが魅力的であると。品数も多く、特に手作りの製品、セーターや装飾品などの品質の良さと安さには定評があると。週末にはバルト海を船で渡り多くのフィンランド人がタリンに買い出しに来るのだと。 ラトヴィアは勤勉で合理的なドイツと相通じるものがある様に感じたのであった。果てしなく広がる白樺の森と湖は、 まさに北欧の自然そのもので、 大いなる安らぎに満ちている国であった。現在の人口は、 およそ214万人。 民族の構成はラトヴィア人56.9%、 ロシア人30.1%、白ロシア2.8%、 ウクライナ人2.5%、 リトアニア人2.1%、 ポーランド人1.4%、その他2.1%。独立までの道のりは長かったが、 現在隣の大国であるロシアに対する民族的な感情は比較的落ち着きをみせていると。経済的に深いかかわりをもつことが、 現実的な判断につながっているとのこと。氷河の後退で造られた穏やかな気候の地ラトヴィア。氷河期にこの地を覆っていた氷河が後退していく際、 地表を削りとり、 現在のなだらかな地形を形造ったのだと。これは他の2ヵ国も同様であると。国土の面積は6万4589平方キロで3国の中で2番目の広さ。最高地点は何と331.5メートル、 最大の湖ルバンスの面積は82平方キロ。最も長いダウガヴァ川は1020キロで、 このうち367キロがラトヴィア国内を流れていると。そして800年の歴史をもつバルト最大の都市、 リガ (RĪGA)。バルト海に注ぐダウガヴァ川沿いにリガを建設したのは、 キリスト教の布教にやってきたドイツの司教だった。 その後、 ハンザ同盟の一員として繁栄し、 やがてバルト3国で最大の人口を抱える都会に発展。 しかし近代的な新市街から旧市街に一歩足を踏み入れれば、そこは大聖堂や教会の尖塔が浮かび上がる別世界であった。中世と現代のコントラストをリガは鮮やかに見せてくれたのであった。 また19世紀の装飾的な建物、 ユーゲントシュティール建築(JUGENDSTIL)は圧巻、感動の連続であった。更に16世紀からこのあたりを支配していたクールランド公が夏の離宮として建てたルンダーレ宮殿はベルサイユ宮殿を彷彿させたのであった。花の咲く時期にもう一度訪ねたい空間・時間であった。 リトアニアは街を歩いていると、 一番建物の装飾に凝っていると感じたのであった。人なつこく陽気なリトアニア人がバルト3国で最初に独立の火蓋を切ったのは、その情熱のなせる業なのであったのであろう。 バルト諸国で唯一のカトリックを信仰する国であり、 リトアニア人が多数を占め、独立後、 国内に残ったロシア人との摩擦が3国中で、 最も少なかったのだと。丘の上にある古城から眺めた早朝のヴィリニウスの旧市街は、 緑の中に赤茶色の屋根が点々と見え隠れしていた。 首都とはいえ豊かな自然にめぐまれたこの町は静かで落ちついた雰囲気を醸し出していた。 はるか遠くに目をやると、 いったいどこまでつづくのか、ただひたすら深い森がひろがっていたのであった。ヴィリニスは別名『バロックの町』。 華麗なバロック建築を旧市街のあちこちで目にする事が出来たのであった。赤レンガのゴシック建築、 聖アンナ教会(ŠV.ONOS BAŽNYČIA)は美しかった。16世紀に建立された教会。 ヴィリニュスにあるゴシック建築の傑作のひとつ。正面から見ると塔が3本あるのが特徴的だった。正面ファサードには33種類のレンガが使われるなど、 凝ったつくりになっていたのであった。そして「命のビザ」の舞台、 カナウスの旧日本領事館を訪ねたのは、このツアーで最も印象的な時間なのであった。1939年から2年間、 日本領事館が置かれていた場所。 その領事館にいた唯一の日本人外交官、故・杉原千畝氏は日本の通過ビザを独断で発給し、 ユダヤ人難民6000人の命を救ったのだ。我が大学の、そして彼の帰国後の同じ市民の在りし日の姿、行動に多いに感動したのであった。一方 リトアニアの新しい聖地?、 十字架の丘(KRYŽIŲ KALNAS)はラトヴィア国境に近いシャウレイ近郊の丘に。 ロシア皇帝に反逆して死んだ人を悼むため、 1863年ころから十字架が立てられはじめたらしい。 ソ連当局は十字架を撤去しようとしたが果たせず、丘は無数の十字架で埋め尽くされていたが、もう一度訪ねたいとは????。新市街と旧市街の境にあったバロック建築の傑作、 聖ペトロ&パウロ教会(ŠV.PETRO IR POVILO BAŽNYČIA)も圧巻であった。ヴィリニュスにあるバロック建築でも最高傑作に挙げられる教会。1668年に建設がはじまり、 7年後に完成した。 内部にはバロック調の華麗な装飾がびっしりと溢れるほどの建物内側全面にほどこされているのであった。壁を埋めるキリストや天使の彫像は聖書に題材をとったもので、 その数は2000体以上にのぼるのだと。しばし佇んでいたい空間なのであった。 そして最後にフィンランド・ヘルシンキ。ヘルシンキは海と北欧特有の淡青色の空をもつ都市であるが、潮の香りのしない街なのであった。バルト海の入り江フィンランド湾に面していて、いくつもの湾、半島、島々に市街が広がっていた。潮の香りがしないのは、内海であるバルト海の海水の塩分濃度が通常の1/10の0.3%しかないからなのだと。海水塩分濃度が低いので、日本の海よりも海水浴を気軽に楽しめ、小型船舶でクルーズを楽しむ本格派もいるのだと。冬になって真水に近いため凍りやすい海水が完全に凍ったら、スキーやスケートを楽しんだり、氷に穴をあけて魚釣りを楽しむのだと。マーケット広場奥の高台岩盤の上のレンガ造りの建物で、 塔にねぎ坊主の様なキューポラがある教会がウスペンスキー大聖堂。ギリシャ正教に基づき東西に向けて建ててあった。この中には、 美しく、 また美術的にも価値あるイコンをたくさん見ることが出来たのであった。そしてこのツアー最後に訪れたスオメンリンナ要塞。ヘルシンキ前方の島々に築き上げられたスオメンリンナの海の要塞は1991年要塞スオメンリンナを独特な“軍事的・文化的建築物の記念碑”として世界遺産のリストに。 スオメンリンナの東側と西側は損傷を受けていたが、バルト海とフィンランドの歴史に多いに息づいていたのであった。 それは、 “多彩な歴史”、 “自然の美”、 “生きた町”の調和そのものなのであった。このツアーの仲間は全員が『PUNCTUAL』であり、常に集合時間5分前には全員集合。そしてツアー後半には全員が意気投合し楽しい旅行となったのであった。先代に住むご夫妻からは蜂蜜の注文まで頂いたのであった。 そして来年は何処に?ウズベキスタン?シルクロードの中心地や、ユネスコの世界遺産の宝庫として、『青の街サマルカンド』や茶色の町ブハラ、ヒヴァ、シャフリサブス、仏教文化のテルメズなどが世界的に有名。それとも夏のアイスランド? 『火山と氷河がつくりだす絶景だらけの奇跡の島・アイスランド』。夏には美しい白夜、そして世界最大級の露天風呂ブルーラグーンでノンビリと。 ・・・・・・・・完・・・・・・・
2017.05.18
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王の門(King’s Gate)の前には跳ね橋が。 スウェーデン時代の銘板。スウェーデン語?なので、何を書いているかは?? 王の門(King’s Gate)の前に拡がる青い海。 スオメンリンナの象徴ともいえる場所。王の門(King’s Gate)は、要塞の式典用の 門として1753から1754年にかけて 建設。門は、1752年に 要塞の建設者スウェーデン王アド ルフ・フレドリク(Adolf Fredrik)が建設作業の視察に訪れた際、王を 乗せた船が錨を下ろした場所に建設されたのだと。そして「2006年9月9日、フィンランドを訪問した当時の小泉首相はヘルシンキを観光し、ここスオンメンリンナ要塞を訪れ、この場所手前のフェリー埠頭から上陸し観光を始めたと。首相は、最後の外遊の地フィンランドの世界遺産・ここスオメンリンナの王の門(King’s Gate)で拾った石は、思い出深い宝石となった、と感想を述べた。また首相は、フィンランドで初めて造られた裏千家の茶室でお茶を楽しんだ。」 と現地ガイドから。煉瓦積みの建物の前にも大、中の大砲が並んでいた。 擁壁の壁には倒壊防止用の支え棒が。 何故か要塞の最先端に海老茶色・白・海老茶色の二色旗のラトビア国旗が。 巨大な11B(28cm)大砲が青空に向けて。 石造りの要塞壁の上に赤煉瓦が更に積み上げられていた。この中に小泉元首相が訪ねた裏千家の茶室・徳有庵があるのだと。要塞壁がどこまでも続く。 対岸の島の要塞の姿が良く解った。 第二次世界大戦時の潜水艦ヴェシッコ号が展示されていた。 潜水艦は要塞の主要観光ルートからちょっと外れた場所に何故かあった。いわゆるUボートII型 (U-Boot-Klasse II) はドイツ海軍の潜水艦で、第二次世界大戦で用いられたのだ。 Uボートを後方から。しかし遠目から見ても、展示しているというよりもただ適当に?置かれているだけという感じは否めなかったのだが。内部も見学できるらしかったが時間も無く諦める。この階段の上に入艦用のハッチがあったが、こんな場所に潜水艦のハッチがあるとは考え辛いので、おそらくは後で付けたものに違いないと。目の前の橋の先の集合場所に急ぎ足で向かう。 重厚な要塞の城壁は日本の城の城壁の如し。 待ち合わせ場所の土産物屋でしばし。 そして帰路のフェリーに乗り20分弱でヘルシンキ・マーケット広場に戻る。 マーケット広場から見えた観覧車「スカイ・ウィール」。 この観覧車内にサウナ専用ゴンドラ「スカイサウナ」が昨年6月にオープンしたと。その最高到着地点は、地上約40m。 このゴンドラは4、5人乗りで、1周にかかる時間は5~7分ほど。最高室内温度が90度のサウナ・ゴンドラに乗って、汗をかきつつ絶景を楽しめるというわけ。240ユーロ(約3万)?で1時間貸し切りにできると 現地ガイドの話。ムーミンやマリメッコで有名な北欧・フィンランド。実はサウナ発祥の地でもあり、国民のサウナ愛たるや、日本人の想像がおよばないほどであることを想い知ったのであった。マーケート広場には多くの食べ物の出店が。 様々な活魚も売られていた。しかし氷もなく魚がただ並べられているだけ。 そしてランチは自由にとのことで我々3人はビールの飲める店に。広場の横にあるレストラン・Ravintola Kappeliラヴィントラ カッペリへ。 カッペリとはフィンランド語で礼拝堂を意味するが、もともと礼拝堂があったわけではなく、一説にはもとの建物がチャペルに似た形をしていたことからそう呼ばれ始めたと。横のドアから店内に入ろうとしたら、店内の客が正面に回れと手振りで教えてくれたのであった。入って右側がレストラン、左側がカフェ。 内装は非常に豪華。 かつてはシベリウスも通った店内とのこと。カフェにてビールと野菜サラダ風の盛りの上に鴨ロース肉?が盛られている一品を購入。 かなり量もあるサラダセットの一品。 そして肉の下にはキヌア?それとも粟?稗?が。これは今一なのであったが完食。 ランチを終え集合場所に向かうと目の前にヘルシンキ(フィンランド)の救急車が通過。 救急車の電話番号は119ではなく112のようだ。再びマーケート広場の噴水。 噴水の中央には港を振り返る美しい女性ハヴィス・アマンダ(Havis Amanda)の銅像が。フィンランド人彫刻家ヴィッレ・ヴァルグレン(Ville Vallgren)が 、パリのアトリエで出会った19歳のパリジェンヌがモデルと。彼女をモデルにした乙女の銅像をパリのアートサロンで発表したヴァルグレンは、1908年にヘルシンキの噴水広場のメインモニュメントとして母国に贈ったと。ヴァルグレンは「海から湧きあがるような女性像は、ヘルシンキの象徴でもある」と語ったと。 トラムに乗りヘルシンキ中央駅まで。 再び時計塔。時間は13:15。ヘルシンキ中央駅正面。 駅舎が大きすぎてカメラに入りきれなかったのであった。 ホテルの横のエネルギー工場。ヘルシンキの街に蒸気、温水を送っているのだと。フィンランドの首都、ここヘルシンキでは90%以上の地区で地域熱供給が導入されていると。そして地下鉄に乗りホテルに集合時間の14時前に予定通り到着。
2017.05.17
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要塞の石の壁に囲まれた道を、島の奥に向かって更に進む。 この石造りの城壁の如き建物には屋根が追加設置されていた。 バスチオン・ホーレマンの長い花崗岩城壁。 パイパー公園(Piperin puisto) の池。これは要塞スオメンリンナの最も古く大きな庭園とのこと。この庭園は1780年代に植栽がなされた。 これは、 フィンランド最初の“英国調庭園”として知られていると。 バスチオン・ホーレマンの長い花崗岩城壁の前にある池は、通称 『恋の池』。奥にはカフェ・パイパーが。『恋の池』の水面で旅友とツーショット。 シェルターそれとも弾薬庫が至る所に。 丘の上に巨大な大砲が海に向かって。 岬の西側には、 スオメンリンナでも珍しい小さな砂の海岸があった。その両脇は自然の岩盤から成り立っていた。 自然保護された小さな海水浴場である。 一枚岩の岩盤が一面露わに。 要塞の最前線の城壁と建物。 砲座や弾薬庫、ため池も多く設けられていた。 ロシアに向けて設置?した真っ黒な巨大な大砲と土塁。 大砲の手前に回転装置が設置されていた。そしてその横には小さな展望台が。 こちらの大砲には回転用ダビッド?が。 石の稜堡が土の盛土で覆われていた。 なだらかな射撃台と土盛りの窪みが変化に富んだ景色を生み出していた。 つまり凹凸や直線が、 柔らかな形に変えられていた。 それぞれの土盛りには弾薬庫が掘り込まれていて、 それらは3方から土で覆われていた。 また海から砲撃された砲弾があたらないように、 入口側の壁は城塞の内側に向けて造られていた。 美しい形?の防空壕or弾薬庫。 大砲の近くまで行って。 攻め寄せる敵軍に対し防御する際に死角ができないように造られた星形要塞であることが理解出来た稜堡の光景。 要塞最先端の遊歩道。 前方にはバルト海が拡がっていた。 バルト海に面した要塞稜堡。 要塞の石積みの壁には貫通するトンネル通路が。 この狭い海路を巨大クルーズ船が通過すると。 この辺りは要塞の壁(稜堡)がクネクネと。 要塞最奥部の 石造りの壁は幾重にも。要塞壁内の当時のままに残された長いトンネル式通路を歩く。明るい通りやすい道から、暗くて狭いトンネルへ。懐中電灯が必需品なのであったが・・・なんとか無事に通過。現地の人、特に子どもたちに人気があるのは、スオメンリンナにあるこの様な様々なトンネルや地下道を冒険することだと。要塞の最先端は流石に重厚な要塞壁が幾重にも。王の門(King’s Gate)の内側。
2017.05.16
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このロシア時代の兵舎を改築したピンク色の建物には、インフォメーション・センターやトイレ、地元の方も利用されるというカフェ「ヴィアポリン・デリ&カフェ(ViaporinDeli&Cafe)」そして、スオメンリンナの醸造所(Suomenlinnan Panimo)のレストランがあり地ビールや海鮮料理が楽しめるのだと。インフォメーションセンターには、英語、独語、中国語など、日本語を含めて8カ国後の案内パンフレットが用意されていた。ピンクの門をくぐると、島の灯台の役割も果たすスオメンリンナ教会が見えて来た。 そしてそのピンクの門と塔を振り返る。 現地ガイドの説明を聞く。スオメンリンナの要塞は、フィンランドの首都ヘルシンキ市内の6つの島の上に建造された、世界遺産にも登録されている海防要塞。元々、この要塞は1748年にスウェーデン=フィンランドがロシア帝国に対する守りを固めるために造ったものであると。 しかし、皮肉なもので、フィンランド戦争中の1808年5月3日に要塞はロシア軍に占領され、1809年のロシア軍によるフィンランド占領の足がかりとなってしまったと。当初の名前はスヴェアボリ(Sveaborg, スウェーデンの要塞)であったが、フィンランド国民からの要望の高まりを背景に、1918年にスオメンリンナ(スオミの城塞)と改称されたと。スオミはフィンランド語で「フィンランド」を意味。スウェーデンに関連する名前から自分の国の名前に変更したということ。スオメンリンナの要塞は、現在ヘルシンキの主要な観光地の一つとして人気を博していると。実はヘルシンキ市内から秘密の?海底トンネルも通っていて、いざという時には使用出来るようになっているのだと。 スオメンリンナ要塞配置図。 6つの島の上に建造された海防要塞。スオメンリンナ教会(Suomenlinnan kirkko)。小高い丘にあるこの島のシンボル、1854年に要塞の建設とともに作られた教会。緑の尖塔が美しい教会だが、支配国が変わるたびにカトリック→ロシア正教と変更され、今現在は福音ルーテル派の教会。鎖と柱は砲台をリメイクしたものとのこと。また、空路や海路用の灯台としての役割も果たしていると。 スオメンリンナ教会(Suomenlinnan kirkko)の芝生にいた海鳥。名前は聞いたのであるが・・・?? カモメの一種か?この壁の内側は「図書館」で一部は幼稚園にもなっていると。狭間・銃眼の様な開口は塞がれていたが、僅かな隙間から園児の姿も見えるとガイドの話であったが・・・。 写真案内図。 城壁の所々に入口が。図書館の入口? この教会は、ヘルシンキで最も人気のあるウェディング会場の一つと。式のあと、カップルは要塞のまわりを馬車で廻るのだとか。水鳥をカメラに収める旅友達。 スオメンリンナ管轄機関棟。ユネスコの世界遺産であるスオメンリンナを復元、管理する政府機関棟。 イソMustasaariのスーパーマーケットか? 島にはかつて要塞だった当時の建物が多数残っていると。ここは1748年にスウェーデンによって要塞が築かれ、後にロシアのものとなり、約100年前にフィンランド領に。1970年代に海軍学校を除いて軍施設は無くなり、当時の建物は一般市民の住まいになるなどで、今も800人以上が島に住んでいるという。 様々な建物が。Piirtamo会議室とレストランChapmanか?造船所が右手奥に。黒い建物の後ろにカフェバーValimo。 スシサーレン橋を渡り更に島の奥へ進む。 ブリュワリー工場の煙突か?レンガ造りの建物や煙突は当時の名残で、外観はそのまま利用し、内装を修繕して利用し、しっかり歴史を残しているのであった。Svensksundの戦いの碑。Svensksundの戦い (フィンランド語: Ruotsinsalmi 、ロシア語: Rochensalm )は、1790年7月9日と10日に現代都市コットカの外でフィンランド湾で戦った海上戦闘であった。スウェーデンの海軍はロシア艦隊に激しい敗北をもたらした1788-90年のルソー・スウェーデン戦争が終結した 。この戦いは、スウェーデンの最大の海戦勝利であり、バルト海で最大の海戦であると。 エーレンスヴァルド博物館(Ehrensvärd-museo) スオメンリンナ要塞の建設を指揮したスウェーデン軍の司令官、アウグスティン・エーレンスヴァルドの住居を利用した博物館。彼の肖像画をはじめ、絵画、家具、武器、船の模型などを見ることができると。要塞機能を備えた住居の造りにも注目出来ると。スウェーデン戦争、ロシア戦争、クリミア戦争、フィンランド国内戦争で重要な無台となった島。写真はエーレンスヴァルド博物館の壁。 看板を見ての通り、スオメンリンナ島は世界遺産に認定されている。 コートヤードに続くトンネル。 トンネルの途中の両側には、通路があった。少し歩いてみたが、こちらは薄暗くて、ちょっと危ない雰囲気。 スヴェア城塞の造船所(Sveaborgs varv) 。乾ドックとなっている時が多いようだが、この日は海水が満々と。コートヤードは、1760年代から要塞の中央広場として使用。この広場は1855年のクリミア戦争中、爆撃により大被害を受けたようです。アウグスティン・エーレンスヴァルド(Augustin Ehrensvärd)の墓。 スウェーデン王国統治下のフィンランドで、このアウグスティン・エーレンスヴァルドの指揮により海上要塞の建設が始まったのであった。 ブロンズから成型された軍事に関わる装飾的シンボルが取り付けられていた。ローマ帆船の船首、 その上にはエーレンスヴァルトの紋章を描く盾(シールド)、剣とヘルメット、 スウェーデンのセラフィム騎士国の鎖と記章(バッジ)も。 エーレンスヴァルドの勇姿を偲ばせるこの騎士の甲冑と船先のモチーフは1805年にストックホルム出身の名彫刻家ヨハン・トビアス・セーゲルによって完成。広場の先のパイパー公園(Piperin puisto)に、大砲を発見。 砲身のライフリング(rifling)も確認できた。ライフリング(rifling)は、銃砲の銃砲身内に施された螺旋状の溝を意味し、日本語では施条(しじょう)、あるいは腔線(こうせん)。 この螺旋状の浅い溝で銃身内で加速される弾丸に旋回運動を与え、ジャイロ効果により弾軸の安定を図り直進性を高める目的。大砲を反対側から。
2017.05.15
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観光最終日のヘルシンキでの9日目の午前中は自由行動。我々はオプショナルツアーのスオメンリンナの要塞の観光を申し込んでおいた。スオメンリンナの要塞は、フィンランドの首都ヘルシンキ市内の6つの島の上に建造された海防要塞。ユネスコの世界遺産に登録されており、観光客のみでなく、地元民にとっても、美しい行楽地として人気があるのだ。この日は早朝散歩なしで、帰路のパッケージングを行い8時過ぎに会場に行き朝食を済ませる。そして9時に現地ガイドの女性と共にホテルを出発しバスにてフェリー乗り場に向かう。途中でトラムに乗り換える。 ヘルシンキ中央駅前を通過。ヘルシンキ中央駅前の個性的な建築は、日本でもよく紹介されている。現在の駅舎は、エリエル・サーリネンが設計し1919年に完成したもの。正面玄関には左右に2体ずつ、ランプを持った石像が鎮座。再び時計塔が車窓に。 そしてアテネウム美術館。フィンランド国立劇場。ヘルシンキ中央駅の広場の北側のヘルシンキ中央に位置する劇場。フィンランド国立劇場はフィンランドで最も古い劇場。 ヘルシンキ大聖堂がビルの間から見えた。 マーケット広場(Market Square)でトラムを下車。マーケット広場とは、海沿いにある青空市場。食べ物から土産屋まで様々な出店市場が並んでいた。広場の先にはヘルシンキ観光案内所のある建物が。マーケット広場の噴水。噴水が魚の口から勢いよく。正面にシティーホール。上部の網は、マーケット広場の野鳥対策に敷設したようだが直ぐに効果がなくなったと現地ガイドから。 フィンランド国旗。20世紀初頭から使用されるようになった国旗。場合によっては、siniristilippu(「青十字旗」の意)とも呼ばれる。白地にキリスト教を反映しているとされる青のスカンディナヴィア十字を描いた旗。この国旗に使われた青の色は、フィンランドにある数千の湖と海と空を、白が国土を覆う雪を反映していると。ロシア皇帝ニコライ1世の皇后アレクサンドラ記念碑。訪フィンランド(1833年5月29日~6月10日)記念碑とのこと。マーケット広場には多くの亀の像が。 駐車禁止の遊び心か?車止めになっている?亀も。スオメンリンナ要塞行きのフェリーが到着。 そして乗船開始。定刻にフェリーは出発し、デッキに出てヘルシンキ湾の風景を楽しむ。美しい尖塔がそびえ立つドイツ教会(Tyska kyrkan)。ハンザ同盟の商人たちによって17世紀に建てられた教会。幾度となく改築され、現在の形になったのは1887年のこと。内部にある金メッキを施した38体の天使の顔が実に印象深いのだと。 ウズペンスキー寺院が後方右手に。手前にあるValkosaari島のレストランNJK(左)とスオメンリンナ要塞のスオメンリンナ教会(右)をズームで。行く手の湾には小島が点在。島のレストラン サーリスト(Saaristo)。陸と島のレストランを結ぶ船は、5月初めから9月終わりまで運行すると。フェリーから見た大型豪華客船タリンクシリアライン(Tallink & Silja Line)。北欧の他の国を結んでいます。ちなみにこのシリアライン(SILJA LINE)はスウェーデンのストックホルムと結んでいると。レストラン サーリスト(Saaristo)を別角度から。振り返ると白亜のヘルシンキ大聖堂が。 そして左にはシティーホールが。そして現地ガイドからこんな話も。ヘルシンキは、バルト海の入り江フィンランド湾に面していて、いくつもの湾、半島、島々に市街が広がっている。潮の香りがしないのは、内海であるバルト海の海水塩分濃度が低いからだと。通常3%程度ある塩分濃度がなんと0.3%と1/10程度しかないと。なるほど 潮の香りがしなかったのであった。前方のスオメンリンナ教会をズームで。 遠くヘルシンキの北東にあるRoihuvuoriに建っている巨大なコンクリート製の逆三角形給水塔が見えた。 スオメンリンナ要塞の手前にある島にある海軍士官学校。 この島は一般には開放していないと。そして船の上からスオメンリンナ要塞が見えて来た。 港に到着し下船し観光開始。
2017.05.14
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帰路はタリン港から2時間でバルト海を渡りフィンランド・ヘルシンキ港に到着。 ヘルシンキの現地ガイド(出雲出身の日本人)が待っていてくれていた。 ヘルシンキ西港(Helsinki West Terminal)。西港は、ヘルシンキの中心から2.4キロ程の距離にあり、タリン(Tallinn)とサンクトペテルブルク(St.Petersbourg)へのフェリーが発着しているのだと。 黒の大型バスでホテルまで移動。 利用したTALLINK Megastar号が垣間見えた。 Ruoholahti(ルオホラハティ)から海沿いをヘルシンキ街中に向かう。Holiday Inn Helsinki - West Ruoholahti に16時前に到着。ヘルシンキ中央駅よりメトロで2駅のRuoholahti駅近くの4つ星ホテル。ヘルシンキ中央駅まではメトロで5分ほどの距離。2005年開業の9階建てのホテル。ホテルフロント&ロビー。 今回の旅行最後のホテルの我々の部屋。 このホテルのツインの部屋のBEDは幸い離れていました。(笑)そしてチェックイン後の自由時間はヘルシンキ市内観光に熊本のMさんと3人で地下鉄で向かう。ホームへのエスカレーターはかなりの角度でかなり長かった。 地下鉄路線駅案内。 フィンランドで唯一の地下鉄であり、世界で最北の地下鉄である。一端が分岐した全長21.1kmの1路線で、17の駅がある。地下鉄と名を冠してはいるものの、路線の大部分は地上区間であり、地下を走るのは都心などごく一部である。しかし地上駅でも、積雪対策などのためホームをコンクリートなどで覆っている構造のものが多いのだと。ヘルシンキ中央駅で下車。エスカレーターは緑にライトアップ。 そして地上に出る。ヘルシンキ中央駅の時計塔が見えた。 アテネウム美術館。ヘルシンキ現代美術館やシネブリュコフ美術館とともにフィンランドを代表する美術館の一つで、建築家テオドル・ホイエルにより設計され1887年に完成。国定文化遺産建築としてヘルシンキ市の中心部に位置している。 暫く歩くと目の前の小高い丘の上に建つ白亜の巨大聖堂・ヘルシンキ大聖堂が。1812年にロシアによって首都がヘルシンキに移された後に建設が始まった、天空に浮かぶような美しい白亜の巨大聖堂。今も昔もこの街を優しく見守るシンボル的存在で、まさにヘルシンキの代名詞的な建物であり、へルシンキ観光の最初の一歩にぴったり。 ルーテル派の本山となる協会で、1852年に30年の歳月を費やして完成。ヘルシンキではこの大聖堂より高い建物を建ててはいけないのだと。 教会内に入ると見事なシャンデリアが迎えてくれた。 中央祭壇。祭壇には、サンクトペテルブルグの画家が描いた『イエスの埋葬』が。大聖堂のすぐ隣にはヘルシンキ大学の本館と図書館がある。下の写真はヘルシンキ大聖堂から図書館側を見たところであるがこの建物は図書館ではなくヘルシンキ大聖堂の建物の一つか? 大聖堂の隣の下部にはヘルシンキ元老院広場( Senate Square)。 様式はネオ・クラッシック様式。石畳と大聖堂は大きな階段で結ばれていた。ベルリン出身の建築家カール・ルートビヒ・エンゲルがロシア統治時代の19世紀前半に建造し、北側にヘルシンキ大聖堂、西側にヘルシンキ大学があり、東は官庁街となっていた。広場には御影石が敷き詰められいた。元老院広場の中央には、1894年に建てられたロシア皇帝アレクサンドル2世の彫像が立っていた。彫像の製作者はW.ルーネべリ。在位は1855年 - 1881年。ロマノフ朝第12代ロシア皇帝、ポーランド立憲王国第3代国王。ニコライ1世の第一皇子、母は皇后でプロイセン王女のアレクサンドラ・フョードロヴナ。上記のようにアレクサンドル2世は、1855年3月2日 - 1881年3月13日の時期、ロマノフ朝のロシア皇帝であり、同時にポーランド国王であり、フィンランドの大公であった。アレクサンドル2世のフィンランドに対する寛容な治世の感謝のしるしとして元老院広場にこの銅像を建立した(1894)。 次に訪れたのは生神女就寝大聖堂(しょうしんじょしゅうしんだいせいどう、フィンランド語: Uspenskin katedraali)は、ヘルシンキに所在する正教会の大聖堂。ロシア帝国の建築家:アレクセイ・ゴルノスターエフの設計により1862年から1868年にかけて、ヘルシンキ市街を一望できるカタヤノッカ半島の丘陵地に建立された。ロシア語風に「ウスペンスキー大聖堂」と呼ばれる事もあると。 真っ白なヘルシンキ大聖堂と対照的な色彩が印象的なウスペンスキー寺院。 北欧最大のロシア正教の教会、ウスペンスキー寺院。黄金の玉ねぎ屋根が乗ったレンガ造り。 聖堂の地下には、第2次世界大戦中にソ連軍の空爆からの避難所として、地元の消防団が掘削した防空壕が残っている。現在では内部の温度変化が少ないことに注目した電力会社が数百台のサーバを設置し、その熱を周辺地域の温水暖房に利用していると。 時間的に教会内部は無理と考えていたが、幸い建物横の扉から内部も見学できた。ドアを開けると、聖堂へと続く長めの階段が。聖堂の中央にあるドームを下から撮影しました。天井も手を抜くことなく細部までデザインがなされていて感動ものです。吊るされたシャンデリアのひもがなんともか細く、それでも静かに聖堂を支配していた。教会内部は、シンプルなヘルシンキ大聖堂とは対照的な装飾的できらびやかな空間が広がり、圧巻。中央付近にたくさんの聖人画が描かれており、装飾の一つ一つが細かいのなんの。宗教のことは無知であるが、中世のキリスト教的な雰囲気がしてとても神々しいのであった。ヘルシンキ港と運河に沿った街並み。 ロシア帝国最後の皇帝ニコライ二世の皇后、アレクサンドラ皇后の行啓記念碑だと。 ヘルシンキ シティー ホール(Helsinki City Hall)。 オールド マーケット ホール(Vanha Kauppahalli)。フィンランドの建築家グスタフ・ニューストロム(Gustaf Nyström)設計。エテラ港に近く、ひときわ存在感のある建物。最高裁判所。 聖ジョーン教会(St. John's Church, Helsinki)。カイヴォプイスト公園の西側に1ヶ月後にはみどり溢れるであろう広場が。そこに19世紀後半に建てられた美しいネオゴシック様式の教会。漢字「蓮」と書かれたレストラン。「ラーメン」の文字に誘われたが・・・。 そしてオプショナルツアーであった「カモメ食堂」前に到着。 映画『かもめ食堂』の撮影が行われたまさにその場所で、「Ravintola KAMOME(ラヴィントラ カモメ)」というレストランがオープンしたのは、昨年4月とのこと。今回オプショナルツアーは人数未達で不成立になったと。窓から中を覗いてみると水色の壁とシンプルなインテリアが。客も何人かは。日本人の姿はなしか?ラーメンは15€⇒1800円にビックリ!! そしてバス、地下鉄を乗り継ぎホテルに戻る。いや、スーパーに立ち寄り部屋での宴用の買い出しを。 この日の宴はサーモンを新たに。 そしてこの日もホワイトアスパラの塩ゆでを楽しむ。 そして今回の旅行でも最後の夜に手延素麺 ・揖保乃糸(いぼのいと)でソーメンパーティーを3人で。21:30の我が部屋からの夕景。まだ明るいのであった。そして宴は更に続いたのであった。
2017.05.13
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ラエコヤ広場の旧市庁舎前での集合後は、このバルト三国観光の最後に聖カタリーナの小径 の散策に向かう。ラエコヤ広場のエストニアの少年。 少女二人。 オルデ ハンザ(olde hansa)は人気のレストラン。 オルデ ハンザ前のポーランド大使館(写真中央の車の前)。 聖カタリーナの小径(Katariina Kaik)と書かれた標識。 ヴェネ通り(Vene)側から入ったこの通路の先がカタリーナの小路。 聖カタリーナ教会。 こんな景色が目の前に。 タリンで最も中世を感じられる場所であると。 左の壁には、展示品の墓石等の説明板が。 19世紀の半ばに、荒廃した教会の西側が取り壊され、保存状態のよい墓石が展示されたと。その後墓石は、プライベートコレクションや納屋の舗装用としてまた1882年には、墓石の殆どがArthur Girard de Soucantonによって彼の夏の別荘「Rocca al Mare(海辺の石)」に移されてしまったと。現在は、聖カタリナ教会の南側から移動された墓石。1959年〜1960年に「Rocca al Mar」から戻された墓石が、一緒に飾られていると。 墓石の壁の先には、これまで見た記憶のない景色が。 小径の両側には工芸品の作業場が集まっていた。眼鏡、帽子、キルト、陶磁器、宝石、手塗りのシルク、およびその他の商品の創出と販売を、職人が伝統的手法で行う作業場を集めた、「聖カタリナ・ギルド」の拠点であると。 ガラス工芸品の工房。15~17世紀に生まれた複数の小さな部屋であり、オープンスタジオのスタイルとなっていた。観光客等は、職人によるガラス吹き現場を見ることができる模様。残念ながら立ち寄る時間なしで入口から写真のみ。。瓦の乗ったアーチと石造りの壁で独特の雰囲気のある場所。中世の建物はでつっかえ棒で支え合う構造であったのだろうか。この小径は、ヴェネ通り(Vene)とムーリヴァエ通り(Müürivahe)を繋いていた。 再び瓦の乗ったアーチと石造りの壁。創造性豊かさと中世のムードを融合させた地域なのであった。そしてムーリヴァエ通り(Müürivahe)へ出ると、ここは早朝散歩で歩いた道。 道路の石畳の整備工事が行われていた。 そしてヴィル門へ出る。 タリン旧市街の観光、バルト三国の観光を終えバスにてタリン港に向かう。バスの車窓から再びエストニア劇場が。 ロシア文化センター前を通過。 聖オレフ教会の尖塔も見納め。 タリン港近くのレストランで昼食。 久しぶりの肉料理。 店の壁には。 超ロングなピンクのリムジンカーが停車。 そしてタリン港に到着。ヘルシンキ行きの船は13:30発。 乗船ゲートは客で混んでいた。 そして船は定刻にフィンランド・ヘルシンキに向けて出向。船から見たタリンの旧市街。アレキサンドル・ネフスキー聖堂のクーポルそして聖ニコラス教会の尖塔。この海からは10本ほどの尖塔が見えたのであった。 遠ざかっていくエストニアの大地。そしてタリンのテレビ塔が見送ってくれた。1980年のモスクワオリンピックで行われるレガッタのイベントに向け、より良質の電信サービスを提供する目的で建設された。塔はタリン中心部から北東に6キロメートルの場所にある地区、ピリタ近郊に位置すると。塔の具体的な高さは314メートル、展望台は、地上170メートルの高さに位置し、直径が38メートル。展望台は一般の観光客に開放されているのであった。すれ違ったバイキング ライン(VIKING LINE) の船舶。ヴァイキングラインは、フィンランドの大手船会社。大型のフェリーをヘルシンキを中心にマリエハムンなどオーランド諸島やスウェーデン、エストニアに就航させているのだ。そして往路に利用したTALLINKの船。この日の復路の船はTALLINK Megastar。最大で2,850名の乗客が乗船可能な大型船で、2017年1月に建造。全長212.2m 船幅30.6m デッキ数12 巡航速度27ノット。復路は船内のパブリックスペースでノンビリとヘルシンキ港までの2時間を楽しむ。
2017.05.12
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ラエコヤ広場にて1時間弱の自由時間をもらう。旅友Sさんと旧市街の北のふとっちょマヌガレータを目指し早足で。ラエコヤ広場から聖霊教会に向かうトンネル出口。この反対側が聖霊教会。 ラエコヤ広場の少し北にある、聖霊教会。市庁舎および聖霊教団救貧院の礼拝堂として、14世紀に建てられた教会。タリンの他の教会は、ほとんどが、ハンザ同盟の商人たちのためのものであったが、この聖霊教会は、エストニアの下層の人たちのための教会だったと。 人気のレストラン「Balthasar 」 の裏入口。旧市庁舎(左)と聖ニコラス教会の尖塔(右)をラエコヤ広場から。ブレーメン塔。聖ニコライ教会。ヴェネ通り沿いの右側の城壁。ライ通りに出て旧市庁舎方面を振り返る。聖オレフ教会。Meriton Old Town Hotel Tallinn。粉挽き小屋。正面の丸い建物は、14〜18世紀に使用されていた元粉挽き小屋。当時は馬を利用して挽いていたようです。1757年にはこの教会の火事の影響を受け、1772年に再建。また「エストニア自由戦争(1918年〜1920年)」 の際には「祖国を守るため」にこちらで銃が配布されたと。前方のスールランナ門を潜って城壁外へ出る。太っちょマルガレータ(Paks Margareeta)、中は海洋博物館。旧市街北端、スールランナ門に隣接する砲塔の通称。16世紀前半に町の防御のために建造。高さ20メートル、直径25メートルで壁の厚さは5メートル近くあると。兵舎や監獄として使われたことがあり、通称は囚人の食事の世話をしたマルガレータという名の女性にちなむ。1917年のロシア革命時に火災になったが、修復後は海洋博物館になっているのだ。 太っちょマルガレータの横のグレート・コースト・ゲート(Great Coast Gate)。PIKK通りを下って港に向かうには最後にこのゲートをくぐることになる。脇塔の上部も複雑な形状。 門の上には、タリンの紋章が彫られていた。砲塔は現在、エストニア海洋博物館として、さまざまな帆船の模型や船具などを展示。 塔の屋上からは、旧市街や港を展望することもできると。太っちょマルガレータ(右)と聖オレフ教会の尖塔(左)芝生の上に三日月の如く光る物は「エストニア号のモニュメント」。これは、エストニアの大型フェリー「エストニア号」が座礁、沈没して、乗客・乗員のほとんど、約900人が死亡した事故の慰霊モニュメント。集合時間もあり引き返す。「3人姉妹」と建物。15世紀に建てられた住宅の集合体で、タリン観光の名所の一つ。建物正面が女性的な雰囲気を持っていることから「三人姉妹」と呼ばれていると。建物の上部には荷物を引き揚げるクレーンがあり、屋根裏は荷物を入れる倉庫になっていると。再び聖オレフ教会。内務省の建物。旧KGB本部ビルディング。KGB(カーゲーベー)と聞いてもいまの若い人は知らないか?ソ連の国家保安委員会のことで、アメリカでいうところのCIAに相当する組織。ウラジーミル・プーチン現ロシア大統領はこの組織の出身で、東ドイツを拠点に活動していた時期があったのだ。 100mを超す聖オレフ教会の尖塔もKGBの無線通信に利用されていたのだと。旧KGB本部ビルディングと内務省を結ぶ連絡橋。内務省側にはエストニア国旗が掲げられていたが、もちろんKGB側にはなし。 人気のレストラン Bona。公園の隅にあったこの建物もロシア正教会?左手にスウェーデン大使館。ロシア大使館手前の外装が美しい建物。ロシア大使館の一部?。Kanutiギルドホール。1806年創業のタリン最古の老舗カフェ マイアスモック(Maiasmokk)。店入口付近には、ティーカーップの乗った観覧車の飾りが。そして「The oldest cafe in Tallinn, 〜」との記載が。先程ツアー仲間とトイレを使わせていただいたカフェ。ラエコヤ広場の入口まで戻ってきました。集合時間に余裕があったので、1422年開業の市議会薬局(Raeaptek)内部に入る。ドアにもヘビマークが。薬局カウンター。歴史を感じさせる展示物の数々。窓際の壁の絵は、18世紀の寓話の女神(Thalia )の絵。窓辺の円柱は、白雲石で出来た17世紀のバロック様式。漢方薬の如きサンプル。精密天秤。これも歴史を感じさせてくれる古い瓶やパッケージ、ラベル。蒸留器?薬局の窓からのラエコヤ広場と旧市庁舎。薬局を出て待ち合わせ場所に向かう。再びラエコヤ広場と旧市庁舎。壁に飾られたキリスト像。ドラゴンの装飾が施された雨樋とのこと。
2017.05.11
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我が部屋から、タリン港をカメラズームすると大きなクルーズ船が入港中であることが見えた。そして8:30前にタリン旧市街観光にバスで出発。これがタリン旧市街観光の本番で、早朝散歩はその為の予習(笑)。案の定、散歩コースと同じ道をバスは走る。Vene Teater, Tallinn, Viro ロシアの劇場。のっぽのヘルマン近くでバスを下車。外はあいにくの小雨。世界遺産の旧市街地図。再びアレキサンドル・ネフスキー聖堂。ロシア式の聖堂では、「クーポル」と呼ばれる屋根が。十字架の上の短いのはキリストが磔にされた十字架を表し、下にある斜めの棒は天秤で右上が天国、左下が地獄を意味していると。 2つ目の三日月は「錨」なのだと。船が停泊する時に錨を下ろすのと同じと。宗教もここで錨を下ろす、つまりこの地にこの宗教を根付かせると 言う意味があるのだと。入口上部にライオン3頭が縦に並んだ国章が掲げられていた。このロシア正教会はモスクワに総主教庁が置かれており、現在のモスクワ総主教アレクシー2世(俗名はAleksei Ridiger)はタリン出身者であるとのこと。トームペア城は18世紀にバロック様式の宮殿そして現在は国会議事堂。入場はできなかった。王宮の前は13世紀にドイツの騎士団がこの場所に砦を建てたのが最初と。その頃の様子は西側の城壁と崖の景観とのっぽのヘルマンといわれる塔で見ることができるのだと。商工会議所の壁の映画俳優・Voldemar Pansoの像。聖母マリア大聖堂(トームキリク)。時計と尖塔。展望台からの眺望。旧市庁舎の尖塔のトーマスおじさんをズームで。聖ヨハネ教会の尖塔をズームで。 エストニア科学アカデミー 。聖母マリア大聖堂(トームキリク)。 アレキサンドル・ネフスキー聖堂。 城壁。 デンマーク王の庭側に入り、早朝散歩では上れなかった城壁上部に狭い階段を上がる。ここは突き当たりの喫茶店のスペースになっている模様。 デンマーク王の庭を城壁上部の「馬小屋」と名づけたタリ塔から。処女の塔、キーク・イン・デ・キョクの赤い屋根も。 回廊からの景色を楽しむ。 顔の無い像は最近設置した美術品とのこと。 短い足(Luhike Jalg)。長い足(Pikk Jalg)に比べて細くて急な下り坂。 短い足(Luhike Jalg)への入口を振り返る。 ニクリステ博物館=聖ニコラス教会(Niguliste kirik)。博物館の裏側に出た。1230年代にゴットランド島からきたドイツ商人によって建てられた教会で第二次世界大戦の際爆弾で破壊され、その後1980年代に修復。現在は宗教芸術のみを対象とする博物館。たくさんの展示作品の中でも、バーント・ノトケの美しくも不気味な絵画「死の舞踏(Danse Macabre)」は有名と。尖塔の下にも小さな教会風建物が並んでいた。 聖ニコラス教会の遠景。 旧市庁舎前のラエコヤ広場に出る。 ラエコヤ広場の周囲には色彩豊かな建物群がほぼ同じ高さで並んでいた。 旧市庁舎の東壁には荷物昇降用のフックが。この旧市街の建物には至る所に同様に。旧市庁舎の尖塔。雨も止み青空も見えて来た。
2017.05.10
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旧市庁舎をラエコヤ広場中央から。 65mの尖塔を見上げる。 再びラエコヤ広場を囲む建築群。右手に聖霊教会の尖塔。 旧市庁舎をヴィル通り側から。旧市庁舎壁のこちら側は装飾無し。ヴィル通りをヴィル門に向けて歩く。 ヴィル門手前左のセーターの壁。 セーターの壁は、タリンの旧市街地にある「城壁」を利用した「ニット製品の露店」が並ぶ場所。この日は城壁の下の道は道路工事中。中央に見えるのがヘレマン塔(Hellemanni Torn)。3階建てのヘレマン塔(Hellemanni Torn)は14世紀に建設され、監獄や武器庫として使用。塔からは、石と木でできた城壁に登ることができ、城壁の長さは200mあるため、聖オレフ教会=オレヴィステ教会(Oleviste kirik)、精霊教会、旧市庁舎(Raekoda)など旧市街の主要な場所を眺めることができると。 聖ニコライ教会。丸いドームを持つ白亜の教会。これがロシア正教の聖ニコライ教会。 ドミニコ修道院の中庭につながっている聖ペテロ・パウロ教会の門 。ドミニコ修道院。最初にドミニコ修道会は1229年トームペアに修道院を建立したが帯剣騎士団との闘いに敗れ、1246年に現在の場所に修道院を移した。修道院を起点としてエストニアにおけるキリスト教の布教につとめるが、ドミニコ修道会は宗教裁判や免罪符に深く関わっていたため、市民から憎まれた。宗教改革が到来すると1524年に暴徒と化した人々に修道院が破壊され、さらにその翌年、市議会によって布教活動を停止されるに至った。その後、1531年に火災に遭い大部分が廃墟となっている。20世紀半ばに発掘調査と改修が行われ、現在は博物館となっていると。ヴェネ通りを南に歩く。 振り返ると聖ニコライ教会が見えた。 ヴェネ通りを更に進む。 再びヴィル通りを歩く。 ベンチに座っていた豚。休んでいけば?と誘われているような気がしたが。ヴィル門(右側) ヴィル門(左側)。 ヴィル門を城外から。 ヴィル門横にも入口が。反対側にも。 ヴィル門前には花屋が既に開店中。 チューリップ他様々な花々が。 タリンの街を走るトラム。タムサーレ公園のパルク街道に沿った場所にあった像。Tallinn Sailing Regatta Mermaid(タリン セーリング レガッタ マーメイド)。モスクワで実施された第22回夏季オリンピック(1980年)の記念碑。タリンのピリタ川でセーリング&レガッタ競技が行われたようだ。そして早朝散歩を終えホテルに7:30に戻り朝食へ。
2017.05.09
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更に早朝散歩は急ぎ足で。聖母マリア大聖堂(トームキリク)。大聖堂(トームキリク)は、1219年にデンマーク人がトームペアを占領してすぐ建設した教会で、エストニア本土で最古の教会。聖母マリア大聖堂とも呼ばれています。創建当初は、木造の教会でしたが、その後石造の大聖堂が建立され、聖母マリアに捧げられた。創建から何度も修復が繰り返されたため大聖堂(トームキリク)は、さまざまな建築様式が混在する教会となったと。1684年には、トームペアを襲った大火災によって大部分を消失し、約100年の年月をかけて再建。大聖堂の屋根の上にアレキサンドル・ネフスキー聖堂の「タマネギ」が見えた。この緑の建物はエストニアで結成された「ドイツ貴族による騎士団のための建物」。現在の建物は4代目で、建築家Georg Winterhalterによって1845年〜1848年に建設(その前は1684年6月6日の山の手で起きた大火災で消失)。1920年〜1940年に外務省、1948年〜1992年には国立図書館2009年からエストニア芸術大学(Eesti Kunstiakadeemia)の校舎のひとつとして使用されていたが2016年には大学も移動したようだ。 18世紀のドイツ貴族の邸宅。エストニア・タリン司法高等裁判所。展望台入り口。パットクリ展望台 Patkuli Vaateplats から。眼下には間口の狭い切妻屋根の住居がひしめいていた。煙突のある赤いとんがり屋根も。聖オレフ教会の尖塔。キリスト変容教会。聖ニコラス教会。タリン港。州首相庁舎。ピック・ヤルク(Pikk Jalg)通りを歩く。ピック・ヤルクは長い足の意味。下町と城を結ぶ唯一の道。短い足Luhike Jalgの道が出来ると市民はこの道を使い、貴族たちの馬車はこの長い足の道を使ったと。ピック通りの門塔。正面の高台がトームペア(Toompea)。先程訪ねたタリンの山の手地区。旧市街西部、城壁に囲まれた丘の上に位置し、13世紀建造のトームペア城、タリン大聖堂、帝政ロシア時代のアレクサンドルネフスキー大聖堂などがあったのだ。旧市庁舎の尖塔が見えて来た。ラエコヤ広場(Raekoja Plats)と旧市庁舎(Raekoda)。ラエコヤ広場は中世以来19世紀末まで市場があった。隣接する14世紀建造の旧市庁舎はバルト諸国で唯一のゴシック様式の庁舎建築として知られる。塔の高さは65m。ラエコヤ広場(Raekoja Plats)を取り囲む建物。広場を取り囲むかつての商人たちの館は、色とりどりで綺麗。ラエコヤ広場の一角には1422年開業の市議会薬局が。今も営業を続けており、ヨーロッパ最古の薬局。杯に巻きつく蛇。再生のシンボルでもある蛇があしらわれていると。1422年に記録に初登場しているが、その時の主人は3人目だったとか。薬局内配置図。壁にも薬局の看板が。
2017.05.08
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8日目の朝も5時過ぎに起床、部屋からの眺め。ホテルは旧市街の東の入口・ヴィル門の近く。聖オレフ教会の尖塔が部屋から見えた。 そしてタリン港も。しかし窓ガラスが汚れていた。これは日本と異なる現実。 6時前に早朝散歩に出発。宿泊ホテル SOKOS VIRU。旧ソ連時代の1972年に建設、2011年に改装した22階建て、総部屋数516室の大きなホテル。ホテル前の道を西に進むと、右側にヴィル門が見えた。 左手には巨大な魚を抱き上げる少年二人の像が。エストニア劇場。 1913年、独立前のエストニアで、市民の寄付により建設。二つの建物から成り、向かって左側が「エストニア国立オペラ」、右側が「エストニア・コンサートホール」。劇場前庭の像。 エストニア・ドラマ劇場。 元は1920年に創設されたパウル・セップ率いるエストニア・ドラマスタジオ。1910年建設のドイツ劇場で、426席の大ホールと159席の小ホールがあると。西欧の古典劇やエストニア作家の劇が上演されているとのこと。 聖ヨハネ教会近くにあった銅像。ヘイノ・エッレル(Heino Eller、1887~ 1970)はエストニアの作曲家、教育家。 ここタルトゥ出身。ヴァイオリンと音楽理論の個人レッスンを受けて、いくつかのオーケストラやアンサンブルで演奏し、ソリストとしても活動した人物と。 1918年にエストニア独立宣言。1920年にタルトゥ (Tartu) にてロシアと平和条約締結。エストニア独立戦争戦勝記念碑。第一次世界大戦の後,独立を達成。自由の広場にそびえる、明るい黄色の色彩を帯びた、新ゴシック様式のこの教会が聖ヨハネ教会。 チャールズ教会。ペンテコステ派教会。 キーク・イン・デ・キョク(Kiek in de Kok)。円柱形ののっぽな塔には、キーク・イン・デ・キョクという名前がついています。北ドイツの方言(低地ドイツ語)で、「台所を覗く」という意味。 この塔は1475年に、トームペアの丘の最も緩やかな(つまり、攻城ルートになりやすい)斜面を守るために建造された。1577年のリヴォニア戦争で、ロシア軍の砲弾により最上部を爆破された。その後の修復で、記念に砲弾(6個程)が塔の壁に埋め込まれ、現在でも確認できる。 高さは49.4メートル。塔の上から近所の民家の台所を覗き見できることから、見張りの兵士たちがこの名前をつけたと。 キーク・イン・デ・キョクの後方に聖ニコラス教会の尖塔が見えた。 処女の塔(ネイツィトルン、Neitsitorn)という名の四角い塔。 この名前にも中世ならではの皮肉がこめられていて、実際には売春婦を収容する監獄であったと。 三階建ての塔は、今はカフェになっていると。 日本大使館。ワバドゥセ広場の北西方向にある建物。建物の横にテラスのようなスペースがあった。そこに階段で登って行くと、目の前に聖ニコラス教会が。 城のそばにある処女の塔(ネイツィトルン Neitsitorn)の周辺の城壁も見事。 キーク・イン・デ・キョクを再び別角度から。 アレキサンドル・ネフスキー聖堂が見えた。 デンマーク王の庭の手前の城壁を外側から。小さな櫓には石落としもついていた。 城壁を潜り内部へ。 デンマーク王の庭(Taani Kuninga Aed)。1219年、デンマーク王ヴァルデマー2世が、当時山の手(Toompea)にあったエストニア人首長の砦を攻めている際、神頼みをすると「赤地に白十字の旗を掲げよ」とのお告げがあり、その通りに旗を掲げて攻め入ると戦いが好転したとか。それによりここがデンマーク国旗(ダンネブロ)発祥の地と言われています。左奥にあるのが、城壁の外からみた「台所を覗く塔(Kiek in de Kok)」手前の四角い塔が「処女の塔(Neitsitorn)」 聖ニコラス教会の尖塔が再び。城壁の上に上れるようであるが時間が早くゲートが閉まっていた。 顔の無い像は、近年の作品とのこと。 アレキサンドル・ネフスキー聖堂正面。帝政ロシアの一地方にエストニアが組み込まれていた1894年から1900年の間にミハイル・プレオブラジェンスキー(Mikhail Preobrazhensky)によって典型的なロシア復古主義のスタイルに設計され建設された。タリンにあって最大かつ最重要の正教会のクーポル付き大聖堂。 この聖堂は、エストニアの英雄の墓の上に建てられたもので、ロシアの権力を示すとともに、エストニア人の民族運動を抑える目的があったと。エストニアが最初に独立した1918年には移転する計画があったが、実現することはなく、ソ連から独立後現在に至るまでこの地に残されていると。 よってトームペア城の前に建っているのは、エストニアの人々にとっては面白くない建物らしい。 タリンにある教会の中で、最も大きく、豪華な造り。5つのたまねぎドームは、ロシア建築の象徴。ロシアから独立を果たしたエストニア人たちは、1924年にこの大聖堂の取り壊しまで計画したが、予算の関係で敢え無く断念。その後、修復作業が行われ、今日は、エストニアがロシアから受けてきた影響の歴史が垣間見られる一大観光スポットなのだと。 トームペア城=現国会議事堂(Toompea Loss)。バロック様式のピンク色の城。13世紀前半に建設され、支配者が変わるたびに改装されてきた城。 内部は、ガイドツアーで見学できるとか。 屋上にはエストニアの国旗。青はエストニアの空・川・湖・海を表しており、エストニアの国民を象徴するとともに希望・友情・団結を表す。 黒は故郷の大地と同時に暗黒時代の悲しい歴史を忘れまいとする決意を示す。 白は氷と雪および人々の幸福の追求を意味すると。アレキサンドル・ネフスキー聖堂を別の角度から。 のっぽのヘルマン(Pikk Hermann)とトームペア城(Toompea Loss)。 塔の高さは50.2mあり、15世紀の建造当時のまま残されているのだと。 丘の上にはリンダの像が。 古代の王カレフの墓を作るために石を集めていたリンダは、最後の石をエプロンに包んで丘を上がろうとしたが、エプロンの紐がきれて石が落ちてしまったとか。疲れ果てたリンダはその石に腰をおろして悲しみの涙を流したそうで、その姿を描いたのがこの像。彼女の涙は、3km程離れたウレミステ湖になっとのだと。
2017.05.07
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宮殿内部の美を鑑賞後は、外に出て庭園鑑賞をスタート。ルンダーレ宮殿の庭園を含めた全体配置図。 庭は緑の劇場を彷彿させ、パルテール庭園特有の池や噴水がレイアウトされていた。パルテール(parterre)庭園とはヴェルサイユ宮苑などのフランス平面幾何学式庭園に見られる図案を描く装飾花壇。「刺繍花壇」とも呼ばれると。2005年にはローズガーデンの造園が始まり、現在も続いていると。ローズガーデンの大きさは9,000m2で、12,000種とラトヴィアで最大のコレクションと。 バロック様式の豪華な宮殿と美しい左右対称のフランス式庭園。これが「バルトのヴェルサイユ」と呼ばれる一因。中央噴水から四方に拡がっている幾何学的曲線美で植栽された緑の木とその周囲は煉瓦色の美しい色模様。 中央噴水はお休み中。 ソ連の支配下にあった頃は、荒廃していた宮殿も、独立後は、見事に修復。中央噴水から放射状に拡がっている散策通路には、未だ緑の新芽や花は残念ながら見ることは出来なかった。庭園西側からのルンダーレ宮殿。散水チューブも張りめぐられていた。 再び見事に刈り込まれた植栽と赤煉瓦色の石が敷き詰められた地面による緑と赤のコントラストが美しさを。 宮殿前に戻り、一段高いバルコニーからの景色。 遠くに赤い屋根の建物が。庭園管理用の機材の倉庫と控室か? 開花したバラのトンネルを想像して。 こちらは竜宮城の如し。 帰り道からのルンダーレ宮殿。 この日は、スイセンの花が開花したばかり。日本と比べて2ヶ月以上遅れて春が近づいている景色。 庭園はバラ園となっており、季節になると色とりどりのバラが咲き誇ると。 庭園内には所々にベンチも。 庭園の散策を終え、宮殿前に戻る。 庭園入口を庭園側から。 青空の下での7月の庭園の姿を思いっきり想像しての散策を終え庭園を後にする。そして宮殿外周部を散策。 人の姿もなく、一人占め。 宮殿正面の姿も一人占め。 庭園そして宮殿はいずれもシンメトリーの世界。 宮殿内のレストランMezotne Restaurantでランチ。 こちらも野菜の豊富なメインディッシュ。 この大移動の最初のトイレ休憩はラトヴィア⇔エストニアの旧国境にあったドライブインで。 エストニアの道路の速度制限は街中:50km/h,郊外:80km/h,主要高速道路:90km/h。ヘッドライトは常に点灯させる必要があると。そして高速道路は無料。2回目のトイレ休憩はエストニアのリガ湾沿いを走った後、パルヌから内陸部に入り20km程走ったE67号線沿いのHalinga Restoranを利用。そしてバスは300km以上を走破し、19時にこの日のエストニア・タリンにあるSOKOS VIRU HOTEL に無事到着。 外気温は1℃と酷寒の世界。 疲れた体をバイキングスタイルの夕食で癒やす。 この日は部屋でホワイトアスパラパーティー。 チューブ式を探したが見つからず瓶入りマヨネーズを購入し、カップに取り出す。 この国でも出始めたばかりのホワイトアスパラを楽しんだのであった。
2017.05.06
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更にルンダーレ宮殿の見学を続ける。HERCOGA BIBIOTEKA と書いてあったのでバロン公の書斎か。天井フレスコ画。 テーブルには地球儀と地図。続いてはピンクの人口大理石が使われたバラの間。天井画は春の女神達を描いていると。女神フローレンスが美しく集います。21の花飾りが添えられていた。美しいバラの花が壁一面にちりばめられていた。シャンデリアを清掃する係員の姿は珍しいと。水色の間。水色の間には景色や静物の絵がたくさん飾られていた。天井の漆喰彫刻。椅子の布地の模様も美しかった。ピンクの肖像画の間。色々な方の肖像画が。クールラント大公ビロン公。ロマノフ朝第4代のロシア皇帝アンナ帝。クールランド公の寝室。天蓋の付いたベッド、緑色のカーテン、部屋の両側に暖炉が。こんなところで眠ってみたい!!眠れない!!中央の壁面にはビロン公と妻ベニグナの肖像画が。見事な床の寄木細工も美しかった。天井のフレスコ画。 肖像画の間。中央でシャンデリアが輝いていた。 だまし絵。窓から見た宮殿南側のフランス庭園。 公の謁見室、別名赤の書斎。赤いダマスク織の壁面が印象的。寝室の隣にあるということはプライベートな空間だったということなのだろう。多くの絵画も。天井画はヴィーナスとアドニスの神話が描かれていると。クールランド公の第一書斎。 ここも多くの絵画が。 イタリアの間と呼ばれる小さな部屋。この部屋にも多くの風景画や昔の写真が。大理石の間。食堂として使われた広間。壁面を覆う人工大理石からその名が。天井の美しい花模様が優しい雰囲気を醸し出していた。ビロン家の肖像画等が飾られた部屋。宮殿内に肖像画の間という部屋もあるのですが、この宮殿にはどの部屋にも肖像画が必ずと言っていい程飾られていて、当時の支配者達の栄枯盛衰が伺えたのだ。ピーター・バイアンPēterisBīronsの肖像画。1795クールラントの最後の公爵。夫人像。 2階の見学可能な部分の見学を終えた後に、1階の展示施設の見学。そこには、修復の際発掘されたものや、修復で使われたもの、修復前の荒れた状態の宮殿の写真等が展示されていた。
2017.05.05
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7日目の朝の兵ども?が夢の後。 ホテルの巨大なELEFANTはカメラの画面に入りきらず。 朝食後、8:30にバスはBauska(バウスカ)にあるルンダーレ宮殿に向けて出発。この日は小雨、豪雨と天気が大きく変化する中、80km離れた宮殿に向けてラトヴィアA7高速を走る。 バウスカにある青い屋根のジョージ正教会横を通過。バウスカは三つの川の合流点にあり、15世紀にリヴォニア騎士団はこの地の丘に巨大な城を建設しました。その後は、リトアニアとの貿易の中継地として発展したと。そして予定通り10時にルンダーレ宮殿に到着。 小雨の中、宮殿観光に向かう。宮殿近くのレストラン Balta maja。 この宮殿は『バルトのヴェルサイユ』ともいわれている。 以前に訪ねたウィーンのシェーンブルン宮殿を思い出された。宮殿のカラーはマリアテレジアイエローとも言われ裏庭の庭園もよく似ていた。 この宮殿は、ロシアの女帝 アンナの愛人ロビン公の夏の宮殿として建てられたと。建設中にビロン公がシベリアに流刑になってしまうなどの紆余曲折がありつつも、およそ30年もの歳月をかけて、 サンクトペテルブルグの冬の宮殿を手掛けたイタリア人の建築家・ラストゥレリによって1768年に完成。 ルンダーレ宮殿正門の上に置かれたライオン像。コの字状,2階建てのこのルンダーレ宮殿は2階建てのバロック-ロココ様式で,138の部屋から成るのだと。 宮殿の屋根にはコウノトリの巣が。 宮殿入り口から前庭を振り返る。 中に入ると大理石の女性像が迎えてくれた。靴の上から青のビニールカバーを履いて,専任ガイドの方が案内して下さった。正面玄関に面した回廊部分。白と金を用いた天井の美しい曲線装飾が華やかさを演出していた。 宮殿内受付所。いかにも宮殿といった階段。 これぞロココスタイルの装飾。 黄金の広間の手前の小室・緑の間。中央角に陶器製の暖炉用煙道が。黄金の広間を人の写らないチャンスを見計らいシャッターを。公の載冠式が行われた、宮殿の最も豪華な広間。金箔の漆喰彫刻はプロイセンの彫刻家・J.M.グラフが手掛けたと。壁は人口大理石と漆喰彫刻に金ぱくを貼っているので・・・・超豪華。シャンデリア。知恵、力、正義などのテーマを寓話的に描いた天井のフレスコ画。イタリア人バロック画家F.マルティーニとC.ツッキによるものと。黄金の間を出口方向から。 黄金の間に隣接する小部屋には、陶器が飾られていました。黄金の間からは、グランド・ギャラリーが続いています。グランド・ギャラリーの天井のフレスコ画。壁のフレスコ画。緑の間。アンナ女帝、エリザベス女王、エカエリーナ2世などの肖像画がたくさん飾られていた。ビロン公の肖像画。白の広間。舞踏会が行われたここ白の広間は、ここに参列されたご婦人方やその装いを損なうことなく貴婦人たちの着飾ったドレスが美しく映えるようにと白一色の内装で統一してあると。壁や天井のレリーフは一見大理石のようであるが,この辺りでは大理石が産出せず,石灰岩を加工した漆喰を用いているのだと。このロココ様式の漆喰彫刻は素晴らしく、白い部屋の格調を高めるのに役立っているのだと。外から入る光により彫刻に陰影が付き、その美しさはただ白いだけの部屋ではないのであった。天井の一部に飾られた代用大理石彫刻の一つ。 ズームする。 コウノトリであるが,この巣は本物の小枝を白くして用いているのだと。白の広間の壁は、農村風景や動物、神話を描いた漆喰彫刻で飾られていました。磁器の間。45の台の上に東洋の磁器が並んでいた。滝をイメージしてツリー状に置かれた台に陶器が置かれていた。 青の間に戻る。ズボフ伯の部屋には様々な絵画が。タイル張りの暖房設備も見事。冬の厳しい寒さゆえ、暖房設備もそれだけ大きくなり、それを無骨に見せないように、こんな風に美しく飾ったのだろうか。書斎として使われていたのであろう。各種の家具も置かれていた。 緑間の天井の漆喰彫刻。緑の間。
2017.05.04
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ホテルにチェックイン後は19時の夕食まで自由時間とのことでこの日もTXにてリガ旧市街に旅友のSさん、熊本のTさんの3人で向かう。途中、ダウガヴァ川沿いの1905年革命を記念するモニュメント「1905年記念碑」前を通過。まずは中央市場でTXをおり、Tさんとは別行動で旅友Sさんの蜂蜜購入につきあう。既に16:30を過ぎ、中央市場の店は片付けを始めていたが、Sさんは何とか蜂蜜を大量に購入することができたのであった。そして中央市場裏口から出て、RIGA駅の散策に向かう。RIGA駅構内。ホームにはモスクワ行きの夜行寝台列車が停まっていた。モスクワ行きの電光掲示板の表示を撮影したが、文字は残念ながら写っていなかった。LED行先表示器のLEDは、目に見えない速度で点滅を繰り返しており、速いシャッター速度を切ると減灯している部分が線状に消えて写ります。 遅いシャッター速度で撮れば、字が綺麗に写ることが多いのですがこれを忘れていました。こちらはリトアニア国内行きの列車。リフォーム教会。メンツェンドルフ家博物館。聖ペテロ教会。13世紀初頭の木造教会から始まり後に石造に高さ123mの尖塔はリガのランドマークとなっているのだ。 ラトヴィア占領博物館。市庁舎。ブラックヘッドの会館。聖ローランドの像。リガ大聖堂。聖ヤコブ教会。国会議事堂。スウェーデン門。リガに唯一中世から残る城門が、このスウェーデン門。当時城壁の外のヤコブ兵舎に住んでいたスウェーデン兵がよく出入りしたことからスウェーデン門と言われたと。17世紀後半に城壁と塁壁の間にあった建物を改築し造られた。現在は門をくぐると幸せになると言われ、カップルが多く立ち寄る名所に。スウェーデン門を潜りトゥルニア通りへ。トゥルニア通りから見た城壁。中世には高さ10m長さ2kmに渡る城壁に市街は囲まれていた。城壁の塔は「ラーメラ塔」。火薬塔と軍事博物館。14世紀に建てられたレンガ造りの火薬塔は26メートルの高さ、外壁の厚さは3m。スウェーデンの攻撃で半壊したそうで、上の方は17世紀に修復されていると。旧ヤコブ兵舎側面にはラトヴィアの全77都市 の紋章が飾られていた。稜堡の丘。旧市街に沿うようにそしてピルセータス運河を挟むようにして作られてる長細い公園の一角に小高い部分があってこれが稜堡の丘。ピルセータス運河。 世界文化遺産リガ歴史地区はダウガヴァ川とピルセータス運河に挟まれて川中島のようになった地区が旧市街地で、 その周辺に見所が集中しているのであった。1991年1月20日の犠牲者記念碑が小橋を隔てて2ヶ所に。 1991年1月20日は独立運動の真っ直中で旧ソ連軍の特殊部隊がラトヴィア内務省を攻撃し多くの犠牲者が出たと。ルドルフス・ブラウマニス(Rūdolfs Blaumanis)記念像。ラトビアの 劇作家、ジャーナリスト。 ピルセータス運河の対岸に見える、小さな中国風のミニチュアの家が「白鳥の家」?? ラトヴィアのクルゼメ、ヴィゼメ、ラトガレ三地方の融和を意味する銅像とのこと。 噴水も元気よく涼しげ。 ピルセータス運河と遊覧船乗り場。 自由の記念碑。1935年,ラトヴィアの独立を記念して建てられた高さ51mの記念碑。下に刻まれているのは「祖国と自由に」という文字。 塔の上に立つ女性ミルダが持つ3つの星はクルゼメ・ヴィゼメ・ラトガレのラトビアの3つの地域を表していると。また、頭上の3つの星と手から腕にかけての形の中の空白を子供に見立て、母親が子供を高く抱き上げている様子を表しているのだと。国立オペラ座。 オペラ座前の噴水近くのベンチに座り、帰路のJAL便のWEBチェックインをスマホでTRY。何とか最後方の窓際2席を確保。ラトヴィア国立歴史博物館。 ブリーヴィーバス大通り中央分離帯に置かれた黄色のモニュメント。 いかにもロシア正教!の建物は救世主生誕大聖堂。 外飾りも印象に残る教会。 見るからにロシア的玉ねぎ型のドーム。残念ながら中に入れる時間は過ぎていた。 RIGA駅に向かう途中の道端にグラフィックアーティストカール・パデグス(1911- 1940年)の記念碑が。 RIGA駅に戻りTXでホテルへ。科学アカデミー前を通過。 ダウガヴァ川を渡る鉄道鉄橋の下を潜る。 ヴァンシュ橋からのRIGA城。 そして、ELEFANT HOTEL に到着したのは20時過ぎ。
2017.05.03
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連泊したヴィリニウスのホテルを6日目のこの日も6時過ぎに出ての早朝散歩。 朝の陽光の当たる街並みをネリス川の川面に映していた。 ロシア正教教会。 ヴィリニャ川に浮かぶ小さな船。川沿いのTibetan広場近くにあったモニュメントは何?陰陽石? ロシア正教教会を背景に手を広げて立つ聖人?像。 ロシア正教教会をヴィリニャ川側から。 見つけたら幸せになるといわれる「ウジュピス人魚」 少し悲しそうな顔をしていたが、この像もウジュピスのシンボルの一つらしい。ヴィリニウスのなかにあるウジュピス共和国。ヴィリニャ川で旧市街とは隔たれた場所なのだが、ここが、独立を宣言しているのだと。今では、ヴィリニウスのモンマルトルとも呼ばれている芸術地域とのこと。共和国に入る橋の上からヴィリニャ川を。ウジュピオ通りにある、「ラッパを吹き鳴らす天使の像」。2002年の独立記念日に除幕された記念碑らしい。 逆光!! 旧市街と新市街の境を流れるネリス川を渡ったところにあった「エネルギーと技術の博物館」。日本の国立科学博物館、科学技術館と同じ目的の建物?この博物館の建物は、1903(M36)年に運転を開始した火力発電所をそのまま利用したもの。尖塔の女子像。右手で掲げているのは傘がついた電灯。ギリシャ神話のエレクトラの像で、ソ連時代に一旦撤去されたのち、1994年に再建されたと。ホテルへの帰路、橋の下に吊された物体を発見。 これは何かのモニュメント? 朝食を終え、8時にホテルを出発しシャウレイまでの214kmのバス移動を開始。E272号線をひたすら走る。 十字架の丘に到着十字架の丘(リトアニア語: Kryžių kalnas「クリージュ・カァルナス」)は、リトアニア北部、シャウレイの北12kmに位置する巡礼地。リトアニアの観光名所。2001年に『リトアニアの十字架の手工芸とその象徴』の一つとして世界遺産・無形文化遺産に登録された。その発祥は分かっていないが、初めてここに十字架が建てられたのは1831年のロシアに対する11月蜂起の後であると考えられていると。数世紀を経て、十字架だけでなくイエスの受難像やリトアニアの英雄の彫刻、聖母マリア像、肖像画、ロザリオなどもカトリック教会の巡礼者によって置かれるようになった。十字架の正確な数は分かっていないが、約50,000であろうと推測されていると。入口の出店には様々な木製の十字架が販売されていた。十字架と一言で言っても、宗派事に様々な形状の十字架があることを知ったのであった。ラテン十字、ロシア十字、ケルト十字 、エジプト十字、太陽十字・・・・・。城壁の如き入口を潜り十字架の丘へ向かう。畑の中に盛り上がった丘に群がるように立つ十字架の丘。リトアニアの国民はほぼ全数が敬虔なカトリック信者、「十字架の国」とも呼ばれていると。その民族の、誠実な信仰心と、芯の強さと内なる激しさが守り通した貴重な市民の遺産、それがこの「十字架の丘」であると添乗員から。まさに圧巻?の光景。世界中からたくさんのカトリック教徒がこの丘を目指してやって来ると。1993年には時のローマ法王ヨハネ・パウロ二世もこの地を訪れ祈りを捧げたのだと。リトアニアは過去2度ロシア・ソ連に併合、進攻されている。最初は1795年、ロシア化政策の強要、遂に堪りかねた市民達は、1830年、憎きロシアへの蜂起が多発。ロシアの報復迫害も日ごとに激しさを増す。それは、カトリック教会の弾圧、リトアニア語の禁止などに及び、反抗者は、2度と帰れぬシベリア流刑へと。その頃から、この丘に十字架が多数立ち始めたと。処刑された人、流刑された人、その家族や知人が十字架を持ち寄り、この地がロシアに対する怨念と祈りの場になったのだと。しかし、更に時を経てリトアニアの最大悲劇は続く。第一次大戦のドイツ占領でロシア・ソ連との一時的な平和条約、それもつかの間、1940年、再度、ソ連軍が進攻、併合されてしまっとと。ロザリオを右手にかかげて。何たる悲劇のリトアニア、ソ連軍のレジスタンス狩りは、悪の極致を極め、何と5年間に数十万人がシベリアへ流刑されたのだと。その度に増える十字架・・・。リトアニアの独立宣言は、1990年、暗い悲惨なソ連併合時代は、60年の長きに亘る。一説では、何と流刑者は100万人に達したとも。リトアニア人は抵抗もできず、ただ祈るのみ、この丘へ十字架を立て、流刑者を想い涙する・・。それも許さなかったソ連軍。「十字架の丘」を禁域とし、むごい仕打ち。何度もブルドーザーで十字架を薙ぎ倒し、焼き払い、丘の消滅をも・・。しかし、人々の魂はそれに屈しなかった。倒され焼かれても、夜中に十字架を立てる。傀儡リトアニア政府もこれには手が付けられなかったと。 肉親を思う気持ちは権力や武力にも勝る、英々と生き続ける、「十字架の丘」。展望、休憩所?日本語の書かれた十字架は目に止まらなかった。 昔はこちらが参道?であったらしい。大きなロザリオを下げて・・・・。言葉はいらない。十字架の丘を再度振り返る。再びは訪れない、訪れたくない光景。墓地ではないことは解っていたが。バスに戻ったが、皆言葉少なに。そしてシャウレイの街中で昼食。ドライバーも店を探して街中を2周して漸くレストランに到着。店は「JUONĖ PASTUOGĖ」。野菜スープ。リトアニア風餃子であるコルドゥーナイ。水餃子のクリームシチューのようで味は「ぼちぼち」。昼食後はラトビア・リガに向けて約130kmの移動。正面にシャウレイ市庁舎。シャウレイ州立大学。「ŠIAULIAI」の文字が。シャウレイ・セントピーターポール大聖堂。そしてリトアニアからラトビアへの国境を越えA8号線をひたすらリガに向かって走る。そしてこの日のリガのホテル「RIXWELL ELEFANT HOTEL RIGA 」に到着15:15過ぎ。
2017.05.02
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トラカイ観光の後は、再びヴィリニウスに戻り、ヴィリニュスの中心を流れるネリス川沿いに通称『杉原桜公園』と呼ばれている公園を訪ねる。入り口に当たる場所には、外交官で『日本のシンドラー』と呼ばれ、多くのユダヤ人の命を救った杉原千畝の功績を称えるモニュメントがここにも建立されていた。記念碑には『故杉原千畝氏は1900年に日本に生まれ、早稲田大学在学中に日本国外務省の留学試験に合格しハルピン学院に学び、その後外交官となった。1940年リトアニア共和国領事代理の時代に、身近に迫る戦争の危機の中にありながら、必死の覚悟と信念を以って、亡命ユダヤ人約6千名に対して、1ヶ月にわたって査証を発給しつづけ、彼らの生命を救った。 これは戦争時における輝かしい人道的行為として歴史に記憶され、永遠に語り継がれるべきものである。ここに早稲田大学は、級友として世界に誇るべき氏の功績を称えて記念碑を建立するとともに、リトアニア共和国との学術交流による友好関係がさらに深まり花咲くことを祈念して桜の木を植樹するものである。 2001年10月2日 早稲田大学』 と。 杉原千畝が命のビザを発給したのは、リトアニアのカウナスという都市にある日本領事館だが、リトアニアのここ首都ヴィリニウスにも杉原千畝の記念碑が建っていた。杉原千畝は、早稲田大学在学中に外務省の試験に合格。ヴィリニウスにある杉原千畝の記念碑は、早稲田大学によって作られたのだ。また、杉原桜公園の桜は杉原千畝の生誕100周年を記念して植えられた。天皇陛下もここを訪れたことがあるのだと。『杉原桜公園』と書かれた石碑であったが、桜の花はまだ半月以上後か。 バスはヴィリニウス旧市街の観光に向かう。これが本番の観光なのであった(笑 )。添乗員が現地ガイドの英語を通訳して我々に説明するスタイル。夜明けの門。夜明けの門は、街の城塞の一部として1503~1522年に建てられた。9の市門の内、唯一の現存している門。城門らしく防衛に使われた5つの丸い銃眼が。門の上部にはリトアニアの紋章が。門に描かれたフレスコ画。 夜明けの門をくぐりった。振り返ると、夜明けの門の2階の窓の中に聖母礼拝堂が見えた。礼拝堂に行く為に,写真の左手にあるテレサ教会から階段を上がって細い通路を進んだ。我々が訪れた時は祈りの時間で,多くの信者が集まっていたので遠くから。このイコン「黒い聖母の像」は1993年に修復されて現在の形になったそうで,顔の部分と手のみが高価で華美な銀と金の布で覆われていた。慈悲の母聖母マリアの絵は世界中で知られているが、他の国の多くの教会は、このイコンの絵のコピーを持っているのだと。ヴィリニウス大聖堂と鐘楼に再び。大聖堂内部に。祭壇と身廊は意外とシンプル。 パイプオルガン。 内部にも大理石の像が。これも聖カジミエル像か? 聖カジミエルの礼拝所大聖堂最大の見どころ。大理石と砂岩で造られていると。聖カジミエルの遺体は、120年後に開けられた時に、全く変化がなかったという奇跡が伝えられていると。 正面の、聖カジミエルのイコンには、手が3本。画家が、何度消そうとしても、また現れたので、そのまま3本にしたと。内装は、1691~1692年に改築され、祭壇、フレスコ画、化粧漆喰で飾られた。この礼拝堂は、ヴィリニュス大聖堂の他の何よりも、ポーランドリトアニア合同の栄光を象徴していると。天井にも、フレスコ画が。ヴィリニウス大学と聖ヨハネ教会。 旧市庁舎広場と旧市庁舎。 聖ニコラス教会。ヴィリニウスで最も古い正教会の教会の一つ。この場所の最初の木造の正教会の礼拝堂は、1340年頃に建てられた。現在の建物は、1865年にネオビザンティン建築で再建。 聖パラスケワ教会。琥珀美術館に立ち寄る。 様々な虫の入った多くの琥珀が、ルーペ&照明付きで展示されていた。以前、天皇陛下ご夫妻もお訪ねになったようであった。 聖ミカエル教会。 聖アンナ教会(Šv. Onos Bažnyčia)とベルナルディン会教会(Bernardinų Bažnyčia)。ナポレオンが持って帰りたいといったという逸話のあるアンナ教会は左側の茶色の建物で,その奥がベルナルディン教会。 聖アンナ教会(Šv. Onos Bažnyčia)。聖アンナ教会は、15世紀に建てられた後期ゴシック様式の教会。ベルナルディン会教会(Bernardinų Bažnyčia)。15世紀半ば、フランシスコ会によって建てられた教会と修道院。16世紀後改築されたと。そしてバスに乗り大聖堂から5分程の場所で下車。聖ペテロ・パウロ教会(Šv. Petro ir Povilo Bažnyčia)。 聖ペトロ・聖パウロ教会は、カトリックの教会でありかつてのラテラノ修道会の中心であったと。聖母マリア像 木製の美しい主祭壇は、ダウガイのカトリック教会へ1766年に移されたと。主祭壇の代わりに、4体の預言者(ダニエル、エレミヤ、イザヤ、エリヤ)の像と、「聖ペトロと聖パウロの別れ」を表した大きな中央の絵画が、置かれたのだと。教会内の白に合わせて,パイプオルガンも白に塗られていた。オルガンの上の3つの小さい方のフレスコ画は、聖ペトロの人生から三枚続き、すなわち、身体障害者を癒す、牢獄からの脱出、動物達と敷布の幻影が描かれていた。この教会の中の装飾は群を抜いてた。教会の建築には8年,内部の装飾には33年かかったっと。内部には2000以上の漆喰彫刻があり,教会の中に白い光が満ちていた。 真鍮とガラスビーズで作られた船の形のシャンデリアが、ドームの中間から吊るされており、聖ペトロが漁師であったことを思い出させます。この船は、1905年に設置され、7枝に分かれた8本のろうそく立てが。 見事な精細な漆喰彫刻。翼廊には、教会で活動していた2修道士団、「慈悲深い神の母」と「キリストの5聖痕」の祭壇 が。アウグスティヌスの礼拝堂。 そしてこの日も長い観光の一日が終わり連泊のホテルに戻り夕食を楽しむ。スープ。 メインディッシュ。 デザート。 そしてこの日もスーパーでアスパラを購入し、部屋でウイスキーで反省会。 この日も活きエビも購入し塩ゆで。 そして23時過ぎには私は片付けもせずに爆睡。
2017.05.01
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