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最近新しく「楽天Pay」の中に「楽天Suica」を設定することができるようになったので早速インストールし、楽天カードから3000円をチャージしてみました。ところが、調べると「モバイルSuica]というものもあり、どこがどう違うのか、競合しないかなどちょっと不安になったので調べてみました。<楽天Suicaの誕生と交通系各社の電子マネー>ご承知の通り、交通系ICカード(電子マネー)はJR東日本の「Suica」をはじめJR東海「TOICA」、JR西日本「ICOCA」などの11団体が10種類の「乗車カード機能及び電子マネー機能」などがあり、2013年から相互に利用を可能としています。わたしも、静岡県磐田市に在住ですが、東海道線の「浜松駅」や「掛川駅」などに行く時には「TOICA」を利用していました。乗車機能ばかりでなく、コンビニ等でのキャッシュレスカードとしても利用が可能で大変便利なカードでしたが、エリア間をまたがった利用はできないなどの条件がありました(今でも同様です)。ただ、TOICAでもJR東日本のエリアでの利用が可能(但しエリアはまたがっての利用はできない)とのことですが、残念ながらまだJRで行く機会がなく、利用機会もないので確かめることはできていません。 (楽天Suica) (モバイルSuica)<ポイント制度と交通系電子カード>「TOICA]は交通系電子マネーとしては便利なものでしたが、「ポイント付与制度」がないことが欠点でした。わたしが今回「楽天Suica」アプリを入れた契機は、①「全国の鉄道利用が可能なこと、②楽天のポイント(チャージ時)、JREポイントが付与されることでした。ポイント制度には各社いろいろとありますが、わたしは「楽天」のポイントを主に貯めることにしていますが、ゲーム感覚でやっていて、あまり「ポイント」のみを追いかけないようにしています。いかに効率的にポイント獲得し、そのポイントをどう使うか考えるのは結構楽しいですね。同じお金を使っても、やり方によっては5~10%程度の「お金がバック?獲得できる」のはやはり、無視はできません。極端な話、現金払いで物品を購入しても特定の店舗のポイント制度などはありますが、あまりうま味はありません。一言で言えば損しています。ポイント制度にはPayPayやdカード、Tポイントなどもあり、それぞれ入会ポイントやカード利用のポイント付与率が違ったり、キャンペーンなどもしています。また、期間を限っての高ポイント付与などいろいろと実施しており、どれを使うか迷ってしまうほどです。いずれにしても、各社かなり過激での乱戦模様になっています。ユーザーにとってはありがたい話ではありますが。わたしは、現在は、楽天グループ(経済圏)にある程度集中して利用しポイントを獲得するようにしています。「TOICA」から「楽天Suica」へ余り最近は、「コロナ感染」のこともあり、旅行や東京方面など行く機会がほとんどありませんので鉄道を利用することが残念ながらありません。そのような環境下ですが、利用者からみると、交通系各社の各社の電子マネーを各々持つことは面倒です。そう考えていたところに、①今回の「楽天Suica」は日本全国どこでも利用が可能(JR等)、②楽天のポイントも付与されるとのことで、「楽天Suica」のアプリを入れてみました。※話しはそれますが、以前のスマホは富士通のarrows(F-05j)(初めてガラケイからスマホに)でROM16GB、RAM2GBのものでした、ところが使っているうちにROMが1GBを切るようになり、気に入ったアプリを入れることが難しくなってきたので、ソニーの「Xperia10Ⅱ」(ROM64GB、RAM4GB)にしました。機種変更して正解でした。というのは、好きなアプリもどんどん入れられるので助かっています。今回もすぐにアプリを追加できました。使い方によってはROM32GBのものでも十分かもしれませんが、余裕をみてROM64GBのものをお勧めします。 <「楽天Suica」もあれば「モバイルSuica」もあったが・・・>楽天Suicaアプリを入れて満足していたら、「モバイルSuica」というアプリもありました。どこがどう違いのか、楽天Suicaで支障はないのだろうかちょっと不安になってきました。そこで2つの違いを調べてみました。 [モバイルSuica]モバイルSuicaは、スマートフォン専用のアプリで、簡単にSuicaを発行し、チャージや定期券の購入もアプリで完結。Suicaでのお支払いは、スマホを「かざすだけ」でキャッシュレス決済できる、シンプルで簡単。「JRE POINT」に登録すれば、JR東日本の鉄道に乗ってポイントを貯めたり、貯まったポイントをSuicaにチャージすることもできます。特長は、1. いつでもどこでもチャージできて、お買い物も「ピピッ」とお財布レス!場所や時間を気にせず入金(チャージ)ができて、ピピッと簡単にお買い物!SF(電子マネー)のご利用残高も一目でわかり、なくしても安心の再発行サービスもあるから、ネットショッピングも快適にご利用いただけます。2.新幹線の乗車も「タッチ&ゴー」便利でおトクに使えます!電車も新幹線もスマートフォンでタッチするだけ。さらにおトクで便利な「EX-IC(エクスプレスIC)サービス」など新幹線向けサービスも充実!3.定期券やグリーン券も窓口や券売機に並ばず購入できます!グリーン券なら、さらに、乗車前に購入するときの料金と同額の「モバイルグリーン料金」が適用されます。4.機種変更や端末紛失のときも安心!端末を変えてもモバイルSuicaの情報はそのまま移行できます。また端末の紛失や故障時も所定の手続きにより、Suicaを再発行できます。 一方、<楽天Suiccaとは>Androidスマートフォンでは、楽天ペイアプリでSuicaを発行し、Suicaをご利用いただけます。全国各地の鉄道、バス、お買い物などでご利用いただけるほか、JRE POINTを貯めたり、タッチでGo!新幹線をご利用いただくことも可能です。※ご利用には、JRE POINT WEBサイトでの登録や、タッチでGo!新幹線の利用開始登録が必要です。 [楽天ペイアプリの便利な機能をご紹介します]お手元にSuicaカードがなくても、楽天ペイアプリからSuicaを発行する事が可能です。既に、ご利用中のモバイルSuicaを楽天ペイアプリに登録することができます。1,000円以上1円単位でチャージができます。楽天ペイアプリに登録している楽天カードから、Suicaへチャージを行うことが出来ます。Suicaへチャージを行うと、楽天ポイントがたまります。貯まった楽天ポイントを楽天ペイアプリから、1円以上1円単位でSuicaへチャージを行うことが出来ます。楽天ペイアプリの詳しい機能・操作方法につきましては楽天ペイホームページにてご確認ください。 [楽天ペイアプリの便利な機能一覧] <おサイフケータイ®」機能が搭載されたAndroid™端末のみ対応>楽天ペイからSuicaにチャージできるのは楽天ポイント(通常ポイント)および楽天カード(Visa、Mastercard、JCB、American Express)となります。以下のポイントを利用して楽天ペイのSuicaにチャージすることはできません〇期間限定ポイント〇提携サービス会社から交換されたポイント (JCBカード、DCカード、Oricoカードなどの提携企業、及び楽天証券等の楽天グループから交換したポイント)〇1回のチャージ上限金額は2万円までとなります。1ユーザーあたり月間ポイントチャージ上限金額は10万ポイントまでとなります。既にモバイルSuica以外の交通ICカードをご利用の場合、端末によってモバイルSuicaをご利用出来ない場合があります。<その他>「おサイフケータイ」は株式会社NTTドコモの登録商標です。Androidは Google LLC. の商標です。SuicaおよびモバイルSuicaは東日本旅客鉄道株式会社の登録商標です。「Suicaのペンギン」は東日本旅客鉄道株式会社のSuicaのキャラクターです。~あとがき~時の経過とともに、スマホのアプリの世界はその広さや深さがどんどん変化し本当に日々ワクワクしています。交通系アプリの代表格の「Suica]も楽天Payアプリから「楽天Suica」として発行することが可能となりました。今まで、JR東海エリアは「TOICA]という電子カードを利用していましたが、楽天Suicaをスマホにインストールしておくだけで、JR東海エリアはもちろん、全国的に利用が可能になりました(モバイルSuicaへのカード登録は必要)。しかも、チャージ時にポイントまで獲得できます。まだ、実際に利用していないので,うまく改札の機械を通過できるか試してみたいと考えています。 以上
2021.03.31
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昨日(3/26金)に菊川の「ホロンゴルフ倶楽部」で磐田ゴルフクラブの321回の例会を開催しました。ゴルフ場のゲートを入ってからクラブハウスまでの満開のサクラ並木で暖かい晴天の天気と共にうきうきした気持ちになりました。集合8:10スタート8:42でした。スタート前に練習グリーンサイドでスタート前ミーティングを開催し、寺田会長のあいさつ、高柳役員から当日のルールの説明等を行った後、事務局からコロナ対策上のお願い事項を説明し、OUT・INから参加者22名が定刻にスタートしました。(スタートを待つ「カート」群、当日はコンペも多かった 撮影:筆者)ハーフの後半に強い風が吹き始めましたが、最後まで暖かい晴天が続き気持ちの良いゴルフ日和になりました。参加者は久しぶりのコースであること、強い風と大きなワングリーンのため寄せ、パットに最後まで苦しめられたプレーヤーが多く、珍しく80台がわずか1名、ベスグロも87であり、タフなコースコンディションであったことがうかがえました。 (サクラがグリーンまで満開だったショートホール:撮影筆者)<2021年 例会予定>磐田ゴルフクラブの事業として、クラブ例会は毎年3月くらいから12月までに4回実施しているものですが、異なるコースをラウンドします。今年は3月ホロンゴルフ倶楽部、6月ザ・フォレストCC、9月ミオスCC、12月豊岡国際CCとなっています。<ホロンゴルフ倶楽部の概要>(HPから転載しました)「きもちいい、ゴルフクラブ」のコンセプトが息づく珠玉の18ホールズ。ホロンとは、ギリシャ語のホロス(全体)とオン(個人)という言葉を組合せた造語で、ゴルフ場とゴルファーの理想の調和という意味を持つそうです。〇ホロンの特徴はなんといっても「ワングリーン」でONしても距離を残すとパットが難しく3パットしやすく、また微妙なアンジュレーションと芝目の影響で、1m前後のパットも油断がらないコースです。<321回 クラブ例会順位表>(2021年3月26日(金)参加者22名、ハンディ戦)毎ホール終了後に、大きく順位が変動する大激戦でした。やはり、カートで自分たちの順位がリアルタイムでわかるのは、かなりエキサイティングで楽しいですね。実力者のみなさんがパットなどで苦労されて思うようスコアをまとめられず、ダークホース的な存在の長谷川さんが優勝の栄冠を勝ち取りました。優勝者長谷川さん談:優勝ができて光栄です。一番の理由はやはり、メンバーに恵まれて楽しく適度の緊張感をもってできたことです。このコースはワングリーンなのでピン位置を確認し、奥の場合は攻める、手前の場合は手前において攻めました。3パット、4パットもありましたが、一方ロングパットが決まったり2,3mのパットで外すと大たたきのリスクがあるところを、なんとか1パットで上がれたりしたことが要因でもありました。~あとがき~わたしは事務局を担当していますが、心配は天気のことと今感染流行の「コロナ対策」です。今回はサクラ満開の、絶好のゴルフ日和の中で開催することができて最高でした。また、コロナ対策としてゴルフ場、磐田GCとしても参加者のみなさんに細かな協力依頼をした中での開催となりましたが、参加者のみなさんがコロナ対策でも全面的に協力してくれて、また楽しくゴルフをしていただき事務局、役員一同うれしい限りです。このクラブも世の中と同様、高齢化が進んでいますが、会員相互の親睦と健康保持のためにできるだけ回を重ねることができるようささやかながら、頑張りたいと思っています。 以上
2021.03.27
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今回は、3人の実業家の生涯について整理をしてみました。ところどころに、はなはだ僭越ではありますが、私の見解も入れさせてもらいました。3人の特色をまとめてみると、渋沢栄一、岩崎弥太郎、五代友厚は対照的な経営手法で事業を拡大し、日本の資本主義の発達に貢献したといえます。ただ、四民平等の世が訪れていなかったなら、こうした実業家は登場しなかったと思われます。そういった意味では、明治維新は日本の社会構造を抜本的に変えてしまう大きな出来事でした。→「渋沢」は私の蓄財というよりも、日本の近代産業の発展という理念をもって行動した。実業界のみならず、近代教育の発展にも寄与し、公共社会福祉事業にも力を注いだ。→「岩崎」は明治維新の大物政治家大久保利通、大隈重信との人脈を通じて「政商」としての特色がみえる、海運事業としての「三菱」、弟弥之助手腕による多角経営の礎と大財閥への成長した。→「五代」は、豊富な人脈のなかで生涯だった。足跡としては「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図った。イギリスへの渡航もありこの時代に語学力に卓越していたことは大きな強みだった。下記の「3人の生涯」については下記を転載にて紹介させていただきました。〇出典:渋沢栄一、岩崎弥太郎 nippon.comhttps://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06903/〇出典:渋沢栄一 Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80渋沢栄一 記念財団https://www.shibusawa.or.jp/eiichi/eiichi.html〇出典 岩崎弥太郎 三菱グループhttps://www.mitsubishi.com/ja/profile/history/series/yataro/岩崎弥太郎 Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E5%BC%A5%E5%A4%AA%E9%83%8E 〇出典:五代友厚 Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BB%A3%E5%8F%8B%E5%8E%9A<「渋沢栄一」の生涯 (1840/3/16-1931/11/11) > 500余りの会社創設に貢献した渋沢栄一は第一国立銀行を拠点に、株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れ、また、「道徳経済合一説」を説き続け、生涯に約500もの企業に関わった。 武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)の渋沢家は、農業のほか養蚕、藍玉の製造・販売、村人相手の金融業などを営む多角的な豪農であった。栄一は天保11年(1840年)、渋沢市郎右衛門の長男として生まれた。幼い頃から賢く、両親から将来を嘱望された。とにかく本が大好きで、12歳のときには歩きながら読みふけり、溝に転落して泥だらけになって帰ってきたという逸話が残る。 (深谷市に残る渋沢栄一の生家:渋沢栄一記念館)[尊王攘夷思想と渋沢]幕末になると尊王攘夷思想にかぶれ、一時は高崎城を襲撃して武器を奪い、横浜に住む外国人たちを追い払う計画を立てるが断念。[一橋慶喜の家臣へ、そしてパリ万博]やがて、平岡円四郎の紹介で一橋慶喜の家臣に採用され、慶応3年(1867年)、慶喜の弟・昭武がパリ万博へ列席するのに随行して欧米諸国を周遊、当地の文物や制度を学んで帰国した。 (パリ万博使節団一行。後列一番左が渋沢栄一:渋沢史料館)パリ万博使節団の一員としてヨーロッパ滞在中、渋沢栄一はちょんまげを切り、洋装に変えた(渋沢史料館)[新政府の官僚としての活躍と実業家へ転身]明治維新後、新政府に入って民部省の租税正、大蔵省の大蔵権大丞など経済官僚として活躍、国立銀行条例の制定や第一国立銀行の設立に尽力。明治6年(1873年)に政府を辞めて実業家に転身、王子製紙会社、大阪紡績会社、東京海上保険会社、共同運輸などの創立を手掛けていった。生涯に創設に関与した企業は500に上ったが、多くの会社を興したのは、自分の利益のためではなかった。実際、関わった会社の株式はほとんど保有しておらず、経営が軌道に乗るとサッと身を引いた。列強諸国の経済的強大さに対抗するため、日本に近代産業を早急に根付かせて発展させる必要があるという理念を持っていたからである。だから、実業界の力を結集すべく東京商法会議所など、さまざまな経済団体を組織し、自ら会頭に就いて政府に実業界の要望を積極的に伝えた。[近代教育の発展に寄与]栄一のすごさは、その活動が実業界だけにとどまらなかったことである。東京高等商業学校、高千穂高等商業学校、大倉高等商業学校、東京高等蚕糸学校、岩倉鉄道学校の創立に関わり、近代教育の発展にも大きく寄与した。晩年は実業界の第一線から手を引き、東京市養育院の院長として恵まれない子供たちを救うなど公共社会福祉事業に力を注ぎ、同時に欧米を歴訪して民間の立場から平和外交を促進していった。そして昭和6年(1931年)、91歳でその生涯を閉じたのである。<「岩崎弥太郎」の生涯(1835/1/9-1885/2/7)> 岩崎弥太郎は天保5年(1835年)、土佐国(高知県)安芸郡井ノ口村の地下浪人の家に生まれた。地下浪人とは、藩士の身分を失った武家のこと。先祖が落ちぶれて武士の権利を売り渡してしまったのだ。だから元武士といっても庄屋(名主)の下位に置かれた。しかも父の弥次郎は頑固だったので、あるとき庄屋の手下から暴行を受けて大けがをする。憤慨した弥太郎は奉行所に訴え出るが相手にされず、怒って奉行所の壁に落書きして投獄された。(岩崎弥太郎の生家:一般社団法人安芸市観光協会)このとき弥太郎は同室の囚人に算術を教わり、それが後に商売に役立つのだから、人生は何が幸いするか分からない。しかも出獄後、藩の参政・吉田東洋と知り合うことになった。弥太郎の謹慎先の近くで、東洋もまたお叱りを被って一時蟄居(ちっきょ)していたのだ。東洋は弥太郎の才能を知り、下級役人に抜擢した。まさに塞翁が馬である。算術に優れていたこともあり、慶応3年(1867年)、弥太郎は長崎にある藩の出先機関(土佐商会)の主任者となる。外国人との対外交易が主な仕事だった。また、坂本龍馬の海援隊(土佐藩付属の海運組織で海軍にもなる)の会計も任され、龍馬と意気投合してその生き方に大いに啓発された。[三菱、国内最大の海運業者に発展]明治維新後、弥太郎は九十九(つくも)商会を創設して海運(汽船回漕)業に乗り出したが、廃藩置県で名実ともに藩から独立、社名を三菱と改めた。弥太郎は社員たちに「三菱商会は、国内に大きな力を持つ外国の汽船会社を追い払い、大海に進出して世界中に航路を開く」と大きな夢を語った。そんな三菱商会が飛躍するきっかけは、台湾出兵であった。外国の汽船会社は中立を唱えて日本兵や兵糧の輸送を断った。また国内の海運業者も、リスクを嫌って引き受けなかった。ところが、弥太郎だけが政府の依頼を快諾したのだ。弥太郎は「人間は一生のうち、必ず一度は千載一遇の好機に遭遇するものである。しかし凡人はこれを捕らえずして逸してしまう。(略)これを捕捉するには、透徹明敏の識見と、周密なる注意と、豪邁なる胆力が必要である」(『岩崎彌太郎伝』)と語っているが、まさに台湾出兵は、三菱にとって千載一遇のチャンスだと判断したのであろう。 三菱は期待通りの働きをし、政府の最大実力者・大久保利通は弥太郎に信認を寄せ、西南戦争の輸送も一任した。そして、その後は政府の絶大な保護と援助が与えられ、三菱はたちまちにして国内最大の海運業者となったのである。 [三菱つぶし]ところが大久保の死後、頼みとしていた参議(閣僚)の大隈重信が明治14年の政変で失脚してしまう。三菱は大隈に資金を提供しているとして薩長閥に憎まれ、政府は三菱つぶしを開始する。政府は三井などの資本で共同運輸をつくり、三菱と競争をさせたのだ。しかし弥太郎は屈せず、激しい船の運賃・スピード競争により、共倒れの危険が出てきた。驚いた政府は、三菱に対して共同運輸との合併を進めたが、弥太郎は頑として応じなかった。しかをしこの戦いの最中、弥太郎は胃癌のために死没してしまった。まだ50歳だった。[後をついた弟の弥之助]後を継いだのは弟の弥之助だった。弥之助は不毛な戦いをやめ、三菱から海運部門を切り離して共同運輸と合併させることに同意した。こうして弥太郎が1代で造り上げた海運事業は岩崎家の手を離れたが、弥之助は鉱山、造船、地所、銀行など、多角経営によって発展の礎を築き、その後、三菱は大財閥へと成り上がっていったのである。 <「五代友厚」の生涯 (1836/2/12-1885/9/25) >五代 友厚(ごだい ともあつ)は、江戸時代末期から明治時代中期にかけての日本の武士(薩摩藩士)、実業家。薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現:鹿児島市長田町)生まれ。大阪経済界の重鎮の一人。大阪市の本邸跡は大阪科学技術館・日本銀行大阪支店になっている。当時、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図った。贈正五位、勲四等。 [開国論者としての五代]安政元年(1854年)、ペリーが浦賀沖に来航し天下は騒然となる。その折、五代は「男児志を立てるは、まさにこのときにあり」と奮いたったと記されてある。安政2年(1855年)、藩の郡方書役助(当時の農政を司る役所の書記官の補助)となる。兄が鎖国論者にも関わらず、開国論者の立場に立つ。その翌年、長崎海軍伝習所へ藩伝習生として派遣され、オランダ士官から航海術を学ぶ。 文久2年(1862年)、懇願するも渡航を拒まれた友厚は水夫として幕府艦千歳丸に乗船し上海に渡航(この時高杉晋作と出会う)、藩のために汽船購入の契約をする。文久3年(1863年)7月、生麦事件によって発生した薩英戦争では、3隻の藩船ごと松木洪庵(寺島宗則)と共にイギリス海軍の捕虜となるが、通弁の清水卯三郎のはからいにより、横浜において、小舟にてイギリス艦を脱出、江戸に入る。 国元ではイギリスの捕虜となったことが悪評となったため薩摩に帰国できず、しばらく潜伏生活をし、長崎で出会った同じ薩摩藩士の野村盛秀の取り成しによって帰国を許された。[英国への経験、パリ万博]慶応元年(1865年)、藩命により寺島宗則・森有礼らとともに薩摩藩遣英使節団として英国に出発し、さらに欧州各地を巡歴。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン構内に設置されている記念碑は、当時関わった一人として「五代友厚」の名前を刻んでいる。ベルギーのブリュッセルでモンブランと貿易商社設立契約に調印、これは薩摩藩財政に大きく寄与するものとみなされたが、諸要因により失敗に終わる。しかし、この時の経験がのちの五代の経営手腕に大きな影響を与えることになる。 [薩摩藩の会計係と討幕運動]慶応2年(1866年)に帰国。御小納戸奉公格に昇進し薩摩藩の商事を一手に握る会計係に就任。長崎のグラバーと合弁で長崎小菅にドックを開設するなど実業家の手腕を発揮し始めた。ここでいうドックというのは俗にそろばんドックと呼ばれるもので現存している。慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発し五代は西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕に活躍した。 [大阪との関り、官僚を退官、実業家へ]その結果、明治元年(1868年)に明治新政府の参与職外国事務掛となる。外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、堺事件、イギリス公使パークス襲撃事件などの外交処理にあたった。また、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致。初代大阪税関長となり、大阪税関史の幕を開ける。 明治2年(1869年)の退官後、本木昌造の協力により英和辞書を刊行、また硬貨の信用を高めるために金銀分析所を設立。紡績業・鉱山業(初めて鉱山経営した奈良県吉野郡天川郷和田村天和銅山や、福島県半田銀山など)・製塩業・製藍業(朝陽館)などの発展に尽力する。薩長藩閥政府との結びつきが強く、明治8年(1875年)に大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが料亭に集って意見の交換を行った「大阪会議」や、黒田清隆が批判を浴びた開拓使官有物払下げ事件(参照:明治十四年の政変)にも関わり、政商といわれた。 他にも、大阪財界人、田中市兵衛(第四十二国立銀行)らとともに 大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)、大阪商業講習所(現・大阪市立大学)、大阪製銅、関西貿易社、共同運輸会社、神戸桟橋、大阪商船、阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)などを設立した。 鹿児島市泉町(泉公園内)、大阪市中央区の大阪証券取引所前、大阪商工会議所前には銅像が建立されている。[鉱山王として]五代友厚が明治政府に先駆け鉱脈探しを加藤正矩に命じた神子畑鉱山。五代は幕末ころより富国策として鉱山業を掲げ、明治政府の銀鉱脈発見に先駆け、長く放置された鉱山から銀、銅などを採り出す製錬技術を海外から導入し、初めて【奈良県吉野郡天川郷】最初に手掛け多額の利益を得て後の資金源となった奈良県吉野郡天川村西部地区和田村・栃尾村の天和鉱山(てんなこうざん)や、福島県の半田銀山などを多くの鉱山の再開発を手掛けていた。2015年9月には、兵庫県朝来市の神子畑鉱山の鉱脈探しを指示していたことが判明。当時、地元の郷土史家の山内順治(1881年-1969年)の手記には、幕末から明治初期にかけ五代が神子畑に採鉱跡があるのを知り、部下の加藤正矩に探鉱を命じたと記されていた。神子畑の主要鉱脈を擁する加盛山の名は加藤正矩にちなんだとされる。その後、1878年(明治11年)には、明治政府により、朝来市の生野鉱山の周辺調査に伴い鉱脈を再発見、鉱山として復興された。[大阪商法会議所設立]明治初期、維新変動の波を受け、大阪経済が低迷する。銀主体の商取引の廃止や藩債の整理による富豪や両替商の資産消失が主な原因であった。この事態を打開し大阪経済の復活を願って財界指導者の有志15名が明治11年(1878年)7月に大阪商法会議所設立の嘆願書を大阪政府に提出。これが今日の大阪商工会議所の礎となる。設立背景は、国内に事件がおこると常にドサクサに紛れ悪辣な金儲けをする者が増えるのを防ぐため、また互いを助け合うために実業家たちの一致団結による協力と意見交換の場が必要とする考えに起因する。嘆願書の集め方は五代らしい強引な勧誘で、決め文句は「万が一、後に会へ加盟を申し込んでも拒絶、もしくは巨額の入会費を徴収する」で、結果的に60人の同志を獲得した。初代会頭は五代友厚。大阪商法会議所を設立した目的は大阪の実業家の相互扶助によって新時代の潮流に棹差し大阪商人の伝統である信用第一主義に則り以って自己の利益を増すと同時に大阪の繁栄を軸に国富の増強に資するといった教育勅語的な趣旨に基づいた遠大な意図だった。役員の構成は、五代を初め計11人が創立委員となり鴻池善右衛門、三井元之助(後の三井財閥)、広瀬宰平(後の初代住友総理人)、田中市兵衛(第四十二国立銀行)らの150株を筆頭に皆で立ち上げた。五代は初代会頭となった。[五代と大阪との関り] 友厚の大阪との関わりは、明治の新政府成立後に始まった。新政府が諸外国との交渉窓口として外国事務掛を大阪に設け、五代を任命したのが起点である。この頃、大阪では日本人の無知につけこんだ外国商人の不正行為が後を絶たなかった。条約違反、購入料金の不払い、雇い人への賃金不払い等は日常茶飯事で、領事館の家賃不払いまでもが平気で行われていた。五代はこのような不正に対しては断固たる態度で臨み、一切の妥協を拒んだ。次第に五代が駐在する大阪港では外国船の荷物検査があまりにも厳しいという抗議が政府まで届き、政府が取り締まり緩和勧告を出すほどの騒動に発展した。しかし、五代は外国商人の要求の真意が荷物検査が行われることによる不満(脱税や不正行為ができなくなる為)であることを見抜いていたので全く動じなかった。 商売人にとって「信用」は最も大切であり、不正を容認することは信用を失い、不正を糾弾することでその信用を勝ち取ろうとする五代の信念があった。五代は商人である前に「正義」「大儀」を重んじる一人の武士であり、不正を見逃すことも国益を損なうことも出来ない性分だった。 ~あとがき~今年の大河ドラマ『青天を衝く』を見ていて感じたのは、明治維新以降の政治家ではなく、実業家として名を成した人物が今回の「渋沢栄一」に加えて「岩崎弥太郎」「五代友厚」が頭に浮かびました。わたしの中では「明治維新三大実業家」ではないかと思い、3人の時代、出会い、事業についての考え方、功績、年譜などを調べてみたい気持ちになりました。偉大な功績のある3人ですので、調べるうちに資料が豊富で言い尽くすことが難しく、どうまとめたらよいのか壁につきあたりました。そこで、個々の実業家について上手にまとめてある文献・資料を探しだしそのまま紹介(転用)させていただくことにしました。本当は自分の中で自分なりの言葉も含めて記述できればと思いましたが軽々なものになってしまうのは失礼なことに当たりますので紹介を中心にさせていただきました。自分なりに3人の年譜を比較できるようにまとめたのが唯一の付加価値ですが、お時間がありましたらご一読いただければ幸いです。興味の一つは接点があるのかですが、渋沢栄一と五代友厚はパリ万博で、渋沢栄一と岩崎弥太郎は明治14,15年のアンチ三菱の共同運輸と郵便汽船三菱会社での会談があったり、明治15年7月の五代友厚の「共同運輸会社設立」の動きの中で、三人三様の絡みがあったものと推測されます。いずれにしても、偉大な3人の生涯については学びきれない様々なものがあふれています。以上
2021.03.24
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前回のブログで、岩崎弥太郎は1835年(天保5年1月生)、五代友厚は1836年(天保6年2月生)、渋沢栄一は1840年(天保11年3月生)で、渋沢栄一は岩崎弥太郎より5歳年下となります。(西暦と和暦がずれていますがそのまま記載しました)。 若いころの3人のプロフィールを調べてみました。「渋沢」は現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれた。家業の畑作、藍玉の製造販売、養蚕を手伝う一方、幼いころから父に学問の手ほどきを受け、従兄弟の尾高惇忠から本格的に論語を学んでいる。「岩崎」は土佐藩のもともと郷士の出身だったが、曽祖父が郷士の資格をうり、地下浪人となっていた父岩崎弥次郎の長男として誕生した。若いころから学び、江戸の昌平坂学問所の見山塾に入塾している。その後1855年に父親の投獄に抗議したかどで投獄され、獄中で同房の商人から算術や商法を学んだことが、後に商業の道に進む機縁になったと言われている。「五代」は家柄もよく、薩摩藩でも小松清廉、西郷隆盛、大久保利通などの要人とも知り合いで、長州藩の高杉晋作、土佐藩浪人坂本龍馬とも仲が良かったようである。また、特筆すべきは「英語力」であった。城代家老の小松清廉には重用された。[1835年~1866年]1864年(元治1年)に渋沢は「一橋慶喜」につかえる。岩崎は10代後半から20代前半まで学びに務めていた。同年、土佐藩開誠館へ派遣される。五代は1863年寺島宗徳とともにイギリス海軍に捕縛され、横浜に護送されている。また1865年グラバー商会が手配した蒸気船で欧州に向けて旅立、同年9月フランスへ。幕府と薩摩が万博に参加し対立。いよいよ、三人三様で歴史の舞台に登場し始める前夜という感じがします。 [1867年~1885年]1867年(慶応3年)は大政奉還・王政復古の年であるが、渋沢(27才)は徳川昭武に従ってフランスへ出立(パリ万博使節団)、岩崎は長崎開誠館長崎商会の主任となる。グラバーなどの世界の商人を相手に経済官僚として奮戦。海援隊の事業を支える。五代は小松、グラバーなどと小菅修船場建設、いろは丸沈没事故の土佐藩と紀州藩の仲介、幕府が崩壊する中で、御納戸奉公格という商事面を担う。 1968年渋沢はフランスから帰国、翌69年には静岡藩に「商法会所」を設立、その後明治政府に仕え、「民部省租税正」、「民部省改正掛掛長」を兼ねる。岩崎は開誠館大阪出張所へ異動、九十九商会開設。土佐藩の権少参事に昇格。五代は会計官権判事として横浜に転勤を命じられるが、2か月で退官し下野する。 1871年廃藩置県、渋沢は前年富岡製糸場設置主任となっている。主に大蔵官僚として活躍したが、1873年に大蔵省を辞め、第一国立銀行開業、総監役となり、ここから実業界での活躍が始まっていく。岩崎は71年大阪の土佐藩邸の責任者となる。73年には九十九商会を三川商会に社名変更し、その後三菱商会となる。五代は大阪での経済活動を積極的に始める。71年までに大阪通商会社、為替会社の設立、大阪活版所の創立、造幣寮(現大阪造幣局)を竣工など進めた。73年には鉱山事業手がけていく。以降はざっくりとした記述で申し訳ありませんが、渋沢は東京を中心とした実業活動、実業界のリーダーとして活躍。また東京府養育院などの福祉事業にも手掛けており単なる実業家というよりも、あるべき国の理念をもちそのための実業での活動が見て取れます。岩崎は1874年の台湾出兵の軍事輸送を受命、三菱蒸気船会社に改名、13隻の大型船を運航することになり大きく発展していく。1877年の西南戦争でも社船徴用を命じられ、国家の信頼を得るとともに三菱の一大発展の財政的基盤を作ったと言われている。よく言われることだが、政治とのつながりの強い「政商」として大きく発展をしていくのである。 五代は政府の要人の要請にもかかわらず、大阪の経済基盤の確立、発展に向けて活躍していく。78年大阪株式取引所の設立、大阪商法会議所設立、初代会長、教育面でも大阪商業講習所(現、大阪市立大学)創設など大阪の実業界、教育面でもその活躍は大きいものがあった。 その後の3者のなかでのからみは、1882年、渋沢と岩崎の日本経済を代表する実業家が対峙することになる。まったく異なる経営信念をもった二人の間で、共同運輸会社と郵便汽船三菱会社の戦いが始まった。歴史年表をみると共同運輸会社は82年7月に五代の手で設立されているが、その辺のの細かな動きは私にはわかりませんが共倒れを危惧した政府の仲介で両社は合併を決定、明治18年に「日本郵船」が発足する。[1886年~1931年]「渋沢」に比べて「岩崎」「五代」50歳前後で早逝されている。二人の実業界の偉人がもう少し長生きできたらもっと社会に貢献されていたこと思うと、日本にとって大変残念なことだと思います。以下は渋沢栄一の晩年までの功績です。何か、人物のスケールの大きさを実感します。※次回③は、渋沢、岩崎、五代の生涯についてちょっと詳しくご紹介できればと考えています。 以上
2021.03.20
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2021年(令和3年)の大河ドラマは『青天を衝け』です。こんど1万円札の肖像になる「渋沢栄一翁」の物語で、調べれば調べるほど「渋沢栄一」は明治の実業家として素晴らしい業績を残された先人ですが、同じく大河ドラマや朝ドラで話題になった「岩崎弥太郎」「五代友厚」も実業家として素晴らしい業績を残された偉人で、同時代の「実業家」としての三大偉人を是非調べてみたいと思いました。私自身は歴史の素人でありますので、インターネットで関連資料を調べ、3人の偉人が少しでも見えるような形で編集してみました。利用した文章、写真はそのまま転用・紹介をさせていただいております。自身としては大変拙いもので恐縮ですが「3人の偉人の対比年表」を作成し掲載いたします(第2回)。◎出典:渋沢栄一、岩崎弥太郎 nippon.comhttps://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06903/◎出典:渋沢栄一 Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80渋沢栄一 記念財団https://www.shibusawa.or.jp/eiichi/eiichi.html◎出典 岩崎弥太郎 三菱グループhttps://www.mitsubishi.com/ja/profile/history/series/yataro/岩崎弥太郎 Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E5%BC%A5%E5%A4%AA%E9%83%8E◎出典:五代友厚 Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BB%A3%E5%8F%8B%E5%8E%9A<3人の時代を調べると>岩崎弥太郎(1835/1/9-1885/2/7) 「土佐藩」武士(地下浪人)五代友厚(1836/2/12-1885/9/25) 「薩摩藩」武士渋沢栄一 (1840/3/16-1931/11/11) 「農家→幕閣」 3人の中では、渋沢栄一は一番年下になります。岩崎、五代が武士出身ですが渋沢は庶民(農民)の出身でした。<その時代背景は・・・>江戸時代、武士が庶民(農民、職人、商人)を支配してきたが、新政府は、国民はすべて平等だという政策(四民平等)を進めた。これにより、支配者の武士は苗字帯刀や切り捨て御免といった特権を失ったが、廃藩置県後も士族(元武士)には家禄(給与)が支給されていた。しかもその額は国家財政の30%を占めたので、明治9年(1876年)、ついに政府は金禄公債証書(金券)を与えて禄制を廃止したのである(秩禄処分)。この証書の金額だけで生活するのは不可能だったので、多くの士族が証書を元手に商売を始めたが、ほとんどが失敗して落ちぶれてしまう(士族の商法)。このため政府に不満を持った士族の中には、板垣退助らの自由民権運動に参加する者が増えていった。国会の開設や憲法の制定、言論・集会の自由を求める政治運動だ。すると、当選者の半数以上を平民が占めたのである。さらに明治後期になると、農民や職人など平民出身の閣僚が登場するようになった。このように、武士に独占されていた政治は、明治維新を機に激変したのである。教育がすべて平民の台頭は、政界だけでなく経済界、官界、教育界など、あらゆる分野で見られるようになった。誰でも能力さえあれば、出世できる世の中になったからだ。特にそうした希望を明治の青年たちに与えたのは、福沢諭吉だった。諭吉は言う。「天は人の上に人を造らず。人の下に人を造らずと言えり」と。(福沢諭吉翁)なのにどうして貧富の差や地位の差が生じるのか。それは、学問をしたか、しないかの差だと明言し、生まれながらの貴賎貧富の別などなく、「ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり」(『学問ノスゝメ』)と断言した。この言葉は人々に強い感銘を与え、『学問ノスゝメ』の売り上げ累計は300万部となり、貸本や写本によってさらに多くの人びとに読まれ、絶大な影響を与えることになったのである。<3人の登場する大河ドラマ等>[渋沢栄一]NHK大河ドラマ「青天を衝け」大佛次郎『激流 渋沢栄一の若き日』 未知谷(新版)、2009年。朝日文庫、2021年城山三郎『雄気堂々』 新潮文庫(上下)、改版2003年南條範夫『幕府 パリで戦う』 光文社文庫、1994年童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』 新版・集英社文庫、2019年津本陽『小説 渋沢栄一』 新版・幻冬舎文庫(全2巻)、2007年山田克郎『渋沢栄一 財界のフロンティア』新装復刊・春陽堂書店、2019年[岩崎弥太郎]司馬遼太郎『竜馬がゆく』 NHK大河ドラマ「竜馬がゆく」(1968年、NHK、演者:中尾彬)NHK大河ドラマ「龍馬伝」(2010年、NHK、演者:香川照之) 弥太郎の視点から龍馬を描くというコンセプトで、作品内では幼少期より弥太郎が龍馬をライバル視している設定。南條範夫『暁の群像』村上元三『岩崎弥太郎』竜馬がゆく(1982年、テレビ東京12時間超ワイドドラマ、演者:秋野太作)お〜い!竜馬(声:中尾隆聖)映画『商魂一代 天下の暴れん坊』(1970年、東宝、監督・丸山誠治、主演・中村錦之助)[1]映画『天外者』(2020年12月公開、ギグリーボックス、監督・田中光敏、演者:西川貴教)[五代友厚]『あさが来た』2015年後期のNHK連続テレビ小説『青天を衝け』2021年の大河ドラマ。五代友厚(才助)が劇中に登場(演:ディーン・フジオカ)『天外者』五代友厚プロジェクトの一環として2019年に制作され、2020年12月11日に公開された、五代の幕末時代を描いた映画作品(演:三浦春馬)。前述の五代塾の面々も、出資や制作等に関わっている。今回掲載の≪明治維新の実業家「渋沢栄一、岩崎弥太郎、五代友厚」を調べてみた》は3人の対比年譜などもあり、長くなりますので3回に分けて掲載させていただくことにしました。次回は「年譜」と「渋沢栄一翁」について、第3回は「岩崎弥太郎翁」「五代友厚翁」とあとがきを予定しております。
2021.03.16
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3月になり、確実に温度も高くなり、春がそこまで来ていると実感する日々です。先日も早朝のウオーキングで、まだまだ未熟と思われる「ウグイス」の鳴き声を耳にしました。ウグイスの鳴き声を聞くと、「もう春だなあ」と感じます。 ところで、わたしには身近なところにお住いの知人がいて、この方は「野菜つくりの達人」で尊敬している方ですが、その方が投稿されている「ブログ」をいつも拝見しています。内容は①野菜の準備時期・手順、②自分のチカラでは難しい野菜の育て方などをブログを拝見し勉強させていただいています。 <秋・冬物野菜へのとりくみ>今年は冬物野菜として「ミズナ」「ほうれん草」「春菊」「ラディッシュ」「チマサンチュ」を種から育てましたがこれらが、思いのほかうまくできて満足しています。 (よくできた「ミズナ」と「サンチュ」)とにかく、自宅の狭い敷地の中でのミニミニ菜園ですので、何回も収穫出来て楽しめる葉物野菜を育てていました。まだ収穫はこれからですが、スナップエンドウ、キヌサヤを3カ所に植えていますがこれらも最近の気候のせいで、元気に花を咲かせ始めています。小さな紫や白い花は野菜とはいえ美しい花です。(一斉に花を咲かせた「スナップエンドウ」) <春・夏野菜への始動>これからの、春・夏物野菜は冬物野菜を収穫した後に植えますが、3/1にポットに種をまいて発芽を待っています。種類は「ラディッシュ」「ミニトマト(レッドオーレ)」「モロヘイヤ」「クレソン」「ピーマン」です。 とにかく、菜園のスペースが細切れで、数が少ないので「連作障害」が心配ですが、連作の被害を多少抑えることができる肥料をまいています。 日曜日の8時からNHKTV教育『趣味の園芸』があります。今回は「菜園計画」をし、野菜の選択や春夏野菜と秋冬野菜の紹介がありました。 <連作障害を避けるために>私がそれに加えて、科、属を調べてまとめてみました。連作障害を避けるためには同じ科の野菜を続けない方が、良いですね。(野菜の「科」と「属」) 以上
2021.03.12
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皆さんは既にご承知のことと思いますが、Wi-Fi(無線LAN)規格の周波数帯に2つあることを私は知りませんでした。5GHz帯と2.4GHz帯です。Wi-FiのアクセスポイントにA(5GHz帯)や、G(2.4GHz帯)のアルファベットかが入っているものがあります(調べると、入っていないアクセスポイントもあります)。それぞれメリット、デメリットがありそうです。購入した「スマーコントローラー」の設定していてはじめてわかりました。ICTの世界は本当に広く、奥が深いのでわからないことばかりです。年ですので、覚えは悪いので、そのつど勉強しながらとなりますので時間はかかりますが、新しいことなので、諦めず分かるまで理解しようと努めています。「あせらず、くさらず、おこたらず」の心境でやっています。 <今回購入の「スマートコントローラー」のスペック> <Wi-Fi(無線LAN)規格 最大通信速度 周波数帯>IEEE 802.11a 54Mbps 5GHzIEEE 802.11b 11Mbps 2.4GHzIEEE 802.11g 54Mbps 2.4GHzIEEE 802.11n 300Mbps 2.4GHz/5GHzIEEE 802.11ac 6.9Gbps 5GHz<Wi-Fi規格の周波数帯のメリット、デメリット>(出典:エレコム「Wi-Fi(無線LAN)の2.4GHzと5GHzの違いとは?メリットとデメリットを解説」https://www2.elecom.co.jp/network/wireless-lan/column/wifi_column/00062/) [2.4GHz帯]2.4GHz帯は周波数が低く、電波が遠方まで届きやすい点がメリットです。また、壁や床などの障害物にも強いため、隣の部屋や階上の部屋にも電波を届けることができます。ただし、2.4GHz帯は、Wi-Fiだけでなく、家電やIHクッキングヒーター、Bluetoothなど、ほかの機器も利用する周波数帯です。例えば2.4GHzのWi-Fiルーターの近くに電子レンジがあれば、お互いの電波が干渉し合い、Wi-Fi(無線LAN)の電波が弱まります。これにより、ネット通信の速度低下や切断が起きてしまうおそれがあります。 [5GHz帯] 5GHz帯のメリットは、Wi-Fi専用の電波である点です。そのため、ほかの家電が出す電波と干渉せず、安定的に通信を行うことができます。一方で、5GHzは壁などの障害物があると弱まりやすい点はデメリットとなります。もし、障害物により通信速度が弱まった場合は、家の中で電波が届きやすい場所を探してルーターを配置するなどの工夫が必要です。 購入した「スマートコントローラー」は2.4GHz帯でないと利用できない仕様でした。大したことではありませんが、ちょっとした発見でした。 「スマートコントローラー」の設定がまだ終わっていませんので、次回は「IoT」とは、「スマートコントローラー」の設定、使い勝手などをまとめてみたいと思っています。以上
2021.03.08
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わたしの住む静岡県磐田市(サッカーのジュビロ磐田の本拠地があります)には、回転ずしのお店として、①かっぱ寿司、②はま寿司、③スシローがあり、浜松の和田の自動車街には④くら寿司があります。結構、回転ずしの大手が店を出しています。小さなころから両親が「お寿司」が大好物でしたので、わたしもわたしの姉妹もお寿司が大好物でしたね。 <回転ずしと予約>今日はwifeがお休みという事もあり、一緒に回転ずしに「ランチ」に行くことにしました。普段は「カッパ寿司」ですが、今日はちょっと気張って「スシロー」という選択です。今回はスマホのアプリも既に入れてあるので予約を入れてみました。この店は「磐田警察署」の通りを隔てた道路沿いの店で、結構人気のあるお店です。平日ですのであまり混雑はしていないと思いましたが、地元の方の人気のあるお店でもあるので念のために予約をしてみました。(スシローのアプリ、店の予約と持ち帰り注文もできます) 既に登録をしてあり、一度予約をして利用した経験がありましたので、予約は簡単にできました。まずアプリを立ち上げて、「来店予約」をクリックし、「店」を選択し、「後から行く(予約)」をクリックし、希望時間を入力します。今回は11:45を選択しました。予約時間は15分間隔となっています。予約ができると「予約番号」が付与されます。(後から行く(予約)を選ぶ) <時間通り、スシローに行ってみたら>今日は二人で、スシローを11:45で予約し行ってきましたが、予約は大正解でその時間には20人以上の人たちで待ち時間が15分以上でした。今回は3/1から3/28まで「Paypay」で支払うと上限は1000円までですが、20%引きとなっています。行政とタイアップして「Paypay」は飲食店の割引を全国的にやっていますが、通常は100円で0.5円のポイント付与ですがときどきこのような特別な割引があるので注意しています。最近は、携帯料金がらみの戦いが激化するのが目が離せませんが、スマホ料金だけでなく「スマホ決済」「通販」などの面でも競争が激しくなっているようです。到着すると、モニター画面で予約のチェックインが必要となります。「予約番号」を入力して「番号」を呼ばれるのを待ちます。 私達は予約2番目すぐテーブルに案内されました。 平日ではありますが、昼前はやはり混雑するようですのでできたら「予約」をお勧めします。味は「はまち」が特にコリコリと歯ごたえと脂がのっておりおいしかったですが、にぎりも、えび天プラののっているお寿司も最近のお気に入りです。Paypayが20%バッグをしていて、二人で合計「税込2321円」の20%464円が4/3にバックされます。会計カウンターも横に「自動精算機」があり、そこではじめてその精算をやってみました。バーコードリーダーで読むのにてこずりました。 <久しぶりのコストコ>その後、久しぶりに浜松のコストコに行きました。コストコは平日の午後なので結構すいていました。奮発して「ステーキ肉」と大きな「ほっけの干物」など仕入れました。帰りは、wifeのお勧めの「容器に入ったソフトクリ―ム」を車の中で食べて戻ってきました。結構、楽しい食とショッピングの1日となりました。以上
2021.03.05
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先日、息子や娘たちとの家庭を結びオンライン食事会を話題の「Zoom」でやってみました。オンライン食事会というと、ちょっと大げさですが「スマホ」の「Zoom」アプリをつかって、各家庭とオンラインで結んでお互いの映像を見ながら食事をしただけのことですが。「Zoom」とはパソコンやスマートフォン、タブレットなどを通して複数人でのビデオ通話・会議を可能にするサービスで、テレワークなどで自宅にいながら社内外のミーティングや商談などを実現できるものです。(Zoomに関するスクリーンショット画像)<グループトークやオンライン食事会などに本当に便利です>「LINE」でもビデオでのグループトークもできますが、「Zoom」は、「LINE」のグループトーク機能に加えていろいろなことができるようです。①パソコン、タブレット、スマホで可能②ビデオ映像をみての話しができる(「LINE」と同様)③録音、画面共有(プレゼンテーションができる)などを始め下記のことができます。 〇ミーティングの開催、参加〇録画・録音機能〇画面共有〇カレンダー機能〇ミーティング内でのチャット機能〇ホワイトボード機能〇遠隔操作機能 今考えているのは「Zoom」を使った「定期的な家族のみんなでのオンライン飲み会やおしゃべり」などをできるような相互の仕組みを作りたいと思いました。「LINE」の機能を数段アップしたソフト・アプリなのに、料金がかかると思ったら、40分は無料、特別の機器はいらないので、スマホとパソコン間でもやってみました。近くで試すと、ハウリングが起こりましたが、なんとかつながりましたぜひ、みなさんも「Zoom」の「アプリ」を入れて、「サインアップ」し、まずは親しい人等との「Zoom環境」を作り利用してみたらいかがでしょうか。以上
2021.03.01
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