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週が明けたらヨコハマはいきなり秋の様相となった。昨日、一昨日あたりは窓を開けると涼しいという感覚だったが、今日は窓を開けると肌寒かった。半袖シャツではいられない状況なので、あわてて長袖シャツを引っ張り出した。そういえば今年は、セミがうるさいと感じたのが7月20日頃からだった。ウチでは4種類のセミの鳴き声を確認できるのだが、週明けからはもう静かなものなのでセミの季節はわずか1か月程度しかなかったようだ。例年と比べてかなり短い夏だったという印象だ。実際この時期、深夜・早朝にはマンションの外廊下で弱ったセミなどをよく見かけていたのに、今年は2回しか見ていない。また、弱ったカナブンも少なかったし弱ったクワガタは全く見なかった。日本の気候が変わってしまったせいか、ウチの周辺の自然環境も悪化しているのかもしれない。昼中のセミのかわりに、夜のスズムシなどの合唱はすでに先週から始まっている。今夜などはリーンリーンとかなりうるさい状況だが、季節を知らせる虫たちにはいなくなって欲しくないものだ。
2015/08/26
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先日、7年程使っていたガラケーを新しい機種に交換した。まず、色々考えてみてもスマホに換える必要性は全く感じられなかった。家にある固定電話(光)・PCというセットを捨てる事はないので、メールやインターネットはこれまでどおりだ。仕事関係ではメールではなく電話で話す必要があるし、メールも大抵ファイルを送る必要が生じてしまうのでスマホの出番はない。必要なら出先にモバイルPCを持っていくので、多少邪魔でも大きな不便はない。また、ガラケーにはないスマホの機能というのは、あれば便利だったり楽しいものかもしれないが別になくても良いものばかりだ。そんなものに月何千円~1万円も費やすのは、無駄としか思えない。感覚的にはケータイに費やすのは月3000円程度だろう。これまで使っていた東芝製の911Tに大きな不満はなかったが、さすがに古くなって電池交換の時期でもあり最近誤作動もあったことから多少不安を感じ始めていたところだった。そこでソフトバンクの「ガラケー無料交換プログラム」というのに乗っかって、最新のガラケーであるパナ製の401PM(↑)と交換してもらったという次第だ(事務手数料は必要)。ガラケーに求める条件は、そこそこのデジカメとして使えること、ワンセグが使えること、いざとなればメールやインターネットが使えることくらいだろう。401PM(COLOR LIFE 5)はこの条件を満たしていたし、ほとんど電池交換代だけで機械が新しくなって画面も大きくなるのなら文句はないと思ったのだ。ちなみに以前のホワトプランを通話し放題プランに変更したので、今後固定電話から電話することはなくなるのではないかと思っている。
2015/08/23
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「戦後70年」とは特別な意味があると思う。アメリカなどで戦後数十年も秘密にされてきた公文書、写真、映像の分析が一通り終わったという事もあるが、なにより多くの当事者たちの肉声を聞く最後のチャンスであると思われるからだ。ある程度の状況把握とともに当時目にしたものを記憶できるのは10歳前後からだと思う。1945年時点で10歳ならば今年で80歳、当時20歳であれば今年90歳である。少なくとも実際に戦闘に参加した人の話などは、10年後にはほとんど聞くことはできなくなっているだろう。それに気づいてから、6月に始まった「沖縄戦」関連の番組から意識的に録画するようになった。ドキュメンタリーを中心に40本以上にはなるだろう。そもそも70年前の1945年は、8月15日の終戦までに悲惨な出来事が続いている。特攻の本格化、東京大空襲、沖縄戦、広島・長崎への原爆投下、そして日本の敗戦だ。それぞれの出来事が「70年目」を迎えたということだ。恥ずかしながら、50歳代後半の今年になって初めて分かった事がたくさんある。兵士として戦争に参加した人たちは、負け戦が続いた辛い経験などから家族にも体験を話さない例が多いとは聞いていた。戦時中には命令だからと何とも思わなかった事が、戦後になって加害者としての後悔の念にさいなまれた兵士の例も聞く。しかし被害者の一般国民も、その後口を閉ざす事が多かったのだ。被爆者たちへの差別や偏見はその最たるものだろうが、自分だけ生き残った後悔、生き残るためにした事への後悔、地獄のような光景に対する恐怖など、様々な理由によって彼らの多くは老い先短いと悟るまで口を開かなかったのだ。文字通り思い出したくない記憶であり、人に話したくない記憶だったのだ。「沖縄戦」は本土決戦を少しでも遅らせるための捨石だったことは知っていたが、民間人の死者のうち最も多いのが11歳と12歳だったとは知らなかった。沖縄では1000人規模の15歳前後の少年兵部隊が実践配備され殆ど戦死した事も知らなかったし、同様の計画が日本全国で進められていたことも知らなかった。沖縄の少年たちは強制的に志願させられたものだが、敗戦間近には日本の徴兵年齢が15歳まで引き下げられていたとは思いもよらなかった。大学生の学徒出陣どころではなく、日本にとっては中学生も立派な兵力だった事に驚く。広島で「原爆」の犠牲になったのも、単に民間人ではなく中学生くらいの生徒たちが多かった事を知らなかった。具体的には最も多い死者は12歳と13歳だったという。いわゆる勤労奉仕として中心部に集められて何がしかの作業に従事していたのだ。ちなみに「東京大空襲」の死者のうち、最も多かったのは4歳未満の乳幼児だったという。そして死者全体の約4割が20歳未満で占められていたそうだ。男たちがほとんど戦地に行っている状況では犠牲になるのは女と子供。少し考えれば理解できそうな事ではあるが、困った事に具体的なデータを示されないとなかなか頭に入ってこないものだ。また黒沢明の「姿三四郎」を撮った三村明という名カメラマンが、アメリカの調査団の仕事として「原爆投下」数か月後の広島の姿をカラーフィルムに収めていたのは意外な事実だった。日本人には何十年も知らされる事がないはずの記録映画を、それでも独自の美意識を持って変わり果てた広島を撮影した名カメラマンの胸中は計り知れない。ただし彼の撮った貴重なフィルムの一部は、先日放送された広島で原爆投下後すぐに路面電車を走らせたという事実に基づくドラマの中にも何気なく挿入されていた。幸いにも現在では、彼のフィルムを日本で活かす事ができるようになっているのだ。ナチス・ドイツや日本の大本営によるプロパガンダは盲目的に戦争を続けるための常軌を逸したものだったが、アメリカのプロパガンダは予算遂行と議会対策という気味の悪い側面があった事も知らなかった。勢力拡大、資源確保、国力増強などという勇ましい言葉より事務的な分だけ不気味だ。何しろ当時の国家予算の6倍もの軍事費を戦争国債として民間からかき集めたために、アメリカの大統領は常にその成果を求められていたのだ。もちろん「原爆投下」も、単純な戦後の主導権争いではなくマンハッタン計画による成果として議会と国民に示さなくてはならなかったのだ。今なお多くのアメリカ人が言う「原爆=正しい行為または必要悪」という認識も、戦後すぐにアメリカで「ヒロシマ」というルポルタージュが世に出てしまった事に対するプロパガンダによって植えつけられたものだった。国の意思に逆らって「ヒロシマ(1946)」を書きアメリカで原爆の悲惨さを明らかにしたのはジョン・ハーシーというピューリツァ賞作家であるが、現在その孫は日本にも来て反核・反戦活動を行っている。また原爆投下を行ったトルーマン大統領の孫は、大人になってから原爆の悲惨さを知ることになり現在は核兵器廃絶運動に取り組んでいる。奇しくもアメリカで、異なる立場で原爆に関わった当事者の孫たちが反核に取り組んでいるというのは興味深い。日本は、ポツダム宣言の中に戦犯の処分について書かれていたため、戦争に関わる資料の多くを終戦直前に焼き捨ててしまった国である。大本営発表だけでなく、例えば「特攻」の成果資料に実際は2/10なのに10/10と記録されている国である。戦争経験者が自ら語る証言は非常に重い。そしてそれらを記録した映像の数々も非常に大切なものだと思っている。
2015/08/15
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昨日は暑かった。ヨコハマのウチの辺りでも34.4℃で猛暑日に近い気温だった。今日も昨日同様「高温注意報」がでており、起きてすぐの朝の8時頃には29℃で、お昼の今はすでに34℃を超えている。しかし昨日の暑さは全然違った。今日などは結構風が吹いているので、室内でも暑くないとは言えないがクーラーもかけていない。(ただし熱中症に用心しなくてはいけないので、昼食をたべてエネルギーがたまったらクーラーをかけることになるだろう。)これが昨日は風がほとんど通らず、とにかく室内の空気が熱く感じた。で、この夏初めて午前中(11時頃)からクーラーをかけざるをえなかった。太陽が照っている屋外に出ると今日も昨日同様にかなり暑い。しかし室内は、風の通り具合で体感温度や快適さはかなり違う。少なくとも風が通らない家に住むのは御免だ。そういえば昨日は約1年ぶりに歯医者さんへ行き、結局奥歯を1本抜くハメになった。幾つになっても歯医者さんは苦手だし、しばらくは抜いた跡がズキズキして最悪だった。昨日は厄日だったのだろう。
2015/08/02
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