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スペイン内戦は、第二共和政期のスペインで勃発した内戦です。 マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府と、フランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍とが争いました。 反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦が支援し、フランコをファシズム陣営のドイツ・イタリアが支持するなど、第二次世界大戦の前哨戦としての様相を呈しなした。 ”スペイン内戦-政治と人間の未完のドラマ”(2003年7月 講談社刊 川成 洋著)を読みました。 ファシズム台頭への不安、共産主義革命への期待の中、1936年にクーデターに端を発して勃発したスペイン内戦の一部始終を紹介しています。 川成 洋さんは1942年北海道生まれ、1966年に北海道大学文学部を卒業し、1969年東京都立大学英文学専攻大学院修士課程修了、ロンドン大学・ケンブリッジ大学客員研究員を経て、1977年より法政大学教授を務めました。 2003年に社会学博士号取得、2013年に定年となり名誉教授、専門は、スペイン現代史、現代英文学です。 1988年10月に、バルセロナで国際旅団の解散50周年を記念したイベントが聞かれました。 バルセロナ北部の公園の一隅に、12メートルの抽象的な像が建っています。 国際旅団の英雄的な戦いを記念する、ダビデとゴリアテの像です。 会場には、500席くらいの椅子が並べられ、参加者はおそらくその倍くらいでした。 まず、今は亡き共和国の指導者、国際旅団の義勇兵たちへの追悼の辞が述べられ、92歳のスペイン共産党議長ドロレス・イバルリの歓迎の辞が代読されました。 続いて、各国の国際旅団の代表者が力強く短い演説をしました。 最後に、バルセロナ市長パスカル・マラガルの手によって、記念碑の除幕が行なわれました。 第一次世界大戦後のスペインでは、右派と左派の対立が尖鋭化していた上、カタルーニャやバスクなどの地方自立の動きも加わり、政治的混乱が続いていました。 そのため、一時はプリモ・デ・リベーラによる軍事独裁政権も成立しました。 1931年に左派が選挙で勝利し、王制から共和制へと移行しスペイン第二共和政が成立しました。 しかし、1933年の総選挙では右派が勝利して政権を奪回するなど、左派と右派の対立が続きました。 1935年にコミンテルン第7回大会で人民戦線戦術が採択されると左派勢力の結束が深まり、1936年の総選挙で従来あらゆる政府に反対する立場から棄権を呼びかけていた無政府主義者達が自主投票に転換しました。 その結果、再び左派が勝利し、マヌエル・アサーニャを大統領、サンティアゴ・カサーレス・キローガを首相とする人民戦線政府が成立しました。 しかし、人民戦線も議会制民主主義を志向する穏健派と、社会主義・無政府主義革命を志向する強硬派が存在し、決して一枚岩ではありませんでした。 スペイン内戦は、スペイン陸軍の将軍グループがスペイン第二共和国政府に対してクーデターを起こしたことにより始まったスペイン国内の抗争でした。 内戦は1936年7月17日から1939年4月1日まで続き、スペイン国土を荒廃させ、共和国政府を打倒した反乱軍側の勝利で終結し、フランシスコ・フランコに率いられた独裁政治を樹立しました。 フランコ政権の政党ファランヘ党は自らの影響力を拡大し、フランコ政権下で完全なファシスト体制への転換を目指しました。 内戦中、政府側の共和国派の人民戦線軍はソビエト連邦とメキシコの支援を得、西欧諸国の個人から多くの義勇兵を得た一方、反乱軍側である民族独立主義派の国民戦線軍は隣国ポルトガルの支援だけでなく、イタリアとドイツからも支援を得ました。 この戦争は第二次世界大戦前夜の国際関係の緊張を高めました。 国家間の貪欲なエゴが展開される中、55ヵ国4万人におよぶ海外からの大量の義勇兵が苛酷極まる闘いに身を投じました。 国際旅団は、スペイン内戦の際にスペイン共和国政府により編成された外国人義勇兵による部隊です。 マドリード防衛戦、ハラマ川の戦いなどで、フランシスコ・フランコ率いる反乱軍や、同じく義勇軍を称していたドイツ軍・イタリア軍と戦いました。 部隊には延べ6万人の男女が参加し、うち1万人以上が戦死しました。 総参加者の内60-85%が各国の共産党員であり、また参加者の社会階層としては知識人や学生が20%、労働者が80%でした。 マルローやヘミングウェイなどの文化人が指導的立場にあたりました。 実態はコミンテルン主導の派遣軍であり、第二次世界大戦の前哨戦としての側面を強く象徴する集団でした。 1937年に入って戦況が悪化し、フランシスコ・フランコ率いる反乱軍がドイツ・イタリアに支援されて首都マドリードに迫ると、コミンテルンの決議により、外国人による部隊の編成が行われることとなりました。 この年、パブロ・ピカソがビスカヤ県ゲルニカの都市無差別爆撃を主題に絵画や壁画を描きました。 また、ジャック白井という日本人がブルネテの戦いで戦死しています。 途中から、共産党員以外は共和国政府による粛清の対象となり投獄されたり射殺されたりしたため、結果的に、共産党員だけが最後まで参加したことになります。 カタルーニャからは、冬のピレネーを越えてフランスに逃れた亡命者が数多く出ました。 その直後に第二次世界大戦が始まり、フランスがドイツによって占領されました。 第二次世界大戦後も、人民戦線派への弾圧は続きました。 共和国政府はスペイン共和国亡命政府として、メキシコ、次いでパリにて存続しました。 1975年のフランコの死後国王となったフアン・カルロス1世が独裁政治を受け継がず、1977年のスペイン国会総選挙で政治の民主化路線が決定づけられるまでその命脈を保ちました。 亡命政府は総選挙の結果を承認し、大統領ホセ・マルドナド・ゴンザレスが政府の解消を宣言し、フアン・カルロス1世はマドリードにて亡命政府元首承継のセレモニーを行ない、形式的に二つに分かれていたスペイン政府の統一が果たされました。1もう一つのオリンピック/2国際義勇軍部隊の誕生/3第五連隊の創設/4緒戦の推移/5スペイン不干渉委員会/6ピレネーを越えて/7革命の都市、バルセロナ/8国際旅団の誕生/9初陣-マドリード防衛戦/10後続の国際旅団の誕生/11ハラマ河の戦闘/12グアダラハラの戦闘/13ゲルニカ/14国際旅団の休息/15バルセロナの市街戦/16ブルネテの戦闘/17唯一の日本人義勇兵の戦死/18テルエルの攻防戦/19エブロ河の決戦/20国際旅団の解散、帰国または亡命/21スペイン内戦の終結/22第二次大戦と元義勇兵たち/23第二次大戦以降-アメリカとイギリスを中心にして
2016.05.17
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八百屋お七と聞くと、火の見櫓の場面を思い浮かべます。 櫓には太鼓が吊してあり、上にいるお七は瀬川菊之丞や中村芝翫などの歌舞伎の名女形です。 櫓の下では町火消の扮装をした男優が大見得を切っています。 ”お七火事の謎を解く”(2001年8月 教育出版社刊 黒木 喬昭編)を読みました。 わずかに残った資料を読み込んで、歌舞伎や浄瑠璃で有名なお七の実像に迫ろうとしています。 最初にお七について触れられたのは、戸田茂睡の”御当代記”です。 天和3年の記録に、”駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也”と記録されています。 作者不明の”天和笑委集”では、全13章のうち第11章から第13章で語られています。 馬場文耕の”近世江都著聞集”では、11巻46ページのなかで1巻目と2巻目の計8ページで扱われています。 歌舞伎や浄瑠璃で作られたお七の虚像を除去していくと、あとにはあいまい模糊たる深い霧しか残りません。 その霧を払い、真実を求める手掛りは300年以上も時を隔てた現在、ほとんど無きに等しいようです。 黒木 喬さんは1933年東京都生まれ、東京学芸大学卒業、江戸時代の災害史についての研究家です。 お七が生きた江戸という都市環境、そこに住む人々の生活を左右した政治、後世お七を有名にした大火など、側面からその時代を浮き彫りにしつつ、八百屋お七の謎に迫ってみたといいます。 元禄期の災害に言及しながら、江戸の防火対策の実態を紹介し、災害史としての役割も補完しています。 旧暦天和2年12月28日=新暦1683年1月25日に、駒込の大円寺から火が出て正午ごろから翌朝5時ごろまで延焼し続けた天和の大火が発生しました。 死者は最大3500名余と推定され、お七火事とも称されています。 しかし、八百屋お七はこの火事の被害者であり、この火事で八百屋お七は放火したわけではありません。 焼け出された江戸本郷の八百屋の一家は、檀那寺に避難しました。 避難先の生活の中で、八百屋の娘のお七は寺の小姓と恋仲になりました。 やがて店が再建され、お七一家はその寺を引き払いましたが、お七の寺小姓への想いは募るばかりでした。 そこで、もう一度火事が起きたらまた同じように寺にいけるかもしれない、と寺小姓に会いたい一心で自宅に放火しました。 火はすぐに消し止められぼやにとどまりましたが、お七は捕縛されて鈴ヶ森刑場で火炙りの刑に処せられたといいます。 1686年に発刊された井原西鶴の”好色五人女”では、”恋草からげし八百屋物語”として取り上げられています。 雪の降りしきるなかをお七が振袖をなびかせながら人形振りで櫓を登って行く場面は、安永ごろから演じられたらしいとのことです。 しかし、火事でもないのに櫓の太鼓を叩くのは当時は重罪でした。 幕府の規制がゆるんで、はじめて火災とお七の櫓登りが結びついた版画が現れました。 なかでも、大蘇芳年が1885年に製作した”松竹梅湯島掛額”は版画を二枚継ぎした傑作です。 降りかかる火の粉のなか、黒塗りの火の見櫓に、右下から左上に斜めに掛けられた竹梯子を振袖のお七が登って行きます。 下からは橙色の火焔が燃えあがり、紫もようの振袖や紅の下着がひるがえり、ふりむいた白い顔や、むき出しの脛が美しいです。 遠景には黒々とした町家の屋根があり、その下に広がる橙色が火事の大きさを暗示しています。 お七の足元の屋根には、刺子の防火衣を着た町火消二人が纏を持ってうしろ向きに立っています。 念のために纏を調べてみると、右からは組・わ組・か組でした。 ですが、芳年の筆は史実を踏まえながら、八百屋お七の放火事件を迫力ある画面に仕立てているように見えます。 芳年の絵は絵空事なのです。 八百屋お七の時代に、江戸市街の中心から離れた湯島に瓦屋根や土蔵造りの商家などは並んでいませんでしたし、町内に立派な火の見櫓も建ってはいませんでした。 町火消いろは組も存在していませんでした。 第一、お七が火の見櫓に登った事実もありません。 井原西鶴のお七の挿し絵の服装は、芳年の絵とはずいぶん違っています。 西鶴によって広く知られることになったお七の物語は、その後、浄瑠璃や歌舞伎などの芝居の題材となり、さらに後年、浮世絵、文楽、日本舞踊、小説、落語、映画、演劇、人形劇、漫画、歌謡曲など、さまざまな形で取り上げられました。 後年の作家は、さまざまな想像を働かせています。 八百屋お七の謎を解くには、当時の時代背景を知る必要があるといいます。1 江戸繁昌記2 天和の治3 天和の大火4 謎解きお七火事5 元禄の防火と火災付 天和の大火罹災大名表/江戸災害関係略年表/参考資料
2016.05.04
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