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いまや全国に55,000店舗以上を数えるコンビニは、どこへ行っても当たり前の存在です。 ”コンビニ外国人”(2018年5月 新潮社刊 芹澤 健介著)を読みました。 移民不可にもかかわらず世界第5位の外国人労働者流入国になった日本において、全国の大手コンビニで働く外国人店員を丹念に取材してその切ない現実をルポしています。 24時間オープンの売り場には弁当や飲み物がぎっしり陳列されているだけでなく、USBメモリから冠婚葬祭のネクタイに至るまで、突然の”しまった””忘れた”にもかなりの確率で対応してくれます。 コンビニはまさに現代日本人の生活に密着した近くて便利な社会インフラです。 コンパクトで高機能であるという点も、ある意味で日本を象徴するスタイルでしょう。 そんなコンビニにいま異変が起きています。 今回、コンビニで働く外国人や周辺の日本人を取材して、数多くのインタビューを試みました。 日本各地をまわり、ベトナムにも足を運びました。 とくに都心のコンビニではその変化が顕著です。 コンビニで働く外国人たちが目に見えて増えており、彼らは日本語はペラペラだし外国人スタッフ同士の会話も日本語です。 コンビニで働く外国人たちはなんでこんな増えたのでしょうか、また、ふだん何してる人たちでしょうか。 芹澤健介さんは1973年沖縄県生まれ、茨城県つくば市育ちで、横浜国立大学経済学部を卒業し、ライター、編集者、構成作家で、NHK国際放送の番組制作にも携わっています。 長年、日本在住の外国人の問題を取材してきました。 コンビニで働く外国人に最初に興味を待ったのは2012年頃のことだそうです。 当時住んでいた浅草の周辺では、コンビニでアルバイトをする中国人スタッフがぽつぽつと増えはじめていました。 東日本大震災以降、一時は外国人観光客の姿をほとんど見かけなくなった浅草で、また別の形で外国人を見かけるようになったと物珍しく感じていました。 それからわずか数年で状況は一変しました。 都心のコンビニでは外国人のいる風景が日常になりました。 外国人が増えたのはコンビニだけでなく、スーパーや飲食店でもよく見かけるようになりました。 普段はわれわれの目に触れることのない深夜の食品工場や、宅配便の集配センター、オリンピック会場の建設現場、地方の農家、さらには漁船の上でもいまや大勢の外国人が働いています。 日本で働く外国人は増加の一途をたどっているのです。 2016年には外国人労働者の数がついに100万人を超えました。 そのうちの4万人以上がコンビニでアルバイトをしています。 東京23区内の深夜帯に限って言えば、実感としては6~7割程度の店舗で外国人が働いています。 昼間の時間帯でもスタッフが全員外国人というケースも珍しくありません。 名札を見るだけでも、国際色豊かなことがわかります。 しかも、この傾向はいま急速に全国に広がりつつあります。 大阪、神戸、名古屋の栄、福岡の中洲・天神といった繁華街のコンビニでは、すでに外国人スタッフは珍しい存在ではなくなっています。 いまや、全国平均で見ると、スタッフ20人のうち1人は外国人という数字です。 こうした状況が広がる背景には、コンビニ業界が抱える深刻な問題があります。 全時間帯で常に人手が足りない店舗もあり、業界内では24時間営業を見直すべきという声も出始めています。 しかし、いまのところ大手各社が拡大路線を取り下げる気配はありません。 そうした拡大路線が続く一方で、人手不足にあえぐ現場では疲弊感が広がっています。 店の前にバイト募集の貼り紙を出して1年以上になっても、まったく反応がありません。 どうしてもシフトに穴が空いてしまう場合は、深夜でもオーナー自身が対応しているようです。 これまで外国人を雇ったことはありませんが、今後は考えていかないと店が回っていかない、といいます。 外国人スタッフは、コンビニのバイトは対面でお客さんと話す機会が多いので日本語の勉強にもなるとか、日本の文化を勉強するにもいい、といいます。 工場で働くより楽しいし効率的で、お店によっては廃棄のお弁当を食べていいから食費も浮きます。 日本人が敬遠するコンビニのアルバイトを、外国人が引き受けているようにも感じます。 現代の日本人は、外国人の労働力によって便利な生活を享受しているということになります。 いま、コンビニだけでなく日本の至る所で外国人が働いています。 スーパーや居酒屋、深夜の牛丼チェーン店で働く外国人もいます。 一般の日本人の目には触れない農場や工場、介護施設などで働いている外国人も大勢います。 好むと好まざるとにかかわらず、現実としてわたしたちの生活は彼らの労働力に依存しています。 コンビニで働く外国人は、おそらく、もっとも身近な外国人労働者であり、雇う側からすると。便利な労働力です。 彼らをさまざまな角度から見ていくことで、彼らが暮らしている社会、すなわち日本という国の実相や課題が自ずと浮かび上がってくるに違いありません。 世界に先駆けて本格的な人口減社会に突入し、あらゆる方面で縮小をはじめた国の、今後の可能性について考える一助にしてもらえれば幸いです。 約1年におよんだ取材の中で、じつに多くの外国人から話を聞きました。 出身国もさまざまで、改めて数えてみると12力国・地域にもなり、日本人を含めれば優に100名以上に取材協力していただきました。 当初の問題意識は、昨今のヨーロッパの移民問題などを鑑みながら、外国人労働者を受け入れるべきか受け入れざるべきかというものでしたが、すでにそういうことを言っている状況にはありません。 留学生のアルバイトは週に28時間までが法定の上限ですが、実際にはこの上限を超え不法就労せざるをえない留学生が多いのです。 日本への渡航に際し、多くの留学生が高額な借金を抱えています。 一方で日本経済の現場は人手不足に苦しんでいるため、外国人労働者への期待が大きいです。 こうした経済・社会的背景が、不法就労の発生に繋がっています。 近年、日本語学校が乱立・急増しており、教育機関としてのレベルの低下が懸念されています。 現に人材派遣業化した一部の日本語学校で、組織ぐるみの不法就労助長や、留学生への人権侵害、経済的搾取が発生しています。 そうした留学生を支援・救済するセーフティーネットづくりは、一部の自治体や弁護士団体、NPOなどが取り組んでいますが、十分に機能しているとは言い難いです。 彼らの置かれている環境を知れば知るほど、何かが間違っているという思いが強くなります。 外国人留学生にまつわる問題は複雑に絡み合っていて、糸口をひとつほどいてもつながる先にはまた別の混沌と暗闇があります。 現在、東京大学の大学院で経済を学んでいるベトナム人留学生は、日本のことは好きだし、これからもずっと日本と関わっていきたい、といいます。 しかし、いま日本には外国人が増えて困るという人もいますが、東京オリンピックが終わったらどんどん減っていくでしょう。 東京オリッピックの後は、日本は不況になると思うからです。 日本はすでに労働人口も減り続けているので、本来は外国人の労働力をうまく使わないと経済成長できませんが、外国人はきっと増えません。 そうなるとより多くの労働力が減って、日本の経済はますます傾いていくでしょう。 すべての問題が解決されるのは、ひょっとすると日本が外国人から愛想をつかされて、誰も日本を目指さなくなったときかもしれません。 そのとき、日本は労働力不足でにっちもさっちも行かなくなっているような気もします。 だが、諦めてはいけないのだと思います。 こんがらがった糸は丁寧にほどいていかなければなりません。はじめに/第1章 彼らがそこで働く理由/第2章 留学生と移民と難民/第3章 東大院生からカラオケ留学生まで/第4章 技能実習生の光と影/第5章 日本語学校の闇/第6章 ジャパニーズ・ドリーム/第7章 町を支えるピンチヒッター/おわりに―取材を終えて
2018.12.29
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若い人なら一度は自分自身を、そして日本を外から客観的に見詰めて、自己評価をすることが成長への第一歩です。 ”夢を持ち続けよう ノーベル賞 根岸英一のメッセージ”(2019年12月 共同通信社刊 根岸 英一著)を読みました。 50年前にアメリカへ渡り化学の分野で頂点を極め2010年にノーベル化学賞を受賞した著者が、子ども時代、学生生活、会社員の経験、そして研究に没頭した日々を振り返ります。 大きな夢を抱きそれをかなえるための手段を身につけようと最高の師を求め、自分が最も輝ける活躍の場を求めて世界に出ていった、といいます。 根岸英一さんは1935年満州国新京、現中国吉林省長春生まれ、1958年東京大学工学部を卒業後、帝人に入社し、1963年に米ペンシルベニア州ペンシルベニア大学で博士号取得しました。 そして、再び帝人を経て、1999年から米インディアナ州パデュー大学で特別教授を務めました。 1936年に、南満洲鉄道系商事会社に勤めていた父の転勤に伴い、濱江省哈爾濱市、現在の黒竜江省ハルビン市に転居して少年時代を過ごしました。 1943年に、父の転勤で日本統治時代の朝鮮仁川府、現在の大韓民国仁川広域市、次いで京城府城東区、同ソウル特別市城東区で過ごしました。 第二次世界大戦後の1945年に、東京都目黒区に引き揚げ、親戚一同と過ごしました。 深刻な食糧不足などを解消するため、神奈川県高座郡大和町、現大和市南林間へ転居して、大和小学校および新制の大和中学校へ進学しました。 神奈川県立湘南高等学校に進学する際に、高校から年齢が1歳若く入学できないと通知されたため、大和中学校の教諭約10人が交代で高校を説得して入学許可が下りたそうです。 高校のクラブ活動は合唱部に所属し、絵画部にも所属しました。 絵画部の2学年上に石原慎太郎が在籍していましたが、レベル差を感じて根岸は絵画部を短期間で退部しました。 高校在籍当初は成績優秀な生徒ではなかったようですが、2年へ進級した後に猛勉強した結果、2年2学期から卒業まで学年トップかトップタイの成績を修めたそうです。 1953年に湘南高等学校を卒業し、同年17歳で東京大学に入学しました。 大学3年の時、胃腸障害をこじらせ一時入院し、1年留年して1958年に東京大学工学部応用化学科を卒業しました。 在学中に帝人久村奨学金を受給した縁もあり、同年に帝国人造絹絲、現帝人へ入社しました。 その後、1960年に帝人を休職して、フルブライト奨学生としてペンシルベニア大学博士課程へ留学しました。 1963年にPh.D.を取得し、帝人中央研究所に復帰しましたが、学界の研究者への転身を決意したそうです。 日本の大学での勤務を希望していましたが職場が見つからず、1966年に帝人を休職してパデュー大学博士研究員となりました。 1968年パデュー大学助教授、1972年シラキュース大学助教授に就任して、帝人を正式に退職しました。 1976年シラキュース大学准教授、1979年ブラウン教授の招きでパデュー大学へ移籍し教授に就任しました。 同年のブラウン教授のノーベル賞受賞式には、随伴者の一人として式典に出席しました。 1999年から、パデュー大学ハーバート・C・ブラウン化学研究室特別教授の職位にあります。 2010年に帝人グループ名誉フェローに招聘され、2011年に母校ペンシルベニア大学から名誉博士号を授与されました。 独立行政法人科学技術振興機構の総括研究主監に就任し、同機構が日本における活動拠点となっているそうです。 2010年にノーベル賞を受賞し、その功績により文化功労者に選出され文化勲章も受章しました。 初めてアメリカに行った1960年というのは、まだ日本が戦後の傷を引きずっていたころでした。 50年前には日米の差は大きく、ずいぶんいろいろなことでびっくりしたものだそうです。 とてつもない国もあったものです、そういう国と戦争したんだという感慨を覚えました。 しかしいまはそうではなく、日本も一流だし日米の差はかなり接近しています。 だからといって日本の若い人が、何もアメリカやヨーロッパに行かなくてもいい、海外に出なくてもいい、ということになるとは思いません。 若い人に向かって、ただやみくもに海外と言っているように受け取られているとしたら、それは違います。 専門である化学のコンペテイションの場は、もはや世界です。 化学だけではなく、音楽やスポーツの世界でもそうです。 いまやわれわれのプレーグラウンドは世界です。 単に海外ではなく、世界でトップのところを探して、そこに競争の場を求めるべきです。 分野によっては、それは既に日本かもしれませんが、いままではアメリカとかヨーロッパが多かったのは事実です。 さまざまな分野で最高のものを追究している人のところに行って勉強してみるというのは、若い人にとって大きなチャレンジの方法ではないかと思います。 学ぶための師も世界単位で探し、世界の競争の中でトップになることを目指すべきです。 そういう環境に自らを置くことにより、自分のレベルを知り、このまま進むべきか、それとも方向転換するべきか、より客観的な視点に立って、自己を見詰められるというメリットもあります。 世界を相手にするということを考えると、コミュニケーションのツールが必要です。 やはりまだ当分の間は、英語が世界語であるといえるでしょう。 世界に出ていく準備を整え、自分の高い夢を設定したら、あとはそこに向かってあきらめずに、徐々に徐々に時間とともに突き詰めていくことです。 つかむものは何もノーベル賞でなくてもいいです。 そういう自分のパッセージを築くことが大切なのです。 1901年に始まったノーベル賞の受賞者は、これまでの110年間に700~800人です。 その間にこの世に生まれた人はおよそ100億人と考えると、約1000万人に1人ということになります。 過去、50年を振り返ってみると、東京大学を卒業してフルブライト全額支給スカラシップをいただいた時点で、ノーベル賞を受賞する確率は1000分の1くらいになっていたかもしれません。 その数年後、パデュー大学のブラウン先生の弟子として迎えられました。 先生には約400人の弟子がいて2人が受賞しましたので、ブラウン研究室からは約200分の1の確率でノーベル賞受賞者が出ています。 その後、シラキュース大学助教授、パデュー大学教授、ブラウン特別教授、さらにその間いくつかの最高レベルの賞をいただきました。 これらから、過去10年間くらいにノーベル賞の確率も100分の1あるいは10分の1くらいにないていたと思ってもよいかもしれません。 運不運は人間誰にでもありますが、大きな夢を実現するのには運に頼るだけではなく、それ以外の道があることも間違いないと信じましょう。 自立しながらも協力的であれ、適切な競争を通じて秀でよ、最善を尽くすでは通常で全く不十分、問題を抱えたまま暮らすな。はじめに 若者よ海外へ出よ!/第1章 夢をかなえた朝/第2章 ブロークンイングリッシュでいいじゃないか/第3章 幼少期~学生時代/第4章 大学時代、そして社会へ/第5章 再びアメリカへ/第6章 研究者として/第7章 大学での日々/第8章 科学の未来を育てる/第9章 ライフスタイルも追求型/第10章 豊かな人生にするために
2018.12.22
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聖路加国際病院名誉院長だった日野原重明医師は、105歳でも現役で活動しておられました。 自宅で静養を続けていたが体調を崩し、2017年7月18日午前6時半に呼吸不全で死去されました。 ”僕は頑固な子供だった”(2016年10月 ハルメク社刊 日野原 重明著)を読みました。 命とは人間が持っている時間のことという105歳の著者がどうしても書いておきたかったという初めての自叙伝である。 1911年に山口県で生まれ、京都帝大医学部を卒業し、1941年から聖路加国際病院に勤め、同病院内科医長、聖路加看護大学長、同病院長などを務めました。 医学・看護教育の改善にも尽力し、予防医学、終末医療の普及推進などに貢献し、生活習慣病という言葉を生み出し、常に医療の変化の先端を走ってきました。 また、国際基督教大学教授、自治医科大学客員教授、ハーヴァード大学客員教授、国際内科学会会長、一般財団法人聖路加国際メディカルセンター理事長等も務めました。 京都帝国大学医学博士、トマス・ジェファーソン大学名誉博士、マックマスター大学名誉博士で、日本循環器学会名誉会員となり、勲二等瑞宝章及び文化勲章を受章しました。 人生105年といえば、さぞや長く果てない道のように思われることでしょう。 人生は川の流れに例えられますが、その勢いはたゆみなく、今、ようやく大海へとそそぐ緩やかな流れに身を任せているような心地です。 これまでは医学関連のものから生き方エッセイに至るまで、たくさんの書物を著し、その中で自分の経験についても触れてきました。 しかし、日野原重明という一人の人間を深く顧みたことはありませんでした。 これまでの人生は、ちょっとした日本の近現代史のようでもあります。 太平洋戦争が始まったときは30歳で、日本があれよあれよという間に軍国化していきました。 東京大空襲も玉音放送も、そして復興から高度経済成長に至る中で、1960年代後半の学生紛争に関わっていましたし、よど号ハイジャック事件に巻き込まれました。 バブル崩壊後に起きたオウム真理教による地下鉄サリン事件も、聖路加国際病院で対処しています。 自分ながら多面的な生涯を、こうして自宅のソファに座って振り返ってみると、しきりと思い出されるのは幼い日々のことです。 これまで人生を彩ってきたさまざまな出来事は、たぶん、幼い自分の中にすでに孕まれていたのだと思います。 今の私の基盤でもある行動力や勇気、負けん気といったものの根っこは、幼い日の思い出の中にすでにあるからです。 105歳になろうとする今も、これから先、自分が社会の中で何をすべきなのかを考えるために、今在る自分がいかにしてできてきたのかを振り返りたいといいます。 日野原医師は、1911年に山口県吉敷郡下宇野令村にある母の実家で、6人兄弟の次男として生まれました。 父母ともにキリスト教徒で、父親・日野原善輔はユニオン神学校に留学中でした。 日野原医師は父親の影響を受け、7歳で受洗しました。 1913年に父親が帰国して大分メソジスト教会に牧師として赴任し、大分に転居しました。 1915年に父親が大分メソジスト教会から、神戸中央メソジスト教会に移り、神戸に転居しました。 1918年に神戸市立諏訪山小学校入学、1921年に急性腎臓炎のため休学、療養中にアメリカ人宣教師の妻からピアノを習い始めました。 1924年に名門の旧制第一神戸中学校に合格しましたが、入学式当日に同校を退学し関西学院中学部に入学しました。 1929年に旧制第三高等学校理科に進学し、1932年に京都帝国大学医学部に現役で合格し入学しました。 大学在学中に結核にかかり休学し、父親が院長を務める広島女学院の院長館や山口県光市虹ヶ浜で約1年間の闘病生活を送りました。 1934年に京都帝国大学医学部2年に復学し、1937年に京都帝国大学医学部を卒業し、京都帝国大学医学部三内科副手に就任しました。 1938年に北野病院や京都病院で勤務し、1939年に京都帝国大学医学部大学院博士課程心臓病学専攻に進学し、京都大学YMCA地塩寮に住みました。 1941年に聖路加国際病院の内科医となり、1942年に結婚し、1943年に京都帝国大学医学博士の学位を取得しました。 1945年に志願して大日本帝国海軍軍医少尉に任官しましたが、急性腎臓炎のため入院して除隊となりました。 1951年に聖路加国際病院内科医長に就任し、エモリー大学医学部内科に1年間留学しました。 1952年に帰国し、聖路加国際病院院長補佐研究・教育担当に就任しました。 同年、闘病中の母が脳卒中で死去しました。 1953年に国際基督教大学教授に就任、以後4年間、社会衛生学などを講じつつ同大学診療所顧問なども務めました。 1958年にバージニア州リッチモンドのアズベリー神学校で客員教授を務めていた父が劇症肝炎のため、リッチモンド記念病院で死去しました。 1970年に福岡での内科学会への途上によど号ハイジャック事件に遭い、韓国の金浦国際空港で解放されました。 1970年に学校法人津田塾大学評議員に就任し、文部省医学視学委員となりました。 1971年に聖路加看護大学副学長および教授に就任し、1974年に聖路加国際病院を定年退職しました。 社会構造の変化によって、いまでは医療の現場でも多様な状況に対応せざるを得なくなりました。 日本では高齢化が急速に進み、がんや心疾患などによる死亡率も高まっています。 一方、大きな事故や災害が発生するたびに救急医療の問題も指摘されます。 その現状を見据え、生活習慣病の予防や救急医療のシステム整備に取り組んできましたが、何よりそれを担う人材の育成が急務でしょう。 そうした医療の現場では絶えず命の尊厳と向き合うことになります。 それだけに人間性をも高める医学教育を構築したいのです。 その使命感から、現行の教育制度を改めようと働きかけてきました。 日本の医療をよりよくすること、それが活動の原動力になっています。 そのためには医師として現役であることが大事で、たとえ車いすの生活になっても旺盛な好奇心は変わらないと自負しています。 むしろ、車いすに座った視線から世の中を見ると、また違った景色が見えてきます。 そして、とても楽しみにしているのは、2020年に開催される東京オリンピックを見ることです。 かつて東京の街が熱狂の波に包まれた1964年の東京五輪のときは50代で、体操や柔道、マラソンで活躍する日本人選手の姿に胸を熱くしました。 100歳を超えた今、またあの華やかな舞台をこの目で見られるのかと思うと、それだけで生きる力も湧いてきます。 最後に、自分自身がイメージする最期について書いておきます。 それは、地平線のかなだの断崖といった平面的なイメージではなく、常に回転を続ける独楽が上方に向かって進んでいくというものです。 その角度はいろいろでしょうが、常に一瞬前よりも上へと向かっています。 音楽で徐々に強く大きくなっていくときの、クレッシェンドという言葉がふさわしいでしょう。 最期の時にはきっと周りへの感謝を伝えたいと希望するでしょう。 もっと生きたかった、もっとしたいことがあった、といった欲望が浮かんでくることはなく、ただ、感謝の思いだけを伝えたいといいます。プロローグ 105歳の私からあなたへ/第1章 負けず嫌いの「しいちゃん」/第2章 若き日にまかれた種 /第3章 「医者」への道を歩む/第4章 アメリカ医学と出合って/第5章 「与えられた命」を生かすため/第6章 いのちのバトン/第7章 妻・静子と歩んだ日々/にエピローグ 人生は「クレッシェンド」
2018.12.15
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空海は774年に讃岐国多度郡屏風浦、現:香川県善通寺市で生まれました。 父は郡司・佐伯直田公=さえきのあたいたぎみ、母は阿刀大足の娘あるいは妹で、幼名を真魚=まお、と言いました。 “弘法大師と出会う”(2016年10月 岩波書店刊 川崎 一洋著)を読みました。 弘法大師空海の歴史的事跡、伝説、美術、書、著作、思想などを、多数の写真とともにわかりやすく解説しています。 誕生日は6月15日とされますが、これは不空三蔵の入滅の日であり、正確な誕生日は不明です。 平安時代初期の僧で、弘法大師の諡号で知られる真言宗の開祖です。 日本仏教の大勢が奈良仏教から平安仏教へと転換していく流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらしました。 川崎一洋さんは1974年岡山県に生まれ、幼少のころより真言宗僧侶になることにあこがれ、高野山で得度し修行しました。 高野山大学大学院博士課程修了、博士(密教学)で、専門は、密教史、仏教図像学です。 現在、四国八十八ヶ所霊場第28番大日寺住職、高野山大学非常勤講師、高野山大学密教文化研究所委託研究員、智山伝法院嘱託研究員、善通寺教学振興会専門研究員を務めています。 空海は788年に平城京に上り、上京後、中央佐伯氏の佐伯今毛人が建てた氏寺の佐伯院に滞在しました。 789年に15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の叔父である阿刀大足について、論語、孝経、史伝、文章などを学びました。 792年に18歳で長岡京の大学寮に入り、明経道を専攻しました。 793年に大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったといいます。 24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある”聾瞽指帰”を著して、俗世の教えが真実でないことを示しました。 この時期より入唐までの空海の足取りは資料が少なく、断片的で不明な点が多いです。 ”大日経”を初めとする密教経典に出会ったのもこの頃と考えられており、さらに中国語や梵字・悉曇などにも手を伸ばした形跡もあります。 この時期、空海が阿波の大瀧岳や土佐の室戸岬などで求聞持法を修め、室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星が飛び込んできたといいます。 洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗ったと伝わっています。 803年に医薬の知識を生かして推薦され直前に東大寺戒壇院で得度受戒し、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発したものの悪天候で断念しました。 翌年に、長期留学僧の学問僧として唐に渡りました。 第16次遣唐使一行には、最澄や橘逸勢、後に中国で三蔵法師の称号を贈られる霊仙がいました。 最澄はこの時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていましたが、空海はまったく無名の一沙門でした。 805年2月に西明寺に入り滞在し、ここが空海の長安での住居となりました。 長安で空海が師事したのは、まず醴泉寺の東土大唐三藏法師で、密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけたものと考えられています。 空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられています。 5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになります。 恵果和尚から伝法阿闍梨位の灌頂を受け、遍照金剛の灌頂名を与えられました。 806年に20年間の予定を2年間で帰国したため、帰京の許可を得るまで大宰府の観世音寺に滞在することになりました。 816年に朝廷より高野山を賜り、821年に満濃池の改修を指揮しました。 822年に太政官符により東大寺に灌頂道場真言院を建立し、平城上皇に潅頂を授けました。 823年に太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場にしました。 828年に京に私立の教育施設、綜芸種智院を開設しました。 四国八十八ヶ所霊場に属する寺院の一日は、お遍路さんが携える鈴の、その音に明け、その音に暮れます。 遍路シーズンの三月ともなれば、たくさんの鈴の音が重なり合い、春の陽光とも相まって、境内はキラキラと輝いて見えます。 総延長、およそ1400キロメートル、四国をぐるりと一周して、弘法大師ゆかりの88の霊場寺院を巡るのが、四国遍路です。 伝承によれば、815年に42歳を迎えた大師が、若かりし日に厳しい修行を積んだ四国の地を再び訪れ、それらの霊場を定めたといわれています。 元来、僧侶がおこなう特殊な修行の一つであった四国遍路は、戦国の乱世が終焉を迎え、社会と経済が安定した江戸時代、一般の庶民の間に急速に広まりました。 お遍路さんには常に弘法大師が付き添ってサポートするといいます。 同行二人の信仰が生まれ、それは、21世紀の今も確かに息づいています。 現在、四国遍路を経験する人の数は、年間に10万人とも15万人ともいわれています。 故人の冥福を祈るため、願いを叶えるため、自分探しのため、観光を楽しみながら何となく癒しを求めての巡礼です。 目的はさまざまですが、人々は弘法大師への帰依を表す、南無大師遍照金剛という8文字の言葉を、繰り返し口ずさみながら旅を続けます。 遍照金剛は、弘法大師が唐の都の青龍寺で濯頂の儀式を受けた際に、師の恵果和尚から授かった名前であり、真言密教の本尊である大日如来を指します。 弘法大師空海は、今からおよそ1200年前に実在した宗教者であり、語学や文学、芸術のみならず、土木や建築にも能力を発揮した日本を代表する天才です。 また一方では、人々のために清水を湧出させたり、巨岩を動かしたり、一夜にして寺院を建立したりと、数々の超能力を発揮した、不思議な伝説に彩られた聖者でもあります。 いまでも大師に出会える場所がいくつかあります。 高野山奥之院、御影堂、東寺の弘法市、関東三大師(川崎大師、西新井大師、観福時)などです。 そして、やはり四国は大師の本拠地であり、多くのお遍路さんが四国に足を踏み入れています。 88ヶ所の霊場寺院の大師堂には、それぞれ表情豊かな大師の像が祀られており、遍路修行者を出迎えてくれます。 また、大師に出会えるのは霊場寺院の立派なお堂の中だけでなく、霊場と霊場をつなぐ遍路道沿いの各所には、小さな大師堂がいくつも建っています。第1章 生涯を辿る/第2章 霊跡を巡る/第3章 姿をイメージする/第4章 芸術に触れる/第5章 著作を読む/第6章 言葉に学ぶ
2018.12.08
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今日ではほとんど知られることのない人物の司馬江漢は、江戸時代の絵師、蘭学者で、浮世絵師の鈴木春重は同一人物です。 稀代の変人として知られ、まさしく江戸のダ・ヴィンチとでも呼ぶべき存在でした。 ”司馬江漢 「江戸のダ・ヴィンチ」の型破り人生”(2018年10月 集英社刊 池内 了著)を読みました。 油絵・銅版画の技法を日本で最初に確立し、地動説を我が国で初めて紹介した科学者で、奇行を繰り返しては人々を混乱に陥れ、旅日記を著した文筆家の司馬江漢の生涯を紹介しています。 没後200年にあたる2018年というタイミングで、破天荒な生涯の全体像を描き出そうと試みています。 池内 了さんは1944年兵庫県生まれ、京都大学理学部物理学科卒業、同大大学院理学研究科物理学専攻博士課程修了、博士(理学)です。 国立天文台理論天文学研究系教授、大阪大学理学部宇宙地球科学科教授、大阪大学大学院教授、名古屋大学大学院教授を経て、名古屋大学名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授を務めています。 司馬江漢は江戸の町家に生まれ、司馬の姓は、長く住んだ芝新銭座に因むものです。 中国人ではなくレッキとした日本人、それも江戸っ子でした。 その生き様をさまざまな文献で辿るうちに、実に興味深い多才で多能な人物であるとわかり、こんなすごい日本人がいたことをお知らせしたいと思い、是非本にまとめたくなったということです。 江漢は生まれつき自負心が強く、好奇心旺盛で、絵を好み、一芸を持って身を立て、後世に名を残そうと考えていました。 15歳の時、父の死を切っ掛けに、表絵師の駿河台狩野派の狩野美信に学びました。 19歳のころ、紫石と交流のあった鈴木春信にも学んで浮世絵師となり、錦絵の版下を描きました。 25歳ころ、おそらく平賀源内の紹介で西洋画法にも通じた宋紫石の門に入りました。 27歳のころ、源内の鉱山探索に加わり、30歳のころ源内のエレキテルを知りました。 33歳のころ、良沢の門に入り大槻玄沢らの蘭学者に接し、37歳の時玄沢の協力により蘭語文献を読み、銅版画の製作に成功しました。 42歳の時、江戸に参府していたオランダ商館の外科医ストゥッツエルの所持していた、1720年刊のジャイヨ世界図を模写しました。 1人で長崎への旅に出て1ヶ月余滞在し、オランダ通詞の吉雄耕牛や本木良永らと交流しました。 ストゥッツエルの紹介でロンベルク商館長を訪問し、オランダ船に乗船する機会を得ました。 平戸で松浦静山に会い、所蔵の洋書類を見聞しました。 江漢は江戸時代の日本を代表する優れた画家で、ほかの有名画家三人分くらいの業績があり、日本絵画史に大きな足跡を残した超一流の人物でした。 生涯諸侯や高官に仕えることがなく、自分の作品を売ることを生業として、まさに町絵師として意気高く生きました。 そして、日本において最初に地動説を世に広め、無限宇宙論の入り口に立っていました。 科学とは縁遠いはずの町絵師が地動説に興味を示して人々に紹介し、果ては点々と星が分布する宇宙にまで想像を馳せていました。 いわゆる江戸後期の町民文化の華が咲いた時代に、博物学的立場から文化の高揚に寄与した人物と言えます。 西洋科学を日本に紹介した、日本初の科学コミュニケーターでした。 実に多彩な才能を持って多くの分野に手を出し、日本初となる仕事をいくつも遺しましたが、むしろこの道一筋を高く買う日本的伝統のために無視されることが多かったようです。 さらに、学者の論を学んでそれを広く伝える役割に徹しましたが、日本では学者の論を重んじて素人の自由な発想を軽んじる気風があるため、正式の歴史に書き残されることがなかったのです。 その上、口が悪くて傍若無人な振る舞いをし、意識して世間を惑わす事件を引き起こしたことが何度もあって、人柄や行状を良く思わない人も多くいました。 それやこれやで、江漢は歴史上の重要人物としてはほとんど忘れられた存在になっています。 しかし、それでは残念です。 こんな多芸で愉快で面白い人物がいたのだと、広く伝えたいと思うようになりました。 第一章と第二章で、江漢の幼い頃の生い立ちと町絵師として独り立ちするまでの知られざるエピソードをまとめています。 平賀源内が江漢の人生に大きな影響を与え、エッチングや洋風画に手を染める契機となったことは、人の繋がりの妙を考えさせられます。 第三章では、押しも押されもせぬ有名な町絵師となった江漢は、ほぼ一年かけて絵の修行を名目にした長崎旅行を行いましたが、その一部始終をまとめています。 長崎旅行で江漢が大きな刺激を受けたのが西洋文化の合理性であり、強い魅力を感じたのが人文地理学で知った世界の中での日本という視点です。 江戸に戻ってから貪るように西洋紹介の本を読み、窮理学に深入りしていきました。 もともと器用であった江漢は、望遠鏡や顕微鏡、温度計や気圧計を手にするや自分でも製作し、それを使って虫や星の観察をし、日々の気温や湿度を測るということが日課になりました。 第四章では、窮理師江漢の姿について記述しています。 そして、日本に地転の説を紹介した本木良永と出会って地動説のエッセンスを知り、最初はまだ天動説に固執していましたが、やがて地動説に傾き刻白爾天文図解で地動説を表明しました。 西洋から250年遅れて地動説を日本に広める上で功があったとともに、宇宙論ではほぼ同時代の西洋と同じレベルまで空想するようになっていました。 第五章では、江漢の地動説への関わりをまとめています。 第六章では、江漢が蘭学仲間から排除された経緯を取り上げています。 第七章では、江漢の晩年になってからの奇妙な行動を取り上げています。 第八章では、晩年に書き残した掛軸や色紙を取り上げて、江漢の庶民的発想、平等主義、封建制への疑いなどについて論じています。第一章 絵の道に入るまで/第二章 町絵師江漢の誕生と成長/第三章 旅絵師江漢/第四章 窮理師江漢/第五章 地動説から宇宙論へ/第六章 こうまんうそ八/第七章 退隠・偽年・偽死/第八章 不言・無言・桃言
2018.12.01
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