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銅像は、神仏、人、動物などを模して銅で作られた像、および彫刻のことで、青銅=ブロンズで鋳造した像です。 とくに記念碑的な彫像を日本では一般に銅像と呼んでいます。 ”銅像歴史散歩”(2016年3月 筑摩書房刊 墨 威宏著)を読みました。 明治期後半に欧米から入ってきて日本各地に存在する銅像文化を、全国のいろいろな銅像を訪ね歩きカラー写真と共にエピソードや現地の情報を盛り込んで紹介しています。 明治期後半には偉人の像、昭和初期には全国の小学校に二宮金次郎像、近年はアニメのキャラクター像なども立ち、第三次ブームと呼べるほど増え続けています。 墨 威宏さんは1961年名古屋市生まれ、一橋大学卒業、1985年共同通信社入社、1993年から文化部記者、2003年末に退社しフリーライターになり今日に至っています。 青銅の鋳造技術は古くから発達し、日本でも仏像彫刻などにすぐれた作品がありますが、銅像という名称が使われたのは明治以後です。 日本に洋風彫刻術をもたらしたのは、1876年工部美術学校開設のとき教師として来日したイタリア人ラグーザです。 銅像の製法は鋳造法、吸引鋳造法、ガス型鋳造法などがあります。 銅像の代表的な製法は鋳造法で、材料は主に青銅が用いられます。 木や石、粘土などで型となる像を作り、乾燥させた後に雲母の粉を塗布します。 その上から再び粘土を重ね、再び乾燥させます。 重ねた粘土を切り分けて剥がし、原型となる像の表面を5~6cm削ります。 このときに出来た隙間に銅が流し込まれます。 下から順に切り分けた粘土を戻し、戻した部分を盛り土で固めます。 外からは原型が徐々に土に埋まるように見えます。 隙間に溶けた銅を流し込み、冷えて固まったら再び切り分けた粘土を重ねて土で固めます。 この手順をすべての像が土の中に埋まった状態になるまで繰り返します。 土と表面の粘土を取り除き、表面を磨いたりして成形したら完成します。 銅像の歴史は古く、現存する世界最古の銅像はエジプト考古学博物館所蔵のエジプト第6王朝ペピ1世の像です。 これはおよそ4000年以上前のものと推測されています。 日本では、飛鳥時代から金銅仏が制作されていました。 東大寺の奈良の大仏も銅製です。 しかし、人物をかたどった銅像がたてられることはありませんでした。 日本初の西洋式銅像は、兼六園の1880年の明治紀念之標・日本武尊の銅像です。 東京最古の西洋式銅像としては、大熊氏廣氏が1893年に靖國神社へ建立した大村益次郎像で、女性像としては同じ大熊氏による1901年の瓜生岩子像です。 第2次世界大戦が勃発し1941年に金属類回収令が出され、板垣退助像、ハチ公像、伊達政宗騎馬像、二宮金次郎像、広瀬中佐、東郷平八郎など軍人像も例外なく再利用されました。 しかし、戦後復興期には次々と復元されました。 また、レジャーや観光のために続々と建てられました。 今まで手が届かない場所にあった観賞用銅像から、触れることのできる銅像もできました。 銅像は悲しい存在です。 銅像といえば、ほとんどの人はどんなものか思い浮かべることができますし、東京・渋谷のハチ公像など駅前の銅像は待ち合わせ場所になっています。 観光地では記念撮影スポットになります。 建てられたときには盛大な除幕式が行われ、ニュースにもなりますし、歴史関係のテレビ番組などにも銅像はよく登場します。 しかし、多くの銅像は時間がたてば忘れられ、風景の一部と化して見向きもされなくなります。 空き缶が捨てられていたり、放置自転車で囲まれていたり、破損したままになっていたりという銅像も少なくありません。 古い銅像でもよく手入れされ大切にされている像もあれば、見た目は新しいのに何の説明も付されず放置されている像もあります。 どんな人々が、なぜその銅像を建てようとしたのでしょうか、なぜその地に立っているのでしょうか、地域の人々が長い間守ってきたのはなぜでしょうか。 あるいは、露骨に邪魔者扱いされ移転を繰り返されているのはなぜでしょうか。 明治期以降の日本の政府や民衆が何を大切にし、何を切り捨ててきたのかが見えてくる気がします。 銅像が背負うのは日本の政治史であり、文化史、美術史、民俗史、民衆史でもあります。 またそれぞれの地域史でもあります。 しかもそれは非公開の文書ではなく、分かりやすい形で目の前に立ち、ときにはこつぜんと姿を消しました。 失われ、台座のみが残るという事実も含めて銅像は歴史を語ります。 胴長短足の日本人に銅像は向かないとの批判もありましたが、もともと仏像や地蔵の文化があったからでしょうか、銅像は瞬く問に各地に建てられました。 1928年刊の”銅像写真集 偉人の俤”には、600体を超える銅像の写真が掲載されています。 この後、小学校に二官金次郎像を建てるブームが起き、日中戦争が始まって軍国主義が高まる中で、軍人像も多数建てられて、さらに数を増やしました。 銅像って面白いかも、と思ったのは取材を始めてからだったといいます。 美術作品としての良しあしを語れるほどの鑑識眼があるわけではありません。 銅像が表しているのは時代も姿形もさまざまですが、いろんな銅像を見るのが楽しいというのとも違います。 それまで銅像は気に止めず、視界に入っていたただの金属の塊で、風景の一部でしかなかったのですが、掘り下げていくと、日本の近現代史を語る物証ではと思い至りました。 著者は銅像マニアではなく、本書のきっかけは共同通信社配信の連載企画”銅像歴史さんぽ”の執筆です。 連載企画は2011年8月から約4年間、計200回続きました。 記事は各地の多くの新聞に掲載されました。 銅像の取材は過酷を極めました。 高い台座の上に乗る像も多く、しかもほとんどは単色で黒っぽい。逆光では真っ黒になってしまい何の写真か分からなくなってしまいます。 銅像とトイレ以外に何もない小さな公園で、カメラを手に雲が出るのを待ち続け、不審者に見られることもしばしばでした。 雨にも泣かされました。 公共交通機関だけではたどり着けない場所に立つ銅像も多かったです。 ”銅像歴史さんぽ”は子どもたちに銅像を出発点に歴史を学んでもらおうと企画した小学生向けの記事だったため、連載での取材を基にほぼ全面的に書き下ろしました。第1章 秘められた歴史/赤い靴はいてた女の子 真偽不明のまま続々と(横浜市/青森県鯵ヶ沢町/里親港区)/二官金次郎 戦時中に「出征」し消える(富山県高岡市/静岡県掛川市/神奈川県小田原市)/上野英三郎・ハチ 飼い主より有名になった犬(津市/墓y都渋谷区/里蔀文京区)/日本武尊 金沢・兼六園に日本最古の銅像釜沢市/塞長千代田区)/楠木正成・西郷隆盛 銅像会社設立を考えた光雲(東京都千代田区/東京都台東区)/石田三成 似てる? 頭蓋骨調査基に制作(滋賀県長浜市)/亀山上皇・日蓮 使い込みで時宗から変更(福岡市)/井伊直弼 横浜開港の恩人はこじつけ(横浜市/滋賀県彦根市)/伊藤博文 銅像倒された初代総理大臣(山口県光市/神戸市)/後塵房之助 凍り付いたまま山中に立つ(青森市)第2章 謎の銅像/蜂須賀家政 戦争挟み父子交代(徳島市/愛知県岡崎市)/吉良上野介 忠臣蔵の悪役も地元では名君(愛知県西尾市/里足都墨田区)/天女 世界遺産の伝説 能で有名に(静岡市/滋賀県長浜市)/桃太郎 日の丸も背負った童話の英雄(岡山市/大分県玖珠町)/ニホンオオカミ 米国人に買われた最後の捕獲例(奈良県東吉野村/東京都渋谷区/東京都瑞穂町)/新聞少年 高度成長の陰で頑張る子どもたち(東京都港区/横浜市/東京都品川区)/哲学の庭 古今東西の聖人、賢人がそろう(東京都中野区)/アンデルセン 閉園されたテーマパークの残骸(岡山県倉敷市)/大河ドラマ 放送は終わっても像は残る(東京都文京区/福島県会津若松市/神戸市)/オズの魔法使い 商店街に登場した縁薄き童話(名古屋市)/賀川豊彦 失われた初のノーベル文学賞候補(東京都中野区/徳島県鳴門市/東京都世田谷区)/宇宙戦艦ヤマト・銀河鉄道999「命」でつながる町の歴史と漫画(福井県敦賀市/北九州市)/卑弥呼 吉野ヶ里へ案内する謎の女王(佐賀県神埼市/福岡市)第3章 昭和の記憶/ベーブールースと沢村栄治 米大リーグ大打者に挑んだ若き投手(仙台市/静岡市/東京都文京区)/二十四の瞳・ガラスのうさぎ 子どもたちの戦争体験伝える(香川県・小豆島/神奈川県二宮町)/聖火ランナー 始まりはベルリン ヒトラーの遺産(東京都大田区/長野市/埼玉県川口市)/美空ひばり・三波春夫 思い起こす「歌は世につれ……」(横浜市/新潟県長岡市)/鉄腕アトム 漫画の神様の思い伝える(埼玉県飯能市/里只都練馬区/兵庫県宝塚市)/ドラえもん 悪書から日本の文化「MANGA」 へ(富山県高岡市/東京都豊島区/川崎市)第4章 源平合戦の虚実/源義仲・巴御前 奇策「火牛の計」で平氏討つ(長野県木曽町/富山県小矢部市)/池月・磨墨 先陣争いの名馬 実はポニーぐらい(東京都大田区)/畠山重忠 気は優しくて力持ち表す(埼玉県深谷市/埼玉帚風山町)/源頼朝 「いい国」ではなかった鎌倉幕府(神奈川県鎌倉市/千葉市/静岡県富士市)/安宅の関 涙の名場面 ゆかり地は二ヵ所(石川県小松市/富山県高岡市)第5章 戦国武将の盛衰/織田信長・今川義元 歴史変えた古戦場に並ぶ「両雄」(名古屋市/岐阜市/愛知県清須市)/武田信玄・上杉謙信 宿命のライバル 伝説の一騎打ち(長野市/山梨県甲州市/東京都八王子市)/豊臣秀吉 謎残す大出世の出発点・墨俣一夜城(岐阜県大垣市/神戸市/名古屋市)/浅井長政一家 信長を裏切り 一家の運命変える(滋賀県長浜市/福井市)/徳川家康 静岡に人生たどる三体の像(静岡市/愛知県岡崎市)真田幸村 名を残す大坂の陣参戦は中年で大阪市)第6章 幕末の群像/ペリーとハリス 日本を開国させた二人の明暗(静岡県下田市/千葉県佐倉市/広島県福山市)/佐久間象山・吉田松陰 師も連座 ペジーの船で密航企て(静岡県下田市/長野市/東京都世田谷区)/和宮 悲劇の皇女像が神戸の山中に(神戸市/東京都港区)/清河八郎・坂本龍馬 幕末史劇の幕を開け、閉じる(京都市/山形県庄内町/東京都品川区)/白虎隊 生き残ったことをたたえる(福島県会津若松市)第7章 銅像が語る文学史/額田王・大海人皇子 万葉集に恋愛ミステリー 真相は?(滋賀県竜王町)/大伴家持 越中では歌三昧 万葉の代表的歌人(富山県高岡市/富山県・二上山)/藤原俊成・西行 戦乱に生きた二人の歌人(愛知県蒲郡市/岡山県玉野市)/松尾芭蕉 『奥の細道』ルートに多くの像(埼玉県草加市/山形県庄内町/岐阜県大垣市)/曽根崎心中 「恋の手本」は幕府が禁止大阪市/兵庫県尼崎市)/石川啄木 石もて追われてもふるさと詠む(盛岡市/東京都台東区)
2019.04.27
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金融には長い歴史のなかで形成された制度が残り、さらに現代的な問題が幾層にも積み重なっています。 金銀という一時代前の地金、中央銀行の変化、変動する為替市場、金融技術の進展といった問題が複雑に絡み合っています。 ”金融史がわかれば世界がわかる-「金融力」とは何か”(2017年10月 筑摩書房刊 倉都 康行著)を読みました。 リーマン危機、ユーロ債務危機、新興国不安などさまざまな金融事件が起こり、日本でも未曽有の金融緩和など大きな変化に見舞われました。 その後の世界の金融像について、網羅的かつ歴史的にとらえ世界の金融取引の発展を観察しようとしています。 本書は、貿易決済取引や資本取引など、世界の金融取引がどのように発展してきたかを観察し、今後の国際金融の変貌について実務的に考えています。 倉都康行さんは1955年鳥取県生まれ、1979年に東京大学経済学部卒業後、東京銀行入行。東京、香港、ロンドンで国際資本市場業務に携わりました。 その後、バンカース・トラストに移籍、チェースマンハッタン銀行のマネージング・ディレクターとして資本市場部門の東京代表、チェース証券会社東京支店長などを務めました。 2001年に金融シンクタンクRPテック株式会社を設立し、代表取締役に就任しました。 産業ファンド投資法人執行役員、セントラル短資FX株式会社監査役、産業技術大学院大学グローバル資本システム研究所長、山陰合同銀行社外取締役などを兼務しています。 国際的な資本市場の実務に精通し、金融工学や金融史、内外市場リスクなど幅広い分析を行い、日経ビジネスオンライン、日経ヴェリタスなどに定期的にコラムを寄稿しています。 国際金融いう場には、金や銀という一時代前の地金の問題や、中央銀行の役割の問題もあれば、変動する為替市場や、金融技術、資本市場といった現代的な問題もあります。 これを網羅的に歴史的に捉えることは、とても難しいです。 そこで、敢えて”金融力”という言葉で、そうした金融に関連する事象を一括りにしてみたそうです。 現代世界の金融力とは、 金融政策への信頼性、民間金融機関の経営力の強さ、市場構造の効率性、金融理論の浸透度、新技術や新商品の開発力、会計や税制などのインフラの強さ、お金の運用力、金融情報提供・分析力など、 さまざまに組み合わされる構成要素が、総合的な眼で評価されるものだと考えることができます。 したがって、GDPの絶対額が巨大であって、経済力があったとしても、金融力が高く評価されるとは限りません。 本書では、第1章では英国の興亡を振り返ってみます。 英国も、先行する欧州諸国への挑戦者の立場でした。 植民地政策をベースとする貿易政策で徐々に富を蓄積し、いち早く産業革命を成し遂げ、金本位制を導入しました。 世界の金融覇権を築いた英国は、まさに現代的な金融力を備えた国として栄えましたが、二度にわたる世界大戦を契機に国力は疲弊し、経済力も衰えていきました。 ですが、現代においても英国の金融機能は世界の最先端を走り続けており、ニューヨークと並ぶ国際金融市場の要の地位を保っています。 第2章では、その英国への挑戦者として台頭する米国を眺めてみます。 米国は、欧州の植民地から世界の工業地帯へ変身を遂げたのち、金融において驚くべき発展を遂げました。 欧州を舞台とした第一次・第二次世界大戦という、米国にとってはある意味で幸運な事件を経て、経済力が蓄積されたという背景もあります。 その機を捉えてドルを基軸通貨とした国家戦略の妙は、21世紀の現在も連綿と続いています。 この2つの章はイントロダクションであり、英国の登場、そして英国から米国へと移りゆく金融力の覇権の流れを読み取るのが目的です。 第3章以降は、世界の金融構造が大きく変化する1970年代から今日までの風景を、 為替市場の変動や金融技術と資本市場の拡大、金融機関の暴走による世界的な危機の発生、中央銀行の非伝統的な政策投入、中国金融の台頭 といったトピックスを交えながら、それらが現代の金融像に与える影響や将来像に及ぼすイメージを概観していきます。 第3章では、変動相場制という未知の世界に踏み込んだ為替市場をメインのトピックスにおき、金の役割を再考しつつ、さらに欧州の通貨戦略の芽生えを取り上げます。 金とは一体どういう存在だったのかという問題意識を念頭に置きながら、 ポンドから主役の座を奪ったはずのドルはなぜ金との脈絡を断たねばならなかったのか、欧州はそのドルに対して何を考えたのか、 といったドルが胚胎する不安要素に焦点を当てます。 第4章では、金融技術の発展が示した光と影の部分に焦点を当てながら、 中央銀行の役剖がどう変化していったか、通貨切り下げ戦争がどんな展開を生んだのか、マイナス金利という異様な金融政策が金融機関にどんな影響を与えたのか、 といった現代が抱え込んだ金融問題を、金融力との関連を意識しながら述べています。 第5章では、共通通貨ユーロの構造問題、中国経済の問題を凝縮して抱え込んだ人民元の将来性、ノンバンクの存在感の台頭といった課題を採り上げています。 日本の金融像を客観的な視点から整理し、フィンテックという新しい金融と技術の融合がどんな意味合いを持つのか、 に思いを巡らせています。 各国が金本位制から離脱して、金や銀という地金を通貨の信頼尺度とする制度から国家や中央銀行の信用力に依存する制度へ移行したことは、金融上の大きな変革でした。 1973年の通貨間のレートを市場変動に任せる、という選択もまた未知との遭遇でした。 その過程で、価格変動リスクと直面した金融市場はデリバティブズなどの金融技術を開発します。 また、従来は貿易取引に付随していた各国間の資金移動が、急速な富の蓄積や規制の撤廃・自由化を通じて、時に実体経済と大幅に乖離しがちな資本取引に圧倒されていきます。 株価や金利、為替など変動する価格への対応の必要性と拡大する資本市場の活用は、1980年代の金融機関の巨大なビジネス機会となりました。 それは金融技術の高度化を促すとともに、ヘッジファンドなどの新しい金融プレーヤーを生み出すことになります。 ですが、こうした金融の急発展は社会から遊離した投機的な賭博化であり、経済を混乱させて貧富の差を拡大した、との批判も増えました。 2008年にはりリーマン・ブラザーズの破綻を契機に世界経済が急縮小し、大恐慌再来かといった恐怖感のなかで各国の株式市場が大暴落したことはまだ記憶に新しいです。 金融技術は、レバレッジを使って巨額の資本移動を生みますが、それは資本主義が内包する基本原理でもあります。 過激な相場変動を生むこともありますが、価格変動自体は柔軟なシステム維持のための必要悪でもあります。 金融は為替変動や株価変動などに対処する手段を企業や投資家に提供すると同時に、市場の暴走を生む土壌にもなり得るという、相反する側面を持っています。 それを上手くバランスさせるパワーこそが、望ましい金融力といっても良いかもしれません。 我々が盲目的に馴染んできた米国一極主義の世界から、多様化、多極化し始めた世界に移行するなかで、 金融力がどういう意味を持つのか、あるいはどういう金融力を指向すべきか、 といった問題意識を持つことの重要性は、金融関係者だけに狭く止まるものではないでしょう。 それには、本書で示したような過去150年程度の歴史の概観が役立つこともあるのではないでしょうか。第1章 英国金融の興亡/第2章 米国の金融覇権/第3章 為替変動システムの選択/第4章 変化する資本市場/第5章 課題に直面する現代の金融力
2019.04.20
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がん医療の第一人者が医師としてがん経験者としてまたがんで妻を亡くした夫として、がんと人生を語っています。 ”がんと人生-国立がんセンター元総長、半生を語る-”(2011年12月 中央公論新社刊 垣添 忠生著)を読みました。 著者の垣添忠生さんは2011年現在70歳で、そのうち、国立がんセンターに32年間勤務したそうです。 その前後のがんとの関わりを加算すると、40年になるとのことです。 それはくしくも、奥さまとの結婚生活の期間でもあったといいます。 1941年大阪府に生まれ、1967年東京大学医学部を卒業し、1980年東京大学より医学博士の学位を授与されました。 その後、都立豊島病院、東京大学医学部泌尿器科助手などを経て、1975年より国立がんセンター病院に勤務しました。 同センターの手術部長、病院長、中央病院長などを務め、2002年総長に就任しました。 2007年に退職し、名誉総長となりました。 公益財団法人日本対がん協会会長、財団法人がん研究振興財団理事を務めました。 専門は泌尿器科学ですが、すべてのがん種の診断、治療、予防に関わってきました。 がん関連の審議会や検討会などの委員、座長などを数多く務めました。 国立がんセンター田宮賞、高松宮妃癌研究基金学術賞、日本医師会医学賞、文部科学大臣表彰科学技術賞などを受賞しました。 著者は、人生はブラウン運動、つまり分子のゆらぎそのものだと思うといいます。 分子と分子がぶつかって、思いかけない方向に飛んでいきます。 生き物に対する関心から医学部に進みました。 医師になって泌尿器科を専攻し、中でもがんを最大の関心事に選み、誰の指導をどう受け、どんな患者さんに会い、どんな病態を目にしたか、その都度、人生は思いかけない方向に展開したそうです。 奥さまとの出会いも、ブラウン運動そのものであろうといいます。 がんとの40年、妻との40年が、いままでの自分を創ってきました。 これからもう10年も生きることかできたら、十分だと考えているとのこと、遺言書をはじめ、自分の身終いの準備を着々と進めているそうです。 しかし、生きている間は、ボランティアではありますが、日本対がん協会の会長として、民間でできる対がん活動、すなわちがん経験者、家族、遺族を支援する活動を続けたいといいます。 国の対がん戦略と、民間の対がん活動ががっちり手を組めば、血の通ったがん対策か進むことになります。 そのためには、日本対がん協会を皆様にもっと認識いただきたい。 寄附をいただいて財政基盤を強くして、さらにがん患者、家族、遺族を支援する活動を広げたい。 現職中から願ってきた、がん検診と、がん登録を国の事業にすることが目標です。 これに加え、がんの在宅医療、在宅死を希望する人にそれを届ける体制の構築、および、悲しみや苦しみを癒すことを希望するがん患者の遺族を支援するグリーフーケアの実現もあります。 この4つの目標の実現に向けて、生ある限り、努力したいといいます。 がんは、現在わが国で最も恐れられ、しかも同時に、どなたも無縁ではいられない病気です。 一生のうち、2人に1人ががんになり、がんになった人の約半数か亡くなります。 現代人にとって、がんは恐ろしく、かつ普遍的な病気と言えます。 著者は医師として、がん診療に約40年にわたって携わってきました。 また、30代から40代半ばにかけて15年間、国立がんセンター研究所で、がんの基礎研究にものめり込みました。 当時の臨床は今ほど忙しくありませんでしたから、自分の時間を削って二足のわらじを履いたのです。 また、自分自身、がんを2回経験したそうです。 1回目は国立がんセンター中央病院長時代に大腸がんです。 これは内視鏡切除により一日も休むことなく治りました。 2回目は総長時代のこと、センター内に厚生労働省の理解を得て、がん予防・検診研究センターを新設しましたが、ここを体験受検した際に、左腎がんが見つかり、左腎部分切除術を受けました。 どちらも無症状のうちに早期発見し、完治しましたが、自分自身が、がん患者、がん経験者でもあったことになります。 また、奥さまの3度目のがんの、わずか4ミリで発見された肺の小細胞がんを治せませんでした。 陽子線治療により完治したと思えたがんが、肺門部に再発し、当時の最強の治療を行いましたが、再々発し、全身に転移して亡くなりました。 奥さまは、若い頃から膠原病の一種、SLEをもっていて病弱だったため、若い頃から掃除、洗濯、買物、料理、ゴミ出しなどをして、家事をかなり分担してきたそうです。 これが、妻が亡くなった後、何とか自立できた大きな理由の一つでしょう。 1995年3月、声がしわがれてきたことを契機に発見された甲状腺がんに対して、国立がんセンターで甲状腺右半分切除術と、頚部リンパ節廓清術を受けたそうです。 2006年7月には、左肺腺がんか見つかり、左肺部分切除術を受けました。 いずれのがんも手術で完治したと考えられるということです。 2006年3月、右肺下葉の真ん中に、4ミリほどの異常陰影が見つかりました。 あまりに病巣が小さいので、異常所見ではありますが、国立がんセンター中央病院の呼吸器診断の名手にも診断がつかず、経過観察を受けることとなりました。 3ヶ月後の検査では、何も変化は認められませんでした。 しかし、2006年9月、6ヶ月後のCT検査では、小病巣は4ミリから6ミリに増大し、形もダルマさんのように、ややイビツに変形か認められました。 がんだと確信され治療に入り、手術を選択すると、右肺下葉切除術となり、術後の呼吸機能障害が心配されました。 外科医と放射線治療医が種々議論した結果、千葉県柏市にある国立がんセンター東病院で、陽子線治療を受けることとなりました。 2006年9月から10月、東病院で約1カ月、陽子線治療を受けて、小病巣は見事に消えました。 しかし、その約6ヶ月後、2007年3月、右肺門部リンパ節に1つ、転移が見つかりました。 恐らく小細胞肺がんだろう、と主治医に告げられました。 予後不良のがんであり、以後は抗がん剤治療を受けることになり、薬の選択のためにも組織の確認が必須でした。 CTガイド下の針生検で、やはり小細胞肺がんの肺門部リンパ節転移と診断されました。 2007年3月から6月まで、1カ月に1回、シスプラチンとエトポシドの2剤併用による化学療法を受け、7月には、さらに肺門部リンパ節に対して放射線療法が追加されました。 しかし、10月にCT、MRI、PET検査などで、多発性の脳、肺、肝、副腎転移か確認されました。 治るどころか、がんは全身に広がったのでした。 2007年10月から12月、国立がんセンター中央病院に入院し、たくさんの公務がありましたが、朝、昼、夕と、可能な限り妻の病室で過ごし、会話しケアしました。 結婚生活40年のうちで、最も濃密に関わった最も時間を共有できた3ヶ月だったといいます。 2007年12月28日から2008年1月6日まで、病院は年末年始の休暇に入り、12月28日昼頃、自宅に連れて帰り、29日から容態はどんどんと悪化し、30日には意識不明となりました。 31日の午後から担当医に往診をお願いしましたが、担当医の到着前に亡くなったといいます。 本書は、自分自身のエッセイに、読売新聞の”時代の証言者”に27回にわたって連載を加えたものです。 文字通り、がんとの半生記です。第一部がんと人生/私の診療観/患者さんのこと/避けられる不幸/がん経験者/病気になっても安心な国/国立がんセンターに働く人々/旧棟と新棟/臨床研究/トロント留学/研究所時代/東日本大震災/幼い頃/小学校/桐朋時代/空手/学生運動/居合/妻のこと/酒/山/カヌー/妻の病い/喪失と再生第二部 時代の証言者
2019.04.13
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ドラマの”オランダおいね”で知られる楠本イネは、吉村昭や司馬遼太郎の小説にも登場し、ドラマや小説のイメージが定着しています。 イネはフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘として、文政10年に長崎で生まれました。 ”幕末の女医 楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像”(2018年3月 現代書館刊 宇神 幸男著)を読みました。 シーボルトの娘で様々な苦難を乗り越えて医師となった、楠本イネの謎に包まれた生涯を誤説や通説を排し実像に迫ろうとしています。 イネはドイツ人医師のシーボルトと、丸山町遊女であった瀧の間に生まれました。 明治36年まで生きた日本の医師であり、日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだことで知られています。 宇神幸男さんは1952年愛媛県宇和島市生まれ、宇和島市役所勤務の傍ら小説を執筆しています、 音楽評論家でもあり、フランスのピアニストの再デビューコンサートを宇和島市立南予文化会館で企画・開催しました。 また、第10回鳥羽市マリン文学賞に入選し、第9回海洋文学大賞海洋文学賞部門に佳作入選しました。 近年、シーボルトの顕彰・研究・出版はますます盛んで、毎年、シーボルトに関する何らかの論文が発表されていますが、楠本イネの伝記は児童図書や漫画のほかには一冊もありません。 楠本イネ(稲、以祢、い祢、伊篤)は父と同じ医師になることを志し、さまざまな苦難を乗り越えて夢を実現したと伝えられています。 しかし、シーボルトの娘、近代医学のあけぼのを生き抜いた混血の女医、偏見に耐えつつ誇り高く生きた美貌の女医などといった通俗なイメージが先行しています。 ともすれば興味本位に捉えられ、実証的な研究がおろそかにされてきました。 イネは日記・身辺雑記・回想録などを残さず、書簡もごくわずかしか伝来していません。 楠本イネの生涯は不明なことばかりで、それゆえに本格的な伝記が書かれませんでした。 楠本は母の姓であり、父シーボルトの名に漢字を当て、”失本=しいもと”とも名乗りました。 母の瀧は商家の娘でしが、実家が没落し、出島でシーボルトお抱え遊女となり、私生児としてイネを出産しました。 イネの出生地は長崎市銅座町で、シーボルト国外追放まで出島で居を持ちました。 シーボルトは、1828年に、国禁となる日本地図、鳴滝塾門下生による数多くの日本国に関するオランダ語翻訳資料の国外持ち出しが発覚し、イネが2歳の時に国外追放となりました。 イネは、シーボルト門下で卯之町の町医者二宮敬作から医学の基礎を学び、石井宗謙から産科を学び、村田蔵六=大村益次郎からオランダ語を学びました。 1859年からヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから産科・病理学を学び、1862年からポンペの後任であるアントニウス・ボードウィンに学びました。 後年、京都にて大村益次郎が襲撃された後は、ボードウィンの治療のもと看護し最期を看取りました。 1858年の日蘭修好通商条約によって追放処分が取り消され、1859年に再来日した父シーボルトと長崎で再会し、西洋医学を学びました。 シーボルトは、長崎の鳴滝に住居を構えて昔の門人やイネと交流し、日本研究を続け、1861年に幕府に招かれ外交顧問に就き、江戸でヨーロッパの学問なども講義しました。 シーボルトは1796年神聖ローマ帝国の司教領ヴュルツブルクに生まれました。 シーボルト家は祖父、父ともヴュルツブルク大学の医師で、医学界の名門でした。 父はヴュルツブルク大学医学部産婦人科教授で、シーボルト家はフィリップが20歳になった1816年にバイエルン王国の貴族階級に登録されました。 父が31歳で死去した後は、ハイディングスフェルに住む母方の叔父に育てられました。 9歳になったときハイディングフェルトに移住し、1810年ヴュルツブルクの高校に入学するまでここで育ちました。 12歳からは、地元の司祭となった叔父から個人授業を受けるほか、教会のラテン語学校に通いました。 1815年にヴュルツブルク大学の哲学科に入学しましたが、家系や親類の意見に従い医学を学ぶことになりました。 大学在学中は解剖学の教授のイグナーツ・デリンガー家に寄寓し、医学をはじめ、動物、植物、地理などを学びました。 1820年に卒業して国家試験を受け、ハイディングスフェルトで開業しました。 しかし町医師で終わることを選ばず、東洋学研究を志して1822年にオランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となりました。 1823年にジャカルタ市内の第五砲兵連隊付軍医に配属され、東インド自然科学調査官も兼任しました。 滞在中にオランダ領東インド総督に日本研究の希望を認められ、鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となりました。 出島内において開業の後、1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、西洋医学=蘭学教育を行いました。 日本各地から集まってきた多くの医者や学者に講義し、中には、高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介らがいました。 塾生は後に医者や学者として活躍し、シーボルトは日本の文化を探索・研究しました。 イネはドイツ人と日本人の間に生まれた女児として差別を受けながらも、宇和島藩主の伊達宗城から厚遇されました。 宗城よりそれまでの失本イネという名の改名を指示され、楠本伊篤=くすもといとくと名を改めました。 1871年に異母弟にあたるシーボルト兄弟の支援で東京は築地に開業したのち、福澤諭吉の口添えにより宮内省御用掛となりました。 1875年に医術開業試験制度が始まり、女性であったイネには受験資格がなく、また、晧台寺墓所を守るため、東京の医院を閉鎖し長崎に帰郷しました。 1884年に医術開業試験の門戸が女性にも開かれましたが、既に57歳になっていたため産婆として開業しました。 62歳の時に娘の高子一家と同居のため、長崎の産院も閉鎖して再上京し、医者を完全に廃業しました。 以後は、弟ハインリヒの世話となり余生を送りました。 1903年に食中毒のため、東京の麻布で77歳で死去しました。 イネは生涯独身でしたが、娘の高子は石井宗謙との間に儲けた子でした。 宗謙は師匠のシーボルトの娘に手をつけていたとして、他のシーボルト門下生から非難されました。 イネに関する史料はあまりにも貧寒とし、イネは歴史の彼方に影絵のように茫漠としています。 著者は通説・誤説・伝承等と史実を開明し、新史料を発掘・駆使して、良質の史料のほぼすべてを本書に収録しました。 イネと娘の高子の実像に迫り、イネと高子の生涯は波瀾万丈で、悲痛なことは想像をはるかに超えていたといいます。第1章 シーボルトの来日と追放/第2章 女医への道/第3章 宇和島/第4章 シーボルトの再来日/第5章 長崎特派員イネ/第6章 明治を生きる
2019.04.06
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