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ブラジル移民は、ブラジルに移民すること、または、ブラジルに移民した人々を指します。 1500年にポルトガル人によってブラジルが発見された当時、ブラジルの人口はおよそ240万人程であったと推定されています。 その後ブラジルはポルトガルによって植民地化され、その後1822年に独立を勝ち取るまで、およそ6万人のポルトガル人がブラジルに移民したと考えられています。 ”移民と日本人-ブラジル移民110年の歴史から-”(2019年6月 無明舎出版刊 深沢 正雪著)を読みました。 25万人もの日系移民が地球の反対側のブラジルに渡ってから110年経ちましたので、その歴史と現在を紹介しています。 独立以降港が開放されるとポルトガル以外の移民も急増しました。 日系、アラブ系、イタリア系、レバノン系、パレスチナ系、アフリカ系、ギリシャ系などのブラジル人です。 ブラジルは世界最大の日系人居住地であり、1908年以降の約100年間で13万人の日本人がブラジルに移住しました。 深沢正雪さんは1965年静岡県沼津市生まれ、1992年からサンパウロ市にある日本語新聞「パウリスタ新聞」で研修し、1995年にいったん帰国しました。 1999年に群馬県大泉町でブラジル人コミュニティの内情を書いた”パラレルワールド”で、潮ノンフィクション賞を受賞しました。 2001年にサンパウロ市の日本語新聞「ニッケイ新聞」に入社し、2004年から編集長を務めています。 地球上で最も日本から遠い場所であるはずのブラジルには、世界最多190万人もの日系人が住んでいます。 ブラジルの日系人がそれだけ多くても、注目される機会はごく少ないです。 日本では、いったん国を出た人は、日本人の視野から飛び出した存在になってしまい、祖国の土を踏むまで思い出されることはないのだ、といいます。 昨今、何ごとも地球規模で考えることが常識になっています。 ですが、日本における人の移動の認識は、なぜか変わらず、日本列島内にとどまっているのです。 日本史上稀に見る民族大移動のはずですが、移民船に乗った途端、歴史の本からは煙のように消えてしまいます。 日本人がどこから来たかは盛んに論じられますが、不思議なことに、どこへ行ったかは論じられません。 ブラジルでは永住資格で住む者も、日本人と認識されています。 日本に住んでいる外国人が、普通にベトナム人、中国人と言われるのと同じです。 ですが、日本の人は、外に出たら日系人と区別したがります。 これは、島国意識が根底にあるのではないか、と思われます。 日本を出た日本人が、移住先の国にどんな影響を与えたか、どんな歴史をたどったかは、広義での日本史、日本史の延長、もしくは世界史と日本史の接触点だと思います。 少なくとも、なぜ彼らが日本を出たのか、どのような傾向の人たちが日本を出ようとしたのかまでは、完全に日本史の範囲内ではないでしょうか。 この部分の話を、この本には集めてあります。 1803年に、陸奥国出身の津太夫や善六ら5名が初めてブラジルに上陸しました。 1892年に、ブラジル政府が日本人移民の受け入れを表明しました。 1895年に、日伯修好通商航海条約が締結されました。 1908年に正式移民が開始され、1915年に初の日本人学校である大正小学校が開設されました。 1941年に日本人移民受け入れが停止され、1942年に日伯国交断絶となりました。 1945年に、第二次世界大戦においてブラジルが日本に宣戦布告しました。 1951年に日伯の国交が回復し、1953年に日本人移民の受け入れが再開されました。 1973年に移民船による移民が廃止され、1989年に日本の出入国管理法が改正され、日系ブラジル人就労者の受け入れが開始されました。 2008年に日本人移民100周年を迎え、2018年に110周年となりました。 世界最大の日系社会が、なぜどのようにブラジルに築かれ、ブラジルに世界にどういう影響を与えたかは、日本が世界に影響力を広げる方法を知ることになるかもしれません。 このようなミッシングリンクは、時をさかのぼって丁寧に調べていかないと、埋めることはできないでしょう。 日本人のメンタリティには、今でもどこか島国意識が残っています。 飛行機の時代になっても、世界と地続きという意識が希薄な人が多いのではないでしょうか。 ですから、移民船で日本を離れた後は、その人の動向は関心の外になります。 でも、地球は狭くなり、現在は出た人もすぐに戻ることがあります。 出た人からの祖国への働きかけ、遠隔地ナショナリズムが世界に影響をあたえている部分もあります。 それに、たとえその移住先のブラジル籍に帰化したところで、心の中までブラジル人になる訳ではありません。 なろうとしても、そう簡単になれる訳ではありません。 だいたい日本語で国内と書くと、日本国内という意味にとられがちで、海外邦字紙としてはとても困ります。 日本語を使っている国は、基本的に日本しかないから仕方ありません。 ですが、海外において数人単位(二世、三世も含めて)で日本語が日常的に使われている場所が幾つかあります。 その貴重な一つがブラジル日系社会であり、日本語圏と言っていい場所です。 日本の日本語とのズレという意味で一番困った言葉は、なんといっても海外につきます。 この言葉が持つ、どうしようもない島国感覚には、いつも頭を悩ませています。 海の向こう=外国という感覚が、日本語の中には染みついている感じがします。 これは、日本以外で生活言語として使われていないことが、主たる原因ではないかと思います。 その反対に、ブラジルに来た当初、現地の新聞で日本に関する記事を読んでいて、よく諸島という表現に出くわして、ハッとさせられました。 島と言えば、伊豆大島とか八丈島のことであり、本州は島ではないと漠然と思っていたのです。 ブラジルの大陸感覚から言えば、日本はたしかに諸島です。 日本人も島国根性という言葉を自嘲的に使います。 ですが、リアルに島に住んでいると日常的に自覚している日本国民はかなり少ないでしょう。 このような感覚が、日本の日本語にはしみ込んでいます。 ブラジルで使われている日本語はコロニア(ブラジル日系社会)語と言われますが、コロニア語には日本を外から見てきた視点があります。 日本の日本語にまとわりついている、島国感覚を浮き彫りにする作用があります。 この大陸の日本語感覚が、いつか日本にフィードバックされれば、グローバルに使える日本語に磨き上げる試金石になるのではないでしょうか。 明治という社会が生み出した海外移住政策は、当時の日本の社会状況を理解しないと移民の本当の気持ちは分かりません。 同様にブラジルという社会が分からないと、移住先で移民がどんな思いをしたのかも分かりません。 国から外にでた日本人の歴史、移民史には、日本国内の歴史のB面が刻まれています。 彼らの想いを書き留めることは、決して余聞ではありません。序章/1 420年前に南米に来た日本人の歴史/2 明治という時代に不満があったものたち/3 マージナルマン/4 カトリック系キリスト教徒の流れ/5 プロテスタントと自由民権運動のつながり/6 明治政府と距離を置いた宮家/7 なぜ日系人の中で沖縄県系人が一番多いのか?/8 ブラジル移民の歴史から学べること
2019.08.31
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白隠慧鶴は1686年に駿河国原宿、現・静岡県沼津市原生まれ、臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧で、幼名は岩次郎、諡は神機独妙禅師、正宗国師です。 15歳で出家して諸国を行脚して修行を重ね、24歳の時に鐘の音を聞いて見性体験したといいます。 “白隠-禅とその芸術-”(2015年2月 吉川弘文館刊 古田 紹欽著)を読みました。 江戸時代中期に禅の民衆化に努め、臨済禅中興の祖といわれる白隠慧鶴の生涯と研鑽の過程を辿っています。 信濃飯山の正受老人・道鏡慧端にあなぐら禅坊主と厳しく指弾され、その指導を受けて修行を続けました。 古田紹欽さんは1911年岐阜県山県郡伊自良村生まれで、10歳で土地の臨済宗妙心寺派の古刹・東光寺に小僧として養われました。 翌年からは郡上八幡町の同じく妙心寺派の慈恩寺に養われ、やがて東京帝国大学文学部印度哲学梵文学科に進学し、1936年に卒業しました。 その後、禅思想を中心とした仏教哲学と日本文化の研究で著名な仏教哲学者で、生涯の師となる鈴水大拙と出会いました。 国内に留まらず広く欧米で持論を講じ、英文の著書も多く、禅をZENという世界共通語となしました。 師を敬愛し、北海道大学、日本大学の教授となり、禅の思想的研究、とりわけ禅の公案や禅僧の語録書の研究に優れた業績を遺しました。 白隠慧鶴は、1700年に地元の松蔭寺の単嶺祖伝のもとで出家し、沼津の大聖寺息道に師事しました。 1703年に清水の禅叢寺の僧堂に掛錫しましたが、禅に失望し詩文に耽りました。 雲棲祩宏の”禅関策進”によって修行に開眼し、諸国を遊方しました。 美濃の瑞雲寺で修行し、1708年に越後高田の英巌寺性徹のもとで、趙州無字の公案によって開悟しました。 その後、信州飯山の道鏡慧端、正受老人のもとで大悟し、嗣法となりました。 正受老人にあなぐら禅坊主と厳しく指弾され、その指導を受けて修行を続け、老婆に箒で叩き回されて次の階梯の悟りを得ました。 のちに禅修行のやり過ぎで禅病となりましたが、1710年に京都の北白川で、白幽子という仙人より内観の秘法を授かって回復しました。 その白幽子の机上にはただ、”中庸””老子””金剛般若経”のみが置かれていたといいます。 この経験から、禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を救いました。 また、他の宗門を兼ねて修道すべきではないと戒めています。 これは他の宗門を排除するためではなく、それぞれの宗門を修めることがそれぞれに成道することに繋がると捉えているからです。 1716年に諸方の遊歴より、松蔭寺に帰郷しました。 地元に帰って布教を続け、曹洞宗・黄檗宗と比較して衰退していた臨済宗を復興させました。 駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠とまで謳われました。 更に修行を進め、42歳の時にコオロギの声を聴いて仏法の悟りを完成したといいます。 白隠はまた、広く民衆への布教に務め、その過程で禅の教えを表した絵を数多く描いたことでも知られています。 その総数は定かではありませんが、1万点かそれ以上とも言われます。 絵はおそらく独学と思われますが、1719年の達磨図はすでに巧みな画技を見せています。 1763年に三島の龍澤寺を中興開山し、1769年に松蔭寺にて示寂しました。 現在、墓は原の松蔭寺にあって県指定史跡となり、禅画も多数保存されています。 本書は1978年に木耳社から出版された古田紹欽著、”白隠-禅とその芸術”の復刊です。 この本は1962年に二玄社から初版がでており、当時より再版が望まれた名著でしたが、発行元で版が焼失したために実現せず、15年を経てやっと再版されたといいます。 白隠という人はその生涯に書きのこした幾多の著述を見てもわかるように、漢詩文にかけても、和語、詩歌、僅謡にかけても傑出した力量をもっていました。 近世の禅者のなかで、この人くらい多才な人はまずいません。 それでいて往々多才の人にありがちな神経質な、才気走ったものを全く見受けることがありません。 何ごとによらず走っては落ち付きを失い、重味・厚床となると坐っているものには到底勝てません。 白隠は才気にかけては走る能力を充分もちましたが、短距離の走者にはなりませんでした。 自からのもったその能力を極力うちに押えました。 白隠の筆と墨との重床・厚味は、いうならば走る能力を持ちながらあえて走らず、じっと坐ることにつとめた重床であり厚床です。 もとより吹けば飛ぶような坐りではなく、脂ぎった重力でどっかと坐ったその重床・厚味は、そこにすごみさえもちました。 白隠くらい墨のもつ重床・厚床を筆に現わし活かした人は、日本の絵画史上まず稀です。 墨の絵画、即ち墨の絵は墨によるものには違いりませんが、水墨画に見られる墨の濃淡とは別に、同じ墨の色ながらそこに重、軽、厚、薄を別けるものがまたあるのです。 その重床・厚床を描くとなると、それは画法の能くするところではなく、この点、白隠と肩を並べてそれを能くなし得た人は或は皆無といっていいかも知れません。 何といっても墨の濃さに見られる白隠の画は素晴しいです。 もし禅を眼で捉えるというのであるならば、あの濃墨をもってした白隠の画なり、書なりを見るのが一目瞭然です。 古来、禅者は好んで達磨像を初めとして多くの祖師像を描いています。 白隠はそれを最も多く画いた一人です。 殊に達磨を画題として選んだものが数多いです。 そこには白隠の筆と墨の重味・厚味がまざまざと知られます。 面壁9年の達磨の坐りっ放しの重床・厚味が確かに見られます。 白隠には、ものを活かし動かす力としての禅がありました。 白隠は修行の心得として、禅味に耽着することを極力誠め、いくら修行を積んでも腐った禅は何の役にも立たないとしました。 さすがに白隠の書画を見ると、その重縁・厚縁の生きて躍動するものが紛ろうかたなく見られます。新版の序にかえて/初版の序/白隠が白隠になるまで/白隠の禅(禅の真実性の追求/孤危険峻と世俗性/禅と学問との間/禅と念仏/坐禅和讃のこと)/白隠の芸術(禅を画く/達磨図/臨済・大灯の画像/自画像/戯画の中の禅/逸格の書/再説・白隠の書画)/最晩年の白隠/あとがき/『白隠』を読む…高橋範子
2019.08.24
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35歳という若さで亡くなった女性画家三橋節子氏については、1977年に梅原 さん氏によって”湖の伝説-画家・三橋節子の愛と死”で紹介されています。 ”空と湖水-夭折の画家 三橋節子”(2019年7月 文藝春秋社刊 植松 三十里著)を読みました。 病気のため利き腕切断後も大作を描き続けた伝説の画家の、35年の凄絶な生涯を描いた長編小説です。 本書は作家の植松三十里さんによる、女性画家三橋節子さんについての伝記的小説です。 植松三十里さんは1954年埼玉県生まれで静岡県育ち、静岡雙葉高等学校、東京女子大学文理学部史学科卒業後、1977年に婦人画報社入社しました。 1980年に退社後は、7年間アメリカで暮らし、帰国後、建築関係のライターとなり、2002年に九州さが大衆文学賞の佳作となり、2003年に第27回歴史文学賞を受賞しました。 2005年に小学館文庫小説賞優秀作品に入選し、2009年に第28回新田次郎文学賞、第15回中山義秀文学賞を受賞しました。 三橋節子さんは昭和14年(1939年)3月3日京都府生まれ、京都市立芸術大学美術学部を卒業しました。 夫は日本画家の鈴木靖将さんは、長男は元バドミントン選手の鈴木草麻生さん、姪はチェンバロ奏者の三橋桜子さんです。 京都市立芸術大学は、京都市西京区大枝沓掛町13-6に本部を置く日本の公立大学です。 1950年に設置され、美術学部は1880年創設の京都府の画学校が起源です。 画学校では、修業年限3年間のうちに文人画や大和絵、狩野派など日本の美術の諸派を学ばせました。 1891年に京都市美術学校と改称、1894年に京都市美術工芸学校と改称、1901年に京都市立美術工芸学校と改称し、1909年に京都市立絵画専門学校を新設・開校しました。 1945年に京都市立絵画専門学校、京都市立美術専門学校と改称、1950年に京都市立美術専門学校をもとに京都市立美術大学が創立されました。 1969年に市立美術大学と市立音楽短期大学が統合し、京都市立芸術大学となり2カ所で開学しました。 1974年に梅原猛教授が学長となりました。 京都市立芸術大学は、古くは京都画壇の中心地であったと言われ、また京都の陶磁器、漆工芸、染織などの地場産業に多くの人材を供給して活発化させました。 明治以来、多くの日本画家、洋画家、版画家、陶芸家、染織家、デザイナー、音楽家、現代美術作家を養成してきました。 1980年に、東山区今熊野の美術学部と左京区聖護院の音楽学部が、洛西ニュータウン付近の西京区大枝沓掛町に統合移転しました。 大津の市街が途切れる山裾に、市内でもっとも歴史ある長等公園が広がっています。 名刹の三井寺と山続きの場所の斜面を登っていくと、節子没後20年目にあたる平成7年に開設された大津市立三橋節子美術館がひっそりとたたずんでいます。 長等公園内にあり、長等創作展示館に併設されています。 長等公園近くにアトリエを構えていた三橋節子さんの作品を収蔵・展示するほか、絵画、工芸制作のためのスペースなどを備えています。 美術の世界にかぎらず、若くして世を去った人の作品には、何かしら私たちはひかれるものがあります。 夭折の理由は、戦争や病気、事故などさまざまですが、おそらくその短い生涯に、作家たちの凝縮された、エネルギーの結晶のようなものを、そこに感じるからかもしれません。 鈴木靖将さんと結婚して3年、節子に子供が2人できて、新進気鋭の画家としても注目される中で、鎖骨にできた腫瘍が見つかりました。 転移を抑えるために、右腕を切らなくていけないと診断されたのでした。 見舞いに来た子供を抱きしめて、片腕を失うのはつらいが、この子たちのために生きると言ったそうです。 節子は画家の命とも言える右腕を切り落とした上で、左手で画業を続け、やがて36年の短い生涯を終えました。 著者はかつて月刊誌で時代を生きた女たちという女性人物伝を、毎月ひとりずつ連載していたといいます。 そこで三橋節子さんを取り上げようと、美術館へ取材に行ったのが最初でした。 展示室で初めて目にした実物は、あらかじめ見たパソコンの小さな画面に映し出されたものとは、まったく印象が異なっていたそうです。 縮小してしまうと単一の色に見えますが、画面全体にペインティングナイフで何色も塗り重ねて、下の色が点描か何かのように顔を出します。 それによって作品に、深みや味わいが表現されていました。 作品の奥に、彼女の短くも、ひたむきな人生が垣間見えました、 その時、三橋節子さんを主人公にして小説を書きたいと思ったといいます。 作中にも登場する夫の鈴木靖将さんは、今も大津市内の自宅を拠点に、日本画家として活躍しています。 著者は、”時代を生きた女たち”を書いた後で、もういちど美術館に出かけて、お目にかかり、小説として書かせていただきたいと、お願いしました。 かつては何度も映画化の話などがあったそうですが、フィクションはべて断ってきたそうです。 でも著者の既刊の作品を何点か読んで、ご了承いただけたといいます。 昭和51年の父親・三橋時雄氏編纂の「吾木香」、昭和52年の梅原猛氏による「湖の伝説 画家・三橋節子の愛と死」、昭和61年の三橋時雄氏の「岸辺-娘三橋節子」などを参照しました。 また、平成30年の春に聞かれた「鈴木靖将展」という個展を訪ねました。 夫婦の馴れ初めや、資料にない厳しい闘病生活のエピソードなどは、直接、教えていただいたものもあるそうです。 それから、三橋節子さんの関係の資料を何度も見返し、些細な記述や絵の片隅からも、節子の心情を推し量りつつ書きました。 作中の出来事は、「吾木香」巻末の年表になぞらえました。 読んで興味を持たれたら、ぜひとも大津の美術館を訪ねて欲しいとのことです。 そして実物を見て、そこに投影された三橋節子さんの生涯を、ご自身の目で確認していただきたいといいます。
2019.08.17
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顔を見る能力といってもさまざまな力があり、顔を見ることは複数の異なる能力に分かれます。 顔を見ることは複雑であり、大切な能力です。 人間にとって重要な機関の集合体で、コミュニケーションツールでもある顔について、いろいろな真実が次々と明かされます。 ”顔を忘れるフツーの人、瞬時に覚える一流の人 「読顔術」で心を見抜く”(2015年1月 中央公論新社刊 山口 真美著)を読みました。 顔のもつ力、顔の魅力、特殊な感情について読み解き、人の顔を記憶することにかけて一流の人とフツーの人の違いをみながら、顔を覚えるテクニックを解説しています。 山口真美さんは1964年神奈川県生まれ、1987年中央大学文学部心理学専攻卒業、お茶の水女子大学大学院人間発達学専攻単位取得退学、博士(人文科学)です。 (株)ATR人間情報通信研究所滞在研究員、福島大学生涯学習教育研究センター助教授を経て、中央大学文学部心理学研究室教授を務めています。 乳児の顔認識の発達についてユニークな手法で研究を続け、日本顔学会理事などを歴任しています。 顔は見る人と見られる人の関係の中にあり、人と話しているときに相手がいい顔に見え出したら、相手もまたこちらいい顔に見てくれているものです。 いい顔とは何かは難しい問題ですが、私たちは顔を客観的に見ることはできず、必ずその人に対するイメージを重ね焼きにしてしまいます。 よく顔は第一印象が大切だといわれますが、それは次に会ったときに、どうしても第一印象を重ね焼きにして顔を見てしまうからです。 顔を見るときにイメージが重ね焼きされるとすれば、相手にどのようなイメージを持たれているかが大切になってきます。 イメージが良ればいい顔に見られますし、悪ければ悪い顔に見られるのです。 人とのコミュニケーションに自信があるか、人に騙されやすいところがあるか、イメージチェンジや化粧をすることは好きな方か、写真に撮られることは好きな方かなど、 これらはすべて顔を見る能力を示しています。 相手の表情からその感情を読み取ることが得意か、人の顔を覚えることが得意か、指名手配の犯人を街中で見つけだすことはできると思うか、 街中で芸能人を見つけることは得意か、幽霊や亡霊を見ることができるかなど、 顔を見る能力といってもさまざまな力があります。 顔を見ることは複数の異なる能力に分かれ、顔を見ることは複雑であり、大切な能力なのです。 ホテルマンらの顔のエキスパートはなぜ、天才的能力を示せるのでしょうか。 相手の顔を覚えることは、究極のおもてなしともいえるもので、顧客の満足は計り知れません。 実際に顔を覚えられるかどうかというと、これはなかなか大変なことです。 顔を覚えることは仕事の上では千人力です。 何十年も会っていない知りあいの顔を、思い起こせることだけでも凄いです。 ましてやその顔を雑踏から探しだすのはフツーの人には難しく、驚異的な能力と言っていいでしょう。 顔を見る能力には個人差があり、人の顔の認知について人一倍優れた能力を保持する人をスーパーレコクナイザーと呼ぶそうです。 スーパーレコグナイザーは、2009年にハーバード大学とユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの研究者が、人並み外れた顔認識能力を持つ人々のために造った用語です。 スーパーレコグナイザーは一度見た顔はほとんど憶えており、何千もの顔を記憶し思い出すことができるといいます。 人口の1~2%がスーパーレコグナイザーであり、これまでに見たことのある顔の80%を思い出すことができると言われています。 ホテルのドアマンのプロフェッショナリズム、天然系のスーパーレコクナイザーについて、あらためて強調したいのは、顔を読む、すなわち読顔術は立派な能力だということです。 本書は、この読顔術を明らかにしていき、その際、認知心理学の顔認知の研究が発見した数多くの知見に基づいて解説しています。 興味がわきそうなエピソ~ドや余談をまじえながら、さまざまな角度から顔を探究していきます。 1限目では、顔のもつ力について証明していきます。 選挙で選ばれるのは、顔だとする研究があります。 人は顔に編されやすく、あちこちに顔が見えすぎる結果、妄想となる可能性もあります。 アイドルの魅力についても考察しています。 2限目では、顔の魅力を読み解いていきます。 日本では、なぜかわいい顔がウケるのでしょうか。 かわいい魅力を美人と比較しながら解読しています。 3限目では、怖いという特殊な感情について読み解きます。 人類がどのように恐怖とつき合ってきたか、その文化差にも触れています。 4限目では、逃亡犯がどうして周囲に気づかれないかを出発点とします。 人の顔を記憶することにかけて一流の人とフツーの人の違いをみながら、顔を覚えるテクニックをマスターしていきます。 5限目では、よい印象をつくりだすための知識を提供しています。 自分を表現するための写真写りや化粧の大切さ、そして目、特に黒目と瞳孔の魅力について読み解きます。 6限目では、顔を読み取る際の文化差と表情の文化差について学びます。 男女の違いについても読み解きます。 顔を読み解くコツと表現のコツ、そして顔の魅力の秘密を把握しておくと、人間関係に役立つことでしょう。オリエンテーション1限目 その問題、「顔学」が役立ちます!/2限目 「かわいい」顔と美人顔、どっちが好き?ー「顔」から魅力を読み取ること/3限目 怖い顔、不審な顔、無表情-恐怖の脳科学/4限目 顔の記憶マスターはどこが凄いのか?/5限目 「よい」印象のつくり方-証明写真から化粧テクニックまで/6限目 異文化間、男女間でこんなに違う「顔」の見方サマリー/文 献/あとがき
2019.08.10
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柳宗悦は民藝の美の発見者として広く知られてきました。 ”柳 宗悦・「無対辞」の思想”(2018年5月 弦書房刊 松竹 洸哉著)を読みました。 民衆的工芸である民藝の美の発見者で日本民藝館を創設した柳 宗悦の、無対辞=一(いつ)なる美一(いつ)なる思想の核心に迫ります。 民藝とは一なる美、つまり、根源の美の提示でした。 しかし無対辞の一なる思想、すなわち、存在するものの一切を全肯定する思想が顧みられることはほとんどありませんでした。 民藝の思想の核心にあったのは、世界を美醜正邪に分けて二元的にとらえる近代思想を超えようとするものでした。 本書は、雑誌”道標”28号(2010年春)から58号(2017年春)にかけて連載された全15回の、”柳宗悦ノート”を下敷きにしています。 恩師と仰ぐ渡辺京二氏に出版のことを強く薦めていただき、弦書房に刊行を引き受けていただいたといいます。 弦書房は福岡県福岡市中央区に本社を置く人文系の出版社で、地元九州や山口関連の著作を多く刊行しています。 松竹洸哉さんは1946年に福岡県八女郡で生まれ、1964年に福岡県立八女工業高電気通信科を卒業しました。 職業遍歴を経て、1973年に福岡県小石原焼早川窯、ついで上野焼英興窯で焼き物の修行をしました。 1976年に熊本県菊池市で独立開窯し、1990年まで個展、グループ展、公募展等で作品を発表し、2000年以降は個展のみを行っています。 柳宗悦は1889年に東京府麻布区市兵衛町二丁目において、海軍少将・柳楢悦の三男として生まれました。 旧制学習院高等科を卒業ごろから同人雑誌”白樺”に参加しました。 東京帝國大学哲学科に進学し宗教哲学者として執筆していましたが、西洋近代美術を紹介する記事も担当しました。 やがて美術の世界へと関わっていき、ウォルト・ホイットマンの直観を重視する思想に影響を受け、芸術と宗教に立脚する独特な柳思想の基礎となりました。 1913年に東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修を卒業し、1914年に声楽家の中島兼子と結婚しました。 母・勝子の弟の嘉納治五郎が千葉・我孫子に別荘を構えていたため、宗悦も我孫子へ転居しました。 やがて我孫子には、志賀直哉、武者小路実篤ら白樺派の面々が移住し、旺盛な創作活動を行いました。 陶芸家の濱田庄司との交友も、この地ではじまりました。 白樺派の中では、西洋美術を紹介する美術館を建設しようとする動きがあり、宗悦たちはそのための作品蒐集をしていました。 フランスの彫刻家ロダンと文通して、日本の浮世絵と交換でロダンの彫刻を入手しました。 宗悦が自宅で保管していたところ、朝鮮の小学校で教鞭をとっていた浅川伯教が、その彫刻を見に宗悦の家を訪ねてきたそうです。 浅川が手土産に持参した染付秋草文面取壺を見て、宗悦は朝鮮の工芸品に心魅かれました。 1916年以降たびたび朝鮮半島を訪ね、朝鮮の仏像や陶磁器などの工芸品に魅了されました。 1924年にソウルに朝鮮民族美術館を設立し、李朝時代の無名の職人によって作られた民衆の日用雑器を展示しました。 民藝運動は、1926年の日本民藝美術館設立趣意書の発刊により開始された、日常的な暮らしの中で使われた手仕事の日用品の中に、用の美を見出し、活用する日本独自の運動です。 21世紀の現在でも活動が続けられています。 日本民藝館の創設者であり民芸運動の中心人物でもある柳宗悦は、 日本各地の焼き物、染織、漆器、木竹工など、無名の工人の作になる日用雑器、 朝鮮王朝時代の美術工芸品、江戸時代の遊行僧・木喰の仏像など、 それまでの美術史が正当に評価してこなかった、無名の職人による民衆的美術工芸の美を発掘し、世に紹介することに努めました。 柳は日本各地の民衆的工芸品の調査・収集のため、日本全国を精力的に旅しました。 また、江戸時代の遊行僧・木喰の再発見者としても知られ、1923年以来、木喰の事績を求めて、佐渡をはじめ日本各地に調査旅行を行いました。 柳はこうして収集した工芸品を私有せず、広く一般に公開したいと考えていました。 当初は帝室博物館に収集品を寄贈しようと考えていましたが、寄贈は博物館側から拒否されました。 1923年の関東大震災の大被害を契機として京都に居を移し、濱田庄司、河井寛次郎らの同士とともに、いわゆる民藝運動を展開しました。 京都に10年ほど住んだ後にふたたび東京へ居を移し、大原孫三郎より経済面の援助を得て、1936年に東京・駒場の自邸隣に日本民藝館を開設しました。 本館は第二次世界大戦にも焼け残り、戦後も民芸運動の拠点として地道に活動を継続してきました。 高度済成長期に民藝運動が隆盛したのは、前近代的な感性を民藝の思想がすくい得たからだったということができます。 しかし日本近代において失われたものが何であったかを問うような問題意識は、今や昔のことであるといいます。 社会的なアイデンティティーにかかわる苦しみと悲しみを宗悦は思想的に俎上し、より普遍的な愛の問題としてこれと向き合っていました。 そこで依りどころとしたのが、美のイデアヘの愛=エロスをもってする”一(いつ)”なる思想でした。 万物は”一者”、すなわち、対辞なき一なるものから流出したものとする新プラトン主義でした。 宗悦はその思想が宿る文学や芸術、キリスト教神秘主義や西洋哲学を渉猟しながら、さらにこれを仏教思想において観ていきました。 そして同時に民衆的工芸、すなわち、民藝という文字なき美の世界を、天性の直観を働かせながらコトバにしていきました。 そこに結晶したのが、西洋美学を対象化した未聞の美の思想でした。 宗悦はその美の思想をもって、世界を分節・差別化して二元的にとらえる近代思想を超克しようとしました。 根幹にあったのは、世界には意味を有しないものはないという全肯定の思想でした。 柳宗悦は単に民藝の美の発見者に止まるものではなく、はるか文明論的な次元でその何たるかを根源的に問おうとした思想家でした。Ⅰ 永遠相に生をみつめて/第一章 文学・芸術・哲学/第二章 神秘主義/第三章 工芸美の発見Ⅱ 此岸の浄土/第四章 民藝―「文字なき聖書」/第五章 民藝運動/第六章 此岸に彼岸をみつめて柳宗悦年譜
2019.08.03
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