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里見義尭=さとみよしたかは1507年に里見実尭の子として生まれ、字は権七郎といい、のち入道して岱叟正五と号しました。 庶家ながら、1534年に北条氏の支援を得て義豊を滅ぼし、嫡家から家督を奪いました。 1537年に北条氏と手切れし以後40年におよぶ対立を続け、上総へ進出してからは久留里城を本拠として、三浦・下総へも進出して勇名をはせました。 ”里見義尭”(2022年8月 吉川弘文館刊 滝川 恒昭著)を読みました。 安房・上総を基盤に庶家に生まれながらも一族の内乱に勝利し、家督を継ぎ里見氏の最盛期を築いた、戦国大名の里見義尭の生涯を紹介しています。 上杉謙信と組んで北条氏と攻防を繰り返し上総支配を固め、戦国大名として里見氏を発展させました。 滝川恒昭さんは1956年千葉県生まれ、1999年に國學院大學大学院博士課程前期を修了しました。 千葉県公立高等学校教員を経て、現在、千葉経済大学非常勤講師を務めています。 里見義堯は安房里見氏の第5代当主の安房の戦国大名で、父親は里見実堯、母親は佐久間盛氏の娘です。 幼名は権七郎といい、官職は刑部少輔で、正室は土岐為頼の娘、子に義弘、堯元、堯次、義政がいます。 いまの千葉県南部から中央部にあたる安房・上総の二ヵ国を基盤に、子息義弘とともに戦国大名里見氏の最盛期を築きました。 中国地方の戦国大名毛利元就、大内義隆などとほぼ同時代の人で、関東で関わりのあった大名では、北条氏康より8歳、武田信玄よりは14歳、上杉謙信よりは23歳年長です。 1533年7月に、里見氏の家中で内紛が発生し、後北条氏と通じていた父実堯が従兄の本家当主義豊に殺されました。 これは稲村の変とか天文の内訌とか言われ、義豊が叔父の里見実堯を殺して家督を奪ったため、実堯の子の里見義堯が仇討の兵を起こして、義豊を討ったとされています。 ですが、近年の里見氏研究によって、これまでの伝承と史実が全く正反対であることが明らかになったといいます。 実堯・義堯父子が仇敵である北条氏綱と結んだクーデターの動きに、義豊が対抗しようとした動きであったと考えられています。 氏綱の軍を借りてクーデターに成功しましたが、真里谷信清が死去して真里谷氏で家督をめぐる抗争が起こると、義堯は真里谷信応を、氏綱は真里谷信隆を支持したため、氏綱と敵対関係になりました。 しかし義堯は関東に勢力を拡大していた氏綱に単独で挑むことは難しいと考え、小弓公方の足利義明と同盟を結んで対抗しました。 そして、1537年に真里谷信隆を攻めて降伏させました。 1538年の第一次国府台合戦で義堯も戦闘に参加しましたが、大将は足利義明であったこともあって、里見軍の主力はあまり積極的に戦いませんでした。 結果として、義明の戦死は義堯にとって関東中央部への飛躍の機会となりました。 義明の死後、義堯は味方側であった下総や上総に積極的に進出し、上総の久留里城を本拠として里見氏の最盛期を築き上げました。 1552年に、北条氏康の策動によって、里見氏傘下の国人領主の離反が発生しました。 1554年に氏康と今川義元、武田信玄との間で、三国同盟が締結されました。 氏康は1553年4月より北条綱成や北条氏尭を派遣して、毎年のように房総半島に侵攻して、沿岸の金谷城や佐貫城を攻略しました。 1555年には、上総西部のほとんどが後北条氏に奪われることになりました。 この事態に対して義堯は北条方についた国人勢力の抵抗を鎮圧し、奪われた領土の奪還を図りました。 越後の上杉謙信と手を結び、太田氏・佐竹氏・宇都宮氏等と同調して、あくまで氏康に対抗する姿勢を見せました。 1556年には里見水軍を率いて北条水軍と戦い、三浦三崎の戦い勝利しました。 1560年に氏康が里見領に侵攻して来ると、義堯は久留里城に籠もって抗戦し、上杉軍の援軍を得て勝利し、反攻を開始して上総西部のほとんどを取り戻しました。 1562年に剃髪し入道して、家督を子の義弘に譲って隠居しましたが、なおも実権は握り続けていました。 1564年に北条方の太田康資の内通に応じて、義堯は義弘と共に敵対する千葉氏の重臣高城胤吉の勢力圏にあった下総の国府台に侵攻し、北条軍を迎え撃ちました。 緒戦では北条方の遠山綱景・富永直勝を討ち取りましたが、翌明け方に氏康の奇襲と北条綱成との挟撃を受け、重臣正木信茂が討死し、第二次国府台合戦に敗戦を喫しました。 これにより義堯・義弘父子は、上総の大半を失い安房に退却し、里見氏の勢力は一時的に衰退することとなりました。 しかしその後、義弘を中心として里見氏は安房で力を養い、徐々に上総南部を奪回しました。 1566年末頃までに、久留里城・佐貫城などの失地は回復しました。 これに対し上総北部の勢力線を維持していた後北条氏は、佐貫城の北方に位置する三船山の山麓に広がる三船台に砦を築き対抗しました。 1567年8月に、義弘の率いる里見軍は三船台に陣取る北条軍を攻囲しました。 北条氏康は嫡男氏政と太田氏資らを援軍として向かわせ、別働隊として3男氏照と原胤貞を義堯が詰める久留里城の攻撃へ向かわせました。 これに対し義堯は守りを堅固にし、義弘は正木憲時と共に佐貫城を出撃して、三船台に集結した氏政の本軍を攻撃して討ち破りました。 水軍の指揮を取り浦賀水道の確保に当たっていた北条綱成は、三浦口より安房へ侵入しようと試みましたが、里見水軍と菊名浦の沖合いで交戦して損害を出しました。 これらの情勢により、水陸から挟撃される危険を察知した北条軍は、全軍が上総から撤退することとなりました。 この三船山での勝利により、里見氏は上総の支配に関して優位に展開し、下総にまで進出するようになりました。 その後も北条氏に対しては徹底抗戦の姿勢が貫かれましたが、義堯は1574年に久留里城にて享年68歳で死去しました。 里見氏の存在自体はいまもよく知られています。 それは江戸時代後期の大ベストセラー、曲亭馬琴「南総里見八犬伝」の影響によるものです。 「八犬伝」は、いまなお歌舞伎・演劇・映画・テレビの題材のみならず、その全体構図や登場人物は姿や形を変えて、アニメ・ゲームといった多様なジャンルのストーリーやキャラクターとして再生産され続けています。 したがって、いま一般にイメージされる里見氏像といえば、「八犬伝」をペースにしたものに、江戸時代以降の人々の想像や願望で作られた系図一軍記などの物語の要素が加味されました。 これはさまざまな事情が積み重ねられて出来上がった、まったく虚構の姿となっていますが、反面、里見義尭の存在はもとより、戦国大名里見氏の正確な歴史はほとんど知られていません。 これまで大野太平さんや川名登さんなどによって、房総里見氏の歴史を解明し、架空の物語によって刷り込まれた虚像を拭い去り、史実に基づいた里見氏の歴史像を描こうとしてきました。 本書もこの路線を継承するなかで、里見義尭の生涯と人物像、さらにその時代を、史料に即して描こうとしたといいます。 しかし、房総里見氏初代とされる義実から義豊まで数代あったはずなのに、その関係史料もほとんどといってよいほど残っていません。 また、義尭は本来なら里見家家督にも、ましてや歴史に名を残すようなことはなかったはずの人物です。 ですが、一族内の権力闘争から発展した内乱の最終的な勝者となって、歴史の表舞台に登場し、以降この義尭を祖とする系統が里見氏の嫡流となりました。 それだけに後世の里見氏継承者からも、義尭はまさに特別な存在として後々まで意識されました。 そのようなことから、義尭が滅ぼした嫡流の系統を前期里見氏、義尭以降の里見氏を後期里見氏と分けて考えることを提唱したといいます。はしがき/第一 義堯の誕生と房総里見氏/第二 天文の内乱と義堯の登場第三 政権確立と復興/第四 小弓公方の滅亡と北条氏/第五 江戸湾周辺に生きる人々/第六 上杉謙信の越山と反転攻勢/第七 第二次国府台合戦/第八 混沌とする関東の争乱/第九 策謀渦巻く関東情勢/第十 義堯の死とその影響/第十一 その後の里見氏)/あとがき/里見家略系図/略年譜 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【新品】里見義堯 滝川恒昭/著里見義堯 北条の野望を打ち砕いた房総の勇将【電子書籍】[ 小川由秋 ]
2023.04.29
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黒田孝高=くろだよしたかは1546年播磨国の姫路生まれ、諱は初め祐隆、孝隆、のち孝高といいました。 通称をとった黒田官兵衛=かんべえ、あるいは剃髪後の号をとった黒田如水=じょすいとして知られています。 ”黒田孝高”(2022年9 吉川弘文館刊 中野 等著)を読みました。 播磨国に生まれ毛利攻めをすすめる織田信長に接近し、のちに豊臣秀吉に臣従しました。 九州平定後の豊前を支配し、領国経営に励んだ官兵衛、如水の号で知られる、黒田孝高の生涯を紹介しています。 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、軍師であり、また、洗礼名ドン・シメオンというキリシタン大名でもありました。 軍事的才能に優れ、戦国の三英傑に重用され、特に豊臣秀吉の側近として、調略や他大名との交渉などで活躍し、のち、筑前国福岡藩祖となりました。 秀吉の参謀と評され、後世、竹中半兵衛とともに、両兵衛、二兵衛と並び称されました。 ただし、このような評価は必ずしも学術的な裏づけをもつものではないという見解もあります。 1589年に子の長政に豊前の所領12万石を譲りましたが、なおも秀吉に用いられ、朝鮮出兵にも参加しました。 秀吉没後に石田三成と対立し、関ヶ原の戦いでは長政を関ヶ原に出陣させ、みずからは豊前に残って大友義統を滅ぼし三成派を一掃しました。 中野 等さんは1958福岡県嘉穂郡生まれ、1985年に九州大学大学院文学研究科博士後期課程を中退し、1995年に豊臣政権の研究で文学博士となりました。 柳川古文書館学芸員、九州大学大学院比較社会文化研究院助教授を経て、2006年より九州教授となりました。 黒田氏は賤ヶ岳山麓の近江国伊香郡黒田村、現在の滋賀県長浜市木之本町黒田の出身とされますが、定かではありません。 孝高の祖父の重隆の代に、備前国邑久郡福岡村から播磨国に入りました。 龍野城主の赤松政秀、後に守護の赤松晴政の重臣で、御着城を中心に播磨平野に勢力を持っていた戦国大名の小寺則職、政職父子に仕えました。 小寺氏は黒田氏を高く評価し、1545年に重隆を姫路城代に任じました。 重隆の子の職隆には政職の養女を嫁がせ、小寺姓を名乗らせました。 孝高は職隆の嫡男として、播磨国の姫路に生まれました。 1561年に小寺政職の近習となり、1562年に父と共に土豪を征伐し初陣を飾り、この年から小寺官兵衛を名乗っています。 1567年頃、孝高は父の職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘の光=てるを正室に迎え、姫路城代となりました。 また、従兄弟の明石則実との同盟を結びました。 1568年9月に、放浪中の足利義昭が織田信長と美濃国で会見して上洛を要請し、三好三人衆を退けて室町幕府15代将軍となりました。 1569年に、毛利元就により滅ぼされていた尼子氏の残党の立原久綱、山中幸盛らが、再興のために決起しました。 尼子勝久を擁して、但馬国の山名祐豊や浦上宗景らに後援され、元就の背後をつく形でした。 元就は義昭に救援を要請し、祐豊に対して木下秀吉が率いる2万の兵が差し向けられました。 さらに、義昭と誼を結んだ赤松政秀が、姫路城に3、000の兵を率いて攻め込んできました。 政職は池田勝正、別所安治らに攻められ、宗景は宇喜多直家に離反され、孝高には300の兵しかありませんでした。 しかし、奇襲攻撃などで2度にわたり戦い、三木通秋の援軍などもあって撃退に成功しました。 政秀は浦上宗景に攻められ降伏し、この後、三好三人衆が一旦は勢力を立て直し、信長包囲網が張られ、義昭と信長の関係も険悪になり始めました。 1573年に、包囲網は甲斐国の武田信玄の発病などにより弱体化し、信長が勢力を盛り返しました。 4月に東播磨の三木城主の別所長治が攻めこんで来て、7月に内紛により三好氏の篠原長房が討死しました。 9月に信長が浅井長政を討って義昭を追放し、12月に浦上宗景が信長と和睦しました。 1575年に、信長の才能を高く評価していた孝高は、主君の小寺政職に長篠の戦いで武田勝頼を破っていた織田氏への臣従を進言しました。 7月に羽柴秀吉の取次により岐阜城で信長に謁見し、信長から名刀を授かりました。 さらに年明けには政職にも、赤松広秀、別所長治らと揃って京で謁見させました。 一方、9月に浦上宗景が宇喜多直家に敗れ、小寺氏の元に落ち延びてきました。 1576年1月に、丹波国の波多野秀治が、赤井直正攻めの明智光秀を攻撃して、信長より離反しました。 2月に義昭は、毛利輝元の領内の鞆の浦へ逃れました。 4月に信長と本願寺の和睦が決裂し、7月に輝元の叔父の小早川隆景配下の水軍の将の浦宗勝が、信長の水軍を破りました。 1577年5月に、毛利氏は本願寺勢力に属していた播磨の三木通秋と同盟し、浦宗勝を通秋の所領である英賀に上陸させました。 孝高は500の兵で逆に奇襲をし、5、000の兵を退けました。 この戦いの後、長男の松寿丸を人質として信長の元へ送りました。 10月に、信長は信貴山城の戦いで松永久秀を討伐した後に、秀吉を播磨に進駐させました。 孝高は一族を父の隠居城である市川を挟んで、姫路城の南西に位置する飾東郡の国府山城に移らせ、居城であった姫路城本丸を秀吉に提供しました。 そして自らは二の丸に住まい、参謀として活躍するようになりました。 1578年に、荒木村重が信長に背いたとき、単身摂津有岡城に乗りこんで説得に当たりましたが、捕らえられて城中に抑留されました。 翌年、信長により有岡城が落ちたとき救出され、以後、秀吉に重く用いられることになりました。 小寺からもとの黒田姓にもどったのもこのころです。 1582年に清水宗治の拠る備中高松城を攻めるとき、地形を見て水攻めが有効であることを秀吉に献策しました。 本能寺の変で信長が殺されたことを知って途方にくれる秀吉に、天下を取る好機とけしかけたといわれています。 その後、山崎の戦、賤ケ岳の戦、そして四国攻めと戦功をあげ、1586年に秀吉本隊の出陣を前に軍奉行として九州に渡り、九州の諸大名に対する勧降工作を精力的に行いました。 九州攻め後、豊前中津城12万石を与えられましたが、1589年に家督を子長政に譲ったものの、まったく隠居したわけではなく、翌年の小田原攻めにも軍師として従軍しました。 1600年の関ケ原の戦のときは、子の長政と共に東軍に属し、長政は家康に従って関ケ原に出陣していました。 豊後中津城で留守を守っていた孝高は、浪人を傭い入れ、旧領回復に動き出した大友吉統の兵と石垣原で戦って破りました。 関ヶ原の合戦の後、徳川家康はまず長政に勲功として豊前国中津12万石から、筑前国名島52万石への大幅に加増し移封しました。 その後、井伊直政や藤堂高虎の勧めもあり、如水にも勲功恩賞、上方や東国での領地加増を提示しました。 しかし、如水はこれを辞退し、その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送りました。 晩年は福岡城に残る御鷹屋敷や、太宰府天満宮内に草庵を構えました。 また、上方と福岡を行き来し、亡くなる半年前には所縁の摂津国有馬温泉に療養滞在しました。 1604年4月19日の辰の刻、京都伏見藩邸にて享年59歳で死去しました。 今日、「軍師」として語られる人物の多くは、江戸期に隆盛した軍学の始祖に位置づけられています。 実際の戦場体験から会得された戦法や陣方を基に理念的な整理され、体系化され軍学が成立し、甲州流・越後流・北条流・長沼流などさまざまな流派として伝授されました。 「軍師」はその体現者として、実際の戦という史実と、理念が求めた虚構の間に、位置づけられました。 いずれにしろ、「軍師」という概念は黒田孝高にとっても後世のものにすぎず、その人物を評するあたって前提におくべきものではありません。 今日の孝高像が創られる上で規定的な役割を果たしたのが、貝原益軒の編著「黒田家譜」でしょう。 貝原益軒は、福岡黒田家に仕えた儒学者でした。 1671年に、孝高の曽孫にあたる福岡黒田家の三代光之は、益軒に黒田家の家史編纂を命じました。 この益軒が17年間をかけて完成させたのが「黒田家譜」16巻です。 今日からみても有用な書物ですが、孝高の没後7、80年を経ての著述であり、また、黒田家の「正史」であるがゆえの限界は否定できません。 説話的教訓的な要素もあると考えられ、史実としての信憑性は必ずしも高くありません。 「黒田官兵衛」ないし「黒田如水」のイメージは、史実とは別次元の場で増幅され、再生産されたと思われます。 とはいえ、一次史料の伝存状況に限りがあることは否めません。 こうした欠を幾分かでも補うため、本書では幕末から明治にかけて活躍した長野誠の遺業に大きく依拠したといいます。 長野誠は、福岡黒田家に仕える長野家の養子となり、幕末の福岡黒田家で、学問所本役や軍事御用1891右筆格などを務めた人物です。 福岡黒田家11代当主の長溥から依頼をうけて、黒田家の家史編纂に従い、1891年に享年84歳で没しました。 本書の目的は、虚実交々に語られてきた黒田孝高の生涯を、当時の一次史料から追い、それをもとに人物像を再構築することにあるといいます。はじめに/播磨・黒田家(孝高の出自と戦国時代の播磨/孝高の祖父重隆/孝高の父職隆)/小寺家の家臣として(孝高の登場/織田と毛利のはざまで/家督継承と織田家への接近/別所長治の謀反/摂津有岡城での幽囚/摂津・播磨の状況)/羽柴秀吉への臣従(黒田苗字に復す/秀吉のもとで/本能寺の変/織田家中の争いと毛利家との対峙)/中国・四国経略(毛利家との領界交渉/小牧合戦と紀州平定/四国出兵/孝高の洗礼)/九州平定(先駆けとしての九州出勢/豊前国内での転戦/日向への侵攻)以下細目略/豊前での領国支配と家督移譲/失意の朝鮮出兵/再起を期した「関ヶ原」/孝高の晩年と慰め/孝高の死/むすびにかえて―その後の黒田家/黒田孝高関係系図/略年譜[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]黒田孝高(315) (人物叢書) [ 中野 等 ]黒田如水 (福岡市文学館選書) [ 福本日南 ]
2023.04.29
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お市の方=おいちのかたは、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性で、小谷の方=おだにのかた、小谷殿とも称されます。 名は通説では「於市」で、「お市姫」「お市御料人」とも言い、別の資料には「秀子」という名も見られます。 ”お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治”(2023年1月 朝日新聞出版刊 黒田 基樹著)を読みました。 織田信長の妹で浅井長政との結婚し柴田勝家と再婚した天下一の美人とされるお市の方の、初めての評伝です。 織田信長の妹として、さらには「天下一の美人」と評された、戦国一の美女として知られています。 その意味で戦国時代の女性としてもっとも著名な一人といえるかもしれませんが、動向を伝える史料は極めて少なく、その生涯については概略しかわかりません。 著名にもかかわらず、実像はほとんど判明しないため、お市の方についての評伝書は、これまでほとんど見られませんでした。 史料が少なく実像も明らかにならないにもかかわらず本書で本格的に取り上げるのは、お市の方の織田家における政治的地位に注目したいからだといいます。 とくに信長死後におけるお市の方の地位が重要なのだろう、と考えられます。 家老筆頭の柴田勝家と結婚し、死後に茶々、初、江の三人の娘が豊臣秀吉に引き取られ、やがて茶々は秀吉の別妻になり秀吉の嫡男の生母になりました。 お市の方は織田家でどのような政治的立場に置かれていたのでしょうか、浅井長政との結婚、柴田勝家との再婚の歴史的・政治的な意味とはどのようなものでしょうか。 黒田基樹さんは1965年東京都世田谷区生まれ、1989年に早稲田大学教育学部を卒業し、1995年に駒澤大学大学院博士課程を単位取得満期退学しました。 1999年に駒澤大学より博士 (日本史学)の学位を取得し、2008年に駿河台大学法学部准教授、2012年に教授となり今日に至ります。 専門は日本の戦国時代・織豊時代史で、相模後北条氏や甲斐武田氏に関する研究を展開しています。 歴史学研究会、戦国史研究会、武田氏研究会の活動もあり、また千葉県史中世部会編纂委員や横須賀市史古代中世部会編纂委員を務めています。 お市の方について、前半生はほとんど記録がなく不明で、実名も一次史料には見られず定かではありません。 通説では、1547年に尾張那古野城内で生まれたとされています。 戦国大名の織田信長の妹または従妹で、信長とは13歳離れています。 通説では、父は織田信秀でその五女と伝えられ、母は土田御前とされています。 しかし、生母については不詳で、土田御前を生母とする説では、信行、秀孝、お犬の方は同腹の兄姉になります。 子に豊臣秀吉側室の茶々、京極高次正室の初、徳川秀忠継室の江がいます。 孫にあたる人物には、豊臣秀頼、豊臣完子、千姫、徳川家光、徳川和子などがあります。 江の娘の徳川和子は後水尾天皇の中宮となり、その娘は明正天皇となりました。 婚姻時期については諸説あり、古くは1564年と考えられてきました。 浅井長政は戦国時代の武将であり、北近江の戦国大名で浅井氏の3代目にして最後の当主です。 浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、北東部に勢力をもっていました。 1565年12月に和田惟政が織田と浅井両家の縁組に奔走したものの、長政側の賛同を得られずに一度頓挫しました。 婚姻は次の機会の、1567年9月または1568年1月から3月ごろであったとされます。 このころ長政側から急ぎ美濃福束城主の市橋長利を介して、信長に同盟を求めてきたとされ、この縁談がまとまって、市は浅井長政に輿入れしたとされます。 この婚姻によって織田家と浅井家は同盟を結びました。 その後、長政との間に、茶々、初、江の3人の娘を設けました。 なお、この時期長政には少なくとも2人の息子が居たことが知られていますが、いずれも市との間に設けられた子供ではないと考えられています。 1570年に信長が浅井氏と関係の深い越前国の朝倉義景を攻めたため、浅井家と織田家の友好関係は断絶しました。 しかし、政略結婚ではありましたが、長政と市の夫婦仲は良かったようです。 なお、江に関しては小谷出生説に異論を唱える史料もあり、小谷城を脱出したのは市と娘2人であり、市は岐阜で江を出産したという説があります。 長政が姉川の戦いで敗北した後、1573年に小谷城が陥落し、長政とその父の久政も信長に敗れ自害しました。 市は3人の娘と共に、藤掛永勝によって救出され織田家に引き取られました。 その後は、従来は市と三姉妹は伊賀国の兄の信包のもとに預けられて庇護を受けていたとされましたが、尾張国守山城主で信長の叔父にあたる織田信次に預けられたという説も出ています。 この説では、織田信次が天正2年9月29日に戦死をした後は、信長の岐阜城へ転居したことになります。 柴田勝家は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名で、織田氏の宿老であり、主君の織田信長に従い天下統一事業に貢献しました。 本能寺の変後の清洲会議で、織田氏の後継者問題では秀吉への対抗もあり、信長の三男・織田信孝を推しました。 明智光秀を討伐した秀吉が、信長の嫡孫の三法師、後の織田秀信を擁立したため、織田氏の家督は三法師が継ぐこととなりました。 ただし近年、実際には三法師を後継者にすること自体には秀吉・勝家らの間で異論はなく、清洲会議の開催は三法師の存在を前提にしていた、とする説も出されているといいます。 この会議で諸将の承諾を得て、勝家は信長の妹・お市の方と結婚しました。 従来は信孝の仲介とされてきましたが、勝家のお市への意向を汲んで、秀吉が動いたと指摘されています。 清洲会議終了後、勢力を増した秀吉と勝家など他の織田家重臣との権力抗争が始まりました。 勝家は滝川一益、織田信孝と手を結んで、秀吉と対抗しました。 ですが、秀吉は長浜城の勝家の養子の柴田勝豊を圧迫したうえ懐柔しました。 次に、岐阜の織田信孝を攻め囲んで屈服させました。 1583年3月12日、勝家は北近江に出兵し、北伊勢から戻った秀吉と対峙しました。 事前に勝家は、足利義昭に戦況を説明し毛利軍とともに出兵を促す書状を出しましたが、義昭では既に時代に合わずうまくいきませんでした。 4月16日、秀吉に降伏していた織田信孝が滝川一益と結び再び挙兵し、秀吉は岐阜へ向かい勝家は賤ヶ岳の大岩山砦への攻撃を始めました。 しかし、美濃大返しを敢行した秀吉に敗れ、4月24日に北ノ庄城にてお市とともに自害しました。 お市の方は、戦国時代の女性としてもっとも著名な一人です。 そのエピソードとして、「天下一の美人」と評されたこと、兄信長に夫長政の離叛を密かに伝えた小豆袋の話がよく知られています。 また信長の死後に、羽柴秀吉がお市の方に想いを寄せていたという話もあるといいます。 しかしそれらのエピソードは、当時の史料によるのではなく、後世成立のものにみられています。 それらが事実かどうか、きっちり検証する必要があるでしょう。 当時の状況を伝える信頼性の高い史料に、「渓心院文」と「柴田合戦記」があります。 そこでは、長政との死別については、「御くやしく」思っていたと、また「ことの外御うつくしく」と、記されているといいます。 そして、柴田勝家と死をともにすることについて、「たとい女人たりと雖も、こころは男子に劣るべからず」と発言したそうです。 そこからは、「美しさ」とともに、非常に信念の強い女性であったことが伺えます。 本書においては、当時の史料、あるいは当時の状況を伝える信頼性の高い史料を中心にして、お市の方の生涯をたどることにしたいといいます。 そのなかでお市の方が、織田家においてどのような政治的地位にあったのか、それが生涯をどのように規定し、また三人の娘の生涯に影響を及ぼしたのか、考えていくことにしたいとのことです。 こうしたことから本書は、お市の方について本格的に検討する、初めての書籍となるでしょう。 巻末には、お市の方に関する重要史料二編を収録しました。 お市の方に関する史料は少ない中、重要にもかかわらず全体を容易に参照できない状態にある史料が存在しています。 お市の方についての記述は一部分にすぎませんが、史料の性格を認識するためには全体の把握が必要になります。 そこで一般の人々や、これからの研究のための便宜をはかって、二編について全文を収録することにしたとのことです。 今後の関連研究の進展に寄与することは間違いないでしょう。 お市の方の生涯については、現状において可能な限り解明することはできたと思いますが、一方で、関連する事柄について課題ばかりが認識されるものとなったといいます。 今後、信長の一族や家族についての解明がすすんでいけば、本書での想定についても考え直さなければならないことも出てくるかもしれません。 それらについての解明が本格的に進展していくことを期待したいといいます。第1章 お市の方の織田家での立場(「お市の方」の呼び名/本名は「いち」/「いち」は「市」であったか/お市の方の姉妹たち/確実に確認できる信秀の娘たち/生年は何年か/姉妹のなかでの長幼関係/母はどのような存在か/信長の養女となったか)/第2章 浅井長政との結婚(結婚に関する唯一の史料/結婚の経緯/浅井長政の前半生/長政は戦国大名か、国衆か/長政と織田信長との関係/三人の娘を生む/小豆袋の話の真実/小谷城からの退去)/第3章 柴田勝家との結婚(織田家での庇護者/柴田勝家と結婚する/なぜ勝家を結婚したのか/信長百日忌主催の意味/お市の方の覚悟/三人の娘を秀吉に引き渡す/お市の方の最期/「天下一の美人」は本当か)/第4章 三人の娘の結婚(秀吉の庇護をうける/秀吉から茶々に結婚の申し入れ/江と佐治信吉の結婚は事実か/初と京極高次の結婚/江と羽柴秀勝の結婚/茶々は秀吉の別妻になる/江と徳川秀忠の結婚)/史料集 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治 (朝日新書895) [ 黒田基樹 ]流星 お市の方上 (文春文庫) [ 永井 路子 ]
2023.04.01
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