全2件 (2件中 1-2件目)
1
![]()
伊能忠敬は、江戸時代に全国を歩いて測量を行って正確無比な日本地図を作りました。 長久保赤水は、あらゆる手段を講じて資料や情報を集めて、伊能忠敬より半世紀早く精巧な日本地図を完成させました。 ”長久保赤水と伊能忠敬の二度咲き人生 日本地図づくりに賭けた二人の男”(2025年6月 共栄書房刊 岡村 青著)を読みました。 伊能忠敬は、緻密な測量で正確無比な日本地図を作りました。 長久保赤水は、実測でないものの半世紀程前に精巧な日本地図を完成させました。 日本地図づくりに賭けた二人の男の二度咲き人生を紹介しています。 赤水は1717年に赤浜の農家に生まれ、幼くして父母を失い継母の手で育てられました。 14歳のころ、鈴木松江について学問や詩の手ほどきを受けました。 その後、水戸の名越南渓に学び学問研究に励み、貧困者や病人などを救うために活躍しました。 52歳のとき、水戸藩から学問の功績によって郷士格に列せられました。 後に、水戸藩主徳川治保の侍講となり、江戸小石川に勤めました。 1779年に、『改正日本輿地路程全図』を刊行しました。 地図の正確さ、詳細さ、便利さが喜ばれ、近代的な日本地図の先駆けとなりました。 その後、大日本史編纂の地理誌の執筆にあたり、75歳まで完成に努力し、1801年に85歳で生涯を終えました。 忠敬は1745年に現在の千葉県九十九里町で名主農家に生まれ、横芝光町で青年時代を過ごしました。 17歳で佐原村の伊能家に婿入りしましたが、この頃は家運が傾き始めていたといわれます。 忠敬は薪や炭などの新しい事業を始め、米の売買も関西方面にまで手を伸ばしました。 家業は再び盛んになり、佐原で家業のほか、村のため名主や村方後見として活躍しました。 その後、49歳で家督を譲り隠居して勘解由と名乗り、50歳で江戸に出ました。 55歳の1800年から71歳まで、10回にわたって測量を行いました。 地図の作成作業は当初、1817年暮れ終了予定でしたが、この計画は大幅に遅れてしまいました。 忠敬が地図投影法に不案内だったためで、早急に投影法を研究して資料作りを始めました。 しかし秋頃から喘息がひどくなり、病床につくようになりました。 1818年に急に体が衰えて、74歳で生涯を終えました。 死後完成した地図は、極めて精度が高く、明治以降において国内の基本図の一翼を担いました。 岡村 青さんは1949年茨城県生まれ、諸雑誌のフリー記者を経てノンフィクションライターとなりました。 『満州帝国崩壊8・15』『世界史の中の満州国』『マッカーサーの日本占領計画』(潮書房光人新社)ほか、多数の著書があります。 長久保赤水は江戸時代中期の地理学者、儒学者です。 常陸国多賀郡赤浜村、現、茨城県高萩市生まれで、俗名は源五兵衛といいました。 号の赤水と字の玄珠は、荘子の天地篇から取られています。 農民出身ですが、遠祖の長久保親政は長久保城主となり長久保氏を称しました。 1731年14歳の頃から近郷の医師で漢学者の鈴木玄淳の塾に通いました。 17歳には江戸に遊学し、服部南郭に学びました。 25歳の頃、鈴木玄淳らとともに名越南渓に師事し、朱子学・漢詩・天文地理などの研鑽を積みました。 地図製作に必要な天文学については、水戸藩の天文家であった小池友賢に指導を受けました。 1768年に『改製日本分里図』が完成しました。 1775年に『新刻日本輿地路程全図』が完成しました。 1779年に『改正日本輿地路程全図』(通称「赤水図」)が完成しました。 1780年に大坂で出版され、赤水生存中に2版、没後3版、修正を重ね発行されました。 茨城県は価値の高い学術資料として、2017年に長久保赤水関係資料693点を有形文化財に定めました。 2020年に長久保の地図や資料群107点は学術的価値が認められ、国の重要文化財に指定されました。 伊能忠敬は、江戸時代の商人、天文学者、地理学者、測量家です。 上総国山辺郡小関村、現、千葉県山武郡九十九里町小関の名主の小関五郎左衛門家で生まれました。 幼名は三治郎、通称は三郎右衛門、勘解由、字は子斉、号は東河といいました。 父親は酒造家の次男で、小関家に婿入りしました。 三治郎の他に、男1人女1人の子がおり、三治郎は末子でした。 1751年6才の時に母が亡くなり、家は叔父が継ぐことになりました。 婿養子だった父は兄と姉を連れて実家の神保家に戻りましたが、三治郎は祖父母の下に残りました。 当時の小関村は鰯漁が盛んで、三治郎は漁具がある納屋の番人をしていたと伝えられています。 10歳のとき、三治郎は神保家の下に引き取られました。 神保家は、父の兄が継いでいました。 父は当初そこで居候のような生活をしていましたが、やがて分家として独立しました。 三治郎は、常陸の寺で半年間そろばんを習い、優れた才能を見せました。 17歳くらいのとき、南中村の名主紹介で土浦の医者に医学を教わった記録があるといいます。 佐原村の酒造家の伊能家は跡取りの婿が亡くなり、後継のミチが再び跡取りを探す必要がありました。 伊能家・神保家両方の親戚の平山家の仲介で、三治郎を伊能家の跡取りすることになりました。 三治郎は形式的にいったん平山家の養子になり、平山家から伊能家へ婿入りしました。 その際、大学頭の林鳳谷から忠敬という名をもらいました。 1762年12月8日に忠敬とミチは婚礼を行い、忠敬は正式に伊能家を継ぎました。 このとき忠敬は満17歳、ミチは21歳で、前の夫との間に残した3歳の男子が1人いました。 忠敬ははじめ通称を源六と名乗ったが、後に三郎右衛門と改め、伊能三郎右衛門忠敬と名乗りました。 当時の佐原村は、利根川を利用した舟運の中継地として栄えていました。 舟運を通じた江戸との交流も盛んで、物のほか人や情報も多く行き交いました。 村民の中でも特に経済力があり大きな発言権を持っていたのが、永沢家と伊能家でした。 伊能家は酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいたほか、利根川水運などにも関わっていました。 しかし、当主不在の時代が長く続いたため、事業規模を縮小していました。 永沢家は事業を広げて名字帯刀を許される身分となり、伊能家と差をつけていました。 伊能家としては、家の再興のため新当主の忠敬に期待するところが多かったのです。 1763年に長女のイネ(稲)が生まれましたが、ミチと前夫の間に生まれた男子は亡くなりました。 1766年には、長男の景敬が生まれました。 忠敬は伊能家の当主という立場から、村民からの推薦で名主後見に就きました。 1769年に佐原の村で祭りにかかわる騒動が起き、忠敬の力量が試される事件となりました。 佐原村は不作続きで農民も商人も困窮したため、倹約を心がけ豪華な山車飾り慎むことに決めました。 にもかかわらず、永沢家よりの山車が引き回されるという事態が発生しました。 伊能家は永沢家と義絶すると宣言したところ、各町は山車を出すことをようやく取り止めました。 しかし、佐原で両家の義絶は村にとって良くないため、仲介により両家は和解しました。 この年、忠敬とミチとの間に次女・シノが生まれました。 幕府では田沼意次が台頭し、利根川流域などに公認河岸問屋を設け運上金を徴収することとしました。 佐原村も河岸運上を吟味するため、名主・組頭・百姓代は出頭するよう通告されました。 商人や船主は公認に乗り気でなく運上は免除願いたいと申し出ましたが、認められませんでした。 その後、紆余曲折ありましたが、伊能茂左衛門と忠敬の2人が河岸問屋を引き受けることになりました。 運上金の金額も、一時は二貫文に上がりましたが、2年後には一貫五百文に戻りました。 この河岸の一件が片づくと、忠敬は比較的安定した生活を送りました。 1774年に、これまで天領だった佐原村は、旗本の津田氏の知行地となりました。 当初は永沢家が重用されましたが、そのうちに忠敬の待遇も上がりました。 1781年に名主の藤左衛門が死去すると、代わりに忠敬が36歳で名主となりました。 名主としての忠敬は、1783年の天明の大飢饉に遭遇しました。 忠敬は村の有力者と相談しながら、身銭を切って米や金銭を分け与えるなど貧民救済に取り組みました。 村やその周辺の住民に米を安い金額で売り続け、佐原村からは一人の餓死者も出なかったといいます。 この年、忠敬は津田氏から名字帯刀を許されるようになりました。 1784年に名主の役を免ぜられ、新たに村方後見の役を命じられました。 村方後見は、名主を監視する権限を持っていました。 1787年に江戸で天明の打ちこわしが起きましたが、佐原村は役人の力を借りずに打ちこわしを防げました。 佐原が危機を脱してから、忠敬は保有の残りの米を江戸で売り払い多額の利益を得られました。 妻・ミチが死去してから間もなく、忠敬は内縁で2人目の妻を迎えました。 1786年に次男・秀蔵、1788年に三男・順次、1789年に三女・コトが生まれました。 妻は1790年に26歳で死去し、忠敬は仙台藩医の娘・ノブを新たな妻として迎え入れました。 この頃、地頭所には断られましたが、忠敬の隠居への思いはなお強かったです。 1793年に3か月にわたって上方への旅に出かけ、方位角、天体観測など測量を行っていました。 1794年に忠敬は再び隠居の願いを出し、地頭所は12月にようやくこれを受け入れました。 忠敬は家督を長男の景敬に譲り、通称を勘解由と改め江戸で暦学の勉強をする準備をしました。 1795年に、妻・ノブは難産が原因で亡くなりました。 忠敬は天体観測のための器具を購入し、自宅に天文台を作り観測を行いました。 観測機器は象限儀、圭表儀、垂揺球儀、子午儀などで、質量とも幕府の天文台に劣りませんでした。 忠敬は、太陽の南中以外には、緯度の測定、日食、月食、惑星食、星食などを毎日観測しました。 星の観測も、悪天候の日を除いて毎日行いました。 1800年の2月頃に、幕府は、測量は認めるが荷物は蝦夷まで船で運ぶと定めました。 しかし、船で移動したのでは道中に子午線の長さを測るための測量ができません。 そこで陸路を希望しましたが、測量器具などの荷物の数は減らされました。 4月14日に、幕府から正式に蝦夷測量の命令が下されました。 忠敬は出発直前に、蝦夷地取締御用掛の松平信濃守忠明に申請書を出しました。 忠敬一行は1800年4月19日に、自宅から蝦夷地へ向けて出発しました。 忠敬は当時55歳で、内弟子3人と下男2人を連れての測量となりました。 寛政12年(1800年)、56歳から、文化13年(1816年)まで、17年をかけて日本全国を測量しました。 そして、1818年5月17日に73歳で死去しました。 その後は弟子たちが遺志を受け継ぎ、『大日本沿海輿地全図』を完成させました。 二人とも地理学者で地図の作成者、そして農民出身と共通点は多いです。 ただし、二人のあいだには28年の年齢差、時代差がありました。 著者があげる二人の汪目点は、大きく4つの理由があるといいます。 一つ目は、二人にとって50代が人生において大きな転機、ターニングポイントになったということ。 二つ目は、二人が生きた江戸時代中期の平均寿命は、男女とも大体51歳であったということ。 三つ目は、二人とも農民出身であったということ。 そして四つ目は、二人とも引退後に人生を謳歌したということです。 名を成し功をとげた者の常として、地位に固執し守りに入るのが相場です。 しかし二人はまったく逆で、人生に対してまっつぐ、いつも前傾姿勢でした。 政治権力や損得勘定におもねず、打算や思惑などとは無縁でした。 独自の着想で、ほとんど独力でおのれのやるべき事業を全うしました。 死ぬまで現役を押し通し、ずっと青春しながら人生を二倍、それ以上大いに楽しみました。 リタイア後といえども、余生などではなく、現役、いやそれ以上のものです。 人生二度咲きの秘訣は、リタイア後にあります。 二人が試したリタイア後の人生から、私たちは教訓として学び取ることができます。第一章 夢は末広がりに/第二章 身分制度の呪縛をこじ開けた二人/第三章 助走から跳躍へ/第四章 人生を二倍楽しんだ二人の男/第五章 二人の天命/第六章 晩年に引きも切らない大仕事/第七章 生き方まっつぐ [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]長久保赤水と伊能忠敬の二度咲き人生 日本地図づくりに賭けた二人の男 [ 岡村 青 ]清學の士 長久保赤水[本/雑誌] (単行本・ムック) / 横山洸淙
2025.10.25
コメント(0)
![]()
アラン(Alain)はペンネームで、本名はエミール=オーギュスト・シャルティエといいます。 フランス第二帝政時代のノルマンディー・モルターニュ=オー=ペルシュ出身の、哲学者、評論家、モラリストです。 ”アラン 戦争と幸福の哲学”(2025年6月 筑摩書房刊 田中 祐理子著)を読みました。 20世紀前半にフランスの思想界に大きな影響を与え、二度の世界大戦を生き抜いた、合理的ヒューマニズム思想家アランの評伝です。 ペンネームのアランは、フランス中世の詩人、作家であるアラン・シャルティエに由来します。 1868年生まれで、リセ・ミシュレやエコール・ノルマル・シュペリウールに入学し、哲学を専攻しました。 リセ・ミシュレで、教師だった合理主義哲学のジュール・ラニョーの講義を受け、後々まで大きな影響を受けました。 卒業後は、ポンティヴィやロリアン、ルーアンに位置するコルネイユ高等学校などのリセで教師を務めました。 1909年から、アンリ4世高等学校に哲学を教える教師として務めました。 過去の偉大な哲学者達の思想とアラン独自の思想を絡み合わせた哲学講義は、学生に絶大な支持を受けたといいます。 レイモン・アロンやジョルジュ・カンギレム、シモーヌ・ヴェイユ、ジュリアン・グラックなどの作家・学者・思想家を輩出しました。 第一次世界大戦が始まると、46歳で自ら願い出て志願兵となり好んで危険な前線に従軍しました。 戦後は再びアンリ4世高等学校に戻り、1933年頃まで教師を務めました。 教師を退職した後は、亡くなるまで執筆活動を続けました。 1951年6月2日に、フランスのル・ヴェジネにて83歳で没しました。 田中祐理子さんは1973年埼玉県生まれ、2000年に東京大学大学院総合文化研究科博士課程を単位取得退学しました。 2000年に日本学術振興会 特別研究員となり、2001年に京都大学人文科学研究所の助手となりました。 2009年に同研究所の助教となり、2018年に同大学白眉センターの特定准教授となりました。 2021年に神戸大学大学院国際文化学研究科の準教授となり、2025年に教授となりました。 東京大学博士(学術)で、専門は哲学・科学史です。 アランはフランス各地の高校で、哲学の1教師として生涯を貫きました。 アランが生きたのは、世界が大きく転換していった時代でした。 第一に、第二次産業革命で人々のライフスタイルが大きく変化しました。 第二に、帝国主義の延長線上に二度の大きな戦争がありました。 第三にロシア革命をはじめとする革命の機運が高まった時代でした。 そして、第四に、1929年にアメリカのウォール街から広がった金融危機が世界大恐慌へと発展しました。 目まぐるしく変化する社会にあって、人々の不安が蔓延していた時期でした。 19世紀末のフランスは、第二次産業革命の恩恵と、植民地からの収益によって繁栄していました。 人々は富を享受しましたが、必ずしも平等に富が分配されたわけではありません。 新興ブルジョワジーが出てきましたが、貧者は相変わらず厳しい労働にさらされていました。 20世紀になると、サラエヴォ事件をきっかけに第一次世界大戦が勃発しました。 アランは1874年、6歳のとき、カトリック系の規律の厳しい学校に入れられました。 冒険譚に親しみ空想を好んだアランは、勉強には興味を示さなかったものの成績は良好でした。 国立高等中学校でも優秀な生徒で、どの科目もよくできたそうです。 教師からは高等理工科学校を勧められましたが、受験には失敗しました。 そして、パリのミシュレ校に進学することになりました。 ここで17歳年上のジュール・ラニョーという教師に出会い、哲学に目覚めました。 とくに、プラトンとスピノザについて学びました。 1892年に24歳で高等師範学校を卒業し、哲学の先生になりました。 その後は、フランス各地の高校を転々としました。 アランはラニョーのことを、自分が出会った唯一の偉人と称えました。 1894年にラニョーが亡くなり、のちにその作品を『ジュール・ラニョーの遺稿』と題してまとめました。 1894年のドレフュス事件では、ドレフュス擁護派の論客として活躍しました。 ドレフュス大尉が逮捕されたのは、冤罪のためでした。 これによって、アランの名は世に知られることになりました。 1900年から、ロリアン新聞にアランというペンネームで寄稿するようになりました。 民衆大学という啓蒙活動に参加し、科学などを教えたり講演や論争したりしました。 1930年代には、反ファシスト知的監視委員会を組織しました。 相変わらず一高校教師であることを貫き、1909年にはパリの名門アンリ四世校に移りました。 引退するまで、この高校で教鞭を執りました。 1925年に57歳のときに、『幸福論』の初版がプロポの数60編で出版されました。 第1次世界大戦前後の執筆した文章から、幸福をテーマとしたものを集めて編纂した書です。 プロポは断章と呼ばれ、短くて独立したコラム的な形式で書かれています。 『幸福論』は加筆され、93編のプロポから成っています。 難解で観念的な哲学書と異なり、平易な言葉で書かれた思索の本です。 アランは1933年にアンリ四世校を退職しましたが、その後も執筆を続けました。 新聞への寄稿も精力的に行い、連載した文章は膨大な数に及んでいます。 アランは、二度の世界大戦を生きた哲学者でした。 一度目の大戦では、徴兵対象の年齢を超えていながら志願兵となってフランス東部の前線に赴きました。 深刻な怪我を負いながらも、3年間の軍役を果たして生還しました。 二度目の大戦では、老境のため戦場に立つことはありませんでしたが、戦争に反対しました。 そして、ナチスドイツ支配下でヨーロッパ各地に生じた民族的憎悪と虐殺の事実に直面しました。 戦争とは石と同じように、無遠慮で執拗に人間たちに圧おしつけられている事実です。 石は情け容赦なく存在する、石は私たちの同意を必要としません。 厳然としてそこにある事実たる石を前に、純然たる理念の絶望的な弱さの直視から出発します。 人々がこの理念の方に向けて、石から離れる一歩を踏み出すことを願い告げるといいます。 アランは生涯独身を貫いていましたが、1945年に77歳のときかつての恋人と再会して結婚しました。 そして、1951年に83歳で亡くなりした。 数々の教室や、より広く人々に哲学や科学を講じる民衆大学などで、終生、教師であり続けました。 アランは、短く、一見とてもシンプルとも思える言葉で、自分の哲学を伝え続けました。 一つの主題ごとに便箋2枚ほどの言葉で書かれるプロポは、手紙のように読者に話しかけました。 しかし、語り続けた言葉は、甘くやさしいものばかりではありませんでした。 正義や真理は最も強いものなどと、決して言ってはならないといいます。 現実離れしている理念が、それ自体で最も強いものとしての力を持つことはあるわけありません。 美しい理念と私たち人間の関係は、決してそんなに都合のよいものではありません。 だからこそ私たちは、幸福であろうとしなければなりません。 いま現実としてないものだからこそ、それであろうとします。 いつでも、すべての力を振り絞って私たちはそれを求めなければなりません。 「アラン?彼はいま煉獄にいるし、おそらくはしばらくの間そうだろう。」第一章 〈共和国〉の申し子―アランの生と哲学/第二章 なぜプロポで語るのか/第三章 第一次世界大戦と『マルス 裁かれた戦争』(1921年)/第四章 鏡でしかない知性の時代へ/第五章 第二次世界大戦との戦い/第六章 煉獄の思想―人間はどれほどのことができるのか [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]アラン 戦争と幸福の哲学 (ちくま新書 1862) [ 田中 祐理子 ]【中古】 アラン『幸福論』/哲学・心理学・宗教(その他)
2025.10.11
コメント(0)
全2件 (2件中 1-2件目)
1