全24件 (24件中 1-24件目)
1
アニメ「烏は主を選ばない」の最終話。いろんな謎を残しつつ、大まかな世界観が示されたところで終わりました。…不知火は、現代の人間社会の夜景でした。八咫烏の世界は、結界に守られてるものの、肥大しつづける人間世界に侵食されてる。人間世界が、他の生物世界を侵食してる…みたいな構造は、「もののけ姫」や「千と千尋」や「トトロ」に共通します。いちばん分かりやすいのは「アリエッティ」かな。この物語は、それを《向こう側》から見てるわけですね。◇人間世界と八咫烏世界の境界には、狂暴な猿がいて…猿は、八咫烏の娘も喰ってましたが、それ以上に数多くの人間を喰ってる。そして、八咫烏にとっても、人間(仙人蓋)を摂ることには、麻薬のような魅力がある。そう考えると、八咫烏と猿は、「敵の敵は味方」みたいな関係ともいえます…。◇同時に、八咫烏の世界は、人間世界の縮図のようでもある。朝廷の内部には権力闘争があって、地上世界と地下世界の間にも綱引きがある。…小梅の母親の初音は、八咫烏の娘たちを猿に売り飛ばしてたけど、じつは彼女自身が、幼いころに親から売り飛ばされた被害者であり、八咫烏の世界から見捨てられた《無敵の人》。毒親のもとに生まれて、みずからも毒親になった人です。そこには毒親の連鎖がある。彼女は、八咫烏の世界には恨みしかなかった。むしろ「猿に感謝してる」と言ってましたね。◇初音は処刑されたんでしょうか?真の金烏たる若宮は、いかなる悪人でも八咫烏を殺せないそうですが。…そして、以下のXのリンク先は、「アニメの冒頭と最後に関わる重大な場面」とのこと。雪哉の出生の秘密も書いてある。すまないな、とはっきりとした御内詞みうちことばを話し、大烏は首をかしげた。「私が中途半端に結界を繕ってしまったものだから、ほころびに足を取られていたのだ」やっぱり冒頭の大烏は若宮だった。八咫烏は、最初は卵から孵って、しばらくは雛鳥として育つんですね(笑)。いよいよ最終回を迎えたNHKアニメ『#烏は主を選ばない』。阿部智里さんの原作「#八咫烏シリーズ」外伝「#ふゆきにおもう」にはアニメの冒頭と最後に関わる重大な場面が描かれています🖊若宮と雪哉の本当の出会いがここに…雪哉の母君が主人公の本作が特別無料公開です💘▶https://t.co/V8TybbFEEr— 八咫烏の壺@阿部智里「八咫烏シリーズ」原作アニメ『烏は主を選ばない』放送中! (@yatagarasu_abc) September 21, 2024 烏は主を選ばない(5) (イブニングKC) [ 阿部 智里 ] 楽天で購入
2024.09.22
アニメ「烏は主を選ばない」18話を見ましたが…世界観が謎すぎる…!前々から、> 八咫烏が「人の姿」をしてるってことは、> どこかに「本物の人間」もいるのかしら?とは思ってたけど…結界の外に人間が住んでて、しかも現代人?自動車が走ってて、ヘリコプターが飛んでる??…どんな世界観??◇現代の地球のどこかに、結界に守られた八咫烏の世界があって、江戸時代の日本人みたいな生活をしてると。そして、結界の周辺には巨大な人食い猿が住んでる。水売りの男は、若い娘たちを生贄にして、猿から人間の骨を手に入れ、それを「仙人蓋」という生薬にして、水に混ぜて売ってたらしい。それは一種のアヘンであり、その水を飲んだ八咫烏は中毒になって、烏になったまま人に戻れなくなる。◇いずれ、本物の人間も登場するのかしら?しかも現代人ってww追記:人の頭蓋骨を「仙人蓋」と称して生薬に利用する文化は実在したようです。https://ja.wikipedia.org/wiki/ヒトに由来する生薬頭蓋骨「天霊蓋」:初出は『開寶本草』であり、『本草綱目』には「脳蓋骨」や「仙人蓋」の名も載せられている。日本では、平安時代の『和名抄』に「比止加之良保禰」の名で収載されているほか、林羅山の『多識編』では「志也礼加宇倍之保禰」として記載されている。烏は主を選ばない(5) (イブニングKC) [ 阿部 智里 ] 楽天で購入
2024.09.08
上田誠が脚本を書いたとのことで、《ドラえもん誕生日スペシャル》を見てみました。ドラえもんをまともに見たのは何十年かぶり!声優が変わってから初めてです…(笑)◇タイトルは「のび太とギリシャのケーキ伝説」。去年の吉岡里帆の「トキコイ」もそうでしたが、https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202310110001/上田誠お得意のタイムトラベルものです。ドラえもん誕生日スペシャル「のび太とギリシャのケーキ伝説」今夜18時56分から放送です。タイムマシン使うよ!行き先は古代ギリシャです。ドラえもんお誕生日おめでとう。(誕生日は9/3、放送はきょう9/7)#ドラえもん誕生日スペシャル pic.twitter.com/wsPpnYoB29— 上田誠(ヨーロッパ企画/脚本家) (@uedamakoto_ek) September 7, 2024現在のバースデーケーキの元になったのは、古代ギリシャで、月の女神アルテミス誕生を祝う際の、蜂蜜入りケーキだそうですが、なんと、「ギリシャ人にケーキを教えたのはしずかちゃんだった!」というテルマエ・ロマエのギリシャ版みたいなお話。◇ケーキだけじゃなく、ギリシャ神話も誕生させてました(笑)。イカロスはのび太くん、ダイダロスはドラえもん、アリアドネはしずかちゃんだった…というオチ。むかしむかし、海の向こうに、迷宮に閉じ込められた牛頭人身の怪物ミノタウロスがいた。生贄たちは船で運ばれ、捧げられて餌食とされた。そこにまぎれて勇者テセウスは迷宮に入り怪物を倒し、王女アリアドネの糸をたどり迷宮をみごと抜け出した。囚われていた職人ダイダロスと息子のイカロスは空へ羽ばたき飛び立ったが、イカロスは飛びすぎて羽根が朽ち海へ落ちた。アリアドネの糸は「世話焼きロープ」。イカロスの羽根は電池切れの「タケコプター」でした。◇ところで、ギリシャといえば…本村凌二の「地中海世界の歴史」全8巻が話題です。東方オリエントから地中海史をとらえる試み。わたしも以前から、マーティン・バナールの「黒いアテナ」に注目してたので、ちょっと興味があります。地中海世界の歴史1 神々のささやく世界 オリエントの文明 (講談社選書メチエ) [ 本村 凌二 ] 楽天で購入
2024.09.08
アニメ「烏は主を選ばない」16~17話。作画レベルが向上してて見ごたえがあります。内容も重要だったと思うけど、「火の鳥」とか「エヴァ」とか「鬼滅」みたいなモチーフや、セリフのなかの社会構造の概念が見えすぎる気もする。◇ゾンビみたいに増殖する人食い猿。山内は結界で守られてて、外界には不知火が見える。満月に咲く藤の花は結界を補強する。不知火は「火の鳥」に出てくる。結界は「ヱヴァンゲリヲン」のATフィールドみたい。血を分けて増殖する人食い猿は「鬼滅」の鬼と同じだし、満月に咲く藤の花が邪気を払うのも「鬼滅」っぽい。◇金烏が天皇の比喩で、谷合の人々は非人の比喩みたいな感じ。そうなると話は「もののけ姫」みたいになってくる!両者は極秘の協定で結ばれている。協定破りの疑惑は、谷合の側の早とちりだったけど、そもそも協定の中身は何なのか分からない。水売りの娘を連れ出すことが、なぜ協定破りになるのでしょうか?◇地下の隧道の奥には綺麗な池があって、その先が人食い猿の住処になってるみたい。人骨が山のように積まれてる。そういえば、「もののけ姫」のシシ神さまの住処も、森の奥にある池の先でしたよね。小梅の父が売っていた水は、あの池に関係してる?◇そして、極秘協定も、人食い猿も、あの池の水に関係してる?水の滋養は、猿に食われた八咫烏のエキスってこと?…だとすれば、その水を飲むことは、いわば八咫烏どうしの「共食い」になる。結界の外から猿が侵入したのでなければ、水を飲んだ八咫烏が「猿化」したのかも。牛骨粉を食べた牛が狂牛になっちゃう的な感じで。八咫烏のエキスを摂取しなければ、生きていけない生き物になっちゃった?◇猿に襲われたところを助けてくれたのは若宮!若宮の代わりにここに来たってのに、なぜ若宮がここにいる?どゆこと?水と猿と極秘協定が、金烏の“聖性”の秘密にまで関わるとすれば、かなり本格的な話になってくると思うけど、どうなんでしょうね。不知火の見えた時雨郷は、幼いころの雪哉が崖から落ちて、大きな八咫烏に助けられたときの、第1話の冒頭の記憶を蘇らせました。あの巨大八咫烏は、やっぱり真の金烏だった?烏は主を選ばない(5) (イブニングKC) [ 阿部 智里 ] 楽天で購入
2024.09.01
アニメ「烏は主を選ばない」を見てますが、難しいというか、とても分かりにくい!今回の特別総集編のおかげで、ようやく物語の全貌が理解できたかなって感じ。話が分かりにくいのは、どんでん返しがやたらに多いからですが、どんでん返しが明らかになってもなお、その背景を理解するのはかなり難しい…(^^;正直、ついていくのが大変です。◇そして技術的な面でいうと、キャラクターの見分けがつかないのも、物語をいっそう分かりにくくしてる。漫画のアニメ化じゃなくて、小説のアニメ化ということもあり、キャラクターデザインがいまいちなのよね…。服装や髪型が違うだけで、ほとんど同じような顔をしてるから、見分けがつかないし、感情移入もしにくい。むしろ実写にしたほうが、登場人物に感情移入しやすいだろうし、そのほうがどんでん返しの衝撃も大きいと思う。ちなみに、松崎夏未によるコミカライズ版もあるらしいのだけど、そちらのキャラクターデザインはどうなんでしょうね。◇以下は真相ネタバレです!1.長束と若宮の対立長束なつかと若宮わかみやは腹違いの兄弟で、どちらが金烏の座に就くかを争ってる。長束派は、彼の実母で皇后の「大紫おおむらさき」、武闘派の「路近ろこん」、穏健派の「敦房あつふさ」など多数。若宮派は、彼の幼馴染の「澄尾すみお」、庭師の「一巳かずみ」、主人公の「雪哉ゆきや」の3人だけ。しかし、じつは兄弟は敵対しておらず、兄は弟の味方だったというオチ!あえて長束派を束ねて監視と粛清を行ってただけで、武闘派の路近も若宮の味方だった。若宮の暗殺を企んでいたのは、穏健派の敦房だった…というオチです。2.白珠と一巳の純愛白珠しらたまの想い人は、庭師の一巳だった。その気持ちを押し殺して、北家のために后候補として登殿してただけ。桜花宮での密会のあと、一巳が藤宮連の滝本たきもとに斬り殺されたと勘違いして発狂したものの、じつは一巳は生きていたので、白珠は后候補から離脱して最愛の一巳と結ばれた。3.あせびの罪若宮の実妹である藤波ふじなみは、姉妹のように育ったあせびのことを慕って、彼女を兄の后にしようと目論み、兄から他の姫たちへの手紙を握りつぶす不正を働いてた。一方、あせびは桜花宮の規則を破って下男を呼び寄せた。本人は「母の秘密を知るためだった」と弁明するけれど、どうやら下男をそそのかして、彼が真赭の薄ますほのすすきを暗闇で襲うように仕向けたっぽい(異母姉の双葉ふたばのことも同じ手口で陥れたっぽい!)。藤宮連の滝本に斬り殺されたのは、一巳ではなく、その下男でした。下男に宛てたあせびの手紙を代読して、その陰湿な策略を察知した早桃さももも、あせびから危険視され、あせびの意を汲んで宿下がりを強要した藤波に突き落とされて事故死。4家の姫のなかで、心から入内を望んでたのはあせびだけですが、若宮にその本性を見破られて拒絶された。4.浜木綿の謎浜木綿はまゆうは、若宮の母を殺した罪人の娘でしたが、その地位を回復すべく南家の陰謀に屈し、若宮を暗殺しようと登殿してたらしい。しかし、一巳と通じていた白珠にその正体を暴露されて逃亡。ところが、入内を拒否して出家した真赭の薄が、なぜか浜木綿を匿ってました。その理由は謎。そして若宮は結局、4家のどこにも属さない浜木綿を入内させる。若宮は彼女と幼馴染みだったらしいけど、母の仇の娘でもあり、自分の暗殺まで企んだ女性なのに、なぜ妻に選んだのかは謎です。烏は主を選ばない(1) (イブニングKC) [ 阿部 智里 ]価格:759円(税込、送料無料) (2024/7/8時点) 楽天で購入
2024.07.11
かねてから浜辺美波が推してた、阿部智里のファンタジー小説「八咫烏シリーズ」。わたしは、今回のアニメ化ではじめて触れたのですが、設定を理解するのがなかなか大変でした。ようやく第4話あたりで分かってきた感じ。簡単にいったら、皇位継承&お妃選びをめぐる権力闘争なのですね。その意味ではシンプルな物語だといえる。東・西・南・北の4家が争ってます。主人公の雪哉くんは、真の金烏たる皇太子に仕える狂言回し的な役どころ。◇皇位の長子相続制に反して、「金烏の生まれ変わりこそが皇位を継ぐべし」という謎の伝承があって、それが混乱の原因になってるのだけど、この《転生者による継承》という発想は、ダライラマとかサイババとかに似てますよね。その一方、《太陽にカラスがいて、月にウサギがいる》…という「金烏玉兎きんうぎょくと」なる考え方は、古代中国や日本神話に由来してるそうです。◇そもそも、この物語でいちばん謎なのは…すべての登場人物が、ことごとく八咫烏ヤタガラスの化身だってことw普段は人間の姿をしてるけど、どういうときにカラスになるのかいまいち分からない。カラスの本性を晒すのは卑しいことなの?第1話の冒頭では、幼いころの雪哉くんが巨大なカラスに助けられてましたが、その過去に何の意味があるかもまだ分かりません。…なお、アニメの作画については、女性キャラの顔がイマイチなのが残念です。◇原作は長大なファンタジーシリーズらしく、さながら栗本薫の「グイン・サーガ」とか、日本版「ハリポタ」みたいな感じなのかも。『烏に単は似合わない』からはじまる阿部智里さんの八咫烏シリーズの新刊『楽園の烏』がほんとにすきでした!!だいすきなシリーズの新刊で、読むのを楽しみにしていました🦦今回から新章開幕ということで🐳ぞくぞくしました!!面白すぎて1日で読んじゃいました!!なんといっても、私が好(文字数) pic.twitter.com/QPQj0UNAQ4— 浜辺美波 (@MINAMI373HAMABE) September 6, 2020 🪶キャラクター相関図🪶第1話から登場人物がすごく多い…!という声を受けまして、人物相関図を公開いたします🐦⬛ぜひ予習・復習にご活用ください!▼各種配信サービスhttps://t.co/k2OR96c6BP▼NHKプラスhttps://t.co/IU4GbrVSHi#烏は主を選ばない #yatagarasuhttps://t.co/L3Xy7zK51e pic.twitter.com/ZQ2LFyI7yl— アニメ『烏は主を選ばない』NEP公式 (@nep_yatagarasu) April 11, 2024
2024.05.07
放送からだいぶ経ちましたが、Eテレで映画「KUBO/クボ 二本の弦の秘密」を見ました。日本が舞台になってますが、作ったのはアメリカ人。日本文化のモチーフがいろいろ散りばめられてる。◇以下は、Wikipediaの解説。封建時代の日本を舞台に、左目を盗まれ、魔法の三味線を操る主人公のクボを中心に展開する。クボは擬人化されたニホンザルとクワガタムシを仲間に、邪悪な叔母そして左目を奪った祖父のライデン(月の帝)を倒す宿命を課せられる。https://ja.wikipedia.org/wiki/KUBO/クボ_二本の弦の秘密三味線や雪山の猿が出てきたり、盆踊りや灯篭流しの場面もあるので、近世の青森や秋田の白神山地あたりが舞台?…かとも思いました。なお、灯篭流しの起源は「水灯会すいとうえ」で、江戸時代に京都・宇治の万福寺などで行われていたようです。水灯会は、七月十六日の夕、川や湖に火をともした紙灯籠を流すこと。盂蘭盆会の川施餓鬼の行事の一種。https://ouchidehaiku.com/contents/353225水死人の霊を弔うために川岸や舟の上で行う施餓鬼供養は「川施餓鬼」といい、夏の時期に川で行なわれる。https://ja.wikipedia.org/wiki/施餓鬼◇その一方、母が「月の帝の娘」という設定は、平安時代の竹取物語/かぐや姫っぽくもある。また、かりに「KUBO」が公方のことなら、それはおもに足利一族の称号だろうと思えます。もともとは天皇や将軍の意味ですが、いずれにしても支配階級の物語ってことになる。公方は「公家の方」の略で、もとは朝廷、武家時代には将軍をさした。「おおやけかた」とも読む。鎌倉末期ごろから将軍の尊称となる。https://kotobank.jp/word/公方-55893室町時代の後半には、将軍の公権力の代行者として君臨した足利将軍家の一族の者の肩書きとして用いられた。3代将軍義満以降、将軍の敬称として公方号が積極的に称されることとなった。当初、関東管領として鎌倉府に在った足利基氏も、将軍家が公方を称するようになると鎌倉公方と称するようになった。以降、幕府の主宰者たる将軍や、鎌倉公方を称した関東足利氏一族により、公方号が世襲されることとなる。鎌倉公方はさらに古河公方、堀越公方両家に分裂し、古河公方はさらに小弓公方と分裂する。https://ja.wikipedia.org/wiki/公方実際、月の帝になってしまった祖父は、かつて地方豪族みたいな城主だったと思わせる描写があります。◇大魔神みたいな埴輪型の巨石仏像がたくさん立ってたり、三種の武具を探す物語になってたり、白鷺が魂を運ぶ話が出てくるところを見ると、古代のヤマトタケルの東征神話が基礎になってる気もする。すなわち、> 草薙の剣で東国征伐に来たヤマトタケルの長女が、> 敵側である地元の武将と結婚してしまったみたいな話っぽく見えます。「日本書紀」などによると、日本武尊ヤマトタケルは東国での戦いの帰り道、伊勢の能褒野のぼのの地で亡くなりますが、その姿を白鳥に変え、大和の琴弾原ことひきのはらに降り立ったあと、河内の旧市邑ふるいちのむらに飛来したといわれています。日本武尊が没した場所(三重県亀山市)、白鳥が一旦舞い降りた場所(奈良県御所市)、最後に降り立った場所(大阪府羽曳野市)のそれぞれにお墓が造られ、合わせて「白鳥三陵」と呼ばれています。https://www.mozu-furuichi.jp/jp/column_report/furuichi/vol003.htmlそのほか、河合豊彰みたいに「折り紙に魂が宿る」ゲゲゲの鬼太郎みたいに「左目を奪われた少年」細長い湖に棲む「目玉の妖怪」なにかの漫画で見たような「おばさん仮面」歌川国芳に由来する「がしゃどくろ」…などのモチーフが脈絡なく並びます。◇ところが、公式サイトによると、主人公の「クボ」は、今作のキャラクターデザイナーであるシャノン・ティンドルの日本の友人の名前から取った。クボの眼帯は、封建時代の伝説的な武士であった片目の伊達政宗と、徳川幕府に仕えた剣の名士、柳生十兵衛三厳に敬意を表したものである。クボの亡き父ハンゾウは、黒澤明監督の名作『七人の侍』で、史上最高の侍の役を演じた日本の伝説的俳優、三船敏郎に敬意を表し、彼に似せて作られている。https://gaga.ne.jp/kubo/つまり、クボは「公方」のことじゃないらしい。ちなみに「七人の侍」の三船敏郎の役名は菊千代。父の名の「ハンゾウ」は、服部半蔵(服部正成)あたりから取ってるだろうけど、祖父の名の「ライデン」は、相撲力士の雷電爲右エ門から取ってるでしょうか。母の名の「サリアツ」ってのもネタ元が分かりません。男性名なら「サネアツ」から来てる可能性もあるけど。闇の姉妹(おばさん仮面)が烏&鷲なのも謎です。それ以外にも、ゴキブリが鎧兜をかぶったら「クワガタ」になるとか、人面魚みたいな「鯉」が龍になる…みたいなイメージが、どれだけ日本の歴史や習俗に取材してるのかは怪しい。◇三味線の3本の弦は、父と母と息子の比喩のようですが、最後は、その三味線をギターに置き換えるごとく、レジーナ・スペクター or 吉田兄弟が、ビートルズの「While My Guitar Gently Weeps」をカバーしてる。なお、ジョージ・ハリスンは、もともと中国の「易経」に触発されてこれを作ったそうです。ハリスンは、イングランド北部のウォーリントンにある母親の家で「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」を書いた。本作は中国の易経の書籍に触発されて書かれており、ハリスンは「僕は易経の写しを持っていた。中国にはすべてが必然であり、偶然というものは存在しないという考えがある。一方、西洋では偶然のことをまれにあるものだと考えられている。本を開いたときに見えたのが『gently weeps(そっと泣いている)』だった。僕は本を閉じて、曲を書き始めた」と語っている。歌詞は、そこに眠っている愛がありながらも、それに気づけていない人類の哀歌となっている。https://ja.wikipedia.org/wiki/ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープスKUBO/クボ 二本の弦の秘密【Blu-ray】 [ アート・パーキンソン ] 楽天で購入
2024.03.20
TBS「せかくら」を見てて驚くのは、日本のアニメ「セーラームーン」が、とんでもなく海外に浸透してるんだなあ…ってこと。街なかに設置したカラオケで、現地の女性が主題歌の「ムーンライト伝説」を歌うと、通行人が足を止めて、みんな懐かしそうに口ずさむ。メキシコでは、女の子にいちばん人気のあるテレビ番組だったらしく、ポルトガルでは、テレビ史上もっとも視聴者数の多かった番組だそうです。◇調べてみると、アニメ「美少女戦士セーラームーン」は、1993年にスペインとフランスで放送され、その後はロシア、韓国、フィリピン、中国、イタリア、さらに台湾、タイ、インドネシア、香港、そして北米へ広がり、最終的には「世界40ヶ国で放送されている」とのこと。2017年の世界フィギュアのときに、メドベージェワが「ムーンライト伝説」で踊ったときは、あくまで日本向けのファンサービスよね…などと思ったけど、案外、そうじゃなかったのかもしれません。彼女も本気でセーラームーンが好きだったらしい。◇英語のWikipediaによると、セーラームーンは、フェミニズムやガールパワーなどの面で、女性視聴者を力づけた作品と見なされてるようです。In western culture, Sailor Moon is sometimes associated with the feminist and Girl Power movements and with empowering its viewers, especially regarding the "credible, charismatic and independent" characterizations of the Sailor Guardians.実際、せかくらに出てきたメキシコやポルトガルの女性も、「セーラームーンは女の子にとっての夢だった」「セーラームーンの主題歌は女の子にとって大事な曲」と話してました。世界中の女子に与えた影響力の大きさからいうと、ジブリ作品をも上回ってた可能性がありますね。◇もともとセーラームーンは、武内直子の漫画「コードネームはセーラーV」を、東映の企画によってアニメ化したものです。それはいわば、・魔法少女路線・戦隊ヒーロー路線・セーラー服少女戦士路線を結びつけたところに生まれている。このうち、東映の魔女っ子シリーズというのは、1966年の「魔法使いサリー」にはじまっていて、東映のスーパー戦隊シリーズは、1975年の「秘密戦隊ゴレンジャー」にはじまります。https://ja.wikipedia.org/wiki/東映魔女っ子シリーズhttps://ja.wikipedia.org/wiki/スーパー戦隊シリーズ◇そして、東映のセーラー服少女戦士の路線は、薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」(1981)にはじまり、斉藤由貴の「スケバン刑事」(1985)に受け継がれた、と考えるのが一般的でしょう。しかし、これについては、以前、音楽惑星さんと話したことがあるので、その部分をすこし抜粋しておきます。青字が音楽惑星さんで、赤字がわたしです。薬師丸ひろ子は、セーラー服を着て機関銃をぶっぱなしながら「快感…!」などと呟いてしまった。これが世間の度肝を抜いてパンドラの箱を開けたのです。これが1981年の出来事なのですね。赤川次郎の『セーラー服と機関銃』は78年の小説です。和田慎二の『スケバン刑事』の連載は75年にはじまっています。しかし、それらのイメージは、あくまでも小説や漫画の中にとどまっていて、お茶の間で共有されるようなものではなかったと思います。やっぱり実写のインパクトは強い。実写でいうと、72年にはじまる東映の「恐怖女子高校シリーズ」なんてのもありました。じつは、ここらへんが起点のひとつではあります。その前に日活の「黒猫ロックシリーズ」や東映の「女番長シリーズ」などがあり、それが若年化して不良女子高生のシリーズになっていたんですね。和田慎二の漫画よりも、チンピラ映画のほうが先にあった。もともと「スケバン」という用語も、71年の『女番長ブルース牝蜂の逆襲』という東映の成人映画にはじまってます。「セーラー服と機関銃」も東映の配給だし、「スケバン刑事」も東映のドラマだから、東映ヤクザ映画の流れを汲んでるのはまちがいない。http://manzara77.blog.fc2.com/blog-entry-363.html#sailorもともと東映は、バイオレンスやエロティシズムなどの表現も、まったく臆することのない会社だし、幼女向けの魔女っ子シリーズにさえ、永井豪の「キューティーハニー」みたいに、けっこうエロティックな作品があったりします。そんな東映の作品に、とてもフェミニズム的な観点があったとは思えないし、むしろ少女を性的な商品とみなす発想のほうが、はるかに強かっただろうと想像できます。そもそも、「魔法使いサリー」の横山光輝も、「キューティーハニー」の永井豪も、「スケバン刑事」の和田慎二も、「セーラー服と機関銃」の赤川次郎も、ことごとく男性作家なのだから。◇英語のWikipediaによると、武内直子も、「東映のアニメは男性的な視点で作られている」との思いを抱いていたようです。Takeuchi later said because Toei's production staff were mostly male, she feels the anime has "a slight male perspective."しかし、制作側の意図がどうであれ、受け手側の少女たちは、「魔女っ子メグちゃん」や「セーラー服と機関銃」などを、女子を勇気づける作品と解釈した可能性はあるし、とりわけ「セーラームーン」の場合は、作者の武内直子が女性だったこともあり、なるべく男性的な視点を排除して、女子を中心とする市場にターゲットを絞ったようです。Although the audience for Sailor Moon is both male and female, Takeuchi does not use excessive fanservice for males, which would run the risk of alienating her female audience. それは端的にいえば、男性向けのエロティックな描写を控えたってことでしょう。そしていまや、東映の生んだ美少女アニメが、世界の「女性解放」を象徴する文化として共有されてる。それはちょっと不思議なことです。ムーンライト伝説。セーラームーン。この曲はメキシコの女の子にとってシンボル的な存在なの。子供のころアニメがはじまるとテレビの前で歌いながら踊ってたわ。メキシコの女の子が大事にしてる曲です。 https://t.co/GcHTERXm24 pic.twitter.com/KV1ZwUSe9S— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) January 25, 2024メキシコではセーラームーンは女の子にとって1番っていうくらい人気。#美少女戦士セーラームーン #SailorMoon #せかくら pic.twitter.com/cPV5J85krC— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) January 25, 2024セーラームーンで育ったようなものよ。セーラームーンがいちばん好き。セーラー服で戦うのが斬新だった。セーラームーン(1997放送)ポルトガルテレビ史上もっとも観ていた人が多い番組。記録は未だに抜かれていない。#美少女戦士セーラームーン #SailorMoon #せかくら pic.twitter.com/cfVq04zlPD— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) January 25, 2024◇余談ですが…主題歌の「ムーンライト伝説」の冒頭のメロディは、倍賞千恵子の「さよならはダンスの後に」のパクリなので、著作権使用料を一部分けることで和解してますね。◇…ちなみに、TBS「せかくら」のカラオケ企画は、機械採点でランキングをつけてるのだけど、あいかわらずカラオケの機械採点ってのは、人間の歌を譜面に押し込む発想で設計されてて、細かい節回しやリズムの揺らぎなどを許容せず、あろうことかプロのジャズ歌手に低い点をつけたりしてる。こういう機械採点は歌の多様性を殺しますよね。人を感動させる歌の何たるかをまったく理解してない。たとえば米国の黒人音楽なら、自由に節やリズムを変えて歌ったりするわけだから、こんなバカげた機械は絶対に作らないと思いますけど、もしかしたら、カラオケの設計をしてる日本の企業人は、「ボーカロイドの歌がいちばん上手い」とでも思ってるのでしょうか?
2024.01.26
米林宏昌の「思い出のマーニー」を見ました。とても綺麗な作品でした。◇原作を読んでないので、どこが同じでどこが違うのか知らないけど、たぶん「七夕祭」が出てくるのは宮沢賢治の引用ですよね。つまり、ジョバンニとカンパネルラの関係を女子に置き換えて、カンパネルラの存在をイマジナリーフレンドに見立て、まるで同性の恋人との出会いの物語のようにしている。◇マーニーのボートに乗ることは、「銀河鉄道の夜」みたいな死を意味しているようでもあり、《月夜にボートを漕いで入江の奥へ行く》という場面もあるので、松田聖子の「秘密の花園」みたいなセックスの隠喩っぽくもある。主人公は、自分の悲しみと憎しみと恐怖を、マーニーの悲しみと憎しみと恐怖に置き換えながら、さらには男女の性の役割さえも入れ替えながら、ともに乗り越えて成長していくのですね。◇青い目の主人公は、じつはクォーターだったというオチですが、基本的には、東洋人のヒロインと、西洋人のイマジナリーフレンドの交流のお話なので、この映画を、東洋人の観客が見るのと、西洋人の観客が見るのとでは、すこし見え方が違うかもしれませんが、そのことにさえ何らかの意義がある気はする。◇大林宣彦の「さびしんぼう」の場合は、《イマジナリーフレンドが少女時代の母だった》というお話ですが、本作ではおばあちゃんだったのですね。ジブリ的にいうと、「おもひでぽろぽろ」みたいに田舎へ行って、「千と千尋」みたいに此岸と彼岸の境界を越えて、クララみたいなお金持ちの美少女や、無口なおじいさんに出会うって「ハイジ」っぽさもある。それぞれの要素は、過去に反復されてきたモチーフの組み合わせではあるけれど、ひとつの物語として綺麗にまとまっています。最後は種明かしをしすぎてる感もありますが、あえて欠点というほどでもありません。作画も美しかったし、村松崇継の音楽も美しかったです。まだ本格的にブレイクする前の、有村架純や杉咲花やTEAM NACSが参加してるのもすごい。
2023.01.14
2004年にNHKが制作した「火の鳥・黎明編」を観ました。GYAOの無料動画ですが。主人公は、火の国に住む少年ナギ。(原作では熊襲の国のイザ・ナギ)火の山には火の鳥が棲んでいます。姉の婚礼の夜に、海の彼方の不知火のように見えたものは、じつは猿田彦が率いる邪馬台国の軍勢だった!…てなところから話がはじまります。たぶん火の国は「肥国」(熊本)なのですね。火の山とは「阿蘇山」のことであり、不知火の海は「八代海」のことでしょう。かたや、邪馬台国を治めているのは女王の卑弥呼。彼女は、政権運営を巡って弟のスサノオと対立。スサノオは目をつぶされて流刑にされる。彼が辿り着いたのは出雲海岸(稲佐の浜)のように見えました。…やがて、火の国も、邪馬台国も、ニニギが率いる騎馬の民(原作では高天原族)に滅ぼされます。しかし、火の国ではナギの甥のタケルが生き残る。◇面白いのは、卑弥呼の弟がスサノオだってこと。…ってことは、卑弥呼=アマテラスなのですね。わたしは、箸墓の百襲姫こそ卑弥呼と思ってるわけですが、そうなると吉備津彦(桃太郎)がスサノオ?卑弥呼の御所も、纏向の宮殿のように見えたけど、遺跡が発掘されたのは2013年ですから、アニメの制作時点ではまだ知られていませんよね…。なので、邪馬台国=九州説に基づいてるのかもしれません。しかも、ニニギに滅ぼされるのだとすれば、この邪馬台国は、天孫族の国でもないしヤマト国家の前身でもない?さらに、神話ではイザナギの娘がアマテラスですが、この物語ではナギよりも卑弥呼のほうがずっと年上で、ナギにとっては姉の仇になります。うーん、…どゆこと?Wikipediaによると、原作(COM版)は江上波夫の騎馬民族征服王朝説に則ってるらしい。中島美嘉のテーマ曲も素敵◇話は変わりますが、先日、NHKの「知恵泉」を見ていたら、最初の遣隋使を送ったアメタリシヒコの話が出てきました。7世紀の人物ですけれど、名前から察するに、この人がアマテラスなのでは?…などと勘繰ってしまいます。中国の『隋書』によると、この人は、妻のいる男性の王らしいので、聖徳太子とも同一視されたりするそうですが…(聖徳太子=天皇説)一方では、女性の推古天皇と同一視する考えもあるそうです。
2022.07.06
日本の漫画やアニメには、一貫して「悪=文明」を描く系譜があります。手塚治虫や石ノ森章太郎が基礎にしていたのは、ゲーテの「ファウスト」に登場するメフィストフェレスですが、天馬博士やギルモア博士の科学技術も、そのような悪魔に魂を売ることで手にしたものだといえます。そこから生まれる文明は破滅につながってしまう。かたや永井豪や庵野秀明が基礎にしたのは、ヘブライ神話の堕天使、とりわけ旧約聖書に登場するルシファーです。その元ネタは石ノ森の「009~天使編」かもしれません。そこには「人間と堕天使は同じ悪だ」という発想がある。押井守版ルパン三世「ルシファーの化石」旧約聖書の失楽園の悲劇は、アダムとイブが「知恵の林檎」を食べた結果ですが、そうやって天界を追放された人間は、地に落とされた堕天使と同じような立場にあります。デビルマンやエヴァンゲリオンは、いわば人間と同じ「悪の系譜」にある堕天使であり、同じ悪でありながら、人間以上に強大な力をもっています。◇西洋では、神と文明がたえず対立してきました。中世までは、文明こそが「悪」でしたが、ルネサンス以降は、文明のほうが「善」と見なされ、しばしば宗教的蒙昧のほうが「悪」と見なされました。もともと古代ギリシャには科学文明があったのですが、中世ローマ教会は、その成果をすべて打ち消しました。なぜなら、科学文明はたえず神の存在を否定するからです。それゆえ、ローマ教会は、焚書をしたり、ガリレオを裁判にかけたり、魔女狩りをしたり、ユダヤ人を迫害したりして、徹底的に科学文明を破壊し、神の世界を守り抜こうとしました。ようやくルネサンスになって人間本来の「文明」が回復し、さらにルターの宗教改革がそれを推し進めて、西欧社会は、中世までの宗教的蒙昧から脱することが出来ました。しかし、いまなお北米などには、ダーウィンの進化論を否定して、旧約聖書の創世神話を守り抜こうとする人々がいます。◇ちなみに、ユダヤ人も、プロテスタントも、旧来のカトリックにくらべれば、はるかに「文明的」でした。なぜなら、彼らは自分で聖書を読むからです。中世までのキリスト教徒たちは、一部の聖職者を除いて、自分で聖書を読みませんでした。そもそも字が読めませんでした。これに対して、ユダヤ教徒は早くから自分で聖書を読んでいたし、ルター以降のプロテスタントも自分で聖書を読みました。これこそが西洋における近代文明の基礎になりました。自分で聖書を読むことによって、そこから文献学的な分析と批判が生まれ、従来のような盲目的な信仰が乗り越えられていったのです。ちなみに、日本人が近代化を成し遂げたのも、やはり江戸末期に「四書五経」を読んだ人たちがいたからです。それを読ませる寺子屋や私塾があったお陰ですね。自分自身で読まなければ、自分で考えることは出来ない。たんに権威者の話を盲目的に信じるだけの人間は、既存のヒエラルキーにしたがって判断することしか出来ません。◇手塚治虫以来、日本の漫画やアニメは「神と文明の対立」を描きましたが、そこでは、もっぱら文明のほうが批判されてきました。そこには、ゲーテの「ファウスト」や、メアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」など、おもにプロテスタント系文学の影響があります。けっして神を肯定するわけではないけれど、かといって文明をすっかり容認するわけでもない。いわば神と文明との両義的な関係が描かれています。手塚治虫や石ノ森章太郎の物語でも、宮崎駿や押井守や庵野秀明の物語でも、人間の陰謀と神の陰謀とが対立しているように見えます。かりに文明の側に立つのならば、「神の陰謀」が描かれるはずはありません。そもそも科学文明は、神の存在それ自体を否定するはずだからです。たとえば、ダン・ブラウンの「ダヴィンチコード」で描かれているのは、あくまでも「ローマ教会の陰謀」であって「神の陰謀」ではありません。すべては人間界の話なので、そこに神の存在する余地はありません。しかし、日本の漫画やアニメには、何がしかの神が存在しています。神の存在は認めながら、その欲望や野心を疑っている。これは、日本人独特の、かなり多神教的な発想だといえます。いわば、人間のことを疑うように、神のことを疑っているのですね。
2022.01.09
ルパン三世 PART6。第8、9、10話は、樋口明雄、湊かなえ、押井守の脚本でした。押井守は今回2本担当したのですね。◇まずは、押井守の「ダーウィンの鳥」。ここでルパンが相手にするのは、なんと 神 God です!(笑)神さまの使いであるミカエルさんが、不二子やルパン一味に依頼して、堕天使ルシファーの化石を回収し、ダーウィンの進化論を「なかったこと」にしよう、…ってなお話。つまり、神さまは、それが美しいからでも、お金になるからでもなく、人間の信心を取り戻したいからこそ化石が欲しいのですね。たぶん19世紀まで時間を巻き戻して、世界の歴史をやり直すつもりだったのだと思います。旧約聖書の創世神話を覆したダーウィンの『種の起源』は、始祖鳥の化石発見によって証明されてしまったのだけれど、ミカエルさんの話によると、この始祖鳥の化石ってのは、じつはドイツの贋作職人たちが、堕天使ルシファーの化石を真似て偽造したものなのだ、と!なので、ルパンと不二子が博物館から盗み出すのは、偽造された「始祖鳥の化石」ではなく、その元ネタである「堕天使ルシファーの化石」です(笑)。実際、旧約聖書には、「ルシファーは墓穴の底に落ちた」という記述があります。一説によると、ルシファーは、双子であった大天使ミカエルとの戦いに敗れ、地の底に封じ込められたのだそうです。そこから、ルシファーにかんして、「地底に封じられて悪魔になった」「東の地平線近くで明けの明星になる」「地中深くから化石になって出てくる」みたいな話が出てくるわけですね。明けの明星(金星)はローマ神話では「美の女神=ヴィーナス」だったけど、旧約聖書では「堕天使=サタン」なのです。結局、最後に時間がふりだしに戻り、この計画そのものが断念されて終わるのですが、はたして時間を過去に戻したのが、「ルパンに乗り移ったミカエル」だったのか、「ミカエルに変装したルパン」だったのかは謎でした。そこにこそ"真贋のあわい"があったようです。※追記「ルシファーが時間を戻した」という説もありえます。小刻みに時間を戻したのがミカエルなら、いちばん最初まで時間を戻したのはルシファーだとする解釈です。その場合、化石になったルシファーはいまだに意志や力をもっていて、なおもミカエルとの闘争を続けている、ということになります。 ⇒くわしくはこちら。なかなか面白いコンセプトのお話でしたが、ちょっと作りが説明くさかった気もする。作画は、第1シリーズに忠実な感じでしたけど、そのぶん自由な躍動感にやや欠ける気もしました。◇湊かなえの「漆黒のダイヤモンド」は、ちょっと設定がシッチャカメッチャカな感じ。いろんな時代のイメージを混然と重ねてみたってこと?ブラジルのミナスジェライス州でゴールドラッシュがあり、カリブで海賊が暴れまわったのは、だいたい17~18世紀の話。それに対して、日本からのブラジル移民は20世紀以降の話なので、その時代設定が、まず混乱している。それから、戦後になって、日系ブラジル人の生産する胡椒が一大産業になり、それが比喩的に「黒いダイヤ」と称されたことはあったけど、いくらなんでも古代ローマ時代じゃあるまいし、同じ重さの胡椒と宝石が等価だったわけじゃありません。しかも、不二子が掘り出した宝石箱の胡椒は、すでにミルされたパウダー状のものだから、当時としてもかなり価値が低かったと思います(笑)。また、日系人が沖縄出身と思わせる描写もあったけど、こけしは、おもに東北の民芸品ですよね…。そこにも、ややちぐはぐ感が。ちなみに、「カシューナッツの花が75年にいちど月下で咲く」という話は、ネタ元がいまいち分からないけれど、月下美人やドラゴンフルーツのイメージに重ねたのでしょうか?アニメの出来もいまひとつだった気がします。◇いちばん面白かったのは、樋口明雄の「ラスト・ブレット」かな。押井守の第4話も、「ダイナー」というからには北米の話だったはずだけど、この樋口明雄の第8話も、「ガンマン」というからには、やっぱり北米・中南米あたりの話かと思いきや…どうやら本編のホームズの話に合わせて、無理やり舞台をスコットランドにしたっぽい(笑)。雰囲気的には、どう見ても北米なんですけど。マカロニ・ウェスタンならぬ、スコティッシュ・ウェスタンってこと?でも、お話は面白かったし、アニメもカッコよかったです。
2021.12.20
深夜アニメの「ルパン三世 PART6」を見ています。面白いことに、複数の脚本家によるオムニバスなのですね。毎回、まったくちがう物語が展開しています。◇いちばん面白かったのは、押井守が脚本を書いた「ダイナーの殺し屋たち」。ヘミングウェイの短編小説をベースにした内容でしたが、アニメ自体が一篇の短編小説のようで、独特の味わいがあって、絵のクオリティも高かった。…あらすじをネタバレすると、英国のシェイクスピア&カンパニー書店に所蔵されていた、ヘミングウェイ短編集の稀覯本(幻の初稿本)を、米国の中央情報局CIAが、政財界スキャンダルを伝えるための暗号書籍に用いていた、という設定。スウェーデン人のアンダーソン(ヘミングウェイの登場人物)が、それを流出させようとしていて、CIAが雇った8人の殺し屋はそれを阻止しようとしている。ルパンと不二子は、それを横取りしようとしてる。そんな内容です。◇一方、大倉崇裕の脚本による「レイブンのお宝」は、今回のテレビシリーズの主軸になってる物語です。ちょっとダヴィンチコードみたいなお話。つまり「暗号書籍」ならぬ「暗号絵画」ってことですね。そこにレイブンという秘密結社の財宝の謎が隠されている。しかも、この絵画は上下2つに切断されてしまっていて、なにやらバンクシーの「風船と少女」みたいです。この絵画が飾られていたのは、「The Black Drawing Room」という場所なのですが、これはおそらく英バッキンガム宮殿の、「The White Drawing Room」と対をなす場所ですね。レイブンという秘密結社は、いわば英王室の裏組織のような側面をもつのでしょう。シャーロックホームズは、ロンドン警視庁=スコットランドヤードとともに、この犯罪組織の解明に挑んでいて、かたや、ルパンと不二子は秘密の財宝を狙っている。そんななかで、ルパンとホームズが共闘関係になっていきます。ちなみにホームズの相棒ワトソンは、このレイブンという組織に殺されてしまったのですが、ホームズは、ワトソンの一人娘だったリリーを、父親がわりになって育てています。この14才の少女が物語の主人公。やがてルパンとホームズは、レイブンの秘密を探る中で、さらに凶悪な犯罪組織と対決することになる。その首魁こそが、おそらくモリアーティ教授ですね。◇もうひとつ、芦辺拓の脚本による「帝都は泥棒の夢を見る」は、モンゴルの大帝国再興を夢見た日本の財閥令嬢のお話でした。元帝国の再建を目指すチンギスハーンの末裔と、その王族の秘宝を狙うルパン&不二子(黄金仮面&黒蜥蜴)と、モンゴルに傀儡国家を打ち建てようとする日本帝国陸軍。その三つ巴の戦いです。ルパンは昭和初期の東京へタイムスリップしているのですが、じつは人工知能が生み出した仮想世界=メタバースだったというオチ。さながら、安彦良和の「虹色のトロツキー」を、細田守の「竜とそばかすの姫」の世界へ組み込んだような感じ。チンギスハーンの末裔は見た目が少女なのですが、じつは少年王子だったというオチで、そこは、男装の麗人だった川島芳子(愛新覺羅顯㺭)の逆。モデルになってるのは、たぶん徳王(デムチュクドンロブ)だと思います。大陸で見つかった王の秘宝ってのは、旧帝国陸軍が発見した好太王碑などを思わせますし、財閥の令嬢が大陸を探検するという話は、日露戦争のときの大谷探検隊のことなどを思わせます。なお、ベースになっているのは、江戸川乱歩と山中峯太郎の小説だそうです。山中峯太郎は、日本におけるシャーロックホームズの翻訳家であり、また、本郷義昭を主人公とする軍事探偵小説の作家。今回のアニメにも本郷義昭(次元)が登場していました。そして乱歩の小説からは、明智小五郎のほかに、黄金仮面(ルパン)黒蜥蜴(不二子)浪越警部(銭形)が登場していました。なかなか壮大なコンセプトで面白かったのだけど、とても前後編で収まるような内容ではなく、アニメそのものの出来はあまりよくありませんでした。◇次回の第9話は、湊かなえが脚本を担当するようです。いずれにしても、完全に大人向けの物語だし、子供が見たら、まったく理解できないだろうなあと思います…(^^;
2021.12.08
NHKはこれまでにも、北海道の一族のルーツとか、安彦良和についての番組を作ってますが、今回は、ひたすら作業場を撮影する番組でした。おかげで美しい絵をたっぷり堪能できた。できれば、彩色するところも見てみたい。◇安彦良和の絵は、ほかの誰とも似ていません。学生運動の闘士だった人の、硬派な内容のストーリーとは裏腹に、その絵の柔らかさと美しさには、ほとんど女性的な繊細ささえ感じます。◇今回の番組でくりかえし語られたのは、彼の根っこが「アニメーター」だということ。このことが、漫画の作風にも大きく影響しているのですね。ペンで書くのではなく、筆で塗る。これはアニメーターならではの手法ですが、だからこそ、絵が柔らかくなるし、より絵画的になるのだと思う。あえて水分の滲みやすい用紙を使ってるところにも、やはり「塗る」という発想に近いものを感じます。普通の漫画家のように、線とセリフで物語を筋を語っていくのではなく、また、メカの形状を精密に描写するのでもなく、すべての事物と、場面と、出来事を、ひたすら淡い「光と影」によって浮かび上がらせています。これは、ある意味で印象派に近いかもしれない。どんな硬質なメカニックであっても、それを遠くから見れば、やはり光と影の視覚現象にちがいはないのだから。しかも、アニメーターというのは、止まった絵ではなく、動く絵を作る人たちです。1枚1枚の絵には、かならずその前と後に流れる時間があって、すべての絵は、一連の動きのなかの一瞬でしかない。逆にいえば、どの一瞬のなかにも躍動が宿っているし、しかも、そのすべての瞬間を分析的に取り出さなければなりません。そこがまた漫画の発想とは違うところでしょう。◇考えてみれば、このような安彦良和の特徴は、彼のライバルの宮崎駿に共通してるかもしれません。(ちなみに2人とも所沢在住)宮崎駿の光と影の柔らかさ、人物の柔らかさ、メカの柔らかさ、そして動きのダイナミズム。一般的には、アニメよりも漫画のほうが「絵画的」と思われがちだけど、ほんとうは逆なのかもしれません。NHKプラスの配信は16日まで。click!
2021.06.10
NHKアニメ「龍の歯医者」前後編を見ました。舞城王太郎の原作。庵野秀明の制作統括、鶴巻和哉の演出。スタジオカラーの作品。日本アニメの想像力を結集したような世界でした。◇竜に遭遇して船が沈むのは、まるで「ゲド戦記」みたいなオープニング。人間と竜の契約とか、生きることと死ぬことの意味を問う内容も、どことなく「ゲド戦記」に似ています。天狗虫になって空を飛ぶ柴名姐さんは、「山賊のむすめローニャ」に出てくる鳥女みたい。丸っこくて巨大な竜のイメージは、ほとんど空飛ぶ猫バス?(笑)あるいは宮崎アニメに出てくる飛行マシンのような、あるいは空飛ぶ要塞というか天空の城みたいな雰囲気もある。住み込みで働く少女は「千と千尋」っぽいし、異形の虫歯菌たちも、なんだか油屋の化け物っぽく見えます。竜の巨大な歯はモノリスみたいですよね。ちなみに、下の歯しか治療してないように見えたけど、上の歯はどうやって治療してるんでしょうか?(笑)◇後編は、完全に庵野秀明の世界。前編に比べて、かなりエヴァっぽくて既視感強めなのが欠点かな。アスカを想うシンジくんの一人語りみたいに物語が進みます。虫歯菌との戦いは、使途との戦いに見えてくるし、竜も、ATフィールドみたいな結界で防御されてる。破滅をもたらす巨大な竜は、完全にシンゴジラそのもの。オザケンの歌に、まったく違う意味合いが付与されていくところも、いかにも庵野らしい手法だなあと思います。一方、方言が飛び交うの戦場の描写はなにやら「この世界の片隅に」っぽくもあるし、失われたものへの執着と悔恨に生きる柴名姐さんの姿は、どこか「ハウルの動く城」を思わせる部分もある。死者の魂が竜の体内に戻るという世界観や、竜の歯と一緒に空から落ちていくシーンは、もしかしたら「天気の子」に引用されたのかなと思えるし、ピストルの意味合いにも「天気の子」との共通性を感じる。竜の親知らずを祭ってる出雲っぽい神殿を見ていたら、「天気の子」に出てくる屋上の祠と鳥居とか、口噛み酒の伝統を受け継ぐ「君の名は」のシーンも思い出しました。◇最後のベルのモノローグによれば、竜の虫歯は、人々の思いの残りカス。運命(=死)を受け入れられない人々の、断ち切れない恨みや未練や後悔が虫歯菌になる。誰かが心を動かすたびに、それはいつしか竜の虫歯菌に姿を変えてしまう。ベルは、最後にこんな回想をします。12才のとき、池の真ん中で馬に振り落とされた。尻尾で虫を払うように自分を殺しかけた馬は、眩しい午後の光粒のなかで美しく体をふるわせていて、死にかけの僕は、その気高い姿に胸打たれていた。僕の心から何かの虫が生まれたとしても、あの歯医者たちに任せておけばいい。君とあの馬の姿が重なるよ。君を想うと、血液とは違う何かが僕の胸を満たしていく。竜の歯医者になれるのは、みずからの運命を受け入れられる者だけ。歯医者たちは、馬のような気高さと真っ直ぐに生きる力強さで、竜の歯に蓄積される負の感情に立ち向かう。ベルは、竜の歯のなかから蘇り、ふたたび竜の歯に戻っていく生命の循環のなかで、馬のように気高く生きる歯医者たちに出会い、その力強さで胸を満たしたのです。◇一方、天狗虫と化した柴名姐さんの負の思念は、人々の殺意を養分としながら巨大化し、ついには殺意ある者たちを全滅させます。これはシンゴジラに通じる世界観かもしれない。運命にしたがう者は気高い。けれど、運命にさからう者は勇敢である。そして、どちらも美しい。これが、この物語の矛盾をはらんだ価値観です。◇引用に次ぐ引用、寄せ集め的といえば寄せ集め的だけれど、日本アニメの伝統が蓄積されてこそ出来上がった想像力の粋であり、スペクタクルとしても素晴らしいし、ちょっとテレビアニメにしておくのはもったいない作品でした。いまのところ続編の気配はありませんが、もし続編があるとすれば、ベルではなく、柴名姐さんの物語だろうと思います。
2021.05.08
TVで「ハウルの動く城」を見て、物語の構造が「千と千尋の神隠し」に近いと思いました。15年ぐらい前に、https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/4001/という文章を書いたのですが、いっそうクリアに理解できるようになった気がします。文明の繁栄人生の幸福湯婆(無限成長世界) → ハク → 銭婆(持続可能世界)サリマン先生文明との契約戦争と経済と国家(理性への欲望) → ハウル → 荒れ地の魔女悪魔との契約恋と若さと美しさ(ふしだらな欲望)巨大な文明の繁栄を選ぶのか。小さな人生の幸福を選ぶのか。その究極の選択の物語です。そこには、二つの異なる価値体系があり、二つの異なる欲望があります。文明による支配を実現したいという欲望は、一見すると、理性的に思えるけれど、絶え間ない戦争をもたらすような神への冒涜でもある。恋と若さと美しさを謳歌したいという欲望は、ふしだらで堕落した悪魔の欲望ではあるけれど、それこそが人間的なのだということもできます。魔法によって名前を奪われた千尋や、魔法によって若さを奪われたソフィは、二つの世界が対立する渦中へと迷い込みます。湯婆を裏切ったハクや、サリマン先生を裏切ったハウルは、文明の勝利する世界ではなく、人間が人間らしく生きられる世界のほうを選ぶのです。ナウシカも、映画版では文明の過ちを否定しています。◇…しかし、ナウシカの漫画版を見ると、「文明の過ちですらも人間的なのだ」と考えを変えています。さながら堀越二郎が、最後まで飛行機という「文明」への夢を捨てなかったように。シネマレビューにも書いたのですが、https://www.jtnews.jpどちらにせよ、これらは悔恨の映画なのだろうなと思います。◇4/15追記。TVで「ゲド戦記」を見ましたが、これまた同じ図式でした…。チャートも次のように書き換えました。成長する世界反復する世界湯婆(無限成長世界) → ハク → 銭婆(持続可能世界)サリマン先生文明との契約(知性と理性と経験) → ハウル → 荒れ地の魔女悪魔との契約(恋と若さと美しさ)クモ不死(永遠性)への欲望 → アレン → ハイタカ生と死(有限性)の反復↓具体的なことはこちらに書いています。https://www.jtnews.jp
2021.04.05
アニメ「約束のネバーランド」。第1期から第2期までの全話が終了しました。最終話の内容は、ずいぶんと駆け足で、これまでにくらべて、だいぶ絵のクオリティが低いのも驚きでした。ラトリー家の歴史についても、ハッピーエンドまでの流れも、かなり話を端折ったような印象を受けました。あとで調べてみたら、原作のほうは5つの章に分かれていて、今回のアニメの内容は、そのうちの第1章と第2章に当たるらしい。アニメの最終話のラスト数分間は、いわば残りの3章分のダイジェストのような、あるいは予告のような映像だったのかもしれません。◇アニメ終盤の出来が悪いのは、原作者が脚本の執筆から離脱したためという噂もあります。いずれにせよ、制作体制になんらかの混乱があったのかなあと思う。今回の最終話については、もういちどしっかり作り直してほしいと感じますし、残りの3章分についても、きちんとアニメ化してほしいという声は出るでしょうね。…ただ、個人的な考えをいえば、かりに残りの3章分をアニメ化しても、よくある騎士物語みたいなものにしかならない気はする。ここまでの内容を見ただけで、おおよその物語の構造は理解できたのですが、やはり、この作品でもっとも重要なのは、第1章にあたる農園の物語なのだろうと思います。◇◇「鬼滅の刃」にしても、「進撃の巨人」や「東京喰種」にしても、最近は、人間が喰われる内容の漫画が多い。「BEASTARS」も擬人化された肉食獣の話です。「約ネバ」には邪血の少女が出てきますが、彼女は、人間を食わなくても耐えられる鬼であり、その意味では「鬼滅」の禰豆子と似ています。いずれにしても、《喰う者と喰われる者の関係》を考えることが、これらの作品に共通したテーマなのだと思います。◇ちなみに「約ネバ」の物語の設定は、カズオイシグロの「わたしを離さないで」に似ています。「わたしを離さないで」は、《臓器提供》の話であり、かなり時事的なテーマに触れている。一方の「約ネバ」のほうは、鬼に供するための食用児の養殖の話ですが、これはあきらかに"人間と家畜"の関係の比喩になっていて、《食》という万人共通の問題を扱っていますから、臓器移植よりも、さらに根源的な内容であり、誰ひとり避けられないテーマに触れていると言えます。◇動物として生きている以上、喰われることの苦痛や、喰うことの罪責感から逃れられません。その意味で、動物は不幸になるように運命づけられているし、あらかじめ不幸な存在として設計されています。多くの人は、これを回避するために「気にしない」という手段をとっていて、気にせずに済むような高度な社会システムも整備されています。そして人間は、事実上、家畜などの動物を「脳のない肉」と見なして食べています。じつは家畜にも、脳があり、意識があり、苦痛や幸福感があるということを便宜的に無視しています。一方で「約ネバ」の鬼たちは、人間の肉よりも、むしろ脳を食べる生き物として描かれます。彼らは、人間のような精神を獲得するために脳を摂取します。実際、脳を食う生き物が現れたとしたら、真っ先に狙われるのは、大きな脳をもっている人間です。鬼たちは、人間の脳を安定的に食べるために、その養殖をおこなう。良質な脳を獲得するために、その家畜を愛情をもって飼育します。◇わたし自身は、普段から気にせずに肉を食べていますが、現代社会では、このことを気にする人も増えています。動物に強いられた本源的な不幸であるにもかかわらず、そのことを気にせずにいられなくなっているのは、逆にいうと、この不幸を回避する手段が増えているためかもしれません。たとえば、動物の生命を奪わずに、たんぱく質だけを摂取する技術も生まれはじめている。あるいは、食による栄養補給とは別の手段で、人間としての身体を維持する可能性も見えてきている。将来的に、それらの技術は完成するだろうと思います。そして、この本源的な不幸から逃れたところにこそ、人間のほんとうの自由はあるはずだ、というのが、この作品の最終的な思想なのだと思います。◇◇ところで、「約ネバ」の物語には、人間と鬼との葛藤だけでなく、鬼同士、あるいは人間同士の階級闘争の問題も絡んでいて、かなり重層的な構造になっています。食を支配する者は、あえて飢えを作り出そうとするし、医療を支配する者は、あえて病を作り出そうとするし、暴力を支配する者は、あえて騒乱を作り出そうとします。それによって階級の安定を図ろうとするからです。いつまでたっても問題が解決しないのは、階級を支配する者たちによる、そのような邪悪さのためです。さらに「約ネバ」の物語には、混血性の問題も折り込まれています。邪血というのは、おそらく人間と鬼との混血であり、いわゆる異類婚姻から生まれた子供だと思いますが、この「邪血」という言葉のなかには、異質なものと交わることへの忌避感が読み取れます。つまり、それは、人の側から見ても「汚れた血統」であり、鬼の側から見ても「汚れた血統」だということ。しかし、混血は、"ハーフ"であると同時に"ダブル"でもあって、双方の長所をあわせもった存在でもあります。「約ネバ」の物語では、混血性によって双方の断絶が乗り超えられていくようです。◇この物語は、TBSの平川雄一朗によって実写化されましたが、さほど話題にはなっていない感じです。ちなみに平川は「わたしを離さないで」のドラマ版も担当しています。わたしはまだ見ていないのですが、こういう作品を映画化するときは、たんなるアニメの実写化という安易な認識ではなく、世界に通用するコンテンツだという強い自覚をもって、はじめから海外にむけて発信すべきだと思います。そのためには、物語の思想・背景をとことん深めなければならない。そうしないと、せっかくの国産のコンテンツが無駄になってしまいます。
2021.03.27
新海誠の映画「君の名は。」には、隕石によってできた糸守湖が描かれます。一般に、「糸守湖のモデルは諏訪湖だ」と言われてきたのですが、新海誠自身は、「最初期のイメージは(長野県小海町にある)松原湖や大月湖」だったと述べていました。昨夜NHKで放送された、「ネーミングバラエティー・日本人のおなまえっ!」を見て、ようやくその謎が解けた気がします。なんと「長野に幻の湖が存在した!」というのです…。◇ときは平安時代。西暦887年、五畿七道の地震によって、北八ヶ岳が山体崩壊を起こし、千曲川がせきとめられた結果、現在の小海町や南牧村あたり一帯が、水深130mもの巨大なダム湖になったというのです。その1年後には一部が決壊して、水深は50mほどに減ったそうですが、それでも、そこには100年以上ものあいだ、幻の湖が存在しつづけたそうです。現在の研究者たちは、この湖のことを「古千曲湖Ⅰ/古相木湖」(または南牧湖/小海湖)と呼んでいるようです。まさに、新海誠のいう「松原湖」は、この巨大湖の名残りなのです!そして、松原湖の周囲には、消えた湖の堆積土砂による広大な平野が残され、人々の暮らしと、水運のもたらす経済が育ったのです。◇話はそれだけではありません!長野は内陸県であるにもかかわらず、「本海野」「海瀬」「小海」「海の口」「海尻」など、海にまつわる地名が多いのですが、それらは、ここに幻の巨大湖が存在した痕跡なのであり、のみならず、「海野」「海瀬」「新海」「新津」などの苗字が多いのも、同じ理由からなのだそうです。…新海?!そうです!森岡浩によれば、もともとは「新開(新しい開墾地)」を意味する苗字に、あとから「海」の字を当てたものだそうですが、これもまた、その幻の湖に関係する苗字だったのです!!◇映画「君の名は。」に出てくる糸守湖は、隕石によって生まれたという設定ですが、実際には、地震による山体崩壊が生んだものがモデルだったのです。そして「新海」という苗字のルーツをたどれば、新海誠が、湖や、雨や、竜など、水にまつわる物語を作りつづけるのは何故なのか、その理由もはっきりと見えてくる気がします。おそらく新海家の一族は、地震で突如生まれた巨大湖のそばで生きた人々なのです。◇(追記)新海誠の娘はFoorinの新津ちせちゃんですが、新海誠も、本名は「新津」なのだそうです。新海家ではなく、新津家だったのですね。むろん「津」とは "港" の意味ですから、これもやはり海(=巨大湖)に関係した苗字です。なお、長野県佐久サク市には「新海神社」があるので、新海という芸名はここに由来するのかもしれません。また、長野県と海とのかかわりでいうと、海人族(ワダツミ)に連なる阿曇氏が穂高神社に祀られている…というのも気になるところです。▶映画「天気の子」を民俗学で読み解く◇ついでに余談ですが、松原湖には、畠山重忠にまつわる竜の伝説があります。重忠の母(三浦義明の娘)は、源頼朝に仕えた息子を守るため、松原湖に入水して竜へ身を捧げたとのことです。(もともと彼女自身が竜蛇だったとの説もあり)彼女の墓は、いまは松原湖に水没しており、湖面が下がったときにのみ少し姿を現すそうです。…もともと長野には、諏訪のミシャグジ神 ≒ 建御名方タケミナカタ神を中心に、多くの竜蛇伝承がありますが、一説によれば、口噛み酒(ミサク)もミシャグジ神に関係しているそうです。上述の新海神社が祀っているのも、「興波岐オキハギ」という神様で、これは建御名方の子、もしくは甲賀三郎の子にあたり、いずれにしても蛇神/竜神です。別名を「新開ニイサク」「御佐久地ミサグチ」とも言うらしいので、これまたミシャグジ神に関係しているかもしれません。(追記はここまで)https://t.co/zFI5tXugXo pic.twitter.com/Tn6dlM6ZrT— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) May 11, 2022 話は変わりますが、番組では、「鬼滅」がらみで、鬼のルーツにも迫っていました。ざっくりいえば、鬼というのは修験者(山伏)なのですね。奈良の都の人々は、紀州沿岸の山地に潜伏する修験者たちを、「鬼」と呼んで恐れたようです。この地域には、「鬼」のつく地名や苗字が多いのです。役小角の弟子だった前鬼・後鬼の子孫も実在します。実際、修験の人々は、日に焼けた異形の赤ら顔で、目は爛々と輝いて野性味にあふれ、超人的な身体能力を持ってましたから、しばしば「鬼」「天狗」などと思われたのでしょうね。しかも、金属や水についての高度な知識をもっていたし、朝廷の権力さえ脅かす対抗勢力だったかもしれません。中央政権に統合しきれない鬼たちは、討伐(鬼退治)の対象になっていったのでしょうし、平安朝の嵯峨天皇は、紀伊の修験者たちを統合するためにこそ、空海の密教を利用したのかもしれませんよね。
2021.02.26
宮崎吾朗/ジブリ/NHK「アーヤと魔女」を見ました。あまりにも唐突な終わり方だったので、なんだか放り投げられた感じです…世間の子どもたちは、あの終わり方をどう思ったのか分からないけど、大人としては、あまりにも未回収なことが多すぎて、思わず謎解きをせずにはいられません!◇冒頭のシーンで、バイクにまたがったアーヤの母親は、黄色い車(シトロエン2CV)に追われており、後ろにミミズをぶちまけて逃げおおせました。あの黄色い車は、かつて彼女がマンドレークやベラ・ヤーガとともに、「Earwig」(ハサミムシ)というロックバンドで活動していたころに、3人で乗りまわしていたのと同じ車です。車のナンバーは「MYA-13W」。(Mandrake/Yaga/A●●●-13Witchの意味かもしれません)現在、その車は、マンドレークの屋敷のガレージに置かれています。アーヤは、その車のなかから、Earwigの「Don't disturb me」というレコードを、もち出したのです。ラストシーンでは、アーヤがベラ・ヤーガに、「黄色い車でピクニックに連れてって」と頼んでいます。ちなみに原作での主人公の名前は「Earwig」ですから、彼女の母親は、バンドの名前をそのまま娘につけたのです。◇アーヤの母は、孤児院に次のような置手紙を残しました。仲間の12人の魔女に追われています。逃げ切ったら、この子を返してもらいに来ます。彼女は、黄色い車に追われていたわけですが、あれを運転していたのは、おそらくベラ・ヤーガです。マンドレークは男性ですから、アーヤの母をふくめて13人の「魔女」がいるわけですね。かりにマンドレークが、カリスマ的なロックスターだったのだとすれば、(どう見てもジョン・レノンにそっくり!)13人の魔女仲間とは、取り巻きのグルーピーだったのかもしれません。そのうちの一人(アーヤの母)が抜け駆けをして、マンドレークの子供を身ごもってしまい、ほかの魔女仲間から追われる身になったのではないかしら?だとすると、マンドレークは、アーヤの父親である可能性が高いし、マンドレークとベラ・ヤーガは、「アーヤが誰の娘なのか」を承知のうえで引き取った可能性がある。ベラ・ヤーガがアーヤに厳しいのは、かつてミミズをぶちまけてきた宿敵の娘だからであり、マンドレークがアーヤに甘いのは、ほかならぬ自分の娘だからなのかもしれません。ラストシーンで、アーヤの母が娘を引き取りに来たのは、彼女が「12人の魔女仲間」から逃げ切ったからだと思うけれど、しかし、そこには宿敵ベラ・ヤーガがいるのです…。屋敷の周囲には、クリスマスツリーがあり、屋上には「Don't disturb me」のイルミネーションが飾られています。◇ちなみに、Earwigの「Don't disturb me(邪魔するな)」の歌詞はこうです。あぁ悪魔は冷えた竃の中で灰をかぶりアカギレ裸足の娘が泣いているいつまで待てば夢の王子様が白馬で迎えに来るのさ…これは「シンデレラ」のことでしょうか?お城の塔では玩具に囲まれて青ざめた顔で王子は引きこもり百個の鍵を部屋の扉にかけて女はママしか知らないあぁ愚かな王子、あぁ醜い娘よあぁ扉は開けるためについてるのさ…これは「ラプンツェル」のことでしょうか?◇宮崎吾朗の「山賊の娘ローニャ」もそうだったのですが、「シンデレラ」も、「ラプンツェル」も主人公の少女が、悪い大人(親)の呪縛を乗り越える物語になっています。山賊の娘ローニャは「わたしは山賊にはならない!」と宣言します。少女たちは、親世代の「悪」をけっして引き継がないのです。シンデレラやラプンツェルに登場する大人たちは、少女にとっての「模範」ではなく、むしろ悪しき「反面教師」です。それらは少女の成長物語なのですが、少女が大人になる、ということは、けっして「親世代と同じ」になることではない。むしろ、親世代とは違う道を選ぶことなのです。そこには、悪い大人(親)と同じような生き方をしない、という強いメッセージがあります。たとえばラプンツェルにとって、塔の内側は、けっして安息の空間ではなく、生きる屍にされてしまうような恐ろしい場所です。塔の上には、鐘ではなく、死人の生首が吊るされているのかもしれません。だから、外に出るためには、みずから扉を開けなければならないのです。アーヤはそれを、軽々とやってのけます。
2020.12.31
戦争は、けっして「非日常」ではなく、むしろ「日常」の地続きにある。そのことをアニメの映像によって表現した作品です。◇この映画の冒頭に流れてくる音楽は、クリスマスソングの「神の御子は今宵しも」です。広島は、呉が東洋随一の軍港だったので、米国の標的にされたのですが、その一方には、人々の豊かな生活がありました。夏には、涼しげな素麺やナスの漬物やスイカを食べ、冬には、町がクリスマスで賑わい、モボやモガがお洒落をして闊歩し、店先ではチョコレートやキャラメルを売っていた。じつは、現代の生活とほとんど変わりありません。そんな町をアメリカの原爆が焼き尽くしたのです。◇この物語の主人公は、とてつもなく無力です。いつのまにか、見知らぬ土地の、見知らぬ男性のもとへ嫁いできて、その運命のすべてを受け入れながら生きています。彼女が、自分の意志で何も決められないのは、かならずしも彼女の性格だけの理由ではありません。そういう時代であり、そういう国家であり、そういう社会であり、そして当時の女性が、そういう立場だったからです。結果として、彼女は、なすすべもなく時代と国家の運命に翻弄されるしかありません。◇しかしながら、こうした生き方は、現代のわたしたちにも通じ合っています。現代社会が、たとえどんなに自由に見えるとしても、わたしたちは、あらゆる物事を自己決定しているわけではないし、むしろいまだに理由の分からないことに翻弄されることのほうが多い。そのことは何も変わっていません。ーー悲しくてやりきれない。この言葉が、普遍的な真実を物語っています。わたしたちが悲しくてやりきれないのは、みずからに降りかかる運命に理由がないからです。すずさんのような女性は、今もなお身近に存在しているし、もっといえば、それは、わたしたち自身だといえます。はるか昔に起こった戦争や原爆という出来事も、じつは、とても身近にあるのだと言っていい。同じことが起こったとしても、すこしも不思議ではない。◇社会の暮らしと営みは、力のない人々どうしが支え合いながら、小さなことの積み重ねによって成り立っています。映画のなかでは、そうした細部がひたすら淡々と描かれていきます。長い年月をかけた小さな積み重ねによって、日々の暮らしが支えられ、人が成長し、世代や文化が受け継がれていくのですが、巨大な力は、それらを一瞬にして破壊してしまう。破壊されたものは、また一から作り直さなければならない。◇フォークルの「悲しくてやりきれない」ってのは、つくづく不思議な歌だなあ、と思います。よく知られているように、この曲は、期せずして発禁処分になった「イムジン河」の代用品として、パシフィック音楽出版に強制され、軟禁状態におかれた加藤和彦が無理やり作らされたものです。「イムジン河」の音符を逆にたどっていたら、ひょろっと思いついたメロディだともいわれています。しかも、そこに、これまたフォークルとは、縁もゆかりもない、ジャンルも世代も違う、サトウハチローという御大が、なんの打ち合わせもないところで歌詞をつけてしまった。◇この曲は、誰の表現の意思ともいえぬところに出来てしまった、いわば偶然の産物であり、ある意味では、さかさまの歌です。パシフィック出版でもなければ、加藤和彦でもなければ、サトウハチローでもなければ、イムジン河の作者でもない。日本人でもなければ、朝鮮人でもない。だれの意思でもない、何らの「表現の意思」とも無縁なところから、ぽわん、と生まれてきてしまった歌。そんな歌が、これほどの普遍性をもってしまっている。山田太一や、周防正之や、井筒和幸や、片渕須直といった人たちに、繰り返し、繰り返し使用され、いまや時代と空間を超えて、世界中で聴かれています。◇それをコトリンゴが、ぽわん、と歌っている。映画のなかでは、ボーっと生きてきた一人の無力な女性が、気づいたら、知らない土地に嫁いでいて、まったく無力なままに、選べなかった家族や、選べなかった時代や、選べなかった国家の運命に翻弄されていきます。そんな悲しくてやりきれない人生に、この誰の意思でもなく生まれた、さかさまの歌が、ぽわんと乗っかって、ぴったり寄り添っていく。そして、特定の誰かのものではない、普遍的な悲しみを歌っています。
2020.08.10
NHKで放送された「この世界の片隅に」をじっくりと鑑賞。つくづくフォークルの「悲しくてやりきれない」ってのは、不思議な歌だなあ、と思いました。…よく知られているように、この曲は、期せずして発禁処分になった「イムジン河」の代用品として、パシフィック音楽出版に強制され、軟禁状態におかれた加藤和彦が無理やり作らされたものです。「イムジン河」の音符を逆にたどっていたら、ひょろっと思いついたメロディだともいわれています。しかも、そこに、これまたフォークルとは、縁もゆかりもない、ジャンルも世代も違う、サトウハチローという御大が、なんの打ち合わせもないところで歌詞をつけてしまった。◇この曲は、だれの表現の意思ともいえぬところに出来てしまった、いわば偶然の産物であり、ある意味では、さかさまの歌です。パシフィック出版でもなければ、加藤和彦でもなければ、サトウハチローでもなければ、イムジン河の作者でもない。日本人でもなければ、朝鮮人でもない。だれの意思でもない、何らの「表現の意思」とも無縁なところから、ぽわん、と生まれてきてしまった歌。そんな歌が、これほどの普遍性をもってしまっている。山田太一や、周防正之や、井筒和幸や、片渕須直といった人たちに、繰り返し、繰り返し使用され、いまや時代と空間を超えて、世界中で聴かれています。◇それをコトリンゴが、ぽわん、と歌っている。映画のなかでは、ボーっと生きてきた一人の無力な女性が、気づいたら、知らない土地に嫁いでいて、まったく無力なままに、選べなかった家族や、選べなかった時代や、選べなかった国家の運命に翻弄されていきます。そんな悲しくてやりきれない人生に、この誰の意思でもなく生まれた、さかさまの歌が、ぽわんと乗っかって、ぴったり寄り添っていく。そして、特定の誰かのものではない、普遍的な悲しみを歌っています。
2019.08.09
テレビで『君の名は。』を観て印象的だったのは、引き戸の開閉や、炊飯器の蓋の開閉を描く際に、「人間の視点」がとられていないことです。すべては「モノの視点」から描かれています。まるでミクロの科学カメラで撮影されているようです。人間の視点からモノを見るのではなく、むしろモノの視点から人間の営みが見られている。◇おそらく新海誠監督は、そこにある種の「神秘」を見出しているのでしょう。敷居すべりのうえを引き戸が動き、蝶番を支点にして炊飯器の蓋が開く。レールに沿って電車が走り、たがいに交差していく。そんな単純な「モノの仕組み」の中にこそ神秘があります。◇惑星が軌道のうえを公転し、互いに交差することで、モノとモノとが巡りあい、運命的な作用を引き起こす。地上に光が射し、風が吹き、雲が生まれ、雨が降り雪が降る。ときには彗星が砕けて、隕石が重力に引き寄せられる。それらの物理はみな人智を超えた神秘であり、「入れ替わり」や「タイムスリップ」といった超常的な現象すら、その延長にある出来事に過ぎません。人間の営みも、歴史も文化も、そうした物理的な神秘のなかにこそあり、村の記憶や神社の縁起は、それを伝えています。◇おそらく新海誠の物語は、ヒューマニズムの視点からではなく、それを超える天体や気象といった物理の視点から、さまざまな運命の奇跡を描いているのですね。繭が紡がれ、糸が撚られ、紐を組むことで、モノとモノが結ばれていくように。あるいは、米と唾液が混じり、発酵することで、やがて酒になるように。人々もまた、神秘に満ちたモノの仕組みのなかで、たがいに結ばれては、すこしずつ変化していきます。
2019.07.02
アニメはほとんど見ないのですが、NHKの「ガンダム ORIGIN」をなぜか毎回見ています。今回は、いわゆるコロニー落とし…人間が居住しているアイランド・イフィッシュを、住民もろとも地球に落下させるという衝撃的な「ブリティッシュ作戦」が描かれました。あまりのことに呆然としてしまいます。◇ここには、いくつかの現実の事例が複合的に反映されています。1.毒ガスによるジェノサイドブリティッシュ作戦では、抵抗する武装集団だけでなく、シェルターに避難した無抵抗の人までを事前に毒殺したのでしょうか? いずれにしても、これは、レジスタンスやユダヤ人をガス室で毒殺したナチスを思わせるものです。2.民間施設の兵器化もともとスペースコロニーというのは、地球外で人間が生活するための施設です。それを兵器代わりに使ってしまう。これは、旅客機をミサイル代わりに使用した9・11のテロを思わせます。基本的な発想は同じです。実際に、人間はそういうことをやりかねない。3.基地を守るための迎撃スペースコロニーが地球に落下する前に、地球連邦軍は、これを同胞の住民もろとも迎撃しました(すでに中の人たちは毒殺されていましたが)。さらに上空で破壊されたコロニーが地球各地に落下した結果、地球人口の約半数が犠牲になりました。おそらく、人類史上最大の悲劇です。もしかして、連邦軍の指導部は、中枢基地ジャブローを守るために、それを承知で迎撃したのでしょうか? それとも、地球への大損害を予測できぬまま、やみくもに同胞たちの住む施設を破壊したのでしょうか? かつての日本の戦争では、本土防衛のために沖縄やサイパンなどが「捨て駒」にされたことがありました。現在の日本のミサイル迎撃システムも、米軍主要施設の防衛を優先させるのではないかと思われ、その場合は基地の周辺住民が犠牲を払う可能性があります。もはや何を守ろうとしているのか意味不明です。4.指導者が訴追を逃れるための戦争継続地球人口のじつに半数が死滅するという悲劇にもかかわらず、指導者たちは厭戦的になるどころか、「負ければ戦争犯罪人として訴追される」と恐れるあまり、まったく絶望的な戦争へと邁進していきます。まさに原爆が落とされて天皇が決断するまで戦争をやめようとしなかった旧日本軍の《判断》に酷似しています。
2019.06.25
今回話題になってる「ドラえもんの最終回」は、非常に高度な作品。日本の「マンガ文化」の高さを思い知らされた。というより、マンガが「文化」であるってことを、あらためて様々な点で感じさせられた。作画の模倣だけではなく、大人になった登場人物たちの造型なども見事ですし、なにより、漫画の説話のスタイルが、当時の作品の雰囲気をちゃんと醸し出してる。一コマ一コマに明確な意味をもたせ、一ページごとを“段落”として区切りながら、簡潔に語っていくスタイルが、「古典的」な漫画の印象をしっかりと表現してます。物語の内容からいえば1本の映画にもできそうなスケールの話ですけども、わずか十数ページの紙数で簡潔にまとめられています。ちょうど原作の「一話分」も、このぐらいの長さだったんじゃないでしょうか。実際に販売したマンガ本では、装丁なんかも真似たらしいですけど、内容そのものにおいても、原作のもっていた漫画の「話法」を、よく意識して作っているといえます。さらに、ストーリーの面でも、伝えるものの意味が深いです。つまり、これは「のび太の物語」としてだけでなく、ドラえもんを読んで育った「読者の物語」としての二重の構造をもってる。ドラえもんのいたはずの「未来」の世界に生きながら、その思い描いた「未来」とはやや異なった「現在」を生きている、ドラえもんの「読者」だった人たちの物語にもなっているわけです。そこには恐らく、この「最終回」の作者自身も含まれます。この作品そのものが、「ドラえもんを作るのは、のび太自身だった」というストーリーを生むと同時に、「ドラえもんの物語を作るのも、読者自身だった」ということの雄弁な表現になってる。実際、この「最終回」を生み出した人たちは、まさしく“ドラえもんの子供たち”といえる世代の人たちだったといえます。『ドラえもん』が、「読者=のび太」自身の手で作られていくというのは、ドラえもんの物語そのものからすれば、むしろ幸福なことなんだと思う。今回の「最終回」の原案となった都市伝説のなかに、ドラえもんの“設計者”が残したという「規約」のエピソードが出てきます。それによれば、ドラえもんの構造について設計者自身に問い合わせることはできないが、ドラえもんを「修理及び改造」することは、自由に行なってもよい。という規定がなされています。ここにも、二重の意味が巧みに込められています。今回の騒動で、小学館側は、許諾のない出版・販売を問題にしたのでしょうが、だからといって、作品自体のこのような創作(いわばドラえもんの「修理及び改造」)そのものを、故人である藤子・F・不二雄が禁じていたわけではなかったと思える。むしろ、ドラえもんの新たな物語が、多くの読者(=のび太)たちによって作られ続けていくことのほうが、作品の生命を繋いでいくという意味では、幸福なことなんだと思う。奇しくも、評論家の夏目房之介が、この「最終回」の出来への賛辞を述べていましたが、彼の祖父であった漱石の作品もまた、多種多様なパロディや『続編』を生んだことを思い起こさせます。まさしくそれが文化なんだといえる。「権利」というのは、文化を守るためにこそあれ、それを阻害するためにあるものじゃないってことは言うまでもない。もしその点で、本末転倒な「権利重視」なんてのがあるんだとすれば、それは唾棄しなきゃいけないと思う。今回のような創作物が、社会的にも「正当な作品」として成立するように環境を整備すべきですが、いずれにしても、これだけの高度な内容なら、「作品」として残っていくのはほぼ間違いありません。
2007.05.31
全24件 (24件中 1-24件目)
1