まいかのあーだこーだ

まいかのあーだこーだ

2007.05.31
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カテゴリ: 漫画・アニメ
今回話題になってる「ドラえもんの最終回」は、非常に高度な作品。
日本の「マンガ文化」の高さを思い知らされた。
というより、
マンガが「文化」であるってことを、あらためて様々な点で感じさせられた。

作画の模倣だけではなく、
大人になった登場人物たちの造型なども見事ですし、
なにより、
漫画の説話のスタイルが、当時の作品の雰囲気をちゃんと醸し出してる。

一コマ一コマに明確な意味をもたせ、

「古典的」な漫画の印象をしっかりと表現してます。
物語の内容からいえば1本の映画にもできそうなスケールの話ですけども、
わずか十数ページの紙数で簡潔にまとめられています。
ちょうど原作の「一話分」も、このぐらいの長さだったんじゃないでしょうか。

実際に販売したマンガ本では、装丁なんかも真似たらしいですけど、
内容そのものにおいても、
原作のもっていた漫画の「話法」を、よく意識して作っているといえます。


さらに、ストーリーの面でも、伝えるものの意味が深いです。
つまり、これは「のび太の物語」としてだけでなく、
ドラえもんを読んで育った「読者の物語」としての二重の構造をもってる。
ドラえもんのいたはずの「未来」の世界に生きながら、

ドラえもんの「読者」だった人たちの物語にもなっているわけです。

そこには恐らく、この「最終回」の作者自身も含まれます。
この作品そのものが、
「ドラえもんを作るのは、のび太自身だった」というストーリーを生むと同時に、
「ドラえもんの物語を作るのも、読者自身だった」ということの雄弁な表現になってる。

まさしく“ドラえもんの子供たち”といえる世代の人たちだったといえます。

『ドラえもん』が、
「読者=のび太」自身の手で作られていくというのは、
ドラえもんの物語そのものからすれば、むしろ幸福なことなんだと思う。

今回の「最終回」の原案となった都市伝説のなかに、
ドラえもんの“設計者”が残したという「規約」のエピソードが出てきます。
それによれば、


ドラえもんを「修理及び改造」することは、自由に行なってもよい。


という規定がなされています。
ここにも、二重の意味が巧みに込められています。

今回の騒動で、小学館側は、
許諾のない出版・販売を問題にしたのでしょうが、
だからといって、
作品自体のこのような創作(いわばドラえもんの「修理及び改造」)そのものを、
故人である藤子・F・不二雄が禁じていたわけではなかったと思える。

むしろ、ドラえもんの新たな物語が、
多くの読者(=のび太)たちによって作られ続けていくことのほうが、
作品の生命を繋いでいくという意味では、幸福なことなんだと思う。

奇しくも、評論家の夏目房之介が、
この「最終回」の出来への賛辞を述べていましたが、
彼の祖父であった漱石の作品もまた、
多種多様なパロディや『続編』を生んだことを思い起こさせます。
まさしくそれが文化なんだといえる。

「権利」というのは、文化を守るためにこそあれ、
それを阻害するためにあるものじゃないってことは言うまでもない。
もしその点で、本末転倒な「権利重視」なんてのがあるんだとすれば、
それは唾棄しなきゃいけないと思う。

今回のような創作物が、
社会的にも「正当な作品」として成立するように環境を整備すべきですが、
いずれにしても、
これだけの高度な内容なら、「作品」として残っていくのはほぼ間違いありません。





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最終更新日  2024.06.17 17:36:34


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