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二之湯智国家公安委員長「事務所近くに旧統一教会の事務所がある」「運動を起こすのでちょっと名前を貸してほしいというので貸した」「統一教会の教義もよく知らない」…それを調べるのが公安の仕事だろ。 だめだこりゃ。◇山本朋広元防衛副大臣「今日はマザームーンとともに皆様と特別な一日を過ごしたい」「マザームーンに、カーネーションの花束をプレゼントさせていただきました」「マザームーンに対しての感謝の思いが、マザームーンへ伝わる」「皆様には我々自民党に対し、たいへん大きなお力をいただいている」岸防衛大臣「統一教会の皆さんは何人かは存じ上げてます。おつきあいもあります」「次の選挙でおつきあいするかは軽々にお答えできない」…関係あるなしのレベルじゃなく、 ひれ伏してるよね、防衛族議員が。いわゆる「家族」なの?◇以前から「日本の政権は米国のポチ」だといわれてきたけど、米国どころか、韓国のポチだった。しかも、韓国政府じゃなく、韓国カルト宗教のポチだった、…というオチ。
2022.07.27
自民党は、けっして統一教会との関係を断ち切れません。下記のとおり、68年の勝共連合設立以来、自民党は一貫して統一教会の活動を守ってきました。その関係をいまさら断ち切れるわけがない。◇1984年日本から韓国への送金の実態を内部告発した副島嘉和が襲撃される。1987年ミニコミ誌で霊感商法を批判した男性が空気銃で狙撃される。マスコミの労組会議は統一教会報道に対する「組織的な妨害」を批判。1995年3月、オウム真理教の地下鉄サリン事件。10月、オウム真理教に解散命令。ここから警察庁・警視庁は統一教会も摘発すべく準備するものの、その後の「政治的な圧力」によって頓挫。(なお94年6月~96年1月が村山内閣。その後は13年間にわたる自民党政権)2006年第一次安倍政権下で公安の監視対象から統一教会が外される。(09年9月~12年12月は民主党政権)2015年第二次安倍政権下で統一教会の名称変更を許可。文科大臣は下村博文。◇…つまり、1980年代の騒動やバッシングによっても断ち切れなかったほど、自民党と統一教会の関係は根深い。統一教会は自民党にとって死活問題なのです。それを今回の件で断ち切れるわけがない。すでに安倍晋三や細田博之は、韓鶴子を賛美し、その活動にお墨付きを与え、これにならって国会議員や地方議員も統一教会との関係を構築しています。現在、統一教会側は、「関連団体との繋がりを知らなかったことにせよ」と水面下で各議員に通達し、政治との結びつきについて隠蔽工作を図っています。もし、この期に及んで、統一教会との関係を断ち切れば、自民党そのものが解体してしまいます。
2022.07.25
山上徹也は、もともと安倍政権を支持していたネトウヨでしたが、じつはこの政権が統一教会をのさばらせてきたと知って許せなくなり、さらには元来の韓国嫌いも手伝って、最終的に政治的な転向をしたのだろうと思います。海上自衛隊に入ったころは、おそらくゴリゴリの保守主義者だったのでしょう。◇一般のネトウヨのなかにも、今回の統一教会の問題が明るみになったことで、自民党に疑念を持ちはじめる人や、自民党と手を切る人々が現れています。そのような人々は、たとえ統一教会と同じ政治理念をもっていても、やはり、このカルト教団の悪行や、それをのさばらせてきた自民党を許せないのでしょうし、根本的な嫌韓感情もぬぐうことができないのでしょう。◇しかしながら、ネトウヨの中には、いまなお自民党への支持姿勢を変えない人々もいます。そのような人は、たとえ韓国が嫌いであっても、政治理念の一致において、「統一教会と手を結ぶこともやむなし」と考えるのだろうし、その理念の一致に比べれば、統一教会の悪行など相対的には些細な問題と考えるのでしょう。実際、「ジェンダーフリー反対」「夫婦別姓反対」「同性婚反対」「性教育反対」「LGBT 排斥」「スパイ防止法賛成」「憲法改正」「"美しい国"の実現」…などの政治目標を共有しているネトウヨは、その点において統一教会と考えが同じなのだから、堂々と連帯表明をすればいいのです(笑)。◇また、たとえ韓国人が嫌いでも、「やはり選挙戦には統一教会員の協力が必要なのだ」と考えるなら、堂々と手を結べばいいと思います。それ自体は、非難されるべきことでも抑圧されるべきことでもない。実際、統一教会は、本来の敵対関係を超えて日本の自民党と手を結んできたのだし、日本の自民党もまた、本来なら敵対すべき統一教会と手を結んできたのです。それを見倣って、この際、ネトウヨたちも堂々と統一教会に連帯表明をすればいいと思う。それによって韓国嫌いが払拭されていくのならば、それはそれで喜ばしいことじゃないでしょうか?◇わたしも、べつに韓国や韓国人が嫌いなわけじゃありません!韓流ドラマは見ないけれど、BTS や TWICE の音楽は聴いてるし、ポン・ジュノの映画も観ています。追記:転向しないネトウヨは、じつは最初から「隠れ統一教会員」なのだろうという話もあります。つまり、嫌韓のフリをしているだけなのですね。
2022.07.18
かつてドナルド・キーンは、三島由紀夫のクーデターについて、「それを狂気とみなすのは間違いであり、 三島の行動は論理的に構成された不可避のものである」と言いました。しかし、わたしは、その意味がいまだに理解できません。三島由紀夫が熱望したのは天皇を中心とする宗教国家であり、彼の天皇信仰はきわめて宗教的なもので、あきらかな狂気でした。それが宗教的な狂気であることは、だれよりも本人が自認していたはずです。三島の立場と敵対するはずの左翼知識人の多くが、彼のことをけっして否定できないのも、基本的に「他人の宗教的熱狂を否定することはできない」からです。もちろん、だからといって、宗教国家の復活なんぞを容認することは出来ませんが。◇山上徹也の場合は、三島由紀夫とは真逆です。彼は、宗教国家の復活を望んだのではなく、むしろ宗教と国家の癒着を嫌悪していました。すでに、米本和広へ送付した手紙の内容が公開されると同時に、山上自身の Twitter のアカウントも特定されており、犯行に至るまでの思考の流れが明らかになっています。もともと彼は、安倍政権を支持しており、その嫌韓的な立場から周囲に「ネトウヨ」と呼ばれていましたが、よりによって櫻井よしこや三浦瑠麗のツイートを見たことで、安倍晋三と統一教会との癒着に気づきはじめ、やがて、「安倍晋三は本来の敵ではない」と認識しながらも、「現実世界でもっとも影響力のある統一教会のシンパの一人」として、やむをえず安倍晋三へと標的を移したのでした。◇彼は、米本和広へ宛てた手紙のなかで、「安倍晋三の死がもたらす政治的意味と結果について考える余裕はない」と書いていますが、いまにして考えれば、それは、彼がもっとも期待した「意味と結果」をもたらしているように見える。かりに統一教会の教祖を暗殺できたとしても、それは、国際問題に発展しこそすれ、今回のように国内政治の矛盾を浮かび上がらせることはなかっただろうし、それどころか、かえって統一教会の結束を強化させる結果になったかもしれません。むしろ、今回の安倍晋三の「代理的な死」のほうが、はるかに統一教会にとって大きな打撃になっているし、国内政治の矛盾を暴露することにも帰結している。その意味で、事態は山上が期待したとおりに推移しています。 ◇わたしから見ると、三島由紀夫の狂気に比べて、今回の山上徹也の犯行のほうが、はるかに「論理的に構成」されているように見えます。宗教国家の復活を熱望した三島由紀夫の狂気は、当時の自衛隊にさえ賛同されずに未遂と自決に終わりましたが、今回の山上徹也の場合は、暗殺までを単独で完遂させただけでなく、かりに「政治と宗教の癒着を断ち切るべきだ」というのが、彼のメッセージであったと考えるならば、そのことに反対できる日本人もほとんどいないのです。
2022.07.18
柄谷行人が朝日新聞の書評で『ヤバい神』という本を紹介し、「もともと旧約聖書は矛盾に満ちていて、正義にも反している」と述べています。おそらく、これは、統一教会のことも念頭に置いた書評であり、一面ではユダヤ・キリスト教を批判しているようにも見えますが、反面では統一教会に理解を示しているようにも見えます。◇かつて吉本隆明は、「麻原彰晃こそが本物の宗教者」だと言いましたが、吉本の弟子筋にあたる糸井重里や、娘の吉本ばななは、今回の件にかんして表立った発言をせず、静観を続けています。いわゆるニューアカデミズムの面々も、やはりオウム事件のときに中沢新一を擁護しましたが、今回の件で東浩紀が統一教会をまったく批判しないのは、そんなニューアカの姿勢を継承してのことかもしれません。大江健三郎や、村上春樹や、阿部和重のような主要な作家も、いまのところ今回の件にかんして沈黙を維持しています。◇左翼知識人は、ふだんなら戦前の国家神道を批判したり、宗教原理主義にありがちな伝統思想や保守思想を批判しますが、意外にも、カルト宗教に対しては寛容だったりします。そもそも「宗教とは矛盾に満ちて苛烈である」という認識があるからです。実際、欧州のイエズス会にしても、日本の比叡山にしても、もともとは苛烈で戦闘的なカルト宗教でした。つまり「苛烈でなければ宗教じゃないっ!」というわけです。一方、このようなカルト宗教は苛烈であるだけに、たえず国家や社会の排斥や弾圧を受けるのも必然でした。イエスは磔刑になり、麻原彰晃は絞首刑になりました。ユダヤ人は虐殺され、パレスチナ人も蹂躙されています。今回の統一教会も、何らかの形で国家や社会の排斥や弾圧を受ける可能性があります。◇じつをいえば、宗教を弾圧する国家の本質というのも、弾圧される側の宗教に負けず劣らず、きわめて宗教的です。そもそも日本の天皇はアマテラス神の子孫だそうですし、ヒトラーやプーチンのようなファシズムも、きわめて伝統主義的で保守主義的で民族主義的です。その意味では、イスラム原理主義や米国のキリスト教右派にも近似的です。ただし、近代国家は、可能なかぎり宗教から距離を取るようにしてきました。それは、宗教を排斥したり弾圧したりするということではなく、あくまでも「距離を取る」ということです。そして、この「距離の取り方」がたびたび議論になっている。◇今回の統一教会の件で問題なのは、その人脈が政界やメディア界に浸食していることであり、その男尊女卑的な家族主義が与党の政策にまで侵食していることです。本質的に、統一教会は、日本の過去の帝国主義に憎悪を抱いている組織なので、それと政権与党が選挙対策で手を組むということは、いわば「選挙のために国を売る」という側面をもっていました。それが結果として、日本国民の生命と財産を危険にさらし、金や女性を韓国に吸い上げられ、日本の国益を損ねることにもなりました。◇巨額すぎる献金の被害者、そして信者二世(あるいは信者にならなかった子供)の保護・救済が必要です。そもそも、巧妙なマインドコントロールによって、多額の献金を吸いあげていくようなシステマティックな手法を、たんなる「宗教的熱狂」の範疇で解釈できるのかどうかも疑問です。今回の犯人は、いわゆる「無敵の人」だったと思いますが、無差別的な大量殺人でなく、標的を絞った犯行だったことは、むしろ不幸中の幸いだったと言うべきなのかもしれません。片田珠美のような教会側の御用学者は、安倍晋三へと矛先が向かったことを、「逆恨み」だの「憎悪の置き換え」だのと解説していますが、それを犯人の心理だと都合よく規定したところで、なんら「無敵の人」たちによる事件の抑止にはなりません。やはり、上記のような政治・メディアと宗教の不可解な関係を清算しつつ、同時に、貧困の問題にも本格的に取り組まなければ、こうした事件を防ぐことは出来ないだろうと思います。
2022.07.17
安倍晋三は、なぜ統一教会の関連組織にビデオメッセージを送ったか。結論からいうと、わたしは安倍晋三と統一教会のあいだに、政策上の協調関係があったとは思っていません。より正確にいえば、統一教会の思想のほうは、すくなからず自民党の政策に反映されたかもしれませんが、安倍晋三の政治理念は、何ひとつ統一教会の運動には反映されなかったと思います。◇では、なぜ安倍晋三は、日本国内の統一教会の無法な運動を野放しにして、さらにはビデオメッセージまで送って、無用なリップサービスをしてしまったのか。それは、統一教会側のメリットにこそなれ、なんら日本の国益にはならないばかりか、日本国内の統一教会の活動に「お墨つき」を与えることにもなる。ある意味では捨て身のサービスです。実際、そのことが今回の暗殺の引き金になったとしたら、安倍晋三のリップサービスはあまりに迂闊だったと言うほかありません。◇たしかに、岸信介の時代ににおいては、「反共」政策で利害が一致する統一教会と手を結ぶ意味がありました。しかし、すでに冷戦後には、その有効性が低下したばかりか、あろうことか、統一協会は、北朝鮮に対して「融和政策」へと切り替えてしまっている。これは、はたして、安倍晋三の対北朝鮮政策に合致したでしょうか?むしろ「相容れないものになった」というほうが正しい。それだけではありません。韓国極右でもある統一教会は、慰安婦問題や徴用問題の黒幕でさえあった、といわれています。そう考えると、むしろ安倍晋三と統一教会は敵対すべき関係だったのです。◇もちろん、統一教会側の対北運動にしても、「北風」と「太陽」の硬軟を取り合わせたものだったかもしれないし、安倍晋三の立場としても、北朝鮮に対するあらゆるチャンネルを確保する意味で、統一教会はあくまで「選択肢のひとつ」だったかもしれない。しかし、それにしても、わざわざ日本の国益を損ねてまで、無用なビデオメッセージを送ってしまうのは、捨て身のサービスが過ぎるし、はなはだしく合理性に欠けている。◇このちぐはぐさを合理的に説明できる解答は、たった一つしかありません。つまり、安倍晋三と自民党は、選挙協力のためであれば相手を選ばなかった…ということに尽きるのです。たとえジャパンライフの山口隆祥や、岡山理大獣医学部の加計孝太郎ようなチンピラであろうと、たとえ北朝鮮に融和政策をとりながら、慰安婦・徴用問題で日本に金をふっかける統一教会であろうと、神社であろうと、創価仏教であろうと、いかがわしいキリスト教であろうと、とにかく選挙に勝つためであれば、安倍晋三は節操もなく手を結んだ、…ということに尽きる。そのために国益を損ねようが、そのために国民の生命と財産を危険にさらそうが、そんなことは、自民党の選挙対策にくらべれば二の次・三の次だった。そうとでも考えなければ、安倍晋三と統一教会の結びつきは、まったく説明がつかないのです。◇2006年以降に、公安の監視対象が統一教会から極右団体に切り替わった、という話もある。その結果、ますます統一教会の活動が野放しになった。そこにも安倍政権の関与が疑われています。すなわち、イデオロギーや政策の如何を問わず、日本のチンケな極右団体なんぞよりも、統一教会のほうがはるかに選挙において利用価値があったということでしょう。ビデオメッセージを送ってリップサービスをしたのも、結局は「選挙への見返り」ということ以外に合理的な理由など見当たらない。それが日本には何の国益にもならないばかりか、結果として、統一教会の日本国内での無法な活動を拡大させることになるとしても、安倍晋三と自民党は、何よりも選挙をこそ優先させたのだろうと思います。そして、そのブーメランが、統一教会によって家庭を破壊された元自衛官によって、ほかならぬ安倍晋三へと撃ち返されてしまったのです。◇なお、NHKなどの主要メディアは、「山上容疑者はたった一本のビデオ映像を見て標的を切り替えた」と報じて、それが短絡的な思い込みだったかのような印象操作を行っています。しかし、すくなくとも犯人は、岸信介以来の安倍一族との関係まで把握していました。(その程度の情報ならネットでも調べることが可能でした)のみならず、犯人は、母親をはじめとする統一教会の信者たちが、自民党系議員を支持している様子を見ていた可能性もあります。…しかしながら、現在のメディアは、「一本のビデオ映像にもとづく短絡的な思い込み」だと切り捨てたうえで、これを犯人の「妄信」に過ぎないとしている。そこから察するに、やはり日本の主要メディアの多くにも、自民党と統一教会との関わりを隠蔽せずにいられない何らかの事情がある、ということが透けて見えます。
2022.07.16
国葬にかんして、わたしがいちばん問題だと思っているのは、かつて安倍晋三が、一部の国民にむかって「反日」と言ったことです。そのような人物を国が葬る、と。そこに天皇が参席する、と。それによって「反日」発言にお墨付きが与えられる、と。それで国民社会が分断しないわけがありません。しかも、その人物と統一教会の関係は不透明なまま。岸田文雄は、「民主主義を守るための国葬」だと言ったものの、この国葬はむしろ日本の民主主義を不可逆的に粉砕します。日本の社会はいよいよカルト化する。◇作家の中沢けいは、第二次安倍政権以降の日本の極右化を、「右傾化じゃなくってカルト化だったんだ。納得した」と述べています。つまり、それを背後で推し進めていたのは、日本の右翼ではなく、むしろ韓国発祥の統一教会だったということです。事実、安倍政権を支えた人々の、異様なまでの男尊女卑的な家族主義は、ほかならぬ統一教会の思想にこそ「合致」しています。
2022.07.15
感染者は増え続けているというのに!警察は失態だらけだというのに!よりによって犯人は元自衛官だったというのに!警察と自衛隊の警備による国葬なんぞをやって、感染者がまたぞろ激増したらどうすんの?テロでも起きたらどうすんの?国民社会の分断を深刻化させるだけです。いくら統一教会の問題を煙に巻くためとはいえ、こんなデタラメまでやるとは!いよいよ危ない時代に近づいています。◇いったい誰が国葬なんてことを言いだしたのか。日本人はどこまで馬鹿なんでしょう?弔い合戦にそそのかされて情緒的に投票を行ったり、ポピュリズムにも程がある。とくに東京の人間は慎重さや老獪さに欠けている。いっときの気分だけで流れに群がってしまう。オリンピックであれだけの大失敗をしても、まだ懲りないのでしょうか?どうせ、事前に次々と問題が噴出して、いっそうの国家の凋落を招くだけです。ポピュリズムに流されると、本当にろくなことがない。冷静さを取り戻させるためにも、メディアはまず安倍晋三と統一協会の関係についてガッチリと報じるべきです。そして安倍政権時代の数々の疑惑について改めて検証を行うべきです。
2022.07.14
本来なら、情に流されて「弔い票」を投じたバカな有権者に対して、ここぞとばかりに文句を言いたい!…のだけど、まあ、民主主義なんてものは、その程度のポピュリズムで動いていくものだし、いまさらそれを嘆いてみても仕方がありません。しかしながら、そういった「弔い票」を有権者に促したり、統一教会の問題に蓋をしようとしたメディア人たちの責任は重い。とりわけ統一教会の件にかんしては、メディア人たちの癒着っぷりが惨憺たる有様でした。もはや完全に信頼を失ったと思います。◇まずは、堀江貴文。彼は、次のような印象操作を行いました。「反省すべきはネット上に無数にいたアベカー達。犯人はそいつらに洗脳されてたようなもんだ」これと同様のことを、落合陽一も口にしました。「政府で働く人の悪口をみんなで言うと、その悪口を聞いた誰かが日本を良くしようと思って銃でその人を撃ったりするんだよ」あたかもリベラル派の安倍批判がテロを誘発したかのような、まったくもって根拠のない印象操作です。しかも、落合陽一にいたっては、言論弾圧さえ正当化しかねない危険思想!◇つぎに、弁護士の若狭勝。「容疑者は動機をあえて教団がらみにしようとしている可能性がある。犯行と教団を結びつけるように印象づけようと意図した可能性がある。どうも奈良県警は動機を宗教のほうにもっていこうとしているように見える」「ネット上の安倍批判の声に後押しされて、殺意が安倍氏に移っていったかもしれない」犯人の供述にもない妄想と思い込みを押し広げつつ、やはり「安倍批判派によるテロ」という話に結論づけたいようです。橋下徹も、これと似たようなことを言ってました。「ネットやメディアの批判が犯行動機に繋がったのであれば、度を超えた批判はダメなんだ、と成熟した民主主義国家として国民は意識するべき」「安倍さんや安倍さんの政治信条に反対して民主主義を壊すために襲撃したというのが本当で、旧統一教会の話を持ち出したのは後づけの動機という可能性もある」そして、統一教会に向けられた犯人の「動機」が否定できなくなった後にも、「統一教会との関係があることないこと言われているので、それをもって誤解してしまうってことも繋がっているんじゃないのかな?」「動機を解明するにあたって、旧統一教会と山上容疑者の母親の関係、安倍さんとの関係っていうところで確認が必要であって、旧統一教会の問題性を深掘りする話ではない」などとゴチャゴチャ言いながら、つとめて統一教会の問題には蓋をしようとしていました。◇古市憲寿も、「ネットを中心に陰謀論のように、統一教会と安倍さんの関係がすごく深いんじゃないかってことが議論されてた」「政治家と接している人からすれば常識ですけど、本当にたくさんの会とか団体とか組織と仲良くするじゃないですか。今回の統一教会も、あくまでも安倍さんが付き合ったなかでの、たくさんの会のなかでのひとつに過ぎなかった」などと、統一教会の問題を相対的なものとして矮小化しようしています。茂木健一郎も、これと同じように、「統一教会との関係が取り沙汰されているが、安倍さんが一日にしなければならなかったことを考えると、その中で統一教会のことが重要なものだったとは思えない」「ビデオメッセージを送っていたようですが、それは付き合いみたいなもので、年に一回しゃべる時しかその団体のことを考えなかったのかしれないし、安倍さんには一国の総理として他に考えることがたくさんあった。保守の人たちとその団体の主義主張と共鳴する部分はあったのかもしれないが、それ以上でもそれ以下でもなかったと思う」「陰謀論は針小棒大というか、ごく一部分の事実、事実と思われるものを拡大解釈して、そこにあたかも巨大な構図があるかのように勘違いするのが陰謀論だ。ネットの書き込みや議論を見ていると悪い意味での陰謀論だ」「安倍さんと統一教会の関係があるというのは、私人としても政治家としてもその経験の全体からすると本当にごくわずかだったのではないか。そのごくわずかなことを捉えてあたかも大きな意味があると言うのはバランスが欠けているし、バランスを欠いたことが思い込み、妄想がこのような悲劇を生んだことを考えると、バランスを考えることが大事だと思う」などと、せいぜい二行ぐらいで話せそうなことをゴチャゴチャ言ってます。◇一方、東国原英夫は、「統一教会が掲げている《世界平和》のイデオロギーに賛同される政治家は多い。純粋に《世界平和を願おうよ》という活動に賛同を寄せられる政治家はいらっしゃる」と言いました。…じつはこれがいちばん危ない!いったい何をもって「純粋」と言うのでしょうか?実際、安倍晋三は、統一教会の《世界平和運動》に賛同していたのですが、今のところマスコミはその具体的な詳細について報じていません。しかし、端的に言うならば、これは「反共運動」か「共産主義との融和運動」のどちらかでしかありえません。それを《世界平和運動》などと漠然とした表現で言い換えているに過ぎない。東国原のコメントこそが、この問題の核心にもっとも近いのです。そして彼自身も、そうした政治の内実に無関係ではないのです。◇最後に、いつもの田崎史郎。「統一教会と安倍さんとどうして結びつくんだと。山上容疑者はそれを結びつけてしまって、あの犯罪に及んだわけですよね。安易に結びつけないほうがいいんだと思いますよ。今のところ関係がないわけだから」…だそうです。もはや誰も信用しませんが(笑)。◇ついでに、いつもの三浦瑠麗。「こういう事件が起きて、因果関係として報じることは、安倍さんに責任の一端があったかのような印象操作になっている」それを言うなら、ホリエモンや落合陽一らの無根拠な「印象操作」を批判すべきでしょ。さらに三浦瑠麗は、10日夜の選挙特番で、(すでに国内メディアでさえ「統一教会」を実名で報じていたのに)福島瑞穂が「安倍晋三と統一教会の関係を明らかにすべき」と主張したのに対して、東浩紀らと一緒になって、「仮定の話を根拠にしてテロを自民党のせいにしている」などと、またも曲解にもとづいたリベラル派への責任転嫁をし、そのうえ、12日になってもなお、「現時点で完全な裏取りができていない。統一教会と安倍さん、あるいはファミリーがどういう関係にあるかは何の証拠もない状況だ」…などとうそぶいています。ちなみに職業は「政治学者」だそうです(笑)。◇こうしたメディア人のなかには、田崎史郎のような政権のスポークスマンや、落合陽一や茂木健一郎のような創価学会と昵懇の自公支持者もいますが、統一教会と直接間接につながっている人もいるのではないでしょうか?そのことがメディアの態度を煮え切らないものにしているのだろうと思います。
2022.07.14
思い返せば、ジャパンライフの山口隆祥も、「桜を見る会」という首相の公式行事に招かれていました。熱海の土石流を起こした天野二三男も、これに(おそらく同和団体の代表として)招待されたことがあるそうです。とくにジャパンライフの場合は、こうした政権からの「お墨付き」が詐欺被害を拡大させました。なぜ、政権とつきあいのある人間には、これほどまでに「反社」的な人間が多いのでしょうか?それは「票と金」という動機が「政治倫理」を上回るからでしょう。◇統一教会にかんしては、安倍晋三が自分の意思で祝意のビデオメッセージを寄せていました。これらの組織と、政権との実態的な関係がブラックボックスである以上、国民は、その関わりについて、あくまで外形から判断するしかありません。しかし、NHKをはじめとするマスコミは、外形で判断する国民のほうを「思い込み」だと切り捨て、今回の犯行にかんしても、たんなる「逆恨み」だと断じています。おそらく、ジャパンライフの詐欺についても、熱海の土石流についても、政権や政党に対する被害者の不信感を「逆恨み」と切り捨てるでしょう。◇熱海の土石流を引き起こした天野二三男は、「許可申請はしたが盛り土の造成はしていない」と主張しています。同じように、安倍晋三も「桜を見る会」にかんして、「招待状を送ったのは事務局であって自分ではない」と主張しました。本来、トップの人間とは、組織の責任を負うべき存在ですが、現状では、むしろ組織のトップであればあるほど、責任を回避するためのさまざまな手練手管を行使してしまいます。このことを鑑みれば、一般に、地位の高い人間にほど重い罪が着せられねばなりません。しかしながら、実際には、地位の高い人間ほど罪を逃れやすく、地位の低い人間ほど重い罪を課せられやすい。そして、地位の低い人間は、被害を受けても泣き寝入りを強いられやすい。そうした不公正な逆転現象が生じています。このような社会的な不正義を、マスコミや司法関係者はいつまで黙認し続けるのでしょうか?◇くりかえしますが、統一教会にかんしては、安倍晋三がみずからの意思で祝意のビデオメッセージを寄せました。このような首相や与党による「外形的なお墨付き」が、統一教会の活動をいっそう野放しにし、信者をいっそう増やす結果を招くことになる。たとえ安倍晋三が、統一教会の信者でも顧問でもなく、また、その活動を全面的には支持していなかったとしても、国民はその関係性をあくまで外形で判断するしかありません。そうした国民の判断を「勝手な思い込み」と非難するのは、ほとんどチンピラまがいの抗弁というべきであり、まして、マスコミがその抗弁を鵜呑みにするのはあまりに筋違いです。社会正義とは何なのか。NHKをはじめとするメディアはいったいどう考えているのですか?
2022.07.13
NHKをはじめとする大手メディアは、ようやく昨日になって「統一教会」を実名で報道しはじめました。その理由として以下の3つのことが考えられます。1.選挙が終わったから2.海外メディアがすでに報道してしまったから3.統一教会側が会見を行ったからしかし、上記のいずれの場合であっても、報道を自粛するだけの正当な理由にはなりえません。いまのところ、NHKをはじめとする大手メディアは、昨日まで実名を伏せ続けた理由について何も説明していません。◇1.選挙が終わったから放送メディアには政治的な中立性が求められます。しかし、それは「選挙前」であろうと「選挙後」であろうと変わりません。問題は、選挙の前後で報道姿勢を切り替えたことなのです。はたして選挙前の政治的中立性を選挙後になって放棄したのか?それとも選挙前には欠けていた中立性を選挙後になって取り戻したのか?いったいどっちなのでしょう?いずれにせよ、政治的な中立性を欠いた期間があったのだとすれば、これは放送倫理規定に抵触する事案です。2.海外メディアがすでに報道してしまったから事件翌日の7月9日にはフランスの各メディアが、さらに10日には米国ワシントンポストが「統一教会」を実名で報じました。NHKをはじめとする日本の大手メディアは、ただ、それに追随しただけなのかもしれません。逆にいえば、海外メディアが報じない限り、日本のメディアはずっと報じないつもりだったのかもしれませんし、今後も、海外メディアが報道する範囲内でしか、日本のメディアは事実を伝えないつもりなのかもしれません。はたして、そこに報道の独立性はあるのでしょうか?知っていても伝えないのだとすれば、それはまさに「既存メディアの形骸化」を証明することになります。3.統一教会側が会見を行ったから実名報道は団体への名誉棄損になるという意見があります。しかし、かりに今回の犯行を安倍晋三への「逆恨み」だと考えたにしても、犯人の母親が破産前に多額の献金を行っていたことは疑いないのだし、すくなくとは犯人の供述内容にかんしては、それを引用的な形で報道したところで何ら名誉毀損にはあたりません。それどころか、たんなる団体への忖度でしかない。そもそも、昨日のタイミングで会見が開かれたのは、自民党を支援する統一教会側が選挙結果への影響を恐れたからです。メディアがその意向に沿う理由はどこにもありませんし、むしろ、それに沿うことのほうが政治的中立性に反しています。このことは、日本のメディアが、政権はおろか、統一教会からさえ独立性を保てていないことを示しています。◇◇この「統一教会」の実名報道のタイミングは、案の定、選挙結果を左右するものになりました。有権者の知る権利を阻害すると同時に、安倍晋三への「弔い票」を暗に促すような今回の報道姿勢については、徹底的に妥当性を問われねばなりません。今回の件で、大手メディアは、国民からの信頼を深刻なほど失墜させたといえます。周知の事実だったにもかかわらず、選挙期間中に統一教会の実名が伏せられた事態に対して、なんらの批評性も発揮できなかった東浩紀と石戸諭と三浦瑠麗(笑)。
2022.07.12
いつもなら、たとえ人命にかかわる事案を起こしても、間髪を入れず、「警察の対応には問題ありませんでした!」とコメントするのが常ですが。…さすがに今回ばかりはそうではないらしい。NHKに出演した専門家などは、「要人の警護は100%でなければならず、1%のミスも許されない」と発言していました。逆に言えば、要人ではない一般市民の人命なら、9割ぐらいのミスがあっても容認される、ってことでしょうか?今回の警察の弁明には、そのような不公平感が滲み出ている。◇安倍晋三を襲った銃撃事件は「警察の失態」だと言われています。しかし、見方を変えれば、これは 現役警察官よりも元自衛官の能力が上回った…ということです。実際のところ、このような犯行は一般人には不可能だったでしょう。誰にも怪しまれることなく、したたかにタイミングを窺い、一瞬の隙をついて、自家製の粗悪な武器を丸見えにしつつも、白昼堂々、TVカメラをふくむ公衆の目前で、何の迷いもなく標的だけを仕留めたのですから。大胆不敵というほかありません。自宅で銃や爆弾を製造するようなミリタリーオタクっぷりも、きわめて特殊な能力と嗜好だと言わざるをえない。ネトウヨなどは、常日頃から、「自衛隊の皆さん頑張って下さい!」などと言って、自衛隊の国軍化を熱望していますし、自民党もまた、故人の遺志を受け継ぐのだと言って、「いまこそ憲法改正!防衛費増額!」と息巻いていますが、今回の銃撃犯の行動も、ある意味では「自衛隊が頑張った結果」だと言わねばならない。なぜなら、軍人に求められる能力とは、確実に敵を仕留めることなのだから。ここには軍人を育てることの大きなリスクがあります。◇今回の銃撃犯の戦闘能力・判断力・行動力は、警護にあたったSPや警察官の能力を凌ぐものでした。米軍基地の多い沖縄を見れば分かるとおり、訓練を受けた軍人たちが市中に放たれれば放たれるほど、社会生活のリスクはかえって高まります。戦闘力だけでなく、冷徹さや凶暴性という点でも、訓練を受けた軍人は、一般市民とは異なるからです。思えば、ウサマ・ビン・ラディンも、もともとは米国に支援を受けた義勇兵だったわけです。その義勇兵が、やがて米国へと牙をむきました。◇一般に、安全保障とは「盾を強化すること」だと考えられがちです。しかし、「敵の矛が強くなったら味方の盾をもっと強くすればいい」という単純な話ではありません。それは、増強した味方の盾が、いつ敵の矛に変貌するかもしれない…というリスクの問題でもあるのです。在日米軍が、一定の確率で社会犯罪を起こすのと同じように、警察の戦闘力を強化すれば、そのぶんだけ警官による犯罪のリスクも増すのだし、自衛隊の戦闘力を強化すれば、そのぶんだけ自衛官による犯罪のリスクも増すのです。米国の銃社会が典型的にそうであるように、身を守るための武力が、やがて身を滅ぼすための武力になる。安倍晋三自身が「わが軍」と呼んだ自衛隊は、まさにその当人を殺害するような人材を短期間で育てたのです。
2022.07.11
講談社や海外メディアなどの報道によって、犯人が標的にした「特定の宗教団体」は統一教会だったと明かされました。そこで問われるのは政教分離の原則なのですが…じつのところ、日本の創価学会にしても、韓国の統一教会にしても、宗教的な実態はほとんどありません。そこにはまともな教義など存在せず、それらの団体が政治に結託したところで、これといって「宗教上の目的」を実現する意思は存在しない。団体を利用する政治の側にも「宗教上の目的」は希薄です。そもそも彼らには「宗教的な動機」自体がないからです。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の場合も、仏教や、明治期の国家神道の場合も、国家を破滅的な宗教戦争に巻き込みかねないような、強固な信念に駆り立てられてきたわけですが、よくもわるくも創価学会や統一教会の場合は、せいぜい疑似的な宗教性しか持ちあわせていない。壺の御利益を信じさせて金を集めるような、杜撰な方式で運営していることが何よりの証拠です。◇創価学会や統一教会は、表向きは宗教法人としての体裁をまとっていますが、そのじつは、きわめて世俗的な組織であり、事実上の目的は、むしろ「反共」だったと言ってよい。かりに中ロとの和親には尽力するとしても。そして、こうした組織をいちばん必要としてきたのは、ほかならぬ日本と韓国の政権与党なのであり、さらには、その背後の米国だったというべきです。◇もちろん、創価学会や統一教会に入信する人々には、宗教へすがりつくだけの動機があります。マルクスが「宗教は民衆のアヘン」だと言ったように、資本主義のような過酷な競争社会では、そこに適応できず宗教へ依存してしまう人々が、一定の割合で存在するからです。日本の創価学会や韓国の統一教会は、そうした人々の受け皿になると同時に、彼らが共産主義思想に染まるのを食い止め、資本主義陣営から見れば、共産主義もまた一種の「アヘン」なのです。なおかつ政権与党のための集票マシン・集金マシンとして機能しました。こうした疑似的な宗教団体は、資本主義国家を共産化から防ぐための「必要悪」だったのです。◇ベーシックインカムのような社会的セーフティネットが実現しない限り、資本主義国家は、このような疑似宗教に依存することからけっして逃れられない。かりに創価学会や統一教会を解体するとなれば、それをもっとも歓迎するのは、むしろロシアであり、中国であり、北朝鮮だろうからです。たとえどんなに日本人が宗教嫌いであり、たとえどんなにネトウヨが嫌韓的だとしても、日本と韓国の政権与党は、創価学会や統一教会との結びつきを断ち切ることが出来ません。それは米国の思惑にも反することになります。◇ちなみに、いまのところベーシックインカムが先進国で実施される兆しは見えません。むしろベーシックインカムの実験は、資本主義をなんとか延命させるべく、もっぱら発展途上国の自給自足社会を、貨幣経済に組み入れる目的で実施されている状況です。
2022.07.10
安倍晋三と統一教会…というトピックがネットをにぎわせています。実際、「特定の宗教団体に恨みがあった」とか、「母親がそこに金をつぎこんでいた」という供述から見ても、それが統一教会である可能性は、比較的高いように思います。◇統一教会については、かつていろんな問題が取り沙汰された経緯もあり、けっして手放しに容認できるわけではありませんが、安倍晋三(あるいは自民党)が、なんらかの目的や利害をもって、統一教会と手を結ぶことがあったとしても、それほど驚くことでもありません。しかしながら、いわゆる「ネトウヨ」の多くにとって、きっとそれは許し難いことなのでしょう。なぜなら、安倍晋三のような保守政治家を支持するネトウヨたちの動機は、多くの場合、政治理念やイデオロギーとはほとんど無関係な、たんなる民族差別感情でしかないからです。◇実際、多くのネトウヨは、たんに「半島人が嫌い」という気分を共有しあっているだけで、じつのところは、韓国と北朝鮮の区別さえまともに出来ていません。これは、中国についても同じで、たんに「中国人が嫌い」という気分で繋がりあっているにすぎず、じつは中国と台湾の区別もろくについてなかったりするのですね。所詮、ネトウヨなんてそんなものです。…わたしがいちばん笑ったのは、「尖閣諸島を守れ!!」と主張していたネトウヨが、その同じ口で、「沖縄を中国に売り払え!!」と言っていたことです。尖閣諸島がどこにあるのか理解していないのです(笑)。◇わたしは、多くのネトウヨがただのバカでもべつに構わないと思うけれど、むしろ、いちばん問題だと思うのは、安倍晋三のような保守系の政治家が、そのような「バカな俗情」にうったえる政治をしていたことなのです。そのために、都合のいい部分だけをアピールして、政治的に重要な部分は覆い隠していたりする。ネトウヨ系の『WILL』や『Hanada』のような雑誌も、そうした俗情ばかりをさかんに煽り立て、馬鹿げたネトウヨを育成し続けています。これは、きわめて危ういことだと思う。かりに統一教会との結びつきがあったとなれば、さぞ裏切られた気分になるネトウヨも多いでしょうが、案外、今回の銃撃犯も、それと同じような発想で犯行に及んだかもしれません。◇反共を目的とした政治家が、たんなる「嫌韓」的なネトウヨに殺害されたのだとしたら?自衛隊の拡大を目論んだ政治家が、よりにもよって、その暴力訓練を受けた元自衛官に殺害されたのだとしたら?これは、俗情にうったえる政治にありがちな、きわめて皮肉な末路というべきではないでしょうか?
2022.07.09
今回のニュースを知ってすぐ頭をよぎったのは、安倍晋三がかつて国民に向かって「反日発言」をしたこと。そして直近の櫻井よしことの対談で何か喋ったのだろうか?…ということでした。しかし、犯人自身は、「安倍晋三の政治信条への恨みが動機ではない」と言っているのだから、今回の事件をいわゆる「言論テロ」と見なすべきではないのでしょう。むしろ、故人の業績を称賛することばかりが良しとされ、その疑惑への批判や追及がことごとく抑圧されるならば、そちらのほうがはるかに「言論圧殺」になる、と言わなければならない。◇今後、必要なことは、まず犯人の動機を明らかにすることであり、それと同時に、安倍政権時代のさまざまな疑惑をも明らかにすることです。そのどちらもが闇に葬られるのだとすれば、それこそが民主主義に対する冒涜と言うほかない。◇犯人自身は、「安倍晋三の(政治信条以外の)態度への不満があった」と述べており、何らかの私怨にもとづく報復的行為の可能性も考えねばなりません。その際、ひとつの可能性としては、同じ関西の事件である、近畿財務局の赤木さんの自殺との関わり も疑う必要があります。◇その一方で、今回のような暴力事件の抑止も今後の大きな課題になります。日本では、幸か不幸か、銃撃事件を起こすのはヤクザか右翼か元自衛官と相場が決まっている。しかも、その件数はごく限られています。それは、もちろん銃刀法のおかげでもあるけれど、そもそも、一般の日本人が「銃を所持する」のが容易でないのみならず、百歩譲って、かりに所持や製造ができたとしても、一般の日本人が「銃をあつかう」こと自体が容易でないからです。たしかに何らかのリスク管理は重要です。しかし、一般の日本人が銃を扱う経験を絶対的にもっていないことが、まずもって社会の安全保障になっているのだと、あらためて確認しておかなければなりません。つまり、日本に徴兵制が存在しないことが、市中での銃撃事件が少ない大きな要因なのです。追記:犯人の供述によれば「特定の宗教団体幹部を狙っていた」「母親が団体にのめり込み、多額の寄付をするなどして家庭生活がめちゃくちゃになった」とのこと。以下は2年前の雑誌です。●宗教問題32「宗教界にとって安倍政権とは何だったのか」(2020.11)ーー公明党・創価学会を筆頭に、神社本庁や日本会議など、安倍政権との"密接交際"を言われた宗教(関係)団体は多々ありますーー(Amazonのカタログより)
2022.07.08
米国には巨大な軍産複合体があり、それが政権運営にまで食い込んでいるといわれますが、それは大なり小なり、日本も例外ではないし、たとえば中露にも、より強固な軍産官の複合体があるでしょう。彼らにとって、富の源泉は「戦争」です。そのことにおいて、じつは東西を問わず利害が一致している。武器商人たちの利益は、戦争によってもたらされます。おそらく西側の武器商人たちも、プーチンの戦争を歓迎している。たとえ表向きは、戦争の暴力を非難していても、内心の目的は、自国民の憎悪と危機感を煽ることにあります。◇実際、西側社会に憎悪と危機感が高まった結果、情況は、NATO拡大と日米の軍備増強へ向かっています。これこそ、戦争を望んできた武器商人たちの思う壺です。彼らにしてみれば、戦乱や紛争の火種が世界のどこになろうと一向に構わない。火種を作るためであれば、「どこかに大量破壊兵器が隠れている」「どこかにテロリストが隠れている」などと、いいかげんな嘘を吐き、自からけしかけておきながら、「先に攻めてきたのは相手のほうだ」と嘘をいう。近現代の戦争の多くは、そのような形で発生しています。かりに今後、米国内で銃規制が進んだとしても、彼らはそれを補うべく国外へ活路を見出すだけでしょう。どこかで人殺しがなければ、彼らの商売は成り立たない。プーチンの戦争の「大義」が問われていますが、実際のところは、戦争の大義など問題ではありません。むしろ、大義のない戦争のほうが、人々の憎悪を掻き立て、反戦ムードを一掃できるのだから、そのほうがかえって好都合といえます。◇すでに、戦争は、国際的な公共事業と化しています。江戸時代の日本で、戦乱が減って武士が失業したのと同じように、軍需産業に従事する人口が多い社会ほど、戦争への依存が強く、戦争がなくなれば、景気が悪くなり、失業者が増える。それを補うためには、戦争に代わる新しい産業を起こさなければならない。そうした構造転換が国際社会で求められます。◇唯一、重要なことは、どんな正義であれ「戦争を正当化する理由」にはならない、という認識を失わないこと。その認識を失なえば、愚かな民衆は、いとも簡単に、世界中で連帯する武器商人たちの思惑に騙されてしまう。
2022.05.26
作詞家の秋元康が、名曲「セーラー服を脱がさないで」で紫綬褒章を受章しました。授章理由は、「若年女性の搾取と商品化、あるいは炎上商法によって、 バブル期以降のエンターテイメントビジネスの手法を確立した」ということだと思う。◇国が褒章を与える基準はどこにあるかといえば、これはもう「本人が欲しがるかどうか」に尽きるのですよね。ただ「貰ってくれそうな人にあげる」ということでしかない。たとえば音楽業界でみると、歴代の受章者のなかには、中村八大・永六輔、加藤和彦・北山修、坂本龍一などの名前が見当たりません。彼らは拒否した可能性が高いのですね。おなじく映画業界でみても、溝口健二、黒澤明、今村昌平、新藤兼人、相米慎二、北野武、是枝裕和など、主要なビッグネームがことごとく欠けています。それから漫画業界でみても、手塚治虫、石ノ森章太郎、藤子不二雄、宮崎駿、押井守の名前がありません。彼らの多くも拒否していると思われます。…さらに、文学界ともなると、もはやショボイ名前しか出てこないわけでwほとんど拒否されているのが分かります。アホヅラさげて褒章なんぞ貰おうものなら、「国に媚びた文学者」だとレッテルを貼られてしまうので、貰うほうが恥ずかしい、という価値観が強いのですよね。◇秋元康の場合は、安倍晋三と昵懇だったこともあるし、自衛隊のプロモーションのためにアイドルを供出した実績もあるので、国としては、あげない理由などありませんでした。また、すでに松本隆が受章している以上、対抗心を燃やしている秋元康が欲しがらないわけもありません。◇そもそも、保守というのは、まったくもって融通無碍なので、国や政権に都合が良ければ、エロでも何でも構わないのですよね。現状をみても、「どんなに貧しくても子作りをやめるな」というのが保守政権の方針ですし、もともと天皇家のルーツとされる日本神話なんかも、ほとんどがポルノの話で出来上がっています。国というのは、べつにエロを否定しないのです。◇もちろんエロはエロでも、「肯定しうるエロ」と「肯定しがたいエロ」はあるはずなのですが、現在の政権や保守論壇には、基準となるべきろくな思想が見当たりません。今回の授章で、「国は意外にリベラルなんだな」という印象がさらに強まったかもしれませんが、融通無碍な国家権力は "悪いリベラル" に堕しがち…という実例でもある。
2022.04.28
プーチンのウクライナ侵攻について、一方には「無謀な愚挙」という見方があり、他方には「天才的な一手」だという見方があります。しかし、いずれにしても、それらは短期的な評価にすぎません。今回のプーチンの軍略が、彼自身にとって得なのか損なのか、たしかに短期的には判断しにくい面があります。しかし、長期的に見るならば、これは、どっちにしても、政権末期のあがきでしかない。それはロシア経済の問題であると同時に、プーチン個人の寿命の問題ですね。◇世界の政治や経済においては、AI の制御によるシステム化がいっそう進んでいます。そのシステムは、24時間365日、絶え間なく膨大な量の情報を処理している。かたや人間は、どんなに有能な個人であっても、夜になったら眠らなければならないし、病気になったら休まなければならないし、寿命が尽きたら死ななければなりません。調子がよければ強気にもなりますが、調子が悪ければ弱気にもなる。妄執に駆られて判断を誤るときもある。囲碁や将棋の世界で明らかになったように、もはや AI のシステムに打ち勝てる人間は、この世のどこにも存在しません。それは、すなわち、独裁政治の可能であった時代が終わることを意味します。かりに独裁者がどれほど強大な権力を駆使したとしても、人間である以上、個人がシステムに打ち勝てる時代ではない。もちろん、独裁政治が終わるといっても、愚衆的な判断に委ねる民主主義が勝利するわけでもありません。これは「米欧が勝って中露が負ける」というような話ではなく、むしろ「人類全体がシステムに屈する」という話なのです。そのイメージは、資本主義よりもむしろ社会主義に近い。国家においても、企業においても、個人の判断が物を言う時代はまもなく終わります。そして人類は、そうした時代の到来を、まずはロシアの政変によって見ることになるはずです。冷戦終結から30年余り、またしてもロシアの政変を皮切りにして、そうした時代が、なし崩し的に進行していくはずです。これは、かりに長期的な展望といっても、けっして五十年だの百年だのといった話ではなく、せいぜい数年~十数年のうちには起こるだろうことです。◇現在、プーチンは69歳。習近平は68歳、金正恩は38歳です。このまま順当にいけば、まずロシアでもっとも早く政変が起こるはずです。今回のウクライナ侵攻でロシアへの兵糧攻めが続けば、その政変の時期はさらに早まるかもしれない。そして、「プーチン後」のロシアは、かならずや西欧化を進めざるを得ません。そうでなければ、もはやテロ国家の道を歩む以外にないからです。そして、このことは、いやおうなく中国や北朝鮮の変化を促すことになるでしょう。◇冷戦後の90年代には、中国の市場経済化が進みました。そして次の「プーチン後」の世界においては、中朝で独裁政権のドミノ倒し的な終焉が進みます。現在の中国は、市場経済によって巨大な経済力を獲得しています。しかし、けっして独裁政権が中国経済を支えているのではなく、むしろ中国経済が独裁政権を支えているのにすぎません。もし中国経済にとって、今のような独裁政権が足枷になれば、それは中国自身によって廃されることになるでしょう。良かれ悪しかれ、世界統一はそれほど遠くない。この数日間で、そういう実感が強まりました。
2022.02.27
日本人ってバカなの?もしかして2年おき?!まいどまいど選ぶ意味あります?金金金金このペラッペラな漢字文化。これじゃキラキラネームも蔓延しますよね。
2021.12.14
池袋の暴走事故の場合、被告は運転免許を所持していたので、意図的な「義務違反」も「警告無視」もなく、たんなる「踏み間違え」という過失だったのですが、それでも2人を死亡させ、9人を負傷させたことによって、禁錮5年の実刑を受けています。◇かたや、熱海土石流の主犯は、「意図的な義務違反」を数件、「意図的な警告無視」を数回くりかえしており、その結果、死者・行方不明者が27人、住家被害が132棟・185世帯、経済規模にして、おそらく数千億円相当の被害を引き起こしています。それで無罪などということは、量刑バランスの観点から絶対にありえないことで、今後の手抜き工事の抑止という観点からも、とうてい世論の同意を得られるものではありません。わたしは死刑に相当するものだと思っています。
2021.12.06
人命を危険にさらすと認識しながら行われる手抜き工事は、それ自体が殺人に相当します。その手抜きが明らかに「意図的」であるにもかかわらず、つねに「過失」だと言い逃れることが可能であるならば、それを見過ごすような司法判断は、もはや一般良識からかけ離れていると言わざるをえません。なお、「殺意」というのは、被告の言質によって裏付けられるべきものではなく、被告の行動によって裏付けられるべきものです。◇盛土をおこなう土木業者が、「排水設備が必要だとは知らなかった」「規定量を把握していなかった」「大雨が降るとは予測していなかった」などと嘯くとすれば、それはあきらかに虚偽です。たとえば、建築業者が、「基礎工事が必要だとは知らなかった」「耐震についての知識を持っていなかった」「大地震が来るとは予測していなかった」などと言って高層ビルを建てるのと同じことです。責任能力を失うほどの心神の喪失でもないかぎり、それはありえない話です。そして、建築や土木に関わる人間は、これらの義務すべてが「人命に関わるもの」であると知っているはずです。(一般人でも分かることです)◇また、熱海の盛土の場合は、行政側から再三の警告がありました。人命を危険にさらしていると知らせる警告が何度あったのか。そして、それを何度無視したのか。その内容と回数を、ひとつひとつ検証しなければなりません。そうした反応のすべてが、被告の「殺意」を状況的に裏付けます。◇あらためて繰り返します。第1に、人命を危険に晒すような「義務違反」がいくつあったのか。第2に、人命を危険に晒すような「警告無視」が何回あったのか。これらをカウントすれば、被告が「殺意がなかった」と証明することはまず不可能です。よほどの悪質な殺意(未必の故意)でもないかぎり、こうした義務違反は出来るはずがないのだし、こうした警告無視は出来るはずもないからです。
2021.12.03
ここのところ、沢口靖子の映画番宣を見まくっていた。なんだかんだで可愛い。その美しさは健在。表の沢口靖子と、裏の斉藤由貴。その両方が現在の東宝芸能を基礎づけている。どちらが欠けても成立しない。◇いろんな番組を見ましたが、なかでも興味深かったのは『サンド&芦田愛菜の博士ちゃん』。「将来は科捜研の女になりたい」という10才の女の子が、最新の科学捜査機器を紹介していました。わたしは「科捜研の女」を見てないので、最近の技術に驚くことばかり。番組で紹介されていたのは、・指紋を光らせて視覚化するALSライト・肉眼で見えない凹凸から文字を復元するESDA・インクの違いを識別して文書偽造を見破るVSC・歩容認証によって個人を特定できる防犯カメラ・犯行時の微細な身体の震えを検出するディフェンダーXなど。指紋の場合は数ヶ月で消えるらしい。インクの種類によって光の吸収率や発光率が違う。わずかな凹みに静電気を流し込んで粉末をかけると文字が浮かび上がる。考古学や歴史学にも使えそうな機械。歩き方は人によって千差万別。犯行時の人間は平時と違う身体の震え方をしている。AIが発達したおかげで、顔が割れたり指紋を取られたりしなくても、歩く映像や声紋などの情報だけで十分に個人を特定できる。今後はますます、いろんな情報から個人を特定できるようになるでしょう。そうなれば、近い将来、政治汚職などもふくめ、何の痕跡も残さずに犯罪を成し遂げるのは、ほぼ不可能な時代が来るだろうと思います。それどころか、犯罪の実行前にそれを阻止することもできるし、過去の未解明な犯罪の真相を暴くようにもなるでしょう。さながら「最後の審判」のようなことが起きるかもしれない。人間が悪へ至るまでの過程のすべてが可視化されれば、いったい何を裁くべきかの基準さえ変わってくるかもしれません。従来のように、「金と権力さえあれば犯罪は隠し通せる」と思っていた旧世代の年寄りにとって、今はもはや "最後のあがき" のような時代かもしれません。
2021.09.07
オリンピック開催前の最大の懸念は、国内での感染が爆発してしまうことでした。とりわけ、来日したオリンピック選手や関係者が、海外からウィルスをもちこんで市中にばらまくのでは?ということが恐れられました。そこで当局は、いわゆる「バブル方式」を採用して、オリンピック施設内の感染を抑え込むと同時に、外部との接触を遮断するという方策をとりました。これは、いうまでもなく、国内での感染増大を防ぐための「手段」だったのですが、いつしか、その手段そのものが「目的化」し、しまいには手段と目的が完全に逆転していきました。その結果として、五輪施設内の感染は相対的に抑えられているのに、市中では感染が爆発的に増えるという転倒した事態になりました。IOCのマーク・アダムスは、この状況を「パラレルワールド」と呼んだのですが、こうして手段と目的が逆転した結果、読売新聞の橋本五郎などは、「施設内の感染を抑え込めばオリンピックは成功である」かのような奇想天外な主張をはじめたのです。これは、常識的な観点でいえば、とんでもない詭弁というべきですが、まさにこれこそが「五輪ファースト」の実態だったといえます。つまり、大会そのものを成功裏に終えることさえ出来れば、国民社会が危機に瀕しても知ったことではない…という考えです。◇現在の急激な感染爆発は、オリンピック開催前の不安をも超える規模になっています。しかし、たとえば三浦瑠璃は、「反対論者の漠然とした不安に反して、オリンピックは成功裏に終わった」かのように書いています。恐るべき本末転倒です。◇かりに、五輪施設内におけるウィルスの蔓延を、いっさい外部に漏らさなかったというのなら、それは「バブル方式」の成功だったと言えるかもしれません。しかし、市中で感染が爆発してるのに、施設内の感染だけを抑え込んだところで、それは「勝利」でもなければ「成功」でもない。たんなる「敗北」です。さながら、小さな実験場の中では成功したものの、現実の社会ではまったく失敗した、というのと同じであり、その場合の「バブル方式」とは、市中での感染拡大から遮断して、ひたすら大会の運営だけを守った…というジョークでしかない。ここで思い出されるのは76年前の状況です。日本は、太平洋戦争のときに、2つの原爆を落とされたのですが、軍部は、それでも戦争をやめようとしませんでした。なぜなら、たとえ原爆と空襲と総動員によって1億が玉砕し、国民社会が完全に崩壊してしまったとしても、いわゆる《国体》さえ守ることができれば、それが軍部の「勝利」であり、戦争の「成功」だと思っていたからです。軍部にとっての《国体》とは、天皇中心の政治体制のことであり、けっして一般の国民社会のことではありませんでした。つまり、それは、国体ファーストであり、軍部ファーストであり、戦争ファーストだったのです。恐るべき本末転倒。奇想天外な価値観。目的と手段の完全なる逆転。・・・さすがに昭和天皇は、それが「まったくの本末転倒」だと分かっていたので、ようやく天皇の一存によって戦争は終わったのですが、そうでもなければ、日本は本当に1億玉砕するまで戦争を続けていたのです。◇◇国内の感染者はかつてない規模に膨らんでいます。そうした状況にもかかわらず、「オリンピックの成功」「主催者側の勝利」などと、奇想天外な主張をしているのは、いったい誰なのか?なぜ、誰ひとり、それを「本末転倒」とは言わないのか?それを明らかにすることが、この五輪ファーストの実態を解き明かすための要件です。
2021.08.11
スカパラはないわー。恥ずかしい内輪ノリにもほどがある。スカパラで7曲はやめてほしかった…。恥ずかしいを通りこして、惨めで悲しい。37°Cの猛暑だというのに、悲しすぎて寒かったです。見終わったときは、気力を奪われて立ち上がれなかった。ほとんど国民的なトラウマといっていい。こんなことなら、小山田圭吾を呼び戻して、フリッパーズを再結成させたほうが、どんなにかマシだった。人間的な品性はともかく、音楽的な水準において、海外にお見せ出来るレベルのものと、そうでないものがある。◇そもそもスカパラって、ギャグでしょ。せいぜい20秒ぐらい演奏させて、「アハハ!なんちゃって!」で終わらせるべきものだし、あとは他の音楽と適当なパッチワークにして、笑って誤魔化せば事足りるような代物です。ジャズでもなければ、スカでもない。あんなに下手糞なジャズバンドは国内にもそうそうないし、本場のジャマイカの音楽とは似ても似つかないし、要するに、まがいものです。「東京のポップカルチャーなんて所詮はまがいもの」といえば、たしかにそうなのだけれど、まがいものなら、まがいものなりに扱わなければならない。そうでないと、本気で世界からバカだと思われる。◇たとえば、1964年のオリンピックのときに、東京ビートルズに7曲も演奏させようと考える人がいましたか?いませんよ!だって、あれはギャグだもの。まがいものだもの。まがいものなら、まがいものとして相対化しなくてはいけない。たんに「東京」を冠しているというシャレで終わらせるべきです。そもそもスカパラは、新しい音楽でもないし、国民的な音楽でもありません。日本人だって、ほとんど聴いていない。ただ渋谷系をファッションとして消費した一部の音楽オンチが、へんな勘違いで聴いていただけの音楽にすぎません。◇伝統芸能やハイカルチャーに織り交ぜて、通俗的なポップカルチャーも紹介しようという考えは、けっして間違いだとは思わないし、それもアリだと思うけど、 かりにそうだとしても、スカパラだけで7曲はないわー…。あまりに情けなくて、終わった後にグッタリした。「あの安っぽいジャズバンドみたいのは何?」 「あれが日本じゃ人気なわけ?」「あれをスカだと思ってるのかしら?笑」「日本人ってギャグと本物の区別がつかないのね」もしくは、「( ゚д゚)ポカーン。何の時間?何やってんの?」としかならないでしょう。◇たしかに現在の東京には、いかにも「東京」らしいポップカルチャーがないから、 30年前の渋谷系をもってくるという発想は、仕方のないものだったかもしれないけど、だからといって「渋谷系」なら何でもいいというわけじゃない。ピチカートファイヴやフリッパーズを再結成させるならともかく、スカパラはないわー。スカパラだけで7曲はないわー。あんなチープな渋谷文化をさらすくらいなら、いっそ大野雄二に「ルパン三世」でもやってもらって、 アルセーヌ・ルパンにフランス国旗を返すほうが100万倍もマシだったよ。大野雄二のバンドで「上を向いて歩こう」なら何とかなったと思うけど、スカパラで坂本九はないわー。ほとんど日本文化に対する自虐。悲しくてやりきれない。◇今回の閉会式は、全体的に、演出の意図がよく分からなかったのです。宮沢賢治や、小津安二郎や、古関裕而や、武満徹や、ピチカートファイヴをもってくるのが、けっして悪いわけではない。しかし、その文脈が分からない。武満徹の「波の盆」を追悼のために使ったのは理解できるけど、小津安二郎を日の丸に結びつける意図は分からない。 古関裕而の古臭い音楽は、あくまでも「古臭い音楽」として相対化すべきであって、まともに現在の行進曲として使ったらズッコケるでしょ。ピチカートファイヴをラウンジ音楽みたいに流すのも、なんだかセンスがずれていて、うすら寒いだけ。 復興五輪の「ふ」の字もないのに、唐突に宮沢賢治の歌を歌っても、海外の人には伝わらないし、東北から見ても、いまさら「何のこっちゃ」でしかない。そして、極めつけは、本来なら「ギャグ」として扱うべきスカパラの音楽を、まるで「本物」のポップカルチャーのように扱ったことです。◇国際的な感覚をもっていなければ、自分の国を誇ることはできません。国際感覚のない内向きのナショナリストが、むやみやたらと自分の国を誇ってみても. かえって自虐になるのが関の山。そもそも今回の五輪は、あまりにも国家主義的な傾向が強すぎました。石原慎太郎や、森喜朗や、安倍晋三や、竹田恒和なんかが前に出てきて、お山の大将みたいなナショナリズムだけを振りかざした。本人たちは誇らしいつもりでも、外から見ればじつに恥ずかしい。国民的なトラウマを積み足すことにしかならない。そのうえ、世界的に知られた芸術家はリベラルな立場の人が多いから、国家主義的な色合いが強まれば強まるほど、すぐれたアーティストたちの協力は得られなくなる。坂本龍一も、細野晴臣も、是枝裕和も、濱口竜介も、新海誠も、宮崎駿も、あまりに国家主義むきだしのイベントからは距離をとる。そういう人たちが参加しない時点で、海外向けにアピールできる要素は少ないし、制約が大きい。結果的には、馬鹿なナショナリストたちの自画自賛大会になって、とんでもなくこっ恥ずかしい自虐イベントになってしまう。文化の低さと、民度の低さと、政治レベルの低さをひたすら世界にさらす。◇今後はおそらく、スポーツ選手だって、国家の思い通りには使えなくなります。いままでは、各協会をとおした体育会的な上下関係をふりかざして、スポーツ選手を国家のために利用することが出来ただろうけど、今後はそう簡単ではなくなる。自立した考えをもった選手が増えれば増えるほど、国家の道具として利用することは難しくなるはずです。だからこそ、国家のほうが変わらなければならない。そのためにも、旧世代の年寄りは早く死ななければなりません。そうでなければ、この国はいつまでたっても変わらない。
2021.08.10
オリンピックの開催期間にコロナの感染が急拡大しています。これは尾身会長が危惧していたとおりの状況です。ワクチンの接種率は、デルタ株の感染力にまったく追いついていないし、緊急事態宣言を出しているにもかかわらず、人流の減少幅も、感染者の増加幅を凌駕できていない。完全なる敗北です。しかし、IOCのマーク・アダムスは、「東京の感染拡大と五輪はパラレルワールドだ」と居直り、選手村や競技会場の外で起こっている事柄については、IOCにとって「知ったことではない」という態度を露わにしました。読売新聞もこれに追随し、一昨日の社説で「緩みは五輪のせいではない」と開き直っています。(7/31 読売新聞社説より)今大会の金メダルは、過去に16個だった最多記録を前半戦で更新した。選手の活躍に元気をもらっている人は少なくないはずだ。一部には感染拡大と五輪開催を結びつける意見があるが、筋違いだろう。これまで競技会場や選手村で大きな集団感染は起きていない。拡大の原因を五輪に求めるのは、選手たちにも失礼ではないか。これを書いたのは、おそらく橋本五郎でしょう。いつもながらにバカな理屈です。政府やIOCの立場を補完すべく、橋本五郎の頭で思いつくレトリックは、これが限界だったのでしょうが、そうだとしても論拠がなさすぎる。去年の3月に、安倍晋三は、「人類がコロナに打ち勝った証として、完全な形で五輪を開催する」と述べていたのです。菅義偉も、今年の4月までは「その決意に何ら変わりはない」と話していた。ところが、6月になって、「天皇が五輪での感染拡大を懸念している」との報道があり、直後の7月に、田村厚労相が、「コロナと闘う五輪にしていきたい」として、政府見解を変えはじめた。一方、IOCのバッハは、「日本人に対するリスクはゼロ」などと、最後まで意味も根拠も不明な妄言を口にしていました。しかし、結果的には、やはり天皇が懸念していたとおりの事態になっています。◇もともと安倍晋三は「人類」の話をしていたのです。しかし、いまやIOCや読売新聞は、「選手村と競技会場」の感染さえ相対的に抑制できれば、それで五輪の勝利なのだと主張したいらしい。そして、臆面もなく、日本人のメダルの個数だけで、オリンピックそのものを正当化しようという態度に出ています。バッハも、「日本人は五輪を受け入れている」として読売と同様の見解を表明。なぜか読売とIOCの主張が、異様なぐらいに重なっている。もともと橋本五郎は、ナベツネと同じように、スポーツにかんしてまったく無知でありながら、それを政治利用しようとする卑劣さにおいてナベツネに通じています。やたらに「勝った!勝った!」という報道だけを垂れ流し、危機的な実情から国民の関心をそらそうとするマスメディアの姿勢は、まるでかつての大本営発表のようです。もとはといえば、天皇の懸念を無視して強行突破するところも戦時中と同じ。しかし、言うまでもないことですが、国民的な危機がメダルの数によって帳消しになったりはしません。◇そもそも「五輪を原因とする感染拡大」というのは、競技会場や選手村に由来するものだけを言うのではない。大会関係者や選手の感染防止というのは、あくまでも最低限の課題であるのに過ぎません。その最低限の課題すらも、まともに達成できているとは言い難い状況ですが、のみならず、テレビの画面には、開会式会場や競技会場の周辺にあふれる人々の様子が映し出され、メダルを獲った選手の地元の関係者や後輩たちが、集団で応援をしている様子なども、たびたび映し出されています。彼らは、興奮すれば声も出すでしょうし、長時間の外出となれば飲食もするでしょう。そのようなことが日本各地でおこなわれている。にもかかわらず、IOCや読売新聞は、どれもこれも五輪とは結びつきのない「パラレルワールド」の話として、まったくの無関係を決め込んでいます。かりに、感染拡大とオリンピックの「因果関係」は証明不可能と見越して、はじめから確信犯的に開催を強行していたのだとすれば、その政治姿勢はきわめて悪質といわねばならない。それは、さながら、盛り土と土砂崩れの「因果関係」など証明できないものと踏んで、はじめから無法な工事をやっていた自民党系列のエセ同和業者と同じです。あらかじめ責任逃れするシナリオまでを計算に入れているとすれば、本質的に手口が似ているのです。◇橋本五郎は、開催の責任をそらすために、選手を盾にとった理屈を展開していますが、それこそが「筋違い」というものです。だれひとり選手に責任があるとは言っていない。五輪を招致したのは選手ではありませんし、開催を強行したのも選手ではありませんし、感染抑止の責を負うのも選手ではありません。選手を盾にとって自らを正当化しようとする低次元な魂胆は、あまりにも見え透いています。いまや「復興五輪」や「アスリートファースト」と同様に、「コロナに打ち勝つ」という大義名分もかなぐり捨てているようですが、たとえ選手村と競技会場の感染を相対的に抑制したところで、オリンピックそのものの意義は、まったく証明できません。「復興五輪」や「アスリートファースト」が、その場しのぎのデタラメな大義名分だったように、「コロナに打ち勝つ」という大義名分もまた、開催期間中の感染急拡大によって、無惨に砕け散りました。NHKや読売新聞が、いくら選手の活躍によって目をくらまそうとしても、大会そのものは客観的に失敗しています。あらゆる大義名分が崩れ去って完全な「敗北」を喫している。すでに老害だった石原慎太郎が、その老いぼれた発想から誘致したオリンピックは、尖閣問題や新銀行東京などでの失政と同様に、日本にとって記念碑的な負のレガシーを残すことになりました。ワシントン・ポスト「完全な失敗に向かっているように見える」ウォール・ストリート・ジャーナル「2兆円規模の大失敗に」ニューズウィーク・ジャパン「始まる前から失敗していた」
2021.08.02
熱海の盛り土をつくった天野二三男は、自由同和会の神奈川県本部会長だったのですが、すでに前科者でもあった天野二三男が、なぜ自由同和会でそのような重職に就いていたのか。そして、なぜ熱海の事件と同時にその職を辞したのか。自由同和会は、その経緯について、いまだ何も明らかにはしていません。◇いわゆる「エセ同和」とは、その出自にかかわらず、「同和を名乗って反社会的な行為をなす人物」のことです。その意味で、天野二三男は、たとえ彼が部落出身者であろうとなかろうと、まごうことなき「エセ同和」であるのに違いありません。そして、今回の熱海での事件は、そんな「エセ同和」の天野二三男個人を断罪すれば終わる話です。しかしながら、自由同和会の沈黙や、政界やマスコミの異様なまでの沈黙は、その沈黙があまりにも不自然であるために、たんに個人の犯罪では済まないことさえ感じさせます。◇自由同和会という組織が、あくまでも「真正同和」であり、けっして「エセ同和」ではないのだと証明するためには、まずは、天野二三男が重職についた経緯と、それを辞した経緯について、しっかりと公に説明しなければなりません。自由同和会が自民党の関連団体であるならば、なおさら社会的な意味での説明責任が求められます。◇そして、マスコミは、それが真実かどうかを検証しなければなりません。つまり、「エセ同和」と呼ぶべきなのは天野二三男ただひとりであり、自由同和会の組織内部には、ほかに「エセ同和」と呼ぶべき人物が存在しないことを、第三者の立場から検証して明らかにすべきです。そうでなければ、「じつは自由同和会そのものがエセ同和ではないのか?」という疑念ばかりが浮上してしまいますし、「ほかならぬ真正同和こそがエセ同和の正体ではないのか?」という印象ばかりが国民社会に広がってしまいます。つまり、現在のような異様なまでの沈黙は、かえって国民社会における部落差別を増長させるだけなのです。◇もしも、かりに、天野二三男以外にも「エセ同和」行為に手を染めている会員がいて、それが組織内に蔓延している状況だとすれば、自由同和会そのものを、「エセ同和組織」として社会追放しなければなりません。そして自民党は、「われわれはエセ同和とお付き合いをしておりました」と認めた上で、国民に向かって説明と謝罪をし、具体的にエセ同和との関係をもっていた政治家や官僚を、ただちに処分しなければなりません。なぜなら「エセ同和」とは「反社」にほかならないからです。◇くりかえしますが、不思議なことに、政界もマスコミも、この問題に対して異常なほどの沈黙を続けています。そして、この不可解な沈黙は、今回の大規模な犯罪が、たんに個人のものではなく、じつは政界もマスコミも無縁ではないということをさえ、うっすらと国民全体に感じさせはじめています。週刊文春も、今のところこの問題を保留にしていますし、週刊新潮は、記事にはしているものの、その扱いは大きくありません。しかし、わたしがもっとも重視しているのは NHK の態度です。もしも NHK が、「エセ同和=反社」についての報道をこのまま自粛し続け、その問題の本質を隠蔽し続け、実質的にその悪行を放任してしまうのだとしたら、もはやNHKに「公共放送」としての役割を認めることはできませんし、その際、国民は、いっさいの受信料の支払いをやめなければなりません。
2021.07.26
安倍晋三がオリンピック開会式への出席を見送りました。これについて、世間では、不都合から逃げた「卑怯者」との声も挙がっています。ちなみに、安倍が開会式を欠席する理由については、「緊急事態宣言で無観客になったことを考慮したものだ」などと、かなり不自然かつ不可解な報道がされています。しかし、その真相をいうならば、安倍は、けっして自らの意志で辞退したのではありません。実質的には「辞退させられた」のです。◇それは、彼が誌面で「反日」発言をしたことによります。結論からいえば、いかなる理由であれ、いかなる機会であれ、そして、どんな人々にむかってであれ、国民に「非国民」だの「反日」だのという言葉を投げつけ、それによって国民社会を分断しようと考える人間が、場の公私を問わず天皇と席を並べることは絶対に許されないからです。これは、至極、当たり前の良識です。しかし、なぜか安倍周辺の集団は、この良識を失っていました。今後も「天皇の意志」が報道されることはありませんが、安倍晋三の開会式辞退の実質的な理由は、そこにあります。おそらく櫻井よしこは、得意になって、安倍から保守的かつ国家主義的な発言を引き出したつもりでしょう。安倍もまた、得意になって、そうした期待に応えたつもりでしょう。そして彼ら自身にしてみれば、まさにそれこそが「愛国的な振舞い」だと信じていたはずです。けれども、ごくごく一般的な良識に照らせば、それ以上に「反国家的」で「反国民的」な振舞いはないというべきなのです。◇安倍は、かりにいちどといえど、国民にむかって「反日」という言葉を投げつけたことによって、今後、あらゆる公的な舞台に立つことは許されなくなりました。これは、状況の如何にかかわらず、当然の報いです。もし、これから先の安倍晋三に、なにかしら生きる道があるとすれば、それは『WiLL』や『Hanada』のコラムニストとして活躍することだけです。
2021.07.24
小山田圭吾が、25年も前の発言や、35年も前の行為について、世界中から非難を浴びているのは、いわば#MeToo運動と同様の現象であり、わたしは、それは当然の報いだと思う。◇ただ、私自身は、彼の「いじめ自慢」の件をけっこう昔から知っていて、ろくでもない奴だなア…と思っていたし、本人が反省しているかどうかも知るよしはなかったけど、だからといって、とくにコーネリアスの作品を忌避することはなく、ことさらファンというほどではないけれど、わりと面白く聴いていた、という面もある。それは、たぶん、今後も変わらないし、それはべつに小山田圭吾の人間性を支持するということではない。たとえ作者が鬼畜のような人間だとしても、その音楽を聴くこと自体は罪ではない。◇たとえば、フィル・スペクターは人殺しでしたが、わたしも、たまには、彼の音楽が聴きたくなることがあって、その音楽を聴いているときには、フィル・スペクターが人殺しだったことは意識しません。若い世代の人ならば、それを「呪われた音楽」とも思うかもしれませんが、もはや昭和世代の人間にとっては、耳馴染みの音楽であって、さほどの気にもなりません。おそらくロック好きのなかには、毎年クリスマスに人殺しの音楽を聴いてる人もいるでしょう(笑)。※わたしの場合はそれはない。かりに、わたしが、フィル・スペクターの音楽を楽しむことがあるからといって、その人間性を支持するつもりはまったくないし、むしろ人殺しが断罪されるのは、ごく当然の話であって、そのことについては、何らの矛盾も疑問も感じません。◇世間には、「鬼畜のような人間の音楽など聴くべきでない」と考える人もいるようだし、逆に、「優れた才能なのだから過去の罪も許すべきだ」と考える人もいるようですが、わたしはそのどちらにも与しない。なぜ、才能への評価と、人間性への評価を、わざわざ連動させる必要があるのか。むしろ、そのことのほうが、わたしには分からない。◇たとえ人間的に鬼畜同然だとしても、作品が素晴らしいということはあり得るし、その作品を鑑賞することが罪なわけでもない。逆に、いくら作品が素晴らしくても、外道のような人間ならば、断罪されるのもまた当然の話で、それは、まったく別次元のことです。作品への評価と、人間性への評価を、あくまで両立させなければ気が済まないという考えは、幼稚でナイーヴで短絡的というだけでなく、ほとんど滑稽であり、あるいは異様だとさえ思います。◇コーネリアスについては、公的なイベントや、公共放送であるNHKなどでの活動は、制限されて仕方のないことだろうと感じますし、過去の非道な行為とその自慢についても、この先ずっと非難が絶えることはなかろうし、その非難を甘んじて受けるのが当然だと思うけれど、かといって、作品の制作や発表の場が失われるわけでもなく、それを聴く人も、わたしを含めて、いくらでもいるでしょう。彼の音楽を聴くことは、その過去の鬼畜行為を容認することとは全く別次元の話です。かりに実刑を受けるほどの犯罪人であったとしても、作品を発表することは十分に可能なのだし、一般の人がそれを鑑賞することもできます。そのことに何ら倫理的な問題はありません。◇わたしは、ベルトルッチの映画が大好きだけれど、彼がどんな人間だったかということはとくに考えないし、もしかすると、ろくでもない奴だったのかもしれない、という見方を排除しようとも思わない。かりにそうだったとしても、好きな映画についての評価まで変えようとは思わないし、それは今後も変わりませんし、そのことについて疑問をもつ必要すらも感じません。ロマン・ポランスキーの映画や、ウディ・アレンの映画だって、今後も見たいと思うけれど、そのことで彼らの人間性までをも容認しようとは思いません。まあ、荒木経惟の写真にかんしては、もともと好きでもないので、とくに見たいとは思いませんが(笑)。
2021.07.22
小山田圭吾が、オリンピックの音楽担当を辞任しました。彼のいわゆる「いじめ自慢」の外道っぷりについては、わたしも昔から知っていましたが、すでに彼は、このことで何度も炎上していたわけだし、この問題の及ぼす影響については十分に自覚していたはずです。そもそも、こんな国家的なイベントに何の躊躇もなく協力して、みすみす墓穴を掘ったのだとしたら、ただのバカですよね(笑)。今回の開会式への彼の起用は、グラミー賞ノミネートなどの国際的評価のみならず、これまでのNHKへの功績が反映された結果でもあるでしょうが、FMやEテレでの細々とした仕事から、国家の威信をかけた大イベントまでには、かなりの飛躍があるわけだし、その飛躍に対して何の慎重さもなかったとしたらバカすぎます。そして、まさかとは思うけど、椎名林檎にせよ、小山田圭吾にせよ、国家に協力することがアーティストとしての美徳とは思ってなかろうし、国家的イベントへの参加で自分の業績に箔がつくとは思ってなかろうし、国家寄りになることで自分の立場が有利になるとも思ってないでしょう。表現者にとって、国家との関係は、たいていは面倒な足枷になるはずです。好きこのんで自分に足枷をはめる馬鹿なアーティストがいるでしょうか?もしかすると小山田圭吾の場合は、パラリンピックへの協力こそが、過去の障害者いじめに対する罪滅ぼしと思っていた可能性もなくはないけど、個人の贖罪のために国家イベントを利用するという発想は、安易にすぎます。◇では、なぜ、小山田圭吾は、わざわざ国家的なイベントなんぞに参加して、これほどまでの大炎上をみずから招く必要があったのか。わたしは、これはおそらく確信犯なのだろうと思います。つまり、彼は、このような大炎上をあらかじめ予測したうえで、オリンピックへの文化的なテロリズムを仕掛けたのでしょう。それは障害者いじめと同様の、利己的かつ愉快犯的な行為です。それ自体が、彼にとっては最高に芸術的な表現だったと言ってもいい。さすがに未遂で終わりましたが、東京五輪に深刻なダメージを与える国際スキャンダルに発展しました。◇今回の騒動で、音楽家としての彼自身にダメージがあるのかといえば、かならずしもそうとは言えません。もともとコーネリアスの音楽は、国内の大衆的な支持によって成り立っていたのではなく、むしろ海外のイカれた好事家の支持で成り立ってきたからです。今回の報道によって、「最高に最低なゲス野郎」としてのイメージが世界に広まれば、それがかえって好事家たちを喜ばせ、箔がつく可能性さえあります。コーネリアス自身も、そのことをしたたかに計算しているはずです。そうでもなければ、ただの「頭の悪いアート野郎」でしかない。彼は、このたび、反省文だか謝罪文だかを記して世間に公表しましたが、到底、あんなものを真面目に書いているとは信じられません。きっと適当な人間に適当なことを書かせて、裏でケタケタ笑っていると考えるほうが妥当でしょう。さすがに今後はNHKでの仕事がなくなるはずですが、それは彼にオリンピックの仕事を回したNHK側の愚しさの結果であり、おそらく小山田圭吾自身は、NHKでもオリンピックでも真面目に仕事をする気などないのでしょう。そうでなければ、バカすぎます。◇もともとオリンピックは、国際主義と世界平和を理念に掲げており、その根底には《人間主義》そして《反国家主義》があります。いわば「左寄り」のイベントとして始まったといえます。しかし、20世紀のオリンピックが、しだいに国威発揚のためのイベントに変貌し、どんどん右寄りになり、全体主義に陥れば陥るほど、アンチヒューマニズムの要素が強まってきました。スポーツ選手のみならず、あらゆる文化人までもが、国家のための道具になっていった。その極めつけが、1936年のナチス政権下におけるベルリンオリンピックでした。三島由紀夫も、寺山修司も、アドルフ・ヒットラーを熱狂的に信奉していました。石原慎太郎も、その系譜に属しています。けれど、さすがに彼らが1964年の東京オリンピックに参加することはなかった。国家の側も、それを許さなかったでしょう。戦後の日本が、ファシズム色を前面に出すことはできなかったからです。そもそも、文学であれ、音楽であれ、スポーツであれ、自分自身の表現を志す者であるならば、国家だのヒューマニズムだのに義理立てする必要などありません。その思想の左右にかかわらず、たんに都合よく利用できるかぎりにおいて、国家やヒューマニズムを利用すればいいだけのことです。◇やがて冷戦が終わり、椎名林檎や小山田圭吾のような世代になると、表現の立脚点はますます混沌として曖昧になり、もはや右も左もなく、傍目からは何を考えているのかも分からなくなります。ときに人を喰ったような作品を発表したかと思えば、しかつめらしく社会的な作品にも参加したりするからです。日本のサブカルチャーの起源のひとつが、60年代のアングラ文化と反ヒューマニズムにあるのは自明ですが、90年代のサブカルチャーの場合は、冷戦後の高度資本主義における《勝ち組》の表現に結びつきました。イデオロギーの左右よりも、勝ち負けが重視される時代になった。いわゆる渋谷系も、露骨なまでの勝ち組文化だったのですが、彼らを支え続けていたのは「勝ち組は勝ち続ける」という信念です。悪びれることもなく「いじめ自慢」が可能だったのはそのためであり、その信念は、いまもなお生きているのです。たとえロマン・ポランスキーやウディ・アレンが、#MeToo運動で映画界から追放される様子を見ても、あるいはアラーキーが日本の写真業界で弾劾されるのを見ても、まだまだ「勝ち組こそが勝ち続ける」という彼らの信念は変わらない。◇小山田圭吾がオリ・パラで披露するはずだった音楽とは、いったいどんなものだったのでしょうか?おそらく彼の表現の根底にあるのは、 右も左もぶっとばせ! ヒューマニズムなんか糞くらえ! 身障者なんか死んじまえ!のような思想だったといえるでしょう。もしかすると、多くの人はそのことに気づかぬまま、その開会式の音楽は、同時生中継で全世界に発信されていたかもしれないし、今のところは同和問題で及び腰の「皆さまのNHK」でさえ、総力を挙げてそれを日本の全国民にむけて伝えつづけたかもしれません。しかし、じつのところ、それはオリンピックの孕む本質的な矛盾を剥き出しにし、日本という国家をも壮大に脱臼させる過激なテロ表現だったはずであり、裏を返せば、世界のイカれた好事家たちに、「最高だぜええええ!!!」との雄叫びをあげさせるようなものだったはずです。これが実現していれば、大友克洋が40年前に予言していた未来よりも、さらにクレイジーな状況になっていたかもしれません。かろうじて未遂に終わったとはいえ、すでに TOKYO2020 のみならず、オリンピックそのものを終焉させるに十分な醜聞になりました。◇もともと小山田圭吾による「障害者いじめ」は、TOKYO2020 の本質に触れる要素をもっていたと言うべきです。じつはオリ・パラを東京に誘致した石原慎太郎も、相模原の障害者殺傷事件が起こったあと、犯人である植松聖の差別的な「思想」に共感を示していたからです。石原慎太郎は、次のように述べています。 この間の、障害者を19人殺した相模原の事件。あれは僕、ある意味で分かるんですよ。昔、僕がドイツに行った時、友人がある中年の医者を紹介してくれた。彼の父親が、ヒトラーのもとで何十万という精神病患者や同性愛者を殺す指揮をとった。それを非常にその男は自負して、「父親はいいことをしたと思います。石原さん、これから向こう二百年の間、ドイツ民族に変質者は出ません」と言った。殺す人間よりも殺される人間を「変質者」とみなす思想の持ち主が、よりによってオリンピック・パラリンピックを日本へ誘致したところに、そもそもの尋常ならざる矛盾があったというべきですが、さらに輪をかけるように、その開会式で音楽を担当するのが、かねてより「鬼畜イジメ人間」として知られた小山田圭吾とは、あまりにも話が出来すぎていました。つまり、これはもともと TOKYO2020 の本質なのです。すでに「復興五輪」だの「アスリートファースト」だのの大義名分が、まったくの嘘・デタラメだったことは周知の事実になっています。むしろ TOKYO2020 は、《勝ち組の勝ち組による勝ち組のためのイベント》として計画されたのです。おそらく小山田圭吾が企んだのは、そのことをみずから暴きたてるような、とことん愉快犯的な文化テロリズムだったのでしょう。◇小山田圭吾の企みが未遂に終わったのを受けて、ネット上には「無音で開会式をやる」という案も出ているようです。わたしは、このアイディアが意外に悪くないと感じます。ここまできたら、開会式での「沈黙」こそが、唯一の倫理的な演出に思えるからです。差別主義の本家
2021.07.20
熱海の土石流を発生させた盛り土は、いわゆる《未必の故意》による《無差別大量殺人》に当たります。殺人における《未必の故意》とは、「人が死ぬかもしれないが、それでもかまわない」という考えによって人を危険にさらすことです。死者の出る危険性を認識していれば、その要件が足ります。たとえば火災によって死者が出た場合も、《未必の故意》があれば、失火罪ではなく放火罪が適用されます。◇放火の場合は、具体的な被害の有無にかかわらず、人がいる建物に放火をした時点で殺人罪が成立します。正確にいうと「現住建造物等放火罪げんじゅうけんぞうぶつとうほうかざい」です。そのように、人を危険にさらした時点で成立する犯罪を《抽象的危険犯》といいます。一般に、放火殺人では、どれだけの被害が出るかを正確に予見することが困難ですし、かりに死者が出る場合でも、焼死か、窒息死か、建物倒壊による圧死かを予測できません。火の回りが遅かったり、予想より火が広がらなかったり、住人の避難が成功したりすれば、被害者がまったく出ない可能性もあります。たとえば一昨年の京アニ放火殺人事件の場合、ガソリンを使用した点が凶悪だったとされますが、灯油とガソリンの殺傷力の差を、犯人がどれだけ正確に理解していたかどうかは、じつは分かりません。それでもなお放火による殺人罪は成立します。◇熱海の盛り土の場合も、どれだけの被害が出るかを予見するのは困難ですし、どの程度の土砂崩れを発生させるかも不確定です。小さな土砂崩れで終わるかもしれないが、巨大な土石流を発生させる危険性もある。かりに土砂崩れや土石流が発生した場合に、どれだけの人が巻き込まれるかも分からない。しかし、下流地域に多くの人が住んでいるのは自明なのだから、土砂崩れ発生時に誰もいないなどということはありえませんし、また、盛り土をおこなった犯人の場合は、専門性を有する業者であるのみならず、過去に別の地点で土砂崩れを起こしていた点も重要であり、盛り土がもたらす危険を予見できた可能性はきわめて高い。したがって、京アニの放火犯と同様に、やはり《抽象的危険犯》としての殺人罪が成立します。これは人命を危険にさらす専門業者の手抜き工事全般にいえることです。◇今回の盛り土による殺人と破壊の規模は、戦後最悪といわれた京アニ放火事件をも凌ぐものです。数十人もの人命を奪い、百数十棟もの家屋を打ち流し、地域社会そのものを破壊し、そこにあった文化と歴史を土砂と産廃で埋め尽くしました。これは、福島の原発事故に次ぐほどの巨大な暴力であり、その悪質さにおいて比類のないものだったといえます。
2021.07.16
今回の熱海の土石流にかんしては、おもに3つの問題が浮かび上がっているようです。◇1つは危険な盛り土が全国に存在していること。▶ 大規模盛土造成地マップ国交省は、去年の時点で全国の「盛り土マップ」を作成し、宅地の耐震化推進に着手していました。しかし、対象を「宅地」のみに限定していた問題もあり、今回の熱海の盛り土では、地震どころか、雨が降っただけで大規模な土石流を引き起こしました。◇2つめは、いわゆる「残土処理ビジネス」の問題です。去年のダイヤモンド・オンラインの記事によれば、1970年制定の廃棄物処理法において「土」を除外したことが、現在のような残土ビジネスを常態化させた要因とのことです。▶ 建設業界の闇「残土」ビジネスしかし、原理的にいうならば、或る物が「ゴミか否か」は法的に規定できるものではありません。一般に、「Aさんにとってはゴミ同然でも、Bさんにとっては貴重なお宝だ」というようなことが日常的にありえます。当時の厚生省も、「有価物にあたるか廃棄物にあたるかは、 性状や排出状況、通例なども含めて総合的かつ客観的に判断される」としています。それがゴミであろうとなかろうと、「投棄する」という行為そのものが問題だと思うのですが、一方で、自分の所有地に置いておくことを「投棄」とは呼びがたい、という問題もあるだろうと思います。おそらく「土砂の扱い」や「土地の造成」については、別枠での法的な規制が必要なのではないかと思います。◇3つめに、今回の熱海の盛り土では「エセ同和」の問題が指摘されています。NHKなどのマスメディアは、例によってこの問題には触れませんが、すでに法務省は、その出自に関わらず「同和を名乗ったチンピラ行為や不当な要求」等について、これを「えせ同和行為」と見なして、日本社会から排除するように広く呼び掛けています。▶ 「えせ同和行為」を排除するためにわたしは、今回のような手抜き工事の問題は、まずは末端の責任者に厳罰を科すことで抑止できると思いますが、かりに、厳罰化や法改正を阻止しようとする勢力があるのならば、そうした勢力の構造的な背景も解明していく必要がありますし、もちろん、政界にその関係者がいるのかどうか、それについても、すべて炙り出したうえで、マフィア的な組織の解体も視野に入れなければなりません。そのような勢力が、もはや社会と国土を破壊しかねないのだから、これは国民的な課題として、もはや急務だろうと思います。
2021.07.13
業務上の致死傷罪は、たいてい「故意」ではなく「過失」と見なされるのですが、いわゆる手抜き工事や、今回の熱海の盛土工事などは、あきらかに「過失」ではなく「故意」だったと言えます。ちなみに、公害犯罪処罰法は「故意犯」と「過失犯」に分かれます。まずは業務上の危険行為が「故意犯」と「過失犯」に分かれ、さらに殺意があれば、刑法の「殺人犯」の適用となります。今回の盛土をおこなった業者の場合、たとえ「殺意」があったにせよなかったにせよ、業務上の危険行為については、あきらかに「故意」というべきです。◇なお、公害犯罪処罰法における「過失」というのは、いいかえれば「注意義務違反」「危険回避義務違反」のことです。たとえば、福島の原発事故では、東電側に「大津波の予測」が可能だったかどうか、そして「危険回避義務違反」があったかどうかが問われました。今回の熱海の盛り土工事の場合、業者にとって「大雨の予測」は容易です。誰にでもいずれ大雨が降ることは予測できるからです。排水施設の不備や、土砂量の超過や、廃棄物の混入については、それが「法令違反」だったかどうかも問題になりますが、すくなくとも「危険回避義務違反」であるのは間違いありません。専門の業者が、その危険性を認識できないはずがないからです。◇ところで、公害犯罪の「故意」によって人を死傷させた場合、「7年以下の懲役または500万円以下の罰金刑」が規定されています。しかし、これはあまりにも軽すぎるのではないでしょうか?手抜き工事による建築物の倒壊や土砂崩れなどの場合、数人の健康被害から、大多数の死者まで、想定される被害には大きな幅があるわけですから、大事故の抑止という観点から考えても、刑の範囲は、そのぶんだけ広く設定しておく必要があります。そもそも「故意」によって危険にさらすのならば、それは直接的な殺傷行為よりも凶悪というべきであり、今回のような悪質さは死刑にも相当するものだろうと思います。◇すでに交通事故にかんしても、悪質な飲酒運転やあおり運転については、もはや従来のような「業務上過失致死」の範疇では対応しきれず、「危険運転致死傷罪」や「殺人罪」が適用されるようになっています。土木工事や建築工事についても同様で、悪質な業務を厳しく取り締まることが出来なければ、日本は、アジアの後進国と同様に、手抜き工事だらけのザル社会になってしまうでしょう。わたしは極刑が妥当だと思います。
2021.07.11
現在の医療システムにおいて、日常の診療は、薬物の処方を中心に行われています。しかし、これは対症療法に過ぎず、心身の健康の増進に資するものではありませんし、しばしば薬害(副作用)さえ引き起こします。今後は、運動療法こそが日常診療の軸になって、従来のような薬物処方は「20世紀の誤謬」として葬られるはずです。これまで、運動医学は、おもにスポーツの分野で発展してきましたが、当然ながら一般の医療システムに取り入れることが可能です。◇病気がちな人が健康な身体を獲得するためには、なにより「体格」や「体質」を改善しなければなりません。このうち「体格」の改善をめざすのが運動療法です。「体質」は、おもに内臓の状態によって決定されますが、「体格」は、おもに骨格と筋肉バランスによって決定されます。「体質」と「体格」はたがいに相関関係にあるものの、「体格」のほうが「体質」を決定している面は少なくない。とくに上半身の筋肉バランスの悪化は、重要な内臓機能を制約してしまうので、後天的に「体質」を悪化させる大きな要因になります。◇骨格そのものを変えることは容易ではありませんが、 運動療法によって、筋肉バランスを回復することは出来ます。委縮して動かなくなった筋肉が動くようになれば、本来の筋肉バランスは回復されるからです。ちなみに東洋医学などでは、外観上の「体形」や「顔立ち」などが、その人の「体質」「気質」「疾病傾向」に因果関係をもつことを、経験則から把握していました。いうまでもなく「体形」や「顔立ち」は、骨格と筋肉バランスで形成されていて、広義の「体格」だといえます。おそらくサーモグラフィやAIの画像認識技術を用いれば、「体格」と「疾病傾向」との目に見えない因果関係を把握することが、いっそう容易になってくるはずです。さらに、AIのシミュレーション技術を用いれば、どのような運動療法で筋肉バランスを効率的に整え、内臓機能を回復すれば、健康に資する体質改善が図れるのかを判断できるはずです。◇従来おこなわれてきたような、内科による薬物処方や、精神科によるカウンセリングは、たんなる対症療法ではあっても、けっして根治治療ではありませんでした。なぜなら、「病症」や「性格(精神的傾向)」というのは、あくまで「体格」や「体質」の結果であって原因ではないからです。(もちろんフィードバックはありますが)したがって、「体格」や「体質」にアプローチするほうが根本的です。さらに遡るならば、先天的な「遺伝的器質」や後天的な「環境要因」こそが、その人の「体格」や「体質」を決定しているのですから、そこへのアプローチが究極的な手法ということになるでしょう。しかし、遺伝子操作や臓器移植などは、たとえそれが究極の根治治療だとはいっても、あまりに不自然であり、倫理的な問題も孕んでしまいます。そうしたことを考慮すれば、「体質」「性格」「病症」の決定要因である「体格」にアプローチすることが、もっとも合理的かつ自然な手法といえます。だからこそ、運動療法を医療システムの軸にすべきなのです。今後、病院は、運動療法の処方システムを確立して、リハビリ設備を拡充し、一方の製薬会社は、スポーツ医療の知見を取り入れて、この分野でのAIの活用を進めるべきです。この図はわたしが作成しました。
2021.07.10
産廃土砂を用いて山林伐採地を造成し、太陽光パネルを敷くというメガソーラー事業。すでに全国各地で行われていて、自治体や地域住民とトラブルを起こしています。景観の破壊や、森林伐採による自然破壊のみならず、浸水・濁流や土砂崩れの被害を起こしていました。メガソーラー事業との関連にかかわらず、産廃土砂で山地の埋め立てをする悪循環が、日本経済のなかで蔓延的に行われています。そうした状況を考えると、熱海で起こったような大規模土石流は、いまや日本のどこにでも起こりうる「人災」です。これらはけっして想定外の災害ではなく、一昨年の林野庁の資料などでも想定されています。こうした人災は、法的な「公害」とただちに認定すべきです。
2021.07.06
人々が本を読まなくなるディストピアのお話です。なぜ人は本を読まなくなってしまうのか?それを考えるためには、そもそも人間は、いつどうして本を読むようになったのか。を考えなくてはなりません。人間が本を読むようになったのは、それほど昔のことではありません。わりと最近のことです。すくなくとも中世まで、ほとんどの人々は本を読んでいませんでした。(そもそも字も読めませんでした)本を読んでいたのは、一部の知識階級だけです。一般の人々が本を読むようになったのは、おおむね近代以降でしょうし、日本でいえば、近世以降だろうと思います。なぜ、この時期に、人々は本を読みはじめたのでしょうか?◇もっとも象徴的なのは、ヨーロッパでマルティン・ルターが登場したことです。それまで聖書を読んでいたのは教会の聖職者だけで、一般の信者は聖書を読むことが出来ませんでした。聖職者たちは、聖書のみならず、あらゆる書物の知識を独占し、教義にとって都合の悪い書物は、人々の目に触れないように隠していましたし、焚書もおこなっていました。そして、そのことが、無知蒙昧な社会を作り出し、教会権力を腐敗させ、硬直化させ、弱体化させました。マルティン・ルターは、そうした状況を打ち破るために、一般の信者にも聖書を読ませました。すでにグーテンベルクの印刷技術が普及していました。いわばプロテスタントとは、みずから聖書を読む人たちのことです。その結果、聖職者や教会は無用となりました。…人々が本を読みはじめる動機があったとすれば、権力が腐敗し、弱体化し、従来の常識が信じられなくなったからだと思います。◇さらに多くの人が本を読むようになったのは、国民国家の時代です。「国語」の制定(言文一致)や、「録音・録画技術」の発明によって、新聞、小説、レコード、ラジオ、映画が普及し、国民文化が共有され、国民社会が形成されました。こうした国民社会は、テレビが普及したことによって完成に至りました。しかし、いまや国民文化の発展も頭打ちとなり、国民社会そのものが衰退しはじめる状況のなかで、小説も、音楽も、映画も、そしてテレビさえも、かつてのような統合力と影響力を失っています。現在の人々が本を読まなくなったのは、たんにテレビのせいだけではありません。(そもそも若い世代はテレビさえ見ていません)国民文化そのものが衰退しているからです。◇テレビのような映像文化が、かつての本と同じような力をもつためには、それらが多チャンネル化され、さらにアーカイヴ化される必要があります。すくない選択肢のテレビをリアタイで見ている限り、人々は思考停止状態で身を委ねるしかないし、作り手側もまた、視聴率の稼げる安易な番組しか作ろうとしません。しかし、映像メディアそのものが多様化し、それらにいつでもアクセスできるアーカイヴ化が進むと、人々は、より能動的・選択的に映像を見はじめます。じっくりと時間をかけて、くりかえし鑑賞し、さらに他作品との比較をしながら味わいはじめます。そのとき、テレビのような映像作品も、かつての書物と同じような啓蒙力を発揮するでしょう。もちろん、大多数の人たちは、なかなか常識を疑おうとしませんから、書物の時代の大衆の啓蒙に限界があったように、映像メディア時代の啓蒙にも限界はあります。それは、いつの時代も変わりません。
2021.06.21
これは、東京オリンピックの終わりというよりも、20世紀のオリンピックそのものの終わりですね。二度目の東京オリンピックのみならず、ついに近代オリンピックそれ自体が終わるのです。実際のオリンピズムが、いったい何を「最大の価値」としているのか。そのことが、あまりにもハッキリと露呈してしまったから。端的にいえば、オリンピックは国家や国民を滅ぼすことさえ厭わない。欧州貴族が金を儲けるための壮大な仕掛け。その事実を、世界中のあらゆる層の人々が思い知った。そんな厄災を、わざわざ得意になって招致した、日本の戦犯たちの短絡や愚かしさもまた、オリンピックの墓標とともに永久に記憶されることでしょう。しかし、この大きな近代の仕掛けが、ここでひとつ終わるのだとすれば、それは喜ばしいことかもしれません。これは、人類にとって、あらたな門出なのかもしれません。
2021.06.04
NHK100分de名著「金閣寺」。山田裕貴の朗読がすばらしくて驚きです。◇敗戦によって天皇という絶対性を喪失し、いちどは戦後の相対的な価値観のなかに、みずからを適応させようとした三島由紀夫。しかし、結局は、戦前的な絶対性への回帰願望を捨てられず、それどころか、ふたたび日本社会に戦前の価値観を取り戻そうと、奇怪な挑戦に身を捧げることになります。ここにこそ最大の謎があるけれど、おそらくは、敗戦の絶望よりももっと深く、戦後の日本社会に失望したからであり、それが彼の実存的な苛立ちにも直結したからなのでしょう。戦後社会への失望と、戦前への憧憬/回帰願望。これは宮崎駿のアニメ作品にも共通する側面です。◇戦前的な川端康成の「美しい日本」にしろ、戦後的な大江健三郎の「曖昧な日本」にしろ、絶対性の喪失という戦後の現実を受け入れるか否か、そして失望の日々を生き続けるのか否か、ということが一貫したテーマだったはずです。日本人が、頭のうえに靴をのせるように、戦前の認識や価値観そのものを変えるとすれば、それは端的に「大きな物語を捨てる」ということでした。でも、現在では、それとは逆の転換が起こりはじめています。もはや国家の物語は、相対的に「小さな物語」でしかなくなっている。人類は、国家よりもさらに大きな物語の渦中にあると思います。
2021.05.11
クリスマスやバレンタインデーが来るたびに、憂鬱に気持ちになって、疎外感と孤独感を強める人は多い。それと同じように、母の日や父の日が来るたびに、不快な思いにおそわれる人たちも多いはずです。義理チョコが、ある種のセクハラ的な慣習だったとすれば、義理カーネーションもまた、ある種のパワハラ的な慣習だというべきです。◇すべての人間が両親を慕うわけではない。父を恨む人もいれば、母を疎ましく思う人もいる。昔なら、それを無条件に「親不孝」と呼んで非難したでしょうが、親が子を選べないように、子もまた親を選べないのだから、そこに「強いられた不幸」が生じうるのは当然なのです。わが子に対して、精神的・肉体的な暴力をふるう親もいるし、あからさまな暴力をふるわないまでも、愛情に見せかけたエゴをふりかざす親は非常に多い。自分の思いどおりに子どもを従わせ、そのことに満足して依存してしまう親たち。世間の親たちの大半がそうだといっても過言ではない。それは愛情ではなく、ほかならぬ精神的支配なのですが、きれいごとの家族幻想がその真実を覆い隠しています。これは、いわば、子どもたちに対する社会的ぐるみの暴力なのです。◇メディアや企業は、「恋人幻想」への同調心理を巧みに利用して、クリスマスやバレンタインデーを商業化したように、「家族幻想」への同調心理をあおることで、母の日と父の日をもまんまと商業化させました。しかし、これらの欺瞞的なキャンペーンは、人々を幸福にするどころか、きれいごとの幻想に振り回される人々を追い詰め、ますます不幸を増幅させるばかりです。母の日や父の日が来るたびに、妬みと鬱憤と猜疑心と欲求不満が顕在化し、ますます家族関係に亀裂が入ることもあるでしょう。◇日本にバレンタインデーの風習が定着してから、「義理チョコはセクハラである」という真っ当な認識が社会に共有されるまで、じつに30年以上もの期間を要しました。おなじように、「義理カーネーションはパワハラである」という認識が共有されるまでには、またしても長い歳月が必要となるのでしょうか?本来、母の日と父の日は、家族幻想を社会ぐるみで再生産するイベントではなく、「その愛情はエゴではないのか?」ということを、社会全体で厳しく問い直すキャンペーンであるべきなのです。そうでなければ、愛情という名のもとに、無自覚に自分のエゴをふりかざす親たちは、いつまでたっても後を絶たないのだから。
2021.05.10
コロナ禍のなかで、人類は病原菌やウィルスの問題に直面しています。◇近代的な衛生革命は、上下水道などのインフラ整備、殺菌・滅菌手法の確立、感染症ワクチンの開発などによって実現しましたが、それでもまだ人類は、完全に衛生的な環境を獲得しきれていません。◇最大の問題は、衛生上の敵が目に見えないということです。生活圏の衛生状況を、リアルタイムで数値化することさえ難しい。したがって、わたしたちは、衛生的なものをむやみに「汚い」と思い込んだり、逆に不衛生な環境を「きれいだ」と勘違いしたりします。目に見えない敵との戦いのなかで、衛生にかんする「観念」と「実態」が乖離し、人々を非合理な行動・非効率な行動へ向かわせるのです。◇さらに、そうした迷信的な衛生観念は、飲料水や食品への不信につながったり、トイレや浴室のような住環境への不信につながったり、公共財や公共空間への不信につながったりもする。また、他者への差別につながったり、病人や死者の隔離につながったり、外界や異界への忌避感を生んだりもします。みずからを、根拠のない潔癖神経症に追い込むこともあります。病原が目に見えないものである限り、迷信的な「穢れ」の感覚を拭い去ることもできない。こうした迷信は、信じるに足る根拠にも乏しいけれど、否定するだけの根拠もまた不十分なのです。◇今後、衛生技術の革新によって、病原菌や病原ウィルスを可視化し、それらを合理的に排除することができれば、社会的な医療コストを抑えられるだけでなく、人々は、盲信や迷信に悩まされることもなくなり、社会の合理化や効率化も一気に進展していくはずです。そして、生活の快適性、他者への信頼性、社会の安全性も大きく増していくはずです。◇かりに、第二次衛生革命があるとすれば、それは、むやみやたらな滅菌・殺菌を繰り返すのでなく、悪玉微生物だけを選択的に排除する技術によって、人々と善玉微生物との共生を、安定的に実現させる形へと向かうはずです。もしかすると、善玉微生物を養殖し、それを生活環境のなかで優勢にすること自体が、悪玉微生物を駆逐することにつながるのかもしれません。
2021.04.27
教育現場のデジタル化が進むにつれて、子どもの視力低下が社会問題になっていますが、それは厳密にいうと、デジタル化の問題というよりも、ディスプレイの形状の問題です。当面は、「姿勢をよくする」とか、「ディスプレイとの距離を保つ」とか、「長時間の利用を控える」とか、「適切な休息をとる」とか、「日光を浴びる」とか、恐ろしくアナログな手法で対策を取るしかありませんが、そうした原始的な手法は、いつまでたっても根本的な解決にならないわけですから、やはり、いずれは官民を挙げて、「目に負担のないディスプレイ」を開発し、早期に教育現場へ普及しなければならないはずです。立体視できるゴーグル型のディスプレイもありますが、もっとも手っ取り早いのは、狭い空間でも投影できるような、短焦点プロジェクターの性能を高めることではないでしょうか。たとえ狭い空間であっても、40cm先の小さな発光画面を見るのと、2m先の壁や天井に投影した大画面を見るのとでは、目に対する負担はまったくちがうはずです。そうなれば、「姿勢を正せ」とか「日光を浴びろ」とか、そんな体育会系じみた指導も必要なくなるでしょう。
2021.04.25
NHKの「不可避研究中」を見ました。テーマは教育です。◇日本の社会は、もともと同調圧力が強いといわれるけれど、じつは学校の教育そのものが、子どもに同調性を強いるシステムになってる。全員参加の学校行事。全員が同じ内容を同じペースで学習する仕組み。生徒自身には何の選択権もない。◇大人がレール敷いて枠組み決める。その結果、教育内容は、大人の価値観からアップデートされない。子どもが「素直である」とか「言うことを聞く」とか、そういう態度を良しとするのは、非常に悪い教育文化ですよね。それは、子どもの主体性を奪うし、あたかも親や教師の価値観を押しつけることが、教育の正義であるかのような思い込みを助長するからです。そうした教育態度に慣れてしまうと、親や教師たちは、子供を従わせることに満足感を見出し、なおかつ、そのことに依存するのです。◇大人たちは、じつは性教育も含めて、子供たちの成長を内心で怖れている。彼らは、自分たちより優秀な子供の姿を見ると、内心で苦々しく思うのです。だから、大人みずからが子供の足を引っ張り、子どもも子供どうしで足を引っ張り合う。それが「同調教育」の本質です。◇異なる人間どうしが協調しあう社会ではなく、異質なものを排除して、ひたすら同質性を強いる社会を目指すこと。それを教育者たちは、これまで「協調性教育」と呼んで正当化してきました。しかし、このことがいじめの構造を生み、同調圧力は企業社会にまで及んでいます。そして、この国民どうしの卑屈な足の引っ張り合いは、救いがたいまでの国力の低下に帰着しています。いつまでこんな教育を続けるのでしょうか?
2021.04.21
I LOVE みんなのどうぶつ園。5歳のチンパンジーのプリンちゃんが、ジェンガのルールを理解して遊んでいることに驚愕。同年代の人間の子供だったら、むしろ「壊して遊ぶ」という発想にしかならないのでは?そのほかにも、お箸を使ってうどんを食べたり、丼を持ち上げてスープを飲んだりしていたし、父親のパン君は、針の穴に糸を通していました。もはや人間と変わらない。◇AIが進化し、チンパンジーの知能が高まるなかで、愚かな人間は増えつづける一方。もはや人間が人間である根拠は、ほとんど砂上の楼閣のように見えてきます。
2021.04.19
しばしば話題になりますが、シンプルに「~いたします」と言えばいいものを、わざわざ「~させていただきます」と言いたがる人たち。おそらく、まどろっこしい言い回しをすればするほど、いかにも敬語を使ったような気分になれるのでしょう。◇この「させていただきます」という用法の起源は、「仁義切らせてもらいます」「ケジメつけさせてもらいます」などのヤクザ言葉です。無理やり相手から許可を取りつける言いがかりであり、もともと圧があって強制感もあります。このような言い回しを、「歌わせていただきます」などの形でメディアに広めたのは、バブル期にヤクザと癒着した演歌歌手でした。◇インテリの場合は、こうした過剰な敬語に対して、「慇懃無礼」という判断もはたらくのですが、ヤンキー層にはそのような概念がないので、いわば"無限慇懃地獄"へと陥るのです。「相手より低く頭下げたほうが勝ち」みたいな土下座文化と同じで、「相手よりもまどろっこしい言い方をしたほうが勝ち」という馬鹿げた美学へと陥ります。もともとヤンキーや右翼の文化においては、「あらせられる」「なさっておられる」「させていただく」のようなゴテゴテとした印象の敬語が好まれ、「いらっしゃる」のような柔らかい敬語は好まれません。これは、たとえば「よろしく」を「夜露死苦」と書いて、ある種の凄みを持たせたいという発想と同じで、実際の意味よりも「なんか凄そう」という語感こそが、優先されてしまう結果として出てくるものです。◇◇余談ですが、わたしは、「お亡くなりになりました」とか、「お聴きいただきます」とかいう言い方も大嫌い。おナくナりにナりました…おキキいただキます…この言い方、じつはNHKでもよく聞きます。前者は「ナ」が3回、後者は「キ」が3回も入ります。なんでわざわざそんな言い方をするんでしょう?!やはり、面倒な言い回しをすればするほど、さも「敬語を使った」という気分になれるからだと思います。前者は「亡くなりました」で十分だし、百歩譲って「亡くなられました」が限界。後者は「聴いてください」「○○です。どうぞ」と言えばいいのだし、たとえば「お送りします」や「おかけします」でも十分すぎるくらいです。◇そもそも現代の日本は、目上も目下もない平等社会という建前なのだから、「尊敬」だの「謙譲」だのという差別的な語法は廃止して、すべて丁寧語だけに統一すればいいのですよね。どうせ、国民の大半は、その違いすら正しく理解できていないのだし。
2021.04.14
一般に、自分の男性器を大きく見せかけようとする発想は、自分の存在を、なるたけ尊大に見せずにいられないという、なにかしら切実な劣等感の裏返しだと思うのですが、それは、ひいては、自分たちの「政治力」を大きく見せようとか、自分の勢力の「数」を多く見せかけようとか、自分の国家の偉大さを偽装して見せようとか、そういう発想にまで結びついていくものだと思います。そして、そのためならば、歴史を捏造するのも厭わなくなるし、陰謀論を唱えるのも厭わなくなるし、どんどん手段を選ばなくなっていくのですね。◇今回の問題でも、金の力でもって署名人の「数」を買い、それがバレると、こんどは「相手側の陰謀だ」と言いはじめる。そこらへんの行動パターンは、はたから見ていて「いかにも」だなあ、と思えてきます。男性器をデカく見せることも含めて、その種のバカバカしい虚栄というのは、はたから見てると実にしょーもないのですが、最初に書いたように、自分たちの偉大さを見せつけずにいられないのが、なにか彼らにとって切実な実存問題なのでしょうね。ただ、最終的に言えることは、どうにもこうにも、コイツらのチンコって小っちゃいんだなってことなのです。哀しいくらいに。つまり、詭弁を弄して大きく見せかけようとすればするほど、根っこの部分の「小ささ」がかえって透けて見えるのです。それは、たとえば、「おれが尖閣諸島を買う!」といっては裏目に出たり、「オリンピックをぶち上げる!」といっては裏目に出たり、女性相手に「厚化粧のオバサンが!」と言ったりする、石原慎太郎の小ささと同種のものだなあと思います。◇結局のところ、こういう小さなチンコ野郎が表に出れば出るほど、日本の国家と国民は、かえって自信を喪失してしまうハメに陥るのですよね。それは、なぜかというと、彼らのくだらない虚栄というものが、いちばん根っこの部分で、隠しようのない「小ささ」に由来しているからなのです。
2021.02.27
昨夜の地震発生時の、NHKの福島の映像のなかに、いわゆる「発光現象」の様子がはっきり映っています。23時8分の映像がHPでも確認できましたが、サワサワと風のような異音が鳴ると同時に、さまざまな場所で、青白い大きな光が5~6回ほど閃いていました。電線がショートしたときの火花でしょうか?でも、ああいうものを目の当たりにすると、地下の変調やエネルギーの拡散は、上空の大気にまで影響を及ぼすんじゃないか?場合によっては生物にも影響を及ぼすんじゃないか?…なんてことまで考えてしまいます。◇2~3日前まで遡ってTwitterを調べてみると、「地震雲を見た」とか、「地震の夢を見た」といった情報がたくさん出てきます。まあ、震災から10年目ということもあるし、11日に南太平洋でも地震があったし、ここ数日は、地震の情報に触れることも多かったから、そういう心理的な影響もあるかもしれないけど、肯定的にとらえるにしろ、否定的にとらえるにしろ、こういうことの「因果関係の有無」というのは、予断をもって決めつけてしまうのではなく、やはり統計的に判断するのがいちばん合理的だと思います。なにが科学的であり、なにが非科学的な迷信なのか。肯定したり否定したりする根拠の乏しい段階では、その正否自体を予断をもって決められないのですから、やはり、とりあえずは、統計によってその妥当性の有無を推測するしかありません。◇案外、人間には何かを感知する能力があるかもしれない。「いたずらな予知は不安を煽る」といわれるかもしれませんが、現時点でいえば、気象庁による「●●地方で●●年以内」という統計情報ですら、せいぜい五十歩百歩のいたずらな情報でしかありません。むしろ、予知にかんする情報をいたずらに抑圧して、それがもたらす不安を個々人に押しつけるよりも、社会的に大規模な統計情報を共有して、その因果関係の有無をはっきりさせるほうが、あきらかな偽情報を排除することにも繋がるし、やり場のない不安を心理的に解放することにもなると思う。◇これだけの情報社会なのですから、統計を取るのは容易です。ためしに夢にかんする情報を集めて、そこに「正夢」や「予知夢」としての有意な傾向があるかどうか、調べてみたらいいと思います。ほんとうの科学とは、そういうものですよね。
2021.02.14
オンライン学習の技術は、たんに既存の教育システムに導入するだけではなく、むしろシステムそのものの変革に繋がるべきものです。いまや教室で無能な教師の授業を受けるより、たとえ無資格でも有能なユーチューバーの講義を受けるほうがいい。そういう時代です。教育改革とは、なによりも非合理な教育特権を排除することです。教師が生徒を評価するのではなく、生徒が教師を評価するほうがはるかに合理的だし、それこそが、もっとも効果的な教育改革につながるはず。◇今後、国が整備すべきなのは、従来型の学校や教育人材ではなく、誰もがいつでも受けられるようなオンラインの試験システムです。これからの試験とは、人材を選抜するために行われるべきものではなく、誰もが繰り返し何度も受験することで、確実に知識を習得するドリルとして行われるべきものです。そもそも、国内の低レベルな競争で選抜をしたところで、まったくもって国際的な競争力には結びつかないのですから、むしろ万人に繰り返し受験機会を与えることで、全体的な学力の底上げをはかったほうが効果的なのです。能力のある人は、どんどん高いレベルのテストを受ければよいのだし、逆に能力の乏しい人は、習得できるまで何度でも受験する機会をもったほうがいい。能力に応じて、小学生が高校生レベルのテストを受けてもよいのだし、逆に、40過ぎの中高年が、小学生レベルのテストを何度も受け直してよいのです。国民全体の学力の底上げこそが、今後の日本の国際競争力にもっとも直結する方策です。そして、それは、義務教育のみならず、高等教育の分野にまで及ぶべきだし、さらには、様々な職能や生活スキルを学ぶための、生涯学習全般にまで及ぶべきです。
2021.01.28
今回の緊急事態宣言では、いわば飲み屋が狙い撃ちにされています。というのも、日本では、酒飲みこそがスーパースプレッダーだからです。◇そもそも飲み会というのは、酒の飲める人間が、酒の飲めない人間に対して優位に立つための、パワハラ的な儀式にすぎません。いまだに「飲みニケーションは大事だ」などと前時代的な価値観を押しつけるオヤジもいますが、それは、逆にいえば、「酒が飲めなければ出世できない」という、きわめて非合理かつ馬鹿げた文化が、日本の企業社会のなかに存在することを意味しています。こうしたバカな企業文化こそが、平成期の日本に「失われた40年」をもたらしたのです。真面目な企業努力よりも、ふざけたコネ営業を優先させた結果なのです。◇友人同士で飲むのならともかく、職場で飲み会をするような悪弊は、百害あって一利なし。経済界全体として排除していくべきです。かりに職場飲み会が絶滅して、一人飲みや少数飲みのほうが主流になれば、居酒屋が感染源になることはなくなるのだし、営業を自粛する必要もなくなるのです。そして居酒屋自身も、一人飲み&少数飲みの時代に向けて、営業形態を抜本的に変えていくべきです。
2021.01.15
京都の清水寺で「今年の漢字」が選ばれました。正直いって、毎年つまらないですよね。オリンピックがあるたびに「金」だとか、戦争が起こるたびに「戦」だとか。なんの芸もないし、なんの驚きもないわけで。漢字の奥深さに対する発見もないし、時代の変化に対する洞察も感じられません。ただデカく書いてみただけ。◇というのも、これは一般の公募で選ばれているためですね。そもそも一般の人たちは、漢字についての知識が乏しいし、はなからたいした漢字を選べるわけがない。メディアで多く見かけた漢字を選んでいるだけです。わざわざ公募するまでもなく、新聞や雑誌の記事のなかから、今年を特徴づけるような漢字を、コンピュータで割り出せば済む話なのですよね。◇どうせ漢字を選ぶというのなら、やはり学者とか、僧職の方々とか、漢字検定協会の人とか、それなりの専門家が知見を結集して決めてほしい。ありきたりの漢字じゃなく、もっと時代の深部をえぐるような、思わず唸ってしまうような一字を選んでほしいものです。中国や韓国が漢字を放棄した現代となっては、日本だけが唯一「漢字」の国なのだから。◇ちなみに、今年の漢字に選ばれた「密」という字は、それなりに時代を反映してはいるけれど、やはり「メディアで多く見かけた」というだけの話。しかも、今年は「密を避けるべき年」だったのだから、けっして「密の年」だったわけではありません(笑)。そこらへんにも誤解の余地があって、違和感を覚えます。むしろ「禍の年」「疫の年」だったというほうが正しいし、疫神という意味でなら「鬼の年」だったというべきですね。
2020.12.15
人類は、アダムとイブの時代からパンツを穿いていましたが、なぜか生殖器は隠しても、口は隠しませんでした。衛生学的に見れば、口を露出して飛沫を拡散させることのほうが、はるかに生存にとって危険なはずだし、口から飛び散るウィルスさえ制御できれば、もっと種としての生存能力は高まっていたはずなのに。◇人類は、ようやく21世紀になって、マスクをつけて口を隠すようになりました。ただし、これは、飛沫を制御する手段としては、あまりに原始的かつアナログだと言わざるをえない。なぜ現代人のテクノロジーをもってして、「飛沫を拡散させない」というだけの単純なことが、もっと合理的に出来ないのでしょうか?プラスチック板であれ、マスクであれ、ヴェールであれ、たんに飛沫を吸着させればいいわけだし、そのうえでウイルスを不活性化させればいいのですが、もっと本格的な技術研究をすれば、より快適で効果的な手法があるはずだと思います。それさえ実現すれば、もはやコロナだけではなく、風邪やインフルエンザをも制御できてしまうのだし、いちいちワクチンを開発する必要もないのです。◇インフルエンザ程度の致死率なら、コロナを過度に恐れる必要はないと主張する人がいます。しかし、それは、「交通事故程度の致死率なら、戦争を恐れる必要はない」という主張と同じであって、たんなる論理の転倒です。むしろ人類は、インフルエンザや交通事故をこそ、もっと本気で恐れるべきなのであり、それを克服するための方法を真面目に追求すべきです。経済を優先しすぎるあまり、それを平然と諦めていることのほうが異常なのですから。
2020.12.13
政府が、「マッチングシステムの高度化」を支援する方針を打ち出しました。◇以前も書きましたが、マッチング技術というのは、結婚相手の選択や、商品の選択だけでなく、職業の選択や、医療や医薬の選択など、さまざまな分野に拡大しうる汎用性の高い技術です。▶diary/20191227▶diary/20200108簡単にいえば、「マッチング」とは、AIによって試行錯誤の過程を省略し、社会的な分配や運営を最適化するだけでなく、個人の人生を効率化するための技術です。「試行錯誤こそが人生だ」というのは、古い時代に生きた人間の旧式の価値観にすぎません。もはやそれを未来の人間に押しつけるべきではない。◇たとえば、洋服や健康器具を買うたびに、「また買い物に失敗した」と言って、それを部屋の片隅や倉庫に放置したり、口に合わなかったり、多く買いすぎたりした食料を、ゴミとして廃棄したりするような習慣を、今後もずっと地球上の数十億の人々が続けたら、それは、地球資源の破壊や、食料の枯渇、廃棄物や二酸化炭素量の増大、そして環境汚染を極限まで悪化させることになる。そうした試行錯誤にともなうムダを省いて、個人の人生や社会分配を効率化していくことは、いまや喫緊の課題なのです。◇今後は、商品においても、職業においても、医療においても、恋愛においても、個人の生活様式や、体格・体質や、趣味・嗜好に合ったものを、まずはAIが選別していくことになります。その中から、さらに自分の目で見て選ぶかどうかは、もちろん個人の自由ですが、あえて《試行錯誤の多い人生》を歩みたいという人がいても、それすら「趣味・嗜好」の問題として処理されるにすぎない。今後の人間の生き方のモデルは、試行錯誤をしつづける人生ではなく、つぎつぎと新しくて良いものに出会っていく人生に変わります。◇恋愛においても、すでに若い世代は、試行錯誤や失敗に対する耐性を失っていますが、少子化を食い止めるためにも、効率的な恋愛こそが必要なのです。もちろん、人生における恋愛は一度ではありませんし、むしろ恋愛感情は長続きしないのが当たり前なのだから、人生のなかで恋愛は何度も行われるべきであり、恋愛が終焉することは、何ら「失敗」ではありません。終わるのが当然です。それどころか、結婚の終焉さえ「失敗」と呼ぶべきではないのです。つぎつぎと新しくて良い恋愛をする、という生き方こそが正しい。◇ちなみに、子育てのシステムは、結婚や核家族という単位とは切り離して、あらたに構築し直さなければなりません。そこにもマッチングの技術が必要です。子供にとって、実母や実父が理想的な親とは限らないのだから、子供と育ての大人たちとのマッチング、子供と成育環境とのマッチングを図るべきです。そして、それは、子供の将来的な職業適性と、教育とのマッチングを踏まえたものであるのが望ましい。マッチンシステムの発展は、たんに消費社会の効率化というだけでなく、家族や共同体の再構成というところまでを、視野に入れるものでなければなりません。
2020.12.11
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