全209件 (209件中 101-150件目)
いわゆる「木村花さん問題」が議論を呼んでいます。今までにもSNSによるいじめが原因で、子供が自殺するなどの問題はありましたが、有名人の事件になったことで、いっそう顕在化した印象です。◇ただし、今の議論は、「表現の自由」の規制へ向かっているように見える。政府がその方向に動くとしたら、それは間違いです。問題の所在を取り違えています。ここで問題にすべきなのは、「意見表明」と「誹謗中傷」との新たな線引きではないし、「批判」と「ヘイト」との新たな線引きでもありません。たんに従来どおり、「脅迫」「プライバシー侵害」「名誉毀損」「業務妨害」などを違法とすれば十分です。◇では、問題は何なのか。それはもっぱらSNSの設計上の問題です。掲示板やTwitterのように、他人の尻馬に乗るような有象無象の書き込みによって、いわゆる「炎上」を増幅させるようなSNSのシステムこそが元凶です。自分の持ち場では何も言えない人間にかぎって、群衆に紛れるような場ではワイワイと騒ぎ立てるものです。公園を荒らしたり落書したりするのと同様の心理であり、自分の姿が見えない場所でのみ暴力性が解き放たれてしまう。そういう群集心理を煽るようなSNSの設計こそが問題です。◇わたしも匿名でこのブログをやっています。しかし、ブログ内で「意見表明」や「批判」をしている限り、それが不特定多数の人々に無闇に増幅されることはありません。ところが、Twitterなどに連動してしまえば、その限りではなくなる。さらに、このブログではコメント欄を「書き込み不可」にしていますが、これをいったん「書き込み可」にしてしまうと、やはり他人の尻馬に乗るような有象無象が集まって炎上が始まります。「炎上」というのは、同一の空気だけが覆い尽くすような排他的な空間なので、むしろ「批判」や「批評」が機能しなくなってしまうのです。つまり、それは究極の付和雷同であり、そこにこそ最大の危険がある。これは、多分にシステムの問題であり、SNSの設計上の問題です。おそらく、子供のいじめのケースも考え合わせると、LINEなどにも排他的な集団性を形成させる側面があるはずです。IT企業は、サービスを開始する前に、それが「炎上」を生み出すシステムであるか否かを、あらかじめシミュレーションしておく社会的責任があります。◇しかし、これはメディアに限った話ではありません。たとえば、学校の教室やクラブ活動の中にも、同様の構造はあるはずなのだし、もちろん会社組織の中にも、そういう構造があるはずです。ヴァーチャルな世界にも、リアルな世界にも、同様の構造があると考えるべきです。排他的な集団性を形成させるシステムとはいったい何なのか。それをしっかりと研究したうえで、社会から除去していくべきなのだし、「批判」や「批評」がまともに機能する空間を取り戻さねばなりません。コロナ渦に置かれているこの機会に、いっそのこと社会全体を設計し直していくべきなのです。
2020.05.30
神奈川や北海道の感染がまだ十分に収束していないのに、なぜ緊急事態の解除を急いだのかといえば、それは政権側が検察スキャンダルや支持率低下に焦っているからです。矢継ぎ早に疑似ニュースを投下する必要に迫られている。NHKの岩田明子を中心とする報道部もこれに同調して、経済活動の再開ムードをやたらと盛り上げているようです。これでもし感染の第2波が来てしまったら、政権とNHKはどうやって責任を取るのかと言いたいところだけど、じつは、そこにこそ政権側の安易な思惑があるのであって、むしろ感染第2波と再度の自粛騒動が起これば、それによって政権スキャンダルと支持率低下がリセットされる。彼らにとっては、そのほうが好都合だというわけです。そのためなら年寄りが死んだって構わない。そういうところまで、政権はなりふり構わぬ姿勢を見せてきている。ある意味では、トランプ政権が「悪しき模範」になっているのですね。しかし、これはやはり根本的に断末魔なのだと言わなければなりません。日米ともに、バカげた「その場しのぎ」が崩壊する時期はすぐそこまで迫っています。いまや権力を維持する目的が本末転倒になっていることを、彼ら自身がいちばんよく分かっているはずです。
2020.05.26
今回の検察スキャンダルは、森友の自殺問題を継続的に報じてきた文春の、長期的なプランにもとづくスクープだったのか、それとも、たまたま拾っただけのスクープだったのか。まだまだよく見えません。文春は、この先の展開を用意しているのでしょうか?◇現在の報道を見るかぎり、黒川氏の行動は、あまりにもバカすぎて、かえって不可解なのですよねえ。いくらマスコミを飼い慣らすためだとはいえ、自分も一緒になって違法行為に興じるのでは、自殺行為にもほどがあるわけだし、産経の記者と昵懇なのはともかくとして、朝日の記者まで一緒だったらしいし、しかも、それが、自分自身が定年延長問題の渦中にある最中であり、さらに全国民が自粛している最中の「三密マージャン」であり、もっと細かい話でいうならば、IR汚職事件を追っていた張本人の賭博だったというのだから、もはや「ギャグなんじゃないの?」とさえ勘繰ってしまう。自分のスキャンダルを気前よく提供してるとしか思えない。かりに朝日がスクープしなくても、朝日の記者が別メディアにリークする危険だってあるわけでしょう。◇ただ、実際のところは、朝日じゃなくて、産経のほうから情報が漏れたようですが、それもまた不可解です。わたしたちは、産経が「右」で、朝日が「左」だと思い込んでいるし、たしかに会社としてはそうなのだろうけど、じつは、それぞれの記者は「個人」として動いているのかもしれません。産経の記者も、自社で掲載できない記事を文春あたりに売ってるのかもしれないし、朝日の記者も、自社のイデオロギーとは裏腹に、ネタを得るためなら政権とズブズブになるのかもしれない。◇政権をチェックするのが検察の役割です。では、検察をチェックするのはどこなのか?まあ、ひとつはマスコミですよね。しかし、安倍政権の「お友達ネットワーク」は、検察からマスコミまでを広く押さえていたのだと思います。実際、今回の検察スキャンダルでも、NHKなどは、まだまだ政権側への配慮を見せていて、この問題のニュースバリューを引き下げることに協力しています。たとえば昨夜のNHKの7時のニュースでは、この問題を4番目くらいの話題として10分ほど報じただけです。いまや民放各社が大々的に報じているのだから、もはやどうしようもないのだけど、NHKはいまだに、この問題が国民の目に触れにくいように配慮しています。もちろん文春だってタイミングを計っているのだから、政権の側だって負けじとタイミングを計りつつ、不都合なニュースをかき消すための話題を投下してくるわけだし、NHKもそれに同調したりするわけですけど、それは、もっぱら政権の「保身」のためであって、そこでは国民の利益はないがしろにされています。◇ただし、あらゆる分野の隅々にまで広がってしまった、いわゆる安倍政権の「お友達ネットワーク」が、いよいよ崩壊しつつある雰囲気も感じられるのですよね。いわゆる「お友達ネットワーク」というのは、自分の仲間うちにだけ分け前を配るマフィア的な構造のことですが、そうやって分け前に群らがってくる連中というのは、ひとたび分け前が見込めないと見た途端、平然と裏切って去っていくような連中でもあるわけです。そういうことが起こりはじめてるのかもしれません。そして、この「お友達ネットワーク」が瓦解した先には、いよいよ森友や加計などの問題が明らかになるのでしょうか?◇わたしは、安倍政権と森友の癒着が、昭恵さんの単独プレーによるものだったなどという説を、まったく信じていません。日本会議のメンバーである籠池氏の学校のことを、安倍晋三や麻生太郎が知らないわけはないのですから、昭恵さんは、たんに指示されて動いていただけでしょう。だからこそ、昭恵さんがホントのこと喋りはじめるのが、彼らにとっては非常に都合が悪いわけですよね。ここには、安倍家のプライベートな問題もふくめて、いろんな利害が絡み合ってるだろうけど、こと森友問題にかんして言えば、やはり「人がひとり死んでいる」ということの重みは大きいと思う。もしも、これを放置し続けるようなら、日本はほんとうに無法なマフィア社会に堕ちていってしまうのですね。ですから、いずれこれは明らかにしなければならない問題なのだし、安倍家の人たちが墓場まで持って行けるような話ではない。そして、それが明らかになるということは、必然的に、安倍政権と、その「お友達ネットワーク」の全体が終了することを意味するのです。
2020.05.22
トランプ大統領がWHOへの拠出金を止めるというのは、たんなる「脅し」かもしれませんが、どっちにしても、彼の国連に対する敵対姿勢は今後も変わらないでしょう。その一方で、中国は、財政的な支援もふくめて、国連への関与をさらに強めていくでしょうから、国際社会における発言力はいっそう強まるはずです。はたしてトランプは再選できるでしょうか?わたしは敗色が濃厚になってきたと感じます。彼の「Great Again」という公約は逆の結果を招きました。米国こそが、世界でもっとも脆弱な社会になっている。コロナショックをとおして、その実態を海外に晒してしまった。米国は、いずれにしても、国際協調路線へと揺り戻す必要に迫られるはずです。ただし、たんに「元に戻る」ということでは済まされない。今後の国際社会においては、極大化した格差を是正するための抜本的な枠組みが必要になります。国内的にも、国際的にも、格差こそが安全保障上の最大のリスクであることが明白になった。おそらくは、米国を中心とする累進課税の枠組みが必要なのだろうと思う。それが利益還元と再分配によって格差を是正するための、もっとも常識的かつ有効な対策です。米国国内の格差だけでなく、国際的な格差をも是正して、世界規模の社会保障の体制を築いていかなければならない。そうしなければ、もはや人類社会を安定的に運営できません。ちなみに累進課税制は一国だけでは成立しません。とりわけ企業の活動は国境を超えているからです。その枠組みには、すべての国を組み込まなければならないし、そこに参加することが各国の利益にもならなければならない。それが「コロナ以後」の世界になっていくだろうと思います。
2020.04.17
すでに中国では感染のピークを過ぎたといわれる一方、中国当局の発表は信じられないとする見方も依然くすぶっている。もっとも、政府の発表を額面どおりに信用できないというのは、日本であれ、米国であれ、もはや大差ないことともいえます。◇ただ、日本に住んでいる実感としていえることは、中国からウィルスが入ってきていた時点では、まだしも感染を制御することはできていた、ってこと。東京や大阪、あるいは北海道や沖縄にも、中国からの旅行者は沢山いたはずなのに、彼らの存在は、日本での市中感染の原因にはならなかった。ところが、ひとたび欧米で感染が爆発しはじめると、日本でも、あっという間に、とりわけ東京において市中感染がはじまりました。このことは何を意味しているのでしょう?なぜ中国経由のウィルスは制御できていたのに、欧米を経由したウィルスは制御ができなくなったのか?欧米人の体内を生き抜いたウィルスは、遺伝子的に感染力が強まったとでも言うのでしょうか?それとも、中国以上に、米国こそが感染初期の状況を隠蔽していたせいでしょうか?◇ひとつ考えられるのは、そもそも日本の「水際対策」が、中国をはじめとするアジア人に厳しく、欧米人一般に対して甘かった、という可能性です。空港の検疫官ひとりひとりが、貧相なアジア人に対して侮蔑的である一方、富裕な欧米人に対しては卑屈だったのではないか。同時に、アジアからの帰国者には厳しく、欧米からの帰国者には甘かったのではないか。そこにも、無意識のうちに、「国家の力関係」が反映されていたのではないでしょうか?※その意味では、ダイアモンド・プリンセスの船内も「欧米」だったかもしれません。日本人は、とかく中国や韓国に疑念をもつ反面、欧米を無条件に信頼するという盲目的な態度を取りがちですが、かりに、その結果が、現在の東京の混乱に繋がったとすれば、愚かというほかはない。事実、いまだにコロナウィルスを「中国の病気」とする観念が日本には根強く、その必然的な結果として、米国(しかもニューヨーク)こそが最大の病巣であるという現実に対して、真摯に目を向けようとしていないのです。いわば、現実を見ずにイデオロギーに固執している。こうした態度が、亡国をくりかえし招いてきたのは、歴史の教訓だったはずです。◇わたしが思うに、コロナウィルスの感染を拡大させている最大の要因は、自由主義国家の都市部における「密集」と「格差」です。その意味でいえば、近代都市こそがもっとも感染に弱いのではないでしょうか?現実を見ずに、信じたいものだけを信じようとする愚かさは、破滅を招くだけです。
2020.04.10
ちょっと前までは、引きこもりの人間をむりやり外に連れ出して、わざわざ夜型人間を昼型人間に矯正させることが、いわゆる「社会性」を身につけさせるために必要なことだ、と信じられていましたね。つまり、他人と協調して快活に生活できるような、そんな体育会的な人間像こそが「模範的」と信じられていたのです。外に出て、昼に活動し、多くの他人と接するような生活態度こそが、真に「社会的」であり「正常な姿」だと考えられていたのですね。しかし、考えてみれば、わざわざ満員電車にのせて朝礼に参加させるなどというのは、いかにも無意味で馬鹿げたアナクロニズムなのだし、たんなる暴力的な強制だったと言ってもいい。むしろ、日本社会に多くの引きこもりが存在しているのならば、その引きこもりの人たちを、引きこもりのままに活用していくほうが、はるかに合理的なのです。もともと体育会系の脳筋バカなんぞよりも、引きこもり人間のほうが、はるかに知的で創造性が高いのだから。もとはといえば、大学のような高等教育の現場で、わざわざ「体育会系の人材」を育てるという発想じたいが、大きな本末転倒であり、大きな過りだったわけですね。労働者を育成するのは、あくまでも小中学校の義務教育の役割です。大学が「体育会系の企業奴隷」なんぞを育てていたら、いずれ国家が滅んでいくに決まっている。シリコンバレーはおろか、中国にすら太刀打ちできません。本来、大学とは、創造的な起業家を育成すべき場所です。◇テレワークやオンライン学習が普及するにつれて、やがて引きこもりのほうが社会のデフォルトになっていきます。こうした引きこもりの人々の仕事を、オンライン上で自在に取引できるような、公共的なプラットフォームを国内に構築することができれば、そこに海外の秀れた人材を引き込むことにもなるでしょうし、それ自体が、大きな産業に発展する可能性があります。こうしたプラットフォームは、日本の風土にこそ適している。もともと日本の引きこもりの中には、いわゆる同人としてコミケなどで活動してきたような、作家、詩人、音楽家、漫画家、アニメーターなどが大量に存在しています。そうした人々は、潜在的に何がしかのプラットフォームを必要としている。ソフトパワーは有り余るほど国内に潜在しているのに、それを産業化していくためのハードインフラが決定的に欠如しているのです。その際に「引きこもり=お一人様」という観念は捨てるべきです。オンライン上のプラットフォームを介せば、引きこもりの人々は、じつはたがいに協働することができるからです。たとえば引きこもりの音楽家は、ひとりで作品をつくるのではなく、作曲家と作詞家と演奏者の分担によって作品を共作できるのです。プラットフォームとは、たんに需要と供給を結びつける場であるのみならず、協働する個々人を結びつける場でもあるということです。◇引きこもりの人々をわざわざ外へ連れ出すのではなく、そのソフトパワーを産業化していくためのシステム作りこそが急がれています。
2020.04.02
東京人って、どうしてみんな同時に動こうとするんでしょうね。同時に出勤して、同時に休んで、同時にイベントに行って、同時に買い物しようとする。流れに乗り遅れまいとする脅迫観念でしょうか?みんなが動くときに自分も動かないと気が済まない?わざわざ今、人混みのなかで買い物しなくとも、べつに流通がストップするわけじゃないんだから、店がすいたときにゆっくり買い物すればいいのでは?リスク回避のために大事なのは、「集合」でなく「分散」ですよね。みんなが同時に動くことが、もっとも危険なのだから。◇「同時に動く」という東京人の習性は、一方では、ファッションなどの流行を生み出す力でもあるけれど、もう一方では、病気の流行を生み出す力にもなりうるということです。あやかり根性?群れたがり根性?長いものに巻かれ根性?みんなで渡れば怖くない根性?そういう行動様式じたいが感染拡大のリスクになってます。
2020.03.26
中国の「初動」にも問題があったし、日本の「水際」にも問題があったし、韓国の「規制」にも問題があったけれど、それ以上に、いまやヨーロッパの問題のほうが深刻です。ヒト・モノ・カネが自由に往来する陸続きの世界では、そもそも「水際」などという概念は無いに等しい。そして、それ以上に問題なのは、インフラとか医療体制とかじゃなくて、ヨーロッパ人の「生活」や「考え方」のあり方なのですね。あるいは「国民性」とか「民族性」と言い換えてもいい。彼らの文化に根差した習慣こそが根深い問題になっています。準備期間があったにもかかわらず初動に失敗しているのは、おそらく、そのためだろうと思います。◇そもそも、ヨーロッパ人はマスクをしません。ヨーロッパの人たちから見ると、日本や韓国や中国の人たちがマスクをする様子は、かなり不気味に見えるのだそうです。まあ、日本人だって、一昔前までは今ほどマスクをしていませんでした。ここ10~20年のあいだにマスクの着用が習慣化したのですね。韓国や中国も事情は同じだろうと思います。当初は、わたし自身でさえ、マスクをして歩く集団が異様に見えたものです。まるで過激派の人たちが市街をウロウロしてるようだった。でも、いつしか慣れてしまったのですね。ヨーロッパ人はマスクをしないだけでなく、握手はやめようと言いながら握手してるし(オランダ)、ハグもするし、キスもする。よく喋るし、よく笑うし、酒を飲んでは大声で歌う。男女がかわるがわる手と取り合って踊る。これじゃあ、感染を防ぎようがありません。よくいえば「コミュニケーションが豊か」なのだけれど、そのこと自体が最大のリスクになっています。性病がセックスで広まるのと同じように、感冒はコミュニケーションによって広まるからです。◇誤解をおそれずにいえば、ヨーロッパの「自由主義」が感染を広げています。中国や北朝鮮はもちろん、韓国や日本もふくむ東アジアの国々は自由を抑圧するのが非常に得意です。それは上からの抑圧や外からの抑圧というよりも、多くの場合は、むしろ自主的な抑圧(=自粛)です。東日本大震災のときにも、「慎ましい」「秩序だっている」「規律を守っている」などと称賛されましたが、何のことはない、みんなが自分自身を抑圧していたのです。これに対して、ヨーロッパの人たちは、けっして自分を抑圧しません。むしろ自分自身を積極的に表現しようとします。でも、そのことが現実的な脅威を大きくしている。そのうえ、地中海性気候だから空気も乾燥してる。べつに習近平のイデオロギーに加担するわけじゃないけど、現実問題として、新型コロナはまちがいなく、「中国の病気」じゃなく「ヨーロッパの病気」になっていきます。◇「自由の理念を捨てろ」とまではいわないけれど、とりあえずの現実問題として、ヨーロッパの人たちは、東アジアから何かを学んだほうがいい。理念と現実を区別する知恵が必要になります。
2020.03.16
かつて石原慎太郎にだまされて、尖閣諸島のために大金を寄付しちゃった人たちがいましたっけ。もしかしたら、オリンピックのチケットも買っちゃいましたか?こんどは返金されるといいですね。◇まあ、気前のいいネトウヨ中高年の人たちは、天下国家に貢ぐお金も有り余ってるのだし、寄付金やチケット代ごときでギャアギャア言わないはず。かつて大本営発表を信じて戦争に突き進んだのも、安倍のお友達と聞いてジャパンライフに投資しちゃったのも、親方日の丸を「信じたい」という気持ちこそがそうさせている。それって、一種のネトウヨ商法ともいえるけれど、ある意味じゃ、騙されることに喜びがあるのだろうとも思う。それは否定しがたい事実じゃないでしょうか?◇石原慎太郎にかんしていえば、かつて福島で「原発安全神話」を作った前科もあるけれど、いずれにしたって、彼を都知事に選んだのはあなたたちなのだし、オリンピックを呼んだのもあなたたちなのだし、チケットを買ったのもあなたたちなのだから、ほかの誰の責任でもないと思います。いっそ「夢を買ったでしょ」と気分よく騙されてしまえばいい。後になって「名古屋市政の祟り」だとか、意味わからないことを口走ってみてもしょうがない。◇かりにオリンピックがなくなって、高額なチケットが紙屑になったとしても、また半世紀後のお楽しみと思えばいいのではないでしょうか?ちなみに石原家は、あなたたちのおかげで十分潤ってると思いますよ。
2020.03.14
愛知県に住む50代の男が、「コロナウイルスをばらまいてやる」といってフィリピンパブなどをはしごしたそうです。この男の行動を見たとき、わたしは「何かに似ている」と思ったのですが、それはオス犬が縄張りのために糞尿を撒き散らす習性です。糞尿や唾痰など、自分の菌にまみれた汚物をあたりに撒き散らして、個体のテリトリーを広げようとする動物まがいの行動。そういうことをする人間は周囲にもいるし、けっして少なくはありません。◇50代といえば、ちょうどバブル世代。じつは、こうしたオス犬に似た行動は、かつて日本でおこなわれた途上国への売春旅行にも見られますし、近年の会社内におけるパワハラやセクハラにも見られます。つまり、あえて醜悪なものを撒き散らしたり、周囲の人々を不快にさせる言動をすることによって、自分の威力や存在を誇示して、テリトリーを拡大しようとするオス犬じみた習性なのです。わたしは以前から、「クラッシャー上司」と「スーパースプレッダー」は似ている、と感じていましたが、それも同じ理由から説明できると思っています。◇今回のコロナばらまき男に対して、飲食店側は、消毒や休業を強いられた「威力業務妨害」の容疑で、接触させられた従業員は、感染を強いられた「傷害」の容疑で訴えることになります。こうした習性を脱しない人々は、社会にとって非常に厄介な存在なのです。
2020.03.10
コロナウィルスの影響で、日本では一斉休校になっていますが、かならずしも中国は、そうではありません。すでに中国では、インターネットを介した端末教育が整備されていて、もはや学校に行かなくても授業が受けられる。端末学習・端末教育は、多くの点で従来の教育システムより優れていると言われてきたものの、なぜか日本では、いっこうに導入が進んでいません。政府は、民間のシステム開発を後押ししないし、まして、それを公教育の現場に導入しようともしない。いわゆる教育利権にしがみつく大人たちの保身のために、次世代を担う子供たちが犠牲にされているからです。一般的に、アジアやアフリカなどの途上国であるほど、最新のインフラを一足飛びに導入する傾向があり、先進国であるほど、かえって旧来的なシステムに足を引っ張られる。日本は、ゲーム産業などの開発力とコンテンツ力がありながら、そのアドバンテージを教育分野にまったく活かせていません。ここにも日本の国家的な「滅び」の予兆が見えてくる。問題は、医療体制の遅れだけではないのです。◇オンライン学習には多くの利点がある。教室での授業よりも、端末による動画教育などのほうが、誰もが等しく質の高い選りすぐりの授業を受けられる。教師によるバラつきがなく、地域的な格差も、経済的な格差も生まれにくい。不登校児や障害児にもハンデが少ない。理解の早い生徒はどんどん進むことができるし、理解の遅い生徒は理解ができるまで繰り返し反復して学べる。端末によるテストもはるかに効率がよく、自分の発達の度合いをすぐに数値化して把握できるし、身につくまで何度でも同じテストを再チャレンジできます。目的に応じて、幅広い分野をバランスよく学ぶことも出来るし、得意分野を優先的に伸ばしていくことも出来る。分野別・習熟度別にまとまったクラスも編成できる。硬直した枠組みに縛られず、よりフレキシブルな運用ができるのです。◇いじめの問題、教師の過労問題、感染症の問題などを克服する上でも、オンライン教育はあきらかに有効な選択肢です。あらゆる教育と学習を端末だけに頼ることはできませんが、国家的に教育インフラの整備が立ち遅れている現状は、いずれ将来における致命的欠陥になるでしょう。
2020.03.05
WHOなどの機関がくりかえし訴えているように、マスクは「予防するため」のものではなく、保菌者が「他人に感染させないため」のものです。マスクを必死で買い占めている人間は、おそらく予防目的のつもりでいるのでしょうが、どうせマスクをしたって予防になどならないのですから、勝手にやらせておけばいいのです。加藤浩次などは、老人に優先的にマスクを配布すべきと言ってますが、それも微妙にまちがっています。若者こそが「隠れ保菌者」になりやすいのだから、その意味でいえば、症状のない若者こそマスクをすべきです。現時点でいえば、北海道などに優先的にマスクを配布する政策こそが正しい。感染者が多い地域でこそ、老若男女を問わずマスクを励行させる必要があるからです。誰が感染しているか分からないのだから。◇原理的にいうならば、いちばんマスクをすべきなのは「喋る人」です。喋らない人は、原理的にマスクをする必要はないし、予防したいだけなら、外出した際にひたすら手を洗えばよいのだし、そもそも屋内で人と接触すること自体を避ければいいのです。◇国会中継を見ていると、黙っている人がマスクをして、喋っている人がマスクを外している。…これではあべこべです。本来は、喋る人こそがマスクをしなければならない。テレビ局のスタジオでも、カメラや音声などのスタッフがマスクをしているのに、カメラの前で喋る人たちはマスクをしていない。教室でも、生徒たちがマスクをしているのに、教壇で喋っている教師がマスクをしていない。とある学校では、せっかく子供たちがマスクをつけて登校しているのに、なぜか歌を歌うときにだけマスクを外させていました。教師にすら、そんな馬鹿者がいるのです。密閉された教室のなかで、全員がマスクをはずして歌を歌ったら、それこそ韓国の新興宗教団体と同じような結果を招きます。いちばん危険な行為をやらせている。喋るときにこそマスクをしなければ意味がないし、歌うときにこそマスクをしなければ意味がありません。とりわけ喋ることを職業とする人々、すなわち、議員や、教師や、店員や、配達員は、責任をもってマスクをすべきです。◇せっかくマスクをしているのに、喋るときだけわざわざマスクをはずす(ずらす)馬鹿者がいます。マスクをしたまま喋るのが失礼とでも思っているのでしょうか??マスクをはずして喋ることのほうが、よっぽど失礼です。「俺のウィルスを浴びてくれ」と言っているようなものですから。さらにいえば、「俺は健康だからマスクなど必要ない」などと威勢をはって動き回っている勘違い人間も少なくない。そのような人こそが、じつは気づかぬうちにウィルスを撒き散らすのですから、いちばん優先的にマスクをさせなければなりません。◇感染者の多い地域や、人と喋ることの多い業種の人々には、自治体がマスクを買い上げてでも、優先的に配布・着用させるべきです。その一方、ドラッグストアなどの小売店では、むしろ販売制限をしたほうがいいのだし、買い占める人間が後を絶たないのなら、彼らがいちばん損をするように大幅に値上げしてやればいい。
2020.03.03
新型コロナを機に「テレワーク搾取」が加速しています。テレワークは「時間労働」の概念を破壊しますので、給与設定は、成果報酬や能力報酬のほうにシフトし、その結果、時間あたりの労働単価が際限なく安くなり、ほとんどの場合、労働者は不利な条件を強いられて、安い長時間労働を搾取される結果になります。テレワークが多くの労働者にとって不利になるのは、そもそも基本的収入が保障されていないからです。生存権を脅かされた状況では、不利な条件を受け入れてでも働かざるを得なくなる。テレワークを推進するためには、労働者の基本的収入を法的・社会的に保障する必要があります。国家が基本的人権(basic human rights)を保障するためには、まずは国民の基本的収入(basic income)を保障することが大前提なのです。金融資本社会が貧富の格差を極限的に広げていくのは、いまや誰の目にも明らかで否定しようのない真実です。そのうえにテレワークが拡大すれば、低賃金で長時間労働を搾取される人々が増え、そこから富を得る人々との格差がさらに極大化していく。そうなると、個々人の生活のみならず、国家や社会を維持させる条件そのものが崩壊してしまうでしょう。たしかにテレワークには利点もあります。労働が、空間と時間の制約から解放されるからです。社会も、企業も、個人も、通勤のための時間的あるいは経済的なコストを抑えられるし、インフラや職場環境のための設備投資をも抑制できる。それは、地球資源の保護、二酸化炭素・廃棄物削減の対策でもあり、都市部への一局集中や、地方の過疎化への対策でもあり、有効な感染症対策でもある。また、個人は、これまで職場で強いられてきた、ヒエラルキーをともなう「人間関係」、個性や身体性を抑圧するような「身だしなみ」、精神と身体の限界を超えるような「体調管理」など、過剰かつ不必要な負担から解放されるので、より労働そのものに集中して、生産性の向上にも努められる。生産効率が上がれば、資本家にとっては事業の選択肢が増えるので、産業が活性化し、さらに社会的進歩を促すことになる。個人にとっては、余暇、恋愛、子育て、介護などの余裕と選択肢が増えるので、文化が育成され、ひとつの少子高齢化対策にもなる。ただし、そうしたメリットは、あくまで個々人の基本的収入が保障される前提でのことです。それがなければ、そもそも国家は、国民の基本的人権すら保障できないのです。
2020.03.01
コロナウィルスへの対策として、政府は「軽症患者は自宅待機」という方針を出しました。軽症の感染者は「もう病院に来るな」ということです。病院内でのむやみな感染を防ぐには仕方ありませんが、自宅待機によって家庭内感染を野放しにする面もある。そもそも日本の医療現場には、すべての検査をおこなうだけのキャパシティがなく、まして入院させるだけのキャパシティなどなく、そもそも治療する能力もないのですね。そして、いちばん問題なのは、じつは重症患者でさえ受け入れられる施設が少ないこと。「日本の医療は世界最高レベル」などという神話もありましたが、もはや、そんなものは信じないほうがいい。しょせんは医師会と自民党政権が吹聴したホラ話にすぎません。実際は、先進国で最低レベルなのかもしれませんよね。いまや韓国以下になっているという話さえある。自画自賛するだけがお得意の馬鹿な国民は気づいていませんが、さまざまな項目のランキングにおいて、日本の評価は軒並み最低レベルにまで下がっていますから、あながち医療だけが例外だとは思えません。日本の病院は、危険の少ない患者に対しては、やれ「検査しましょう」だの、やれ「治療しましょう」だの、やれ「手術しましょう」だのと勧めてきますが、ほんとうの意味で危機的な患者に対しては、じつは検査もしたくないし、治療もしたくないし、そもそも病院にすら来てほしくないのです。つまるところ、日本の病院とは、ただ不安をあおって検査費を稼ぐだけの機関にすぎません。しかし、このような体質は、なにも病院にかぎったことではありません。いまや日本社会全体に蔓延した体質だといえます。安倍政権の場合も、ふだんから脅威をあおっては法整備の議論を繰り返し、さも「万全の対策」を取っているように繕うのが得意ですが、いざ実際に危機が起こってみると、毎度のように「想定外」だとばかり繰り返している。いわばオオカミ少年のような国家なのです。ふだんから物事を「嘘」「隠蔽」「取り繕い」でやりすごし、対面だけを必死で取り繕って済ませている。そんな社会全体に蔓延してしまった不真面目さが、実際の危機に対応するだけの実力を失わせているのです。「軽症患者は自宅待機」の方針によって、正確な感染者の数を把握できなくなったことは、日本の対外的な体面を保つうえでも、政府にとっては、むしろ好都合なのでしょうね。
2020.02.26
そもそもクルーズ船を陸から隔離したのは、船内に感染者が存在する可能性があったからです。そして、船内に感染者がいる可能性があったなら、クルーズ船を陸から隔離するだけでなく、船内にいる個々人をも、互いにセパレートしなければならないし、それらの環境を医療の専門家が管理しなければならない。そうしなければ船内感染が進みます。それは、素人でも想像がつくことです。常識的に考えても、たとえば隔離病棟のなかで、病人同士が相部屋などということはありえないわけで、当然、病人同士はセパレートされるはずです。そして、それぞれの環境は医療の専門家が管理するはずです。当然、クルーズ船においても、そのように管理されているはずだ、と思われていました。ここは中国でも北朝鮮でもなく、日本なのですから。しかし、実際のクルーズ船内では、個々人はまったくセパレートされておらず、乗務員の大半は相部屋で過ごしており、あろうことか、彼らが乗客へのサービスをおこなっていました。いわば隔離施設の管理を素人にやらせていたようなものです。もともと日本政府に批判的な海外メディアは、この状況を早くから問題視していましたが、NHKをはじめとする国内メディアは、安倍政権の対応を批判することに及び腰でした。正しい実態をろくに報道しないまま、なぜか「正しく畏れましょう」などという標語だけを、意味もなく拡散させつづけたのです。そして、挙句の果てには、オペレーションにあたった厚労省の職員までが感染する始末。口先だけ「正しく畏れた結果」が、これでした。政府はいまだに、「検疫官も医療従事者も感染を予防する技術を習熟し十分に対策している」などとウソぶいていますが、実際に感染者が出てしまっているのですから世話がありません。結果的には、船内の「5人に一人」が感染するという弁解できない事態となりました。しかし、政府は性懲りもなく、「英国船籍」「米国主催」「イタリア人船長」「法的な壁」などといった弁解のパターンを並べながら、法改正の議論へと話をシフトさせようとしています。◇かりに船内のオペレーションに障害があったのなら、最初から乗員乗客を下船させて、陸上施設での隔離にすべきだったはず。結局のところ、今回の失敗は、船内の管理がずさんだったこと。オペレーションの責任者がバカだったこと。そして政府の判断が誤りだったこと。に尽きます。さらに「陰性」と診断されて下船した乗客のなかから、再度の自主検査によって「陽性」であると判明した人も出ている。国は、こうした状況を隠すために、下船した乗客の再検査そのものを渋っているようです。クルーズ船から拡散させてしまったウィルスをも、「経路の追えない感染」「市中での散発的な感染」として偽装しようとする姑息な意図が見え隠れするのです。◇近年の安倍政権では、「嘘」「隠蔽」「誤魔かし」「取り繕い」が常態化し、それによって体制が維持されるような状況になりました。今回のクルーズ船の問題でも、安倍政権は「取り繕い」によって乗り切るつもりでいるはず。中国政府の場合は、国民からの批判を必死で封じ込めているのですが、日本の場合は、むしろ国民のほうが政権に忖度して批判を控えてきた面が強い。あきらかな「嘘」「隠蔽」「取り繕い」があっても、メディアと国民は見ないフリをしてきたし、あくまで自国の政府と文化と技術力を自画自賛し続けてきた。その結果として、海外の論調と、国内の論調が、とんでもなく乖離してしまった。日本は、ほとんどガラパゴス国家になってしまったのです。しかし、感染してしまった人々とその関係者は、厚労省を相手取って告訴すべきですし、国会も、厚労省の責任者に説明させるべきでしょう。ただし、現時点では、すでに厚労省のなかにウィルスが蔓延してる可能性もあり、そのことを自体を危険視したほうがいいのかもしれませんが…。◇今後、もっとも危惧されるのは、教育現場におけるウィルスの拡散です。たとえば大学入試において、「罹患者は受験不可」「追試も認めない」と表明した学校があります。これを知った受験生は、あえてウィルス検査などしないでしょうし、かりに体調が悪くても、無理を押して受験するはずです。「多少の熱があって咳が出ても無理して受験しろ」と言っているようなものです。若年者は重症化しにくいと言われており、逆にいえば、若者ほど「隠れ保菌者」になりやすいのです。そうした若年者を一か所に集めることは、非常に危険です。ウィルスを一気に拡散させる惧れが大きい。
2020.02.25
新型肺炎ウィルスの拡散が危惧されていますが、感染のリスクがもっとも高いのは、人々の集う「会食」です。当然ですが、食事をするときは、マスクをしていませんし、おたがいに至近距離から面と向かって喋りますので、飛沫感染のリスクがもっとも高くなります。屋形船の場合も、クルーズ船の場合も、会食をとおして感染が広まった可能性が高い。反対に、スーパーでの買い物などではあまり喋りませんし、電車内でも、日本人の場合はほとんど喋りませんので、(中国人はよく喋りますが…)感染するリスクはそれほど高くないはずです。ただし、声に出してレジ打ちをする店員には、絶対にマスクの着用を義務付けるべきです。たとえ本人が発症していなくても、ひそかに保菌していれば、あらゆる客にウイルスを拡散させます。マスクは、予防のためではなく、保菌者がウィルスを撒き散らさないためのものです。とくに「喋ること」を職業とする人たちは、営業職の人はもちろん、政治家や教師やテレビの出演者もふくめて、絶対にマスクを着用すべきです。もし、声がこもって聞き取りづらいというのであれば、口から布が浮いている立体的なマスクでもいいと思います。とにかく周囲に飛沫を拡散させないことが重要です。テレビの出演者の振る舞いは影響が大きい。「マスクをして喋るのは失礼だ」「説得力が弱まる」といった固定観念や慣習は、この際、捨てなければなりません。現状において社会が何を優先すべきなのか考えねばなりません。◇いわゆるスーパー・スプレッダーとは、よく喋る人のことです。無口な人は、誰とも喋りませんが、よく喋る人ほど、ひっきりなしに誰とでも喋ります。コミュニケーションの媒介者こそがウィルスの媒介者なのです。ウィルスを拡散させないために必要なことは、すなわち、人と人とのコミュニケーションを抑制することです。マスクをせずに喋っている人や咳をする人には、絶対に近寄らないほうがいい。
2020.02.18
NHKの所ジョージの番組では、唾液からDNAを採取して、その情報を相性診断(マッチング)に使う技術が紹介されていました。◇人間の身体の情報は、唾液からも、あるいは血液からも集められるでしょうし、便のなかの腸内細菌から集めることも出来るだろうと思います。でも、わたしがいちばん注目しているのは、体液ではなく、むしろ「体表の画像」から情報を集めていく手法です。◇たぶん、そういう技術をいち早く開発するのは、インド人、もしくは中国人だろうな、と予測します。もともとアーユルヴェーダや中国医学では、顔立ちとか、体型とか、姿勢とか、体の動きとか、顔色とか、舌の色とか、脈の動きとか、お腹の張りとか、つまりは「体表の情報」から診断を下す、ということを日常的にやっている。そして、その医学的な方法論は「占い」にまで通じています。たとえば手相占いなどは、その一例です。わざわざ体液を採取しなくても、すべては外見に現れているのだ、という発想が彼らにはあります。現在なら、サーモグラフィなどの画像も診断に使えるだろうし、そういう発想と、AIの画像認識技術の親和性は、たぶん高いのです。すでに中国では、国民の顔の画像情報をビッグデータとして集積しています。このデータは、医学的な診断や処方だけでなく、個人の適性や資質を判定するためにも応用できるはずです。◇西洋医学に侵食されてしまった日本人は、身体の情報は体内から取るべきものと思い込んでいますが、その思い込みを捨てないかぎり、おそらくインド人か中国人に先を越されるだろうな、と思います。
2020.01.08
NHKの所ジョージの番組で、現代の「婚活事情」を取り上げていました。ビッグデータとAIによるマッチング技術が発展しているようです。◇この技術は、たんに恋愛や結婚だけでなく、もちろん職業とのマッチングにも応用できるわけですね。結婚とか職業とかの組み合わせを最適化していくことは、個人の幸福にとっても、社会の発展にとっても、まさに一石二鳥です。教育にかんしても、個々人の適性や資質を重視すべき時代になってるから、やはりマッチングは大切な要件になります。すべての子供を一律に教育するのが果たして正しいのか、その実効性をあらためて検証したほうがいい。それは、大人の人材育成の場合も同じですよね。◇わたし個人としては、自分が、より快適に健康に生活できるような、身体と「食事」や「医薬」とのマッチング、さらに「環境」や「住居」とのマッチング、そういうことに期待します。あるいは運動療法とのマッチング。食事と運動療法だけで、たいていの人は健康になれる気がする。とにかく、近い将来のAIは、主治医のように処方しはじめるのでしょうし、占い師のように人生の進路の助言をはじめるのでしょう。◇マッチングの技術が発展すると、人間の幸福の追求モデルは大きく変わります。「競争」とはまったく違った原理で、幸福を追求するようになる。かつては、他人に勝利するような優越感や、ギャンブルに勝つような満足感が、「幸福」と同義であるかのように見なされましたが、これからは、1つの幸福を多数の人々で取り合うのではなく、10人いたら10通りの異なる幸福を追求するようになる。この変化は大きいと思います。ルネ・ジラールが言うように、人間が他人の欲望を模倣せざるを得ないのは、そもそも自分が何を欲望すべきかを人間が知らないからです。人間は、けっして自由に欲望しているわけではありません。つねに他人の欲望やコマーシャリズムに惑わされてきたのだし、いわゆる自己承認欲求も、そうした模倣の一種だといえます。社会的な美男美女の基準が画一的になるのも、模倣の結果ですね。マッチングの技術によって、そうした状況は大きく変わります。◇マッチングの技術は、社会全体が「最適化」していくための根幹をなすもので、公益性が高い。むしろ民間企業よりも、自治体などが婚活のためにAIを導入したりするのは、とても善いことじゃないかと思います。そのほうが信頼性もある。ただし、脳科学者の澤口俊之は、AIのマッチングの精度は「せいぜい10%」と言ってました。精度については、たえず検証して公表していく仕組みが必要でしょう。
2019.12.27
旧農林次官が息子を殺した事件。世間には「他人事ではない」という気分が広がっています。しかし、これは、まずはトップ官僚の起こした事件として見なければなりません。◇テレビのワイドショーでは、「もっと周りに相談すべきだったのでは?」とか、「公的サービスにも頼るべきだったのでは?」とか、いかにも後付けのコメントがなされています。しかし、そもそも、かつて行政のトップだった人間にむかって、市井の人間が「公的サービスの利用」を勧めている状況が滑稽なのです。なぜ高級官僚だった人間が、そのような初歩的な対策すら取れなかったのでしょうか?農林水産官僚だから、それ以外の分野に疎かったのでしょうか?もしも法務官僚や厚生官僚なら、もっとマシな対応が出来たのでしょうか?そこにも「縦割り」の弊害が出ていたのでしょうか?◇要するに、現行の日本の公的サービスは、トップ官僚だった人間でさえ利用しづらい代物なのだと思います。もしかすると、それがまったく無意味なシステムであることを一般国民以上に熟知していたのかもしれません。官僚自身が、国のシステムを信用していないとすれば、それは、医者自身が病院を信用しないのと同じことですね。◇地位もあり、情報力もあり、経済力もあり、かつて法案作成や行政運営にもたずさわった人間、国のシステムづくりの中心にいた人間でさえ、ついには殺人を犯すほど追い込まれてしまうのならば、せいぜい公的サービスにしか頼れないような一般国民に、まともな対策など取れるわけがありません。数十年も前に高齢化社会の到来を予見していながら、それに備えて作ってきたはずの日本のシステムは、実際のところ、まったくのポンコツであり、ハリボテなのではないのでしょうか?そのことを、よりによって官僚自身が証明しているのではないでしょうか?◇もしかしたら、すべてのツケを次世代に回すつもりだったのかもしれませんが、結果的には、世代が変わりきる前に、自分たちでツケを払わされている。だとすれば、それは自分たち自身が作り出した悪夢でしょう。
2019.12.18
少子高齢化をはじめとして、日本は世界最大の「課題先進国」だと言われていますが、にもかかわらず、例によって、日本の政策は前例主義から抜け出せないため、未知の課題に取り組む挑戦的な試みが出来ずにいます。しかし、もはや何らかの挑戦をしなくては、国として立ち行かなくなる時期も迫っています。◇わたしは、とりあえず少子高齢化に対応するために、乳幼児の保育と、未成年者の養護、そして老人の生活介護をすべて兼ね備えた、一体型のシステムを国主導で作るべきと思います。それは一面においては、国内企業の先端的な技術をいちはやく導入して、さらなる研究開発を促すための実験・展示場でもあります。◇子供と老人が、数十人~百人規模で同時に効率的に生活できて、たがいを分離せずに交流させながら暮らせる施設は、待機児童の問題や、虐待保護児童の問題や、不登校児の問題や、老人介護の問題や、独居老人の問題や、被災者支援の問題などを解決するための選択肢になるだけでなく、既存の保育所や養護施設や老人ホームにおける、スタッフの過重な人的負担を減らすべく、率先してAIやロボットなどの先端技術を試用する場にもなります。たとえば、調理・清掃・洗濯などの生活業務を効率化・機械化し、乳幼児の保育や老人の介護などにも、可能なかぎりAIやロボットの技術を応用する。不登校児が学校へ行かなくても、施設内の端末で自主学習できるようなソフトウェアやハードウェアを、国内ゲーム産業の蓄積も借りながら導入する。そのような一体的なシステムを、まずは国主導で構築すれば、それをどのように拡大・汎用させるかは、各自治体で、あるいは各民間で、各個人で判断すればいい。まずは予算を投じてプロトタイプを作ることが国の役割です。◇地方自治体にとっては、今までのように用途の分からないハコモノを、見境なく作りつづける悪弊を変えさせるきっかけにもなります。民間企業にとっては、明確な目的意識と需要予測をもって、実践・応用型の研究開発を進める一助になるだろうと思います。災害時住宅のありかたを変えていく可能性もある。いずれにせよ、国家的な課題に対して、官民が協働できるような、前例にしばられない取り組みが急がれます。オリンピックの狂騒は早く終わりにして、今度は、ほんとうに必要な一大事業に、本気の国家プロジェクトにとりかからなくてはなりません。
2019.12.11
あいちトリエンナーレにおける『表現の不自由展』というタイトルは、たいていの人が理解しているはずですが、「表現の自由」という憲法の理念をもじったものです。そして、法的な理解でいえば、「表現の自由」も「主張の自由」も同じことです。「表現と主張は分別すべきじゃないか」というぼんやりした議論は、せいぜいネトウヨ中高年の居酒屋談義から出てきたような話にすぎません。山崎は、そのレベルの議論を、大手紙面で展開したのです。彼は、表現とは「優しく控えめな用語」だと不可解なことも書いてますが、そもそも、法の概念に優しいもヘッタクレもありません。◇それはそうと、山崎の文章でもっとも罪深いことは、「パトロンの意に沿った芸術表現こそが正しい」という趣旨で書いていること。これはもう、完全にアウトでしょう。「表現の自由」という法理念の何たるかが、まったくなにも分かっていない。よくもまあ、読売新聞は、こんな文章にろくな校正も入れず、一面にデカデカと掲載してしまったもんです。はたして、読売新聞というメディアは、憲法の「表現の自由」という理念について、どう解釈しているのでしょう?読者に対して、はっきりと説明する必要がある。芸術表現は、パトロンの意に沿うべきものなのですか?そもそも、こんな与太話みたいな論説を英訳して世界に拡散するなど、読売新聞が、日本の大手紙としての水準に達しているのかさえ、疑義が生じるレベルです。◇ちなみに劇作家としての山崎正和は、世間の人々にむかって、「私はパトロンの意に沿った劇だけ書いてます」と表明したに等しいのですが、自分で書いてて恥ずかしくないんでしょうか??まあ、読売の犬みたいな文章ばかり書いている人ですから、そのへんの感覚が、まともなアーティストとは違うのでしょうけれど、感覚がおかしいだけでなく、一般的な教養すら欠けてるっぽい。「パトロン芸術こそが正しい」という認識は、そのくらい不可解なものです。しかも、彼は芸術的な表現について、身だしなみを整えるように相手に見せるための綺麗なものと考えてるらしい。それがまさに、芸術表現はつとめて「優しく控えめ」にすべきという意味でしょう。こういう考えは、はたして芸術一般に通用するでしょうか?今回の騒動では、一部に「スキャンダリズム」を否定する向きもあったようですが、むしろ欧米ならば、政治的な議論を喚起するようなスキャンダリズムにこそ、芸術表現としての積極的な価値と意義を見出すはずです。そうでなかったら、近現代のアートなど、まともに存在しえない。◇あいちトリエンナーレの展示会は、公共のイベントであり、納税者の主催によるものといえますが、はたして、山崎が言うように、「芸術表現はパトロンの意に沿うべき」という考えが正しいのかどうか、そのことが問われています。
2019.12.07
山崎正和が、読売新聞にバカな論説を書いています。「表現」と「主張」を分離すべきだという神学論争なのですが、山崎によれば、近代の印象派や分離派あたりを境にして、それ以前は、芸術的な「表現」が主流だったけれど、それ以降は、芸術的な「主張」が主流になった、とのことです。言いかえれば、近代以前のパトロン(権力者)の理念を体現したのが「表現」であり、近代以降のマーケット(市民)の理念を体現したのが「主張」だってことです。◇山崎の分類によれば、仏教やキリスト教の理念を体現した宗教芸術や、時の支配者の権威を示した王朝芸術や、人間主義の理念を体現したルネサンス芸術あたりまでが、パトロンの意に沿っているかぎり「表現」だという話になります。一方で、民族主義や愛国主義を掲げた国民楽派の音楽や、人権主義や平等主義を掲げたプロレタリアの文学や、個人の自由を追求したロックンロールやヌーベルバーグは、大衆の啓蒙を図った「主張」だということなのでしょう。ここには、前近代的な「権力者の芸術」を正当化し、近代以降の「市民社会の芸術」を否定しようとする意図も見えます。つまり、権力側の主張は「表現」であり、市民側の表現は「主張」であるというアクロバティックな論理です。曲がりなりにも劇作家を自称する人間が、表現とは「優しく控えめな用語」などとウソぶいてるのも、かなり怪しげなものです。◇たとえ「あいちトリエンナーレ」を批判するために、急ごしらえで捏造した安直な論理だとしても、これは、かなり奇妙奇天烈な定義というほかありません。こんなものを、わざわざ英訳して、世界中に垂れ流そうとする読売新聞の気が知れない。日本人として恥ずかしいです。◇山崎は、先のような定義をしたうえで、一方的な「主張」に対しては「反論の自由」も担保すべきと述べていますが、そもそも誰一人として「反論するな」などとは言っていないのです。世界にむかって珍妙な芸術論なんぞを発信する暇があったら、山崎自身が、どこででも自由に「反論」すればいいのです。そのためには、読売新聞のようなパトロンの意向に従う必要もないのです。
2019.12.03
韓国がGSOMIAの破棄を撤回したってことで、日本の右翼は狂喜乱舞のバカ騒ぎす。さぞかし次号の『WILL』や『Hanada』には、「韓国ざまあw」「文在寅終了!」「日本は絶対屈しない」などと、バカみたいな言葉が踊り狂うことでしょう。しかし、考えてみれば、GSOMIAにかんするかぎり、韓国は何を失ったのでもなく、たんに元鞘に収まっただけです。ふりあげた拳を降ろしただけのことです。それだけのことで、日本のバカ右翼がやんやの大喜びをしてくれるのですから、これほど安上がりな外交もありません。◇◇問題は、韓国国民のほうです。彼らの多くは、本気で「GSOMIAを破棄すべし」と思っています。それは、何よりも韓国自身のためにならないわけですが、彼らもまた日本の右翼と同じくらいバカですから、もはや、そんなことはどうでもいいのでしょう。日本のバカな右翼といい、韓国のバカな国民といい、求めているのは 国益ではなく自尊心 なのですね。要するに、同じくらいバカなのです…。◇◇今回、仲裁に入ったのは米国です。今のように日本と韓国が、自尊心をめぐってバカみたいな争いをしていたら、結果的には中国や北朝鮮を利するだけという、いまさら口に出して言う必要もないほど、ごく当たり前のことを忠告せずにはいられなくなった。しかし、残念なことに、日本の右翼も、韓国の国民も、そういうことがまともに理解できないのです。バカですから。無意味な自尊心を満足させないことには気がおさまらない。国益を捨ててでも、自尊心を得ることだけに必死になる。わざわざ同盟国どうしで潰しあいをする。民主主義国家において、自国の足を引っ張るのは、このようにバカな(自称)愛国主義者にほかなりません。…まあ、バカをふくめての民主主義 ですから、仕方ないっちゃぁ仕方ないんですけど。民主主義って、そういうものですね。でも、このままバカみたいな自尊心争いを続けていたら、ほんとうに日韓がもろとも自滅して、中国につぶされるんじゃないかと危惧せざるをえません。いつだって自国の足を引っ張るのはバカな愛国主義者なのです。それは、どこの国でも同じです。
2019.11.23
奉祝曲の「Ray of Water」。「君が代」のフォーマットのなかに、山下達郎の「Ray of Hope」のコンセプトを組み込んで、かつて平原綾香に「おひさま 大切なあなたへ」を歌わせた岡田惠和が、「ジュピター」みたいな菅野よう子のメロディにのせて詞を書いています。◇しかし、ここで岡田が書いてるのは、「おひさま」の歌ではなく「雨」の歌なのですね。アマテラスの歌ではなく、ワタツミの歌です。「一滴の水が集まって大河になる」というのは、ある意味では「さざれ石の巌となりて」を言い換えたものですが、(石灰質角礫岩のことだそうです)台風19号などの水害のあとの日本では、上流の降雨が下流の「流域型洪水」をもたらす恐怖を、思い出させずにはいない内容にもなっています。これは岡田惠和のコンセプトというよりも、作曲した菅野よう子による楽曲全体のコンセプトなのですね。いまの天皇が「水」を研究していることにちなんでいる。非常に驚くべきなのは、第一章のタイトルが「海神」だったこと。まさしくアマテラスではなくワタツミなのです。天津神でなく国津神ですね。浦島太郎に出てくる竜宮城の乙姫様のお父さん。いわば竜神です。新海誠の「天気の子」に描かれた地球的な危機感のなかで、この自然の猛威を竜神の祈りで治めようとしているのでしょうか?歌ったのは「嵐」だったけど!(笑)列島の嵐を鎮めるために来年一杯で解散するわけね…。◇さて、いちばん問題なのは、やはり「君」という単語。岡田惠和が書いた歌詞を読むかぎり、一般的な二人称として用いているようです。「天皇」と解釈するには、だいぶ上から目線です(笑)。意外にも、世間では、「天皇から皇后へのメッセージ」と解釈する人が多いようです。雅子さんにむかって、天皇が「大丈夫 僕は 君の そばにいる」ってことですね(笑)。まあ、いかにもイマドキの解釈ですけど、それだけ皇室がポップカルチャーに近づいてるってことでしょうか。「Journey to Harmony」のAメロは、ちょっとR&Bテイストだったし。もちろん、たんに岡田ひとりの一存で、「君」という単語を使えるわけはないでしょうから、あくまでも内閣や宮内庁の同意を得た上でのことでしょう。逆にいうと、国の意向としては、これからは「君が代」の歌詞だって、たんなる「二人称の歌」として解釈できるのだと、そういう方向へ議論を進めたいのかもしれません。まあ、べつに、わたしはどっちでもいいんだけど、右翼の連中は納得しないだろうな(笑)。
2019.11.11
1990年代、大田昌秀が県知事となって反基地運動が高まるとともに、沖縄の文化が積極的に発信され、内外の関心が高まっていきました。1990年大田昌秀が沖縄県知事に就任。1992年首里城が再建。1995年米兵の少女暴行事件が発生。県民総決起大会。安室奈美恵「Body Feels EXIT」1997年Cocco「強く儚い者たち」1998年Kiroro「長い間」2000年沖縄サミット。「琉球王国のグスク群」が世界遺産に登録。 仲間由紀恵の主演「TRICK」2001年NHK朝ドラ「ちゅらさん」MONGOL800「小さな恋のうた」ところが、2017年以降、沖縄の状況はどんどん悪化しています。2017年大田昌秀が死去。自民党議員の今井絵理子が不倫騒動。2018年DA PUMP「U.S.A.」。辺士名一茶が「カモンベイビーアメリカ」などと歌い始める。翁長雄志が知事在任中に死去。在日アメリカ海兵隊が「U.S.A.」で踊る動画を公式Twitterに公開。辺野古埋め立て海域へ土砂投入が開始。安室奈美恵が引退。2019年首里城が焼失。何かが壊れかけています。大事な知性と理性を失った今、沖縄は、国の基地政策によって歪められ、このままヤンキーが支配する社会へ成り下がっていくのでしょうか。
2019.10.31
「御真影を燃やすなど言語道断!!」などということが、なんの根拠もなく喚かれていますけど、おそらく若い世代のなかには、「へええ!天皇の写真を燃やしたら怒られるんだァ」と不思議に感じる人たちもいることでしょう。それこそが、まともな感覚なのですね。そして、そこに、日本にも「表現の不自由」が存在する、という気づきが生まれる。◇世界には、イエス・キリストの絵を踏んづけたり、レーニンの像をぶっ倒したりすることが、いくらでもありえます。もちろん日本でも、昭和天皇の「戦争責任」の議論があり、当然ながら、その写真を燃やすことだってありうる。それはべつに、差別でもなければ、プライバシーの侵害でもなく、思想・信条の表明なのです。そして、そのような「表現の自由」こそが、憲法で保障されています。では、なぜ、天皇の写真を燃やしたらバカみたいに怒られるのか?その理由を徹底的に議論することこそが、この展示会の目的でしょう。そこには、まともな根拠があるのか??◇「表現の自由」について社会的に議論することには、きわめて公共的な意義があります。それは民間レベルだけでなく、公的な場でこそ行われるべきです。それを権力が妨害するなどありえません。それをやってしまったら、もはや中国共産党と同じです。
2019.10.12
関電と森山助役は「ウィンウィン」の関係だったと言われますが、問題なのは、そこでの「勝者」が地元のヤクザだということです。電力会社は、地元のヤクザを勝たせている。公共的な事業が、地元のヤクザと「ウィンウィン」になるという構造は、なにも福井の原発にかぎった話ではなく、たとえば国が主導する公共事業にも一般的に見られる現象です。しばしば反対運動をおこなう理性的な市民よりも、利権に飛びつくヤクザのほうに容易に繋がってしまう。その結果として、地元の代表者がヤクザなってしまう。地域が、ヤクザが幅を利かせる町に変わっていく。公共事業が、そのような構造を作り出しているのです。たとえば沖縄の場合にも、反対の意思を表明する大多数の意志は無視されて、ヤンキーの歌う「カモンベイビーアメリカ」などというフレーズが、あたかも地元の意志であるかのように伝播してしまう。国とメディアは、それを最大限に利用します。辺士名一茶というヤンキーの背後には、もちろん国との強いパイプをもった平哲夫という、モノホンのヤクザがいるわけですが、それは表からは見えません。ただただヤンキー的な風潮だけが無意味に広まり、それが利権とともに地域を侵食していくのです。しかし、そうしたヤクザたちは、その後の地域がどうなっていこうと責任を負いません。かりに基地や原発の事故によって地域が死んだとしても、そんなことはヤクザにとって知ったことではないのです。こうした構造を変えないかぎり、公共的な事業によって破壊される地域は今後も生まれていくはずです。
2019.10.03
千葉災害。国と、東電と、その御用メディアは、県知事を矢面に立たせたり、人寄せパンダの小泉ジュニアを動かしたりして、自分たちへ批判を必死にかわし続けています。しかしながら、今回のような、電柱と鉄塔と杉林の大量倒壊の責任がどこにあるかは、誰の目にも明らかです。そのことが今回のような「人災」をもたらしています。国の主たる関心は、いまだに自衛隊と業界を連動させた「復興利権」にあり、とりわけ一般の居住地域の防災対策は皆無に近いものがあります。◇なぜ霞が関の省庁が住宅地域の防災に無関心なのか。それは、そもそも国の関心が、「被災」を前提とした「復興」によって経済を回すことだからです。この構造は、戦争によって経済を回そうとする米国の構造に似ています。これは、かなり意図的なものです。日本の場合も、米国の場合も、政府の関心は、国民にではなく、業界に向いているのです。◇日本政府は臆面もなく「災害先進国」を自称しています。たしかに、復興にかんしては先進国かもしれません。しかし、防災にかんしては、惨めなほどの後進国です。復興は国の仕事。防災は自己責任。それが現在の日本政府の基本方針です。その限りにおいて、今後も同じような災害が起こり続けます。
2019.09.26
日本の台風被害といえば、暴風そのものの被害というより、川の氾濫による水害がほとんどでした。しかし、去年の大阪の台風21号や、今回の千葉の台風15号では、まるでハリケーンのような暴風の被害が起こっています。菅官房長官は、「豪雨災害への対策については迅速かつ適切に行った」などとトンチンカンなことを言っていますが、これは水害ではなく、むしろ風害なのです。日本列島全体が、沖縄のような暴風地帯になりつつあります。沖縄には大きな川はありませんが、本土の場合は、大きな川が多いので、これからは、風の災害と水の災害がダブルでやってきます。そして被災地には、猛烈な夏の暑さや、冬の寒さが襲い掛かります。現状を見ると、旧来型の日本の防災システムは、まったく機能していません。国とメディアは、責任回避のために、これを「自治体の初動の問題」に矮小化しようと躍起ですが、そんな次元の問題でないことは誰の目にも明らかです。国家的な指針と広域的な対策が立ち遅れているのです。いまなお放置された山間部の杉林は、春の花粉症をもたらしただけでなく、クマやイノシシの生息域の悪化と、獣害の多発をもたらし、その脆弱な地盤は、頻繁な土砂崩れを引き起こして、多くの建物を押し流し、今回のような大規模停電の要因にさえなっています。日本の防災対策には、根本的な変革が一刻も早く求められいます。
2019.09.18
今年の夏は、ひさしぶりに戦争についていろいろ考えました。まあ、みんなNHKがらみですけど(笑)。アニメ「この世界の片隅に」を鑑賞して、映画「ひろしま」は見逃してしまいましたけど、Nスぺを何本か見て、昭和天皇にかんする一連の報道を見て、それから、100分de名著では、ロジェ・カイヨワの「戦争論」を見て考えさせられました。…ってことで、もはや昭和天皇とはなんの関係もありませんが、カイヨワの「戦争論」について、いろいろ考えをめぐらせてみたいと思います。◇カイヨワは、戦争のことを(バタイユ風にいえば)「蕩尽」ととらえていたのですね。「蕩尽」というのは、おそらく「蓄積」の対義語なのだと思います。いわば、究極の消費ですね。蓄積がなければ、きっと蕩尽の必要もないんですよね。自然界のエコシステムは、ぐるぐる循環しているだけなので、蓄積もなければ、蕩尽する必要もないのだと思います。人間の場合は、農業生産を始めて以降、蓄積するようになったせいで、そのぶん蕩尽する必要がでてきたのでしょう。さらに近代の工業化によって、人間の蕩尽は、より破壊的なものになってしまった。それが戦争です。ちなみにバタイユは、セックスも、暴力も、スポーツも、祭りも、戦争も、みんな一種の蕩尽だと考えていたようです。つまり、過剰な生エネルギーの解放ですね。バタイユの場合は、そもそも太陽のエネルギーが過剰なのだから、たとえ蓄積のない社会でも蕩尽は必要だと考えていたようです。バタイユにとって「蕩尽」の対義語は、おそらく「贈与」なのですね。マルクスの場合は、「恐慌」が戦争をもたらすと考えていましたが、恐慌というのは、やはり過剰生産(≒蓄積?)の矛盾から生じるのですね。したがって、恐慌も、何らかの蕩尽によってしか解消されないという理屈だと思います。◇今回の「100分de名著」を見ていて、戦争には、多面的な効用があることが分かりました。ひとつは、蓄積された生エネルギーの解放。それから、社会的蓄積を蕩尽・破壊することによる経済循環。さらには、個人のアイデンティティの確立にも関係があるようです。戦争の場合、国家への帰属意識が個人にアイデンティティを与えますけども、それは、むしろ「帰属」というより「埋没」に近いもののようにも思えます。戦争においても、祭りにおいても、スポーツの応援においても、人々は集団のなかに埋没していきます。むしろ、ほとんどの人々は、この埋没によってアイデンティティを得るのではないでしょうか。◇今回の番組を見て、「蕩尽」には、《破壊的なもの》と《合一的なもの》がある、ということも知りました。アインシュタインは、エネルギーと質量が互換できるという経済原理を発見して、事実、核分裂でも核融合でもエネルギーは生まれるのですが、エネルギーの蕩尽にも分裂的な方法と融合的な方法があるのでしょうか??戦争はおおむね《破壊的》な蕩尽であり、祭りはおおむね《合一的》な蕩尽だということですね。セックスにも《破壊的》な面と《合一的》な面があるかもしれません。戦争は、対外的にみれば《破壊的》な蕩尽ですが、国内的にみれば、むしろ《合一的》な蕩尽だといえます。だからこそ、ナショナリズムの熱狂を共有し、国民としてのアイデンティティを得られるのですから。祭りは、一見すると《合一的》な蕩尽に見えますが、じつは過去の戦争の記憶を反復するような祭りも結構あると思います。たとえばヤマタノオロチを退治するような日本のお祭りなどです。それは、たんに過去の戦争を記憶・再生するためだけでなく、《破壊的》な蕩尽のエクスタシーを集団で反復しているのかもしれません。戦争にしても、祭りにしても、いわばハメを外した生エネルギーの解放なのですが、しかしながら、まったく無軌道な蕩尽というわけでもない。一定の同化のベクトルがあるし、解放のベクトルももっています。集団内への同化のベクトル、そして外側への破壊のベクトルですね。そのベクトルに従うことでしか、たぶん蕩尽することはできません。祭りの場合にも、ダンスのリズムのような規則性がなければ、蕩尽することは出来ない気がします。◇蕩尽は、もはや人間には不可避のものなのでしょうが、極限的な蓄積や、極限的な蕩尽は、いずれ循環不能な破滅をもたらします。なので、極限的な蕩尽にならないような持続的なシステムが必要とされています。破壊的な蕩尽よりは、まだしも合一的な蕩尽のほうが平和的かもしれないし、マキシマムな蕩尽よりは、まだしもミニマムな蕩尽のほうが持続的かもしれません。集約的な蕩尽よりは、分散的な蕩尽のほうが危機が少ないかもしれない。スポーツは、ある意味で、戦争を代替している面があると思いますが、現代なら、テレビゲームなども、そうした代替的な手段に見えます。いわば「仮想的な蕩尽」ってところでしょうか。最近では、ヴァーチャルリアリティの技術も発展してますので、セックス、暴力、スポーツ、祭り、戦争といったあらゆる蕩尽が、すべてヴァーチャルな空間のなかで計画的に処理できるのかもしれません。ただ、どうしても、蕩尽というのは「無駄」な印象があります。無駄に消費するからこその蕩尽なのでしょうが、せっかくなら、そのエネルギーをもっと有効活用できないものかなと思ってしまいます。ましてヴァーチャルな空間での蕩尽は、あまりに無意味に思えます。あらゆる物質とエネルギーの蕩尽が、そのまま生産や贈与に変換されるシステムだったらいいんですけども…。…また来年の夏に考えます。
2019.08.26
昭和天皇は、国民にも「反省」の機会が必要だと考えていたようです。しかし、その機会を逸してしまった。いまだに日本人の多くは、空気を読んだり、ノリを共有したりしながら、全体の趨勢に呑み込まれていくという体質を変えていません。さらに、あろうことか、日本の馬鹿げた心理学者などは、空気を読んだり、ノリを共有したりする技術こそが、社会人として必要な「コミュニケーション能力」と主張したりしています。局所的なエビデンスだけを集めていると、そんな矮小な見識に至るのですね。◇先日、「半グレ」を取り上げたNHKスペシャルを見ていたら、ある若者が「半グレ集団のなかではコミュニケーション能力が磨かれる」と語っていました。実際、そうなのでしょう。とくにヤクザ的な社会では、コミュニケーション能力こそが物を言います。しかし、いまや日本社会全体が、コミュニケーション能力だけが幅を利かすヤクザ的な社会になっています。そういう傾向は、体育会系化したバブル社会において非常に強まりました。「コミュニケーション能力があればよい」という発想は、やがて技術力や開発力よりも、営業力だけが物を言うような経済を生みます。たとえば、80年代のビデオ戦争において、松下のVHSがソニーのベータマックスに勝利したのは、技術力よりも強引な営業力のほうが上回ったからでした。現在の日本でも、まともな商品開発などそっちのけで、露骨な勧誘やら強引な営業やらが日常的におこなわれています。◇たしかにミクロな視点で見れば、空気を読んだり、ノリを共有したりできるほうが、個人として世渡りしていくには都合がよいでしょう。しかし、社会全体が、空気を読み、ノリを共有するばかりになったら、それは、結果的に国家の運命を危うくします。かつての日本人が戦争に突き進んだのも、軍隊が統制を失って、天皇の制御さえ効かなくなったのも、無批判な人々がなし崩し的に流されていったからです。◇日本的な意味でいうところの「コミュニケーション能力」とは、ある意味で”犬の感性”に近いものです。犬は、猫とちがって、「家長が誰か」を瞬時に察知する能力があそうです。家族のなかで誰がいちばんエラいのかを察知して、その権威に忠実であろうとする能力が本能的に備わっている。まさに日本人のコミュニケーション能力とは、こうした”犬の感性”のようなものであり、たえず集団のなかで誰に従うべきかを察知する能力を発揮しては、その力関係を空気から読み取り、長いものに巻かれ、全体の趨勢に従うことを本能的に目指しています。エライ人間にならば、なんら合理性や正当性がなかろうとも、無批判に従いますし、逆に、末端の弱い立場の人間には、その主張がどんなに合理的であり正当的であろうとも、けっして従属しようとはしません。それが日本人です。つまり、集団内の誰に従うべきかは、主張そのものの正当性や合理性によってではなく、関係性の主従や優劣によって決められるのです。それが日本の社会なのです。このような”犬の感性”をもった人たちで構成される社会は、いとも簡単に非合理な方向へと全体が流れていきます。まさに、それが、かつての戦争でした。思えば、南京事件のときに、日本の軍人たちが見境なく略奪・暴行をはたらいたのも、ある種の集団的な「ノリ」だったのだろうと思います。パワハラ的な上官に無批判に従っているうち、誰ひとり全体のノリに逆らえなくなったのでしょう。現在の日本人でさえ、そのときのような状況に置かれれば、まったく同じ行動を取るのだろうな、と思います。
2019.08.24
余談ですが、エルサレムを最初に侵略・占領したのは、アラブ人でもなければ、ユダヤ人でも、ローマ人でもなく、テュルク系のヤカラーでした。本来なら聖地とは無関係な、新参セルジューク朝の不逞の輩が集団でやらかした横暴だったのです。それが十字軍の発端になって、アラブ人と、ローマ人・ユダヤ人の1000年以上にわたる、その後の血みどろの戦いにつながっていきます。一部のヤカラーによる余計な行為が、本来なら争うべきでない民族同士の1000年の抗争につながったのです。歴史って、そんなものですよね。◇同じようなことは、南京事件にもいえます。あれは天皇の意志でもなければ、国民の意志でもなく、まして国家の正式な決定のもとに遂行されたのでもなく、一部のヤカラーが引き起こした、まったく余計な犯罪です。しかし、結果的には、その負債を、いまもなお日本国民全体が背負う羽目になっています。◇日本人のなかには、いまだに旧日本軍の行為を英雄視し、擁護する者がいます。彼らは得意になって「愛国」などと口にしていますが、ちっとも愛国ではありません。たんに迷惑なだけです。むしろ、そういう連中がいるおかげで、いまもなお日本国民全体が、旧日本軍のヤカラーと同一視されてしまうのです。たとえば、ドイツ人みずからが「ヒトラーは悪人であり狂人だ」といえば、だれも文句は言いません。ロシア人みずからが「スターリンは悪人であり狂人だ」というなら、べつに疑いはもちません。しかし、下手にヒトラーを英雄視しつづけるドイツ人がいたり、下手にスターリンを崇拝しつづけるロシア人がいると、世界は、彼らに対して疑いの目を向けざるをえない。同じことは日本にもいえます。そもそも南京事件を起こした連中に「愛国心」などあったでしょうか?彼らが本気で、「天皇のため」「お国のため」と略奪・暴行をはたらいていたのなら、たんなるバカとしか言いようがありません。なぜなら、彼らの犯罪行為は、何ひとつ日本の利益にならなかっただけでなく、かえって中国に誇張宣伝され、米国が原爆を使う口実になったからです。敵国のほうに大義名分を与えてしまった。「日本に反撃したい」という中国の目的に利用され、「原爆を使って覇権を確立したい」という米国の目的に利用され、結果として日本の都市部はさんざん爆撃され、沖縄やサイパンでは住民が大量に殺戮され、広島と長崎に原爆が投下される結果をまねきました。それもこれも、一部のヤカラーの余計な暴走が引き金になったのです。そして半世紀以上たっても、まだ日本国民の負債が消えていません。まったくもって余計なことをやらかした反日的行為というべきです。◇しかし、一部の日本人のなかには、南京事件をさえも擁護したり、それを必死で誤魔化そうとしたりする者までいます。一体どういうつもりなのでしょうか?たんに歴史を知らないのでしょうか?それとも当事者の子孫か何かでしょうか?ほんとうに迷惑な話です。そんな人たちがいるせいで、まるで日本人全体までもが、いまだに南京事件の当事者と同一視されます。南京事件を起こした連中には「愛国心」などなく、たんに私的な暴力性をここぞとばかりに解放していただけです。たんなる不逞のヤカラーなのです。だから、日本人は、彼らの行為をけっして「日本国民の行為」と認めてはいけない。あくまで狂ったヤカラーの犯罪として徹底的に糾弾すべきであり、彼らを真の国賊として永遠に葬るべきです。得意げに「愛国」などと口にする連中にかぎって、旧日本軍を批判する人々をすぐさま「反日」呼ばわりしますが、そのような主張こそが、まさしく「反日」的なのであり、ちっとも「愛国」的ではないのです。真の反日とは何なのか。真の国賊とは誰なのか。よほどのバカでもなければ、だれでも理解できることです。
2019.08.22
昭和天皇が「下剋上」とまで表現した者たちを、靖国神社が合祀してしまった意味。すなわち、靖国神社は、たんに東京裁判の視点を振り切っただけでなく、アジアの視点も、そして天皇の視点さえも振り切って、合祀を強行したといえます。そのうえで天皇を靖国に参拝させようという横暴な企ては、いまもなおクーデタとしての意味を帯びます。◇とくに近年、靖国神社については、西郷隆盛などをふくめた賊軍合祀を進めるべきとの議論があります。たしかに、日本人は古来、「怨霊を鎮めるために敵味方を問わず神と祀るべし」という発想で、平将門のような逆賊をさえ祀ってきました。しかし、たとえ国内の逆賊を合祀したところで、そこには、やはりアジア的な規模の視点が欠如しています。日本軍に蹂躙されたアジアの人々の魂は、いっこうに鎮まりません。西南戦争に「国家統一を目指す」という大義があったならば、アジアの盟主たらんと目論んだ近代日本の戦争にもまた、「大東亜共栄」「八紘一宇」「五族協和」といった建前はあったのです。そのことを省みれば、「敵味方を問わず神と祀る」という精神のうちにも、アジア的な規模の視野や配慮は欠かせないはずです。靖国自身がアジアを敵視し、またアジアから敵視されるかぎり、鎮魂とはほど遠い状況が今後も永久に続くでしょう。もちろん、あらゆる逆賊を一緒くたに合祀すればいいという単純な話じゃありません。現時点でさえ下剋上をやらかした逆賊と一緒くたに祀られることへ、はげしい嫌悪感を抱く人々はいます。あらゆる日本人に「反省」の機会が必要だと昭和天皇が考えていたとすれば、その機会を逃したことが大きな禍根になったと思わずにいられません。靖国の名にそむき まつれる神々を思へば うれひのふかくもあるかこの憂いの深さの淵源がどこにあるか、あまりにも明白ではないでしょうか。
2019.08.20
NHKスペシャル「拝謁記」。昭和天皇が、くりかえし「下剋上」という言葉を使っていたことに、衝撃をおぼえました。下剋上とは、すなわち、下の人間が、天皇の権威と権力を奪い取っていった暴挙のことです。軍部の人間は、口先では「お国のため」「天皇のため」とうそぶきながら、実際のところは、錦の御旗を利用して、その権威と権力を天皇から奪取していました。その結果、国家の意思そのものを歪めていました。これをこそ「反日」と呼ばずして、いったい何と呼べばよいのでしょう?いまなお、こうした軍部の行為を擁護しては「英霊」などと呼び讃える者もいます。そして、そのような連中にかぎって、まっとうな軍部批判をする人にまで「反日」とのレッテルを張りたがります。しかし、真の反日と呼ぶべきなのは、いったい誰なのか。まともな日本民族ならば、もはや誰にだって分かることですよね…。◇三島由紀夫の「牡丹」じゃありませんが、じつは国家の権威を借りながら、私的な暴力性を解放して喜んでいた人間が、とりわけ日中戦争時にはウジャウジャいました。そんな連中の犯罪行為の負債を、いまだに国民全体が背負わされています。まさに彼らこそが日本史上稀にみる「反日」なのであって、まちがっても「英霊」などと讃えてはいけません。
2019.08.18
わたしが考える「日本のしたたか女ランキング」!これまで堂々の第一位は、なんといっても竹内まりやでした(笑)。彼女は、結婚そのものもしたたかだったけど、それ以上にしたたかだったのは、ジャニーズ関連のマーケットを確保してみせたこと。竹内まりやと工藤静香がメリー喜多川とつるんでいる、という事実を知ったとき、このうえない嫌悪感とともに、思わず「やっぱり…」と呟かずにはいられませんでした。もちろん竹内まりや本人にも、それなりの才能はあるのですから、まったくなんの才能もないメリー喜多川なんかとは大違いだし、メリー喜多川の浅はかさにくらべたら、竹内まりやのしたたかさのほうが、はるかに上だとは思う。とはいえ、彼女たちには何かしら、共通するニオイのようなものがあります。だからこそ、類は友を呼ぶのです。◇わたしが思う「したたかな女」というのは、内助の功でもなければ、自分自身の能力でもなく、男性の能力を自分の権力のために利用する女のことです。そして、彼女たちは、そうした男性の本来の仕事や志を、結果的に歪めてしまう面がある。メリー喜多川が、弟であるジャニーの仕事を大きく歪めてしまったように、竹内まりやも、あまりにもジャニーズに接近しすぎることによって、夫である山下達郎の仕事を歪めてしまったように見えるのです。したたか女への嫌悪感は、ここに起因します。余談ですが、こうしたしたたか女と比べてみると、純粋に自分の力だけで生き、そのバイタリティをもって、複数の若い男たちをグイグイ引っ張っていく渡辺えりの、なんと逞しく、美しく、潔いことでしょうか!彼女には、みずからの意志で結婚して離婚する資格と自由と栄光があります。◇さて、滝川クリステル。日仏のハーフである彼女が、日本の保守中枢に喰いこむことで足場を固めてきたのは、すでに周知のとおりです。しかし…!まさか、ここまで露骨に踏み込んでくるとは。ここまでくると、逆にちょっとアッパレです。もはや野心以外のものが何も見えません(笑)。小澤征爾の息子に狙いを定めたのも、結局はそういうことだったんだろうなあ…。でも、彼女はもっと上を目指そうとしている。もはや「世界的指揮者の嫁」ごときでは満足しないのです。彼女は、首相夫人にまで昇り詰めようとしている。小泉進次郎が首相になったとき、彼女が卑小な野心のために裏から日本の政治を歪めるのではないかと、それだけが心配です。
2019.08.08
韓国に対する日本政府の強硬な姿勢は、国民の共感も得ているようで、政権の支持率が上昇しています。ナショナリズムを煽り、他国との対立を煽れば煽るほど、なぜか政権の支持率が上昇してしまうという構造は、じつは韓国と同じです。それは、日本人の民度が韓国人の民度と大差ないという事実を意味しています。このことは深刻です。◇日本は、今回の日韓の対立を、経済的な我慢比べによって乗り切ろうとしています。まだまだ経済的な体力でなら、日本のほうが上回っている、という判断があるからです。しかし、金の力で屈服させられるうちはいいとして、今後、徐々に経済力が弱体化していった場合、日本の外交は悲惨なことになっていくでしょう。そうでなくとも、こんな馬鹿げた我慢比べを周辺国とやりあっていたら、それだけで経済的な体力を消耗させ、みすみす自らのアドバンテージを失っていくはずです。それは、第三国に付け入る隙を与えるだけでしょう。すでに、そのことに気づくことすらできないほど、日本人の民度は、韓国並みに下落しはじめています。◇ある日本政府の高官は、「日本には外交カードが100枚くらいあるんだ」などと自慢げに語っていました。しかし、これほど愚かなことはありません。日韓双方がむやみやたらにカードを切るほどに、たがいの体力が消耗するだけで、何らのメリットもないからです。10枚もカードを切った日には、双方ともがフラフラになるでしょう。相手もろとも弱体化していくだけのことです。かりに外交担当者が、「勝たなければ気が済まない」というメンタリティで臨んでいるならば、それこそ馬鹿国家の仲間入りをした証というほかはありません。それは外交の目的を履き違えています。外交の目的とは、結局のところは共存の道を探ることでしかなく、どちらか一方が勝ち切ることでも、負け切ることでもありません。そんなことは、ありえないからです。◇相手を打ち負かそうとする頭の悪い外交は、米国のトランプ流に端を発し、中国から韓国へ、そして、ついには日本にまで感染しつつあります。日本にも、すでに「自国民ファースト」を叫び続けるような、中朝並みに民度の低い馬鹿な国民が増加しつつあります。その結果として、他国民への感情が悪化することも問題なのですが、それよりもっと問題なのは、国内での不寛容が広まってしまうことです。自国政権への批判に対して「非国民的」というレッテルを張り、その主張や表現の多様性を抑圧しようとする傾向が強まるほど、社会の容貌は、中国や北朝鮮の一党独裁国家へと酷似していきます。そのことにあらかじめ気づく能力さえ失くすほど、日本人の民度が、中朝並みに落ちようとしています。政権もまた、そんなバカな国民に迎合するだけの存在になりつつあります。これが、いちばん深刻です。
2019.08.06
日本は、新日鉄住金の韓国での営業を負担なく続けさせようという目的で、韓国は、国民感情を満足させて政府の支持率を高めようという目的で、今回の対立をどんどんエスカレートさせてきました。そして、すでに双方が、最初に得ようとしていたものよりも、さらに多くのものを失うという馬鹿な結果を招いています。矮小な目的のために、より大きなものを失ってしまう。それがまさにポピュリズムですよね。とても合理的な判断が機能しているとは思えない。お互いが損をしていくだけなのは余りにも明白なのに、「韓国に負けてたまるか」「日本に負けてたまるか」という幼稚なナショナリズムだけで、まったく実利のない、ムダな意地の張り合いをしている。双方にとって、何のメリットもない馬鹿な争いです。はたから見たら「馬鹿な対立だな」と思うけれど、いくら「馬鹿だ」と言われても、決してやめることができないのです。後に引けない。それがポピュリズムですから。どちらも勝利することはありません。したがって、終わりもありません。もし、この争いに終わりがあるとすれば、双方が限界まで損失を被ったことを、いやというほど思い知ったときだけです。つまり、どちらも敗北する形でしか終わらせることができません。せいぜい感情的な自尊心を、ちまちまと比べ合うだけです。それがポピュリズムです。馬鹿ですね…。
2019.07.30
日本は、災害大国であると言いながら、そのじつ防災についても、避難システムについても、かなりの後進国っぷりが目立っています。外交や経済の場では「おもてなし文化」などとうそぶきながら、国内の貧者や弱者や避難生活者に対して、過酷な状況を強いても平然としていられる感覚は、およそ先進国には似つかわしくないものだというべきです。気象庁は、もはや災害予測にかんして責任回避の方針を固め、いわゆる「自己責任論」を強化しようとしています。気象庁の役割とは、「情報を出した」というアリバイ作りのみなのでしょうか?「情報は出したのだから、あとは個人で判断しろ」「ハザードマップはHPに乗せてあるから、あとは個人で確認しろ」「避難情報は出したのだから、あとは自力で体育館まで避難しろ」というのが、現在の日本の基本的な避難システムです。しかし、すべての国民が現在のような気象庁の情報を正しく理解できるでしょうか?独り暮らしの老人はHPにアクセスできるでしょうか?およそ何%の老人がインターネットを利用できるのでしょうか?かりにハザードマップを見たところで、その内容を理解できるでしょうか?◇気象庁の役割が避難情報を出すところまでとするならば、実際の避難行動を実践させる機関はどこでしょうか?国は、その問題を、あいまいな形のまま各自治組織に丸投げしています。なぜ独り暮らしの老人は、いまだに逃げ遅れて死亡するのでしょうか?消防庁には避難困難者を担架で移動させる車両や人員がないのでしょうか?なぜ避難物資の到達までには時間がかかるのでしょうか?国家的な計画のもとで広域的に一定量を常備しておけば、災害予測が出た時点で事前に災害地へ運んでおけるのではないでしょうか?これほどの災害大国でありながら、なぜ近年まで、避難所の簡易ベッドや簡易トイレすら準備できなかったのでしょうか?なぜ避難所は、いまだに空調設備すらないような学校の体育館なのでしょうか?◇もっぱら国の関心は、自衛隊の出動機会の増加と、業界に結託した復興利権にあるようです。その意味でいえば、巨大災害と巨大被害は、むしろ国にとって好都合なのでしょう。しかし、弱者の救済は、彼らにとって何の旨味もない厄介事であり、どこかの機関に押し付けるべき二の次の課題なのでしょう。弱者には過酷な状況を強いたまま放置し、善意のボランティアには厄介なブラック労働を押しつける。そんな実態にもかかわらず、内閣府は恥ずかしげもなく「防災先進国日本」などと自画自賛しています。バカなのでしょうか?
2019.07.04
日本には交番があるわけだから、いつでも起こりうるわけで、拳銃にGPS装置つけるとか、警官から離れたら、防犯ブザーが鳴ってロックがかかるとか、そのぐらいのことは必要でしょう。「盗ませない」のではなく「盗む気力を削ぐ」ような仕組みが必要です。殺傷兵器を扱ってるんだから、ちゃんとお金をかけて管理すべきでしょうね。装着用の「金具」がナンチャラとか言ってる場合じゃない。それは、原発で「バケツ」がどうとか言ってる次元に近い。ちなみに、ネットによると、警官の体内にチップを埋めて拳銃と照合する技術もあるらしいけど、まあ日本は日本で実情にあう対策をとればいいと思う。
2019.06.17
世の中には、まったく他人に説教をしない人と、他人に説教ばかりしてしまう人がいます。この違いは、どこから来るのでしょうか。◇説教をするためには、1.自分が相手より人間的に優位だという意識 と、2.自分の価値観が相手にも妥当するという確信 が必要です。しかし、まともな理性をもつ人なら、「自分が相手より人間的に上だ」などとは思えませんし、「自分の価値観が他人にも通用する」とも思えません。説教体質者は、このような理性をもっていないか、あるいは、意図的に打ち捨てているといえます。◇たいていの場合、説教体質者は、自己の欲求を充足するために、相手に説教をします。その欲求のひとつは、相手に対して支配的に振る舞いながら、自己肯定感を得ることであり、もうひとつは、立場の弱い相手に対して、自己のフラストレーションをぶちまけることです。◇ただし、説教体質者の人々は、その説教が「自分のため」であることを見抜かれたくありません。そのために、「これは、お前のために言っているんだ」という理屈をもちだします。そして、「他人の話は素直に聞くもんだ」といった便利な倫理ももちだします。また、自分の人間的な優位性を証明するために、たえず相手の欠点や落ち度の挙げ足を取っては、「お前は○○だから悪いんだ」というダメ出しをし、そのうえで、「おれは先輩だからだ」「おれは経験が豊富だ」「おれは日頃からこうしている」と口から出るままに自己優位の理由づけをしてみせます。◇そのようにして、たえず自分が説教ができる状況を作り、相手を従わせることをつうじて、「自己肯定感」を確保しているのです。
2019.06.14
第一次産業や第二次産業が主流だった時代、仕事をすることは、すなわちモノと向き合うことであり、人間のコミュニケーションの世界から、いったん引き籠ることを意味しました。それは、ひとつの救いでもあった。もともと日本人のコミュニケーションの空間は、とても抑圧的です。「空気を読め」「ノリが悪い」といったことを臆面もなく口にして、同調性を強いるのが現在もなお日本社会の特徴です。いまや心理学者でさえ、「空気を読む」ことや「ノリを共有する」ことこそが、不可欠な「コミュニケーション能力」だと信じて疑わなかったりする。けれども、あらためて言うまでもありませんが、異質な存在を排除する同質的な社会は、進化論的にみて非常に脆弱です。むしろ、日本の同調的なコミュニケーション空間から引きこもれる場がなければ、日本の社会は、十分な多様性を確保することができず、イノベーションに必要な独創性を生み出す機会も失ってしまうでしょう。◇第一次産業や第二次産業が主流だった時代、「空気を読む」ことや「ノリを共有する」ことは、仕事をするうえでは、かならずしも強制されませんでした。むしろ、仕事こそがコミュニケーションからの逃げ場になっていた。しかし、第三次産業であるサービス業が全面化するにつれ、仕事の場までもが、同調圧力を強いるコミュニケーションの空間に変わってしまいました。標準的な服装、標準的な笑顔、標準的な振舞いで、規格どおりの「おもてなし」を要求されるような異様な社会です。引きこもるための逃げ場は、どんどん失われています。「空気」と「ノリ」を共有できないことが、すなわち「社会への不適合」を意味してしまうという不寛容さは、すでに日本のなかで当然のように共有されています。◇かつてインターネットの世界では、異質な考えの人たちが理性的に議論しあえる場の設計も試行されました。しかし、結局のところ、日本の社会にひろく普及したのは、たんに罵詈雑言をいいあって憎悪を拡大させるだけの掲示板や、見せかけの虚像を互いに披露しあって「いいね」を押し合うだけの、これまた極端に同調的なコミュニケーション空間でした。リアルな空間であれ、ネットの空間であれ、いまだに日本の社会には、異質な者どうしがありのままの姿で共生しうるコミュニケーションの場は、構築されていません。それどころか、ますます逃げ場は少なくなっています。それにつれて、日本の同質的な社会は、いよいよ独創性を発揮する機会を失って、国際的な競争力を弱めようとしています。
2019.06.09
俳優の佐藤浩市が、映画に登場する総理大臣を「下痢体質」の設定に変えさせた件について、作家を自称する百田とかいう禿げ頭がたいそう怒ってるそうです。佐藤浩市の意図はよく分かりませんが、たしかに安倍晋三を揶揄した可能性はあるのでしょう。しかし、それはそれとして、佐藤浩市が「潰瘍性大腸炎の患者一般」を揶揄したなどという百田の解釈は、いかにすれば可能なのでしょうか?あまりにも無理のある言いがかりです。曲がりなりにも作家を自称する人間が、世間にむかって、こんなありえない曲解を披露できるものでしょうか?どんなふうに頭を捻じ曲げてみても、「佐藤浩市が潰瘍性大腸炎の患者一般を揶揄した」などとは考えられません。◇まあ、百歩譲って、さすがに「潰瘍性大腸炎患者一般」を揶揄したのではないにしても、佐藤浩市が、安倍晋三個人を揶揄した可能性はあるのでしょう。しかしながら、時の首相を「下痢野郎」とバカにすることのいったい何が悪いのでしょう?曲がりなりにも作家を自称する人間が、その程度の「表現の自由」を容認できないなど、本気でありえるのでしょうか?ほんとうにコイツは本を書いたことがあるのでしょうか?◇ちなみに見城徹とかいう脂ぎった文芸編集屋は、はたして百田とつるんでるのかどうか知りませんが、今回の佐藤浩市の発言を受けて、「観たいと思っていた映画だけど観るのをやめた」とのたまってるそうです。曲がりなりにも文化表現に携わっている人間が、観るべき映画自体の鑑賞を、撮影に参加した役者一人の意見に反応して放棄してしまう、などということが本当にありえるのでしょうか?たとえ一般の映画ファンでも、そんな馬鹿な選択はしないでしょう。おそらくは、最初から映画など観るつもりもなかったのに、たんに佐藤浩市を非難するためだけの目的で、安っぽいレトリックを弄し、幼稚なネガキャンを張っているのでしょう。たかが編集屋ごときに、作家並みの能力を求めてはいけないのかもしれませんが、曲がりなりにも出版業に携わっている人間として、あまりにも惨めすぎる発想というほかありません。◇こんな馬鹿者たちが、日本国内で本を書いたり、出版したりしているのかと思うと、暗澹たる気持ちになってしまいます。どうか今回のくだらない騒動が、映画会社の仕組んだ炎上商法であってほしいと祈るばかりです。
2019.05.15
古代日本のエリート知識人によって書かれた文章が、ほぼ例外なく中国のパクリであるだろうことは、考えてみれば、当たり前の話であって(それが仕事だったのですから)、たとえ安倍政権の意向にしたがって、表向きは「国書」を典拠にしてみたところで、やっぱり、おおもとを辿れば、結局は中国の文献に行き着くだろうことは、元号の選定にあたった国文学者も漢文学者も、はじめから分かっていたわけです。つまり、知らなかったのは安倍晋三だけなのですね。もしも安倍晋三に、多少なりとも国文学についての常識があれば、そういうことにも思い至ることはできたのだろうけれど、いかんせん、彼の取り巻きは、いわゆるバカ右翼ばっかりですから、古代日本の文化が「中韓のパクリだ」ということじたい、けっして認めようとはしないのですね。たとえ歴史を捏造してでも、古代の文化を「日本オリジナル」と主張したがるような連中なのです。そんな状態ですから、すっかり安倍晋三も、国文学者のいう「万葉集由来」という説明にダマされてしまったのでしょう。かわいそうに。まあ、バカ右翼が意固地になって騒げば騒ぐほど、かえって国家の馬脚をさらし、恥をさらすという、いかにも典型的な事例だなぁと言うほかありません。もしも本当に日本のオリジナルの元号をつくりたいのであれば、中国にかぶれた古代のエリート知識人が書いた文章ではなく、そこらの農民が詠んだやまとことばの歌を典拠にするとか、あるいは、平安時代に女性たちが仮名文字で書いた文章を典拠にする以外ありません。そして、そこまで思い切った転換を図るのなら、いっそのこと、もう漢字で元号をつくることもやめて、「仮名文字/やまとことば」の元号に切り替えればよいわけです。「あけぼの元年」とか。「たまゆら元年」とか。「ゆらゆら元年」とか。しかし、日本のバカ右翼は、これまた例外なく「男尊女卑」の価値観を捨てられずにいますので、日本のオリジナル文化は平安の女性たちによって作られたという史実さえ、容易には認めたがらないのですね。したがって、日本の古代の男性知識人が書いた文章にこだわりつつも、なんとかして中韓のパクリであることを避けたいという、およそ解決不可能なジレンマに、今後もずっと苦しんでいくことになるのでしょう(笑)。なんともおつかれさまな話です。↓ホンモノの出典はこちら
2019.04.02
沖縄の≪人権問題≫を考えるうえで、今後、無視しえない判断材料となるのは、反対運動を行なう沖縄の住民に向かって、若い警官が発した「土人」という言葉です。これについては映像も音声も残されています。警察官が差別的な意志をもって公務にあたり、そのうえ、あろうことか派遣した自治体の長が、その警官の立場を擁護した、という事件です。これによって、現在の沖縄問題には、背景としての「民族差別」の存在がうかがわれることになる。はたして松井一郎は、日本に「民族差別」が存在しないと証明しきれるでしょうか?それどころか、ネットの現状を見れば、そこには差別的な表現と思想があふれかえっています。その内容の大半は、基地を拒否しようとする沖縄の意志に対する侮蔑と恫喝です。おそらく現在の沖縄問題には、大衆的な次元と公的な次元で民族的な差別が背景として存在する。だからこそ、これはすぐれて人権上の問題なのです。たんなる愚衆ポピュリズムの話では済まされない次元に達している。こうした日本の自画像を、政府も社会も直視せざるをえない状況まで追い込まれています。もはやパンドラの箱は開いてしまったのです。
2019.02.25
沖縄で民意が示されました。これは前代未聞のことです。◇近代国家は、つねに辺境に対する暴力性を秘めています。福島の原発問題も、青森の六ケ所村の問題も、そうした側面の一端であるといえます。しかし、そうした暴力性は、表向きは覆い隠されています。◇今回の沖縄における県民投票は、日本における、そうした暴力的な国家の構造を、もはや否定しえない形ではっきりと「可視化」してしまいました。なぜ、こんなことになったのか。それは、長期政権にあぐらをかいた現閣僚と現官僚が、民主国家としての穏当な手続きと配慮をないがしろにして、あられもない暴力性をむき出しにしてしまったからです。その反動として、いまや白日のもとに示された民意。◇こうなってしまった以上、もはや日本の「沖縄問題」は、ロシアにおける「クリミア問題」や、中国における「チベット問題」と同様に、≪人権問題≫としての様相を帯びることになります。―はたして沖縄に人権はあるのか。―はたして沖縄に民主主義は存在するのか。そのことについて、これからは国際社会からの厳しい眼差しを受けることになる。安倍政権に、その覚悟があるでしょうか?
2019.02.24
嵐の活動休止よりも驚いたことは、NHKの報道番組が、これをトップニュースとして伝えたことです。馬鹿か。NHKは、バカなのか。現在のNHKの報道は、いったいどうなっているのでしょう?報道というものを、ニュースバリューというものを、いったい何だと考えているのでしょう?◇べつに、嵐というグループに価値がないと言いたいのじゃありません。しかし、こんなことがトップニュースになるのなら、報道は、たんなる芸能プロダクションの宣伝媒体になってしまう。それどころか、政治の不都合な事実を「報道しない」ための隠れ蓑になりかねません。こんなことで、社会の真相を客観的に伝えられるはずがありません。◇すでにNHKは、安室奈美恵やいきものがかりの件なども大きく取り上げましたが、いきものがかりの場合には、活動が再開されているわけで、たとえグループ側の意図がどんなものだったにせよ、結果的には、NHKの報道が引退商法に利用されたも同然です。それ以上に問題なのは、こうしたエンタメニュースを取り上げるというNHKのルーティンが、政治の不都合な事実を「報道しない」ための口実になっていく、あるいは、恣意的にニュースバリューを下げるためのテクニックになっていく、ということです。事実、NHKは、そのような目論見をもって、こうした報道姿勢をすでに習慣化しようとしているのでしょう。現在のNHKの報道は、ほんとうに末期症状にあります。
2019.01.28
来年の東京オリンピックは、もとをただせば、俗情にうったえた石原慎太郎の国粋主義にはじまっていますが、このたびの贈賄疑惑報道に際して、いちはやく竹田恒和を擁護したのが、保守論壇の櫻井よしこや息子の竹田恒泰であったことからも、これが、いわば≪ネトウヨオリンピック≫としての側面をもっている、という事実をうかがい知ることができます。フランスで取りざたされた贈賄問題は、おそらくはルノーと日産の問題にかこつけた国家間の駆け引きであり、カルロス・ゴーンを拘束しつづける日本側の手法にも関係するのでしょうが、結局は、オリンピックのような自国主義的な側面で、かえって日本が足をすくわれる結果になっています。≪ネトウヨオリンピック≫は、このままでは、日本が致命的なほどに自信を喪失するイベントになりかねません。先ごろ明るみになった弁護士懲戒請求事件のような出来事も、安易な愛国主義者の俗情にうったえて失敗したという点で、かつて石原慎太郎が主導した東京都尖閣諸島寄附金の図式に、よく似たものでした。◇自国第一主義を掲げる衆愚的な行動が、かえって国家の安泰を損ねてしまうのは、世の常です。安易な愛国主義がエスカレートすると、国際的なルールを無視し、科学的な事実を歪めてまでして、自国だけを美化しようとする不逞のヤカラも増えてしまいます。国際的な侮蔑と顰蹙を買い、多くの敵を作ってしまう。口先だけの「愛国」を声高に叫ぶ人間こそが、じつは本当の意味での「国賊」になりうるという歴史的な事実から、目を背けるべきではありません。北朝鮮や中国や韓国やアメリカがそうであるように、日本もまた安易な愛国主義者たちの巣窟になりはじめている。日本は、すでにそのような失敗を繰り返してきたのですが、いままた同じ過ちを繰り返そうとしています。◇国内で「自国第一主義」が極まると、海外の情報や常識との乖離が大きくなり、ついには鎖国的な状態にすることで、海外からの情報をシャットダウンせざるを得なくなります。ちなみに、現在のNHKが、すでにそうなりつつあります。明らかに報道内容が「自国(政権)第一主義」に偏っている。もはやNHKは、「何を報道しているか」ではなく、「何を報道していないか」に注意しなければならないメディアになっています。これもまた亡国のはじまりというべき時代の予兆です。
2019.01.13
信憑性があやしい首相の「サンゴ移植発言」について、その放送当事者であるNHKは、「番組内での政治家の発言について答える立場にない」としました。しかし、これはたんなる「一政治家の発言」ではなく、NHKでの首相の公式の発言です。◇ちなみにNHKは、「公平公正」と「不偏不党」の理念について以下のように説明しています。政治上の諸問題は公正に取り扱うこと、また、意見が対立している公共の問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにし、公平に取り扱うこととくに、意見が対立する問題を取り扱う場合には、原則として個々のニュースや番組の中で双方の意見を伝え、仮に双方の意見を紹介できないときでも、異なる意見があることを伝え、同一のシリーズ内で紹介するなど、放送全体で公平性を確保するはたして、この理念はどうなっているでしょうか?◇現在のNHKは、「他社の批判的な報道についてもコメントする立場にない」と述べています。しかし、たとえ他社の報道があろうがなかろうが、一国の首相の発言に対して「意見が対立する状況」が、すでに生まれています。にもかかわらず、なぜか現在のNHKには、自局での「首相発言」の正確性すら、検証する意思がないようです。ようやくNHKの本性が現れてきたな、という気がしています。
2019.01.12
パワハラを繰り返す人は、一種のパーソナリティ障害を抱えているといわれます。しかし、多くの場合、このような人々は自分のことを異常だとは考えていません。パワハラを受けて鬱病になった人が病院で薬を服用することはありますが、パワハラをする側の人が病院に行くことは滅多にないというのが現状です。パワハラの被害を受けて鬱病になったりする人は、本来ならパーソナリティに異常があるわけでもなく、むしろ正常な人です。正常だからこそ、不当なパワハラによって鬱状態に追い込まれるのだと言っていい。むしろパーソナリティに問題があるのは、パワハラをする側の人間なのですが、彼らは、自分こそが正常な人間だと思っています。そのために、病院に行って薬を飲んだり治療を受けることもしないのです。パワハラは、他人の人生を大きく狂わせてしまうような犯罪です。一方で被害者をケアすることも重要ですが、それ以上に、社会が加害者をどう取り扱うべきかが問われています。パワハラの加害者がそのままの生活を続けるのだとすれば、それは犯罪者を野放しにするのと同じことです。◇たとえば、生徒への暴力を「教育」だと思いこんでいる指導者や、子供への暴言や暴力を「しつけ」だと思い込んでいる親がいます。言語的な、あるいは身体的な暴力によって、相手を鬱状態に追い込んだり、死に追いやったりしても、それでも自分のやっていることは正しいと信じている。自分はまともだと思っているわけです。その結果として、このような人々は、家庭、職場、その他のコミュニティといったあらゆる場面で、くりかえし言語的・身体的なパワハラをしながら生きることになります。◇彼らは、生徒や部下などに対して、ストレスを与えることが「指導」であると思い込んでいます。それによって弱い人々を鍛えることができると思っているし、自分もそのようにして鍛えられてきたのだと思っている。このような人々に共通した特徴は、自分より弱い人たちだけを「指導」の対象にしているということです。自分は鍛えられてこそ強くなったのだと信じていますが、実際のところは、自分よりも弱い人間を目ざとく見つけながら、他人より優位に立てる場所を選んで生きているにすぎません。そして、自分よりも弱い人間にストレスを与えている瞬間にのみ、あたかも自分が優れた人間に成長しえたかのように錯覚するのです。このような人々は、自分よりも強い人間や優れた人間のことを直感的に苦手と感じます。そして、自分よりも弱い人間を目ざとく見つけ、彼らにストレスを与えている瞬間にこそ自分の存在価値を確認するのです。相手の優位に立とうとするあまり、ちまちまとしたことの挙げ足を取ってまでストレスをかけようとする。弱者を威圧したり見下したりすることによってのみ、ようやく自己肯定感を得ているといえます。◇本来の「教育」「指導」「しつけ」とは、ノウハウや技能や振る舞い方を伝達することであって、弱い者に対してストレスを与えることとは違います。そもそも、強いか弱いかは無関係です。強い者が指導すべきであり、弱い者が指導されるべきだというのは、いかにも「体育会」的な発想だといえます。いくら弱い者にストレスを与えたところで、なんら技能やノウハウを伝えたことにはならず、それはまったくのところ「教育」にも「指導」にも「しつけ」にもなっていません。育っているわけでもなければ、鍛えられているわけでもない。かえってストレスによって心身を委縮させてしまう場合もあります。かりに鍛えられたように見えるとしても、それは「自分より弱い者を威圧する」という行動原理を、そのまま次の世代に伝達しているにすぎない。「強い者を尊敬して弱いものを見下す」というような思考の回路が、そのまま再生産されているだけです。こういう思考回路をもつ人たちは、つねにパワハラをしながら生きているといっても過言ではありません。コミュニケーションのすべてが、つねにパワハラ的な要素をふくんでいる。こうしたパーソナリティは、改善することができるでしょうか。◇まず重要なことは、社会的な気づきであり、あるいは法的な気づきです。つまり、自分がしていることを客観的に見つめるための、社会的な機会、あるいは法的な機会を得ることが重要です。社会的な機会とは、家庭、職場、地域、コミュニティなど、周囲のにいる人々から何らかの形で気づきを与えられること。自分の言動が他人を傷つけているという事実に気づくことです。法的な機会とは、地域やコミュニティのルール、職場のコンプライアンスなどの倫理規定、さらには行政的な指導や法の執行といったものをつうじて、自分の行動の反社会性や反倫理性に気づくということです。このような気づきがあれば、たとえパーソナリティを変えることができなくても、自分自身の言動を抑制していくことができます。さらに重要なことは、それによって人間関係が変わることです。「強い者が弱い者を威圧する」といった体育会的なコミュニティとは違った、あらたな人間関係が存在することに気づくことができれば、それまで自分自身を規定していた行動原理そのものが変わっていくはずです。◇日本でパワハラの温床とも批判されているのは、学校の部活動などにありがちな「体育会」的な風土です。「体育会」的なコミュニティは、スポーツの世界に適していると思われがちですが、これは大いなる誤解です。スポーツと、体育会的な風土とは、本来、無関係です。体育会的な風土というのは、たんに強い者が弱い者を威圧する安直なコミュニティ原理の反復であって、多くの場合は、きわめて日本的な閉鎖性に由来するものです。べつに優れたスポーツ選手が、体育会的なキャラクターをもっているわけでもなければ、彼らが、体育会的なコミュニティによって育まれているわけでもありません。たとえば、イチローや野茂のような世界的な野球選手は、はたして「体育会」的なキャラクターの人間だといえるでしょうか?ジダンやペレのような世界的なサッカー選手が、はたして「体育会」的なキャラクターの人間だといえるでしょうか?彼らは、むしろ、日本社会でいうならば「文化会」的なキャラクターだとさえ言ってもいい。はっきりいえば、日本でいうところの「体育会」系のキャラクターをもったスポーツ選手は、たとえ国内の淘汰に勝ち残ることはあっても、世界のスポーツ界には通用しないでしょう。なぜなら、「体育会」的な集団の原理というのは、技能やノウハウを批判的に探求したり、伝達したりするためのシステムではなく、むしろ後輩や弱者にストレスを与えて威圧しながら、従来の慣行や慣習を盲目的に継続させるための共同体に結びつくからです。そのような共同体は、優れた才能の成長を妨げ、かえって潰している可能性さえあります。これと同じことは企業にも当てはまりますし、学校や家庭など、あらゆる種類の教育現場にも当てはまります。出る杭を打って潰していくような教育は、結果的に、日本全体の国際的な競争力を失わせてしまうわけですから、そのことへの危機感をもつ必要があります。Wikipediaのリンク自己愛性人格障害反復脅迫(強迫性障害)クラッシャー上司ブラック企業
2017.12.23
目下、音楽惑星さんのサイトにお邪魔して、「斉藤由貴」問題について考えております。
2017.09.08
全209件 (209件中 101-150件目)