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嵐の活動休止よりも驚いたことは、NHKの報道番組が、これをトップニュースとして伝えたことです。馬鹿か。NHKは、バカなのか。現在のNHKの報道は、いったいどうなっているのでしょう?報道というものを、ニュースバリューというものを、いったい何だと考えているのでしょう?◇べつに、嵐というグループに価値がないと言いたいのじゃありません。しかし、こんなことがトップニュースになるのなら、報道は、たんなる芸能プロダクションの宣伝媒体になってしまう。それどころか、政治の不都合な事実を「報道しない」ための隠れ蓑になりかねません。こんなことで、社会の真相を客観的に伝えられるはずがありません。◇すでにNHKは、安室奈美恵やいきものがかりの件なども大きく取り上げましたが、いきものがかりの場合には、活動が再開されているわけで、たとえグループ側の意図がどんなものだったにせよ、結果的には、NHKの報道が引退商法に利用されたも同然です。それ以上に問題なのは、こうしたエンタメニュースを取り上げるというNHKのルーティンが、政治の不都合な事実を「報道しない」ための口実になっていく、あるいは、恣意的にニュースバリューを下げるためのテクニックになっていく、ということです。事実、NHKは、そのような目論見をもって、こうした報道姿勢をすでに習慣化しようとしているのでしょう。現在のNHKの報道は、ほんとうに末期症状にあります。
2019.01.28
来年の東京オリンピックは、もとをただせば、俗情にうったえた石原慎太郎の国粋主義にはじまっていますが、このたびの贈賄疑惑報道に際して、いちはやく竹田恒和を擁護したのが、保守論壇の櫻井よしこや息子の竹田恒泰であったことからも、これが、いわば≪ネトウヨオリンピック≫としての側面をもっている、という事実をうかがい知ることができます。フランスで取りざたされた贈賄問題は、おそらくはルノーと日産の問題にかこつけた国家間の駆け引きであり、カルロス・ゴーンを拘束しつづける日本側の手法にも関係するのでしょうが、結局は、オリンピックのような自国主義的な側面で、かえって日本が足をすくわれる結果になっています。≪ネトウヨオリンピック≫は、このままでは、日本が致命的なほどに自信を喪失するイベントになりかねません。先ごろ明るみになった弁護士懲戒請求事件のような出来事も、安易な愛国主義者の俗情にうったえて失敗したという点で、かつて石原慎太郎が主導した東京都尖閣諸島寄附金の図式に、よく似たものでした。◇自国第一主義を掲げる衆愚的な行動が、かえって国家の安泰を損ねてしまうのは、世の常です。安易な愛国主義がエスカレートすると、国際的なルールを無視し、科学的な事実を歪めてまでして、自国だけを美化しようとする不逞のヤカラも増えてしまいます。国際的な侮蔑と顰蹙を買い、多くの敵を作ってしまう。口先だけの「愛国」を声高に叫ぶ人間こそが、じつは本当の意味での「国賊」になりうるという歴史的な事実から、目を背けるべきではありません。北朝鮮や中国や韓国やアメリカがそうであるように、日本もまた安易な愛国主義者たちの巣窟になりはじめている。日本は、すでにそのような失敗を繰り返してきたのですが、いままた同じ過ちを繰り返そうとしています。◇国内で「自国第一主義」が極まると、海外の情報や常識との乖離が大きくなり、ついには鎖国的な状態にすることで、海外からの情報をシャットダウンせざるを得なくなります。ちなみに、現在のNHKが、すでにそうなりつつあります。明らかに報道内容が「自国(政権)第一主義」に偏っている。もはやNHKは、「何を報道しているか」ではなく、「何を報道していないか」に注意しなければならないメディアになっています。これもまた亡国のはじまりというべき時代の予兆です。
2019.01.13
信憑性があやしい首相の「サンゴ移植発言」について、その放送当事者であるNHKは、「番組内での政治家の発言について答える立場にない」としました。しかし、これはたんなる「一政治家の発言」ではなく、NHKでの首相の公式の発言です。◇ちなみにNHKは、「公平公正」と「不偏不党」の理念について以下のように説明しています。政治上の諸問題は公正に取り扱うこと、また、意見が対立している公共の問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにし、公平に取り扱うこととくに、意見が対立する問題を取り扱う場合には、原則として個々のニュースや番組の中で双方の意見を伝え、仮に双方の意見を紹介できないときでも、異なる意見があることを伝え、同一のシリーズ内で紹介するなど、放送全体で公平性を確保するはたして、この理念はどうなっているでしょうか?◇現在のNHKは、「他社の批判的な報道についてもコメントする立場にない」と述べています。しかし、たとえ他社の報道があろうがなかろうが、一国の首相の発言に対して「意見が対立する状況」が、すでに生まれています。にもかかわらず、なぜか現在のNHKには、自局での「首相発言」の正確性すら、検証する意思がないようです。ようやくNHKの本性が現れてきたな、という気がしています。
2019.01.12
パワハラを繰り返す人は、一種のパーソナリティ障害を抱えているといわれます。しかし、多くの場合、このような人々は自分のことを異常だとは考えていません。パワハラを受けて鬱病になった人が病院で薬を服用することはありますが、パワハラをする側の人が病院に行くことは滅多にないというのが現状です。パワハラの被害を受けて鬱病になったりする人は、本来ならパーソナリティに異常があるわけでもなく、むしろ正常な人です。正常だからこそ、不当なパワハラによって鬱状態に追い込まれるのだと言っていい。むしろパーソナリティに問題があるのは、パワハラをする側の人間なのですが、彼らは、自分こそが正常な人間だと思っています。そのために、病院に行って薬を飲んだり治療を受けることもしないのです。パワハラは、他人の人生を大きく狂わせてしまうような犯罪です。一方で被害者をケアすることも重要ですが、それ以上に、社会が加害者をどう取り扱うべきかが問われています。パワハラの加害者がそのままの生活を続けるのだとすれば、それは犯罪者を野放しにするのと同じことです。◇たとえば、生徒への暴力を「教育」だと思いこんでいる指導者や、子供への暴言や暴力を「しつけ」だと思い込んでいる親がいます。言語的な、あるいは身体的な暴力によって、相手を鬱状態に追い込んだり、死に追いやったりしても、それでも自分のやっていることは正しいと信じている。自分はまともだと思っているわけです。その結果として、このような人々は、家庭、職場、その他のコミュニティといったあらゆる場面で、くりかえし言語的・身体的なパワハラをしながら生きることになります。◇彼らは、生徒や部下などに対して、ストレスを与えることが「指導」であると思い込んでいます。それによって弱い人々を鍛えることができると思っているし、自分もそのようにして鍛えられてきたのだと思っている。このような人々に共通した特徴は、自分より弱い人たちだけを「指導」の対象にしているということです。自分は鍛えられてこそ強くなったのだと信じていますが、実際のところは、自分よりも弱い人間を目ざとく見つけながら、他人より優位に立てる場所を選んで生きているにすぎません。そして、自分よりも弱い人間にストレスを与えている瞬間にのみ、あたかも自分が優れた人間に成長しえたかのように錯覚するのです。このような人々は、自分よりも強い人間や優れた人間のことを直感的に苦手と感じます。そして、自分よりも弱い人間を目ざとく見つけ、彼らにストレスを与えている瞬間にこそ自分の存在価値を確認するのです。相手の優位に立とうとするあまり、ちまちまとしたことの挙げ足を取ってまでストレスをかけようとする。弱者を威圧したり見下したりすることによってのみ、ようやく自己肯定感を得ているといえます。◇本来の「教育」「指導」「しつけ」とは、ノウハウや技能や振る舞い方を伝達することであって、弱い者に対してストレスを与えることとは違います。そもそも、強いか弱いかは無関係です。強い者が指導すべきであり、弱い者が指導されるべきだというのは、いかにも「体育会」的な発想だといえます。いくら弱い者にストレスを与えたところで、なんら技能やノウハウを伝えたことにはならず、それはまったくのところ「教育」にも「指導」にも「しつけ」にもなっていません。育っているわけでもなければ、鍛えられているわけでもない。かえってストレスによって心身を委縮させてしまう場合もあります。かりに鍛えられたように見えるとしても、それは「自分より弱い者を威圧する」という行動原理を、そのまま次の世代に伝達しているにすぎない。「強い者を尊敬して弱いものを見下す」というような思考の回路が、そのまま再生産されているだけです。こういう思考回路をもつ人たちは、つねにパワハラをしながら生きているといっても過言ではありません。コミュニケーションのすべてが、つねにパワハラ的な要素をふくんでいる。こうしたパーソナリティは、改善することができるでしょうか。◇まず重要なことは、社会的な気づきであり、あるいは法的な気づきです。つまり、自分がしていることを客観的に見つめるための、社会的な機会、あるいは法的な機会を得ることが重要です。社会的な機会とは、家庭、職場、地域、コミュニティなど、周囲のにいる人々から何らかの形で気づきを与えられること。自分の言動が他人を傷つけているという事実に気づくことです。法的な機会とは、地域やコミュニティのルール、職場のコンプライアンスなどの倫理規定、さらには行政的な指導や法の執行といったものをつうじて、自分の行動の反社会性や反倫理性に気づくということです。このような気づきがあれば、たとえパーソナリティを変えることができなくても、自分自身の言動を抑制していくことができます。さらに重要なことは、それによって人間関係が変わることです。「強い者が弱い者を威圧する」といった体育会的なコミュニティとは違った、あらたな人間関係が存在することに気づくことができれば、それまで自分自身を規定していた行動原理そのものが変わっていくはずです。◇日本でパワハラの温床とも批判されているのは、学校の部活動などにありがちな「体育会」的な風土です。「体育会」的なコミュニティは、スポーツの世界に適していると思われがちですが、これは大いなる誤解です。スポーツと、体育会的な風土とは、本来、無関係です。体育会的な風土というのは、たんに強い者が弱い者を威圧する安直なコミュニティ原理の反復であって、多くの場合は、きわめて日本的な閉鎖性に由来するものです。べつに優れたスポーツ選手が、体育会的なキャラクターをもっているわけでもなければ、彼らが、体育会的なコミュニティによって育まれているわけでもありません。たとえば、イチローや野茂のような世界的な野球選手は、はたして「体育会」的なキャラクターの人間だといえるでしょうか?ジダンやペレのような世界的なサッカー選手が、はたして「体育会」的なキャラクターの人間だといえるでしょうか?彼らは、むしろ、日本社会でいうならば「文化会」的なキャラクターだとさえ言ってもいい。はっきりいえば、日本でいうところの「体育会」系のキャラクターをもったスポーツ選手は、たとえ国内の淘汰に勝ち残ることはあっても、世界のスポーツ界には通用しないでしょう。なぜなら、「体育会」的な集団の原理というのは、技能やノウハウを批判的に探求したり、伝達したりするためのシステムではなく、むしろ後輩や弱者にストレスを与えて威圧しながら、従来の慣行や慣習を盲目的に継続させるための共同体に結びつくからです。そのような共同体は、優れた才能の成長を妨げ、かえって潰している可能性さえあります。これと同じことは企業にも当てはまりますし、学校や家庭など、あらゆる種類の教育現場にも当てはまります。出る杭を打って潰していくような教育は、結果的に、日本全体の国際的な競争力を失わせてしまうわけですから、そのことへの危機感をもつ必要があります。Wikipediaのリンク自己愛性人格障害反復脅迫(強迫性障害)クラッシャー上司ブラック企業
2017.12.23
目下、音楽惑星さんのサイトにお邪魔して、「斉藤由貴」問題について考えております。
2017.09.08
以前、リストカットについて書いたことがある。2004年の12月なので、3年以上も前。http://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/200401230000/最近、ネットを見ていて気がついたんだけど、この3年余りの間に、当時と変わってきたことが2つある。◎リストカットのことを「瀉血」と呼ぶのが一般的になってる。 もしかしたら、わたしの日記が発端なのか?◎2006年の5月ぐらいに、 鍼灸師による瀉血治療が「違法」との判決が出ていること。なんとなく、2004年のわたしの日記の内容にもかかわることだし、べつにわたしに責任があるかどうかは分からないけど、いちおう、今の時点でわたしなりに落とし前をつけておきたい、と思っています。◇2004年の日記を、わたしがなぜ書いたか、というと、それは、わたしの中に、「排血衝動には生理的な根拠がある」という感覚があったからです。つまり、これは一概に「病気」と言えないところがある、と思うから。実際、おなじ排血行為であるにもかかわらず、現在のリストカットは「病気」であるとされ、伝統的な瀉血行為は「医療」として行なわれてきた。同じことが、別の範疇でくくられています。これは、いわば観念の問題であり、また政治の問題でもあると思う。◇まずは、鍼灸の瀉血についてですが、2006年の裁判の内容は、正直よく分かりません。どうも、「刺絡鍼法は適法だが、瀉血療法は違法である」というような理屈があるらしいんだけど、そもそも「刺絡」と「瀉血」がどう違うかも、なにやら判然としない。しかし、ここに感じられるのは、西洋医学を中心とする日本の医療政治思想のなかに、伝統的な医療に対して、きわめて排他的な見方、そして不遇な扱いがある、ということ。そもそも、これといった被害実態があるわけでもないのに、なぜ継続的に行なわれていた治療が訴訟の憂き目に会うのか、そこのところも、よく分からない。いずれにせよ、その背景には、「瀉血で治療するなど迷信である。野蛮で不潔である。」といった観念が、西洋医学を中心とする日本の医療思想の土台にいまも存在して、それが暗然と司法にまで及んでいる実態が見てとれます。患者側に多くの需要があり、かつ、なんら被害もないのに、何故かそれは、なかば政治的に排除されてしまう、という情況がある。反対に、西洋医学的な療法の場合、かりに現実に被害の実態があったとしても、しばしば法的に、また政治的に保護されてしまう情況さえある。西洋医学はデータに基づいた科学であり、伝統療法はただ経験医学にもとづくだけの非科学的な迷信にすぎない。しばしばそのような見方もされると思う。けれど、たとえば作用機序がはっきり分からないまま、経験的に効果が認められるというだけで認可される医薬も少なくない。使ってみてはじめて激しい副作用のあることが確認されるケースもある。つまり、西洋医学的な療法であっても、すべてが「科学的根拠」のもとに行なわれているわけではなく、現実には、西洋医学もかなりの部分を「経験医学」に依拠してる。そう考えると、それこそ「科学的な根拠」もないままに、伝統的な療法が政治的、観念的に排除されている実態は、わたしたち国民の福祉にとって利益になっているのか訝しいと思える。◇さて、リストカットのほうですが、かりに排血衝動が生理的な根拠をもつものだとしたら、その行為を「病的なもの」と決め付けること自体が誤りなわけです。まして、それは、精神科や心理カウンセリングの対象にはならない。けれど、現在の医療風土の中では、「排血行為」は精神的に異常な行動だと看做されるし、本人たちもそのように思い込んでしまう。そしてそれは「自傷」の表現なのだ、と自他ともに解釈されていく。これは、はっきり断言しておきたいことだけど、「自傷行為」と「排血行為」は区別して考える必要がある。しかし、社会や本人たちはおろか、医療の人間さえ、これらを根拠なく混同しているのです。もちろんリスカをする状況は「健全」ではないと思う。何かしらバランスが崩れているのは間違いないと思います。しかし、それがたんに精神科や心理カウンセリングの適応だとは、科学的にいっても信用できない。◇西洋医学的な医療を一概に悪者扱いすることもできないけれど、医療そのものによって生み出される病気は少なくないですね。薬害肝炎や薬害エイズはもちろんその一例だけれど、リストカットもその一つかもしれない。そして、これは観念的なものであるだけに、よりいっそう根が深いかもしれない。つまり、伝統的な瀉血療法が「違法」とされるのと同じ思想風土のなかで、リストカットもまた「ビョーキ」のレッテルを貼られているのではないか。そう思えてなりません。しかし、それはかつてならば、ともに「医療」として行なわれていたかもしれないのです。現在の、リスカをする少女たちは、精神科や心理カウンセリングに送られる、という扱いを受けます。彼女たちが精神科の治療や心理カウンセリングを受けたところで、そのリスカが「治る」などという科学的な根拠はどこにもないにもかかわらず。そして、結果的には、きわめて不衛生な状況で、しかも、まったくの不見識な方法で、自分の腕を切り続けてしまう。でもって、ついには腕が傷だらけになってしまう。現在の医療観念によって「ビョーキ」の範疇に入れられる彼女たちは、ある意味の西洋医学思想の「被害者」じゃないかと思えてなりません。
2008.06.28
国家の「自衛権」が認められるのは、それが「自然権」と見なされるからだ、とされています。個人の「自然権」が集合しているとされる国家には、自然権のひとつである「個人の生存権」と同様に、「国家の生存権」というべきものが認められることになり、それがすなわち、国家の「自衛権」の根拠になるというわけです。けれど、一般に「個人の生存権」を認めるということと、個人によるピストルの所持や、その使用を認めることとは別問題です。それと同じように、「国家の生存権」を認めるということと、国家による自衛力の保持や、その行使を認めることとは、理論的に別な話です。◆安全保障にかんする日本国内の議論には、「自衛戦争は○で、侵略戦争は×。そして制裁戦争は△」というようなイメージがある。ですが、「自衛が○で、侵略が×だ」というのは、ほとんど語義矛盾です。≪自衛≫と≪侵略≫は、もともと土台を同じにする概念だからです。のみならず、現実において、両者はほとんど区別できません。「先にやった」ほうが≪侵略≫にあたり、「やられたからやり返した」というのが≪自衛≫にあたります。けれども、子供の喧嘩をいつも「両成敗」にせざるをえないように、「どちらが先にやったか」というのは、いつだって水掛け論になる。かりに、中国や北朝鮮がミサイルに燃料を注入したとして、それが撃たれる前に、日本の自衛力によってそれを叩いたとすると、相手から見て、それは確実に「日本からの侵略」と見なされるわけです。「撃たれる前に撃つ」というのは、≪自衛≫であると同時につねに≪侵略≫です。ですから、この二つは同じ概念です。「自衛はやるけれども侵略はしません」というのは、まったく意味をなさない約束です。かりに「侵略をしない」のと言うのならば、それは「自衛もしない」ということでなければ意味がありません。◆最近も銃の乱射事件がありましたが、アメリカでは、個人のピストルの所持が認められています。つまりアメリカでは、個人における「自衛力」の保持が放棄されていません。しばしば「自衛権は自然権だ」といわれるとおり、たしかに、「自然」な状態における人間は、槍などを持って、身を守るために戦っていたのかもしれません。けれど、個々人が槍やピストルで戦いあうような社会を「正しい社会」だとは、いまや誰も思っていません。すくなくとも、日本でそう思う人は皆無だと思います。「自衛権が自然権だ」と言うのと、「自衛力の保持が自然権だ」と言うのは異なります。この区別はきちんとつけるべきです。また、「自然権」と言えば聞こえはいいですが、べつに「自然」な状態を維持するのが正しいわけでもありません。日本国内の社会では、各人の「自衛力」というのは、事実上、放棄されています。じつは、容易に個人が「自然権(自衛権)」を行使できる状態よりも、それを行使しにくい状態にしたほうが、社会の安全は維持しやすいからです。その代わりに、警察のみがピストルを所持し、手錠で人を逮捕したりすることができます。これは、いわば≪制裁≫のために使われる武力であって、「自衛力」とは違います。◆おのおのが勝手に「自衛力」を行使しあうような、そんな「自然=野蛮な状態」というものが、いかに危険で不安定なものであるかということを、アメリカは現在、国内社会においても、そして国際社会においても、強く感じているはずです。この「自然=野蛮」というべき状態が続くかぎり、今後も巨大な武力で暴れまわる犯罪者の出現は後を絶たないでしょう。つまり、国内でも、国際社会でも、テロや侵略行為は続くことになる。したがって、ここに挙げた二つの社会は、いずれ「各国(各人)の自衛力を放棄させる」ことを目指さざるをえなくなると思う。国際社会において、その実現を迫られるのは、アメリカをはじめとする大国なのですが、そのためには、国際社会における≪制裁≫のシステムを急がなければいけません。「正しい戦争」があるなどとは言いたくありませんが、やはり国際社会においても、警察権力のような組織によっておこなわれる治安行動は不可欠です。つまり、かりに「正当な武力行動」というものがあるとすれば、それは≪自衛≫でも≪侵略≫でもなく、唯一≪制裁≫のみだと思います。≪制裁≫という概念は、≪自衛≫のように主観的な根拠によってではなく、法などのような客観的な根拠に基づいて正当化できる概念です。したがって、理論的には「自衛も×、侵略も×、制裁のみが○」だと言うべきです。◆イラク戦争の失敗は、アメリカが客観的な根拠を得ずに単独で≪制裁≫に踏み切ったことにあります。たしかに現在の国際社会における≪制裁≫のシステムは充分とはいえません。とはいえ、各国が自衛力を行使しあう「自然=野蛮」な状態がいずれ破綻することも明らかです。各人や各国がその「自衛力」を行使しあう社会というのは、野蛮であり、いつも危険であり、不安定な社会です。のみならず、そうした社会の中では、それぞれが、みずからの「自衛力」を、絶え間なく、かつ際限なく、周囲よりも強くし続けなければならない。それは、警察のような制裁力に依存した社会にくらべて、エコノミーの面からいっても、非常に負担が大きいといえます。たとえば中国やロシア等と、アメリカとが一致して、国際的な≪制裁≫のシステムを作ることに合意することができれば、大国から順にその「自衛力」を放棄し、防衛の根拠を国際的な「制裁力」のほうに移行させ、同時に、世界の中小諸国に対しても「自衛力」の放棄を迫ることはできます。「自然=野蛮な状態」というものの危機が、諸大国の利害を超えるレベルに達しつつあるとすれば、世界はそうした方向へ進むしかない。◆ ◆ ◆現在、安倍内閣は、憲法において「自衛権」と「自衛力」の存在を明記しようとしていますが、この期に及んで「自衛こそが正当だ」とする戦争観念に戻ろうとすることは、実際には、時代の流れに逆行しようとする国家の意思表明であり、のみならず、それが現実には「アメリカの自衛力の強化」を意味することを考慮すれば、日本の憲法改正は、現在の国際社会に対して誤ったメッセージを発信することになる。つまり、それは、中国をはじめとする世界各国に対して、各々のさらなる「自衛力の強化」をうながすメッセージとして受け取られる。「今後も世界は自然=野蛮な方向へ進むのだから、各々は自衛力を強化しろ。」という、世界に向けた日米からの強いメッセージになる。これは、たんに国内的な議論でとどまる問題ではありません。こうしたメッセージを放つことは、歩むべき国際社会の進路に逆行する政策です。
2007.05.04
あわよくば、すべての極東裁判の内容を拒否してしまおうという、そういう貧しい発想を、よりによって「政府見解」にしようとしてるところに、安倍晋三という人物の、右翼的な幼稚さが出てる。安倍の繰り広げた理屈は、つまり、こうです。日本は、国際社会にむかって、極東裁判の内容に対する異義を申し立てる立場にはない。けれども、国際社会から、「極東裁判の断罪の内容に同意したのか?」と聞かれたら、日本政府は「うん」とはいわない。すごいなー。バカだなー。安倍。こりゃまた国連脱退だな・・。「敵国」復帰。◇安倍晋三は、大江健三郎の言った「あいまいな日本」に対抗すべく、あくまで川端が未練がましく語ったような、「美しい日本」の幻影に固執してる。でも、やっぱり「あいまいな日本」だな。ほかならぬ、安倍自身がいちばん「あいまい」なんだから。過去のあやまちを潔く受け入れないかぎり、日本は、いつまでたっても、- 美しい国 - になんかなれませんよ。やっぱり、日本は永久に「あいまいな国」のままだな。けっきょく、大江健三郎の予言は、こういうカタチで当たるんだよ。
2006.10.06
6月7日の日記にトラックバックをいただいて、NHK-FMの件について達郎の発言があったとかを含め、ネットでも、このことでけっこう意見が交わされてる状況を知りました。わたしの考えは7日の日記に書いたとおりですが、あらためて書いておきます。わたしは、べつに、「NHK-FMを絶対削減するな」と言いたいわけじゃない。たしかに、放送文化だのマスメディアだのが、旧世代のノスタルジーだと思われる時代がもうじき来るのかもしれない。あるいは、NHK-FMがあることによって、クラシック音楽の放送などにかんする民間参入の機会が阻まれて、その文化的価値観が独占・操作されてしまってるかも、という逆の弊害も、もしかしたら、あったりするのかもしれない。いずれにしても、そうしたことをすべて議論した上で、メディア環境に関する新たなビジョンを示すことが、何より重要。ただ「削減」という結論だけじゃ、だれ一人納得しない。それでなくても、竹中とその周辺は、いまやホリエモンと同一視されてるんです。実際、「新しい時代がどうのこうの」と言いながら、その具体的なビジョンを示せないのなら、けっきょくホリエモンと変わらない。たんなる市場原理主義を盾にした横暴な議論と思われて終わり。とりあえずNHK-FMの議論にかんして言えば、現在、NHK-FMによって国民が受けている恩恵を、将来、どんなサービスによって代替するつもりなのか、どう取って代えるのか。そのビジョンが示されなければ、この懇談会も、そのメンバーもあぼんなんだよ。そして、本来なら、これから先のメディア環境全体にかんするビジョンを予測して、そのうえで、ようやく、公共放送の存在意義についての見解も示せるんだし、実際、そこまで示さなきゃ議論した意味がありません。NHK-FM以前に、この懇談会そのものの存在意義のほうが問題になってくる。「市場原理で行きましょう」なんていう結論だけだったら、そんなのホリエモンにもできるんだから。ちゃんと議論して。
2006.06.19
昨日、池津祥子が言ってたビリー・ミリガンは、やっぱり「由貴ちゃんネタ」のひとつと考えていいみたいです。わたしも詳しく知らなかったけど、斉藤由貴ちゃんは、この手の多重人格ものの小説で、書評を書いたり、解説やあとがきを書いたりしてるみたい。すごーい。さすが文学嫁、じゃなくて文学アイドル。そして。やな家が、『うたばん』に出るんですね!由貴ちゃんの歌番組出演、ものすごい久しぶり?!(*~~*) がんばってーっっ!!貴明に宗教がらみでバカにされたら、ミッチーに助けてもらってっっ!!◇喫茶「ジャンバルジャン」。バタくさいマスターと、あたまの足りない給仕。あだ名は付かなかったけど、じゅうぶん笑えました。なにやら本格的なミュージカル、『その男マドロス』。『ゾルバ』のパロディ?これってギャグなんでしょうか?それとも、なにかの伏線?すみません。わかりません。(T_T)◇モンナシーヌで「みどり」に戻って、なまはげでまた「吾輩」に逆戻り。これから、行ったり来たり、いそがしそーですね。
2006.06.02
またまたやってくれました。アメリカ人のボブ・デービッドソンさん(白人)。「大誤審」なんて言葉が、もともとあるんでしょうか?はじめて聞きました。イナバウアーにつづいて流行語にもなりそうな勢い。大誤審、愛国ジャッジ、史上最低の審判、etc・・ボブさんのような人物というのは、今のアメリカ以外には存在しえない気がする。ああいうキャラクターの人は、他の国にはいないだろうと思う。彼は、とてもアメリカ人らしいアメリカ人に見えます。◇彼には、今のアメリカの「孤立主義」が象徴されてる気がする。 自分の論理にのみしたがって行動し続けること。 それがアメリカの「孤立主義」。アメリカの国家はいま、「孤立主義」こそがアメリカの取るべき行動規範であると、自国民にむけて、身をもって示しています。今回の審判員だったボブさんは、まさしくそのアメリカの行動規範たるものを忠実に実践してるように見える。あきらかに間違っているのに「正しい」と言いつづける、その彼の、堂々として、屈することのない姿勢は、どこかしら、現在のアメリカ大統領の面影にも重なって見えた。◆孤立主義、その光と影。「孤立主義」を続けているかぎり、たしかに“自分が世界の中で一番なんだ”と思い込むこともできる。でも、その反面、鏡に眼を向けようとしないかぎりは、その思い込みと自分の真の姿とのあいだで、大きな乖離が生まれてしまっていることに気づくこともできない。それは何より、ほかでもない、自分自身にとって大きな弊害なんです。いつかは必ず、そのツケが回ってくるから。ふと鏡に映った、自分自身の本当の姿に気づいた時には、もうおそい。誤審もむなしくアメリカは敗退したけど、今回のWBCは、アメリカにとって、とても大事な、ひとつの教訓になったように思います。じつは、アメリカ人自身、今の自分たちの本当の姿に、うすうす気づきはじめてるんだと思う。あらゆる点で、アメリカは今回の顛末に目を背けるべきじゃない、と、わたしは思います。
2006.03.17
今日は珍しく沖縄ネタ。◇ ◆小泉おやじは、沖縄の普天間飛行場の県外移設ができない理由について、「他の自治体では反対が強いからだ」と説明しました。でも、沖縄でも地元の反対が強くて合意ができない。もし、政府が、特措法をつかって強硬な辺野古基地建設をするなら、そのとき、この小泉おやじの説明は、下のような意味をもつことになる。沖縄以外の自治体では、反対を押し切ってまで基地を作ることはない。しかし、沖縄でなら、地元の反対を押し切って基地を建設しても構わない。同じ日本の都道府県でありながら、特定の都道府県のみを差別的に処遇することの意味。近代日本成立後100年を過ぎた時点で、このような、ある種「民族差別的」とも言える対応をとることが、民主主義国家にとって、どんな意味をもつことになるか。政府は、そのことを深刻に考えたほうがいいはず。日本という国家の安定性が、そこから根底的に揺らぐことになる。◆辺野古に新基地を作ることは、絶対にやめたほうがいい。ぶっちゃけ、普天間は、永久に残るということはないです。日本政府やアメリカを含め、だれひとり、その存続を望んでる人はいないから。地元はもちろん、日本もアメリカも、あの基地の危険性をよく承知しています。だから、なるべく早くあれを別の場所に移したいと思ってる。だから普天間は、多かれ少なかれ、今の場所からはなくなります。でも逆にいえば、いちど辺野古に新しい基地を作ってしまったら、それは、ほぼ永久的に残ってしまうってことになる。つくってしまったら最後、移す必要も、なくす必要もなくなる。それはいつまでも残る。かりに日本を取り巻く軍事的状況が変わっても、その海上の建造物はずっとそこに存続することになる。そういう意味で、「辺野古」は最悪の選択です。「いずれは民間で使う」なんていう馬鹿げた意見もあるけど、そもそも、あんな場所に民間の飛行場なんて必要もありません。はっきり言って、名護市民のための飛行場なんて、無駄な公共工事以外の何ものでもない。これからそう遠くない時期、北朝鮮をはじめとして、極東の軍事バランスが大きく変わる可能性は充分あります。それを見極める前に、不用意なかたちで新基地を建設したりするのは、とてつもなく愚かです。◆ついでに、今日も「嘉手納」のことを書いておきます。以前にも書いたとおり、嘉手納にある巨大な米軍基地というのは、あれは「日本のための軍事基地」ではなく、あくまでも「アメリカのための軍事基地」です。この極東最大の米軍の戦争基地は、ベトナム戦争やイラク戦争など、つねにアメリカ自身の戦争のために利用されています。この基地は、アメリカにとって、いわば太平洋戦争における、日本からの最大の「戦利品」です。この基地を日本に置くことが出来るがゆえに、アメリカは、世界中で戦争をすることができている。この基地こそが、アメリカを「世界の支配者」たらしめています。逆にいえば、この基地が日本の領内にあるかぎり、日本は、アメリカにとっての「敗戦国=従属国」であり続けるってこと。いまだ国連憲章に「敵国条項」があるのと同じように、嘉手納基地がある限り、日本の領土は「敵国の土地」であり続けていて、それはアメリカの戦争拠点として利用されつづけている。そして、これらのものが無くなって、これらの屈辱から解放されたときにはじめて、日本は国際的な意味で「戦後」から抜け出せるってことになる。嘉手納がある限り、日本は米国の奴隷です。「嘉手納の基地は自衛隊がそのまま使うんだ」みたいなことをいう国内の軍オタもいますが、もし自衛隊の戦闘機が、自国民の住宅の上をかすめて、なりふりかまわず飛び回るんだとしたら、そんなものは、もはや国民を守る組織ではありません。日本という民主主義国家が、「敗戦国」としての屈辱から抜け出すためには、嘉手納をなくさなければなりません。いわゆる「嘉手納統合案」というのがありますが、これは嘉手納の機能と普天間の機能を並存させるということではなく、アメリカの「戦争基地」としての嘉手納基地を閉鎖した後で、大幅に縮小されたその地域に、普天間の機能を移すという意味でなら、はじめて受け入れ可能になる案なんだろうと思います。実際、海兵隊が大量に削減されることになった今、「人間の輸送」という嘉手納の役割も大幅に縮小することになった。のみならず、今回の再編で、在沖縄の軍事物資が事前集積船に移せることも明らかになりました。その点でも、嘉手納の輸送機能は縮小が可能だということ。だから、これは、決して不可能な考えではありません。
2006.03.08
わたしは車に全然興味がないので、いちども見にいったことありませんけど、毎年テレビで見るかぎり、このショーの最大の目的は、自動車をとおして「未来的なイメージ」をかきたてることなんだろうと思う。でも、わたしには、その「未来」のイメージってのが不十分に思えます。わたしは、車社会というのがあまり好きじゃないし、車にもべつに興味ない。そして、このモーターショーが提起している未来イメージというのは、わたしみたいに車がべつに好きじゃない人たちが、一般的に「自動車」というものに感じているストレスを、スカッと払拭してくれるようなものにはなっていません。人々が、自動車に対して感じるストレスというのは、いろいろあります。たしかに、燃費とか、排気ガスとか、環境にかんする問題もあるし、騒音の問題もある。それから、安全性の問題もあるし、操作の利便性なんかについてのこともあると思う。でも、現代人が車に対して感じている最大のストレスは、「道路」それじたいに起因するものだろうとわたしは思います。道路公団の問題もありましたけど、なぜ、わたしたちが車社会にストレスを感じるのかといえば、それは、わたしたちの住む世界が、際限もなく、道路だらけ、アスファルトだらけ、車だらけ、になっていくという現実があるからです。それじたいがストレスです。人間の歩く道がない。人間が互いに交われるような辻もない。子供が走って遊ぶ場所もない。ぜんぶ道路。 ぜんぶ車。 何もかもアスファルト。かりに、アスファルトの道路の上を、どんなに進化した「近未来的な車」が走ったとしても、その道路じたいに何も変化がないのなら、このストレスは、決してなくなることがありません。うんざりするほど道路だらけです。「未来の車社会」を考えるというのは、道路のうえの「車」だけを考えるってことじゃなく、「道路」も含めて考えていくってことでなきゃならないはず。ていうか、ぶっちゃけ、まず「道路」から考えるべきです。モーターショーが「新しい車社会」を描くのなら、「未来の道路」も含めて提案すべきじゃないでしょうか。☆道路は今の広さでいいんですか?☆灰色のアスファルトでなきゃいけないんですか?☆家の前まで道路でなきゃいけないんですか?そういうことを、根本的にイメージしなおしてほしい。もう100年以上たったんだから。・・そういえば、昔、手塚治とか松本零士のアニメなんかだと、未来の道路は、空中に張りめぐらされてたような気がする。あれは「道路」というより、もはや「レール」だったかもしれない。たぶん、乗ってる人は「運転」なんかしてないはず。そのほうが、安全だし、速いし、遠くまで行けそう。わたしも、出来ることなら、車の道路は、細くてしなやかなレールぐらいにしておいてほしい。
2005.10.19
内閣府に「少子化対策推進室」が設置されるそうです。そういうものを設置することに対しては、だれも文句なんか言わないだろうし、実際、少子化に対して何もやらないわけにもいかないのでしょう。でも、そうかといって、そのぐらいの試みで、現実に有効な対策が立てられるのかというと、これといった見通しもほとんどないのが現状だろうと思います。わたし自身のことをいえば、いわゆるマクロ的な意味での「少子化問題」には、あまり関心がありません。マクロ的な視点で「少子化問題」を語る人たちは、早い話、「経済」(もっと言えば「財政」)のことしか頭にない。でも、少子化というのは、たんなる「マクロ経済的な問題」で済まされることではありません。子供を生み、育てることができなくなってる、これは、ほかでもなく、「人間社会」そのものが崩壊しつつあるってことだから。人間が、人間自身を再生産できなくなってきている。種としての人間が、世代を引き継ぐことができなくなりつつある。わたしから見れば、これは「財政」とか「国債」とか「年金」とかいったこと以上に、もっと、生物学的で、実存的な危機を意味してるんじゃないかと思います。◆少子化の原因として、しばしば、経済的な貧困とか、女性の労働環境のことなどが言われます。もちろん、そういった原因もあると思う。でも、「経済的な基盤さえあれば子供ができる」というのは間違いです。子供を生み、育てるためには、まず、その背後に“共同体”というものがなければ無理だと思う。いくら経済的な基盤があっても、共同体から切り離された核家族だけで子供を生んで育てるというのは、根本的にいって無理があると思います。たんに人間の「数」を殖やせばいいだけなら、それでもいいかもしれない。つまり、マクロ的な問題として、経済的に処理すればいいのかもしれないけど、そもそも、人間というのは、パンダやらトキなんかとは違います。「数」だけ殖やしときゃいいってもんじゃない。人間は、人間の社会がなければ育ちませんし、生きていけません。それは、子供だけでなく、大人も同じです。人間の社会や、共同体というものがなければ、大人の人間でさえ、自分自身を日々再生産することはできないと思う。親や子をふくめ、すべての人間にとって、共同体の存在は不可欠だと思います。けれど、今から、地域の共同体や、地縁、血縁、親族などで結ばれた、濃密な共同体のつながりを取り戻すことも不可能に近い。だいいち、もはや現代人は、そういうものの復活を望みません。だから、新しい共同体の形を構築しなおさなきゃならないと思います。◇それは、地縁とか、血縁とか、婚姻といった関係だけで結びつく共同体じゃなく、まったくの他人どうしが、自由な意思だけでつながりあえるようなものじゃないといけない。たとえば、わたしは、ドミトリーみたいな共生の形態が増えればいいんじゃないかと思う。ドミトリーというと、従来なら、学生とか、一人暮らしの独身者とか、経済的に余裕のない単身者などが住む場所ってイメージでしたけど、でも、わたしは、ドミトリーのようなスタイルの生活空間には、もっともっと多様な可能性があってもいいんじゃないかと思ってます。じっさい、最近は、「ルームシェア」みたいな形で、血縁関係でも、婚姻関係でも、いわゆる同棲でもなく、まったくの他人どうしが、お互いの事情と自由な意思とでもって生活空間を共有しよう、みたいなスタイルも出てきています。それは、経済的な事情もあるだろうけど、その背景には、共同体から切り離された個人が潜在的に抱えてる、「不安」とか「孤独」ってのもあると思う。わたしが考える「ドミトリー」というのも、「ルームシェア」みたいな発想に近いかもしれません。もっと多数の人間によって、システム的に生活空間を共有するような、「ルームシェア」の延長のようなかたちのドミトリー。しかも、そこに住むのは、単身者だけでなく、核家族や、老人をふくむ生活集団であってもいいんじゃないかと思う。もちろん、シングル・ペアレントとその子供だって構わない。従来のドミトリーでは、結婚したり、子供を生んだりすれば、ドミトリーを出て行くのが普通だったと思うけど、べつに、ドミトリーの中で結婚をして、子供を生み、世代を交代したっていいと思うんです。◇ドミトリーというのは、そこに住むメンバーが、互いに協働しながら生活を作っていく場所です。それぞれのプライバシーを守りながらも、お互いが、お互いに対して、ほどよく開かれていて、共有する物や空間ももっている。じつは、こういう生活形態は、現代の「大量生産、大量消費、大量廃棄」を克服するための、有効な手段にもなりえるものです。お互いに協働し、さまざまなものを共有するという点で、それは、従来のマンションやアパートみたいなものとは違います。老人ホームとも違う。たとえば、従来のマンションというのは、それぞれのプライバシー空間が完全に遮断されてるし、ほとんど互いに接点はありません。共有するものもほとんどない。マンションの住人というのは、全員がマンションのサービスを享受するだけで、たがいにサービスを供給しあったり協働したりはしません。それは老人ホームも同じで、老人ホームの住人は、スタッフのサービスを享受するだけです。それぞれがサービスを消費するだけの共生集団というのは、ものすごく我がままになりがちであると同時に、じつは非常に孤独です。そういう場所に生きる人間が、精神を病んだり、生きる自信をなくしたりするのは当然だと思うし、まして、子供を生み育てていく自信なんか持てないと思う。その点でも、ドミトリーみたいなものには、可能性があると思っています。(このテーマ、しばらく続けようと思います)
2005.10.04
前のスレッドで、「嘉手納にはリスク回避のために滑走路が2本必要なんだ」という主張をしている人たちがいます。そして、その際、お馴染みの某Sくんが次のように書いてる。>民間と軍用じゃコストは問題にならないぞ。>民間では「滑走路閉鎖による損害<滑走路を二本にするコスト」と言う判断なだけ。>コストをある範囲まで度外視していい軍隊の考え方は民間と異なるんだ。‥つまり、嘉手納は「民間施設」でなく「軍用施設」だから、コストを度外視してでも滑走路を2本にしておく必要がある、というわけです。嘉手納がどうかはともかく、たしかに「民間」と「軍用」とではコストの考え方はちがいます。民間の場合は「費用」と「儲け」をつねに比較しますけど、そもそも軍事に「儲け」なんてものはないわけですから、同じような比較はしようがありません。しかしながら、当然のことですけど、軍事のコストを無限に度外視できるわけでもありません。軍事にも、ちゃんと「費用対効果」の観念はある。軍事の場合は、「コスト」は「儲け」と比較されるのではなく、「リスクを回避する可能性」と比較されることになる。ほとんどリスクも無いのに無駄にコストをかける必要はないし、巨額のコストを費やしてもリスクを回避する可能性が低いのでは意味がない。軍事コストというのは、それが「リスク回避」という効果に見合うだけのものかどうか、それを見極めた上で投入されるものです。◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ところで、「軍用の滑走路はリスク回避のために2本必要だ」という軍事オタクの主張を聞いた時、わたしは、「滑走路を1本増やすだけでどれだけのコストが要ると思ってるんですか」と反論しました。でも、わたしがそこで「コスト」と言ったのは、べつに「建設費用」とか「維持費用」とかのことではありません。米軍の施設に関していえば、アメリカが軍事施設にどれほどのコストを投じようと、日本人であるわたしには関係ないし、そんなこと知ったこっちゃありません。そこで私の言った「コスト」というのは、「建設コスト」でも「維持コスト」でもなく、1つの滑走路が土地を占有することによる、住宅地や商業地や交通網などの経済的な資源の損失のことであり、同時に、周辺にすむ住民に及ぶ安全保障上の「リスク」のことです。◆ ◆リスク回避ために、「軍用飛行場の滑走路を2本置くこと」がまったく無駄だとは思いません。たしかに、1本より2本、2本より3本のほうが、リスク回避の可能性は高い。けれども、ここでも重要なのは、「費用対効果」を考えることです。某Sくんを始めとする人たちは、滑走路を2本にすることで回避しうるリスクについて、次のようなことを挙げています。◎敵のミサイルによって1本が使用不能になった際に、2本目が使える。◎敵の空爆によって1本が使用不能になった際に、2本目が使える。◎潜入した敵の特殊部隊の攻撃によって1本が使用不能になった際に、2本目が使える。しかし、これらのリスクを考える場合、「滑走路を2本にする」という選択は、まったく無駄とは言わないまでも、優先順位としてはかなり下位です。だいいちに、ミサイルが命中するとか、敵に制空権を奪われて空爆されるとか、敵の特殊部隊に基地内に潜入されて爆破されるとか、そのような「リスク」そのものが、現状では、可能性がかなり低い。もしかりに、ミサイルが命中する、敵に制空権を奪われる、敵の特殊部隊に基地内に潜入されるというリスクがあるとしても、「滑走路を2本にする」という対策は、リスク回避の「効果」としてはかなり低い。ミサイルにしろ、空爆にしろ、特種部隊の攻撃にしろ、1本の滑走路が攻撃される可能性それ自体の低さに対して、隣接した2本の滑走路が同時にやられるリスクのほうが、相対的に高い。そのことを考えれば、むしろ、◎ミサイルが命中しにくい場所に飛行場を移転する。◎制空権を奪われないように空軍の能力を向上させる。◎特殊部隊に潜入されないように基地のセキュリティを強化する。といった対策のほうが、「費用対効果」の面で、はるかに優先順位が高くなるはずです。◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆でも、わたしがいちばん言いたいのは、実はそんなことじゃありません。軍事オタクのチビッ子たちは、「攻撃を受けて基地が使えなくなるリスク」ばかりを殊更強調します。しかし、本当にもっとも深刻なリスクというのは、「そのような軍事施設が密集した住宅地域の中に位置している」ということ。基地に攻撃が及ぶのなら、真っ先にそのことをまず考えなければなりません。某Sくんは、「軍用の場合、コストをある範囲まで度外視していい」と言いました。もちろん無限に「度外視」できるわけではありませんが、たしかに軍用の場合、民間施設とはちがって、コストを度外視して考えなければならない側面があります。なぜなら、それは「安全保障」にかかわることだからです。勘違いした軍事オタクは、軍事に費やすコストが「軍隊のため」のものだと思い込んでいますが、それはまったくの間違いです。軍用コストは、それがあくまで「国民の安全保障のため」に費やされるコストであるがゆえに、民間施設のコスト概念と異なるわけです。さて、沖縄の「嘉手納基地」その他の場合、もっとも回避しなければならないリスクは、基地周辺の住民に「直接被害が及ぶこと」です。ミサイルだの、空爆だの、特殊部隊だのに備えると言いながら、周辺住民に及ぶかもしれないリスクをまったく考慮せずに、「滑走路を2本にすればリスク回避できる」というような主張を優先的に語る軍事オタクは馬鹿げています。もし本当に、「ミサイル」や「空爆」などのリスクが存在しているのなら、米軍最大の空輸拠点を、一刻も早く住宅地域から遠ざけねばなりませんし、それが「安全保障上の要請」である以上、そのためにかかるコストは「度外視」してでも費やされなければなりません。一部のチビッ子右翼は、「滑走路が1本しかない場合、 飛行場が使用不能になったら民間空港を接収することになる。 そうすれば民間人は避難できなくなる」などと主張していますが、そもそも基地が住民の生活から離れたところにあれば、そのようなリスクをわざわざ抱える必要すらありません。にもかかわらず、わたしたちが「基地を移転すべきだ」という主張をした時になると、チビッ子右翼の諸氏はとたんに、>基地があって施設があるのに、なんでわざわざアメリカに帰らなきゃならんのですか?>コスト考えなさすぎです。>本国にいちいち帰って訓練していたのでは時間とコストの無駄です。などと、とつぜん「コスト」のことを言い出す。しかも、それらは全部「アメリカのコスト」です。自分たちが日本人であるにもかかわらず、やたらと「アメリカのコスト」を心配しはじめるわけです。彼らは、「日本の安全保障」のことをまったく考えていません。
2005.07.31
ここ数日、楽天のちびっ子たちと対話してきました。彼らはそこで、「沖縄にある米軍基地のなかに、(都市型訓練場や嘉手納基地をはじめとして) 日本の防衛とは無関係な機能が数多くある」ということを、いまや臆することもなく認めています。それどころか、>日米安保が不平等(片務)条約である以上、>日本がそのような負担を背負うのも仕方ないし当然なんだ。というような主張まではじめています。◆なぜ、日本が、「自国の防衛」とは無関係な米軍の機能まで、国内の領土において背負わなきゃいけないのか。前日のスレッドで、CHFさんは次のように説明しています。>核の傘があると無いとでは話が違う。>単独でなら中国からの"侵略"に対処出来るだろう、>しかし米軍が居ればそもそも連中は手出しすら出来ない。>核の傘があると無いとでは彼我の取り得る選択肢の幅がまるで違うつまり、日本は「核の傘」の中にいたいがために、わざわざアメリカに媚びへつらって、米軍の「世界戦略」の拠点のための領土を提供し、米兵の身分を地位協定で保証してやり、思いやり予算を献上してまでしながらも、早い話、アメリカ側の要求をほとんど無条件に呑みながら、アメリカに同盟国になってもらっている、ってわけです。◆ぶっちゃけ、CHFさんの言ってることは、事実といっていいんだろうと思います。日本政府は、「核の傘」の中にいたいがために、アメリカに媚びへつらい、アメリカの要求にも、ほとんど逆らうことができずにいる。そのせいで、沖縄をはじめとする米軍基地には、「日本の防衛」とはまったく無関係な施設までが、当たり前のように機能している。そして、アメリカの世界的な軍事戦略を実現するために、日本の領土が、日々、利用されている。これは、おそらく現実です。◆いまさら言うまでもないですが、「沖縄の基地は、日本の防衛上、 動かすことのできない地政学的な位置にある」などというのは、まったくのハッタリです。そもそも沖縄にある巨大な基地の多くは、直接「日本の防衛」のために存在しているのではなく、むしろアメリカの世界戦略の拠点として存在してる。日本の防衛のためだけに、沖縄にこれほど巨大な基地をおく必要はないし、むしろ、日本の防衛のみを考えれば、沖縄に巨大な兵站基地をおくことは間違っています。沖縄は、アメリカが世界戦略の拠点にするうえで、非常に都合のいい場所になっているだけです。でも、それは、「アメリカの世界戦略にとって沖縄が地政学的にゆずれない」という意味でもない。それもまたハッタリです。実はどこでもいい。じっさい、ここで討論したチビッ子の何人かも、「沖縄の基地機能がフィリピンや韓国で代替可能」であることを認めています。つまり、アメリカにとって必要なのは、中東を含むアジア全域に展開できるような拠点であって、それは、日本本土はもちろん、その周辺国だって構わないわけです。・・にもかかわらず、沖縄が「都合のいい場所」になっているのは、日本の国家が、アメリカの核の傘の中に居たいという一心で、アメリカに経済的な支援を買って出てまでして、わざわざ自らアメリカの軍事拠点になることを望み、そのうえで、その施設の大部分を、周辺国でもなければ、日本本土でもなく、沖縄へと負担させているからです。日本は沖縄を利用し、アメリカは、そのような日本の姿勢を利用しています。◇ ◇ ◇かりに、日本が、アメリカに金を払いつづけ、領土を提供してでも、このままアメリカの「核の傘」の中にいようとするのだとしても、そのための土地を、沖縄から分散させることは、じゅうぶんに可能です。本土に受け入れることもできる。あるいは周辺国に負担させることもできる。それでもなお、日本は、沖縄を利用し続けることをやめません。そして、いっぽうのアメリカは、そのような日本のずるさを利用しつづけています。
2005.07.21
チビッ子の特徴として、だれかが最初に無内容なコメントを書くと、その次のちびっ子も続けて無内容なことを書く、みたいな傾向があるので、結果的に、並んだちびっ子のみんなのコメントが、数珠つなぎに全部無内容なものになっっちゃう、ってことがあるみたいです。だれかが前例を作ってくれると、きっと安心して書けるんでしょーね。そういう点で、いちばん最初に無内容な書き込みをしたチビッ子は、意外とエラいかもしれません。さて、そんなことはいたってどーでもいいとして、さっそく昨日の続き。いま行われている、沖縄県金武町の都市型訓練施設の問題は、見た目以上に、重要な意味を持っています。はたして、政府は、この米陸軍の「都市型訓練」を容認してるんでしょうか。これは現在協議中の、「米軍再編」の問題、ひいては「日米安保」の体質そのものの問題にかかわってくる。陸軍の都市型訓練は、明らかに「日本以外の地域」でのゲリラ戦などを想定して、行われているものです。これを、再編協議中の今、日本政府が容認してしまったのかどうか、これは重要な問題になります。はたして日米安保条約というのは、「日本の防衛」のために日本が主体的に結んでいるものなのか、それとも「米国の世界戦略」を支援するために結ぶものなのか、その点が大きく分かれてくる。それを示すのが、この問題での政府の対応です。もし後者だとすれば、今後も永遠に、嘉手納をはじめとする在日米軍基地が、米国の世界中での「戦争の舞台」になり続けるってことです。(今から出かけるので、あとですこし書き直すかもしれません*~~*)
2005.07.17
べつに昨夜の日記の内容って、チビッ子右翼たちの反論を買う内容だとも思わないんだけど、とりあえず彼らは、このサイトに「何か書く」ことにしているようです。・・それとも、いまのチビッ子右翼にとって、町村外相を批判されることは、なにか都合の悪いことでもあるんでしょうか?ま、とりあえず、ちびっ子右翼は例によってスルーにして、昨日の続きです。町村信孝は、沖縄の被害者の女性に対して、「米軍は日本の平和と安全のために役立っている」と、いかにも偉そうなことを言った。でも、例えば、いま行われている米陸軍の都市型訓練が、いったいどんな意味で「日本の平和と安全」のためになっているか、じつは政府にも防衛庁にもだれ一人説明できる人間がいません。「米軍は日本の平和と安全のために役立っている」と、いつも概論だけはエラそうに述べるけれど、じゃーいったい在日米軍のどの機能が、どんな意味で「日本の平和と安全」に寄与しているのか、それを個別に説明できたタメシがない。極東最大の基地である嘉手納基地についてさえ、それがなんで日本のために必要なのか、いちども説明されたためしがない。嘉手納基地が、日本のためにいったい何をやっているのか、じつはだれも分からない。ただ、わかっているのは、ベトナム戦争のときも、湾岸戦争のときも、イラク戦争のときも、すべて嘉手納基地が出撃拠点になっていた、ということだけ。そんな状態で、米兵からの加害を受けた個人にむかって、「米軍は日本の平和と安全を守っているんだ」なんてエラそうなことが、よくも、いけしゃあしゃあと言えたもんだと思う。町村は、政府の大臣なんですよ。無責任もはなはだしい。まして今は「再編」の協議中です。どの機能が「日本」のために必要で、どの機能が必要でないのか、それを詳細に問いただして、分析して、把握しなければ、「再編」の協議なんてできるわけが無い。にもかかわらず、日本政府はこの段階になっても、まったくそれを説明できる能力をもっていないし、しかも、その協議の真っ最中に、陸軍の「都市型訓練」なんていう、いったい日本の防衛に何の関係があるのかまったく意味不明な訓練が、在日米軍施設内ではじまったりしてるわけです。もし町村信孝が説明できないのなら、防衛長官なら説明できるんでしょうか?町村信孝はダメです。
2005.07.16
数日前の、衆院外務委員会で、町村外務大臣が、米兵の性被害に遭った沖縄女性の手記に対して、まるで、それを突き放しつつ、軽くスルーするかのような発言をしていました。◇報道によれば、女性の手記というのは、加害者の米兵の凶暴性について述べたうえで、 仕事として「人殺しの術」を学び訓練している米兵たちが、 今日もわが物顔で、わたしたちの島を何の制限もされずに歩いています。 1日も早く基地をなくしてください。と訴えるような内容だったんですが、それに対して町村信孝は、 軍隊があるから日本の平和が保たれたとの一面がすっぽり抜け落ちている。 軍隊には軍事色があるがゆえに、戦後の平和が保たれた。 それは自衛隊と米軍の力だ。 被害者のお気持ちは分かるが、軍隊は人を殺すという言い方がいささか一面的だ。 人殺しが生業というのは、軍隊の一面かもしれないが、 軍隊をなくせば世界から戦争がなくなるかというと、そういうことはない。 戦争抑止の機能への認識をもらえれば幸いだ。とかなんとか、軍隊にかんする、型どおりの認識を繰り返し披露したってことです。つまり、町村信孝は、被害者の女性に対し、「政治的にもっとバランスのとれたことを言え。」と述べたわけですが、なんで、いちいち、性被害に遭った女性個人の心の訴えが、永田町の政治家や、霞が関の役人と同じように、「政治的にバランスのとれたもの」でなきゃいけないのか。町村の、そのへんの感性が、まったく理解不能です。個人が抱えている苦痛というものに、まったく目を向けられない、この町村という男の政治家としての資質を垣間見た感じ。っていうか、こういう時にこそ、「政治家としての人間性」を有権者に見せることができないのは、町村が政治家として「無能」であることの証明でもある。っていうか、ただのバカなのかも。米兵による性被害という、塗り替えられない経験と記憶をもった女性個人の訴えに、ひたすら「米軍の必要性」だけを繰り返す、政治家としてのバカさ加減。わたしは、前から感じてたけど、はっきりいって、この人物は「外務大臣」としての器じゃありません。だいいち、「軍隊をなくしても世界から戦争はなくならない」って言ってるけど、むしろ、「軍隊があったって戦争がなくなっていない」からこそ、こういう女性のうったえが論理的に成り立っているわけで、そういう意味でも、この政治家の頭は、わるいと思う。つまるところ、現在の日本の外務大臣は、無思慮に型通りのことしか言えないような、つまらない人間だってことです。◆ ◇そして、その沖縄なんですが、米陸軍が、実弾の射撃訓練を始めたってことで、「都市型訓練」なんて世界中の何処ででもできるのに、なんで、わざわざ沖縄の住宅地域でやろうとするんでしょうか?しかも、これまた「日本の防衛」とはまったく無関係。在日米軍は、依然、日本の支配区を、好きほーだい、使いたいように使用しています。これは、日本の政府が無能だからです。
2005.07.15
「自衛」とは何なのか。そのことの定義をしないまま、憲法で「自衛隊」の存在だけを是認することはできません。「自衛」の法的概念を確定しないと、「自衛隊」の運用そのものが「恣意的な運用」になってしまうから。そして、「自衛」の法的な概念を画定する場合、そこには大きく二つの側面があるんだろうと私は思ってます。それは、次の二つです。1.自衛の「地理的な範囲」は、どこからどこまでなのか。2.自衛とは、いったい「何を」まもることなのか。言いかえれば、地理的な概念としての「自衛」の問題と、機能的な概念としての「自衛」の問題です。◇最近、民主党の一部の議員が「国防」ということを言い出したと報じられました。「自衛」というのと「国防」というのは、すこし違う。「自衛」という場合、「何を守るのか」というのが、曖昧にされがちです。それに対して、「国防」というと、「何を守るのか」ということが、かなりハッキリする。つまり、それは「国家を防(まも)るんだ」ってことになる。◆「国防」といった場合、すぐに思い出すのは、沖縄のことです。「国を防もりて人を防らず」という言葉がありますが、かつて沖縄では、「国家」を守るために、国民の生命と財産が「捨てゴマ」として切り捨てられた歴史がある。つまり、「国防」といった場合、こういう「優先順位」の問題がかならず出てくるんだと思います。そして、そのとき、国民の生命や財産を切り捨ててでも「守るべき国家」とは、いったい具体的には何を指すのか、という問題も、同時に出てくる。それは、天皇なのか、それとも靖国神社なのか、それとも官僚機構なのか。寺山修司は「身捨つるほどの祖国」といったけど、国民の生命を切り捨てるほどの「国家」とは、いったい具体的に何を指すのか。「国防」を論じる以上、まずその部分を、概念的に明確しておかなければならないし、すくなくとも、「沖縄」の経験を抱えている日本が、その歴史を踏まえないで「憲法論」を作りあげることはあり得ないと思います。むやみやたらと、文民や軍人の「恣意的な判断」で、国民の生命と財産が「切り捨てられる」ようなことがあっては困ります。そして、これは、「自衛」を論じる場合にも、同じように考えなければならないこと。◆「自衛」というと、文字通り「自分を衛る」ことのように思ってしまうけど、はたして具体的には、それは「何を」守ることなのか。たとえば、集団的自衛権の問題を論じるとき、「自衛隊が在日米軍を支援することは自衛なのかどうか」って話が出てきたりする。いわく、>在日米軍は「国家」を守ることに資しているんだから、>自衛隊は、その在日米軍を「優先的に」守らなきゃいけないんだ。ってことかもしれません。「国家」を守ることに資している在日米軍は守るけども、「国家」を守ることに資するに値していない一部の国民の生命は切り捨てる、そういう優先順位の出てくる局面が必ずあるんだと思います。そして、「自衛」の概念の核心に触れるその部分の規定をこそ、最高法規において画定しなければ、シビリアンコントロールは根底から崩壊する。それは、日本の歴史がすでに証明してるとおりです。そこを法的に画定しておかないと、「何を守り、何を切り捨てるか」ということにおいて、文民(もしくは現場の軍人)は、「守りたいものを守り、守りたくないものを切り捨てる」というような、恣意的な運用をしてしまうことになる。
2005.04.24
憲法改正の論議は、ほとんど中身が深まらずに終わった。結局、ナニも議論しなかったのと同じ。「自衛隊の存在を位置づける」という、それ自体には、意味のない条項を入れとくだけ。(そこにハッタリがあるわけですが。)あとは、「プライバシー」だの「環境」だの、いかにも当たり障りのない新概念をとり入れて、改憲に意味があるかのように取り繕っただけだった。「護憲はもう古いんだ」ということだけを、必死のスローガンにして叫び続けたのは、逆にいえば、改憲論議そのものにほとんど実がなかったから。肝心の「シビリアンコントロール」を、どのように確保するのかという議論は、まったくの皆無でした。楽天あたりのナンチャッテ右翼とかなら、「シビリアンコントロール」という言葉を知ってるだけで、ものを知ってる気分になってるチビッ子がいてもしょーがないけど、もしかしたら、国会議員のなかでも、「非軍人が統制するだけでシビリアンコントロールが成立する」と信じている人間が多数を占めてるんじゃないか?と不安になる。そういうカン違いに対して、識者とかから意見が出ないんでしょうか?ちょっと考えりゃ分かることだけど、「文民が統制すれば、国家の暴力装置を安全に運用できる」なんて、本気で信じている人間は、だれもいません。なんどか書いてきたことだけど、文民がバカだったら「文民による統制」なんて意味ないんだし、場合によっては「軍人による統制」よりも危険です。もちろん「文民による統制」は必要条件だけど、それだけでは十分条件にはならない。その背後に「法的統制」がなければならないのは当たり前のことです。いまの安全保障論議では、そのことがまったく無視されてます。じっさい、今日のナベツネの社説を読むと、「政治に責任さえあれば、法的な統制は要らないんだ」みたいに読めてしまう。その証拠に、有事法制を見ても、このたびの一連の調査会報告を見ても、軍隊の運用にかんする「制限的な規定」は何も書いていません。(国民の権利に対する「制限」は書いてありますけど)逆にいうと、「軍隊に何ができるか」ということだけが書いてあって、「何ができないか」ということについては、まったく書かれてない。その時点で、政治は無責任だというほかない。たしかに、9条の一項に「戦争しない」とは書いてあるけど、戦争はしなくても、「自衛」はやるわけだし、そして、「自衛」の概念はまったく定まっていません。事実上、この調子でいったら、政治家(文民)がまったくフリーハンドで軍隊を運用することになる。それを「シビリアンコントロール(文民統制)」だとでも言うんでしょうか?こんなテキトーな論議で、憲法なんか改正されたら、たまったもんじゃありません。※追記「環境権」とか「プライバシー権」とかいうのも、当り障りなさそうには聞こえるけど、「環境再生」という名目で、新しい利権構造を狙ってる奴もいるし、「プライバシー」とか「人権擁護」とかを掲げて、権力側の保身のために情報統制をたくらんでる動きがあるのも事実。だから、改憲のための単なるカムフラージュにもならないと思う。
2005.04.21
「自衛隊の存在」を9条の条文に明記しておく。それが、このたびの憲法改正の眼目らしいです。そして、ここには、ある種のハッタリが隠れています。そもそも「自衛隊の存在」なんてのは、憲法に「ある」と書こうが、書くまいが、どうせ、現に存在してるんですから、たいした問題じゃありません。 どーでもいいことです。むしろ問題は、それしか書かないってことのほうです。ほんとうに重要なのは、「自衛隊に何ができて何ができないのか」ってことの中身なはずなのに、そこについては、あえて書かない。書かないで、ウヤムヤにしておく。そのことのほうが問題なんです。なぜなら、そこを書かないことにこそ、そうとうに積極的な意味があるからです。自衛隊には、何ができて何ができないのか。そもそも自衛隊が行なう「自衛」って、いったい何なのか。「自衛の概念」をどんなふうにして画定するのか。どうやって「自衛」と「侵略」を峻別するのか。この難解な問題をあえて回避して、たんに「自衛隊の存在」だけを合憲にしておく。そして、そのことによって「自衛隊による武力を使った自衛行為」も、なんとなく自明のものにしてしまう。そして、そうでありながら、その「自衛」の中身がいったい何なのか、ということについては、あくまでもウヤムヤのままにしておく。それが、今回の改憲のほんとうのねらいだと思います。わたしは何回か書いてきたけど、もともと「自衛」と「侵略」は区別できません。人類史上、それは、まともに区別されたためしがありません。イラク戦争でさえ、どっちに属するのか明確にされていません。どこの国も、他国の戦争のことは「侵略」だと言うくせに、自分の国の戦争については「自衛」だと言い張ります。イスラエルの侵攻も名目上は「自衛」だし、アメリカによるアフガン戦争も「自衛」だったし、かつての日本の侵略も、当時の名目によれば「自衛」です。ですから、「自衛」というのは、じつはそうとうに色んなことを可能にする概念です。はっきり言って無限です。歴史上の戦争は、名目上はすべて「自衛」だったし、今だって、そうです。自分から「侵略です」といって戦争した国はなくて、すべての戦争は「自衛」の名においておこなわれます。「自衛」の概念の範囲は、国によっても時代によっても変わるし、恒久法にでも概念を明記しない限り、ほとんど制限のない概念です。ですから、もし日本が憲法のなかで「自衛の概念」を画定することができなければ、日本の憲法は、「権力の抑制」という機能を果たすことはできないでしょう。たんに「自衛隊の存在」だけを明記しても、じつは何の意味もありません。具体的には、改憲後の自衛隊の行動の制限は、憲法によってではなく、それより下位の法律によって規定されることになります。そして、その種の下位の法律は、改正が容易なので、そのつどの状況に応じて、自衛隊の行動範囲はどんどん広げられていくことになると思います。これは、かなりはっきりと予感することができます。つまり、「自衛隊の存在」だけを合憲にしておいて、同時に、「武力を使った自衛隊による自衛行為」も何となく自明のことにしてしまって、でも他方では、肝心の「自衛」の概念の中身のほうはウヤムヤにしておくので、事実上、将来の自衛隊の活動には無限の可能性が生まれてくることになる。それが、今回の改憲の最たる狙いなんだと思います。おもてむき、今回の憲法改正のタテマエは、「今までみたいに、その場しのぎの憲法解釈はもうやめます。」ってことになっています。でも、実際には、むしろ憲法を改変したあとにこそ、ますます「解釈」のほうが暴走していく。「自衛」の中身にかんする憲法解釈が、憲法改変のあとにこそ、どんどん広げられていくはずです。そのための「余地」を残した改変内容になってるから。もし、ほんとうに、日本の憲法に「権力の抑制」という機能をもたせるなら、「自衛の概念」の中身のほうをこそ、憲法の条文によって画定しないと、なんの意味もありません。
2005.03.07
日本人と、朝鮮人と、中国人のあいだには、国民感情どうしのぶつかりあいがあります。昔もあったし、今もまだある。政府どうしの対立ならまだしも、国民の感情どうしが、たがいに不信感を高めあうことには、ある意味、「実存的な恐さ」みたいのがあります。わたしたちは、これからの100年間も、東アジアのなかで生きていかなくちゃならないし、おそらく色んな形で、中国人や朝鮮人ともつき合わなくちゃならないと思う。まして今世紀は、そういう場面も増えると思うし。そういう時に、互いの国民に対する感情が悪いというのは、やっぱり不安がある。中国や韓国では、政府がこういう感情を煽るらしいし、日本では、おもにマスコミが煽り立てているので、この互いの感情どうしのぶつかりあいは、まさに「憎しみの連鎖」とでもいうような形で、相手への不信を、際限なく相乗的に増幅させあっています。ところで、話はちょっと逸れるけど、こういう東アジア人どうしの敵対関係って、たとえば、ヨーロッパ人あたりからすると、どう見えるんだろう?田舎くさいアジア人どうしの、せせこましくて野暮ったい対立にも見えるかもしれないけど、意外に、すごく「エキサイティング」にも見えたりして(笑)。同じ顔みたいな東アジア人でも、じつはそれぞれに特色が違ってて、昔から、何かというと、すぐにいがみ合うような関係。これって、端からみると、けっこう、エキサイティングで面白く見えるのかも。すくなくとも、「日本人も中国人も同じにしか見えない!」とか言われるよりは、それぞれに特色やコントラストがあって、それぞれが際だって見えるほうが、東アジアの存在感を高めるうえでは、じつはイイかも。そもそも、なにが面白いかって、今どきの21世紀になって、これほど古典的な感じで、ナショナリズムどうしが対立してるってのも、珍しいと思う。ヨーロッパも、中東も、東南アジアも南米も、国境を越えた地域的な連帯を意識しつつあるし、かりに対立するにしても、冷戦時代の国際社会の対立が、すでに国境を越えたグローバルな対立だった。まして冷戦以後の世界は、国境とはもっと無関係な、民族や宗教の対立が多くなってる。そういう意味では、東アジアみたいに素朴なナショナリズムがまだ残ってて、国家だけを信じてるような純粋な国民どうしが、いまだに古典的なナショナリズムどうしの対立をやってるってのも、ある意味、面白いかも。まあ、オーソドックスともいえるけど、逆に言うと、古くさいっていうか・・。あるいは素朴というか、イナカというか・・。やっぱり、東アジアって、よくもわるくも世界の田舎なんでしょうね。素朴に国家を信じつづける人たちの集まり、という意味で。
2005.02.07
なにが公正中立か。これは議論の分かれるところで、だれかが勝手に判断していいことじゃありません。「昭和天皇が有罪」という市民裁判の判決が、公正で中立なものだったのかどうかについては、きっと意見の分かれるところでしょう。でも、そういう疑似法廷という事例があったことを、それじたい、客観的に伝えるだけならば、それは中立的な報道にすぎません。もちろん、片方の事例だけを紹介するのが不公平なら、逆の視点を同時に与えればいいわけです。けれど、NHKが最終的に採ったのは、「裁判の内容をカット」するという選択でした。カットして事例そのものを見せないようにすることが、はたして「公正中立」を担保するための姿勢なのかどうか、この部分の疑問はぜったいに消えません。すくなくとも、それは、権力側の人間が勝手に判断していいようなことじゃない。もし与党幹部の人間が、事前に番組をチェックして、「何が公正中立か」を判断してしまうなどということがあれば、それは、民主主義社会の中で許されることじゃないのです。当然、メディアは、そんなことに左右されるべきではないし、権力をもった政治家は、自分の発言が圧力になりうるかどうかを考慮して、みずから節度をもって自制することが求められます。そもそも、極東裁判の内容を不満とする立場は少なくないので、昭和天皇の戦争責任にも言及する見方が出てくるのは当然で、そうした主張そのものを「隠蔽」することに、「公正さがある」とはとうてい思えない。何が公正かを判断するのは、まず事実を伝えたその後です。すくなくとも、安倍晋三個人のことを考えれば、彼は靖国の戦犯を「尊崇」すべきと語ると同時に、昭和天皇にも責任はないとも考えていて、つまり、「日本はだれも悪くなかった」と考えているような政治家です。こういう発想をもつ人物が、権力という立場にいる側から、放送の「公正さ」や「中立性」について判断する資格はありません。そして安倍晋三は、日本の戦争責任について、自分の考えを明確に示すべき。
2005.01.26
安倍晋三は、靖国に祀られてる戦犯を「尊崇」したいらしいけど、かといって、昭和天皇の「有罪」を認めたいわけでもないらしく、けっきょくのところ、「日本はだれも悪くなかった」と思いたいようです。こういう政治家がいるので、日本はいつまでたっても、「無責任国家だ。」みたいに思われる。ほんとは補償も賠償もたっぷりやってるのに、「無責任」というイメージがなかなか消えない。~ ~ ~ ~ ~ ~もし、極東裁判の内容を受容したくないのなら、「もっとべつの断罪のしかた」を考えることは当然だし、それより以前に、もしも極東裁判の判決内容を受容してないのなら、政府のコメントとして、公式に、「連合国やアメリカの判断を受け入れたつもりはない」とでも言ってみればいい。そして、「侵略はなかった。日本はだれも悪くありません。」と言ってみりゃあいいんだし、そして、そのうえで、靖国にも堂々と参ってみりゃいい。もし、それだけの度胸が日本にあるんなら。じつは、そんな度胸もないくせに、陰でコチャコチャやってても、たんなる「無責任」にしかみえない。~ ~ ~ ~ ~ 安倍とその下っ端は“拉致問題”さえやってれば、年金未納でもなんでも許されると思ってるみたいだけど、それは大きな間違い。むしろ、“拉致問題”をやってる人間だからこそ、日本の過去の問題にかかわることで、ちょこざいな操作なんかすべきじゃありません。そういうことをやってるから、かえって、北朝鮮側から、「どっちもどっちだ」みたいに言われる。北朝鮮がどんなにメチャクチャでも、それを日本が指摘すると、「日本もしょせん同じじゃないか」みたいなことを言われる。けっきょく、かえって相手にスキを見せてるだけ。そして、安倍のニタニタ顔は、もうなんか気色悪いです。◇NHK。「圧力」とは感じてないそうですが、政治家の口出しを「圧力」とも感じずに、自分から進んで、与党の意に添うような番組づくりをしてるんなら、そんな主体性のないメディアは必要ありません。この体たらく。うんこジャーナリズム。「政治家は余計なことを言うな」と追い返すぐらいの気概もないんなら、そんな独立性のないメディアは解体しても結構。エビが辞めたって、芸能界との癒着も、創価との癒着も、政治との癒着も、いったいどう変わるんでしょうか?
2005.01.25
じつは4月9日のときの日記で、「靖国のことはそのうちやります。」と書いたんですが、それっきり、放り投げたままでした。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~「善人であろうと、悪人であろうと、 日本人は、死んでしまった人たちを差別しないんだ。 どの霊にもお参りするんだ。 だから靖国の霊にもお参りするんだ。」・・たしかに日本には、そういう考え方や風習があるのかもしれないし、それはそれで、理屈としては通ってるんだろうと思います。だけど、問題はそれより前に、そもそも日本人が、靖国に祀られているような戦争責任者のことを、ほんとに「悪人」だと思っているのかどうか、ってこと。じっさい、日本国内には、B級、C級はおろか、A級戦犯のことでさえ、「たんに戦勝国側に悪人扱いされただけで、 ほんとはちっとも悪くなかったんだ」と思ってる人間もいる。たとえば、安倍晋三なんかは、「国のために殉じた戦争指導者を尊崇すべきだ。」なんてことまで言ってる。「二度と戦争をしない」という誓いをたてるのと、「国に殉じた戦争指導者を尊崇しよう!」と思うのとでは、あまりにも決定的な違いです。にもかかわらず、実際問題、日本人がどう思っているのか、この区別は、あきらかではありません。なぜなら、日本は、いちども、「だれが、どう間違っていたのか」について、戦後の日本の、自分自身の視点で、明確に語ったことがないからです。つまり、うやむやにしてきた。だけど、それが明らかにされないかぎり、「同じ過ちを繰り返さない」という日本の表向きの主張には、なにひとつ、根拠があるように見えません。「“過去のあやまちは繰り返さない”と言いながら、 じつは、すこしも悪かったとなんか思っていないんじゃないか」そういう疑念を払う根拠がないからです。「悪人でもお参りする」という日本の風習があるのなら、その理屈は理解できます。でも、そもそも、太平洋戦争や大東亜戦争へ導いた人間のことを、日本人がちっとも「悪い」と思っていないのだとしたら、それは大問題です。日中戦争は明らかに侵略戦争です。そして、侵略戦争は「悪いこと」です。であれば、悪かった責任者がかならず存在しているのであって、「だれも悪くなかった」なんてことは、絶対ありえません。最近、宮崎哲也なんかは、「日本国民がみんな悪かったんだよ。」みたいなこと言ってるけど、それはほとんど、「だれも悪くなかった」と言ってるのと同じです。結果的には、だれも責任をとらなくてよくなってしまう。「一億総無責任」の典型的なパターン。そんなんじゃ、話になりません。たしかに、日本はこれまで、謝罪もしてきたし、不戦の誓いもしてきました。でも、日本は戦後60年たった今でも、「誰が、どう悪かったのか」について、総括をしていません。ただたんに、戦勝国側に裁かれた極東裁判の現実を受容しているだけです。戦後の日本自身の、極東裁判の判断とは切り離された思想や判断をもって、「戦争の反省」ということを、やってきていないのです。そして、その反省もウヤムヤなまま、いつのまにか、「国民みんなの責任だから、責任は問わなくていい」とか、「国に殉じた戦争指導者は尊崇しよう!」みたいな話まで出てきてしまう。これじゃ、「また一億軍国主義に向かってる」と思われても仕方ない。日本は、戦後の立場において、「いったい誰が、どう悪かったのか」ということについて、実証的に総括をしなきゃならないのです。皮肉にも、靖国参拝が、それを露呈させました。いま現在、日本人は、自らの矛盾や弱みから目をそらそうと必死だけど、靖国問題が続くかぎりは、この問題から逃れられないと思う。だからこそ、「いったいだれの何がまちがっていたのか」をあきらかにした上で、「日本はもう同じあやまちを繰り返すことはないんだ」ということを、実証的に証明してみせなきゃなりません。やっぱりA級戦犯が悪かったのかもしれない。あるいは、暴走した軍部が悪かったのかもしれないし、無責任な文民政治家が悪かったのかもしれません。もしくは、靖国神社という宗教組織こそが、なんのことはない、悪の根源だったのかもしれない。もちろん、昭和天皇も死んじゃったんだから、それも含めて、これは、タブー抜きで議論すべきです。そうでなければ、いつまでたっても、「疑いの目」は消えません。日本国民のひとりの立場から見ても、「日本には軍国主義のにおいが消えてないんじゃないか」という不気味な疑いは消えません。もちろん、靖国の参拝をやめれば、この問題を、永久にウヤムヤにしてしまうことだってできるでしょう。(政策的にも、そのほうが、日中のダメージはすくないワケだけど)でも、靖国参拝を続けるかぎり、けっきょくは、この問題に行き着いてしまうんです。けっきょく、この問題を避けて通ることはできません。いま、日本に迫られているのは、この二者択一です。※ちなみに、 中国向けODAについては、 無くしていく方向で話を進めて構わない時期だと思います。
2004.11.28
人が死んでいく、殺されていくのを、なかば予測しながら「見殺しにする」ということを、すくなくとも今回、日本人は、戦後はじめて経験したんだと思う。もちろん、死刑囚の執行を待つというようなことならある。でも、それ以外のケースで、人が殺されるまで、その期間をただ待ってしまう、というのは、今回がはじめてのことだった。わたしは、なんだか、「自分が彼を見殺しにしたんじゃないか」という、なんとも言葉にしがたい、強迫観念にも似た、後悔の想いをぬぐいきれない。じっさい、日本人の多くが、彼を見殺しにしたんじゃないかと思う。香田くんの生命の切迫した状況に対して、いても立ってもいられなくなるというような焦燥を、ほとんどの人は、強く表現しようとはしなかった。わたしをふくめて、日本人の多くは、彼の死を、なかば、見過ごしたんだと思う。たしかに彼は、軽率だったかもしれない。無謀だったし、あきらかに無思慮だった。ちゃんと後先を省みない、若すぎる行動が、結果として周囲の人に迷惑をかけたかもしれない。けれど、それらのすべてが、彼を「見殺しにする」という断罪に匹敵するものだったとは、とうてい、わたしには思えない。どうして、あんな形で死ななきゃならなかったのか。あんなむごい形で。かりに、日本人の多くが、彼の「若さ」を、軽蔑すべきものだと判断したとしても、それは「死」にも匹敵するようなものだったんだろうか。わたしは、彼がどんな人物だったのかも知らないし、本当にどうしようもなくて、救いがたい子供みたいな若者だったのかもしれないし、まったく、考えが甘くて、とりとめのない風来坊みたいな人間だったのかもしれない。でも、たとえ彼がどんなに未熟で、手のかかる厄介な青年だったんだとしても、おなじ日本に生きるひとりとして、彼を、ああいう形で無残なまま死なせてしまった、この今の、すべての状況が、わたしは、たまらなく、くやしい。後悔しても、たぶんしきれない。もちろん、政府は、軽蔑によって彼を「見殺し」にしたわけじゃない。「自衛隊を撤退させない」という判断は、あくまでも、政治上の優先順位の問題だったと思う。それでも、もしも多くの日本人が、「彼を死なせるべきじゃない!」と強く声をあげていたら、それによって大きく世論を動かしていたら、政府の判断も、変わっていたのかもしれない。そう思うと、わたしの中の後悔は、たぶん、ずっと消えないと思う。ただ、彼が死ぬことを待ってしまった、この数日の、押し黙った時間の記憶は、たぶん、これから先、わたしの中で、くりかえしくりかえし、フラッシュバックしてくると思う。家族の人たちのやり切れなさ、無念さにくらべたら、こんな、わたしの後悔は、意味のない、小さなものだ。家族の人たちは、この日本の、狭い共同体社会の中で、さけびたいような本心を、ひたすら隠しながら、「感謝します」とか「お詫びします」とか語ることでしか、日本の“世間”の同情を買うことができなかった。けっきょく、泣くことも、声をあげることもできずにいた。家族の悶えるような苦しみまでは分け合えないけど、それでも、ただ「しかたなかった」と言って流せるほど、わたしは、クールに考えることができない。そもそも、政治上の「優先順位」だったとしても、ひとりの人を見殺しにするという判断を、ただ、冷めた理屈だけで納得するなんて、絶対にできない。まして、こんな絶望的な「イラク復興」を手伝うだけのために、意味もなく、ただ日本の自衛隊を駐留させつづけることが、彼の命を見殺しにしてまで優先すべきことだったのか、と思うと、これは、たぶん、時間がたてばたつほど、無意味で、むなしくて、やりきれないことだと思えてくるにちがいない。中東専門家の大野氏が言ってたけど、今、すでに、自衛隊のやってきた給水作業は、現地の人たちに活動を引き継げる段階になっていたらしい。そう考えれば、自衛隊の任務そのものは、もう終えてもよかった。もし、イラクの住民たちに、「日本はいま、やむをえない状況になったから、 撤退しなければならなくなった」と告げれば、イラクの人たちは理解してくれたと思う。むしろ、納得しないのは、イラク人じゃなく、アメリカだったんだ。日本はただ、アメリカとのつきあいのために、ひとりの日本人を見殺しにしたんだと思う。形だけ宿営地の中に駐留させ続けるというメンツのために、ひとりの日本人を死なせたんだと思う。そのことを、納得しろといわれても、たぶん、永久に納得できないだろう。時間が立てばたつほど、無意味で理不尽に思えてくるだろう。世界を混乱に陥れた、アメリカの自分勝手で絶望的な政策にただつきあい続けることが、ひとりの日本の国民を見殺してまでおこなうほど、価値のあること、優先順位の上位のことだったと、そんなこと、だれにも証明できない。「日本はテロと戦わなければならない」と、そんな話を聞けば聞くほど、ウソに思える。いったい日本が、どうやってテロなんかと戦えるのか。そもそもテロとなんか戦う必要すらなかったのに。考えれば考えるほど、むなしくなる。小泉首相が、即座に「自衛隊は撤退させない」と発言した、その瞬間が、彼の運命が決してしまった瞬間だったのかもしれない。あの瞬間に、すべての可能性が止まってしまったのかもしれない。あの首相の立場を当然のように受け流してしまった、自分自身の冷酷さが、いまになって、すごくくやしい。彼の死が、いったい何だったのかと思うと、悔やみ切れない。
2004.10.31
8月7日付の読売社説、ワケわかりません。↓タイトルからして。>広島原爆忌「反核の訴えに政治を絡めるな」 もし、「反核」の主張が「政治的な主張」でないんだとしたら、いったい何だというんでしょうか??そもそも日本という国は、「平和主義」「国民主権」「基本的人権の尊重」ってことを国家理念にしていますし、「非核三原則」ってのも政府が示した政策方針。つまり、「反戦」や「反核」というのは、国策であり、重要な政府方針です。それを「政治」から切り離すって、どういう意味なんでしょうか?ナベツネ社説は、反戦、反核の主張を「憲法」からも切り離したがっています。>読売新聞の三月の世論調査では、>65%の人が「憲法を改正した方がいい」と答えた。>秋葉市長の主張は、>冷戦時代とは大きく変化した国民の憲法意識を直視しない発言>と言わざるを得ない。でも、ここで読売の書いている「65%」という数字は、けっして「9条改正に賛成」という世論調査の数字ではありません。「改憲」の問題が、反戦、反核の主張と無関係でないのは、それが9条の問題を含んでる以上、当然のことなのに、読売は、そのことをあえて黙殺して切り離しつつ、「反戦と改憲は無関係だ」などという、キテレツな論理を世間の目にさらしています。ナベツネとその手下の人たちは、反戦や反核の理念を「政治」から切り離し、それを、秋葉市長の個人的な趣味の問題だとでも言いたいんでしょうか。ナベツネ読売ってのは、国の歴史や、世論を無視して、野球文化を破壊したり、あげくは国家理念まで放棄させたりする権限を、独占してしまってるようなメディアグループなんでしょうか?ナベツネ読売グループは、その権力を用れば、なんでも紙面に書きゃいいと思ってるみたいだけど、これじゃまるで、楽天界隈に巣食ってる10代20代のガキンチョ保守と同レベル。>護憲を反戦や反核と結びつける主張は、>冷戦時代の左翼勢力の思考だ。>これでは、世界に誤ったメッセージを伝えてしまう。なんて書いてありますが、反戦や反核の思想を「政治」から切り離そうと画策するほうが、よっぽど国家の理念を唾棄するような売国行為だと思います。※ぼたんの花さん、ちびっ子保守はあんまり相手にしなくていいです。キリがないから。(~~)
2004.08.06
これまでの内容をまとめておきます。(スレッドを読むのが面倒な人のために)1.条約の片務性についていわゆる「旧安保」には、現在の安保の第5条にあたる条項がありませんでした。つまり、アメリカが日本を保護する義務はなかった。日本が基地を提供するだけの(逆の意味で)片務条約でした。それが「新安保」になってはじめて、アメリカが救援義務を負った。だから、そこでむしろ、総合的な意味で「双務条約」になったと考えるべき。しかも、日本は、基地を提供したうえに、「思いやり予算」まで払いはじめる。それでもなお、日本は、いつのまにか、「日米安保は片務条約」というイメージを、アメリカ側からまんまと植えつけられて、自分から「片務だ。片務だ。」と吹聴してまわることで、かえって日本の立場を「対米隷属的」なものにしています。(それを助長する売国的な自称ナショナリストもいる。)そして、「極東防衛」という範囲をはるかに超えた形で、在日米軍に国内の基地施設を使わせています。本来、日米安保において、「日本の利益」というのは、アメリカに軍事的な保護を受けていることです。他方、「アメリカの利益」というのは、中国など旧共産圏の勢力を抑えることであり、同時に日本自体が強くなりすぎないようにすることで、東アジアに影響力を維持することです。日本からは思いやり予算の援助も受けることができる。そもそもアメリカとしては、日本が完全に「自主防衛」することを望んでいません。今後も日本に基地を置くことで、東アジア地域への勢力を維持しつづけたいと思っていますし、日本に基地を残すほうがはるかにメリットがあると思ってる。むしろ、日本から追い出されて、日本の完全な自主防衛路線を招くようなことは、アメリカにとって不利益です。ですから、アメリカが「東アジア地域防衛」を担い、日本がそのための「基地」を提供するという時点で、両国は、すでに双方の利益を十分享受しています。問題は、日本が提供している「それ以上」の部分。日本の領土のなかに「アメリカ世界戦略の後方拠点」が存在する。これはアメリカにとってはメリットでしょうけども、日本にとっては、たんなる負担にしかなりません。住民の安全保障の面でも、経済資源の損失という意味でも、国際的な反米勢力の敵意を買うという意味でも、日本にとってはデメリットでこそあれ、メリットではない。こういう関係を助長する一部の主張は「売国的」です。2.日本列島が米世界戦略の後方拠点日本全国の軍事施設が、全体として、アジア・中東地域の最大の燃料・弾薬補給基地になっている。ベトナム、湾岸、イラク戦争などで、日本の各地から輸送機・輸送艦が出てることがその証拠だし、アメリカの議会ですらそのことは公式に報告されてる。沖縄の場合、1万人超の海兵隊員とその家族の居住施設、そして兵士の訓練施設があり、また、巨大な弾薬備蓄があり、それらを戦地へ空輸するための巨大な飛行場がある。これらは後方基地としての機能です。日本は基地を置くことで、アメリカの戦争に加担しています。〔ここからは24日にまた加筆しました〕海兵隊について、あらたに3000人の削減方針が報道されましたが、これは92年(つまり冷戦後)に編成された特殊部隊だそうです。冷戦が終わったあとに、そんなものを日本で訓練させていたということに、むしろ怒りを覚える。いかに、今までの日本政府が、米軍のフリーハンドに利用させていたのかがわかります。そんなものに対して、日本の領土を貸し与えて、予算を払っていたのかと思うと、日本の国民として許せないです。海兵隊の削減は、まだまだ足りない。下にも書きましたが、「前方に常駐させておけばすぐにでも展開できる」みたいに思ってる軍事オタクがいるけど、じっさいは、前線に輸送する手段がないために、海兵隊を前方地域に常駐させておく意味はありません。それから、飛行場について書いておくと、「3~4000mの滑走路なんて民間空港でも常識的な規模で、 1500mなんてのはプロペラ時代の話だ」みたいに言った人もいましたが、それは嘘。むしろ、現代の軍事技術が目指しているのは、「いかに短い滑走で離着陸できるか」ということであって、旅客機みたいに何千mも走らなきゃ飛べないような飛行機は、軍用機としてはまったく「ダサダサだ」というのが今の発想です。にもかかわらず、なぜ嘉手納に4000mの滑走路が2本もあるのかというと、それは沢山の兵隊を大型輸送機に乗せて中東などに運ぶため。ここからも、沖縄が後方基地になってることが分かる。嘉手納というのは、沖縄と日本列島が、アメリカの戦争のための「輸送基地」になってることの象徴です。〔加筆ここまで〕3.沖縄の位置沖縄は地理的に、「アジア太平洋の要石」にあるといわれるけど、そこには、2つの違った意味合いがある。ひとつは、日本から見た場合。沖縄は、国境に面した「前方」の地域です。またアジアの周辺国から見れば、沖縄は海上交通の要所としての位置にあります。これらは「前方」あるいは「中心」という意味ではあっても、「後方の要所」という解釈にはなりません。アメリカから見た場合は、まったく逆。沖縄は、(というより日本列島全体が、)中東などを視野に入れた世界戦略のための、「後方の要所」(浮沈空母)という位置にあります。日本から見た場合には、こういう発想は絶対出てこない。日本から見た場合の沖縄の位置と、アメリカから見た場合の沖縄の位置とでは、同じ「要所」といっても、「前後の観念」がまったく逆。沖縄が本来、日本の「前方」に位置するにもかかわらず、それでも、じっさいの中身が後方兵站基地としての機能になってるのは、アメリカが、沖縄を「日本の防衛のため」というよりむしろ、アメリカ自身の「世界戦略の実現のため」に利用しているから。もし中国の脅威に備えるんなら、沖縄を備蓄基地にはできない。たとえば、前方に海兵隊を何万人常駐させていても、じっさいには、前線へ輸送する手段がありません。最小規模の作戦(MEU)でさえ8千~1万人は必要なのに、揚陸艦では2000人単位でしか輸送できない。だから、けっきょくは中東へ輸送するときと同じように、空輸をくりかえして集積艦に集めるしかない。でも、それじゃ前方に常駐させておく意味がありません。これが米政府の「沖縄海兵隊縮小論」のひとつの大きな根拠。むしろ、前方の兵站・備蓄には、中国軍の能力が向上した場合に攻撃が及ぶ危険が出てくる。距離が近いというのは、「ミサイルが届く」ということだけではなく、「到達時間が短く」て「命中精度が高くなる」ってこと。そういう場所を、わざわざ備蓄基地にはしない。それでもなお沖縄の基地を後方拠点にしているのは、アメリカが、「中国の脅威」よりも「世界戦略」のほうに優先順位を置いてるから。そのことに気付けない親米ポチ勢力は、ただの売国。決定。
2004.07.23
アメリカの軍事再編に関する日米協議の内容が、すこしずつ表に出てきていますが、報道機関によって多少ニュアンスはちがうけど、おおむね、分かってきたこともある。普天間を辺野古に移すにしても、嘉手納に統合するにしても、政府がいう「沖縄県の負担軽減」にはなりません。ですけど、面白いのは、アメリカ政府の側に、「嘉手納弾薬庫(ASP1)は要らない」という考えがあること。空軍は反対するらしいけど、米政府にはそういう考えがある。こういうことは、けっこうほかにもあるんだと思う。海兵隊の移転にかんしては、「イラクに派遣した兵隊はもう戻さなくていい」ってことなんだろうし、それはたぶん「すこしずつ減らしていく」という考え方なんだろうけど、日本の立場からいえば、イラクなんかに派兵するような海兵隊は、そもそも日本国内に置いとくべきものじゃなく、たんに「縮小」すべき対象です。わざわざ移転して国内に置くようなものじゃない。それはそうと、海兵隊をオーストラリアに移すという話も考えると、今度は「輸送基地」としての嘉手納の空港の規模も、縮小の対象として視野に入ってくる。こういうふうに、日本側が意味も分からずに受け入れている施設や、国内の親米売国の勢力が「必要だ!」とかいってる施設が、じっさいは、そうとう減らせるんだろうと思います。それは、日本政府の側が、各施設の配置と機能の意味をきちんと把握しつつ、国民の負担を減らしていこうという意志をもっているかどうか、まずは、その点に尽きるんだと思う。もちろん、「親米」というイデオロギー的な理由から、意味もなく「米軍賛成」とかさけぶ軍事オタの子供もいるし、相変わらず「自民党橋本派」的な視点から、基地を利権のネタにしようとたくらんでる勢力もあって、そのことが、よけいに話をややこしく、かつ、実態を見えにくくしてる。日本側も日本国民も、どの施設が何のためにあるのかを、ほとんどまともに知らない。じっさい、このあいだ議論してた「軍オタ」の子達も、それぞれの基地機能がいったい何のために存在してるのか、ほとんど何もまともに説明できない。じっさいには、「軍オタ」といっても、たいした軍事の知識をもってるわけでも、脈絡をつけて論理的に考えられるわけでもなく、ただそのつど、断片的な軍事の知識や情報を収集して、コレクション的に充足してるだけなんでしょう。(もともと「オタク」とはそういうものですが。)7/2のスレッドでは、脈絡もなくいきなり「論破した!」とか言い出したり、「反論の表明が多いことが、論破したことの証拠」みたいな聞いたこともないような理屈をならべてみたり、挙げ句、論理的に切羽詰まってくると、「6万トンの弾薬輸送船があるんだ」とか、「沖縄は海兵隊が少な過ぎるから集積艦が必要なんだ」とか、根拠もなく、デタラメまででっち上げて来るのには、かなり参った。「輸送ヘリはヘリコプターなので輸送機じゃない。」とか、「前方の機能を後ろに下げられるなら後方の機能も前に出せる。」みたいな、グラグラするような詭弁のオンパレードも、いいかげん勘弁してほしい。子供たちのシャベリバに耐えつづける時間も若さもありません。それに、じっさいは「軍オタ」としゃべっても、ほとんどまともに軍事的な議論はできないんだとわかったから、こんごは放置することにします。書きたい人は勝手に書いといて
2004.07.22
わたしは、「右翼」という言葉はいままでもつかってきたけど、「民族派」という言葉をつかうのは、今回がはじめて。ちがいもよく分からないし、どうせたいした差もないんだろうと思ってきたから。でも、今回はあえてこの言葉を使ってみようと思います。『朝生』でも、しばしば「民族派」って言ってるし。 ※ ※ ※ ※ ※“民族派”というのは、通常は、「民族主義者」や「国家主義者」のことを指すんだと思うけど、いまの日本では、状況がちがってます。つまり、きわめて親米。これは政策判断のレベルを超えてる。ある意味イデオロギーの域に達しています。そのことをわたしはこのあいだ痛感しました。彼らは、ほとんど何ひとつ、アメリカに対して「NO」と言わないような、一定の思想集団を形成しています。もちろん、その時々の政策判断として、アメリカに従わざるを得ない局面はあると思う。じっさい、日本は、大枠ではアメリカの側につくしかないだろうし、イラク戦争でさえ、反対はしにくかったかもしれない。でも、侵略戦争を「支持」したことに対して、誤りが明らかになったあとも思想的な総括をしないとか、日米安保の「片務性」を必要以上に宣伝して、日本の政策の基盤を対米従属的なほうに導こうとしてたりとか、米国人自身でさえ「史上最低」と言いはじめてる大統領の政権に、それでも見境いなく追従しつづけるべきだと主張したりするのは、もう、ほとんど「政策判断」のレベルを超えて、結局は「イデオロギー」として親米的なんだろうと思う。もちろん、いまは「保守」の中も分裂していて、いわゆる「反米保守」という人たちも存在します。だから、ひとくちに「保守」と言っても、じっさいには一枚岩ではないんでしょう。だけど、一部の保守は、きわめて親米的です。前の日付のスレッドで議論になったことをふり返っても、日米安保の片務性にかんする議論は、けっきょくあいまいなままで終わってしまう。日本の側の協力義務というのはぜんぜん画定されません。なにが「NO」でなにが「YES」かを画定できない。アメリカに要求されたら、ただ従うって感じです。わたしは、一方にアメリカの「保護義務」があって、他方に日本の「基地提供義務」があるんなら、その意味で日米条約は双務的だと思います。そして、そのかぎり、協力の範囲は画定されてると思う。じっさい、在日米軍が活動できる地理的範囲は、条約やガイドラインに明記されて画定されています。それは要するに、日本の防衛に直接かかわる地域です。だから、その範囲を必然的に超えるような機能を米軍が保持することは、契約に反しているはずです。というより、たとえアメリカが何と言おうが、それが「日本の立場」です。本来、「日本としてゆずれない立場は何か」ということを考えるのが、いわゆる「民族派」の存在意義なはずなんですが、いまの日本国内では、それが逆転してる。それはなぜなんだろう・・、と考えてしまいました。わたしみたいに「左寄り」で考えてる人とか、保守の中でも「民族派」とは一線を画してる人間のほうが、じつはよっぽど「民族主義的」かもしれないし、あんがい「国家主義的」なのかもしれないなあと思う。じっさい、わたし自身も、かりに政府には批判的だったとしても、けっきょくは「日本人」として考えてるところはある。しかも、政策判断としてだけでなく、やっぱり、心情的に「日本人」として考えるところがあります。そういう意味では、わたしのほうが、(「国家主義」とはちがうけど、)よっぽど「民族主義的」なのかもしれない。わたしが「民族派」という言葉を使おうと思ったのは、こんなふうに意味がまったく逆転してると感じたからです。言葉の意味とは逆に、「民族派」はぜんぜん民族主義的じゃありません。政策判断だけじゃなく、ほとんど思想的に「親米的」と言える。理屈ぬきで「親米」をつらぬこうとする。なぜこうなったんでしょうか?もちろん、「日本がアメリカに負けた」ということが大きいんだけど、その影響の受け方に、国内で差があるんだと思う。敗戦の影響をいちばん強く受けたのは、ほかならぬ元々のナショナリストだったのかもしれません。いわゆる「左」の人たちの場合は、日本が負けた責任を「ナショナリスト」のせいにすればよかったし、負けたことでも、それほど卑屈にならなくて済んだ。「自分たちは進歩的なんだ」と言ってればよかった。だけど、「右」の人たちの場合はそうはいかなかった。むしろ、アメリカに負けたことの影響をいちばん強く受けて、アメリカに対してもろに卑屈になっちゃったのが、もともと「右」の人たちだったんだと思う。その影響がいまだに連綿と続いてるんじゃないでしょうか・・。「民族派」がイデオロギー的に親米なのは、たぶん、そんな理由からだろう、と思います。それは安全だともいえるけど、逆にいえば「アメリカしだい」。アメリカが暴走すれば日本もついていくし、アメリカが沈めば、日本も沈んでいく。国内の問題でも、基地問題をはじめ、「アメリカが原因」の問題だと、じっと耐え続けるしかない。その点においては、国家としての存在意義が、まったくないってことです。最近、仕事もふくめてパソコンから全面的にはなれがちです。なみさん、みなさん、ごめんなさい!!(汗汗)そのうちまたドラマ話とかにもどりますっっ。(とりあえず「アットホームダッド」は◎でした!~o~)/)
2004.07.02
5/14の日記で沖縄の基地問題の議論があって、それはいまもまだ続いてますけど、そのなかに、テロリズムと軍隊の役割にかんする議論が出ていたので、今日は、ちょっとそのことについて取り上げてみようと思います。以下の書き込みは、「米軍基地の存在はテロを誘発する要素になる」という私の危惧に対して、JSF.さんが示した回答です。>「テロで敵野戦軍の撃滅は出来ない。>つまり、テロで陣地・都市は“占領”は出来ない」>私は沖縄を日本領土と認識している。>尖閣諸島の小さな島々を含めて、ね。>だから沖縄を他国に侵略・占領されたくない。>テロ? ふん、テロでは『沖縄は失われない』のだよ、所詮はね。>だが、敵が正規軍を動かしてきて本格侵攻してきたら?>沖縄は永久に失われるかもしれない。>だから最優先は敵正規軍への対処だ、何時の時代でも。つまり、ここには次のような考え方があるんだと思います。 テロで市民が犠牲になったとしても、領土や資源が奪われなければいい。 あるいは軍隊が撃滅されなければいい。 したがって、テロよりも敵正規軍への対処を優先すべきだ。これはべつに、人それぞれの考え方なので、ここで個人を責めるつもりはありませんが、わたしが言いたいのは、ここには一般的な軍人(あるいは軍事オタク)の、典型的な発想のパターンがあるんじゃないかってことです。JSF.さんが、テロへの対処のことを、まるで「二の次」のように言うのは、「アナーキーで不定形なテロ攻撃には軍事力では対応しきれない」ということへの「負け惜しみ」もあるからなのですが、それはある程度しかたないとしても、むしろ、もっと大事なことは、いくら開き直りとはいえ、「市民が犠牲になっても軍隊が負けず、領土や資源が奪われなければいい」というような発想があっさり出てきてしまうことです。これは、軍事的なことを優先する人に、もともと存在する発想のパターンなんだと思います。このサイトでも、こういう意見があったのは初めてじゃありません。たとえば1/21の日記の議論には、ハニワさんの次のような意見もあります。 >要するに外国の軍隊を追い出せなきゃテロリストの負けってことです>最終目標は国内から外国軍を撤退させることでしょ>でも外国軍はテロ程度ではびくともしません>テロリストなんてその程度のものです>外国軍が居座り続けて国家中枢を実行支配していれば>外国軍の勝ちなんですよつまり、テロで市民が犠牲になっていても、軍隊が撤退しなければ「軍隊の勝ち」を意味する、ってことです。ハニワさんは次のようにも書いてますが、>外国軍の敗北は実行支配を捨て撤退したときです>居座り続けることは外国軍の勝利を意味します>外国軍を撤退させることが出来ない間はテロリストは敗北しているのです>外国軍とってテロに屈しないことが外国軍の勝利なのです>テロリストと外国軍の我慢比べですねおそらく、「我慢比べ」をしている間には、テロでたくさんの市民が犠牲になるでしょうが、それでも、大事なのは、「市民の犠牲をなくすこと」ではなく、「軍隊が負けないこと」だ、というわけです。通常の感覚からすると、「軍隊は何のために存在するのか」ということに疑問をもってしまうけど、むしろ、これが軍人の一般的な考え方なんだと思います。沖縄には、「軍隊は住民を守らない」、「軍隊は軍隊自身しか守らない」という言い方がありますけど、これは、かならずしも「比喩」ではないのかもしれない。軍事を考える人間の発想の中には、根本的にこういうものがあるんだということではないでしょうか。ハニワさんはそのとき、テロについて、こういうふうにも書いていました。>交通事故や電車事故みたいなものだと割り切ればいいんです、>テロなど人為的に起される事故にしか過ぎません>そう割り切ってしまえば良いじゃないですか?>なんでテロに意味を求めようとするのか私には分かりません>テロで死ぬのと事故で死ぬのとどう違うんですか?>一度に何十人も死ぬからセンセーショナルに報じられるけど>まあ、こんなこと書いたら良心が足りないとか>テロと交通事故を一緒にすんなとか言う人がいつもいるんですけどね>テロも事故の内でしょ国から労災下りますし これは一見すると「極端な意見」に思われるかもしれませんが、じつはそうじゃないんじゃないでしょうか。むしろ、これが、軍事を優先する人間にとって、ふつうの発想のしかたなんじゃないかと思えるんです。
2004.06.11
この場におよんで、 まだ「自己責任」を言いつのる政治家がいる。 襲撃に遭った人に対して、 他人がわざわざ「自己責任」を言う必要なんてない。 本人たちは最初から自己責任のもとにイラクに入ってる。 それでも、 襲撃されたことの非が本人たちにあると言うために、 あくまでも「自己責任」を強調しようとする政治家がいる。 彼らがあくまでもそういうことを言いたてるのは、 「本人たちに自己責任がある」と言うことで、 「政治の側に責任がない」ことを強調するためです。 退避勧告は出していた。 政府に責任はない。 襲われたのは本人たちが悪いからだ。 そんなことは分かってます。 わざわざ、 この場におよんで他人に言われることじゃない。 ◆ 日本は「一億総無責任社会」です。 そういう無責任な社会のなかでも、 しばしば「責任」という言葉は出てくる。 それは、つまり、 自分の責任を回避して他人に押しつけるときだけです。
2004.05.28
沖縄に基地はいらないと思う。沖縄に基地がいっぱいあるのを見ると、日本が、戦前も戦後も、沖縄を「日本」と見なしてなかったことがよく分かる。ちょうどいい基地置き場ぐらいにしか思ってなかった。もう沖縄に基地はいらないと思う。今日の古館ステーションは沖縄特集みたいだけど、流れが大きく変わってきていることはたしかです。アメリカ自身が「沖縄には要らない」と言いはじめてる。都市で事故の危険も大きいし、政治的な負担も大きすぎるし、米軍基地としては、中国にもあまりに近すぎる。それでもなお、「公共事業」としての基地政策はとまっていません。基地建設には本土側の利権も大きく結びついているはずで、自民党も、普段はアメリカべったりのはずの安倍晋三も、沖縄については海兵隊さえ減らせないと言いつづける。沖縄に基地があることが日本の安全保障だと言わんばかりです。沖縄だって日本なのに。基地でしか生きられないような沖縄にしてしまった責任は、第一に日本にあります。最大の無責任はそこにあると思う。日米安保条約はともかくとしても、少なくとも、沖縄に新たな基地なんかいらないし、海兵隊をはじめ、もういらないものはたくさんある。無駄になるだろう基地建設の手続きの一環として、ジュゴンの海に鉄槌を打ちつけるような、海底ボーリング調査も進められようとしています。こういう流れはもうやめるべき。
2004.05.14
自己責任問題も下火になってきたので、この問題のことを、すこし落ち着いて考えられるようになってきたと思う。この問題は、たぶん、「日本社会論」として、今後、数年かけて論じられていくんだろうと思います。国内外で。この問題のさなか、わたしの頭の中で、漠然と考えていたことがありました。それは、大リーグに行った野茂のことです。野茂が大リーグに行こうとした当時の、日本社会にあった否定的な雰囲気のことを思い出してた。日本社会というのは、外に出ていって他の人とちがうことをやろうとする人間に対して、ものすごく否定的です。野茂が日本人としてはじめて大リーグに行こうとした時も、日本社会は、彼の意思をくじくために、徹底して、否定的なことを言い立てました。「うまくいかないに決まってる」とか、「海外に出る選手が次々出てきたら日本の野球がダメになる」とか、あること無いこと、思いつくかぎり、否定的な意見を言い立てました。なぜ個人が自分の意志で海外に出て行くことに対して、そこまで否定的にならなきゃいけないのかわからないけど、とにかく否定せずにいられないというのが、日本の社会。野茂の場合は成功したから良かったようなものの、もし、彼が失敗して挫折して戻ってきていたら、日本社会は、きっと彼に対して、「ざまあみろ」「それ見たことか」「自業自得だ」というようなことを言ったと思います。日本というのは、そういう社会です。チャレンジの結果、失敗することはあるし、それはもちろん「自業自得」です。人間は、自分のしたことの結果を自分で負わなきゃなりません。だけど、そんなことは他人に言われるまでもないし、まして他人に非難されることでもありません。それなのに、日本という社会は、あくまでその個人に対して、「自業自得」「ざまあみろ」「だから言ったんだ」という言葉を投げつけずにはいられない。とにもかくにも、いやというほど、徹頭徹尾、これでもかってぐらい「保守的」なんです。島国。まして、今回のように、危険をともなう取り組みが失敗して、そのうえ社会が彼らを「救出しなきゃならない」となった場合は、なおさら彼らの行動に対して否定的になる。ただでさえ、外に出て行った人間は気に入らないのに、「なんであんな奴らのために、税金を使って救出しなきゃならないのか」「なんで社会があんな奴らを支えなきゃならないのか」って話になる。つまり、日本社会は危険をともなう行動を評価しないし、他の人がやらないような取り組みを「余計なこと」としか思わないし、それを社会で支えようともしないし、その結果として起こったミスも認めようとしない。危険をかえりみず、チャレンジをしようとする人間に対して、「がんばれ」と激励したりもしないし、応援したりもしない。(日本人にとって、それは「逸脱」にしか見えないから。)失敗して戻ってきた人間に対しても、「よくやった」と出迎えたりもしないし、果敢なチャレンジに賞賛の言葉をかけてあげることもない。失敗した人間をいたわったうえで、「じゃあ、次のチャレンジのためにどうすればいいだろう」「今度はどうすればうまくいくんだろう」と考えることもない。とにかく、「ざまあみろ」「そら見たことか」「自業自得だ」「やめておけばよかったんだ」「余計なことはするな。みんなと同じにしていろ。」って反応にしかならない。それが日本の社会です。この日本の「島国性」「閉鎖的保守性」を表す言葉として、今後、「JIKOSEKININ」という概念が流通するんじゃないでしょうか。世界中で。
2004.05.02
今日の読売の社会面に、なんか言い訳がましい文章が載ってるみたい。くわしくは読んでないけど。タイトルが「自己責任論は悪者なのか」とかいう文だそうです。これまでに読売自身が展開してきた主張を、論理的に維持できなくなったあげく、こんどは「社会面で自分が被害者ヅラする」みたいな作戦にでも出たんでしょうか。そもそも、なんで「社会面」なの?社として主張があるんなら、社説に書けばいいじゃん。たしかにいま「自己責任論」のほうが逆に叩かれはじめてます。この傾向を決定づけたのは、柏村議員の「反日」発言でした。このバカ発言で、「自己責任論」はいっきに悪者になりました。だけど、問題は、読売が、この柏村のバカ発言さえ、まともに批判することができないってことです。そこに、読売の最大の「いかがわしさ」と「後ろめたさ」があるんです。なぜ、柏村の発言は批判できないのに、被害者の「自己責任」だけ批判できるんでしょうか。◆ ◆今日の読売の文章によると、家族や市民団体が人質救出のために「自衛隊撤退」を要求したことは、「責任転嫁」になるんだそうです。危険にさらされた家族の救出を国に要請することが、なぜ「責任転嫁」になるのか、まったく意味不明です。しかも、家族たちのこういう行動は、本人たちの「自己責任」の問題とは、まったく無関係です。本人たちは彼らの行動にかんする責任を負いますが、家族が彼らの救出を求めることは、その「責任」の転嫁でもなんでもありません。◆ ◆むしろ、読売の今回の論理から逆にわかることがある。それは、この「自己責任論」が、被害者の行動そのものに関して生じた議論ではなく、もともと「自衛隊撤退」の要求を封じ込めるために生まれた議論だったってことです。そのことを、今日の読売新聞の文章は、逆説的に物語っています。「家族たちの要求は責任転嫁だ」という言いかたで、家族の人質救済の要求それじたいを封じ込めようとした。そのためにこそ、本人たちの「自己責任論」に言及しはじめたのです。もういちど13日の読売の社説を引用します。>人質の家族の言動にも、いささか疑問がある。>記者会見で、公然と自衛隊の撤退を求めていることだ。>人質の安全を望むのは、家族として、当然だ。>だが、武装グループの脅しに応じ、>政府の重要政策の変更まで求めることが、適切と言えるだろうか。この主張は、被害者本人の「自己責任論」とは無関係なところから出ています。むしろ読売は、家族に「政治的主張をするな」と言っています。これについては、まだ読売の最終的な真意が示されてませんが、すくなくとも「自己責任論」とか「責任転嫁」とかいう議論は、家族の要求を批判する意味では「後付けの論理」として出てきたものです。だから、読売は、書けば書くほど無理がでてくる。
2004.05.01
いまの高遠さんの様子を見るのは、わたしにとっては、かなり辛い。本来、社会的な攻撃にさらされるような理由なんてない。今回の騒動は、日本の社会にいろんな問題を残していて、「権力が少数派の言動を自粛させるのが正当なのか」という昨夜までのテーマも、まだ続いてるんだけど、それとは別に、もうひとつの問題も日本社会に残されたと思ってる。それは、うまく言えないんだけど、なかなか理屈では解決しにくいタイプの問題で、これから、日本社会がかなりの時間を経過させてみないと、なかなか客観的に見ることができないようなタイプの問題で、言いかえると、それは、日本人の感情とか性質に由来してるような種類の問題です。今回、「国論が2分された」と言われてて、双方の立場から、いろんな見解が出されてると思うけど、じつは、もともと二つの立場の根底にあったのは、最初から、すごく感情的なものだったと思う。一方は、若者のNGO活動や反戦思想などを不快に思う人、もう一方は、そういうものに共感したり同情を示したりする人、この対立が、じつは理屈より前に、もともと感情的なレベルで存在していて、それが、たまたま表面化してしまっただけ。そして今、それぞれがいろんな理屈を後付けしてるんだと思う。その際に、「右翼」とか「左翼」とかいう言葉も使われたけど、(というか、わたし自身が面白がって使ってるだけなんだけど~o~;)わたしがエキサイトの頃から「面白がって使ってきた」のは、もはや「右翼」も「左翼」も、実際にはパロディでしかなかったから。左翼はソ連と一緒に死んだし、左翼が死んだら、同時に右翼も死んだ。右翼にとって「親米」「資本主義」というイデオロギーは、左翼の「反米」「社会主義」に対抗する場合に有効だっただけで、もともとナショナリストが「親米」なわけもないし、伝統に回帰するタイプの人たちが「資本主義」を奨励するわけもない。その意味で、いまの右翼も左翼も「おママごと」なんだけど、むしろ、いま実在してるのは、あまり意味のないフラストレーションのような感情なんだと思う。それが、なにかの拍子にぶつかってしまったりする。感情的な対立として、今回の世論が分かれていったことをふまえた上で、いま、わたしが思うのは、この種の感情的な対立は、けっきょく無くならないという事です。そういうものは、どっちにしろ、今後もずっとありつづけると思う。だから、NGO的な活動にしろ、ジャーナリズムにしろ、そういう感情的な立場の相違があることを承知のうえで、覚悟して取り組みつづけるしかない。・・このあいだ、TBSの『ブロードキャスター』で、ジョージ・フィールズとかいうコメンテーターが、「日本には、セルフが有ってインディペンデントが無い」とかなんとかという話をしてた。セルフというのは、「自己満足」みたいなものなんだろう。インディペンデントというのは、自立しつつ「社会性」を負った自己というような意味なんでしょうか。「インディペンデント」なんて言ったら、いかにも良さそうな感じがするけど、でも、じっさいは、日本の社会のなかで「社会性」を背負うというのは、けっきょく「世間体」を背負うみたいなことにしかならない。つまり、「自粛する」みたいな方向に帰結してしまう。それじゃ、まったく逆効果だ。むしろ、大事なのは、徹底的に「個」になることじゃないかと思います。他人がどう言おうと、やろうと思ったことや、やらなきゃならないと思うことを、ひたすらタフにやっていくしかないってことだと思う。「そういうかたちで乗りこえていくしかないだろうな」というのが、今回の経験をふまえた上で、わたしがいま感じてることです。
2004.04.21
昨夜とりあげた18日の社説と同じようなことを、今日の読売が、また書いてる。引用してみます。↓この事件は、かなり特殊なケースと言ってよい。 何よりも、三人の家族が、「自衛隊撤退」を公言し、国家のあり方にかかわる重要政策の変更を政府に求める、という政治的な言動を展開したことだ。事件を“政治利用”しているとさえ取られかねないものだった。家族として身内の安否を気遣うのは誰しも同じだ。だが、三人の後に拉致、拘束され、無事解放された二人の家族は、政府に政治的な要求をするようなことはまったくなかった。ニュアンスは、18日のときと同じで、「政治的な言動をしない家族」のほうが、「政治的な言動をした家族」より正しいかのような、そういう印象を与える書きかたです。 具体的にいうと、「政治的な言動をした家族」のことを否定するような意味合いで、「特殊」とか、「政治利用」とかいう言葉を使っています。この点が、わたしにはよく分からないところです。国民が、国の政策にはたらきかけたり、要望をうったえたりすることは、たしかに「政治的」なことですが、それはべつに悪いことじゃありません。主権者が政治に関与することは悪くない。むしろ、政治に関与させないほうが、常識的に考えれば、悪いことだと思う。「政治利用」とか「特殊」とかいう言葉が、否定的なニュアンスで使われてるわけですが、国民が政府にはたらきかけをしたり、国家の政策の形成に関与したり、自分自身の立場を政治の力をつかって実現しようとするのは、ある意味、すべて「政治利用」だといえますけど、それは、主権者の振る舞いとして普通のことなので、べつにそれが「特殊」なこととは思えない。ナベツネが一連の社説で、「国民が政治に関与するのはいかがなものか」「国民の行動が政策に影響するのは特殊なことだ」みたいに言ってるとしたら、どういう価値判断の根拠でもってそんなこと言ってるんでしょうか。ちょっと、わたしには今のところ理解できない。従来からの読売の論調から考えると、ナベツネの頭のなかには、「国策とは政府が決めるものであって、 国民に左右されるようなものではない」という発想があるのかもしれません。もし、そうだとすると、これはほとんど「北朝鮮」の発想そのものです。ナベツネは、民主主義国家というものの基本的な部分を、ほとんど理解できていないってことになる。とにかく、なぜ読売がこういう主張をやっているのか、ちょっと、今のわたしには、こういう主張の根拠がどこにあるのか、思い浮かばないし、まったく理解できない。とりあえず、この「国民は政治的な言動をすべきでない」といった、読売新聞の一連の社説での主張が、いったいどういう認識と根拠から来てるものなのか、そのことについて、今後の読売が、どういう説明をみずから加えるか、しばらく注意しながら様子を見ていこうと思います。できれば、この問題にかんしては、マス・メディア全体をふくめて、民主主義原則の根幹に触れる問題でもあるので、朝日・産経・読売を巻き込んだ「国旗・国歌論争」のときのように、ぜひ、テレビもふくめた複数のメディアの間で、すこし突き詰めて論じ合ってほしいです。そして結論を出してほしいと思います。とりあえず、放置してもらいたくないです。日本国民として、これがウヤムヤになるのは、ひじょうに不安です。
2004.04.19
人質事件が収束したいまになっても、「放置して済ますわけにいかない」と思うことがあります。人質の家族が「自衛隊撤退」という要求をしたとき、それに対抗する政治的主張が、家族の主張とぶつかりました。それは当然ありうることだと思う。でも、絶対見のがすわけにいかないことは、家族の主張そのものを封じようとする、いやがらせなどの社会的圧力が生じて、のみならず、そこに、政府とマスメディアまでが加担して、事実上、家族の主張そのものを圧殺してしまったことです。それ以降、家族はほとんどものを言えなくなった。さらには、「政府への感謝」を暗に強いられるようになったみたいでした。結果的に、家族はただ頭を下げる以外のことができなくなりました。わたしは、いままでの日本で、こんな不気味な思いをしたことがありません。一部の心ない勢力が暴走するだけならともかく、政府がマスメディアと一体になって国民の政治的主張を統制する、これを「翼賛化」と呼ばすに、何と呼ぶでしょうか。わたしは、ここで起こったことを、絶対に見のがすことができないと思う。いずれ別の状況のなかで、また同じようなことが起こると思う。* * * * * * * * * * * * * * *ゆうべの日記にも書いたけど、この一連の経過のなかで、家族の主張そのものを封じようとした、「内閣の人間」が、何人かいます。与党にもいる。そして、いくつかのメディアも、そうした政府に連動して、家族の主張そのものを封じる動きをしました。派遣継続という主張を、家族の主張に対抗して論理的に展開するのなら、それは、当然ありうることだと思う。でも、曲がりなりにも、政府の人間やマスメディアが、国民に対して「政治的なことを言うな」と批判する正当性が、近代の民主国家において存在するのでしょうか。◇以下、大手新聞の社説から、該当する部分を抜き出してみました。とくに悪質なのは、16日の産経新聞、18日の読売新聞の社説です。国民が、「政治的主張」を口にすることじたいを、あらかじめ封じていこうとする意図で、マスメディアの言論が作られているように思います。18日の読売は、2つの事件の被害者の家族を比較しながら、「政治的発言」をしない家族のほうが正当であるかのように、暗に主張する内容です。16日の産経のほうは、社会的圧力がかかることを暗黙に予告しながら、家族の政治的な主張を、かなり露骨に封じ込めてます。 --- 以下引用 ---人質の家族の言動にも、いささか疑問がある。記者会見で、公然と自衛隊の撤退を求めていることだ。人質の安全を望むのは、家族として、当然だ。だが、武装グループの脅しに応じ、政府の重要政策の変更まで求めることが、適切と言えるだろうか。(13日読売)日本人が拘束された二つの事件には、かなり様相が異なる点がある。顕著なのは、家族の対応だ。三人の人質事件では、犯行グループは「自衛隊撤退」を要求していた。家族はそれを代弁して、公の場で、政府に自衛隊の撤退を求めた。“政治的発言”そのものだった。 今回の二人の事件では、二人の家族に政治的言動はなかった。(18日読売)家族や支援団体は政府批判を続けた。心配と焦りは察して余りあるものだったにしても、一部言動にはうなずけないものがあった。人質解放予告が一時出された十一日未明の「家族の声明」には、「世界中の仲間に対して心からの感謝をささげます」とあったが、日本政府の努力に対する感謝の言葉はなかった。逆に、「自衛隊撤退」を訴え、川口順子外相の中東向けテレビ録画から、「怒り」や「自衛隊の派遣目的」を削除するよう要求し、「削除できないなら放映の中止を」とまで求めた。解放された三人は帰国後、各メディアに多く登場することだろうが、こうした責任の自覚としかるべき感謝の表明なしに政治的主張を続ければ、国民の反応は冷ややかなものとなろう。(16日産経)今回人質となった五人はいずれもイラクへの自衛隊派遣に反対だったと伝えられている。日本では思想、信条は自由であり、表現、言論の自由も憲法で保障されている。 しかし、今回の人質事件を利用するかたちで自衛隊派遣反対の政治的主張をするのはフェアではない。今回の事件解決のため政府が使った費用は二十億円ともいわれる。莫大(ばくだい)な税金が反米、政府批判の政治的主張に利用されることは許されることではない。(18日産経) --- 引用おわり ---ちなみに、18日の産経の社説は、いちおう引用してみましたけど、「莫大な税金が3人の政治的主張に利用された」という、ほとんど意味のわからない論理なので、そもそもマス・メディアの言論の水準に達してない内容かもしれません。
2004.04.18
冬柴鉄三が、人質の救助費用のことを喋ってると知ったとき、てっきり、「世界平和のために尽力している国民の生命のために、 創価学会の潤沢な資金源から救助費用を寄付させてほしい」とでも言うのかと思ったら、まるっきり逆で、「被害者個人から救助費用を1円でも多く徴収しろ」だと。なんだコイツ。冬柴なんていままで知名度ゼロだったけど、今回めでたく、「人質解放直後にすかさずカネの話を始めた最高にケチな野郎」として、あの顔といっしょに国民に記憶されるだろうと思います。まるで、政府や自分のカネでも出費したかのような言い方がムカつく。おまえのカネじゃないんだよっ。同時に、救出がすべて政府の手柄だったかのような言い方もムカつく。ともかく、創価学会の宗教思想ってのは、弱い者を追い詰めて、とことんイジメ抜くことにあるらしいです。◇人質被害者の「自己責任」を追及しようという議論の中で、「政府 vs 被害者とその家族」あるいは、「政府 vs 派遣に反対する国民」みたいな図式が出来上がっています。ですが、国家の役割を根本的に考えれば、「政府 vs 国民」という図式それじたいが、異常です。そうなること自体がおかしいと考えるべきです。本来、政府は、国民と「対立」すべき存在ではなくて、むしろ、国民の立場を「代表」しなければならない存在です。もちろん、ひとくちに国民を「代表」するといっても、国民の中にも様々な立場があります。ですから、より正確には、政府は、それら複数の国民の立場を調整した上で、国民のあいだに出来たコンセンサスを「代表」すべき存在です。ただし、国民のコンセンサスが出来上がったとしても、じゃあ政府が、多数派の側に立って、少数派の国民を糾弾したり、少数派の要求を圧殺したりしていいのかと言うと、それはぜんぜん違う。政府は、「多数派」を代表する存在じゃなく、あくまで「国民全体」を代表する存在です。じっさい、国税は、全国民から公平に徴収しています。もし、国家が、国民の「少数派」の要求に応えられない場合は、そのことを、「国民全体」を代表する立場から詫びなければならないし、少数派の人たちに、そのことの理解を求めなければなりません。たとえば、かりに「自衛隊派遣の継続」ということが、国民社会における明確なコンセンサスになっていて、その結果、「撤退してほしい」という少数派の要求に応えられないのなら、政府は、その少数派の人々に対して、「残念ながら要求に添えず申し訳ありません」ということを、国民全体を代表して詫びなければならないし、理解を求めなければなりません。まずもって、有事担当相の井上喜一は、まるで、家族による「自衛隊撤退要求」が、それじたい「分不相応な、けしからん要求」であるかのように言っていますが、まったくのとんちんかんです。しかも、それは「少数」の要求でさえありません。いまだに多くの国民の要求として「派遣反対」という意見があるんです。もともと、今回の最大の問題は、「自衛隊派遣」についての、国民の意思そのものがじゅうぶんに形成されていないことです。理解すらされていなかった。それは、政治が、「コンセンサスの形成」という唯一の責任を怠ってきたからです。国民のコンセンサスさえ形成されれば、そこでの政策の決定は、もはや「政府の責任」ではなく、「国民の責任」です。そして政府は、その国民の意思にもとずいて、政策運営をするだけです。ところが、今回は、そのコンセンサスそのものが、政治の怠慢によって、確立していない。だから、政策の運営が、いったい誰の意思を代表してなされてるのかわからない。そして、その結果、国民のコンセンサスとは無関係なところで、本来あるべきはずのない「政府の立場」だの「政府の利害」だのといったものが、国民社会から遊離して、浮き上がってしまっているんです。本来、「政府の利害」なんてものが存在するはずはありません。政府は国民の意思を代表するだけであって、そこにあるのは「政府の利害」ではなく、もっぱら「公益」のみです。公明幹事長の冬柴鉄三にしろ、行革担当の金子一義にしろ、「感謝の気持ちがたりない」などとトンチンカンなことを言ったうえ、国民にむかって、「政府に人的負担がかかった」だの、「カネ払え」だの「政府に賠償しろ」だのと言ってます。まるで、政府自身が「損害」でもこうむったかのように。今回の事件の解決のために費やした諸々の負担が、国民にとってはたして「損害」だったのか、当然の「支出」だったのか、もはや誰にも分かりません。なぜなら、国民の意志が何なのか、それじたいが定まっていないから。 それは、政治が国民の合意形成をないがしろにしてきた結果です。でも、すくなくとも、その負担は「政府の損害」なんかじゃない。そんなものはありえない。そういう発想が出てくることじたい、国家としての体を成していない。民主主義が狂ってる。政府じたいに、「利害」もへったくれもありません。だいたい、わたしたちは、あんたら政治屋に税金を払ってるんじゃなく、国民自身のために税金を払ってるんですよ。税金をどう使うかは、あくまで国民が決める。そのためのコンセンサスをとる作業こそが政治の最大の「責任」です。その唯一かつ最大の責任を怠っておきながら、政策方針の齟齬によって生じた問題を、一部の国民に責任転嫁するような政治家の連中は、国家と政府の何たるかが、根っから分かってない。国民のコンセンサス形成を怠って、その結果、本来ありえるはずのない「政府の利害」みたいなものだけが、国民社会から浮き上がってしまい、そのうえ、浮き上がった政府の立場をむりやり正当化するために、政府自身が、一部の国民を非難したり糾弾したりしているというのが、現在の「非民主的」な状況です。
2004.04.17
自己責任うんぬんということが問題になってる。でも、もともとこういう風潮の背景にあるのは、日本社会の少なくない部分が、彼らのような活動に対してはじめから「冷淡」だということ。取材のために危険地域に入ったり、困難な場所で外国人を支援したりするような活動に対して、一部の日本人は、「不必要で出しゃばった善意」だとしか考えない。それが日本人社会のメンタリティだと言えばそれまでだし、わたしがここでどうこう言ったところで、どうにもならないんだけど。すくなくとも、そのような在野の活動を、国民社会をあげて応援しようという雰囲気は、日本には必ずしも無い。「そんなことはおカミがやってくれるんだから、 一般の人間が出しゃばって余計なことをするな」そういう、いかにも日本人的なメンタリティがそこに出ると思う。基本的に、日本人というのは、外国でどんなことが起こっていようと、たとえば劣化ウランで外国の子供がどんな被害に遭っていようと、できるだけそういったことに対して無関心でいたいし、むしろ、そのような問題が国内にもちこまれることを極度にきらう。いわゆる「一国平和主義」というのは、そういう点なんだと思う。最近、憲法改正について、日本人に世論調査をすると、「国際貢献は必要だ」という意見が多かったりもする。でも、じっさいには、本気で海外の人たちを支援したいと思ってる日本人は多くない。たしかに世論調査には「国際貢献」という言葉が出てくるけど、それは、要するに、アメリカや国連などと「国際協力」をすべき、という意味であって、積極的に異国の人へ「国際支援」がしたい、という意味じゃない。「一国平和主義」、「平和ボケ」、「対米追従」という日本人のメンタリティは、基本的には、なにも変わっていないんだろうと思う。◆今回の3人のような活動が「自己責任」なのは当り前のことで、言われる前から、彼ら自身が最初からそのつもりで行ってる。そんなこと言われるまでもない。ただし、「自己責任」だからといって国家の責任が放棄されるわけじゃない。それも当然のこと。冬山に登山に行って「遭難した」とかいう話を聞くたびに、わたしは「なんて人騒がせなんだろう」と思うけど、それでも、国や自治体は救助に行く。そのときに、国が最善を尽くさなかったり、あるいは最善を尽くせなかったりした場合は、そのかぎりで、国の責任というのはとうぜん問題になる。もともと、自衛隊の派遣によって、民間の復興支援活動がより危険になるという批判はあったし、それを押し切って、国は自衛隊を派遣してる。民間の活動を危険におとしれた国としての責任をただ逃れることはできない。もちろん、今回のように「私益」と「公益」のバランスが問われる場合は、その対応についての国民のコンセンサスは必要になるだろうと思う。とはいえ、わたしは、NGOの海外での支援活動や、在野のジャーナリストの活動が、ただの「私益」にもとづいた活動だとも思わないし、逆に、今回のような場面で自衛隊が駐留しつづけることが、「公益」として国民のコンセンサスをじゅうぶんに得ていたかどうかにも、かなりの疑いがあると思う。もし、今回の件で、在野のジャーナリズムの活動が強制的に自粛させられたり、その結果として「政府公認」の機関だけに報道が限定されるようになったら、それこそが「国家権力の思うつぼ」だし、それによって日本の民主主義社会は後退することになる。(森本敏なんかはそれを狙ってるわけでしょうけど)それはジャーナリズムだけじゃなく、国際支援活動についても同じこと。自衛隊やODAなどの公的な国際支援が、費用対効果という点でどれほど効率がわるいかを考えれば、NGOなどの民間活動の有効性は無視できないし、それに、何よりも在野の支援活動は、民間レベルの国際交流を醸成する意味で、見かけ以上に、日本にとって重要な意義をもってる。今回、3人が解放された理由を考えてみても、イラク人の中にある「日本人に対する良いイメージ」が、すごくプラスの方向に作用したのは事実です。それが無ければこういう結果は不可能だったかもしれない。そうしたイメージをつくっているのが、彼らのような地道な在野の活動なわけだし、結果的には、それが日本人の安全につながってる。土壇場で日本人を救っているのは、このようにして積み重ねられている交流と友好の関係です。今回、アルジャジーラなどを使って解放の呼びかけをした際にも、政府の立場から大上段に「解放しろ」と呼びかけるのでなく、複数のNGOが、3人のイラクでの活動の内容を紹介しながら、イラクの世論に訴えていったことが、結果的にイラク国民の信頼を得たと思う。そういうことの積み重ねは、民間レベルの国際交流のために意義が大きいし、その意味で、3人のような活動が、私益のために趣味で山登りに行くのと同じだとは、ぜんぜん思えない。ジャーナリズムにせよ、国際支援活動にせよ、「おカミにまかせておけばいい」というようなムードは、日本の民主主義を後退させるだけでなく、国際的な信頼や交流の関係を積みあげていく上でも、大きな後退になる。◇今回の事件に対する反応では、一部の日本人はおそろしく冷淡な眼差しで見ていたし、イラク国民のほうがよほど同情的だったというのは、皮肉に思った。いまでも日本の国内には、「生きて帰ってきたことがずうずうしい」と見る向きまである。その意味では、イラクの社会のほうがずっと人間的かもしれない、と思わされた。スンニ派の当事者たちの間では、いろんな利害や条件闘争もあったかもしれないけど、すくなくとも、一般のイラクの人たちの親日的な反応にたいして、わたしは恩義すら感じてしまう。今週号の『週刊新潮』の見出しには、今井くんの家を「共産党一家」とか書いて揶揄したものがあった。中身の記事はさほど差別的ではなかったけど、むしろ、ああいう見出しに反応して好奇の目をそそぐ日本人社会の特質が、根底にあるんだろうと思う。そのたぐいの偏見の視線でもって、人がひとり見殺しにされているのを笑い飛ばすような感覚は、ほとんど「村八分」に近いような陰湿な日本のメンタリティを象徴してる。もし、あのまま今井くんが不幸な目に会っていたら、わたしの中には、とてつもなく後味の悪いものが残っていた。マス・メディアが、国民社会に「村八分的」なムードを誘発しようとするのは卑劣なことだし、それがもし「翼賛会」的な方向性をもってるなら、ジャーナリズムとしては最低です。読売なんかにも、政権の政策を正当化するために、必要以上に個人を糾弾しようという意図が、いまでもドロドロと感じられる。個人の家に露骨ないやがらせをするガキ右翼やガキ親父たちもいたけど、「公益」にかんする議論なら、それは公の場でやるべきであって、あらかじめ個人の主張を封じるために集団で圧力をかけるのは犯罪に等しい。そういうものを「批判」とはいわない。だいいち、家族の命をあらゆる手段で守ろうとするのは人間として当然のことです。同じように、マスメディアの力を使って、家族の主張を、権力の側に立って封じようとする論調があったのには、さすがに目を疑った。 読売翼賛新聞もここまで来たかって感じ。そのたぐいの世論を味方にしようとしていたんでしょうか、安倍晋三が、街頭演説で、自衛隊を撤退させない理由として、「テロに屈すれば新たなテロを生むことになるから、 テロに屈しないことが長期的に見て日本人を守ることになる」と言ってたのも、耳を疑った。その発想の感覚そのものが、わたしには信じられないものだった。たった今、人間が「生きるか死ぬか」という状況にあるのに、「これから新たなテロにつながってもマズイし、 放っとくのが長い目で見れば日本人の安全につながるだろう」みたいな、そんな悠長な、まるで「風が吹いたら桶屋も儲かるだろう」みたいな話が、彼にとっての「危機管理」なんでしょうか。「3人を助けてから、その後に想定される危機にあらためて備える」というなら理解できる。でも、「3人を見殺しにすることが未然の危機に備えることだ」という理屈は、人間としてであれ、政治判断としてであれ、いま考えても、まったく分からない。あの切迫した場面で、ああいう発想の言葉が出てくる安倍晋三の感覚じたいが、わたしは不可解です。在外日本人の誘拐事件なんて今にはじまったことじゃないんだし、自衛隊を撤退させたからテロが増えるかどうかなんて、誰にも分からない。(普通に考えれば、自衛隊を撤退させたらテロの対象にはならない。 逆に、もし誘拐という脅しで日本が動じなければ、 日本の国民は、もっと激しいテロにさらされる危険性だってある。)そんな有るか無いかも分からない将来のテロを未然に防ぐために、たった今危機に瀕してる人間を、3人も見殺しにできるんだろうか。わたしには、安倍晋三のああいう感覚が、どう考えても不可解。あの状況で人間の口から出てくる理屈として、あれは、あまりにも分からない理屈だった。だいいち、長期的な意味でテロの危険性をそれほど本気で除去したいと思うのなら、最初から自衛隊を出さなければいいわけです。ああいうところでどんな言葉が出るかというのを見ると、「政治家」というよりも「人間」としての資質が出る。安倍晋三は、「解放声明」が出た直後にも、「自衛隊を撤退させなかったことが勝利につながったのだ」と不用意に「勝利宣言」を出しました。そして、それが、かえって武装勢力の反発を買って解放を遅らせたのではないか、とも批判されました。テレビでは冷静そうに振る舞ってるけど、彼は自分の講演会などでは必要以上に強硬なことを言う人物なので、この手の失言はありうることだった。まさか事件の解決を妨害しようとしたわけでもないだろうけど、すくなくとも、彼の頭の中に、「撤退拒否の政治的選択を正当化したい」という、その一念しかなかったことは、容易にうかがい知れる。通常、人間の生命のことを考えたら、そんな政治的な正当性うんぬんなんてことは、はっきりいって二の次のことじゃないかと思うんだけど、彼の思考回路にはそういうものがまったく感じられない。そういうところが、安倍晋三という政治家の、人間としての不可解さです。◇まだ問題は解決していません。「米国人4人を殺害したイラク人を引き渡させる」という理由のために、600人もの民間人を殺害する必要が、どこにあるんでしょうか。このアメリカの占領政策に正当性はあるでしょうか。そもそもアメリカは、「大量破壊兵器」や「テロとのかかわり」といった戦争の大義を放棄して、「イラク人の解放」、「イラク人のための民主主義」ということを唯一の大義にしたはず。にもかかわらず、なぜ「イラク人の民主主義」のために、地元の勢力と戦争する必要があるんでしょうか。まったく野蛮人のやることはワケがワカリマセン。ファルージャとナジャフでの民衆弾圧を、ただちにやめさせてください。
2004.04.16
日本の右翼が例によってわーわー騒いでるけど、なかでも出色だったのは、北海道に宛てて「銃殺でしょう。」とか書いた嫌がらせの手紙。海外のメディアも注目している状況だったので、これは近年になく日本社会の恥部がさらし出ちゃった。日本の国民社会のいちばん「出したくない部分」だった。尖閣諸島に上陸してハダカでチャンバラごっこに興じていた、あの「国賊征伐隊」とかいうガキおやじの写真に匹敵する恥ずかしさ。あれを見たときも、失笑のあまりに鼻水が出そうになっちゃったけど、今回は世界的な報道体制だっただけに、日本人としても痛手だった。ああいうハガキをわざわざ出すのは、たいがい2チャンネル的なガキ右翼だろうと思ったけど、筆跡を見てみたら、意外にけっこうな齢のいったオヤジみたい。字もへたくそだし、文章の内容も、救いがたく幼稚。大量のタクシーを呼びつけたのも、60代ぐらいのオヤジらしい。あんな文面のハガキを丸々テレビの全国版に出されちゃって、まるであれが「日本の右翼の代表」みたいに報じられちゃって、書いた当人はどう思ってるんでしょうか?まさか、あんな幼稚なハガキがテレビ用に選ばれるとはさすがに本人も、思ってなかったのかもしれないけど。結果的にあれをもって「右翼の代表」とされてしまったようです。あそこまでバカをさらすかどうかはともかく、日本の右翼も、右翼なら右翼らしく、もうちょっと正々堂々とした方法がないんでしょうか。だいたいは「みんなでやれば怖くない」的な感覚なんでしょうけど、ジャンジャカマーチみたいなのを流して街宣して歩いてた頃から、右翼の行動様式は基本的に何ひとつ変わってない。ちょこざいな嫌がらせといい、みみっちい工作活動といい、やってることの内容が、けっきょく反日中国人と同レベル。たぶん、日本の右翼と反日中国人は、直接会ったら仲良くなれると思う。(人格的に種類が同じだから)ただし、右翼なら右翼で、右翼の男らしく、もうちょっとマシな言動をとってほしいし、ああいう国辱的な痴態を世界中にさらすような行動は、やるならやるで、もーちょっと内輪でやっといてほしい。(楽天内で、誰かとつるんで他人のHPを冷やかすのも同じ。 発言をするのは自由だけど、 発言するのと、さして意味のないちょっかいを出すのとは違う。)日本の保守勢力の「程度」がこのSAPIOレベルなので、それが国内の政治的言論のレベルを下げてるし、こういう右翼以外にほとんど存在しないということで、それが国策の選択ミスにつながりつづけてると思う。もし安倍晋三が、こういう種類の人間の後押しを味方にしてるつもりだとしたら、それは、「政治家として程度が低い」ということになると思います。このたびの安倍晋三の言動については、あとで書きます。
2004.04.14
焦点はファルージャになっているようです。ファルージャで行なわれている、女性や子供や老人を巻き込んでの大量殺戮は、かなり凄惨な状況にあるのではないかと思います。けれども、ファルージャの住民に、そのアメリカの攻撃を止めさせるような手段もないし力もない。そこで、ファルージャの町の男たちが、この状況を改善し、わが町の女性や子供たちを救うために、「外国人を人質にとってカードに使う」という手段に出たのかもしれません。アルジャジーラに送りつけられた最初の脅迫状の中に、「生きたまま焼き、血に飢えた戦士たちの食物とする」という文があった。わたしはこれを読んだとき、ただの比喩とは思えなかった。なぜなら、じっさいイラクの中には、自分の子供や、親や兄弟を、あるいは友人を、アメリカ軍によって生きたまま焼かれた人がたくさんいるからです。「家族を生きたまま焼かれた人々の気持ち」はどんなものでしょうか。この3日間で、日本国民は多少なりとも、そのことを想像させられた。そういう人たちが、いったいどんな激しい憎悪心を抱き、どれほど、あてどもない復讐心を燃やすことになるかを考えれば、一般のイラク人に理性を期待するのはかなり困難だと感じていました。ただ、幸いにも、イラク国民のなかには、いまだ「日本人に対する友好心」が残っているようだし、ファルージャのスンニ派の当事者の中にも、いまの状況を「憎しみの連鎖」にしまいという理性が、かろうじて残っているように見えます。イラク人の側にはまだ自制心がある。むしろ、問題はアメリカです。「憎しみの連鎖」にしまいという自制を欠いているのはアメリカのほうです。アメリカ人死体引き回しに端を発した報復攻撃は激烈を極めました。ラムズフェルドは、ほとんど思いにまかせて無差別な人殺しをしています。だけど、米国人の死体を引き回したイラク市民の扱い以上に、アメリカがいま国家的におこなっている、民間人への大量無差別殺害のほうがはるかに残虐だと思う。国際戦争犯罪に相当する内容をはらんでいる可能性があります。日本を含めた国際社会は、「憎悪の連鎖」を誘発させ、新たなテロリストを生み出させるような、このアメリカの行動をなんとしてでもやめさせるべきです。
2004.04.12
~ 日本人救出に「すべての手立て」を排除しないで ~ ◇現在のイラクは「戦闘地域」になっています イラク特措法の規定にもとづいて自衛隊を撤退させてください。 ◇サマワの自衛隊は、現在、実質的な活動ができていません 現在の自衛隊には、サマワに駐留する実質的な意味がありません。 ◇日本国民の生命を第1に考えてください「命は地球よりも重い」ということが引き合いに出されていますが、いまの状況は、そんな大げさなことではありません。もし、自衛隊の撤退を考える場合、それは、たんに、「国民の生命と、自衛隊のメンツ、どっちが大事か」という選択です。自衛隊のメンツを守り、ブッシュ政権の短絡的な行為に協力しつづけることが、国民の生命をなげうってでも優先すべき国策でありうるのかどうかについて、わたしは大きな疑念をもたざるを得ません。自衛隊の撤退が「人質解放」に結びつくのかどうかについて、確たる保証はまだありませんので、それを判断できる状況ではありません。ただし、冒頭であげた理由から、けっきょく自衛隊は撤退せざるをえません。問われているのは、そのタイミングだけです。自衛隊は、サマワにおいて、それほど不可欠な活動をしているのでしょうか?あるいは、今後、それほど重要な活動をしうるのでしょうか?そのことについて、明確な展望を示してほしいと思います。自衛隊が何をして、それがイラクの復権にどれほどの効果をもたらすのか。それが国民の生命にも比較しうるほど重要な活動であるのかどうか、わたしたち国民に判断の材料を与えてほしいと思います。「ダッカ事件で日本がテロの要求に屈したことは、今回の事件の遠因になった」とする政府関係者のコメントがありますが、なぜ、今ごろになって、そんなことを言うのでしょうか。「日本は人質に弱い」ということをテロリストがちゃんと分析していたのに、日本政府自身は、そのような分析を怠っていたのでしょうか。その自覚があったなら、もっと未然の対応ができたはずではないでしょうか。「テロに屈してはならない」というような政府の意地やメンツなど、国民にとってはまったく無意味なことです。そのような意地やメンツを保つことが、人命にまさることだとは思えません。むしろ、自衛隊が駐留し続けることがそれほど重要なのかどうかが問題です。日本がテロに屈したら、「日本は人質に弱い」とテロリストに甘く見られる、といった意見を述べる人もいますが、それとは逆のことのほうが心配です。もし、日本が人質に動じなくなったら、今度は、スペインのように、さらにひどい攻撃を仕掛けられるだけです。テロリズムやさまざまな不満を「軍事で押しつぶそう」という発想が間違っています。テロや不満を無くすためには、最終的に彼らにも満足できる世界を作らなければ解決しません。「テロに負けない」という意地やスローガンだけでは何も解決しない。アメリカを中心とする世界の現在のようなやり方は、その根本が間違っています。強行的な手法がさらなるテロを生み出していくという悪循環になっています。「自衛隊を撤退させない」という日本政府の見解について、米国防長官のラムズフェルドは、「歓迎の意向」を示していますが、アメリカの政治家が、このことで勝手なことを言わないでほしい。日本国民は、あなたの機嫌を取り続けるだけのために、生命の存続をもむざむざ諦めなければならないのでしょうか。アメリカの身勝手な世界戦略に付き合うことは、国民の命より大事でしょうか。彼の発言に、わたしは日本国民として、大きな憤りを感じずにいられません。もしも国民の生命を犠牲にしてまで、国や自衛隊のメンツを保つことが「国の安全保障」だと言うのなら、そのような「国家」は存在する必要もありません。そして、国際社会に対するメンツだけを優先するのが自衛隊という組織ならば、そのようなものも必要ありません。国民より、国のメンツを優先するような戦前のような政治家も専門家も不要です。まちがっても、つまらない国のメンツのためだけに、可能な選択肢を排除したりしないでください。
2004.04.11
森本敏に代表される専門家や、読売新聞に代表されるメディアは、いま、責任をもって発言しているのでしょうか?「対米協力のためなら国民の犠牲もやむなし」というほとんど国辱的な主張。右翼であれ、左翼であれ、こんな主張にいま同調する政治勢力があるのなら教えてほしいです。そもそも、現在の自衛隊の活動は、日本人の生命を見捨てておこなうほど価値のある活動なんでしょうか?「テロとの戦い」のために軍隊を使用することはかえって逆効果です。日本がイラクに自衛隊を派遣したのは、実際には「アメリカに協力しよう」とする親米的な勢力の思惑のためであり、あるいは「自衛隊を海外で活動させてみたい」という国防族の思惑があったためです。先にあげたような親米的な論者たちも、なかば開き直ったうえで、そのような日本の思惑があるのを認めています。そして、この場におよんでなお、その目的を達成しようという姿勢を変えません。国民の生命よりも「対米協力」を尊重しようという国辱的な姿勢。他方で、国民の生命よりも「自衛隊のメンツ」を優先させようとする国防族の発想。(これは戦前そのもののような醜いものですが。)今回のような危機的な事態は、自衛隊派遣という判断をした時点ですでに予測されていました。しかし、現実にそのような事態に直面した今になって、一部の論者は、「国民の自己責任だ」というような言いかたで国の責任を放棄しようとしています。「安全保障」をつねづね口にしている論者は、じつは、国民の安全保障よりも「国のメンツ」や「対米協力」を優先させるのが実態です。国家は、国民を守るわけでもなく、国民社会を守るわけでもなく、かといってイラクを再建するのでもなく、本当の意味で世界からテロを無くそうとするのでもなく、たんに、国自身の体面を守り続けようとするだけの制度です。あるいは、ブッシュに対するメンツを通そうとするだけの、ほとんど「国賊」です。国家に対する「わたしたちの信頼」は、かなり限界に来ていると思います。
2004.04.10
◇今日の日記で2つのことを書くつもりでした。ひとつは、靖国問題。ふたつめは、イラク問題です。「冬ドラマ」のことについても、今日は書くつもりでいました。ところが、夜になって、「日本人3人がイラクで人質」という事態になった。なので、予定を変更します。靖国問題のことは、後日書きます。冬ドラマのことも、もう少しあとにします。イラク問題についても、当初とは、書こうと思っていた内容を変更します。1.軍隊でテロに立ち向かうのは間違い!ここ数日、イラクの対米闘争が激化していたし、「自衛隊の宿営地周辺で砲弾」というニュースもあったので、今後のイラク状況の展望と、イラク政策の方針のありかたについて、朝からぼんやり考えていました。でも、状況は予想以上に急展開になってしまった。。ちょっと、途方に暮れています。わたしは今まで、「軍隊はテロリズムに勝てない」ということを繰り返し書いてきました。そのことがますますハッキリしてる。アメリカはいま、「フセインの次は、サドルを倒すんだ。」と言ってます。サドルを倒したら、また次の勢力が出てくるんだと思う。いうまでもなく、いま、おこなわれている「サドルとの戦い」は、もう「大量破壊兵器」とは関係ありませんし、もちろん「国際テロリズム」とも関係ありません。現在の状況は、「民主主義をつくる」というアメリカの言い分のために、ただ地元勢力とのあいだで戦争をしているのにすぎません。いったい、アメリカはなんのためにイラクへ行ったのでしょうか?◆ ◇「軍隊はテロリズムに勝てない」ということについて、以前このHPでも議論しました。そのとき、ハニワさんが、「テロを倒さなくても、負けずに駐留しつづければ軍隊の勝ちなんだ」というようなことを書いてました。わたしは、そんな言い訳って、とんでもなく詭弁だと思いました。今は、もっときびしく、そのことを考えさせられています。わたしたちは「テロとの戦い」をしているんです。テロと戦っているのに、「軍隊はテロを倒さなくてもよい」などというのでは、いったい何のために軍隊を出しているのかわかりません。「テロとの戦い」である以上、テロを無くすことができなければ何の意味もありません。くりかえしますが、わたしたちは「テロとの戦い」をしています。そうであるかぎり、テロリズムを無くさなければなりません。そして、テロリズムと戦う場合、「軍隊を使用する」という選択は、じつはもっとも不適切な選択です。もともと軍隊というのは、テロを倒すことに不向きな組織だから。◇ ◆9・11以降、世界は熱に浮かされてしまいました。アメリカだけでなく、日本の世論も含めて、「テロとは軍隊を使って戦う」という発想しかできなくなった。テロに打ち勝てるという確たる展望もないまま、アメリカは軍事力に依存してしまったし、日本も、それに何の展望もないまま追随してしまいました。その政策の結果が、今回の「日本人の人質」という状況にも露骨に出てしまっています。日本の政府も自衛隊も、今回の事態にまったく打つ手がありません。テロリズムは、もともと軍事力で対応できるものではないからです。今回、日本人を人質にとった組織は、自衛隊にたいして「撤退」することを要求してきています。そして自衛隊は撤退しません。もちろん、テロリストもそのことをちゃんと分かっています。軍隊というのは、「自国民を保護するために出動する」ことはできますが、「自国民を保護するために撤退する」ということはできません。軍隊とはそういう組織です。テロリストは、そのことを完全に読みきっている。だから、今回の件で、自衛隊は邦人を守れません。撤退しようと、撤退しまいと、結果的に、自衛隊に邦人を保護する能力などない。そのことを世間にさらすためにこそ、テロリストは、今回のような手段に出ています。「軍隊がテロリズムに勝てない」というのは、そういうことです。テロリズムというのは、不定形な組織による不正規な戦いなんですから。2.勝ち目のない政策判断に踏み切った!わたしたちは、国際的なテロリズムと戦っています。その場合、「テロリズムを軍事力で倒す」とか、「世界の不満を軍事力で押さえつける」などということは、冷静に考えれば、できるはずがありません。テロと戦うためには、ほんとうは「軍事力とは別な手段」をとらなければなりません。軍事力は、テロに対してまったく無力だからです。世界はいま、完全に誤った方向にすすんでいます。日本は、アメリカを支援するために、「軍事力をもってテロに立ち向かう」という勝ち目のない戦いに、なんの展望もないまま参加してしまっています。というよりも、もともと各国が「テロとの戦い」のために軍隊を派遣したのは、じっさいにはテロに勝つためなんかではありません。軍隊がテロを倒せないことなんて、冷静に考えれば分かりきってます。それでも「テロとの戦い」のために軍隊を出したのは、それぞれに、テロを倒すこととは無関係な「思惑」があったからです。アメリカの場合は、第一に、暴力にうったえることで国民感情を満足させたかった。第二に、イラクや中東での覇権を拡大したかった。第三に、国内の政治や経済の力学が働いたと思います。日本やその他の国の場合は、たんにアメリカに同調するしかなかった。軍隊でテロに勝てないことはわかりきっていたけど、アメリカに協力する以外になかった。最近、日本で「政権担当能力」ということが言われるようになったけど、もともと、「政権担当能力」というのは、現実的に勝ち目のある政策を選択し続ける力のことだと思います。今回、日本は、「アメリカに協力せざるを得ない」という情けない理由だけで、ほとんどろくな展望もなく、勝ち目のない戦いに参加してしまいました。勝ち目のない選択をするというのは、じつは「政権担当者」として、最低のことだと思います。◇ ◆今回のようなケースの場合、アメリカやロシアやイスラエルなら、実質的に「人質の見殺し」という方針を取ると思います。そしてその代わり、あとでテロリストに対する軍事的な報復を行なうんだと思います。でも、日本人はそんなふうには考えません。テロリストに報復したからと言って、何も得られないし、そもそもイラクにそんなことをしに行ったのでもないし、なんの意味もない、むだな戦いをしている、とだれもが思うだけです。この場合、日本人を救出できなければ、なんの意味もありません。3.おそかれはやかれ撤退は不可避!わたしは今日、日記に次のようなことを書くつもりでいました。~~~ ↓ ~~~ ↓ ~~~ ↓ ~~~「自衛隊の最悪のシナリオ」1.イラクの反米闘争が激化して、自衛隊が宿営地に引きこもる。2.「自衛隊は何もしてくれない」とサマワ市民の感情が悪化する。3.サマワ周辺にも反米テロが波及して治安が悪くなり、自衛隊も撤退を余儀なくされる。4.結果的に自衛隊は何もできないまま、アラブ人の対日感情を悪化させただけで終わる。以上が、自衛隊にとって最悪のシナリオであり、現実的にこんなふうな展開になる見通しも強くなってると思う。こういう「最悪のシナリオ」を未然に避けるためには、今後の方針として、次の2つのことを考えていくしかないと思う。●アメリカ軍が、早期に撤退する。●日本の支援を、自衛隊から民間の支援に転換する。・・・・~~~ ↑ ~~~ ↑ ~~~ ↑ ~~~こういうことを書くつもりでいたんですが、予想以上に急展開になってしまいました。いま、テロリストの要求を呑むかたちで、自衛隊が撤退するのが適切なのかどうかはわかりません。ただ、テロに屈するか屈しないかはべつとして、おそかれはやかれ、上の2つような方向で、政策の転換を考えざるを得なくなる、というわたしの考えは変わらない。そうしなければ、どっちにしても、イラクの展開は、状況がどんどん悪くなる一方だからです。どっちにしてもアメリカ軍は撤退しなければ治まらないし、日本も自衛隊から民間支援に転換しないと、支援そのものができなくなる。現状を見るかぎり、遅かれ早かれ、その方向で政策の検討をし直さざるを得なくなると思います。イラクの状況を改善させるには、それを検討する以外ありません。あとはタイミングの問題です。
2004.04.09
わたしはここ一ヶ月ぐらいの文章で、「40代の人々の保守的な傾向」を問題にしてきました。「全共闘」的な左翼理念から解放された世代が、「結果として保守化している」ということによって、これからの日本にどんな影響があるのか、そのことを批判的に見る必要があると思っているからです。ただ、最近、それよりもっと「問題だ」と感じるようになったことがある。それは、若年層の「短絡的な保守性」です。「保守性」というよりは、むしろ、はっきり「ナショナリズム」と言ったほうがいいかもしれない。よく分からないんです。ほとんど感情的な動機しかないような、妙な「保守主義」的な発想が、かなり若年の世代の人たちに見られるようになった。具体的にいうと、1980年代に生まれてる世代の若年層。なんで、こんな「10代しゃべり場」みたいな世代が、「軍事」のことに偏執的なほど関心を示すのか不思議なんだけど、エキサイトの掲示板のほうにも先に書いたんですが、http://www.excite.co.jp/bbs/politics/domesticわたしは、若い世代のこういった短絡的な保守性を、「ゲーム・ナショナリズム」と呼ぶことにした。現在の40代の人たちが、左翼的な理念の呪縛やタブーから解放されて、安全保障をふくめていろんな議論をし始めたことは、それなりに意味のあることだとは思うし、さまざまな主張を吟味する余地はあると思うんだけど、それに対して、いまの若い世代には、まずもって「政治的な動機」というのが感じられない。そして、論理的な整合性も感じられない。そこは、今の40代とまったく逆。「若いから」といえばそれまでなんだけど、いまだ政治的な動機も論理的な根拠もないのに、なぜかこの世代はいきなり「軍事」のことを語り出す。その動機には、どうしても不自然なものを感じざるをえません。論理より感情が先立つのは若気の至りともいえるけど、そもそも感情的に軍事を論じようとする動機がわからない。これは若さの問題というより、世代の問題じゃないかと思う。軍事に対して、一種のゲーム的な幻想があるんじゃないかと思う。そうじゃなかったら、政治にかんする思想や理念も現実的な展望もないのに、いきなり「軍事」のことを考えたりしないはず。つまり、政治とはまったくべつの動機から、「軍事」それじたいに興味を持ってるとしか考えにくいんです。要するに、個人的なフラストレーションとか、たんなる個人の快楽的な衝動を、軍事的な幻想によって解消しようとしてるようにしか見えない。それが、まるで「ゲーム感覚」に見えるんです。そして、その場合、端的にいうと、「勝つこと」しか彼らの頭の中にない。◇ 彼らのような若い世代が、「軍事」に関心をもつ理由なんて、ふつうは考えにくい。じっさい、議論をしていても、論理的な基盤があるわけでもないし、きびしい現実的な展望があるわけもない。そういう世代の若者がひたすら「軍事」のことだけ主張してる。それに輪をかけて、そういうところから来る若いナショナリズムの傾向を、「自然な感情」の発露だといって讃えたりするメディアもある。こういう短絡なナショナリズムの衝動を、「自然な感情だ」とか評価してしまうかどうかは、大人社会や、マスコミの人間側の「見識」の問題です。こういう若い世代に、「論理性」ということの重要性を伝えられないと、日本社会はとても危険なことになると思う。1930年代の日本の状況がそうだったように、「中年世代の国益追求の戦略」と、「若年世代の衝動的なナショナリズム」が結びつくと、とんでもない事態が訪れるようになるんじゃないかと思う。この世代の短絡的な保守性が、今後、いわゆる中国の「反日世代」と“対”をなしていく危険があります。たぶん、世代的にも、ひじょうに似通った特徴があると思うから。はっぴいえんどの「おまけ」もUP→■
2004.04.04
「連赤を総括する」というような内容でした。わたしもこのHPで、「72年」という年をとりあげて、日本の政治風景の変化のことを書いたりしてきました。全共闘以後に、若者たちが「スキゾ化」したことで、「日本社会が全体にダラシなくなってしまった」というのは、わたしもやっぱり同じ意見なわけですが・・、ただし、わたしは、「全共闘をもういちど。」などとは言ってません。それはとても危険なことだし、「オウム真理教」というのが、ある意味やはりその再現だった。むしろ、「全共闘を繰り返さない」、「オウムを繰り返さない」、というところから始めなければならないわけだし、もっと言えば、植垣康博が言ってように、「20世紀の社会主義の失態を繰り返さない」というところから始めなければならないわけです。そこをふまえなければ、何もはじめられないです。わたしは、「全共闘をもういちど。」とも言ってないし、「いちご白書をもういちど。」なんて感傷的なことを言ってるわけでもない。「スキゾ」の時代が終わったことはたしかです。でも、短絡的に前と同じことを繰り返すんだとしたら、右翼にしろ、左翼にしろ、それはつまり、何の学習もしてないってことです。じゃあ、どうすればいいのか。現在の「体制批判」の運動の主流は、やはり、欧米の市民運動の流れを汲んでるんだと思うし、それで正しいんだと思う。ただ、残念なのは、日本では、まだその流れが洗練されたものになっていないということです。でも、私はけっこう期待しています。世代が変われば、新しいものがまた出てくると思う。もう、「スキゾ」に飽き飽きしていることはたしか。
2004.03.27
3月2日の日記の議論のなかで、楽天家さんの次のような書き込みがありました。>「反戦の訴えかけ」をすることは、非常に重要なことだと思います>個々人の感性に訴えかけ厭戦気分を盛り上げ反戦活動に導くことは、重要な要素です>それらの活動を対峙側内部で展開することは効果的な戦術であり、>内部崩壊を誘発させることができればそれに越したことはありません>このような手法を選択肢として排除するものではありません>それどころか世界各国が取り入れているこの手段を早期に有効活用すべきだと考えるほどです>情報戦は平時から展開されているのですから、テロリストの手法だと忌み嫌うのは早計です楽天家さんは、わたしと逆の立場の人なので、彼は反戦活動の「もうひとつの効果」について皮肉をこめて書いているわけですが、わたしは、ここに書いてあることは重要だと思います。テロリストがそれを利用するにせよしないにせよ、「厭戦気分」が内部崩壊をもたらすということはありえる。そして、それは、(政府が情報操作でもするならともかく)国民の「自制」によって避けられるようなものでもないと思います。軍事を考える人間なら、当然そのことは考慮に入れるべきです。厭戦的な世論が国を分裂させる危険性をまったく考慮せずに、ただ短絡的に戦争をはじめてしまったんだとすれば、それはブッシュがバカだったということです。そして、その結果、国が分裂して政権が崩壊してしまうとすればそれは、イギリスやスペインがバカだったということです。なおかつ、イギリス、スペインの場合は、情報操作で世論をコントロールし、反戦ムードを抑えようとしたことが、ますます仇になって政府を追い詰める結果になってます。日本でも、奥大使らの「米軍誤射説」までテレビに取り上げられたりしてますが、情報の透明性をないがしろにすれば、やはり同じことが起こりかねません。もし、軍事を考える人間が、「敵をやっつけること」しか考えていなかったんだとすれば、それはただ頭が悪いということになると思う。◆ ◇・・パレスチナ問題にも触れておきたいと思います。いま、わたしが思ってるのは、イスラエル国民も大変だなあ・・ってことです。イスラエル国民としては、ハマスを排除したいんだろうなと思います。わたしはいままで、エキサイトの掲示板などで、イスラエルを非難する立場で発言してきました。たとえばハマスは、たんなるテロ組織じゃありません。パレスチナの社会福祉にも貢献しているような団体です。パレスチナ社会には不可欠な存在だと思います。だから、今回のイスラエルの行為も非道だと思うけど、ただ、むしろ、わたしにはこれが、イスラエルの「自滅のはじまり」のように見える。そもそも、イスラエルという国は恐ろしく脆弱です。国際社会から見放されたら存立できなくなるような国です。よくアメリカの「ユダヤ・ロビー」みたいなことが言われるけど、もし本当に、それだけを頼りにして存在しているんだとしたら、これほど脆い国もありません。イギリス、スペイン、台湾、韓国と、国が分裂することで危機的になっているところが多いなかで、現在のイスラエルは、さほど分裂はしていないと思う。むしろ、パレスチナに対して結束していると言っていいと思います。だけど、「結束さえしていれば国が安泰なのか」というと、それはまったく逆です。わたしは今、イスラエルのほうが非常に危機的じゃないかと感じています。分裂するのもマズイけど、ただ結束すればいいってもんじゃない。けっきょく重要なのは内政と外交のバランスです。かつての日本もそうだけど、崖っぷちまで結束し続けるようになったら、その国はもうヤバイ、ということだと思います。
2004.03.25
数日前の読売記事をチェックしてたら、↓こんなのが載ってました。「民主党衆議院議員の憲法9条への考え方」◎改正するほうがいい60歳代以上:42.1%50歳代 :51.6%40歳代 :69.7%30歳代 :59.4%ここで気になったのは、「40代がいちばん多い」ってことです。40代が、いちばん憲法改正に積極的な世代。わたしは、サブページの「はっぴいえんどの終わり」のなかで、「1972年を境に、政治の季節が終わった」ということを書いたけど、いまの40代というのは、まさしく「72年以降に青年時代をすごした人たち」です。俗に言う、「軽薄短小」な「シラケ」世代。前世代の左翼運動などを嫌悪して、政治から遠ざかった人たちが、いま、結果として保守化していることが、わたしには必然に思える。以前、テレ朝の「朝まで生テレビ」で、40代の人だけが集まって討論をしていたことがあったんだけど、それを見たときに、わたしは、エキサイトの掲示板に次のようなことを書きました。(長いですけど)>「日本の四十代の人々」は、 >「戦略」という言葉が好きなようですね。 >そして、それはいかにも「四十代的」だと思います。 >みずからの存在をメタレヴェルに置くために、 >とことん自分を希薄化し、 >すべてをメタレヴェルから操作し得ると錯覚する、 >「四十代の人々」の典型的な特徴だと思います。 >その点で、 >彼らの「戦略」という幻想は、「軽薄」なものデス。 (中略)>「戦略だけの外交」というのは、 とても不安定です。 >その最たる例がアメリカです。>アメリカは、歴史も文化もなく、 >ただそのつどそのつどの「戦略だけ」でやってきたような国です。 >ときにアフガンを支援してみたり、 >気分が変わると壊してみたり、 >ときにフセインを支持してみたり、 >都合が悪いと敵対したり、 >そのように「戦略だけ」でやってきた外交が、 >世界の歴史的・文化的連続性を混乱させ、 >亀裂をもたらしています。>「戦略だけ」しかないような外交や国の存在の仕方は、 >安定的な世界を破壊するばかりか、 >他国の信頼を得ることが出来ず、やがては猜疑心を煽ります。>したがって、一面では、 >国が、「戦略以前」の、 >歴史的・文化的連続性に基盤を置くことが、 >絶対に重要デス。 >そこからしか信頼関係は生まれないからデス。 わたしがこのとき言いたかったことは、その場その場の現実的で軽薄な「戦略外交」ではなく、その国の歴史・文化や国民感情に基盤をおいた外交が大事な場合もある、ということです。「朝生」の40代の人たちの議論を聞いたとき、わたしは「発想が戦略的に過ぎる」と感じたのです。簡単にいえば、いまの40代の人たちというのは、とても「現実的」で、「実利的」なんだと思います。逆にいえば、特定の「理念」とか「伝統」に縛られていないということです。理由のひとつは、彼らが前世代の左翼的な理念に縁を切ったということにあると思う。もうひとつの理由は、60年代以降の高度成長期の時代に自己形成をすることで、彼らが、日本の「風景」とか「文化」からも切り離されているということ。そういう「無根拠」で「空虚」な世界に育ってきたことが、この世代を良くも悪くも「現実的」「実利的」にしたんじゃないか、とわたしは感じています。そして、それがわたしには「40代の怖さ」にも思える。これはとても悪い例すぎるかも知れないけど、先日の浅田農産の「2代目社長」の人が、わたしから見て、「40代」の、ある意味、典型的な人物像なんです。あの人を見ていたら、「倫理的なしばり」が何も無いから、「罪悪感」もまるで無いって感じ。初代の会長には「罪悪感」があるように見えたけど、2代目の社長のほうは、ドライなほど「罪悪感」が無さそうに見えた。法的な利害の計算や、経済的な利害の計算はあるかもしれないけど。普通の人間なら、何かをするときに「心理的な縛り」みたいなのがあると思うんだけど、彼にはそれが感じられなかった。「心理的な縛り」なんてのも、しょせんいい加減なものかもしれないけど、それが無さ過ぎるというのも、怖い。いまの40代の人たちの「ドライな現実主義」というのも、一面でそれが長所だとしても、他方でちょっと怖い気がするんです。・・と、そんなことを考えていたら、例の発禁命令が出た『週刊文春』のなかで、宮崎哲弥(まさしく40代を代表する人物)が、これに関連するようなコラムを書いていて、下のような面白いチャート図式を載せていました。 原則論 A ↑ B 文化・マインドが大切 ← → 制度・システムが大事 C ↓ D 実践編このチャートで言うと、いまの40代の人たちというのは、わたしから見て、「D」に所属する人たちです。つまり、「原則」だの「文化・マインド」だのにとらわれずに、制度やシステムの中だけで物事を判断して実践する人たちです。とてつもなく「現実的」に実践する人たち。宮崎哲弥は、前述の「朝生」のときにも宮台真司と一緒に出てましたが、彼自身は「いまの40代の人間」というものに、ある程度自覚的なんだと思います。現実的に実践するというのは、それ自体としては長所なんだろうし、特定の「理念」や「原則」にとらわれすぎるほうが、どちらかというと欠点とみなされることが多いわけですけど、でも、さっきも言ったとおり、既存の「理念」や「原則」から解放され過ぎてたり、「文化」や「倫理マインド」を背負わな過ぎるというのも、ある意味とても恐いのです。とくに、憲法をつくる場合に、日本人の歴史や文化的マインドを無視して、ただドライな「現実的」な判断だけで作っちゃっていいんだろうか、と、わたしはすごく疑問に感じる。これからの日本人の生き方を決める憲法が、いまの40代の「現実的」な考え方だけを中心にして作られてしまうのは、正直にいって、非常に不安です。◆ドリフの父、死す。今日葬儀でした。あらゆる意味で「巨大」な人でした。裏も表もふくめて。
2004.03.24
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