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トランプ大統領がWHOへの拠出金を止めるというのは、たんなる「脅し」かもしれませんが、どっちにしても、彼の国連に対する敵対姿勢は今後も変わらないでしょう。その一方で、中国は、財政的な支援もふくめて、国連への関与をさらに強めていくでしょうから、国際社会における発言力はいっそう強まるはずです。はたしてトランプは再選できるでしょうか?わたしは敗色が濃厚になってきたと感じます。彼の「Great Again」という公約は逆の結果を招きました。米国こそが、世界でもっとも脆弱な社会になっている。コロナショックをとおして、その実態を海外に晒してしまった。米国は、いずれにしても、国際協調路線へと揺り戻す必要に迫られるはずです。ただし、たんに「元に戻る」ということでは済まされない。今後の国際社会においては、極大化した格差を是正するための抜本的な枠組みが必要になります。国内的にも、国際的にも、格差こそが安全保障上の最大のリスクであることが明白になった。おそらくは、米国を中心とする累進課税の枠組みが必要なのだろうと思う。それが利益還元と再分配によって格差を是正するための、もっとも常識的かつ有効な対策です。米国国内の格差だけでなく、国際的な格差をも是正して、世界規模の社会保障の体制を築いていかなければならない。そうしなければ、もはや人類社会を安定的に運営できません。ちなみに累進課税制は一国だけでは成立しません。とりわけ企業の活動は国境を超えているからです。その枠組みには、すべての国を組み込まなければならないし、そこに参加することが各国の利益にもならなければならない。それが「コロナ以後」の世界になっていくだろうと思います。
2020.04.17
「美食探偵 明智五郎」の初回ですけど、一見して、ワケわからん感じのドラマです。あまりにも突拍子がなさすぎて。斬新… というよりも、たんにドラマの作り方を知らないのでは?という疑念のほうが大きい。意図的にやってると思うほどの知性は感じないのです。カメラのピントの合わせ方すらおかしいんじゃないの?ってところもある。◇視聴前は、NHK『トクサツガガガ』のコンビだと期待したものの、実際のところは、日テレ『偽装不倫』のスカスカドラマの雰囲気のほうが強い。宮沢賢治をうっすらまぶしただけの恋愛ドラマと同様に、ダビンチをうっすらまぶしただけの探偵ドラマに終わるのでは?◇正直、いまの日テレのドラマ部門がどうなってるのかよく分からないけど、読売テレビの「シロクロ」がかなりの完成度を見せた半面、日テレ本体のドラマ部門は、基礎から崩れてるのでは?との不安もある。まあ、局にとっては、数字さえよけりゃあ何でもいいんでしょうけどね。ドラマ史に残るような「変なドラマ」になる可能性はあります。
2020.04.13
「野ブタ」。15年経つのだそうです(笑)。じつは、このブログも2005年に始まったので、当時は、このドラマのことをけっこうレビューしました。今はなきアマゾンリストにも、こんなことを↓書いていた。青春ドラマの、とらえがたいヒューマニズムとアンチ・ヒューマニズム、もしくはリアルとアンリアルを、感受性ゆたかに表現しえてる名作。繊細で、スタイリッシュで、ちょっと寓話的で、謎めいていて、じつは哲学的。ほんの少し映像を見ただけで、すぐそれと分かる前衛的な“日テレスタイル”。それがこの作品に到達したんだ、と思わせてくれるような快挙です。宇梶剛士、高橋克実、清志郎、夏木マリら“大人たち”の怪演も見事!うーん。なるほど…。ストーリーはまったく覚えてないけど!(笑)とにかく、木皿泉の脚本と、岩本仁志の演出に、あのころの日テレ土9の魅力がたっぷり詰まっていたのです。たんなるジャニタレドラマじゃあなかったんだよね。そのことだけは覚えてる(笑)。ちなみに当時の日記はここらへん↓に残ってますが、https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/200510160000/https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/200511290000/https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/200512130000/https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/200604180000/https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/200605110000/ざっくり読み返してみると、第7~9話あたりが肝だったのかなあ。プロデュースする方とされる方の関係が逆転し始めて、それまで完璧だった亀梨くんが徐々にバランスを崩していく第7話は、素晴らしい内容でした。まだ最終回が残ってますけど、第9話を見た段階で「名作」と言ってしまいましょう。今回の登場人物の一人は、明らかに自殺してしまうような女の子。現実に存在する「絶望」の片鱗をかいまみせながら、かろうじて青春ドラマに救いを与えるための素晴らしい演出でした。一歩手前で、絶望の片鱗だけを見る。「絶望」について考えるためには想像力が必要だし、その点では、この一種寓話的な脚本というのは、とても印象的で、効果があったと思う。「絶望」というのは実際に存在するけど、でも、誰も落ちてなかった。ただ、人型だけが、草むらに残ってる。それを4人で見てる。このシーンが、そのことを象徴しています。…だそうです。われながら、まったく覚えてない(笑)。まあ、第1話を見返してみても、いまだに通用する内容だったんじゃないかとは思います。来週は第2話をやるんですね。
2020.04.12
すでに中国では感染のピークを過ぎたといわれる一方、中国当局の発表は信じられないとする見方も依然くすぶっている。もっとも、政府の発表を額面どおりに信用できないというのは、日本であれ、米国であれ、もはや大差ないことともいえます。◇ただ、日本に住んでいる実感としていえることは、中国からウィルスが入ってきていた時点では、まだしも感染を制御することはできていた、ってこと。東京や大阪、あるいは北海道や沖縄にも、中国からの旅行者は沢山いたはずなのに、彼らの存在は、日本での市中感染の原因にはならなかった。ところが、ひとたび欧米で感染が爆発しはじめると、日本でも、あっという間に、とりわけ東京において市中感染がはじまりました。このことは何を意味しているのでしょう?なぜ中国経由のウィルスは制御できていたのに、欧米を経由したウィルスは制御ができなくなったのか?欧米人の体内を生き抜いたウィルスは、遺伝子的に感染力が強まったとでも言うのでしょうか?それとも、中国以上に、米国こそが感染初期の状況を隠蔽していたせいでしょうか?◇ひとつ考えられるのは、そもそも日本の「水際対策」が、中国をはじめとするアジア人に厳しく、欧米人一般に対して甘かった、という可能性です。空港の検疫官ひとりひとりが、貧相なアジア人に対して侮蔑的である一方、富裕な欧米人に対しては卑屈だったのではないか。同時に、アジアからの帰国者には厳しく、欧米からの帰国者には甘かったのではないか。そこにも、無意識のうちに、「国家の力関係」が反映されていたのではないでしょうか?※その意味では、ダイアモンド・プリンセスの船内も「欧米」だったかもしれません。日本人は、とかく中国や韓国に疑念をもつ反面、欧米を無条件に信頼するという盲目的な態度を取りがちですが、かりに、その結果が、現在の東京の混乱に繋がったとすれば、愚かというほかはない。事実、いまだにコロナウィルスを「中国の病気」とする観念が日本には根強く、その必然的な結果として、米国(しかもニューヨーク)こそが最大の病巣であるという現実に対して、真摯に目を向けようとしていないのです。いわば、現実を見ずにイデオロギーに固執している。こうした態度が、亡国をくりかえし招いてきたのは、歴史の教訓だったはずです。◇わたしが思うに、コロナウィルスの感染を拡大させている最大の要因は、自由主義国家の都市部における「密集」と「格差」です。その意味でいえば、近代都市こそがもっとも感染に弱いのではないでしょうか?現実を見ずに、信じたいものだけを信じようとする愚かさは、破滅を招くだけです。
2020.04.10
ちょっと前までは、引きこもりの人間をむりやり外に連れ出して、わざわざ夜型人間を昼型人間に矯正させることが、いわゆる「社会性」を身につけさせるために必要なことだ、と信じられていましたね。つまり、他人と協調して快活に生活できるような、そんな体育会的な人間像こそが「模範的」と信じられていたのです。外に出て、昼に活動し、多くの他人と接するような生活態度こそが、真に「社会的」であり「正常な姿」だと考えられていたのですね。しかし、考えてみれば、わざわざ満員電車にのせて朝礼に参加させるなどというのは、いかにも無意味で馬鹿げたアナクロニズムなのだし、たんなる暴力的な強制だったと言ってもいい。むしろ、日本社会に多くの引きこもりが存在しているのならば、その引きこもりの人たちを、引きこもりのままに活用していくほうが、はるかに合理的なのです。もともと体育会系の脳筋バカなんぞよりも、引きこもり人間のほうが、はるかに知的で創造性が高いのだから。もとはといえば、大学のような高等教育の現場で、わざわざ「体育会系の人材」を育てるという発想じたいが、大きな本末転倒であり、大きな過りだったわけですね。労働者を育成するのは、あくまでも小中学校の義務教育の役割です。大学が「体育会系の企業奴隷」なんぞを育てていたら、いずれ国家が滅んでいくに決まっている。シリコンバレーはおろか、中国にすら太刀打ちできません。本来、大学とは、創造的な起業家を育成すべき場所です。◇テレワークやオンライン学習が普及するにつれて、やがて引きこもりのほうが社会のデフォルトになっていきます。こうした引きこもりの人々の仕事を、オンライン上で自在に取引できるような、公共的なプラットフォームを国内に構築することができれば、そこに海外の秀れた人材を引き込むことにもなるでしょうし、それ自体が、大きな産業に発展する可能性があります。こうしたプラットフォームは、日本の風土にこそ適している。もともと日本の引きこもりの中には、いわゆる同人としてコミケなどで活動してきたような、作家、詩人、音楽家、漫画家、アニメーターなどが大量に存在しています。そうした人々は、潜在的に何がしかのプラットフォームを必要としている。ソフトパワーは有り余るほど国内に潜在しているのに、それを産業化していくためのハードインフラが決定的に欠如しているのです。その際に「引きこもり=お一人様」という観念は捨てるべきです。オンライン上のプラットフォームを介せば、引きこもりの人々は、じつはたがいに協働することができるからです。たとえば引きこもりの音楽家は、ひとりで作品をつくるのではなく、作曲家と作詞家と演奏者の分担によって作品を共作できるのです。プラットフォームとは、たんに需要と供給を結びつける場であるのみならず、協働する個々人を結びつける場でもあるということです。◇引きこもりの人々をわざわざ外へ連れ出すのではなく、そのソフトパワーを産業化していくためのシステム作りこそが急がれています。
2020.04.02
「スカーレット」終了。最終回、すごかったです。ちょっとした衝撃です。「ナレ死」は予想してましたが、あわせて骨髄バンクの設立のことが語られて、おだやかに幕を下ろすのだろうと思ってました。だって、ちや子は政治家なのだし、大崎や圭介は医者なのだし、荒木荘のオーナーも癌患者を支援してるし、白血病患者の会もあったのだし、役人の信作もいるし、実業家の照子の夫もいるし、国際事情に通じている草間もいるし、芸能人の信楽太郎もいるし、影響力の大きいジョージ富士川もいるのだから、骨髄バンク設立運動の下地はじゅうぶん整っていたわけです。しかし、何もないのですね…。徹底して、何もない最終回なのでした。何もない、ってところがスゴイ。三津もアンリも去ったまま戻ってこない。よくあるテレビドラマの大団円らしきものはない。ただ、ひたすら、ひとりの女性のむき出しの人生があっただけ…。そういうド直球をぶつけてきた最終回でした。これは「純情きらり」の最終話を見たときの衝撃に近い。冬野ユミの音楽だけが静かに心に残りました。◇考えてみれば、骨髄バンクの設立にいたるまでの物語だって、そう簡単に語りつくせるような話ではないのだろうし、それ以前に、このドラマは「史実に沿う」とは一言も予告してないのだから、不倫を描く義務もないし、骨髄バンクを描く義務もない。それは、史実を知ってる視聴者が勝手に期待した話にすぎません。そうした史実よりも、このドラマにとっては、他に描くべきテーマがあったわけですね。◇モデルとされる神山清子さんは、たしかに陶芸家として成功し、骨髄バンク設立を実現させた人です。しかし、このドラマは、主人公の人生を、分かりやすい「成功譚」にはしませんでした。あくまでも、ひとりの女性が、さまざまな困難を強いられながら、ひたすら信楽で土をこねて焼きつづけた、という話なのですね。そこには、ハッピーエンドもないし、バッドエンドもない。それは成功の物語でもないし、失敗の物語でもないのです…。まるで、むき出しのリアルな人生のなかに放り投げられるような、そんな制作者の意思を感じさせる最終回でした。◇◇◇ドラマが終わったタイミングで、水橋文美江のインタビューが文春オンラインに掲載されました。これも非常に興味深かったです。ドラマには反映しきれなかった脚本家の真意が見えてきます。たとえば、三津のキャラクターは、現代的で小悪魔的な女性のようにも見えたけど、脚本家が実際に意図していたのは、ごく真面目で純粋な気持ちをもつ若い女性だったようです。それから、八郎のキャラクターは、現代的な寛容さをもった優男のように見えたけど、脚本家自身が意図していたのは、妻に妬みも抱くような、やや男権主義的な人だったらしい。離婚後の夫婦の再会は、わだかまりのある、ぎこちないものに見えたけど、脚本家自身が意図していたのは、もっとあっさりしたドライな再会だったらしい。◇テレビドラマというのは、さまざまな妥協の産物でもあるし、演出家や俳優の解釈によって方向性も変わったりするし、かならずしも「脚本家の作家性」に還元できない面はある。それはそれとして仕方ないことですが、このインタビューを読むと、この作品の本来の意図が、より鮮明に見えてくる気がします。
2020.03.29
NHK朝ドラ「スカーレット」。最終回を迎えるにあたって、メディアの論評がだいぶ考察めいてきました。といっても、「あな番」みたいなバカドラマの考察とはわけが違います。いわば作品論ですね。本来は妥協の産物であるはずのテレビドラマのなかに、とりあえず「脚本家の作家性」があると仮定したうえで、この物語から何を読み取るべきかが論じられるようになってます。今後、さらに多くの作品論が生まれてくるかもしれませんが、現時点で気になったものをメモしておきます。島貫泰介(シンラネット)・家族主義と個人の距離を測ってきたドラマ。・家族というテーマに、土や土地の問題を重ね合わせてきた。・逸脱的な物語ではないが、迂回路や寄り道を示す物語ではある。・不自由を選択したことによって開かれた可能性。成馬零一(リアルサウンド)・父と別れるまでが第1部。夫と別れるまでが第2部。息子との別れを描く第3部。・第1部で父親を仮想敵とし、第2部以降で自分の内側にある父親を認めていく。・物語自体はシスターフッド的で、喜美子を中心とした女の連帯が描かれている。◇つまりは「不自由を選びなおす物語」とでもいえるのでしょうか。男児のいない三姉妹の長女であったがゆえに、「父に強いられた土地」に縛られてしまった主人公が、いかに女性として、あるいは芸術家として、自由に生きることができるのか。主人公にも、さまざまな選択の自由がありました。進路を選ぶことも出来たし、夫を選ぶことも出来た。それだけに、迂回や後戻りの連続でもありました。進路を捨てることも出来たし、夫を捨てることも出来た。行ったと思ったら、また戻ってきた。そして、主人公が最終的に選択したのは、よりにもよって土(土地)でした。つまり、生まれ育った信楽で、故郷の土をこねることを選んだ。不自由の象徴だったはずの「父に強いられた土地」を、主人公は、みずから選び直したわけですね。「不自由を自由に変えた」ともいえる。ジョージ富士川も「自由は不自由や!」と言ってました。ちなみに婿養子(よそ者)である夫は、結局、信楽の土地を背負うことができませんでした。この点が「あさが来た」とは逆なのですよね。構造は同じだけど、男女のポジションが逆転している。さらに主人公は、息子の病気を強いられました。親を選べないのと同じように、子供を選ぶこともできません。その子供が病を背負うとしても、それを拒むことはできない。しかし、ここでも主人公は、その不自由をみずから選び直すのですね。◇「女性の自由」あるいは「芸術家の自由」をテーマにした物語です。しかし、自立というのは、不自由をみずから背負うことでもある。そのことを正面から突きつけてくるドラマだったと思います。
2020.03.27
東京人って、どうしてみんな同時に動こうとするんでしょうね。同時に出勤して、同時に休んで、同時にイベントに行って、同時に買い物しようとする。流れに乗り遅れまいとする脅迫観念でしょうか?みんなが動くときに自分も動かないと気が済まない?わざわざ今、人混みのなかで買い物しなくとも、べつに流通がストップするわけじゃないんだから、店がすいたときにゆっくり買い物すればいいのでは?リスク回避のために大事なのは、「集合」でなく「分散」ですよね。みんなが同時に動くことが、もっとも危険なのだから。◇「同時に動く」という東京人の習性は、一方では、ファッションなどの流行を生み出す力でもあるけれど、もう一方では、病気の流行を生み出す力にもなりうるということです。あやかり根性?群れたがり根性?長いものに巻かれ根性?みんなで渡れば怖くない根性?そういう行動様式じたいが感染拡大のリスクになってます。
2020.03.26
たぶん、このドラマの最大の特徴は、自立した女性の物語を、容赦なく描き切ったことですね。でも、それは逆にいうと、「夫の存在を蔑ろにすること」だったともいえる。事実、八郎はほとんど役立たずでした。◇これと対照的だったのは「あさが来た」です。あの作品も「スカーレット」と同じ部類で、女だてらに出世した偉人の物語だったのだけれど、彼女の場合、けっして夫のことを蔑ろにはしなかった。たとえ夫が呑気な遊び人だったとしても、陰ながら妻を支える理解ある夫として美化されたし、主人公も彼のことを「旦那様」と呼んで慕い続けたのですね。最終回でも、主人公は夫のもとへ駆け戻っていきます。※これを「保守的」だと批判したのが、大御所プロデューサーの小林由紀子でした。「スカーレット」は、まるで逆です。まずは八郎との離婚にいたる過程をじっくり描きました。そして、その後は、たとえば「半分青い」のように、別れた夫をろくに登場させない選択もあったのでしょうが、そうではなくて、あえて八郎を再登場させて、形のうえでは「父」としての役割を与えつづけたのですね。しかしながら、八郎は、まったくもって役立たずでした。ほとんど「いてもいなくても同じ」って感じ。夫としても役立たず。父としても役立たず。ここまで男性の役割をコケにした朝ドラも過去に例がない。主人公は、息子のことにしか関心がない。まるで八郎の存在を蔑ろにすることが、このドラマの「主眼」だったと思えてしまうほどです。◇もはや「スカーレット」の主人公は、1ミリたりとも夫には頼っていませんでした。精神的にも、肉体的にも、経済的にも。夫の意見にもいっさい左右されることがなかった。その代わり、主人公自身が、どんどんオッサンみたいになっていくわけですが(笑)。喜美子だけではない、照子も、ちや子も、みんなオッサンみたいになっていく。ここに、今作の新しさがあったといえます。自立した女性のオッサンみたいな生きざまを、ここまで徹底的に描いた朝ドラは過去にありませんでした。それは、しかしながら、けっして生易しい成功譚にはならないのですよね。たえず厳しい現実に向き合わざるをえなくなってしまう。実際には陶芸家として大成功しているにもかかわらず、その成功っぷりは、ごく控えめにしか描かれない。ひたすらシビアで難渋な出来事がつづき、そうそう簡単にはハッピーエンドにならない、そんな自立した女性の姿を描ききったのが今作なのでした。◇それにしても、実際のモデルがいたとはいえ、これだけ密度の濃い物語を紡ぎ続けたのだから、水橋文美江の筆力はかなりのものだったと感じます。
2020.03.25
どこもかしこも医療ドラマばかりだと言われてますが、「スカーレット」も終盤は医療ドラマ。いい意味で、予想通りの内容になってます。いっときは離婚が中心的なテーマになったけど、今になって八郎に「小さな問題やったな」と言われてみれば、たしかにそうだと言わざるを得ない(笑)。いくら離婚のことを掘り下げてみたところで、結局、正解などないのですもんね…。◇1983年には、チェッカーズの曲が流れていて、家の電話はプッシュホンになっていて、でも、まだ骨髄バンクは存在しなかった。ちょっと前の出来事のように思うけど、じつは歴史が作られていたんだなと、あらためて感じてます。
2020.03.22
「恋つづ」終盤の脚本が不満だったので、脳内変換で、9話~10話を勝手に捏造します…(すこし百合っぽいです)◇◇◇あるとき七瀬は、天堂の部屋のなかで指輪を見つけました。そこには「Kairi & Minori」の文字。かつて天堂が、みのりに渡すつもりだった指輪でした。七瀬はそれを見たとき、以前、来生が話してくれた《魔王の物語》を思い出しました。- 勇者は、魔王の指輪を奪わなければならない。- そうしなければ、世界は闇に覆われたままなんだ。あれは、来生の作り話だったのでしょうか?◇そのころ、みおりは、天堂にあらためて想いを告げていました。しかし、天堂は、「あなたが見ているのは僕じゃない。 僕のなかにお姉さんを見ようとしてるだけです。 あなたはもう、お姉さんの記憶から自由になったほうがいい」そう言って、みおりを突き放すのでした。みおりは悲しみに暮れるなかで、生前に姉が書き残したノートを見つけました。そこには、「浬がよい医者になりますように。彼がずっと笑顔でいますように」と書かれていました。それを見たとき、みおりは、天堂にふさわしいのは、自分ではなく七瀬なのだ、と思い至るのでした。◇ところが、その七瀬は、みおりに対して意外なことを言いました。「天堂先生の机の引き出しには、今もまだ、 みのりさんに渡すはずだった指輪が入ってます。 先生は、みのりさんとの思い出を、ずっと消せずにいるんです。」その夜、みおりは天堂の部屋を訪れて、こう言いました。「姉の呪縛から自由になれないのは、天堂先生のほうじゃないですか?」そう言われて絶句する天堂を置いて、みおりは机の中から指輪を取り出すと、「この指輪は私が引き取ります。 …佐倉さんのためにも。」と言って去っていきました。◇翌日、みおりは、その指輪を七瀬に見せて言いました。「この指輪は、私があずかりました。 天堂先生を笑顔にさせられるのは、あなたしかいない。 彼を姉の呪縛から救ってあげてください。」すると、七瀬はこんなことを言いました。「みおりさんは、それでいいんですか? みおりさんも、お姉さんを思う悲しみから自由になってください! もっと自分のために生きてください!」みおりはその言葉にうろたえましたが、七瀬はさらに続けました。「その指輪は私が引き受けます。 先生の苦しみも悲しい記憶も、ぜんぶ私が受け止めたいんです」七瀬は、指輪を自分の部屋に持ち帰ると、「どうか先生を幸せにしてあげてください」と祈りながら、猫様のお守りの隣にそれを置きました。◇しかし、その数日後、七瀬は事故に遭いました。七瀬が助けた子供は無事だったものの、彼女は頭を打って意識を失ってしまいました。天堂は、必死の救命処置のあと、眠ったままの七瀬にむかって泣きながら叫びました。「好きだ。お前のすべてが好きなんだ…。 ひたむきなところも、めげないところも、 きらめく笑顔も、ぜんぶ好きなんだ!」それを外で聞いていた来生はひとり呟きました。「勇者はかならず蘇る。魔王を闇から救うために…」七瀬は昏睡状態の中で、みのりの幻に出会いました。七瀬が指輪を差し出すと、みのりは嬉しそうに指にはめ、幸せな光のなかへ立ち去っていきました。そして、来生が予言したとおり、七瀬は3日目の朝に目を覚ましました。そして天堂と口づけを交わし、こう言いました。「私はすべてを受け止めます。 天堂先生の悲しい思い出も、苦しみもすべて」◇その後、七瀬と天堂は、とても幸せな日々を過ごしました。あるときは朝食の卵を焼きながら、あるときはジェンガで遊びながら口づけをしました。しかし、あるとき、病院で看護留学の話がもちあがりました。七瀬は興味を抱きましたが、天堂から離れてしまうことをためらいました。それでも、日々、自分の看護師としての力不足を実感するにつれ、やはり留学への思いは強まっていくのでした。そんな七瀬の気持ちを察した天堂は、神社に参拝した帰り際、七瀬に留学することを勧めました。「俺はここで待ってる。 だから、いい看護師になって戻って来い」天堂は七瀬を抱きしめました。…こうして七瀬の留学が決まりました。◇最後の休日の夜、天堂に急患が入ったため、約束していたディナーは出来なくなりました。レストランからひとり帰る雨の中で、これからの寂しい日々を思って泣き崩れる七瀬でしたが、そこに天堂の傘が差しかかりました。思わず天堂にしがみついた七瀬は泣き叫びました。「先生は、寂しくないんですか?!」すると、天堂は、「俺だって寂しい!…でも、行くんだ、七瀬!行け!!」そう強く叫んで、それからおもむろに、「帰ってきたら俺と結婚しろ…」と言って口づけました。◇旅立ちの日、七瀬が時間を勘違いしたため、出発間際の空港へ駆け込んだ天堂。「これをお前にやる」と言って取り出したのは、七瀬のために作った真新しい指輪でした。刻まれたばかりの「Kairi & Nanase」の文字がありました。それが七瀬の指にはめられたとき、暗闇が消えてまばゆい光が差し、世界が鮮やかな色彩で覆われていくように思われました。「お前、向こうで浮気するなよ…」と天堂が言うと、七瀬は、彼の襟をグッとつかんで、「ばーかっ!」と言って笑い、爪先立ちになって口づけました。(おわり)
2020.03.20
「アライブ がん専門医のカルテ」が終了。すごかった。ご苦労さま。よく11話もやりましたね。低視聴率なのに(笑)。終盤はほぼ一話完結だったので、ある意味、早く切り上げることもできたわけだし、逆に、ずっと続けることも出来たのだろうけど、11話に収めたのが、ちょっと不思議な気もする。低視聴率のわりに(いや、低視聴率だからこそ?)しっかりと丁寧に作ってあったし、スポンサーの圧力にも屈することなく、ひとつひとつの映像にも、妥協しない意志を感じました。屋上で深呼吸をするシーンは、ふつうに考えれば木村佳乃の死亡フラグになるはずだけど、それを逆手にとって、彼女を生かしたことは、医療への希望を抱かせる強いメッセージになってましたね。まさに医療ドラマの真髄を見た感じ。そして、男性中心の医療ドラマにはありえない、女性ならではの独特の美しい世界観がありました。完全無欠の作品とは思いませんが、なにげに、今季の作品の中で、いちばん「終わって寂しい」と感じてるかも…。もうすこし2人の姿を見てたかった。これが、おそらく倉光泰子の代名詞作品になるのかなと思う。「百合」といってしまえば身も蓋もないけど、この脚本家の個性には今後も期待したいと思わせます。
2020.03.20
「恋は続くよどこまでも」最終回。ついにはキスだらけのサービスショットを山盛りにした、救いようもないネタドラマみたいになっちゃった(笑)。天堂が「ツンデレ」から「デレデレ」になるにつれて、たしかに七瀬の魅力はどんどん強まったけど、かえって天堂の立ち位置がよく分からなくなった気もする。なんだか佐藤健より、萌音のほうにドキドキするというワケワカラン感じだった。それって狙い通りだったのでしょうか?より幅広い視聴者層には、「ツンデレ」より「デレデレ」のほうがアピールしやすかった?◇それにしても、この内容の乏しさ、身も蓋もないネタっぷりは、スカイツリーを東京タワーに置き換えたら、そのまま80年代の安っぽいトレンディドラマと変わらない。TBSが高視聴率に浮かれた結果ともいえるけど、もともとプロデューサーや脚本家自身に、さして描くべきテーマがなかった証拠だともいえる。最後まで「仕事と恋」の葛藤に焦点をあてたのは認めますが、第一話で見られたような真剣さや素朴さからすると、だいぶ後退したといわざるをえません。しかも、もう続編の余地もないくらい、完膚なきまでのハッピーエンドにしてくれちゃったし…。◇恋人と死別した悲しみのなかにあった魔王が、勇者の輝きによって生きる希望を取り戻すというテーマは、ほとんど隅に置かれたまま忘れ去られてしまいました。天堂は、みのりのことを全然思い出さなかったし、その苦しみと葛藤が切実に描かれることもありませんでした。ただ「魔王」「勇者」という呼び名だけが上滑りして、本来あるべき光と影の対比が十分に描かれないまま、逆に「花男」みたいな貧乏人と金持ちの比較ばかりが強調された。むしろ、前日に放送されたCDTVの卒業ソングスペシャルで、まるで大江奏のテーマみたいだったスキマスイッチの曲を、萌音が、ヒゲダンの主題歌に関連づけるように歌って、このドラマの本来のテーマを浮かび上がらせたことのほうが、本編よりもよっぽど秀逸な表現だったなあと思います。君が僕の前に現れた日から 何もかもが違くみえたんだ独りじゃ何ひとつ気づけなかっただろう こんなに鮮やかな色彩にこれが萌音の選曲だったなら、彼女はプロデューサー的な才能がありますよね。◇ただ、とりあえず陳腐なハッピーエンドに終わったとはいえ、「恋つづ」がまだまだ使えるコンテンツだろうとは思う。佐藤健のツンデレの美しさを最大限に引き出したこと。「天堂担」「逆治療キス」などのワードの創出に成功したこと。そしてセーラー服やナース服の野暮ったかった萌音が、可愛い私服を着たカップルになっていく様子に夢を見せたこと。そういう、いくつかの勝因が、このコンテンツでこそ可能だったのは疑いようもありません。もちろん、それをただ機械的に反復して、安易な勝利に結びつけようとする発想は間違ってるけど、いまや萌音の代表作になったわけだし、(個人的には萌音に挿入曲を歌わせなかったのも悔やまれるし、)もし佐藤健がもういちど「ツンデレ」からやり直せるのなら、脚本家を再選定したうえで、もう少しまともなスペシャル版に書き直してみるとか、あるいは東宝で映画化してみる価値は十分あると思います。「ぎぼむす」の場合も、レギュラーシリーズの出来はそれほどでもなかったけど、お正月のスペシャル版はかなり質の高い内容になったし、あのレベルを目指せるなら、ぜひ新作とかリメイクにも期待したい。◇いずれにせよ、今回のドラマを見て、萌音が想像した以上にコメディに向いてるのは分かった。ドタドタした役柄のほうが可愛いのかもしれません。今回はTBSで磯山晶のドラマに出たわけだし、もともとクドカンとも面識があるのだから、そういう路線もいいのかなあと思えてきました。ついでに萌歌がNHKの朝ドラに出れば完璧なのですよね。そこまでいけば、かりに短期間でも、萌音と萌歌の「レミゼ」の共演だって現実味を帯びてくる。もちろん萌音がファンティーヌ、萌歌がコゼットってことで。ちなみに、「A stadio」で萌歌がヒゲダンの生演奏を聴いて泣いたのは、たんに音楽が好きだから、というだけでなく、やはり今回のドラマが姉の代表作になると確信できたからでしょう。でも、この結果はけっして偶然とはいえません。萌音のようなキャラクターが同世代の共感を得たのは、むしろ時代の変化を確実に映し出した結果です。「容姿が可愛くてお洒落なほうが恋愛市場の勝ち組にふさわしい」…みたいな薄汚れた価値観は、もう古くなってきています。それはいわば弱肉強食が露わになったバブル以来の価値観なのだし、ある意味では、かなりヤンキー的な発想のものだからです。むしろ今は、見た目よりも「心の純粋さ」みたいなほうが共感されやすくなってる。ただでさえ、若い世代の人たちは、政財界の大人のような見え透いた嘘八百にウンザリしてるし、まるで腹黒いことがデフォルトみたいな既存社会のあり方にも、いいかげん愛想尽きているのですよね。そういうなかで、上白石姉妹や浜辺美波のようなピュアな女子のキャラが、大きなアドバンテージになってきていると思います。それが新たなマーケティングの方向性も示しはじめてるのです。
2020.03.18
「アリバイ崩し承ります」は、最終回のアリバイ工作に疑問が残ったのだけど、全体的に見れば、事前の予想以上に楽しめたドラマだったし、さらなるシリーズ化も望める作品だろうと思ってます。こういうティーン向けのドラマって、昔なら夕方ぐらいの時間帯に放送してたものだけど、いまは深夜枠なんですよね。でも、地上波の深夜枠が最適な媒体ではない気がするし、たとえば長尺のスペシャル版にしてみるとか、あるいは東宝で映画化してもいいなあと思ったりする。「賭ケグルイ」ほどの破壊力はないけど、浜辺美波の可愛さをストレートに楽しむには、このぐらいの路線がちょうどいい気がするし、話のスケールを大きくしたり、舞台を変えたりすれば、映画のコンテンツとしても十分に成立しそうな感じ。ただし、原作のネタがすでに切れていて、オリジナルの脚本を作らないかぎり、新作は望めないらしい。どうせなら原作者自身にシナリオを書いてもらうとか(笑)。美波は、いっときはすごく痩せたけど、またふっくらして可愛くなってるし、彼女の可愛さだけでも十分な集客力があるわけでしょう。そもそも、浜辺美波の可愛さを最大限に活かすコンテンツをこそ、いまは創造すべき時期なのだし、そのためにこそ格好の原作だと思えるのですよね。ボキャブライダーも円満に卒業したことだし、上白石姉妹の飛躍にも刺激をもらえる情勢なのだから。◇当初は、このドラマ、少女とおじさんの「探偵物語」的なバディだと思ってたけど、ふたを開けてみたら、実際はトリオものなのでした。(役割はともかく)キャラクター的には、成田凌がルパンで、安田顕が銭形で、浜辺美波が若い不二子ちゃんみたいな感じ。それぞれキャラが立っていたし、その取り合わせのバランスも面白かったのです。惜しむらくは、いつも最後の謎解きが説明的だったんですよね。表向きは時乃じゃなくて察時が解決してる体裁だから、やむをえず説明的になってしまうのだけど、うまく工夫すれば、もっと劇的な謎解きにできる気がする。そして、さらに欲をいえば、せっかく主人公が時計屋さんの設定なのだから、「時間」という概念へのこだわりだけでなく、「時計」というモノへのこだわりが欲しかったところでもある。アンティークの時計とか、デジタルの時計とか、変わり種の時計とか、いろんな古今東西の時計のトリビアを散りばめたら、世界観に深みが増したんじゃないかと思います。◇◇…この時間帯では、福本莉子の主演ドラマも終盤を迎えています。前半部分では、小澤征悦とドランク塚地が、見るに堪えないおっさんずラブを繰り広げてたんだけど、後半になるにつれて、ほんわかしたホームコメディになってきたので、こちらも莉子の可愛さ目当てに見ています。さらに、この時間帯には、山崎紘菜の様子もチェックしとかなければならないのです。
2020.03.17
中国の「初動」にも問題があったし、日本の「水際」にも問題があったし、韓国の「規制」にも問題があったけれど、それ以上に、いまやヨーロッパの問題のほうが深刻です。ヒト・モノ・カネが自由に往来する陸続きの世界では、そもそも「水際」などという概念は無いに等しい。そして、それ以上に問題なのは、インフラとか医療体制とかじゃなくて、ヨーロッパ人の「生活」や「考え方」のあり方なのですね。あるいは「国民性」とか「民族性」と言い換えてもいい。彼らの文化に根差した習慣こそが根深い問題になっています。準備期間があったにもかかわらず初動に失敗しているのは、おそらく、そのためだろうと思います。◇そもそも、ヨーロッパ人はマスクをしません。ヨーロッパの人たちから見ると、日本や韓国や中国の人たちがマスクをする様子は、かなり不気味に見えるのだそうです。まあ、日本人だって、一昔前までは今ほどマスクをしていませんでした。ここ10~20年のあいだにマスクの着用が習慣化したのですね。韓国や中国も事情は同じだろうと思います。当初は、わたし自身でさえ、マスクをして歩く集団が異様に見えたものです。まるで過激派の人たちが市街をウロウロしてるようだった。でも、いつしか慣れてしまったのですね。ヨーロッパ人はマスクをしないだけでなく、握手はやめようと言いながら握手してるし(オランダ)、ハグもするし、キスもする。よく喋るし、よく笑うし、酒を飲んでは大声で歌う。男女がかわるがわる手と取り合って踊る。これじゃあ、感染を防ぎようがありません。よくいえば「コミュニケーションが豊か」なのだけれど、そのこと自体が最大のリスクになっています。性病がセックスで広まるのと同じように、感冒はコミュニケーションによって広まるからです。◇誤解をおそれずにいえば、ヨーロッパの「自由主義」が感染を広げています。中国や北朝鮮はもちろん、韓国や日本もふくむ東アジアの国々は自由を抑圧するのが非常に得意です。それは上からの抑圧や外からの抑圧というよりも、多くの場合は、むしろ自主的な抑圧(=自粛)です。東日本大震災のときにも、「慎ましい」「秩序だっている」「規律を守っている」などと称賛されましたが、何のことはない、みんなが自分自身を抑圧していたのです。これに対して、ヨーロッパの人たちは、けっして自分を抑圧しません。むしろ自分自身を積極的に表現しようとします。でも、そのことが現実的な脅威を大きくしている。そのうえ、地中海性気候だから空気も乾燥してる。べつに習近平のイデオロギーに加担するわけじゃないけど、現実問題として、新型コロナはまちがいなく、「中国の病気」じゃなく「ヨーロッパの病気」になっていきます。◇「自由の理念を捨てろ」とまではいわないけれど、とりあえずの現実問題として、ヨーロッパの人たちは、東アジアから何かを学んだほうがいい。理念と現実を区別する知恵が必要になります。
2020.03.16
シロでもクロでもない世界で、パンダは笑う。終わりました。いやー、すごかった…。最高にカッコいいドラマでした。日テレ史上5本指に入る作品です。わたし的に全ドラマ史上でも5本指に入るかなあ。(見終わった直後で興奮してるせいもあるけど)正直な話、この結末で納得できたかといえば、けっしてそうではないし、まったく不備のない脚本だったとも思いません。たとえば警察が何を隠蔽したのかは分からないまま終わってる。川田麻衣子がなぜ心変わりしたのかもよく分からないし、ウサギのぬいぐるみの意味もよく分からないし、なぜ囲碁夫婦がずっと姉妹を助けてきたのかも分からない。リコがみずからミスパンダになろうとしたことは分かったけど、リコが消えてレンが残るのは間違ってる気もするし、結局のところ、リコの人生は非常に不幸だったなあとも思う。そもそも、このドラマの登場人物のなかで、結果的に幸せになった人は誰ひとりとして存在しません。佐島家も、川田家も、森島家も、ほぼ破滅したと言っていい。唯一、直輝とレンだけが、かろうじて記憶をリセットして生き延びたにすぎません。だから、これはけっしてハッピーエンドではない。直輝の命を懸けた復讐はひたすら仇となって、物事のすべてはグレーのまま、ただ記憶だけを消し去って終わってしまう結末です。ドラマ自体に、まったくシロクロがついていない。しかし、それでもなお、この終わり方に不思議な充足感をおぼえています。直樹とレンの記憶が失われたことで、リコの存在は永久に消え去ってしまいました。これは、ありえないくらいに悲しい。でも、夢のなかのシーンとはいえ、レンとリコが一瞬向かい合ったときは涙が止まらなかったし、それだけで何かが報われる気がしてしまった。そして、レンとリコとミスパンダの記憶を消し去る瞬間に、直輝の目から流れた一筋の涙は、悲しくて美しかった。最後に、記憶を失くした直輝とレンが、ふたり並んでパンケーキにシロップをかける瞬間、また何かが起きるのではないかとドキドキしてしまった。何も知らない二人のあいだで、また新しい物語が始まっていく予感がありました。きっと、これは、永遠にシロクロつけられぬまま、なんども繰りかえし続いていく物語なのだろうと思います。なんど生まれ変わっても直輝はモテるわけですが(笑)。…それに、よくよく考えれば、檻のなかに戻っていったリコだって、いつまた何かの拍子に復活するかもしれませんよね。川田麻衣子も、囲碁夫婦も、リコの存在を忘れてないのだし、そもそも死んだのはレンであって、リコは生きているのだから。◇独創的で奇想天外な脚本。スタイリッシュな演出と音楽。清野菜名と横浜流星、そして佐藤二郎のすばらしい演技。すべてに大きな満足をもらえました。
2020.03.16
「アリバイ崩し承ります」が終了。前回までのトリックは理解できてたつもりだけど、最終回のトリックは、正直、まったく理解できませんでした。そもそも、あのトリックは、アリバイ工作として意味をなしていたんでしょうか??■ ■ ■結局、犯人は、雄馬のパパではなく、女性秘書だったわけですが、もともと今回のアリバイ工作には、2つの面があったはずです。それは、第1には「名越殺し」を隠すためのアリバイ工作、第2には「安本殺し」を隠すためのアリバイ工作です。ちなみに、名越というのは、犯人と同じく雄馬パパの秘書であり、安本というのは、その名越とよく似たスーパーの店員です。◇まず第1に、犯人は「名越殺し」を隠すためのアリバイ工作をしたのですよね。そして、それを雄馬パパの犯行であるかのように見せようとした。…しかしながら、そもそも犯人と雄馬パパは行動を共にしているのですね。だから、雄馬パパが犯人だと思わせるためには、せっかく自分で作ったアリバイを崩さなくてはならない(笑)。これじゃ、アリバイ工作自体がまったく無意味ではないでしょうか?事実、雄馬パパのアリバイが崩れるのと同時に、自分のアリバイも崩れてしまっています(笑)。なんのためのアリバイ工作だったのか、さっぱり分からない。◇第2に、殺された名越は、犯人にそそのかされて「安本殺し」のアリバイ工作に協力しました。彼にとっても、安本の存在が不都合なものに思えたからです。いちおう確認しておきますが、名越が協力したのは、あくまで「安本殺し」を隠すためのアリバイ工作であって、当たり前だけど「自分殺し」を隠すためのアリバイ工作じゃありません。しかしながら、安本の姿に変装してパーティに参加したことは、いったい何のためのアリバイ工作だったのでしょうか?それは「自分殺し」のアリバイ工作でこそあれ、なんら「安本殺し」のアリバイ工作にはなりそうもありません。そもそも安本が殺されるのは翌日のことなのだし、パーティには犯人自身も参加しているのですから、パーティの時間帯に安本自身のアリバイなんぞを偽装したところで、それは「犯人による安本殺し」とはまったく無関係な工作に思えます。いったい名越は何をやっていたのでしょうか?◇そして、結果的に見ると、「安本殺し」を隠すためのアリバイは、何ひとつ作られていない。犯人は、名越殺しのアリバイだけを必死に作って、安本殺しのアリバイをまったく作っていないのだから。そもそも、なぜ安本を殺す必要があるのかもよく分からないのですが、強いていうなら、「名越殺し」のアリバイを必死で作るべく安本を殺したものの、その「安本殺し」のアリバイはまったく作っていないのです(笑)。ただ数珠つなぎ的に被害者の数を増やしただけなのでは?浜辺美波/安田顕/成田凌/大山誠一郎
2020.03.15
かつて石原慎太郎にだまされて、尖閣諸島のために大金を寄付しちゃった人たちがいましたっけ。もしかしたら、オリンピックのチケットも買っちゃいましたか?こんどは返金されるといいですね。◇まあ、気前のいいネトウヨ中高年の人たちは、天下国家に貢ぐお金も有り余ってるのだし、寄付金やチケット代ごときでギャアギャア言わないはず。かつて大本営発表を信じて戦争に突き進んだのも、安倍のお友達と聞いてジャパンライフに投資しちゃったのも、親方日の丸を「信じたい」という気持ちこそがそうさせている。それって、一種のネトウヨ商法ともいえるけれど、ある意味じゃ、騙されることに喜びがあるのだろうとも思う。それは否定しがたい事実じゃないでしょうか?◇石原慎太郎にかんしていえば、かつて福島で「原発安全神話」を作った前科もあるけれど、いずれにしたって、彼を都知事に選んだのはあなたたちなのだし、オリンピックを呼んだのもあなたたちなのだし、チケットを買ったのもあなたたちなのだから、ほかの誰の責任でもないと思います。いっそ「夢を買ったでしょ」と気分よく騙されてしまえばいい。後になって「名古屋市政の祟り」だとか、意味わからないことを口走ってみてもしょうがない。◇かりにオリンピックがなくなって、高額なチケットが紙屑になったとしても、また半世紀後のお楽しみと思えばいいのではないでしょうか?ちなみに石原家は、あなたたちのおかげで十分潤ってると思いますよ。
2020.03.14
「知らなくていいコト」が終了。お世辞にも良質なドラマとは言えなかったけれど、最終回についていえば、まあ可もなく不可もなく収まったって感じです。よくいえば「妥当な結末」に落ち着いたかなと思う。◇もしかしたら、乃十阿の本妻は、事件の真相を知っていたのではないでしょうか。それを承知のうえで、彼に冤罪を背負わせたのでは?乃十阿を殺人犯に仕立てることで、息子を守ってピアニストとして成功させ、自分は外交官と再婚して幸福な人生を送った。それこそが、夫の不倫にたいする仕返しだったように思います。◇同じことは、尾高の本妻についてもいえる。自分だけが子供を押しつけられて、尾高とケイトが幸福になるなんて許せないですよね。だから、あえて子供を尾高に押しつけて、彼女は彼女なりに幸福な人生を歩もうとしている。それが夫の不倫にたいする仕返しなのだろうと思います。不倫をするのは個人の自由だと思うけど、不倫をされた側の人間にだって、相手に仕返しをする権利ぐらいあるはず。そうじゃなかったら不公平だもんね。◇結局、尾高は、本妻にも捨てられ、ケイトにも捨てられ、何もかも失って、おそらく乃十阿と同じような人生を歩むことになるでしょう。そもそも尾高は「自分の女」には興味がない男です。だからこそ「他人の女」を愛してしまう。ケイトもまた「自分の男」には興味がない女です。だからこそ「他人の男」を愛してしまう。そういう二人が結ばれても幸福になれるはずがない。どうせ、自分のものになった途端に興味を失うのだから。ちなみに尾高がケイトに対して、「命を削って真実に突き進んでいくケイトが好きだ」「曖昧に流されることを美徳としてる世の中に 真実はこうなんだと切り込んでいく技がある」とかなんとか言ってましたけど、それって、近所のラーメン屋のスープが市販品だと暴いた記事のことだっけ?◇登場人物のなかで、唯一、まともな幸福をつかみとれるのは、土壇場で権力に屈した岩谷だけですね。他人に不倫を勧めたりするわりには、自分自身はけっして不倫をしない人だから、夫婦ともども出版人として成功していくでしょう。会社にも収まり、家庭にも収まるタイプの人ですね。最終的に、そこからはみ出ない人です。そしてもうひとり、作家として成功するのが野中ですよね。彼はやがて第7話の西村雅彦みたいな、有名作家の大先生になっていくのですから、いずれは週刊イーストの記者たちも、接待でおべんちゃらを使わねばならないでしょう。小泉愛花は、あのまま野中との関係を続けていれば、いずれは有名作家の奥様になれたはずなのに、野中をポイ捨てにしたせいで、万年下っ端の記者にアンパンを与えるだけの女になってしまった。これがまさに「妥当な結末」だと思います。◇ところで、乃十阿が尾高のスタジオで受け取った小包は、いったい何だったのでしょうか?彼の無罪を証明するような資料を、弁護士が送っていたのかもしれませんが、乃十阿は、それを捨ててしまったのでしょうか?そうやって彼は、死ぬまで不倫の罪を背負っていくつもりなのでしょうね。…それはともかく、回収しないくせに思わせぶりな伏線だけまぶすのはやめてほしい。スタインベックの小説をちらつかせながら、最終回でまったく触れなかったのも「何だかなあ…」って感じです。
2020.03.12
「恋つづ」の脚本があまりにお粗末だったので、思わず今日2度目の投稿。萌音の主演作を見守ってきた立場としては、ほんとうに腹立たしいくらいテキトーな脚本だった。町医者の「死にかけ」エピソードとか、主人公の「死にかけ」エピソードとか、ああいうことを安易にやるな、と言いたい。あんな薄っぺらな形で「死にかけ」エピソードをやるくらいなら、純粋にラブコメだけに徹してもらったほうがよかった。鹿児島の健康な人々に見送られて、東京に戻ったら、あとは登場人物それぞれの恋愛模様を、もっと丁寧に描けばよかったのではないでしょうか?とってつけたような「死にかけ」エピソードは、かえって脚本家に実力が乏しい証拠だなと感じます。◇とくに恋愛模様についていうと、みのりとみおりの描き方がものすごく雑です。天堂は、みおりに対して、「あなたが見ているのは僕ではなくお姉さんのほうだ」と言いました。それは、たしかにそうなのでしょう。しかし、だからと言って、「早く自由になったほうがいい」って、そんなに簡単な話じゃないはずです。恋人だった天堂でさえ、長いあいだ自由になれなかったのに、肉親である妹が、亡くなった姉から「自由になる」なんてことができますか?あまりにも雑な突き放し方。あれじゃあ、みおりが可哀想です。どのように亡くなったみのりを救うのか。どのように残されたみおりを救うのか。もうすこし愛をもって丁寧に描いてもらいたい。あれじゃあ、あまりに残酷すぎる。◇ついでに、もう一つ気になったことがあります。じつは第1話の冒頭で、主人公は「実家はマンションだから錦鯉は飼えない」と言ってました。しかし、第9話で出てきた実家は、ほんとにマンションだったでしょうか?畳部屋に布団を敷いて襖から家族が覗き見るシーンは、どうもマンションの建物には見えないのです。◇脚本の共同執筆というのは、じっくりと意思疎通をはかりながら、文字どおり共同でやるべきだし、かりにバラバラに書くのなら、プロデューサーが綿密なトータルデザインをしなきゃいけない。それがちゃんと出来てるんでしょうか?金子ありさにも、渡邉真子にも、まともに脚本を書くだけの力があるんでしょうか?そのこと自体が非常に疑わしいです。
2020.03.11
これはひどい。まれに見るヒドい脚本です。…と思ったら、最後に脚本家が2人クレジットされてるじゃないですか!え?渡邉真子って誰???◇…これはおかしい。何かおかしなことが起こってますよね。ここにきて、金子ありさの筆が追いつかなくなって、やむをえず助っ人ライターを招集したのか。それとも、外部からの指示で内容を改変させられたのか。いずれにしても、あきらかに脚本の構成がおかしくなっています。◇ラスト部分で、唐突に大きな交通事故が起こって、主人公がいったん死にかけて、そして、あっという間に生還するって…。おかしいでしょ。あまりにも適当すぎるシナリオです。死にかけてるのに家族も来ないとか、雑すぎてお話にならない。中学時代の駅伝で疲労骨折したエピソードと、頭に怪我したまま人命救助を続けたエピソードが、いったいどんなふうに繋がってたのかも、あまりに描写が雑すぎるので、まったく伝わらない。それに、あんなに多くの人が車に轢かれたら、警察や報道陣が集まって大きなニュースになるはず。本来なら、まるまる一話分を使って描くべき深刻な内容を、わずか15分ほどの再現ドラマみたいに仕上げています。まるでダイジェストかスピンオフのようなやっつけ仕事。◇渡邉真子の事務所U.F.O.のサイトを見ると、彼女は第7話でも脚本を手伝っていたようです。…第7話といえば、「壁ドン」「ソフトクリーム」「逆治療」の3つのキスシーンがてんこ盛りで、配信でも「逃げ恥」を超えたと評判になった回です。もしかしたら、第7話の人気っぷりに味をしめて、脚本の内容を急きょ変更したとか??そんな余計なことをしたら、脚本のバランスが崩れるのは当然ですよね。◇メディア情報によると、今回の鹿児島編は原作にないオリジナルストーリーとのこと。もしかしたら、鹿児島編と東京編の脚本を分担して書いたのかもしれません。今回にかんして言えば、東京編の内容があまりにも薄っぺらでした。本来ならば、最終回を前にして、みのりとみおりのエピソードはもちろんのこと、流子のエピソードも、結華のエピソードも、もっともっと深めるべきだったはず。それなのに、すべてが上っ面をなぞっただけで終わっています。◇そもそも、モルヒネを投与しながら仕事してるような、余命わずかな地元の町医者を置きざりにして、東京に戻ってきていいわけがないのですよね。東京の部屋でエッチな服でキスしてる場合じゃない。本来なら、鹿児島編にもちゃんと一話分を費やすべきだったし、かりに東京で交通事故のシーンを描く必要があったのなら、せめて回をまたぐべきでした。両方をむりやり一話分に詰め込んだことで、結果的にどちらの内容も中途半端で薄っぺらくなっている。◇なぜこんな脚本になったのでしょうか?ドラマの価値を左右するような大事な回で、おかしな改変がおこなわれたのだとしたら、ほんとうに許しがたいです。
2020.03.11
愛知県に住む50代の男が、「コロナウイルスをばらまいてやる」といってフィリピンパブなどをはしごしたそうです。この男の行動を見たとき、わたしは「何かに似ている」と思ったのですが、それはオス犬が縄張りのために糞尿を撒き散らす習性です。糞尿や唾痰など、自分の菌にまみれた汚物をあたりに撒き散らして、個体のテリトリーを広げようとする動物まがいの行動。そういうことをする人間は周囲にもいるし、けっして少なくはありません。◇50代といえば、ちょうどバブル世代。じつは、こうしたオス犬に似た行動は、かつて日本でおこなわれた途上国への売春旅行にも見られますし、近年の会社内におけるパワハラやセクハラにも見られます。つまり、あえて醜悪なものを撒き散らしたり、周囲の人々を不快にさせる言動をすることによって、自分の威力や存在を誇示して、テリトリーを拡大しようとするオス犬じみた習性なのです。わたしは以前から、「クラッシャー上司」と「スーパースプレッダー」は似ている、と感じていましたが、それも同じ理由から説明できると思っています。◇今回のコロナばらまき男に対して、飲食店側は、消毒や休業を強いられた「威力業務妨害」の容疑で、接触させられた従業員は、感染を強いられた「傷害」の容疑で訴えることになります。こうした習性を脱しない人々は、社会にとって非常に厄介な存在なのです。
2020.03.10
すべての元凶は、巨悪でも何でもなくて、ひとりの小娘の過剰なワガママだった…というオチでした。そのために父と兄は人生を狂わせられ、森島家の運命まで滅茶苦茶になったのですね。…その点はいいのだけれど、具体的な設定が、いまいち納得感に乏しい。多少は危惧してたことですが、ドラマの終盤になって真相が明らかになるにつれ、脚本の不自然さが気になってくる(笑)。◇あずさは、偽装誘拐の事実を世間に公表されたくなかったので、その真相を暴いたパンダ男を、兄に頼んで殺害したのですね。かなり子供じみた発想でやらかした犯罪です。しかし、今回のレンの誘拐は、8年前の犯罪よりも、さらに発想が子供じみてます。あずさは、愛する直輝に自分を選んでもらおうと、兄に頼んで、たくさんの人間を雇って、芝居がかった大掛かりな誘拐騒動を仕組んだ。そこでレンのことも殺すつもりだったのですね。万が一、直輝が自分を選ばなかったら、ニセの拳銃で撃たれたフリをして、レンだけ本物の拳銃で殺したあと、自分は一命を取り留めたことにする気だったのでしょうか?でも、そんな面倒な芝居をするくらいなら、最初からレンだけ殺せばいいのでは? …と思ってしまう。あまりにも無駄な大芝居なのでは?ちなみに兄妹は、レンが「リコ=ミスパンダ」だとは知らなかったようで、不意に反撃された結果、兄が自殺に追い込まれてしまいました。ずっと直輝を監視していたわりに、飼育員とミスパンダであることに気づかなかったのでしょうか?まあ、警察に顔が割れているはずの直輝が、ふつうに大学に出てきたりするのも不思議なのですが。リコは、ミスパンダとしてちゃんと戦えていましたね。危機的な状況に置かれると、彼女のなかの潜在的な「モンスター」が覚醒するのでしょうか?◇結局のところ、直輝パパが残したメッセージは、たいした内容じゃありませんでした。死に際に飲み込むほど重要なメッセージだったかというと、いまひとつピンときません。かえって直輝を翻弄しただけという気もする…。佐島家と森島家の謎は、おおむね解き明かされましたね。あとは、直輝パパの遺体を誰がどのように処理したのか。佐島と警察はどのような秘密を隠蔽したのか。そのあたりの話がまだ少し残っています。そして、このあとは、あずさの罪がどのように裁かれるのか。刺されたリコの運命はどうなるのか。そこらへんを描きながら、最終的に川田家の謎が明かされるのかな、と思います。
2020.03.09
「ハムラアキラ」最終回。真相は何も分かりませんでした…。68会が「人狩り」をゲームにしていることは、おおよそ前回までに想像されていたわけですが、それ以上のことは、結局のところ、何も分からない。たんに犯人だけではなく、動機や経緯までをふくめてが真相だと思いますがその意味では、なにひとつ真相が分かった気がしない。このモヤモヤした後味の悪さこそ、本作の「作風」だといわれれば、それまでなのですが…。◇とりあえず主犯は野中でした。しかし、野中を人狩りに駆り立てたものとは何だったのでしょうか?68会のメンバーはどのように野中に巻き込まれ、洗脳されたのでしょうか?それぞれの職業は、犯罪とどのように関連していたのでしょうか?ミチルの兄を誘拐して殺したのは誰だったのでしょうか?美和の母(亜寿美)は、なぜ調査の依頼を取り下げたのでしょうか?アヤはどこでゲームのバイトのことを知ったのでしょうか?アヤはなぜ殺されて、小島はなぜ自殺したのでしょうか?カナのマンションから持ち出されたものは何だったのでしょうか?美和とカナがゲームで殺されたのはいつだったのでしょうか?なぜ別荘地の所有者である滝沢が、娘を殺すことになったのでしょうか?なぜ68会に仲間割れが起こったのでしょうか?野中と亜寿美の関係はどのようなものだったのでしょうか?亜寿美が電話で助けを求めたとき、誰に「来ないで」と云ったのでしょうか?亜寿美の死はほんとうに自殺だったのでしょうか?正直、何ひとつ分かりません。ここから先を考察しなければならないのかもしれませんが、あまりにも分からなすぎる…。ちなみにエリートたちによる人狩りというのは、現実世界で起こっている出来事の比喩のような気もします。シシドカフカ/若竹七海 /葉村晶/黒い羊/悪いうさぎ
2020.03.07
朝ドラからあさイチ。不覚にも信楽太郎の「さいなら」で大泣き。どうにも中毒性があって、なかなか脳内リピートが止まりません。こんなに演歌が沁みたのは生まれて初めてかも。荒木荘の三毛猫に捧げた歌詞って体裁ですが、どこか八郎との関係にもリンクした内容になっていて、ドラマから離れて独立した曲として聴いても成立してる。うまく出来てるなあと思います。作詞は、たぶん水橋文美江ですね。作曲は誰だろう?コーラスや編曲もグッとくるのです。まさか冬野ユミじゃないよねえ。だとしたら凄いけど!昭和40年代の歌謡ブルース。高度成長期の大阪のネオン街が見えると同時に、なんとなく垢ぬけた味わいも感じるんですよね。「地方の都会感」というか、いわゆる「イナタイ」ってやつ。音楽通の知り合いも、「クールファイブを経由した初期のサザンオールスターズ」「メンフィスの夜景が見える後期のサザンソウル」だとか言っておりました(笑)。もう一度フルコーラスで聴きたい。
2020.03.06
コロナウィルスの影響で、日本では一斉休校になっていますが、かならずしも中国は、そうではありません。すでに中国では、インターネットを介した端末教育が整備されていて、もはや学校に行かなくても授業が受けられる。端末学習・端末教育は、多くの点で従来の教育システムより優れていると言われてきたものの、なぜか日本では、いっこうに導入が進んでいません。政府は、民間のシステム開発を後押ししないし、まして、それを公教育の現場に導入しようともしない。いわゆる教育利権にしがみつく大人たちの保身のために、次世代を担う子供たちが犠牲にされているからです。一般的に、アジアやアフリカなどの途上国であるほど、最新のインフラを一足飛びに導入する傾向があり、先進国であるほど、かえって旧来的なシステムに足を引っ張られる。日本は、ゲーム産業などの開発力とコンテンツ力がありながら、そのアドバンテージを教育分野にまったく活かせていません。ここにも日本の国家的な「滅び」の予兆が見えてくる。問題は、医療体制の遅れだけではないのです。◇オンライン学習には多くの利点がある。教室での授業よりも、端末による動画教育などのほうが、誰もが等しく質の高い選りすぐりの授業を受けられる。教師によるバラつきがなく、地域的な格差も、経済的な格差も生まれにくい。不登校児や障害児にもハンデが少ない。理解の早い生徒はどんどん進むことができるし、理解の遅い生徒は理解ができるまで繰り返し反復して学べる。端末によるテストもはるかに効率がよく、自分の発達の度合いをすぐに数値化して把握できるし、身につくまで何度でも同じテストを再チャレンジできます。目的に応じて、幅広い分野をバランスよく学ぶことも出来るし、得意分野を優先的に伸ばしていくことも出来る。分野別・習熟度別にまとまったクラスも編成できる。硬直した枠組みに縛られず、よりフレキシブルな運用ができるのです。◇いじめの問題、教師の過労問題、感染症の問題などを克服する上でも、オンライン教育はあきらかに有効な選択肢です。あらゆる教育と学習を端末だけに頼ることはできませんが、国家的に教育インフラの整備が立ち遅れている現状は、いずれ将来における致命的欠陥になるでしょう。
2020.03.05
「大食いヤラセ番組」とか、あいかわらずどうでもいい話…。どんな名目でテレビ局内を取材させてもらったのか知らないけど、親切に制作現場を案内してくれた番組プロデューサーのことまで、取材が終わったら、容赦なくバッシングして切り落とすんですね。なんというか、弱肉強食というか、えげつない世界です…。◇さて、2時間あれば事足りるような内容の話を、毎回毎回つまらない”スクープ”ネタを交えながら、むりやり10話分のドラマに引き伸ばしてきた作品ですが、はたして論評に値するのかどうか疑問に感じつつも、いよいよ来週が最終的ってことで、結末を待ちたいと思います。◇ケイトの父である乃十阿徹は、悪意のない子供の過失(殺意はない)を庇うために、わざわざ家族のことを置き去りにしてまで、なぜ死刑をも覚悟で「無差別殺人」の罪を被ったのか?(死刑にならず出所できた理由も不明ですが)なぜ弁護士でさえ気づくような真実を、妻が気づかなかったのか?じつは妻も、夫が冤罪に見舞われるのを黙認したのでしょうか?おそらく乃十阿が隠したかったのは、子供の過失よりも、さらに重大な真実だったのでしょう。そして、そこには、おそらくケイトの母との「不倫」が関係していたのでしょう。そのことをケイトの母は知らなかったのでしょうか?スタインベックの小説とはどんな関係があるのでしょうか?なぜ尾高のスタジオに届けられた小包を、乃十阿は、勝手に可燃物として廃棄したのでしょうか?◇ここまで不倫のネタを引っ張ってきたドラマですから、最終的に「不倫」にたいして何らかの裁定を下すはずですが、たんに「不倫はいけません」なんて陳腐な結論になるとも思えない。とはいえ、そう簡単に不倫を肯定できるわけでもありませんよね。不幸な恋愛がもたらす悲しい結末にも向き合わざるを得ない。>真壁さんの彼だと思って見てた野中さんはステキだったけど、>自分の彼になってみたら、そうでもなくなったっていうか。(by 小泉愛花)この頭の悪い尻軽女のセリフにこそ、永遠不変の真実がありますよね。つまり、誰しもが「他人のもの」を欲しがるのです。ケイトの母が乃十阿を欲しがったのも、ケイトがいまさら尾高を欲しがってしまうのも、野中がいまさらケイトに嫉妬しはじめるのも、みんな「他人のもの」が欲しくなってしまうからです。ふだんは偉そうにバッシングしてる人たちでさえ、結局は同じ穴の狢です。そして、なぜか自分のものになった途端、自分のものはクズに見えてくる。それこそが恋愛の真実ですよね。
2020.03.05
だいぶジメってる…。おかげで天堂の「ツン」の部分も弱まってる。まあ、医者だってサービス業ですから、そうそう「ツン」ばかりじゃいられないだろうし、状況によって立場が弱くなるのはリアルなのですが、前回あたりから、佐藤健の演技がちょっと噛み合ってない。すこし演技が委縮してるようにも見えます。原作や脚本の世界観の問題もあるけど、プロデューサーを筆頭にして、女性ばかりが現場を仕切ってる影響もあるのでは?男性キャストの人たちは、「女子の、女子による、女子のためのドラマ」だと割り切って演じているかもしれないけど、あまり委縮しすぎるのも考えものです。プロデューサーは、なるべく男性キャストとも意見交換すべきだし、場合によっては、現場の男性の視点も取り入れるべきだと思う。◇ただでさえ、金子ありさのドラマは、男性に対して女子の願望を投影しすぎです。女子が思い描く理想の男性像は、二次元の世界なら、ある程度は許容できるとしても、実写にしてしまうと、けっこうキモチ悪い。とくに片想いとか嫉妬のしかたがキモチ悪くて、このドラマも、そういうところは「中学聖日記」っぽいし、何ともいえずジメった感じになる。富裕層の陰湿さを描いた表現も、いかにも少女漫画的なステレオタイプなのですが、じつは羨望がものすごく混じってたりするのですね。今回も、女子がひそかに憧れる「両天秤ストーリー」でしたが、しょうもないイケメン同士の嫉妬エピソードのために、杏里ちゃんの手術なんて完全にネタにされちゃった感じで、あれじゃあ医療シーンを演じる役者もバカバカしいでしょ。いったん鹿児島に戻るのはいいとしても、もうちょっとマシなシナリオに出来なかったのかなあ。◇じつは演じている男優さんたちも、けっこう違和感をおぼえているのでは?もし限度をこえたキモチ悪さを感じてるなら、率直にプロデューサーにうったえたほうがいいと思う。そうしないと、際限なくキモチ悪くなるよ。
2020.03.04
レンとリコのどちらかが消えてしまうのは悲しい。ひとりの人間のなかに、2人の人格が共生することは不可能なのでしょうか?◇第8話で刑務所を訪れたレンに対して、面会した母は「恋人を殺せ」と言いました。なぜなら母はリコの復活を恐れているからです。(門田教授を殺したのも同じ理由)しかし、おそらくこれは逆のフラグになるのでしょう。直輝は最終的にリコの人格を復活させるはずです。ただし、それはレン自身が決めることですよね。自分の人格が移植されたニセモノだと知ったとき、レンは、自分の人格を消して、リコを復活させるように望むはずなのです。そしてレンが消えようとするとき、はじめてリコや母との関係が解き明かされるはずです。一方で、復活したリコは、レンが消えてしまうことを悲しみながら、自分がミスパンダであり続けるかどうかを決断することになる。その結末を想像すると、ちょっと辛いものがあります。
2020.03.03
WHOなどの機関がくりかえし訴えているように、マスクは「予防するため」のものではなく、保菌者が「他人に感染させないため」のものです。マスクを必死で買い占めている人間は、おそらく予防目的のつもりでいるのでしょうが、どうせマスクをしたって予防になどならないのですから、勝手にやらせておけばいいのです。加藤浩次などは、老人に優先的にマスクを配布すべきと言ってますが、それも微妙にまちがっています。若者こそが「隠れ保菌者」になりやすいのだから、その意味でいえば、症状のない若者こそマスクをすべきです。現時点でいえば、北海道などに優先的にマスクを配布する政策こそが正しい。感染者が多い地域でこそ、老若男女を問わずマスクを励行させる必要があるからです。誰が感染しているか分からないのだから。◇原理的にいうならば、いちばんマスクをすべきなのは「喋る人」です。喋らない人は、原理的にマスクをする必要はないし、予防したいだけなら、外出した際にひたすら手を洗えばよいのだし、そもそも屋内で人と接触すること自体を避ければいいのです。◇国会中継を見ていると、黙っている人がマスクをして、喋っている人がマスクを外している。…これではあべこべです。本来は、喋る人こそがマスクをしなければならない。テレビ局のスタジオでも、カメラや音声などのスタッフがマスクをしているのに、カメラの前で喋る人たちはマスクをしていない。教室でも、生徒たちがマスクをしているのに、教壇で喋っている教師がマスクをしていない。とある学校では、せっかく子供たちがマスクをつけて登校しているのに、なぜか歌を歌うときにだけマスクを外させていました。教師にすら、そんな馬鹿者がいるのです。密閉された教室のなかで、全員がマスクをはずして歌を歌ったら、それこそ韓国の新興宗教団体と同じような結果を招きます。いちばん危険な行為をやらせている。喋るときにこそマスクをしなければ意味がないし、歌うときにこそマスクをしなければ意味がありません。とりわけ喋ることを職業とする人々、すなわち、議員や、教師や、店員や、配達員は、責任をもってマスクをすべきです。◇せっかくマスクをしているのに、喋るときだけわざわざマスクをはずす(ずらす)馬鹿者がいます。マスクをしたまま喋るのが失礼とでも思っているのでしょうか??マスクをはずして喋ることのほうが、よっぽど失礼です。「俺のウィルスを浴びてくれ」と言っているようなものですから。さらにいえば、「俺は健康だからマスクなど必要ない」などと威勢をはって動き回っている勘違い人間も少なくない。そのような人こそが、じつは気づかぬうちにウィルスを撒き散らすのですから、いちばん優先的にマスクをさせなければなりません。◇感染者の多い地域や、人と喋ることの多い業種の人々には、自治体がマスクを買い上げてでも、優先的に配布・着用させるべきです。その一方、ドラッグストアなどの小売店では、むしろ販売制限をしたほうがいいのだし、買い占める人間が後を絶たないのなら、彼らがいちばん損をするように大幅に値上げしてやればいい。
2020.03.03
考察系ドラマの場合、しばしば脚本の整合性じたいが疑わしくなったりもします。このドラマの場合、いまのところ目立った矛盾は感じませんが、終盤になるにつれて、脚本の不備が気になってくるかもしれません。そうならないことを祈ります(笑)。◇直輝は、コアラ男の真実を知るために佐島の娘(あずさ)に近づいたのですね。そして佐島のほうも、そのことを承知していた。承知のうえで、直輝を世直しのために利用していたわけです。なぜ佐島が直輝と関わっていたのか疑問だったのですが、それは、佐島にとっての「罪滅ぼし」であり、いわば長い時間をかけた「自殺」だったのですね。これはまったく予想していなかったことで、驚きました。◇佐島は、コアラ男の正体は「部下」だと言いました。それは、おそらく息子の一郎のことだと思いますが、まだ確定的とはいえません。佐島は最後にまだ何かを隠していた。息子を守ろうとしていたのかもしれません。しかし、父が失脚した時点で、息子の政治生命は絶たれてしまったように思います。◇そもそも、一郎とあずさは、すべての真相を知っているわけではないようです。もしも誘拐事件が兄妹による自作自演だったなら、あずさは「直輝のために何でもする」と告げたとき、その場でコアラ男の真相を言えたはずなのです。しかし、一郎とあずさは、わざわざ父の部屋に忍び込んんで、隠されてあった資料を盗み出しています。資料を公開してしまったら、父が失脚することも分かっているはずなのに、なぜ兄妹はわざわざ直輝に協力するのでしょうか?その動機は謎です。親子のあいだには確執があるのでしょうか?もうひとつ気になるのは、あずさが父の部屋を探したとき、引き出しの中のビデオカメラをスルーしたことです。佐島は、あのビデオカメラを使って、偽装誘拐のシーンを自分で撮影したと思うのですが…。◇佐島は、直輝パパを銃殺した後にパンダ男のマスクを外しました。ところが、来週の予告を見ると、直輝パパは殺される前に自分でマスクを外している。そして佐島は、直輝パパにむかって何かを懇願しています。そもそも、先週のラストで、佐島の目の前にパンダ男が登場したシーンは、現在の出来事だったのでしょうか?過去の出来事だったのでしょうか?録画を消してしまったので確認する術がありません…。いずれにせよ、まだ事件の黒幕は佐島と決まったわけではありません。事件の真相を知っているのは佐島だけではない。警察組織も、何らかの事実を知ったうえで隠蔽しているのです。まだまだ隠されている謎があるはずです。◇ミスパンダの人格はリコに一致したようです。自意識のなかったモンスターが、リコとしての自意識を回復した結果でしょうか?しかし、逆にいうと、ミスパンダはもはや「モンスター」ではないのです。リコの人格と一致してしまった以上、いままでのように激しく格闘したりはできないのかも。清野菜名のアクションはもう見れないでしょうか?レンは、収監された母親に会いに行きましたが、結局、過去についての詳しい話は聞けていません。囲碁喫茶の夫婦からも、まだ過去の話は聞けていない。そもそも囲碁夫婦の間でさえ情報は共有されていません。川田家の謎も、まだ残っている気がします。最終的に、人格が残るのはレンなのでしょうか?リコなのでしょうか?どちらかの人格が消えてしまうのは悲しいです。
2020.03.02
新型コロナを機に「テレワーク搾取」が加速しています。テレワークは「時間労働」の概念を破壊しますので、給与設定は、成果報酬や能力報酬のほうにシフトし、その結果、時間あたりの労働単価が際限なく安くなり、ほとんどの場合、労働者は不利な条件を強いられて、安い長時間労働を搾取される結果になります。テレワークが多くの労働者にとって不利になるのは、そもそも基本的収入が保障されていないからです。生存権を脅かされた状況では、不利な条件を受け入れてでも働かざるを得なくなる。テレワークを推進するためには、労働者の基本的収入を法的・社会的に保障する必要があります。国家が基本的人権(basic human rights)を保障するためには、まずは国民の基本的収入(basic income)を保障することが大前提なのです。金融資本社会が貧富の格差を極限的に広げていくのは、いまや誰の目にも明らかで否定しようのない真実です。そのうえにテレワークが拡大すれば、低賃金で長時間労働を搾取される人々が増え、そこから富を得る人々との格差がさらに極大化していく。そうなると、個々人の生活のみならず、国家や社会を維持させる条件そのものが崩壊してしまうでしょう。たしかにテレワークには利点もあります。労働が、空間と時間の制約から解放されるからです。社会も、企業も、個人も、通勤のための時間的あるいは経済的なコストを抑えられるし、インフラや職場環境のための設備投資をも抑制できる。それは、地球資源の保護、二酸化炭素・廃棄物削減の対策でもあり、都市部への一局集中や、地方の過疎化への対策でもあり、有効な感染症対策でもある。また、個人は、これまで職場で強いられてきた、ヒエラルキーをともなう「人間関係」、個性や身体性を抑圧するような「身だしなみ」、精神と身体の限界を超えるような「体調管理」など、過剰かつ不必要な負担から解放されるので、より労働そのものに集中して、生産性の向上にも努められる。生産効率が上がれば、資本家にとっては事業の選択肢が増えるので、産業が活性化し、さらに社会的進歩を促すことになる。個人にとっては、余暇、恋愛、子育て、介護などの余裕と選択肢が増えるので、文化が育成され、ひとつの少子高齢化対策にもなる。ただし、そうしたメリットは、あくまで個々人の基本的収入が保障される前提でのことです。それがなければ、そもそも国家は、国民の基本的人権すら保障できないのです。
2020.03.01
状況的に「恋つづ」の勝利が確定した感があります…。メディアの論調も、おおむね事態を理解したらしく、だいぶ状況に噛み合ってきたな、って感じ。わたし自身は、もともと「萌音推し・萌歌推し」だから見てたんだけど、当初は、萌音の主演を疑問視する見方があるのも承知してはいた。ただ、ドラマがはじまった時点で、佐藤健が自分の役割をよく理解してるのは見てとれたし、もう一方で、RADWIMPSやヒゲダンの成功を後押ししてきた東宝が、ここにメディアミックスの戦略を結集させてる感じもあったのです。長澤まさみから受け継ぐかたちでヒゲダンの曲を使って、さらに河野伸の音楽を使用したこともふくめて、萌音の主演を成功させるための体制が整ってる印象はありました。わたしは、このドラマを手放しで絶賛してるわけじゃないけど、先日も書いたように、これが映画コンテンツになる可能性は確実に高まってますよね。視聴者は、これを家で見るだけじゃなくて、大勢の人たちと共有する形で楽しみたいと感じはじめてる。コミック原作、ドラマ、音楽、ネット配信、ブルーレイ、映画、ノベライズ、そして各種の天堂担グッズ。メディアミックスの可能性がいろいろ膨らんできますよね。正直なところ、TBSの戦略というのは、わたしにはいまひとつ分からないし、全面的に支持しようとも思ってないのだけど、きっとTBSなりにラブコメの必勝フォーマットみたいなものが、出来つつあるんだろうな、というのもある。◇萌音と萌歌は、今後、舞台や音楽以上に、映像の仕事がいっそう増えていくのでしょうけど、ドラマを軸とするメディアミックスの起点になるためにも、ただ女優として演技するだけじゃなくて、これまでどおり、やはり多面的な活動を続ける必要があります。かつての斉藤由貴がそうだったように、公私ともに「オタク」でありつづけることは絶対的に重要です。ドラマの内側に多様な「文化」の要素や人材を引き込むことで、今回のような成功が生まれてくるからですね。たぶん女優というのは、たんに作品をつくるための部品ではなく、その女優自身が一種の文化的な媒体なんだろうと思います。2月26日 「恋つづ」第7話。2月14日 東宝は「恋つづ」と「ぎぼむす」を映画化できる。2月12日 「恋つづ」第5話 お疲れパン。2月06日 「恋つづ」は「中学聖日記」の二の舞…?1月29日 「恋つづ」第3話。やや脚本の詰めが甘い?1月15日 「恋はつづくよどこまでも」は医療ドラマ?
2020.02.29
「ハムラアキラ」第6話。ものすごく濃密。そして事件の構図は、かなり複雑。不気味で、気持ち悪い。だけど、メチャクチャ面白い。◇どうやら麻薬取引だの援助交際だのはミスリードであって、真相は「68会」がやっているゲームに関係しているようです。マッチョな親父が動物を殺して楽しむゲーム…悪いうさぎって何?ラストシーンで、野原に倒れているカナの姿が映りました。◇岡田(間宮祥太朗)の存在が、急に怪しくなっきた。滝沢の娘が美和で、元家政婦の娘がカナ。(どちらも行方不明)平の娘がミチルで、その兄は誘拐犯に殺されたミツル。そして山辺の息子が 岡田正太郎 。 …なのですね。つまり、岡田は「68会」の関係者なのです。「岡田管理官のことよく分かってねえんじゃねえの?」という刑事のセリフは、その意味を含むものと思われます。「親と子の苗字が違う」というのは、カナのことだけでなく、岡田自身のことかもしれません。岡田が担当外の捜査に乗り出してきたのは、事件の秘密を暴くためでなく、むしろ秘密を暴かれないようにするためかもしれない。しかし、岡田は、うっかりハムラに「カナは元家政婦の娘」などと喋ってしまった。ハムラも当然そのことを知っていると勘違いしたからです。岡田は「どうやってカナに辿りついたのか?」とハムラに問います。美和のポケットの手紙からカナに辿りついたのですが、その内容は、おそらく岡田にとって「マズい情報」だったはずです。アヤがカナに紹介した、3日で200万円を稼げるというバイト。それは68会の「ゲーム」に関係しているのかもしれない。カナの部屋からパソコンを持ち出したのは、おそらく68会の人間ですよね。あるいは岡田本人なのかもしれません。そしてハムラも、岡田たちに命を狙われるのかも。岡田は、ミチルと顔見知りでしたが、彼女は、岡田にとって敵でしょうか?味方でしょうか?さらに行方不明の美和は、生きているのでしょうか?死んでいるのでしょうか?ミチルの母は、「美和の母が保険金目当てに娘を殺した」と疑っています。なぜなら、同じ68会のメンバーである野中が、「彼女の会社が倒産寸前なので、娘さえ殺しかねない」と言ったらしいのです。そうなると、ミチルの兄が誰に殺されたのかも気になる。68会の男たち。その周囲の女たち。親と苗字のちがう子供たち。謎めいた男女関係と、不穏な親子関係。彼らの実業と、怪しげなゲームとの関係とは何なのでしょう?◇不思議なことに、この図式って、日テレの「シロクロパンダ」にも似てるのですよね。虐待する母と双子の娘。政治家の父に利用されたっぽい息子と娘。殺された警察官と復讐を誓った息子。パンダとコアラとウサギ。偽装誘拐事件と、警察の陰謀。坂上忍みたいなワイドショー番組に、ウサギの着ぐるみが出てきたりするところも、なんだか「シロクロ」っぽいのです。
2020.02.29
医療ミスをめぐるエピソードは先週で終わっちゃった?三浦翔平はともかく、田辺誠一さえ登場しないのですね…。木村佳乃と田辺誠一の関係を清算しなくていいのかなあ…。せめて木村佳乃の逡巡にスポットを当てて、退職願を出したり引っ込めたりしながら、松下奈緒の家族(遺族)との和解とかも、もうすこし感動的に描いたらよかったのでは?なんて思うんだけど、意外にあっさり病院に留まることにしたみたいです。なんだかメインのストーリーが一段落して、高畑淳子も旅に出てしまったから、うっすら最終回っぽくなった気がしないでもない。次週につなげる要素が何もなくなっちゃった感じ。まあ、一話完結の物語としては十分に成立してるんですけど…、このドラマって、一話一話がけっこう重たいわけだし、やっぱり次週に引っぱる「繋ぎのストーリー」があったほうが、視聴者のモチベーションのためにも得策じゃないのかしら?などと、よけいなお節介まで考えてしまう。制作者サイドは、もう視聴率のことは気にしてないのかな?あるいは、実際に病気と闘っている視聴者のことを想定して、むやみに翌週へ引っぱるような話の作り方を、みずから控えているのかもしれません。そこらへんは制作者の意図ですよね。毎回、最初と最後に美しい屋上のシーンがあります。遠景に横浜の海を見わたせる場所ですね。今回はとくに癒された。あのシーンにも制作者の意図があるのかな。
2020.02.28
いくら有名週刊誌の記者だとはいえ、傷害事件の被害者の顔をテレビ番組でさらすのは、さすがにコンプライアンス違反じゃないかってことと、「私の行きつけのラーメン屋のスープが市販品でした!」みたいな心底どうでもいい記事に比べたら、「ホワイトデーはラスクが定番だよね。」って記事のほうが、まだしもマシだと思えてくることなどが重なってしまい、まずは冒頭15分の前提部分に引っかかってしまう…。さらに最後の15分、収賄の尻ぬぐいを押しつけられた金庫番が、親族の不利益になるような真実を遺書に書き残すくらいなら、最初から自殺なんかせずに真相を暴露すりゃよかったじゃん、という思いも、なかなか簡単には拭いきれない。帳簿データの隠し場所を、なぜ主人公が「犬の首輪」だと確信したかも、けっこう謎です。妙なディテールに細かいわりに、脚本の粗が多すぎるのでは?大石静は、アシスタントにでも手伝わせてるのでしょうか?◇さて、編集長(佐々木蔵之介)は、主人公に、尾高(柄本佑)との「略奪婚」を勧めました。すでに有名人になってしまった主人公は、「殺人犯の娘として」について手記を書くだけでなく、「不倫報道記者自身が略奪婚をする理由」についても、手記に書いて週刊イースト誌上に発表するのでしょうか?「バッシングする側」が「バッシングされる側」になる展開は、このドラマの最大の肝になる見せ場だろうと思うし、だからこそ世間からのバッシングを覚悟で手記を書くべきなのですが、当の編集長自身は、主人公に手記を書かせることに及び腰のようです。「だったら略奪婚なんか勧めてんじゃねーよ!」とツッコミを入れたくもなる。編集長の本来の信念にしたがえば、「殺人犯の娘として」についての手記はもちろんのこと、「不倫記者自身の略奪婚」についての手記も書かせなきゃなりません。人間の様々な側面を伝え、人間とは何かを考える材料を提供する。それがゴシップ誌にあるべきジャーナリスト精神なのだから。いや、あの編集長ですから、最後には怒鳴りつけてでも手記を書かせるとは思いますけど、その前に、まずは殺人犯との血縁を確認するほうが先ですね。◇◇それはそうと、重岡大毅のクズっぷり演技に100点満点!でも、主人公はあのクズ男と付き合ってたんだよね。求婚されたときはウハウハしてたでしょ?たんなる面食いなのでは?他人の旦那を略奪するほど男を見る目があるのかなあ…。
2020.02.27
萌音の新曲。タイトルが「明日に種をまこう!」っぽいねと思ったら、歌詞の中身は、泥まみれで土を耕してるみたいな内容だし(そういうアニメなのね)、そうかと思ったら、なぜかミュージックビデオの映像は、水槽のなかに溶けた絵の具みたいなイレギュラー…でした (笑) 。◇それはそうと、第7話。金子ありさの芸風が全開です…。まあね、たしかに人間ってのは弱いものだと思いますけど、その弱さの表現があからさますぎて、デレデレしすぎ、ベタベタしすぎ、気持ち悪さ寸前。やっぱり、どこかしら「中学聖日記」的なものを感じてしまう。七瀬はともかくとしても、天堂も、来生も、上条も、あらゆる登場人物が 弱っちく なってしまう。弱っちくなって、デレデレになって、ベタベタした展開になる。演じてる佐藤健の顔が、こころなしか引きつってる気がしないでもありません。たぶん、ここから先は、結華も、流子も、みおりまでも、どんどん弱っちくなっていくのでしょう。たしかに恋愛すると誰しも弱っちくなるよね。唯一、山本耕史が演じる小石川の存在だけが救いかな。あるいは、七瀬こそが、みんなの弱さを受け止める聖母的な存在になる感じ?こんなふうに、弱っちい人たちの、甘々でベタベタな世界を描くのが、金子ありさの芸風ってやつなのでしょう。それって、よくもわるくも少女漫画的ではあるし、そこがたまらなく好き!って人もいるでしょうけど、まあ…、好みの問題なのかなあ。
2020.02.26
コロナウィルスへの対策として、政府は「軽症患者は自宅待機」という方針を出しました。軽症の感染者は「もう病院に来るな」ということです。病院内でのむやみな感染を防ぐには仕方ありませんが、自宅待機によって家庭内感染を野放しにする面もある。そもそも日本の医療現場には、すべての検査をおこなうだけのキャパシティがなく、まして入院させるだけのキャパシティなどなく、そもそも治療する能力もないのですね。そして、いちばん問題なのは、じつは重症患者でさえ受け入れられる施設が少ないこと。「日本の医療は世界最高レベル」などという神話もありましたが、もはや、そんなものは信じないほうがいい。しょせんは医師会と自民党政権が吹聴したホラ話にすぎません。実際は、先進国で最低レベルなのかもしれませんよね。いまや韓国以下になっているという話さえある。自画自賛するだけがお得意の馬鹿な国民は気づいていませんが、さまざまな項目のランキングにおいて、日本の評価は軒並み最低レベルにまで下がっていますから、あながち医療だけが例外だとは思えません。日本の病院は、危険の少ない患者に対しては、やれ「検査しましょう」だの、やれ「治療しましょう」だの、やれ「手術しましょう」だのと勧めてきますが、ほんとうの意味で危機的な患者に対しては、じつは検査もしたくないし、治療もしたくないし、そもそも病院にすら来てほしくないのです。つまるところ、日本の病院とは、ただ不安をあおって検査費を稼ぐだけの機関にすぎません。しかし、このような体質は、なにも病院にかぎったことではありません。いまや日本社会全体に蔓延した体質だといえます。安倍政権の場合も、ふだんから脅威をあおっては法整備の議論を繰り返し、さも「万全の対策」を取っているように繕うのが得意ですが、いざ実際に危機が起こってみると、毎度のように「想定外」だとばかり繰り返している。いわばオオカミ少年のような国家なのです。ふだんから物事を「嘘」「隠蔽」「取り繕い」でやりすごし、対面だけを必死で取り繕って済ませている。そんな社会全体に蔓延してしまった不真面目さが、実際の危機に対応するだけの実力を失わせているのです。「軽症患者は自宅待機」の方針によって、正確な感染者の数を把握できなくなったことは、日本の対外的な体面を保つうえでも、政府にとっては、むしろ好都合なのでしょうね。
2020.02.26
喜美子と八郎はなぜ離婚したのか?多くの視聴者は、その理由を十分に理解できなかった。でも、それは登場人物も同じ、ということらしい。先週は、いってみれば武志が視聴者の思いを代弁する形で、その理由を両親に確かめようとしましたが、やっぱり明快な回答は得られませんでした。結局、本人たちにさえ、はっきりした答えは分からないのかもしれない。実際、人生なんてのは、長い時間がたってなお、「どうして自分たちはあんな選択をしたんだろう」という疑問を抱きつづけるものかもしれません。そういうリアルを描くドラマがあってもいいとは思う。ただ、意図的にドラマで描かれなかった部分があるのも事実だし、主人公は、最後までこの問題を引きずるのかもしれないし、スピンオフ大会をはさんだ来週以降に、息子の人生にもかかわっていくなかで、ふたたびこの問題に向き合うことを期待します。何らかの答えが見つかるとは限らないし、かりに答えが見つかったとしても、それがかならずしもポジティブなものとは限りませんが…。むしろ自分の人生の選択にネガティブな結論が出るほうが、今回の朝ドラらしいリアルかな、とさえ感じています。
2020.02.25
そもそもクルーズ船を陸から隔離したのは、船内に感染者が存在する可能性があったからです。そして、船内に感染者がいる可能性があったなら、クルーズ船を陸から隔離するだけでなく、船内にいる個々人をも、互いにセパレートしなければならないし、それらの環境を医療の専門家が管理しなければならない。そうしなければ船内感染が進みます。それは、素人でも想像がつくことです。常識的に考えても、たとえば隔離病棟のなかで、病人同士が相部屋などということはありえないわけで、当然、病人同士はセパレートされるはずです。そして、それぞれの環境は医療の専門家が管理するはずです。当然、クルーズ船においても、そのように管理されているはずだ、と思われていました。ここは中国でも北朝鮮でもなく、日本なのですから。しかし、実際のクルーズ船内では、個々人はまったくセパレートされておらず、乗務員の大半は相部屋で過ごしており、あろうことか、彼らが乗客へのサービスをおこなっていました。いわば隔離施設の管理を素人にやらせていたようなものです。もともと日本政府に批判的な海外メディアは、この状況を早くから問題視していましたが、NHKをはじめとする国内メディアは、安倍政権の対応を批判することに及び腰でした。正しい実態をろくに報道しないまま、なぜか「正しく畏れましょう」などという標語だけを、意味もなく拡散させつづけたのです。そして、挙句の果てには、オペレーションにあたった厚労省の職員までが感染する始末。口先だけ「正しく畏れた結果」が、これでした。政府はいまだに、「検疫官も医療従事者も感染を予防する技術を習熟し十分に対策している」などとウソぶいていますが、実際に感染者が出てしまっているのですから世話がありません。結果的には、船内の「5人に一人」が感染するという弁解できない事態となりました。しかし、政府は性懲りもなく、「英国船籍」「米国主催」「イタリア人船長」「法的な壁」などといった弁解のパターンを並べながら、法改正の議論へと話をシフトさせようとしています。◇かりに船内のオペレーションに障害があったのなら、最初から乗員乗客を下船させて、陸上施設での隔離にすべきだったはず。結局のところ、今回の失敗は、船内の管理がずさんだったこと。オペレーションの責任者がバカだったこと。そして政府の判断が誤りだったこと。に尽きます。さらに「陰性」と診断されて下船した乗客のなかから、再度の自主検査によって「陽性」であると判明した人も出ている。国は、こうした状況を隠すために、下船した乗客の再検査そのものを渋っているようです。クルーズ船から拡散させてしまったウィルスをも、「経路の追えない感染」「市中での散発的な感染」として偽装しようとする姑息な意図が見え隠れするのです。◇近年の安倍政権では、「嘘」「隠蔽」「誤魔かし」「取り繕い」が常態化し、それによって体制が維持されるような状況になりました。今回のクルーズ船の問題でも、安倍政権は「取り繕い」によって乗り切るつもりでいるはず。中国政府の場合は、国民からの批判を必死で封じ込めているのですが、日本の場合は、むしろ国民のほうが政権に忖度して批判を控えてきた面が強い。あきらかな「嘘」「隠蔽」「取り繕い」があっても、メディアと国民は見ないフリをしてきたし、あくまで自国の政府と文化と技術力を自画自賛し続けてきた。その結果として、海外の論調と、国内の論調が、とんでもなく乖離してしまった。日本は、ほとんどガラパゴス国家になってしまったのです。しかし、感染してしまった人々とその関係者は、厚労省を相手取って告訴すべきですし、国会も、厚労省の責任者に説明させるべきでしょう。ただし、現時点では、すでに厚労省のなかにウィルスが蔓延してる可能性もあり、そのことを自体を危険視したほうがいいのかもしれませんが…。◇今後、もっとも危惧されるのは、教育現場におけるウィルスの拡散です。たとえば大学入試において、「罹患者は受験不可」「追試も認めない」と表明した学校があります。これを知った受験生は、あえてウィルス検査などしないでしょうし、かりに体調が悪くても、無理を押して受験するはずです。「多少の熱があって咳が出ても無理して受験しろ」と言っているようなものです。若年者は重症化しにくいと言われており、逆にいえば、若者ほど「隠れ保菌者」になりやすいのです。そうした若年者を一か所に集めることは、非常に危険です。ウィルスを一気に拡散させる惧れが大きい。
2020.02.25
いやー、だいぶ民放臭いドラマでした。これがBSクオリティってやつでしょうか。潔いくらいに、NHKらしさはどこにも感じられなかった(笑)。暇をもてあましてたはずの田舎の刑事が、借金まみれの実父を疑うミスリードをすることもなく、どんどん真相に迫っていく感じとか…義父が娘を殺そうとするときに、わざわざ法律の条文まで朗誦してトリック説明したりとか…最後は、中山美穂が殺し終わるのを二階で待っていたかのように、登場人物がぞろぞろ階段から下りてくる感じとか…あまりにお約束すぎる設定と、安っぽい昼ドラみたいな演出がいっぱいで、ほとんど内村プロデュースのコントを見てるような気分。80年代の安っぽさをあえて再現するのが「リバイバル」の意味なのかなあ?そのように割り切って見れば、十分楽しめる内容だったのかも。そもそもトリック自体が、複雑なわりに偶然だのみの無謀なものに思えるし、娘に自首させるのはまだしも、偽装自殺なんてさせた日にゃあ、母親が正気を失って真相をバラすに決まっている。まあ、夏樹静子の追悼という意味もあって、なるべく原作に忠実にドラマ化する意図だったのでしょうが、逆にいえば、わざわざNHKがドラマ化した意義は、そこ以外には見出せませんでした。どうせやるなら、もうすこし知的なドラマに仕立ててほしかったけど、ぶっちゃけ、いまのNHKにとって、本腰を入れて取り組むほどの素材ではなかったのかもしれません。
2020.02.25
放火事件と門田殺しの真相が解けて、レンの母親が逮捕されました。結局のところ、放火事件は、コアラ男の事件とは無関係だったのでしょうか?真相は分かったものの、母と娘の物語が終わったようには思えない。そもそも、なぜ母親がリコだけを憎んだのか。その理由は、まだ十分に解き明かされた気はしない。「私を檻から出して!」と助けを求めていたのは、自意識を持たないモンスターだった、と流星は言います。母親は、リコのなかのモンスターを憎んだのでしょうか?それとも、虐待によってモンスターが育ったのでしょうか?流星は、そのモンスターに、「ミスパンダ」という形を与えて飼い慣らしました。「ミスパンダはリコの願望を映し出した姿」だともいいます。いわばリコ≦ミスパンダのような関係なのでしょうか?母親はリコを憎みましたが、もし流星がリコを愛せるのだとすれば、それは自分のなかにも同じモンスターがいるからでしょうか?「門田先生から君の過去を聞いて全てがつながった」いったい何がどうつながったのでしょうか?そのことが、なぜ父親の復讐に結びつくのでしょうか?たんなる謎解きだけではなく、こうした因縁への決着をつけてほしいです。
2020.02.24
新型肺炎ウィルスの拡散が危惧されていますが、感染のリスクがもっとも高いのは、人々の集う「会食」です。当然ですが、食事をするときは、マスクをしていませんし、おたがいに至近距離から面と向かって喋りますので、飛沫感染のリスクがもっとも高くなります。屋形船の場合も、クルーズ船の場合も、会食をとおして感染が広まった可能性が高い。反対に、スーパーでの買い物などではあまり喋りませんし、電車内でも、日本人の場合はほとんど喋りませんので、(中国人はよく喋りますが…)感染するリスクはそれほど高くないはずです。ただし、声に出してレジ打ちをする店員には、絶対にマスクの着用を義務付けるべきです。たとえ本人が発症していなくても、ひそかに保菌していれば、あらゆる客にウイルスを拡散させます。マスクは、予防のためではなく、保菌者がウィルスを撒き散らさないためのものです。とくに「喋ること」を職業とする人たちは、営業職の人はもちろん、政治家や教師やテレビの出演者もふくめて、絶対にマスクを着用すべきです。もし、声がこもって聞き取りづらいというのであれば、口から布が浮いている立体的なマスクでもいいと思います。とにかく周囲に飛沫を拡散させないことが重要です。テレビの出演者の振る舞いは影響が大きい。「マスクをして喋るのは失礼だ」「説得力が弱まる」といった固定観念や慣習は、この際、捨てなければなりません。現状において社会が何を優先すべきなのか考えねばなりません。◇いわゆるスーパー・スプレッダーとは、よく喋る人のことです。無口な人は、誰とも喋りませんが、よく喋る人ほど、ひっきりなしに誰とでも喋ります。コミュニケーションの媒介者こそがウィルスの媒介者なのです。ウィルスを拡散させないために必要なことは、すなわち、人と人とのコミュニケーションを抑制することです。マスクをせずに喋っている人や咳をする人には、絶対に近寄らないほうがいい。
2020.02.18
今日のエピソードは面白かったです。5人の大人が、子供みたいに動き回りながら、それぞれに好き勝手なことを喋って、じつはおたがいの心理を微妙にさぐってる…。その様子を、カットを切らずに、複数のカメラで一気に撮っています。(実際はカットを割ってると思うけど)ちょっとした舞台劇を見てるような感じ。ほとんどコントですね。その中で、それぞれの人物の気持ちがじんわり浮かび上がる。◇成功と安定を得てからの大人たちは、強さを手に入れたぶんだけ弱くもなっていて、いま、それぞれの寂しさと向き合っています。小池アンリが登場してからのじんわりしたエピソードは、けっこう好きです。
2020.02.18
「シロクロパンダ」第6話。爆破事件のエピソードはもう終わり?ハブとマングースは、はやくも退場でしょうか?ついでに被害者遺族の姉弟も退場でしょうか?なんだか、まだ未消化な印象です…。◇爆破事件が警察内部の犯行だったことを隠蔽するために、無関係な人物に罪を着せたところまでは分かるのですが、なぜその死刑囚をわざわざ脱走させたのか、なぜ彼を殺害して、その罪を被害者遺族に着せたのか。冤罪にまた冤罪を重ねた理由が不可解です。かなり分かりにくい。警察の企てがあまりに無謀すぎる気もします。…これを警察側の視点から考えてみると、爆破事件の真相を隠蔽するために、無関係な人物に冤罪を着せたものの、法廷で無実が証明されることを恐れた警察は、ミスパンダを装って死刑囚を脱走させ、口封じのために彼を私刑によって殺害し、同時に、本物のミスパンダをおびき寄せて生け捕りにし、その罪を彼女に着せようとした。しかし、空手で抵抗されて取り逃がしてしまう。空手有段者がミスパンダだと思い込んだ警察は、わざわざ証拠(ミスパンダの衣装)を捏造して被害者遺族を誤認逮捕。ところが、その直後、本物のミスパンダが現れ、おびき寄せられたハブとマングースは生け捕りにされ、その結果、警察が隠蔽していた事実をすべて暴露されてしまった。…って感じでしょうか。ただ、ドラマ自体は警察側の視点で描かれているわけではないので、ふつうに見ていただけでは、ちょっと分かりにくいです。被害者遺族を本気で誤認逮捕してしまったのか、それとも冤罪を承知のうえで意図的に証拠を捏造したのかも、よく分からない。次週で、そのあたりを整理してくれればスッキリするのですが。◇メインのストーリーについてですが、いよいよMrノーコンプライアンスが黒幕っぽく見えてきました。彼は、コアラ事件のことで警察から弱みを握られている。しかし、その一方、警察の弱みも握っている。持ちつ持たれつの関係があるようです。ちなみに佐島家の兄妹は、父親ほど多くのことは知らないようです。精神科医が殺されたことで、レンの催眠は解けはじめ、リコの人格が覚醒しています。ここから清野菜名は「一人3役」ということになりそうです。レンの人格とリコの人格はたがいに葛藤するでしょうか?それとも両者は和解していくのでしょうか?それともレンの人格は消えてしまうのでしょうか?リコが復活したら、母親はどうするのでしょうか?リコは、虐待した母親への復讐をしていくのでしょうか?一方、流星は「自分は真っ黒だ…」と言いはじめました。
2020.02.17
「アリバイ崩し承ります」第3話。トリックはいままでで一番面白かったけど、最後の説明がけっこう分かりにくい…(笑)。原作どおりなのかもしれませんが、もうすこし内容を咀嚼して、時乃のセリフを組み立て直してほしかったです。証拠がベッド下の床の指紋というのも、いまいちリアリティに欠ける気がしました。◇最後のトリック説明を、わたしなりに再構成してみます…。時乃:時を戻す事ができました。純子さんのアリバイは見つかりました。ついでに犯人も見つけました。察時:ほんとうか?時乃:わたしは「殺害当日に敏子さんがマッサージを受けた」という芝田さんの証言は嘘だと思います。敏子さんは、それよりも前に芝田さんに殺されていたんじゃないでしょうか。察時:だが、芝田だけじゃなく、新人の田川も、ぐっすり眠っている彼女にマッサージをしたというじゃないか。時乃:マッサージをされていたのは、きっと敏子さんではなく、妹の純子さんだったんです。純子さんは「夢の中で体を押さえられた」と言ってましたよね。察時:うつ伏せで眠っている純子さんの顔が見えず、田川には、敏子さんとの区別がつかなかったというのかね?時乃:ハイ。しかも、そのときの純子さんは、敏子さんとそっくりだったんです。敏子さんと同じ服を着ていて、敏子さんと同じ化粧をしていたから。察時:同じ化粧?何故そんな化粧をしていたんだね。眠っているあいだに誰かに化粧をされたとでもいうのか?時乃:ハイ。純子さんは「夢の中で顔を撫でられた」とも言ってます。察時:かりに犯人が芝田だとしても、彼にそんな化粧が出来るだろうか?時乃:化粧をしたのは芝田さんじゃありません。姉の敏子さんです。服を着替えさせたのも、髪型を整えたのも、付け爪を取り替えたのも敏子さんです。察時:敏子さんが? キミの言ってることは、さっぱり分からない…。時乃:じゃあ、順を追って説明しますね。敏子さんを殺した犯人は、芝田さんで間違いありません。でも、殺害するまで、芝田さんと敏子さんは「共犯」だったんです。正確にいえば、芝田さんは敏子さんを騙して「共犯」だと思わせていた。察時:共犯?!敏子さんは”自分自身”を殺そうとしていたのかね?時乃:ちがいますよ!二人は、芝田さんの奥さんを殺す計画を立てていたんです。奥さんを殺したあとで、二人は結婚しようと約束していたんです。察時:なるほど…。時乃:敏子さんが奥さんを殺害する実行役になり、そのあいだに、眠らせた純子さんを敏子さんに成り代わらせてアリバイを作るはずだったんです。そのために、純子さんに睡眠薬を飲ませた。察時:しかし、どうやったら睡眠薬を飲ませられるんだ?純子さんの家には鍵がかかっていたじゃないか。時乃:純子さんの家は、もともとは敏子さんの家でもあるんです。だから敏子さんも鍵をもっていたはずです。察時:そうか…。時乃:敏子さんと芝田さんは、純子さんが出勤している夜のうちに家へ忍び込んで、睡眠薬を入れたワインにすり替えました。そして、早朝に帰宅した純子さんがワインを飲んで眠るのを見計らって、ふたたび家に忍び込み、すり替えたワインを元に戻し、眠りこんだ純子さんを抱きかかえて運び出したんです。純子さんが「夢の中で空を飛んでいた」というのは、そのときのことだと思います。 察時:そのまま純子さんを敏子さんの家へ連れて行き、服を着替えさせて、姉そっくりに化粧をしたというわけか。時乃:そうです…。でも、化粧が終わるや否や、芝田さんは敏子さんを裏切って殺害しました。そして純子さんのパジャマの袖に敏子さんの血を付着させたんです。それが午前9時台前半のことだと思います。ちなみに、その日は敏子さんのピアノ教室が休みだから、翌日まで死体が発見されることはないんです。察時:そこから純子さんをマッサージ店まで運び、敏子さんだと見せかけて、新人の田川にも施術をさせたんだな。時乃:そのとおりです。察時:だが、芝田は店を閉めるまで仕事を続けていたはずだ。純子さんを店に寝かせたままで仕事を続けたのかね?時乃:敏子さんを退店させたように装って、ベッドの下に純子さんを寝かせておいたんだと思います。察時:「夢の中で暗い洞窟に閉じ込められた」というのは、そのことか…。時乃:ハイ。そして店を閉めてから、純子さんの化粧を落として家へ運び戻し、血の付いたパジャマに着替えさせて、ベッドへ寝かせたんです。夜中に目が覚めた純子さんは、血の付いたパジャマの袖や、剥がれたネイルの痕を見て、夢遊病になった自分が姉を殺したと思い込んでしまった。察時:…芝田にしてみれば、ただの愛人にすぎない敏子さんが結婚を迫ってきたのが不都合だったのだな。時乃:そして、敏子さん殺しの罪を、相続争いをしていた妹の純子さんにかぶせようとしたんです。
2020.02.16
「恋つづ」と「ぎぼむす」は映画化できるだろうと思います。いわば佐藤健2部作ですね。上白石姉妹作ともいえる。とりあえずはTBSが制作を主導する形で、いったんはテレビドラマのノウハウを取り入れて、そのうえで、テレビの枠組みでは出来ないことを、思い切り映画のなかで解放すれば、きっとうまくいく。映画化される作品にとって、もっともクリエイティヴな部分はどこなのか。それを検討したうえで、そこに予算を投じれば、テレビでは味わえない映画体験ができますよね。わたしが考えるに、それはやっぱりスペクタクルの部分。「シンゴジラ」にしても「君の名は。」にしても、観客の多くを惹きつけたのはスペクタクルの魅力です。「恋つづ」でいうなら、それは佐藤健の美しさを引き出すための映像。極限までドリーミーな視覚的快楽にこだわって作れば、それだけで映画館へ足を運ぶ動機づけになるはず。もともと少女コミックの映画化は、主力路線としてのフォーマットになりえるものですし、「恋つづ」はそれを証明する格好の素材だと思います。とくに萌音のようなキャラクターは、少女コミックを映像化する場合の、おそらく、もっとも標準的な「型」なのです。だから成功している。「ぎぼむす」のほうでも、佐藤健の美しさを押し出すことは可能です。銀河鉄道999の鉄郎にみたいに、映画版だけビジュアルをバージョンアップさせることも出来るし、ふだんはヤンキーの麦田を、ある瞬間にだけ王子様キャラに変貌させるような演出をしてもいい。もしくは、午後の紅茶っぽい感じで、萌歌と井之脇海の甘い恋物語のほうにスポットを当ててもいいと思います。
2020.02.14
このドラマは「伏線を回収しないドラマ」なのかも、とひそかに思ってはいた…。なかなか物事が上手くいかないし、ちょっと進んだと思ったらまた戻ってくるし、宣言や約束はちっとも果たされないし、悪いヤツだと思ったら意外に善人だったりするし、すべてが思惑とは違う結果を招きつづけるドラマなのです。◇ふつうに物事が成就するドラマの場合、伏線がきれいに回収されながら話がまとまるのだけど、このドラマは、ほぼ伏線が回収されない(笑)。「一緒に生きよう」と誓ったはずの夫婦。「成功したら穴窯やります」と言ったはずの妻。「平和なうちに穴窯やれよ」と言ったはずの夫。何ひとつ初志は貫徹されず、むしろアベコベになっていく。そういうところが、かえってリアルで面白いのかな、と思ってました。そんななか《炎を信じて》という神話のなかでは、なぜか村上ショージだけが確実に「神」になるという、リアルを超越する宗教的展開だけが際立ったのでした。◇このドラマには、印象的になんども繰り返されるシーンがあります。いろんな登場人物が、いったん去ろうとして、また戻ってくるシーンです。最近では、信作もそうでしたし、草間も、武志もそうでした。いちどは背中を向けて歩き去っていくのですが、途中でなにか思い出したように、スタスタと戻ってきて、主人公にむかって大事なことを言うのですね。そういうシーンが象徴するように、このドラマは、さまざまな意味で、行ったと思ったらまた戻ってくる物語なのだと思います。みんな、なかなか前に進まない。◇一般に離婚のことを「出戻り」と言います。いちどは大阪に出た主人公が、また故郷へ戻ったように、わたしは当初、主人公の離婚のエピソードも、行ったと思ったらまた戻ってくる物語として描かれると予想しました。でも、結果は逆でした。そもそも喜美子の場合は、嫁いだのではなく、八郎を婿に取ったのですから、考えてみたら「出戻った」のは八郎のほうだったのです。ちなみにモデルとされる金場清子さんは、婿養子を拒否して夫の神山の籍に入っています。ドラマは、あえてその設定を逆にしている。喜美子から見れば、むしろ八郎は、行ったまま戻ってこなかったのです。そして、八郎が戻ってこなくなったとき、喜美子はようやく前に進むことができました…。◇離婚に至るまでの展開は、かなり強引な印象をあたえました。「やっぱり不倫のほうが説得力あったよね…」という思いは拭えない(笑)。たしかに、八郎の性格から考えれば、三津がよっぽど淫乱かつ強欲でもないかぎり、けっして不倫には至らなかったのだろうけれど、結局のところ、「なぜ夫婦は離婚するほどすれ違ったのか?」について、視聴者の多くは明確な回答を得られなかったと思います。そもそも売れる保証すらないのに、「いますぐ穴窯」「借金してでも穴窯」「家を焼いてでも穴窯」という喜美子の頑固さはちょっと解せなかったし、かたや、登場人物がみんな喜美子に協力しはじめたのに、ひとりだけ別居をつづけた八郎の頑固さもちょっと解せなかった。むやみに同じ屋根の下で衝突しないように、一時的に別居しただけなのかもしれないけど、それがなし崩し的な離婚に至るんじゃあ、元も子もないわけで。◇ただ、ひとつ言えることは、この離婚において、喜美子は「被害者」じゃなかったってことです。かりに不倫なら、八郎や三津にこそ罪があれ、喜美子は「被害者」ってことになるけれど、この脚本では、喜美子にはほとんど被害性が見当たりません。たしかに、三津とのことや、女性差別の問題や、芸術面でのすれ違いや、八郎の京都への移転など、なし崩しに色々なことが積み重なったとはいえ、結局、八郎を捨てたのは、喜美子自身の選択だったともいえます。その意味では「花子とアン」の蓮子に近い。大きなものを得るために、大事なものを失うという生き方。そのすべての責任を、自分で背負わなければいけない生き方。ヒロインに「罪」を背負わせたところが、この朝ドラの大きな特徴です。それを描いたところに、この朝ドラの新しさがある気がする。◇このドラマは、前に進むことを、かならずしも肯定的には描いていません。前に進むことは「戻れなくなること」であり、何かを得ることは「大事なものを失うこと」です。もっとえいば「何らかの罪を背負うこと」でもあるかもしれない。陶芸家として成功を得てから後の喜美子の姿は、おどろくほど寂しいものになっています。成功して、夢も叶って、経済的な不安も無くなったのに、気づいたら、夫もいない。息子もいない。父も母もいない。喜美子は、多くの時間を一人ぼっちで過ごしています。肯定的な描き方ではないけれど、ものすごくリアルです。◇まだ一ヶ月以上ありますが、このドラマの結末は、いったいどうなるのでしょうか?アシガールみたいに、若いときの三津がタイムスリップして武志に出会ってほしいけど、神山清子さんは長男を亡くしている。モデルの女性は存命していますし、はたしてどの瞬間を物語の終着点にするのか、とても興味深いです。
2020.02.13
うん。わりと今回のエピソードは好き。やっぱり仕事で認められるのは嬉しいよね。異性として愛されるよりも、かえってリアリティがある。山本耕史の「心に線はひけない」という台詞にも唸らされた。たしかにね~。ある意味、このドラマの最大のテーマを言い表してました。佐藤健のお約束展開も、なかなか笑えて楽しめた。河野伸の甘い音楽がうまくコミカルに機能しています。Mステのヒゲダン生歌パフォーマンスの勢いもあったことだし、今週は日本中の天堂担が焼きたてのチョココロネでお疲れパンでしょう。…ただ、あいかわらず、勇者コスプレは中途半端で蛇足感が強いけど!あそこだけは是非とも改善していただきたい!どうせやるなら、河野伸の「勇者のテーマ(?)」にのせて、コスプレ萌音がまたがった白馬に大草原を走らせてほしいのです。
2020.02.12
「シロでもクロでもない世界でパンダは笑う」第5話。今回は「つなぎの内容かなァ」と思ってたら、後半になって、どんどん事態が動き、結果、2人の人間が殺されるという、今までにない凄惨な展開。あらたな謎がまた増えてしまいました。流星と菜名の格闘シーンも、ますますスゴかった!◇佐藤二郎の秘書の男(=きづき)は、彼の息子であり、白石聖の兄であることが分かりました。そして、彼こそがコアラ男である可能性が高まりました。兄妹はレストランで写真メールのことを相談しています。彼らが問題にしていたのは、「コアラ男からメールが来たこと」ではなく「流星と菜名が抱き合っていたこと」でした。妹の白石聖は「許せない」と言い、兄のきづきは「俺が何とかしてやるよ」と答えています。どうやら、この兄妹にとって、コアラ男は畏れるべき存在ではないのですね。兄自身がコアラ男なのだとすれば納得できます。彼らの父である佐藤二郎も、流星からコアラ男のことを問われたとき、「調子に乗るな」などと言って突き返しています。コアラ男の誘拐事件とは、選挙で世間の同情票を集めて勝つための、佐島ファミリーによる自作自演だったのかもしれません。だとすれば、佐藤二郎は文字どおり「ノーコンプライアンスな男」なのです。流星の父(=田中圭)は、その真相を追って殺されたのかもしれません。流星は、父の仇を討とうとしている。ジャーナリストの要潤も、流星のそのような立場を把握したようです。◇流星にとって、佐島ファミリーは宿敵なのでしょうか?佐藤二郎は、流星が田中圭の息子であるのを知っているはずです。それを承知のうえで彼を利用しているのでしょうか?兄妹(=白石聖ときづき)も、流星の出自を把握しているのでしょうか?今後、流星と要潤が手を組んで、佐島ファミリーの悪事を暴いていくのだとしたら、彼らは白石聖とも敵対することになるかもしれません。◇◎川田家 …山口紗弥加、清野菜名◎森島家 …田中圭、横浜流星◎佐島家 …佐藤二郎、きづき、白石聖双子のうちの片方を育児放棄するというのは、いかにも「パンダ的」な行為です。そう考えると、川田家がもっとも「パンダ的」に思えます。しかし、山口紗弥加が抱いているのはパンダではなく、ウサギのぬいぐるみです。パンダのぬいぐるみは、むしろ田中圭から横浜流星へと受け継がれています。そう考えると…◎川田家 …ウサギ◎森島家 …パンダ◎佐島家 …コアラという図式が見えてくる。ほんとうに白黒つけたがっているのは、やはり森島家の人間なのでしょうね。とはいえ、状況はますますグレーになっています。流星は、ミスパンダにむかって、「君は単純でいいね…」などと呟くようになっています。シロクロの背後には、巨大なグレーの領域が広がっているのです。◇もっとも怪しい存在だった精神科医の山崎樹範は、誰かに携帯で「待ってるよ」と話した直後、殺されてしまいました。今後、彼が隠していた川田家の資料などが明るみになり、レンとリコの記憶の入れ替えの事実や、放火事件の真相なども世間に知られていくでしょうか?そもそも山口紗弥加はなぜ入院してるのでしょうか?なぜ娘と自由に会えないのでしょうか?◇今回、新しい登場人物が加わりました。ハブとマングース爆破事件の被害者遺族いずれも男女のコンビです。おそらく、どちらかが「偽パンダと偽飼育員」だと思われます。ハブとマングースは現役警察官、被害者遺族は空手の有段者です。惨殺された死刑囚は、「あのとき俺は…」と言いかけたまま殺されましたが、彼は、ほんとうに爆破事件の犯人だったのでしょうか?ちなみに流星は、今回の格闘のなかで、警察にも顔が割れてしまったはずです。
2020.02.10
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