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それでは、スキル一覧表についての続きです。◇スキル一覧表には、いわゆるライフスキルではない技術や能力、またドミトリーの家事には直接関係ないものを、記載したって構いません。たとえば、「パソコンの表計算ができる」「英語の翻訳ができる」「ミシンの操作ができる」「子供に算数を教えられる」など。ありとあらゆる能力を記載していいと思います。それを見て、居住者は、個人的に仕事を依頼してもいいし、あるいは、そうした技術を教えてもらってもいい。そして、その場合も、ポイントで対価を支払えばいいわけです。◇何度か書いてきたように、ライフ・スキルの伝達と共有は、かつてなら、家族や地域の共同体の中で行なわれてきたことですが、そうした共同体の中でも、ライフ・スキルばかりにとどまらず、ときには、きわめて特種で高度な技術や知識などが、受け継がれていたのではないか、と思われます。しかし、そのような共同体の機能は弱まっています。現在では、さまざまな技能や知恵が、ハウツー本やカルチャーセンターで売り買いされたり、著作権や特許などで法的に保護されたりしています。つまり、あらゆるものが市場経済の中に呑み込まれています。けれど、市場経済からはこぼれ落ちてしまうもの、市井の人のなかで無駄に消えていってしまうスキルもある。あるいは、生活を共にすることでしか受け継がれないスキルもある。すごくもったいないことです。そういったものを、ドミトリーの中で自由に伝達していければいいと思います。◇従来、ライフ・スキルをはじめとする人間としての素養を、家庭や地域においてあらかじめ身につけておくことは、社会に出る上での常識であり、前提でした。実際、職場で教わる「マニュアル」以前に、共同体で身につけておくべき基礎的なスキルがなければ、ビジネスなどでも対応できないことのほうが多い。しかし、そうした前提が崩れ始めているのが現状です。学校教育の中だけで生活スキルのすべてを養うのは無理がある。やはり、家庭や地域の中でのコミュニケーションの中でこそ、それらは自ずと養われていたのだと思います。市場経済の拡大と浸透によって、そうしたコミュニケーションの領域は解体されていきました。その結果、資本主義社会のバランスが崩れてしまってる。◇やや大げさな話になりますが、資本主義社会というものは、市場経済だけで成り立っているのではありません。太陽の恵みがあり、地球の生態系があり、共同体があり、そこで人間の再生産がある。人間の、身体性と精神性が、そこで再生産されている。そこは、いまだ資本化されていない領域です。いわば“贈与”のみで成り立っているような世界です。しかし、その土台がなければ、資本主義社会などというのは、そもそも成り立たないのです。もちろん、部分的になら、水やら空気やらを市場で売買することもできるだろうし、科学の力で人間を再生産することだってできるかもしれない。しかし、それには必ず限界がある。健全な地球の生態系を守り、人間の再生産の場である共同体を再建することは、じつは資本主義の市場経済を維持していくために不可欠です。それらが崩壊すれば、資本主義自体が危機に陥る。両者は補完関係にあるといってもいい。(つづく)
2008.06.10
今日は番外編。キレた若者が、無差別に大勢を殺傷した。この手の事件で最大の要因と考えるべきものは、まず「個人の資質」、つまり性格的な問題です。同じような境遇や環境、社会的背景があったとしても、すべての人がこんなことをやらかすわけじゃありません。しかし、同時に、こういう資質をもった人間は、一定の割合で存在する。そして同じような資質をもっていても、全員がこんなことをやらかすわけじゃないのも事実。そこに何か「引き金」になる因子が加わるかどうかで、こういう結果をもたらすかどうかの分かれ目になる。今回の事件において、派遣労働、ワーキングプア、格差社会、勝ち組負け組といった価値観などの社会的背景や、家庭の崩壊、コミュニケーションの欠如といった問題が、何がしかの因子のとして作用しているかどうか、また、これを一つのテロと見なすべきなのかどうか、これはまだ分からない。仮にそうだったとすれば、特定の資質をもった人間が、一定の割合で社会に存在する、ということを前提にして、そういう人間が暴発しないようなセイフティネットを築くことも、一面では非常に重要な課題です。これは、ただ「防犯」ということだけではなく、こうした資質の人間を追い詰めないような逃げ場を、社会的に用意しておく知恵も必要だということ。社会が本当に洗練されたものになるかどうかは、実はそういうところにかかっているのであって、さもなければ、極度に高コストな「防犯社会」になるしかない。イスラエルやアメリカは、そういう方向に進んでいるけれど、あれが「洗練された社会」だとはいえません。むしろあれは、知恵や洗練や寛容を欠いた社会の、ひとつの顛末ともいえる。そうした視点も踏まえて、ライフスタイルを大きく覆していく方法を考えています。(つづく)
2008.06.09
4.スキル一覧表わたしは、ドミトリー全体の「スキル一覧表」を作ることを想定しています。これを見れば、そのドミトリーの中にどんなライフスキルがあるか、そして居住者個々人がどのスキルを身につけているか、ぜんぶ一目で分かる。同時にこれは、個人にとって「スキルアップ」の目標を与える目安にもなる。◇スキル一覧表は、縦軸に居住者の名前が、横軸にスキルの種類が並びます。ドミトリーの居住者数が多いほど縦に長く、ドミトリーのスキルの種類が多いほど横に長くなります。つまり、この一覧表が大きければ大きいほど、そのドミトリーが豊かであるということの指標にもなる。スキルはどんどん増えていきます。たとえば、料理のメニューやバリエーションが増えるたびに、「ブリのネギ照りマヨ焼きが作れる」とか、「蓮根と赤玉葱のバルサミコソース和えが作れる」などといった項目が、無限に増えていくことなります。マニュアルも膨大な量になりますが、スキル一覧表もまた膨大な大きさになってしまいます。やはり、これもパソコンで管理することになると思います。また、表のスキルの項目は、なるべく細かいほうがいい。たんに「料理ができる」などといった大雑把な項目でなく、「ご飯が炊ける」「お味噌汁が作れる」「野菜が切れる」などのように、なるべく細かく分けたほうがいい。そうしないと、出来る人と出来ない人の溝が、なかなか埋まらないからです。まずはご飯が炊けるようになってもらう。その次に、お味噌汁にも挑戦してもらう。そうやって、少しずつスキルを増やしてもらえばいい。スキルは段階的に表示してもいいと思います。たとえば、いちどマニュアルどおりに仕事をした人は、○印。何回かやって1人でできるようになったら、◎印。そして他の人にも教えられるレベルの人は、☆印。空欄の人は、いちどもやったことのない人です。基本的には◎以上の人に仕事を担当してもらいます。○印の人は、まだスキルが完全に身についていないので、慣れるまでは◎印以上の人と一緒に仕事をしてもらいます。スキルを身につけたい人は、☆印の人に教えてもらう。◎印以上のスキルを増やすことが、居住者の共通の目標です。スタッフメンバーは、居住者の適性に配慮しながら、なるべく多くの人がスキルを増やすように促していきます。◇ドミトリーの中であるとはいえ、スキルをもっているかどうかを公開することは、ある意味、プライバシーを明かすことでもあります。もちろん秘密にしたければ秘密にしてもいいのですが、そのスキルをもっていることを公開しなければ、ドミトリーで、その家事を担当する資格も与えられません。そして家事をこなさなければ、ポイントを稼ぐこともできません。なるべく多くのスキルをもっているほうが有利です。そのほうが、仕事の選択の幅も広がるし、家事をおこなう時間も自由に選べるようになる。ポイントを獲得する機会も、それだけ増えるわけです。「スキル一覧表」の話は、もうすこし続きます。(つづく)
2008.06.08
3.家事のフレックスタイム制ドミトリーの中の仕事(家事)を居住者自身が分担でおこなう。それが家事のワークシェアです。けれど、生活時間の異なる人たちが住むようなドミトリーでは、当番を決めて全員が分担するというのも、ちょっと難しいですね。中には、外での仕事が忙しくて、体力的にも、時間的にも、ドミトリーの家事を担当する余裕のない人もいるかもしれない。ドミトリーの家事といっても色々あります。掃除ぐらいならともかく、食事の仕度とか、子供の世話とかいった難しい仕事は、だれにでも出来るというものではありません。だとすれば、なおさら当番制でやっていくのは難しいでしょう。わたしの考えているドミトリーでは、家事の基本的なやり方(マニュアル)がきちんと決まっています。逆にいうと、マニュアルを覚えて、きちんとスキルを身につけた人でなければ、それを担当してもらうことはできません。したがって、人によって、できる時間はもちろん、できる仕事も限られる。まったくできない人もいるかもしれません。体の弱い老人や、小さい子供を含むようなドミトリーであれば、なおのことです。だから、仕事のできる人が、できる時間を選んでおこなう。これが「家事のフレックスタイム制」です。◇ドミトリーの仕事を時系列で示した「求人表」を張り出します。居住者は、その中から、自分にできる時間・内容の仕事を選んでもらいます。それぞれ「定員」もありますので、空きの部分からどんどん埋めていってもらう。また、仕事の内容や時間によって、与えられるドミトリーポイントの数値も異なります。つまり、報酬が異なるってことです。したがって、居住者は、自分に必要なポイントの数値に達するよう調整しながら、自分の担当する仕事を選んでいきます。「フレックスタイム」とは言ってますが、実際は、時間だけでなく、仕事の種類も選ぶわけですから、むしろ「ハローワーク」のような感じですね。ともかく、こうすることで、ドミトリーの居住者は、自分の生活時間を比較的自由に設計できるようになる。うまく余暇をつくることもできるし、余った時間を外でのパート労働などに充てることもできます。ドミトリーの仕事をどのくらいやるかは、人それぞれです。たくさんできる人には、たくさんやってもらう。少ししかできない人は、それで構いません。中には、まったく家事をしない人もいるかもしれません。しかし、地域通貨(ドミトリーポイント)があれば、そうした不公平も、あとで清算することができます。時間によって、また内容によっては、なかなか担当者の埋まらない仕事もあるかもしれません。そうした場合も、やはり大規模なドミトリーのほうが有利です。人数がたくさんいれば、分担もそのぶんスムーズです。どうしても埋まらない部分は、専属のスタッフメンバーが調整していきます。スキル一覧表(後述)を見て、スキルをもっている人の中から、担当できそうな人を探して直接お願いしていく。同時に、まだスキルをもっていない人にも、その人の適性を見ながら、なるべく色んなスキルを身につけるように促していきます。(つづく)
2008.06.07
2.家事マニュアルドミトリーの中で家事のワークシェアをやるために、つぎに必要だと思っているのが「家事マニュアル」です。たとえば、居住者が交替でトイレ掃除をすることがあるでしょう。しかし、実際に掃除をしてみると、とても丁寧に掃除をする人もいれば、きわめて大雑把に、好い加減にしか掃除しない人もいる。そういう不公平が生じる可能性がある。料理の場合はどうでしょう。たとえば、同じ「肉じゃが」を作る場合でも、とても上手に作る人もいれば、そうでない人もいるでしょう。そうした不均一というのは、避けられないと思う。だから、トイレの掃除のやり方にしても、肉じゃがの作り方にしても、まずは、とりあえず標準的な「マニュアル」を定めます。そのマニュアルを覚えて、マニュアル通りにやってもらう。そうやって、ドミトリーにおける家事の能力、いわばライフスキルを、居住者の人たちに身につけてもらいます。◇世間では、しばしば、「マニュアル人間」が馬鹿にされる。マニュアル通りにしかできない人間は、底が浅いと言われる。けれど、わたしが思うに、人間というのは、多かれ少なかれ、かつてどこかで身に付けた習慣やスキルでなければ、それを実践することも応用することもできないのであって、まったく初めての事態に対して、つねに的確な対応のできる人など、この世に存在しないと思う。大事なのは、家庭で、あるいは職場で、つまり、生活の場や、あるいは社会の中で、様々なマニュアルを積み重ねて身につけていくこと、そして、マニュアル自体に不備や欠陥があれば、それを絶えず書き換えて行くことが大事なんだと思う。◇居住者は、いちどはマニュアルを覚えなければなりませんが、実際の仕事をマニュアル通りにやらなきゃいけないわけではない。さまざまなアレンジ、違う方法でやってみるのは、自由です。そして、もっとおいしい「ご飯の炊き方」とか、もっと上手で効率的な「トイレの掃除の仕方」など、もしマニュアル以上に良い方法があるのなら、そのつど、マニュアルのほうを書き換えていくべきです。家事の動作を、一つ一つマニュアル化していく作業は、自分たちの身体的なスキルを客観的に見直す作業でもある。マニュアル化する中で、はじめて欠点や改善点が見えてくることもあると思う。そうやってスキルが磨かれていくほどに、ドミトリーの生活は、より豊かで快適なものになります。食べ物はよりおいしくなるし、生活環境はより過ごしやすく清潔になる。創意工夫が蓄積されていくことで、生活の利便性が高まる。それはいわば、昔の「お婆ちゃんの知恵袋」のような、ドミトリーにとっての財産になる。◇ドミトリーの家事スキルを逐一マニュアル化するのは大変です。しかも、それは膨大な量になります。それでも、基本的なスキルだけでもマニュアル化すべきです。そうすることで、全員がスキルを共有しやすくなる。また、人には、《見よう見まねでスキルを体得できてしまうタイプ》と、《言葉や理屈で教えてもらわないと呑み込めないタイプ》がある。とくに後者のタイプの人にとっては、マニュアルは有効です。逆に、スキルを教える側の人にだって、他人に教えるのが上手な人と、不得意な人がいるわけですから、やっぱりマニュアルがあるほうが心強いと思う。家事マニュアルは、マニュアル・ブックやマニュアル・ファイルのような文書の形でも、あるいはマニュアル・ビデオのような映像の形で作ってもいい。作ったマニュアルはパソコンで保管してもいいかもしれません。(つづく)
2008.06.05
ドミトリーにおける「家事のワークシェア」をおこなうために、わたしが必要だと考えている仕組みが4つあります。1.地域通貨(ドミトリーポイント)2.家事マニュアル3.家事のフレックスタイム制4.スキル一覧表これから順次述べていきますが、今日は地域通貨の話です。◇1.地域通貨(ドミトリーポイント)わたしは、ドミトリーの中で地域通貨を使うことを想定しています。といっても、それほど面倒な仕組みは必要ありません。ドミトリーのメンバーは、家賃、光熱費、食材費、また設備の使用費などを含め、すべて、基本的には現金で支払います。各メンバーがドミトリーに対して支払った現金は、いったん地域通貨に換算されて、各自に戻ってきます。この地域通貨を、仮に「ドミトリーポイント」と名づけます。ちょうど電気屋さんで買い物するとポイントが貯まるように、ドミトリーに支払った金額は、すべてドミトリーポイントとなって各自に加算されます。さて、ドミトリーの居住者たちは、家事をワークシェアしています。ドミトリーの中の家事その他のさまざまな仕事は、メンバー自身が、自分たちで分担しておこなっています。食事も自分たちで作るし、掃除も、洗濯もする。この家事労働の対価も、ドミトリーポイントで支払われます。けれど、中には、忙しくてドミトリーの仕事をこなせない人もいるでしょう。お年寄りなどの場合は、なかなか若い人のようには働けないかもしれません。子供が含まれるとすれば、子供だって、大人と同じように働くことはできない。そうした人たちは、あまりポイントを稼げません。逆に、時間的に余裕があって、ドミトリーのなかでたくさんの家事をこなせる人もいる。あるいは家事の能力が高い人などがいると、特定の仕事は、その人に任せっきりになるかもしれない。働けば働いたぶんだけ、ポイントは貯まっていきますので、家事労働の多い人は、ポイントも多く獲得できます。ドミトリーに居住し続けるためには、一定期間内に、各自必要なポイントを蓄積する必要がありますが、家事労働に従事してポイントを獲得すれば、結果的に、その分だけ現金の支払いが免除されることになる。基本的には、メンバーの全員が家事労働を少しずつシェアする前提です。したがって、全員がある程度の免除を受ける前提になっています。しかしながら、仕事の忙しい人や、子供や、一部の老人など、ドミトリーの中の家事労働がなかなかできない人は、必要なポイントを、現金の支払いによって得るしかありません。まったく家事に従事できないメンバーは、必要なポイント分の全額を、現金で支払うしかありません。逆に、一日のほとんどを家事労働に費やすようなメンバーは、必要なポイントの大部分を、現金の支払いなしで獲得できてしまうかもしれません。ちなみに、家事労働の全部を居住者自身ではおこなえない場合、外部から人を雇うことになるかもしれません。そうした費用は居住者全員で平等に負担しなければなりません。◇ドミトリーには、あらかじめ決められた作業(家事)があります。たとえば買物、炊事、洗濯、掃除など、生活に必須の仕事です。基本的には、こうした仕事を分担して、各自がポイントを稼ぎます。けれど、それ以外のことでポイントを稼いでもかまいません。たとえば、メンバーの中にパソコンの得意な人がいたとして、その人に、ぜひ手伝ってほしい仕事が個人的にあるとします。その場合、その人に対して自分のポイントを支払えば、個人的に依頼して自分の仕事を手伝ってもらうこともできる。つまり、メンバーどうしでポイントを直接に交換してもかまわない。それによってポイントを稼ぐ人もいれば、失う人もいる。多くポイントを稼げば、そのぶん現金の支払いが免除され、逆にポイントを失って必要なポイント数に満たなくなれば、そのぶんを現金の支払いで補うしかありません。以上が、地域通貨(ドミトリーポイント)のおおまかなの概要です。(つづく)
2008.06.04
☆今日からは、「ライフ・スキルの伝達と共有」を話題にしていきます。その前提になるのが、ドミトリーにおける家事のワークシェアです。ドミトリーは、外形的に見れば、宿泊施設と似ている。個室のあるドミトリーは、ビジネスホテルみたいなものかもしれないし、個室のないドミトリーは、いわばカプセルホテルみたいなものかもしれない。ドミトリーが宿泊施設と異なるのは、食事や掃除など、生活上の仕事を自分たちで行なうことです。したがって、そうした面での人件費は含まれません。ホテルに泊まるのとは違い、そうしたコストはかからない。のみならず、ドミトリーでは、そのような仕事(つまり家事)を、居住者が共同で、あるいは分担して行なうことができる。その場合のドミトリーは、ハウスシェアだけでなく、ワークシェアという側面ももちます。家事のワークシェアを実践しているドミトリーは、現実には、あまり多くないかもしれません。ですが、ドミトリーがワークシェアを取り入れることは有効です。すべての家事を単独でおこなうのと違い、家事を分担すれば、時間的なコストも、労力上の負担も減る。その日の担当者が、すべての場所をいっぺんに掃除してしまったほうが、また、全員の食事をいっぺんに作ってしまうほうが、あるいは、全員の洗濯物をいっきに洗ってしまうほうが、時間的にも労働的にも無駄がなく、一人あたりの労力も少ない。同時に、居住者どうしが生活のスキルを共有しあうことによって、全体の生活の質を高めることができます。これまでに書いてきたとおり、ドミトリーでは、空間や設備やモノを共有することで、それらにかかるコストを抑えることができるわけですが、それにくわえて、上記のような「家事のワークシェア」をおこなえば、人件費をかけずに、個人にかかる家事負担を減らし、時間的な自由をも、より多く得ることができるわけです。たくさんの人が居住するドミトリーであればあるほど、家事の分担は、よりフレキシブルに調整することができる。つまり、個々人の時間設計を、より自由に行なうことができます。そして、地域通貨のような媒体を使えば、各人の家事労働の負担を、不公平のない形で交換し合うことができます。(つづく)
2008.06.03
今日はふたつ同時にアップしています。◇ルームシェアやシェアハウスなど、現実に存在している住空間のシェアの多くは、だいたいが少人数のグループでおこなわれています。あまり人数が多いと、収拾がつかないのかもしれません。しかしながら、少人数で住空間をシェアするのには、難しさもある。より関係が密になるし、そのぶんだけ、お互いの習慣、嗜好、個性などの違いが際立つからです。それらを客観的な立場で調整するのは難しいけれど、それでも、自分たち自身で問題を解決するしかない。個人差はあるけれど、一般的にいって、わたしは、多数でシェアするほうが、かえって楽だと思います。そのほうが、個々人の違いが鮮明になることも少ない。個々の関係が相対的に希薄になる分、齟齬も中和される。そのほうが、かえって人間関係が柔らかいだろうと思います。ただし、生活上のガイドラインやルールについては、あらかじめ、きちんと定めておかなきゃいけない。そうでないと、ただの有象無象の集合になり、収拾がつかない。いくら相対的な関係が希薄になるといっても、個々人の顔が見えなくなって、みんな無責任になるのも困る。ルールは細かくきちんと定められているほうがいいし、それを徹底させるために、指導する人がいるほうがいい。ドミトリーを円滑に運営するために、数人の専属スタッフが一緒に居住するのが望ましいと思います。そのためにも、それなりに規模の大きなドミトリーがいい。もしかしたら年配の人などは、ルールが細かすぎるのは煩わしくて窮屈かもしれないけど、逆に、若い人にとっては、それが自律的に生活するキッカケにもなるし、かえって安心なんじゃないかと思う。客観的なルールがあって、それを管理してくれる人がいれば、住人どうしに起きた問題を自分たちで解決する面倒臭さもありません。ところで、こうしたドミトリーには、低コストな生活だけを求めてやってくる人、その設備やサービスに依存しようとする人が集まるかもしれません。しかし、たんなる「利用者意識」だけで集まる人たちの生活は、ややもすると、無責任で、怠惰で、不潔な、言ってみりゃ「貧民の巣窟」みたいにもなりかねない。それを考えると、例えばですが、「エコロジー」などといった、ある共通の意識をもった人たちが集まった場合のほうが、ドミトリーの運営はしやすいだろうと思います。また、前にも書きましたが、ドミトリーで個室などの占有スペースを設ける場合、問題なのは、コスト面だけでなく、使用する本人に管理が任せられることで、かえって衛生面などが不行き届きになりかねないことです。占有スペースといえど、いずれ使用者は入れ替わります。使用者が入れ替わるたびに、ドミトリーの設備が汚れたり傷んだりしていくようでは、長く維持しつづけていくことはできません。設備が汚なかったりすると、ますます扱い方が粗暴になるので、ドミトリーの環境は、相乗的に悪化していってしまいます。かりに個室などの占有領域を多くするにしても、施設の維持管理がきちんと行き届くように、空間の設計や管理のあり方を工夫しなければいけません。どうしても汚れたり、傷んだりしやすい箇所については、使用者が変わったときに、そこだけすぐ交換できるよう、簡易な設計にしておくべきかもしれません。(つづく)
2008.06.02
今日はふたつ同時にアップします。ここまで、いろいろと「共有」(共用)のあり方について書いてきました。繰り返しますが、わたしが考えているのは理論上のドミトリーにすぎません。ここで、ルームシェアの現実について紹介しているサイトがあるので、紹介します。かなり参考になります。フラットシェアリング in Tokyo - ルームシェアのやり方さて、上のサイトの中では、「フィクションの中のルームシェア」のことも紹介されています。映画などに登場するルームシェアの例です。わたしもここで、ドミトリーに関連するような、映画やドラマの例をいくつか挙げてみます。まずは、オダジョー主演の映画『メゾン・ド・ヒミコ』です。これは老人ホームですけど、高級ドミトリーと考えることもできる。みんな引退した人たちばかりなので、職業をもつ人などはいません。みんな気ままに楽しく、しかもかなり贅沢に暮らしています。そこが人生を終える場所でもあります。じつは経営をパトロンに頼っている実情も明かされます。それから、NHKのよるドラ『ルームシェアの女』。子連れのシングルマザーが男性とルームシェアをする話。「10か条」のようなルールを一方的に定めたりして、しょっちゅう喧嘩のたえないルームシェアでした。そして、今放送中の『ラストフレンズ』。5人の男女が楽しく暮らしているシェアハウスですが、親しい間柄だけに、亀裂が入ると深刻な状況を生みます。『ルームシェアの女』と『ラストフレンズ』では、食材費などは別々になっているようで、冷蔵庫の中身が、きっちりと仕切られていました。今のNHKの朝ドラ『瞳』は、東京下町の長屋の生活が舞台になっていますが、濃厚な地域の人間関係がまだ残っている様子が描かれます。同時に、里親制度がテーマのこのドラマでは、児童養護施設の寮も紹介されています。子供たち8名ずつの集団生活で、二人部屋だそうです。また、これはドミトリーでもルームシェアでもないのですが、阿部ちゃんの『結婚できない男』。そして、いま放送中の『猟奇的な彼女』。この両方に共通してるのは、マンションで隣どうしの男女です。マンションという個の空間が、ベランダにおいて開かれていて、しばしば、隣人どうしがベランダごしに話すシーンがあります。いわば、昔の「縁側」みたいな感じです。こうした場所が、人間の関係を描く上で、格好の舞台になっているわけですね。。逆に、このような場所を上手く設定しないと、現代のような社会では、人間関係を描くのも困難なのだと思います。ドミトリーの場合も、個人と個人のあいだを、仕切るでもなく、また繋ぐのでもない、あいまいな空間を上手に活用できれば面白いだろうと思います。(つづく)
2008.06.02
3.時間の共有と占有ここまで、「空間」の共有、また「モノ」の共有について考えてきました。「空間」と「モノ」にかんしては、できるかぎり共有をはかることがメリットにつながると思います。残るは、「時間」の共有です。時間の共有は、もっとも困難です。なぜなら、個々人の自由がもっとも制限されるのは、空間やモノの共有によってではなく、おそらく時間の共有によって、だろうから。既存の寮などでは、起床時間、食事の時間、帰宅時間(門限)、就寝時間などが、きっちり決められているところもあるでしょう。つまり、これらの時間を「共有」することが求められている。でも、これがいちばんキツイと思う。既存の寮の場合は運営上の都合もあるのでしょうし、学生寮や社員寮なら、居住者の生活時間がおよそ同じだから、時間の共有というのも可能なんだろうけれど、職業や生活スタイルの違う人が、同じ時間を共有するのは無理です。一般に、自由を欲する個人にとって、もっとも障害となるのが、このような「時間の共有」ではないか、とわたしは思います。したがって、わたしの考えるドミトリーでは、時間の共有はほぼありえません。時間は個人が占有すべきです。つまり、時間の使い方は、個人の自由であるべきです。現在では、家族生活においてさえ、起床時間や食事の時間を共有しているとは限りません。たとえ食材を共有する生活であっても、個々の食事の時間を別々にするのは、不可能じゃない。この点では、大規模なドミトリーは、より有利です。食堂の担当者がつねに交代で仕事をすれば、メンバーが好きな時間に食事をすることができます。むしろ食事の時間が違うほうが、空間的なメリットも大きい。トイレや浴室にかんしてもそうですが、個々の使用時間が異なるほうが、かえって混雑が少ないわけです。それぞれの生活スタイルが異なれば、起床時間や就寝時間もぜんぜん違ってきます。昼に騒がしく活動する人も、夜にゴソゴソと作業する人もいる。昼に寝る人もいるし、夜に寝る人もいる。互いの生活を妨害することのないように、それぞれの空間をうまく分けないといけないでしょう。こうした意味でも、規模の大きいドミトリーのほうが有利です。時間を共有しないドミトリーでは、同じ時間帯に、それぞれの居住者が別々のことをしています。たとえば、同じ時間にテレビを見るとしても、ある人はNHKを、別の人はフジを見るってことでもある。こうしたことにも配慮した設備・設計でなきゃいけません。それから、わたしの考えているドミトリーでは、ドミトリー内の業務(家事)を行なうのは、メンバー自身です。あとでくわしく書きますが、ドミトリー内の業務をいわゆる「フレックスタイム」にすれば、メンバーは、そこでも自分の生活時間を自由に設計できます。(つづく)
2008.06.01
ここでドミトリーの衛生問題についても触れておきます。空間やモノを共有する生活において、この問題は避けて通れません。たくさんの人が生活する空間では、ウイルスや菌の感染に注意しなくてはなりません。人は、見た目の汚さや他人との接触など、「観念的な衛生」に対しては敏感ですが、目に見えないミクロな部分など、「細菌学的な衛生」に対しては、つい無頓着になりがちです。とくにインフルエンザの時期などには、手洗い、うがいはもちろんのこと、全員にマスクを着用させたほうがいいのかもしれません。ドミトリーの空間が、あまりに人口密度を高くするような設計でもいけません。ドミトリーの人数の設定や、建築をおこなう段階から、このことは考慮しておかなければなりません。集団感染になるようでは、話になりません。お年寄りがいる場合には、いっそうの注意が必要です。死につながる危険もありますから。お年寄りの生活空間については特別の配慮が必要かもしれません。梅雨の時期や夏場は、食中毒にも気をつけねばなりません。感染症の流行している期間は、パーティーなどのイベントも控えるべきでしょう。また、罹患した人は、治るまで特定の場所にいてもらうなど、可能なかぎりのリスク回避をはかるべきかもしれません。(つづく)
2008.05.31
「モノ」の共有についてあれこれ取り上げましたが、最後は、食材の共有について考えます。現実のルームシェアなどでは、食材を共有しているケースは少ないかもしれません。食材を共有するということは、必然的に、みんなが同じメニューを食べる、という前提です。おのおの好きなものを食べる、という生活にはならない。また、料理の問題もあります。みんなが料理上手ならいいけれど、そうとはかぎらない。結果的には、特定の人ばかりが「料理担当者」になりかねない。そんなわけで、少人数のドミトリーの場合、食材の共有は意外と困難なのでしょう。逆に、人数の多いドミトリーを想定すると、かえって食材は共有のほうがいいと思う。もちろん食材費のコスト削減にもなるし、食材を残さず使い切ることも、やりやすくなる。キッチンの共用という点からいっても、まとめて作ったほうがいい。ひとつのキッチンを大勢の人間が交替で使うのは無理があります。調理道具はもちろん、調味料などにかんしても、むしろ共有して使うのが自然であって、個々人ごとに分けていたら、かなり面倒臭いし無駄も多い。わたしは、ドミトリーの中での業務をみんなで分担しあい、それを地域通貨などの媒体で交換する、と想定しています。そのかぎりでなら、料理のできる何人かの同じメンバーが、つねにキッチンを任せられがちになったとしても、とくに不公平ということにはなりません。食材費を共有すれば、みんなが同じメニューを食べなければなりませんが、おいしい食事ならば不満は少ないだろうし、かえって、個々人で毎日の献立を考える手間も省けます。健康的にみても、共通のメニューをみんなで食べるほうが、バランスが崩れにくいと思う。ただし、全員分をいっぺんに料理するのですから、外食で済ませたい人には、事前に知らせてもらわなければなりません。食事にかんしては、「時間」の共有という問題もあります。これについては後で述べます。(つづく)
2008.05.30
今日はテレビやパソコンの共有(共用)について考えます。「一人でゆっくりとテレビが見たい」という人、つまり、テレビを見る「空間」を占有したいと考える人は、自分だけの個室が必要になると思いますが、「モノ」としてのテレビの共有には、ほとんど抵抗はないと思います。大規模なドミトリーであれば、数人がゆったりと座って見れるような大きさのテレビブースを、ドミトリーの中にいくつか配置して、それぞれのブースで、それぞれのチャンネルを楽しめばいい。パソコンは共用できるでしょうか。パソコンの設定を自分の好きなように変えたり、本体に自分のファイルをいっぱいため込んだり、パソコンの中が自分だけの世界になってしまってる人は、他人と共用するのは難しいのかもしれません。でも、そうでなければ、たいていは大丈夫だろうと思います。ファイルだって、本体の外に保管すればいいわけですから。しかし、わたし自身は、というと、ちょっとパソコンの共用には抵抗があります。それは、設定とかファイルとかの問題じゃありません。本体やディスプレイの共用には問題はありません。むしろ、抵抗があるのは、マウスとキーボードです。触るのが、ちょっと嫌。以下、余談になりますが。世の中には「電車の吊革にも触れない」という人がいます。そういう人は、一般に“潔癖”と呼ばれるかもしれません。わたし自身は、自分が潔癖症だとは思わないんだけど、でも、そういう人の感覚が、すこしは分かる気がする。マウスやキーボードの表面が、もし木製コーティングで出来ていたなら、なんの問題もないと思うのですが、プラスチックというのは、一種異様な感触があります。プラスチックは、湿度も温度も吸収しない。自分もふくめ、色んな人が触ると、だんだん油が浮いてきます。ネットカフェあたりのキーボードやマウスは、かなりベトっとした感触があります。なので、わたし自身は、パソコンの共同使用がちょっと苦手です。まあ、自分のパソコンだって、だんだんベタついてくるわけですが。わたしの場合は、マウスにはハンカチをのせて使ってます。キーボードには医療用のネットを被せています。(←これ裏技)市販のキーボードカバーは、まだ使ってみたことがありません。パソコンメーカーの方々、そして素材メーカーの方々には、「プラスチックの手触り(手障り)」について案じてもらいたいです。プラスチックというのは、温感も質感もない不気味な感触がします。(つづく)
2008.05.29
「モノ」の共有について考えていますが、ここでちょっと、おことわりすることがあります。◇ここまで「共有」とか「占有」とかいう言葉を使ってきましたが、厳密にいうと、これはちょっと不正確です。通常、ドミトリーやその設備の所有者は、そこに住むメンバーではありません。なので、ドミトリーのメンバーは、その設備を「所有」しているのではなく、一時的に借りて使用しているだけ、というのが普通だと思います。なので正確にいうと、これは「共有」というより、「共用」にすぎません。前に「10人の人が3台のテレビを買ったら」という例も挙げましたが、これも、実際にそういうことがあるわけではありません。これはドミトリーのコスト的意義を考えるための比喩であって、通常は、すでにドミトリーに備えてあるテレビを使用するだけです。念のため、おことわりします。◇さて、今日は洗濯機の共有(共用)について考えます。世の中には「コインランドリー」というものがあります。他人と同じ洗濯機を、さほどの抵抗を感じずに使っているわけです。同じ洗濯機を使う、といっても、他人のものと一緒に洗うわけではありませんから、さほど問題は無いのかもしれません。けれど、かくいうわたし自身は、やっぱりちょっと抵抗があります。正直、わたしはあまりコインランドリーを使う気にはなれません。もしかしたら、そういう人もいるかもしれません。とはいっても、ドミトリーの中で個々人が別々の洗濯機を使用するというのも、いかにも無駄な感じがするのも確かです。たとえば、下着とかタオルとか枕カバーとか、小さな洗濯物は、各々が自分で手洗いすることにして、シーツとか洋服とか、大きなものは共同の洗濯機を使用すればよいのかもしれません。最近は「ミニ洗濯機」や「電気バケツ」なんてものもあるんですね。各メンバーがこういうものを所持すればいいのかもしれません。また、物干しの場所も、屋外の共有スペースだけでは問題がある。個室がない場合には、メンバー占有のロッカーやクローゼットのある場所に、下着などを干せるような小さな空間を確保すべきです。他人に見られないような仕切りがいるかもしれませんが、男女で分けられているのなら、気にならないかもしれません。屋内なので、タイマー式の人工風があったらいいですね。(つづく)
2008.05.28
トイレ、浴室、ベッドなどは、わざわざ共同使用にせずに、個室でもいいかもしれません。とはいえ、いちおうベッドの共有についても考えてみます。ベッド自体はさほど問題ないですが、布団、シーツなどは、直接肌に触れるものですから、他人と共有することには抵抗があるかもしれません。わたしたちは、ホテルや旅館などの布団やシーツを普通に使用しますので、清潔でさえあれば、これらを共有するのも不可能ではないけれど、かりにそれらを個人専用にしても、さほどコスト的な差はなさそうです。むしろベッドのことを考える場合には、布団やシーツなどの「モノ」の共有よりも、やはり「空間」の共有、そして「時間」の共有のほうが問題になる。同じ空間で、複数の人が、落ち着いて眠れるようにするには、空間の設計にも色々な工夫が必要だと思います。いわゆる「ザコ寝」でも毎日平気で眠れる人はいいですが、なるべくすべての人が快適な眠りを実現できるように、可能なかぎりの配慮をした環境にしたいものです。天井や足元の照明、壁や床の遮音や吸音、隣のベッドとの間を仕切るためのパーテーションやカーテン、かりに個室じゃなくとも、意外にちょっとした工夫で、眠りの空間は作れるのかもしれません。居酒屋やレストランなどでもそうですが、たとえ、たくさんの人が集う場所であっても、それらの境界を、むやみに、完全に遮断してしまうのではなく、ちょっとしたパーテーション等でゆるやかに仕切ったり、照明などに少しの工夫を加えたりすることで、案外、リラックスした個人の空間を作ることができるものです。こうした発想は、就寝スペースのみならず、おそらくは、ドミトリーの空間設計全体に応用できます。ちょうど、「占有」と「共有」のあわいのような空間です。隣の人を見ようとすれば見えるし、話かけようとすれば話もできるけれど、でも、なんとなく、境界が仕切られている感じ。いちおう「占有」ではあるけれど、どことなく「共有」でもあるような、その曖昧さが、かえって開放的で、気楽で心地のよい空間です。たとえば、古い日本の家屋でも、内と外を曖昧につなぐ「縁側」のような構造が、たくみに取り入れられていたのだ、ともいわれていますね。・・さて、しかし、就寝スペースの場合、「空間」のみならず、「時間」の共有という問題もあります。つまり、すべてのメンバーが「寝起きの時間」を同じくするわけではない、という問題です。極端にいえば、昼の仕事をする人と、夜の仕事をする人、それらの人が同居する場合は、同じ空間で寝起きするのが困難です。すくなくとも、夜就寝のグループと、昼就寝のグループくらいは場所を分けないと、掃除する時間も確保できなくなってしまう。たとえ同じ就寝スペースを共有する場合でも、多少の時間のずれは気にならないような空間を設計しないといけません。(つづく)
2008.05.27
トイレ、浴室、そしてベッドについて、「他人との共有ができるか」を考えているのですが、ちょっとここで立ち止まってみます。それらを「共有」することにこだわっていますけれど、コスト的な観点からいうと、それほど、こだわることでもないかもしれません。わたしは先日、一泊だけ病院に入院する機会がありました。そこには約40ほどの個室がずら~っと並んでいて、ひとつの部屋には、およそ6畳ぐらいのスペースの中に、ベッド、バス、トイレがぜんぶ簡潔に納まっていました。一応テレビも付いていましたが、まさに「寝るだけ」という、きわめて簡素で、狭い作り。でも、清潔だったし、意外とそれで快適だったのです。わたしは建築のことなどはよくわかりませんが、あくまで簡素なつくりの個室であればトイレ、浴室、ベッドなどを個室ごとに配置するのも、それらを一つの大きなスペースにまとめるとのも、コスト的な面では、さほど大きな差はないかもしれません。ドミトリーとはいえ、わざわざトイレや浴室やベッドを、共同使用にする必要はないのかもしれません。高級志向のドミトリーにする場合でも、個室ごとに配置するのと、共同スペースにまとめるのと、コスト的な差がどうなるか、実際のところは分からない。かりにトイレ、浴室、ベッドなどが共有でなくとも、ドミトリーの生活には、他の面でもコスト的な意義が充分ある。食材費や光熱費、さまざまな設備、また、そもそも土地や建造物を共有するだけで、ドミトリーには意味がありますから、それほどトイレや浴室の共有に固執することもありません。現代人の嗜好を考えれば、やはり個室を基本に考えるべきなのかもしれません。ただし、前にも書きましたが、個室のような、自分だけのスペースというのは、使用する本人の管理にまかされることになるわけですから、それゆえに、場合によっては、管理が不十分になったり、人によっては、きわめて不潔なことになったりもしかねません。こうしたことは、使用する当人だけでなく、けっきょくはドミトリー全体の生活環境にも影響します。また、その人の使っている場所は、あとで別の人によって使用されることになるかもしれない。たとえ今現在は自分だけが占有するスペースであっても、それらを清潔に使用し、管理することは、ドミトリーにおいて重要な義務です。一定の標準的な使用のしかた、管理のしかたも、ドミトリーのメンバーが共有すべき重要なスキルでなくてはなりません。(つづく)
2008.05.26
昨日は、トイレの共有について考えました。トイレの場合、「清潔で落ち着ける空間」という大原則さえ守れば、たいていの人は、トイレの共有に抵抗を感じないだろうと思う。今度は、お風呂について考えます。お風呂についても、トイレと同じようなことがいえる。日本人は温泉が好きです。だから、他の人と同じお湯につかるのも、いたって普通のことです。まあ、プールだって同じことです。もちろん、お風呂の広さとか、お湯の量とかにもよると思うけれど。小さな浴槽を他人と共有するのは、ちょっと抵抗があると思う。けれど、お風呂の場合もトイレと同様に、まずは「落ち着ける空間」かどうかが問題なんだと思う。銭湯などで他人と同じお湯に入るのは構わないとしても、あまりにも沢山の人がいるような場所では、なかなか落ち着いてお風呂につかる気になれないものです。体をチャッチャと洗うだけなら構わないけれど、湯ぶねには、落ち着いた気分で浸りたいってのが大きいと思う。ドミトリーの場合、シャワールームなら共同の空間でもかまわないんじゃないかと思える。体をチャッチャと洗うだけなら、さほど問題ない。着替える場所やシャワーの場所がすこし仕切られていれば、隣に他の人がいても、さほど問題ないように思います。もちろん、清潔な空間であることが絶対の条件ではありますが。体を洗うだけでいい人なら、それで事足りてしまう(笑)。実際、沖縄なんかだと、シャワーしかない家庭も多いらしいです。暖かい地域では、「湯ぶね」は必要不可欠ではないんですね。まあ気候の問題や、習慣の問題もありますが。毎日ちゃんと湯ぶねに浸かってリラックスしないといられない人は、浴槽つきの個室が必要ですね。もちろん、共同浴場に大きなお風呂をひとつ置いてもいいですが、ドミトリーの施設内の温度を暖かくしておけば、意外にシャワーだけでも充分なんじゃないでしょうか?ただし、シャワーというものは、じつは、浴槽に浸かるよりもお湯の無駄遣いになりやすい、とも言われています。資源の節約という点では、かえって注意が必要かもしれません。少々ケチ臭い話をすると、シャワーを出しっぱなしにせずに、いちど湯桶に溜めて、そのお湯で体を洗うのがいちばん経済的ですね。それから、昨日もちょっと書きましたが、「お風呂の腰掛け」は、やや不衛生な気もします。どうなんでしょう?シャワーは立って浴びる形のほうがいいような気がする‥。すくなくとも、ドミトリーのような場所では、感染症などの要因は完全に排除しなければなりません。また、湯桶やバスタオルも共有することには抵抗があるでしょうから、これらは個々人の占有物にする必要があるのかもしれません。明日は、ベッドその他の共有について考えます。(つづく)
2008.05.25
2.モノの共有と占有昨日はドミトリーにおける「空間」の共有を考えましたが、こんどは、「モノ」の共有という視点から見てみます。「どんなモノなら他人と共有できるか」というのは、もちろん、人それぞれで、感じ方や考え方は違います。たとえば「衣服」を共有するのは、かなり困難です。下着にいたっては、まず無理です。そもそも、サイズも違うし。けれど、女の子同士で洋服を共有し合うのは、有り得ないことではありません。あるいは、貸衣装のように、ドミトリーで礼服などを共有しあうのも、有り得るかもしれません。とはいえ、モノを「共有」する場合に、多くの人が抵抗を感じるのは、やはり、「肌に直接触れるモノ」の共有にかんしてだろうと思います。実際、トイレを共同使用することが「何となくイヤだ」と感じる人は多いわけです。しかしながら、わたしたちは日常生活の中で、意外なくらいに「肌に直接触れるモノ」を、不特定多数の人と共有しています。紙幣や硬貨にもさわります。電車の吊革にもさわります。食堂やレストランでは、食器やスプーンに口をつけます。職場やデパートのトイレでは、便座にも腰かけます。ホテルに泊まれば、部屋にあるほとんど全てのモノが、どこかのだれかが使ったものばかりです。もちろん、それらはすべて「衛生的だ」ということが前提ですが、意外なくらい、わたしたちは、さほどの抵抗を感じず、他の人と色々なモノを共有できています。「衛生」については、また論じる機会をもうけたいのですが、とりあえず、観念的な意味での「衛生」と、細菌学的な意味での「衛生」とは、分けて考えなければなりません。◇もういちど、トイレについて考えてみましょう。トイレを共同使用するということは、「空間の共有」でもあり、便器という「モノの共有」でもあります。これを分けて考えてみたいと思います。家から一歩も外に出ないような人は別ですが、たいていの人は、職場やデパートのトイレを、日常的に使用します。つまり、個人差はあると思いますが、清潔でさえあれば、「モノ」としての便器の共有には、さほどの抵抗は感じていません。むしろ抵抗があるのは、「空間の共有」のほうではないでしょうか。つまり、「家のトイレじゃないと落ち着いて出来ない」という人は多い。それは、便器という「モノ」に対して抵抗があるから、というより、トイレの「空間」に対して落ち着けない雰囲気を感じるから、だと思う。わたしは、「落ち着ける空間」というものの設計に配慮し、それを清潔に使用し、保つための仕組みがきちんと出来ていれば、たいていの人は、トイレの共有に対して抵抗を感じることはないと考えています。ま、慣れの問題もあるだろうけどw細菌学的にみても、便器の共同使用はそれほど問題にならない気がするし、むしろ細菌学的に見れば、銭湯などで使う「腰掛け」のほうが問題がありそうな気がしてしまいます。まあ、それもどうでもいいんですけどwなんなら、便器はそのままで、「便座」だけを取り替えられるようなシステムがあったらいいんですが。次は、浴槽、洗濯機、ベッドなどの共有を考えます。(つづく)
2008.05.24
わたしの考えるドミトリーは、他人との「共生」をする場であると同時に、個々人の「自由」をも追求できるような場です。他人との「共生」、個人の「自由」。そのの両立をはかるというのは、言い換えると、ドミトリーの中で「共有」と「占有」とのバランスをとる、ということです。その線引きをどこでどのようにするのか、が大事な問題です。おおざっぱに、以下の3つの視点で考えることができます。1.空間の共有と占有2.モノの共有と占有3.時間の共有と占有これらを、順番に考えてみたいと思います。1.空間の共有と占有ドミトリーで、おもに「共有か占有か」が問題になる場所は、◎食事スペース(食堂)◎リビングスペース〈居間〉◎トイレ◎お風呂◎就寝スペース〈寝室〉といったところだろうと思います。「どの空間ならば他人と共有できるか」というのは、その人のものの感じ方、考え方、嗜好などによって違うでしょう。たとえば、50人もいるような大規模なドミトリーと、せいぜい5~6人ほどの小規模なドミトリーとでは、空間のエコノミーをどのように配分するかも、おのずと違うでしょうけれど、とくに、トイレやお風呂、寝室などについては、あとでまた、色々と考えてみたいと思います。とはいえ、上記した5つの場所のすべてを「共有」にすることも、けっして不可能なことではありません。つまり、食堂や居間はもちろん、トイレも、お風呂も、就寝場所も「共同使用」ってことです。いいかえれば「個室」が無いってことです。その場合、個々人が占有する空間は、せいぜいロッカーやクローゼット、もしくは物置だけです。「食事くらいは他人と一緒でもいいけれど、 やはりトイレ、お風呂、寝室は、どうしても自分だけの場所がいい。 テレビを見るのも、仕事をするのも、やっぱり個室のほうがいい」と考える人の場合は、やはり個室のあるドミトリーが必要です。「個室」があれば、自由の領域、プライバシーの領域は増えます。ただし、同時にそこは、自分個人が負担をし、管理をする空間でもあります。「共有の空間」では、メンバーが共同で負担をし、掃除やメンテナンスといった管理も分担なので、個々人にかかる家事負担、経済的負担は、そのぶん分散・軽減できます。けれども、「個室」では、そのようなメリットを得られないわけです。昨日も書いたように、個室をもつ人と、個室をもたない人が、共存するようなドミトリーも、ありうるだろうと思います。(つづく)
2008.05.23
わたしは、「ドミトリーの生活コストは、メンバーが等しく負担する」というふうには、かならずしも思っていません。たとえば、高いお金を支払えるメンバーには、特別な個室などを設えて、基本的なドミトリーのサービスは他のメンバーと共有しながらも、同時に、よりグレードの高い生活をしてもらっても構わないわけです。また、わたしは前に、次のようにも書きました。ニートの人たちには、ドミトリー内の家事業務全般に従事してもらう。正規の職業を持っている人たちは、家事に従事する割合いが少ない分、他のメンバーよりも多く現金を納めてもらう・・・そして、ドミトリーへの様々な貢献のしかたを、たとえば地域通貨のような共通の価値媒体を使って対等に「交換」するつまり、この場合は、かりにすべてのメンバーが同じ程度の生活をする場合でも、ドミトリーに対して、より多くの現金を納めるメンバーがいる一方、ほとんど現金を支払わないメンバーもいる、ということです。ここでは「ニート」や「正社員」といった書き方をしましたが、もちろん、これはひとつのイメージにすぎません。もっと一般的な言い方にすると、ドミトリー内の業務(家事)に専従する人たち、つまり、ドミトリーのサービスを「提供する側」に立つ人たちを、スタッフメンバーとみなすことができます。他方で、現金を納めてサービスを「受ける側」の人たちのことを、一般メンバーだと考えることができる。ただし、実際は、このような区分はもっとフレキシブルでも構いません。ときには一般メンバーの人が家事を手伝って、地域通貨(ドミトリー・ポイント)を獲得しても構わないし、はじめから、外での職業とドミトリーの仕事を兼務する人がいてもいい。あるいは、ドミトリーの財政状況などによっては、本来、スタッフメンバーである人たちも、アルバイトなどをして、何らかの現金収入を得なければならないかもしれません。(つづく)
2008.05.22
現在の先進国において、一人の人間の生活にかかっているコストは過大です。たとえば、1人につき1つ以上のの部屋がある。また、1人につき1台ずつのパソコンやテレビ、冷蔵庫や自動車もある‥。場合によっては、トイレやお風呂も、1人1つずつです。これは個々の家計にとっても大きな負担ですが、同時に地球の環境にとっても、巨大な負荷になっています。先進国のみならず、もし全人類がこんなふうに資源を使ったら、地球は、完全にパンクしてしまうだろうと思います。大量生産、大量消費、大量廃棄。この悪循環から逃れるためにも、現在の先進国の人々が、個々人ごとに消費している資源のいくつかを、可能な範囲で(いいかえれば、個人の生活の質を下げない範囲で)、共有できるものを共有すればよいのだと思います。たとえば10人の人間が、ひとつの空間で一緒に生活するとします。そこに10台のテレビは、さすがに必要ないだろうと思います。せいぜい3~4台のテレビがあれば、事足りるのではないでしょうか。ためしに、二通りの考えかたをしてみます。10人のお金で3台のテレビを購入するならば、コストは、一人あたり、それまでの約3分の1で済むことになります。逆に、コストを抑えずに、同じ金額を投入するならば、今までよりも、3倍ほど高価で、高品質なテレビが買えることになる。もしかすると、安い電化製品を購入するよりは、地球環境に配慮された、やや高価で高性能な電化製品を買うほうが、地球への負荷も低いのかもしれません。つまり、ドミトリーのような生活においては、生活コストの抑制を目指すこともできるし、反対に、高級志向の生活を目指すこともできるわけです。わたしは、どちらの考え方もあっていいと思います。(つづく)
2008.05.22
ドミトリーは、かつての共同体の機能を、部分的に回復するものかもしれないと、わたしは思っています。その最大の利点は、前述したとおり、ライフ・スキルの伝達や共有ということにあると思います。ここで考えなければならないことがあります一般に「共同体」と「個人」は対立概念であると見られています。血縁や地縁、宗教や政治信条で結ばれた既存の共同体には、様々なしがらみがあり、それは、個人の自由や発展を制限する側面をもっています。会社にも、そういう側面があると思います。かりにドミトリーがかつての共同体の機能を回復するとしても、それが個人の尊厳や自由な発展を阻害するのでは好ましくありません。だいいち、現代社会に生きる人々のほとんどは、古いタイプの、縛りやしがらみの多い共同体の回復を望まないだろうと思います。したがって、現代人の要求に応えるドミトリーを作るとすれば、その主体は、あくまでも「個人」でなければいけません。前にも書いたとおり、、ドミトリーのような生活スタイルを考える上で、「プライバシー」の概念をあらためて問い直すことは必要不可欠です。何もかもを個人が占有することが本人にとっての幸福であるとは限らず、むしろ他人との共有によって得られる効用や幸福があると思うからです。しかしながら、ドミトリーによって個人の自由が制限されるということはありません。というより、ドミトリーの目的が、個人性の否定であってはなりません。もちろん現実には、ドミトリーの運営上、メンバーに課せられる様々なルールや禁止事項があるはずです。しかし、それはべつにドミトリーの生活に限ったことではありません。社会生活を営む以上、どこにでもルールや制限事項はあります。わたしが言いたいのは、たとえドミトリーが外見的には「集団生活」のように思えたとしても、「集団生活である以上は、多少の我慢ぐらい必要なんだ」というような精神論、あるいは美徳意識は、べつに必要ないということです。むしろ、そうした発想を排除したところで、新しいドミトリーの生活形態を考えてみたい、と思っています。つまり、ドミトリーの中でさえ、個人の自由は、可能なかぎり、最大限に追求されるべきです。◇そのためにもっとも重要なことは、当たり前かもしれませんが、ドミトリーは、入退が自由だということです。社会のなかに複数のドミトリーがあるのならば、そこから自分に適したものを選択するのも自由です。もちろん、入退にも一定のルールはあるはずです。とくに、ドミトリーの経営や運営が、メンバー同士の対等な交換によって成り立っている場合は、それを等価な状態にしてからでなければ退去できないでしょう。つぎに大事なのが、ドミトリーの設計やシステムのあり方です。現代社会のテクノロジーや利便性を有効に活用すること。また、建築する段階から、占有空間と共有空間について工夫を凝らすこと。さらに、運営上のシステムやルール作りを巧みに構築することで、可能なかぎり、個人の生活上の嗜好や快適性を、最大限に追求できるような場として、ドミトリーを考えることです。(つづく)
2008.05.21
現実に存在しているドミトリーとして、学生寮、社員寮、母子寮などといったものがあります。ドミトリーの生活にふさわしい人たちとして考えられるのは、ニート、フリーター、シングルペアレントとその子供たち、そして老人など、収入が少なく、社会のシステムからはじき出され、低コストな生活を余儀なくされている人たちが挙げられるかもしれません。けれども、わたしが考えているドミトリーは、かならずしも福祉施設のようなものではありません。特定の種類の人々を社会から機能的に分離するという発想は、貧困です。実際、福祉施設として設置されるタイプの寮は、かえって社会から排除された人々の吹き溜まりのようになりかねない。わたしは、ドミトリーのような生活環境を望む人たちが、いわゆる社会的弱者のような人たちである、との想定はしていません。たとえば、正規の社員として企業に勤めている人たちの中に、あるいは、家族とともに暮らしている人たちのなかにさえ、「家事負担を減らしたい」「生活コストを軽減させたい」「それによって余暇の時間を増やしたい」と思っている人がいるかもしれない。他方で、生活の孤独や不安を解消したいと思っている人もいるかもしれない。高度にプライバシーを追求しすぎた果ての寂しい人生よりも、色々な人たちと人生を分かち合う気ままな生活を望む人もいるかもしれません。わたしが考えているのは、公費によって運営される社会福祉施設ではありません。だから、もともと、収入の無い人ばかり集まっても、ドミトリーは経営的に成立しない。さまざまな形で、メンバーから運営資金が集められなければ成り立ちません。収入のある人たちが、メンバーの中に含まれていなければいけません。さまざまの立場や世代の人が、それぞれの形でドミトリーに参加してもらう。たとえば、ニートの人たちには、ドミトリー内の家事業務全般に従事してもらう。シングル・ペアレントの人たちは、子育てや家事をドミトリー内で分担することで、余った時間をパート労働などに当て、その賃金の一部を納めてもらう。老人にも子育てや家事を手伝ってもらい、また、年金の一部をも納めてもらう。正規の職業を持っている人たちは、家事に従事する割合いが少ない分、他のメンバーよりも多く現金を納めてもらう。そして、ドミトリーへの様々な貢献のしかたを、たとえば地域通貨のような共通の価値媒体を使って対等に「交換」するということです。もっとも簡単なやり方は、ドミトリー内の家事業務をこなしたり、現金を納めたりするたびに、メンバーに「ドミトリー・ポイント」のようなものを加算する、という方法です。その場合、期間内に一定以上のポイントを獲得しないと、ドミトリーに居住し続けることができない、ということになります。何度もくりかえしますが、わたしがここで書いている「ドミトリー」というのは、理論上のものです。だから、現実にはほとんど存在しないものだと思います。「学生寮」や「母子寮」といった具体的な例を出すと、あたかも、自由やプライバシーを制限され、快適さの追求を断念させられた、質素で、窮屈な生活環境をイメージする人もいるかもしれません。しかし、それは既存の「寮」のイメージから得た固定観念にすぎません。わたしの考えているドミトリーは、そういうものとは関係ありません。(つづく)
2008.05.20
今日は、ドミトリーの利点を挙げてみます。繰り返しになりますが、私がここで述べる「ドミトリー」は、あくまでも理論上のものなので、現実にはまだ存在していないかもしれません。さて、ドミトリーの利点ですが、それは、大きくいって次の3点があります。1.コストの軽減 これは、個人の生活コストの軽減という意味ももちろんありますが、 それ以上に、地球環境にかかるコストの軽減という意味でもあります。 もしも、先進国の大部分の人々がドミトリーのような生活形態に移行したら、 地球環境にかかる負荷は、現在の数分の一にまで減るのではないかとさえ 思います。2.ライフ・スキルの伝達と共有 ドミトリーのなかで身につけることになる様々なライフ・スキルは、 個人にとって、生活のための能力であると同時に、 経済社会で生きるための基礎的な能力にもなります。 こうしたスキルの伝達や共有は、 従来なら、家族や地域共同体によって担われてきた機能です。 3.精神的な影響 複数の人間が一緒に生活することの精神的な影響は、色んな点であると思う。 現代の人々は、自由で豊かだけれど、そのぶん孤独ゆえの不安も多い。 精神的な闇がそのライフスタイルに由来するところも多いと思うから。それぞれの点について、これから詳しく書いていきますが、読んで下さっている方は、これらの点について自由に考えをめぐらせてみてください。ドミトリーのような生活形態は、いろんな点で人間のあり方を変えるかもしれません。一方で、考えなければならない問題もあります。ドミトリーとはいえ、個人の尊厳や自由は守られなければなりません。それらを制限したり踏みにじるようなものであってはなりません。とはいえ、現代において極端な形で追求されてきた「プライバシー」の概念については、あらためて定義し直すことも必要だと思います。何もかもすべてを個人が「占有」することによって、その人が幸福になるとはかぎらない。私にはそう思えます。だから、自分で「占有」する領域と、他の人たちと「共有」する領域とについて、より洗練された線引きや空間設計がなされなきゃいけないってことです。ちなみに、こうしたドミトリーは、もちろん自然発生的に生まれてくるものでもいいんですが、たとえば民間の企業や組織が運営するものであってもいいし、あるいは公的な機関が運営するものであってもいいと思います。(つづく)
2008.05.19
以前、ここで少子化問題のことを書いたときに、「ドミトリー」のことを話題にしかけて、連載しますと言いながら、それっきりにしていました。2005年の10月4日ですから、↓じつに、もう2年以上も前になります。( ̄ロ ̄;)http://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/200510040000/地球の環境や資源の問題。日本の貧困問題。これは、もうのっぴきならないところまできています。高齢者を見殺しにするほど、日本の社会保障制度はどん詰まりです。食べ物は余るくらい沢山あるというのに、なぜか飢える人が出てくるのは、社会システムが、今もまだ洗練されたものになっていないからです。若者の4人にひとりが本気で自殺しようと思ったことがある、という内閣府の調査結果。人間が、人間の価値や存在理由を、「商品価値」でしか測れなくなっている。価値のない人間は、自分であれ他人であれ、死ぬ以外なくなってしまう。物事を商品価値で測ることが当然だと信じる人は、確実に増えてきてるし、それ以外の価値観に対する感受性が、悲劇的なくらいに衰えています。こんなふうに、資本主義社会の負の側面がキワだって目立ってきてる。そうした観点も視野に入れて、もういちど、「ドミトリー」の話題をもち直そうと思います。◇「ドミトリー」といっても、人によっては、学生寮や独身寮のようなものをイメージしたり、あるいは、素泊まりの安宿みたいなものをイメージしたり、小規模なシェアハウスみたいなものを考える人もいるだろうと思いますが、私がここでいう「ドミトリー」は、あくまで理論上のものなので、特定のイメージでとらえてもらう必要はありません。どんなものでもいい。とにかくそれは、複数の個人が、協働/共生するような空間のことです。そしてそれは、高度で快適なライフスタイルを手に入れた現代人の生活空間です。ちなみに、「協働」と書きましたが、それはべつに、貨幣経済の利益追求活動をともに行なうということじゃなく、生活のための仕事(いわゆる家事)を部分的に負担しあう、というだけの意味です。わたしは、先進国の人々の中から、こうした生活形態に徐々に移行する人たちが増えるべきだろうと思っています。(つづく)
2008.05.18
ちりとてちん終わりました。大傑作、とまではいかなかった。はじめの頃の勢いが、中盤部で停滞してしまったのが大きい。最大のネックは、草若だったと思います。彼が何を望み、何を願っていたか。結果的に見れば、その人物像にかんして脚本上の破綻はなかったのだけど、あまりにも分かりにく過ぎた。死ぬ間際まで、彼が何を考えているのかが分からなかった。サスペンスドラマなら、それでもいいのだけれど、こういうドラマで、柱になるべき人物が分かりにくいのは、かえって牽引力をそぐ。正太郎や糸子が物語の柱になっていた前半の福井編では、その明け透けで輝かしいほどのキャラクターが、物語を引っ張る力になった。それに対して、草若という人物はとても分かりにくく、画面から伝わってくるような輝かしい人間的な魅力や強さにも欠けた。その結果、大阪編ではドラマ全体が沈滞してしまった感は否めない。たとえ、ほかの人物たちがいくら輝いたとしても、柱になるはずの草若の分かりにくさが、全体を沈滞させてしまった。弟子たちを我が子ののように思い、彼らの将来のため、常打ち小屋の建設をめざして尽力した師匠。その、気まぐれながらも、思慮深さと愛情と人間性に満ちた人物像を、もっともっと、輝かしい魅力で画面に現わすことができていたなら、大阪編は、こんなにまで沈滞することはなかったとおもう。たとえば、もしも師匠役が、『タイガー&ドラゴン』のときの西田敏行のような、あんな輝かしくて人間的な暖かさに溢れるようなキャラクターだったら、きっと、その師匠の生と死が、その後の物語にさえも、もっと大きな重みを与えていただろうと思います。◇大阪編において、師匠役がドラマを引っ張るキャラとしての魅力に欠けた。それを補うためだったのか、なぜか大阪編になっても、糸子をはじめとする福井の面々が、頻繁に大阪にやってきました。たしかに、糸子たちが大阪にやってくるだけで、物語は輝き出す。福井の家族たちが集まってくると、ドラマは活気づく。それはドラマにとって唯一の救いではあったけれど、本来は、そんな風にすべきじゃない。あまりにも、登場人物たちが福井と大阪の間を頻繁に往来しすぎるために、その空間的な隔たりは、非常に安易なものになってしまいました。まるで、隣近所に遊びにくるような感覚になってしまった。たしかに現代は、昔に比べて空間的な距離は縮まっているし、福井と大阪なんて、もはやたいして遠くはないのだろうし、そういう意味では、これもまた現代的な演出のひとつなのかもしれないけど、こんなにも距離が縮まってしまうと、前半部において、主人公が泣きながら母と別れたシーンが、なんだか意味をなさなくなってしまうのも事実。ドラマを活気づけるためだったとはいえ、彼らの過剰な空間移動は、作品の質を安易なものにしたと言える。◇大阪編、とくに草若が物語の柱になった中盤部。ドラマはそこで停滞を余儀なくされた。そして皮肉なことに、草若が死んだことによって、再びドラマが活気を取り戻したように思えた。でも、そのときすでにドラマは終盤部に差し掛かっていて、この作品が「傑作」になるべく挽回するのは、もう不可能になってたと思う。長編ドラマは、本当に難しいです。結果的に見れば、可もなく不可もない作品だったと思います。
2008.03.29
宮崎あおいちゃんが、いわゆる「演技派」なのかどうかは分かりません。この人はたぶん、脇役を演じることができないと思う。それから、民放の現代劇を演じることもむずかしいと思う。今後、どこかの民放が、あおいちゃんに現代劇をさせることがあるかもしれないけど、たぶん、かなり難しいはずです。かといって、これだけビッグな女優でコケるわけにもいかないし。とにかく宮崎あおいちゃんは、主役しか出来ないような人です。そしてNHKでは、めっぽう強い女優さんです。これは、今の芸能界では特殊な存在といっていいと思う。主役しかできない女優さん。これは役者としては欠点でもあるけれど、少なくとも今の芸能界で、こういう存在感をもってる人は希少です。あおいちゃんが出ていると、ドラマがとても明快になる。不思議なことに、彼女を見ているだけで、「いま物語がどのへんにあるのか」がはっきり分かる。途中から見始めた人でも、ほとんど迷わずに見ることができる。なぜなら、物語の中心が揺らがないから、視聴者が安心して見てられるんです。本来、主役をはる俳優の演技ってのは、そういうものなんだろうと思います。したがって、脚本や演出に多少の難があっても、主役の存在感だけで、かなりの程度、ドラマを引っ張れてしまう。あおいちゃんには、それだけの力があると思う。今回の『篤姫』の脚本は、そのあおいちゃんの特質を、よくわきまえています。ちょっと意地悪くいえば、かなり、あおいちゃんの力に依存した作りになっています。物語の中心を、主役からそらすことがほとんどない。そういう脚本です。これは、たとえば『新選組』や『巧妙が辻』とは対照的です。『新選組』は、複数のキャラを同時に立たせながら、いくつかの舞台が同時に進行するような作りになっていましたし、『巧妙が辻』もまた、主演夫婦をめぐる小さな物語とは別に、織田~豊臣~徳川の大きな物語が進行していくという作りでした。どちらの場合も、主役の比重は相対的に小さかったと言えます。このような作りのドラマは、脚本的にも技巧を要しますし、配役的にも色んな工夫が必要とされます。技術的には、そっちのほうが難しい。それに対して、『篤姫』の場合、あおいちゃん一人に、かなりの比重がおかれてる。脚本は、下手な小細工をしない。物語の中心を、いっさいあおいちゃんからずらさない。いわば、あおいちゃん一人に、そうとうな負担を強いるようなタイプの脚本です。(同じことは、『ちょま神』にも『純きら』にも言えますが。)そして、それをど~んと受け止めるだけの器が、彼女にはある。それによって物語が飽きられるということもない。他の女優さんだったら、かなり難しいと思います。ちょっと存在感の薄いような女優さんだと、こういう脚本はもたないです。あおいちゃんだから成立するタイプの脚本です。田淵久美子は、意図的にそういう脚本にしていると思う。つまり、「脚本は、宮崎あおいに依存できる」と思っているはずです。あおいちゃんの演技が、いわゆる「上手い演技」であるかどうかは微妙です。どちらかと言うと、彼女の演技の特徴は、古典的で、やや大仰だともいえる。しかし、そういう「主役らしい存在感」を発揮できる役者さんは、やっぱり、今のところ希少なんです。あおいちゃんが主役を演じるドラマは、とても分かりやすい。それは、ドラマが、非常に単純明快な内容になるってことでもある。これは、作品そのものからすると、長所でもあり、また短所でもあるのだけれど、少なくとも視聴率的に見れば、そして、NHK大河のような国民的なドラマにとっては、大きな強みになりえることです。※現在、音楽惑星さんにお邪魔して、「斉藤由貴」問題について考えています。
2008.03.17
紅白は、今回から3年間、新しい路線なんだそうですが、去年までとは明らかにちがうのが分かりました。よかったです。基本的にこの路線で続けてほしい。いつものダラダラした余興とかがなくて、歌に魅入ってるうち、4時間があっという間に終わってしまった。すぐに歌で始まって、最後も歌で終わったのもよかった。今回は、ア-ティストのパフォーマンスも、今までとずいぶん印象が違いました。例年だと、ろくに歌えていないアーティストが、すごく多いから。とくにポップス系のアーティストに多いんだけど、普段のライブや民放の番組では良いパフォーマンスをしてるのに、紅白になると全然ダメ、という歌手が、よく見かけられた。つねにちゃんと歌えるのは、ベテランの演歌歌手ぐらいだった。だから、紅白というのは、よほどアーティストにとって歌いにくい環境なんだろうなあ、と思ってました。でも、今回は、何か今までと演出上の変化があったのか分かりませんが、不思議なくらい、みんな良く歌えているのが分かりました。演歌歌手の人たちも、例年以上に腰を据えて歌えてるのが分かった。そもそも、プロなんだから、(アイドル系の子たちはともかく)みんな歌がちゃんと歌えて当たり前なんだし、アーティストがまともに歌すら歌えないというのは異常なんだけど、今までの紅白では、その最低条件すら満たせてなかった。中島美嘉とか、平井堅とかは、場合によっては悲惨なくらいダメな時もあるけど、今回はとてもよく歌えていたと思います。それから、氷川くんは非常に素晴らしかったです。全体的に、演奏のアレンジも良かったと思います。アレンジというのは、各アーティストに任されているのか、それとも、全体を統括する音楽監督がいるのか分からないけど、全体的に、歌そのものを引き出すような、シンプルなアレンジが良かったです。とくに、天童よしみと秋川雅史のアレンジ。歌の迫力が直に伝わるようなアレンジになっていました。あと、ドリカムと寺尾聰の演奏もよかったです。ほかに印象に残ったパフォーマンスは、絢香、TOKIO(歌が上手くなった)、長山洋子(三味線の弾き歌いカッコよかった)、槇原敬之、ガクト(ここまで来ると、ビジュアル系も一年がかりだな)、大塚愛(というより、流石組の振り付けが良かった)、小椋佳、一青窈(の手話&コーラス)、早乙女太一くん(番外)あと、薬師丸ひろ子の語りもステキでした。長山洋子とか、坂本冬美とか、石川さゆりとかがそうだけど、演歌のほうも、情念とか耽美主義とか、ビジュアル系なんですね。長山洋子のパフォーマンスは、ちょっと椎名林檎っぽいと思った。司会の鶴瓶は、知識と、親しみと実感がこもってて、これぞ噺家の実力だなあ、と思わせられるところが大きい。それと、それぞれの歌にひとつひとつストーリーがあったことも、歌に引き込む上で、たしかに功を奏してました。ただし、これは、あんまり無理矢理なストーリーをでっち上げると逆効果だから、その点は、今後も、注意してほしいです。
2008.01.01
「ちりとて」の解りにくかった部分が、今頃になって、だんだんわかってきた・・。昨夜の《前半ベスト》の放送を見て、ようやく「ああ、そういうことだったんだな」と思いました。でも、やっぱり、ちょっと脚本が分かりにくかったと思う。伝わりにくい部分があったと思います。◇11/21の日記でも同じことに触れていますけど、問題だったのは、草若師匠です。以下の3つの点は、とても解りにくかった。1.なぜ、草若は落語を捨てたのか?2.そして、なぜまた落語に戻ってきたのか?3.破門したはずの草々を、どうしてすぐ迎え入れたのか?これらのすべての疑問を解く鍵は、ズバリ「親心」でした。つまり草若は、「芸人」や「師匠」である前に、「親」だったのです。草若は、じつは意外にも優柔不断です。喜代美の母が、娘に対してそうであるように、草若もまた、いつも息子(たち)に甘く、結局は彼らを許してしまう。それは「師匠の厳しさ」ではなく、「親の甘さ」ゆえのものです。草若の“息子”は、小草若だけじゃありません。草原も、草々も、四草も、そして若狭も含めて、みんな「弟子」である前に、息子であり、娘なわけです。以前の草若が「芸人」である前に「夫」だったのと同じく、現在の草若も「師匠」である前に「親」なのです。草若は、じつは昔も今も変わっていないのです。わたしは草若に「変化があった」と思っていたんだけど、実際は何も変わってなかったんだと思います。1.なぜ草若は、落語を捨てたのか。草若が天狗芸能から追放された時、きっと、彼が真っ先に考えたのは、「息子たちを道連れにしてはいけない」ということだったでしょう。だから彼は、あえて息子たちを自由にするために、みずから落語を捨てた。けれども、羽ばたかせたはずの息子たちは、結局また「親」のもとへと帰ってきてしまいます。(それは小草若のことだけじゃなく、弟子全員、プラス1のこと)2.なぜ草若は高座に戻ってきたのか?この答えもつまり、「息子たちが戻ってきてしまったから」です。「芸人だから」でも「師匠だから」でもなく、「親だから」です。直接のきっかけになったのは、小草若が《親子の噺》として語った「寿限無」だったんですが、草若は、帰ってきた子供たちを受け入れずにいられなくなってしまう。親であるがゆえに、子供たちに甘く、優柔不断で、やっぱりまた抱き入れてしまう。それが、彼の変わらない行動原理であり、同時にこれは、福井にも大阪にも共通している「親の論理」なんだと言える。3.なぜすぐに草々や若狭の破門を取り消すのか。これも親だから。はなから、子供を捨てるなんてことをするわけがない。帰ってきたら、いつでも抱きしめてしまうし、許してしまう。それが親。どんな決まり事でも、子供のためには翻してしまう。それが親。優しくて、暖かくて、甘い。ということで、おおむね、疑問点は解決したんですが、なぜこんなにも分かりにくかったのかというと、脚本じたい、ちょっと誤解を招くような部分があったから。具体的にいうと、草若が落語をやめた理由について、ほとんどの視聴者が誤解したと思う。昨夜の《前半部ベスト》の放送によると、例の一門会当時の真相を菊江から聞かされた小草若が、そこで、「草若の親心を知った」とのナレーションが入っています。これは、やや“後づけ”っぽい気がする。放送当時、大方の視聴者はそのようには理解しなかった。むしろ、草若は「師匠としての意地」を貫いたと受け止めてしまった。つまり、「病気の妻のために芸を放棄した芸人の姿を、弟子たちに見せたくない」という師匠としての意地を、彼は貫いてるんだと思ってしまったわけです。ここの描き方には、ちょっと脚本上のミステイクがあったんじゃないかなあ。たしかに草若が師匠として虚勢を張っていたのは事実だろうし、それは芸人を続けていた息子のためを思ってのことだったから、脚本が破綻してるとまでは言えないんだけど、でも、「芸人」として、あるいは「師匠」として生きることが、ときに「家族」をも否定しなければならない場合があるってことを、視聴者は、あらかじめ志保のエピソードによって知らされているし、それが容易に両立し得ないことを知っているので、彼らがいったいどちらを選んでいるのか、そこを見分けるのは非常に難しい。渡瀬恒彦の演技を見ていても、「親の暖かみ」を強く感じさせるものかというと、ちょっと難しかった。でも実際は、草若はいつでも、「芸人」である前に「夫」だったし、「師匠」である前に「親」だった。芸人や師匠であることの厳しさ以上に、草若の行動原理の中では、「夫」や「親」であるがゆえの優しさや暖かさが上回ってる。そして、それはときに優柔不断で情けない親の甘さとして描かれもする。草若が落語の世界に戻ってきたのも、「芸人」としての自信を取り戻したからではなく、「師匠」としてのあり方を変えようとしたからでもなく、たんに「親」として、子供たちの前に帰ってきただけだった。今になってみれば、ようやくそういう風に読めるんですけども。なかなか理解できませんでした。
2007.12.31
以前の『ギャルサー』がまさにそうだったけど、この脚本家は、女の子の≪自我(エゴ)≫の描き方がとてもリアルです。今回の『ちりとてちん』にも、その面は出てる。このドラマには、「A子」と「B子」というふたりの女の子が出てきますが、当初、この「A子」/「B子」ってネーミングは、いくらなんでも露骨すぎなんじゃなかと思ってました。でも、じつは(ちょっと深読みかもしれないけど)、このネーミングの中には、過去の「NHK朝ドラ」に対する批判が入ってるのかもしれません。そこにこそ、この脚本家の描こうとする、リアルな女の子像ってものが意図的に設定されてると思う。過去の朝ドラヒロインは、みんな「A子」だった。いつも潔白で、偽りがなく、芯が強くて、めげない。決して他人を疑うこともなく、思いやりを失うこともない、そういう正しい女の子像。そういう女の子が、色んな困難にぶつかっても、意地悪な人達に囲まれても、決してめげずに、困難を乗り越えていく。そして周囲の人たちの心までも変えていく。そういう物語。もし、そばに挫けたり卑屈になったりしてる友達がいたら、その子を勇気づけるだけじゃなく、代わりになってでも乗り越えてあげるような、優しくて、健気で、ひたむきなヒロイン。そういう女の子像を通して、人間本来の信じるべき正しさとか真心とかを描くのが、今までのNHK朝ドラの役割だった。ところが、今回のヒロインは「A子」じゃない。B子。むしろ、周りに勇気づけてもらったり、慰めてもらったりしながら、やっと生きていく側の女の子。しかも、他人に勇気づけてもらったところで、かならずしもその困難を乗り越えられるとも限らない。場合によっては、いつまでもダメなままの子。たいした困難があるわけでもないし、これといって意地悪な人間が周囲にいるわけでもないのに、周りはみんな良い人ばかりで、環境だってそれほど悪いわけじゃないのに、悪いのは本人だけ。ダメなのも本人だけ。弱くて卑怯なのも、まったく本人自身。いろんな下心がある割に、まったくもって意志が弱くて、上手くいかないと、すぐネガティブになって、何もかも周りのせいにする。いわば、裏ヒロイン。歴代の朝ドラを全部見てきたわけではないけど、そういう女の子の≪自我≫のあり方を露骨に描いてみせたのは、朝ドラ史上はじめてのことじゃないかと思います。そのこと自体が、この作品のひとつのねらいであるように思えてきた。そして、そういう女の子像を描くのにもっとも適していたのが、この、かつて『ギャルサー』を書いた脚本家だったんだなー、と、今になって思えます。◇今日の展開。そんな「B子」の成長のために、必要なのは、はたして「優しさ」か、それとも「厳しさ」なのか。無限の愛情で包み込んでしまう母親。「厳しさ」と「優しさ」との狭間で迷い悩む師匠。「裏切られてこそ強くなるのだ」と力説する若い女性。あれやこれやと「B子」を気遣う周囲の人々。そして、4人4様のやりかたで立ち直らせようとする兄弟子たち。けっきょく、それらのすべての恩恵に贅沢にあずかりながら、やっとこさっとこ、しかも少しずつ少しずつ成長していくことしかできない、それが、このドラマのヒロインなのでした。
2007.12.04
NHK「ちりとてちん」。序盤の頃の勢いからすると、さすがに衰えた気はするけど、今日はひさびさにウルッときました。でも、今日の内容は、見る人によって、けっこう反応が異なるみたいです。ネット上の感想を読んでて、「なるほど」と思わせられた。たぶん、年代によって受け止め方が違うんじゃないかと思います。わたしぐらいの年代の人間からすると、いつまでたっても子供のままで成長しきれないヒロインのことが、切なくて、可愛くて、なんとも言えず、いとおしくなってしまうんだけど、逆に、ヒロインと同じくらいの若い年代の人からすると、まさにそういうところが、自分自身のイヤな部分を見せられてるようで、嫌悪感に苛まれるんだろうと思う。みんな、若い時って、「変わりたい」と思うし、「変わらなきゃ」と焦りもする。子供のような甘さから脱皮して、成長しようと必死になってる。そんなときに、いつまでも甘い考えで、態度や気持ちが子供じみていて、我がままばかり言っているようなヒロインの姿を見ると、なんだかイラッときて、許せないって気分になるんだと思う。わたしぐらいの年の人間から見ると、その幼さが、たまらなく愛おしいんだけど。わたしはむしろ、ヒロインには「変わらないでほしい」と思うし、「いつまでもこのままでいてほしい」とさえ思っちゃって、子供のままの主人公をギュっと抱き締めたくなってしまうんだけど、きっとヒロインと同年代の視聴者は、そんな煮え切らない甘ったれたヒロインではなく、成長して、見違えるように変わっていくような姿が見たいんでしょうね。◇ ◇NHKの朝ドラってのは、「ヒロインが成長していく過程を描く」というのが定番。たしかに今回のヒロインも、「自分が変わる」ということを目標にしてる。けれども、今回のドラマのテーマは、どうやら、「変わる」ということではないらしい。むしろ、じつは「変わらない」部分にこそ目が向けられている。ヒロインはもちろん成長するんだろうけど、それは、ただ「変わってしまう」ということではなさそうです。まして、それは、「B子だった昔の自分」を否定することでもないし、母親だとか、故郷の若狭だとかを否定しながら変貌していくことでもない。そのあたりが、若い視聴者に受け入れられるかどうか、ちょっと微妙なところなのかもしれません。※民放ドラマ「歌姫」。スゴクいいです。<TBS = 長瀬くんのチンピラキャラ = 昭和の映画館>という組み合わせで作った、舞台演劇のドラマ化だそうですが、TBSでこの路線は、何気に新鮮ですね。何がいいって、町はずれで波しぶきをあげてる、土佐の荒海がいいです。これだけで一時間観てられます。
2007.12.04
NHK朝の連ドラ『ちりとてちん』。非常に高密度な内容ではあるのですが。いったいどれだけの内容を詰め込むつもりか知りませんが、先週までの徒然亭一門の物語は、さすがにちょっと展開が速すぎて、やや未消化な感は否めません。それとも、これはまだ次の展開の伏線なのでしょうか?草若師匠と小草若。父と息子の物語。なかなか、その物語の全体像をつかむのが難しかった。それは、わたしの理解するかぎり、こんな内容でした。3年前、妻が余命わずかだと知らされた草若師匠は、そのショックから高座にあがることができなくなり、逃げ出してしまいます。草若は「芸人」である前に「夫」だったわけです。いつも妻と一緒に演じてきた「愛宕山」を、妻のいない場所で演じるのは、あまりにも残酷すぎた。彼は天狗芸能から追放されたのではなく、「芸人」として生きていくことの限界を知り、天狗芸能から追放されるのをあらかじめ知りながら、みずからその道を絶ったのだといえます。天狗芸能から追放されるという事態は、徒然亭の弟子たちに大きなショックを与えますが、その数ヵ月後には、さらに志保の死というショックが積み重なります。しかし、草若は、「高座からの逃亡」と「妻の病気」とが無関係だったかのように装います。それは、かろうじて師匠として「虚勢を張り続ける」ためのものでした。また、亡くなった志保も、師匠がそうあることを望んだのでした。3年後、仏壇屋の菊江が、小草若に真相を明かします。あの日、じつは草若は病院に来ていた、ということ。そして、その彼が一門会の会場の前にも現れていたこと。 ☆ちなみに、 草若が、志保の余命について医師の宣告を受けていたかどうかは、 菊江も志保も知りえないことですので、 本来なら、あのイメージを回想シーンに入れるべきではないと思う。上の2つの事実を聞かされた小草若は、真実を悟ります。つまり、父=師匠は、「遊び人」であったがゆえに「芸人」の道を絶たれたのではなく、「夫」であったがゆえに「芸人」としての道を閉ざしたのだ、と。そして、それは天狗芸能に強いられたことというよりも、なかば草若みずからの選択だったのだ、と。ここで分からないのは、なぜ小草若も、他の弟子たちも、また天狗芸能も、「草若の逃亡」と、当時の「志保の病気」とに関連があると考えなかったのか?むしろ、それを考えるのが普通だと思うんだけど。のみならず、なぜ小草若は「父と愛人との関係」なんてことを疑ってしまったのか?草若自身がそのように偽ったのでしょうか?天狗芸能から追放され、さらには志保が亡くなるという事態の中、弟子たちが大きなショックを受けているのに、師匠だけがヘラヘラと「遊び人」を装い続けるなんて、いくらなんでも不謹慎だと思うし、そうでなければ、それ以前の草若が、よほど女たらしでふしだらな人間だったってことでしょうか。そして、もうひとつ、分からないことがあります。それは、「芸人」であることを放棄したはずの草若が、なぜふたたび高座に戻ろうという気持ちを取り戻せたのかってこと。これも、じつはスッキリとした理解ができない。彼は3年前、「夫」であることを捨ててまで「芸人」であることはできないと感じ、高座を捨てた。その彼が高座に復帰したのは、何らかの理由で「芸人」として生きていく自信を取り戻したからです。そして、そこには息子・小草若の存在があったと思う。けれど、なぜ草若が「芸人」として生きていく自信を取り戻したのか、その理由は、明確には理解できません。「夫」であることと「芸人」であることの矛盾に苦しんだ草若ですが、ここでは、「父」でもあり、また「芸人(師匠)」でもあるという生き方に、何かしら新たな希望を見い出せたからなのでしょうか?様々に解釈のしかたはできるけれど、あそこに描かれたエピソードだけで、一般の視聴者にそれを理解させるというのは、かなり困難があると思う。◇小草若はなぜ父を誤解したのか。◇そして草若はなぜ「芸人」としての自信を取り戻したのか。この2つが未消化だったために、わたしにとって、父子の和解のエピソードは、充分に共感しうるものにはなりませんでした。もっといえば、この父と息子は、「芸人」としての道、「家族」としての道、「遊び人」としての道、いったい何を選び、何を捨てたのか、それとも、それを両立させる道をどこかに見い出したのか、そのへんもよく分からない。このドラマは「伏線を回収することに長けている」と評されていますが、同時に、「出来事の背景にある描かれることのないエピソード」についても、考え抜かれたものでなければ綿密な脚本とはいえない。伏線だけでなく、描かれない背景についても、いずれはちゃんと落とし前をつけていってほしいです。ついでに言えば、最近の展開では、四草や草原など、弟子たちのキャラの変化もちょっと早すぎる気がする。
2007.11.21
NHK、朝の連続テレビ小説。毎朝、傑作ドラマの誕生を目の当たりにしてる実感がある。いままでのところ、ずっと驚きが続いています。回を重ねても、脚本のクオリティがまったく落ちない。むしろ、だんだん高まってる気がする。すごいです。脚本家の藤本有紀に関心をもったのは、去年の『ギャルサー』のときでした。日テレの傑作『野ブタをプロデュース。』にも引けをとらない斬新な内容だったし、しかも、原作があるわけじゃなく、まったくのオリジナル脚本だったという点が驚きでした。オリジナルの脚本にもかかわらず、あれだけの独創的(≒荒唐無稽)な舞台設定を作り上げ、しかもその中で高密度のエピソードを重ね、同時に、きちんとしたメッセージも込めていました。オリジナルの脚本で密度の濃いドラマを作るのは難しいと思っていただけに、『ギャルサー』は本当に凄いと思った。そして、今回の朝ドラにも、またあらたな驚きを感じています。NHKの朝ドラというのは、全編が長いにもかかわらず、一回ごとの放送時間は短かいので、ドラマの密度を毎回の放送で維持し続けるのはかなり難しいと思う。それにもかかわらず、藤本有紀は、その豊富なアイディア、巧みなテクニック、全体の構成力、すべてにおいて抜きん出た力量を、惜しみなく見せつけてると思う。週ごとのタイトルがいつも駄洒落になっていて、それが巧みに物語の内容に掛けられてる。そして、クドカンが『タイガー&ドラゴン』でやったのと同じように、物語や、ドラマの色んな要素が落語の古典に引っかけて作ってある。この着想じたいは、もちろんクドカンの二番煎じなんだけど、でも、二番煎じであることが欠点だとは感じさせないくらい、その“お題”のさばき方はじつに見事です。かといって、一般の視聴者にとって難解な内容になるわけでもない。そうした“お題”をたくみに料理しながらも、毎朝のエピソードにはちゃんとした見せ場があり、たんに技術的なうまさに終始するだけじゃなく、物語には心を打つような感動もあるし、胸に響くメッセージもちゃんと込められてる。ドラマの核心部分は、決して大ざっぱなものじゃなく、むしろ、人の心の、ささやかで、細やかな機微のほうに目が向けられています。設定とか構成はすごく大胆なのに、テーマやメッセージはとても繊細なところにある。このドラマをとおして、藤本有紀という脚本家の、驚くほど抜きん出た力量が、あらゆる意味で毎朝証明され続けてる、という状況です。他方、演出も抜かりないし、キャストの演技も文句なしです。もとの脚本自体にもほとんど破綻がないと思うけど、脚本と演出の間にも、今のところ破綻が見えない。脚本の意図だけでなく、微妙な「間」の部分まで的確に演出してるのが素晴らしい。キャストの人たちの演技もみんなレベルが高いです。和久井映見もよかったけど、渡瀬恒彦もまったくもって素晴らしい。「寝床」の面々は、やや“御愛嬌”といえる演技だけど、メインのキャストも、サブのキャストも、かなり良いと思える。コメディ・ドラマでの演技センスということでは、同世代の上野樹里ちゃんが、一足先に一般の評価を定着させた感じだけど、このドラマのなかで、貫地谷しほりちゃんも評価を得ることになりそう。このドラマ、視聴率が良いわけではありません。旧来の視聴者は、内容の良し悪し以前に、ドラマの舞台設定にそもそもなじめていない、というのが実情だと思う。物語の入り口の舞台を福井の田舎町に設定したのは、そういう旧来の視聴者に対する配慮もあったとは思うんだけど、それでも、やっぱりなかなか視聴率的には厳しいようです。けれど、そのことをもって今回の作品を「失敗」とするのでは、作り手側だってやる気をなくすし、見るほうだって見る気をなくします。視聴率の結果はともかく、今回の作品は、いまのところ明らかに「成功している」というべきです。※現在、音楽惑星さんのサイトにお邪魔して「斉藤由貴」問題を考えています。
2007.10.29
今回話題になってる「ドラえもんの最終回」は、非常に高度な作品。日本の「マンガ文化」の高さを思い知らされた。というより、マンガが「文化」であるってことを、あらためて様々な点で感じさせられた。作画の模倣だけではなく、大人になった登場人物たちの造型なども見事ですし、なにより、漫画の説話のスタイルが、当時の作品の雰囲気をちゃんと醸し出してる。一コマ一コマに明確な意味をもたせ、一ページごとを“段落”として区切りながら、簡潔に語っていくスタイルが、「古典的」な漫画の印象をしっかりと表現してます。物語の内容からいえば1本の映画にもできそうなスケールの話ですけども、わずか十数ページの紙数で簡潔にまとめられています。ちょうど原作の「一話分」も、このぐらいの長さだったんじゃないでしょうか。実際に販売したマンガ本では、装丁なんかも真似たらしいですけど、内容そのものにおいても、原作のもっていた漫画の「話法」を、よく意識して作っているといえます。さらに、ストーリーの面でも、伝えるものの意味が深いです。つまり、これは「のび太の物語」としてだけでなく、ドラえもんを読んで育った「読者の物語」としての二重の構造をもってる。ドラえもんのいたはずの「未来」の世界に生きながら、その思い描いた「未来」とはやや異なった「現在」を生きている、ドラえもんの「読者」だった人たちの物語にもなっているわけです。そこには恐らく、この「最終回」の作者自身も含まれます。この作品そのものが、「ドラえもんを作るのは、のび太自身だった」というストーリーを生むと同時に、「ドラえもんの物語を作るのも、読者自身だった」ということの雄弁な表現になってる。実際、この「最終回」を生み出した人たちは、まさしく“ドラえもんの子供たち”といえる世代の人たちだったといえます。『ドラえもん』が、「読者=のび太」自身の手で作られていくというのは、ドラえもんの物語そのものからすれば、むしろ幸福なことなんだと思う。今回の「最終回」の原案となった都市伝説のなかに、ドラえもんの“設計者”が残したという「規約」のエピソードが出てきます。それによれば、ドラえもんの構造について設計者自身に問い合わせることはできないが、ドラえもんを「修理及び改造」することは、自由に行なってもよい。という規定がなされています。ここにも、二重の意味が巧みに込められています。今回の騒動で、小学館側は、許諾のない出版・販売を問題にしたのでしょうが、だからといって、作品自体のこのような創作(いわばドラえもんの「修理及び改造」)そのものを、故人である藤子・F・不二雄が禁じていたわけではなかったと思える。むしろ、ドラえもんの新たな物語が、多くの読者(=のび太)たちによって作られ続けていくことのほうが、作品の生命を繋いでいくという意味では、幸福なことなんだと思う。奇しくも、評論家の夏目房之介が、この「最終回」の出来への賛辞を述べていましたが、彼の祖父であった漱石の作品もまた、多種多様なパロディや『続編』を生んだことを思い起こさせます。まさしくそれが文化なんだといえる。「権利」というのは、文化を守るためにこそあれ、それを阻害するためにあるものじゃないってことは言うまでもない。もしその点で、本末転倒な「権利重視」なんてのがあるんだとすれば、それは唾棄しなきゃいけないと思う。今回のような創作物が、社会的にも「正当な作品」として成立するように環境を整備すべきですが、いずれにしても、これだけの高度な内容なら、「作品」として残っていくのはほぼ間違いありません。
2007.05.31
国家の「自衛権」が認められるのは、それが「自然権」と見なされるからだ、とされています。個人の「自然権」が集合しているとされる国家には、自然権のひとつである「個人の生存権」と同様に、「国家の生存権」というべきものが認められることになり、それがすなわち、国家の「自衛権」の根拠になるというわけです。けれど、一般に「個人の生存権」を認めるということと、個人によるピストルの所持や、その使用を認めることとは別問題です。それと同じように、「国家の生存権」を認めるということと、国家による自衛力の保持や、その行使を認めることとは、理論的に別な話です。◆安全保障にかんする日本国内の議論には、「自衛戦争は○で、侵略戦争は×。そして制裁戦争は△」というようなイメージがある。ですが、「自衛が○で、侵略が×だ」というのは、ほとんど語義矛盾です。≪自衛≫と≪侵略≫は、もともと土台を同じにする概念だからです。のみならず、現実において、両者はほとんど区別できません。「先にやった」ほうが≪侵略≫にあたり、「やられたからやり返した」というのが≪自衛≫にあたります。けれども、子供の喧嘩をいつも「両成敗」にせざるをえないように、「どちらが先にやったか」というのは、いつだって水掛け論になる。かりに、中国や北朝鮮がミサイルに燃料を注入したとして、それが撃たれる前に、日本の自衛力によってそれを叩いたとすると、相手から見て、それは確実に「日本からの侵略」と見なされるわけです。「撃たれる前に撃つ」というのは、≪自衛≫であると同時につねに≪侵略≫です。ですから、この二つは同じ概念です。「自衛はやるけれども侵略はしません」というのは、まったく意味をなさない約束です。かりに「侵略をしない」のと言うのならば、それは「自衛もしない」ということでなければ意味がありません。◆最近も銃の乱射事件がありましたが、アメリカでは、個人のピストルの所持が認められています。つまりアメリカでは、個人における「自衛力」の保持が放棄されていません。しばしば「自衛権は自然権だ」といわれるとおり、たしかに、「自然」な状態における人間は、槍などを持って、身を守るために戦っていたのかもしれません。けれど、個々人が槍やピストルで戦いあうような社会を「正しい社会」だとは、いまや誰も思っていません。すくなくとも、日本でそう思う人は皆無だと思います。「自衛権が自然権だ」と言うのと、「自衛力の保持が自然権だ」と言うのは異なります。この区別はきちんとつけるべきです。また、「自然権」と言えば聞こえはいいですが、べつに「自然」な状態を維持するのが正しいわけでもありません。日本国内の社会では、各人の「自衛力」というのは、事実上、放棄されています。じつは、容易に個人が「自然権(自衛権)」を行使できる状態よりも、それを行使しにくい状態にしたほうが、社会の安全は維持しやすいからです。その代わりに、警察のみがピストルを所持し、手錠で人を逮捕したりすることができます。これは、いわば≪制裁≫のために使われる武力であって、「自衛力」とは違います。◆おのおのが勝手に「自衛力」を行使しあうような、そんな「自然=野蛮な状態」というものが、いかに危険で不安定なものであるかということを、アメリカは現在、国内社会においても、そして国際社会においても、強く感じているはずです。この「自然=野蛮」というべき状態が続くかぎり、今後も巨大な武力で暴れまわる犯罪者の出現は後を絶たないでしょう。つまり、国内でも、国際社会でも、テロや侵略行為は続くことになる。したがって、ここに挙げた二つの社会は、いずれ「各国(各人)の自衛力を放棄させる」ことを目指さざるをえなくなると思う。国際社会において、その実現を迫られるのは、アメリカをはじめとする大国なのですが、そのためには、国際社会における≪制裁≫のシステムを急がなければいけません。「正しい戦争」があるなどとは言いたくありませんが、やはり国際社会においても、警察権力のような組織によっておこなわれる治安行動は不可欠です。つまり、かりに「正当な武力行動」というものがあるとすれば、それは≪自衛≫でも≪侵略≫でもなく、唯一≪制裁≫のみだと思います。≪制裁≫という概念は、≪自衛≫のように主観的な根拠によってではなく、法などのような客観的な根拠に基づいて正当化できる概念です。したがって、理論的には「自衛も×、侵略も×、制裁のみが○」だと言うべきです。◆イラク戦争の失敗は、アメリカが客観的な根拠を得ずに単独で≪制裁≫に踏み切ったことにあります。たしかに現在の国際社会における≪制裁≫のシステムは充分とはいえません。とはいえ、各国が自衛力を行使しあう「自然=野蛮」な状態がいずれ破綻することも明らかです。各人や各国がその「自衛力」を行使しあう社会というのは、野蛮であり、いつも危険であり、不安定な社会です。のみならず、そうした社会の中では、それぞれが、みずからの「自衛力」を、絶え間なく、かつ際限なく、周囲よりも強くし続けなければならない。それは、警察のような制裁力に依存した社会にくらべて、エコノミーの面からいっても、非常に負担が大きいといえます。たとえば中国やロシア等と、アメリカとが一致して、国際的な≪制裁≫のシステムを作ることに合意することができれば、大国から順にその「自衛力」を放棄し、防衛の根拠を国際的な「制裁力」のほうに移行させ、同時に、世界の中小諸国に対しても「自衛力」の放棄を迫ることはできます。「自然=野蛮な状態」というものの危機が、諸大国の利害を超えるレベルに達しつつあるとすれば、世界はそうした方向へ進むしかない。◆ ◆ ◆現在、安倍内閣は、憲法において「自衛権」と「自衛力」の存在を明記しようとしていますが、この期に及んで「自衛こそが正当だ」とする戦争観念に戻ろうとすることは、実際には、時代の流れに逆行しようとする国家の意思表明であり、のみならず、それが現実には「アメリカの自衛力の強化」を意味することを考慮すれば、日本の憲法改正は、現在の国際社会に対して誤ったメッセージを発信することになる。つまり、それは、中国をはじめとする世界各国に対して、各々のさらなる「自衛力の強化」をうながすメッセージとして受け取られる。「今後も世界は自然=野蛮な方向へ進むのだから、各々は自衛力を強化しろ。」という、世界に向けた日米からの強いメッセージになる。これは、たんに国内的な議論でとどまる問題ではありません。こうしたメッセージを放つことは、歩むべき国際社会の進路に逆行する政策です。
2007.05.04
NHK-FMが、夜中の時間帯に、これまでの「名盤コレクション」にかわって、新しく「ミュージックリラクゼーション」ってのを放送してる。いわゆるイージーリスニングの番組。番組スタイルとしては、かつての「クロスオーバーイレブン」あたりを意識して、全体がゆったりと“音楽的”に構成されてる感じ。個人的にイージーリスニングってのは、安易だから嫌いなんだけど、番組のコンセプトとしては、悪くないと思います。ただ、前回の「名盤コレクション」にしても、今回の「ミュージックリラクゼーション」にしても、コンセプトじたいは悪くないと思うんだけど、内容的に、今ひとつクオリティの高いものになってこないのも事実。◇前の「名盤コレクション」は、週ごとにゲストを招いて、その人の選曲したものを聴くという試み。通常なら聴けないようなジャンルの曲も耳にできる好企画だったけど、せっかくのゲストとの会話はいつも中途半端で、紹介された音楽にかんする理解もまったく深まらなかった。今回の「ミュージックリラクゼーション」は、イージーリスニングの番組というのは現在少ないので、こういう枠もどこかに必要だとは思し、かつては喜多郎やエンニオモリコーネ、最近なら加古隆を“発見”したNHKの卓越した選曲センスに期待したいとも思う。たしかに、この番組を聴いてると、だんだん意識が遠のいてくるような、いかにもリラクゼーション効果のありそうな選曲ではある。でも、ある意味、そのへんのCDに売ってそうなパターン化した選曲とも思える。曲の合間で朗読される、「木星」や「火星」がどうとか言うお決まりのナレーションも、さほど練られた感じのしない安っぽい文面だし、ラストに短歌をひとつよむって発想も、なにやら安易な気がする。毎晩、凝ったスクリプトを展開していたかつての「クロスオーバーイレブン」の質から見ると、そうとう見劣りがするのは否めない気がします。はっきり言えば、スタッフが二流なんじゃなかろうかと思える。◇ついでに、NHK-FMの、夜の番組編成全体についても一言。夜11時台のラインナップにかんしては、番組の質はともかくとして、少なくとも、バランスはとれてる。いろいろなジャンルの音楽が聴ける。いわゆる「渋谷陽一」的な枠は、週にひとつと限定されてるし。問題は、9時台の「ミュージックスクエア」です。この時間帯に中高生向けの番組をやるのはもちろん構いません。だけど、はたして週に7~8時間も使って、毎日毎日J-POPの新作を紹介する必要があるんでしょうか?それらが自国の商品文化だとはいえ、NHKがそこまでして宣伝媒体に徹する必要があるんでしょうか?まるで、『ロッキングオンジャパン』の内容を毎晩音で聴かされてるかのようです。今の「ミュージックスクエア」を聴いてる中高生のなかから、かつて「サウンドストリート」を聴いて刺激された人たちのように、高い文化センスをもった人たちが育ってくる気はしません。たんにレコード会社のコマーシャリズム漬けになってるとしか思えない。もっといろんな音楽を聴く機会を与えようよ。NHKは、かつて「ロッキングオン」にさんざん貢献したけど、いまのうち日本の音楽文化の「ミュージックマガジン」的な部分に目を向けておかないと、いずれ手遅れになってしまうと思う。それは、今後のNHK-FMそのものの存在意義にもかかわってくる。
2007.04.10
『グッジョブ』は、満足できる快作だった。(*~~*)やっぱり、大森美香ちゃんは、ドラマ全体の構成力で勝負するというよりも、ディテールの細やかさで攻めるタイプ。だから、長い作品より、短いもののほうが、数段冴えますね。‥とはいえ、全5話は短すぎるよっっ!!!(T_T)せめて倍、2週間で10話くらいやってほしかった!課長、とっとと退職しすぎだし!課長が退職するまでもう5話ぐらいあれば、上ちゃんの寂しさを、もうちょっと共有できたのにナ。でも、ま、こんなふうにサラッと終わっちゃう感じが大森ドラマかな‥。◇『グッジョブ』はすごく「前向き」なドラマだったけど、それは“夢”や“希望”に満ちているってことじゃない。むしろ、その種の“夢”や“希望”は、このドラマにはまったく出てこない。「何かを成し遂げたい」とか、「好きな人と結ばれたい」とか、登場人物のだれひとり、そういうことを語らない。言ってみりゃ“夢も希望もないドラマ”。たんに、「人間関係を円滑に」とか、「コミュニケーションで良い仕事を」とか、そんな、従来の感覚からしたら、とても地味でつまらないことを問題にしただけのドラマなんだけど、そんな日常の何気ないことでも、その機微をキラキラと魅力的に描けるのが、大森脚本の特長。いまから思えば、『ニコニコ日記』や『風のハルカ』も、そういう系統の作品だったんですよね。NHKは、そういう大森脚本の特質をとてもよく分かったうえで、今回のドラマを作ってるなあと思います。この作品は、今まで以上に、大森脚本にふさわしい、ピッタリの素材でした。今回は、ドラマ自体に対する評価としては、(短かかったこともあって)「佳作」ぐらいかもしれないけど、企画そのものに対する評価としては、もう、100点満点でいいです。(~o~)☆ ☆ところで、大森ドラマで満足したついでに、ひさびさに、『ニコニコ』だの『ジーン』だのを、ネット上で検索して遊んでたんですけど、そんな中、新たな発見をしてしまいました。あの『不機嫌なジーン』の例の最終回で、トラウマを残してしまった人たちが、自分たちで「その後のジーン」を書き続けていたんですね‥。今になって、はじめてそのことを知りました。様々な「その後のジーン」がネット上にあるみたいですけど、その分量たるや、すごい膨大で、すでに本編をはるかに越えてると思います。あれから2年以上もたつのに、トラウマの力って、すごい‥。(~~;;そういえば、わたしもあのころ、いつしか仁子ちゃんと教授の結ばれる可能性はありやなしや‥と、必死で考えたりしていたわけです。‥というわけで、幾つか「その後のジーン」をチラチラと覗き見してたんですが、そのなかのひとつに、『のだめカンタービレ』を『ジーン』にシンクロさせてたものがありました。これは、ちょっと嬉しかった。わたしも、同じような感じをもってたから。のだめは、福岡出身なんですが、ドラマの中に、千秋くんが彼女の故郷を訪ねて、そこで有明海に出くわす、というシーンがあります。あのシーンを見たとき、わたしも、『のだめカンタービレ』が、月9の過去の系譜をちゃんと意識していて、『不機嫌なジーン』の風景と地続きになってるなぁ、と感じました。じっさい、あのときは、千秋くんが堤防の上で神宮寺教授に遭遇したりしても、何の違和感もないほどのデジャヴを感じさせた。(*~~*)だから、『ジーン』と『のだめ』をシンクロさせたくなる感覚が、わたしにも何となく分かるんです。ドラマ製作者側の人たちも、こういう視聴者のマニアックな感覚に、どんどん反応してほしいですッッ。(*~~*)
2007.03.31
このブログ、いつになったら更新するんだろ…?と、他人事のように待ってたわけですが。(~~;;さっき、何気なくNHKを見てたら、なにやら新しげなドラマを目撃。「これは恋愛ドラマじゃありません」と前置きしつつ、これからの新たな職場環境を提案するふうな、ある意味、PRドラマみたいな内容だった。ベタベタした内容の物語じゃないので、逆に、スッキリとした印象で良かったです。やや「サラリーマンNEO」風な、いかにも“NHKテイスト”な雰囲気に、村川絵梨、山本禎顕、水野真紀‥となんだか見たような顔ぶれ。「よるドラ」枠でも復活したのかな?‥と思いつつ、エンディングのクレジット見てたら、なんと大森美香&片岡敬司の、ゴールデン・コンビ@ニコニコじゃありませんか!!そうだったのね。毎晩見ますよ。なんなら新シリーズでもはじめて下さい。見ますので、全部。☆追記。今季ドラマ、『拝啓、父上様』、『演歌の女王』。この2本最高でした!!まだまだ日テレのあの路線は、目が離せません。
2007.03.26
月9の『のだめカンタービレ』。クラシック音楽を素材にしたという点では面白いけど、ドラマの内容それ自体には、さほど特筆するほどの斬新さも無いかなあ、と思ってました。いつものように恋愛話が中心で、どうせクラシック音楽なんてのは、ただのネタなんだろうと思ってたから。だから、このドラマに何か注目する点があるとすれば、それは唯一、音楽を担当する服部隆之が、どんなふうにクラシックを聴かせるかってことだけだと思ってました。でも、じつは、音楽を担当する服部隆之だけじゃなく、このドラマ全体が、クラシック音楽の魅せ方にかなりこだわってるってことが分かってきた。恋愛うんぬんじゃなく、クラシック音楽こそが、このドラマの中心なんですね。実際、関連のCDが、サントラ以外に4種類あって、さらには8枚組のBOXセットまで出るんだとか。このドラマの、クラシック音楽に賭ける本腰の入れようがうかがえる。フジテレビは、『ウォーターボーイズ』のときみたいに、『スウィングガールズ』のほうもドラマ化するのかな・・と思ってたけど、この上野樹里ちゃん主演のドラマで、あの映画よりはるかに魅力的に、音楽の楽しさを描けてると思います。ドラマの中でのクラシックの魅せ方も、難しかったり、堅苦しかったりするわけじゃなく、かといって、下手にクラシック音楽をポップにアレンジしすぎるわけでもなく、順当にクラシックの楽しさを表現してる。そこがいいと思う。学校のワイワイガヤガヤを舞台にしてるのも成功ですね。とくに若い視聴者は、こういう雰囲気が見てて楽しいだろうから。日本で、クラシック音楽を物語のモチーフにする場合は、ヨーロッパのように格調の高い雰囲気にしたり、情熱的なメロドラマにしたりするんじゃなく、むしろ、こういう舞台にするほうが合ってるかもしれません。それから、秋の月9といえば、終盤に向かってクリスマス・シーズンを意識することが多いけど、どうやら今年は、ベートーベンのシンフォニーあたりで盛り上がれそうな予感。モーツァルト100年の今年は、ウンザリするくらいモーツァルト一辺倒って感じだったけど、このドラマでは、さほどモーツァルトは目立ちません。圧倒的にロマン派の音楽が多い。じつは、わたし自身も、モーツァルトっていまいち浮世離れしすぎてて、のめりこみづらい。だから、やっぱり、年末にベートーベンが聴けるのは楽しいです。ロマン派の情熱でもって、過剰なまでの人生の喜怒哀楽を、これでもかと言うほどぶつけまくってほしいです!年末といえば「第九の合唱」だと思ってる人が多いけど、個人的には、第九なら2楽章のスケルツォのほうが冬っぽい。7番や8番ってのも、ものすごく冬の気分が盛り上がります。そりゃ織田裕二の唄う「ラストクリスマス」よりは、ベートーベンのシンフォニーのほうが、断然、盛り上がるだろうなあ・・・。◇ツヨシくんの『僕の生きる道』。シリーズ3作目ともなると、さすがにマンネリ化するんじゃないかと心配したけど、ますます難しいテーマに取り組んでます。難病をあつかったドラマは多いけど、このドラマは、その種のドラマとはまったく違ってる。主人公にたやすく共感できないから。最近の視聴者の中には、「作中の人物に共感できるかどうか」ってことを、ドラマの評価の基準にしてる人が多い気がするけど、このドラマの主人公は、最初から、視聴者の安易な共感というのを拒んでいます。だから、ドラマを見てる側は、この主人公に対して、どう共感していいか必然的に戸惑う。そもそも、主人公に恋愛感情があるのかどうかも分からないので、ドラマを「恋愛ドラマ」として見ていいのかどうかすら分からない。ただひたすら、主人公の「心」の内側を、注意深く見続けるしかない。そういう種類のドラマです。すごく果敢な挑戦をしてるなあと思います。
2006.11.18
前回の『熟年離婚』では、TBS『Mの悲劇』の脚本家と、NHK『義経』の渡&松坂ペアを借用して、ふてぶてしくも秀作をつくってみせたテレ朝でしたが、今回の『家族』も、期待にたがわない堂々の出来っぽい。橋本裕志の『熟年離婚』のときは、かなり「大振りな脚本」が、ひとつの魅力だったけど、今回は、かなりキッチリと緻密につくってある脚本だし、より「本物感」のただようドラマになってる気がします。どうやら今回も、ツヨシくんの『僕カノ2』あたりから、設定をあからさまに借用してるっぽい感じではあるけど、ドラマ自体の出来としては、こっちのほうが数段上回っているというほかありません。どっしりと安定感のある映像美や演出については、『熟年離婚』の流れをしっかり引き継いでますが、今回は、さらに、出演陣が迫力を増してます。渡哲也の存在感については今さら異論ないけど、竹野内豊を主演においた判断が、まず的中していると思う。そして、悠斗くん役の子の演技がまた素晴らしい。この3人がドラマをがっちりと作ってる。悠斗くん役の子の演技は、一見あどけないようでいて、じつは、かなりしっかりと演じてる。とくに、竹野内と悠斗君の2人のシーンは、ほとんどカットを割らずに、かなり長回しで撮ってある。この主演級の3人の「演技力」に多くを負う演出の手法が、ドラマに確かな力強さを与えてる感じがします。同じテレ朝には、夜中に『アンナさんのおまめ』ってのもあって、そっちのほうは、とても「正攻法」とは言いがたいキワモノドラマなんだけど、でも、わたしは、この『アンナさんのおまめ』のほうにも、ただならぬ迫力を感じてる。このドラマ自体については、ちょっとコメントしづらいけど、今後のテレ朝ドラマの可能性を感じさせるものがあります。今季は、いよいよテレ朝がドラマで抜きん出てきたかも知れません。
2006.11.07
以前の「NHK-FM問題」にも絡んで、今日は、そのFMの番組のことを少し。NHK-FMの昼の番組、「ひるのいこい」。ラジオ第一だけの放送だった頃は、とくに聴いてませんでしたけど、FMでも放送するようになってから、よく聴くようになった。あらためて聴くと、この番組、最強です。◇絶妙な選曲。古い歌謡曲や演歌に固執してるわけでもなければ、最近のJ-POPに偏ってるわけでもない。気持ちの落ち着く曲が多いけど、どの年代の日本人にも受け入れられる選曲だと思う。この番組で流れてくる曲を聴いてると、現在の日本のマーケットやポップ・ジャーナリズムが、いかに偏った嗜好をもった、排他的な世界をつくっているかが分かる。日本の普通の曲のなかにも、いいものはあるんだなと思える。今のマーケットも、ジャーナリズムも、つねに「新しいもの」を求めようとする傾向があるけど、じつはそれじたいが、偏狭で、狂信的な考え方だし、まして、一部のジャーナリズムのように、「歌謡曲的なもの」を意図的に排除しようとする態度は、日本の音楽文化にとって、かなりの害悪にさえなりつつある。新しくはないけれど、普通の音楽でも、いいものはいい。◇この番組の特筆すべき点が、もうひとつある。それは「番組全体が“音楽的”に構成されている」という点です。毎日、担当のアナウンサーが、日本中から届く、いろんな“便り”を読むんだけど、それを読むアナウンサーの語り自体が、番組のなかで、ひとつの音楽的な要素になっている。ぶっちゃけ、“便り”そのものの内容は、よく意味が分からなかったりもするんだけど、それは、さほど問題じゃない。重要なのは、語りと曲とが、ともに音楽を奏でてるという番組の構成です。こういうタイプの番組は、だいぶ少なくなった。かつての「クロスオーバーイレブン」なんかは、そういう番組の一つだったと思うけど、今はそれもないし。かろうじて、現在では「音の風景」とか「FMシアター」ぐらいかな。わたしが、個人的にNHK-FMに期待する番組には、大きく言って2種類あるんだけど、そのひとつが、この「ひるのいこい」のように、番組全体が“音楽”になるようにつくられた、洗練された番組です。あと、もうひとつは、徹底的にテーマを絞って、特定のジャンルの音楽を系統的に紹介してくれるような番組。以前のNHK-FMには、その種の専門番組や特集番組もあったんだけど、最近では、それも少なくなりました。近年のNHK-FMは、祝日などに「○○三昧」というのをやってるけど、たいした専門的な解説もなければ、選曲もさほど系統的でなかったりする。NHKなんだから、それなりに高い水準の内容にしてほしい。そのためには、資料になる音源も必要ですけど。こう言っちゃなんだけど、知性のないパーソナリティが、いきおいにまかせて喋りながら曲をかけていく、みたいな、そういう安っぽいDJスタイルの番組ってのは、おおむね、民間の放送局にやらせておけばいいんじゃないでしょうか。※現在、音楽惑星さんにお邪魔して、「斉藤由貴」問題について考えています。
2006.10.17
あわよくば、すべての極東裁判の内容を拒否してしまおうという、そういう貧しい発想を、よりによって「政府見解」にしようとしてるところに、安倍晋三という人物の、右翼的な幼稚さが出てる。安倍の繰り広げた理屈は、つまり、こうです。日本は、国際社会にむかって、極東裁判の内容に対する異義を申し立てる立場にはない。けれども、国際社会から、「極東裁判の断罪の内容に同意したのか?」と聞かれたら、日本政府は「うん」とはいわない。すごいなー。バカだなー。安倍。こりゃまた国連脱退だな・・。「敵国」復帰。◇安倍晋三は、大江健三郎の言った「あいまいな日本」に対抗すべく、あくまで川端が未練がましく語ったような、「美しい日本」の幻影に固執してる。でも、やっぱり「あいまいな日本」だな。ほかならぬ、安倍自身がいちばん「あいまい」なんだから。過去のあやまちを潔く受け入れないかぎり、日本は、いつまでたっても、- 美しい国 - になんかなれませんよ。やっぱり、日本は永久に「あいまいな国」のままだな。けっきょく、大江健三郎の予言は、こういうカタチで当たるんだよ。
2006.10.06
【ヒロインについて】今回の作品で、宮崎あおいちゃんに要求されたことは、視聴者の「共感」を呼びよせることではなく、とにかく、半年間にわたる長いドラマの、あれやこれやの様々なエピソードのなかで、たえまなく強力な「存在感」を放ち続けることだったと思う。その意味で、宮崎あおいちゃんは完璧でした。いわば、彼女の役割は、数々のエピソードが散乱する長期ドラマの中で、ヒロインとして「出来事に遭遇する力」を発揮し続けるってこと。事実、このドラマで、桜子の立ち会わないエピソードは、たぶん一つもない。ほぼ、すべてのエピソードに、桜子が立ち会ってたと思う。実際には、このドラマの外には、もっともっと色々なエピソードがあったはずなんだけど、桜子のいない場所で起こった出来事は、このドラマには出てきません。たとえば、反戦少女だった薫子が、兄を亡くしながら、戦中をどんな思いで過ごしてたのか。戦前の教育を受けた勇太郎が、現実との狭間で何を考えていたのか。かつての不倫相手と結婚するまでの間に、磯にどんな事があったのか。そんなふうに、実際にはいろんなドラマが同時にあったはず。でも、ヒロインのいない場所でドラマが進行すると、一般の視聴者は、物語がどこにあるのか分からなくて不安になるから、物語は、つねにヒロインのいる場所で進行する。本来は、各エピソードは脈絡なく散乱してるだけなんだから、物語がどこに行こうが、べつに構わないんだけど、でも、むしろ、各エピソードどうしをつなぐ明確な「軸」が無いからこそ、ヒロインがつねにそこに存在し続けることは重要です。ヒロインの存在そのものが、ドラマにとって唯一の「軸」なんだから。つまり、このドラマの各エピソードには、一貫したテーマも何も無いけれど、強いて言えば、このドラマのテーマってのは、「桜子=宮崎あおいちゃん」その人なんだと言っていい。不規則に羅列されたエピソードをつなぐ軸になるのは、ただ、あおいちゃんの顔としぐさ。それのみ。とにかく、彼女さえ画面に出ていれば、たとえどんなに突飛で唐突なエピソードが描かれようと、それは間違いなく『純情きらり』の物語なんだと、そう視聴者に思わせるような強い存在感が、宮崎あおいちゃんに必要だったし、宮崎あおいちゃんには、それを実現するだけの資質があった。そもそも、それが無かったら、「NHK朝ドラ」のような長期のドラマというものは成立しない。ヒロインは、長いドラマの沢山のエピソードを繋ぐ、唯一の軸でなきゃならない。こういう資質というのは、とりわけ宮崎あおいちゃんだけに具わっている資質ではありません。すぐれた俳優さんなら、ほとんどの人がもってる能力だと思う。でも、「NHK朝ドラ」のように、あえて既存の俳優を使わず、毎度毎度、ヒロインを新人オーディションで選ぶような慣例の中では、主役の新人の女の子に、こういう強い存在感を求めるのは、かなり難しいことだといえる。それは、はっきりいって賭けに近い。存在感そのものが軸になりえないような、心もとないヒロインを中心にして、沢山のエピソードや、長期にわたる物語を描ききろうというのは、よくよく考えれば、かなりリスキーなことだと思う。そういう意味で、「NHK朝ドラ」は、やっぱり厳しい条件を背負ってる。ちなみに、宮崎あおいちゃんは、その「存在感」という点から言って申し分なかったけど、演技力という点から見ても、さすがだったと思う。わがままであることが許された「戦前」ののびやかな時代。苦悶に満ちた表情を浮かべて、自分の欲望を押し殺して生きていた「戦中」の時代。そして、「戦後」に生きる大人として、自分の分をわきまえながら、与えられた人生を受け入れようとした後半の桜子。桜子の表情と生き方を通して、3つの異なる時代を明確に演じ分けていたあおいちゃんはさすがでした。【福士誠治くんについて】このドラマで、福士くんが果たした役割は大きい。浅野妙子は、視聴者戦術においても、重要なメッセージを伝える場面でも、かなり意識的に「達彦」の存在を使ってた。たとえば、通常、日本の戦争は「被害性」の視点から描かれることが多いけど、戦争の「加害性」の側面というのを、達彦の存在を通して描いたことは、重要な意味があった。(「加害性」といっても、中国人ではなく、日本兵に対する「加害性」でしたが。)こういう福士くんのような存在は、今後の「NHK朝ドラ」を考える上でも、重要な参考になるんじゃないかと思う。つまり、ヒロインをオーディションで選ぶのではなく、福士くんのような「王子様役」の男の子をオーディションで選ぶ、というのは、ひとつの手として有り得ると思う。ぶっちゃけ、今回のように、劇団ひとり、達彦、キヨシ、冬吾と、複数の「王子様候補」が登場するような展開なら、あらかじめ数人の俳優を抜擢して保険にしておくという展開も可能だし。視聴者対策としても有効に機能する。少なくとも、ヒロインをオーディションで選んでしまうよりも、リスクは少ない。今後は、新人男優の発掘に力を入れてみてはどうでしょうか。正直な話、今までの朝ドラみたいに、若い女の子が成長してく様子を、TVの前のじいさんたちに目を細めながら見てもらおう、みたいな発想の内容は、いいかげん飽きた。むしろ今は、テレビに出てくる可愛い男の子の立ち居振る舞いを、目を細めながら眺めてたい、という女性の側の要望のほうが強いし、そちらのほうを優先させるべき時勢に来てる。それに、そのほうが視聴者の需要にも合ってると思う。 【お知らせ】現在、音楽惑星さんにお邪魔して、「斉藤由貴」問題について考えています。
2006.10.01
このドラマの成功要因は、大きく分けると、次の三つ。◎ 浅野脚本のエピソード量。◎ 宮崎あおいちゃんの存在感。◎ 福士誠治くんの貢献。もともと、わたしは、前作の『風のハルカ』に対して懐疑的だった。なぜなら、テーマ性が曖昧じゃないか、と思えたから。でも、じつは「テーマ性がはっきりしない」という点では、『純情きらり』も、『風のハルカ』も、大差ない。「ジャズ」なのか「クラシック」なのか分からないし、「家族」なのか「恋愛」なのかも分からない。ヒロインの「父の水晶」が紛失してしまうところも、風のハルカのときの「龍のウロコ」と同じだった。でも、それにもかかわらず、なぜか、『純情きらり』の場合、そのテーマ性の曖昧さや、各エピソードの連関の薄さは、さほどの欠点に思えなかった。いまになって思うことだけど、「NHK朝ドラ」にとって本当に必要なものってのは、一貫したテーマ性とか、各エピソードの整合性とかじゃなく、とにもかくにも、ネタやハッタリを駆使してでも、毎日15分の枠をきちっと埋めて、翌日の放送へと確実に継ないでいくため、その圧倒的な「量」と「密度」なんだな、と思う。『純情きらり』に有って、『風のハルカ』に無かったものは、けっきょく、何よりそれだったんだ、と気づきました。そう考えると、『風のハルカ』のときに、テーマの一貫性を求めようとしたわたしは、ちょっと酷だったなあと思うし、かえって、一貫したテーマ性なんかにこだわりすぎるのは、半年の長いドラマ枠を、単線的で、貧弱な内容にしてしまう恐れがあるし、むしろ、避けるべきことなのかもしれない。それが、「NHK朝ドラ」というドラマ枠の、他の枠にない特殊性なんだと思う。【浅野脚本について】そもそも、『純情きらり』の脚本は、以下の3つの点で有利でした。・歴史ものだったこと。・もともと浅野妙子は歴史ものが得意だったこと。・分厚い原作本があったこと。この条件があったからこそ、『純情きらり』は、豊富なエピソードの量を確保できた。もちろん現代劇でも、分厚い原作本などがあれば、豊富なエピソードを確保することはできると思う。だけど、現代劇の場合、エピソードの量が増えて、エピどうしの繋がりが希薄になると、物語全体が、どうしても散漫な印象になりかねない。その点、歴史もののドラマというのは強い。たとえ各エピソードのつながりが希薄になっても、物語全体が、「時代のベクトル」に向かって進んでいくような、そういう一体感を期待できるから。『純情きらり』でも、“戦前・戦中・戦後”という3つの時代背景のもつ一定の色彩が、登場人物の描写と、各エピソードの雰囲気に、統一した印象を与えてた。だから、長期の連続ドラマの場合は、やっぱり歴史もののほうが有利なんじゃないかという気がします。そして、やはり『純きら』では、エピソードを創造する浅野妙子の能力の高さが際立った。しかも、浅野妙子は、視聴者の関心を巧みに取り込んで、翌日の放送に強引に引っぱる、ネタやハッタリの使い方も、相当にあざとい。いわゆるアンチの人を引き込んだのも、かなりの部分はネタだったと思う。きわめつけのネタは、最終回にも出てきました。達彦の子守唄を聞いた途端、桜子の具合が悪くなってしまうという、あの不思議なシーン。もしや、達彦のあのビミョーな歌声が、ヒロインの直接の「死因」になってしまうんじゃないかと、みんなが心配して駆けつけてみると、何事もなく、おだやかに談笑している2人。死にそうで、なかなか死なないヒロイン。最終回の、貴重な15分の時間の中に、あんなドリフの“臨終コント”みたいな、どうしようもないコテコテの場面をあえて見せることで、浅野妙子は、じつはこのドラマ全体が、かなりの程度「ネタドラマ」だったんだと、最後の最後に、正直に自白してみせた。(しかも最後にネタに使われたのは達彦。)ネタとハッタリを織り交ぜて、圧倒的な量を書きこなす、そういう脚本。「NHK朝ドラ」に必要なのは、こんなふうに、ネタやハッタリを駆使しながら、とにかく半年分の「分量」を書きこなせる脚本家なんだろうと思うけど、でも、いまのドラマ界には、「上手な脚本」を書ける人は沢山いると思うんだけど、こんなふうに「量」を書ける人というのは、意外に少ないと思う。そういう意味で、今回の成功にもかかわらず、やっぱり「NHK朝ドラ」は、今後も厳しい条件を強いられるでしょう。
2006.10.01
最終回。浅野妙子にやられた。この脚本家は凄い。あざといけど、巧みです。◇桜子は、何も成し遂げませんでした。桜子の人生は、何もできなかった人生でした。桜子の人生は、なにものでもありませんでした・・。我が子にすら触れられない桜子の最期の姿は、このドラマの、そういう結論を表しているんだけど、でも、このドラマの本当の主題は、桜子のあれやこれやの人生の出来事じゃなかった。それは、結局、最後にあの8mmのスクリーンに大映しにされた、あの赤ちゃんの姿だったってことです。◇このドラマは、結局、桜子の物語なんかじゃなくて、あの最後の「赤ちゃんの映像」を見せるための作品だったと言っていい。桜子の歩んできた人生なんて、本当はどうだっていい。そんなものは、数ある人生のうちの一つに過ぎない。浅野妙子は、そうやって、せっかく半年もかけて延々と描き続けてきたヒロインの人生のエピソードを、最後の最後に、ポイっと捨てる。大事なのは、人生の中のあれやこれやの出来事じゃなくて、何でもない「命そのもの」なんだ、と。浅野妙子は、最初からそのことだけを描くために、わざわざ半年もかけて、ヒロインの人生の色々なエピソードを、“すべて無駄になる”ことをはじめから知りながら、ただただ、書き続けてきたんだと思う。しかも、同時に、テレビの職業脚本家として、ネタとハッタリを織り交ぜ、高い視聴率をきっちりと確保しながら!!それが、浅野妙子の凄いところだよね・・・(*^_^*)◇もともと、母親マサの人生も、何も成し遂げられなかった、儚い人生でした。このドラマのヒロイン=桜子の人生も、結局は、何も成し遂げられない、なんでもないような人生でした。そして、やっぱり息子の輝一だって、最終的には「なんでもない人生」を送ることになるのかもしれない。だけど、あの、生命いっぱいの赤ちゃんの8mm映像を見ていたら、たとえ、人の一生が、「何も為すことが出来ないもの」だとしても、それが無駄だとか、不必要だなんてぜんぜん思えない。大事なのは「命そのもの」なんだから。“なくてもいい命”なんてない。その単純なメッセージのために、無駄なエピソードを、半年も見せ続けた浅野妙子は、本当に凄い。演じ続けた役者さんも、えらい。毎日見続けたわたしも、ある意味、褒めたい。ものすごくご苦労さまでしたと言いたい。あの画面いっぱいの赤ちゃんの映像は、忘れられません。あらゆる意味で、浅野作品のドラマ力に脱帽。※現在、音楽惑星さんにお邪魔して、「斉藤由貴」問題について考えています。
2006.09.30
今日の冬吾のエピソードは、このドラマの、数あるエピソードの中でも、ものすごく特異な感じがしました。もともと、このドラマは単線的なストーリーではないんだろうし、それゆえに、色んな人物の色んなエピソードが、脈絡もなく出てくるのも分かる。まして、すべての出来事を「桜子と達彦の物語」に集約できるとも思ってない。なので、べつに、この期におよんで、桜子と冬吾が、生死の境で互いを呼び合ったとしても、それが特別唐突なエピソードだとも思わないし、それを見て、すぐに「男女の関係」を勘ぐる気もない。むしろ、ドラマ的にいえば、これまでの2人の関係に、最後の決着をつける必要があるのは、当然なことなのかもしれない。・・なんだけど、今日のエピソードは、きわだって特異な感じがする。なんとなく、ドラマの物語の外にある、メタ=エピソード的な感じ。まず、今日の冬吾は、ほんとに「太宰治」になってる感じだった。かなりはっきりと「冬吾=太宰」に見えるような気がした。もしかしたら、原作者も、今日のドラマのように小説の中で父親を救ったのかな?と思ったんだけど、実際は、津島佑子は、やっぱり小説の中でも冬吾を死なせたらしい。ってことは、死んだ太宰に向かって「生きなきゃダメなんだよ」と告げる桜子は、同時に、このドラマのオリジナルのメッセージをも語ってることになる。物語がこういう形で逸脱してくるときは、ドキッとする。冬吾が、冬吾を超えて、太宰的なものを象徴する存在として、このドラマの中では救ってもらえたんだなと思いました。桜子のこういうメッセージが、彼女の“遺言”になってしまうのかどうか、わたしもまだ知らないけど、どうやら、今日の桜子が作曲してたメロディも、このドラマのテーマソングだったらしいし、今週は、こういうメタ=エピソードが続くのかな・・。
2006.09.27
NHKの『純情きらリ』は、とても高い視聴率を維持しつつ、終盤に来ています。浅野妙子が書く脚本の、圧倒的なエピソードの「量」。宮崎あおいちゃんの、ある意味「剛腕」ともいえる存在感。福士誠治くんの起用を巧みに使った視聴者戦術。その他、いくつか成功要因があると思いますが、『スタパ』やら何やら、NHKも総力を挙げて、成功にこぎつけた感がある。この成功は、今後の朝ドラ製作にとっても大きなヒントになるとは思うけど、現実には、今回と同じような条件をそのつど整えるのは困難。むしろ、それゆえに、朝ドラを製作することの難しさを痛感させる結果じゃないかと思う。◇おそらく浅野妙子は、今回の作品で、低迷する朝ドラの「視聴率回復」を最大の目標にしたんだと思う。そして、それは、見事に成功しました。もともと彼女は、そういうタイプの脚本家だったと思うけど、今回は、その側面が、よりハッキリと出てた。しかもそれは、NHKの「朝ドラ」という枠の性質にも、完璧にハマった。わたし自身、今回の作品で、はじめて「NHK朝ドラ」という枠の特殊性を認識しました。それから、浅野妙子が「宮崎あおい」という人を好んで起用する理由も、わたしは、何となく分かった気がします。毎日15分の枠を、確実に翌日へとつないでいく圧倒的なエピソードの量。そして、物語の分かり易さ。まず何よりも、このことが、多くの視聴者を呑み込むために必要な最大の条件だったと思う。たとえば、ネット上では、このドラマの大量の「アンチ」ファンが生まれました。しかも、そうしたアンチが、最後まで消えなかった。アンチの人たちも、結局、最後までこのドラマを見ることを止めなかったし、最後まで、ドラマの内容について、毎日毎日喋りつづけた。その事実は、このドラマがいかに多くの視聴者にうったえる「分り易さ」を備えているか、それを逆説的に証してたと思う。浅野妙子は、ほぼ意図的にそれをやったと思うけど、つまり、このドラマは、だれでも毎日毎日文句を言い続けられるような、そういう分り易さをもってる。いい換えれば、「万人向け」に作られてるってこと。日本中の朝のお茶の間と、熱心なアンチファンをも呑み込みながら、大量のエピソードを、半年にわたって見せ続け、この物語を経験させる。それが、NHK朝ドラの本来の課題であり、この作品の当初からの最大の目標だったとすれば、その目論見は、完全に達成されたといって良いと思う。宮崎あおいちゃんのヒロインには、これまでになかった、いくつかの特徴があると思うけど、そのひとつは、このヒロインが、視聴者の「共感」を必要としなかったことです。これは、もしかしたら、浅野脚本のすべての主演女優に共通して言えることかもしれません。『大奥』を思い返してみると、菅野美穂も、瀬戸朝香も、内山理名も、とくに視聴者の「共感」を誘うタイプの女優とは思えなかったし、彼女たちの演じるキャラも、そういうものを必要としていなかった気がする。もしかしたら、人々の「共感」を呼ぶキャラを中心に据えてしまうと、そのキャラを中心に、物語が「単線的」になりすぎるきらいがあるのかもしれません。それを避けるために、浅野脚本の場合、視聴者の安易な「共感」をそれとなく拒みつつ、とにもかくにも、圧倒的な量の「物語」をみせつけていく。そういう特徴があるんじゃないかと思いました。浅野妙子が好んで宮崎あおいちゃんを起用することも、きっと、そういうことに関係があると思います。そういう意味で、宮崎あおいちゃん演じるヒロインが、このドラマの圧倒的なエピソードを見せ続けるために、物語の中央で見せつづけた存在感は、いわゆる「共感」とはまったく別のものだったと思います。そうだとすれば、この目論見も成功だったと思うし、慣例に逆らった今回のヒロインの起用は、(今回は間違いなく浅野妙子側の要請だったと思うけど、)今後のヒロインを考える上でひとつの参考にしなきゃならない。『純キラ』がなぜ成功したか、理由はもっとあると思います。それについては、また後日。 【お知らせ】現在、音楽惑星さんにお邪魔して、「斉藤由貴」問題について考えています。
2006.09.19
『純きら』。今日はふたつめのレビュー。というより、中間考察。冬吾と笛子は、意外にもあっさりと結ばれたんだけど、正直、わたしにはまだ腑に落ちないところがある。東京時代の冬吾と、岡崎に来てからの冬吾。ずいぶんキャラが変わってる、と感じてる人は多い。岡崎に来てからの冬吾は、本来の姿を隠して、何かすこし「演じてる」ように見える。変な歌をうたって踊ったり、妙に明るすぎる。のみならず、笛子に対しての態度もそうだし、創作活動に対する態度もそうなんだけど。「結婚」をあっさりと受け入れたり、看板とかカエルとか、当たり障りのない絵を描き続けたり。どうも、怪しい。東京時代の彼のキャラからは、ちょっと想像しにくい。◇今日は笛子の意外な一面が出た。「源氏物語」のことで、役人に楯突く笛子。これも、今までの彼女からは想像しにくかった。笛子というのは、姉妹の中でもっとも保守的で、世間の常識を突破することのできない、じつは「いちばん弱いところのある」キャラクターって設定だった。だから、今日の笛子の描写は、ちょっと驚き。もちろん、なにか政治的な信条があって『源氏物語』にこだわってるとか、そういうことではないんだと思う。ただ純粋に、政治や思想とはまったく無関係に、古典文学の素晴らしさを生徒たちに伝えたい、というだけのところへ、たまたま、いつもの強情な性格が表に出てしまって、役人にたいして迂闊な口答えをしたのが災いしたってだけのこと。とはいえ、「冬吾の芸術活動を支える」という決心をした時点で、笛子は、それまでのキャラから変わる必要に迫られていたし、今回のことでも、冬吾を守るという彼女の立場上、権力に逆らうことも含め、引き返せないところへ来てしまった。◇そして、あらためて冬吾のことが気になるんだけど、「右も左もない」みたいなことを言ってトボけてるものの、ほんとに冬吾ってそれだけなのか?という疑いが消えない。というのも、わたしはやっぱり、受賞したあの絵のことが気になってます。間違ってるかもしれないけど、あの絵は、裸婦像や、看板画や、カエルの絵とかとは違って、やっぱりプロレタリア的な作風のものといっていいんだろうし、あそこに描かれた3人の男は、わたしは「囚人」じゃなかったのかな、と思ってるんだけど。何故あの時、冬吾が、突然思い立って「巣篭り」をして、あんな絵を描こうと考えたのか。なにかあの頃、あんな絵を描かせる特別な動機とかキッカケでもあったのか。ただならぬ雰囲気があったように思うんですけど・・。たんなる思い過ごし?
2006.06.20
貴様、天皇陛下を、テンノウヘイカを、てんのうへいかをっっ!!こんなもの!コンナモノ!⊇ωTょもσ!!マルクスコード。ダヴィンチコード。紫式部コード。不敬に、冒涜に、革命。せっかく桜子も音楽学校に合格できたのに、なぜか、そのエピソードも、やけにあっさりスルー。そんなことはもはやどーでもいいとばかりに、桜子帰郷だ、笛子結婚だ、西野先生再登場だと、なんだか急にあわただしく話が展開させられてるなァと思ってたら、要するに、物語は、もう新たな段階へと急旋回しはじめてたんですね。みんな、ついてこーい!!みたいな状況ですョ。いわば。朝からテンション高いし。天皇陛下が!天皇陛下が!天皇陛下が!!不敬だ!不敬だ!不敬だっっ!!・・・笛子は不敬罪で公職追放だし、杏子も濡れ衣きせられてタイーホだし、桜子も敵国の音楽めざしてるし、てぽどんも発射準備、万端だし。いよいよ日本も戦争ですか?
2006.06.20
6月7日の日記にトラックバックをいただいて、NHK-FMの件について達郎の発言があったとかを含め、ネットでも、このことでけっこう意見が交わされてる状況を知りました。わたしの考えは7日の日記に書いたとおりですが、あらためて書いておきます。わたしは、べつに、「NHK-FMを絶対削減するな」と言いたいわけじゃない。たしかに、放送文化だのマスメディアだのが、旧世代のノスタルジーだと思われる時代がもうじき来るのかもしれない。あるいは、NHK-FMがあることによって、クラシック音楽の放送などにかんする民間参入の機会が阻まれて、その文化的価値観が独占・操作されてしまってるかも、という逆の弊害も、もしかしたら、あったりするのかもしれない。いずれにしても、そうしたことをすべて議論した上で、メディア環境に関する新たなビジョンを示すことが、何より重要。ただ「削減」という結論だけじゃ、だれ一人納得しない。それでなくても、竹中とその周辺は、いまやホリエモンと同一視されてるんです。実際、「新しい時代がどうのこうの」と言いながら、その具体的なビジョンを示せないのなら、けっきょくホリエモンと変わらない。たんなる市場原理主義を盾にした横暴な議論と思われて終わり。とりあえずNHK-FMの議論にかんして言えば、現在、NHK-FMによって国民が受けている恩恵を、将来、どんなサービスによって代替するつもりなのか、どう取って代えるのか。そのビジョンが示されなければ、この懇談会も、そのメンバーもあぼんなんだよ。そして、本来なら、これから先のメディア環境全体にかんするビジョンを予測して、そのうえで、ようやく、公共放送の存在意義についての見解も示せるんだし、実際、そこまで示さなきゃ議論した意味がありません。NHK-FM以前に、この懇談会そのものの存在意義のほうが問題になってくる。「市場原理で行きましょう」なんていう結論だけだったら、そんなのホリエモンにもできるんだから。ちゃんと議論して。
2006.06.19
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