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デ コ 。 凸前回のW杯のときはロナウジーニョ。前々回のときは、ナカタ。毎回、W杯のたびに、わたしの心をビビッととらえる選手が一人いるんだけど。今回も、いましたよ。可能なかぎり毎日試合を見てたけど、「これだ!」って選手はまだ見つけられなかった。でも、今日のポルトガルの試合。可愛いオヤジ顔からは想像できないような、とっても地味な外見からくりだされる、信じられないファンタジー!!やられました。ブラジルからポルトガルに移住したらしく、さぞかし少年時代は、ブラジルサッカーの刺激を全身に浴びたんだろうな・・。どのプレイも、全然ミスがないし、きっちり抑えられたシュートは、確実に枠に飛んでくし、パスも、下手な小細工もなくまっすぐで的確だし、どこにも非のうちどころがありませんッッ!!完璧!!一点目のゴール。ノートラップで、ミドルの位置から、少しスライスさせて、ゴール右隅のほんとにぎりぎりのとこに、ギューーーン、と。なんか鳥肌ものでした。◇今回、優勝候補になりそうなのは、やっぱり、順当に、南米とヨーロッパ。ブラジル、アルゼンチン、イングランド、スペイン。この4カ国が強そうな気がする。ブラジルは楽しみだけど、ロナウドがちょっとデブってるのが、どうも・・。アルゼンチンは、(まだ試合は見たことないけど)ハイライト番組を見てたら、「マラドーナ2世」とか言われてる選手がいて、ドリブルを見たら、ほんとにマラドーナみたい・・。地面を削るボールが芝を刈っていくみたいな、あの「ブルドーザー」的なマラドーナの猛進ドリブル。「2世」といわれてる選手は、かなり楽しみ。イングランドは、いままで、日本のベッカム人気がウザすぎたせいもあって、あんまり関心をもって見たことなかったんだけど、このあいだの試合を見てたら、ちょっと“イングランド・サッカー”ってやつに魅力を感じてしまった。サッカー発祥の地らしい、几帳面で、折り目正しいサッカー。由緒正しい、オーソドックスなサッカー。ファンタジーは少ないけど、パスも、ドリブルも、個人技も、組織プレーも、真っ正面からきちっきちっと決めてくるカッコよさ。いいサッカーだなあ~、と思えました。優勝候補まであがってほしいデス。スペインは、迫力満点!攻撃力にかんしては、ブラジル並みにわくわくさせる魅力があると思う。◇ポルトガルは優勝候補としては弱いかな。フォワードの決定力が、どうも・・。クリスチアーノロナウドくんは、たしかにイケメンだけど、微妙にあたまわるそう(??)・・すみませんm(__)mフィーゴのような頭脳と勇敢さは、いまいち期待しにくいような・・。今日の試合でも、決定的なチャンスは、ぜんぶ「フィーゴ&デコ」絡みのシーンだったと思う。この2人が前面に出れば、かなりのところまで行けるかな。
2006.06.17
日増しに、激烈な面白さを爆発させてる『吾輩ハ主婦デアル』。私のなかでは、池津祥子とレッド吉田のクリーニング暴走夫婦は、あのイボリンとキョンキョンのタクシーブラザーズにも匹敵する、超強烈キャラになっちゃいました。9年ぶりに、ワイルドな夫婦関係を回復できたクリーニング夫婦。めでたく潤いを取り戻すことができたやす子、すっかり、お上品なクリーニング屋さんの奥様に大変身してましたね。キモチ悪いけどね。(~~;;いっぽう、今週は、由貴ちゃんの『モンナシーヌ』も大全開っ!つーか、そればっかりじゃんかっっ!!(~~;;;わたしも、なにか自分に都合の悪いことがあったときは、♪ お金をあげちゃったっ で、いったん記憶を失くすことにしています。で、おいしいチーズケーキを食べることにします。(≧∇≦)ついに、マジックで顔に漱石ヒゲも描いてしまった由貴ちゃん。こんどは、首に鈴つけて、ドラえもんヒゲを描いてほしいっ!!(≧∇≦)と思ってる人は、全国に5人ぐらいはいるかも。そして、ついに主題歌の「家庭内デート」が発売。由貴ちゃん。久々に歌番組に登場したよ。(T_T)この曲、一見、ただのウケねらいのコミックソングか、あるいは替え歌できるカラオケ御用達のデュエットソング・・、と思われそうだけど、でも、実のところ、わたしにとっては、かなり胸キュンソングですっ!ねえ聞いて。お母さんね。好きな人がいるの・・由貴ちゃんのこの声聴いただけで、もう、なんか、ちょっとウルウルだし。(@_@。なにげに美メロなサビが、なんども頭ん中でリフレインしちゃってます。由貴ちゃんも、こんなにいい曲なのに、「売っちゃうんです」とか言っちゃダメだよ!(笑)その、『うたばん』。昔の映像もいろいろ出てましたね。ドラマのなかには、これまでも、「レ・ミゼラブル」とか、「ビリー・ミリガン」とか、スケバン必須アイテムの「ヨーヨー」とか、いろいろ過去の由貴ちゃんネタも散りばめられてたけど、そういえば「カルピス」だって、ある意味、由貴ちゃんネタだったと、あとで気がつきました。こんどは、ぜひぜひ、「出前一丁」の代わりに「青春という名のラーメン」を食べてほしい。と思ってる人も、全国に15人ぐらいはいるかも。すでにベッシーと赤いトレーナーの女がいるのに、来週からは、そこへうっちーが参戦。猫背椿も出るし、イボリンも再登場。なにやらTBS安住も嫁探しかなんかに来るようで、いよいよクドカンワールド揃い踏み!ってかんじですか??原史奈が漱石の“マドンナ”になって、パソコンと格闘して新しい恋愛小説を書くとなれば、もしかして、ギャル文字・絵文字満載の小説で新境地を開拓??
2006.06.09
“達彦の嫁”候補として、若林家から連れられて来た日舞娘。見かけは上品に振舞いながらも、達彦の前で恥じらってみせる、その、微妙にムカつく演技が素晴らしい。こういう演技を的確にこなす役者さんって、スゴーイ。◇今日の桜子。私、達彦さんにはもう未練はないけど、冬吾さんのことが心配なんだ。さすが、魔性の女っ。「使えないロミオ」にはいつまでも固執しない。この切り替えこそが、女が戦中・戦後を生き抜くための処世術。・・ってのはウソで、桜子の心の葛藤が、いまだ奮闘中であることを示すセリフ。「冬吾が心配」というのは嘘ではないけれど、そちらに気を向けることで達彦を忘れようとする心理の表れ。べつに笛ネェと冬吾を結びつけようなんて、そんな気の利いた手回しができるような妹じゃありませんから。そして、その発言のとおり、冬吾との時間を過ごす中で、達彦への想いをまぎらせようとする桜子。イケメンを忘れるために、別のイケメンを活用する。なんて華麗な芸当は、姉の笛子にはとうてい無理ですけど。これが並みのイケメンだったら、2人の時間を過ごしてるうちに、またコロリと桜子の「魔性」に引っかかっちゃうとこですが、まあ、冬吾なら、その心配もなさそうです。(断言はできませんけど(~~;;)◇今日、ピカイチだったのは、笛子のセリフ。あたし、桜子が苦手なんです。何話してもケンカになるんです。あの子が「音楽、音楽」っつーのもわからんわ。勇太郎を大学にやらんといかんのに、桜子にだけそんなに甘くもできないじゃないですか。(冬吾曰く:「んで?」)ょ、要するに桜子ね。桜子が、あなたに居って貰いたがってるんです。だから家に居って、あの子の話し相手になってください。あの子も今、いろいろ辛いみたいだから。ワケのわからない、あきらかに矛盾したことを喋ってる笛子。じつは、ちゃんと妹想いな姉。とはいえ、なんとか桜子の話し相手を見つけてやろう、なんて、そんな気回しができる、気持ちの細やかな姉でもありませんから。なにげに、自分優先ですから。そんな、なにげに正直で可愛い笛子に、冬吾がちょっとほだされたかどうかは、まだ先を見ないと分からない。・・・いちどは、不用意に劇団ひとりとの恋に期待して、結果「妹にとられる」という惨めな思いを経験した笛子。今回も、桜子が無邪気に冬吾に甘えてる姿を、複雑な視線で眺めてしまいます。不用意な期待は禁物だよ!笛子!!こんどは笛子は、ただ「愛すること」に徹しなきゃいけません。「愛されること」を期待したら、また同じ目に遭ってしまうヨ・・。◇味噌職人のキヨシ・・。お前は・・・(ーー;)。でも、ここまで極端な人物描写をされると、かえって勘ぐってしまうッてもの。さまざまな確執の末に、じつは、このキヨシこそが、やがて桜子のピアノの最大の理解者に変貌していくんじゃないの?そういう展開も、悪くないなー。ただし、味噌職人を続けるにせよ、「山長」を去っていくにせよ、若旦那・達彦との確執には、脚本的に、落とし前をとってもらわないと。それにしても。あんな奴のことは忘れろ!俺が幸せにしてやるで、桜チャンっっ!!ニヤッこれには直後のアナウンサーも、さすがに神妙な顔でしたよ・・
2006.06.09
「NHK-FMは、公共放送としての役割を終えた」という、意味の分からない、根拠もはっきりしない提言が、政府周辺から出てきた。は??って感じ。「民放のFM局で用が足りるから。」みたいに言ってるけど、はたして、いまの各民放のFM放送局が、公共性という観点から、日本の音楽文化を担い得る存在になれるでしょうか??わたしは、これまでのNHK-FMが、充分に「公共放送」としての役割を果たしたとは思っていない。かといって、いまのところNHK-FM以外に、公共性という観点から音楽文化を担い得る代替機関が存在するとも、まったく思ってません。むしろ今こそ、NHK-FMを、公共性という観点から日本の音楽文化を担い得る機関として、再建しなおすべきです。つくづく、日本の政治の、文化的感性の無さってものに呆れる。そもそも、「政治」に文化的感受性が不要だと思ってること自体が、大きな間違い。土建国家が作り上げた、現在の日本のブザマな風景というものは、こんなふうに文化的センスの欠如した「政治」によって作られたんです。あらためて、小泉政権の自由主義一辺倒にもあきれ返る。音楽文化というのは、たんに商業主義的な論理だけで作られていくものじゃありませんよ。◇教科書的な解釈でいえば、「公共性」って概念は、すなわち「多数の人々の利益」を意味するんですが、となると、NHKが実現すべき「公共性」って何なのか?それを理解するには、教科書的な解釈をもっと深めなきゃならない。たんに、NHKの番組が、「多数の人々の利益」を実現すればいいんだと解釈してしまうと、じゃあNHKも、ほかの民放と同じように、多数の人々が見る(聴く)ような番組、すなわち「視聴率のとれる番組」をつくればいいじゃないかってことになる。でも、それは間違いです。民間の放送局は、基本的に、視聴率の稼げる番組をつくりますし、そうした番組は、たしかに「多数の人々の利益」にかなうんだけど、そこから零れ落ちてしまう少数派の人々というのも、社会には存在します。NHKの公共放送の役割というのは、「視聴率の論理」からは零れ落ちてしまうような、社会のなかの少数の人たちの知的関心をカバーすることで、つまり民放をはじめとする民間メディアの活動を“補完”することによって、結果として、マスメディア全体が、多数の人々の利益を実現するように計らうことにあるんです。したがって、NHKというのは、つねに民放をはじめとする他の民間メディア(ネットや出版を含む)との、動的な関係性の中で、その存在意義を追求し続けなければなりません。早くいえば、「民間メディアの隙間をそのつど埋める」というのが、NHKが担うべき大きな使命なんです。クラシック音楽、純邦楽、ワールドミュージックなどの音楽的価値に、日本全国の人が平等にアクセスしうるような機関というのは、いまのところ、NHK-FM以外に存在しません。もちろん、現在のNHK-FMの番組内容が、日本の音楽文化の公共機関として万全なものだとは到底言いがたいけど、だからこそ、今こそ抜本的な改革と、存在意義の見直しが必要なんです。そうしないと、日本の音楽文化の質は、大きく損なわれる。もしも、NHK-FMが日本社会に不要だというんなら、それに代替する機関がいったい何であるのかを、政府は国民に示すべきです。永田町も、霞ヶ関も、もっと社会に存する「文化」ってものの意味を、真剣に考えてよ。
2006.06.07
● 「男子ひとすじ」で、音楽なんてどうでもよかった、ハツ美。● 「絵画ひとすじ」で、女なんかどうでもよかった、冬吾。マロニエ荘で、いちばん対照的だったのは、この二人でした。これをチャートにすると、下のような感じです。 芸術ひと筋 冬吾 ↑ 恋愛は二の次 ← → 恋愛ひと筋 ↓ ハツ美 芸術は二の次 ハツ美の「男子ひとすじ」ぶりは、説明するまでもありません。他方、自分に思いを寄せてくれていたマリのことを置き去りにして、モデルにするため毎度服を脱がせていた八重には挨拶もせず、そのうえ、郷里からたずねてきた約束の女の人の目も眩まして、あらゆる女のしがらみを振りきって、ひとり岡崎の有森家までやってきた、冬吾。やっぱり、冬吾にとって、「女」は二の次です。有森家で冬吾が目をつけたのは、一番上の姉の笛子だけど、ここでの彼の興味の対象も、もっぱら“モデル”としての、笛子の凸凹であって、「異性」としての興味じゃ、これっぽっちもありません。にもかかわらず、またもや勘違いしてしまいそうな笛子が、いまからもう、可哀想。芸のためなら女も泣かす・・。そんな冬吾の女性観に、いつか変化は来るんでしょうか。ところで、達彦って、上のチャートにあてはめると、どの辺りに位置するんでしょう??けっきょく、音楽の道をあきらめた達彦。ここまでのドラマを振り返っても、彼がどれほど「音楽ひとすじ」だったのかは、かなり疑問。そもそも、何の音楽が好きだったのかも、よく分かんないし。やっぱり、かねが言ったとおり、達彦が東京に行ったのは、「音楽を追い求めて」じゃなく、「桜子を追い求めて」のことだったと見るのが妥当?音楽学校を目指したのも、マロニエ荘に引っ越したのも、ダンスホールに潜入したのも、すべては「音楽」じゃなく、「桜子」目当てだったわけで。今も、音楽のことをあきらめはしたものの、やっぱり、桜子のことはあきらめきれない様子。そう考えると、イケメンに目移りの早かったハツ美なんかとは、まったく比べものにならないほど、達彦こそが、正真正銘の、「恋愛ひとすじ」人間です。彼にとって、音楽なんて、二の次三の次だった?つぎに桜子。十代にして劇団ひとりと結婚の約束を交わし、こんどは達彦と密会する毎日をすごしてる桜子。そのかたわらで、味噌屋のキヨシも、すでに射程圏内に入ってる。早くも「恋多き女」の本性を現しつつある桜子だけど、逆にいえば、どの恋愛も、彼女にとって、さほど真剣じゃないって証拠でもある。自分から本気で誰かを好きになったり、追いかけたりしないし、そもそも恋愛に興味があるとは到底思えないほど、鈍感。いわゆる恋愛オンチ。ひとことで言えば、桜子の恋愛観って、たんに来る者は拒まずってやつ?劇団ひとりに「好き」って言われれば、すぐに結婚の約束だってしちゃうし、達彦がストーカーみたいに追いかけてきたら、劇団ひとりに教わったとおり帽子もプレゼントしちゃう。ついでに、軽く頬っぺにリップサービスしちゃうぐらいは、お茶の子さいさい。お安い御用。もし、彼らへの想いが、代えがたいほど切実なら、あんなに簡単に劇団ひとりから達彦に乗り換えたりしないはず。今回も、達彦と密会する約束をした桜子だけど、きっと、キヨシに同じことを頼まれても、同じ顔で、同じ答えを返すんだろうことはウケアイ。けっきょく桜子にとって、イケメンたちの存在は、彼女が音楽の夢を目指していく上での、いっときの寄り道。心の余興。たぶん桜子も、冬吾と同じように、「芸のためならイケメンも泣かす」くちだと思う。ついでに冬吾のことも泣かせることができたら、桜子の「魔性」っぷりも、ほんとに一流なんですけど。ま、イケメンになど目もくれず、音楽のある所へ無心に走っていってしまう桜子の幼なさが、かえって男子諸君のロリ心をくすぐってるんでしょーね。◇このドラマにおけるジュリエットは、もちろん桜子ひとりなんですが、ロミオのほうは、これから30人くらいまで増えると思う。そんなこととはつゆ知らず、自分こそが“唯一のロミオ”だと信じてる純情な男子諸君は、あまりにも気の毒。でも、何人ものイケメン君たちをその気にさせておきながら、本人自身は、まったくもってなんの悪気も無いってとこに、桜子の、もって生まれた「魔性」の片鱗が垣間見えるってもんです。出てくるイケメンたちを次々にたぶらかしておきながら、あくまでも、ぜんぜん悪気がない桜子こそが、ある意味では「純情」そのもの、と言えるのかもしれないけど、ほんとうに「純情」なのは、そんな桜子の「魔性」にコロリコロリとひっかかってしまう、うたがうことを知らないイケメン君たちのほうです。この際、タイトルも、『純情きらリ』より『純情コロリ』のほうがいい。世間のお父さんがたは、いまだに朝ドラヒロインの「処女性」だの「貞操観念」だのを信じて、さぞかし毎朝、目を細めて桜子のことを眺めてるんでしょうけど、哀れなのはあなたのほうですよっ!おとうさんっ!!劇団ひとりも、達彦も、キヨシくんも、桜子の人生にとって、有用な持ち駒のひとつにすぎませんよっ。じっさい、戦中・戦後を生き抜く中で、使えるロミオは、なるべく沢山確保しておいたほうがいいんだから。だいいち、これから先、ジャズの演奏会じゃ客席の罵声を浴びせられ、空からは、山ほど爆弾も降ってくるってのに、いったい、どのイケメンとどんな約束をしたかなんて、いちいち覚えちゃいられない、っつーの。そもそも“ヒロインの処女性”なんてものは、『風のハルカ』のときに、あっさりと放棄されてるし。ハルカが、大阪で最初につきあった男子というのは、正巳でも、啓太郎でもなく、物語とはなんの関係も無い、顔もろくに映らないような、「そこらへんのお兄ちゃん」でした。そのぐらいアッサリなほうが、現代の視聴者にはちょうどいい。昭和初期の桜子に、ハルカと同じ“軽さ”を期待するのは無理かもしれないけど、このまま、何人かの男の人と思わせぶりな関係を維持しつつ、戦後になったら、一気にハジケてくれて全然かまいません。数々のイケメンたちと華麗な男性遍歴を積み重ね、最後は親子ほども年の離れた年下のイケメン君に看取られて、波乱万丈の人生を終える、みたいな、そんなイカした人生でもいいんじゃないでしょうか。ジャズピアニストなんだし。(←偏見?)つーか、いまどき「たったひとりの人と最後に結ばれる」みたいな、朝ドラのお決まりの展開じたい、いいかげんウザったいし。何組ものカップルの可能性をちらつかせて、「さて誰と誰がくっつくでしょう?」みたいな、あざとい脚本の手口も、なんだか見てる視聴者のほうが弄ばれてるみたいで、腹たってくる。この歳になると、別に、どのオニーチャンとオネーチャンがくっつこうが、そんなこと知ったこっちゃないし。NHKの朝ドラのテーマって、いつから「恋愛レース」一辺倒になっちゃったの?って感じ。まあ、せっかく出てきたんだから、出てきた登場人物にはとりあえず幸せになってもらいたいけど。「恋愛レース」オンリーな展開は、ゲップ出そうです。◇浅野妙子には、今までの朝ドラ・ヒロインにまつわる、ウザったい処女性だの、貞操観念だの、結婚の幸せだの、その種の幻想を思いっきりぶち壊してもらうべく、このまま桜子の「魔性の女」ぶりを全開させてもらいたい。ついでに宮崎あおいちゃんも、これを機に「優等生タレント」から解放してあげてください。※現在、音楽惑星さんにお邪魔して、「斉藤由貴」問題について考えています。
2006.06.06
味噌屋・山長の人々。今日は、かなり理解しにくい場面が続出。1.かねもとはと言えば、あんたが達彦をたぶらかして東京に連れて行ったから。それで達彦が「店を継ぎたくない」やら言い出して。それが元で、主人は倒れたんだわ。主人の通夜の場で、小娘相手に、まるで殺人犯よわばり。味噌屋に尽くしてきた元職人頭の孫でもあるのに、この店は、その徳次郎に対しても、敬意のかけらも無し。それどころか、頑固者の徳次郎も、なぜか店に対しては卑屈なほど従順。職人の孫と跡取り息子が結ばれるのが、そこまで忌まわしいかな。経営者が、身内の職人を平然とさげすむ、古い企業体質?まあ、思ったことは何でも口にする女ってことなんだろうけど。このぐらい無礼な女じゃないと、田舎の企業は成り立たないってことか。かねの意地悪っぷりを披瀝するギャグだとしても、ちょっと、シチュエーションが重すぎます。2.職人連中「これを、時期が来たら、坊ちゃんにお渡しするように。」と、旦那さんに頼まれてまして。「音楽で身を立てるのは生半可なことじゃなかろう。 成功すればいいが、 刀折れ、矢尽きて、岡崎に舞い戻ってくるようなことがあれば、 そのときは、どうか温かく迎えてやってほしい。」旦那さんは、坊ちゃんのことを大事に思ってらしたんですよ。(泣)まだ「刀折れ、矢尽きて、舞い戻ってきた」と決まったわけでもないのに、主人が死んで早々、すかさず店の窮状を達彦に示す職人たち。父親が残したノートは、達彦の夢を断念させる道具として利用?故人の遺志は無視かよ。つーか、いま達彦が岡崎に戻ったところで、味噌屋の窮状がどうにかなるわけでもないし。たしかに、東京への仕送りは出費しなくて済むし、人件費のかからない使いっ走りが、ひとり増えることにはなるけど。徳井優の髪型も、そうとう変。(笑)3.キヨシ山長の職人キヨシですっ。達彦坊ちゃんは音楽の道をあきらめ、店を継ぐ決心をします。一緒にピアノの練習をしてきた桜ちゃんは大ショックですが、オレには絶好のチャンスッッ!!欲望のままかよ。
2006.06.03
昨日、池津祥子が言ってたビリー・ミリガンは、やっぱり「由貴ちゃんネタ」のひとつと考えていいみたいです。わたしも詳しく知らなかったけど、斉藤由貴ちゃんは、この手の多重人格ものの小説で、書評を書いたり、解説やあとがきを書いたりしてるみたい。すごーい。さすが文学嫁、じゃなくて文学アイドル。そして。やな家が、『うたばん』に出るんですね!由貴ちゃんの歌番組出演、ものすごい久しぶり?!(*~~*) がんばってーっっ!!貴明に宗教がらみでバカにされたら、ミッチーに助けてもらってっっ!!◇喫茶「ジャンバルジャン」。バタくさいマスターと、あたまの足りない給仕。あだ名は付かなかったけど、じゅうぶん笑えました。なにやら本格的なミュージカル、『その男マドロス』。『ゾルバ』のパロディ?これってギャグなんでしょうか?それとも、なにかの伏線?すみません。わかりません。(T_T)◇モンナシーヌで「みどり」に戻って、なまはげでまた「吾輩」に逆戻り。これから、行ったり来たり、いそがしそーですね。
2006.06.02
● 金持ちで才能もある冬吾。(~o~)● 同じく、金持ちで才能もある達彦。(~o~)金持ちの育ちであるが故に、背負わざるを得ないしがらみもある。芸術家の自由を縛りつける、お家の事情。そこから逃げ続ける冬吾。達彦は、そこから逃れることができるんでしょうか。つーか、冬吾の逃亡って、自由を追求する芸術家の信念なのか、たんなる自己中なのか。たしかに、八州治やキヨシから見れば、冬吾や達彦の進む道は、金持ちの境遇にある人間の、甘い自己中にしか見えない。でも、それを言っちゃうのは、やっぱり妬みです。● 貧乏だけど才能がある桜子。(~~;貧乏であるがゆえに、家の縛りもユルいよね。(笑)桜子も達彦も、理解者であった父親を失うのかもしれません。でも、そこからもたらされる結果は、それぞれに違うんでしょうか。それとも達彦も、桜子と同じ道を歩むんでしょうか。達彦と桜子の違いは、男と女という違いでもある。男のほうが背負うものは大きいかもしれないけど、女が引き受けさせられる、社会的な制約ってのも大きい。いまのところ桜子は、女が強いられるところのその種の制約を、少女ゆえの無邪気さと自己中でもって、すべてスルーしてますが。(笑)でも、今後予想される、妬み、弾圧、嘲笑、軽蔑のたぐいのさまざまな壁があるのは避けられない。いずれにせよ、女流芸術家が今後も生き残ってくために必要なのは、永遠の無邪気さと、永遠の自己中であることに変わりありません。● 貧乏で才能もない八州治。(ToT)/~~~貧乏は克服できても、才能のなさは克服できない。結局、現実の事情に屈して、芸術の自由を歪めてしまう。むろん、それを一概に「芸術家の敗北」ということはできませんけど。少なくとも、冬吾とは対照的ですね。● 金持ちだけど才能がない、るり子お嬢様。($・・)「桜子追放作戦」に失敗してから、彼女の出番がありません。彼女が音楽家になろうとする意志って、どの程度の強さなんでしょうか。意外にしぶといほうが、ドラマ的には面白いかも。● 同じく、金持ちだけど才能がなさそうな、松尾。($・・)世渡りはできそうだけど、芸術家としての出世はなさそうだな。● 金持ちで、才能も権威も名誉もある、西園寺教授。(*~o~*)彼にさえ、社会的な障害はある。けど、それに逆らうだけの大胆さや反骨精神があるかどうかは微妙。けっきょく軍歌を作ってしまった。「上海に逃げる」と泣きべそをかいたり、意外にひ弱なところあり?信念の強さという点では、やっぱり冬吾に劣るかも。● 桜子と同様、貧乏だけど才能がある秋山。(~~;彼は、ヒョロヒョロと自分の道を進みつづけてはいるけど、どこか卑屈さを克服しきれないところがあって、完全にはばたけない感じですね。やっぱり芸術家には強さが必要でしょうか。 金持ち るり嬢 松尾 西園寺 冬吾 達彦 ↑ 信念が弱い ← → 信念が強い ↓ 八州治 秋山 桜子 貧乏ちなみに、「信念の弱さ」ってのは、良くいえば「現実的」ってことだし、「信念の強さ」ってのは、悪くいえば「自己中」ってことになります。いずれにせよ、「芸術家にふさわしい資質」なんてものが、どこかにあるわけじゃありません。そんなものは、通り一遍の価値観でははかれません。
2006.06.02
⊇ωTょ夢を見T=・・・ (^-^;) (^O^)m (__)m (^3^) v(^^)v現代にタイムスリップした漱石にとって、電気製品や現代食なんかよりもっとカルチャーショックだったのは、娘の携帯で見た、「読めない日本語」だった模様です。ちなみに第十夜では「豚」が襲ってきたんでしたけど、今回は「顔文字」が襲ってきたんですね。夢の中でも鈴つけてますけど。ずっとカラカラいってるし。(笑)◇鈴をつけた由貴ちゃんを見てて、『ネコの手も借りたい』を思い出しました。きっとクドカンの発想では、漱石と由貴ちゃんを結びつけるキーワードが「ネコ」なんですね。それから、由貴ちゃんが昔、「多重人格者の小説にハマってる」って言ってた記憶がある。このドラマ、思った以上に「由貴ちゃんネタ」が入ってるのかもしれませんね。
2006.06.01
漱石 : 『吾輩は猫ではない』ぞっ!泣き女: まあ、お上手ゥ~、パチパチ・・。今日のツボは、鈴!!予告見たら、もうずっと付けたままだし。(笑)◇姑@竹下景子。「嫁おだてパチパチ作戦」から、「漱石手なずけパチパチ作戦」に変更、あなどれない柔軟性です。あだ名は、「泣き女」。う~ん、これは面白いかなあ・・(?)やっぱり、「パチパチ」とか「ペヤング」とかにひっかけてほしかったけど。いいです。ジェイのあだ名に期待しますから。『純情きらり』と、戦争。かりにアーティストだからといって、だれもが戦争に反対していたわけでもない。それは、いまも同じだと思う。国策に逆らわないで活動するアーティストは、今もいるでしょ。靖国神社で結婚する人とか。(あれは、どういう意味だったのか知らないけど。)薫子の存在。とても気になってました。桜子同様、女学校を卒業したばかりの年頃なのに、いまだに野暮ったい桜子や達彦とは見違えて、ほんとにハイカラな「職業婦人」になってしまってた薫子。岡崎という田舎にいながら、文学少女として過ごし、兄とともに反戦思想を育んでたという家庭環境にも興味あるけど、出版社に勤めている現在の彼女の環境も、のぞかせてほしい。当時の出版社が、国策に対してどういうスタンスだったのかも微妙だけど、たとえ会社がどうであれ、薫子個人の思想が、そう簡単に変わるものなのかどうかも、まだ分からない。彼女の、ちょっと“プッツン”な感じのキャラも、あえて特殊な資質を表現してるところがある。冬吾と八州治。理念的なブルジョアと、目先の事にとらわれるプロレタリア。芸術家としての純粋さは同じなのに、どうしても、それぞれの出自が彼らの行動様式に影響してしまう。そして、結局、八州治のような人が、逃れようもなく、満州で戦争の影響をもろに被ることになる。そういう図式も、基本的に今と変わらないと思う。生徒を裏切らないために、国を欺いてでも偽りの軍歌を作りましょう、という西園寺先生。松尾あたりなら、体よく威勢のいい軍歌が書けそうだけど。(笑)ところで、松尾には、桜子のような聴力とアレンジの能力はあるんでしょうか?
2006.05.31
池津祥子のあだ名。「なまはげ」って、なんかそのまんまじゃん。しかも、これってもう『純情きらり』で既出のネタだし。もうひとつ、ひねりがあってもよかったかな。やっぱり「山嵐」あたりに引っかけるとこだと思うんだけど。「うらなり」とか「野だいこ」とか、漱石のあだ名のセンスのほうが、一歩上回ってます。次は、ジェイに何てあだ名がつくのか、見もの。◇今日のツボ。「これは何という食べ物だ?」という由貴ちゃん(=漱石)の問いに、けげんそうな顔で答えた、池津祥子のひとこと。でまえいっちょう・・・?当時の漱石の小説にも、タバコの銘柄とか、呉服屋の名前とかがふつうに出てきますから、この時代に漱石が随筆を書いたら、たしかに「出前一丁」とか「ぺヤング」とかがふつうに出てきても、まぁまぁありえないことじゃないかも。「プッチンプリン」とか。◇なんと、はしたない!ほとんど裸じゃないかっ!なにも戦争に負けたからって、ここまでヤケにならなくても・・ある意味、真実をおっしゃってます。
2006.05.30
漱石が憑依して早々、旦那のあだ名は、さっそく「赤パジャマ」。(笑)きました。ジェイいわく、漱石3部作のまん中は、平仮名4文字の『 ところで 』。(笑)軽そうな小説だなー。ドラマの本筋が面白いかどうかはともかくとして、小ネタだけで半日ぐらいは笑っていられます。(~~;;;商業主義的な音楽業界に見切りをつけて、高い理想をぶち上げたはずのミッチーだけど、きっとこのまま最後まで、喫茶店じゃ、ジェイに「郵便ボーイ」と呼ばれ、家じゃ、「赤パジャマ」って呼ばれ続けるんだろうなァ。(~~;;;だって、ジェイいわく、おまえなんか、ジャンでもなければ、バルでもなく、ましてジャンでもないもん。(T_T) ・ ・ ・正座でかしこまった家族から「先生」あつかいされる嫁が、夫のことを「赤パジャマ!」、小学生の息子を「おい坊主っ」、姑のことを「そこの給仕っ」とか呼びながら、なぜか女子高生の娘にだけはデレデレ・・。みたいな、このドラマの基本風景が、およそ見えてきましたよ。ちなみに。今さらわたしが解説するようなことじゃないけど。漱石がほんとに自分のことを「吾輩」と呼んでいたと、素直に勘違いしてしまう視聴者も少なからず出てきそうですが。(~~;;;そこもふくめて、このドラマは、端から端までフィクションのかたまりですから。フィクションといえば、由貴ちゃんにかんしても、「ミュー研」だとか「文学部」だとかいうくだりが出てくるので、あらためて調べてみました。でも、やっぱり現実の由貴ちゃんは、漫研(部長)です。まー、文学少女には違いありませんけど。※古本屋は、神田じゃなくて早稲田でしたね。
2006.05.29
4年前の日韓W杯のとき、わたしは、ブラジルのカナリヤ軍団のことを、“踊りながらドリブルしてくる人たち”だと書きました。とりわけ、ロナウジーニョは、完璧に“踊ってる”と思った。あのときのカナリヤ軍団のなかで、いちばんわたしの目をひいたのは、ロナウドでも、リバウドでも、ロベカルでもなく、ケラケラ笑って、踊りながらドリブルしてくる、ロナウジーニョだった。今夜のNHKスペシャル。ロナウジーニョがサンバを歌ってる!やっぱり、ロナウジーニョはサンバだったんだ!しかも裸足だしっ!4年前、プレー中も、いつも笑ってて、どうにも“自由奔放”な印象が際立っていたころに比べると、最近のロナウジーニョは、体格も表情も、かなり精悍な感じが目立ってしまってるけど、ふたたび彼の体から自然に湧き上がってくる、純粋なありのままのリズムに触れられたようで、嬉しかった。(~~)しかも、日本人のわたしにはついていけないほど複雑なリズムを、いとも簡単に片手で刻みながら、自分のサンバの曲を口ずさんでいました。歌もうまいっ!ロナウジーニョの、あの足さばきは、この複雑なリズム感を、体が刻めるからこそ可能なんだなーと実感。日本のサッカー選手も、ブラジル人と同じように、もちろん、フットサルもやるべきだと思うけど、それ以上に、サンバを踊る練習をするべきじゃないでしょうか。でも、やっぱり体の中に流れる“血”の違いがあるんだろうなぁ‥。かりに同じブラジル人でも、白人の選手や、アジア系の選手じゃ、あの同じリズム感ってのは、やっぱり真似できない気もする。サンバはもともと、アフリカ系ブラジル人の音楽です。わたしも最近、サンバに関心もってます。きっかけになったのが、ブラジル・コンピレーションCDの『フレスカ』シリーズ。ボサノバを選曲した『フレスカ・ボサノヴァ』と、MPBの曲を集めた『フレスカ・メロディーズ』と、そして、サンバを集めた『フレスカ・サンバ』の3枚からなってます。わたしは、はじめはMPBが目当てで聴きはじめたんだけど、実際に聴いてみたら、『フレスカ・サンバ』がいちばん良かった。そして、3枚のCDを聴いてみると、ボサノバも、MPBも、その魅力の源泉がすべてサンバにあるってことを実感させられた。ブラジル音楽というと、つい、ジョアンやジョビンの存在を中心に考えてしまうし、たしかにジョビンの音楽は、理知的で、高いレベルに達した音楽だけど、でも、そのジョビンでさえ、このアフリカ系ブラジル人が生み出したサンバという音楽の、そのプリミティブなリズムの魅力には、完全には到達していないんじゃないか、って気がする。ブルースや、ジャズや、レゲエと同じように、ブラジルの音楽も、その淵源はやっぱりアフリカのリズムにあります。ロナウジーニョの刻む豊かなリズムを見て、あらためてそれを痛感した。ブラジル音楽の生命力も、ブラジルサッカーの躍動感も、アフリカの黒人がもたらしたものなんじゃないか、と思う。
2006.05.28
純情きらり。いちど聴いただけで暗譜して、さらにアレンジまで施してしまう、すっかりアマデウスな桜子。達彦との連弾も、モーツァルトの『キラキラ星変奏曲』。この時代の日本で、クラシック音楽といえば、すなわちベートーベンやバッハを意味しました。時節がら、モーツァルトは「軽薄」ということで看過されてた。桜子が公式なピアノの練習をするときも、もっぱらベートーベンやバッハであって、モーツァルトじゃない。この時代の日本では、モーツァルトは、ジャズにも近い「自由」の象徴なのかもしれません。実際、アマデウスの即興性は“ジャズ的”ともいえる。わたし自身は、モーツァルトより、ベートーベンとバッハのほうの趣味なんですけど。◇冬吾のあの絵には、何か意味があるんでしょうか。3人の男が、木の周りに立ってる。いったい何の絵だか、ぜんぜんわからなかったけど。迷いの中にあった達彦が、あの絵に向かっていた冬吾の姿を目撃したあと、一心不乱にピアノを弾き出して、自分の意志を問うていましたが。なにか達彦にうったえるものをもった絵だったんでしょうか?風のハルカSP。見ました。 村川絵梨ちゃん、ドラマの時より綺麗になってました・・。桝岡明ちゃんもずいぶん大きくなって、それに、歯並びもきれいになってたのでビックリ!番組全体の内容もとてもよく出来てた。ファンにとっては嬉しい企画だし、毎回こういうのがあってもいいですね。なんだか、これだけ見たら、ドラマ本編もすごくいい作品だったように思えてしまった・・。でも、あくまでこれは余計な部分をそぎ落とした再編集版なので。ドラマ本編のほうには、もっと余計な部分も粗もありましたから。まあ、朝ドラは長いから、それもある程度しょうがないけど。・・たとえば、木綿子が青木課長との結婚をためらってたのは、たんに青木の赴任先と自分の職場の距離が遠かったからであって、べつにハルカや陽介ら前の家族への遠慮があったせいじゃないと思う。そのへんが、編集ではすっ飛ばされて、水野一家の家族の物語のなかにキレイにまとめられすぎてます。ついに完成したという『家族の欠片』の映画フィルムだって、ドラマ本編を見てきた人間からすれば、「ほんとにそれ上映する気あんの?」とツッコミをいれたくなる。◇とはいえ、今回のSP版で、物語の骨格をあらためて見直せたし、良かったです。わたしも、もうすこし啓太郎の存在に共鳴できていれば、このドラマの本筋を踏み間違えなくて済んだんだろうな・・、と思いました。
2006.05.27
由貴ちゃんが出るというのが動機で見はじめたんだけど、またクドカン・ワールドに、変なところでハマってしまいそうです。あーまずいな、こりゃ。(~~;; 吾輩は主婦である。名前はみどり。 好きな色は、ベージュ。もうこれだけで可笑しくて可笑しくて、いまも笑いがとまりません。きっと夏目漱石も、草葉の陰で笑ってるんだろうなァ。 会社は、まだ無い。 も超ウケた。「ロンドン留学」とかもそうですけど、けっこう細かいところで漱石ネタが散りばめられてるんですね。実家も、神田かどこかの古本屋みたいだし。注意して見てないと、見逃してしまう・・そのうち、「寒月君」とか出てきそうだよ。(~~;いまの日本で「夏目漱石」っていうのは、言ってみりゃ、野口英世の中で1枚だけ紛れこんでるような存在。そういう、いまの漱石が置かれているビミョーな位置に目をつけるクドカンって、やっぱりうまいなー、と思う。夏目漱石という人は、やっぱり「国家の顔」になんかなるようなタイプの人じゃなく、あくまでも「文化的な存在」でいるような人だと思うし、そういう意味で、このクドカンと漱石の、時代を越えた文化的な交流は、楽しい。由貴ちゃんのネタも、ちゃんとありました。『レ・ミゼラブル』のポスターも貼ってあったし、喫茶店の名前が「ジャン・バルジャン」ですね。オープニングのテーマソングも、なんか昔の由貴ちゃんの歌声と変わってないなー、と思える作りで、すごくうれしかった。毎日、由貴ちゃんの声が聞けるのも楽しみ。(~~)
2006.05.23
クドカンの昼ドラ、『吾輩は主婦である』。はじまりましたね。(~o~)このタイトルのギャグセンスに、まずウケてしまいました。でも、もともと夏目漱石にとっても、いちばん自分のことを「吾輩」なんて呼びそうにないのが、家で飼われてる猫ちゃんだったわけですから、原題の『吾輩は猫である』というのが、もともと当時から見れば、超一級のギャグだったわけです。クドカンのギャグセンスも、もともとは漱石から受け継がれてます。クドカンが、現在の斉藤由貴ちゃんの魅力をどう引き出してくれるのか、期待。さて、朝ドラ『純情きらり』のほうですが、きわめてオーソドックスな「朝ドラ的風景」をつくりだしてる感じ。わたしとしては、もうちょっとディープな「池袋モンパルナス」っぷりを見たかったので、その点では少し物足りない気もしますが、まぁ、しょうがありません。この時代設定のドラマに、宮崎あおいちゃんの“女学生”キャラがピッタリはまってるし、これなら視聴率がとれるのも、まあ当然。宮崎あおいちゃんは、良くも悪くも「NHK朝ドラ的」なタレントで、ある意味、キャラが一時代古いというか、どちらかというと、むかしの児童劇団風な、古典的な演技が目立つ子で、いまのところ、民放の夜の枠で現代女性を演じるキャラとは言いにくいけど。でも、そういうタレントだからこそ、もっか、NHK朝ドラの枠には最適なキャラなわけでして、さぞかし、世間のお父さんやお爺ちゃんたちにとっては、「自分の娘や孫にしたいタレント投票」あたりで確実に一等賞になりそうな、さしずめ、原節子の時代ぐらいのタレントさんを見るような気持ちで、百歩ゆずっても、せいぜい若い頃の吉永小百合を見るような気持ちで眺めるぶんには、いまのところ、これ以上無い、ベストな女優だといえます。どっちかと言うと、わたし自身の興味は、なぜ浅野妙子が、そういうタレントを継続的に演出し続けてるのか。その、脚本家の動機とか展望のほうにあるんだけど、それはともかく、もうひとつ、このドラマで興味があるのは、浅野妙子の「戦争」の描き方の問題です。ドラマの舞台が“昭和20年”になるには、もうしばらく時間がかかるとは思うけど、東京にいるにせよ、岡崎にいるにせよ、主人公の桜子は、まちがいなく空襲を経験することになる。東京はもちろんですが、岡崎にも空襲はありました。だから、桜子が空襲を避けられることはないんだと思う。そして、そこでは複数の登場人物が無差別に死ぬことになる。さすがに「桜子が死ぬ」という展開にはならないと思いますけど、逆に、それ以外のことは何も言えません。良い人だろうが、悪い人だろうが、共感できるキャラだろうが、できないキャラだろうが、視聴者の好みとか、人気とかにかかわらず、無差別に、しかもいっぺんに何人もの登場人物が死んでしまうことになる。戦争のリアリティを描くには、そうする以外にないから。視聴者から苦情が来ても、そうするしかない。その意味で、映画よりも、むしろTVの連続ドラマのほうが、戦争のリアリティが強く出てしまうような気がしています。映画の場合だと、はじめから見る人は「戦争映画」だってことを身構えて見てるし、ある程度、どの人物が死ぬことになるか見当もついてしまう。でも、連続ドラマの場合、それまで毎日のように画面に登場していたキャラクターが、その前日まで普通に笑ってたはずなのに、次の日からは、いっぺんにいなくなってしまうことになる。しかも、一人や二人じゃなく、何人もの人物が消えてしまう。今までの朝ドラでも「戦争」を扱った作品はあったと思うけど、このドラマを見ていて特徴的だと思うのは、今のところ、ほとんど戦争のにおいを感じさせないってところです。だから視聴者は、いろんな登場人物に対して、好きだとか嫌いだとか、いまのところ身構えずに自由に感想をもてるし、いろんな評価をすることもできる。それは、いまだドラマに「戦争」が感じられないからです。だれが死ぬとか死なないとかを、考えもせずに見ていられる。でも、戦争で何人かが死んでしまったとき、そういうことは言えなくなる。そこは、恋愛ドラマとは大きく違うところ。恋愛ドラマの場合、たとえば失恋した後になっても、その人物について色んなことが言える。その人の人格とか、それまでの振る舞いとかについて、いろんな評価もできる。でも、戦争のドラマで死んでしまう人物に対しては、たぶん何も言えない。もともと戦争の死は、無差別に降りかかってくる不幸だから。善人でも、悪人でも、爆弾の下にいれば死ぬ。大森美香ちゃんが、「恋愛ドラマで登場人物の別れを描くのは悲しい」みたいに言ってたけど、そんなことで悲しんでたら、戦争のドラマなんて描けません。登場人物の性格や背景にかかわらず、無差別に何人もの人に降りかかってくるのが、戦争の不幸と悲劇。善人も悪人もない。かりに視聴者から「どうして死なせたの?」と苦情が来たとしても、戦争のリアリティの表現である以上、そうなるのはしかたない。イラクの空爆と同じように、東京や岡崎の空襲でも、だれの上で爆弾が爆発するか分かりません。だれの上であれ、その人の上で爆弾が爆発しさえすれば、その人は死ぬ。現実に差別なく人が死んでしまうのが戦争なわけで、ドラマでも、そう描くほかないだろうと思います。そういう戦争の表現は、連続ドラマでこそ可能な気がしています。
2006.05.22
きのう終わった、『マチベン』の最終回。あ~、泣いた。あそこまで泣いたのもひさしぶり・・。最後の法廷シーン。すごかったです。自分のために嘘をつく祖父を見た孫娘の涙。偽りの人生を背負わねばならない孫娘を想って嗚咽する祖父。そんな二人が背負うそれぞれの苦悩を想って、泣き崩れる母親。彼らの苦悩を共有するために、自分も犠牲になろうとする弁護士。弁護士の犠牲心と、そこで芽生えた心の絆に救われて、あらたに涙する祖父。もう自分でも、何泣いてるんだか、ワケわかんなかった。何もかもが、一気に開放されてくようでした。「最後に竜雷太は真実をぜんぶ語りました」というオチと、「友香ちゃんは正当防衛になりそうです」という後日談は、話の顛末としては呆気ないものだったけど、その前の法廷シーンで、すべてを出し切った感じでした。どうなったとかこうなったとかいう話の顛末よりも、人間の心のなかにある本当の思いをすべて出しきることにこそ、感情のクライマックスと、物語のエンディングがあるんだなと思いました。そういう脚本の書き方に、あらためて感心です。先日書いたとおり、土曜ドラマの『マチベン』は、「よるドラ」の新作みたいな気分で見てたんですが、いっぽうの朝ドラ、『純情きらり』のほうも、わたしとしては、よるドラ『ちょっと待って神様』とのつながりで、注目してるわけです。『純情きらり』は、いまのところ、わたしは安心して見ていられる感じなのですが、まだまだ、先は長い。いったい、これからどうなっていくんでしょうか??今後のなりゆきを、勝手に予測・・。今後の展開でわたしが注目してるのは、浅野妙子と宮崎あおいちゃんとの関係です。(~~;つまり、脚本家が、アイドル女優にどこまで求めるか。その度合で、このドラマの展開も大きく変わってしまう。戦中戦後を生き抜く女性ジャズピアニストの人生を、どこまで「壮絶」なものに描くか。それが、ここでの浅野妙子の、サディズムのみせどころ。(~~;;;優等生タレントの宮崎あおいちゃんに、いったいどんな人生を歩かせるか。ここまでのストーリーのように、「経済観念のない、ちょっとわがままな女子高生」ぐらいの役どころなら、これはもう宮崎あおいちゃんの得意とする分野だったと思いますけど、問題はこれからです。噂によると、浅野&宮崎コンビの映画だった『NANA』(←見てません)では、役の内容に不満があって続編がキャンセルされたとも言われてますけど、それに劣らないような壮絶な役柄を演じることを、この『純情きらり』のほうで要求されてしまうのかも。もちろん、宮崎あおいちゃんだって、女子高生の役ばかり演じてきたわけじゃないだろうし、大人の役だって、出来ないわけじゃないと思う。考えてみりゃ、彼女は『ちょっと待って神様』のときに、ある意味すでに、五十過ぎのおばさんの役を演じてたわけだし。『ちょっと待って神様』のときは、少女らしさを失っていない(取り戻した)オバさんの役だったけど、今回の役も、どこか少女らしさを持ち続ける女性になるんだろうとは思う。とはいえ、この物語の設定からいって、“たったひとりの愛する男性と結婚して、幸せな家庭を・・”みたいなことにはならないだろうし、ヒロインのこれからの運命は、脚本家のサジ加減ひとつで、いくらでも「壮絶」なものになる。じっさい、『大奥』なんかのことを考えると、浅野妙子は、平気でコギャルタレントに壮絶な役をやらせるし、『華の乱』のときなんかは、容赦なく虐げられる貫地谷しほりちゃんがあまりにも可哀想すぎて、さすがのわたしもちょっとヒきました。(~~;;きっと、このドラマのヒロインも、戦中はせいぜい「非国民」扱いされるだろうし、人目を避けながら場末の隠れジャズバーあたりで演奏しながら、そんな地下の生活の中で、何人かの男性と関係を交じえつつ、そのうち、大事な恋人や大切な友人を戦争で失くして、やがて戦後になったら、極貧のなかで身を売るような日々。ついには、酒とタバコにおぼれて、みずから身を滅ぼしてく、・・みたいな展開だって、ありえない話じゃありません。彼女がいつかまた地元の岡崎に帰る日が来るかどうか、それさえ、まったく予測もできません。いったい浅野妙子は、どこまであおいちゃんにやらせるつもりなのか。つーか、それ以前に、「朝の連ドラ」という枠の中で、どこまで「壮絶な人生」なんぞを描写できるかってのも問題ですけど・・。ちょっとでも暗くて重い話にすると、すぐさま視聴者から苦情もきそうだし、きっと、そのあたりのバランスも、したたかに様子をうかがいながら書いてるんでしょうねー。昨日の放送では、東京でお金の工面に苦労している桜子ちゃんを、さっそく、磯おばさんが助けに来てくれました。個人的には、この磯おばさんにはずっと生きててほしいなぁと思いますが、でも、これから先、だれがどうなるか、まったくわかりません。とりあえず来週ぐらいは、笛子も、味噌屋の御曹司も来てくれるみたいだし、当面はまだ大丈夫だけど、やがて、こういう援助がひとつひとつ失われていくにつれて、桜子の人生は、どんどん「壮絶さ」を増すことになるでしょう。以前、劇団ひとりが、「桜子さんは真っ直ぐで迷いがない」みたいに言ってて、それを聞いたとき、わたしは思わず、「桜子に迷いがないのは、まだ経済観念のない女子高生だからだろ。」と思ったし、いずれ笛子みたいに経済観念に縛られるようになったら、「“迷いなくまっすぐ走る”なんてことは出来なくなるだろう」と思ったけど、でも、ある意味、桜子みたいな人物というのは、一生「経済観念」なんてものとは無縁なんじゃないのかって気もする。支援してくれる人たちのことを有り難いと思うことはあるだろうけど、じゃあ自分で地道にコツコツお金を貯めて、人生に保険を賭けながら、健康な老後を設計しようなんて生き方は、いつまでたっても絶対にやらないだろうと思う。したがって、周囲から支援してくれる人たちがいなくなれば、それにつれて、桜子の人生は、必然的に転落せざるをえません。今後、笛子や杏子がどうなるのか。戦争で勇太郎の運命はどうなるのか。(原作ではけっこう生き延びるみたいだけど。)岡崎の味噌屋はどうなるのか。マロニエ荘の面々はどうなっちゃうのか。劇団ひとりや、イケテツとの再会はいつあるのか。このへんのサジ加減ひとつで、桜子の運命はどうにでも変えられる。理解者や応援者を減らせば減らすほど、宮崎あおいちゃんは悲惨になる。いっぽう、かつて、父親の三浦友和が言ってた、「桜子がいちばん強い/笛子は弱いところがある」ってのは、今後の物語を考えるうえでも、大きなヒントになる。笛子という人は、戦時だからといって必死で竹槍をふり回したりする人だけど、そういう彼女の姿というのは、「家族を守るため」だけのものじゃなく、ある意味、彼女自身の「弱さ」をも表してると思う。杏子や、桜子や、勇太郎は、その手のことには鷹揚で、動じることもほとんどありません。意外に、弟や妹たちというのは、世間的な価値観とか、常識とかに屈したりしないし、そういうものに逆らう神経とか耐える覚悟とかをもってる。磯おばさんも、そのへんの修羅場はくぐり抜けてきてます。それに対して、笛子の弱さというのは、けっきょく、常識や世間的な価値観を打ち破れないところ。「自分の人生を進むこと」に対して、いちばん臆病なのも、たぶん笛子だろうと思います。その意味で、笛子は、経済的な面では「助ける側」に立っているようで、人生のうえでは、ぎゃくに笛子のほうが、妹たちに「助けられる」場面も出てくるかも。笛子は、桜子に襲いかかるであろう「壮絶な将来」を心配するがゆえに、音楽家なんていう選択には反対しているわけだけど、逆に考えると、父親の三浦友和のほうは、桜子の将来が壮絶なものになりうることをも見越したうえで、彼女の「強さ」を信頼しきったのかもしれません。まあ、曲がりなりにも「朝ドラ」のヒロインである桜子の人生が、どれだけ「凄まじいもの」として描かれるのかも、まだ分かりませんけど、たとえば『大奥』なんかを見ると、浅野妙子のドラマに出てくる女性は、たとえどんなに壮絶で凄まじい人生を送っても、最後には、どこかキラキラした純粋な部分を見せて終わります。このドラマも、タイトルが『純情きらり』だし、ヒロインの人生も「壮絶」かつ「キラキラしたもの」になってくのかな。それでも、その人生の「壮絶さの度合」ってのは、やっぱり気になります。
2006.05.14
☆ 日テレ:ギャルサーこれは間違いなく面白いドラマ。クドカン(『魔法使い』)的なハチャメチャさと、『野ブタ』的なヒューマニズムの世界。日テレの2つの経験が、この作品のなかに生きてる。スポ根ならぬ「ギャル根」ドラマ。一般の大人には理解しにくいギャルの世界を、独特な表現でとらえてしまうところには、『野ブタ』同様のウマさを感じる。しかも、ギャルの世界を常識的な尺度ではかるんじゃなく、わざわざテキサスからインディアンの尺度をもってきたのも笑える。ただ、最近、役者としてはいい演技をするなーと思ってた藤木直人が、今回の役柄で、路線を踏み間違えたりしなきゃいいんですが。(~~;;それだけが、ちょっと心配。『ギャルサー』の映像と演出のスタイルは、かなりザックリとした、ちょっと粗めな感じですね。テキサスの荒削りな乾いた風景を、渋谷の街に重ねてるのかもしれません。ここ数年の、日テレのスタイリッシュで繊細な雰囲気を、すこし変えてきたという点では、これもまた面白いかなとは思いますけど、なんとなく、まだテイストに安定感がない気もする。その点では、ちょっと完成度は低いかも。 ☆ テレ朝:てるてるあしたまた、テレ朝はノーチェックでした・・。『熟年離婚』のときに、テレ朝は、きっとTBSから橋本裕志 (『Mの悲劇』)をもってきたんだろうなと思った。そこからいうと、今回のナイト・ドラマ『てるてるあした』は、さしずめ、日テレの木皿泉(『すいか』&『野ブタ』)をもってきたって感じです。『すいか』の風景、『野ブタ』の寓話性。それと、映像の瑞々しさも、何となく日テレっぽい雰囲気だし。そういう意味で、テレ朝のドラマは、演出のスタイルに局としての独自性があるとは言いにくいんだけど、でも、作品そのものはしっかりつくってあるので、そこは評価できます。原作があるということも強味になると思うんだけど、脚本の面でも、『てるてるあした』のほうが、『すいか』よりむしろ安定してる。キャストの地味さ加減も、わたしにはうれしい。(~~)たぶん、今季のなかでは完成度の高い作品になりそう。 ☆ NHK:マチベンNHKは「よるドラ」をやめて「土曜ドラマ」を復活させました。その背後には、「軽いドラマ」から「重厚なドラマ」へ、という方針変更があったらしい。民放で『白い巨塔』が成功したということも、NHKは意識した模様です。じっさい最初の2作は、かつての「土曜ドラマ」の復活を強く印象づけるような、重厚な作りと内容でした。今回の『マチベン』も、社会的なテーマを扱った作品であることに変わりはありません。でも、わたしはひそかにこの作品を、「よるドラ」の続編を見るような気分で楽しんでる。「よるドラ」を思わせるようなテイストが、ドラマの端々に散りばめられてるから。わたしとしては、「よるドラ」の新作を見てるような気分なんです。そもそも、「よるドラは軽いドラマだった」みたいにいうけど、実際は、あの枠がたんなる「軽チャー路線」だったわけでもありません。社会的なメッセージをもってるものもあったし、わたしにはそういう作品への期待だってあった。表向き、「土曜ドラマの復活」とはいっても、NHKの製作スタッフの中には、ちゃんと「よるドラ」の経験が残ってるんだと思う。それが、今回の演出のスタイルの中にも出てるんだという気がします。なので、わたしにとっては、これは、「土曜ドラマ」じゃなく、むしろ「よるドラ」の新作です。(*~_~*)NHKとしては、かつての「土曜ドラマ」の重厚さと、「よるドラ」のテイストを踏まえて、ついでに、『白い巨塔』の脚本家もむかえてつくった3作目。それが、この『マチベン』ってことなんでしょうね。今後の「土曜ドラマ」がどういう路線へ進むのか、そのあたりも楽しみです。てなわけで、けっきょく今季も、注目ドラマは、日テレと、テレ朝と、NHK。・・いちおう、フジのドラマのことも書いておきます。フジの『アテンションプリーズ』は、やっぱり、JALのロゴを無理矢理インプットさせるだけのものに終わりそう。そう思ったら、ドラマそのものに対する興味も、なんだか薄らいでしまった。今週の、“キャビンアテンダントより整備の仕事のほうが大事”という話の内容も、それじたいは別に悪くないんだけど、ただ、日航にかぎって言えば、それ以前に、「組織論」とか「組合問題」とかにも切り込まないと、ほんとうに安全が担保された気分にはなれないわけですから。そこまで突っ込んだ話になれば、まだ興味も続くかもしれません。◆フジはこのほかに、『ブスの瞳に恋してる』と『医龍』もあります。どれも、悪い作品じゃないとは思うんだけど、これといって目をひくような斬新さもないというのが正直なところ。『ブスの瞳』は、ちょうど『電車男』の逆バージョンで、森三中の実話。ホリエモンを題材にした『恋に落ちたら』といい、2ちゃんねるをドラマ化した『電車男』といい、フジは、こういう時事ネタを物語に仕立てる目のつけどころは巧みだけど、逆にいうと、その話題性だけで終わるっていう虚しさも、なくはない。『アテンションプリーズ』も、けっきょくそのたぐいなんでしょうか。。。・・どうも、フジのドラマは、他局にくらべて後退してる気がしてなりません。すくなくとも、「月9をブランドみたいに自称したりするのは、もう恥ずかしいことなんだ」という認識ぐらいは、いい加減もたなきゃいけません。いまさら、だれも月9に特別な期待なんてしてないんですから。最後に、NHK朝ドラ『純情きらり』のことも。浅野妙子が昭和初期を舞台に描いてくドラマ。これといって、何の心配もなく、ポケーッと楽しんでるわけですが、今後の激動を考えると、大変だなー、とは思います。あの時代に、貧乏な田舎者が、音楽家を志望する、と。しかも、よりによって、戦中にジャズピアニストになりたいと。そのうえ、女だと。よほどの強烈な個性と、破天荒さと、自己中心的な論理がなきゃ成立しない、そういう人物の、波乱万丈な人生の物語を描かなきゃいけないのに、同時に「朝ドラ」のヒロインとしての可愛らしさも両立させなきゃいけないわけで。この難題を、いまのところ浅野妙子は無難にこなしてると思うけど、これからさらにパワーアップさせないと、時代の逆風を超えられませんから、そう考えると、やっぱり大変です。ところで、朝ドラのヒロインが、田舎を離れて都会に上京するというのは、今回もいつもと同じパターン。そして、「田舎編」の素朴な魅力にくらべて「都会編」の描写が変わり映えしない、ってのも、いつものパターン。でも、今回ばかりは、「都会編」にも期待してます。池袋モンパルナス。落葉松とマロニエ。上野周辺に住んでいた芸術家の卵たちの、猥雑で魅力的な日常。このへんに目をつける歴史ドラマ作家・浅野妙子は、さすがです。これなら、変わり映えのしない「都会編」にも、田舎に負けない魅力がありそう。ただし、それもこれも、「戦争」がぶっ壊していくわけですが。。。(ーー;)
2006.05.11
困ったことに、フジのドラマ『アテンションプリーズ』は、今季のなかではレベルの高いほうの作品じゃないかと思う。多くの視聴者が、このドラマに対して、いろんな意味で「うがった見方」をすると思うけど、実際、ドラマのほうも、そういう見方をされるだろうと心得て作ってあるみたいです。まあ、そうじゃなきゃ、この時期に平常心でJALのドラマなんか作れるわけがない。たしかに、いろんな関心から、つい見てしまうのは事実。ドラマの前面に「JAL」を出して強調してるけど、いまの時期にそれをやるってのは、ある意味、JALにとっても、フジにとっても、とても果敢な試みといえる。どういうつもりかは知らないけど‥。しかも、内容的にも、ますますJALへの信用を失くすような、そういう危なっかしい要素を含んだ物語になってる。そこらへんも含め、いろんな関心をもって見れてしまうドラマになってるとこが、なんとも扱いに困る作品だといえます。もし、そういう興味をあおることで、かえって「視聴率がとれる」なんて期待してるんなら、フジの、放送局としての倫理意識をうたがうし、逆に、ドラマひとつでイメージアップができると企んでるなら、もう、国交省はJALってところを廃業させたほうがいい。もともと、CMにしろ、ドラマにしろ、JALが派手なPRをやってるのを目にするたび、わたしは、この会社の飛行機に乗る気をいっそう失くしていく。たとえ、このドラマの内容が「自己批判」的な意味をもっていようと、逆に、結局「自己PR」的な意図しかもっていないとしても、そもそも、「この期に及んでドラマなんか作ってる場合じゃないだろ」という、JALへの不信は消えないわけですが、だからこそ、どうやらドラマのほうの出来が良さそうなのを見ると、なんとも困ってしまう。どう解釈すればよいのやら。このまんま、派手なPRをやりながら事故ばっかり起こしてるような、そういう会社でありつづけるつもりなのか‥。いずれにせよ、こんなドラマひとつで日航への信頼が回復できるなんて、そんなこと絶対にありえないことだとは断言しておくけど、とりあえず、このドラマで、フジとJALが何をやろうとしてるのかは、いまはまだ保留のままにして、今後のドラマの成り行きを眺めていこうと思います。
2006.04.18
ここからは、『風のハルカ』を本格的に考察。このドラマは、わたしにとっては、あまりにも分かりにくい。とても分かりにくい意図をもってるか、あるいは何ひとつ意図なんてないのか。そのどっちか。わたしは、ひとつの結論に達した。まず、このドラマは、はじめから絶対に「ハッピーストーリー」でなきゃいけなかった。そういう命題をはじめから課せられてたと思う。なぜなら、これはNHK朝ドラという「国民的な番組」だったから。そして同時に、大森美香ちゃんにとって、これは『不機嫌なジーン』のあとの作品だったから。だから、絶対にハッピーストーリーでなければならなかった。それゆえに。このドラマは、物語の内容それ自体が、「ハッピーストーリーとは何か。」という問いへのアンサーになってる。◇この物語、表向きはハッピーな展開だけに終始しましたが、じっさいには、いろいろと悲劇的な部分をはらんでました。でも、そういう悲劇的な要素をとことん遠ざけることで、この『風のハルカ』というハッピーな物語は成立しています。この物語のヒロインは、悲劇的な要素が物語に入ってくることを絶対に許そうとしません。たとえば、奈々枝の兄の死。この少年との出会いが、ヒロインにとっての「初恋」だったのかどうかは分かりません。それは、まだ「恋」と意識することさえできないほど、純心なころの出会いだったったのかもしれません。でも、ヒロインが彼との出会いの中で、「好きって、ドキドキすることや」と確認しあったことは、後のラブストーリーにとっても、重要な意味をもつべきです。大人になった彼女の恋心が、少女のままの純粋な気持ちのままなのか。それとも、もう少女のような気持ちのままじゃないのか。そのことを確認する意味でも、少女時代の、奈々枝の兄との出来事は重要だったはず。にもかかわらず、彼女は、大人になってどんな恋をしても、いちども奈々枝の兄のことを思い出しません。絶対に、奈々枝の兄のことを思い出さない。奈々枝と再会しても、彼のことを物語の中心に呼び戻すことはありません。このドラマのヒロインは、悲劇的なものを絶対に物語のなかに取り込もうとしないのです。どうしても、そういうキャラに見えてしまう。◇奈々枝の兄だけでなく、奈々枝自身も、悲劇的な要素を抱えている人物でした。しかも、奈々枝にとっての悲劇は、まだ過去のものではありませんでした。奈々枝の背景には、いまも悲劇的な要素が潜んでた。したがって、ヒロインと奈々枝との再会は、奈々枝の抱えている、そうした「悲劇的な要素」が、ドラマの中心に持ち込まれてしまう危険性をはらんでいました。でも、ヒロインは、見事に、それをねじふせた。奈々枝と再会しても、それでヒロインの人生観が変わったりすることはありませんでした。むしろ変化させられたのは、奈々枝の人生観のほうだった。願いを裏切られても「龍のウロコ」を信じ続けたハルカに対して、そんなことを信じようもないほど、辛く悲劇的な人生を歩んだ奈々枝。でも、二人の出会いによって、心の動揺を強いられたのは奈々枝だけ。ハルカのポジティブな人生観は、まったく動じることもなかった。このドラマのヒロインは、ものすごく頑丈だった。ハルカと奈々枝の再会のエピソードには、ドラマの中でも、それなりの時間が割かれていたけど、奈々枝がハルカのポジティブな人生観に懐柔させられていくこの部分は、シナリオ的にみても、あまり説得力があったとは思えません。奈々枝というのは、ハルカのそれまでの人生を、まったく反対側から照らすことのできる唯一のキャラクター。そう言ってもいい存在です。そういう少女との再会であるにもかかわらず、ハルカの側には、心の動揺があまりにも無さすぎたし、ちょっと、頑丈すぎた。その点は、脚本的に見て弱い部分だと思います。いずれにしても、このドラマのヒロインが、奈々枝の悲劇的な影をはねのけることは、最初の設定の段階から、すでに決まってたんだといえる。このドラマは、ハッピーな物語だから。◇そして、妹のアスカ。彼女も、ドラマに悲劇的な要素をもちこむ危険性をかかえるキャラクターでした。彼女は、その胸にかかえた、故郷と家族への憎しみの思いを、「小説」というかたちにして、世に解き放つ。ですが、それがドラマの中心で爆発することはありません。アスカが家族の前でそれを爆発させようとしたとき、ハルカは、それを押し倒して、怒鳴りつけて、封じる。もちろん、それは家族として、そして姉としての、強い愛情ゆえです。彼女はそうやって、妹と、家族を守ろうとした。この場面は、とても感動的だったし、シナリオ的に見ても、申し分のない説得力があったと思う。※全般的に、アスカを中心にして家族の別れや絆を描いたエピソードは、 感動的で説得力のある場面になってることが多かった。 やっぱり、いちばん歳の下の子供って、そうういうもんなのかな‥。でも、そうやって、アスカのもっていた悲劇性もやはり、ドラマの主題から遠ざけられてしまったことには違いありません。アスカの小説の中身は、けっきょく、ドラマの中で明かされることはなく、それは、ヒロインのポジティブなキャラクターの力によって、ドラマの軸に入り込むことを封じられたと思う。のちに、この小説は「映画化」されることになるけど、この「見たいような、見たくないような」映画は、結局、ドラマのなかで上映されることもありませんでした。ヒロインをはじめとする登場人物はこの映画を見ようとしないし、そもそも、映画が完成する前に、ドラマのほうが終わってしまいます。ここでも、アスカがもっている影の要素は、ヒロインの(あるいはドラマの)明るさによって、封じ込められる。◇もうひとり、ヒロインの人生に悲劇的な要素をもちこんだ、最大のキャラクターが存在します。それは、予想外なことに、なんと幼なじみの正巳でした。じっさい彼は、ヒロインの人生を、不幸のどん底まで落とし入れてしまいました。ハッピーな物語であることを命題にするはずのドラマで、彼は、犯してはならないタブーを犯してしまったと言えます。したがって、その瞬間から、正巳のキャラクターは、視聴者からも、ヒロインからも、許されることのないものになってしまいました。たとえ幼なじみでも、たとえドラマの冒頭から登場するキャラでも、たとえ転校生だった少女時代のヒロインにとって、唯一、無邪気な味方でいてくれた少年だったとしても、ヒロイン自身を不幸にするなんてことは、絶対にやってはいけない。だから、彼は絶対に許されることはありません。視聴者からも。ヒロインからも。そのときから、彼はドラマの中心から遠ざかってしまった。◇このドラマは、「ハッピー・ストーリー」がどうやって成立するか、ということについての、ある種の自己言及的な物語になっています。悲劇的な要素はそこらじゅうに存在するし、場合によっては、ものすごく身近なところにもありうることだけど、ハッピーな物語を作るためには、それを遠ざけなきゃいけない。そういう命題を、このドラマは最初から背負っていました。みずから悲劇に立ち向かっていった、前作の『不機嫌なジーン』の物語とは、まったく反対に。このドラマの、一見、無内容にも見えるハッピーなスートリーは、「ハッピーな物語はどうやって作られるか」ということについての、この脚本家なりの考え方を示してるんだ、と思えてしまいます。もちろん。「このドラマのヒロインには、悲劇を幸福に変える力があったんだ」と解釈することも、不可能なことではありません。そういう見方もできる。というより、その見方のほうが正しいんだと思う。離婚によってバラバラになった家族を、ヒロインがもういちど「幸福な家族」として再生させた、そういう解釈をするほうが、むしろ正論なんだと思います。あるいは、奈々枝のような不幸な少女を、ヒロインが湯布院に連れ戻して、その人生を幸福なほうに導いた、そう考えるほうが、まともな解釈なんだろうと思う。どちらかの解釈のしかたを選ぶかによって、“ケータロー”という存在の意味づけかたも、変わってきます。彼は、物語の外からやってきた孤高のカメラマン。そんな寂しい人物を、ヒロインこそが「家族」の中に招き入れて、彼の人生を幸福なほうに導いたんだとも言える。逆に、“悲劇を遠ざけるヒロイン”が、ただ正巳を遠ざけて、ケータローのほうを選んだだけにも見えてしまう。どちらの見方もできてしまうってところが、猿丸啓太郎という人物の、最後まで“謎めいたキャラ”である理由なのかもしれません。
2006.04.02
心を鬼にして、最後のレビュー。◇とってつけたような、最後の結婚式シーン。というより、意図的に「とってつけた」ことを暗示するみたいに、何の演出的創意も、目立ったセリフも無いまま、お約束の手続きだけで構成した、あっさりしたウェディングシーン。強いて言えば、身内のいないケータローの側に、だれひとり出席者がいないってこと。それ以外は、本当に、「とってつけただけ」と言っていい、おヤクソクな結婚式。とりあえず結婚式だけはやってくれ、という番組上の都合に屈した?◇猿丸ハルカ。時代劇コミックに出てくる忍者の名前か、はたまた狂言回しのちびっ子スターみたいな、結婚するヒロインに似つかわしいとは考えにくい、なんとも、気の毒な名前。嫁入りするヒロインの、その「幸福」という幻想にあてつけた、ささやかな皮肉??◇湯布院の、妻方の実家に住むことを決めた二人。もともとケータローには、家族も無く、家も無く、行動を共にする同僚も、結婚式に出てくる知り合いもいない。結婚しても、ケータローのこれまでの素性は、けっきょく分からないまま。背景のない人物との、勇敢ともいえる結婚生活。ハルカ: 信じられん、ふつうは塩やん。啓太郎: なんでやねん、牛乳やん!!それにケータローは、もともと「食べること」に対する関心が低くて、設定としては“味オンチ”ってことになってたはずなので、この「トマト&ミルク」が美味しいという主張も、説得力は乏しい?◇今日は、「最終回・大阪編」。なので、たこばあばの人々は出てくるけど、最後にもかかわらず、正巳も、奈々枝も、悟史も、登場ないままのドラマ終了。過去の伏線の回収らしきエピソードも、これといった情動をあおる仕掛けも無いまま、重要キャラをも置き去りにして終わっていく最終回‥。なんだか、わたし自身が置き去りにされるような、とてつもない寂しさ。そうですね・・。いま、一通りのストーリーを終えた気がします。レストランの夢も、家族で食卓を囲む夢も叶った。娘たちも幸せに暮らしている・・。なんだか、すこし、寂しくて。同感です。陽介さん。この最終回に感動があるとすれば、ただ「終わること」の寂しさだけ。村崎さんのことなど気にも留めずに、まるで全部のストーリーが終わったみたいに言っちゃた陽介さんへ、宗吉さんが語った、次のセリフ。ちょっと、質問していいですかね。この「料理の道」ってのに、“終わり” ありますか?もし無いとしたらね・・、「人生」と似とると思うんです。宗吉さんのこのセリフだけが、わたしにとって唯一の救いです。つまり、これはまだ、「最終回じゃない」ってこと!ワシね、まだまだこれからだと思っちょる。陽介さんのレストランもこれから、第二楽章がはじまりますね。本来、このセリフ、直接は村崎さん登場のために語られるセリフなんだけど、なんだか、それ以上の意味合いがあるように思わせてしまう。宗吉さんによる、最終回のメッセージみたいです。セリフの中身は前向きなものなのに、それを語る宗吉さんの、静かで、どことなく寂しげな微笑み。それが、わたしには、物語の外側にうったえてくる何かを感じさせてくれた。◇場面は変わって、仁子が研究を続けているロンドン。‥じゃなくて、木綿子が青木さんと暮らすロンドン。木綿子と、アスカとの電話。「今ごろ売れている」という、デビュー当時の問題作。そして、「見たいような見たくないような」映画。そんな、けっしてハッピーなだけではない世界が、このドラマのどこかに存在することを、さりげなく知らせつつも、いい感じのハッピーエンドになりそうよ。・・うーん。意味深なほど力強く、アスカから伝えられるメッセージ。『ジーン』のときの美香ちゃんのトラウマは、ここまで引きずってるの?脚本家が、まるで自分に言い聞かせてるようなセリフですね。・・・でも、このドラマ、NHKの公共放送的な要請の中で、「国民的連ドラ」を書くということの意味が、わたしには、良くも悪くも端々から伝わってくるようではありました。◇それでは最後に、番組のヒロインから一言。こんにちは!湯布院へようこそ!!はい。NHKのおつとめ、ご苦労様でした。☆ ☆ ☆さ。来週からのNHKは、満をじして、浅野妙子&宮崎あおいちゃんのコンビ!好みの問題はともかく、これが文句の言いようの無い作品になるのは、ほぼ確実。ある意味、いまや橋田壽賀子なみの“王道路線”と言えるかも。浅野妙子は浅野妙子で、ああいう構築的な脚本だし、宮崎あおいちゃんは宮崎あおいちゃんで、もう、古典的とさえいえるような演技力(→良い意味で)ですから、ここ数年の、お軽い現代劇を吹き飛ばすような、ガッシリした内容になる予感は、たぶん、外れることがないでしょう。☆そして、何より何より!この『ハルカ』終了のタイミングを見はからってか、NHKは、4月3日から、BS放送にて『ニコニコ日記』を再放送!!! (あたしゃ、どこの回し者?)って、わたしはBSを視聴できる環境にないんですけど・・。くやしいから、放送時間にあわせて自分のDVDを見ることにしよう、と考えてるわたしは、相当、どうにかしてるのかもしれませんが。(--;いったい何回見れば気が済むのか。。。あのドラマの魅力を語るのは難しい。大森美香ちゃんの脚本ではあるけど、彼女のオリジナル作品じゃないし、脚本だけじゃ、あのドラマの魅力は説明つかない。原作コミックと、美香ちゃんの脚本と、当時の「よるドラ」スタッフの才能の輝きと、そして永井杏ちゃんという天才少女とが、奇跡のようにめぐりあって出来た、宝石のようなドラマ。そういう作品の魅力を、言葉で説明したり、理解したりするのは、ちょっと無理。なので、BSが見れる環境にある人は、絶対見てください。BSを見る環境にない人は、DVDを買ってください。(命令)☆ ☆ ☆ 【お知らせ】現在、音楽惑星さんにお邪魔して、「斉藤由貴」問題について考えています。
2006.03.31
湯布院の面々が集ったレストラン。最後にケータローが登場。またまた海外からふらっと戻ってきたのか、それとも、この日が来るまで青鱗湖のあたりで何ヶ月も潜んでたのか、そんな言い訳すら、もはや不要。最終回だから来たのです。そして、全員が、おヤクソクの告白シーンを期待する、彼への熱いまなざし。そんな自分の役回りを悟ったケータロー。大見得をきって、詩人のような告白。主演の2人が演じる、そのNHK朝ドラのお約束シーンを、黙って優しく見守るキャスト一同。ここまで開き直った演出なら、逆に文句もいえません。宴会やっちょる言うんで来たけんど・・と言って入ってきたのは、観光組合の人たちと、農家のおじさん。もうここまできたら、「最終回や言うから来たんやけど・・」と言って、四方山支店長の一行が入ってきたって、驚きはしないんだけど。明日のウェディングシーンがあるので、全員集合はそこまで持ち越し。◇明日はいよいよヒロインの嫁入り。(小倉千加子の思うつぼ?)どうせなら、「子供のファンタジー」にすぎなかった龍のウロコを、結婚式の前に、みんなで青鱗湖まで返しに行って、そして、結婚式後の教会では、完成した映画の上映会もやってもらって、あの「父親が廃屋に火を放つ」という、小説の“キラキラしたエンディング”ってのを見てみたいけど、15分のうちの7分ぐらいを“回想シーン”に費やすとすると、そこまでやる時間的余裕は、もうないかも。◇明日は予定調和か、はたまた、大どんでん返しが来るのか。ほんのり期待。
2006.03.31
わたしは半年前から、かなりの気合を入れて、このドラマをずっとフォローしつづけてきました。でも、ラストが近づくにつれて、正直、わたしの不安は増すばかりだった。本当にこのドラマをフォローしてきてよかったの?最終的に、わたしはこのドラマを支持できるの??もしかしたら、このドラマをフォローしてきたのは、わたしにとって、大きな間違いだったんじゃないの??先週ぐらいのわたしは、正直そんなことばかり考えてた・・でも、どうやら、もう、そういう心配はしなくてよさそう。最終週になって、ようやく、このドラマの着地点が見えてきた気がする。◇青鱗湖で、天に昇る龍に出会った5人の夢。願いを裏切られても、夢見ることをやめられなかったハルカ。願いを裏切られ、湯布院と、家族とを憎みつづけてきたアスカ。願いどころか、兄を亡くし、家族を失くし、過酷な少女時代を生きてきた奈々枝。龍のウロコなんかより、ガイセイバーのほうがよっぽど大事だった金持ちの坊っちゃん、正巳。子供じみた夢より、着々と地道な現実を歩んできた悟史。5人の少年少女の、それぞれの夢が、どんなふうに挫け、そして、どんな形でかなえられるのか。それを描くことが、このドラマの一番のテーマなんだと、ずっと思ってきた。・・けれど。待てども待てども、「龍のウロコ」は出てこない。奈々枝の兄がなぜ死んだのかも、さっぱりわからない。小説の中のアスカの心の叫びが何だったのかも、まったく見えてこない。“レストランの夢”はどうやら叶えられたけど、あとは登場した男女をアミダくじのように結びつけてエンディング・・なんてことで、このドラマが終わってしまうんだとしたら、わたしには、いったいこのドラマが何を言いたかったのか、まったくもって理解できないで終わるってことになる。それに、猿丸さんとハルカが結ばれることでドラマが幕を閉じるのなら、それは、子供時代のあのエピソードとは何の関係もないエンディングになってしまう。本当にこのドラマが、ただ「娘を嫁入りさせるまでの物語」に終わるんだとしたら、まさに、小倉千加子が批判した、そのまんまの結果だと言っても過言じゃありません。わたし自身、本当にそんなことなら、最後の最後になって、このドラマをこっぴどくコキ下ろすことになるかもしれない。正直、先週ぐらいには、わたしは、そこまで考えてました。でも、どうやら、このドラマは、わたしが予測していたのとはまったく違うところに、その着地点を用意してるんじゃないかという気がする。そういう方向性が、今日の放送で、なんとなく見えてきた。◇青鱗湖の、5人の子供たちが、それぞれに描いていた夢。でも、重要なのは、その個人個人の夢が、叶うってことでもなければ、挫折するってことでもない。それぞれの夢は、その時々で、かなったり、くじけたりするかもしれないけど、大事なことは、それらを乗り越えて、それぞれが、それぞれの「個人」の立場から、「社会」へ開いていくこと。そこに、このドラマの着地点があるような気がする。これからのこの町を、守っていくんも、変えていくんも、わたしたちや。結局、いちばん重要なことは、レストランを成功させるかどうか、もういちど家族を取り戻せるかどうか、だれかと幸せな結婚ができるかどうか、そういうようなことじゃない、と思う。個人的な夢を実現できるかどうかが重要なんじゃなく、大事なのは、その夢と、その挫折を乗り越えたところから、彼女たちのまなざしを、社会に向けて開かせていくこと。それが、このドラマの着地点であり、同時に、彼女たちの新たなスタートラインになるんだろうという気がします。そして、そういうラストなら、たとえ登場人物がだれと結ばれ、どんな立場におさまったとしても、わたしとしては、納得のいく結末を迎えられる気がする。・・もともと、このドラマは、「トトロ的な世界」を描くと同時に、そのファンタジーを壊すところから始まりました。そういう意味で、このドラマの物語は、『となりのトトロ』に描かれていたような、子供の夢=自我の夢への、現実世界からのアンサーみたいな感じがあった。でも、最後の本当の答えは、そういう子供(=自我)の夢が、現実に叶うのか、それとも壊れるのかじゃなく、最終的に、それを乗り越えた彼女たちが、そういう「自我」の世界から「社会」に開かれていくことの大事さにあったんだ。そういう気がしてきた。それこそが、「トトロの世界」を乗り越えることなんだって気がする。こういうエンディングは、事前には、まったく予想してなかったけど、今になって思えば、こうやって登場人物の未来を「社会」のほうへ開いていく結末は、ちょうど『不機嫌なジーン』と同じ構造になってるのかもしれません。◇『ニコニコ日記』も『不機嫌なジーン』も、ともに九州を舞台にした話だった。もともと、大森美香ちゃん自身、中途半端な気持ちで九州の物語は作れないんでしょう。この『風のハルカ』も、ただたんに「湯布院の観光PRドラマ」に終わらせるだけじゃ、彼女自身の気持ちはおさまらなかったと思う。これ、昨日、もういちど読んでみたら、この主人公も、けっして故郷を「良し」と思ってない。だから、この町を嫌いなオレは、この映画に向いてるのかもしれんな・・これは、たぶん美香ちゃん自身の気持ちでもあるんだと思う・・。「書くべきことは書かなきゃならない」ってのが、最後に、こういう形で現れてくるんだなと思います。それに、これは湯布院だけの問題じゃなく、たぶん、日本中のあらゆる場所で、“故郷を愛するがゆえに憎む”というようなことがあるんだろうと思うし、むしろ、キレイごとで終わらせないドラマの内容のほうが、地元の人たちにとっても、有難いことじゃないのかなって気がする。なんだか、わたしは『不機嫌なジーン』のことが鮮明によみがえってしまいました。そういえば、YUIちゃんも福岡の出身だったっけ。◇「農業と、旅館と、観光」みたいな提案が、現実的にどれほど有効なものなのかは、わたしには分からないけど、とりあえず、彼女たちを、「個人」の願いから、そういう「社会」的な課題に向かわせて、そこでもういちど彼女たちを、同じ夢を共有させるような場所に立たせれば、それで、このドラマの役割を果たせるんじゃないかなと、そんな気がします。
2006.03.29
王貞治と、イチロー。日本が生み出した2人の世界的野球人が、この記念すべき第一回のWBCで華々しい歴史を残しました。◇これとは対照的に、日本球界にとっての重要人物、たとえば、長嶋茂雄がいる。長嶋も、今回の日本チームの優勝についてコメントを出してますが、おそらく長嶋なんかにとってみれば、今回の日本の優勝は、進化した日本野球が辿り着いた到達点のように、眩しいくらいの輝きをもって見えてるんだろうと思う。それから、もうひとり、日本球界にとって重要な役割を果たした人物のひとりとして、野茂英雄もいます。野茂にかんしては、今回のWBCでは、その姿も、コメントも、まったく見えてこない。野茂はまだ「現役」の選手だから、いまだ日本球界のOBとして登場する立場にもないし、かといって、いまやマイナーリーグの一選手にすぎない立場では、世界大会の表舞台で活躍できる身分でもない。例によって、野茂の場合は、自分の仕事をただ黙々とこなすのに精一杯なんでしょうね。◇野茂が果たした役割と、イチローが果たした役割。野茂がやったことは、いわば「日本人の野球を変える」ということだった。日本に生まれた野球人が、日本球界という枠にしばられずに、その可能性を最大限に開くにはどうすればいいか。それを、野茂は身をもって実践した。そう考えると、野茂のやったことは、あくまでも個人の可能性を開くということであって、「日本球界を変える」とか「世界の野球文化を変える」みたいな、そういう大袈裟なことじゃなかった。そこから見ると、イチローの志しというのは、野茂の場所からさらに先へ進んだものだったんだなと思えます。イチローの場合、彼は大リーグ・チームに所属しながらも、じつは、つねに「日本球界」のことを考えていたように思う。ここ数年の、一連の日本の「プロ野球問題」なんかのことも、イチローは、海外にいながら、とても関心をもって見つめていたように思います。つまり、イチローの場合、たんに「個人」を変えるだけでなく、「日本の野球を変える」とか「世界の野球を変える」みたいな意志が、かなり強く抱かれていたんだと思えます。◇そういう意味で、WBCが実現したことには、今後の世界の野球を考える上でも大きな意味があると思うけど、その一方、日本が、その第一回のチャンピオンになってしまったというのは、日本の野球にとっては、ちょっと出来すぎじゃない?って気もする。イチロー自身、「じつはここまではイメージできてなかった」と言ってたけど、あれは本当だと思います。・・・今回は「日本の野球」が、というよりも「アジアの野球」が、世界を征する結果になりました。日韓の野球が、アメリカ大陸の野球に勝ち、そして、そこを勝ち残った日本の野球は、つづけてカリブ海の野球をも打ち破ってしまった。本来ならカリブ的な野球をするはずのキューバを見ても、ちょっと意外な感じさえしたとおり、世界の流れは「パワー野球」から「技とスピードの野球」へと、あるいは「打撃力」から「投手力」の野球へと移ってるようです。つまり、「アメリカ・カリブ的な野球」ではなく、「アジア的な野球」というのが、時代の趨勢になってきてたのは確か。◇でも、今回のWBCで日本が勝ってしまったからといって、ほんとうに「日本やアジアの野球」が強いと信じるのは、まだ早いと思う。今回のキューバなんかは、かえって「つなぎの野球」に失敗して(2度の併殺!)日本に負けたけど、もし、本来の「パワー野球」を爆発させていたらどうなってたんだろう、なんてことを、逆に恐れてしまったりもする。どちらが強いにせよ、その差は非常に小さい気がします。3年後、世界の野球は、さらに進化した姿をして現れるはず。それまでのあいだに、日本の野球は、いまの日本的・アジア的な側面をさらに強化すればいいのか、それとも、いまの日本には無い何かを身につけなきゃならないのか、それを今のうちからよく考えないと、今回の祝杯が、かえって仇にならないともかぎらない。慢心してたら、3年後には、かえって惨めなことになる。日本の野球がほんとうに「世界最強」なのかどうか。まだまだ、それは証明され尽くしていません。
2006.03.22
なんどもあきらめようッち思ったのに。なんでやろ・・、夢みることをやめられん。やめたいのに。やめられん。おもむろに出てくる、このドラマのテーマ。〈夢〉と〈現実〉。ドラマも終盤にきて、おもなトピックは〈だれとだれが結ばれるか〉ってところに、偏ってきてるようにも見えるけど、やっぱり、このドラマのテーマは、ここにある(はず)。それぞれの人物が15年前の昔に描いてた夢。それが、どんなふうに壊れ、どんなふうに挫け、そして、どんなかたちでかなうのか。そこに何かの形があたえられれば、このドラマは、とりあえず幕を降ろせる思う。
2006.03.20
韓国戦ということもあって、ナショナリズムを露わにするような反応が、日韓双方ともにありますけど、手放しに日本選手の活躍ぶりを顕彰したり、無根拠に日本の「強さ」を信じようとするのは、最終的には、日本自身にとって命取りな結果をもたらします。6-0という結果だけ見れば、さぞ打撃力で上回ってるかのように思えるんでしょうけど、いっときにだけ打線が集中して爆発してるってことは、普通なら、日本の打撃力が相手を上回ってたことじゃなく、そのときの相手チームの継投策が失敗したことを意味するはずです。つまり、調子の悪いピッチャーが出てくれば打てるけど、そうでないかぎり、日本の打線は打てなかったってことです。実際に試合を見た人なら、今日の最大の勝因は、投球数制限のなかでほぼ完封に近いピッチングをした上原にある、という事は明らかに解るわけで、圧倒的な打線に勝因があったと思う人は、ほとんどいないと思う。相手の継投策が失敗するまで日本は打てなかったし、打てた時でも、着実に球を転がしてランナーを進めていくような、そういう「つなぎ」のバッティングが出来てたとはいいがたい。王監督の采配も結果的には当たったわけだけど、普通に考えたら、かなり理解しがたい選択があったと思う。・・・と、そんな具体的な野球の話はどうでもいいんですが、わたしが言いたいのは、ほーら、やっぱり日本は強いんだ!みたいなことを盛んに喧伝して、日本の選手の活躍を顕彰したり、日本の強さを無根拠に妄信したり、そうやってナショナリズム的感情を満足させている人たちというのは、往々にして、試合そのものをほとんど見ていないということ。試合を見て野球それ自体のことを考えている人たちなら、ほとんど、そういうことは言わないはず。だって、上原の投球を除いたら、日本はべつに圧倒的に強かったわけじゃない。日韓ともに、ナショナリズム的な反応をする人たちというのは、じつは野球そのものには興味がなくて、ほとんどの場合は見てもいない。恐ろしいのは、そういう人たちほど、自国の強さを無根拠に信じようとする傾向が強いこと。冒頭にも述べたとおり、それは、ほかならぬ自国にとって命取りな結果になります。これは次のキューバ戦のことを言っているんじゃありません。というより、これは野球の話じゃなくて、国の歴史の話です。太平洋戦争の日本のボロ負けというのは、妄信的なナショナリストが、自国の強さを無根拠に喧伝することの恐怖をわたしたちに教える歴史です。愛国心に満ちたナショナリストほど、自国の力とその限界を正確に把握しないし、そうしようとも考えない。ただひたすら、自国の力と栄光を信じ続けようとする。アメリカであれ、日本であれ、韓国であれ、そういう人たちこそが、自国を滅ぼす根源になってしまう。わたしは、WBCはとても良い機会だと思う。大切なのは、野球そのものをちゃんと見ること。そして、実際の野球の中身をとおして、ものを考えることだと思います。そうすれば、日韓双方とも、無駄なナショナリズム的な反応は、少しずつなくなっていくと思います。日本の野球が強くなるためには、国民文化として、野球そのもののことをきちんと考えようとする文化が、つよく育っていかなきゃなりません。
2006.03.19
またまたやってくれました。アメリカ人のボブ・デービッドソンさん(白人)。「大誤審」なんて言葉が、もともとあるんでしょうか?はじめて聞きました。イナバウアーにつづいて流行語にもなりそうな勢い。大誤審、愛国ジャッジ、史上最低の審判、etc・・ボブさんのような人物というのは、今のアメリカ以外には存在しえない気がする。ああいうキャラクターの人は、他の国にはいないだろうと思う。彼は、とてもアメリカ人らしいアメリカ人に見えます。◇彼には、今のアメリカの「孤立主義」が象徴されてる気がする。 自分の論理にのみしたがって行動し続けること。 それがアメリカの「孤立主義」。アメリカの国家はいま、「孤立主義」こそがアメリカの取るべき行動規範であると、自国民にむけて、身をもって示しています。今回の審判員だったボブさんは、まさしくそのアメリカの行動規範たるものを忠実に実践してるように見える。あきらかに間違っているのに「正しい」と言いつづける、その彼の、堂々として、屈することのない姿勢は、どこかしら、現在のアメリカ大統領の面影にも重なって見えた。◆孤立主義、その光と影。「孤立主義」を続けているかぎり、たしかに“自分が世界の中で一番なんだ”と思い込むこともできる。でも、その反面、鏡に眼を向けようとしないかぎりは、その思い込みと自分の真の姿とのあいだで、大きな乖離が生まれてしまっていることに気づくこともできない。それは何より、ほかでもない、自分自身にとって大きな弊害なんです。いつかは必ず、そのツケが回ってくるから。ふと鏡に映った、自分自身の本当の姿に気づいた時には、もうおそい。誤審もむなしくアメリカは敗退したけど、今回のWBCは、アメリカにとって、とても大事な、ひとつの教訓になったように思います。じつは、アメリカ人自身、今の自分たちの本当の姿に、うすうす気づきはじめてるんだと思う。あらゆる点で、アメリカは今回の顛末に目を背けるべきじゃない、と、わたしは思います。
2006.03.17
向こう30年は手は出せないなという感じで勝ちたい・・ってのは、いったい、どの国がどの国にあてて言った話だったんだか、今となっちゃぁ、もうすっかり思い出せないんですけど、そのくらい、この大会にはとびきり抜きん出た国がなくて、どこが優勝するのか全然わかんないほど、各国の力はものすごく拮抗してる。正直、WBCがこんなに面白くなるとは、予想できなかった。「誤審騒動」とかもありましたけど、こういうのが、ただ大会に水を差しただけのものとも思わない。むしろ、こんな一個の判定で大会が大きく揺らぐほど、このWBCは、予想以上にエキサイトしてるってことの証左です。日本は、この「誤審」問題を徹底的に追及すべき。こういうことで、どんどん大騒ぎをすればするほど、今後のWBCが、ますます白熱して面白くなっていくと思う。◆サッカーのワールドカップが大西洋のイベントだとしたら、今後、WBCが回を重ねるごとに、太平洋でワールドカップに匹敵するイベントになるのは確実でしょう。3年後、各国はさらに「本気度」を増して臨んでくることになるはず。太平洋を取り囲む地域の世界が、この4年に一度のイベントを機に国際関係を変えていくかもしれないし、何より、このWBCを通して、アメリカのメジャーや、日本のプロ野球が、変化せざるをえなくなる。今、現役の野球選手で、しかも、この第一回目のWBCに出る機会もあったのに、そのチャンスをみすみす逃してしまった人達というのは、世界の野球史での存在感を失ったものと思わなきゃなりません。完全に、乗り遅れたってこと。これからの太平洋の野球文化はこのWBCを中心に回っていくはず。その点、冒頭にあげた発言はともかく、さすがにイチローなんかは、このイベントの意義をよく理解していたと思う。もしかしたら、冒頭の発言だって、参加国を煽ってエキサイトさせるために、確信犯的に発言したものだったのかもしれないし。まあ、さすがに韓国に明日負けたら、上の発言もただの「シャレ」では済まされませんけど。
2006.03.15
今日は珍しく沖縄ネタ。◇ ◆小泉おやじは、沖縄の普天間飛行場の県外移設ができない理由について、「他の自治体では反対が強いからだ」と説明しました。でも、沖縄でも地元の反対が強くて合意ができない。もし、政府が、特措法をつかって強硬な辺野古基地建設をするなら、そのとき、この小泉おやじの説明は、下のような意味をもつことになる。沖縄以外の自治体では、反対を押し切ってまで基地を作ることはない。しかし、沖縄でなら、地元の反対を押し切って基地を建設しても構わない。同じ日本の都道府県でありながら、特定の都道府県のみを差別的に処遇することの意味。近代日本成立後100年を過ぎた時点で、このような、ある種「民族差別的」とも言える対応をとることが、民主主義国家にとって、どんな意味をもつことになるか。政府は、そのことを深刻に考えたほうがいいはず。日本という国家の安定性が、そこから根底的に揺らぐことになる。◆辺野古に新基地を作ることは、絶対にやめたほうがいい。ぶっちゃけ、普天間は、永久に残るということはないです。日本政府やアメリカを含め、だれひとり、その存続を望んでる人はいないから。地元はもちろん、日本もアメリカも、あの基地の危険性をよく承知しています。だから、なるべく早くあれを別の場所に移したいと思ってる。だから普天間は、多かれ少なかれ、今の場所からはなくなります。でも逆にいえば、いちど辺野古に新しい基地を作ってしまったら、それは、ほぼ永久的に残ってしまうってことになる。つくってしまったら最後、移す必要も、なくす必要もなくなる。それはいつまでも残る。かりに日本を取り巻く軍事的状況が変わっても、その海上の建造物はずっとそこに存続することになる。そういう意味で、「辺野古」は最悪の選択です。「いずれは民間で使う」なんていう馬鹿げた意見もあるけど、そもそも、あんな場所に民間の飛行場なんて必要もありません。はっきり言って、名護市民のための飛行場なんて、無駄な公共工事以外の何ものでもない。これからそう遠くない時期、北朝鮮をはじめとして、極東の軍事バランスが大きく変わる可能性は充分あります。それを見極める前に、不用意なかたちで新基地を建設したりするのは、とてつもなく愚かです。◆ついでに、今日も「嘉手納」のことを書いておきます。以前にも書いたとおり、嘉手納にある巨大な米軍基地というのは、あれは「日本のための軍事基地」ではなく、あくまでも「アメリカのための軍事基地」です。この極東最大の米軍の戦争基地は、ベトナム戦争やイラク戦争など、つねにアメリカ自身の戦争のために利用されています。この基地は、アメリカにとって、いわば太平洋戦争における、日本からの最大の「戦利品」です。この基地を日本に置くことが出来るがゆえに、アメリカは、世界中で戦争をすることができている。この基地こそが、アメリカを「世界の支配者」たらしめています。逆にいえば、この基地が日本の領内にあるかぎり、日本は、アメリカにとっての「敗戦国=従属国」であり続けるってこと。いまだ国連憲章に「敵国条項」があるのと同じように、嘉手納基地がある限り、日本の領土は「敵国の土地」であり続けていて、それはアメリカの戦争拠点として利用されつづけている。そして、これらのものが無くなって、これらの屈辱から解放されたときにはじめて、日本は国際的な意味で「戦後」から抜け出せるってことになる。嘉手納がある限り、日本は米国の奴隷です。「嘉手納の基地は自衛隊がそのまま使うんだ」みたいなことをいう国内の軍オタもいますが、もし自衛隊の戦闘機が、自国民の住宅の上をかすめて、なりふりかまわず飛び回るんだとしたら、そんなものは、もはや国民を守る組織ではありません。日本という民主主義国家が、「敗戦国」としての屈辱から抜け出すためには、嘉手納をなくさなければなりません。いわゆる「嘉手納統合案」というのがありますが、これは嘉手納の機能と普天間の機能を並存させるということではなく、アメリカの「戦争基地」としての嘉手納基地を閉鎖した後で、大幅に縮小されたその地域に、普天間の機能を移すという意味でなら、はじめて受け入れ可能になる案なんだろうと思います。実際、海兵隊が大量に削減されることになった今、「人間の輸送」という嘉手納の役割も大幅に縮小することになった。のみならず、今回の再編で、在沖縄の軍事物資が事前集積船に移せることも明らかになりました。その点でも、嘉手納の輸送機能は縮小が可能だということ。だから、これは、決して不可能な考えではありません。
2006.03.08
日本の映画ってのは、世界的に見ても歴史が豊かなほうだし、同時に、映画賞にもいろんなのがあって、日本映画に歴史がある分だけ、映画賞のほうにも、それなりの歴史と伝統がある。いちばん古いのが、「キネ旬ベストテン」。◇べつに、キネ旬ベストテンに権威があるとも思わないし、絶対的な信用があるとも思わないけど、とりあえず過去のキネ旬ベストテンを見れば、これまでに、さほど間違った選択はしていない。選考に大胆さが欠けるところはあるし、つまらないといえばつまらないけど、洋画、邦画ともに、まあまあ無難な選考をしてきてる。一方で、日テレ主催の「日本アカデミー賞」ってのはスゴイです。堂々と間違えますから。(~~;というか、もはや間違うのが伝統なのかもしれません。「間違ってて何が悪い」的な威厳だけはあります。◇どの映画賞の選考委員も、かりにもろもろの事情や好き嫌いがあったにせよ、「とりあえず今年はこの映画にやっとかんとマズイでしょ」みたいな配慮とか体裁って、最低限あると思うし、映画賞としての権威を維持する上でも、そういうのって意識せざるをえないと思うんですけど、日本アカデミー賞の場合、まったくそういうことは意識すらしてないみたいで、堂々たる間違えっぷりの上に、平然と開き直ってます。今さら間違うことなんか恐れてもないって感じ。この際、映画賞としての信用を得ることなんか、べつに望んでもいないのかもしれない。しかも今年は、身内が配給した映画に12部門を独占させるという、ある意味快挙!!(笑)これによって、『ALWAYS三丁目の夕日』という映画の評価が定まったというより、むしろ「日本アカデミー賞」という映画賞への評価が定まった、といっても過言じゃない。表向きの「公平性」とか、見た目の「バランス」とか、映画賞としての「信用」や「権威」の保持とか、そういうこと、全部かなぐり捨てて、とにかく自分とこの作品が一番!!12部門総なめ。問答無用。自分とこの映画で何が悪いんだ的大盤ぶる舞い。・・まあ、今年は日本アカデミー賞にとって、ちょっと不運だったってのも確か。『ALWAYS三丁目の夕日』という、それなりに話題性もあって、目立った失敗作でもなく、一般の人気と感動も得ることのできた映画を、うまいこと自分の配給で作れたわけですから、アカデミー賞選考サイドとしても、これなら心おきなく手前ミソな選考をしても構わないはずだったし、多少の大げさな評価をしたところで、さほど文句も言われないで済むという目算だったと思う。だけど、今年は『パッチギ』があったせいで、そういう手前ミソな選考ってのは、映画賞そのものの信用を失うリスクを賭けてやるほどの、思い切った独断的選考なしにはできなくなった。『パッチギ』は、べつに映画史に残るような大傑作ではないけど、とりあえず今年度の日本映画にかぎって見れば、この映画を選んでおくというのが無難な選択なのは誰の目にも明らか。今年の日アカ賞にとって、それが最大の不運だった。◇今回の「ALWAYS12部門独占」と、くわえて「パッチギはずし」という結果が、はたして映画賞としての信用と権威をかなぐり捨てた結果なのか、それとも、他の映画賞がこぞって『パッチギ』に傾いてたので、とりあえずアカデミー賞だけでも『ALWAYS』で独占させて、全体としてかろうじてバランスをとろうとした結果なのか、そのへんはよく分からないけど、これだけ華々しく、可もなく不可もないような映画に「12部門」もあげてしまったんなら、この際、そのことを、ある種“有終の美”にして、この映画賞それじたい、一緒に華々しく散ってもよさそうなんだけど、やっぱり、来年もまたやるんでしょうか・・・こうなると、貰うほうが恥ずかしいと思う。
2006.03.03
でも、分かったんよ。好きだけじゃダメやって。一緒になるなら、結婚するなら、相手をちゃんと信じることできんと、ダメなんよ。わたしはもう、正巳を信じられん。信じたいけど、信じられん。だから、好きでももうダメなんやと思う。これって、ジーンが南原教授と別れた理由と同じじゃないでしょうか。ハルカと正巳の今後の成り行きは、『不機嫌なジーン』に対するアンサーの意味にもなりそうです。たとえ好きでも別れなければならない。しかも、外からの障害のためじゃなく、当事者の内面的な理由によって。美香ちゃんは、あくまでこのテーマを追求しているようです。今回もまた、二人を別れさせるつもりなんでしょうか?アスカの小説みたいに。。(T_T)
2006.02.28
旅館も継いで、同時にハルカの幸福も請け負って生きていく・・そういう重圧に耐えられずに、結納の儀式をすっぽかして逃げてしまうほど、正巳は「アホ」で「弱虫」で「つむじがへん」だった。だから、ハルカは正巳を断ち切った。ハルカが正巳を「嫌い」になったのは、彼が、どうしようもなく、アホで、弱虫で、つむじがへんだったから。もし、正巳がこんなふうに、アホでもなくて、弱虫でもなくて、つむじがへんでもなかったなら、きっとハルカは、こんなふうに正巳を嫌いにならなくて済んだろうと思う。でも、嫌いにならないかわりに、もともと、そんな正巳なら、好きにもなってなかったんだろう。つまり、ハルカは、正巳がアホで、弱虫で、つむじがへんだから嫌いになったんだけど、そもそも、ハルカが正巳を好きになったのも、正巳が、アホで、弱虫で、つむじがへんだったからこそ。好きになった理由と、嫌いになった理由は、じつは同じ。◇たとえ、ちゃんと旅館を継げなくても、愛する女性の幸福をきちんと請け負えなくても、それでも「好き」という気持ちに忠実になって結ばれるなら、それは、とてもドラマティックなことだ。でも、逆に、本心には「好き」という気持ちがあるのに、旅館を継ぐことを恐れて逃げてしまうような男はNG、相手の幸福を請け負う覚悟もないような男はNG、という理由で別れざるを得ないんだとしたら、それは、ものすごくリアルな話になってしまう。このドラマが、「ドラマティックな物語」になるのか、「リアルな話」になるのか、まだわかりません。美香ちゃんのことだから、最後に、ものすごくシビアで、かなりリアルな結末というのも、ありえないことじゃない。一応。参考までに。男と女の「数」だけは合うんですけど・・1.青木課長 2.陽介 3.正巳4.啓太郎5.由起夫6.佐藤さん1.木綿子2.村崎さん 3.亜矢4.奈々枝5.ハルカ6.深田先輩だから、「ハルカが余る」ってのは、たぶん無いだろうと思ってはいるんですが・・。(~~;
2006.02.25
このドラマは、正巳をどうするつもりなんでしょう・・?幼少時代から、ハルカにたいして重要な役割を担ってきたこのキャラを、まさか、このまま葬り去ってしまうワケもない。このままドラマの中で「暗い影」にしておくってわけにもいかない。どうにかして、物語の中に戻さなきゃならないことに変わりない。でも、そうかといって、今後、どうやってドラマの舞台に復帰させるつもりなのか。んー。わたしが脚本書くわけじゃないけど、心配。何気に、わたしはひとりで正巳に同情してますけど、正巳の行動に対する視聴者のいろんな反応を映すように、ドラマの中も、それぞれに立場が分かれています。◎ 正巳に否定的な人: 陽介さん、木綿子さん、ちいさん、奈々枝・・◎ 正巳に同情的な人: ハルカ、百江、悟史・・そして、 すっかり黙ってる宗吉さん。おそらく、今回の件でいちばんダメージが大きいのは、ハルカ以上に、たぶん宗吉さん。「息子の成長を見るのはこんなにも楽しい」みたいなこと言ってたけど、こんなどんでん返しがあったんですね。ある意味、これは娘を嫁がせる父親以上に厳しい仕打ちといえる。今まで自由奔放にやらかしてきた人だけど、この歳にして、きっとこれが、宗吉さんの人生最大の試練なんじゃないでしょうか・・。「宗吉さんが甘やかした結果だ」とちいさんが言ったのは、たしかに正しいことなんだけど、もともと、親一人子一人なんですからね・・いくら厳しくしてみたところで、けっきょく甘いのは当然だと思う・・。(~~;)ここにきて“母の愛”を強く見せてくれている百江さん!きっと彼女が、この父子の危機を救ってくれるものと祈ってます!これは「倉田家」にあたえられた試練なんですから!これを乗り越えれば、きっと倉田家に新しい道が開けてくるのかもしれないし!!正巳を連れ戻すために、意外にいろんな人が役割を果たすのかもしれませんね。でも、最終的に、彼の「復活」の鍵をにぎるのは、やっぱり、たった一人の父親である人以外にいないわけだし、心を鬼にして、七転八倒してでも、いつかは宗吉さんと正巳が、父と息子の物語をやってのけなきゃならないのかな・・。そうはいっても、正巳にとって旅館を継ぐ道がほんとに正しいのかどうか。それとも、別の自分の道を見つけて帰ってくることになるのか。そのへんは、まだまだわたしにはわかりません。(T_T)だって、やっぱり二代目は大変だし。不自由だしね。(泣)
2006.02.21
ひさしぶりに『ハルカ』ネタで。これまでの、よくもわるくも大森ドラマらしい、例によって、たわいのない小さな物語の中にも、取り上げたい小ネタはいろいろあったんですが、とりあえず、それらは全部すっ飛ばして。今日、いきなり大きな物語になりました。正巳が逃走。夢崩壊。なんで、いきなりこんな展開になるんだろ。もともと「崩壊」からスタートした家族が、これまで分離状態にありながらも、少しずつ、少しずつ、互いの絆を回復して、果たせなかった夢を取り戻そうとしてきて、やっと、すこしずつ「家族の幸せ」の輪郭が見え始めたところで、きっと、このまま最後まで、ささやかなエピソードが続いて、最後に、ちょっとしたささやかな幸せの演出で終わるんだろう、と思ってたけど。また、どん底。またしても不幸を招く、青鱗湖の出来事。「幸せな家族」って夢は、二世代にわたってまた崩壊。やっぱり、家族の現実から逃避してしまう男。幼少時代の悪夢が、再びぶり返す。ある意味、ふりだし。これも大森美香ちゃんかな・・。当たり障りのない日常の物語の中に、いきなりシビアなどん底をもってくるんだから。ここまで延々と繰り返されてきた、たわいない日常のエピソードの連続は、そこに“裂け目”を入れるための息の長い伏線なのかとさえ思える。正巳が可哀想に思えた。・・もともと、女って、自分の「幸せ」を必死で信じようとする生き物だけど、考えてみれば、男の側にとってみれば、その信じられたものを背負わなきゃならない立場なわけで。ハルカが「幸せ」を信じきれば信じきるほど、正巳はそのぶんだけ背負うものが大きくなって、ハルカには、彼の苦悩がどんどん見えにくくなって、そのことで、じつは二人の亀裂がどんどん大きくなってく。ハルカは、正巳が逃走するまで、決してそれに気づけないんだと思う。のみならず正巳は旅館の二代目。何も無いところからスタートした一代目の父親とはちがって、二代目の正巳は、すでに背負うものが大きすぎる。一代目の父親にも、彼の苦悩は分からない。けっきょく、ハルカも、正巳の家族たちも、正巳がひとりで背負ってる苦しみには、彼が逃走するまで気づけなくて、じつは彼はずっと一人ぼっちだった。正巳が逃げたことで、全員が、あらためてその現実を突きつけられて、みんなが一緒に描いていた共通の夢も、一瞬にして打ち砕かれてしまって、すっかり、みんなも、画面も、暗くなってましたね・・(~~;;ドラマ中、もっとも能天気だった正巳が、いちばん陰のあるキャラクターに一転。そして、これまで挫けることを知らなかったハルカは、ここに来てはじめて挫折。じつはこれ、また残酷な話なんじゃないの・・?
2006.02.18
滝沢馬琴だから、滝沢くんを主演にしたってワケでもないんだろうけど、つい、『義経』と比べてしまいました。◇脚本家(美香ちゃん)も、演出家(『Mの悲劇』の人)も、時代劇なんてやったことない人たちだと思うけど、この映像的想像力の自由な使い方を見たら、日に日に保守化しつつあるNHKなんかより、時代劇も民放のほうが期待もてるなーと思ってしまう。・・滝沢くんは、確かにしゃべるのが上手くありません。でも、映像ですべてを明快に表現してしまう知恵や、それを実現する演出上の創造力があれば、そんな役者さんでも、じゅうぶんに主役をまかせられる。『義経』のときよりも、滝沢くんには主演としての威風があったし、その点でも、この民放ドラマのほうに軍配があがってしまうと思います。映像が美しくて、スペクタクルがあるだけで、明快に伝わってくるものってあります。物語やテーマの内容にかかわらず、結局、映像に想像力ってものがなかったら、クドクドしたものになってしまうことに変わりないです。映像の美学ってのは、それをどうやって映像の言語で表現するかってことであって、「五条大橋のシーンをどう美的に再現するか」みたいなことじゃないしね・・。問題は、史実をもとにした歴史ドラマなのか、小説にもとづいたフィクションなのかってことじゃなく、結局、大事なのは、どっちにしても映像的な想像力なんじゃないでしょうか。
2006.01.03
◇野ブタ名作。実質的なクライマックスは第9話だったと思います。むしろ最終回は、「修二と彰」の物語はまだ続くって感じの内容でしたね。 ◇熟年離婚最終回の、ものすごく急速な収拾のつけかたが笑えました。橋本裕志らしくて。途中、なんでもありで滅茶苦茶にやらかした結果、最後に自分で収拾つかなくなってる様子がよく分かる(笑)『Mの悲劇』みたくラストが破綻していくのも面白いけど、あからさまに収束して、しぼんで終わってしまうラストってのも、この脚本家らしくて笑えます。悪い意味じゃありません。この脚本家には、躊躇せずに暴れてもらいたいので、いちいちラストの辻褄なんかを気にして、抑えのきいたドラマなんか作ってもらいたくないし、今後のドラマでも、ラストの辻褄なんか気にせずに、思うぞんぶんやらかしてください。◇大奥 華の乱反対に、ラストの内容がいちばん充実してたのは、このドラマ。さすがは浅野妙子。脚本の構成はすごく濃密だったと思う。ただ、構成的な脚本なだけに、中盤の展開が冗長だったかな・・。江波杏子は女の権力に飢えてた。小池栄子は身分に飢えてた。藤原紀香は将軍の寵愛に飢えて、お世継ぎの母になれない運命を恨んでた。北村一輝は将軍の栄光と欲望を妬んでたけど、谷原章介は欲にまみれたそういう人間の世界を恨んで、いっそ、花にでも生まれ変わりたいと思ってた。結局、どこにも幸福な人間なんていなくて、それぞれが何かに飢え、何かに嫉妬してた。綱吉は何もかもわかっていたんですね。母の欲望も、吉保の欲望も。そして自分自身は、何も欲するものがなくなってたんですね。去年の『ツヨシ版ツナヨシ』とは別の意味で、徳川綱吉にとっての「生類憐みの令」が、、不思議な説得力をもってうったえてくるようなドラマでした。構成の濃密さとともに、ああいう結末を作り出した歴史的想像力もスゴイです。実際、綱吉の最期の真相なんて、だれにも分からないわけだし、内山理名と田辺誠一の生涯も、謎に包まれたままなんだし。絶対ありえない話だとは言えないわけじゃ、なくもない・・。◇1リットルの涙最後に、主人公の墓前に集まってきたのは、彼女のメッセージに勇気づけられた読者の人たちだったのか、それとも、現実に彼女と同じ苦しみを抱えて生きる人たちだったのか、そのへんはちょっと分かりませんけど、いずれにしても、このドラマの、現実とフィクションとのリンクのさせ方が、あそこに象徴されてたように思います。でも、ドラマの中でいちばん感動したのは、錦戸くんが登場する「フィクション部分」だったかな・・。◇恋の時間なんとなく、これも見てました。どうしても、寧々ちゃんのキャラのほうに共感しやすくて、黒木瞳の、女性らしい優しさに欠けるキャラは共感しにくかったけど、最後のほうには、このドラマのメッセージがよく分かった。 一人でいると、時々すごく、頑張って生きてるなって思うときがある。 私って一生懸命やってるじゃないって、自分を誉めてあげたくなる。 一人でいて良かったなって思うのって、そういう時ぐらいかな。去年は「負け犬」とか「勝ち組」とかいう分類が流行って、それに惑わされて結婚したり離婚したりというブームもあったけど、実際は、勝ち組にも負け犬にも、それぞれの孤独や寂しさがあるってのが、このドラマでは描かれていました。どちらか一方の「勝ち」を描かなかいってことじたいに、吉田紀子の伝えたいメッセージがあった気がします。
2005.12.27
録ったビデオをチェックしきれなくて、いっぱいです。それで、ついつい見たいものからさきに見てしまって、後回しにしたドラマがどんどん溜まってしまう悪循環。まっさきに見てしまうのは、「野ブタ」と「1リットルの涙」です。「熟年離婚」も完走。「ハルカ」のほうのチェックもたまってるし、いずれ今季ドラマの総評もまとめて書きたいんですけど、今日は、とりあえず、もう最終回をのこすだけになった「野ブタ」について。◇まだ最終回が残ってますけど、9話を見た段階で、思いきって、名作 と言ってしまいましょう。想像力を呼び起こしながら、哲学的なテーマも問うような内容。“若者向けのドラマだからわかりやすく”というんじゃなく、むしろ青春ドラマだからこそ、想像力や、むずかしい問いも喚起する作品が必要なんだろうと思います。今回の登場人物の一人は、明らかに自殺してしまうような女の子。現実に存在する「絶望」の片鱗をかいまみせながら、かろうじて青春ドラマに救いを与えるための素晴らしい演出でした。一歩手前で、絶望の片鱗だけを見る。「絶望」について考えるためには想像力が必要だし、その点では、この一種寓話的な脚本というのは、とても印象的で、効果があったと思う。「絶望」というのは実際に存在するけど、でも、誰も落ちてなかった。ただ、人型だけが、草むらに残ってる。それを4人で見てる。このシーンが、そのことを象徴しています。最近は子供向けのドラマばかりで大人向けのドラマが少ないみたいなことがよく言われるけど、実際は、「大人向けのドラマ」のほうが、分かり易いメロドラマで構わないんです。むしろ、青春ドラマにこそ、むずかしいテーマが必要とされます。そういうものが、ここ10年20年間のドラマには欠けていたと思います。だから、いまの少年たちは、このドラマをむさぼるように見てます。
2005.12.13
ちょっとサボってますけど、ドラマのこと、すこし書きとめておきます。『熟年離婚』の面白さ。『野ブタ。をプロデュース』の質の高さ。『大奥』は期待どおりです。『1リットルの涙』にも、ちょっとヤラれてる。そして、年末に『anego』のスペシャル放送がっっ!!◇『熟年離婚』は大人気で、すごい視聴率をとれてるみたいです。テレ朝は、完全に当たりましたね。「団塊の世代」「冬ソナ世代」というのが、これからも巨大な視聴者層を形成するかもしれないし、テレ朝は、そのところの兆しをうまく捉えたかもしれません。内容的には、ものすごいステレオタイプ。でも、それを貫く力技こそが、橋本裕志の脚本の得意とするところなんでしょう。『義経』の“清盛夫婦”をそのまま転用したキャスト。どう聞いたってエンニオ・モリコーネにしか思えない音楽。離婚する中年夫婦、バツイチのシングルマザーに入れこむ息子、金髪のロック兄ちゃんに貢いだ挙句、妊娠する娘、嫁のことをいびりまくる姑、そして相次ぐ不倫の誘惑、DV/ストーカー男。もう、これでもかってくらい、ドラマ的ステレオタイプのオンパレード。メロドラマにありがちな、典型的なエピソードのてんこ盛り。でも、それが面白い。何より、橋本裕志の脚本の力によるところが大きいです。「ステレオタイプで悪いか!」と言わんばかりに、そういったエピソードを、的確なタイミングで、次々にたたみかけてくる、この堂々たる展開ぶりは、さすがです。そして、やっぱり渡哲也!わたしは、いままで、彼のことを「西部警察の大門」ぐらいにしか思ってなかったけど、(~~;このドラマを見て、はじめて彼の演技のうまさに驚きました。「この主人公は、渡哲也自身なんじゃないか」このドラマを見て、そういう錯覚に陥る人も少なくないと思う。“地”で演じてるように見えてしまう。そのぐらい、彼はこの団塊世代の男性像を完全に演じきっていて、しかも、そのことによって、従来の「渡哲也」像というものをも、すこしずつズラしているように思います。そして、そのこと自体が、現代の視聴者に対して語りかけるものをもっている。俳優として、そういうレベルの高いことをやってると思います。同時に、石原軍団のイメージというものも、変えてるのかもしれません。この人って、裕次郎なんかよりよっぽど能力の高い俳優かもしれないです。いずれにしても、これがきっかけで、新しい層をターゲットにした、新しいスタイルのドラマが生まれるかもしれません。◇さて、日テレの『野ブタ。をプロデュース』ですけど、たぶん、一般的には、『熟年離婚』のほうは“大人のドラマ”で、『野ブタ。をプロデュース』のほうは“中高生むけのドラマ”みたいに分類されるんでしょうけど、なんだかんだ言っても、テレ朝の『熟年離婚』のほうは、従来型のステレオタイプなドラマの形式から出ていませんし、団塊世代をターゲットにしたドラマ制作の試みは、まだまだこれからがスタートってところだと思います。そういう点でいったら、中高生をターゲットにした、このジャニーズ・ドラマのほうが、テレビドラマとしては、はるかに「成熟」したレベルに達してます。ほんとに日テレドラマは、洗練されてきた。主題歌の『青春アミーゴ』の売り出し方なんかも、うまくやってるし、いろんな意味で、充実しています。作品自体も、見事に、現代の「青春ドラマ」ってものを体現してみせてる。少年たちが、みんなよくもわるくも「当たり障りのない物分かりよい子」だったり、それにくらべて、大人たちのほうが、よっぽど個性的で常軌を逸したキャラクターばっかりだったりってとこが、いかにも現代的な雰囲気を醸し出してて面白い。中でも、プロデュースする方とされる方の関係が逆転し始めて、それまで完璧だった亀梨くんが徐々にバランスを崩していく第7話は、素晴らしい内容でした。現代の子たちの寂しさをうまく表現できてると思うし、このドラマのメッセージが、きっと若い世代にも違和感なく伝わってるんじゃないかと思える。◇日テレといえば、『anego』のほうも、年末にスペシャル版が放送されるみたいです!!※それはそうと、「松井と戸田菜穂」の話のほうは、かなり意外でした・・(~~;;◇そして、フジのドラマですが、当初は、『大奥』をいちばんの目当てにしてて、これはまあ、よくもわるくも期待を裏切ってはいないけど・・じつは、『1リットルの涙』も、ずっとチェックしています。ほんとは、この手の内容のドラマって苦手なんですけど、『パッチギ』の沢尻エリカちゃんが見たかったから・・。でも、さすがはフジ。こういうテーマについても、なかなかうったえる力のあるドラマを作ってると思います。毎回、泣いてます。エンディングで、木藤亜也さんの直筆の文字が映るたび、「これは脚本の言葉じゃなくて、実際の言葉だったんだ」って思わされて、ものすごく胸に迫ってくる。そのへんのうったえかたが、巧みにつくられてます。今回の第8話。レミオロメンの『粉雪』をフルコーラスでかけましたね。ほんとに粉雪を降らせて。最大のクライマックスだったんでしょうね。泣きました。◇それにしても、ジャニーズの俳優たちの層の厚さに、あらためて圧倒されます・・
2005.11.29
ハルカ第7週終わり。片思いの相手が同じ屋根の下で寝泊りしてるっ?!‥という異常事態も、ようやく終了。(~~;;でも、2人でタコ焼きをやく別れのシーンは、ちょっとウルッときてしまいました。ちょっとは好きかもっチ思ったこともあったけど、今はもうアホらしくてアホらしくて・・、正巳なんか相手にしてられん。このときは、由布岳いわく、「ハルカさん、嘘がすこし上手になりました」ってことだったはずなのに、実際は、ぜんぜん嘘になってなかったみたいです‥。正巳は、ハルカの気持ちを、ぜんぶ見透かしてました。好きにはなれん?と言ってしまうハルカ。こんな可愛い告白のしかたもあるんですね。「好き」とは一言もいってないのに、でも、泣きじゃくって、どんどん素直な気持ちがあふれ出てくる言葉。焼けたらかえれ。 ・・・ 泣くなっちゃ ・・・ 泣くっちゃ。・・ ごめんな ・・・ 嫌い。 ・・・ 俺は好きやぞ! 5番目やろ。 ・・・ 2から5や。 ・・・ 最悪や・・。・・なんど見ても可愛い告白シーンだなー、と思う。ある意味、このシーンで、正巳は、ハルカの気持ちをしっかり確認した、ってことかも。来週の予告では、「親しげなハルカと猿丸の様子に、正巳は我知らず嫉妬を覚える」とあります。考えてみれば、ハルカが正巳のことを好きになっってしまったのも、その狭間に「亜矢」という存在があったから、とも言える。ハルカと、正巳と、亜矢と、猿丸。こうやって、恋の輪舞がクルクル回るのかもしれません。◇湯布院に帰ってきてしまったアスカ。彼女は、お母さんやハルカのいる大阪じゃなくて、お父さんのいる湯布院に帰ってきました。でも、大森美香ちゃんは、ほんの一日だけ時間をずらすことで、アスカが泣きながらお父さんにすがりつくシーンを、意図的に避けたようです。そんでもって、傷ついたアスカを待ってたのは、またしてもハマグリ先生! (むむー。)結局、アスカは、湯布院の呑気な人々との触れ合いで気持ちをほぐしたあとで、ほんのりと、少しだけ、お父さんと和解したようです。で、期せずして電話ごしにつどった4人の家族。(というか、両親が別れている「家族ならぬ家族」だけど・・)たった10秒ほどの時間でしたけど、そうやって家族4人が揃ったのって、もしかして10年ぶり??来週、こんどはアスカが大阪へ来るみたい。この、4人の「家族ならぬ家族」は、こうやって、お互いのところを行ったり来たり、クルクル回るんですね。あっちが「恋の輪舞」なら、こっちは「家族の輪舞」ってとこです。アスカいわく、不思議なことで、恋愛中よりも恋愛が終わってしまったあとのほうが、恋愛小説をスラスラ書ける気がするんやけど、これはなにか、人生の皮肉でしょうか??ってことは、「家族の物語」も、家族が崩壊した後のほうが、すんなりつむげるってことかな。◇アスカに印税が入って、ハルカは「出稼ぎ」の意味をなくしてしまいました。。夢は何ひとつかなわないし、目的も、ことごとく消えてしまう。残るのは、日々の出来事と、毎日の何げない日常。龍のウロコもそうだったけど、きっと、このドラマのなかでは、夢も目的も、「たんなる日常」を浮かび上がらせるための、逆の意味の装置なんでしょうね。だから、目的や夢は、何も叶わない。あ。だけど、あの美人サギ師の置いていった「よく出来た企画書」は、いずれは何かの形になるんでしょうか?
2005.11.20
第4週終わり。◇どんなに忙しくても、ゴハンは一緒に食べたほうがいい。家族にとっては、そういうの、案外大事なことやで。こう話す青木課長は、意外に、湯布院のお父さんの感性に近いのかも。で、木綿子も、ハルカも、がんばって食事の支度して待ってたのに、どっちともすれ違いで、結局、2人がはじめて一緒にゴハンを食べることができたのは、職場の外のベンチで、「コンビニのおにぎり」だったんですね。たった30分の、母娘の食事。でも、このときのハルカはちょっと嬉しそうだった。田舎から都会にやってきたばかりのハルカにとって、都会の真ん中で働くカッコいい女の人が、気づいたら、自分にとっていちばん近い存在の人だったってことが、誇らしいというか、頼もしいというか、そんな嬉しさだったのかも。たぶん、それまでのハルカは、木綿子が「母親らしい母親」であってくれるのを期待してたんだろうし、正直、このわたしも、いつか木綿子がそうなってくれるんじゃないかと期待してたんですけど、考えてみれば、「母親らしい母親」とか、そういう固定観念にしばられる必要はないかもしれない・・。いろんな「母親像」があっていいのかもしれない。会えてうれしい!仲良くしようね。これって、「母親」というより「友達」のような感じだと思う。たとえば、ニコにとっての美冬というのも、「母親らしい母親」なんかじゃなくて、なんというか、「遠いところにいる憧れの存在」みたいな、そんな母親像でありえたのかもしれない、と、今になって思う。そういう母親像だって、あってもいいのかもしれません。ハルカは「母親らしい母親」を求めていて、アスカは「父親らしい父親」を求めていて、お父さんは「家族らしい食卓」を夢みてるのかもしれませんけど、そんな「家族らしい家族」とか、「母親らしい母親」とか「父親らしい父親」とか、そんなの、ただの幻想、ただの固定観念かもしれない。木綿子や、美冬のような母親がいてもいいかもしれないし、陽介みたいな父親でもいいのかもしれない。家族の食事が外で食べるコンビニのおにぎりだっていいのかもしれない。そういう、とらわれない家族の姿を、大森美香ちゃんは描きたいのかなあと思う。◇東京のアスカ。「何でもいいから早く書け」と言わんばかりの編集者。この様子だと、やっぱりアスカのほうが、ハルカよりも先に挫折して湯布院に帰ってきてしまいそうな雰囲気。もし、そうだとすると、アスカのために出稼ぎに行ったハルカが大阪にいる意味もなくなってしまう。たぶん、アスカの夢=ハルカの夢は、どちらも、思い描いたようには叶わないんじゃないでしょうか。だって、このドラマのテーマ自体、「どこかに小さな幸せが見つけられればいい」ってことみたいだし、アスカが小説家として成功する、なんていう展開は、たぶんないと思う。何ひとつ夢が叶わなくて、何もかもうまくいかなくても、それぞれが、その中で小さな幸せを見つけられればいいじゃないですか、・・みたいなことになるんだろうと予測します。でも、とりあえず、湯布院のお父さんだけは、着々と新しいメニューを開発しつつあるみたいだし、レストランの復活ぐらいは、夢がかなうのかもしれません。とはいっても、そこに「家族の食卓」が実現するかどうかは、やっぱり微妙。お母さんが大阪の恋人と別れて湯布院に戻るってのは、やっぱりないだろうなあ、と思うから。ま、わたしとしては、そういう、まとまりのない家族で終わってもいいです。この際、大森美香ちゃんには、今までにないような、新しい「朝ドラ」のスタイルをつくってほしい。「家族らしい家族」とかじゃなくて、ぜんぜん「家族らしからぬ家族」のありかたみたいのを、思いっきり、NHKで朝っぱらから国民に見せてやってください。◇今までにない朝ドラのスタイルといえば、この朝ドラのヒロインって、もしかしたらハルカとアスカの2人じゃない?だいいち、朝ドラのヒロインが1人でなきゃいけない理由もないんだし。っていうか、そろそろ男の子が主人公の朝ドラが出てきたっていいくらいなんだから。そういうわけで、このドラマのヒロインは、ハルカとアスカの2人だと思うことに決めました。で、その、ハルカとアスカの電話のシーンですけど、びっくりするぐらいのカットの割り方!怒涛のような勢いでしたね。あれよあれよという間に、すごく引きこまれました。電話のシーンで、あんなにカットを切り替えるのって見たことないです。現実の世界では、電話する2人を同時に見るなんてことありえないわけだけど、でも、まるで電話してる2人をほんとに見てるかのようにリアルでした。会話の内容も、あっちに飛んだりこっちに戻ったりするんだけど、逆に、そういうところがリアルで、不自然じゃなくて、さすがはセリフの名手と思わせる脚本だったし、演出も上手だった。その、怒涛のような電話の会話の中にも、聞き逃せないセリフが。「結婚とかしそう?」「いや、そういうんやなさそう。なんか、安全な同居人っていうか」「とかいって、そのうち弟とか妹とかできたりして!!」「うわっ、きついなぁ。あんたの小説みたい。」木綿子と青木課長、ほんとに結婚はないんでしょうか?そういわれれば、なさそうですけど、かといって、陽介との復縁もなさそう・・。そして、アスカの小説には、血の繋がらない兄弟の話とかも出てくるんですか?売れないぐらい内容が暗くて、眠くなるほど難しいらしいけど。(~~;;◇お父さんも、いい人さがせばいいのに・・。(アスカ)恋かあ・・。恋したいな・・。(ハルカ)という話の流れから・・どうしてお父さんと百江さんのツーショットになるんですか?!それがわたしには解せない・・。いくらなんでも、この二人の恋愛はないと思うんだけどなあ・・。無いでしょう。だって、母親の恋人の存在を電話ごしに気づいてたアスカでさえ、父親と百江さんのことなんて、気にもしてなかったし、やっぱり、ないでしょ。この二人は。・・それはそうと、このシーンのときの、カゴいっぱいのきりぼんちゃん人形。耳が可愛い。(*~~*)◇せっかく野菜を送り続けても、木綿子に食べてもらえない陽介。木綿子は木綿子で、せっかくパンプスを買ってきても、ハルカに受け取ってもらえない。みんな、ちょっとずつ擦れ違うんですね。ハルカは、おしゃれなパンプスなんかより、動きやすい運動靴のほうが好き??だったのかもしれないし、湯布院出身の木綿子にとっては、湯布院の野菜なんて、珍しくもなんともなかったんでしょうね。むしろ、湯布院の野菜を喜んで食べてたのは青木課長だったってことで。ってことは、陽介は、青木課長のために野菜を送り続けてたんですね。(~~;;なんて不憫な・・◇たこ焼き器は、湯布院の実家に、もともとあったんですか?なんとも不思議な家です。で、まさか父親に「ひとりでたこ焼き食べてね」って意味で“たこ焼きの素”を送ったわけじゃないんだろうから、やっぱり、あれは、「エプロンつけて、たこ焼き器もって、みんなのところに行って食べてね」って意味なんでしょう。そこまで考えて、父を思いやってプレゼントしてるハルカって、頭がいいのか、そうとう発想が個性的なのか、・・よく分かりません。◇支店長、3番にカメラマンの猿丸さんよりお電話です!ハルカが旅行会社に入社できたのは、青木課長のコネというより、もっと上のほうのコネのようなんだけど、ここの支店長って、木綿子のことも、ハルカのことも、青木課長のことも、さらには、「たこばあば」から「猿丸」とかいうカメラマンのことまで、何もかもを知ってるキーパーソンみたいですね。なんか、支店長ってちょっと怪しい。たしかに、そういう意味では怪しい。あの子は、ああ見えて、お母さん似なのかわからんなぁ・・ふーむ・・。 これも意味深なセリフ。
2005.10.29
湯布院にいたときの伸び伸びした表情とはちがって、大阪に来たハルカの顔は、終始、こわばってますね。でも、みんないい人そうだし、お母さんのマンションも生活環境としては申し分ないし、大阪の街のシーンで流れる音楽も、こころなしか「吉本新喜劇」的なホンワカパッパな雰囲気だし、なんだか、あんまり心配なさそうです。この際、ケータイも、スーツも、お母さんに買ってもらっちゃってください。どっちかというと、大阪のハルカより、東京のアスカのほうが心配です・・。◇かつては大変な優等生だったというお母さん。この人は、ほんとに湯布院の町には似合わない人です。都会にいるときのほうが、カッコいいし、様になってる。彼女は、やっぱり「田舎のお母さん」というよりは、都会の教育ママとか、学校の先生みたいなタイプの人です。そこが、ハルカとあわないところなんだろうけど。逆に、東京生まれのお父さんは、田舎の暮らしのほうが良く似合うタイプの人だし、今さらながら、この2人、よく結婚しましたね。(~~;;◇同じ職場にお母さんの愛人がいるってことで、ハルカはショックを受けている様子。朝、お母さんの話をろくに聞かずに、プイッとマンションを出てきてしまったからですが、もし、事前にその話を聞いてたら、かえって出社する気がなくなっていたかもしれません。こういうコミュニケーションの擦れ違いが、これからも、色んな出来事につながっていきそうな予感。そういえば、お母さんは、前の日の夜にも何か言いかけてましたね。あなたの会社ね、私の上司の・・どういう話だったのか分からないけど、お母さんの上司とハルカの通う旅行会社が関係あるってことは、お母さんと、別所哲也も、仕事上の関係で知り合ったのかな。◇お母さんの話によれば、子供のころ、ハルカはガイセイバーが大好きだったけど、アスカのほうは、そういうものには興味を示さなかったんですね。逆に、アスカはピアノが得意だったけど、ハルカのほうは、まったくそういうものに興味なかったんだと思う。この、2人の基本的な性格とか嗜好のちがいってのは、現在でも、ほとんど変わってないんでしょうね。(~~;;◇えっ!今回の週間ブックレビューでアスカの小説が取り上げられるんですかっ?!・・って、現実の週間ブックレビュー見ても、やってるわけありませんが。(~~;この番組内容は、DVD化したときに特典映像で入れておいてください。今日は、酒まんじゅう。
2005.10.24
はっ!そういえば、ここで叫んだお願い、今まで一個もかなってなかった・・。・・はい、いまごろ気がつきました。(~~;;ハルカにとって、湖で見た「龍」の思い出は、“両親の離婚”とか、“少年の死”とか、そういう悲しくて、忌まわしい出来事とは、あまり結びついてないようです。あの時、初恋の男の子は死んでしまったけれど、幼いハルカにとっては、まだ「初恋」というほど自覚的なものじゃなかったのかもしれないし、むしろ、あのときの少年の死という出来事は、奈々枝の一家の失踪という、少女の感受性では消化しきれない嵐みたいな出来事として、目の前を通り過ぎてしまっただけだったのかもしれません。むしろ、あのとき龍にたくした夢は、ハルカにとって、そのあとでレストランを立ち上げた頃の記憶に繋がってるのかもしれないし、そして、そこに抱いていた夢は、いま現在も、レストランの再開にむけて進行中なのかもしれないですね。どんだけ泣いたあとでも、もっかい目開けて、“おはよう”っちゅう力も持っちょる。ひとつの夢を失っても、また別の夢をつないでいく。ファンタジーがひとつ壊れても、それでファンタジーを失ったりしない。「都合がいい」って言ったらそれまでだけど、現実には、人間って、そうじゃないとやっていけませんし。ひとつやふたつ、夢を失くしたって、どってことありません。(爆)◇ところで、昨日、小学校のハマグリ先生が、アスカの書いた小説のラストのことを、「キラキラしてファンタジックな最後」と言ってましたが、先週の15日の放送では、お父さんが、その最後の部分の原稿を、深刻な顔で読んでいました。そして、ハルカに「読まないほうがいい。」と言ってた。アスカの小説のラストって、読む人によって受け止め方が違うような内容なんでしょうか?じつは、この15日の放送の時に、原稿の最後の2枚が、画面にも映っています。そして、断片的にですが、その文章も読むことができます。それによると、小説の最後の部分は、主人公の父親が、泣きながら廃屋に火を放って、炎に包まれる。といった内容になってるんです。そこだけ読むと、とても「キラキラしてファンタジックな」ラストには思えないんですが、どうなんでしょうか??このあたりは、今の段階では謎のままです。◇大阪に行くトラックから降りて、そこから見下ろした湯布院の景色は、ほんとに「綿あめ」みたいでしたね。盆地のなかで、雲がクルクルと渦巻くんですね。母親の「木綿子」って名前と、ハルカの「風をあつめる綿あめ」みたいな性格って、どこかつながるのかな・・。ん。待てよ。盆地のなかで、雲がうず巻いて、盆地のなかが霧で満たされていく。霧の湯布院。盆地の霧。盆霧。・・霧盆。・・・きりぼん??あ、これだったりして。
2005.10.22
お父さんの前で、ハルカは自分の気持ちを話しました。ああいうとき、ハルカは、素直でいい子だなーと思う。母親が送ってきた10年分のバースデーカードを見て、大阪へ行く決心をしたのかな?と思ったんだけど、考えてみりゃ、そんなに簡単に母親へのわだかまりは、消えないですよね。わたしは、忙しいからって、外を見ることとか、お母さんと向き合うこととか、愛の告白するとか、そういうことから全部逃げてきた・・でも、このままの自分でいるのは嫌。だから、この町を出てみたい。これが、今のハルカのほんとうに正直な気持ちなんだと思う。同時に、お母さんにも、「すこし会ってみたい」って気持ちは生まれてきたみたいです。 ☆ ☆ ☆観念的で救いのない話やったのに、最後の最後はキラキラ。ファンタジックな感じがしたけん。むむー。小学校のハマグリ君から聞き逃せない情報が!じつは、アスカも、まだ心のどこかでファンタジーを信じてるんですね・・。アスカの小説の世界をいちばんよく理解してくれていたのは、おじさんでもなければ、イトコでもなければ、文学賞の審査委員の人たちでもなく、アスカにとっては一番どーでもいい、小学校のハマグリ先生だったんですね・・。(~~;世の中、そんなもんです。意外な人にこそ、感謝しなきゃなりません。そして、龍のウロコがアスカの手に渡りました。あのウロコが、幸運をもたらすものなのかどうかは微妙なんですけど、(~~;これからのアスカのためにも、あれは「ファンタジーを信じ続けるためのアイテム」と解釈することにします。ところで、アスカの書いた小説の内容が、すこしずつ明かされてるけど、この「インサイド小説」って、大森美香ちゃんの手によって、ほんとに実在してるんでしょうか?だとしたら、スゴイ。わたしたちの前に、いつかその全貌が明らかになるんなら、ほんとにスゴイです。「インサイド小説」」なんて、前代未聞かも・・ ☆ ☆ ☆ハルカが、母親からの10年分のバースデーカードを目にして、いっとき、10年前の「子供」に戻ってしまったように、今日は、アスカも、ハルカの前で「妹」に戻ってしまいました・・東京へ行く前日、アスカは重圧に耐え切れずに泣き出してしまった。オバケ屋敷を怖がってた頃のような、泣き虫のアスカに戻ってた。わたしは、>田舎志向で、夢見がちなハルカと、>都会志向で、現実主義的なアスカ。なんて思ってたんだけど、実はそうでもなかった。じつは、ハルカのほうが現実への適応能力が高くて、アスカのほうは、ずっとずっとナイーブなんですね。こんな「裏側」をサラリと見せて、それまでの図式をコロッと逆転させてしまうところが、大森美香ちゃんのセンスの、卓越してるところです。 ☆ ☆ ☆公式ページの予告に、「アスカはハルカと和解して東京へと旅立った」なんて書いてあったので、いったいどんな和解シーンがあるのかと思ったけど、「和解」というようなものじゃありませんでした。そもそも、この2人はべつに和解なんてする必要もなかったんだから。むしろ、アスカが本当に和解しなきゃらないのは、ハルカとじゃなく、父親と、のはずです。結局、お父さんは、最後までアスカに何も言えなかった。アスカも、お父さんから目を背けたまま、東京へ行ってしまった。ハルカが大阪で母親と和解しなきゃならないように、アスカも、いつか父親と和解しなきゃならない・・。それが、これからの物語だとおもいます。ドラマの舞台は「大阪」に移るってことですけど、ハルカの大阪も、アスカの東京も、両方とも描いてほしい。【今日の小ネタ】冒頭で、「あー、今日もいい景色!」って言ったときの由布岳の景色は、ほんのり霧がかってて、ほんとに綺麗でした。 神々しいくらい!やっぱり、きりぼんちゃんは「霧」ぼんちゃんなんでしょうか・・エンディングの「はと麦饅頭」もかなり魅力的でした・・。
2005.10.21
昨日と今日の放送で、木綿子と、ちいと、百江さんと、3人の母親のことが描かれました。おせっかいぐらいで、ちょうどいい。これで開き直った母親の自信が、ハルカの心をゆり動かしたみたいです。◇今日の内容は、見た目は地味でしたけど、脚本と演出は、なにげに絶妙な気がしました。どんなふうに大阪行きを決断させるのかなと思ってたけど、木綿子が、切られた電話をすぐさまかけ返して、娘に考える時間も与えないうちに、「だから大阪に来なさい!」とたたみかける、あのときの自信に満ちた母親の機転みたいなのが、すごくうまく出てて、ハルカのほうは、話し終わって、ただポカンとしてるんだけど、そのときの表情が、電話をかける前とはあきらかに変化してるのが分かりました。なんていうか、ふっきれたような表情になった。そして、その直後に、その場の勢いで、「あたしは都会に出稼ぎに行くんです!」なんて、断言かつ宣言してしまって、それで、自分でもワケわからなくなって、お風呂にはいったり、おばあちゃんと話したりしてるうちに、どんどん心が動いている様子がわかった・・。身勝手なほどの母親の“おせっかい”が、ハルカの心を一瞬にして「子供」にしてしまったんですね。夕暮れどきに、バースデーカードを読みながら、ハルカは10年前の「子供」になってしまったんだと思う。◇お母さんの物語。昨日と今日の放送で、3人の母親のそれぞれの気持ちが、すこしわかった気もするけど、でも、「母親」については、これからももっと深く描いてほしいです。まだまだ足りないと思う。◇ちなみに、今日の放送で、渡辺いっけいと佳乃ちゃんが、倉田旅館の中で話をしてましたけど、たとえば、あのうしろで、ガイセイバーとゾルディオス女王がふつうに宿泊に来てたりしたとしても、わたし的には何の問題もありません。たぶん、倉田旅館って、なんでもありだと思うので。
2005.10.20
テレ朝はノーマークでした‥。(T_T)テレ朝のドラマなんて、まったく期待できるとも思ってなかったから。『熟年離婚』てドラマの視聴率がいいらしいので、ためしにわたしも見てみたんだけど、いいです。このドラマ、面白い。ドラマそのものも面白いけど、テレ朝がこういうものをつくりはじめたってことじたいが面白い。なにか、テレ朝で新しいことが起こりはじめてる気がする。これがもし、日テレのドラマだったなら、(たとえば『87%』あたりの枠だったら)わたしとしても、これほどの驚きはないんだけど、これが「テレ朝のドラマだ」ってことが、すごく新鮮です。テレ朝がこういうものをつくりはじめたことで、なんか面白くなってきたなあって感がある。こうなってくると、逆に、フジとかのドラマがかすんで見える。(~~;じっさい、わたしがテレ朝のドラマのことを取り上げるのは初めてです。今まで、テレ朝のドラマで見たいと思えるものなんて、せいぜい、『京都迷宮案内』ぐらいだったから、あえてとりあげたいと思うようなものはありませんでした。ドラマにかんしては、NHK、日テレ、フジあたりの保守系メディアのほうが、ずっと斬新でリベラルなことをやってる状況が続いてたし、それに比べて、TBSとか朝日とかのリベラル系のメディアは、不思議と旧態依然のままのことをやってました。この『熟年離婚』というドラマが、内容的に、斬新で大胆でリベラルな内容なのかといえば、べつにそういうわけではありませんし、そもそも、テレ朝が保守的なものをつくったって構わないんだけど、話の内容はともかく、ドラマのつくりそのものが、今までのテレ朝とは全然ちがうってことが、わたしには斬新です。◇脚本は橋本裕志なので、どうしてもTBSの『Mの悲劇』を思い出してしまいます。『Mの悲劇』と、『熟年離婚』じゃ、内容的にはまったく共通するところありませんけど、それでも、やっぱり同じ脚本家だなと思わせるところはある。橋本裕志の脚本って、その都度その都度、起こりうるもっとも極端な状況が次々に起こって、おまけに、そのなかの登場人物も、考えうるもっとも極端なことを口にするので、可能なかぎり、ドラマティックな展開がたたみかけてくるんです。そのへんは『Mの悲劇』にも『熟年離婚』にも共通して見られる。そして、脚本が同じだからなんでしょうか?不思議と、映像の雰囲気まで、『Mの悲劇』に似てる気がします。しっかりとして、どっしりとして、なおかつ美しい映像。そこにオリジナリティがあるかといえば、まだちょっと微妙だけど、でも、今までのテレ朝のドラマにはなかったスタイルなのはたしか。ちなみに、TBSの『Mの悲劇』というのは、現在のTBSに作れる最良のドラマだと、わたしは思ってて、そのドラマの脚本家を、テレ朝にもってきたところが興味ぶかいところ。いまのところ、TBSにも、テレ朝にも、まだはっきりとしたオリジナリティは見出せないけど、今後、両局が、この路線でドラマを作り続けるなかで、どんなスタイルをつくっていくのかが、すごく楽しみに思えてきます。テレ朝が、今回の『熟年離婚』みたいに、大人向けの、ものすごくオーソドックスなメロドラマをつくるという路線も、それはそれでありだと思うし、「石原軍団でメロドラマをやる」って発想も、なかなか面白いと思う。これは、テレ朝だけじゃなく、渡哲也みずから石原軍団を変えようとしてるってことかもしれないけど、現在の圧倒的なジャニーズ・ドラマに対抗するという意味でも、これが、かなり面白い挑戦になる可能性はあります。
2005.10.20
ハルカには、家を守りたい気持ちと、、アスカを大学に行かせたい気持ちと、二つの思いがあって、その両立しがたい二つの気持ちに、同時に必死の情熱を傾けようとしてるように見える。ハルカが、アスカのために進学費用を作ろうとしてるのは、たんに意地をはってるだけじゃなくて、やっぱり、アスカへの気持ちがあるんだと思います。今日のドラマの中の、わたしの一番のお気に入りは、新聞に載った妹の写真うつりを見て言った、ハルカの、このセリフです。や~、いまいちやんね・・。この顔、なんか頬っぺが目立ちすぎ。ほんとはもっと美人やのに・・。なんか、ハルカの、妹に対する思いが出てる気がする。前に、アスカが文学賞を受賞したときのお祝いの席で、ハルカは、アスカの言葉に怒って、彼女を突き飛ばした。あのとき、わたしは一瞬、ハルカはアスカを平手でぶつかと思ったんだけど、そうじゃなくて、思いきり突き飛ばしました。ああやって、平手でぶつんじゃなくて、妹のことを体ごと突き飛ばす感じが、なんだか“姉妹”っぽくて、わたしは好きでした。なんか、ああやって突き飛ばすのって、実はほとんど「抱き締める感覚」と同じみたいな気がするから。アスカが成長するにつれて、ハルカとアスカの関係は昔とはだいぶ違ってしまったけど、わたしは、いまのハルカがアスカに対して抱いてる想いのあり方が、すごく好きです。ハルカは、アスカが美人で、頭が良くて、自分を主張するようになるのが、すごく嬉しいんだと思う。
2005.10.19
わたしは車に全然興味がないので、いちども見にいったことありませんけど、毎年テレビで見るかぎり、このショーの最大の目的は、自動車をとおして「未来的なイメージ」をかきたてることなんだろうと思う。でも、わたしには、その「未来」のイメージってのが不十分に思えます。わたしは、車社会というのがあまり好きじゃないし、車にもべつに興味ない。そして、このモーターショーが提起している未来イメージというのは、わたしみたいに車がべつに好きじゃない人たちが、一般的に「自動車」というものに感じているストレスを、スカッと払拭してくれるようなものにはなっていません。人々が、自動車に対して感じるストレスというのは、いろいろあります。たしかに、燃費とか、排気ガスとか、環境にかんする問題もあるし、騒音の問題もある。それから、安全性の問題もあるし、操作の利便性なんかについてのこともあると思う。でも、現代人が車に対して感じている最大のストレスは、「道路」それじたいに起因するものだろうとわたしは思います。道路公団の問題もありましたけど、なぜ、わたしたちが車社会にストレスを感じるのかといえば、それは、わたしたちの住む世界が、際限もなく、道路だらけ、アスファルトだらけ、車だらけ、になっていくという現実があるからです。それじたいがストレスです。人間の歩く道がない。人間が互いに交われるような辻もない。子供が走って遊ぶ場所もない。ぜんぶ道路。 ぜんぶ車。 何もかもアスファルト。かりに、アスファルトの道路の上を、どんなに進化した「近未来的な車」が走ったとしても、その道路じたいに何も変化がないのなら、このストレスは、決してなくなることがありません。うんざりするほど道路だらけです。「未来の車社会」を考えるというのは、道路のうえの「車」だけを考えるってことじゃなく、「道路」も含めて考えていくってことでなきゃならないはず。ていうか、ぶっちゃけ、まず「道路」から考えるべきです。モーターショーが「新しい車社会」を描くのなら、「未来の道路」も含めて提案すべきじゃないでしょうか。☆道路は今の広さでいいんですか?☆灰色のアスファルトでなきゃいけないんですか?☆家の前まで道路でなきゃいけないんですか?そういうことを、根本的にイメージしなおしてほしい。もう100年以上たったんだから。・・そういえば、昔、手塚治とか松本零士のアニメなんかだと、未来の道路は、空中に張りめぐらされてたような気がする。あれは「道路」というより、もはや「レール」だったかもしれない。たぶん、乗ってる人は「運転」なんかしてないはず。そのほうが、安全だし、速いし、遠くまで行けそう。わたしも、出来ることなら、車の道路は、細くてしなやかなレールぐらいにしておいてほしい。
2005.10.19
ちょっと重たすぎたいままでの内容から、今日はまた、思いっきりはじけた展開に。この路線、いいです。ハズレに決まってる宝くじでムダに盛り上がる面々とか、佳乃ちゃん登場シーンの切れ味するどい姐御っぷりとか、こういうの、このまんまシリーズ化してほしい。(~~;倉田旅館のオヤジも、とっぴな発想で、派手にかきまわしてくれそうです。彼の意味不明なアイディアがあれば、等身大のガイセイバーが暴れまわる日も遠くありません。升毅と宮崎美子のおじおば夫婦も、あれでいて、ハルカのことを心配してくれてる様子。それにしても、升毅と木綿子のデコボコ兄妹ぶりは、すごすぎます。まったく血が繋がってるとは思えないくらいのギャップの大きさ。ハルカとアスカは、あそこまではひどくないと思う。◇子供時代の映像って、じつはまだまだ撮ってあるのかもしれませんね。今までの10年間にあったこと、すこしずつ、ハルカに思い出してほしいです。ハルカだけじゃなく、アスカにも、お父さんとお母さんにも。その中で、未公開映像もいっぱい見れそうだし、いろんな秘密が明かされていくのかもしれません。レストランの経営のことも。そこでのハルカとアスカの成長の物語も。大阪で木綿子が10年間に秘めてきた思いとかも。(↑これは、わたしにとって美冬の物語でもある)それから、佳乃ちゃんの、倉田旅館10年間の「若女将奮闘記」も見てみたいです。そういえば、佳乃ちゃんと、渡辺いっけいの、あの2人の変な“目配せ”はなんなんでしょう?前に佳乃ちゃんが、オンボロ中古車の車検証を届けにきたときも、ちょっと佳乃ちゃんは彼の前でキョドってる風だったし、まさか恋愛感情があるとは思えないけど・・?!旅館が忙しいはずなのに、町はずれのオバケ屋敷までわざわざ出向いてくるのも不思議。都会人どうし、二人は密かに支えあってきたんでしょうか?トランペットが2人を結び付けたとか・・?◇キリボンちゃん。きりぼんちゃん。桐ぼんちゃんなのか、霧ぼんちゃんなのか、切盆ちゃんなのか、いまだに分かりませんけど、「霧の湯布院」という名のご当地ソングがあるのを発見してしまって、はげしくイヤな予感がしています。(笑)倉田旅館が、変なディナーショーとかやらなきゃいいけど・・。そうだとしても、何でウサギなのかは、まったく不明。
2005.10.18
「ハルカ」と「トトロ」について、これまでの日記にもいろいろ書いてきましたが、もっと本格的に考えなくちゃいけないような気がしてきた。「風のハルカ」第一週の内容は、「となりのトトロ」を逆説的に引用してる。先々週ぐらいに、わたしは、そう考えてたんだけど、でも、トトロの引用は第一週だけにとどまらないかもしれません。もしかしたら、ドラマの全編にわたって、「となりのトトロ」は重層的に引用されて、それが、ドラマの構造にさまざまな影響をあたえていくのかもしれません。しかも、それにともなって、元の「トトロの世界」それじたいがバラバラに分解されていくかもしれない。◇ ◇ ◇とりあえず、いままで書いてきたこともふくめて、「ハルカ」と「トトロ」の関係を整理しておきます。1. なぜ「ハルカ」は「トトロ」を引用したか。たぶん、NHKの朝ドラの場合、舞台になる土地(今回は大分県の湯布院。)を発想の原点にして、物語を構想しなきゃならないっていう条件があるんだろうと思います。大分・湯布院という土地から、いろんなアイディアが生まれてるんだと思うけど、その中のひとつに、「由布岳の形がトトロに似てるから、由布岳をトトロに見立てる」みたいな発想があったんじゃないでしょうか。それに、大分県は、もともと『となりのトトロ』にゆかりがあるみたいです。・・そのあたりから、日本人なら誰でも知ってる『となりのトトロ』の世界を引用しつつ、大分県に「トトロの物語」みたいなのをつくる構想が出てきたんだと思う。2. 「ハルカ」はどんなふうに「トトロ」を引用しているか。とくに第一週では、「トトロ」の引用っぷりは徹底してます。言うまでもなく、、ハルカ&アスカは、『となりのトトロ』のサツキ&メイです。2人の年頃も同じだし、子役の顔立ちも似てる。髪形は完全に同じ。(10年後の今でも同じまま。)それぞれの性格もそっくりだし、何より姉妹の関係がそのまんまです。そして(意図的かどうかはわからないけど)、妹のアスカ役を演じてる、桝岡明ちゃんと黒川芽以ちゃんが、考えてみりゃ、2人とも「メイちゃん」だった・・というほどの徹底ぶりです。それから、「お父さんと引っ越してきたところがオバケ屋敷」という設定も、このドラマが「トトロの物語」であることを明示している部分です。さらに、脚本の大森美香ちゃんが、公式HPの中で、このドラマのタイトルにある「風」という言葉について語っていて、それによると、「春風のような爽やかさ」みたいなのが、このドラマの基本的なイメージのようなんですが、じつは、宮崎駿もトトロの世界を描くときに、「5月」という季節をイメージしていたようなので、その部分も、両方で共通するところなのかもしれません。そして、何より、満月の夜に湖から龍が昇っていくというエピソードが、「子供だけが見ることのできるファンタジー」として描かれるところも、ハルカの第一週はトトロの世界の再現だったんだ、と感じさせます。トトロの世界もまた、子供だけにしか見えない世界だったから。◇ ◇ ◇でも、第二週になると、こうした「トトロ的な世界」は、すべて壊れてしまう。満月の龍にたくした少女たちの願いは、無情な現実によって、何もかも打ち砕かれてしまいます。両親は離婚して、病の床にあった少年は死んでしまい、友達の一家は夜逃げして、父親のレストランも失敗に終わってしまう。このドラマにおける『トトロ』の引用が、かなり「逆説的なもの」だというのは、そういうことです。◇ ◇ ◇でも、それだけじゃないかもしれない。もしかしたら、トトロの引用は、第一週にはとどまらないかもしれません。「ハルカ」と「トトロ」で、もうひとつ似てるところがあります。大森美香ちゃんが、このドラマを構想し始めたとき、だだっ広い一本道をお父さんと小さな女の子が手をつないで歩いているというイメージがあったそうなんですが、たぶん、最初、主人公の少女は、姉妹じゃなくて、一人だけだったんだと思う。たぶん、大森美香ちゃんは、「トトロ」の世界に近づけるために、主人公の少女を、ひとりじゃなく「姉妹」にしたんじゃないかと思うんだけど、じつは、宮崎駿自身も「トトロ」を作るとき、最初は、一人の少女の物語を構想していたのに、脚本の辻褄あわせのために、後から「姉妹」という設定に変えたんだそうです。でも、大森美香ちゃんの場合、この姉妹を、たんにサツキとメイの実写版のように描くのではなくて、2人をあえて分裂させることで、それぞれを別のベクトルに向かわせて、そこから、、新たなドラマのダイナミズムを生み出そうとしています。「トトロ」ではほとんど一心同体だったはずの姉妹が、「ハルカ」では互いに分裂して、それぞれにちがう方向へ進み出してしまう。それが、新たな物語を生んでいく。わたしたちが見ているのは、サツキとメイの「その後の物語」なのかもしれません。その意味でも、このドラマは、外見的には「トトロ的」でありながらも、じつは、内容的にかなり「反=トトロ的」な要素を孕ませています。トトロをまねながら、じつはトトロを解体しようとしてるかもしれない。もちろん、このドラマが、「トトロ的なファンタジー」へのアンチテーゼになっているのかどうかは、ドラマを最後まで見てみないとわかりません。今日の放送で、アスカはこう言いました。お姉ちゃんも早く「自由」になったほうがいい。いつまでも「この家の犠牲者」でいることはない。お姉ちゃん、一生ここに縛られてれば?あたしは、春になったらここを出る。アスカが何から自由になろうとしてるのか。それは、この家(=お父さんが連れてきたオバケ屋敷)からです。そして、その家は、「トトロ的な世界」の象徴です。言いかえれば、アスカは、「トトロ的な世界」の幻想から抜け出そうとしてるのかもしれない。トトロ的なファンタジーは、第二週で壊されてしまったんだけど、じつは、姉のハルカのほうはまだ、それを信じてるのかもしれない。でも、妹のアスカは、その子供みたいな幻想を捨て去ろうとしてる。こういうハルカとアスカのちがいは、そのまま、お父さんとお母さんのちがいにも重なってます。幻想を信じる父親。現実だけを信じる母親。アスカから見れば、「トトロ的なファンタジー/子供じみた幻想」をいちばん信じているのは、ほかでもない、父親だってことになる。自分たちは、父親の子供じみたファンタジーの犠牲になってきた。アスカは、そういうふうに思ってる。じっさい、だれよりも「トトロの世界」に住もうとしていたのは、じつは彼女たちの父親だったのかもしれません。トウモロコシがどうとか言ってる場合じゃないんだよ・・これは、先週の最後の放送で、お父さんが言った何気ないセリフですが、この“トウモロコシ”というのも、じつは「トトロの世界」を象徴したアイテムです。『となりのトトロ』の中に出てくる“トウモロコシ”は、子供だけが見たファンタジーの片鱗を、大人に伝える役割を果たしてます。ハルカの父親は、まだこの“トウモロコシ”を信じようとしてるかもしれません。◇ ◇ ◇こんなふうに考えていくと、今後も、「トトロ」」の世界というのは、いろんなかたちで、このドラマの背景でありつづける可能性があります。(「となりのトトロ」については、こちらのサイトを参照しました。)
2005.10.17
日テレドラマは、もはや独走しつつある。NHKとも、フジとも違う独自のスタイルを、日テレはほぼ確立したと言っていいんじゃないでしょうか。今回の『野ブタ。をプロデュース』にも、映像を見ただけで、すぐそれと分かるような、“日テレスタイル”みたいなものが出来上がってます。映像が大胆なところは、フジも日テレもそうだけど、フジのドラマが「スケール感」で押しまくるのに対して、日テレドラマには、繊細でスタイリッシュな雰囲気があると思う。そして、ここには、いろんな点で、日テレドラマがここまで積み上げてきたものが、生かせてるような気がします。『ごくせん』で味をしめたキャスティング。『ぼくの魔法使い』の演出と、『すいか』の脚本。それから、タイトルに「。」がついてることもありますけど、どこか退廃的な映像のテイストってのが、『彼女が死んじゃった。』に通じるものを感じさせます。◇ごくせん2の経験から、“ジャニーズで視聴率”みたいな発想に味をしめちゃったんだろうけど、べつに、それが悪いことだとも思いません。あたらしいタイプの作品に意欲的に取り組んでるかぎり、それを視聴者に見せるための手段をとることも構わないと思うし、そもそも、ジャニーズのタレントたちは決して演技が下手なわけじゃない。むしろ、かなりレベルの高い演技をしてる子たちのほうが多い。亀梨くんについて言えば、彼のルックスは、切れるような危険な雰囲気を醸すほうが合ってるので、どちらかというと、今回の役よりも、「ごくせん」のときのほうがハマり役だったとは思うけど。むしろ、役柄的には、山下くんのほうが今回は見逃せないです。物語のなかでは、山下くんも「プロデュース」されていくのかもしれないけど、それで彼のキャラがまともになってしまったら、かえって面白くない。◇山下くんのキャラのこともそうだけど、物語の内容的な面でも、あんまりヒューマニスティックになりすぎると、このドラマの魅力は、いっきに失われることになる。ごくせんみたいな、勧善懲悪的なサクセスストーリーになってしまうのも、話としては、そのほうがわかり易いのかもしれないけど、日テレドラマの斬新さは、それによって後退してしまうことになる。そのへんのバランスが、むずかしいと思います。夏木マリとか、木村祐一、岡田義徳あたりも、変てこで理解不能なキャラを最後までつらぬければ面白いけど、それがヒューマニズムにまとまってしまうようだと、全然つまらない。高橋克実とか、忌野清志郎も、同じだと思います。日テレは、「ぼくの魔法使い」「すいか」「彼女が死んじゃった。」みたいな意欲的な試みをやってみせたんですから、その路線を、ここでもつないでいってほしい。ヒューマニズムと、日テレドラマの斬新なスタイル。そのぎりぎりの境界線のところでドラマを踏ん張れたら、この作品は成功です。
2005.10.16
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