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私が生まれて、きこえない、話せない障害の異変に気づきながらも最後まで認めようとしなかった母。母がどんな気持ちで立ち直り、私の障害を受け止めたのか?その母の決心を描いたものです。私は毎週火曜日に障害児の親御さんに会います。親御さんはとても子供に対する想いが強い。そのつながりにエールを送りたい。親子の絆ってとてもかけがえのないものだと思います。つづきはこちらです。20ページです。
2006年06月12日
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漫画を描いて何年たつのだろう?2歳のころから鉛筆を握っていたMIKIMIKIMIKI。本格的にGペンとかカブラペンとか、丸ペンを使うようになったのは、高校生2年。しかし、当時、鹿児島県という片田舎にいたため、この道具を買いにいくために片道3時間かけて絵画教室の下にある店舗に行ってた。そこにはGぺんと丸ペンしかなかった。紙も原稿用紙がなくて、ケント紙に描いてたので応募した集英社の担当さんが苦笑いしてたそうだ。「こういう硬いつるつるした紙じゃなくてこれが原稿用紙なんだよ」と渡されて、手にした原稿用紙をみて感動を覚えたMIKIMIKIMIKI。「いつか上京しよう」上京して何度も持ち込みをした。当時は今みたいにメールとかFAXもなかったのでいきなり連絡なしで集英社などの門をたたいてまわった。耳がきこえないことは不便やけど、誰かにたのんで電話してもらうのも嫌だったMIKIMIKIMIKI。何もかも自分でやってみたい。そういう気持ちをずっと持ち続けてきました。角川書店に持ち込みをしたある日。忙しい編集者はしつこい私にある言葉をもらした。「耳がきこえないから漫画家は無理」といわれてしまった。「・・・どうして?」と私が聞くと、「忙しい漫画家さんはあなたのために顔をあげてしゃべらないと思うよ」という冷たい言葉が返ってきた。そう、私は耳がきこえない代わりに相手の口元をみて読み取る。それがMIKIMIKIMIKIの得意技だったけど、それも否定されてしまった。悔しさのあまり、MIKIMIKIMIKIは泣く泣く東京駅から新大阪駅まで声をあげて泣き続けた。3時間半、鼻水たらしながら嗚咽してた私。「漫画なんてやめてやるよ!」家においてあった漫画の道具を処分したMIKIMIKIMIKIだった。しかし、MIKIMIKIMIKIは産経新聞社の制作局で働いていたので、4コマ漫画やカットのイラストの仕事もするようになった。それから・・・いろんな漫画の仕事を引き受けてくるにつれて何があってもペンを取る自分に気が付いた。「私にとって漫画というものは“伝える”手段のようなものかもしれない。」怠けたりしないで頑張ろう。ファイト!“人生はたったひとつのシナリオ”。それをどんなシナリオにするかは自分の力次第。下の漫画は「ラッキーウーマン」の絵柄。これはやり直ししますので公開しますね。こんな絵柄にしたいと思っております。
2006年06月08日
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MIKIMIKIMIKIはいくつかの漫画を描いてるけど、本当に描きたい漫画は長編ストーリー。苦労するのでその分この作品を愛してしまう、MIKIMIKIMIKIの気持ちがあるからです。終わったとき、「達成感」も得られるから。終わったとき、飲むビールは美味しい・・・・頑張った自分に乾杯してます。。。(一人ではちょっと暗いねぇ)これは「母と私」描いたのは。。。9年前。28歳の時描きました(年がばれる~)
2006年06月04日
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久しぶりに公開します。これは・・・5年前のものです。息子が小学校1年の時です。階段からよく落ちてましたねぇ・・・・すぐ鼻から血たらしてまして・・・・。残酷?な母親はこれをネタに使えると思ってマンガに描いたら当然,ボツにされました。。。反省。
2006年06月01日
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