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【嵯峨野巡り9】 嵯峨野を【寂】と選ばれた作家としての「寂聴」さん。正にその一言に尽きると思います。【寂庵】を後にして、先ほどの「石仏の三叉路に戻り、散策道を北へ、其処には「化野念仏寺」が有りました。【化野念仏寺】(あだしののねんぶつじ) 浄土宗 開基 弘法大師 山号 華西山(かさいざん) 受付を入りますと、石仏の群れが一杯に拡がる光景に、驚きを隠せません。「十三搭の前に、「お釈迦さん」が坐り、周りを群れとして石仏が中央に向けて配置されていました。「寂聴」さんの「嵯峨野散策」の本に、お釈迦様が皆様に、お説教されている姿の様に見られます。と記されていました。今は亡き霊が、仏の慈悲で守護され憩うて居られる様にも感じられました。お客様からよく質問を受けます。「石仏は幾つ位ありますか?」毎年お盆の終わり頃の、8月23・24日には、【千灯供養】としてローソクをお供えする行事が有ります。千は数の多いことを意味し、毎年増えつつあるようです。 寺伝によりますと、「二尊院」から「念仏痔」に掛けてこの当たりを「化野」(あだしの)と呼ばれていました。約1,100年前「弘法大師」が「五智山如来寺」を開創され、野晒しと成っていました遺骸を鄭重に弔い埋葬されたと伝えられ、その後「法然上人」の常念仏道場として、「華西山 東漸院念仏寺」(かさいざん・とうぜんいんねんぶつじ)を建てられて、浄土宗とされたそうです。 浄土宗として、本尊は、西方浄土から東向きで【阿弥陀如来坐像】(湛慶作)が祀られて居ます。受付に至る石段参道の側に、かなり彫が見にくくなった「釈迦如来・阿弥陀如来の石仏も鎌倉時代の作とされています。 本堂前の地蔵菩薩堂の中を覗きますと、正面の両側に、極楽図と地獄図が画かれていました。【西院の河原】(さいのかわら) 「空也上人」御作【地蔵和賛】にあの世で嬰児(みどりご)が河原の石をとり回向(えこう)の塔を積み重ねます。「一重積んでは父のため、二重積んでは母のためと・・・」やっと少し積み上げると、鬼が来て潰す姿が思い遣られます、罪も功も無き幼子の死界を、この世で回向の大切さを説かれているやに思われました。石仏群の囲いには、多くの「石積み」の形が訪れる人の真心が微笑ましい形で一杯見渡せます。 京の都には、東山清水寺の附近に【鳥辺野】そして船岡山の麓北区千本十二坊に「上品蓮台寺」がありますが其のあたりを【蓮台野】と言います。【化野】と三箇所の亡骸の風葬の場所でした。本堂より、少し奥に行ったところに、【水子地蔵尊】が祀られていました。多くのお参りの「千羽鶴」や「お人形」等が飾られていました。親の姿もこの世で見ずして、あの世に悲しい現実です。更に「孟宗竹籔」を越えますと、墓地がありその入り口には、六体のお地蔵さんが立ち、夫々「六道」の担当で持ち物が変わっていました。常にお地蔵さんが側に付いていて下さっている様です。 古語「あだし」は「悲しい」・「悲しみ」と言う意味から「あだしなる野辺」が「化野」と言われる様になりました。「無情」を端的に表現、「嵯峨野」の風情の一部とも考えられます。 次回はいよいよ嵯峨野巡りの終着点、【愛宕寺念仏寺】(おたぎじねんぶつじ)へと進みます。
2010.02.28
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【嵯峨野巡り8】 【平家物語】に登場する、【祇王】【横笛】そして「渡月橋」の【小督】の哀話が此処「嵯峨野」に潜んでいるところに、女性の方に人気が有るのでしょう。 「祇王寺」「滝口寺」を後にして、暫し又歩を運びますと、三叉路に、可愛い野仏が数個道端に佇んでいました。その三叉路を右に少し行きますと右手に【瀬戸内晴美】即ち【寂聴】さんの「嵯峨野」での私邸があり、其の敷地内に庵を築かれました。【寂庵】天台宗 山号曼荼羅山(まんだらやま) 曼荼羅山は、「寂庵」からよく見渡せます山で、京都五山の送り火中の最後に灯される「鳥居型」が有名です。 「寂聴」さんは、此処でも「源氏物語」を執筆されていました。今は、締め切って、本堂内に入れなくって残念ですが、以前は開放され、時々「寂聴」さんとお客様が会われる機会が有りました。中でも娘さんとの親子連れのお客様に、訪問をお勧めしましたが、老婆のお母さんは「瀬戸内晴美は大嫌いじゃ」と中年の娘さんの説得で、しぶしぶ「寂庵」を訪問しましたら、本当に仏の導きか、「寂聴」さんが本堂に居られました。お母さんは、脚を痛めておられ、その旨寂聴さんにしぶしぶ訴えられたとき、「どれどれ足を出し成され、「手当てと言うでしょう、温かいおなごの手は、子供の痛みを和らげますね、私の手には、仏さまが加護されていますので、良く効きますよ」といって足を暫し摩られました、不思議と痛みは和らぎ、畳の上で坐る事が出来ました。あれほど嫌っておられたお母さんは、「勿体無い」といって涙を流して、まさかあの有名な方に、温かく気軽に接して下さった事に、「本当に来てよかつた一生の良き思い出になる」と歓ばれました。 そして、「一緒に私と般若心経を唱えましょう」と先導され、貴重な体験をされました。嫌いと言う前に、会って話される事で、誤解は消滅しました。 現代は、大変お忙しい身、高嶺の雲の上の方と成られ、庶民的に会う機会が「嵯峨野」で会えなくなって、とても惜しい事でと思います。
2010.02.27
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【嵯峨野巡り7】「祇王寺」のご感想は如何でしたでしょうか?苔の庭を一周するだけでも、大自然の美しさと詫びしさを感じとる事が出来ます。白拍子の「祇王さん」の華やかさの影に世の無情を身を以って体験され、心の癒しに、仏道に出家され、此処「嵯峨野」の静かな地で、漸く人間の尊厳を会得されたのではないでしょうか。【平家物語】「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無情の響きあり、沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者(じょうしゃ)必衰の理(ひつすいのり)を顕わす(あらわす)。奢(おご)れる者久しからず。ただ春の夜の夢の如し、猛(たけ)き人も遂に滅びぬ。偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ」琵琶法師の語りが深々と聞えそうです。【滝口寺】(たきぐちてら)浄土宗 開基 良鎮 山号 小倉山 「祇王寺」の出入り口から、少し山手に隣接して、「滝口寺」が有ります。ここもお寺とは言え、庭先のこじんまりした部屋に訪れるだけですが、「平家物語」「重盛高野の巻」に登場する、平重盛の家臣【滝口入道時頼】と「建礼門院」に仕えた侍女【横笛】の悲恋の舞台となった場所でも有ります。語り部とし、縁先で訪れる人ごとに、無表情で滔々と語られたお婆さんも、この世から、浄土に召されました。同じ事柄を終日多くの人々に述べられたご労苦は察するに余りありました。【物語】 清盛の西八条殿での「花見の宴」に於いて、「建礼門院」侍女「横笛」の「舞い姿」を、重盛の侍「斎藤滝口時頼」が繁々と見て、ひと目ぼれして恋しく想う様になり、恋文を送る様になりました。ところが時頼の父がこのことを知るや「お前は名門の身にして、将来平家一門に入る身上でありながら、横笛ごときを想い染めるとは」と激しく叱られました。 時頼は、主君の信頼に背いて恋に迷う自責から「これこそ仏道に入る為の仏の尊い導き」と決心して、此処嵯峨野の【往生院】で出家し、名を【滝口入道】と改めました。 【横笛】は、都で「滝口入道」が出家したということを伝え聞いて恨めしく思い、自分の恋心を持って居ることを打ち明けたいと、都から嵯峨野の往生院を探し求めて辿り着いた時はもう日も暮れて、夕闇の迫るころでした。荒んだ僧坊から念仏の唱える声が聞えました。心をときめかして、滝口入道の声と聞き澄まして、真の恋心を打ち明けたく女の身で訪れたことを告げてみると、裾は露で濡れ、袖は涙でぬれ、痩せこけた顔付きは、本心で求め尋ねてきた様子は、誰しも抱き閉めてやりたい気になるも、仏道に仕える者として心を鬼にして、同宿の僧を遣わし「全く此処にはそのような人は居りません、何かの間違いではないでしょうか」と言わせました。 「横笛」は、悲壮な悲しみで帰る時「眞の心を伝えたく」庭の近くに有った石に歌を「血染め」で書いて帰りました。「山深み 思い入りぬる 柴の戸の まことの道に 我れを導け」 「滝口入道」は、未練が残ったまま別れた「横笛」に住まいを見つけられたからには、修行の妨げと思い【高野山】に移りました。これを知った「横笛」もその後直ちに、奈良の【法華痔】で尼に出家しました。現在本堂に紙製の小さな「横笛像」並びに「横笛堂」があるとのことです。 「法華寺」で尼に成ったと聞いた「滝口入道」は、一首の歌を「横笛」に送りました。「そるまでは 恨みしかも 梓弓(あずさゆみ) まことの道に 入るぞ嬉しき」 「横笛」やっと心の通じた「歓喜」と「幸せ」をかみ締めて、返しの歌を「そるとても 何か恨みむ 梓弓 引きとどむべき 心ならねば」 「横笛」は、仏道を全う出来た心の安らぎのまま、間もなく法華寺で亡くなりました。これを聞いた「滝口入道」も仏道修行を積み【高野の聖(ひじり)】といわれる高僧に成られたと言う事す。【本堂】滝口入道・横笛の木像鎌倉後期の作で眼が水晶(玉眼)竹薮に平家の供養等が建っていす。【小松堂】平重盛を祀る【横笛歌碑】参道の庭にあり、横笛が指を切って「血染め」で、歌を書いて帰ったと言う石碑 嵯峨野の雰囲気は、文学で女性の悲話を以って語られています。現代人としてその昔を偲びつつ訪れるのも自然にも触れ、祈りの気持ちにもさせてくれるようです。 次回は化野の念仏寺を訪れたいです。
2010.02.26
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【嵯峨野巡り6】【祇王寺】(ぎおうじ)真言宗大覚寺派 開基 祇王尊尼 山号 高松山国立病院に4ヵ月半入院中、病院敷地内にある「看護師学校」の生徒さんに、病院の研修の中で、入院患者とのコミニケーションとして、選ばれて、お相手しました。将来、治療の手伝いだけでなく、相手への思い遣りの心構えも必要ですし、京都の文化に触れることも大切と言うことで、「京都観光」の一部を筆談で披露しました。生徒さんは、休みの日に、三人が資料を手にして、実際に訪れられた場所が、【龍安寺】【天龍寺】そして【祇王寺】でした。特にこじんまりした中でも、寂を感じた「祇王寺」が印象に深く残ったと言う感想でした。恐らく、誰しも「嵯峨野巡り」の中心的叙情に溢れた観光が味わえると存じます。「平清盛」の寵愛を失い、余生を尼になって過ごしたと伝えられる「平家物語」に名高い白拍子(しらびょうし)「祇王」にゆかりの寺です。此処にも女性の哀話が話題と成ります。 平家全盛の頃。都に「平清盛」の寵愛を受けた白拍子「祇王」と妹「祇女」が仕えていました。後日加賀の国の「仏御前」が清盛の屋敷に、白拍子として出仕方申し出ましたが、清盛は「祇王には適うまい」と門前払いを受けました。心の優しい祇王は清盛に取り成して。「一度舞いを観られては」と取り成し受け入れられました。「今様の歌」七・五調の宮廷の舞の歌で「君を始めて 見る折は 千代も暦(へ)ぬべし 姫小松 御前の池なる 亀岡に 鶴こそ群(むれ)いて 遊ぶめれ」(大原寂光院の池)繰り返し三度歌ったが声も筋もすこぶる上手で、清盛の幼児の頃母御から聞いた懐かしい歌に清盛は、涙してたちまち心を「仏御前」に移したと言います。 清盛の館から追い出される「祇王」は、せめての忘れ片身にと、障子に書き残されました。庭園の片隅に石碑として建っています。「萌えいずるも 枯るるも同じ 野辺の草 いずれか秋に あわではつべき」草木が芽を出し初々しく萌え出るのも、枯れてしまうのも、同じ野辺の草の宿命。そして秋が来ると、哀れにも姿を消していく、そうした同じ道を辿るものです。 あくる春清盛より祇王に、「仏御前が退屈しているから、舞を舞うて慰めてくれぬか」と使者をよこすも、あまりの屈辱に祇王は行く気は無かったのですが、清盛の権勢と母「刀自」(とじ)の哀願に抗し切れず,館に赴き歌いました。「仏もむかしは 凡夫(ぼんぷ)なり われらも遂には 仏なり いずれも仏性 具せる身を 隔(へ)つるのみこそ 悲しけれ」並み居る諸臣も、祇王の心を察して、涙を絞ったと言う事です。「祇王」は母と妹を伴って、此処嵯峨野に身を寄せ、「仏門」に入られました。暫し年を経て、母子三人が念仏している所へ、竹で編んだ網戸を静かに叩く音がしました。以外や「仏御前」でした。あれほどの仕打ちを受けたにも拘わらず、祇王も今は仏に仕える身と、心を赦して優しく迎え容れられました。 寺とは名ばかり、こじんまりした苔の庭園の側に二部屋の本堂があるだけです。昔は祇王桜が有りましたが、枯れて今は見られません、秋には、紅葉の葉っぱが苔に散らばり、彩なす光景は心癒されます。訪れられれば、必ず、履物を脱いで、「本堂」に上がって下さい。ボタンを押すと、上記のお話しが、流れます。そしてもう一つ、別室から観られる「虹の窓」を鑑賞してみて下さい。篠竹を斜めに交差した外側に「孟宗竹」が縦に構え、障子を閉めると篠竹から「虹」が写る趣向になっています。本堂の側に親子三人の墓があり、嵯峨野で静かに揃って憩うて居るようです。世の無情から解き話された様に 次回は、【滝口寺】が隣接して居ます。同じく女性の哀話が潜んでいます。
2010.02.25
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【嵯峨野巡り5】 【二尊院】天台宗山門派 開基 円仁(慈覚大師) 山号 小倉山 嵯峨野は、文学にも各所に足跡が有ります。短歌・俳句・古書等に耽るのに最も良き環境でも有るようです。「去来の小さき墓」に一礼して、更に歩を進めますと、伏見城から移したと言う、総門に辿り着きます。瓦の端には、豊臣秀吉の「五七の桐の紋」が見られます。此処が、「二尊院」の入り口となっています。 何故、「二尊」と言いますと、本尊が「釈迦如来」「阿弥陀如来」と如来が二体揃うのは、大変珍しい事で、実際本堂で、仏像を拝しますと、立ち姿で全く同形に見えます。よくクイズで違いを探すような感じです。ならば何処が違うのでしょうか?以前仏像の見方で説明させていただきました様に「手先の指」がお釈迦さんは、手の平を広げ指も揃えて全て伸ばしておられます。一方阿弥陀さんは、此処では、親指と人差し指を丸く結んで居られます。 以前は、仏像の前まで入れましたが、今は観られなくなっていました。でも確かめたいですね。発遣(はっけん)の釈迦如来はこの世で一切の衆生の往生を勧め、来迎の阿弥陀如来は、彼の浄土に迎えられる。即ち「勧める仏」と「招く仏」とで漏れなく衆生を救済しょうとする仏の悲願から、此処に二体祀られて居ます。【小倉百人一首】の発祥の地とも言われ、本堂の横には、古式のカルタが販売されています。【時雨亭跡】「常寂光寺」と同様に、小山に登り詰めた処に「藤原定家」の「山荘」である「時雨亭跡」の石碑が建てられて居ました。参道も「紅葉の名所」で、百人一首では、その美しさを表現する歌が読まれています。「小倉山 峰のもみじ葉 心あらば いまひとたびの みゆき 待たなん」貞信公 藤原忠平 小倉山の峰に彩なすもみじ葉よ、もしそなたに心があるならば、このまま、そっと散らないで、もう一度の天皇の行幸を待つておくれ。(紅葉のあまりの美しさを強調された歌)「宇多法皇」が始め大井川行幸として、訪れておられました。 わが子「醍醐天皇」に見てもらいたい意と考えられます。【厭離庵】(えんりあん) 「二尊院」から本通りに出て右手少し行きますと、北側に有ります。日頃、非公開ですが、紅葉のシーズンには、特別拝観出来るようです。外の喧騒から、別天地の様に静かな雰囲気を味わう事が出来ます。懸崖の上に「茶室」を構え、愛宕水の名水で、一幅のお茶は、何とも言えない美味です。「中心山荘の跡地」も有りました。嵯峨野は、時雨時が多く、こうした文化も発祥したのでしょうね。作家も良く来られて、文章を綴られるそうです。昔、静かにお話を伺い、お逢いした年取られた「庵住さん」も今は、この世から浄土へ召されました。時の流れを切なく感じました。次回は、いよいよ本番【祇王寺】です。【嵯峨野の中心的訪問地】と心得ます。誰しも心の打たれるところ存じます。
2010.02.24
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【嵯峨野巡り4】 「常寂光寺」の門を後にして、直ぐの所に、のどかな嵯峨野を連想する広い畑に至ります。写真に撮られるには、畑の手前から、彼方にひそかに佇む、【落柿舎】(らくししゃ)は、一幅の絵に成ります。【落柿舎】は、松尾芭蕉門下十哲の一人【向井去来】(むかいきょらい)が閑居した、極めて貧しそうな藁葺きの田舎風の一軒屋で、蓑笠が掛っているのが、印象的です。庭の片隅には「柿ぬしや 木ずえは近き あらしやま」と記された「句碑」が立っています。 そもそも「落柿舎」の名の由来は、去来が貧しい生活で稗飯(ひえめし)を食していました。ある年の秋に、庭の柿が豊かに実ったので、売買が商人との間で纏りました。「よし久方振りに、白い飯が食べられるぞ」と夢を膨らませて一夜を過ごしました。ところが夜半から嵐が吹きまくり、柿の実が全て落下していて商談は、不成立と成ってしまいました。「1升升は1升升だな」と観念して「落柿舎」と名付けたそうです。無念の句碑が、嵐と嵐山に懸けている気持ちがよく理解できます。 更に歩を進めますと、右手の墓地と句碑に立ち寄りますと、【去来の墓】がありました。犬・猫の墓の様な、三角形の小さな自然石が置かれていました。石には「去来の墓」と書かれていました。その直ぐ横に、句碑が並んでいますその中に【虚子】の句碑を見付けました。「おおよそ天下に 去来ほどの 小さき墓に 詣でけり」実は、左京区【真如堂】内の塔頭に、「向井去来」の菩提寺が有り、そこには立派な墓があるそうですが、嵯峨野の居心地も、まんざらと未だにひそかに眠っているようです。次回は、小倉山百人一首の基地であるとされる【二尊院】を尋ねたいです。
2010.02.23
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【嵯峨野巡り3】 大河内山荘を後にして、暫く歩くと、「トロッコ鉄道」「嵐山駅」が有ります。春秋には、桜・紅葉の鑑賞で「保津川」の景勝地を満喫出来る事で、利用する方が多いです。【常寂光寺】(じょうじゃくこうじ)日蓮宗 開基 究竟院日愼上人 山号 小倉山 日蓮宗としての観光寺院は、極めて珍しいです。「紅葉」と「歌碑」で訪れる方が多いです。小倉山の山腹にあって静寂で清らかな「常寂光土」に遊ぶような趣が有ると言うので「寺名」が付けられたそうです。 日愼上人は、日蓮宗大本山本圀寺(ほんこくじ)「山科区御陵大岩町」にて僅か18歳で法灯を継がれ「修学」「歌道」への学問及び文化に深く達して居られました。【仁王門】仁王さんは「運慶」の作と言われています。【本堂】一般に外からしか拝する事が出来ません。【多宝塔】紅葉をバックに、よく写真を撮られます。【歌仙祠】(かせんし)歌人藤原定家の祠(ほこら)定家像が安置されています。【時雨亭跡】嵯峨には「時雨亭」は三箇所有ります。「常寂光寺」「二尊院」「厭離庵」(えんりあん)何れも、定家山荘の跡と称して居られますが、昭和10年国文学者の考証では、定家の「小倉山山莊跡」は、常寂光寺仁王門の北即ち「二尊院」南に位置し、「厭離庵」近辺は、定家の子「為家」の住まい、「中院山荘跡」の定説と言われています。寧々さんの寺【高台痔】の山上に「時雨亭茶室」があります。 定家は、このあたり山荘「時雨亭」を構えて【小倉山百人一首】を編纂したとも言われています。【二尊院】と共に往時を偲んで訪れる人も多いのでしょう。 時雨亭は、小高き山に登った所に有り、この辺りからも京都市街が見渡されます。「紅葉」はとても美しいです。【角倉資料館】「角倉了以」は保津峡等を開発した立役者で有り、、「藤原定家」の落ち着いた小倉山麓に隠棲所を提供したのが「角倉了以」と言うことで、展示されています。 次回は【落柿舎】(らくししゃ)を経て【二尊院】を訪れたいです。
2010.02.22
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バンクーバー冬季オリンピック「フィギュアスケート男子フリー」で「高橋大輔選手」が見事、3位に入り、日本でこの種目初の五輪メダルを獲得の快挙でした。表彰式で感涙し、場内移動の際、日の丸の国旗を客席より投げ込まれ、それをかざしつつ歓びを分かつ姿に共鳴しました。その光景を見た金メダルを逆転で得たアメリカのエバン・ライサチェクも、同感してか、後で米国国旗を貰って、かざすシーンが見られました。個人もさることながら、国の誇りも大切にそして応援してもらった「みんな」の歓びを共有する「若い人」の姿勢に好感が持たれました。【嵯峨野巡り2】 野々宮神社から「小柴垣」の散策路を選ばれるも良し、急がれる方は、【天龍寺裏出入り口】から外に出た所から、豪壮な竹薮の路と成ります。嵯峨野の風情たっぷりの雰囲気です。突き当たった所を左に行きますと、「亀山公園」経由嵐山に辿り着きます。本日はその突き当たった所にある「大河内山荘」に入山してみましょう。【大河内山荘】映画俳優・大河内伝次郎の別荘 2万平方メートル(6,000坪) 故大河内伝次郎は、常に「二枚目」を維持する事によって、この景勝地を確保すべく、精神的には、山荘内に「持仏堂」を祀り信仰も厚く、体力維持には、広々とした我が所有地内を「ジョギング」して努力されたとのことです。獲得に30年要されたそうです。亀山に隣接し、小倉山にも望める別荘で、坂道も含む、自然の起伏のある庭園です。小高き丘から、京都市街の眺望も素晴しく、比叡山も良く見えます。向きを変えると、嵐山の桜の遠景も目を見張る景勝に歓喜を覚えます。場所を変えると、保津峡の直ぐ側に面し、「山紫水明」の絶景も観られます。 暫し、故大河内伝次郎を偲びつつ山道を巡られるのも、良い想い出に成ると思います。 故大河内伝次郎の「執念」でしょうか?茶室の一つの「壁」に染みが自然に浮き出て、主役「丹下左膳」の「顔」が浮かび挙がっているように見えます。片目が刀傷で失明している姿も、敢えて、指摘しないと、判らずに通り過ぎられるようです。みなさんで探してみて下さい。 「記念館」もあり、「お食事処」も有ります。受付で貰った「お茶券」で、ゆっくりお菓子と「薄茶」で一服されるのも、心落ち着いて暫しの憩いとなりましょう。 次回は、トロッコ列車「嵐山駅」を経て、【常寂光寺】【落柿舎】へと参ります。
2010.02.20
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【嵯峨野巡り1】 歴史の真相は定かでは有りませんが、伝説では、いにしえにも女性の「哀話」が隠れています。昨日の【待賢門院】然り、そして【嵯峨野巡り】にも、静かに潜んでいます。従って女性には京都の観光で、一番人気があります。勿論春は桜、秋には紅葉の景勝地でも有ります。文化・詩歌にも史跡を見出し、世相の喧騒から人間らしさの原点に戻れそうでも有ります。 既に【嵐山】【渡月橋】そして【天龍寺】はお話しました。特に【琴聞き橋】と【小督局】は、筆頭に御紹介しました。(1月27日36号) 天龍寺を後にして、「小柴垣」の道を歩み最初に辿り着いた社が嵯峨野巡りの入り口【野々宮神社】です。祭神は「野宮大神」(天照皇大神)が祀られて居ます。「黒木の鳥居」をくぐるも、こじんまりした小柴垣に囲まれた神域で、小さい苔と池のある庭園も見られます。「伊勢神宮に仕える前に「斎宮」(さいぐう・いつきのみや)に選ばれた未婚の皇女が「潔斎」(けつさい)のため1年間篭られるそうです。【源氏物語】第十帖【賢木の巻】(さかきのまき)に登場します。【光源氏】(ひかるげんじ)と【六条御息所】(ろくじょうみやすどころ)の別れの場面です。 光源氏(23歳)は、少女のような「紫の上」と結婚したものの、気持ちが充たされなかった。それにつけても、青春時代を埋めてくれた「六条御息所」(30歳)が、愛おしかった。その御息所が源氏を待ち切れず、「斎宮」とともに伊勢神宮に下向するという。源氏は嵯峨野を尋ねて会おうとするも、会ってくれない。源氏は「榊」(さかき)を持って来て、強引に会うことが出来たが「神聖な榊を折って来られたの」と責めて伊勢神宮の下向を思い止らなかった。源氏は、この年上の恋人の深い愛情を無視して心奢って、ないがしろしたことを悔いた。【嵯峨野の竹薮の道】野々宮神社を後にして、小柴垣から。大らかな嵯峨野の竹薮の道を歩みます。とても豪壮な「孟宗竹」でコマーシャルの背景に良く出てきます。「孟宗」とは、中国の古事にでてきます。孝行息子のお話です。「冬の雪の積もる季節に、母上が、筍を所望されました。孝行息子の誠意の念力と願いが適い、竹薮から「筍」を掘り出す事が出来ました。それを聞いた村人は、感動して「孟宗竹」と名付けたそうです。伏見の「御香宮さんの門に蟇股の一つとして彫られてあるのが見られます。 次回は「大河内山荘」へご一緒しましょう。
2010.02.19
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【法金剛院】奈良の宗派「律宗」 開基 待賢門院(たいけんもんいん) 山号 五位山 JR「花園駅」駅前に有ります。昨日の「妙心寺」の観光の際には、近くですから是非ともご訪問をお勧めします。過日お知らせしました「特別名勝指定」国宝級の庭園の一つです。極めて小規模ですが、いにしえを偲ぶに相応しい、落ち着いて鑑賞出来ます。自家用では、嵐山に向かわれる途中に道路沿いにあり、駐車場もゆったりしています。 蓮の開花季節7月中旬から8月初旬には、門前にその旨の案内が掲げて有ります。「大賀蓮始め種類が豊富です。常時では、礼堂の西側裏に「仏殿」が有り、平等院の阿弥陀さんを彫った、「定朝様式」(じょうちょうようしき)の【阿弥陀如来坐像】が私たちの礼拝する、真ん前に拝する事が出来ます。八角九重型の蓮坐は、阿弥陀さんを一際引き立てているようです。阿弥陀さんは、「東向」で庭園を極楽浄土をイメージして造られた、【待賢門院】の蓮池が保たれて現代も活き活きした状況を感じ取りました。横には着飾った【十一面観音菩薩】が、お厨子の中に立像として拝する事が出来ます。 平安時代前期、右大臣 藤原夏野の別荘から「双丘寺」(ならびがおかじ)として建てられましたが、その後奈良の唐招提寺の僧によって再建され、「律宗」となっています。寺の荒廃により、「待賢門院」が出家され再建されました。 京都の北方に目立つ、「ラクダのこぶが二つ並んだ丘」を「双ヶ丘」(ならびがおか)と言いますが徒然草で有名です。その南麓に「五位山」がありそこに法金剛院が建っています。 【待賢門院】お父上藤原公実とは、若くして死別 【藤原璋子】(ふじわらのしょうしたまこ)として、74代鳥羽天皇の中宮(皇后)・75代崇徳天皇・76代後白河天皇の母君後に「女院号」【待賢門院】と呼ぶようになりました。大変美貌でお父上無き後.白河院の加護を受けて居られる内は、良かったようですが、保護者の逝去後、旦那の鳥羽天皇が「得子」後の「美福門院」に心を寄せられ、待賢門院は、信仰も厚く、出家して「法金剛院」で、生涯を送られましたとか。五位山の北麓に、【花園西陵】【藤原璋子御陵】として有りました。とても静かな場所に眠って居られました。【妙心寺】のほんの側でした。【青女の滝】(せいじょのたき)石組みは平安時代で、日本最古の人造滝石組みと言われています。【歌碑】待賢門院の侍女【待賢門院堀河】の百人一首。尚【西行法師】も訪れたということです。「長からむ心も知らず黒髪の 乱れて今朝は物をこそ思へ」 往時の女性の哀話が、隠された、穴場の寺院でも有ります。
2010.02.19
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【妙心寺】(みょうしんじ)臨済宗妙心寺派総本山 開基 関山慧玄(かんざんえげん)JR「花園駅」の近くにあります。「妙心寺」の境内に【七堂伽藍】(がらん)と47院の内塔頭(うちたつちゅう)が存在する、大規模のお寺です。殆どが拝観謝絶で開放されていません。外塔頭の代表格が【龍安寺】で本堂の名札に全国の外塔頭の寺院数千を数えるほどに掲げて有りました。 お客様に感動を与えたのが、【本坊前】の【法堂】(はっとう)天井に描かれた【龍の絵】でした。【狩野探幽法眼】(かのたんゆうほうげん)二条城二の丸の豪華松を画いた画家です、絵師として「法眼」の位を貰ったほどの素晴しい画家だったのですね。見る位置により【昇り竜】になったり【降り龍】にも観られる豪華さは、他に比類無きものと思われます。是非一度訪問してみて下さい。堂内では親切にお寺さんより説明が有ります。禅宗では、龍を絵描く寺院が多いです。龍は雲を呼び雨を齎すと言います。先ず「本坊受付」にて20分置き時間制で案内されます。其の後「明智風呂」にも案内されます。本坊で待機中に、本堂の名札を見上げられる事と、内陣には「釈迦三尊」が祀られ前庭は、「方丈庭園」に成っています。【退蔵院】(たいぞういん)唯一常時観光出来る塔頭です。寺宝 如拙(にょせつ)筆 【国宝】【瓢鮎図】(ひょうねんず)室町時代の水墨画です。「瓢鮎図」瓢箪(ひょうたん)と鯰(なまず)の絵が書かれていて、禅問答の答えが幾つか書かれています。人を信仰へと導くにも、鯰のようにのらりくらりと一筋縄にはつかめません。そこで禅問答となり、如何にして、鯰を瓢箪に入れられるかの解答のようです。【方丈庭園】(本堂)室町時代の「狩野元信」作の庭園で築山の滝から蓬莱島を経て石橋に流れると言う趣向で、絵描きが作庭するのは、極めて珍しさが感じられます。【余香苑】(よこうえん)近代の庭園で「中根金作」の設計で造園されました。入り口に「陰・陽」の庭そして奥へ滝から大量の水が流れその水音が静けさを象徴するようで、とても親しみやすく、そして広々と自然の姿で鑑賞出来ます。【水琴窟】(すいきんくつ)土中に「かめ」が埋められ。手水鉢から柄杓で、水を静かに流すと「かめ」水音が反響して、妙なる音が聞える仕組みに成っています。是非お試しになってください。【東林院】【沙羅を愛でる会】と沙羅双樹(夏椿)の咲く頃(6月15日から末日予定)精進料理(阿じろ料理)を賞味しながら、苔の丘に落ちる花を愛でる催しが有ります。沙羅の大樹から朝開花、夕べには散る、儚さを平家物語で語っています。【涅槃】(ねはん)お釈迦さんが入滅されるときに、周りに「沙羅双樹」の樹が有ったそうです。
2010.02.17
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【等持院】(とうじいん)臨済宗天龍寺派 開基 夢窓疎石 歴史上に登場する人物で、時代に応じて、イメージで印象の悪いと考えられていた者が、理由が有って善良な人物とも取れる事がよく。出てきます【足利尊氏】がそのひとりです。戦前歴史で朝廷に背いた国賊と教えられました。然し現代に残されている寺院からは、そうとも思えない足跡が観光によって感じられました。 等持院然りです。映画監督「牧野省三像」が立っているその奥に玄関口門前に大きく「等持院」と書かれた門標がありました。足利尊氏の戒名「等持院仁山妙義」から付けられたとされます。寺院の格式から「寺・院・坊・庵・軒」とされています。戒名は残った人がその人の遺徳を偲んで贈名とするとすれば、「等持」の漢字に寺が二字含まれて居ます。慕われ尊敬された方と思えます。そして寧ろ何か原因があったのでしょう。敵であった、「後醍醐天皇」の菩提の為に、建設費を「天龍寺船」での貿易で立派な「天龍寺」を建て、その立役者の足利家は等持院で、一歩下がって礼を尽くしているように思えて成りません。【順路】1.表門に等持院の額が掛っています。2.玄関口の瓦及び蟇股には二引きの足利の家紋が見られます。3.廊下の突き当たりにダルマの絵が目立ちます。天龍寺の管長さんが描かれたそうです。座禅を続けていますと足が立たず、それがダルマさんの姿に成られた、「ダルマ禅師」の絵です。4.方丈前の廊下は、「うぐいす張り」できゅっ・きゅっと歩くと音がします。5.方丈(本堂)には、釈迦三尊が祀られて居ます。前庭は枯山水の庭園に成っています。6.【霊光殿】正面に尊氏の母堂が大切に信仰つき「地蔵菩薩」を尊氏のの仏の庇護のため賜った尊氏の念持仏が祀られ、両脇に禅宗の祖師「達磨大師」と「夢窓疎石」が、そして殿無いには、足利将軍15代(5・10は除く)等身大の像が何故か徳川家康の像も有りました。7..【足利尊氏の墓】上部の宝塔が欠けています。何でも三條大橋東詰で御所に向かって、平伏している像、「高山彦九郎」が朝敵として刀で切り付けたと言う伝説が有ります。8.【池泉回遊式庭園】夢窓疎石作庭「芙蓉の池」と称し、蓮の形した「亀島」書院正面の這い松の「鶴島」「石橋」「滝の石組み」天龍寺の庭園形式になぞらえています。9.【清蓮亭茶室】八代足利義政が建てた武家床の貴人席があります。等持院型灯篭と自然石で出来た司馬温公型手水鉢が有り、茶席からの庭園の眺めもやや高台からとなり素晴しいです。 借景に、衣笠山が近年まで、眺められたのですが、時代の波に逆らえず、「立命館キャンバス」の校舎で、遮られてしまい、致し方がないとは言え残念です。 天龍寺・金閣・銀閣と足利将軍の関係する「菩提寺」としてひっそり佇んでいます。
2010.02.17
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【広隆寺】(こうりゅうじ)真言宗御室派 開基 聖徳太子 京都には、国宝が多いです。そこで「クイズですが、国宝指定が存在する日本では何処の都道府県が一番多いでしょうか?」聞くところによれば、最も多いのが、東京都265件国立博物館が殆ど管理しています。次いで京都226件そして奈良県198件の順に成っています。 広隆寺は、地元では。「太秦(うずまさ)の太子さん」として親しまれています。 その【国宝指定第1号の仏像】が、此処広隆寺・霊宝殿に納められている【弥勒菩薩半跏思惟像】(みろくぼさつはんかしいぞう)です。京都検定試験1級で出題されました。漢字で正確に覚えなければ正解出来ません。半跏とは、韓国流で半分あぐらをかかれたお姿を指します。思惟とは、片手を頬にあてがって、人類をどのようにして救おうかと、想いに耽っておられるお姿を指します。何ともいえない微笑を浮かべられたお顔を見上げているだけでも心打たれる仏様です。室内の放送に寄れば、弥勒菩薩さまとは、人の救いを考えられつつ、56億7千万年後に、この世に如来として現れられる仏さんと言われ、地球学の学会でも、地球破壊の、この数とほぼ一致していると聞いた事があります。(567と覚えます) 前述しましたが、「弥勒如来像」は奈良の「唐招提寺」で観られます。 韓国にも、全く類似した「弥勒菩薩半跏思惟像」が現存しているようです。【飛鳥の三弥勒】広隆寺にもう一体「泣き弥勒」【国宝】が隣接して納められています。べそを描いておられ、仏像には、金箔の一部が残っています。もう一体は、奈良法隆寺の東側に隣接した【中宮寺の弥勒菩薩】を飛鳥時代の三弥勒と称されています。【霊宝殿】四隅には、「四天王」「じ・ぞう・こう・た」即ち「持国天」「増長天」「広目天」「多聞天」が少し大きめに立っています。西側に薬師如来・日光菩薩・月光菩薩そして前列に十二神将【国宝】正面に弥勒菩薩二体と天平時代の作の弥勒菩薩一体他に大日如来・聖徳太子そして使えた「秦の河勝夫妻(藤原時代)が並び、東側には、毘沙門天・吉祥天(夫婦)(尚多聞天は毘沙門天は一諸)愛染明王。不動明王が、そして南側に観音菩薩像が三体内二体は【国宝】となっています。修学旅行生も勉強の為多く案内しました。寧ろ「じぞうこうた東南西北」は中学生から教えてもらいました。【本堂】【国宝】聖徳太子の立像が祀られて居ます。【講堂】阿弥陀如来【国宝】「下品中生」の珍しい印相をされています。2月9日「平等院」阿弥陀さんの印相をご参照下さい。両脇に地蔵菩薩・虚空蔵菩薩(重要文化財)【南大門】仁王像 阿・吽(あ・うん)隣接して、「映画村」があります。 仏像に関心有る方は必見の場所とと考えます。
2010.02.16
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【平安京遷都】784年(延暦3年)【桓武天皇】が、腐敗した政治の立て直すために【奈良の平城京】より都を、京都より大阪よりの西南方向、乙訓郡(向日市・長岡京市)に【長岡京】として遷都されました。その大極殿跡地と当時の都の地図の看板が、阪急西向日駅前の近所に、こじんまりした住宅街の公園にありました。中央「朱雀大路」を横切って、小畑川が斜めに横切っていました。何だか不吉な予感がしました。只でさえ、地元住民は、「暴れ川」と懸念されるほどに、桓武天皇と弟君「相良親王」(さがらしんのう)との間に天皇の重臣の変死に疑問を抱き、「乙訓寺」に幽閉され、そこで亡くなりました。怨念を恐れ、京都には、霊を慰める為に、「上御霊神社」「下御霊神社」が祀られています。そして川の氾濫による、疫病が蔓延し、「呪われた都」と化しました。地元「大原野神社」には、女官の方々の奈良への想い出が忘れられず、「春日神社の分身」を祀り、奈良の「猿沢の池」に対し「鯉沢の池」が現在も長岡京の、面影を残しています。10年後の794年(延暦13年)(なくようぐいす平安遷都)「長岡京」より「丑寅」「北東」に【平安京】が誕生しました。お客様が京都の街を一望出来る、東山三十六峰の「長楽寺山」の頂上に【将軍塚】があります。東山ドライブウエイの「花山天文台」とは反対の地で、「大日堂」境内に拝観券を納めて入園して下さい。展望場所は二ヶ所有ります。この将軍塚の地にて、【和気清麻呂】が狩に事寄せて、【桓武天皇】を誘われ、三方山々に囲まれ、絶好の都の地として、「此処に都を移そう」と決意された場所でもあります。政治の中心として、都造りに、中国の「風水」とか「地相」「四神相応」も参考にされ、中国では「君子南面す、都は永久(とわ)に栄えるであろう」京都御所から南面した形に成っています。国名も、山を背にしてか、「山背」から「山城」と変えられました。一般家庭でも、太陽の道として、南側に居間の有る建築様式が望ましいようですが、近代建築はそうも言ってられません。「風水」は北の「船岡山」から二条城の南に有る、「神泉苑」に掛けて、良線と成っているそうで、遷都の始めは、現在の「千本通り」に「大内裏」がありその南に「朱雀大路」を設け、南端に「羅城門」今も羅城門跡の石碑が建っています。大内裏から左側(東側)を「左京」右側を「右京」とされました。又「羅城門」を中心に東に「東寺」西に「西寺」を王城鎮護のために建てられ、西寺は公園の小高き丘に「西寺跡地」の石塔が立てられています。【神泉苑】の池は、遷都以来水は堪えたことなく「祇園祭」の発祥の地ともされています。「疫病退散」の意味で貴重な場所です。【将軍塚】には、此処も王城鎮護のため武将像を土で造り、兜・鎧を着せ弓矢と太刀を持って、土壌の中に、西向きに埋められて居ます。3月ごろには、紅白の「枝垂れ梅」が可愛く咲き、4月には桜が、秋には紅葉と素晴しい庭園に成っています。「三鈷の松」(さんこのまつ)と称して、松の葉っぱが「三本」と珍しく、「三つ願い事が適う」と言ってお客様に渡すと、100%持って帰られました。受付でも尼僧から心づけして戴けます。京都の景観、そして観光客もご存じなくってか、殆ど訪問されず、静かな「穴場的観光地」とも言えましょう。 京の都は、恵まれて1200年余の歴史と文化伝統等遺し、日本全国の「故郷」として現在も憩いの場所として、皆様を待ち続けています。 次回から、一般の社寺に入って参りたいと思っています。
2010.02.15
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【世界文化遺産の記事】 ブログの初心者として、平成21年12月23日(天皇誕生日の祝日)から始めました。京都観光は、豊富で訪れられるのに目標が立たないとして、先ず、世界が文化遺産として、認めてくれた17箇所から始めました。お客様からのご質問・ご要望等で浅智恵ながら、訪問なさる【見所】を順序たてて記してみました。私のブログのカレンダーの過去にも遡って、その日をクリックされると、その部分だけの記事が表示されます。拙文を読まれるよりも、プリントされて、後ほど京都を訪問される時に、メモとしてご参考にご利用して頂ければ幸甚です。尚更に内容の詳細と景色・仏像の写真とうは、本屋さんのガイドブックを参照して見て下さい。下記に社寺と掲載月日そして庭園で【特別名勝指定庭園】【国宝】の索引を記して見ます。【龍安寺】1月2日()3日4日5日6日特別名勝方丈庭園【西本願寺】1月8日(17)特別名勝本願寺大書院庭園【清水寺】1月9日(18)10日(19)11日(20)12日(21)13日(22)14日(23)【金閣寺】1月17日(26)18日(27)特別名勝庭園【銀閣寺】1月19日(28)20日(29)特別名勝庭園【二条城】1月22日(31)23日(32)24日(33)特別名勝二の丸庭園【天龍寺】1月27日(37)特別名勝庭園【国宝第一号指定】【西芳寺】1月29日(38)特別名勝庭園【高山寺】1月31日(40)【仁和寺】2月1日(41)【東寺】 2月1日(42)3日(43)【醍醐痔】2月6日(46)7日(47)特別名勝三宝院庭園【宇治上神社】2月8日(48)【平等院】2月9日(49)【比叡山延暦寺】2月10日(49)11日(50)【上賀茂神社】2月12日(51)【下鴨神社】2月13日(52)国の指定する特別名勝庭園京都府に【14】箇所有る内、(8)箇所が世界文化遺産に登録されています。てはあと(6)箇所は、次の通りです。【金地院庭園】【大徳寺方丈庭園】【大仙院書院庭園】【法金剛院青女滝五位山】【浄瑠璃寺庭園】【天橋立】何れもこじんまりした庭園ですが夫々趣が深いです。次回は奈良が遷都1300年で「遷都君」頑張って、賑わっています、それに先駈け平安京の誕生について、お話ししてみたいです。
2010.02.14
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【下鴨神社・賀茂別御祖神社】(かもわけみおやじんじゃ)世界文化遺産に登録【東本殿】【国宝】祭神【玉依姫命】(たまよりひめのみこと)娘【西本殿】【国宝】祭神【賀茂建角身命】(かもたけつのみのみこと)玉依姫の父 京都の街を高台から眺めますと、京都御苑と賀茂川と高野川とがY字型に挟まれたところにこんもりした森が目立ちます。【糺の森】(ただすのもり)と称して、参道がとても自然界の様に親しまれます。隣接地に「家庭裁判所」があります。神様の時代でも「糺された事」があったのでしょうか?今一つ川の「三角州」の事を「只洲」とも言うそうです。 お判りの様に、上賀茂と下鴨は(かも)の字を変えています。上賀茂の祭神は、「天神の子」として、雷即ち農耕の神様の様で、「賀茂別雷命」そして下鴨神社の祭神は、母上「玉依姫命」と「祖父の賀茂建角身命」とで「別御祖命」と言われています。 5月15日の葵祭りには、京都御苑から下鴨神社経由、上賀茂神社へと行列が、その年の未婚の【斎宮】が選ばれ、のどかに牛車の輿に乗られて進まれます。【葵の葉】が象徴しています、雨乞いの祭りでもあり、何れ梅雨季を迎えることに成ります。【玉依姫丹塗りの矢】の伝承玉依姫が「瀬見の小川」で川遊びされていたときに、「丹塗りの矢」(にぬりのや)が川上から流れてきました。貴重な品として、持ち帰られ、床に就かれるとき、床の側に置かれたそうです。その後、孕(はら)まれて立派な「男の子」を産まれました。マリアさま様に男知らずに神様の子が授かったとされます。ちなみにイエスさまの養父ヨゼフさまなら、松尾大社の祭神である「大山咋」(おおやまぐい)が養父と言うことのようです。【賀茂建角身命】玉依姫の父にあたります。農耕を広め民生の安定に努められました。「五穀豊穣」「古事記」「日本書紀」には、「金鵄八咫烏」(きんしやたのからす)として神武天皇に使え、御功績が多く「導きの神」とも崇められ、厄除け・学問・旅行・方除け祈願に訪れる参詣者も多いです。私たちタクシーの乗務員の為にも、交通安全を祈願したいです。【加茂族】山背(山城)の古代氏族で、朝鮮からの渡来人とされています。賀茂と地名にも成りました。太秦の「秦族」も渡来人の一族です。京都の丹後は、日本海に面し朝鮮に近く、琵琶湖又は、山越えで、京都に移り住んだとも考えられます。とても博学多識、努力家で「治山・治水・農耕・絹織物」等、現在の京都の有り方に貢献されたものと、改めて敬意を表したいです。 遂に、世界文化遺産17箇所巡ってきました。1箇所でも大騒ぎでしょうに、如何でしたでしょうか? 次回からは、「お庭の美しい所」と良く聞かれます。「特別名勝」(国宝級)を順次訪れてみたいと思います。
2010.02.13
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【賀茂川】 京都バス終点「岩屋橋」から更に山道を遠く辿りますと、【金光峰寺・志明院】(雲が畑)修験道の修練場で「岩不動尊」が祀られて居ます。岩から染み出る、一滴の水が源流となり、「賀茂川」が人々の心の憩いを与える景観を観られます。この時季には、「ユリカモメ」が渡り鳥として、遠くシベリアから飛来し、賀茂川で群れ遊んでいます。とても人懐きで、平和を感じます。夜になると、比叡の山を群れで超え琵琶湖にて、憩うそうです。京都の街で、最も景勝を楽しめる通りでもあり、「大文字」も見られ、タクシーで走るときも、出来るだけ、賀茂街道を通るように心掛けました。間もなく訪れる春には、「桜並木」で誰しも感動されます。 その賀茂川の上流に、「上賀茂神社」がそして下流に「下鴨神社」が鎮座まします。「加茂族」と言う先祖が築いた北方の、静かな住宅街でも有ります。 大原を源流とする、高野川と合流する地点を「出町」と称し「今出川橋」から下流を「鴨川」と字が変わります。何れ淀川にそして大阪湾に至ります。【上賀茂神社・賀茂別雷神社】(かもわけいかづち)世界文化遺産に登録祭神(賀茂別雷神)下鴨神社に祀る「玉依姫」の御子【本殿・権殿】【国宝】本殿の前には、「山城一の宮神社」と表示してありました。【御神徳】欽明(きんめい)天皇の時、雨は降らず作物実らず大飢饉でありました。天皇が勅して占われたそうで、人心が大変乱れているその祟りと言うことで、本殿でお詫びの祭祀行なわれたところ、「護国豊穣・天下泰平」となったと日本書紀に記されているそうです。「雷の神」の由縁でしょう。【葵祭り】この「欽明天皇」の起源により、毎年5月15日【京都三大祭り】として、全国から大勢の方が、観に来られます。【行事】【競馬】(くらべうま)【烏相撲】【八咫烏】(やたのからす)神武天皇が東征の時「加茂建角身命」(かもたけつぬみのみこと)が先導した際に、天皇の弓の先に止まったとされています。当時の「加茂族」を「烏族」ともいわれています。【百人一首】風そよぐ楢(なら)の小川の夕暮れは 禊ぎ(みそぎ)ぞ 夏のしるしなりけり 藤原家隆【社家】(しゃけ)神社の表通りに、小川が流れその小川に一軒ごとに橋が架かって母屋に入ります、神主さん・神道の方の屋敷が並んでいます。京都の風物詩とも観られます。 次回は「下鴨神社」に参ります。
2010.02.12
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【比叡山延暦寺2】 昨日、ご紹介しました【根本中堂】が主たる本堂で、山岳仏教に相応しい落ち着きと豪華さと聖地としての歴史を感じ取る事が出来ます。【世界宗教サミット】が開催されるに相応しい雰囲気を持っています。根本中堂の本尊が、薬師如来でした。不思議なことに、その夜「BS7ジャパン」「寧々おんな太閤記」で織田信長比叡山焼き討ちの場面の放映がありました。 同じ「東搭」ですが、「講堂」より西の方に、【阿弥陀堂】が有ります。現代風の建物でとてもカラフルに感じます。阿弥陀如来が本尊です。参拝目的では訪問しますが、観光では、お供した事は有りません。寧ろ「西塔「横川」に時間の赦す方には、ご案内致します。【西塔】 「東塔」から奥比叡ドライブウエイで自動車から降りて、暫く歩を進めますと、【常行堂】(じょうぎょうどう)と【法華堂】(ほっけどう)とが廊下で結ばれています。弁慶が両堂を担ったという伝説から「弁慶のにない堂」と称されています。この両堂で、修行僧が、「朝題目」そして「夕念仏」日毎に唱えておられます。【常行三昧】(じょうぎょうざんまい)慈覚大師円仁が五台山から伝えた修行法で90日間堂内を阿弥陀仏の名を唱えながら回る行といわれています。【転法輪堂】(てんぽうりんどう)【釈迦堂】三井寺の「金堂」を移築された建物で、山内で最も古いものとされています。【横川】(よかわ)【横川中堂】慈覚大師円仁の開創 本尊 観音菩薩「横川」の主たるたてものです。【恵心堂】(えしんどう)恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)が念仏三昧にすごした所です。【元三大師堂】(がんざんだいし)慈恵大師とも言われその住坊跡です。正月三日に亡くなられたので、「元三大師」とも言われ、【おみくじの元祖】とされています。「横川中堂」からの道中に、西国三十三ヶ所観音霊場が第1番から順次観音像を辿っていきますと、「元三大師堂」に至ります。殆ど人気がなく、静かな雰囲気で回れます。【四明ケ嶽】(しめいがたけ)839m比叡山の頂上に、遊園地と360度回転展望台があります。遊園地の各所に、「モネの陶画」が飾られ、池には、モチーフの蓮が咲いている時があります。回転台からは、坐ったまま、京都市街・鞍馬・大原・琵琶湖大橋・沖ノ島・大津・瀬田大橋が順次眺められます。 「将門岩」(まさかどいわ)・「純友岩」(すみともいわ)が頂上近くに存在します。935年藤原時平(左大臣)・菅原道真(右大臣)の頃、平の将門と、海賊の首領藤原純友とが、この岩の上に立ち、広大な絶景を見渡していた将門が純友に「お前は西日本を取れ、わしは東日本を取る。同時に事を起こして、再び此処で会おう」と約束したが、反乱は鎮められ再会は適わなかったという、言い伝えが有ります。岩だけが未だに遺っています。 「比叡山」は、東山三十六峰の最も北に有ります。 次回は、最終上賀茂神社及び下鴨神社にお参りしましょう。
2010.02.11
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【比叡山延暦寺1】天台宗本山 開基 最澄(伝教大師) 世界文化遺産に登録【東搭】【西塔】【横川】(よかわ)の諸堂を総称して延暦寺と称しています。 平安京の王城鎮護の役も務める。都の丑寅(北東)鬼門の位置にあります。 今から1200前延暦4年(785) 伝教大師最長が、19歳の時に山上に草庵を結ばれ、山川草木一切のものに、「仏性」が宿ると感得され日本仏教の母山と称せられる様になりました。 伝教大師の教えで、現在でも地元の子供さんたちの書初めにも登場しています。【亡己利他】(もうこりた)己の欲を無くし、人の利になるよう、常に心掛けること。【一隅を照らす。これ国の宝なり】その人の存在により、その周囲を明るく照らす。されば世の中は、平和であり、国の宝となるでしょう。今の政治家のリーダーに聞かせたいです。【東塔】【大講堂】僧侶の学問所で、本尊 大日如来 脇侍 弥勒菩薩・観音菩薩高野山を本山とする、弘法大師を始祖として、「真言宗」が「派」として分かれていますが、延暦寺を本山とする、伝教大師を始祖とするも、経典の解釈に従って、山で修行の結果、各宗教の始祖として、分かれて生きました。空也・法然・親鸞・栄西・道元・日蓮・一遍 等その扁額が堂内飾られています。他には、桓武天皇・中国天台大師・聖徳太子・伝教大師・十大弟子【開運の鐘楼】自由にお願い事して撞けます。合掌されて余韻の音を聞かれると聖地で何ともいえない神々しさを感じます。【根本中堂】【国宝】【延暦寺の総本堂】三代将軍徳川家光が再建1.本尊【薬師如来像】は、伝教大師最澄が刻まれた2.本尊の前に1200年間灯し続けられています【不滅の法灯】が輝いています。織田信長の焼き討ちに会いましたが、山形県立石寺(りっしゃくじ)の分灯により、受け継がれています。ここから【油断】という言葉が生まれました。3.須弥壇のある【内陣】が【参拝者】の坐る中陣・外陣より低い谷底の様な場所にあり、仏像や法灯が参拝者の目の高さに来ているのは、「仏も人も一つ」と言う仏教の【仏凡一如】(ぶつもんいちにょ)の思想を表現している意で、僧侶は低い内陣から祈祷されています。即ち天台宗の仏殿様式は、僧の謙虚さを表しているとも思われます。4.中陣は、挌天井形式で、板には、百花の図柄が掲げてあり、家光により、各大名が献花したもようです。5.太い檜の柱は、一本の木の芯を避け、4分の1の柱で、原木の太さが想像されます。 世界平和を願って、世界の異なった宗教家が、此処延暦寺で【宗教サミット】が、行なわれています。過って、【ローマ法王】が先人最澄の言葉を引用されての評価がありました。 次回は西塔・横川に参りましょう。
2010.02.10
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【平等院】宗派は単立(天台宗と浄土宗) 開基 明尊 琵琶湖「瀬田」から流れてきました「宇治川左岸」に昨日の「宇治上神社」と対峙して存在しています。 初代仏師【定朝】(じょうちょう)作の【国宝】【阿弥陀如来像】が実に落ち着いて素晴しい一語につきます。付随した【天蓋】【雲中供養菩薩】そして【壁画】も【国宝】で、「藤原頼道」が1000年前に末法思想が取り沙汰された時代で、生前中でも「極楽浄土」を再現しょうと考え、(金閣庭園を足利義満も同じ)貴族と僧侶によって、建てられました。 阿弥陀さんの座します【鳳凰堂】(ほうおうどう)もそして屋根の両端に飾られる【鳳凰】一対も【国宝】です。お堂の前に池があり鳳凰堂を池越しに眺めますと、池にも反射してとても美しい情景が観られます。「十円硬貨のデザイン」ともなっています。 頼道の思い遣りが、「阿弥陀さん」の顔の前面に、「丸窓」が見えます。「極楽浄土」を庶民にも一部垣間見ることが出来る様に、阿弥陀さんのお顔が見えるように存在していす。 【日本三名鐘】「形の平等院」【国宝】 「音色の滋賀・三井寺」 「銘の高雄・神護寺」【鳳翔館】(宝物館)では、名鍾・雲中供養菩薩像・壁画・鳳凰【国宝】その他が展示されています。【藤棚】藤の花が咲く頃は、とても美しいです。【阿弥陀さんの九印相】阿弥陀如来は、西国極楽浄土を支配されてると言う事で、鳳凰堂の壁画も、【御来迎の図】が画かれ、九壁画に分かれているそうです。平等院の阿弥陀如来像は、【上品上生印相】(じょうぼんじょうしょうのいんそう)で最高位。阿弥陀さんの手の指が、「親指」と「人指し指」「中指」「薬指」と円く交わる事で夫々、「上品」「中品」「下品」と称し、阿弥陀さんの両手の位置が「膝の前で結ぶ」「両手を開いてお説教するように、上に揚る」「右手を揚げて、左手は手の平を開けて膝の上に」(施無畏・与顔) (せむいよがん)「上生」「中生」「下生」(げしょう)と称します。この組み合わせで、九印相の阿弥陀像が表されます。極楽浄土へのランク付けでしょうか。「上品上生」「上品中生」「上品下生」「中品上生」「中品中生」「中品下生」「下品上生」「下品中生」「下品下生」上品上生は、極楽浄土の最高位、下品下生はやっと極楽浄土にぶら下がった位置でしょか。 太秦の広隆寺には、「中品中生」の阿弥陀像が見掛けられますが、殆どは、「上品」クラスのようです。御家庭でのご仏壇では、「上品下生」(じょうぼんげしょう)(施無畏与顔)の阿弥陀さんが多いです。 次回は、比叡山に参りましょうか、いよいよ大詰めですね。
2010.02.09
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【宇治上神社】(うじかみじんじゃ)日本最古の神社形式(平安鎌倉時代)世界文化遺産に登録 京都に世界文化遺産に登録17箇所もあと五ヵ所となりました。京阪電車宇治駅を宇治川に沿って、上流へ直ぐの所に、「宇治神社」が有ります。近代的でまさかと思いきや、更に通り過ぎて、少し坂を登った所に【宇治上神社】が有りました。世界文化遺産と言うことで、訪問しても、実にこじんまりとして、古さだけが目に映ります。でも歴史的には貴重な建物【本殿】【拝殿】共に【国宝】に指定されています。 祭神が【応仁天皇・仁徳天皇】そして【菟道稚郎子皇子】(うじのわきいらっこ) (応仁天皇の皇子で仁徳天皇の弟)宇治の地名の基とも言われています。父応仁天皇の寵愛を受けていましたが、兄との皇位継承を譲り合い、自殺してまでして、兄仁徳天皇を立てたと言われています。 ここでの見所は、【日本三蟇股】(かえるまた)【宇治上神社本殿】【上醍醐・薬師寺】(2月5日上醍醐ブログに記述)【奥羽中尊寺金色堂】1月5日14号【龍安寺】で由来を記していますが、「ブログのカレンダー」の日付をクリックされると、表示されると存じます。 日光東照宮の左甚五郎作の有名な【眠り猫】も、蟇股の中で眠っています。裏には鼠が居るとか、要は、木製の建物は、火災から魔除けのために、水に関係する、蟇を飾ったと全国的に採用されています。 もう一つは、【桐原水】(きりはらすい)と言って、「宇治の七名水」の一つとして、未だに、清水が、湧き出ています。【源氏物語】にも関係するようです。 次回は。宇治の平等院に参りましょう。最高の阿弥陀如来さんがお待ちです。
2010.02.08
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【醍醐寺2】 昨日の京都も雪が降り、「金閣寺」「清水寺」の雪化粧は素晴しい者でした。【下醍醐】豊臣秀吉が【醍醐の花見】として63歳1598年(慶長3年)3月15日北政所ねね・淀君・秀頼同席で秀吉の生涯をしめくくるに相応しい豪華絢爛な宴を催しました。そして其の年の慶長3年8月18日伏見城で逝去、秋には紅葉狩りを考えていた醍醐三宝院の庭園も完成を観ずして終わりました。【伏見城跡】は、現在「明治天皇の御陵敷地内」で一般には見られません。「桃山城」は現代的に民間が建てたものです。【五重の搭】【国宝】京都府内で最も古く、「応仁の乱」から免れました。【金堂】【国宝】本尊薬師如来・日光菩薩・月光菩薩鎌倉時代の仏像で何れも【国宝】です。【御影堂】大師堂とも呼ばれ「弘法大師」並びに「開山理源大師」の木像を安置されています【宝聚院】醍醐寺の霊宝舘で、国宝・重要文化財の展示物が多数観られます。【醍醐三宝院】【庭園】は【特別名勝・国宝級】1勅使門 表門の側にあります。門を四面に分けますと、桐・菊・菊・桐の紋が刻まれています。桐は「五七の桐の紋」で秀吉の紋です。菊は「皇室の紋」で、勅使の一行が訪問するときには、真ん中の桐の紋は、観音開きで隠れます。勅使を歓迎した意図の様ですが、閉めれば、桐が中央に構えた形になり、豊臣を謳歌したように工夫されています。2.表書院【国宝】揚舞台之間・孔雀蘇鉄の間。畳を揚げると「能舞台」になります。中段の間・上段の間は柳の四季を表し、床の間は松が画かれ、各部屋に段差があり、能の鑑賞が出来る様になっています。3.加茂の三石。川の流れに沿った縞模様が見掛けられます。激流または、緩やかな流れと変化した表現がなされています。4.【藤戸石】(ふじといし)庭園の中心的存在で、【玉座】からも「真正面」に観られます。「三尊石」の形式を採り、【天下人石】十五代足利義昭・織田信長・豊臣秀吉と天下人が、引き継いで、自分の物にしたと言う名石となります。ふじとを「不死人石」に掛けて願ったのでしょう。5.庭園に「橋」が三種類あります。「石橋」「木橋」「土橋」と変化を表現しています。6.庭園全体が変化に富み、左方片隅から、瀧の水の流れと静かな雰囲気の音も聞えます。そして「鶴島」「亀島」が松の木を背負って飾っています。7.護摩堂。本尊「弥勒菩薩」(快慶作)「弘法大師」「理源大師」が祀られて居ます。前庭には、「苔」で瓢箪と杯(さかずき)とを現しています。藤吉郎時代、ねねの進言で、「功績」を成すにも誰も喜んでくれずだだをこねる主人に、瓢箪を飾ることを始めたとか、「千成瓢箪」8.【奥宸殿・玉座】正面に「藤戸石」が眺められます。【日本三棚】「醍醐棚」「修学院離宮棚」「桂離宮棚」見所豊富で、桜の咲くころは、訪れる人で満杯となります。京都観光も此処まで訪問できれば最高と思います。次回は宇治へ参りましょう。世界文化遺産もあと5箇所と成りました。
2010.02.07
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【醍醐寺1】真言宗醍醐派総本山 開基 聖宝(しょうほう)後に理源大師世界文化遺産登録真言宗の世界文化遺産が東寺・高山寺・仁和寺そして醍醐寺と四箇所続きました。目立たない観光地ですが、文化遺産には、高度の要素を備えている事が、窺い知れます。醍醐寺は、京都盆地の東山を東に越えて、山科の盆地にあります。 上醍醐と下醍醐に分かれ、上醍醐は、西国三十三ヶ所観音霊場十一番にあり、最も訪れるのに、難所とされています。正面から3.5km往復3時間を要し山道は、険しく、100mごとに石標が一丁目・二丁目・・・と立てられ、息を弾ませて、希望の目安を確かめつつ登り詰めます。要領を知っている者は、宇治の笠取(京都国際カントリークラブへの途中)からですと、山道1kmで同じ目的地に達します。但しタクシー代は高いです。勤務中醍醐寺の表参道の入り口で、昼食の弁当を食していましたら、山形県最上の方が、自家用で来られ、足の悪いおば様が居られるので、誘導して欲しいと頼まれ、自家用の先導で、山道もご一緒して目的地に、ご案内しました。とても表からは無理と思われたのでしょう。その達成感の歓喜を未だに、年賀状が絶えず、懐かしい想い出を残されたのでしょう。 僧侶も同じで、上醍醐【清滝宮拝殿】(せいりゅうぐう)【国宝】の側にある【醍醐水】【あかいの水】について、理源大師が真言布教の霊地を求めてこの地に来られたとき、白髪の老翁が現れ、落ち葉の下に湧き出る泉の水を飲まれ「ああ醍醐味なるかな」と嘆賞されました。大師は、この吉兆に驚喜して寺名も「醍醐寺」とされたとか。苦しみながらも、山道を登り詰めての霊水は、美味なもののようです。【准胝堂】(じゅんていどう)観音霊場。昨年落雷により、全焼、再建まで、下醍醐【女人堂】で納経の扱いをされているようです。消防自動車が行かれず、すべもなく「聖宝」(しょうほう)も嘆いておられることでしょう。【薬師堂】【国宝】くりぬき式の蟇股 【日本三蟇股】宇治上神社本殿・平泉中尊寺金色堂【五大堂】本尊「五大明王」【五大力さん】大きい鏡餅を持ち上げる競技ですが、現在は、下醍醐で行なわれています。年中行事の盛んな一つです。【如意輪堂】豊臣秀頼が建立しました。【開山堂】理源大師聖宝の像が安置されています。一般には、目的が無ければ、山岳の聖地を訪れるのは、至難な事のようです。次回は、下醍醐・醍醐三宝院の庭園にご一諸しましょう。
2010.02.06
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【仏像のセット形式】 ゼスチアーで、【仏】を無言で表現するには、「右手」を上にかざし、「左手」は膝前に、手の平を開けた姿で、直ぐ解かりますね。奈良の大仏さんを想像して見て下さい。昨日ご紹介した「故西村公朝和尚さん」の著書「祈りの造形」他は、初めて仏像に接するに優しく判り易く書かれています。其の中に書かれています 【施無畏・与願】(せむい・よがん)の形と称し、「右手」をかざして居られるのは、「不安・悩み等の畏れを取り除く、恵みを施しましょうとの仏の意向と考えられ、一方「左手」は、お願いすれば、望む事柄を与えましょうの意向の姿と考えられます。人間自由意志があり、「求めよさらば開かれん」とも言われ、自ら仏にお願いの意志即ち寺社への参拝は、その現れにあるようです。 奈良の法隆寺の金堂に【三世三仏】の思想が有ります。南正面に本尊の釈迦如来三尊 遣送の如来(けんそう) 【現在】釈迦尼仏東に薬師如来三尊 遣送の如来(けんそう) 【過去】薬師瑠璃光仏西に阿弥陀如来三尊 来迎の如来(らいごう) 【未来】阿弥陀仏人は、太陽の出る東方浄瑠璃世界から送り出され、現在世界は釈迦の教えに基づき、その結果、太陽の沈む、西方極楽浄土に迎えられる三世の思想の表現とされているようです。【脇侍の教え】(きょうじのおしえ)釈迦三尊の場合【智恵の文殊】(左)【慈悲の普賢】(右)阿弥陀三尊 【慈悲の観音】(左)【智恵と意志の勢至】(右)薬師三尊 【暖かい光の日光】(左)【冷たい冷静な智恵の月光】【釈迦如来の眷属】文殊菩薩・普賢菩薩 十大弟子 【涅槃図】(ねはんず)【阿弥陀如来の眷属】観音菩薩・勢至菩薩 二十五菩薩 【御来迎の図】(ごらいごうのず)【薬師如来の眷属】日光菩薩・月光菩薩(がっこう) 十二神将【観音菩薩の眷属】二十八部衆 東京博物館で一大人気になった【阿修羅像】(奈良・興福寺所蔵)も含まれます。既に、ご招介しました【清水寺】そして何れ記します、【三十三間堂】で観られます。次回は、「真言宗」の「醍醐寺」豊臣秀吉の花見の行列で有名です。ご案内したいです。
2010.02.05
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【仏像の種類】 京都・奈良の観光も、景勝地・史跡を訪ねることも多くありますが、寺院が多く、従って【仏像の豆知識】は知って置かれると、観光の興味が倍加することでしょう。仏像は、経典により考え出されたもので、釈尊入滅後後200~300年後造りだされました。種類分けも、悟りの高い仏様から順次表現されています。判り易い様に、会社組織で表してみました。【如来】(会長) 大日如来(真言密教の根本仏) 毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)奈良東大寺の大仏、唐招提寺の本尊【如来】(社長) 薬師・釈迦・阿弥陀・弥勒(唐招提寺)阿しゅく・宝生(ほうしょう) 不空成就(ふくうじょうじゅ)(東寺密教)他【菩薩】(専務・常務) 日光・月光 文殊・普賢 観音・勢至 弥勒・虚空蔵・地蔵 金剛宝・金剛薩睡(こんごうさった)・金剛業・金剛宝(東寺密教)他 【六観音】 聖(しょう)観音・十一面・千手・准提(じゅんてい)・馬頭(ばとう) 如意輪(にょいりん) 天台宗以外 不空羂索(ふくうけんじゃく)【明王】(部長) 不動・愛染・孔雀・降三世(ごうさんぜ)・軍荼利(ぐんだり) 大威徳(だいいとく)・金剛夜叉(こんごうやしゃ)他【天部】(課長) 梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)金剛力士(仁王)・風神・雷神 四天王(持国・増長・広目・多門)・十二神将・二十八部衆(観音を護る) 吉祥天(毘沙門天と夫婦)・弁才天(梵天と夫婦)・聖天・鬼母神(きしもじん) 技芸天(奈良秋篠寺)大黒天・韋駄天・毘沙門天・執金剛神(三月堂)他【羅漢】(らかん)(係長) 釈迦の十大弟子・十六羅漢・五百羅漢・維摩居士(ゆいまこじ)・無着・世親 空也・聖徳太子・弘法大師・伝教大師・法然上人・親鸞上人・日蓮上人 達磨大師・祖師・高僧他【人間】(平社員) 京都・奈良観光では、まだまだありますが、この程度に分類してみますと、充分です。如来像は、悟切っておられるので、着衣も簡素な衣程度で、悟の浅い菩薩・以下は、着衣は着飾っています。 今は亡き、嵯峨野の羅漢さんの寺で有名な愛宕寺(おたぎじ)の西村公朝和尚様は、仏師でもあり、NHK等の解説で、この様に判り易く教えて下さいました。 次回は、仏像のセットについて、記してみたいです。
2010.02.03
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【東寺・講堂に書かれた十界】【四聖】 【仏界】 自分の中に仏がある。手を合わせて生き甲斐を感じる。 【菩薩】 仏像の菩薩でなく、自分の心の中にある菩薩を悩み苦しんでに
2010.02.03
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【東寺】【教王護国寺】東寺真言宗 開基空海(弘法大師) 世界文化遺産登録 その土地で、1個の【国宝】が有れば、有名になり、誇りを持ちます。此処東寺だけで、建物・仏像・曼荼羅(まんだら)の絵画・書等50点余有り、何だか麻痺しそうで、有り難味が薄れる感じです。京都には、恵まれ過ぎかも知れません。中でも【東寺の五重の搭】【国宝】は、新幹線等で、「京都駅」に降りられたとき、京都の街の「南西」に京都のシンボルとしても建っています。高さ57mは「日本一高い塔」といわれています。三代将軍徳川家光が再建しました。お坊さんに教えてもらったので、解かったのですが、塔の下層の軒四方に、「邪鬼」が軒を支えるように、踏ん張っていました。よく仏像で、「邪鬼」を踏みつけているように見られますが、実は仏を支えていると言う風にも採れる事が教えられました。訪問されたら是非よく見てやってください。修学旅行生が、「おじさん、ジャッキーの役目しているのですね。」とジョウクを飛ばしていました。 「平安京」が誕生した頃は、東寺の西に【羅城門】(らじょうもん)があり、都の中心【大内裏】(だいたいり)から「朱雀大路」の南端にありました、そして更に、「羅城門」を挟んで、西に「西寺」がありました。今は広い公園に、「西寺跡地」として石碑が建っています。だから京都の中心は、京都駅前の「烏丸通り」(からすまとおり)延長に京都御苑があります。ではなく東に移動しているようです。 【金堂】建物が【国宝】です。豊臣秀頼により落慶しました。堂内に入りますとわが国最大の薬師如来のセットが祀られて居ます。真ん中に【薬師如来像】そして仏側から見て「左」に【日光菩薩】(にっこう)「右」に【月光菩薩】(がっこう)そして薬師如来の周りに【十二神将】が観られます。「左の日光菩薩が上位」 【講堂】建物は(重要文化財) 学僧の学問所で立体曼荼羅(密教浄土の世界)を学ばれる場所でもあります。現在学校の講堂は、ここから名が生まれたのでしょう。仏像が21体の内国宝が15体有り、実に壮観です。中央に【大日如来】を中心に【如来群】がそして、仏から見て「左」に【菩薩群】そして「右」に【明王群】が祀られて居ます。「菩薩が上位は確たるものです。【四天王】四隅に夫々、「邪鬼」が踏ん張っています。これも修学旅行生に覚え方を教えてくれました。「持国天」「増長天」「広目天」「多聞天」じ・ぞう・こう・た(お地蔵さんを買った)と覚えおじさんの好きな麻雀の「とん・なん・しゃ・ぺ」東南西北に当てはめればよい。と 夫々の担当守護方面に成ります。【明王】は、大日如来の化身と言われ、怖い形相は、世の中で、幾ら仏法を説いても頑固で聞き分けの無い衆生も居るので、そういう者を強化するためとも言われています。【梵天】(ぼんてん)(宇宙を司る)ガルダ鳥に跨り【帝釈天】(たいしゃくてん)(太陽を司る)象に乗っています【大師堂】(だいしどう)建物【国宝】弘法大師の宿坊。「不動明王秘仏」が祀られ、弘法大師の命日に当たる21日に毎月「弘法さん」として庶民に親しまれ、市が立ち縁日として大勢の人で賑わっています。 京都並びに奈良の観光で、仏像のことを知って置かれると、とても観光の興味が倍化します。次回少し,ご紹介したいです。「東寺」その意味で貴重な文化を知る機会と存じます。
2010.02.01
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【仁和寺】真言宗御室派総本山 開基 宇多法皇 世界文化遺産に登録 高山寺に続いて、「真言宗」の世界文化遺産をご紹介します。当初訪問しました、「龍安寺」の隣接した場所に有ります。従って宇多法皇が「夏でも雪景色を見たい」「衣笠山」も近くに望めます。正門には「仁王さん」が逞しく「阿吽」(あうん)の形相で睨んでおられます。仁王門から、正面に大内山を背景に国宝【金堂】が佇み、京都御所から移された、「紫宸殿」で「現存する最古の建物」とされています。 仁和寺は、888年(仁和4年)年号と同じは、比叡山の「延暦寺」も同様です。この辺りでは、タイムカプセルのように、いにしえの御所の雰囲気で満ちています。本尊は阿弥陀如来そして、「脇侍」(きょうじ)には、観音菩薩・勢至菩薩が祀られて居ます。同じ阿弥陀三尊も、「霊宝館」には、国宝の【阿弥陀三尊】の仏像が有り、常時拝観出来るようです。 手前には、「五重の搭」があり、春の遅咲きで有名な、御室の桜園が有ります。 見所は、仁王門を入って左手に【仁和寺御殿】があり、二条城二の丸御殿と同じく、ボタンを各部屋で押すと、説明が聴けます。1.【本坊表玄関】玄関前の庭には、大きい這い松がみごとです。 中に入ると「御室流の生け花」が見事です。側に孔雀明王の掛け軸が掛けられ、香のかおりが落ち着きを覚えます。2.【白書院】四季の襖絵が画かれ、廊下から白砂の向かいに「勅使門」「仁王門」を眺めると雄大さを感じとられます。3.【宸殿】前には、「左近の桜」「右近の橘」が備わっています。4.【宸殿の北側】に廻りますと、五重の搭が借景で心和む庭園の池にめぐり合えます。庭園要素「天龍寺の曹源池」と同じく、瀧は水が流れ、「鶴島」「亀島」そして「石橋」が整っていました。部屋の襖絵は、大和絵・春の桜・夏の加茂の祭り・秋の嵐山の「三船祭りの絵」冬の交野(かたの)(大阪)鷹狩りが夫々画かれた部屋があります。5.【上段の間】宇多法皇の居室で、最も要と成るお部屋です。此処からの庭園の眺めは最高です。天井には貴賓の方が居られる「格天井」(ごうてんじょう)で、螺鈿(らでん)細工の床。違い棚付書院が有ります。部屋ごとに、段差が高く成って行きます。6.【霊明殿】近衛文麿公の額・秘仏薬師如来が祀られ、此処からの高台からの眺めも素晴しいです。庭園そして宸殿の大きい屋根は見事です。7.【黒書院】堂本印象の襖絵。「リス」等動物の存在が可愛いです。表玄関に帰ります。次回は、同じ真言宗【東寺】について、記したいと存じます。【国宝の宝庫】でもあります。
2010.02.01
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