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【千本えんま堂】【引接寺】(いんじょうじ)高野山真言宗 開基定覚律師 山号 光明山 「千本釈迦堂」より、千本通りを北上したところに「えんま堂」が有ります。此の一帯から【蓮台野】といわれ、昔は、京都の三葬地として、清水の【鳥辺野】(とりべの)嵯峨野【化野】(あだしの)が有ります。 閻魔さんは、あの世への裁判役で、怖い顔をして居られますが、とても人間の味方で、この世での悪業を為さない様に、敢えて怖い顔をされ、地獄とは「火炎に包まれた図」とか「舌を抜かれるような図」等で、戒めておられます。一説では「地蔵菩薩の変身」とも言われています。此処が冥土に近いという事で、建てられたそうです。 本尊。閻魔法王像は仏師「定勢」作で、脇侍に「司命」「司録」が書記役として控えているようです。方や一生の記録の「閻魔帳と筆」を持っています。何だかユーモラスにも思われる親しさすら感じました。 開基 「定覚律師」が、念仏狂言を始められた事で、【えんま堂狂言】と称します。京都三大狂言の一つでここだけ「セリフ」が伴います。【壬生狂言】【嵯峨大念仏狂言】が有名です。【鐘楼】お精霊「迎え鐘」であり「送り鐘」ともなります。南北朝の時代の銘が刻まれているそうです。【紫式部の供養塔】十重の石塔が建てられています。南北朝の最後の天皇「後小松天皇」のご意向で建てられたとのことです。【紫式部の墓】は堀川北大路下がる西側に「小野篁」と共に眠っています。邸宅跡は【盧山寺】です。【普賢桜】八重桜で、春の遅咲きで、目を和ませてくれます。お盆の行事では、参拝に訪れる人で賑わいます。「えんま堂」の後方に「お地蔵さんの像」が多く建てられています。「小野篁」(おののたかむら)も一役かっているようです。黄泉の世界と行き交い、「えんまさん」とも会って来られた仲とも思われます。伝説は京都の各地で言い伝えられています。
2010.03.31
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昨夕5時ごろ、京都にも今時、雪が降り続き、【清水寺】の桧皮葺の屋根そして大文字も薄化粧しました。【大報恩寺2】 本堂【国宝】もどっしり歴史を感じさせますが、本堂の東奥に【おかめさん】の陳列棚にも古くからの人形が多く飾られています。軒下には、「おかめ伝説」の絵図による解説の額か、順次掲げて有ります。本堂・本尊は、釈迦如来像(重要文化財)は、大仏師「快慶」の高弟「行快」の作。(秘仏)です。【宝物館】とても見所の多い仏像の宝庫ともいえます。【六観音】(定慶作)仏像の彫の鮮明さ、お顔の表情、誰しも時を掛けてじっくり観たい感じにさせます。6種類の観音像が一同に揃って、展示されていることは、とても珍しいです。1.聖観音菩薩像(しょう) 地獄道を担当されます。2.千手観音菩薩像(せんじゅ) 餓鬼道3.十一面観音菩薩像 畜生道4.馬頭観音菩薩像(ばとう) 修羅道5.准胝観音菩薩像(じゅんてい) 人間道6.如意輪観音菩薩像(にょいりん)天 道「六地蔵」は善悪の定まらない幼子の担当「六観音」は善悪をわきまえて、為してきた功罪、大人の担当【十大弟子】快慶作1.舎利弗(しゃりほつ)「智恵第一」一を聞いて十を知る、天才肌の一番弟子。2.目連(もくれん)「神通第一」舎利弗とは竹馬の友。地獄で苦しむ母を救った、超能力者。3.大迦葉(だいかしょう)「頭陀第一」(ずだ)(足ることを知るの意)お釈迦さんの死後、弟子たちを率いた大長老は、師にもらった衣をボロボロになるまで着ていたという清貧の人。4.須菩提(しゅぼだい)「解空第一」(色即是空・空即是色)この難しい「空」を最もよく理解した。優しい子供の姿。【空】とは「宇宙」「大自然」の意。5.富楼那(ふるな)「説法第一」海洋貿易の商人あがり、聞く人みなを楽しくさせる。庶民相手の布教に、説法上手な朗らかな人。6.迦旃延(かせんねん)「論議第一」深遠な理想をわかりやすく教えた超説明上手な伝達の達人国王・貴族・インテリ相手。7.阿那律(あなりつ)「天眼第一」お釈迦さんの従弟だったこの人、説法中に居眠りしたことを恥じて以後眠らず、ついに失明した。天眼とは(智恵の眼)8.優波離(うばり)「持律第一」阿那律の従者だったが、主人より先に出家してしまいました。もと理髪師の愛嬌者。苦労の中戒律をよく守る。9.羅喉羅(らごら)「蜜行第一」顔は不細工でも心は釈迦。お釈迦さんの一人息子で、荒行に励んで父さんに対するコンプレックスを克服した。あまり頭は良くなかったが、身体を使って、悟りを得ようとした。10.阿何(あなん)「多聞第一」ずっとお釈迦さんの秘書役だったこの人は、ハンサムで女性たちに人気が有った。【釈迦三尊】脇侍に【文殊・普賢】若しくは【阿何(若者)・迦葉(長老)】も良く観られます。 読みづらかったでしょうが、釈迦の十大弟子像は、各地に祀られて居ますので、少しでも意義を知って置かれると、お出会いした時に興味を持たれると存じます。例えば、既に記しました。【嵯峨釈迦堂】もそうですし、宇治の【万福寺】では、羅喉羅の胸に、【釈迦の顔】が観られます。奈良の【興福寺】ご訪問時ご参考までに。菅原道真公の梅の木で彫られた「千手観音像」も展示されています。仏像に興味をぼちぼち持たれることで、奈良遷都1300年記念に奈良も面白く興味も倍加することでしょう。 次回は閻魔堂へ訪れたいです。
2010.03.30
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【大報恩寺1】(千本釈迦堂) 真言宗智山派 開基 義空上人北野天満宮から「北野歌街」を経て、東の方に位置します。豊臣秀吉が、「北野大茶会」を催すにあたり、直前喉が渇き近くの小さいお寺に寄って、「お茶」を所望したところ、僧は、貴方の様にお偉い方に、当方のお茶は差し上げられません。と断わられたそうです。よって秀吉は、寺名を「湯たくさん・茶くれん寺」として、現在も存在します。 「大報恩寺」は1221年(貞久3年)義空上人が、【釈迦念仏道場】として、【本尊釈迦如来】と【十大弟子像】を安置されました。【本堂】【国宝】で、「応仁の乱」から焼失を免れました京都最古の建物です。柱には戦渦の生々しい、刀跡・槍跡が見られます。 義空上人(藤原秀衡の孫)がお御堂造営の際、「大黒柱」が見付かりませんでした。そのとき摂津の材木商「成金」の夢告に白髪の老僧が現れ巨木を所望されました。承諾したところ、その巨木に「大報恩寺」の刻印を打ってかえられました。夢から目が覚めて貯木場を調べると「刻印」の打った木材があり、驚いて京の都へ造営中のお寺に訪れてみますとね夢の老僧は、仮堂安置の釈迦十大弟子のひとり【迦葉尊者】(かしょうそんじゃ)と判り、「成金」大いに感動して巨木を献上されたそうです。【おかめ伝説】棟梁の「高次」が本堂の造営の際、大切な柱の1本を短く切断してしまいました。憂慮している夫の姿を見た妻の「おかめ」が懸命に仏にすがってお祈りしたところ、夢枕に仏のお告げがあり、【ますぐみを施せば】と言うことを夫の「高次」に進言されました。無事大任を果たすことが出来ました。ところが女の助言世間に漏れて聞えてはと「おかめ」さんは自刃して果ててしまいました。安貞元年12月26日厳粛な「上棟式」の際、亡き妻「おかめ」の名に因んだ福面を扇御幣につけて飾り、妻の冥福と御堂の無事完成を祈ったとことです。現代でも、関西での建物新築の「上棟式」には、同様に飾りつけ無事を祈ります。 どの柱が短くきられましたか?と僧侶に聞きましたら「判ったら棟梁の苦心が無意味」と【おかめ塚】境内に大きく【ますぐみ】を抱いた坐像が目立ちます。おかめさんの鼻が低いのは、主人よりも出しゃばらない謙虚の姿とされています。 次回は、【宝物館】の内容が、仏像で大切ですので、日を改めます。
2010.03.29
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桜の花も、見ごろに成って来ました。気温が低く花冷えの状態で、少しは長期で鑑賞出来る様です。 天皇皇后両陛下が、国際会議場での「第14回国際内分泌学会議」開会式26日に臨席されました。25日、京都に来られ先ず【泉涌寺】(せんにゅうじ)【御寺】(みてら)にご先祖のご位牌に、参詣され、特にその奥にある御陵「東山天皇」崩御後300年にあたり、玉ぐしを奉納されました。27日は、【宇治の平等院】へ、でもとても冷え込みお風邪を召されなかったか心配でした。然しご訪問先では桜の花が何処も歓迎しているようでした。 昨日まで、左京区の社寺を訪問しました。右京区同様多かったですし、広範囲に点在していましたね。世界文化遺産17ケ所そして各行政区(11行政区)ごとに、主だった社寺を訪れたいと思います。では上京区へ何といっても先ずこちらから。【北野天満宮】祭神 菅原道真 中将殿(道真の長男) 吉祥女(道真の夫人) 学問の神様として【菅原道真公】が祀られて居ます。修学旅行では、日程に欠かさない貴重な参拝する場所でもあります。車中生徒さんに「祭神は?」と聞きますと返答に困る子が居ました。折角進学祈願するのに、お願いする相手の名ぐらいはと。【菅原道真公】は平安時代の公家であり「右大臣」まで成られました。11歳で詩を詠まれるほどの文才がありました。時の「左大臣」藤原時平の中傷で九州大宰府(だざいふ)に左遷され死去。その後京都では、雷火・地震などが多発し、道真の怨霊の祟りとして、時平は恐れおののき狂い死にしたそうです。鎮霊のため、道真を祀って創建されました。【本殿】【国宝】8棟の形式は「日光東照宮」にも継承され【権現造】の本源とされています。【縁日】弘法さん(東寺)は、21日・天神さん(北野)は25日京都では昔からの言い伝えで「弘法さんと天神さんとは、大変仲が悪いそうで、21日が晴天であれば、25日は雨が降るのじゃそうです。【北野天満宮の祭礼25日の由来】845年承和12年6月25日誕生・延喜1年1月25日大宰府に左遷・延喜3年2月25日逝去【菅原道真】と【臥牛】(がぎゅう)本殿の拝殿の大鈴の上の欄間だけ立っています。1.道真の誕生の年が,丑年。2.道真左遷の途中牛が道の真ん中で坐って動かず、避けた道を経ることで、時平の刺客から免れましたとか。3.道真が亡くなって、棺を引いた牛が墓に行く途中、へたりこんで動かなくなりましたので、 近くの「安楽寺」に葬られました。即ち現代の【大宰府天満宮】でした。【三光門】(中門)太陽・月・三日月の装飾が観られます。星は「大極殿」から拝殿に向かうと 「北斗七星」が見える仕組みと成っていますそうです。【伴氏社】(ともうじしゃ)祭神が道真のお母君「伴氏」祀られて居ます、京の三珍鳥居の一つ 鳥居の足許が、蓮の花に成っています。外に、「蚕の社」・「京都御所」道真は親孝行でしたから、母上の「伴社」(大伴家持の子孫)に先お参りすれば、合格出来るかもといいますと、小さい社に真剣手を合わせていました。【御土居跡】本殿の西側に豊臣秀吉が洛中を囲んだ御土居跡の公園が見られます。【梅園】道真が都を去るときに詠まれました。「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ」 次回は、「千本釈迦堂」へ参りましょう。
2010.03.28
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【大衆仏教の流れ】比叡山・真如堂・金戒光明寺を拝観するにあたり、仏教は修行されたり、勉学に励まれたりされた僧のみにあらず、一般衆生に遍く仏の慈悲救いが有るように感じました。法然上人は、浄土宗をその弟子親鸞上人は浄土真宗を何れも比叡山で修行されて、悟りを開かれた結果、民衆もただ易しく唱えられる「南無阿弥陀仏」の念仏により救われると教えて居られます。その原点が【真如堂】の【うなづき弥陀】にあると。従って先輩の慈覚大師円仁の思想も既に大衆仏教の必要性を感じ取られての伝説とも感じ取られました。従って、法然・親鸞共に「真如堂の阿弥陀如来」を礼拝して、自らの草庵を造られたと思われます。 流れといえば、「哲学の道」の「疎水の流れ」は、京都は北が高く南に賀茂川・桂川共に流れているのが常識ですが、よく銀閣寺辺り・哲学の道で、確かめると以外や南から北へ唯一逆行して、流れていることが判りました。理由は、左京区松ヶ崎浄水場に水を送る発想からで、南禅寺の【水路閣】の高いのもうなづけます。大きくは滋賀県「琵琶湖の水位」より京都市は低く、水運の便として利用されました。運送・発電・浄水場そして庭園にまで注ぎます。明治の頃に、一学生「田辺朔郎」の工部大學(後の東京大学)の卒業論文が、京都を大きく救いました。【大豊神社】(おおとよじんじゃ)鹿ガ谷(ししがたに)・南禅寺の産土神(うぶすなのかみ)で,末社の前に狛犬が、【ねずみ】でとても可愛いらしく見られます。「哲学の道」沿いに参道入り口が有ります。【霊鑑寺】(れいかんじ)臨済宗南禅寺派 開基 了性院 山号 円城山「哲学の道」と平行して東に先ず「霊鑑寺」が有ります。通常非公開ですが、紅葉と椿の開花時に公開されます。門跡尼寺で黒い椿(濃い紫色)を始め「椿寺」で有名です。代々皇女が住持、皇室を通じての宝物が多く御所人形も200点ほどあるそうです。【安楽寺】浄土宗 開基 住蓮・安楽 山号 住蓮山「霊鑑寺」を少し北へ歩みますと、こじんまりしたお寺が静かに建っています。本堂への庭は苔とサツキの刈り込みで、心落ち着きます。法然上人の念仏道場の一つで、住蓮・安楽坊のお話に、魅せられた「後鳥羽上皇」の寵愛を受けた「鈴虫・松虫」の女官が尼に出家されました。これに立腹された上皇が、「法然上人」を流罪に、住蓮・安楽坊は共に死罪と痛ましい事態と成りました。里人は両者の供養のため、「安楽寺」を建て弔らったそうです。尚境内の奥の方に住蓮・安楽坊の供養塔と鈴虫・松虫女官の小柄の墓があり、やるせない思いで手を合わせたくなりました。【鹿ガ谷かぼちゃ供養】は京都野菜の一つとして有名です。【法然院】浄土宗 開基 万無 山号 善気山「安楽寺」を更に北へ歩きますと、茅葺(かやぶき)の優雅な門が見当たります。此処でも法然上人が住蓮・安楽坊と念仏を唱えた道場で、須弥壇(しゅみだん)には、四季折々の生花25組が飾られ、彩りしています。阿弥陀如来御来迎の三尊の外に、眷属25菩薩を表現しているそうです。本堂には、恵心僧都(えしんそうず)作と伝えられる「阿弥陀如来坐像」と「法然上人」自作の木像が安置されています。椿の名所でもあり、墓地には「谷崎潤一郎」「河上肇」が眠っています。【橋本関雪記念館】(白沙村莊)(はくさそんそう)美術館や池泉回遊の庭園が美しく落ち着きを覚えます。大文字山を借景に、5つの部門に分けています。中国・日本の石仏や燈籠を収集、九州大分の物が目に付きます。籔には5百羅漢も微笑ましく置かれています。賑わう「銀閣寺参道」の入り口に位置しますが、忙しい観光客からは殆どパスされています。 かくして鹿ガ谷は、「法難の地」でもあり、「哲学の道」も西田幾多郎博士が、考えを深くして、歩まれた道で、歴史的にも過去を振り返る場所でもありました。、、
2010.03.27
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【金戒光明寺】(こんかいこうみょうじ)(黒谷)浄土宗大本山 開基法然 開山 紫雲山吉田山(神楽岡)の南端に位置します。【真如堂】の奥に三井家の廟所があり、地続きに南へ歩みますと、【会津藩】の墓地が広く繋がっていました。此処「黒谷」に本陣を構えて駐屯していたと言うことです。平和の時代を迎え、思わず当時の悲惨な歴史を顧みて、霊の安らかに眠られん事を念じました。地元では、「くろだにさん」と愛称で呼ばれています。法然上人が比叡山で修行され、43歳のときにこの地で念仏を唱えられたとき、光明があたりを照らされたことから、念仏道場を開かれたとのこと。浄土宗の建物形式にそって、三門・御影堂・阿弥陀堂があり、特に変わった処といえば、石段で高く登った所に三重の搭があり、【くろ谷の文殊さん】として「文殊塔」が一際、美しく建って居ます。【日本三文殊】で、丹後天橋立の【切戸文殊】・大和【阿部文殊】そして【岡崎文殊】(黒谷)黒谷文殊塔は、徳川秀忠菩提のために立てられ、運慶作と云われています。「三人寄れば文殊の知恵」賢いと言うよりも、健康的な判断が出来る智恵の授かることを願いたいです。【阿弥陀堂】豊臣秀頼の再建で、この寺院で最も古い建物で、本尊の阿弥陀如来像は、「恵心僧都」の最終の作で胎内に「のみ等器具」が納めてあり、「おとめの如来」または「ノミ納めの如来」とも云われています。【三門】額縁に「後小松天皇」(一休さんの父君)宸翰で何故か【浄土真宗最初門】勅額が掲げてあります。それは、浄土真宗の意味でなく、法然上人が説かれた、浄土経の真の教えを始めた最初の門の意味だそうです。法然上人は、比叡山から降りて、最初に真如堂の阿弥陀如来にお参りされた後、此処黒谷に草庵を持たれたそうです。浄土真宗の開祖親鸞上人も「真如堂」の阿弥陀如来にお参りされたと云われています。【吉備観音】(きびかんのん)中国から持ち帰ったもので、栴檀香木(せんだんこうぼく)で造られた観音像で、御影堂内に安置されているようです。、次回は、哲学の道に沿った寺院を巡りたいです。
2010.03.26
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本日は、春のさきがけとして、【北野をどり】が開催されます。北野花街の舞妓さん・芸妓さんの美しく、華やかな【舞】が披露されます。北野神社の月例祭【25日】は祭神菅原道真公の生誕の日でもあり、崩御の日でもあります。冷暖房の整った改装の会館完成により、未だ花冷えする季節の3月に今年から開催出来たそうです。本日は冷たい雨が、21日弘法さんは晴れでした。 4月1日からは、甲部歌舞練場では、【都をどり】が1ヶ月に亘り、始まります。ちなみにちょうちんの「団子の数」は、北野5つ・祇園は3つとなっています。【真如堂】(しんにょどう)【眞正極楽寺】(しんしょうごくらくじ) 天台宗山門派 開基戒算山号 鈴声山(れいしょうざん) 銀閣寺庭園の小高き枯山水の滝組の道から望める前方に見えます「吉田山」(旧三高の校歌で有名)を一名【神楽岡】(かぐらおか)とも言われます。即ち「山号」として「鈴声山」で「仏法有縁真正極楽の霊地とされていました。その岡の南の方に「真如堂」が建てられています。本尊阿弥陀如来像は、【頷ずき弥陀】と呼ばれ、作者は、慈覚大師円仁(天台第三世座主)が比叡山で彫り終えられたとき、「修行者の本尊に成って下さい」と問いかけられると弥陀は頭を三回横に振られ否定されたそうで、「それでは都に降りて一切衆生、特に女性をお救い給え」と念じられましたら、弥陀は三度うなずかれたそうです。比叡山常行堂に安置されていましたが、後に開山戒算上人が「真如堂」の本尊としてお招きされました。ひととき女性と言う事で「一条天皇の母君」「藤原詮子」離宮に安置されたともいわれています。「来迎の阿弥陀像としては、最古で、応仁の乱でも逃れておられます。【涅槃の庭】(ねはんのにわ)大文字「如意ケ嶽」東山を借景として、石組みで釈迦の横たわれた姿が見られます。別に【涅槃図】も掛け軸として存在し、珍しく猫くんが神妙に画かれています。何故ならお釈迦さまが中毒で、お母さんの摩耶夫人が天より、薬袋を投薬されましたが、周りに「沙羅双樹」が有り。その樹の枝にひつかかつて届かず、(絵にもあります)ねずみくんが、登って取りに行こうとしたときに、猫くんが阻んで、お釈迦さまに届かなかった次第。猫くん「ご免なさいと反省しきり」【春日局の桜】本堂の横に「春日局のお手植えの桜」家光の乳母で父上の「斉藤利三」の菩提を弔うために植えられました。其の側に「利三の墓地」が又恩人の絵師「海北友松」(かいほうゆうしょう)その外「落柿舎の住人」芭蕉門下十哲「向井去来」の墓も有り眠っています。奥には「三井家の墓」が広々と有りました。 四季折々に、桜・紅葉の名所と成っています。わらべ唄にもうなづき阿弥陀さまの庶民の暮らしへの思い遣りが伺えるようです。ああ 真如堂(しんど) めし黒谷さん(くったか) ここらで一ぷく永観堂(ええやろう) お茶漬さらさら南禅寺(何杯や)次回はその「黒谷さん」にまいりましょうか。
2010.03.25
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【南禅寺2】【南禅院】開基 無関普門 南禅寺の境内で、【水路閣】レンガ造りのアーチ形を潜り石段を少し登った所に有ります。同じく「水路閣」を更に登り詰めますと、疎水の勢い良く流れる水路を眺める事が出来ます。 こじんまりした庭園ですが、【夢窓疎石】の作庭で、庭の要素は、瀧を始め揃って存在しています。南禅寺の発祥の地で、徳川綱吉の母に当たる「桂昌院」の寄進により再建されました。紅葉の時期も素晴しい景色を見せてくれます。【金地院】南禅寺の塔頭の一つで、「三門」の前の「中門」の外に位置します。徳川家康に仕えた「崇伝」が京の地に【東照宮】を造営し、今に残っています。本堂の前には、枯山水の「鶴・亀の庭」として大きい岩が横たわっています。東照宮に対して吉慶を象徴した【祝儀の庭】とされ、「小堀遠州」作と云われています。「八窓席の茶室」は遠州好み「三畳台目」の茶席で名席とされています。南禅寺門前では、「湯豆腐」の懐石料理の店が数軒あり、「南禅寺湯豆腐」として賞味される方が多いです。【永観堂】浄土宗西山禅林寺派本山 開基 弘法大師の弟子真紹僧都 山号 聖衆来迎山【紅葉の名所】【見返り阿弥陀】全国でも珍しく、阿弥陀さんのお顔が後ろを振り向かれた形の仏像が安置されています。「永観律師(ようかんりっし)」が念仏を唱えつつ歩んで居られる時、本尊の阿弥陀さんが永観の先に立ち、共に念仏行道をされ始められましたので、その不思議さにたたずんでしまいました。そこで阿弥陀さんが永観の様子を温かく見られて「永観よ遅いよ」と見返られたという伝説があります。「先導する者(リーダー)・目上の者・強き者達は、時には、後ろに続く者に振り向いて、想い遣りの心で優しく手を差し伸べる事も大切なことを教えておられるようにも感じられます。【永観堂の七不思議】1. 抜け雀2. 火除け阿弥陀 大火事にも燃え残られた阿弥陀像3. 念仏蛙 人影の無い「御影堂」で木魚の音が絶えなかった。ふと覗くと「蛙が木魚の側で念仏を唱えて居たとか。4. 三鈷の松(さんこのまつ)松の葉が三本ある木があり、其の葉を持ち帰ると「三つの幸せ」がもたらされるという。5.「臥龍の廊下」廊下は、龍がうねるように曲がって造られています。6.涙を流される観音菩薩像。七.本尊「見返り阿弥陀如来像」堂内とても広く、入り口の門の小さいわりに、驚きます。観光される穴場かもしれません。 次回は、「黒谷」「真如堂」に参りたいと思います。
2010.03.24
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昨日東京も桜の開花宣言されましたね。京都の醍醐寺も見頃に美しく咲き始めました。心が癒されます。【南禅寺1】臨済宗南禅寺派大本山 開基 無関普門 山号 瑞龍山禅宗五山の上位に格式が高いことが伺われます。五山の1位天龍寺2位相国寺3位建仁寺4位東福寺5位万壽寺とされています。【三門】は義賊「石川五右衛門」の楼上よりの「ああ絶景かな・絶景かな」と歌舞伎で有名に成った【楼門五三の桐】(さんもんごさんのきり)の一場面です。傾斜の急角度の梯子を伝って楼上に登りますと、その光景が体験できます。三門より参道の正面に【法堂】(はっとう)が有り、狭い窓から内部が見にくいですが、正面に「釈迦三尊」が天井には、龍が画かれています。【水路閣】(すいろかく)京都をイメージした明治の名所で、ポスターによく紹介されます。レンガ造りでヨーロッバ風のロマンチックな風情を感じます。その上には「哲学の道」へと京都唯一の坂に逆らって北に向かって流されています【疎水】の分流が流れています。【琵琶湖疏水】明治2年京都帝国大学卒業論文に【田辺朔郎】(たなべさくろう)が運河により滋賀から京都への物資の運送に便を成し、そのうえ「蹴上の地」で傾斜を利用して「水力発電」を計画。日本で電車弟1号を発車させました。その論文を採り上げた京都府知事【北垣国道】(きたがきくにみち)の英断で、苦難と財力の超過で完成。そのため知事を誹謗して「こんどきたがきは、ごくどうもの」と名前でなじったそうです。現代【水】に恵まれ、疎水の周りには、桜並木が何処も彩り、人の心の潤いに大いに寄与しています。銅像は「蹴上」に田辺工学博士が、平安神宮の西の方に「北垣知事」が今も見守ってくれています。【本坊】受付の前に履物を脱ぐ場所に、【脚下照顧】(きゃくかしょうこ)禅宗の教えで、履物を揃えて置く様な心掛けで、禅寺を鑑賞するとよりよく、理解出来る意味で書かれていました。確かに以前も何回か記していますように、禅宗の寺院では、修行僧の行事か、「塵一つ落ちていません」清浄感を味わうことが出来ます。廊下には、「五山の寺院の名」「東山三十六峰の山の名」が掲げてあり、一つの部屋の向う小庭には、「シシ脅し」のセットが見られます。(詩仙堂参照)【方丈庭園】「小堀遠州作」と言われる、枯山水の立派な白川砂で覆われた広い庭園に縁に坐って、ボタンを押す事で、説明が始まります。片隅の岩の配置は、【虎の子渡し】を象徴するように、豪華なものです。襖絵は、狩野派の親子三代「狩野元信」「狩野永徳」そして「狩野探幽」の立派な絵が観られます。特に「探幽」絵の「水飲みの虎」は、有名です。何故か「三尊石」を象った石群があちこちの庭に見られます。 次回は、南禅寺周辺の寺院を訪問したいです。
2010.03.23
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【平安神宮】祭神 桓武天皇(京の都を制定された天皇)・孝明天皇(京の都の最後の天皇)【平安遷都1,100年を記念】として建てられました。 京都も桜の開花宣言がされました。「平安神宮」を取り巻く広い「岡崎公園」周辺は、何処も、桜に覆われ、特に疎水の流れる水面に桜の花と柳の新緑が交じわって写す光景は、思わず息をはずませたい感じです。 朱塗りの大鳥居が京都市美術館の前に立ち、小学生6人が手を繋いで繋がるほどです。正面に【応天門】がカラフルな姿で建っています。中国の「長安」に模して造られた物のようです。中に入りますと、正面に【大極殿】向かって右に【左近の桜】楼閣として【蒼龍楼】が向かって左に【右近の橘】楼閣として【白虎楼】がこれまた、カラフルに建てられています。門を潜ったところに「手水」が有りますが、「手水鉢」にも同じく「蒼龍」「白虎」の姿が彫られています。四神相応として東・西・南・北は、青・白・赤・黒となり、夫々「蒼龍」「白虎」「朱雀」「玄武」からの配置と思われます。白砂を踏みつつ拝殿まで実に優雅で明るく広々として、雄大な気持ちに成れます。外国人の観光客もとても多いです。 社殿で礼拝した後、案外其のままでお帰りになる方が多いです。社殿の裏にとても素晴しい池を伴う大きな庭園が三部に分かれて、待って居ます。穴場的存在です。拝殿の西側に【庭園入り口】があります。【小川治兵衛】明治の造園家で、【白虎池】から【蒼龍池】ここでは、牛若丸と弁慶の有名な【五条大橋の石の橋桁】が池の中をよぎることが出来ます。【栖鳳池】(すほういけ)には【橋殿】が架かり、中央屋根に【鳳凰】が模っており池に写す姿は素晴しいです。四季折々に咲く花を愛でることが出来ます。「栖鳳池」の側に、神宮の結婚式場があり、和服姿の新婦の姿をよく見られます。あの有名な「石川さゆり」も此処で挙式されました。桜・かきつばた・紅葉何れの時期も心和みます。 時代祭りは、毎年10月22日に京都三大祭りとして行なわれます。794年10月22日は、「平安京」の誕生日でもあります。 次回は、「南禅寺」と「疎水」について記して行きたいです。
2010.03.22
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【峰定寺】(ぶじょうじ) 本山修験宗 開祖 観空 山号 大悲山鞍馬山から更に北へ峠を幾つか過ぎた山又山の奥深く左京区花背に此の寺が有ります。険しい山道を登り「仁王門」を過ぎても階段があり、やっとの思いで辿り着きました。絶壁に「日本最古の舞台造建築が存在しました。清水寺の舞台を小さくした感じですが、とても古びていました。シャクナゲで有名で、修験者の道場でも有るようです。本尊は十一面観音菩薩ですが、不動明王も祀られて居ます。まさかこんなとこが、京都観光検定試験1級の出題でした。 左京区は、最北端花背そして鞍馬・貴船 大原 比叡山ととても広範囲に社寺が存在します。【円通寺】臨済宗妙心寺派 開基 文英尼 山号 大悲山 京都市内で、唯一観光案内を拒否されるお寺です。バスガイドさんも外で待っています。お寺は、信仰の対象で、おしゃべりは禁物と言う和尚さんの心構えの徹底された寺です。ですから、あらかじめタクシーでも車中で「見所」を伝えるに過ぎません。 「比叡山」を借景にして、広いそして低い垣根越しに、縁に坐って庭園を鑑賞します。お寺でありながら、仏像の存在や由来が判らずに聞くことの出来ないのが残念です。場所は、ぐんと南行して、「京都国際会議所」の近くに有ります。【妙満寺】 顕本法華宗総本山 開基 日付 山号 妙塔山左京区岩倉京福電車「木野駅」下車 何故か【安珍・清姫】で有名な、紀州【道成寺の釣鐘】が安置されています。銘があり、豊臣秀吉が「根来寺」(ねごろじ)を改めた「道成寺」の裏の竹薮から掘り出されたといわれています。【雪月花・三名園】妙満寺の雪の庭清水寺成就院の月の庭北野天満宮成就院(廃寺)花の庭 次回は、左京区の南部に位置します【平安神宮】を桜の開花になぞらへ訪れましょう。
2010.03.21
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京都地方気象台「そめいよしの」開花宣言が、3月19日発表されました。過去2番目に早い日となりました。「清水寺」もちらほら咲きとか、京都にお越しの方のご参考までに。【鞍馬寺2】本殿金堂より、「貴船神社」に向かっての山道が又大自然と牛若丸を偲びつつハイキングコースでも有ります。先ず目に付くのが【霊宝館】(鞍馬山博物館)です。1階は、自然会の動植物・鉱物関係で、採集された化石の中には、「貝の化石」も展示、当初記しました通り、鞍馬山も「湖底」であったようです。2階は、「与謝野晶子」に関する展示室で、3階には、国宝仏像等の展示室に成っています。【奥の院】に行かれなくっても、「霊宝館」は観てUターンされてもと思います。【与謝野晶子と寛(鉄幹)の歌碑】京都検定試験1級の出題でした。「何となく君にまたるるここちして いでし花野の夕月夜かな」 晶子「遮那王が背くらべ石を山に見て わが心なほ明日を待つかな」寛(鉄幹)【冬拍亭】(とうはくてい)与謝野晶子の書斎で、東京より移築されてきました。何故鞍馬寺と関係あるのか疑問でしたが、鞍馬弘教の開宗「信楽香雲和尚」が与謝野晶子の高弟だったからと言うことです。何でも教わると真実が見え、親しみを感じるようになりました。【奥の院】には、【背くらべ石】義経が奥州衣川に出立時、成長振りを計ったと言われます。【大杉権現】【僧正ケ谷不動堂】この辺りは「木の根っこ道」むき出しに大自然を味わえます。大天狗により「牛若丸」が修行で走り回った姿が、よぎります。【義経堂】奥州で討ち死にした後に、鞍馬に霊が帰ってきた菩提の堂です。【奥の院魔王堂】大昔、魔王がこの鞍馬山に降りてきたと言う伝説が有ります。「魔王尊」は、「サント・クマラ」とも呼ばれ、クマラがクラマに成ったとも。【西門】を出ますと【貴船】の料亭街に入ります。 貴船は、夏、納凉を求めて、鮎懐石料理を楽しみに、京福電車「貴船口駅」からか、自家用自動車で多くの方が、訪れられます。「紅葉と清流」も安らぎます。高級料亭が居並ぶ奥に【貴船神社】が有ります。創建時期は、不詳です。「水を司る神」として崇敬がたかいです。神武天皇の母君「玉依り姫」が、黄船に乗って浪速り「淀川」「賀茂川」を遡り、貴船川のこの地まで来られ、「清水」の湧き出ることを確かめて上陸された言い伝えが有ります。境内に「黄船」をかたどった船が飾られています。拝殿に懸けられています「扁額」は「狩野探幽」の絵です。【男女の仲を左右する神】でもあり、【縁結び】【縁切り】にも関係するのでしょうか、【和泉式部】は、夫の愛を取り戻そうと此処にお参りに来ています。一方宇治の【橋姫】は丑の刻にお参りして、妬(ねた)ましい男女を呪ったと云います。
2010.03.20
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京都御苑の枝垂桜が見頃の写真を見せてもらいました。そめいよしのはちらほらです。23日開花予想です。【鞍馬寺1】鞍馬弘教総本山 開基 艦禎(がんてい)鑑真和上の高弟子(奈良・唐招提寺) 山号 松尾山 京都御所より、真北部12kmに有り、平安京の守護神で【毘沙門天】(国宝)が左手を眉間にかざして、見守っているかの様に見えます。脇侍に【吉祥天】(国宝)(毘沙門天の奥様)と【善膩師童子】(国宝)(ぜんにしどうじ)が祀られて居ます。本尊【三尊天】正面に【毘沙門天】両側に【千手観世音菩薩】そして【魔王尊】 鞍馬信仰の霊地で、観光で訪れる方は、少ないです。昼なお暗い雰囲気で「暗闇の山」から「くらま」と何時しか言われるようになったそうです。牛若丸が幼少のころ、聖地に住む「鞍馬天狗」に修行を受けたお話は、有名ですね。上賀茂神社から「鞍馬街道」を北上されるか「京福電車」「出町柳駅」から「鞍馬行き」で終点「鞍馬駅」下車順路1.【仁王門】両脇に「阿・吽」(あうん)の仁王さんが構えています。【湛慶作】明治44年再建。門前に虎の狛犬は珍しいです。同じく「阿吽」の形を採っています。2.【鞍馬山ケーブル】(山門駅から多宝塔駅)3.【多宝塔】昭和38年再建。4.【弥勒堂】釈迦入滅後、56億7千万年を経て、この世に出現人類を救済されるという【弥勒菩薩】が祀られて居ます。5.【巽弁天】本殿の東南(巽)の方向に祀られ「巽の弁天さん」と呼ばれ福徳・智恵・財宝の神6.【転法輪堂】堂内に丈六(約4.8m)【阿弥陀如来坐像】が安置されています。堂内にぐるぐる回す経堂が置かれ、「一転の南無阿弥陀仏。その功徳六万遍の称名に等し」と云われます。「阿弥陀さま」と紐が繋がれ、紐を引くと、阿弥陀さまと握手したこととなるということで、皆様我も吾もと、紐を引っ張られます。大原勝林院78号でも有りましたね。7.【本殿・金堂】ここからの眺めは、苦労して山道と階段を登って来た関係で、感動は一入のものが有りました。8.【阿伽井護法善神】(あかいごほうぜんしん) 本殿の東側に有ります。約1,000年ほど昔の寛平年間「峯延上人」をのみこもうとした「雄の大蛇」は倒されましたが、「鞍馬山の水」を永遠に絶やさないと誓った「雌の大蛇」は、命を助けられました。その後【阿伽井護法善神】として此処に祀られました。【鞍馬竹伐り会式】6月20日の由来となっています。 次回は本殿より、貴船への「奥の院」山道を歩きましょう。
2010.03.19
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【詩仙堂】(しせんどう) 曹洞宗大本山【永平寺】の末寺 開基 石川丈山 山号 六六山 松ヶ崎より白川通りを南下、東に坂を登りますと、「宮本武蔵」と「吉岡門下」との「一乗寺下がり松決闘地跡」を眺めつつ、更に登りますと、「詩仙堂」の小さい門に辿り着きます。過っては、皇太子殿下浩宮様が推奨されて、英国の故・元英国皇太子妃ダイアナ妃が訪れられた写真が悲しくも飾られています。 古びた歴史を感じる「山荘」も落ち着きますが、自然で構成された庭も趣が深いです。四季折々に咲く花を愛でて心が和みます。額縁に【酔花醒月】(すいかせいげつ)と丈山の隷書で書かれています。花の美しさに酔っている内に、何時しか月が出て目が醒めました。 有名な【僧都】(添水)(そうず)一般に「ししおどし」の元祖が此処に有ります。水の流れに従って竹筒に水が溜まると重さで、傾き、水を吐き出します。反動で置かれた石を叩く音で、野性のししを脅して退散させたという事ですが、近代では、静寂を強調するように、テレビの対話するシーンで部屋の前の庭にセットされるように成りました。 「蓮華寺」の庭園も造園された【石川丈山】が寓居された山荘でもあり、仏間も有ります。59歳の時造営、90歳で亡くなられました。三河の国の出身で、三河武士として25歳のとき駿府城火災の際に、徳川家康の第11子「頼房(のちの水戸藩主)」当時5歳と乳母を救出した功労も有りましたが、大阪夏の陣で家康より「一番乗り」を禁じられていたにも拘わらす、決行してしまい。33歳で蟄居(ちっきょ)を命じられてしまいました。そして髪を切って「妙心寺」に出家、禅僧の修行をしました。 幼い頃より、自然の美しさ特に「富士山」の霊姿が心に焼きつき漢詩を残しました。そして此処一乗寺村に小さな庵を建て、好きな詩と自然の風景、観月も含め一生を過ごしました。 「詩仙堂」の名の由来は、中国の三十六歌仙を一室に、肖像画は、「狩野探幽」が画き、「詩仙の間」を中心に呼ばれる事に成りました。 入り口の額には、【蜂腰】(ほうよう)蜂の腰は曲げて居ます。謙虚を表わすようです。仏間は、比叡山根本中堂の様に、僧の礼拝される場所を低くして、仏と私たちは同じ高さから拝めるようになっています。 仏間の前に、台所で働く人への注意書,【六勿銘】(ろっこつめい)の掲示板が懸けられていました。その裏には、【既飽】(きほう)の字が書かれ、既に満腹、腹八分目の大切さを説いて居られる様です。【六勿銘】 【火の用心】【戸締り用心】【早起き】【粗食】【倹約・勤勉】【清潔・掃除】一例を記しますと、「勿妄丙王」(丙王を妄(みだ)りにする勿(なか)れ)「火を粗末に取り扱うな」の意です。【嘯月楼】(しょうげつろう)庵の屋上に、丸と四角の窓が有り。一説には幕府に敵対する怪しい者の見張りが、何時しか観月詩歌を詠まれ自然を謳歌されるように成ったと言われています。 左京区は広いです、比叡山から大原そして鞍馬山その範囲です。次回はその「鞍馬山」に登りたいです。
2010.03.18
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【修学院離宮】 「曼殊院」は、京都観光の最高の意義深い内容を数多持って居る寺院と心得ますが、説明が長くなって御免なさい、未だ筆舌を尽くせない苛立ちすら感じます。 その広域の隣接地帯に「修学院離宮」が比叡山の西麓に位置します。あらかじめ、宮内庁の拝観許可証を必要とします。 徳川幕府は、108代後水尾上皇、(中宮徳川秀忠の娘「東福門院和子」)を慰めるために造営されました。広大な敷地は、比叡山を借景にして、上中下三段の「御茶屋」と称する庭園が広がっています。「茶室」が多いですが、拝観時間に次々予約の人で制限があり、ゆとりを持って観察出来ないのが残念です。 後水尾上皇と良尚法親王とは、皇族で「従弟同士」の不思議な関係で徳川家光とも同年代です。【赤山禅院】(せきざんぜんいん) 天台宗 開基 慈覚大師円仁「修学院離宮」の門から、北へ少し参道を登った所に有ります。 京都御所の北東の方向に位置し、昔より鬼が出入りするとされた「表鬼門」に当たります。地元では、「表鬼門の赤山さん」と呼ばれ、方除け、厄除けの祈願所と成っています。何故か本堂の屋根の上に【猿像】が金網に囲まれて、神妙に構えています。ユーモラスな風景です。本尊は、「赤山明神」猿は、神に仕える「神猿」で、京の都を見護っていると言うそうです。【紅葉】の名所でもあります。「神仏混合」の雰囲気が有ります。 【都七福神詣】奥殿に頭が長い【福禄寿】が祀られ、京都の正月新春には、「七福神詣」の一箇所です。【妙円寺】【松崎大黒天】 日蓮宗 開基 日英 山号 松崎山 【都七福神詣】【大黒天】本尊で、伝教大師作とされる「大黒天」が祀られて居ます。 お盆の【大文字送り火】銀閣寺の側の【大】の次に【妙】の字が松崎山に赤々と火がともされる場所としても、お見知り置き願います。従って、此処松ヶ崎大黒天の小高き山より、京都市街が程よい低い高さで見下ろせます。 次回は、白川通りを南下して【詩仙堂】に参ります。
2010.03.17
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【曼殊院3】 大學新卒のタクシー学士ドライバーの実地研修会で、最も観光地として、寺院にこれ程の深みのある「曼殊院」のことを会得し、その後も作成した資料を参考に、休暇中、友達と何回か自分の物にする為訪問したと報告がありました。中でもあるテレビ局が「外人の観光客」を女性学士ドライバーが、「曼殊院」を自信有り気に説明している報道が有り、とても嬉しかったです。8.「大書院」の縁側に出るや否や、お客様が歓喜の声が思わず発せられるほどに、美しい「枯山水の日本庭園」が目の前に展開しました。9.廊下の角を曲がりますと、【小書院】の屋根が、【雁行形】(雁が規則正しく飛ぶ群れの形)は「桂離宮」にも有ります。此処は是非写真を撮られることですね。10.「小書院」の廊下の屋根は又、【屋形船】の様に造られ、庭園を船に乗って観ることを意味して居るようです。11.その廊下の側に【梟の手水鉢】が有ります。手水鉢の周りに梟が彫られています。月をこの手水鉢の水面に写し、又反射して側の白壁に月の揺らぐ姿を鑑賞します。「間接的月の鑑賞」12.「小書院」は、門跡が客を迎える為の最も貴重な場所で、一番奥に構えて居ます。二部屋あり、庭側に【富士の間】釘隠しが「富士形の七宝焼」で部屋の四方に飾られています、客人が座す部屋で、廊下の低い欄間越しに、立って見るのでなく、坐って鑑賞しますと更に美しく落ち着いて観られるように、作者は作庭しているようです。。此処からの庭園の観方が最高と言うことです。廊下沿いの襖に殆どの人が、気付かない「中国の小船に乗った船頭」が狩野探幽によって小さく画かれて居ます。部屋の畳に坐って、庭園を観ますと、柱・襖等で額縁の様に鑑賞できます。正面にこの庭の中心的存在として、背の高い、【滝石】が目立ちます。裏の【八窓の茶室】からも真正面に観られます。「茶室拝見」ご希望の方は、院内売り場で申し出になれば、説明付きで案内されます。隣には、別に【無窓茶室】も有り、お湯が涌く音は、正面の滝から滔々と流れる音にも聞え、静寂な雰囲気は、お客様の心を楽しみ印象付けることは間違い有りません。廊下の上に【閑静亭】の額が掛っています。松花昭乗(しょうしょうじょう)の筆によります。13.「小書院」【黄昏の間】(たそがれのま)玉座と床が有り。最高の間といえましょう。「富士の間」との欄間に表菊と裏菊が「市松模様」の透かし彫りで、玉座に灯された「灯」が菊花(皇族)を通して、客人に灯が共有する思考が伺えます。14.【枯山水の庭園】小堀遠州好みの庭園。庭園の要素が整い、眺めただけでも美しさが味わえます。此処【曼殊院の庭園】は他に類例を見ない、【仏教思想】を形で判り易く秘めている意義深い日本庭園と皆様に御紹介したいです。先ず、薬師如来の世界【過去仏】庭園の中心的【滝石】は生命の発生とも取れます。次いで釈迦如来の世界【現在仏】庭園の中心部分全体で表現。【亀島】【鶴島】【石橋】【水分石】【蓬莱島】そして【五基の燈籠】(灯窓3・2・1・1・1計八灯窓)はお釈迦さんの50年の説法を【五時八教】に分けて説かれたことで、燈籠で表現。【鶴島】は【宝船】にも見立てその松の下に【キリシタン灯篭】が有り、燈籠の下部に「十字架」が刻まれています。「良尚法親王」の母上が若狭の京極家で、クリスチャンで有ったことから、偲びつつ置かれたようです。そして、阿弥陀如来の世界【未来仏】「宝船」は西へと庭園の西一帯に赤い霧島ツツジが植えられ、正に夕陽に包まれ西国極楽浄土に迎えられる形式を取っています。15.【宿直の間】(とのいのま)から通路に「華道」の「立花図」「香道」の「書式」「親王「竹」「書道」「竹筆」で書かれた展示が見られます。16.最後に【三方正面の壷庭】の廊下に小さい釣鐘がぶら下がっています。近所の農家の民衆の方が、農作物を献上すべく訪れられたときに、合図の鐘といわれています「おお、よしよしありがとう」と「良尚法親王」の声が聞えそうです。「曼殊院」のアンケートでの感動した感想の多かった箇所でした。
2010.03.16
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【曼殊院2】 田舎風の小道を、登り詰めますと、「曼殊院」の勅使門に辿り着きます。門前は急な石段が構えられ、周囲は石垣の上に白壁で五本の筋が入った格式の高い寺院として圧倒されそうです。勅使門の前には、各皇族の方々のご訪問を記念された「植樹」が目立ちます。 順路として「北門」から拝観出来ます。1.【庫裏】(くり)の玄関面に良尚法親王の直筆で【媚竃】(びそう)の額が掲げて有ります。論語に「その奥(目上)に媚(こ)びるより、竃(かまど)で働く人に媚びよ」から掲げられたようです。現世でも中々実行しにくい事柄です。訪問して筆頭考えさせられる、民衆的優しい思い遣りが伺われます。2.台所から大玄関への廊下伝いに、「皇室」の来られた写真が、飾られています。3.表玄関の手前の部屋では、日本初の版画で「竹」模様の襖が見られます。「竹の内御殿」の趣からでしょう。4.【大玄関】(先入関)は高貴の方の入り口【勅使門】からの玄関です。来客に威厳と興味を、持たせる為に、「竹と虎」の襖絵が構えています。「狩野永徳」の絵で、此処での見ごたえは、正面の虎が何故か、竹を噛み締めている異常な絵なのです。思考しますに弟ゆえに出家、と言う「竹」という権威・制度に噛み付く絵師の「良尚法親王」への心遣いとも採れます。5.【孔雀の間】此処でも親鳥と二羽の子鳥が仲良く餌をついばめているシーンから、一羽は母さんと飛び立ち、一羽は残され「しょぼん」としている、そして親鳥は天へと孔雀の一生を江戸後期の絵師「岸駒」(がんく)が画いています。「しょぼん」姿が「良尚法親王」か?岸駒は「清水寺でも虎の石碑」が有ります。同じ部屋の奥に何故か「幽霊の掛け軸」が見られます。魅力が有って、この幽霊に会うために何度か「曼殊院」を訪れるという有名な存在です。又「長野の善光寺の出張先」として「仏間」が兼ねて有ります。一生に一度は「牛に引かれて善光寺詣うで」ここでも済ませます。6.廊下伝いに【大書院】へ「華の間」では、法親王の画かれたカラーの屏風が置かれています。其の隣の間は、天井の桟が、正面に対して突き刺さっている仕組みで、不吉な感じがしますが、後程のの「宿直の間」(とのい)も正面床に突き刺さっています。前者はお盆には三幅の「幽霊の掛け軸を飾り霊を弔い、後者は、法親王の寝所として何時命を奪われるか、覚悟を決めて居られました。武士の居間の床にも敢えてこの形式を採るそうです。7.【大書院】「滝の間」の襖絵に中国人が囲碁を楽しんでいます。襖に向かって碁盤を眺めながら、蟹歩きのように移動しますと、碁盤が小さく成ったりします。欄間に卍型が見られます。「十雪の間」は【仏間】でもあり本尊は「阿弥陀如来」で他に十一面観世音菩薩(北野神社にあったものを当院に移されました)【曼殊院棚】は仏間の隣に有ります。【桂棚】に似せたもので、「違い棚」は段違いも有りますが、材質も細かく違っていて、芸術美を感じさせます。【大書院】の外側に【塵慮尽】(じんりょじん)の額が飾られています。「よこしまな心を払い取り除くの意が有ります。 次回は、素晴しい「枯山水の庭園」の鑑賞を共にしたいと思います。
2010.03.15
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【曼殊院1】(まんしゅいん)天台宗の五門跡の一つ 開基 是算(ぜさん)(菅原一門の出身) 大原街道も街中に、「白川通り」から東山山麓に位置し、【修学院離宮】と広域の隣接地に【曼殊院】が静かに存在しています。素晴しい観光地でありながら、観光バスが入れ切れない状況で、コースから、外されています。従ってタクシー貸切を利用されます。 天台宗の格式高き門跡寺で、京都の寺社数ある中で、皇室のご訪問されたのは、少なく、此処では、皇太子殿下・秋篠宮殿下の学生頃に、そして「紀子妃殿下」もお一人で来られた写真が展示されています。 天台宗五門跡から天台座主に成られる傾向も可也有り、現代256世天台座主半田孝淳大僧正は、当所曼殊院に門跡から推挙された方でも有ります。 主人公は、【良尚法親王】(りようしょう)で、今から380年前、徳川三代家光の頃、「八条宮智仁(としひと)の次男坊に産まれたばかりに、寺を与えられ僧となられました。いわゆる出家されました。同じ母親から腹を痛め、長男「八条宮智忠(としただ)親王」は父君と【桂離宮】を造られました。【修学院離宮】を造られた「108代後水尾天皇」とは従姉妹同士の関係です。 「良尚親王」のお気持ちを推し計ってか、襖絵などに、それらしく画かれた部屋が有ります。然し、ご本人は、度量の大きい方で、五道の達人の結果を遺して居られます。そして封建時代に有って、今で云う「民主主義」の優しい志を持たれたことも、遺産として随所に遺されています。書道(竹筆)・華道(立花図)・香道・茶道(八窓茶室)・画道(色彩採用)そして仏への道と。その上「小堀遠州好み」の「枯山水の庭園」を眺めながら、一生を優雅に過ごされ72歳に遷化されました。一方宮家を継がれたお兄様は、宮家の護持に気を配られてか僅か35歳の若きご生涯を閉じられました。何れが幸せであったのでしょうか? 「良尚親王旗」にも【竹】を、図柄に採り入れられています。「竹の内御殿」とも言われます。随所に「竹」が現れます。何故なら、「開基是算」は「北野天満宮」にも関係しその「梅」そして天台宗の本山「比叡山延暦寺」の「松」合わせて「松竹梅」となり、修行の一つに経を唱えながら、わらじ姿で小走りに「阿闍梨」(あじゃり)さんはこのルートを通られます。 【桂離宮】は宮内庁事務所から許可証が必要ですが、此処【曼殊院】も父上と兄上の意に、適う為、「雁行型の屋根」等に離宮の類似点が観られます。「桂棚」に対しても「曼殊院棚」も其の一つで、「桂離宮」の面影が伺い知れます。 本日は、概要を記してまいりました。次回は順路として、素晴しい内容が含まれて居ますことそして見所を尋ねたいと存じます。
2010.03.14
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【蓮華寺】 天台宗山門派 開基 実俊 山号 帰命山 大原は、如何でしたか?少し京都市内より離れていますので、訪問時間が欲しいです。大原より「大原街道」又は「鯖街道」を南下します。何故「鯖」なのでしょう。昔、京の都には、食栄養を採るために、野菜類だけでは不十分の為、若狭日本海で、「夕べに水揚げした鯖に塩をまぶし飛脚によって、早朝都に着くころは、美味しい鯖味に成っていたということで、若狭から京都までの大原を通る街道を「鯖街道」と、何時しか云われる様になりました。 途中、「八瀬」では、比叡山に登れる「ケーブルカー」の駅があり、其の先に「ロープウエイ」に乗って、渓谷を見下ろし比叡山の頂上「四明岳」に至ります。八瀬の紅葉も素晴しいです。 更に南下して、街道筋に「蓮華寺」が有ります。しっかりと大原の観光をした後の、こじんまりとした憩いの場所として、お勧めしたいです。 受付では、「散華」(さんげ)の栞が、記念に成ります。「声明」(しょうみょう)による僧数人の大きい法要のお経を唱えられるときに、「散華」が撒かれます。出来れば受付で「お茶券」も頼まれると、後で別室で静かに憩う事が出来ます。 受付の側が既に本尊「阿弥陀三尊」が祀られて居ます。観光とは云え一礼敬意を表すると気持ちも落ち着きます。 大広間に座して、柱の間から「額縁」のように池を巡る庭園を鑑賞出来ます。「池泉回遊式庭園」は「詩仙堂の主人」「石川丈山」の作庭と言われています。高野川から採り入れた水による「滝の音」は絶えることなく聞かれます。雰囲気充分です。不老不死の棲むといわれる「蓬莱山」そして「鶴島」「亀島」があり、「蓬莱山」に通ずる「石橋」の真ん中の下部に、「仏の手」と言われる石が間を空けて受け皿のように、立っています。「宝船」は「出船形式」で船の後ろが満載で沈みがちの表現を苔で表わしています。庭内には「薬草」が満ち満ちています。 庭園の奥に「仏殿」があり、其の前には、珍しい「蓮華寺灯篭」が構えています。六角形の急勾配の笠をあしらっています。 入り口の施錠には、「蝉」の金具が装飾として付けられ、魔除けの意味だそうです。堂内正面には唐獅子と牡丹の白木造りの「須弥壇」があり、左奥に「阿弥陀如来像」が祀られて居ます。 「天井」には、「愛宕寺」(おたぎじ)住職であった「故西村公朝和尚」の画かれた「龍」が輝いています。 一応鑑賞が終わりました後に、別室で抹茶とお菓子を茶券で頂戴します。前庭には、小川が流れ右手上流には、池と分かれた水が「水分石」(みくまりいし)の役目のように水を二手に分ける小さい島があしらってありました。人生の分かれ道とも申しましょうか。とてものどかな風情を味わうことが出来ました。 次回は、天台宗のお寺が続きました、その総代表として、意義の深い「曼殊院」を訪れたいと思います。私の京都で一番に皆様にお勧めしたい場所であり、是非ご訪問願います。
2010.03.13
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【三千院4】「勝林院」では、殆ど訪問者無く、ゆつくり「阿弥陀さんの世界」と「声明の調べ」を満喫出来ると思います。正に「浄土宗の発祥の地」とも考えられる聖地で有りました。外に出て直ぐ隣に、「宝泉院」が有ります。【宝泉院】天台宗 開基 円仁(慈覚大師) 門の正面に樹齢500年余の「富士山型の五葉の松」がどっしり構えています。受付で備え付けの「木魚」を叩くと係りの方が案内して下さいます。【額縁の庭】として、広いガラス戸の間から、片や「近江八景図の庭園」が片や「竹林」が額縁の中で鑑賞出来ます。「抹茶と菓子」が出され、三千院の鑑賞の疲れに、一服落ち着いて外の景色をゆっくり味わわれるのに最適です。竹林の背景には、翠黛山(すいたいざん)(阿波内侍の眠れる山)ほか大原の里が望まれます。【血天井】が京都に数箇所有り、その一箇所が此処「宝泉院」でも弔っています。伏見城で徳川の忠臣「鳥居元忠(とりいもとただ)一党が、篭城で死守して、援軍の届かぬ内に自刃して果てた、血染めの廊下を、天井に上げて、菩提を弔ったと言う。【実行院】天台宗 開基 円仁(慈覚大師) 「声明」の音階・音律を味わえる場所でもあります。楽器は四国の自然石で自由に鳴らして体験が出来ます此処も、抹茶と菓子で庭園を眺めながら憩う事が出来ます。又、庭を散策するための履物も、用意され冬でも花を付ける「不断桜」も楽しめます。滝の流れと小規模の庭園形式の「契心園」も落ち着きます。女性のみが、「宿坊」として利用も出来るそうです。【大原御陵】「実光院」の真向かいに位置します。「承久の乱」(じょうきゅうのらん)鎌倉幕府に破れ「武家政権」が際立つように成りました。82代後鳥羽上皇は、隠岐に、84代順徳上皇は佐渡に配流されました。大原の里で御霊は、静かに安らいで居られる様です。遠く歴史を偲びつつ礼拝。【来迎院】(らいごういん)天台宗 開基 円仁(慈覚大師) 山号 魚山余程、時間の赦せる方しか望めませんが、「呂川」(南谷川)の上流に位置し、慈覚大師円仁の「声明」の根拠地とも言われています。平安時代の末期に「融通念仏の開祖・聖応大師良忍」によって、再興されました。本堂には創建当時の作と言われる薬師・釈迦・阿弥陀三如来の坐像が安置されています。 更に「来迎院」を過ぎて、「律川」(北谷川)の上流かなり山道を辿りますと、【音無しの滝】に出会いました。感無量でした。白糸をたらしたような美しい滝で、巨岩に落下する「水音」は山肌にすいこまれように静けさを深めました。聖応大師が「滝の音」と「声明」が相乱れるのを恐れられ、「呪文」で「水音」を止められたと言う伝説が伝わっています。近くに聖応大師の墓が有ります。今でも仏教音楽「声明」に心して居られる事でしょう。 大原紀行も、此処まで訪れられれば、悔いは残りません。 次回は、鯖街道を南進「八瀬」経由「蓮花寺」に参りましょう。
2010.03.12
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【三千院3】 京都市内から、かなり遠い位置に「大原」は有りますので、観光時間の関係で急がれる方が多いのか、又ご存知ないのか、「「三千院」の感動をそのままで、「御殿門」から、帰途に付かれる方が、殆どとお見受けします。その証拠に、秋の紅葉シーズンでは、観光の人並みで混雑していましても、その奥に素晴しい寺院・御陵そして「音無しの滝」を訪問される方は、少なく、ゆったりと味わう事が出来ます。 「桜の馬場」を更に北奥に進みますと、「律川」の橋を渡ります。その橋の袂に「法然上人」の弟子「熊谷直実」(くまがいなおざね)が坐って待ち構えていたという石が存在しています。そして橋の渡った辺りを「鉈捨て籔」(なたすてやぶ)と言っています。更に突き当たりまで、歩を進めますと。正面に「大原問答」で有名な「勝林院」が有ります。【勝林院】天台宗 開祖 円仁(慈覚大師) 山号 魚山(ぎょざん)受付(殆ど不在)から石畳の道を経て、本堂に履物を脱いで堂内に、そしてボタンを押しますと、堂内に厳かな「声明」(しょうみょう)が聞かれます。其の雰囲気で本尊「阿弥陀如来坐像」を拝する事ができます。阿弥陀さんの目は拝する位置によって、怖く・優しく変化します。僧侶の読経される坐が最も優しく見える45度の角度のようです。阿弥陀さんの手から紐がぶら下がって居ますので、手元の紐を引くと阿弥陀さんと握手した事に成るという事で、浄土へ導かれることを願って実行されています。この手法は、他寺でも良く見かけます。縁があればお試し下さい。 【大原問答】堂内の本尊阿弥陀如来の前、両側に梯子があり、壇上が備え付けて有りました。一方には、「法然上人」がそして、もう一箇所には、「叡山南都の学僧」と浄土念仏の教理を論議・問答して信服させられたと言います。法然上人54歳対して顕真(けんしん)権僧正(ごんそうじょう)56歳でした。 既成仏教は、王朝貴族を初め、知恵者、特定の富者のみに適ったもので、貧者・大衆・凡俗は、何等仏の救いも無く、実に仏教とは他山の石・無縁の存在とされていました。そこで法然上人は、叡山で修行し会得された結果。誰もが「一意専心・南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることで「極楽浄土に導かれる」と、説かれた時、本尊阿弥陀さんの手から、御光が射したと言うことで、「証拠の阿弥陀」と称されることに成りました。その後「浄土宗」として庶民の信仰と広がっていきました。 このとき師匠「法然上人」に危害が加えられるのではと、弟子の「熊谷直実」は懐に鉈を隠し持って、近くで構えて居たところ、法然上人にたしなめられ、鉈を竹薮に捨てたという事です。 堂内の裏には小さい緒仏像が、並んでいますがその中に「踏み出しの阿弥陀如来像」があります。人を正に救おうと左足を一歩踏み出す、救いの動的表現を採っています。そして「法然上人」の像も有ります。 殆ど貸切状態の様に、来訪される方は、まばらでゆっくりと、妙なる「声明」のお経を聞きつつ阿弥陀さんの世界に心を寄せて拝観できます。「三千院」の人込みが嘘の様です。 次回も更にその近辺の見所を伝えたいと思います。
2010.03.11
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【三千院2】8.【宸殿西の間】救世観世音菩薩像(くぜかんぜおんぼさつ)(重文)鎌倉時代作、当初秘仏で観られませんでしたが、今は公開されています。不動明王像。阿弥陀如来像が祀られて居ます。部屋の中まで入って、拝観されることを、お勧めします。9.【宸殿本堂】正面に112代霊元天皇の御親筆の額が掲げて有ります【三千院】と。本尊は、薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)で伝教大師の作とされています。向かって右に歴代天皇の、左に歴代法親王の尊牌が祀られて居ます。本尊は秘仏で観られません。10.【宸殿玉座】三千院の中で最も大切な場所です。高貴の方が坐られる事から、此処からの【瑠璃光庭】と【往生極楽院】の眺めが素晴しいです。玉座は、高貴な方が坐られる為に、「格天井」(ごうてんじょう)になっています。正面に「王義之」(おうぎし)の【鵞】(が)拓本の大軸が飾ってあります。【虹の間】玉座の前の部屋で、「下村観山筆」天皇を太陽に見立てて画かれた「虹の図」従来の襖絵の常識を破って、鴨居の上の壁にすべきところを、特に「釣り襖」として、天井まで貫く大胆な構図で「虹」が画かれ、世界的に有名だそうです。虹の七彩の美しさもさることながら、下部の壁にまで、「水草」が可愛く画かれているのにも注目して見て下さい。障子の外から手をかざしますと、指の間から虹が映し出されます。「紅葉」ごろは更に美しく反映します。是非試みて下さい。11.【瑠璃光庭】本堂前から履物を履き、苔むす広い庭園は、心を和らげます。大きい地蔵菩薩が庭に立って居られます。三千院の美しさ、静けさ、清らかさ、雰囲気を味わう絶好の場所です。「造った庭」ではなく「造ることもなく出来上がっている庭」井上靖が「東洋の宝石箱」とした「池泉回遊式庭園」で、女性の着物姿が「水面にぬれた」と歌った場所かもしれません。想像して鑑賞して見て下さい。【紅葉】【雪】景色は表現の出来ない感動を与えて呉れます。「薬師瑠璃光」の如来の道場のごとく清らかで自然の姿。「杉苔と杉木立」を満喫して下さい。【有清園】瑠璃光庭の一部で、「往生極楽院」の東側にあります。「さざなみの滝」水音が静けさを感じさせます。あちこちに「童地蔵」石仏が微笑ましく、皆様を歓迎しておられます。12.【往生極楽院】【阿弥陀如来】脇侍として【観音菩薩】【勢至菩薩】の坐像がゆったりと祀られて居ます。極楽浄土への御来迎の形で、「観音菩薩」は、蓮華坐を持って居られます。両脇侍は、あぐら坐でなく、「大和坐り」と言ってとても珍しく、腰をやや立て、今や迎えようとされる、動的感じを与えて居られます。「阿弥陀如来の印相」は「上品・上生」で極楽浄土への最高の迎え方をして居られます。仏さんを大きく囲う為、天井は、船底型になっています。彩色は今は剥げてしまいましたが、往時は、美しく極彩色で有ったと考えられます。板塀には、25菩薩三千仏、天井には飛天、柱には極楽浄土に咲く「宝相華」(ほうそうげ)も画かれていたようでてす。お坊さんのお話では、「建礼門院さまが、この優しく心の安らぎを感じさせる阿弥陀さん三像を目の前にして、平家の菩提を弔うに相応しいとして此処大原の里に余生を送ることを決意されたのではないでしょうか」と。 次回は、周辺部の見所を御紹介しましょう。
2010.03.10
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【三千院1】天台宗 開基 最澄(伝教大師) 山号 魚山(ぎょざん) 大原は、京都を訪れる若い女性にとって、嵯峨野巡りと並んで人気のあるところです。「京都 大原三千院 恋に疲れた女がひとり 結城(ゆうき)に塩瀬の素描(そびょう)の帯が水面(みずも)にぬれていた京都 大原三千院 恋に疲れた女がひとり」デューク・エイセスの歌声が耳に残ります、作詞家 永六輔が京都の代表として選ばれたようです。グ―グルで「京都 大原三千院 恋に疲れた女」として検索されると、デューク・エイセスの歌のキャシュで、曲が流れ、写真が次々表示されます。一度お試しになられては、 「寂光院」から紫色の「ちそ畑」を眺めながら、坂道を登ったところに「三千院」が有ります。「穴太積」(あのうづみ)と称して、滋賀県坂本の穴太衆の作業で石垣が目立ちます。地震があれば余計に揺すられて固まる仕組みに成っています。フランスの女性客に説明していましたら「よっぽど自信が有ったのですね」とジョウクで返されました。桜の馬場と言いますが、紅葉が素晴しいです。 大原は、【声明】(しょうみょう)の道場の地で、「声明」とは、お経に節を付けて、歌う様にお経を唱えます。とても荘厳で仏への世界へと誘われ落ち着きの保てる雰囲気になります。従って「三千院」桜の馬場の両出入り口「呂川」(りょかわ)と「律川」(りつかわ)が流れる「橋」が架かっています。何れも「声明」の音律から付けられたもので、節回しが上手く行かない時に、酒に溺れて酔っ払って言語のはっきりしない人を「ろれつがまわらない」という語源が出来たそうです。【天台五門跡】妙法院(三十三間堂)・青蓮院・毘沙門堂(山科)・曼殊院・三千院格式の高い寺院で、天台座主の後継者候補が門跡として、仏事に坐しておられる方が多いです。現在の比叡山延暦寺の総本山で「256世天台座主」になられた「半田孝淳(こうじゅん)座主」は「曼殊院門跡」でした。「三千院」の建物は、【往生極楽院】1143年建設を除き、明治以降にに修理改築された建物と比較的に新しいです。【順路】1.「呂川」に架かる「魚山橋」を渡り、「穴太積」の石塀と茶店で挟まれた「桜の馬場」を散策、【御殿門】の前の石段を登ります。門前に大きく「三千院」の立て札が掲げてあり、記念撮影に、シャッターを切っておられます。2.受付を済ませて玄関に入りますと、先ず目に付くのが、【香時計】です、朝灯した香の軌跡で時を図る仕組みで、珍しいです。3.同じ場所に、「往生極楽院」の阿弥陀如来の脇侍の一体「勢至菩薩」の大和坐りの写真が大きく飾られています。4.【坪庭】京の都では、昔、面玄関の間口の幅の広さで課税したそうです。そのため奥行きを長くして建造しました。いわゆる「鰻の寝床」と称します。健康上中間に太陽をと言うことで、坪庭を設けました。その雛形が此処にも有りました。家の中に庭を設けたところから「家庭」の語源ともなるほど大切な要素でもありました。「三尊石」植木「千両」そして苔が飾られています。5.おみくじの元祖「元三大師」が祀られた部屋が有ります。「角大師」(つのだいし)とも言われお札が置かれています。帰って玄関入り口に飾る事で、魔除けになるとの信仰です。6.【聚碧園】(しゅへきえん)「芝法師琳賢(りんけん)」の原作で、庭師金森宗和が自ら手を加えて今日の清楚にして優雅な庭園が生まれました。池の源は、「音無川」の滝よりで、杉木立の間から「往生極楽院」が望めます。小さい池の奥に「枯れ滝の石組み」は古いです。7.【客殿】最近内部が改造されて、開放的に成りました。客殿から「聚碧園」を眺める事も出来る様になりました。以前は廊下伝いでした。本堂以下は、次回にご紹介しましょう。
2010.03.09
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【寂光院】(じゃくこういん)天台宗 開基 聖徳太子 山号 清香山 京都観光の嵯峨野巡りに次いで、人気のある大原三千院を訪れる前に、「寂光院」に参りましょう。平家物語に登場します「後白河法皇」の【大原御幸】の辿られた道は、「上賀茂神社」から鞍馬街道を経て、市原・静原街道に入り、【江文峠】(えぶみとうげ)経由大原の里に入ります。普通は「鯖街道」を路線バスも走る道ですが、古を偲びつつ利用するのもまた楽しいです。車も空いています。 594年と言いますから、平安京遷都794年の昔、聖徳太子か父君の31代用明天皇の菩提のため、創建されたと伝えられています。「六萬体の地蔵菩薩」が祀られていましたが、近代放火で焼失、現在新しく再建されました、本尊地蔵菩薩立像の向かって左に「建礼門院像」右には侍女の「阿波の内侍像」が安置されています。阿波内侍の姿は、「大原女」(おはらめ)のモデルとなったそうです。 建礼門院は「徳子」と言い、平清盛の娘で、80代高倉天皇の中宮(皇后)で、81代安徳天皇の生母で、源平合戦「壇ノ浦」で平家滅亡の際、母子ともに入水されましたが、源義経に母だけが助けられ、一時京都東山の「長楽寺」で、出家され、一説に寄れば安住の地を求め山道を超え大原の里に辿り着かれ、「極楽往生院」の「阿弥陀如来像」の優しさに触れ、「平家一門」の菩提を弔うに相応しいと、余生を「寂光院」で静かに送られたということです。村人達は、建礼門院を慰めようとして、畑で採れる野菜は勿論、「ちそ」栽培で「柴漬け」を発案、お食事の進むように、親しく付き合われたそうです。「京漬物・柴漬け」の発祥。 29歳の秋も深まるころ、「後白河法皇」が10人の侍女をお供に、お慰めに来られたと言う平家物語・謡曲で有名な「大原御幸」が当時を偲ばれます。建礼門院は中宮のため、院の東隣に御陵として、石段をかなり登ると辿り着けます。阿波内侍の墓は谷を経て向かいに位置す「翠黛山」(すいたいさん)に階段を登った所で、ご主人を永久に見守りつつ眠って居られます。境内には、「汀(みぎわ)の池」樹齢1000年の「姫小松」(嵯峨野巡り祇王寺仏御前の舞で紹介)「雪見灯篭」そして滝の流れる小規模の庭園を鑑賞する事が出来ます。更に心有る方は、境内の西側の外に、一応縄で仕切られていますが、断わって中に入らしてもらいますと、「建礼門院庵居跡地の碑」が有り、此処に入った途端、静寂と霊気が身に染みて、「寂光院」を訪れたな、と最高の雰囲気を味わう事が出来ます。未だに「清水」が湧き出て、当時のお住まい方が偲ばれるようです。「穴場」と心得て下さい。建礼門院は此処で採れた生花を摘み取り、仏前に供えられたと聞きます。 この庵室で静かに息を引き取られる時に、西(極楽浄土)から紫雲がたなびき薫香が庵室に充ち、空から妙なる音楽が聞えたと「平家物語」に記されているそうです。幾多の悲しみと苦労を体験なさり、御歳59歳で御逝去なされました。 次回は、「大原三千院」を訪れたいと存じます。
2010.03.08
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【車折神社】(くるまざきじんじゃ) 祭神 清原頼業(きよはらよりなり)高倉天皇に仕えた「松尾大社」から再び「桂川」を遡り、「渡月橋」の手前を三條通りを東へ少し車を進めた、北側に「車折神社」が有ります。「三條通り」は東西に最も長く、渡月橋から「三條大橋」を渡り、一山越えて、大石蔵之助で有名な、「山科区」にまで及びます。ちなみに、南北は、「千本通り」は、千本北大路から淀の競馬場まで続く長い通りです。 境内に独立して、「芸能神社」が祀られ、多くの芸能人が芸の上達を祈って、奉納する、名前の書かれた赤い垣根がずらっと並んで壮観です。往時「美空ひばり」の名も見かけました。最近では「五木ひろし」が目立ちます。近くに、太秦の撮影場もあり、又舞踊関係の方の名もあります。 本殿前には、石積みの置き場があり、神石を社殿で願い事をして、家に持ち帰り、祈願が成就した人が、お礼参りして、積まれた物だそうです。大勢の願い事の適った証拠があり、微笑ましいです。 参道には、元宮司であった「富岡鉄斎」の絵画にまつわる「筆塚」が奥ゆかしく構えていました。 「車折」は後嵯峨天皇の「大堰川御幸」の際に、社前で御車の轅(ながえ)が折れてしまいました。それで神様の威光を恐れられ、「車折大明神」の号と「正一位」をおくられたそうです。【三船祭】毎年5月第三日曜日に嵐山渡月橋下を流れる「大堰川」上流で行なわれ、神社から行列があり、船を浮かべて、平安時代の王朝風に、優雅に執り行われます。龍頭・鷁首(げきしゅ)のほか詩歌・献花など20隻ほどの船で、「龍頭船」では、管弦楽がそして「鷁首船」では、迦陵頻伽(かりょうひんが)(極楽浄土に住む鳥)や、胡蝶(こちょう)の舞姿が素晴しく、盛会の内に最終的には、多くの「扇子」が乗船の女官から流され、それを拾うべく、ボートを漕ぎ寄せて、賑わう姿は、嵐山の一つの風情ある祭りと言えましょう。 其の様子を「仁和寺宸殿の襖絵」に「三船祭」が画かれています。 右京区地区は、大変寺社共に多く見所が有りました。次回は左京区「大原」へと進みたいです。
2010.03.07
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【松尾大社】祭神 大山咋神(おおやまくいのかみ)・市杵島姫(いちきしまひめ) 【大山咋神】は、「下鴨神社」で記しましたが、「上賀茂神社の祭神」「別雷神命」の養父にあたると言われています。母君は「下鴨神社の祭神」「玉依姫命」「高尾神護寺」より京都市内よりに少し車を走らせますと、「高尾・嵐山パークウエイ」有料道路の入り口に参ります。ドライブしている内に、「神護寺」が谷を隔て、山中高くに見られます、「錦雲峡」の山肌は、秋の紅葉時季には、思わず息を詰まらせるほどに、感動を与えてくれます。中間地点では、車を停めて、観覧場所があり、眼下に「保津峡」景観を味わう事が出来ます。 現代の天皇両陛下も、皇太子の頃にご観覧されました。嵐山に近づくと、「京都市内」の景色も、観る事が出来ます。「鳥居本」が出口となり、一路嵐山「渡月橋」へそして桂川を南行、川下の次の橋が「松尾橋」で西へ渡りきった正面に、「松尾大社」の鳥居が見えます。道中「堤」からの後ろを振り向きますと、「渡月橋」とお饅頭のような「小倉山」が調和良く観る事が出来ます。 此処「松尾大社」は大切な「水」を神格化した場所で、「愛宕水」の名水が沸きでて、現代も近所の方が汲みに来られる方が多いようです。ご飯に、喫茶店のコーヒーにとても美味しいそうです。 清水は、お酒の醸造に適することから、「酒」の神さまとしても有名で、銘酒の各業者の酒樽の菰が奉納されています。 先ず神殿の前で伏見その他の酒の菰かぶりの酒樽の奉納を見られて参拝され、直ぐ庭園へと続く入り口に「亀の井」と称する涌水名水を口に含まれるも良し。庭園は近代式で昭和49年~50年にかけて「重森三玲」が造園されました。凡そ200個の石を徳島・吉野川の青石を取り寄せられました。【曲水の庭】「平安風」に【盤坐(いわくら)の庭】「上古風」上古には神社に社殿無く「山中」の岩を「神霊」の象徴としました。【蓬莱(ほうらい)の庭】「鎌倉風」不老・不死の仙人の島 次回は嵐山「三船祭り」で有名な「車折神社」「芸能の社」へ参りましょう。
2010.03.06
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【神護寺】【高尾山神護寺】高野山真言宗別格本山 開基 和気清麻呂 山号 高野山 高尾は、京都では、「紅葉」の名所で、シーズンでは、自家用も身動き出来ない大渋滞と成るほどです。従って駐車場も何処も満杯となります。 山岳仏教の一つで、街道から一旦、清滝川の清流へと降り、再び石段を山へと登り詰めます。年老いた人には、険しい難所でも有ります。1.【仁王門】(両側に藤原時代の「持国天」「増長天」が護法神として構えています)に着いて、ひと息つき受け付けを通じて入門します。2.直ぐ右手に【和気清麻呂公霊廟】奥には墓が有ります。常に桓武天皇の側近として、「平安京」を進言された立役者でも有ります。現在でも「高尾山」から「京都」を見守り「京都御所」の西側では「護王神社」として、朝廷に仕えた形としても、祀られて居ます。3.【鐘楼】日本三名鐘の一つです。神護寺は、「銘文」として、宇治平等院は、「形」として、そして滋賀三井寺では、「音色」として讃えられています。4.【金堂】【国宝】の薬師如来(貞観時代)神護寺の本堂に当たり最も大切な場所です。脇侍に「日光菩薩」「月光菩薩」(がっこうぼさつ)(重要文化財)十二神将及び四天王が祀られ極めて落ち着いた感じで、薬師さんのお顔を拝するとき、荘厳な感じで何時までも眺めたい気持ちに成ります。ここも「時代劇」に広くって多い石段を背景にロケが採り上げられています。5.【多宝塔】【国宝】の【虚空蔵菩薩】が祀られて居ます。秘仏で観られません。6.【大師堂】本尊【弘法大師】京の都を隅から隅まで仏典に基づき護国のため奔走されて、その足跡は、至る所で、拝する事ができます。7.【かわらけ投げ】壮大なパノラマが開ける眼下に断崖、緑の林があり、「清滝川」「錦雲峡」の景勝が美しく、茶店で「かわらけ」を買って水平に飛ばすと、上手にすると、「遠く」「長く」渓谷に吸い込まれて行き、周りの人の喝采を帯びます。自然界で和やかな雰囲気を味わう事が出来ます。 本坊には、【国宝】の【源頼朝の絵画】は有名です。 次回は、【松尾大社】に戻ります。
2010.03.05
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【大覚寺】真言宗大覚寺派総本山 開基 嵯峨天皇 山号 嵯山 いよいよ嵯峨野巡りの集大成の「大覚寺」に参りました。現代で有りながらも、未だに「時代劇のロケ地」として、大自然の趣を見せています。「大沢の池」池畔からのシーンが多いです。中国の洞庭湖を模して造られ、向いに「遍照山」(太陽のこと)が池面に写され、舟を浮かべて観月にも興ずることが出来ます。池の随分北の方面に歩みますと「名古曽の滝跡地」が、ひっそりと存在していました。百人一首に歌われています。「滝の音は 絶えて久しくなりぬれど 名古曽流れて なを聞えけれ」 藤原公任(きんとう)この状況で、作詞家 永六輔は、「女ひとり」1節「大原三千院」2節に「栂ノ尾高山寺」そして3節に「らんざん大覚寺」を「京都」として選ばれました。ディュクエイセスの歌「京都らんざん大覚寺 恋に疲れた女がひとり 塩沢かすりに名古屋おび 耳をすませば滝の音 京都らんざん大覚寺 恋に疲れた おんなが ひとり」「直指庵」も近くにあり、女性の心の癒し安らぎ憩いが得られる環境に嵯峨野はあるようです。 「大覚寺」は「嵯峨天皇」の離宮を寺に改め、代々法親王が継がれた格式の高い門跡寺院でも有ります。境内は渡り廊下で繋がり、広く、今でも御所風の雰囲気に満ちて、優雅な気持ちを味わう事が出来ます。 玄関(何故か「明智門と言います)の門を潜りますと、豪華な「御嵯峨流」の生花が歓迎してくれます。各部屋の襖絵には、狩野派の画家によるものが、観られます。【宸殿】(しんでん)後水尾天皇の中宮(皇后)「東福門院」の旧殿を移築されたものです。前庭に、「左近の梅」「右近の橘」が構えています。「桜」のはずが、100代後小松天皇まで「梅」でした。【御影堂】嵯峨天皇・後宇多法皇が祀られて居ます。【御霊殿】後水尾天皇の御法体尊像が祀られて居ます。【五大堂】弘法大師御作と言われる「五大明王」は「嵯峨天皇」が祈願される「本尊」でした。【霊明殿】嵯峨天皇・後宇多法皇を始め歴代御門跡の尊牌、全国華道の師範の霊が納められています。【心経殿】般若心経の写経場。 嵯峨天皇が弘法大師のお勧めで、写経された所、世の悪病が鎮まり、その後も引き継がれています。若い訪問者も増えています。【正寝殿】南朝・北朝が講和された歴史的場所と成っています。結果南朝の後亀山天皇から、北朝の後小松天皇(一休和尚の父君)へ譲位されました。 京都観光の人気の高い嵯峨野巡り、スケールの大小、壮大さ、侘びしさ、祈りの場、紅葉・桜の名所、景色の名勝、竹や苔の美しさ、悩める人には慰めてくれる環境。変化があって、四季を通じて、又感想が違うそして、詩歌の跡の文化を味わう観光地でした。 次回は、高尾の【神護寺】に参りたいと思います。
2010.03.04
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【清凉寺】(せいりょうじ)【嵯峨釈迦堂】浄土宗 開基 ちょう然(ちょうねん) 山号五台山 嵯峨野巡りも終えて、嵐山の方に戻った位置に「嵯峨釈迦堂」があります。この一帯は「源氏物語」に登場する「源融」(みなもとのとおる)が営んだ山荘(栖霞観)(せいかかん)と言われています。「源融」は嵯峨天皇の皇子で、「源氏」の性を受けました。 奈良の東大寺の僧、「ちょう然」が中国「宋」から帰国し、中国の五台山にならって、「愛宕山」を五台山に見立てて「清凉寺」を建立、「栖霞寺」内に釈迦堂を建てました。完成を待たずに逝去、弟子によって其の意志が完成しました。有名な【三国伝来の釈迦如来像】【国宝】(インド・中国・日本)仏像に独特の筋が入り、頭髪は渦巻きのように現されると言う「清凉寺式釈迦」として異色の雰囲気を持つ、「お釈迦さん」です。全国に100体あるそうです。 【阿弥陀堂】阿弥陀如来・観音菩薩勢至菩薩(両脇侍)【国宝】左大臣「源融」は、晩年、阿弥陀如来像の建立を発願しましたが、完成を待たずに他界しました。息子達は亡父の意思を継ぎ、一周忌に完成しました。 死後極楽浄土を願っての造像は、後に「藤原頼通」発願の宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像に繋がりました。 【釈迦堂内】の【釈迦十大弟子】足には靴を履いています。奈良の興福寺は草履を履いているようです。十大弟子像には【通肩】(つうけん)は少なく、「右肩」を出している姿が多いようです。この着方を「偏担右肩」(へんたんうけん)と言い、仏や師匠を礼拝するときの恰好とされています。「十大弟子」にまつわる二題【阿那律】(あなりつ)釈迦の従姉妹にあたり、お説教中居眠りし、反省して「私は、一生眠りません」と誓い、目がわるくなって失明します。顔を右に向け必死で目を見開いている姿。結果彼は失明しますが、「天眼智恵の目」を得ました。【優波離】(うばり) 阿那律の従者でありながら、主人より先に出家してしまいました。奴隷の身分で、自分のように身分の低い者でも釈迦の弟子に加えられた歓喜の表情を浮かべています。【宝篋院】(ほうきょういん)臨済宗天龍寺派「清凉寺」仁王門の西に位置します。二代将軍足利義詮(よしあきら)の塔所で戒名から寺名にしています。有名なのは楠正成の子「正行」(まさつら)の首塚が義詮の墓所に隣接して、義詮の墓所が三重の搭」そして正行の首塚が「五重の搭」として石塔が隣接して立っています。南北朝の敵ながら。義詮が正行の人柄を慕い、其の側に葬るように遺言されたということです。秋には【紅葉】の素晴しい穴場ですのてで、是非覗いて見て下さい。【森嘉】(もりか)仁王門の東へ直ぐの所に「嵯峨の豆腐」の老舗が有ります。「愛宕水」の名水で作り上げた豆腐は、朝一番に売切れてしまうほどです。ひろす・湯豆腐等 次回は、「京都らんざん大覚寺 恋に疲れた女がひとり」で有名な嵯峨の代表的存在の「大覚寺」へまいりましょう。
2010.03.03
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【嵯峨野巡り11】 愛宕道とは外れますが、女性の哀話として、欠かせない閑居が有ります。NHK大河ドラマ【篤姫】が鹿児島から都の近衛家に養女となり、其のときの理解者が、【津村村岡】でした。【直指庵】(じきしあん)浄土宗 開基 独照性円(どくしょうせいえん) 山号 祥凰山大覚寺の北方に位置します。やはり孟宗竹籔に包まれたひっそり佇む庵が建っています。隠元禅師の高弟「開基独照性円」が草庵を結びました。「直指人心見性成仏」(じきしにんしんけんしょうじょうぶつ)禅宗の悟りを示した言葉です。荒れ果てた「庵」を幕末の勤皇家、近衛家老女「津村村岡」によって再興されました。「村岡局の胸像」は、亀山公園の敷地内にひっそり座しています。【村岡局】は「大覚寺」の寺侍(てらさむらい)津村左京の娘でした、名を「矩子」(のりこ)といい、8歳で近衛家に仕えました。「勤皇」のこころざし厚く、女性でありながらも、国事に、奔走されました。「安政の大獄」の際、投獄されるはめにまでなりました。その後釈放後に、嵯峨野に帰り、「直指庵」にて、静かな余生を送り、88歳で亡くなりました。嵯峨野の心を癒し鎮める適所なのでしょうか、「悩める女性」の「かけ込み寺」しても世に有名でして、その悩み事を記した【想い出草】として、大學ノートが侘びしく置かれて居ます。境内には、【想い出草観音像】が優しく見守って居られる様に思えます。 次回は、【嵯峨釈迦堂】に参ります。
2010.03.02
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【嵯峨野巡り10】 嵯峨野巡りの道は、愛宕神社への愛宕街道とも言われています。その「一の鳥居」に至る、古い町並みを京都市で数少ない、【伝統的建造物群保存地区】として、指定されて居ます。鳥居を挟んで、手前に【蔦屋】(つたや)越して【平野屋】と言う萱葺きの茶屋がとても風情が有ります。鮎料理が主で、表に「赤い毛氈が腰掛に敷かれているのが印象的です。 更に道を進めてまいりますと、自動車道と交わる所に、「愛宕寺」が有ります。【愛宕念仏寺】【愛宕寺】(おたぎじ) 天台宗 開基 弘法大師 山号 等覚山 故西村公朝(にしむらこうちょう)和尚さんの寺です。ご生前中「祈りの造形」と題して、NHKの3ヶ月に亘る講義から、仏像の基本的な観方を興味深く教えて頂き、京都観光奈良も含めとても参考に成りました。「国宝の審査委員でもあり仏像修理」の担当出来る「仏師」でもありました。 現在も本屋で、仏像に就いての「公朝」さんの本が見つかれば、京都・奈良の仏像鑑賞にとても役立つと確信します。【仁王門】の側に「三宝の松」が一本有ります。「将軍塚」の「三鈷の松」(さんこのまつ)と同じく何か宝物が得られるのでしょうか?【羅漢石仏】(らかんせきぶつ)現代一般有志の方の志望で、一個の石が与えられ、各自の構想で、「羅漢像」を彫られたものが、数多く並んでいます。笑顔あり何とも云えない表情が夫々伺える様です。【本堂】空也上人の弟子の「千観内供像」が有ります。 現代の自動車道は、過去電車が通って居りました。「愛宕寺」の側から「トンネル」があり、越した所まで、通じていました。何故なら、「愛宕山」山上の「愛宕神社参詣」の登り口に至る為でした。今は廃線となり、自動車で、【清滝橋】即ち登山登り口まで行けます。「明智光秀」も愛宕詣でで,神託を得たとして、「敵は本能寺にあり」と丹波行きを返して都に攻め入ったとも言われています。火の神様です。 「清滝」の渓谷の清流は、とても景観で静けさを感じさせます。紅葉の景勝地でも有ります。 嵯峨野巡りは、如何でしたか?皆様のご来訪数が伸びて、やはり関心の深さに感謝しています。一度は日本にこんな素晴しい心琴をもたらす、文化の象徴とも言える場所へのご来訪をお待ちしています。。 次回は、「嵯峨釈迦堂」そしてその後「大覚寺」へと参りたいと思います。*
2010.03.01
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