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【嵐山4.】嵐山。大堰川(おおいがわ)の上流は渓谷となり、更に深淵の様相を味わう事が出来ます。川沿いの亀山公園には、今問題の尖閣諸島の中国漁船で、日中関係はギクシャクしていますが、中国の親日家周恩来総理の歌碑 が静かに佇んでいます。 【碑文】雨中嵐山-日本京都 一九一九年四月五日雨中二次遊嵐山、両岸蒼松,挟着幾株桜。到尽処突見-山高流出泉水緑如許、繞石照人。瀟瀟雨、霧濠濃;一線陽光穿雲出、愈見嬌妍。人間的万象真理、愈求愈模糊;-模糊中偶然見着一点光明、真愈覚嬌妍。 雨の中二度遊びに来ました。両岸には、青い松がそして幾株かの桜の花が混じっていました。岸の道が尽きる処で、高い山が望めました。流れ出る泉は、緑色に映り、石を巡って人の姿を照らしました。小雨は深々として降り、霧が濛々と漂よって居ました。一筋の太陽の光線が、雲間から射し込みました。とてもなまめかしい光景でした。人として考えるに、森羅万象、真理は、いよいよ求めれば求める程はっきりしませんが、そのはっきりしない中で、たまたま一点の光明を見出すことが出来れば、眞にいよいよなまめかしくあでやかで美しいものでした。中国も、世界の世論に感じてか、最近になって軟化しつつありますが、一昨夜のテレビでエピソードが語られました。中国文化革命の際、とう小平首相のもと、赤色を掲げていましたが、信号機も赤は、進めとして、交通事故がたえなかったとか、周恩来首相は、諫めで、「世界万国が信号機の赤は止まれと決まりごとになっているので、それに従いなさい」と。中国の要人が日本を訪れるとき、よく表敬訪問します。日本で学び歌碑まで遺した周恩来の嘆きが聞えそうです。
2010.09.30
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【嵐山3.】渡月橋北詰めから三条通を少し東へ、大きい土産物屋の間に【臨川寺】(りんせんじ) が有ります。夢窓国師(むそうこくし) (こくしむそう)と覚えます、麻雀で手が着かないときに17個全部種類が違う、私も1回体験しました。が建てた寺で、 三代足利義満に墓所がみつかりませんが、戒名として【鹿苑院天山道義】として此の寺におさめられていますが、一般公開はしません。渡月橋の上から嵐山を望めます。三船祭りには、女官が乗船して扇を流す儀式が有ります。渡月橋を南に渡った位置からのシャツターチャンスです。真ん中のお饅頭のような形の山が、【小倉山】百人一首で有名な山です。右手奥には、【愛宕山】が見えます。 大堰川船を浮かべる為に、ダムにしています。正に山紫水明のこころが清々しくなるのを覚えます。
2010.09.29
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【嵐山2.】京都の代表的な景勝地【嵐山】山紫水明。害虫被害の「なら枯れ」もなく、緑一色で人の心を癒してくれそうです。渡月橋の最適のシャツターチャンスの場所。渡月橋の北詰めに建っていますが、殆ど関心なく通り過ぎられます嵐山の【三船祭り】に【車折神社】(くるまざきじんじゃ)よりのお旅所その前に、小さい石橋も【琴きき橋】と記されています。 小督の塚、仮住まいの場所とされています。渡月橋より10mの位置謡曲【小督】で物語れて居ます。【黒田節・第二節】 峰の嵐か 松風か 尋ぬる人の 琴の音か 駒(こま)引き止めて 立ち寄れば 爪音(つまおと)高き 想夫恋(そうふれん)嵯峨野は、女性の観光客の人気No1と言われています。歴史上の、女性の哀話が潜んでいるからかもしれません。嵯峨野めぐりの門出に、【琴きき橋】は見過ごされます。残念なことです。平清盛の頃、宮中で最も美人で、然も琴の名人でもあった【小督局】(こごうのつぼね) が【高倉天皇】の寵愛を一身に受けていました。ところが、高倉天皇の中宮(皇后)は清盛の娘【建礼門院】であったので、烈火のごとく怒り、小督を宮中から追放しました。そして此処嵯峨野に逃れました。然し高倉天皇の思慕は収まらず。家来の【源仲国】に遣わし秋霧のはざまにかすかに聞える琴の音に、此処渡月橋のあたりで馬を留め琴の音の館に立ち寄りますと、爪音高い激しい音でお互いが思いをはせる「惣夫恋」の曲を聴きました。早速宮中に事情を話し、連れ戻されました。その後、高倉天皇の遺言により、東山三十六峰【清閑寺山】麓、国道1号線東山トンネル西出口附近に、高倉天皇陵の側に、小督の墓もあり、共に仲良く眠っています。
2010.09.28
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【嵐山1.】涼しくなってきましたので、今朝嵐山へ行ってきました。 嵐山電鉄の電車です。市内「四條大宮」から200円均一です。とても便利に成りました。右は、嵐山駅です。駅前に【天龍寺】があります。美空ひばり館も駅斜め向いにあります。【渡月橋】です。左の山の中腹に【法輪寺】虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)智恵の仏さんが祀られ、子供たちの「七五三の祝いに、先に法輪寺にお参りして、智恵を授かり、渡月橋を振り向かないで、子供さんが渡りきれば、智恵が授かると言う伝説で、真剣な様子の子供さん達を見る事が出来ます。大堰川に写る山の景色も、心和みます。天龍寺の紅葉頃のポスターです。紅葉の美しい嵐山そして、嵯峨野一帯は、京都の一つのポイントでしょう。
2010.09.27
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【地震・雷・火事・親父】今朝の京都は、雷から目を覚ましました。久方振りに雨の激しい音に、大自然の営みを感じました。長期予報では、今年は急激に温度が変化するそうです。秋は、短くそして冬は、極端に寒くなると言う事で、覚悟して構えなければならないでしょうね。天下人も、自然の現象には、勝てませんでした。戦前までは、親父も威張っておられましたが、現代では如何なものでしょうか?昨夜は、中秋の名月でしたが、夜に成ると曇り空と成り、名所の大覚寺大沢の池での、船遊びとしての観月の宴も、地元の新聞で僅かの雲間の名月を捉えていました。秋の虫が奏で、ススキの穂が揺らいでいました。今年の紅葉は、どうなるのでしょうか。
2010.09.23
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【江】 (ごう) (姫たちの戦国)平成23年NHK大河ドラマ原作・脚本 田淵久美子 【篤姫】で話題に成った作家三女【江】(ごう) 上野樹里(じゅり)後に【崇源院】長女【淀】 宮沢りえ次女初(はつ) 水川あさみ 京極高次に嫁ぐ【市】 鈴木保奈美 三姉妹の母・織田信長の妹【ねね】 大竹しのぶ浅井長政とお市の方との娘三姉妹は、小谷城跡地のある滋賀県では、大人気に成っています。何れも格別の美人とされ、戦国時代を逞しく、生き抜きました。中でも【江】は長女千姫そして後水尾天皇の中宮として、我が子【和子】を名将軍三代家光の母でもありました。京都養源院を姉の淀君のあと、火災のため再興したのも【崇源院】即ち【江】で、歴代徳川将軍の位牌が残されています。龍馬伝に継いで、楽しみに成りました。
2010.09.22
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【奈良の大仏より大きい大仏】豊臣秀吉の野望は、奈良の大仏さんより2m高い仏像を造りました。然し、【地震・雷・火事】の大自然には逆らいきれませんでした。奈良の大仏さんは、1300年間異常なく、続いています。お問い合わせが有りましたので経緯を記して見ます。 天正14年(1586) 豊臣秀吉、大仏殿建立計画文禄 4年(1595) 完成、 高さ19m木像金漆塗坐像慶長 元年(1596) 1年足らずで大地震で倒壊。慶長 3年(1598) 秀吉伏見城で逝去。慶長 7年(1602) 豊臣秀頼意志を継いで着工するも鋳物師の過失 により、仏像の銅が融解出火。慶長15年(1610) 徳川家康の推挙で(豊臣の財政減少の画策)銅製で着工。慶長17年(1612) 完成。慶長19年(1614) 問題の【梵鐘】も完成。大阪城冬の陣の計略となる。寛文 2年(1662) 再び地震で、大仏は小破するも、木像に造り直す。 壊れた銅は、 「寛永通宝」に変わる。寛政10年(1798) 落雷.木造大仏は灰塵と化す。 (京のだいぶつさん) わらべ歌(京都鬼遊び) 京の京の 大仏っあんは 天火(てんび)で 焼けてなァ 三十三間堂が 焼け残った ありゃドンドンドン こりゃドンドンドン 〔詞〕゜ 「うしろの正面 どなた」4代目 江戸の後期天保年間に再建。 肩から上の木造大仏昭和48年3月28日深夜出火。私も観る事が出来ましたが、関心なく見られませんでした。 豊臣の栄華も, かくのごとく家康によって、崩壊、豊臣の負となる梵鐘とか、耳塚(鼻塚)のみを残して、豊国神社すらも倒壊させました。大仏さんも遺る運命では無かったようです。
2010.09.21
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【養源院】 浄土眞宗遺迎派三十三間堂の東側にあり、【浅井長政の菩提寺】養源院豊臣秀吉の側室淀殿が父の浅い長政の追善のため、文録三年(1594)に政伯法院(長政の従弟)を開山として建立した寺で、長政の法号「養源院」を寺号とした。「養源院天英宗清」建立後、間もなく火災に遭ったため、元和七年(1621)に淀殿の妹で徳川秀忠夫人の【崇源院】が伏見城の遺構を移して本堂を再現し、以後徳川家の菩提所となり、歴代将軍の位牌を祀っている。本堂の廊下の上の天井は、関ヶ原の合戦前、家康の命を受けて伏見城を死守した、鳥居元忠以下の武士が自刃した時の廊下の板を天井に上げ、その霊を弔ったもので、俗に血天井としてしられている。本堂の杉戸及び襖の絵(ともに重要文化財)は、俵屋宗達の筆によるもので、杉戸には唐獅子、白象、麒麟の珍しい行動が描かれており、奇抜で新鮮味にあふれ、中学・高校の美術にももちいられている。 京都市以上が立て札の内容です。偶々訪れましたら、尼ご住職様と出会い、「浅井長政の墓が有るとききましたが?}ご住職曰く、「此の門から境内一園が、長政公の墓所即ち菩提寺ですよ」そして滋賀県の小谷城址(おだに)と長浜市の徳勝寺に墓があると教えて下さいました。そして京極家とも拘わりがあり、曼殊院の方と会ってきましたともいっておられました。来年のNHK大河ドラマは 【江】 の生涯がたまたま紹介されます。浅井家三姉妹の三女【於江与の方】即ち二代将軍徳川秀忠の正室そして千姫並びに名将軍三代家光の母君として、徳川で花を咲かせた女性の生涯を放映してくれそうです。養源院を再興したと偶然に驚きを隠せません。豊臣秀吉は、此の栄華を誇った土地も、全て家康が崩壊させました。自分がした秀次に行なったことが、自らが亡くなってから、その憂き目にあいました。豊国廟も野ざらしにされて、冷たい雨を凌ぎ明治の頃まで、再建されませんでした。全て、最近再興された新しい、建物と接しています。
2010.09.20
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【豊国神社】(とよくにじんじゃ)【豊国廟】の山麓、広い一帯は、豊臣の所領でした。拠って墓地の西に豊国神社が秀吉が亡き後、建てられました、ねねさまも一緒に祀られて居ます。社殿前の唐門は、【伏見城】から取り寄せたものです。お猿さんは、神にまで奉られたのですね。後に、徳川家康は方広寺の大仏共々壊しに掛かるのですが、ねねさまの願いで一時は破壊は免れますが、太閤壁等の一部が遺されています。方広寺の有名な釣鐘です。上の方に白いペンキで囲まれている「経文」の一部に(国家安康・君臣豊楽)(こくかあんこう・くんしんほうらく)家康の名を安の字で引き裂いた、そして豊臣は君臨し楽をする。呪いの経文と、難癖をつけて、大阪城「冬の陣」で城攻めをしました。歴史上大阪城落城の由来が、未だそのまま残っています。 方広寺の大きい岩を全国から取り寄せた。巨岩の石垣址です。栄華の極みを遺しています。奈良の大仏より大きい銅製の大仏があったそうですが、徳川によって壊され、「寛永通宝」の銭になったのだと聞かされました。【耳塚(鼻塚)】豊国神社の正面通りの南側に建っています。日本の天下統一にあきたらず、大陸にも支配の手を伸ばそうとした秀吉朝鮮半島に侵攻、秀吉の輩下の武将は、戦功のしるしるし首級のかわりに、朝鮮難民男女の鼻・耳をそぎ、日本に持ち帰ったそうで、それらは、秀吉の命により、この地に埋められ五輪の石塔を立て供養の儀がもたれたとされています。寛永の古図にもあり、当時のままという悲しい遺跡として、京都市が管理しています。
2010.09.19
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【着物着て 寝たる姿や 東山】服部嵐雪の句 (松尾芭蕉の高弟)右の高い山が人の顔に見えます【阿弥陀が峰】この頂上に豊臣秀吉の遺書に「我が屍を京の都を見下ろす所に葬れ」とあり、太閤旦(たいこうだいら)とも称します。真ん中が人のお腹の部分【清水山】で左が脚を伸ばしている【高台寺山】の麓ではねねさまが「旦那がそんな高いところなら、私は地中深く掘って葬ってください」と謙虚に高台寺【霊屋】に夫婦同じ東山で京を眺めつつ眠って居られます。人が横になって腹を突き出して寝ているようにも見えます。京都駅・「伊勢丹北がわの料亭」又はグランヴィア京都15階レストランからも眺望できます。京都は、三方山に囲まれ、緑の山は、心を慰めてくれます。次回は、豊国神社(とよくにじんじゃ)へまいります。東山三十六峰の南端の稲荷山 (七条大橋西詰めで撮る)阿弥陀が峰の麓、豊国廟の入り口京都女子大学学園の奥に有ります。【豊臣秀吉の墓への石段】560段上に有ります一度だけ訪問しましたが若い頃でしたが両足が笑って、降りる時は、別途山道を辿ってかえりました。五輪塔が石垣で囲まれた淋しい孤立の墓でした。
2010.09.18
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【瑞泉寺】(ずいせんじ) 山号 慈舟山 浄土宗禅林寺派 前関白豊臣秀次公御一族四十九宝塔菩提寺 坂本龍馬寓居の址【酢屋】(すや)と高瀬川を境にほんのそば三條通木屋町下がった位置に、人知れず菩提寺が有りました。太閤秀吉の姉「とも」の子、従弟にあたる【秀次】が、秀吉に実子が恵まれず、後継者として、関白の位まで授かってもらった処淀君との間にやや【秀頼】が産まれるや否や、難癖をつけて関白職を奪うばかりでなく、高野山に追放の上自刃に追い込まれました。それだけでは気が済まず、何の罪も無い秀次に仕えた女官及びその若君・姫君も三條河原で斬首。天下人の用心は、肉親をも信頼出来ないで、世にも恐ろしい地獄絵を見せ付けました。後に高瀬川を開削した【角倉了以】が、刑場の址地とされる此処に菩提寺を建てたとあります。この堂の中央に安置された地蔵菩薩は、秀次公一族の処刑の際、刑場の一隅にその木像を運び込み、次々と打たれる子女達に引導を授けたと伝わる尊像です。極楽浄土へ死者を導く【引導地蔵尊】として京洛の人々に今日なお崇敬されています。 寺伝では「定朝作」 秀次公四十九の宝塔首塚の前に「南無阿弥陀仏」と記された鐘棒五個が鳴らすと、共鳴してカランコロンといとも悲しい音色が境内をかなでていました。 殉職した四十九柱絵図 関白秀次公墓地標秀次の首塚三條河原の刑場で四十九柱の遺体を地中に埋め,その上に高野山からの秀次の首を西向きに晒し、三條大橋を渡る人々に晒したという、寺伝が残されています。少し涼しくなりましたので、一番に訴えたかった京の街の繁華街に近い,「酢屋」と【瑞泉寺】へ写真を撮りにいきました。殆ど人は、存在をご存知有りません。でも歴史で悲しい出来事は、太閤の栄華の蔭で歴然と残されていました。秀次の無念さを考え、四十九の御霊の菩提を祈ってまいりました。次回は、太閤の墓所を紹介します。
2010.09.17
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【無二の親友の手紙】終戦後、共に高校を4年制で卒業、彼はふるさと宮崎高鍋に帰って行きました。今回、懐かしいであろう、【京都の全容】が【ブログ】で書けましたので、郵送しました。その感想がとても素晴しいので、御紹介したくなりました。 主の平安八月二十五日、ゆうパック届く、「やっ、昭ちゃんからだ」見ると印刷物とある?開けてびっくり、大バインダーに、ギッシリトブリント「えーっ」とめくって、マタもびっくり「何だろう?」実はブロクなる言葉、きいてはいましたが、実物のプリントを見たのは初めてなのてす。最初の目次で?度肝を抜かれ、やつと本文へそして、今日は九月三日実に十日間かけて完読。。。否、感読いたしました。すぐに返礼すべきところ、中途半端な読み方では如何かと思いお礼のことばが遅くなり申し訳ありません。八月六日付け、昭ちゃんの手紙で、ブログに情熱を傾けており、アクセス一八五〇〇名とあったのですが、パソコンに全く無縁(特にインターネット)のアナログ的は、わたしには実感が伴はずしつれいしました。昭ちゃんいわば、生涯をかけて脳裏に蓄積きざみこまれた京都の千年の歴史のすべてを観光する者の立場に立って、ブログという新しい手法で、平易に、誠実に、しかも格調高く賀茂の如く流麗に説きあかす才能に只々驚嘆いたしました。アクセス二万件をこえのは驚異的なことだと息子もびっくりいたしました。中略貴重な資料大全集本当にありがとう。教会(カトリック高鍋教会)の「みことばの会」でも、よく仏教関係のことが話題になります。どうか利用させてください奥様にどうかよろしく 敬白親友を持って幸せをかんじました。挫折する頃に勇気つけられました。友の喜びは私の喜びでもあります。本日より、涼しく成るようです。コメントでも、大変ご心配を掛けていることに申し訳なくなりました毎日でなくっても、週に1回程度でも書いてはと言うご意見も 頂きました。マラソンの話題で苦しくっても完走することに意義があり。とも感じました。その線で今後望みたいです。応援よろしくお願い申し上げます。
2010.09.14
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【曼殊院・枯山水の庭園】【仏の世界】小堀遠州好みと称される作庭者の庭園に、石・砂・樹木そして燈籠によって、此の庭ほど、明確に表現されている庭園は、ほかに見掛けられないと思います。先ず、三千院でも一番奥に、【玉座】が有りましたように此処曼殊院にも、良尚法親王のお座りになった【玉座】の部屋が有ります。舟に乗っている感じで、お庭の鑑賞が出来ます。その玉座からの、「真正面」に此の庭園の中心的存在の大きい立石が立っています。滔々と流れる滝を表現。即ち生命の産まれ出る源として、【薬師如来】【過去仏】を表現しているようです。二ヶ所の石橋に分かれ、白河砂で、川の流れを表現、一つの道筋には、更に「水分石」(みくまりいし)が配置され、人の人生の分かれ方を表現しているようです、松の植木により、亀島・鶴島を設置し、特に鶴島は【宝船】の形として、西方に向かっています。(金閣寺でも有りましたね)そして庭園の周りに五個の燈籠が点在し、火袋の三つ目・二つ目そして一つ目3個存在します。お釈迦様の教え、【五時八教】は人生の指針のお経と言われていますそれにちなんで,【五基八燈】の燈籠が配置されています。真ん中の庭は、【釈迦如来】【現在仏】の世界と読めます。そして、西の庭園には、5月には真っ赤なサツキの花の花壇が広がっています。正に極楽浄土に迎えられる夕陽の如く、見事にアレンジされています。【西方極楽浄土】【御来迎の様】即ち【阿弥陀如来】【未来仏】へと。人の一生を夫々道は違っても、出生から宝船に乗って御来迎までを表現されているように、思われます。お寺さまでは、この説は成されません。一般でもお気づきに成っておられないようです。私個人の感想と思ってください。一見、とても整然として「美しい庭園」のイメージで、満足して帰られます。意義の深さを感得されれば、庭園の作者の意向が生きてくる気がして成りません。京都観光で私の一番お勧めしたい【曼殊院】良尚法親王の心の広い当時の生き方を学びつつ、兄上の桂離宮に似せても配慮が有ります。是非機会があれば、御訪問されることを願ってやみません。長期入院から退院後、病の身ながら262日続きましたが、今後は、折りに触れて、写真でも撮れたら、皆様に披露したいと思います。数々の激励で、此処まで続けられました事に心より感謝申上げます。有難う御座いました。皆様のご健康をお祈り申上げます。
2010.09.11
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【大原・三千院・虹の間】赤トンボが飛び交う、酷暑よりどこか秋めいて来ました。三千院の本堂の東奥に、【玉座】を拝してその前の【虹の間】から、欄干越しに、【往生極楽院】を観る景色がシャツターチャンスです。【玉座】には、格天井がほどこされ、 背後に中国の【王義之】筆写しの 【鵞】 の字が掲げて有ります。やはり皇位の方が坐られて最高の景色を眺めやられるのでしょうね。【虹の間】には部屋全体を使って、うっすらと「虹の絵」が書かれています。画家は。「下村観山筆」です。紅葉の頃には、部屋の中まで、色づくようです。ここで、皆様に、白い障子の外側に、お客様の片手を指も開いて、外側に宛がい、その手の影を、部屋の内側から、観ますと、指の開いた間から【虹色】に映ります。紅葉の時は、尚更に美しいです。皆様のご家庭でも、温泉にいかれても、和式障子があれば試して見て下さい。外でも【虹の窓】と称する所が、多々見受けられます。
2010.09.10
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【来迎】 (らいごう)美しい花を愛でつつも、何時かは枯れて土と化す様に人も何時しか、仏の迎えるときが、訪れます。三千院の【往生極楽院】には、【阿弥陀三尊御来迎】【国宝】が最も主たる訪問場所と思います。写真は撮れないので、検索して観て下さい。極楽浄土より、阿弥陀如来が此処では、左に観音菩薩が亡くなった人を蓮台に乗せるべく、両手に蓮の台を持って右には、勢至菩薩が両手を祈りの形で、両脇侍(きょうじ)は、大和坐りが珍しく、前かがみの形で、迎えようとするお姿です。阿弥陀如来の余りの慈悲深い優しいお顔に、建礼門院さまも此処大原の里で、やすらぎを懐いて、余生をみ仏に仕えられたと聞きます。【来迎院】 (らいごういん)音無しの滝を御紹介しましたが、【魚山橋】から300mの位置に有ります。天台宗祖【最澄】(さいちょう)の一の弟子【慈覚大師・円仁】が、中国の魚山より、【声明】(しょうみょう)を習得、「声明の発祥の地」とされています、そして中興の僧【聖応大師・良忍】が「声明の修錬場」として、再興しました。此処には、【薬師如来坐像】【釈迦如来坐像】【阿弥陀如来坐像】如来が共存されて祀られるのは珍しいそうです。【鐘楼】この深山の聖地で、鐘を突いてみてください。その音は、一入感銘を覚えました。大原三千院の観光も,時間のゆとりを持たれると、お客様に最高の秘境の趣きを味わってもらえます。来迎院より更に、200m奥に【音無しの滝】が観られます。行き交う人々に、声掛けし「あとどれぐらいですか?」帰りは、「もう少しですよ、頑張って下さい」と。訪れる人との,ふれおいと思い遣りが、人の心を和まさせてくれます。
2010.09.09
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【証拠の阿弥陀さま】大原三千院までは、東京銀座並みに観光客がひしめき合っています。そして門前の【律川】から奥へは、時間制限もあって、殆どの方は訪れません。ましてや、突きあたりに有る【勝林院】(しょうりんいん)へは、シーズン中でも、受付に係りの人が居られず。拝観料は、各自置いて入るほどです。正面石畳を経て、本堂に入りますと、正面に大きい【阿弥陀如来像】が拝され、堂内はシーンと静まりかえった聖域です。三千院の雑踏が何だったのだろうかと思えるほどに、備え付けの「ボタン」を押しますと、昨日ご紹介しました【声明】(しょうみょう)の荘厳なお経が録音されていて、堂内に流れ、仏の世界へと誘われるようです。実は、此処は昔【大原問答】で有名で、法然上人と天台の主たる僧と阿弥陀さまの前で、仏道について両壇上に登り、掛け合いをされました。そしてその結果、法然上人が「唯ひたすらに、南無阿弥陀佛と念仏を唱えるだけでも、極楽浄土へ招かれる」と称されたときに、阿弥陀さまの額から、「御光」が射したとされ、以後【証拠の阿弥陀さま】と言われるようになったそうです。難しいお経でなくっても、優しい「南無阿弥陀」と、唱えることで民衆に広がり、【浄土宗】そして【浄土真宗】へと引き継がれて行きました。【南無】 (なむ)故西村公朝和尚さんは、「お願いすること」「帰依する事」と解して居られます。辞書を引いても、帰命(きみょう)敬礼とあり、「命を捧げる」「大事に敬う」そして,帰依するとは、「神・仏などすぐれた者に服従し、すがること」とありました。母は、何時も「なんまんだ・なんまんだ」と口ずさんでいました。台風の影響か、久し振りの雨が京都でも降っています。温度も30度未満は、有り難いです。
2010.09.08
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【音無の滝】大原三千院呂川橋(りょうせんばし)より、東へ【来迎院】 を経て、片道500mの位置にあります。初め呂川沿いに、そして何時しか、律川(りつせん)の上流に【音無の滝】に辿り着きました。約15分から20分は、掛かったと思われます。紅葉の頃は、彩ったもみじ葉を踏みしめながらも別天地の様な幽玄の境地でした。元々大原は、お経に旋律を着ける、何ともいえない厳かで、仏の世界へと誘われていく【声明】(しょうみょう)の修練場で、中国からもたらされたものと言われます。天台宗外、大法要の時に、複数の僧に依って唄うようにして捧げられます。【音無の滝】の由来は、平安時代、聖応大師(しょうおうだいし)良忍上人(りょうにん)が滝の側で。「声明」の修練中に、音律が同調して、滝の音が和して、音が無くなったかのような、現象が起きた事から、その名に成ったと言われています。【呂川】と【律川】は【三千院】の両脇に流れ、合わないところから、声明の旋律が合わない人を「呂律(ろれつ)が回らない人」の語源に成ったのだそうです。唯でさえ、大原訪問は、京都の北部に位置し、観光では、時間制原があって、訪れる人は、ほんの僅かですが、訪れる甲斐は、充分に味わえると思います。やはり、二人以上で訪問し、聖地の思いを語り讃えあうことで、想い出もも倍加するものと思います。滝の写真は、グーグルで検索して見て下さい。
2010.09.07
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【寂】 (じゃく)辞書では、しずかなさま。ひっそり。さびしい。と解釈しています。京都観光で一番【寂】を感じました所と言えば、【寂光院】の西隣にある、 【建礼門院庵居跡地】 の石碑の建っている、林と思います。一般客は其処まで行かれませんが、私の場合は、殆どの方をご案内します、縄が張って有ってはいれない事に成っていますが、許しを得て入ります。入った途端、ひんやりと霊気が漂い、シーンとして、別世界の様に、感動します。自然の林の中で、野菜など洗われたのでしょう.清水が今でも涌き、当時の事を回想することが出来ます。御子、安徳天皇と平氏の菩提を弔う為に、此処大原の里を選ばれました。そのご心痛や察するに余り有ります。近くに三千院。往生極楽院の【阿弥陀三尊】み仏の慈悲深さに此処を安住の場所とされたそうです。静かさの中で、さびしさも一段と心を痛められていたのでしょう。阿波の内侍が常にお側に仕えて居られました。【大原女】の原型となった方です。小さいお花畑が有りました、自ら手折って、本堂地蔵菩薩に捧げられました。林の奥に、翠黛山(すいたいざん)が有って、石段の上に阿波の内侍が、今もお側で眠っています村人たちにも慕われ、ご健康を安じ、野菜や柴漬けを考案して持参して、ねぎらったそうです。寂光院へのお参りは,人出が多いだけに、よけいひっそりした感じを深く感じます。此の雰囲気は、やはりお客様と共に感想を謳歌することで、深い想い出に印象付けられるものと存じます。ちなみに【寂光浄土】とは、仏さんの住んでおられるところの意で、【寂光院】と名付けられたのでしょう。建礼門院様の心の癒しが、偲ばれてなりません。
2010.09.06
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【西本願寺唐門】 再度唐門を見上げていますと、何時しか日が暮れた。ことから【日暮門】とも言われています。安土・桃山時代の文化は、秀吉も【伏見城】の遺構として、現代に生きて居ます。場所は京都駅から近く【龍谷大学・大谷学舎の正門】と対峙して、【西本願寺の南裏門】として存在します。表側は、道路ですからそのままで観られますが、裏側は、唐門の西側の通用門から、「守衛さん」に許可をもらって、観られます。模様の「麒麟」は「キリンピール」の商標になったとか。とても、カラフルで芸術を感じます。参拝客は、東の表門から、お堂に直行されますので、此処をご存知の方は、殆どなく、いわれに関しても、守衛さんはご存知有りませんでした。中国の故事が表裏で、物語っています。【表門】良く観ますと、馬上の白髪を生やした、師匠【黄石公】(こうせきこう)の沓(くつ)が片方脱げて有りません。その左側に跪(ひざまずい)て、沓を捧げ持つ人物が観られます。【張良】 (ちょうりょう)その人でした。黄石公が、兵法の教示を願う張良を試す為に、幾度か沓を投げ飛ばし、それを堪えて沓を捧げたと。結果、黄石公から「太公望の兵書」を授けられ、後に天下統一を果たしたと言います。【裏門】右側に、瀧が流れて一人の人物【許由】 (きょゆう)が耳を洗っている彫刻が有ります。そして左側に、瀧の下流の川の側に、牛を連れた【巣父】 (そうほ)が立っています。許由は、中国の神話上の穏者で、当時の皇帝【堯帝】 (ぎょうてい)が許由に帝位を譲ろうとしました。許由は思いも掛けない誘惑と大層心を乱す言葉を聞いたと汚れた耳を洗って清めています。一方その事を知った巣父も汚れた川の水を牛に飲ませまいと手綱を引き挙げている姿が観られます。何だか現在の政局に学ぶべき、要素と再掲載させて頂きました。
2010.09.05
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【西本願寺の唐門】今朝病院に行く道すがら、川の堤で、コオロギが鳴いていました。そういえば、蝉の鳴くのは途絶えたようです。記録的な猛暑はまだ続く予報ですが、自然界は、秋のようです。ブログを始めて250日余、でも長文は、見ていただけにくい事が解りました、多くのブログの訪問で、全て目を通すのは、余程関心が無ければ、興味がない事を、表題は、2010年1月8日に、中国人の登場人物名も書いて居ます。大勢の西本願寺を参拝されますが、南に在る【唐門】は殆どの方が通られません。【伏見城】の遺構で、とても素晴しいカラフルな門で、表は「試しの話題」裏は「おだての戒めの話題」です。良ければ、過去に遡って、見て頂ければ幸甚です。【方法】ブログの最下段に〔一覧〕をクリック5月頃まで出てきます。<もっと読む>をクリック2010.01.をクリック 1月8日(17号)をくりっくでで再現します。私の京都観光で、一番内容の深い【曼殊院】は2010.03.14 ~16 (81号~83号)です。確かに、長文でその上拙文で、大変読みづらいですが、一々深い内容が含まれて居ます。一度、興味ある方は、お試し願います。
2010.09.04
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【忘筌】 (ぼうせん) 大徳寺塔頭【弧蓬庵(こほうあん)の茶室】非公開ですが、小堀遠州が、故郷近江を見立てて庭園を作りました。借景には、【船岡山】を配しています。庭の明かりを採り入れた見事な茶室が有ります。これも中国の古記に記された教訓のようです。得魚忘筌(とくぎょぼうせん)得兎忘蹄(とくうぼうてい)魚を捕らえたことに夢中になってそのもとである魚のとり器(やな)の功を忘れる。目的を達して、そのためにつくしたものを忘れるの意。兎を捕えられて、喜びうつつになり、その世話になった蹄(わな)の功を忘れる。私たち古いものは、卒業式に「仰げば尊し【我が師の恩】」と唄いました。親の恩、医師の恩。町内の恩。社会の恩。等今では、どうでしょうか?西本願寺の南門に【唐門】があります。以前お話しましたように、表と裏で彫られた、中国の故事特に裏側は、「お前を王にする」と言われて「汚れた言葉を聞いた」と滝の水で清めている中国人、その滝から流れた川の水を牛に飲ませるに当たり、汚れた水を牛に飲ませまいと手綱を引き上げている中国人が、カラーで彫られています。昔の中国人は、偉い人が居られたようです。知恩院の屋根の未完成の瓦龍安寺の知足のつくばい。方丈庭園の石庭。この様に、寺社の観光で、建物で教訓が多々観られます。何か、説教じみて申し訳有りません。興味の持たれる方には、貴重なテーマーと捉えて下されば、幸甚です。
2010.09.03
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【良尚法親王】 【曼殊院の僧】【媚竃】(びそう)お父上は【八条の宮智仁親王】(としひと)母上は、浅井三姉妹の次女【初】が嫁いだ夫の兄弟京極高知(たかとも)の娘でクリスチャンでした。従って、立派な【曼殊院】の枯山水の庭園の中にキリシタン燈籠が母を偲ぶために置かれています。当時もご多聞にもれず、次男以下は、僧にさせられました。兄、は、桂離宮を父と共に建てました。逆境を文化で飾られました。竹筆による【書】その他華道・画道・香道・茶道の達人でした。にも拘らず、民家からとても親しみを持って、付き合われました。当時の封建思想時代に、 民主化されていました。【媚竃】が、庫裏の入り口に竹筆による「扁額」が掲げて有ります。中国の故事に「奥に媚びずに、竃(かまど)に媚びよ」奥の偉人に媚びるのてなく、竃(台所)で働く人に媚びなさいという。民主党代表選挙が、話し合いが付かず決裂国民不在の権力争いに見えてなりません。
2010.09.02
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【天皇】第 50代 桓武天皇 794平安遷都第123代 大正天皇第124代 昭和天皇第125代 今上天皇日本の象徴として、歴史は、皇室を中心に、初めから今後も未来に掛けて形成されて行くことでしょう。江戸城を徳川幕府は、無血で大政奉還しました。第122代 明治天皇の時、明治維新として、江戸を東京と改め、皇居も京都から東京に奠都されました。従来なら、遷都と言うべきですが、京都・関西からの意向もあり、京都御所を残し、奠都の名として、政治。行政の中心は東京に移りました。遷都(せんと)は、都を移す事。奠都(てんと)は、都を定める事。【京】の意味は?此の前ご紹介しました。楽天ブログ【京観深々】の方が、テレビ「笑ってこらえて」でクイズを出されました。答えは、【大きい事】の意でした。昔の人は、くじらを大きいお魚として、【鯨】としました。一同納得。大数の桁を、一・十・百・千・万・億・兆までは、日本の財政で知っていますが、その上の【京(けい)・垓(かい)・・・】21段階は計り知れません。1万兆になれば、次の段階で【1京】と成ります。京都に住みながら、京の意味を知らずに過ごしている現在でした。漢和辞典では、一番に「みやこ」「帝都」と解していました。何れにしましても、東の都【東京】と名付けられました。従って、京都御所では、天皇の即位式だけは、遺されて行なわれていますし、関西方面に行幸された場合、宿所として、京都御所をご利用為さっています。酷暑の記録が、異常に続きます。本日より9月に入りました。少しは、秋めいてくる事を期待したいですね。写真を掲載する事を望みつつ、病身で此の暑さに適わず、相変わらず、拙い文章で、申し訳有りません。涼しくなれば、又、写真を撮りに出かけたいと思っています。
2010.09.01
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