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2025.10.11
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カテゴリ: 坐禅
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)

1 願の話 その1

仏教には「願」というものが、どうしてもなければならぬ。『大般若経』の魔事品(まじぼん)の中に「行あって願なきものは菩薩の魔事なり」ということがある。修行しても「願」がなかったならば、ハンドルのないオートバイみたいなものでフニャフニャである。行、行と言ってもヒョロヒョロの行では、あっちへ行ってはぶつかり、こっちへ来てはぶつかり、ついにはコロコロと崖へ転げ落ちてしまう。そのときに、この「願」というものがあって、我々の「行」をまとめるのです。左に行けば右にハンドルを回す、右へ行けば左にハンドルを回す。そうしてちょっとも狂いのないところへ我々の「行」を運ぶことができる。ここが「願」の有難いところである。道元禅師の御歌に、
  愚かなる心一つの行く末を六の道とや人のふむらん
とあるが、我々の心というものには、しっかりした目標がなければいかん。最も正確に目標をつけて、こうした時にはこう、ああした時にはああと、目標に向かって時々刻々巧くハンドルを回してゆかなければならぬ。それには「願」がなければならぬ。
 「願」には総願と別願がある。仏教者たる以上誰でも必ず持っていなければならぬ願が総願で、四弘誓願がそれである。四弘誓願の第一は「衆生無辺誓願度」・・・・・これは利他である。第二は「煩悩無尽請願断」・・・・・自利である。道元禅師には、
  草の庵に寝てもさめても祈ること 我より先に人を度さん
という「願」がありますが、これは第一の「衆生無辺誓願度」である。
 自分の煩悩は、誰でもよく知っていなければならんはずだが、実は持ちかねて、持ちあぐんでいるものが自分というものです。たばこをやめようと思ってもやまらん。酒をやめようと思ってもやまらん、あんな女に好かれたらどうもならんと思っても、いつまでも食いついておって、ネチネチしてどうしても離れられん。

第三は「法門無量誓願学」である。煩悩が無尽であるから、したがって法門も無量である。この無量の法門を次から次へ求めて行くものは一生青年である。常に新しく生きることが肝要だ。どの瞬間も完全に生きる。この意味において仏教では絶えず旺盛に生きていくのである。
 第四は「仏道無上誓願成」である。我々人間は生涯限りない衆生を度し、限りない煩悩を断ち、限りない法門の上において、仏道を完成して行こうという誓願である。我々はこの誓願のために飯を食うのだ。この誓願を成就するために薬を飲んで養生するのだ。この道を成就するために着物を着て風邪をひかぬようにするのだ。この誓願に役立たぬものはやめたらよい。
 この四つの願は善であるが、時々悪の願もあって成就することがある。「魂魄この土に留まりて。恨み晴らさでおくべきか・・・・・・」というわけで、ドロンドロンと化けて出るなどは悪願の方である。(『禅談』p54-56)





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最終更新日  2025.10.11 13:20:04


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