Boys be ambitious 1927年9月27日午後2時半 北海道大学中央講堂にて ただ今、総長佐藤〔昌介〕先生からごていねいなご紹介の辞をいただきましたが、先生のお言葉の中にたいせつな言葉が抜けている。それは、私は農学士内村鑑三であるとのことであって、私がここに立つのは、なつかしい母校に帰って諸先生ならびに多くの後輩諸君と顔を合わせるのであって、特別にありがたく思う次第である。 私はこの題を掲げましたが、私は、ウィリアム・エス・クラーク先生が五十年前この校を去るに臨んで、島松の原頭に馬上一鞭あてて、あとに従う学生一同に向かって叫ばれた「ボーイズ・ビー・アンビシャス」という簡単な言葉を、いかなる意義によって残されたかを考えてみたい。(略)「ボーイズ・ビー・アンビシャス」の精神は、当時のニューイングランドの文献を調べて見れば、すでに各州に発表されてあったことは疑いのない事実であって、クラーク先生がこの言葉を発せられるに至った経路を考えるに、先生の生国すなわちニューイングランドにはこの精神が充ち満ちていて、その精神的環境の中から、ブライアント、トロー、エマソンのごとき偉人を生み、また先生を生んだのである。 そのニューイングランドのピューリタンの意気が、先生を通してこの言葉となったのであって、この簡単な言葉の背後に全ニューイングランドあるを考える時に、これ実に意味深い言葉となるのである。札幌の今日あるを得たのは、クラーク先生を通してニューイングランドの気風が大いに貢献したところあるを思うときに、札幌はいっそう貴いものになる。 まず「ボーイ」とは何をさすのであるか、この言葉の意味を研究してみたい。普通ボーイと言えば、二十五歳以下の青少年をさすのであるが、ここに言う「ボーイ」は決してこれに限らないと思う。「ボーイ」とは実に「アンビションを有する人」の謂(いい)で、前途の希望に邁進している者は、年は六十を越えてもなお「ボーイ」である。二十歳前後の人々のみを目ざして、先生が「ボーイ」と言われたのではないと思う。私自身はまだアンビションを持っているから、自分が「ボーイ」であることを確信している。人が「ボーイ」であることを確信している。人が「ボーイ」であるか、「マン」であるか、「オールドマン」であるかは、その人の心持によってきまるものである。 次にアンビシャスまたはアンビションについて考えてみたい。日本語に訳せば、まあ「野心」であろう。「野心」と言うて、太閤秀吉やナポレオンのような軍略的また政治的な野心を考えさせられるから、「大望」と言うたほうが良いと思うが、わかりやすく申せば、将来自分が成し遂げてやろうとする仕事をしっかりきめる精神を言うのである。 それについて今思い出すのは、エマソンの言葉に'Hitch your wheels to the star' (なんじの車を星につなげ)というのがあるが、これは「望みを高くいだけ」ということで、クラーク先生が「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と平易に言うたことを詩的に言い表したのであって、全く同精神に出ている。高いアンビシャスを持つのは、低いアンビシャスを持つよりはるかに善きことである。ある人の言うたごとくに、「失敗は罪ではない。目的の低いのが罪である。」高い目的を持つことが、人生を最も有意義に用うるゆえんである。(略)難しいかもしれない。生涯をささげて成功しないかも知れない。しかしながら「失敗は罪ではない」。あとから来る人々の成功の道案内たることができれば、それは実に尊いことである。「なんじの車を星につなげ」である。 今年、日本を訪れた北極探検の成功者、ノルウェー人アムンゼンはまことに幸運児で、彼は南極探検に成功しており、彼に次いで英人のスコットも南極を究めたが、彼らに先立って南極探検を企てたシャクルトンはまことに気の毒な人であった。南緯八十八度二十三分という南極近くまで接近しながら、いかにしてもその先にはいることができず、二度試みて二度とも失敗したのである。ついに目的に成功しないで死ぬるに際し、家族に遺言して、自分の骨は今後南極探検を企てる人々の通路に当たる個所に葬ってくれと言うた。その遺志によって、彼の遺骸はサウス・ジョージア島に葬られた。実に彼はみずからは成功しなかったけれども後進の道しるべとなることに甘んじたのである。事実、彼の探検の経験は、後の成功者の貴重な参考となったのであった。この精神でアンビションを持つことである。(略)それなら、あなたはどうであるかと、諸君は言われるかも知れない。われわれは自分の車をそれぞれ種々な星につないで、どうにかこうにか、ある所まで、若い時にいだいたアンビションを成し遂げて来ていることを、諸君にお話することができる。
宮部先生は私とは同窓同室の最も親しい友人であって、かつて一度もけんかしたことのない君子であるが、世界植物学者と伍(ご)して遜色のないりっぱな方であることは、諸君すでに熟知のことである。Dr. Miyabe hitched his wheel to the botanical star である。 南先生はわが国農学界の権威者にしてその恩人なることは何びとも異論ないところであって、尊敬すべき多くの弟子を国の内外に持っておられる。 新渡戸稲造君は学校時代から何かなすだろうと期待されたものであるが、ジュネーブで理事長〔正しくは事務局次長〕の仕事を勤められ、各国人の中に伍(ご)しながら令名を博せられた。ドクトル新渡戸もまた彼の車を善い星につないだのである。 南日本において教育に従事し、りっぱな仕事をやった、私の尊敬する友人岩崎行親君のごとき、みなみな最も良き星に彼の車をつないだのである。 さて不肖私が私の生涯の車をつないだ星は実は二つあった。その一つは魚類額であって、私は学校では水産に趣味を持ち、卒業論文には "Fishery as Science" を書いたのである。魚類学に次いで私は漁労学を学んだ。これを今日まで持続しておったならば、あるいは当大学の水産学の講座を受け持つようになっておったかも知れない。ところが幸か不幸か、私はもう一つ他の星に私の車をつないでおったのであって、その星とは、「キリスト教を純日本人のものとなし、これをもって日本を救い、かつ世界における日本国の使命を果たさしめん」とするアンビションであった。そしてこの方がとうとう本物になってしまった。今日になって見ると、私もまた自分の若い時にいだいた理想をどうにかこうにか実現することができたと諸君に申し上げることができるのである。私の書いた『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』という英文の小さな書物は、ドイツ、フィンランド、スウェーデン、デンマーク等の国語に訳され、今でも盛んに読まれているという次第である。(略) 諸君よ、諸君もまた今の時代に諸君の車を星につなぐべきである。今この講堂の前に胸像となっておられるクラーク先生が、仮りに私の姿として、この壇上に諸君に向かって立っているとして、私は先生に代わって、もう一度、諸君に向かって叫ぶ・・・・・・ボーイズ・ビー・アンビシャス! (1928年1月『聖書之研究』)