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2025.02.24
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カテゴリ: 報徳の歌
報徳の歌ー二宮尊徳道歌から学ぶー」小関栄著 
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4 修学の歌 (73頁)



 明るき方へ迷ふなりけり ​​

 この歌には「迷い」という題が付いていて、部屋の中へ飛んできた虻がブンブンと羽を鳴らしながら障子にぶつかって、しきりに外へ出ようと焦っているという歌です。
 歌そのものから見て「文々(ぶんぶん)と「明るき方」の二つの言葉から、文明・学問と考えて、学問第一主義、これは迷いです。

 なお、これについて二宮翁夜話に



【33】翁曰く、
某(それ)の村の富農に怜悧(れいり)なる一子あり、
東京(えど)聖堂(せいどう)に入れて、修行させんとて、父子同道し来りて暇(いとま)を告ぐ、
予之を諭すに意(こころ)を尽せり、
曰く、
夫れは善き事なり、
然りといへ共(ども)、汝が家は富農にして、多く田畑を所持すと聞けり、
されば農家には尊き株なり、
其の家株を尊く思ひ、祖先の高恩を有難く心得、道を学んで、近郷村々の人民を教へ導き、此の土地を盛んにして、国恩に報いん為に、修行に出(いづ)るならば、誠に宜(よろ)しといへども、祖先伝来の家株を、農家なりと賤(いや)しみ、六(むつ)かしき文字を学んで只(ただ)世に誇らんとの心ならば、大いなる間違ひなるべし、
夫れ農家には農家の勤めあり、富者には富者の勤めあり、
農家たる者は何程(なにほど)大家(たいけ)たりといへども、農事を能(よ)く心得ずば有るべからず、
富者は何程の富者にても、勤倹(きんけん)して余財を譲り、郷里を富まし、土地を美(び)にし、国恩に報ぜずばあるべからず、
此の農家の道と富者の道とを、勤むるが為にする学問なれば、誠に宜(よろ)しといへども、
若し然らず、先祖の大恩を忘れ、農業は拙(つたな)し、農家は賤(いや)しと思ふ心にて学問せば、学問益々(ますます)放心の助けとなりて、汝が家は滅亡せん事、疑ひなし、
今日の決心汝が家の存亡に掛れり、迂闊(うくわつ)に聞く事勿れ、
予が云ふ処決して違(たが)はじ、
汝一生涯学問するとも、かかる道理を発明する事は必ず出来まじ、
又此の如く教戒する者も、必ず有るまじ、
聖堂に積みてある万巻の書よりも、予が此の一言の教訓の方、尊かるべし、
予が言を用ゐれば、汝が家は安全なり、用ひざる時は、汝が家の滅亡眼前にあり、
然れば、用ひばよし、用ふる事能ずば二度予が家に来る事勿れ、
予は此の地の廃亡を、興復せんが為に来て居(を)る者なれば、滅亡などの事は、聞くも忌々(いまいま)し、
必ず来る事勿れと戒めしに、用ふる事能はずして、東京(えど)に出たり、
修行未だ成らざるに、田畑は皆他の所有となり、終に子は医者となり、親は手習師匠をして、今日(こんにち)を凌(しの)ぐに至れりと聞けり、
痛(いたま)しからずや、
世間此の類の心得違ひ往々あり、
予が其の時の口ずさみに
「ぶんぶんと障子(せいじ)にあぶの飛ぶみれば明るき方へ迷ふなりけり」
といへる事ありき、痛(いたま)しからずや。


【33】尊徳先生がおっしゃった。
ある村の富農に利口な子供がいた。
江戸の聖堂に入れて、修行させようとして、父子で一緒に来て、暇乞いを告げた。
私はこれを一生懸命諭した。
このようだ。

しかしながら、あなたの家は富農であって、多く田畑を所持していると聞いている。
そうであれば農家にとって尊い先祖伝来の財産だ。

しかし、祖先伝来の財産を農家だからと賤しんで、難しい文字を学んで、ただ世に誇ろうという心であるならば、大きな間違いである。
農家には農家の勤めがあり、富者には富者の勤めがある。
農家はどれほど大家であっても、農事をよく心得なければならない。
富者はどれほど富者であっても、勤勉と倹約を行って余財を人に譲り、郷里を豊かにし、土地を美しくし、国恩に報いなければならない。
この農家の道と富者の道とを、勤めるためにする学問であれば、誠によろしいといえる。
もしそうではなく、先祖の大恩を忘れて、農業はつたない、農家はいやしいと思う心で学問するのであれば、、学問はますます放心を助長し、あなたの家は滅亡する事は疑いない。
今日の決心はあなたの家の存亡にかかっている。
うかつに聞いてはならない。
私の言うところは決して間違いがない。
あなたが一生涯学問しても、このような道理を発明する事は決してできまい。
またこのように教戒してくれる者も、決して有るまい。
聖堂に積んである万巻の書よりも、私のこの一言の教訓のほうが尊いであろう。
私の言うところを用いるならば、あなたの家は安全である。
用いない時は、あなたの家の滅亡は眼前にある。
そうであれば、用いるならばよいが、用いる事ができなければ二度と私の家に来てはならない。
私はこの地の廃亡を、復興させるために来ている者であるから、滅亡などということを、聞くもいまいましい、
必ず来てはならないと戒めたが、用いる事ができないで、江戸に出ていった。
修行がいまだならないうちに、田畑は皆他の所有となり、ついに子は医者となり、親は手習いの師匠をして、今日をしのぐようになったと聞いた。
痛しいことではないか。
世間にはこの類の心得違いがおうおうにしてある。
私がその時の口ずさみに
「ぶんぶんと障子(しょうじ)にあぶの飛ぶみれば明るき方へ迷ふなりけり」
とよんだ事があった。
なんといたましいことではないか。





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最終更新日  2025.02.24 12:00:12


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