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消費税増税法案が衆院を通過した。圧倒的多数の賛成である。先の選挙でも、最近の各社の世論調査でも、反対が多数であり、民意、民意という議員の皆さんの圧倒的多数が賛成とはうなづけない。これでは、民主主義があるとはいえまい。 衆院通過を知らせるマスコミの報道を見ると、例によって後出しジャンケンで、増税による影響などというものを示している。それも、ほんのちょっと。 テレビで通行人の声を報道していたが、きちんと賛成・反対が半々なのが笑わせる。賛成の声は、マスコミの論調とそっくりである。 だが、マスコミの報道の中心は、小沢氏がどうのこうのということばかりである。民主や自公の暴走と退廃を追求する報道は(あたりまえかもしれないが)まったくない。反対にもっとやれもっとやれと尻をたたくばかりである。 現在の政治状況を生み出した選挙制度改悪の際にもマスコミはそうだった。小泉政権の暴走の際にもそうだった。 同じ手を何度でもくりかえすところにマスコミの退廃がある。
2012/06/28
消費税増税法案が衆院を通過した。民自公その他自民党の分派による圧倒的多数だった。この消費税論議を始め、国会を見て思うのは、政党間の取引に終始して、論議がないということだ。論議めいたものがあっても「国民の皆さま」というにしては、国民への視点がほとんどないということだ。 吉原吉郎がこんなことを書いている。(『望郷と海』) 「私が媒介というのは、ひとりがひとりにたいする責任のことである。一人の人間に対する罪は、一つの集団に対する罪よりはるかに重い。大量殺戮(ジェノサイド)のもっとも大きな罪は、そのなかの一人の重みを抹殺したことにある。そして、その罪は、ジェノサイドを告発する側も、全く同じ次元で犯しているのである。戦争のもっとも大きな罪は、ひとりの運命に対する罪である。おおよそその一点から出発しない限り、私たちの問題は遂に拡散をまぬかれない。」 シベリアに抑留されもっとも過酷といわれる収容所を経験し、昭和28年に帰還し後に詩人となった一人の人間の言葉である。ここでは戦争のことを言っているが、政治においてもおなじことがいえるのではないか。 政治が一人一人の人間に対する想像力を失うとき、それは限りなく退廃する。税を負担するひとりひとりの暮らしに思慮がおよばないとき、政治は責任を負うことなく、いくらでも過酷なことができる。 民自公の政治は人間ひとりひとりについてではなく、アメリカ隷従、財界いいなりにふるまうことしかないようである。そして見え透いたパフォーマンスと野合と談合。 民自公の政治はいま、ひとりひとりの人間からもっとも遠いところにいる。
2012/06/27
野田首相はさかんに自分が責任を取るという。だが、政治家が責任を取ったというためしがない。一体どのようにして、責任をとるというのだろう。原発事故が起こったとする。その時、まだ首相だったとする。 その場合、首相を辞めれば責任を取ったことになるか、議員を辞めれば責任を取ったことになるか、それ以外のばあい、どのようなことが可能であるか。 消費税その他についても同じである。貧困者がさらに増加し、自殺者が頻発し、失業者があふれるといった場合にどのように責任をとるか。 安易に責任を取るなどといってもらいたくない。責任を取るというなら、そのような未来が起こらないように責任を果たすことに専念してほしい。 彼らのいうことは方向が逆である。
2012/06/26
20日の原子力規制委員会設置法成立に伴い原子力基本法の一部改正が行われた。その際、『我が国の安全保障に資する」という文言が追記されたという。 この文言は、『平和利用』目的に限定していた原則を破り、核武装への道を開くものとなる可能性大である。このような重大な「改正」がわずか4日間、それもほとんど議論なしで、つまり国民にも知らされないうちになされたのである。 今日のサンデーモーニングではわずかに共産党が追求しただけのようだ。民主党と自民党はどさくさに紛れて軍拡への道を加速しているようにみえる。それは、宇宙基本法の「改正」で平和利用に限られていた宇宙研究・開発が「我が国の安全保障に資する」という文言を追加することにより、宇宙の軍事利用への道を開いたことにも表れている。 二つとも同じ文言であることにもその意図が明確に感じられる。民主党も自民党も東北復興や原発事故、貧困や雇用の確保などはまったく論議せず、その裏でこのようなことを画策しているのである。彼らにとって国民の生活の安全などなにの関心もないようである。
2012/06/24
あらゆる法は、憲法に基づき、憲法によって規定されているはずである。それによってすべて国民は守られている。なにものも法に基づかないで何かを求められることはないというその前提が憲法である。 憲法のしばりがないと、あらゆる法が自在につくられ、人々の生活や権利を脅かすことになる。 ところが、このころは、明らかに憲法に反する法や条例が安易につくられ、人びとの安全を脅かすという例がみえる。 大阪市の職員が政治活動をしたら懲戒免職などという条例の準備などはその一つである。国がしていることでも、明らかに憲法を無視していると判断される事例は多い。 憲法を無視した行政や法制化が進むとき、それは無法状態といってもいい。
2012/06/22
民主党が19日に行った民自公の三党合意についての党内論議は前原政調会長が一方的に審議を打ち切って終了したと報道されている。 この時、前原氏ら幹部が座っていたひな壇の背後に、『秘密の裏口」が用意されていて打ち切りを宣言すると怒号の中、あっという間に姿を消したのだという。 これで思い出したのは十数年前、愛媛県教委が『つくる会』の教科書を採択するということで抗議の市民が押し掛け、意見交換の場が設けられたとき、話し合いの途中で委員が一斉に退場し、入り口の戸が閉められ、市民が会場の会議室に閉じ込められるということがあったことである。 権力を握るもののやることはいかにもよく似ている。いかにも姑息である。 そうして、こうした姑息な手段を使ってまでして成立させた法や決定は有無を言わさず強制されるのである。 議会制民主主義という者の欺瞞性がこういうところにはっきりと表れる。
2012/06/21
政治家が変な敬語を使う。特に首相をはじめ、内閣の閣僚などが使う敬語は特に奇妙が。彼らが敬語を使うと身構えてしまう。 国民の皆さまのため、消費税を増税する、国民の皆さまの生活のため原発を稼働する、国民の皆さまの安全のため原発の安全をはかる、国民のみなさまのためTPPに参加する、などとえんえんと続く。 クロースアップ現代で急遽細野大臣を出演させてしゃべらしていたが、この種の敬語の連発であった。その半面で原発の安全についても情報の透明性といったこととか、関連各機関に厳密に検証してもらったとかしかいわない。 関係各機関や政府や学者などの責任を明確にし、原発事故について厳重に吟味するなどとはいわない。 要するに、国民の皆さまといいながら、その皆さまをバカにし、無視しているのである。これくらいの言葉でごまかせると思っているのである。 野田首相がメキシコで開かれたG20に参加した。ちょっと顔を見せただけでのトンボ返りである。ここに国民の皆さまよりも、国際社会=USAつまりオバマのために奉仕する彼らの本音がかいまみえる。
2012/06/20
原発再稼働が決まったという。大飯原発だ。最終的に決定したのは、4閣僚会議による。 原発事故の検証もないままに原子力村の機構をフルにつかっての決定である。 この決定の一方で小さくしか報じられていないが、原子力企業が事業を拡大しようとしており、特に海外への輸出を積極的に進めようとしている事実がある。 今回の再稼働は、この動きを反映したものであろう。 消費税増税に関しても、増税の際、自動車については減税するのだという。自動車取得税などを減税するということだ。これは、自動車産業への奉仕である。社会保障と税の一体改革などまやかしである。 マスコミが報道しなかったり、小さくしか報道しないこうした事実からも、自公民の合意なるものが財界奉仕以外のなにものでもないと思える。 野田総理のいう政治生命をかけるというのは、財界のためであり、そのたまに徹底して民意を無視しつづけているのである。
2012/06/16
『魔女と魔女裁判』をやっとほぼ読み終えた。魔女裁判なるものが始まったのは13世紀にはじまった異端審問を受け、徐々に広がり17世紀に最盛期になり、18世紀に終息したという。この魔女裁判に参加したのは、一般の民衆、裁判官、陪審員、行政官、学者などである。 この本を読んでいて、専門家である法学者、裁判官などが、頭から魔女の存在を信じ、広め、過酷な拷問によるねつ造を平然と進めていたことに、今と変わらぬものを感じた。 「教養や官職経験で、全住民の平均以上にずっと高められた人たちで、迷信的な住民のよろどころのない不安を悪用して、迫害を企み、狂奔する人たちはいつでもいるのである。」という筆者の言葉はその通りだと思う。 福島原発事故における専門家と称する人たち、状況証拠で有罪を判決する裁判官、陪審員、史実を偽造し広める人たち、さまざまな言説で人びとを誤らせる経済学者。私たちはそういう人たちの言葉を盲信してはならない。 追記 この本によると魔女裁判の蔓延には印刷術の発展が大きな力を発揮したとある。現在におけるマスコミの影響力をみるとこれもよく納得できる。
2012/06/15
『魔女と魔女裁判』(クルト・バッシュビッツ・法政大学出版局)を読んでいる。いわゆる魔女狩りと魔女裁判について詳細に論じたものだ。ようやく三分の二くらいまでたどりついた。途中に次のような箇所があった。 「世の中には理性的な市長もいれば、非理性的な市長もいた。このネルとリンゲン市に四年間居座った恐怖に対する責任は、この小さな独立した共同体を支配する何人かの政庁、つまり市参事会が本来責任を負うべき筋合いのものであった。実際には参事会は市長ビュリンゲルの意に従って動く道具といってもいいような存在であった。市長は魔女不安を掻き立てた。数人の法律的知識の博学を誇る同志の協力を得て、魔女裁判の恐怖を市民の中に投げ込んだ。参事会の様な政体は、いったん最初の魔女裁判を受け入れると、往々驚いて仰天してしまったり、または恐縮して無気力になってしまうことが多かった。」 「だが、この災厄は、広い範囲にまんべんなくひろがっていったというわけではない。それはとびとびに、個々の都市、個々の領土を襲っていた。そのような災厄に襲われた共同体では、かならすその一番上位の権力者が魔女迫害者たちを支援していた。彼らは司教のばあいもあり、また、公爵のばあいもあれば、独自の裁判権を所有した貴族の小領主のばあいもあった。 このような妄想に目の眩んだ支配者たちは、理性的な立場に踏みとどまっていた部下の異論などには耳を貸そうともせず、ただ、彼らの権力の及ぶ限りの領域の人びとを威嚇し、恐怖を与えて、すべて彼らを委縮させようと努力していた。」 なんだか今の日本や日本の地方自治体の政治の一面をそのまま描写しているようである。
2012/06/13
フクシマ原発事故によって人びとは原発というものの危険性に気付いた。だが、原発利益共同体はあの手この手でそれを隠そうとした。 原発事故後の様々なデータ隠し、電力不足をあおることによる原発への反発の抑制、マスコミ報道、政治での争点そらしなどにより、政府は脱原発から原発必要論にじわじわと方向を変えている。 原発事故後政府は必要な原発事故の原因解明、責任追及を行わなかった。それは国会も同じである。そのかわりに民間事故調などという得体のしれない団体が、政府の介入をあげつらった。それを受けて国会の事故調も、政府の介入に絞って調査報告なるものを出すという。 これを見てわかるのは、東電の責任が見事に隠されているということである。東電の事故調も同じように政府の介入に重点を置いた報告書を出すという。民間事故調なる得体のしれない団体、国会、東電の見事な連携プレーである。 野田総理の原発再稼働発言は、こうした流れのなかでなされた。野田総理の発言はどうかつとごまかしの見事な複合体である。その見事さは、原発利益共同体のごまかしと、何が何でも原発をという意見をそのまま表明したものである。 原発事故は今なお進行中である。ウソを積み重ねて、事故の検証もないままに、原発再稼働を言うのは犯罪的ともいえる。
2012/06/12
野田総理が大飯原発再稼働を宣言した。その記者会見で「国民のため」と繰り返したが非常に違和感をもった。国民のためというなら、あれだけの原発事故を起こし、いまだに収束せず、検証もなされていないのだから、みあわすというのが「国民のため」であろう。 安全が確認されたから再稼働するというが、この政権はウソを重ねてきた。事故の当初からウソの連続である。大飯原発の再稼働についても、ウソの連合体である原発村をそのままに、原発村によって旧来の基準や根拠のない基準で安全を確認されてはこまる。 野田総理は大飯原発が再稼働しない場合のマイナスを列挙しておどしたが、それは筋違いというものである。大飯原発が事故を起こした場合、琵琶湖が汚染し、関西の水利用は完全に不可能になる、京都、大阪も居住が不可能になるなどの危険性を無視しての安全宣言などありえない。 電力不足もいうが東京電力が、昨年は計画停電をしておきながらことしは一昨年以上の暑さであっても不足はないというのに、なぜ関西圏だけが大幅な不足になるのか納得できない。関電は不足電力についてころころかわっており、政府はそれを追認しているだけである。 国民のためというなら、原子力ムラを解体し、フクシマ原発事故を徹底的に検証し、あたらしい安全基準をつくるのが最低の線であろう。それなしに、野田総理は他の原発も安全が確認され次第再稼働するという。 野田総理は、国民のためというが、消費税増税にしろ、TPPにしろ、沖縄の基地問題にしろ、すべては自分の保身のため、つまり、財界と富裕層と米国政府と米国の富裕層のためにすぎない。 昨日の記者会見はウソつき政権のウソの発表会であった。
2012/06/09
東京で女性が殺害された事件について東京高裁で再審の決定がされた。DNA検査により他に犯人が存在する可能性が高いことが分かったからだという。 この事件は地裁では無罪、高裁で有罪、最高裁では高裁判決を追認して有罪であった。有罪判決はいずれも「状況証拠」によるものである。 「状況証拠」は、本来採用されてはならないものではないか。憲法は証拠に基づき裁かれることになっているのに、「状況証拠」なるものを「証拠」として採用し、犯人をつくりだしている。最近、検察、裁判官、裁判員までが「状況証拠」を連続して採用していることは危険である。それは、冤罪を生み出す可能性が高いと思われるからである。 この事件では、検察側が証拠物件のDNA鑑定をせず、隠し続けていたことも問題である。検察が自己のシナリオにそった裁判を演出するために証拠を隠すなどということがあってはならない。 また、この事件では、以前から問題になっている長期に及ぶ「拘留」の問題もある。NHKニュースに出演した元判事は検察が拘留延長を要求したのを認めず、別の裁判官が認めたということであったが、取り調べの段階から検察側に有利な証言を引き出すため拘留の乱用、長期拘留があたりまえになっている。拘留を要求する検察もそれを認める裁判官も共に批判されなければならない。これもまた冤罪を生み出す温床、被拘留者に対する一種の拷問になっているからである。 この事件の判決で、裁判制度に問題が多いことがまた明白になった。魔女狩り、魔女裁判はいまも続いているといわなければならない。
2012/06/08
堀田善衛の『ゴヤ』を読んで、異端審問とか魔女狩りについて興味をもった。岩波新書の『魔女狩り』を読んだ。読んでの感想をいくつかかいておく。 異端審問はローマ法王庁を中心とする協会の腐敗に異論を唱えた人たちを弾圧・排除することからはじまった。そのご、範囲を広げ「魔女」についても異端として処刑するようになった。異端審問にせよ魔女狩りにせよ、怖いのは異端審問官の恣意によって認定されるということであり、密告が奨励されることにより、怨恨による密告により処刑されることがあったということである。 さらに怖いのは、魔女あるいは異端として逮捕されたなら、拷問により処刑する側の望む通りの「自白」がねつ造できたということである。 注意しなければならないと思ったのは、カソリックで始まったそれはプロテスタントによってさらに強烈になされたということである。 魔女狩りを読んで、これは過去のことではないと思った。東京や大阪で起こっていることは、まさに現代の魔女狩りそのものである。市長とか府知事とか都教委と科の恣意的な基準により、恣意的に処分される。まさに行政側の恣意によって思うが儘の処分画なされるのである。焚刑がなされないだけである。 東京都知事についても橋下市長についてもけっして軽視してはならない。
2012/06/07
少し先のことになるが、東電労組委員長がある電力労組の大会でのあいさつで、このようなことを言ったという。→ここ いかにも御用組合である。このような御用組合はだが珍しいことではない。このような労働組合とはいえない「労働組合」があたりまえになっていることが、労働条件の劣化を生み、市民運動の停滞を生み出しているひとつの条件ではないか。 国鉄民営化による国鉄労組の弱体化とそれに続く労働団体の再編、御用組合の連合体である「連合」の誕生という流れは、支配層の狙い通りであったのだ。
2012/06/03
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