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このところ、身体の調子は悪くありません。持病もこのところ影を潜めています。久しぶりに検査を受けに病院に行ってきました。前にも書きましたが、お気に入りの街の病院です。歳をとると拘りが出るせいか嫌なことが増えてきます。しかし、病院だけは自分のことを気遣ってくれる公共で唯一のありがたい存在なのです。ですからいい病院が見つかれば行きたくなります。ところが今日もガラガラなのですぐに診てもらえます。ありがたい話ですが、これでいいのかとも思います。医療用手袋をしての採血、血を抜いた後の絆創膏が極めて扱いにくいそうです。今日も結構ぶっとい注射器に血を抜かれたのでその痕もでっかい脱脂綿です。でも、何もかもひっくるめてありがたいし嬉しいのですね。受付も毎回人が違うように思うけど嫌だと思ったことがありません。好き嫌いが激しい自分がそう思うのは珍しいことです。この病院が好きです。家の近くにはいくつか緑道がありますが、その中の今年の桜です。本当に綺麗ですね。
2021.03.31
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当初は東京で500人を切ったら緊急事態宣言が解除される話でしたが、それが延長され今はさらに下がっている状況でやっと解除です。緊急事態宣言が解除されると言っても生活様式が元に戻る訳でもありません。識者がきちんと考えたうえでの解除ですから、本来はめでたいことなのでは…?新型コロナウイルスの対応については専門知識がなくてもいろいろ推測できます。小池都知事の対応は、飲食業に営業時間の短縮で営業を認めているにも関わらず、知事からの広報では外出の自粛をしきりと促し、あたかも外食をやめるよう言っているように受け止められます。そうなると営業時間を短縮してもお客が来ないことが考えられます。大きな店では営業してもお客が来ないのではますますの赤字になることが考えられ、時短要請に応じられないこともありえるのではないでしょうか。そんな中で飲食チェーンのグローバルダイニングが都を提訴しました。飲食が感染を広める要因であったとしても、感染者数から考えて営業してもほとんどの店で感染していないのが実態です。もしかしたらのことで規制をどんどんかけるのは自由を侵害しています。昼間や閉店時間間際で飲食を普通にしている人はたくさんいるのです。人それぞれ生きるうえで大事なことは異なり、それを生き甲斐として生きている訳で、特に若者がそれを犠牲にしても人のために自粛するような教育はもはや受けていません。この10年の若者は特に自己肯定感を持つように温かく育てられてきましたが、これは若者だけの問題だけではなく皆がミスを犯しても開き直ることに通じています。「うっせぇわ」の歌詞のように表向きは大人や上司に合わせても本心は異なるでしょう。むしろ人の自由を規制することを言う中高年や上司はますます嫌われる気がします。本来は子供の頃から嫌われることを怖れずにものごとの真理を悟さなければなりません。しかし今、利害関係のみが人を結びつけ信頼関係はあり得るのかと考えさせられます。昔であれば優しくすれば優しく返す、お世話になったらお礼をするなどでしたが、今は優しくされればさらに優しくされたい、お世話になったらよりお世話になる、ような傾向があり、世代が近ければ浅い友人関係こそ築くことはできても、世代が離れている場合は利害関係がないと刹那的な関係を好みます。時代の流れが速く世代によって価値観やそれまでの環境があまりにも異なります。そんな価値観やトレンドを生み出してきたのはメディアですが、テレビ界は機構が意外と古めかしいうえ縦社会が強く世の中と隔離しているようです。よって、ひとたびテレビ界に君臨すると世の中のような世代交代がありません。中高年の出演者が世の中や若者といかにズレているのかもっと認識すべきだと思います。なぜなら、図らずも中高年の象徴と見られているにも関わらず自信に満ち満ちているからです。世の中の会社の上司がよく揶揄されますが、苦境に立たされているのは若い人より上司です。昔ながらの体質が残っていたとしても、テレビにいる中高年のような執拗な批判はしません。コロナ報道で不安要素を挙げることによって出演枠が増える医師やコメンテーター、まさに"コロナ報道のプロ"ですから新型コロナウイルスは永遠に未知だと言い続けるでしょう。当初から政府の対策を批判していましたが、国民の行動も医療機関の拡充も、すんがり協力を得られないのが今の日本人でわかっていないのはメディアです。今日も街への人出が増えましたが、当初は協力的に振舞った国民の我慢もこれまでです。マスコミが批判しても人々は言うことを聞かないことを知るべきです。これは日本に限ったことではなく、感染者数や死者が桁違いの国でも同様です。若者にいい顔を見せる中高年は、未来永劫に若者に慕われるわけではありません。今の若者が将来このコロナ禍時代を振り返った時に社会や中高年への不信がより増します。彼らにとって中高年は、昔は口にすることが憚られた「老害」そのものかもしれません。望んでいることは世代交代であって、基本的に中高年への熱狂的なリスペクトなどありません。苦労して生きてきた中高年は今こそ若者に伝えるべきことを伝えるべきです。ところで、「不要不急の外出をしない」が実践できるのは主にお年寄りです。もちろん感染して重篤化することを考えるとそれは必要かもしれません。しかし、インターネットやキャッシュレス決済に疎いお年寄りはテレビの情報をもとに、ますます社会と隔絶した生活を強いられているのではないでしょうか。社会がお年寄りにつれない態度を出し始めたのは最近のことです。孤独死の約71%が65歳以上の高齢者だという記事があります。優秀な若者もいれば優秀でない若者もいますから見える現状が全てではありません。お年寄りの知恵や思いやり精神を伝承すべきで、姥捨の社会にしてはいけません。
2021.03.27
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テレビでもSNSでも「子供のために」「若者のために」「◯◯に恩返し」という言葉をとてもよく見るようになりました。長年教職を務めてきた立場から言えばあたりまえのようなことも、このような表現をするととてもいいことをしているように見えます。これを言えば好感度が上がる効果があることは否めません。しかし、そう言われた対象の人たちはどう感じているでしょうか。そう言われて嬉しく感じている反面、恩着せがましくに感じていることもあります。言った相手によって反応が変わり、余計なお世話に感じることもあるでしょう。「子供のために」「若者のために」「◯◯に恩返し」と公然と言える人は、知名度や立場から受け入れられる想定にある人で、普通はなかなか言えません。直接的に子供や若者が恩恵を受けることが目に見えている時は有効になりますが、口だけだと見透かされた時には悪印象を与えるリスクが大きいです。世の中にはこのような慣用句的な表現が多く、それはメディアを通して広がっています。インタビューや挨拶などで使われる言葉を始め、見せ方や演出が加わります。昭和時代はニュースに演出が加わることがないほうが多かったと思いますが、今は死傷事件や重大な社会問題などにBGMをつけ演出が加わります。ニュース映像にいちいち「何があったと言うのでしょうか!?」というタメは、時間を費やし視聴者の好奇心を煽りチャンネルを変えさせないために使われます。大事故にあってもBGMがつき、その音楽によって社会問題として深刻に捉えるか、海外の衝撃映像のようにエンターテーメント性を演出しているのかがわかります。報道系の音楽は昔のゲーム音楽のようなものからドラマに使われたもの、クラシックに似せてリメイクしたもの、クラシック曲を意味と関係なく使うなど、おざなりに使い回している程度ですが、どう見せたいかという意図は感じられます。すべての報道は演出され、どのように伝えたいかと言う意図があると考えられます。一方で音楽においてもコンサートの宣伝や説明で聴衆に「一度は耳にしたことのある曲」とよく言いますが、裏を返せば「知らない曲」=つまらない、よくわからないと捉えられ、この言い方は逆に知らない音楽を聴こうとする意識に影響しています。音楽の感じ方や探究心を学ぼうとする嘗ての文化が薄れてきています。また、聴いた感想として「かっこいい」に集約されているのも最近の特徴です。鋭いアタックや難易度、混み入った様子、音色のイメージなどからトレンドを言い、「かっこいい」と「人気」は未来永劫に続くものではなく、一時的に共感できるコミュニティがあって成立するもので、時と共に変わります。ゆえに「かっこいい」の一定の定義はなく音楽の価値につながるものではありません。クラシックを学ぶことは音楽の美学について考える最高の教材ではありますが、 音楽大学で学んだことが活かされない音楽の価値観が蔓延してきていると言えます。音楽に限らず直ぐには理解できないことへの深い思考が全般に欠けてきているのです。新型コロナウイルスの実態を識るにあたってほとんど触れられていないことがあります。それは感染者の症状の詳細、無症状者のウイルス量、重症者と基礎疾患の関わりです。都会の人出が増えるのは、本当に怖いとは思っていない人が多いからで、メディアが感染抑制のために報じる不安煽動はもはや余計なお世話と考える人も多いのです。人権と自由を守るためには、一律自粛ではなく個人の責任と判断で動くしかありません。あえて感染したい人は基本的にいないのですから、自分で気を付けることです。感染しても多くの人は自宅待機ですが、くれぐれも重症にならないように注意すべきです。医療界は崩壊の心配を自ら訴えるのではなく、そうならないように熟慮するべきです。
2021.03.21
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くろまつないブルーチーズは北海道黒松内町でつくられた国産物です。黒松内町は北海道の函館と札幌の中間くらいに位置し比較的南に当たります。これまで国産で食べたブルーチーズの中でいちばん美味しかったです。国産のものは味のバランスがよく全てにおいてマイルドです。上品で食べやすい、しかも本格的な味わいを得るにはこれです!ブルーチーズに限らずナチュラルチーズを食べるタイミングは、賞味期限が表示されていたらちょうど切れたくらいからがベストです。熟成が進み表面上はカビだらけになってきて美しくなく、パッケージのイメージ写真の面影はもはやありませんが笑、表面だけで切れば普通の断面が現れます。照明の関係で黒ずんで見えますが、実際は濃い緑です。この黒ずんだカビの部分でもこれはこれで味わい深いです。外国産のものは刺激的なピリピリした辛味を感じることが多いのですが、このカビはマイルドで美味しかったです。チーズのブランド名はトワ・ヴェール toit vert で「緑の屋根」という意味です。よく行く昔ながらのケーキなどの洋菓子店の店名は、成城学園前のアルプス、自由が丘のモンブランなど、なぜかヨーロッパの山の名前が付いています。このいただいたクッキー詰め合わせも東横線・学芸大学のマッターホルンのものです。ケーキの老舗のクッキーは間違いなく美味しいです。バレンタインデーがありましたから、差し支えない義理チョコを少し。義理チョコという習慣は若い人の間でなくなりつつあるように思います。自分で買って食べることはないので食べると懐かしい味がします笑これは葉っぱを形どったリーフチョコです。モン・ロワール Mon Loire のパッケージはとても上品でおしゃれです。音楽のチョコは可愛らしいです。
2021.03.13
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新型コロナウイルスについては微量のウイルスでも検出する、PCR検査を続けているうちは収束がないと言う話があります。以前にも書きましたが、変異種やワクチンの有効性やその副反応など、話題に事欠かずずっと緊急事態宣言と隣合わせの日々が続くのでしょうか。感染力が高い変異種があちこちで多数見つかっていると言われていますが、感染者数が1.7倍?に増えなければ逐一伝えるエヴィデンスが保たれません。また、さまざまな変異種が確認されたと言っても何も変わらず不安になるだけですから、自粛を促すには効果的ですが経済的な困窮を抱える人はますますたいへんです。ワクチンは徐々にしか入ってこないわけですから6回分だか5回分だか7回分だか、今言われている注射器で何回取れるかは現場の専門家しかわかりません。供給量が少ないのは海外の製薬会社にクレームをつけるべきことで、日本政府の交渉能力が低いからではありません。専門家しかわからないことは専門家に任せるしかありません。昨日今日の知識で専門家以上のことを言うことはできません。感覚的に批判されていることがあたかも庶民の総意のように言われ、それが正しいものの見方であるように同調圧力がかかることが日常的だと感じます。このことはクラシック音楽系の番組でも同じように感じることがあり、若者や子供を洗脳し視聴率を上げることが目的と考えられます。「題名のない音楽会」(テレビ朝日系)はよい演奏を提供してきたと、現在も初代MCの黛敏郎と同じコンセプトを主張していますがそれは違うと感じます。先週まで「2700回記念放送」と題したシリーズがあり、3月6日の3週目は「新たな音楽の発掘を楽しむ企画」と言う企画のなか、番組ホームページにも「今回限り!ありえない楽器の組み合わせ」と題し、タイトルどおり音楽的にもありえない楽器編成で「聖者の行進」が演奏されました。例えば、よく楽譜に指定されているような楽器編成が取れない、つまり生徒の希望する楽器でなかなか通常の編成が成り立たない場合に、柔軟に楽器を置き換えることのできるフレキシブル編成の楽譜が、吹奏楽部の顧問の先生にもてはやされていますが、編曲する側は知恵が必要です。しかし、どうやっても有効な楽器の使い方のできない編成があるのも事実です。スタンダードな楽器編成でない場合はなぜその編成を取ったかと理由が必要で、その意図がいかに音に活かされているかが音楽的に重要な評価の決め手になります。ありえない楽器の組み合わせが実現できても音楽的な発想が問題になります。編成はサックス2本、ヴァイオリン、チェロ、クラシックギター、ピアノ、チェンバロで、ゆっくりなテンポでソロをとれば聴こえてもテンポが速くなると、クラシックギターやチェンバロは通常は聴こえなくなりでしょうし、チェンバロとピアノという鍵盤楽器が2台あることも不可解です。それでもテレビだからマイクを使ってバランスを調整できると考えますが、マイクを使ってギターやチェンバロの音を拾ったとしても不自然な音響ができたでしょうし、実際チェンバロ、ギターは殆ど聴こえていなかった印象でした。画面に映っていても音が聴こえないのはポップスでたまにある手法です。クラシック界の第一線で活躍する豪華メンバーと銘打ってこの扱われ方はないでしょうし、これで「新たな音楽の発掘を楽しむ企画」というにはあまりにも稚拙です。仮に3回分の収録を1回で行い、最後に参加メンバー全員で演奏するためだったとしても、それは収録の充足感のためであっても視聴者はこじつけられた企画にしか感じません。名手であれば、各々の類い希な個性や芸術性を表出させることが必須です。この演奏を中高生が仮に真似したとしても、おそらく充足感はないと思われ、マイクを使ったり優れたミキサーがいなければ人に聴かせられるものにはなりません。この演奏のコンセプトが一般的とは程遠く教育としても成功しているとは思えません。ここに出演している指揮者や弦楽器奏者が場所を変えれば、自身の個性や芸術性を表出させたコンサートを行っているのは周知の事実ですが、自身の演奏家としてのプライドを保つことも芸術家として必要なのではないかと感じます。番組制作としてこのような企画を立てることに全く賛成できません。
2021.03.12
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Ado「うっせぇわ」You Tube歌詞今、もっぱら噂のこの曲の内容について気持ちがとてもよく伝わります。ただ、普通に聴くとなぜこれが今流行るのか意外にも感じます。今だにこういう若者と大人の関係があるのかと思ってしまいます。動画としてはとてもよくできていて18歳のつくったものとは信じられないものがあります。平成の30年間で学生そのものも随分と変わったと思います。クラス授業において、学生たちはいい意味での連帯意識が徐々になくなりました。授業はその科目の内容だけを受けるだけで関連があっても余談が入ることを好みません。20人くらいのクラスでも他人には関心がなく1年経っても名前すら知らないという感じです。授業がチームで何かを行う、例えばコンサートを一緒に行うなどとなっても、自分のために何をするかということが主ですからチームのために何か行うとか、他者のために働くことは課せなければ自発心で動くことは期待できなくなりました。ですので補助やスタッフが足りない時は教員側がお願いするしかありません。本番当日まであと数日しかないとなった場合に練習が滞っていたりしたとしても、全体に対してそれを伝えて「がんばろう!」などと覇気を促すことは得策ではありません。だからと言って一部の問題を全体に言うと返ってムードが悪くなります。多くの学生は「自分は予定どおり」きちんとがんばっていると思っているからです。結局うまくいっていない人へのアドヴァイスは個別に根気強くするのみです。うまくいっていてもいなくても学生同士が気まづくなることはなく、その授業以外では至って普通です。つまり、学生自体の力の入れ具合が授業やレッスンによって異なり、優先順位の低い授業やレッスンの教員は苦労します。ここでこの「うっせぇわ」と繋がる社会について検証すると、通り一遍な大人の若者への接し方や仕事に直接関係のない観念を押し付けられることを嫌い、気の利いた返答をしなかった時に機嫌を窺われることに何もわかっていないと嘆き、世の中の大人が愚かであることを歌っていると感じます。さて、緊急事態宣言が延長されますが、「どうすれば感染者が減るか」「医療の逼迫を防ぐ」と言われても9割以上の人が今以上に何もできず、むしろ経済的に逼迫します。メディアが政府や庶民をいくら批判しても皆がテレビを見ているわけではないのです。見ている人は皆ちゃんとしているのではないかと思うのです。クラスに例えれば教員が批判的なことを言えば言うほど雰囲気は悪くなります。そんな政府批判と庶民批判、そして若者批判などをしている大人こそが、この「うっせぇわ」の象徴ではないでしょうか。詞をよく見てください。利口な若者は心に鬱屈をためながら今の世の中に対して不満を感じています。
2021.03.04
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