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ものごとに集中して考えるとだいたいの事情はわかるようになりました。そのことを目に留めていなければ、もちろん見過ごすことはありますが、最近は自分がHSP(Highly Sensitive Person)とエンパスの中間だと思います。信念が強いと言うよりも、因縁や使命のようなことを頻繁に感じます。相手が何を考えているか、どのような見識で自分をどう思っているか、気にしていればそんなことが話をしなくてもわかる時があります。中には、思っていることとは逆のことや社交辞令でモノを言う人もいて、それがわかってもすぐに訊すわけにもいかずいい気持ちはしません。気持ちを思いやる、忖度することが美徳とされていた時代がありました。今違うのは、相手のことがわかり寄り添ったとしても喜ばない人がいることです。自分の気持ちを優先するのはわかりますが、それが身勝手に見られることもあります。多くの人が自分とは違い未知の経験や思いをたくさんしていることを考慮すべきです。自分の教育において学生の目線に合わせて本心を探ることは日常化していました。最後の10年は学生が教員である自分を利用するだけ、ナメられることは多かったです。しかし、これがあながち学生だけのことではないのがわかったのは最近です。今の若い世代の社会人も同じで、顧客よりは自分優先の考えを持っていると思います。それでも自分がナメられているだけかもしれませんので調べてみました。一口で言えば他人に緩いからです。しかし、若者に緩いのは世間では皆そうです。メディアも強く報じれば若者がついて来ると思ったところ意外と裏切られています。今回の衆院選でも若者の意識について盛んに報じましたが何か変わったでしょうか?メディアが言うほどの波乱は起きていないし、投票率もそれほど増えてはいません。若者はひと昔前に比べて論理的になり、年長者を反面教師にしているようです。忖度など昔の考え方を否定する方向は、概して年長者ほど否定されることです。また、それだけではなく世の中に対しても多くの疑念を抱いているようです。大多数が弱者に属する若者は、コロナ禍において被害を受けたと考えています。今は感染者数が減ったことでコロナ禍前のように息を吹き返したいはずです。そこで、まだ報じられる不安煽動にはさすがについていけないことでしょう。デルタ株の感染力の強さが殊更報じられた反面、なぜ感染者数が激減したのでしょうか。素直に受け止めればワクチン接種が進んだからですが、是が非でも言われません。ワクチン接種は菅元総理が推進したからですが、菅総理の功績は囁かれません。ワクチン接種とは認めずあくまで不明、最近は超過死亡も増えていると言いますが、超過死亡はコロナウイルスによるとは限らず、過去のパンデミックも調べてみました。この1ヶ月以上、感染は収束に向かっているわけですが、メディアは次に備えること、またコロナ禍以前の日常に戻ることはない前提で頑なに世の中を変える方向です。ここに今起きていることは、新たな日常の現実的な無理と広がる格差です。弱者である若者はこのことをすでに知り、ますます世代間の壁ができるでしょう。今後に予想されることは自然環境の変化や天変地異、格差による亀裂や事件が増え、その度に起きるお門違いの責任追求が繰り返され、これらの頻度は多くなります。いちばん大きな影響を受けるのは教育で、若者の段階で格差はすでに大きくなります。寿命は長くなりますが、考え方は地域や世代間で分裂していくと考えられるのです。ここに書いてきた自分の世の中の見方はほぼ外れていないと思います。今月17日から1週間はこれまでお世話になった人と会うために地方を巡りました。先月の中頃から計画を立てましたが、これは感染者が激減する予想のもとで考え、事実そのとおりになったことで実現できました。
2021.10.31
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たくさん売れているものが優れたものとは思いません。例えばNHKは優れたもの、芸術や古典芸能などを紹介する義務があります。啓蒙的、教育的な意味で社会をリードする責務を負っている気がします。世の中を正しくリードしていなければ受信料を払う意味がありません。ただ視聴率を意識した場合に人選や提示の仕方で目的が外れます。子供ウケのよいもの、動物、動物系キャラ、キャラクターの着ぐるみや、SNSウケするもの、常套的なユーモア(お笑い)、アマチュア趣味の迎合、これらの演出が入ると優しくはなっても、真面目な話の焦点がボケます。新型コロナウイルスについての報道でも、不安煽動で別にしなくてもよかったシュミレーションが当たらないことが多く、結局未知のウイルスという括りでさらに不安要素を提示し続けるにも関わらず、感染が広がると政府の対策について矛先を向けるのです。感染者数の増減と株式相場は似ていて、政府や日銀が手を打っても一過性で、ワクチン接種が進んだから、人流が減ったから、国民の意識が高まったなど、感染者数が減少した今の理由は完全に無理やりの嘘で後付けで言っています。また海外の説まで紹介して、今までの偏向報道を正当化しようとしています。なぜ感染者数が減少傾向にあるかという理由について、①ひととおり蔓延したから ②感染の増減は2ヶ月サイクル日本の感染者数は総計(1年半)で171万人で、これは全国民の1.5%程度です。コロナ禍前のインフルエンザは年間1,000万人感染と言われていますから、新型コロナウイルスはこれで蔓延したのか、それとも無症状なのでしょうか。また、感染サイクルを2ヶ月と言うのは当てはまらない国がたくさんあります。しかも国によって対策が異なりますから、今までの対策は無意味だったことになります。都内の人流は増え始めていますが、年グラフを見ればそんなに変わっていません。緊急事態宣言が強く発出された時に下がるもののすぐに戻すことを繰り返しています。本当に怖いと感じていたら、緊急事態宣言が出なくても皆自粛すると思います。人流報道や不安煽動しても個人の判断に委ねられていることを表しています。例えば大学で「そんなことをしていたら、皆試験に落ちるぞ!」と毎日、一日中、悪い例を見せられ、上の先生や機関の運営が悪いと批判を聴かされている状態です。ごく真面目な優等生はそれに耐えて勉強することが良いと考えるでしょうが、真面目にやってもできない人はイラつくでしょうし、来なくなることもあります。日本を教室に例えると、先生の言うことを熱心に聴かない、無視する、寝る人が、何人か出てくるとそれでもいいんだという空気が生まれクラスの雰囲気に影響します。始めからできない人をふるい落として、できる人だけ引っ張っていくのであれば、厳しくしていくだけでもいいのですが、全体をやる気にさせるためにはNGです。特に子供は大人が日々言うことを真面目に考えて塞ぎ込むこともあるでしょう。悪口や批判をしないように教えられているのに、テレビでは平気で言うのですから。本来は皆で感染を減らすように頑張ればいいだけなのに、なぜできないのかと。子供ながらに矛盾を感じ、大人の言うことはまず疑うことを学習するのです。残念なことにメディアに出てくる人は自粛しない人を責めたて、できる人を正義とし、コロナ禍でも影響を受けずにうまくいっている人を守っています。例えば放送スタジオと調整室は空調ができるとは言っても明らかに密閉空間です。終電が早まるなか関係なく24時間放送することは不要不急ではないのでしょうか。いつからか16時45分に都が感染者数を発表するようになりました。テレビでも日々一大発表のように「今日は何人の感染者が出ました」と伝えました。しかし、最近はなぜこんなに激減してきたのかわからない予想外の展開に、テレビ朝日はスーパーJチャンネル内で9月から16時45分に発表しなくなりました。視聴者が望んでいることはコロナ前の日常に早く戻ることではないでしょうか。これまで自粛してやっと感染者数が減ってきたことは喜びもひとしおです。ですから、減ってきた時のほうが発表が楽しみになります。他局も一斉にキャスターが発表してるのですが、それをやめるのはなぜでしょうか。コロナ禍を日常化し、以前に戻すことはを望んでいないように見えます。それは子供や若者も見透かして徐々に現実的な夢に変わりつつあります。高校生のなりたいものでも、上位は安定性の高い教師、教員、教授、公務員、プログラマー、看護師で、皆が同じような狭き門を目指すのが傾向です。いつも共通しているのは安定性と人からリスペクトされる職業が人気ですが、いずれにしても、その前にまずは競争に打ち勝たなければなりません。皆の夢が概して画一的なので、選ばれないような職業は必然的に人手不足になります。人手不足は本当に人がいないのではなく、需要と供給が合わないことではないかと。現況を見ると近い将来にAIが人の代わりを進めた時に備えてサバイバルが始まり、さまざまなシステムを司どる人と、AIにはない才覚を発信できる人以外は、AIに職を奪われ明確な階級格差が準備されつつあるように思えてなりません。音楽から芸術性・人間性が削がれ、物理的な技術に集約されつつあるのも頷けます。しかも、AIは感情は持たないかもしれませんが、プログラミングした人の性格や価値観が反映されることが予想されます。ゲームに依存した場合も似ていると思いますが、内容とは別に性格的な影響を受け、知らず知らずのうちにプログラマーの価値観に洗脳されていく可能性があります。ペットが言葉を発し、日々自分のペースに合わせて会話してくれたら、他の話し相手では満足できなくなり、自己中心的な考え方になるかもしれません。SNSも自分に合う特定の人の話を聞くだけでは、考え方が固まっていくでしょうし、より多くの人と出会い、考え方を知ることが自己を高めることに繋がります。音楽が最近つまらないために、過去に流行った曲がリユースされるのは、プロデュースする側が売れると考える音楽しか取り合わないことです。しかし作り手がそれに合わせた場合には画一的でオリジナリティがなくなります。そこを抜け出すためにはむしろプロデュース側の芸術性が試されるのです。
2021.10.17
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また発作の薬を飲みました。発作というのはいつ来るかわからないので厄介です。最近わかってきたのは、空腹時にアルコールを摂りながら急いで食べた時、この不整脈(発作性上質性頻拍 PSVT)は起こるようです。 上室性 ※コメント参照 2022,1,25酔っているとかなり気持ち悪くなります。今日の救いは♩=160くらいで前回よりは速くなく苦しくなかったことです。しかし、薬を飲んで治るまで待つ我慢が最近できなくなってきました。前回のように治らないと見切った時は救急車を呼ぶしかありません。実は専門の循環器内科がないようなので行っていませんでしたが、家から歩いて3分の所に救急病院があります。救急車に乗った時もこの病院を勧められたことはありませんが、新型コロナウイルスワクチンの接種で最近お世話になっていました。その縁で歩いてその病院に行こうと着替えたところふと治りました。薬が効いたのです。本当に感謝の気持ちになります。ひとまず救急病院に行ってもまた別の病院に移動になるかもしれず、点滴から始まる我慢のことを考えると、手術を受けることも頭をよぎりました。いつも夜に発作が出るのですが、時間外や救急の担当は若い研修医です。もちろん治療を受ける時に名乗られますが病院のホームページで確認もできます。痛がっていたり苦しがっている得体の知れないおっさんを診るのは嫌なのだろうな、自分が若い女の子だったら物腰がもっと違うんだろうななどと気を遣います。治るまでは苦しいのであまり話せませんが、それでも変じゃないよと話しかけます。自分の体調が戻った頃にやっと普通のコミュニケーションが取れるようになります。昔はこんなんじゃなかったよなと思うと悲しくなります。若い人たちが何を考えているのか凝視してしまうのは職業病です。
2021.10.13
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とうとう物価高の時代が始まってしまいました。ソーセージ。これも年の経過と共に知られずして値上がりしてきた気がします。安いとは言えないと思いますが、美味しいソーセージもたくさんあります。だから、ときどき食べたくなる時があります。ケーファー(Käfer)のブラード・ヴルストです。ケーファー(Käfer)のポークソーセージです。ケーファー(Käfer)のペッパーシンケンです。ケーファー(Käfer)のペッパーシンケンの切る前です。これらのケーファー(Käfer)はとても上品な味で伝統的なものなのだと思います。小ささは値段が高いことから仕方ないのかもしれませんが、日本人向けという気がしてイマイチもの足りない感が残ります。以前に載せましたが、今は日本でも自家製のソーセージ屋さんがとても増えました。ドイツなどの本場の製法でとても美味しいソーセージがたくさんあります。これはタイ産のポークフランクです。たいへんリーズナブルで、日本産やブランドものよりも味わい深い気がします。パンと似ていると思うのですが、ぜひ本場の味を安価で手に入りやすくして欲しいです。
2021.10.07
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物事の真相や事情が必要以上にわかってしまうと、不幸になることが多いです。仕事上でもわかり過ぎていると上司や経営者は理解を示さないことがあります。知らない顔をして言われたことのみを従順に芳しい結果を出すべきで、立場が上の人の個人的なことなどはあまり知らないほうがいいのです。しかし、往々にして知りたくもない情報を目にしてしまうことがあります。目的のはっきりしない自己アピールと単なる好感度稼ぎの発信を見ると落胆します。それを嫌だと感じる人もいるわけで、自己満足だけであれば発信しないほうがいいです。会うといい関係で話せる人のイメージが、SNSを見ることで一気に崩れたりします。音楽で例えると、たまたま聴いた曲がとても自分の好みであったとしても、クラシックではその曲の作曲者の人柄や性格は知らないのが一般的と言えます。演奏を聴いていいと思った時も、その演奏家を詳しく知る必要はありません。芸術を好きな人は芸術家のエキセントリック私生活に大した興味はないからです。その反面、知らなくてもいいのに耳に入ってしまうと気になることがたくさんあり、それが「話題になっている」などの文言と共に同調圧力をかけてくることもあります。結局知らなければ良いイメージで終わるものも、ミュートすべきか考えてしまいます。情報が溢れる世の中、知らなくていいことはやり過ごしたいものです。そこで、世の中の出来事で知ったがゆえに気になってしまう事柄の例を挙げます。関心の有無は人によって異なりますが、これらは知っていてもいいことかと思います。1.マスクの原価マスクはコロナ禍の始まった2020年4月頃、原価は1枚5円と言われていました。しかし、現在の販売価格を見ると実際はもっと安いと思われます。感染者数が1年ぶりに下降傾向にある今、マスク価格は暴落しています。マスクは空前の一大産業でしたが、第6波が来なければ莫大な在庫を抱えてしまいます。買うなら感染が収束傾向にある今が買い時です。2.岸田政権の内情岸田新政権の人事や方針が取り沙汰されていますが、これは選挙のためです。今月末には衆議院選挙が行われるわけですから、まずは支持率を低下させないため、世の中の夢を語るだけかもしれないし、当選3回などの大臣を多く起用するのは、自民党が新しく若返った印象を与えると同時に議員の宣伝でもあるでしょう。3.コロナ感染予想は全くできていないことメディアが報じる感染を広げないための対策で外れてしまった事柄は、人流抑制、ワクチン接種率で海外の統計から明らかです。やらないより少しはマシかもしれませんが、直接的な関係はなかったと考えられます。今の感染者数減少の予測ができなかったのですから第6波の予測もできません。4.進んでいるインフレ物価が上がっているのに実感しない?とすればこのブログを見てください!同じ種類のものが名前やリニューアルすると共に量が少しずつ減っているからです。日用品、食料品などですが、スナック菓子は嘗ての90gから遂に50g台に入りました。今はカットも細かくかさばらないようになり、どんどん合理化が図られています。5.株価の下落コロナ禍の前にハイテク株を中心に米国市場で順調に上がり続け、コロナ騒動で一時は下がりましたが立ち直りも早く日本株の上昇も囁かれました。投資ブームにも火がつきましたが、楽観視できる当初の予想は瀬戸際まで来ました。日経平均や米国市場、中国・恒大集団がさらに下げると新たな局面を迎えるでしょう。今更にはなりますが、知れば知るほど世の中は以前よりも荒んでいると思います。問題が山積みですが、コロナ禍が落ち着くとそこそこ悪くないような錯覚に陥ります。言われていることと現実とのギャップに欺かれないようにしなければなりません。悩んでみてもうまくやるしかないという惰性が、世の中をより荒んだものにしています。
2021.10.06
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ヤクルト1000のCMを見た時のことです。ピアニストの辻井伸行氏が出演しています。このCMにはあまりにも考えさせられる要素が多いです。CMとしては辻井氏のストレス緩和にヤクルトというコンセプトのようです。「ただ楽譜どおりに弾いただけでは音楽としておもしろくないので、辻井伸行にしか出せない音楽っていうのを常に探しているので、自分自身との闘いだと思います。半端な気持ちでは臨みたくないので、表現を突き詰めたいと思っています。上記の本人の言葉に続いて”ストレス緩和、睡眠の質向上”のキャッチコピーが出ます。まず、「楽譜どおりに弾いただけでは音楽としておもしろくない」件、ポジティヴに受け取れば、”楽譜に書いてあることからさらに自分らしさを表現したい”ということになると思うのですが、それだけでもない気がしています。彼は聴いた音から自分の演奏を考えていき、後から楽譜を検証したと推察します。そして楽譜を隈なくチェックした時に、演奏の細かな部分で想定と違っていたり、楽譜に書いている内容よりも彼なりにおもしろくできる発想が湧いてくるのでしょう。そこで、楽譜に自分の発想を付け足して演奏すると解釈できます。従来のクラシック演奏は楽譜から作曲家の音楽的な意図を読み取り忠実に再現する、それが演奏への正しいアプローチであり、その中で演奏家の個性を表現することでした。優秀な演奏家は楽譜どおりに演奏しても、随所に個性的な表現が聴かれることで、その演奏家しか出せない音楽が聴き手に感銘を与える結果となっていました。さて、この台詞に話を戻すと、まず、自分の考える世界やスタイルがあるのであれば、演奏は楽しい作業のはずなのですが、「自分自身との闘いだ」と言っています。「自分の可能性を常に突き詰めて探している」と一見謙虚な勇姿として見えますが、そこには彼自身の音楽表現そのものをもっと評価してほしいとも推察されます。辻井氏の音楽は、淀みのない美しい音で揺るぎない逞しさが特徴かと思われます。どの演奏を聴いてもその特徴はわかりやすい反面深さや円熟と言える要素は少ないです。その意味ではまだ若く、嘗ての巨匠の円熟した名演奏には及ばない部分も感じられます。ただ、彼からはハンディを考慮した賛辞よりも演奏の中身を誇示したいことも感じます。一方ネガティヴに捉えた場合、作曲家やピアニストから非難を浴びるかもしれません。「ただ楽譜どおりに弾いただけでは音楽としておもしろくない」ではなく、「ただ楽譜どおりに弾いただけでは演奏としておもしろくない」ならわかるのです。秀逸な作曲家は楽譜どおりに弾いてもらいたい願望があり、細かな指示を表記します。いつの時代の音楽であっても表記されていることはそのとおり演奏するのが儀礼で、書かれていないことについて演奏者に解釈の余地が生まれます。おもしろくないからと言って作曲者の意思を超えて自分流に変更するというのでは、今時によく見られる曲の本質が蔑ろにされた変更やカットの多い演奏と同じです。今や作曲者は多少の音の変更やカットを受け入れて当然のような風潮がありますが、あくまで考え抜いたうえでの音が書かれている前提を奏者は配慮すべきです。辻井氏の言葉をネガティヴに受けとめると、作曲家からの反論も考えられますが、若い演奏者も楽譜は自分のやりたいように変えていいと思うかもしれないのです。さらに押し進めて考えてみます。辻井氏はこの台詞をなぜ話したかに戻ります。それはCMの意図するストレス緩和に行き着くお題に応えたものと考えられます。もちろんもっと長く話した言葉の中からこの4行が切り取られたかもしれません。いずれにしても接続詞「ので」が1行目と2行目の両方になることから、推敲された原稿はなく、台本を読んでいるわけでもないと推察されます。自然体を醸しつつも内容としては曖昧なインタビューが最近多いように思います。著名人の意外な苦労話と立派なことを言っている雰囲気、そのような編集です。世の中の編集されている映像はどんなに短いものでも、編集者の演出がなされます。この場合は、辻井氏をどんなイメージで見せたいかが台詞と相俟って大きいのです。辻井氏がこの台詞を言わされている痕跡は見当たりませんが、このCMを見た人が辻井氏をどう感じるかは制作者の責任が少なくないと思います。視聴者がSNSなどにさまざまな評価を書いても、それは辻井氏が受けることではなく、まずは制作者が受けることであることを皆が享受しておくべきです。
2021.10.04
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