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SNSの情報の多くは宣伝を目的とした文言が含まれています。自分が見られたい方向へアピールする手法は皆似ていてメディアと変わりません。こう書けば読んだ人はこう受け取るだろうという意図のもとに書かれています。事実について主観的に伝えたい部分を切り取る演出は、もはや常套手段と言えます。例えば、数量表現「たくさんの人が訪れた」と書かれても想像する数は人それぞれで、たとえ本当は20人であってもとても盛況だったと伝わることがあります。そんな情報の発信はライターが伝えたいように書いて、情報配信サイトのニュースに掲載されることが普通になりました。1件目はパソコンがない会社に転職して呆れている28歳の話です。コロナ禍で内定が決まっていた会社に就職できなかったまではよくある話ですが、代わりに探した会社が自分の希望と違っていたために会社を批判しています。就職した会社が自分の思い描いたとおりであることはむしろ稀です。会社がオンラインの販売を手掛けたかったからサイトを作れる人を募集した結果、パソコンがなかったから取り寄せることから始め、インターネットに繋げるところから始まったことは普通の話だと思います。指定された商品画像を載せてみたところ映えなかったため変更になること、それもよくあることで他ページにリンクを貼る前に上司に確認を取るのが手順です。また、自分のサイトではなく会社のサイトを作っているわけですから当然です。「時代錯誤の会社」という見出しではなく「世間知らずの若者」ではないでしょうか。自分のやることに慢心しているのは若者だけではなく中高年にもあります。親の面倒が煩わしい、スマホを教えることに限界という50代の話です。確かに忙しい時に親の話を聞くことが煩わしいことがあるかもしれませんが、それは親が元気な時に言えることではないのかとも思います。近頃はワクチン接種券が自治体から郵送されてきていますが、きちんと話さないと予約の方法がわからないお年寄りもいると思います。電話で予約がうまく入ればいいのですが、なかなか繋がらないこともあります。そんな時にネット予約をするにも通知書からQRコードを読み込む自治体があります。最近はお年寄りが見るのに文字が小さい配布物を平気で作る人が増えました。作った人はお年寄りへの配慮と言うよりは、デザイン上仕方ない程度に思っています。QRコードを読み込めればいいのですが、スマホをどの程度扱えるかによります。お年寄りがURLを手打ちするのは大きく書いてあっても難しい作業です。スマホを自分から購入した母ですが、できることとできないことがありました。会った時に母のスマホにLineをインストールしましたが自分からやめてしまいました。宣伝情報やプッシュ通知がきたことが嫌だったかもしれませんが、良くも悪くも頑固な一面は、詐欺にも遭いにくいのだと黙認しています。最後は、和歌山県内の感染者事情についてです。陽性判明時の7割近くの体温は37.4度以下で、全体の4割はその後も37度以下です。県の技監は「陽性判明時に発熱していない人が6割というのは多い印象だ。無症状の人も含めて感染拡大につながっており、このウイルスの対応の難しさを物語る」また、発症してから受診までに5日以上かかった31人のうち、21人(67.7%)が肺炎と診断されたとし早期受診が重要と話しています。しかし、感染の自覚がなかったり、少しの身体の変調で常に検査を受ける余裕ができるか、少しのことで仕事を休んで社会のクオリティが本当に保たれるのか心配です。その昔、人々が風邪を押して仕事をしていたのは事実ですが、その時も何のウイルスか変異種だったかわからずウイルスを撒き散らしたことでしょう。症状が重かったこともありましたが、身体の不調は自己管理能力が問われました。つい最近まで今と真逆の時代だったと言えます。歴史から考えて、今回のコロナ禍の対処は突然であまりにも人に厳しいです。同時に人々は今までになくウイルスに怯え、あまりにも早くワクチンが作られ、今までにない速さで安全が約束され皆が早く打たなければならない状況です。また、多くの人は皆がワクチンを接種すれば元の生活に戻ると信じています。日本の人口の約2.6倍の米国の23日の感染者数が約1万4千人で、日本は約4千人です。現在のワクチン接種は米国が100人あたり約85回、日本は100人あたり約6回です。米国の感染者数総計は約3,300万人で人口の12%、日本は72万人で人口の0.6%です。米国での感染はグラフ上では確かに減ってきていますが、数ではまだまだだとわかります。日本で米国の摂取率になるのはまだ数ヶ月先になると思われますが、米国の例で考えると感染者数はそれでも今と変わらない計算になってしまいます。ここからわかる仮説は、ワクチン接種が進んでも収束するのはもっと先かもしれない、また逆にワクチン接種を待たなくても感染者数が減るかもしれないということです。ワクチン接種が広がって沈静化すると皆が想像しているかもしれませんが、実は異なり、新たな変異種、ワクチンの副反応などさまざまな事柄で長引くことが考えられます。それは、本来の意味での議論ではなく、最初から結論ありきで自論を主張するために、情報を切り取ったり、少ない意見をあたかも大勢に見せることが主流の世の中だからです。
2021.05.25
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いつの時代も有能で実力のあるインフルエンサーが世の中を正す局面があります。選挙で選んだ政治家の言うことを何も聞かない世論を作っていては効率が悪いです。反面、不都合があった時には全て政治が悪い、上層が悪いと言う習慣も同様です。そんな中、コロナ禍についてGACKTさんが発信しましたがあまり注目されていません。「もう風邪ですよこれ。風邪。例年ね、風邪で亡くなる方もいっぱいいるわけですから。風邪ですよ、風邪」 「インフルエンザでも、指定感染症なんてなってないんですよ。で、死者の数で考えたら、インフルエンザの方が圧倒的に危険なんですよ」「これ闇があるんですよ」「誰が得してるかって話なんですけどね」ほとんどの人は前向きに感染予防しているのにネガティヴになる話が蔓延するのは、日本の現状では、200人の学生がいる教室で1人のことを日夜話しているのと同じです。ワイドショーの時間に常にコロナ対策の批判が行われていますが、それは情報源としてテレビを見る人があまりにも多いことから拡散効果が高いからです。会食で感染しやすいのは、皆がしたいことで絶対数が多いからです。だからと言って酒類を出す店に休業命令や過料を課すことには疑問です。例えば、フランス料理はワインに合わせて作るのが普通でそれがアートです。ワイン抜きでフランスレストランに行く人は少ないと思われます。ワクチンの予約システムに不正にアクセスして予約し政府に問い合わせた、 朝日新聞出版『AER Adot.』と毎日新聞に対して岸防衛相が厳重抗議しました。テレビ朝日はそれでも「政府がシステムに不備があったと認めた」と報道しましたが、未曾有の対処の手が回らない点を指摘するのは人間性を疑います。意見や批判を言ったり教育するのは簡単ですが、制作したり管理することは難しく、大規模で資金が大きなことほど、携われる人は主催側に感謝すべきです。組織に属するとそのことが逆転してしまい、使われているという意識が強いようです。22歳の俳優、岡田健史氏が契約解除の申し立てで事務所と争っているそうですが、たとえ勝訴できたとしても別の関係者に迷惑をかけることも多いと思われます。以前は恩恵を受ける側は良識ある言動を求められましたが、今は言いたい放題です。まとめる側は指示や言うことを聞いてもらえず、少しの調整にもひと苦労なのです。ひとつの局面を見て全てを判断することはできず、角度を変えて見てみるべきです。感染者がいなかった台湾で感染拡大が始まったわけですが、数百人の感染で厳戒態勢、街は閑散、買いだめと反応が普通ではありません。こう言う時こそ落ち着いた行動が求められ、人に対する優しさが欲しいです。数人から800人くらいに増えた比較だけで緊急事態のようになってしまいました。このことからわかることは、皆が「早く終息すればいい」と言っていても、終息することの概念がないのです。元に戻れない呪縛を自ら持っているのです。感染者が0〜数人になっても変異株の再発にいつも怯えてしまいます。コロナ感染で死ぬ確率が極めて低い現状では、生き甲斐を優先するべきです。
2021.05.19
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SDGs(持続可能な開発目標)が叫ばれる中、持続可能な開発とは何かと考えた時、「将来の世代の欲求を満たしつつ、現在の世代の欲求も満足させるような開発」と出てきました。世代格差が30-70年くらいあるとすると、自分の経験で言えば価値観が真逆になったことがたくさんあります。価値観や事実が変わることをアップデートという言い方で集約されますが、それは少し前に言われていたことは間違っていたということも含まれると同時に、急激な社会の変化がもたらす生活習慣が良いとも限らないということです。言い換えると、さまざまな国籍や年齢に関わらず普遍的な価値があることです。これはまさに「芸術性」と一致します。21世紀に入ってから音楽において芸術性が確認されなくなってきたことを感じます。この要因は芸術的要素のひとつであるオリジナリティが閉塞状態に入ったこと、また、同時に新しさを求めることが重要ではなくなってしまっていることがあり、それはもはや新しいものに良さを感じない、得るものがないという風潮にあります。そんな中、今までにあるものを取り込み、リニューアルする方法が主流になりました。現代音楽では引用やコラージュすること、調性に戻すことが論理的に行われ、ポップスでは既知の音楽にカバーというリメイクがジャンルを超えて行われています。そんなジャンルを超えるコラボレーションなどもそのひとつとして考えられます。これらの多様化を現代的と見る智見がありますが、ここに合理的な理論はありません。クラシックの美学として、これまでは楽器編成が大きなコンセプトのひとつでしたが、単に馴染みのない音の組み合わせが聴かれるというだけでは芸術的良心が感じられません。今までの美学を壊し裾野を広げた大衆化という状況が今見られます。ドラマなどの劇中に、クラシック音楽をそのまま使うことは昔からありましたが、最近は元来の曲のタイトルや意味と関係なく濫用されるようになりました。また、既知の曲の編曲ではなく似ている曲もよく聴かれるようになりました。それでも、既知の曲を真似たものだと認識する人は多くいないのかもしれません。例えば、テレビではHondaヴェゼルのCMで、藤井風の「きらり」という曲がよく流れていますが、映画「となりのトトロ」中の「風のとおり道」に似ていると巷で囁かれています。これは「風のとおり道」だと言われても無理ないと思います。メロディが自然で似たものが他にもあために問題化されづらいと思われますが、誰でも口ずさめるような単純な曲が少しずつ形を変えくりかえされる一例と言えます。個性的とか独創的などの要素がなく、聴きやすいだけで名曲のように言われています。真似だと批判されることと賞賛されることはまさに紙一重のようです。「となりのトトロ」は1988年に公開された映画で、それから33年経った今、とてもよく似ている音楽がシレッと1日に何度もテレビで流れている現実を見て、作曲家が曲にかけてきた思いが軽く扱われているような気がしてなりません。芸術作品として注目されうる、持続可能な音楽が人々の理解を得られるよう祈ります。
2021.05.17
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自分の生きてきた道程を見直すと生まれてきた使命があって、それからは逃れられず必ずそうなるという運命があると感じます。識者の方には当たり前のことだと言われるかもしれません。ただ生きている間に時代が進み、価値観が正反対に変わることもあります。NHKのクラシック音楽館でストラヴィンスキーの没後50年の特集をしていた時、指揮者の広上淳一氏がロシアバレエ団のディアギレフがストラヴィンスキーを見出し、ストラヴィンスキーが日本に来た時に武満徹を賞賛したことから武満の今日があり、ストラヴィンスキーがいなかったら武満は見出されなかったと話されていました。武満の音楽はアカデミックな作曲家や批評家からは当時評価されておらず、確かに「音楽ではない」「この曲は音楽以前だ」までのことを言われていましたが、ストラヴィンスキーが認めたことによって皆が評価し始めたのです。そのことで日本の現代音楽史が大きく変わったように思えます。当時は音のうえで如実に日本を意識した現代音楽がたくさんあり、自分としては構造的にクラシック音楽の流れを尊んだ音楽に傾倒し、武満の音楽にさほど興味を持っていなかったのですが、武満の響きや構造について熱心に真似る作曲家はたくさんいました。その後は、留学経験のある作曲家や先生から大学で教わる現代音楽が主流となり、フランス、ドイツ、アメリカ、イタリアなどの作曲家を追う風潮になりました。今は海外で実績のある作曲家が日本で好感されていますが、純粋に日本を起源として海外に出ていった音楽は現代音楽に限らず少ないと思われます。例えばアニメは純粋に日本生まれのものを発信しているところが格別です。それとは逆に日本人はいつでも海外を良しとして追い続ける傾向があります。海外文化を取り入れる社会貢献活動が盛んで、それに追随する習慣ができています。その結果、リスペクトはされてもそれほど好まれていない形骸的な文化が形成されています。最近はYouTubeやSNSなどの動画により日本文化のかたちが目に見えるようになりました。反面、個性的なのと独創的なのは異なるものですが、その両方がきちんと検証されず、人気や経済効果が指標となり嘗ての芸術文化を考える価値観ではなくなりました。現代音楽においても明確なお手本とする曲は四半世紀変わらず閉塞性が見られます。さて、広上氏はストラヴィンスキーの演奏は難しく得意ではないとも話されていましたが、武満のことも彼の音楽を敬愛していたらこのエピソードを出しただろうかと邪推します。ストラヴィンスキーと武満の音楽は聴いた印象も理論的にも似ても似つかぬものです。ストラヴィンスキーが武満を取り立てるようなことは現代では稀有のことです。今の時代にストラヴィンスキーに代わる影響力のある人はいないと思われます。また、ストラヴィンスキーに代わる人がいてもその発言に靡く人は少ないでしょう。この時は、ストラヴィンスキーの言葉によって武満を賞賛する人がたくさん増え、他の作曲家との内容の違いが若手作曲家や聴衆の興味の的となりました。良い意味で競っていた現代音楽界で勉強になる作品はたくさんありました。それでも武満の世界を印象的に作り上げた代表作がこれまで頻繁に演奏された記憶はなく、今日は映画音楽や歌などの調性的な作品が好んで演奏されるようになりました。海外で周知されている武満の現代作品ですが、まだまだ日本人が発信するべきだと思います。今、何がさまざまな物事が乱立する中、洗練された個性、真の独創性とは何か、単に海外の受け売りではなく、一時的な人気や売れゆきでもなく、正格な真理、本来あるべき姿に導く人、すなわちストラヴィンスキーがいないのです。大きな声で自論を言う人はたくさんいますが正しいとは限りません。コロナ禍の終息に向かう方法はもはや結局集団免疫をつけることしかないのでしょう。一時的に人流を抑えて感染者数を抑えてきたことで波が何回もきてしまい、結局人口の半数くらいの人が感染するかワクチンを打たない限り終わりません。この騒動が人が納得しなければ収束しないと考えると、手段はワクチンだと思います。オリンピックについて反対意見が多いですが、よく話を聴くと問題性は感じません。まず従来の検査をして来日する選手・関係者がさらにワクチンを打ちます。それでも陽性者が出た場合は、国際的な大きな話題になり原因が究明されます。また、動線を一般人とは分ければ日本での感染拡大との関連性はありません。世の中で言われる物事を考える視点や手順の作られ方がおかしいと感じています。前にも書きましたが、人々が本当に怖い感染症だと思えば人流は勝手に減ります。オリンピックにかけてきた人たちのコロナ対策はきっと一般人とは比にならない筈です。オリンピックに出場することよりも日本が危ないと思えば来日しないと思います。どこで誰から感染したという決定的なエヴィデンスがない限り、休業や時短要請、人の自由を奪うようなことは基本的にできないのですから、緊急事態宣言はあくまで「お願い」で無茶振りの「落とし所」の一つだと思います。人はそれぞれの事情の中で生きているわけで、他人に強制されるものではありません。
2021.05.12
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マイケル・サンデル教授が新たな本を出版したことで、ANN報道ステーションがインタビューしました。(YouTube)コロナ禍で社会の分断や不平等が浮き彫りになったという内容で、「エリートが貧困層を見下している」「エリートは謙虚になるべき」「実力も運のうち」「学歴偏重主義」「広がる経済格差は株式相場が物語る」「両極化が深刻になっている現代、大勢の働く人々が無視され、過小評価されていると感じている」「家からリモートワークする恵まれた人たちは、普段私たちが見落としがちな仕事で働く人たちに、どれだけ依存しているかを理解し始めました医療従事者、配達人、倉庫で働く人々、トラックの運転手、保育士…彼らには高い報酬が支払われておらず社会的評価が低い人たちですところが、今ではエッセンシャルワーカー(必要不可欠な労働者)と呼ばれています」「『努力と才能で誰でも成功できる』この考え方に潜む問題を見抜けますか?」そして、エリート層は生まれ持った環境や支える人などの『運』を持っていたからで、それを認めることからくる『謙虚さ』を持つべきだと言います。また、「貧しい人は努力が足りなかったから苦しんでいるのではない」とし、成功すると「自分たちの功績で、努力によるものだ」と考えるようになったと言います。サンデル教授の話は、音楽という狭い社会を見ても同様のことが当てはまります。ここ20年くらい「そのことを常に思えばいつか夢は叶う」とよく聞きました。しかし、幼少期からの環境や教育、歩むべき知見などすでに差がついており、さらには学歴によって見られ方が変わることにも繋がります。夢がいつかは必ず叶うかのように若者に吹聴されてきました。それはとても短絡的にてっぺんに憧れるだけの若者を作り出してしまいました。夢にもよりますが身近な夢でなければ叶えられない確率は限りなく高いのです。「学校教育の悪しき慣習こそが夢の強制なのです。生き方を教えず夢を強制する。世間知らずの教師の自己陶酔が子供たちを夢の奴隷にする。お花畑の無責任な夢の肯定でごまかす。とくに中高年の教師はイデオロギーにまみれた連中もいてやっかいだ。『みんな夢を持ちましょう』『それでは夢を発表してください』 生き方の伴わない夢を強制することは、それこそ将来的な夢の成就の妨げである。」これはフリーライターの言葉ですが、全くそのとおりだと思います。自分の30年間の教育生活において、まさに夢を追うことの手助けとシミュレーション、お花畑にならないように現実的な厳しさを伝えてきました。今の若者が厳しさに弱いのも、それまでの教育の自己陶酔が影響しているのです。人には向き不向きがあります。教師の自己陶酔が子供たちを夢の奴隷にしても、生き方を教えずに向いていないのにそのまま大学に入った場合に本人は直ちに現実を知り、そこから何ができるかということの模索が始まり教える側も必死になります。このようにお花畑の夢のまま入学してくるようになったのはここ10数年のことです。子供の頃、ピアノのレッスンで「ドビュッシーのアラベスクを弾きたい」と先生に言ったら、「10年早い」くらいのことを言われたことがあり辞めたくなりましたが、その頃は夢を持てるどころか、常に諦めることと隣り合わせでした。しかし、夢を少しでも現実にできるように変えてくれた教師こそ今でも感謝できるのです。
2021.05.06
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1年前から「生活が元に戻ったら」「コロナが収束したら会おう」など、多くの人が夢を描いていた時があったはずですが、こんなに続くかと。それでもこの連休で皆が感染しない自信を持って出かけています。そろそろ自由を侵害されることに疑問を感じてもらいたいです。例年のインフルエンザより感染者数も死者数も少ない状況でです。ワクチン接種が進んでいない日本の感染者数は、それでも米国の約10分の1です。日本が緊急事態宣言などを出すハードルは海外に比べてとても低いのです。それは、1回目の緊急事態宣言時の感染者数が今よりもずっと少なかったにもよります。数だけで言えば昨年よりも何倍にも増えている感染者数ですが、重症者数や死者数が比例して増えているわけではなく、街中や行楽地に出かけている人も何倍にも増え、危機意識も昨年よりも減っています。これらはあるべき姿と思えます。昨年の今頃は院内感染のことが大きく取り上げられていましたが、医療従事者に感謝することはまだ言われておらず、皆が感謝するのはその後でした。感染者、特に重症者が増えれば医療従事者は忙しくなるのは必然です。しかし、医療従事者が世の中を批判すると、感謝されていることに水を差します。医療従事者に感謝して感染予防している人のほうが圧倒的に多いと思います。3年くらい前のデータによると日本に看護師の方は121万人いるようです。新型コロナウイルスの入院患者に関わっている看護師の方は忙しいことと思われますし、その病院の中では貴重な存在ですが、世の中のすべての看護師が同じではない筈です。東京五輪が500名の看護師派遣を看護師会に要請しましたが、五輪で働くのはコロナ対応は基本的に検査だけですから怪我などの他の対応です。看護師がボランティアで行くことは検討の余地があると思われますが、五輪で働きたい看護師の方もいるでしょうし、批判が全ての声ではないと考えられます。海外からすればそれほど感染拡大していないのに大騒ぎしているように見えるでしょう。変異株は今後もずっと続き、世界のどこかで感染は続くと思われます。当初はワクチンの副反応について心配されていましたが、摂取率が1.3%で接種後の死亡者は現在19人ですからこちらはやや心配です。日本のメディアは世界の感染や対応と比較することが多く、海外の感染が収まらない限りは日本でも収束する気運は高くならないと予想されます。エボラ出血熱など日本にはない感染症と同様に、本来ならば日本は日本でいい筈ですが、これまでの流れで考えると海外のロックダウンが続く限り日本も自粛生活になります。コロナ騒動を永久に続けようとする勢いを感じますが、それを収束させる手段として政府が独自に主張しているのが五輪の開催だと思います。国民が比較的ひとつになれるエモーショナルな風が吹くことによって、たとえコロナ感染が続いてももとの日常が取り戻せる気運が高まります。
2021.05.03
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