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あいかわらず制作にあけくれ。昨日開始した作品の下塗りがまだ乾燥しないので、別な作品を手がける。 それにしても今日かかってきた数本の電話は、みな女性からだったなー。年齢はさまざまだったが、一日の電話の相手が全部女性というのは、考えてみるとめずらしい。艶っぽい話しは一つもなかったが。まあ、それはそうだ。
Sep 30, 2016
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結局,二日間休養した。きょうからまた新たな小品制作を開始。根を詰めることもなくたちまちプリメール・クシェ(初期塗り)を終了。乾燥をまって、その後に肉付けをしてゆくことになる。
Sep 29, 2016
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弟に、「なんだか今日はとても疲れているんだ」と愚痴をこぼしたら、「オーバーワークだね。やっぱり年なんだよ」と言われた。「年のことは禁句にしよう」と応えて、一日休むことにした。 庭を掃きながら拾った柿落ち葉。紅葉した柿落ち葉の鞣し革のような照りが、私は好きだ。 ところで、昨日、内心ちょっと驚く偶然の経験をした。一昨日、わけもなく齋藤一(はじめ)のことが頭に浮かんだ。 新選組の名うての剣豪といわれ、戊辰戦争では会津藩のために戦い、会津藩が斗南藩として青森下北の地に移封されたときも同道し、その後、警視庁に勤めるなどして大正4年に没した人物である。私はこの人物についてあまり詳しくは知らない。所蔵する『幕末維新人名事典』(1978年、新人物往来社刊)と、先年のNHKTVの大河ドラマ『八重の桜』で知ったくらいだ。 その齋藤一だが、私の頭に不意に名前が浮かんだ翌日、つまり昨日のこと、この人物の確かな肖像写真が子孫の家から新発見され、現在、会津若松市で展示中だと朝日新聞が伝えたのである。最晩年とは言えないまでも、老境に入ったその人は、なかなか端正な顔立ち、背筋のまっすぐ伸びた姿は、やはり往年の剣術使い。 --------それにしても、偶然の妙とは、こういうことも指すかもしれない。一昨日、私はまったく、齋藤一の周辺のことすら考えていなかった。それなのに、不意にその名前が頭に浮かんだのだもの。
Sep 27, 2016
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午後1時半から4時まで民生・児童委員の月例会議。今年11月は3年任期の改選期にあたり、お辞めになる方はその引継の準備に入る。私はもう1期、2019年の11月まで務める。そこで定年。74歳である。まあ、作品制作に精出しながら、多忙な日々がつづくだろう。 長雨があがった途端にやけに蒸し暑い日となった。しかし、あるいはまた雨になるのか、ただいま17時35分、遠くで雷鳴がしている。と、思うまもなく、降ってきた。 このところ庭の柿が熟れて、朝夕となく一つ二つと落ちる。ことしの柿は育ちがよく大きい。干し柿にしたらどうかと提案してくれる方がいるが、この雨つづきではどうしようもない。ただ落ちるにまかせている。中に半分欠けたのが見つかるが、たぶん鳥たちの仕業だろう。どうせなら全部食べてくれるといいのだが。
Sep 26, 2016
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昨日の午後4時過ぎに、油彩支持体の実験のための小品が完成。私にとっての新支持体は、細密描写には適していた。乾燥後にさらに表面加工の実験をすることにする。それまでに次の小品にとりかかることにしよう。私はひとつの作品のなかに幾つかの技法を混在させているが、そういうことが新支持体で可能かどうか、もっと実験作品をつくってみる必要があろう。 さて、今日は昼前後の1時間ほど、町内自治会防災班主宰の救急救命AEDの使用訓練を、消防署の指導のもとに受けた。私の受講は昨年につづき2回目。実際にAEDを使用しなければならない事態に遭遇しなければ幸いだが、秒をあらそう現場であわてないためにも、心臓マッサージ等の技術を専門家の指導で身につけておこうというわけである。 AED訓練は、各消防署で随時講習会をひらいているそうだ。実際例のデータ研究や分析から、救命行動についての方法が数年ごとに進化しているという。 たしかに、意識不明者を最初に発見したときの声かけの仕方が、ちょっとしたことだが昨年の訓練にはなかった。すなわち、倒れている人の肩を叩きながら「わかりますか?」等々の声を耳元で次第に声を大きくしながら呼びかける----という方法から、両肩をたたきながらが、より良いと。 なぜなら、倒れている人は肩にマヒがあるかもしれず、叩かれていることを感知できない場合がある、ということが分かったというのだ。-------このちょっとした「気付き」が、救急救命の初期段階にはだいじな進化。訓練を受けなければ分からなかったことである。
Sep 25, 2016
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今朝、同窓の級友の逝去を知った。 そして朝食後、仕事場に入る前に、家人がTV録画してあった映画イングマール・ベルイマン監督の『野いちご』を観た。1957年、私が12歳のときの作品で、繰り返し観てきたが、若い頃とはまた違った感慨で観た。 主人公のイサーク老教授が50年におよぶ医学への貢献を讃えられて学位授与の式典があった当夜、ベッドに孤独の身を横たえながら少年時代をまぶたに思い描く。湖水に釣り糸を垂れた自分の姿が遙かから老いた自分に手を振る。最後のシーンである。 私は、ふと、もう思い出して書き留めておくことはなかっただろうか?と、自分自身を顧みた。 書き留めておくと言ったが、誰かのために残すというのではない。自分という人間が何者であるのか、子供の頃からずっと考えつづけてきた、そのつづきに過ぎないのだが、父母共に亡くなり、じつはその後、聞き忘れた事がたくさんあるのに気付いた。もう「その事」は、亡き父母よりほかに知る人はいない・・・・・。 自分の一生をまるごと記憶にとどめ、意識化し、言語化しようと思ってきたのに(まったく、ヘンな子供だったなー、我ながら)、小学1年から書き続けていた日記や作品や試験の答案やらは、私が25歳のころに両親が無断で処分してしまった。物的証拠を欠いた記憶は-----いくら私が記憶が良くても------あやふやになることは避けられなくなっている。加えて、この年齢になって気付いたのだが、子供には子供の見える範囲があるのである。子供と限定しなくてもいいかもしれない。通過する年齢によって、同じ環境空間を共有していても、見ている事、見えている範囲が異なるということだ。 たとえばこういうことに気付いた。 ごく幼少期、戦後まもなく2歳ころから6歳まで、私たち一家は北海道羽幌町に住んでいた。伯母の夫が町長をしてい、誘われ頼って私が生まれた静岡県から移転したのだった。そんな時代だったから町に物資は乏しく、私の記憶にある玩具店は、間口は広かったが棚に並んでいた玩具は数えるほで、玩具と玩具の間はたぶん5、60cmもあっただろう。私はその店で訪ねてきた祖母に最新のブリキのオートバイを買ってもらった。ヘッドライトが、電池によってポッと点灯するのだった。 私はたびたび母にお使いをたのまれ、配給の小麦粉をもって1kmほど離れた饂飩屋に行き、饂飩にしてもらったものだ。製麺機から簾のように饂飩が出てくるのを見るのがおもしろく、好きだった。 そういう事ははっきりした影像とともに憶えているのに、母が毎日の食料品や日用品をどこから買っていたか、まったく記憶にないのである。八百屋や魚屋や、たとえそれらが雑貨屋のような店で商われていたにしても、まったく憶えていない。そのくせ、裁判所近くの堀井のコンクリート壁をのぼってくる無数の半透明の白い川蝦の様子などは明瞭に憶えている。 つまり、私、子供の目には、自分がどこから仕入れた食糧を食べているかなど、その店屋などまったく意識していなかったということだ。羽幌町の当時のおおまかな町筋は思い出すけれども、子供の私自身の関心事を除けばずいぶん穴だらけというわけ。もちろん町筋を全部記憶しているはずはないが、上記の店ぐらい憶えていてもよさそうなのに------。 しかし亡くなった父母に聞いておけばよかったと思う事柄は、そんなことではなく、我家のルーツに関わることなのだが、いまとなっては私のなかの欠落した穴ぼことなってしまった。 イングマール・ベルイマンの映画作品は、現実と幻想、夢や幻覚(たとえば幽霊)が入り交じり、人間観察・洞察の鋭さ深さは比類ない。私はいつもいろいろなことをその作品から学ぶのだが、今朝は、級友の死にはじまり上記のような、まあ、よしなしごとを思ったのだった。 さて、仕事にとりかかろう。
Sep 24, 2016
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きょうも雨。そして私は終日制作。 作品はたぶん明日中に完成するだろう。今夜、もうすこし描きたいが、気持と裏腹に睡魔が襲ってきている。椅子に腰掛けて、気がつけば1、2分眠っているのだ。急ぐ仕事ではない。もう寝ることにしよう。まだ10時を少し回っただけだが・・・・・・
Sep 23, 2016
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よく降りつづく雨だ。週末から再び暑さがぶりかえすという予報。 終日、仕事場にこもって、これまで使ったことのない支持体に、実験的に小さな作品を描いていた。今月中には実験結果がわかるだろう。2、3点小品を描いてみるが、しかし、大きな作品に適すかどうか・・・・・
Sep 23, 2016
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夕方、郵便局へ行っての帰り、認知症で徘徊している方に遭遇。「こんにちは」と声をかけて・・・・ じつはこれは、日野市が今月「認知症を知る月間」として企画したイベントのひとつ、「徘徊模擬訓練」。市内4カ所から4人の認知症患者役が徘徊し、市民が発見して適切な対応をしてくれるかどうか、その啓蒙的・実験的な初めてのこころみである。私はたまたま遭遇したのだったが、スタッフによると発見者第1号だったようだ。 当市では年間10人ほどの認知症による徘徊行方不明者がでている。そのつど街頭放送によって男女の別、背丈や外見の特徴、服装などを広報して、市民の協力をあおいでいる。さいわいなことに、ほとんどが24時間以内に無事に発見されている。行方不明情報と発見情報はそのつど私のもとにもメールで知らせてくれるのだが、実際、市民の協力には感心するばかりだ。認知症患者への対応はかならずしも一様にはいかないはずだから、市民の理解と対応力はすばらしいのである。 私も認知症サポート講座を受講し、サポーター資格をもっている。これは全国的なもので、オレンジ色のリストリングをしている人、あるいはどこかに身につけている人をみかけたら、その人は認知症サポーター。誰でも受講でき、その時間も2時間程である。地域行政関連、警察署、包括支援センター等が随時おこなっている。【追記】 徘徊模擬訓練は、48名の市民が声をかけたそうです。市から連絡がありました。
Sep 21, 2016
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昨日のことになるが報道によれば、映画「フィールド・オブ・ドリームス」(1982年)の原作、『シューレス・ジョー』を書いたW.P.キンセラ氏が亡くなったという。カナダの安楽死法に基づき、自ら死を選択しての死だったという。死因は公表されていないが、不治の病を患っていたのかもしれない。 私はかつてニューヨークに滞在したときに、キンセラ氏の直筆署名が入った『シューレス・ジョー』を購入していた。弟が母を連れて映画『フィールド・オブ・ドリームス』を観に行ってきたというので、原作本をお土産代わりにプレゼントした。もうずいぶん昔のことだが、たぶん弟はまだその署名本を所蔵しているにちがいない。 キンセラ氏の自然死とは言えない特異な死について想いをめぐらせながら、その人の筆跡に直に触れたことを思い出したのだった。 ご冥福を祈ります。R.I.P.
Sep 20, 2016
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あいにくの雨だが,予定どおり作品を出荷。あとは私の出る幕ではない。ボン・ボヤージュ! さて、次の制作のために小品キャンヴァスを2点ならべてみたが、そうだここでひとつ新しい支持体の実験をしておこうと思い立ち、さっそく2点用に下拵えをする。 ある材料に薬液を塗布した。この乾燥をまって、あらためて油彩のための下地塗りをすることに。このところの雨模様の天候だと乾燥までに2、3日はまたなければならないだろう。湿気を閉じ込めてしまっては、おそらく数年後にはその影響が出るやもしれない。 私はのんきなことを書いているが、地球上はあいもかわらず毎日ドンパチドンパチやっている。人間というやつはこの世に発生したときから殺戮にあけくれ、その歴史はいずこも血だら真っ赤。まことにエライもんです。 政治的か宗教的かは知らぬが、殺戮三昧暴力三昧の国(一味、一党)が、よしんば征服国家を成立することに成功したとして、その後、殺戮と暴力から手を洗い足を洗うことができると思っているのかね。そうはいかないのが人間の精神病理。殺人者を聖人として祭り上げたところで、すでにその点に永遠に消えることのない「まやかし」の文化がある。わかりきったことだ。
Sep 19, 2016
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作品の出荷準備完了。明日、大邱(テグ)展のために画商(私のプロモーター兼エイジェント)へ向けて出荷。 この作品において、私は、年来のテーマを初めて現代風俗を加味して展開した。風俗を取り入れるのは、まったく初めてである。
Sep 18, 2016
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午後2時過ぎ、小品が完成。予定より2日遅れた。しかし、まあ、こんなものだろう。 すぐに30号作品にとりかかろうと考えていたが、まだ構想が十分に練れていない。アンチテーゼとしての「fragment」ということについて考えている。 アイデアが固まるまで、もう1、2点、小品を描いていた方がよいかもしれない。
Sep 17, 2016
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19時から20時30分まで、民生委員として行政区地域密着型介護施設の会議に出席。 法律がどんどん変わるので、現場の対応は大変だ。良い方に変わるなら喜べるが、数字合わせの切り捨て御免は、例によって日本政治の常道である。 この会議の時間まで、私のほうは変わることのない制作。あれも描きたい、これも描きたいと思うばかりで、身体は一つ、時間も限りがある。
Sep 16, 2016
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夕方、合唱練習のため自転車を走らせていると、腕にススキの束をかかえた老婦人とすれちがった。その先に花屋があるので、そこで求めたのであろうと思った。そうか、きょうは十五夜。 家を出るとき、家人が雨の心配をして、電車のほうが良くはないかと言った。この2、3日の天気予報は、少なくとも我家近辺でははずれていて、降雨予報から一転して曇りに変わっていた。しかし自転車を走らせている顔には、かすかに霧雨のような水気がぶつかる。帰宅する頃には雨になるかもしれないと思いながら、老婦人の月見は適わないかもしれないと気の毒になった。 ところが、夜も10時過ぎ、窓の障子戸をしめようとふと夜空をあおぐと、なんと、満月が煌煌としているではないか。まさに仲秋の名月,十五夜である。 ちょうど1年前の同じ日、ちょっと用事があって近所のお宅を夜になってから訪ねた。門前に着くと、玄関扉が開け放たれて、代わりに趣のあるデザインの全面網戸になっていた。その網戸をとおして家の内部の廊下がほの暗く見え、壁際に行灯の明かり、4、5本のススキが生けられて風情をそえていた。出迎えてくれた夫人に、「ご訪問に思わぬお心を頂戴いたしました」と申上げると、「ちょっと、よろしいでしょう?」と微笑まれた。 そんなことも思い出しながら、私は少し愉快だった。 合唱練習は、いつものごとくではあるが、終わって帰るしな、「ああ、このわずか1時間半、歌うこと以外をまったく何にも考えていなかった!」と気がついた。家を出てくる直前まで仕事場で作品制作をしていた。その毎日の課業につきもののさまざまな思念や、工夫や、極度の精神集中などが、自転車を走らせているうちに次第に薄れて行き、合唱練習はまるで無念無想の境地。いまや私にとって、この時間はきわめて重要な意義をもちつつある。作品から完全に離れた時間を、私は45、6年来持ったことがなかったのだもの--------
Sep 15, 2016
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終日、作品制作。23時にきょうの仕事を終了。もしかすると明日、1点完成するかもしれない。 降雨予報は、はずれ。虫の鳴声が一層かまびすしい。
Sep 14, 2016
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終日の雨降り。今後3日ほどつづく予報。外出もせず、制作をつづける。 さきほどTVで、ピアニスト碇山典子さんが演奏するリスト作曲の『ラ・カンパネラ』の初版を初めて聴いた。 『ラ・カンパネラ』はあまりにも有名な曲だが、これには初版から第4版まであり、現行曲は4版なのだそうだ。第4版で曲の出だしの3小節が、初版では5ページに及ぶ長さだという。しかも演奏が非常に困難なため、世界中で演奏できるのは10人程にすぎないのだと番組では言っていた。エンターテインメントTV番組の言うことはとかく大げさなので、10人という数字をそのまま信じることはできないが、しかし、初版『ラ・カンパネラ』がコンサートで演奏されたという話は,私は寡聞にして知らない。碇山典子さんはその難演奏のレコーディングに成功したおひとりなのだそうだ。 聴いた私の感想は、たしかに技巧的な曲で演奏者泣かせではあろうが、曲そのものはたいしたことはないと思った。初版を刈り込んで、現行のかたちのほうが余程美しい。音楽は、曲芸を聴かされても、少なくとも私は何の感動もしない。 リストから話しが離れるが、TV番組が、それが音楽的な番組であっても、とかくエキセントリックなことがらに目をそそぎがちなのは、大衆向け娯楽なので当然といえば当然だ。しかし天才少年だとかなんとか冠をかぶせて、曲芸まがいのギターの早弾きだとかピアノの早弾きをもてはやしているのを見たことがある。ちっとも音楽的ではないのだ。それらの演奏は、テクニックの見せ物だ。 きょうのTV番組で司会をしていたのはヴァイオリニストの葉加瀬太郎氏。 私は以前、つつましい演奏会で若いヴァイオリニストが曲弾き(楽曲を演奏するという意味ではない。曲芸弾きということ。念のために)するのを聴いた。彼がヴァイオリン演奏を志したのは子供の頃に葉加瀬太郎氏の演奏会を聴いたことによると、自分で言っていた。ところが、彼がいま人前で演奏するようになって、私が感じたのは彼の勘違いだ。葉加瀬氏は音楽の正しい高等教育を受けていられる。そしてその優れた演奏テクニックは、豊かな音楽を表現する。けっして曲芸を披露しているわけではない。しかし、くだんの若いヴァイオリニストは、楽曲にこめられた「音楽」を聴き取ることをおろそかにしている-------と、私は感じた。数曲演奏したなかで、私がこれはまあ聴けると思ったのは唱歌『浜辺の歌』の演奏だけだった。もともと言葉を表現する曲なので、意地悪い言い方だが、彼にも理解するとっかかりがあったのだろうと、私は思ったものだ。 私は演奏会にはしばしば足を運ぶけれども、楽器は何一つ演奏できない。交響曲のスコア(総譜)を読み取れたらどんなに良かろうと思う。モーツァルトの交響曲の楽譜をながめて溜め息つき、ベートヴェンの楽譜をながめてまた溜め息をつく。朝比奈隆・東条硯夫共著『朝比奈隆 ベートーヴェンの交響曲を語る』を読んでは溜め息をつく。-------この交響曲のスコアをドストエーフスキーやバルザックの小説を読むのと同じように私に読めたなら! 芸術表現はそれが音楽にしろ美術にしろ文学にしろ、テクニックがなければお話にならない。テクニックがあることが大前提で、テクニックがあるか無いかなど語る必要はないのだ。表現とはその先にあるのである。
Sep 13, 2016
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町内自治会から子どもたちの防災ポスター制作の監修をたのまれている。監修と言うが,まあ、立ち会って励ます役目である。まだ1ヶ月以上先のスケジュールだ。 とは言え,私の頭のなかでは、子どもたちをたった数時間のうちにいかにしてアーティスティックな気持を自発させ、作品に結実させるか、その指導テクニックの私自身のシミュレーションを、気がつけばやっている。つまり「台本」を頭の中につくっておく必要があろう、と。 幾通りもの台本を用意しておこう--------。まず、成熟したおとなをバックボーンとして、私自身を子どもとして覆ってしまう。そこから始めよう。 それはそれとして、今週は週末にかけて種々のスケジュールがつづく。きょうは画廊への作品出荷の準備を少しばかりやった。エア・パッキングシートを大量に買い込んで来た。
Sep 12, 2016
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気象予報では雨と言っていたが、降らずにすんだ。盛夏のあの蝉のかまびすしい鳴き声は、いまやすっかり草虫の鳴き声にとってかわった。残暑きびしいとはいへ、もう秋である。庭の柿も色づいてきている。 あいかわらず仕事場に籠りきりだ。小品がまもなく完成する。じつは京城展のための構想にのぼったイメージだったが、一旦捨てた。展覧会用の作品を画廊に引き渡してしまってから、展覧会とは関係なくもういちど取り組んでみようと復活させてみた。当初のスケッチから2、3の部分を削ぎ落したり、人物のポーズを変更した。執筆を進めてきて、どうやら絵として成立しそうである。表現しようとしている思想は輻輳的なのだが、構成要素はたった四つ。ほかに何も描いていない。四つの要素を修飾する夾雑物もない。-------これが、私が最近作でやっていることだ。
Sep 11, 2016
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午前中は市から依頼された高齢者数人を訪問。ついでに、残暑がきびしいので熱中症に気をつけるよう注意をうながす。私自身もじりじり焼け付くような日差しのなかを歩いての訪問なので、それこそ熱中症になりかねない。午前中の訪問だけできりあげた。 午後から作品に向かう。 しかしそれほど進まないうちに、乾燥を待たないでは二進も三進もいかないことになった。わずか2時間ばかりで執筆を終了した。 その後は、次に控えている30号の作品の素案について、思想的な強化のために集めた資料を読む。作品制作に直接関係はないのだが、テーマをめぐって四方八方から遠近様々な分野の学問的な成果をできるだけ目をとおしておくというのが、いつもながらの私のスタンスである。 閑話休題 錦織圭選手の全米オープン男子シングル準決勝。残念ながらバブリンカ選手に敗れて決勝に進めなかった。準々決勝でアンディ・マリーを破っていたので期待したのだが、この約4時間におよんだ死闘の疲労が影響したか? 残念、残念。
Sep 10, 2016
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きびしい残暑。仕事場にこもって作品をつくりつづける。あと1週間もすれば、小品ができあがるだろう。来週末にはテグ展用の作品を画廊に引き渡す予定だ。それまでに準備をしなければならない。 ところで、いつから値上がりしたものか、40数年間使用してきた海外のあるメーカーの絵筆の価格が、なんと10倍にはねあがっていた。細密画用の最高級品で、000号,00号、0号という、爪楊枝よりも細い穂先。一本1300円前後の価格が長年維持されていた。それが突然のように、一本13,000円になった。文字通り10倍の値上げである。最高級の輸入品とはいへ、ちょっと信じられなかった。 私はこの筆を、50号大の作品を制作する場合、だいたい5本くらい使いきる。もちろん大部分を大筆で描くのだが、細密仕上げに000号や00号の新品を5本くらい使用し、それらは作品1点が完成するまでに使い物にならないほど磨り減ってしまうのだ。 これまでは1作につき6千円ほどですんだが、今後は6万円かかることになる。内外のあらゆるメーカーの筆を試してみてこの筆をさがしあてた。他のメーカーの製品で代替がきかないので、これはちょいと大変だ。製造を止めていないことだけが、まだしも私にとっては救いではあるが。
Sep 9, 2016
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今朝、4時頃、猫たちにお腹がすいたと起こされ、食事を与えてから再びベッドに横になった。すぐには寝付けず、まだ寝たりなさも感じながらうつらうつらしていた。 ふと何の脈絡もなく、中学2年生のときに下校まぎわにI先生に絡まれ、「山田クンも今に泥水をすするようになるんだ!」と言われたことを思い出した。 その2、3日前のこと、私は書いた学校新聞用原稿を鉛筆で真っ黒になるまで汚されゴミ箱に捨てられているのを発見し、それを持って教員室に行き、私の原稿の遅れを批難したS先生に示して、原稿を先生の机に叩き付けたのだった。大勢の教師たちがそれを見て呆然としていた。I先生もそれを見ていたのであろう。 その当時(昭和32年前後)の私の中学校の学校新聞は、タブロイド版二つ折り4ページ、写真も入ったオフセット印刷で、新聞コンクールで優勝したことがある本格的な新聞だった。新聞委員は全校生のなかから教師の指名によって選ばれた10人ほどだった。 I先生は新聞委員会に関係はしていなかったが、私の容赦ない怒りをどうにかしなければならないと思ったのであろう。絡み方が執拗だった。そこへ相田義男校長先生が通りかかった。「先生、もう山田クンを帰してあげなさい」と仲に入られた。もしかすると校長先生の耳にI先生の声が聴こえ、それで出てきたのかもしれない。I先生はようやく引き下がった。 --------今朝,不意に思い出したのは「山田クンも今に泥水をすするようになるんだ!」という言葉だ。そしてつづけて思い出したのは、それから5年後、大学1年生のときのこと。 1933年に創刊され1970年に廃刊になるまで、文壇に多くの優秀な新人作家を送り出していた『文藝首都』という有名な同人雑誌があった。故保高徳蔵氏が主宰されていた。新人育成が目的だったという。上田広、芝木好子、半田義之、北杜夫、佐藤愛子、なだいなだ、中上健次、勝目梓氏などが出ている。同人であったかどうかは知らないが、戦前の同誌の執筆者には萩原朔太郎や芹沢光治良や田村泰次郎がいた。 私は大学に入学して意気込みもあったのだろう、原稿用紙30枚ほどの短編小説を書いて『文藝首都』に送ったのである。じつはこの小説の原案は高校3年のときに授業中に書いたものだった。夏休みの大学受験のための補習のときだったと記憶する。札幌の両親のもとに帰らず、会津若松に残って、学校の大講堂でおこなわれた補習授業にのぞんでいたが、そのノートブックに授業そっちのけで一気に書いた。 後日、『文藝首都』から原稿が返送されてきた。そこに同人の魚泳子氏による原稿用紙2枚の批評文が付されていた。非常に丁寧な批評だった。 こんなことばが書かれていた。「詩心がおありです。しかし作者は大変お若いのでしょう。世間の泥にまみれていない、とお見受けしました。書きつづけられることを望みます」と。正確な引用ではないが、そういう内容だった。 I先生は「泥水をすするようになる」と私の人生を言い、魚氏は「世間の泥にまみれていない」という指摘。 この二人のことばは、その後、思い出すこともないまま半ば忘れていたが、じつは、私の意識に深くもぐりこみ、魚氏の勧めにもかかわらず小説を書き続けることもなく、やがて21、2歳のころから絵を描くことを目指しはじめた私のひそかな葛藤は、芸術家としてどこに創作の源泉をもとめるかということだった。私は、自分の人生が泥のなかに埋もれたとしても、その泥にまみれることはない、と思った。それはほとんど確信に近かった。お笑いぐさと言えなくもないが、私は自分が、自らの行く末のどんづまりでは、自分に対して「イエス」か「ノー」の二者択一の人間であることだけは承知している。 つまり、私の創作の源泉は、泥にまみれた自己にあるのではない、ということだ。 -------私は、そのことをずっと考えてきた。I先生が中学生の私に執拗に絡んできたときから。いまも、ずっと-------
Sep 8, 2016
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日中、雨がパラパラと降ったり止んだり。大型の台風13号が関東に接近しているというので、その前触れかと思ったが、いま22時過ぎ、なにごともなく更けて行く。 終日、作品制作。
Sep 7, 2016
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朝、画廊の私の担当者から電話があり、先日引き渡した作品についてと、次の大邱(テグ)の展覧会ための作品について2、3の打ち合わせ。 作品はすでに完成しているので、「楽しみにしていてください」と私は言った。こんなことを関係者に言ったのはあるいは初めてかもしれない。後日落手したら感想を聞かせてほしいとも付け加えたが、自作の感想をもとめるのは明らかに初めてだ。 さて、4、5日休養するつもりだったが、休んでいることのほうが面倒だ。結局、また新たな小品を描き始めた。同時に30号の作品の素案をコピー機で原寸大に拡大してキャンヴァス上に貼付けてみた。これを見ながら、数日間のうちに沸き上がってくるであろう想念をデッサンし、徐々に構想をまとめてゆくことに。
Sep 6, 2016
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一日中,何もせずに休養していた。何もしないというのも、なかなか大変だと実感。仕事場の大小の白いキャンヴァスをちらちら見やりながら、心をからっぽにすることにつとめる。無念無想である。
Sep 5, 2016
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午後2時39分作品制作を擱筆、完成した。今後数日間寝かせて、署名を入れることにする。予定より1週間は早くできあがった。その分の日時を少し休憩とすることにしよう。 きのう、いつものように午後6時に仕事を止めたのだが、9時になって、もう少しやっておこうと思い、結局、11時半過ぎまで執筆していた。それが良かった。きょうの仕事に拍車をかけることができた。 さて、もう頭を切り替えよう。 昨夜ベッドに入って、眠くなるまで読書をしていた。ここ数日読みつづけている論文集なのだが、その記述のわずかな語彙に触発されて、突然アメリカ映画『フロウズン・グラウンド(The Frozen Ground : 2013)』を思い出した。スコット・ウォーカー監督の長編第1作。主演はニコラス・ケージとジョン・キューザック。実際にアラスカ州アンカレッジで起きた猟奇殺人事件をモデルにしている(脚本もスコット・ウォーカー)。 ストーリー説明は遠慮しておくが、私の言いたいことのために、ニコラス・ケージは事件担当の刑事部長ジャック・ハルコムを演っているとだけ述べておく。 ジャックは近日中に警察署を退職して石油会社に転職しようとしている。妻も望んでいることで、すでに転居のための家財の整理はほとんど終わっていた。そこへ連続殺人の疑いがある変死体が出てきて、ジャックは内心困惑しながらこの事件の担当をしなければならなくなる。当然、いつ解決するかもわからない事件のために、転職も転居もおあずけである。 さて、私が注目したのはここからの妻の態度である。じつは妻が登場するシーンは最初と最後の2カ所だけだ。このわずか2シーンだけで、この妻がどのような家庭婦人であるかを言い尽くしているのだが、従来のアメリカ映画の妻であり主婦である女性像とおおきくちがうのであった。そこに私は「オヤ!」と、注目した。 従来、このような状況におかれた妻であり主婦である女性像がどのように描かれてきたかといえば、仕事に打ち込む夫に疎外されていると悩み、彼女が思い描く結婚生活は破綻したと鬱状態になっていくか、逆にヒステリックに喚いて夫婦間の溝を深めてゆく女。いずれにしろ、このような女性像が観客に受け入れられてきたのは、背景に女性の社会的自立のための思想や運動があったからであろう。現在もその社会思潮はかわらない。大統領選最中のヒラリー・クリントン候補が、「ガラスの天井にこれまで一番大きなヒビを入れた」と発言していることにも表われている。 それでは『フロウズン・グラウンド』のジャック・ハルコム刑事の妻はどうか?彼女も思いがけない状況に不満ではある。しかし、彼女はヒステリックに喚かない。夫を自分の論理で追いつめはしない。夫が社会のなかでどんな困難な仕事に誠心誠意務めているかを理解し、しかもその仕事が、残虐な殺され方をした女性たちの、結局は味方となって、女性を守ろうとしているのだということを理解しているのである。それゆえに彼女は、主婦として夫不在の家庭と子ども達を守るという「任務」に着いたのである。最後の短いシーンが、彼女の包容力をあますことなく観客に伝えていた。 私は、この妻の造形は、アメリカ映画の新しさではないかと思う。見かけは古いが、その見かけとは全然ちがう女性像だと!
Sep 4, 2016
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午前中、民生委員として市から依頼された訪問調査。午後から仕事場に籠り制作。 もしかすると明日にも擱筆して完成するかもしれない。頭の中に次の作品の構想がちらちらと浮かんだり消えたり。いまやっている作品の一層複雑な発展形になるだろうが、連作のようにつぎつぎとどこまで発展していくか。私自身にもわからない。パタリと終わってしまうかもしれない。 ある思想をめぐって発芽するイメージだが、それがいつ始まり、いつ終わるか、自分でもわからないというのは、長年作品を創りつづけているのに不思議なことだ。終わったからといって完全に無になり次の作品と断絶しているのではない。それまでの考えがさらに熟成したうえで、どこかでつながりをもって、しかしイメージには変化があり、あるいは技法上の発展や創意が加わって変化をむかえているのである。 勿論、そういうことは言葉にすれば、ということだ。私の絵描きとしての日常は、はい終わった、はい次。はい、それも終わった。はい次------という具合ではある。何ということもない。ただし、目の前にある物や風景を写しているのではない、ということだが。
Sep 3, 2016
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会津若松のEさんに葡萄を頂戴した御礼の電話をした。1年ぶり。「もしもし」と言ったとたんに、「あらッ、なつかしい声だ」とEさん。「山田でございます、Eちゃん!」 それからお互いの近況にはじまり、思い出話やら何やら1時間も話していた。 八総鉱山の診療所の医師だったM先生の家が、Eさんのお隣だとは、初めて知った。 M先生はすでに故人でいられるが、私の中学時代の体育教師・清水先生とは旧制会津中学の文字通り同級生だったことは、清水先生の生前に聞いていた。ご両人がまだご健在のとき、清水先生はM先生に、八総鉱山時代の私のことを知っているかと尋ねられた。M先生は、町議会議員だった私の父にいろいろ世話になったと話し、聡明な少年がいた、と言っていたそうだ。 「聡明な少年」とは恐縮したが、じつはM先生の実弟と私とは会津若松第三中学校で同級生なのだ。彼はスポーツ万能で、陸上競技の100m走だったかで当時の中学生記録を持っていた。10年ほど前だが、その記録はまだ破られていないはずだと、清水先生は言っていた。 その同級生のM君は、健在だとEさんはおしえてくれた。M先生の奥様もお元気だとか。「山田クンのお父様のことを覚えているか、聞いておくネ!」とEさんは、思いがけない縁をおもしろがっていた。 学制改革で公立校はすべて男女共学になったが、私の母校・会津高等学校は私の時代は男子校だった。当時はまだ旧制会津中学時代の伝統が残っていて、たとえば大正ネオゴシック風建築の石造中央棟の二階は大講堂だったが、そこでの新入生歓迎会の折り、先に着席している上級生の後から神妙なおももちで新入生が入場してくると、途端に上級生達が一斉に大音響で床を踏み鳴らすのである。石造の講堂内に耳を聾するドドドドという音に、たいていの新入生は何事かとすくみあがってしまうのだった。 あるいは、白い鼻緒の高下駄も会津高校生のシンボルだった。他校の生徒には許されていなかった。会津高校をめざして受験する男子中学生は少なからずその高下駄を履いて闊歩する姿にあこがれていたのである。 あるいは、2本の白線が入った学帽も会津高校生のシンボルだった。 私は10年前、ひょんなことから音信が復活した清水先生を訪ねて、40数年ぶりに会津若松に行った。そして清水先生が私のためにわざわざ買って用意しておいてくださった自転車に乗って、Eさんとともに市中を散策した。そのとき母校をも訪ねたのである。ちょうど夏の頃で、正門を入ってゆくと水着姿の女生徒に挨拶されて、驚いてしまった。高校時代に返って男子校のような気分でいたので、若い女の子に、しかも水着姿で出逢うとはまったく予想していなかったのだ。 そういうわけだから、もう昔のバンカラな伝統は残ってはいないだろうが、きょうEさんが言うには、男子の制服制帽はずっと昔のまま現在にいたっているのだと。 「でも、近頃の男の子達は誰も白線帽はかぶらないのよ。ウチの孫もかぶらなかった。みんなおしゃれになっちゃって------」 まあ、それもしかたがなかろう。しかし、清水先生やM先生の旧制会津中学時代から、戦後、新制会津高等学校になり、私の時代(昭和36〜38年)を経て、53年後の現在まで、黒い詰襟の学生服に白線帽の男子制服が残っているのは、なんとなく嬉しい。たしか私の古い物入れに、私の着た制服についていた校章入りの金釦や帽子の徽章が残っているはずだ。 Eさんとの電話は、懐旧の話ばかりしていたわけではない。いつまでも元気な老人で生きていこうという話しも。おたがいに年をとったことは隠しようもない事実なのだもの-------
Sep 2, 2016
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会津若松のEさんから葡萄がとどいた。もう何年もつづいている秋さきがけの贈り物。葡萄園が廃業するまでと言ってくださる。ありがたいことだ。 Eさんは私の先輩になるが、といってもEさんは女学校、私は男子校。同じ劇団員として親しくなった。 子どもに見せるミハルコフ作『いばりや兎』を上演することになり、私が初めて主役をもらった。メーキャップのときだった。それまでは年輩の団員が私の顔をつくってくれていたが、初めて自分で「いばりや兎」の顔をつくった。衣装が白のズボンにワイシャツ、濃いグリーンのベスト、顔だけが出る兎のかぶりものをつけるので、私はメーキャップの下地に白のドーラン(舞台用油性練り化粧品)を塗った。するとそれを見た年輩の男性団員が、「それじゃあ白すぎるだろう!」と言った。私は当惑してしまった。するとすかさずEさんが、「まだこれから作ってゆくのよ!」と助け舟を出してくれたのだった。-------Eさん、おぼえていられるかなぁ。 翌年、『アンクル・トム物語』を上演し、1回目と2回目の間に上演写真以外のスチールを撮った。演出の先生が客席から見ていて、台本にはないEさんと私のラブシーンを撮影した。「もっとくっつけ! そんなラブシーンがあるか!」などと言われながら、まるで純愛ものの顔を見つめ合うだけの写真ができあがった。------10年前、42、3年ぶりにEさんや演出家の先生に再会したとき、この写真について、ふたりともまったく誤った記憶をされていた。つまり、あのシーンは台本どおりのものだ、と。「そうじゃないですよ、あれは先生が、ウブな私をからかうために急遽、写真撮影のためだけにつくられたシーンです!」「そうだった?」とふたりは狐につままれたふうであったが、狐につままれたのはむしろ私だった。 その再会以来、毎年秋がちかづくとEさんから見事な葡萄が送られてくる。Eさんのお知り合いのご夫婦が丹精してつくられている葡萄である。
Sep 1, 2016
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きょうは午前9時半から昼をはさみ会場を変えて午後4時まで民生委員の会議。暑い中、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。終わるや一目散に帰ってきた。じつはその後も6時まで何たらかんたらと言っていたが、私は忙しくて付き合いきれなかった。 それにしても、いろいろな会議や研修で思うのだが、あれは何だろね。何かを説明するときに必ずといっていいほど、クイズ形式の設問をするのだ。 彼ら、私より20歳30歳若い人達だが、受けてきた学校教育のせいだろうか。そうだとしたら、私から言わせれば、おバカな教育だ。 大事な問題や、統計的な事例などをクイズでやっていては、後になって「あれ? 何が正しかっただろう?」となるのがオチで、結局,正しい事が頭に入らずに忘れてしまうものだ。しかも、三択問題のクイズにこたえたところで、たとえ当たったとしても、確かな知識による根拠からではなく、当てずっぽうでたまたま正解に当たったというだけで、ほとんど何の意味もない。 大事な問題や統計的な事例は、余計な事に目を向けさせずに、ずばりと正解(ただしい知識)を提示したほうがいいのだ。きちんと学問を積んで来た人にはそんなことは言わずもがなの勉強方法なのだが、そういう人ばかりではないので、かえってクイズなんてやっている場合ではないですよ、と私は言いたいのだ。 以前のことだが、大のおとなの会議で、発言をするのにヌイグルミをまわしていたので、私はとんでもない人達のところにいるんだと、暗然となった。つくづく社会が幼稚化している、と。社会全体が幼稚化しているので、自己の幼稚さには気付くことはない。「病膏肓(やまいこうこう)」というやつだ。 まあ、そんなわけだから、時間ばかり無駄になる。「私はいつでも忙しい」と言っていたのは小説家の宇野千代氏だが、その言葉が通じない人達のなかに入ると、泥沼に嵌ったようなものだ。
Sep 1, 2016
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