全4件 (4件中 1-4件目)
1

数日前のNHK-FM「古楽の楽しみ」(リクエスト・ア・ラ・カルト)で、ホロヴィッツの演奏になるスカルラッティのソナタ三曲がかかっていました。曲目はK.146、K.491、およびK.455です。これらの演奏を久しぶりに聴き直して「あれっ?」と思ったのがK.455のソナタ。下の写真に引いた譜面の赤い破線で囲った部分、18小節めから四小節続く左手のラ♯ソ♯ソラ・ラ♯ソ♯ソラ・レ♯ド♯ドレ・レ♯ド♯ドレ…とあるところを、ホロヴィッツは何とララララ・ララララ・レレレレ・レレレレ…と、同じ音の反復で弾いているように聞こえます。引用した譜面はファディーニ版ですが、他の手持ちの譜面を調べた範囲では、ウジェル版、橋本版いずれもこれと同じで、同音反復になっているものは見当たらないようです。ここから先は想像ですが、ホロヴィッツがこれらのソナタを録音した1960年代には、こんにち我々が手にしているような「原典版」はまだ陰も形もなく、世の中に出回っていたのはロンゴ版とカークパトリックの選集「60のソナタ(全音版が入手可能)」ぐらいだったと思われます。ホロヴィッツは、スカルラッティのソナタをレパートリーとして取り上げるに際し、カークパトリックにいろいろとアドバイスを受けたことが分かっていまので、このK.455についてもファクシミリとして入手していたいずれかの写譜を基に、カークパトリックと相談しながら演奏譜に仕立てたのだろうと思われます。ただし、tekutekuさんのヴェネチア手稿をチェック(こちら)してみると、これには見紛うことなくラ♯ソ♯ソラ・ラ♯ソ♯ソラ…と記されているので、基になっているのがヴェネチア手稿でないことは明らかです。いずれにせよ、前述のカークパトリックの選集にはこのソナタは取り上げられておらず、残念ながらこのような想像も亭主には確かめようがありません。もしかするとこれは、ホロヴィッツ自身の自由な改変によるのかも…
2013.02.24
コメント(0)

古来、鳥は数多くの芸術家に霊感を与える生き物だったようですが、ハープシコードを含む鍵盤作品にも沢山の名品があります。このところ亭主がご執心のラモーについても、1724年の曲集の中にある「鳥の呼び戻し(Le Rappel des Oiseaux)」、「ソーローニュの雛鳥(Les Niais de Sologne)」、新クラヴサン曲集中の有名な「雌鳥(La Poule)」があり、いずれも傑作と言ってよい作品です。フランソワ・クープランはというと、第14組曲にある「恋の夜鳴きうぐいす(Le Rossignol en Amour)」が有名ですが、他にもいろいろとある様子。バロック時代以降を眺めても、フランス音楽というものはどうやらある「お題」について音による印象を綴る伝統があるらしく、鳥もその格好のお題の一つになっているのでしょう。これは必ずしも「鍵盤音楽」には数えられないかも知れませんが、ラヴェルの歌曲集「博物誌」は、ルナールの同名の詩集から五編抜き出し、それに素晴らしいピアノ伴奏を付けています。しかも、そのうち四編は鳥にまつわるもので、第1曲「くじゃく」、第3曲「白鳥」、第4曲「カワセミ」、そして最終第5曲「ほろほろ鳥」と、いずれも名作ぞろいです。この中でも亭主がとりわけ好きなのが第4曲。渓流つりに出かけた主人公が、釣竿を掲げていたところ、何処からともなく現れた一羽のカワセミが竿の先に止まり、その美しさに息をのむシーンを描いたものです。カワセミが自分の竿を木の枝と思ったことに心の中で高揚する主人公が、カワセミに気付かれないよう、じっと息を殺してその美しい羽色に見とれる光景が、ラヴェルのえも言われぬ静寂感に満ちた和声進行とともに現前する感じです。ちなみに亭主も以前、手賀沼の近くに住んでいた頃、沼のほとりを散歩していた時に突然目の前に現れたカワセミを目にしたことがあります。数メートル先の水面に立つ木柱の上にすっと止まったカワセミの、宝石のように美しい青と橙色の羽色は今でも鮮やかに脳裏に焼き付いています。宮廷に閉じ籠っていた(?)18世紀の音楽家は、はたしてカワセミを目にすることはあったのでしょうか?もし目にしたとすると、どんな曲を書いたでしょう?
2013.02.17
コメント(0)

Heugel版に収録されているスカルラッティのソナタは全555曲、カークパトリック番号の順番に並んでいますが、亭主はその最終巻である第11巻の最後のソナタ、K.555番の曲を弾くと、いつも何とはなしに物悲しい気分になります。次から次へと多彩な生き物に目を見張りながら、夢中になって森の中を探索しているうちに、こつ然と森の外れの断崖に出くわし、その向うにはもう何もないことを悟ってしまった探検家の気持ち、とでも言うべきでしょうか。ところで、亭主はこの曲を何度か弾くうちに、これと似た雰囲気のソナタがあることに気がつきました。K.204a、あるいはK.205という作品です。いずれも通常の二部形式とは異なる作品ですが、8分の6拍子を基調にした短調の速いパッセージの部分は、どことなくこの最後のソナタを思い起こさせる感じです。こうして比べてみると、これらの作品、実はもう一つの共通点としてパルマ手稿にしか収録されていない、という事実があります。よく知られているように、スカルラッティの原典手稿としてヴェネチアの図書館にある一セットと、パルマの図書館のそれがありますが、後者には前者に含まれないソナタが二十曲近くあります。このうちK.204aとK.205を含むのは1752年に写譜されたパルマ手稿第IV巻で、K.555は1757年、ドメニコの没年に写譜されたパルマ手稿第XV巻です。この二巻の間には五年の開きがありますが、スカルラッティといえども似たような作風の作品は相互に近い時期に作曲しただろうと想像すると、「写譜された順番と作曲された順番は必ずしも対応していないのではないか」という疑念を裏書きするもののように思われます。カークパトリックは、「装丁が立派で王妃マリア・バルバラが持っていたに違いない」という理由でヴェネチア手稿を「第一原典」としましたが、やはりスカルラッティのこれら手稿を詳細に調べたJ.シェベロフは、ヴェネチア手稿の主要部分がパルマ手稿からのコピー(なので前者に一部欠落がある)と結論し、さらにこれら手稿群に共通の「失われたオリジナル」手稿があったと推定しています。下図は、彼の博士論文に描かれた系統図です。「失われたオリジナル」の手稿譜ファイルがあったとすると、上記三つのソナタは相互に間近なページに綴じられていたかのかも知れません。いずれにせよ、やはりカークパトリック番号を「作曲の順番」と考えるのは危険な思い込み、ということになります。A.シャンブールは、スコット・ロスのスカルラッティ・ソナタ全曲CDのライナーノートの中で、最後に収録されたK.554と555のペアに触れて「これら二曲の書法と構造の完璧さは、我々を直ちに本カタログ冒頭の作品群へと連れ戻す。それはまるで円環が閉じるかのようであり、…もはやこの素晴らしい作品全体の始まりや終わりを区別する必要もないのだ」と語っています。言い換えれば、「スカルラッティの森」を冒頭で例えたような「平面」の森と思うのは錯覚で、実際には球面のように何処にも境目というものがなく、探索者をいつまでも魅了し続けるワンダーランドなのでしょう。
2013.02.10
コメント(79)

亭主はこの一ヶ月ぐらい、右ヒジ側面の痛みに悩まされています。あるとき急に痛み出したものの、それまで思い当たる節もなく、原因がよくわからない状態です。多分腱鞘炎の一種と思われますが、週末にハープシコードを弾いていて、特に装飾音を弾くために指を速く動かそうと力が入ると「ズキッ」と来るので、もしかするとこれが原因かも?これを「チェンバロ肘」と言うのかどうかはともかく、何しろハープシコードの演奏についてはレッスンというものを受けたことがなく、全くの自己流で弾いているので、きっと変なところに力が入っているのに違いありません。ところで、このところラモーのクラヴサン曲集を弾いたり聞いたりしていて強く感じることとして、ラモーの装飾音は彼以外の作曲家のそれとは一線を画しているのではないか、ということがあります。バロック以前のハープシコード音楽において、装飾音(grace notes)が単に「装飾」といった副次的なものではなく、音楽の本質的な一部分を形成していることは、誰もが認めるところでしょう。(その意味で、「装飾音」という言葉は大いに誤解を招く用語だと思われます。)このような認識が確立する過程で、フランス鍵盤音楽が果たした役割はおそらく決定的とも言うべきもので、印刷出版された17〜18世紀のクラヴサン曲集では、譜面中に現れる装飾音記号の展開形が凡例として提示され、少なくとも一人の作曲家の中では首尾一貫した装飾音の体系が出来上がっていたこと、さらにはそれが(変容しながらも)代々受け継がれて行く様子が明瞭にうかがえます。つまり、彼らにとって、譜面上の音符を節約するための方便として用いた「記号」はどうでもよい「装飾音」として片付けられることなど思いもよらず、響くべき音を正確に記した音符そのものだ、というわけです。この点、イタリア(やスペイン)の鍵盤音楽は全く違うのではないか、と想像しているのは亭主だけでしょうか?一方、遅れてやって来たドイツの音楽家達が、「体系的に見える」装飾音として参考にしたのはおそらくフランス鍵盤音楽のそれで、C.P.E.バッハの著作はそれをまとめたという以上のものではない(何かを新たに付け加えたということではない、という意味で)と思われます。C.P.E.バッハ以降、現代までのバロック音楽演奏についての参考書を眺めていると、装飾音については基本的にこの「体系化」という流れの延長線上でなるべく広く応用が効くような一般則を抽出しようとしているように見えますが、亭主はラモーのクラヴサン曲を弾いていると「こういったことは間違っているのではないか?」と考え込んでしまいます。以前に紹介したベルダーによるラモーの演奏を聞いていると、「装飾音」も含めて譜面に意図された音が実に正確に響いてきますが、これを亭主が(ヒジの痛み故に、というか技術的な困難さから)「装飾音」を省略して弾いた途端、まるで別物の音楽になってしまうのです。もちろん、こういうことはラモーの作品に限ったことでないことは確かなのですが、彼の作品では特にそれが著しいと感じられるのです。それにしてもこのヒジ痛、放っておいて直らないものなのかどうか、やや心配になってきました。
2013.02.03
コメント(79)
全4件 (4件中 1-4件目)
1