全4件 (4件中 1-4件目)
1
![]()
最近、マティアス・ヴェックマン(1616-1674)という作曲者による「トッカータ」を偶然耳にし、もう一度聴きたくなってレオンハルトによる表題の中古CD(1997年リリース)を入手しました。この音盤、タイトルにあるようにヴェックマンとフローベルガーの作品を集めたもので、しかもどちらかというと前者にスポットを当てたアルバムになっています。というのも全12トラックのうち前半7トラックがヴェックマンの作品、残りがフローベルガーのそれとなっているからです。亭主が耳にしたのはおそらくホ短調のトッカータで、演奏時間も3分弱という短い作品ですが、特に中間部から終わりにかけて左手の付点のメロディーに右手で連打される和音の進行が印象的で、とても爽快に響きます。この音盤、珍しくも国内版(ソニー・クラシカルの1枚)として出たもので、ライナーノートも植田義子さんによる(今や貴重な)日本語の解説です。そこで紹介されている、マッテゾンの「登龍門への礎石」(1740)という著作中にあるヴェックマンについての記事が大変面白いので、以下で引用してみます。…ヴェックマンがザクセン選帝侯のドレスデン宮廷オルガニストの地位にあった1649/50年頃(30年戦争が終結した翌年あたり)、フローベルガーが皇帝フェルディナンド3世の親書を携えてドレスデンを訪問した。選帝侯は、歓迎の意味も込めてヴェックマンに、フローベルガーとのチェンバロでの競演をうながし、褒美として金の鎖を下賜すると約束した。金の鎖は結局遠来の演奏家の顔を立ててフローベルガーに贈られたが、2人は互いにその技量を讃え合った。この出会いをきっかけに、才能豊かな2人のチェンバロ奏者は、以後親しく交流を行うようになり、作品の交換や献呈をするなど相互啓発が行われたことが、残された手稿集などの資料から実証されている。 レオンハルトは、17世紀中葉に活躍したドイツの名チェンバロ奏者2人の、良き競争相手、良き友人としてのこのような絆に光を当てて、このCDに2人の作品を取り上げたわけである。…(亭主による誤植等の訂正あり)この逸話、亭主には即座にヘンデルとスカルラッティのそれを思い起こさせます。この2人がオットボーニ枢機卿邸でハープシコードとオルガンの腕を競い合ったのが1709年ごろですから、ヴェックマンとフローベルガーのそれはちょうどその60年ほど前。しかも、調べてみるとこの2人、どうやら同じ1616年生まれの同級生(ただしヴェックマンについては推定)という点も共通しています。こうなってみるとこの同級生ペア、いろいろ比較してみたくなります。フローベルガーが外交官的な仕事もこなし、ヨーロッパ中を旅して回った一方で、ヴェックマンが人生の前半をドレスデン、後半は没するまでハンブルクで過ごした点も、それぞれ瓜二つの感じです。(前にもご紹介したように、ヘンデルは明らかに当時の英国と独墺を股にかけて外交官的な活躍をしていたのに対し、スカルラッティは主にポルトガルとスペインで王族の個人的な音楽教師として生涯を終えています。)ここから先は亭主の妄想ですが、上記の記事を書いたマッテゾンはヘンデルの親友としてよく知られています。また、ヘンデル没後にはマナリングによる彼の最初の伝記を自費で独訳して出版しており、当然ヘンデルとスカルラッティの腕くらべの逸話も熟知していたものと思われます。そこで、ヴェックマンの紹介記事を書くにあたり、親友のそれと類似のエピソードを特出しで取り上げたのではないか。(同じハンブルク出身ということもあり、マッテゾンが多少とも「話を盛っている」可能性が無きにしも非ず…ですが。)いずれにせよ、ヴェックマンは(スカルラッティと同様に)最近まで名前だけの(半ば忘れられた)音楽家だったようです。ところが、1980年代の終わり頃から研究が飛躍的に進み、彼の鍵盤作品の再評価が行われたそうで、1991年にはベーレンライター社から「ヴェックマン鍵盤作品集」(ジークベルト・ランペ校訂)が出版されたとのこと。レオンハルトによるこのCDも、そのような流れの一つだったようです。ちなみに、録音で使われた楽器はヨハネス・ルッカース製(1624年)のオリジナルに基づくコピーで、ピッチはA=392 Hzと低音がよく響くヴェルサイユピッチ。しかも、ほぼ全ての曲を2段鍵盤連動のフルストップで弾いている感じで、トッカータの速いパッセージなどでは大迫力の音響です。これに刺激されて、亭主もいつもはA=415 Hzで使っているマイ楽器の鍵盤を久しぶりに左にシフト、フローベルガーやフランスのクラヴサン音楽で低音の響きを楽しむことに。 こうなってくると、CDを購入するきっかけになった彼のトッカータも自分で弾いてみたくなり、早速件の楽譜をネット注文と相成りました。(それにしても、恐るべきはベーレンライター社の品揃え、です。)
2019.02.24
コメント(0)
![]()
亭主はこのところ、「原初バブルと《メサイア》伝説―ヘンデルと幻の黄金時代―」(山田由美子著、世界思想社、2009)という本にハマっています。この本、おそらくは以前にこのブログでご紹介した「ヘンデルが駆け抜けた時代」という著書のネタ本の一つと思われますが、とにかく面白すぎて止まりません。(とはいえ、もともと連れ合いが購入して読みはじめたところに割り込んだこともあり、なかなか手に取る時間を確保できず。)まだ最初の70ページ程度を読み終えたところですが、時は1700年代初め、スペイン継承戦争の只中、ハノーファー公ゲオルグが英国王位を継ぐまでの紆余曲折を活写した山田由美子さんの筆が描くヘンデルは、当事国の英独両国を股にかけて八面六臂の大活躍。まさに歴史スペクタクル大活劇のヒーローのようです。振り返ってみれば、例えばスペイン継承戦争の結果として生まれたフェリペ5世、さらにその次のフェルナンドの宮廷でも音楽家が甚大な影響力を行使していた(ファリネッリはルイ15世から賄賂を提示されるほどだった)と言われていますから、今更驚くことはないのかもしれません。この著作、表題にもあるように元々は歴史上最初の経済バブルとその崩壊として知られている「南海泡沫事件」を主な題材にした経済史の本なのですが、当時の音楽家が政治・経済の中枢である宮廷に比較的自由に出入り出来たことを反映し、彼らが様々な機会を通して外交・内政に影響を及ぼしていたことが詳細に語られています。(つまり、このような影響力を行使できる立場として考えられていた王室の取り巻きは、侍医、法律家といった専門家に限らなかったというわけです。)折しも、先週末から公開になった話題の映画「女王陛下のお気に入り」は、まさにこのスペイン継承戦争期間の英国アン女王とその取り巻きの物語で、いやが上にも興味が湧きます。山田由美子さんによると、ヘンデルは戦時下の英国が対仏同盟軍の盟主という立場であるにもかかわらず、内実は他の同盟国から戦費を搾られるだけで疲弊しているという現実を目の当たりにし、もともとの雇い主でもある同盟軍側の意向を意に介さずアン女王の和平路線を宣伝する役回りを演じたとのこと。(ただし、実はこれも深慮遠謀による見せかけだったというオチも付くようですが。)この先どういう展開になるのか、今から楽しみです。
2019.02.17
コメント(0)
![]()
亭主の住む関東南東部は、先週金曜日から毎日のように雪が舞い、昨日日中は一旦溶けたものの、今朝はまた庭や車の上に雪が数センチ積もっています。こんな外出に向かない日には、考え事をしたり、読みさしの本を手に取ったりと、常日頃できないことするのが一番。そこで、週末に先立つ朝のFM放送を聴きながら思い出していた「18世紀以前の音楽家がなぜあれほど多作なのか」というギモンについて、改めて考えたことを少々。 * * * *いつの世でも、音楽の受け手は自分が感動し気に入った曲を何度でも聴きたいと思うもの。このような需要に対し、音楽家も含めた供給側の対応の仕方は、18世紀以前と19世紀以降、さらには「レコード」が普及した時代以降で全く違うように見えます。18世紀以前は、音楽家とは即ち作曲家兼演奏家で、しかも演奏するのは基本的に自分の作品だけです(今日のジャズやロックに類似)。しかも当時の音楽は、それ自体を「鑑賞」するためというよりは、様々なイベントを盛り上げる道具立てのひとつとして作られる「機会音楽」が需要の主なものでした。これはオペラのような場合にも例外ではなく、台本は繰り返し使われて大事にされましたが、音楽については(特に歌手のキャラや能力に合わせて)毎度新たに作り直されるのが常でした。つまり、演奏される機会が(極端な場合には)1回きり、という音楽を作るわけですから、そのようなイベントに声がかかる人気の音楽家ほど多作である上に、「何度でも聴きたい」という需要に答える方法として自作を改作して再利用するのが当然(作曲技法としての「パロディ」)ということになります。つまり、「多作」と「自作の使い回し」はほぼセットになっていた、というわけです。改作といえども独立した作品とみなす今日的な「作品中心主義」からみれば、これが「極端な多作」と「自己模倣」に見える理由になります。(ある高名な音楽評論家は、バロック音楽を王侯貴族の食卓におけるバックグラウンドミュージックのようなもの、と評していました。確かに会食というイベントも機会音楽が活躍する1シーンですが、この比喩には機会音楽を芸術音楽より下に見る価値観が見えかくれしています。)これに対し、演奏専業(それで稼ぐプロ)の音楽家が登場した19世紀以降では、作曲家の残した主要な作品を繰り返し演奏することで、新たに生まれた聴衆(主に商人階級)の旺盛な音楽需要に答える、というビジネスモデルが発達します。こういう状況で、多様な趣味の大衆を前に「繰り返し演奏する価値がある作品」としての「芸術音楽」という概念が芽生えるのはある種当然の帰結とも言えます。芸術音楽では、芸術家としての音楽家の個性、および作品のオリジナリティという概念が格段に重要度を増し、他人の真似をすることはおろか、自作の再利用も「自己模倣」として批判の対象になります。いかな天才といえども「一品もののオリジナル作品」を量産することは容易でなく、必然的に寡作になるというわけです。そして、録音技術の登場は、このような芸術音楽の固定化を決定的なものにし、ビジネスとしてのクラシック音楽が確立します。音楽の受容スタイルも芸術音楽一辺倒になり、18世紀以前の音楽は「音楽史」という名の下で長らく過去の遺物として扱われることになりました。このような状況が変化しはじめたのが、前世紀後半に起きた古楽復興運動だった、というわけです。 * * * * 話は戻りますが、先週の朝のFM番組は、昨年8月に放送されたヘンデルのオラトリオ「エステル(HWV50a)」を5日間に渡って紹介するプログラムの再放送でした。案内役の加藤拓未さんは、ヘンデルが「エステル」(1718年ごろの作品)を作曲するにあたり、その直前に書いた「ブロッケス受難曲(HWV48)」中の楽曲を多数転用していることに繰り返し触れており、番組中でも両者を比較するような構成になっていました。ブロッケス受難曲がドイツ語の歌詞であるのに対し、エステルのそれは英語ですが、同じ音楽をどちらも自然に使い回しているところは、ヘンデルの凄腕というところでしょうか。ところで、今回の再放送を聴いていて気づいたこととして、4日目に放送された同作品の第5場後半、最後の5分程度の部分が「王宮の花火の音楽(HWV351)」とそっくりであることが挙げられます。(既に周知のこととは想像しますが、亭主がちょっとググった限りではなぜかこの類似について言及した記事は見当たりませんでした。)「王宮の花火の音楽」は、1748年にオーストリア継承戦争が終結したことから、それを記念する祝典(1749年)のための音楽として作曲された典型的な機会音楽です。ヘンデルはおよそ30年前の自身の作品の一部を改作して式典に供したわけですが、引用元の「エステル」が「ブロッケス受難曲」の改作である点も含め、こういった再利用については「当時は普通に行われていた」と説明されるのみです。ところが、機会音楽の作曲家としてのヘンデルにとって、自分の自信作を折ある毎に再利用することは、言ってみれば「自作の再演」に他ならず、「芸術音楽の再演」と同じと考えるのが正しい見方だと思われます。もちろん、再演といっても自作である以上、19世紀以降の専業の演奏者が口にする「音符に忠実に」といった束縛を感じる必要は全くなく、常にライブ演奏の自由を行使することができるわけです。やはり専業の演奏家によるとはいえ、今日の古楽はこのような自由な精神を引き継いでいる、ということがクラシック音楽との違いだと思われます。
2019.02.11
コメント(0)

先週は仕事で仙台・秋保温泉に一泊。昨年末に群馬(といっても南の方)で温泉に浸かってからまだひと月しか経っていないものの、寒さが続くなかではもっと頻繁に浸かっていたいぐらいで、源泉掛け流しの湯を朝夕の2度堪能しました。ところで、先週ご紹介した表題の著作、主な内容がヘンデルの活躍を中心としたものであることは言うまでもないところですが、亭主にとって「なるほどそういう話ならわかる!」と膝を打ったのが、「バッハと政治・外交の関わりを推理する」と題された第7章でした。ヘンデルと同級生であるバッハ、今日のクラシック音楽界では「音楽の父」と言われるほど高評価ですが、よく聞かされる話として「生前はヘンデルやテレマンに比べて音楽家としての評価が低く、もっぱら鍵盤の名手として知られていた」ことが挙げられます。その説明としては、例えばバッハがフーガなど古いスタイルの音楽に固執し、時代に取り残された(次第にロココやギャラント様式のような単純で分かりやすい音楽を求めるようになった)から、といった音楽の趣味(あるいは評価基準)の問題に帰せられたりもするようです。ところが、バッハの創作活動全体を眺めてみれば、彼が当時最先端のイタリア音楽も熱心に勉強し、鍵盤作品や協奏曲では流行のスタイルで一流の作品を数多く書いていたこと、さらに声楽作品でもライプチッヒ時代の初期には(オペラにも比すべき)教会カンタータ(名作も多い)を手がけていたことも知られています。これらはヘンデルにも十分比肩し得るもので、「スタイルが古い」という同時代人の批判が当てはまるのはむしろ彼の作品の中の一部分にしか過ぎず、前述のような説明は何だか腑に落ちません。他にも謎として挙げられる点として、ライプチッヒに移ってしばらく経った1730年代半ば以降、バッハの創作意欲が明らかに減退したように見え、「音楽の捧げもの」、「フーガの技法」といった数える程の作品しか残っていないことが目につきます。これは、同年齢のヘンデルやスカルラッティが依然として旺盛な創作活動を行なっていたことと実に好対照です。(スカルラッティに至っては、あの膨大な鍵盤ソナタの大部分を60歳代になってから作曲したとも言われているほどです。)この他にも、バッハの「クリスマス・オラトリオ(~1735年)はなぜあれほど好戦的な内容なのか」、「マタイ受難曲(~1736年)はなぜあれほど悲劇的で暗く、救いがないのか」、といったギモン、これまで漠然と「作曲家の意図がそうだった」という説明にもならない説明で満足していたものの、言われてみれば何かいわくありと想像させるものがあります。本書を読むと、上記のような疑問は、ポーランド継承戦争(1733-38)およびオーストリア継承戦争(1740-48)と、これに関わるドレスデン宮廷(ザクセン選帝侯)とライプチッヒ市の立場、およびそこでのバッハの振る舞いとの関係を眺めれば、自ずと明らかになるというわけです。詳細は本書を読んでのお楽しみですが、ザックリ言えば、バッハはライプチッヒに着任後ほどなくして待遇に不満を持ち、「直属上司」であるライプチッヒ市の頭越しに「社長」であるザクセン選帝侯に色々と転職や待遇改善を働きかけたものの、結局うまくいかないままクサってしまった、というのが本書の見立てです。面接で転職の動機を聞かれた場合、たとえ建前にしても「今もいいところですが、よりやりがいのある職場でチャレンジしたいと思います」といえば考慮の対象になり得ますが、「今の職場は会社も上司もダメなので転職したいと思います」とホンネを語れば単に「不満分子」と見なされるだけです。それにしても、バッハの例に現代社会と変わらない教訓を見て、人の世が何も進歩していないことを改めて実感。「ある人に気に入られようと思うなら、その本人に直接をゴマするのではなく、周りが彼を礼賛するように仕向けること。」この歳になると身に沁みる「世渡りの知恵」でした。
2019.02.03
コメント(0)
全4件 (4件中 1-4件目)
1
![]()

