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ラルフ・カークパトリックの書簡集が2014年に出版されていたことを最近になって知った亭主、例によってAmazonで注文していたところ先週手元に届きました。まだパラパラとつまみ食い程度にしか読んでいませんが、これが予想以上に面白く、本気で読みだすと止まらなくなりそうです。というわけで今日はそのさわりを少々。カークパトリックは1911年6月10日に米国マサチューセッツのノース・レミンスターという町の生まれ。父親は心理学者で、あのフロイトが米国を初めて訪問した際に撮影された1909年の有名な写真(末尾、クラーク大学のホームページにあった記事から引用)にもその姿が写っているそうです(残念ながらどの人か亭主には分かりませんが)。まず、本書第1部「Selected Letters to Family」では、1931年9月のそれを皮切りに、家族あての手紙が時系列を追って並んでいますが、これらはカークパトリックが初めてヨーロッパに留学するに際して書かれたものです。最初の行き先は当時の古楽復興運動の中心、パリ。あのワンダ・ランドフスカとナディア・ブーランジェに師事するためです。まだ二十歳そこそこの若者だったカークパトリックの多感な目を通して、これら古楽界の伝説の人物たちの人となりが活写されるとあれば、これが面白くないわけがありません。ここでの手紙、その書き出しはいつも「Dear Family,」となっていて面食らいますが、この書簡集を編んだ甥の解説によると、カークパトリックは留学が決まると家族に対して「現地から記録代わりに手紙を送るからそれを家族内で回覧するとともに大事に保管するように」と頼んでいたそうで、彼からの手紙を受け取った母親がそれをタイプし直して家族に回覧していたとか。というわけで、少なくともこの部分は書簡体を借りた旅行記、といったところ。亭主は、ナディア・ブーランジェについては彼女の伝記を数年前に読んだ覚えがあって(こちら)多少とも馴染みがあったものの、ランドフスカについてはほとんど名前だけというレベルに留まっていたので、カークパトリックが描く彼女の姿は実に興味深いものがあります。とはいえ、書簡から見えるランドフスカは、いわゆる専制君主のように生徒に接する調教師、という感じで、カークパトリックとは全くそりが合わず、門下に入って間もなく極めてネガティブな評価を下しています。(これと対照的なのがブーランジェに対するそれで、彼女とはよい関係を維持した模様。)その様子は、例えば留学からわずか一月足らず、1931年10月27日の手紙の終わりの方の以下のような文面に明らかです。今日午後にランドフスカの講義の一つを受講するためにサン・ルーに出かけた。彼女はさらにいくつかの練習課題、完璧にすごいものを私に与えた。思うに彼女は私の時間の相当部分を無駄にしてくれるが、特に正確さと強さという残り物のご利益には価値がある。私はむしろ解釈について(彼女と)仕事をすることを恐れる、というのもいろいろな点で私は彼女を真似しようとは絶対思わないし、ましてや議論をするなど問題外だからだ。質問することなく単に全てを飲み込んで、一人でこっそり吐き出す。彼女は自分の生徒については、ほとんどあらゆる活動において完全に支配するという実に無用なことを欲している。今日の午後、彼女が持っているクープランの「L’Art de Toucher le Clavecin」の稀覯本を拝読できないかと尋ねたところ、「ええ、二人でそれを段落ごとにじっくり読みましょうね」とのたまわった。これは国立図書館で読むしかない!最後の方はだいぶ意訳しましたが、「先生と生徒」という人間関係においてランドフスカがどう振る舞っていたかを彷彿とさせる記事です。ところで、本書第2部の冒頭、ナディア・ブーランジェへの手紙を拾い読みしていたところ、1935年10月3日付のベルリンから手紙の中で、エタ・ハーリッヒ=シュナイダーへの言及があるのに気がつきました。彼女とはランドフスカのところで知り合ったようで、カークパトリックはベルリン到着後、新居探しを手伝ってもらったり、自宅でハープシコードを使わせてもらうなど色々と世話になったようです。ハーリッヒ=シュナイダーといえば、専門家として日本に初めて古楽を伝えた人物として最近話題にもなっているようで、日本に来る前の活躍ぶりが垣間見えるようです。その他にも亭主にとって興味深い人物の名前があちらこちらに散見され、本書は前世紀前半の古楽界を知る上で貴重な文献かも?
2019.07.28
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この二月ほど、亭主はエリザベト=クロード・ジャケ・ド・ラ・ゲール(1665-1729)のクラヴサン音楽をiPodに入れて持ち歩いています。聴いているのはブリリアント・クラシックというレーベルから出ているフランチェスカ・ランフランコの演奏になる音盤で、録音は2017年と比較的最近のもの。演奏・録音ともにイケている感じです。ジャケ・ド・ラ・ゲールは1665年パリ生まれということで、かのフランソワ・クープラン(1668-1733)とほぼ同世代に当たります。このところフランスのクラヴサン音楽を少し体系的・網羅的に聴いてみようと音盤を集めている亭主ですが、ジャケ・ド・ラ・ゲールの名前もその中で急浮上。ファーストネームからも容易にわかるように、この時代としては大変珍しい女性の音楽家で、幼少期にはいわゆる天才少女として名を馳せ、太陽王ルイ14世の宮廷で活躍したようです。ランフランコの音盤は、録音が新しいだけでなく、ジャケ・ド・ラ・ゲールが出版した2巻のクラヴサン曲集(1687年と1707年に出版)の全作品を収めており、参照音源として大変重宝します。楽譜の方はファクシミリ版しか市場に出回っておらず、例によって現代譜と異なる音部記号(右手はハ音記号、左手はヘ音記号で、いずれも音高が五線譜上で現代譜より3度下がって記載される)を使っているので亭主には役に立ちませんが、幸いIMSLPには現代譜にタイプセットし直したPDFがアップされていて、亭主はこちらを利用しています。ジャケ・ド・ラ・ゲールの音楽を聴いていると、何と言ってもまず思い起こされるのがルイ・クープランやダングルベールのクラヴサン音楽です。もちろん、ルイ・クープランは彼女が生まれる4年前に他界しており、ダングルベールも40歳近く年長ですが、1687年、1707年いずれの曲集もこれら先達の「舞曲を基にした様式」をベースに彼女自身の音楽を展開しており、亭主がイメージする「17世紀クラヴサン音楽」、リュートを巨大にしたような共鳴楽器としてのクラヴサンを存分に響かせる音楽に、新たなレパートリーを付け加えるものと感じられます。ちなみに、ダングルベール唯一の出版譜として知られているクラヴサン曲集が世に出たのが1689年(没年の2年前)ですから、それに2年先駆けて出版されたジャケ・ド・ラ・ゲールの最初の曲集が同じ雰囲気(例えば小節線なしの前奏曲など)を持つのも驚くにはあたらないのかも。一方で、こうなると気になってくるのがフランソワ・クープランの音楽です。というのも、フランソワの音楽といえば、亭主のような素人には「神秘のバリケード」など、いわゆるお題を伴ったサロン音楽のようなものがその典型と想像されるだけに、同じ世代であるはずのジャケ・ド・ラ・ゲールとの大きな落差は、単に個性の違いといったもの以上に何か説明を要する気がします。そこで、フランソワのクラヴサン曲集を改めて眺めてみると、1713年に出た第1曲集の中では、依然として前世紀の舞曲形式による作品が半分近くを占めているのに対し、第2巻(1716-7年)以降ではその割合が激減し、作品のほとんどがお題付きサロン音楽となっているように見えます。この2巻の間に何か時代の空気が変わるようなことがあったのかと詮索しているうちに行き当たったのが、太陽王ルイの死(1715年)による「グラン・シエクル」の終焉、という一大事でした。よく知られているように、ルイ14世は宰相マザランの摂政時代も含めると、何と72年もの長期に渡り国王であったということで、ギネスブックの世界記録にも認定されているとか。つまり、フランスにとってクラヴサン音楽が全盛を迎える17世紀後半とはまさに太陽王の時代、というわけです(今更ですが…)。それが終わりを告げた1715年の前後では、音楽に限らずあらゆる文化領域で大きな変化が起きただろうと想像できます。(これはちょうど200年後、第一次世界大戦(1914-8年)を境にして「古き良きヨーロッパ」が崩壊していく様子と似ています。)こうして見ると、ジャケ・ド・ラ・ゲールはあくまで「太陽王」の時代の子としてその音楽人生を全うしたのに対し、フランソワ・クープランは(既に人生後半にあったにもかかわらず)むしろ新しい時代に応じた創作活動を行い、それが後世の高い評価につながったのかもしれない、などと愚考を巡らせた亭主でした。
2019.07.21
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最近、たまたま日本語ウィキペディアの「ドメニコ・スカルラッティ」の記事を眺めていたところ、例のヘンデルとの鍵盤演奏腕くらべのエピソードについて、「…チェンバロの勝負は両者引き分けだったが、オルガンの勝負ではスカルラッティが先にヘンデルの演奏を聴いただけで自分の負けを認めたという。しかしこの逸話を証明できる資料は存在しない。」という記載があり、表題の著作を出典として引用していました。 このエピソード、ジョン・マナリングによるヘンデルの最初の伝記(1760年)の中で紹介されているものが元ネタと思われ、亭主もかつてファクシミリ版を入手して読んだ覚えがあります。そこでの記述は、チェンバロの腕比べについてはいろいろな報告がある.何人かはスカルラッティの方に分があると言ったようである.しかし、オルガンとなるとどちらが勝っていたかについて疑いをもつような雰囲気はまったくなかった。スカルラッティ自身が競争相手に分があると断じ、彼の演奏を聴くまでこの楽器にこれほどの力があるとは思わなかった、と率直に認めている。というもので、チェンバロでの勝負が「引き分け」であったとか、ドメニコが「先にヘンデルの演奏を聴いただけで」負けを認めたといった記述は見当たらないようです。 こうなってくると、武川寛海さんが何を書いているのか気になり始めます。そこで例によってネット通販で数日前に古書をゲット。中身を調べてみることに。以下、少々長くなりますが該当部分を引用してみます。 ところはローマである。枢機卿オットボーニの宮殿にはローソクの火がつけられて、金色の広間が燦然と輝き出す。チェンバロを中心にして、半円形に椅子がならべられる。今日は特別にその数が多い。この宮殿の主人は音楽が好きであり、毎水曜日の夜はお気に入りの音楽家を呼び、親しい友人達を招いて一夕を音楽芸術の鑑賞にすごす、というのがならわしであった。今晩はちょっと凄いのである。いままでに考えられなかったほどの大試合が楽しめるというのである。挑戦者はなんとドイツのゲオルグ・フリードリッヒ・ヘンデルであり、受けて立ったのはドメニコ・スカルラッティであったのである。(中略。ここで武川さんは、ヘンデルがローマに来るまでの経緯を簡単に記すとともに、ドメニコについてもヘンデルと同年生まれであることや、ローマでガスパリーニやパスクィーニについて修行していたこと、二人が既にヴェネチアで懇意になっていたことなどを紹介しています。) 拍手が起こった。最初にあらわれたのはスカルラッティのほうであった。黒い髪であった。足早やにチェンバロに歩み寄り、腰を下ろすやいなや演奏をはじめた。まことに華麗なる演奏が行われた。上体をつねに動かしながら、あらゆる困難なる技巧が克服されて行く。顔からは柔らかい笑いがつねに消えない。終わったとき枢機卿はかれに好意のある顔付でうなずいて見せた。 つぎはヘンデルである。これはまた大変にゆっくりとした入場ぶりである。それに身体が馬鹿でかいのである。頭髪はローソクで金色に光る。そしてそのお辞儀の大袈裟なこと。深々と頭を垂れる。チェンバロの前に座る。まず頭を下げてじっと瞑目。手を鍵盤の上にあげる。突然頭を上げてひき出した。上体は全く動かない。腕もずっと同じ高さである。目はどこか遠くを見ているみたいである。なにか霊感があって、それが指に伝わるようである。笑顔はない。しかし聞くものは何か胸を打たれていたのである。 審査委員たちは首を集めて相談する。枢機卿になにか報告した。彼は重々しくうなずく。結果が告げられた。それによると、勝敗がつけがたいので、今度は楽器を変えてもう一度試合をやらせることにするというのである。楽器はオルガンに変えられ、場所は聖ロレンツォ教会ときまった。 ここはさきの会場とあまり離れていないので、みんなそのままこの教会に入った。ローソクがともされ、準備がととのい、いよいよ試合開始である。このたびの先攻はヘンデルである。 かれは前のチェンバロのときと同じテーマをまず提示した。それが多くの声部で合唱のように響いたあと、変奏曲になり、妙技が展開され、おしまいは壮大なフーガになったのであった。一同は一瞬声なしである。まるで感激してしまったからである。やがて簡単の声がざわめきとなって起こり、それから大拍手となった。 つぎはスカルラッティの番である。かれはヘンデルの降りてくるのを広間で待っていた。やがてヘンデルが降りてくる。審査員はスカルラッティに、早くオルガンのほうに上るようにと眼で合図をした。かれは審査員の方に頭を振って演奏をしない、という素振りを示し、ヘンデルを指差して拍手をして、ヘンデルの勝ちであることを告げたのである。枢機卿も審査員も異論のなかったことはもちろんである。スカルラッティの人気はしかしこれによってぐんと上り、二人の親交はさらに緊密になったのである。1709年のことである。どうでしょう。まるでその場で見てきたような記述で、映画のシナリオのようなそれらしさです。 ドメニコが若い頃の演奏の様子についての情報は乏しく、あとはチャールズ・バーニーの著作にある英国の鍵盤奏者ロージングレイヴからの伝聞(上記にある「黒い髪」は、おそらくこれが典拠か?)ぐらいしか知られていません。引用部分が武川さんの想像に基づいた脚色であろうことは容易に想像がつきますが、それにしても(斯界の「原田マハ」かと思わせるほど)見事なものです。 ちなみに、亭主は十歳代の終わりに友人から勧められて彼が書いたベートーヴェンの伝記のような著作を読み、(内容は綺麗さっぱり忘れてしまったものの)えらく面白かった記憶が鮮明に残っています。おそらく、その頃出版されたばかりの「ベートーヴェンの虚像をはぐ」(1977年)だったに違いありません。表題の本中で取り上げられているエピソードも亭主が知らないものが多く、例えばバロック時代のそれでは、J.C.バッハがロンドンに出るまでの経緯を描いた小話はなかなかの傑作です。 当時はまだ日本のクラシック音楽受容がドイツ音楽、「大作曲家」中心だったこと、その中にあって、かなり偶像破壊的な内容を持つこのような著作が講壇アカデミズムからは異端視されたであろうことを想像すると、少し早く世に出すぎたのかも?何れにしても、亭主にとっては実に面白い内容で、梅雨の憂さ晴らしにぴったりです。古書としてたくさん巷に出回っているのも、それだけよく読まれたという証でしょう。このほかにも数多くあると思われる武川さんの名調子、活字を大きくして復刊して欲しいものです。
2019.07.14
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このところ関東地方は梅雨らしい陽気で、ほぼ毎日曇り時々雨。気温も低めに推移していて、冷房がある部屋では寒いぐらいです。未音亭の音楽室でも既に除湿機が活躍中ですが、思ったほど湿度が上がらず、除湿機をかけっぱなしにしておくと「低湿度」の警告ランプが点灯することも。ところで、数ヶ月前に例によってネットでCDを購入しようとググっていたところ、偶然にも表記の作品がDVD化されて売られているのに気づき、まとめ買いの一品としてゲット。最近眺める機会がありました。ドメニコ・スカルラッティと言えば、鍵盤ソナタの作者というイメージがあまりに強いために、彼が若い頃(ローマ時代~1719年頃まで)にはオペラやカンタータなどの声楽作品を書いていたことはあまり知られていないかもしれません。例えばオペラについては15作ほどもあったようですが、今日それらが上演される機会は皆無に近いようです。「ラ・ディリンディーナ」はいわゆる幕間喜劇と言われるジャンルの作品で、ローマのカプラニカ劇場で上演されたドメニコのオペラ「アンブレート」の幕間用として、ジローラモ・ジリの台本に基づき1715年に作曲されたものですが、直前になって取り下げられ、「牧歌的幕間」という別の作品に差し替えられたことが知られています。(その後、ルッカでは実際に上演されたとも言われています。)この間の事情について、カークパトリックの著作中では、作者側が自主的に差し替えたのか、それとも教会の検閲による上演禁止の措置などがあったのか不明とされていますが、1987年に出版されたマルコム・ボイドの著作の中では、ジローラモ・ジリ自身が1715年にフィレンツェの知人に当てた手紙の中で、事の顛末について詳述した内容を紹介しています。それによると、どうやら上演に反対したのはオペラ歌手たちだったようです。というのも、この幕間喜劇の内容はというと、オペラ歌手、さらにはオペラそのものを強烈に風刺したもので、数年後にマルチェッロによって書かれた有名な「当世流行劇場」をより過激にしたような内容でした。自分たちが攻撃されたと感じた歌手たちが市当局や教会に手を回し、上演禁止の措置を出させた、というのがことの真相だった、というわけです。著作の中でボイドは、生涯にわたり君侯に仕えたドメニコが、彼の庇護者をもっとも喜ばせる芸術だったオペラをこれほどまでにコケにした作品をモノしたことに驚くとともに、ドメニコが喜劇というスタイルに習熟していたことに感嘆しています。また、同ジャンルのペルゴレージの「奥様女中」とペアで現代に容易にリバイバル可能な作品とも断じており、以来時々復活上演もされている模様。くだんのDVDが出たのは2016年と割合最近ですが、それも多分これまでの実績があったからかもしれません。というわけで、見る前からワクワクでしたが、実際に見ても実に楽しい幕間劇になっています。音楽の中にも時折後年の鍵盤ソナタのスカルラッティをしのばせるようなフレーズも現れたりと、彼のファンにとっては必見の作品。それにしても、「ラ・ディリンディーナ」を観劇する日が来ようとは、つい数年前までは想像すらできなかっただけに、感慨ひとしおでした。
2019.07.07
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