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新星日響との合併以来日本最大のオーケストラである東京フィルをきくのはオペラなどを除くと3度目。過去2回は大野和士と尾高忠明による地方公演で、定期公演をきくのははじめて。渡邊一正という指揮者もはじめて。放送などで見知っていて、なかなかよい指揮者ではないかと思っていたので一度きいておきたかった。たまたまキャンセルチケットが格安で入手できたので行くことにした。モーツァルトのピアノ協奏曲第26番「戴冠式」(独奏は牛田智大)とマーラーの交響曲第1番「巨人」。同じニ長調の曲を集めたプログラム。「戴冠式」は、ほどよい軽さと流麗さで奏でられていく牛田智大のピアノが心地よい。ケレンのない素直な演奏は、青年になりかけの今しかもしかしたら不可能なのかもしれない。彼にとってはまだ世界のすべてが新鮮なのだ。さて、自分のハイティーン時代はどうだっただろうかと思っているうちに演奏は終わった。指揮のサポートにも好感。後半の「巨人」はダメだった。ステージの上にはさすが日本最大のオーケストラという感じでたくさんのメンバーが乗っている。ありがちな金管楽器のミスも少ない。指揮も上手でアンサンブルの難所も危なげなしにこなしていく。一見、いい音で快調に進む。いささか没個性的ではあるが、妙な癖のない指揮者の音楽作りにも好感する。才能のある指揮者だと思う。しかし、印象に残ったのはそれだけなのだ。訴えかける「一音」「一フレーズ」がない。弦の前列の方のプルトなどは情熱的に演奏しているのだが、それが音楽的な迫力となっていない。N響の地方公演をきくと「この曲はこんな感じ」といった最大公約数的な演奏のことがほとんどだ。それに比べると定期のせいか気合いが入っている気はする。N響の地方公演と比べてもしかたがないが、比べたくなってしまうほどだということの方が問題だろう。ビジネスライクだとか、そういうことを言いたいのではない。すべてが予定調和的なのだ。美は乱調にあるのだとすれば、乱調がない。つまり美がない。半分は指揮者の責任なのだろうが、東京のようなところでスケジュールに追われて音楽をやっているとみなこのオーケストラのようになってしまうのかもしれない。よほどの指揮者や演目のとき以外、日本のオーケストラをきく興味を失った。
October 30, 2015
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久石譲が指揮者としての活動を始めたのはいつだろう。ミニマル・ミュージックから映画音楽に行き、そのあとジャズに行った人だとばかり思っていたが、FM放送でベートーヴェンの交響曲をきいて驚いたのを昨日のことのようにおぼえている。宮本文昭が指揮活動から引退するというニュースをきいてしまったと思った。というのは、一度は実演をきいてみたいと思っていたからだ。久石氏はそんなことはないだろうが、演目がオルフの「カルミナ・ブラーナ」でもあるし、一度きいておこうと思って出かけた。入手したのは東京芸術劇場の1階、前列から10番目ほどと視覚的には良席。前半は日本テレビ委嘱作である「コントラバス協奏曲」の世界初演(ソロは読響の石川滋)。30分近い大作。久石氏は現代音楽畑出身の人だが、「あの世界では終わりたくない」ということを若いころから言っていた。ジブリアニメでブレークする以前の話である。聴衆との接点との回復、それが映画音楽や商業音楽ならつまらない、というか本質的な解決ではない。芸術を成立せしめる共同体の崩壊と喪失がその原因なのだから、聴衆をたくさん獲得できればそれでいいというのであればうたかたの大衆流行音楽と同じだ。サロネンのように自分の曲を演奏するのが動機で指揮をおぼえて指揮者になった例もあるが、まさか久石氏はそうではないだろう。そんなことを考えながら「コントラバス協奏曲」を聴き、指揮を見る。あえて分類すれば「あの世界では終わりたくない」と言っていた現代音楽に属する。彼の出自であるミニマル・ミュージックふうの楽想を散りばめたオーケストラをバックに、超絶技巧を要すると思われるコントラバスのソロがさえずり、時に苦吟するような音型も奏でていく。というのが印象と記憶のすべてで、繰り返しの多さに退屈したし、オーケストレーションの練達さに感心するものの音楽的内実は希薄に思われた。現代音楽にもおもしろい曲はたくさんあるが、この曲は中途半端さがいなめない。「カルミナ・ブラーナ」は3人のソリストがすばらしかった。ソプラノの森谷真理の、極上のシルクのような声の美しさと繊細な表現にはひさしぶりに「時間が止まってほしい」と思ったし、この曲をやらせたら世界一と思われるテノールの高橋淳は、これまでよりさらにバージョンアップした演技となりきった歌唱で場を圧倒する。バリトンの宮本益光も機敏かつ的確な歌唱。とくに発音が明瞭でこれまでに接したこの曲のバリトンとしてはベスト。久石氏の指揮は安全運転に終始したように思われる。とにかく事故なしに無事に終わることに眼目がおかれていたように思うのは放送収録のためか、それとも練習時間の問題か。かなうなら、この日のソリストで高関健の指揮で、さらに言わせてもらえば前札響首席の武藤氏のティンパニでこの曲をきいてみたいと思いながら池袋の雑踏をあとにしたことである。
October 29, 2015
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村上智美は札幌出身のチェリストで、ピアノの春成素子とは留学したあと滞在していたストラスブールで知り合ったらしい。ブラームスとプーランクのソナタの前後にヴィラ=ロボス「黒鳥の歌」とピアソラ「グランタンゴ」を配したプログラム。こういっては何だが春成素子のピアノがとんだ拾いものだった。どこか日本人離れ、いや日本の音楽大学出身者とはちがうものを持っていると思ったら、国立音大を出たあとフランス文学研究者を目指し早稲田からストラスブール大学に進んだという人。ジャン・コクトーに興味を持ちシアターミュージックカンパニーを設立したりという活動をしているらしい。どの曲もほとんど非のうちどころのない演奏で、すっかり決して悪いわけではない村上のチェロを食ってしまった感があった(ただし会場のルーテルホールの響きがそういう傾向を助長した面はある)。演奏をきいたあと話してみたいと思う演奏家はめったにいないが、彼女はそういうタイプだった。コクトーと親しかったオネゲルやミヨーといった人たちの作品にはひときわ興味と愛着があったので、終演後に話してみたが、演奏そのままのまっすぐな気質の人だった。さっそく顔本で友だち登録をしてもらった。
October 27, 2015
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メーン曲であるラフマニノフ「ピアノソナタ第2番」が終わったとき、近くの席の少女が「すごーい」と感嘆の声をあげた。わたしの感想も同じだ。3つの楽章が休みなく演奏されるこの曲が最後の壮大なコーダまで一瞬の弛緩もなく演奏されたのには驚いた。忙しく世界を巡業しているピアニストではこうはいかない。毎日のように全力投球するわけにはいかないからだ。得意な、あるいは好きな曲に集中できるからこそこうした演奏が可能なのだろう。ピアノリサイタルには原則として行かないことにしているが、こういうことがあるから油断できない。ドビュッシー「塔」「喜びの島」、ショパン「3つのマズルカ」「幻想ポロネーズ」が演奏された前半は、やや硬さが残った。次第に調子をあげたが、緊張したのかミスも散見された。後半、ラフマニノフの前におかれたアルベニスの3曲(実はこの3曲がめあてで行った)「ティエラの門」「入り江のざわめき」「パバーナ・カプリーチョ」は前半の硬さがとれ、やや生真面目なもののスペイン情緒に不足はなく、アルペジオなどの思い切りもよく爽快。ただ、ギター音楽の愛好家の立場から言わせてもらえば、もっと音色に暗さがほしい。陽と陰の、明と暗の極端な対比がスペイン音楽の身上。それには一般にテンポも速すぎると感じることが多いものだが、この日も例外ではなかった。演奏者自身のプログラムノートによれば、就職や育児を経て演奏活動を再開し、大学を出て30年の節目の年に「念願の」音楽専用ホールでの初リサイタルとのこと。コンサートタイトル「夢を追い求めて」はそのことをさす。大学を出て30年というと50代前半だが、たいていの人間は夢も野心もなくしてただ惰性で生きている年代。それを思うと、このピアニストが自分の夢を持続できた理由を知りたいと思った。音楽大学を出て留学までして、帰国記念デビューリサイタルが事実上の引退公演、といった音楽家(特にピアニスト)を多く見てきた。そういう人間から見ると、彼女のようなピアニストは音楽家以前に人間として別格に思える。客席をうめた聴衆も同じように感じたのではないだろうか。
October 23, 2015
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October 20, 2015
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October 15, 2015
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October 13, 2015
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October 12, 2015
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October 11, 2015
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山形に来ている。8日から15日まで8日間開かれる山形国際ドキュメンタリー映画祭に参加するため。三里塚シリーズで知られる小川プロダクションが上山市でドキュメンタリー映画を製作していたことから、彼らの尽力もあって1989年に始まったこの映画祭は隔年開催で今年が14回目。過去13回の上映作品数は2334本、コンペティション応募作品数は軽く一万本を超えるという途方もない催しである。このコンペティションが最も話題になっていたので、映画コンクールのような映画祭とずっと誤解していた。しかし、調べてみると14回目の今年はラテンアメリカ特集などもあり165本の映画が上映されるという。この機会を逃したら永久に見られない作品はかなりの割合にのぼる。8日間と言っても実質は5日間の催しであり、全体の2割を見られるかどうかというところだが、小川プロの遺産というべきこの映画祭に敬意を表するためにもやってきた。山形市に来るのは38年ぶり。当時の記憶はまったくないが、泊まったホテルのお湯が途中で水になり寒かったこと、夜7時を過ぎるとほとんどの店が閉まっていたことを覚えている。だが書店の多さや整備された自転車道路など、文化度の高い街だというのがすぐわかる。常設の映画館もこんな地方都市でこんな映画をと驚くような作品を上映したりしている。コンビニがあり以前のような不便はないが、それでも夜8時を過ぎると開いている店は少ない。初日は開会式とマヌエル・ド・オリヴェイラ監督の「訪問、あるいは記憶、そして告白」(1982年)が上映された。今年106歳で世を去ったポルトガルの巨匠オリヴェイラ監督の自伝的な作品で、今年初めてカンヌ映画祭で上映され日本では初上映。オープニングにふさわしく詩的かつ哲学的で思索的な68分。監督本人が語る、想像をかきたてる意味の含有率の高い言葉の数々は全部メモしたいと思ったほどだった。オリヴェイラ監督の作品では1983年のテレビ・ドキュメンタリー「ニース、ジャン・ヴィゴについて」も上映される。
October 8, 2015
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October 7, 2015
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音楽家のスター性について考えさせられることの多いコンサートだった。内藤晃という人については何の予備知識もなく出かけた。そうしたら、キタラ小ホールがけっこう埋まっているではないか。しかも地元のピアニストがリサイタルを開くときの客層とはかなり異なっている。こちらが知らないだけで、ある程度の知名度のあるピアニストのようだ。前半にショパン「24の前奏曲」、後半はヘンデル/ケンプ編「メヌエット」をはじめ、モンポウやメンデルスゾーンなどの小品を集めたプログラム。ステージに出てきてすぐ、ピアノを弾く前からスター性のある人だということがわかる。ステージがぱっと明るくなる雰囲気があるのだ。そうして弾きはじめた姿も、ピアノと格闘するようなところはまったくなく、ピアノを軽々と乗りこなしていくような指さばきであり体の動き。リズミカルでよどみのない、驚くほど流麗な音楽が奏でられていく。こんなに「快適」なショパンをきくのは初めてだ。後半の小品も同様で、暗く悲しい曲想の音楽もどこか楽しげに、楽しげな音楽はさらに軽やかに響いていく。どうも前半で明らかだった音楽の「流れのよさ」がこの人の身上のよう。ロシアやドイツの重厚な音楽ではどうかと思うものの、こうしたプログラムやバロック音楽から古典派の初期くらいまでは安定していい演奏をきかせてくれるのではないかと思う。演奏中にときどき客席の方を見るのがこの人のクセだが、それがまったくキザさや嫌味、自己顕示を感じさせない。指揮、作・編曲などの活動も行っているマルチな才能の人のようだ。きけば東京外語大出身でピアノは個人的に習ったことはあるもののほとんど独学だというからおもしろい。才能があるのにスター性がないために成功しなかった音楽家をたくさん見てきた。こうしたスター性のある音楽家はそうでない音楽家とどこがちがうのかを考えてみたが結論は出ない。ただ思うのは、この人に限らないが、自分の音楽に対して慢心ではない自信、それもあまり根拠のない自信を天真爛漫に持っている人が多いということだ。そしてそういう音楽家は他の成功した音楽家を妬まないのも共通している。
October 3, 2015
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ピアノリサイタルには原則として行かないことにしている。いちばんの理由はピアノの音そのものを好まないからだ。単音は(たとえばギターなどと比べて)音色の変化に乏しく、和音はいかにも平均率的な濁った響きがする。次の理由はききたいと思う音楽がプログラムにない場合がほとんどだからだ。メシアン「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」、ジェフスキー「不屈の民変奏曲」、ジョン・ケージ「プリペアド・ピアノのためのソナタとインターリュード」、コーネリアス・カーデュー「テールマン変奏曲」といった20世紀ピアノ音楽の最高傑作でさえ、地元の演奏家でひく人はいない。武満徹や細川俊夫や林光や柴田南雄のピアノ曲を演奏する人もいない、というかいたら教えてくれたまえ。話は現代音楽に限らない。パーセルやヘンデルも、ロドリーゴやコープランドやショスタコーヴィチもプーランクもきいたことがない。ドメニコ・スカルラッティのあのすばらしい555のソナタでさえ数曲しかきいたことがない。まるでこれらの作曲家は存在しないかのようだ。だから鍵盤音楽の鑑賞は録音に限るのがほぼ正しい。それでもこのリサイタルに出かけたのは、このピアニストに1992年にミュンヘンで一度だけ会ったことがあり、他のピアノ学習者とはちがうものを感じて一度きいてみたいと思っていたのと、ファリャ「ファンタシア・ベティカ」がプログラムにあり、しかもバッハのパルティータ第4番、ベートーヴェンのピアノソナタ第31番、フランクの「プレリュード、コラールとフーガ」というそれぞれの作曲家の最高傑作が並べられていたから。おめあてのファリャ作品は「アンダルシア幻想曲」の名でも知られる曲。スペインでも最もいわゆるスペイン的なイメージなのがアンダルシア地方の風物であり文化 だが、フラメンコギターをかきならすような激しい音型が繰り広げられていく暗い情熱と抒情性に満ちた名曲である。ギターを小さなオーケストラと呼んだのはベートーヴェンだったが、スペインの作曲家のピアノ音楽には、ギターの模倣というよりピアノを「拡大されたギターにしたい」という野心を感じることが多い。この曲などその筆頭で、ギター的だがギターには不可能なフレーズがこれでもかと繰り出されていく。演奏は芸術的な完成度の高い見事なもの。民族性や民俗楽器的な要素を強調せず、純粋な芸術音楽としてとらえた演奏。しかしこういう曲は練習や思索のあとを感じさせず、即興で感興の趣くまま演奏しているようにきこえるのが理想であり、破たんや逸脱、狂気をききたい部分も整然と演奏されてしまうのには矛盾した不満も持ってしまう。最初の「パルティータ」ではやや硬さがのこったものの歌とリズミカルさのバランスがよく、最後のフランク作品の集中も見事だった。ベートーヴェンのソナタも崇高な音楽が息長く続いていくフレーズの高揚や持続力は見事で、やはりこのピアニストはドイツ系の音楽に最も適性があるのかもしれない。全体としてシリアスで誠実な音楽に居ずまいを正されるような気になったが、もう少しライブ・パフォーミングとしてのコンサートを志向してはどうかと思った。
October 2, 2015
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北海道出身で長くフランスのリヨンで活動していたチェリストの津留崎直紀を中心に、ヴァイオリンの硲美穂子とギターの竹内永和の3人によるコンサート。札幌パブテスト教会というなじみのない会場のせいか、不穏な天候のせいか客席はまばら。前半はバイオリンとチェロによるモーツァルトのトルコ行進曲(津留崎編)で始まり、ギターソロ(ペルナンブーコの鐘の音)、チェロとギターでショパンのワルツ、バイオリンとギターでファリャのスペイン舞曲第一番、パガニーニの三重奏曲。後半はカサドの無伴奏チェロ組曲からの2曲で始まり、ギターソロ(ガルデルの思いの届く日)、チェロとギターでヴィラ=ロボスのブラジル風バッハ第5番よりカンティレーナ、バイオリンとギターで「アルフォンシーナと海」、チェロとギターでラヴェルのハバネラ、トリオでビゼー(津留崎編)のカルメンから「アラゴネーズ」「ハバネラ」「ボヘミアの踊り」、ピアソラ「リベルタンゴ」というもの。アンコールはピアソラ「オブリビオン」。曲と編成をつらつらと書いたのは、こうしたコンサートのプログラムとして理想的とは言えないまでも、かなり参考になると思われるから。単独楽器のリサイタルに付き合うのはしんどい。とはいえ、室内楽のいいコンサートというのは稀で、ピアノを使わないことを条件とした場合、曲も編成も限られる。軽い、親しみやすい曲の中にカサド作品のような名曲をブレンドしたこうしたやり方は見習うものが多い。津留崎氏がリヨン・オペラの退団後に東京で開いたリサイタル・シリーズは驚くべき内容だった。その一端でも札幌で体験できないものかと思っていたが、残念ながらこれまで彼の演奏はアマオケとの協奏曲を一度きく機会があっただけ。その演奏でも、凡百の音楽家とは人間の出来がちがうという強い印象がのこったが、今回も同じで、演奏そのものもさることながら、演奏会の構成や司会、さらにはソロではなく室内楽でさほど重要ではない部分を演奏するときなどの知的で機敏な演奏に感服させられた。日本人演奏家の多くは集団に埋没してしまい個を主張することがない。昔の日本帝国陸軍や今の警察機動隊と同じだ。しかし彼の演奏はどんな細部でも全体に埋没することがない。強気でしゃしゃり出るわけではない。ほんの少しの、気が付かないほどのニュアンスや音量の変化、テンポのリードや引っ張りなどで「個」を主張し、そのことでアンサンブル全体が非常に生命力あふれるものになるのだ。とんだひろいもののコンサート。アンコールの「オブリビオン」だけでも千金の価値があった。
October 1, 2015
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