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サクラが咲き始めた。 暖冬だと騒いだ割には、サクラの開花は例年どうりか?ここ平塚の水辺にも春の息吹が感じられる。今朝は早起きをし、里山の沢に出かけてきた。お目当ては「セリ」だ。近在の農家から栽培物のセリが出荷されるが、何チョイト足を伸ばせば山間の清流に沢山自生している。まだアクが強い「野ゼり」だが香りは大変良い!今回は来週から予定を組んでいる「サワラ」の料理に付け合せとして支度したものだ。相模湾ではこの時期、サワラやサゴチ(サワラの小さいサイズの呼び名)が定置網に入るので、予定を組んでみた。サワラは塩コショウで下味を付け、香草オイルでカリットポワレにする。セリを軽く湯がき、水に晒してアクを抜く。もっとも、もう少し先に取れる青々と成長したセリならば、水に晒しアクを抜かなくても良いのだが、今のものはやはりあく抜きが必要だ。春キャベツも軽く茹でて、セリと合わせてオイルで温める。仕上げにアサリのフォンを絡ませ、皿の中央に盛り付けその上にポワレしたサワラを盛り、軽くバルサミコの香りを・・・ソースはアイユソース、ニンニクのソースをあしらえば、春のサワラ料理が完成する。あくまでも予定だが、ここまで準備をしておかなくては、市場でサワラを競り落としても、すぐにはメニューに載せることが出来ない。週明けの市場にサワラが入ればよいのだが・・・・・ル・パスポートのホームページはこちらル・パスポートのホームページ 人気blogランキングへ
March 31, 2007
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この所の異常気象の影響で犬の春が早く来てしまい、1月の終わりに子犬を出産してしまった。それらしい兆候は合ったのだが、交通事故を起こし体調が不安定で犬の管理がおろそかになっていて見落としてしまった結果だ。2月からこのブログで里親募集をかけたのだが、予想を上回る反響で、最終的には子犬の倍以上の問い合わせで対応に追われてしまった。遠い所では奈良県からの引き取りもあり、完売?(無料)したのだが、三匹は山梨県のハンタ^に引き取られていった。出産は4~5回目なので、母犬もなれたもの、土に穴を掘り5匹を産み、全部育て上げた。子犬は本当に可愛い物で、処分に悩まされるが、毎回楽しいもの。毎回ペットとしての引取りを御願いしていたのだが、残念ながら今回は三匹が猟犬として旅たった。これも運命なのだろうが、ペットとしての一生の方が長生きできるのだが・・・最後に引き取られた三匹は母犬と60日を過ごした。猟犬としてお渡しする時は通常30日から40日で親から引き離されるが、今回は60日!体もかなり大きくなり可愛さも増した分だけ、別れが辛い物になってしまった。現在成犬が三匹おり、これ以上の飼育は不可能なのだが、長くいたために今回が一番辛い別れとなってしまった。相手のハンターは猪猟を主にやるそうで、心配は尽きないのだがこれも運命なのだろうか・・・・ル・パスポートのホームページはこちらル・パスポートのホームページ 人気blogランキングへ
March 30, 2007
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今日は暖かい風が吹き荒れている。柿の芽が吹いてきたが、木々はまだ芽を吹いていない。これから秋までハーブティーの仕込みに追われる事になる。店の料理は全てコースになっていて、最後はお茶で締め括る。このお茶の95パーセントはハーブティーの注文をいただく。コーヒー・紅茶も有機栽培の最高の物をそろえてはいるが、これは流通品、私の自家製ではない。すべての料理を無添加自家製で提供するのが私の方針で、締め括りのお茶も!と言うことで、自家栽培のハーブティーに力を入れ、又進めてきたのだが、やはり限界があり一冬越す頃にはかなりの欠品が生じてしまう。タンポポコーヒーなどは妊婦さんに人気があるし、お腹に害がないお茶として人気があり、2月には欠品となってしまった。そこで時間のやり繰りをして、野生化したタンポポの採取に行ってきた。人家から離れた川の土手や、山に生えている物を掘り起こすわけだが、これが結構重労働で地中深く根を下ろしたタンポポを掘り起こすのは、時間が掛かる作業だ。このタンポポ捨てる所はない。芽出しの若葉はサラダになるし、成長した葉は乾燥してお茶になる。ダンデライオンと言う名で、排尿によって失われるカリウムの補充になる。根は掘り起こして水洗い、細かく切り乾燥させてローストしたものを粉砕し、お茶になる訳だがタンポポならどれでも・・・と言う訳ではない。一年ものでは根が割り箸のように細いので、3~4年物を探して掘らなければならない。ヤット一つ穴埋めが出来たが、マダマダ仕込むハーブは沢山あるが時間の調整が・・・ル・パスポートのホームページはこちらル・パスポートのホームページ 人気blogランキングへ
March 29, 2007
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この所の春めいた陽気は私にとって待ちに待った気候だ。昨年の暮れは外気も高く、相模湾の海水温度の下がらなかった関係で、例年冬枯れとなる漁獲量も、そこそこに獲れ、随分と助かったが、2月に入ると遅れながらも冬枯れが始まり、ここ彼岸が過ぎてから再び活気を見せ始めた。鯵も定置網にトン単位で入るようになり、メバルやサゴチ(サワラの小さいサイズ)も入るようになり、春の魚が市場をにぎわせるようになった。今の時期の石鯛などは油が乗っていて本当に美味しい。海も時化が続いていたが、ヤットな凪状態になり美味しい金目鯛も入るようになり、メニューに載せている。今日は金目鯛のリゾット仕立てを紹介しよう。金目鯛は非常に歩留まりの悪い魚で、一キロの魚でも下ろすと300グラムしか残らない。後はウロコと内蔵・骨だ!この魚を美味しく効率良く調理するには、骨も全て使わなくてはもったいない。頭や骨からは美味しい出汁(フォン)が取れるからだ。先ず魚を下ろして骨と頭を取り分ける。次に骨に付いた血などを歯ブラシでこそげ落とし、流水に晒す。それに少量の山に水と白ワインをタップリ注ぎ火に掛ける。そして香味野菜のスライスを加え、アクをすくい取りながらフォンを引き漉す。鍋に移したフォンを再び加熱し、あらためて香味野菜とエシャロットのスライス、トマトの角切りを加えて煮出す。それをミキサーで粉砕した後に丁寧に漉し、岩塩と胡椒・サフランで調味するとこのままでもスープになるほど美味しくなる。米にみじん切りのタマネギを加え、澄ましバターでジックリ炒めた物に、このフォンを加え、芯が残るように手鍋で炊き上げれば、魚の旨味タップリの美味しいリゾットが完成する。米は洗わずに使うことを守れば、オジヤではなくリゾットが完成する。魚の身をポワレして乗せても良いし、混ぜ合わせても良い。町の魚屋で金目鯛を一匹丸々買う時には是非挑戦してみては・・・料理はホームページにありますル・パスポートのホームページはこちらル・パスポートのホームページ 人気blogランキングへ
March 28, 2007
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開店してから33年!実に長いような短いような複雑な気持ちになる。平塚の明石町と言う場末で開店、9坪の小さな店からのスタート・・・色々な出来事が走馬灯のように現れては消えていく。私がここまで出来たのは、やはりご贔屓のお客様のお陰。自分なりに努力はしたが、やはり育ててくれたのはお客様だった。もうそろそろ終止符を打たねば!と思いつつ今日まで来てしまった。今回を持ちまして、このシリーズは終わります。有難うございました・・・次回からは又営業にまつわるお話を書きたいと思います・・ル・パスポートのホームページはこちらル・パスポートのホームページ 人気blogランキングへ
March 27, 2007
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私の学生時代の山や川は本当に綺麗だったし、安心して出かけることが出来た。ところが今はどうだろうか?川は家庭の雑排水や工場等の汚水でよどんでいる。見た目には清流に見えても、汚れていて釣り上げた魚は奇形魚が多く、とても口には出来ないまでに汚れてしまっている。これは山でも言えること。マイカーの普及と交通網の整備で、誰もが簡単に山や渓流に出かける事ができる状況と、社会マナーの低下とでごみの置き土産の山と化してしまった。もう一つの要因は、コンビニで手軽に食料や飲み物を買えることも、汚れに拍車を掛けてしまった。今やドライブコースの道路脇はごみためと化し、悪臭まで放っている始末だ。こんな例もある。丹沢山の中腹に富士見山荘と言うのがある(現在もある)ここの200メートル先に名水「護摩屋敷の水」と言うのがあるが、これは以前は山小屋で管理運営されていた。私もこの仲間に入っていて、管理清掃・点検・修復などの作業に参加していた。だが水のブームと共に来訪者が急増、マナーが著しく低下してしまった。そこで山小屋で水の会を結成、管理を強化した。このメンバーは山小屋の関係者や出入りのハンターなどで、日曜日など長蛇の列を作る水汲みに訪れる人を裁いていた。一つ問題があり、ハンターというにはかなり口が乱暴で、注意する言葉尻にも刺があり、批判もあったのだが、それだからこそ秩序が保たれていた。それが色々な事情があり,水の会を解散し管理を放棄した途端に、周りはゴミの山と化してしまった。運営に問題があったのも事実だがタガが外れ、今はひどい状態になり修復不可能な状態になっている。昔の日本は何処に行ってしまったのか?そんな割り切れない気持ちを抱えながら、今でも大自然の恵みをいただき、レストランを開店している・・・続・・・ル・パスポートのホームページはこちらル・パスポートのホームページ 人気blogランキングへ
March 24, 2007
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中学ニ年頃まで八百屋のアルバイトが続いた。その頃になると学校の中で結構仲の良い仲間が出来た。その中の一人に山登りが好きな奴がいて山に誘われた。何でもボーイスカウトに入っていると言う彼は,私を丹沢山系の尾根の縦走に連れて行ってくれたのだ。その感動は今も思い出すが、素晴らしい!の一言だった。季節は1月頃だろうか、学校の教室の窓から見える丹沢山は山頂にうっすらと雪化粧をしていた。小田急線で秦野駅まで行き、バスに乗り換えて蓑毛まで行く。そこからは徒歩で歩くのだが、ヤビツ峠を経て三の塔を過ぎる頃になると、箱根山とは違う景色に感動した。眼下に秦野市外が一望できたし、相模湾から江ノ島や大島まで望めるのだ。足元に生える植物も違うし、肌を刺す沢から吹き上げる風も箱根山とは全く違う・・・日曜日とあって尾根の縦走コースは賑わいを見せるが、それでも居間の登山ブームと違い、静かで登山者の息ズカイすら聞こえる程静かだ。三の塔を経て又秦野駅まで戻るコースで8時間ぐらいの工程だが、箱根山にはない丹沢山の魅力に私はすっかり取り付かれてしまった。当時の山にはゴミがなく、登山者のマナーも良く、箱根山にはない植物の分布も私を虜にした。以来、日曜日になると雨が降っても雪が降っても、一人で丹沢山の尾根の縦走に出かけていた。その頃にはアルバイトで溜めた金を使い一通りの用具を買い、キャラバンシューズからヤッケまで揃えていっぱしの登山者の風情をだし、それに自ら酔いしれていた。毎週山に出かけていたのには、幾つかの理由があった。先ず体力作りがある。風邪をひくと、すぐに喘息の発作に見舞われていた私は、将来食べ物商売に望む為には、強靭な体力が必要と判断していたからだ。丹沢山に通ううちに、かなり足も丈夫になった。毎回ダラダラ通っていても、体力は付かないだろうと判断した私は、駆け足で縦走の時間を短縮する事に挑戦していたのだ。登山用の地図を開くと、コースのポイントからポイントまでの所要時間が書いてある。それが50分と書いてあれば10パーセント短縮して到着できるように、駆け足で走りぬけるのだ。これができるようになると、かなりの体力の自信が付いたし呼吸も楽になり、風邪を引いてもさほど苦しまなくなった。尾根を縦走して余裕が生まれてくると、あたりの植物に気を配るようになった。先ず箱根山にはない植物が多く目に付いたし、一歩脇に入ると手付かずの自然が残っていて、山菜や野草の豊富さにも驚かされた・・・続く・・・ル・パスポートのホームページはこちらル・パスポートのホームページ 人気blogランキングへ
March 22, 2007
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学校が終わるのは3時ごろ。それが終わると八百屋に直行し、小僧となった。中学生の一年では、仕事らしい事はさせてもらえず、もっぱら店の前の歩道の掃除や水撒き、夕方からは野菜の配達が主な仕事となる。中学生ではオートバイの免許もなく、自転車の荷台に籠を括りつけ野菜を配達するのだ。自転車と言っても今のような軽い快適な物ではない。今は殆ど見かけなくなった魚屋などが行商に使う重くゴツイ奴だ。前にも書いたが、からだはそう丈夫ではなく、身体つきもそう大きくはなかった。本当に可愛い少年だった(今とは大分様子が違うが・・)おまけに配達先は対外大通りから一歩入った住宅街だ。大通りはコンクリート(当時はコンクリート舗装が多かった)で舗装されていたが、住宅街の細い道はまだ砂利道が多かった。からだの小さい私が、大きなゴツイ自転車に重い白菜などを山積みにして走る・・車体は荷物の重さで右に左に振られ、真っ直ぐに走る事も出来ない。おまけに道の砂利がタイヤを右に左にと、これもまた真っ直ぐ走ろうとする私の意思を妨げる。夕闇が迫る頃、ヤット私の仕事が終わる・・・これだけ働いてアルバイト料は30円~70円だ。時間給ではないよ!3時過ぎから暗くなるまでのトータルの賃金だ。随分安いと思うかもしれないが、子供の労働賃金はこんなものだ・・そこでは色々な物を勉強した。先ず接客!これが今でも役立っているし、商売の値の付け方と相手による値段の設定など今でも相通ずるのではないか?後は仕事が終わると夕食を出してくれる。これが一番嬉しかった。なんせ育ち盛りだからだ。その食事風景を説明しよう。その八百屋は数代続いた老舗で、建物も明治時代を思わせる風情が会った。表は現代風に陳列棚があり、狭い通路を確保しながら野菜が平面的に並んでいる。壁には調味料などが並ぶ棚が吊ってあり、メインの野菜は歩道側に展開してあり、天上からは竹のザルが下がっていて、小銭が入れてある。大きな会計は奥のほうにレジスターがあり、そこで清算するが、細かい会計はザルの小銭で支払いを済ませる典型的な八百屋や魚屋のスタイルだった。店の奥には裏庭に抜ける土間が続いていて、私のヒザ小僧の高さの居間がある。その一段上がった居間に主や女将さんが座る場所が設けてある。奉公人や私達のような小僧が食事をする時は土間に椅子を置き、一段上がった座敷を膳変わりに食事をいただく。完全に上下関係を表した食事風景だ。家に帰ると7時を廻っていたが、そんなことが楽しくて仕方なかった・・・続く・・・ル・パスポートのホームページはこちらル・パスポートのホームページ 人気blogランキングへ
March 18, 2007
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当時の私(ヤット中学生になった頃)は体が弱かった。喘息持ちの私は、風邪をひくと息が苦しくなり、医者通いを余儀なくされていたのだ。だが自分の将来像はしっかりともっていた。前にも書いたが10才の頃には漠然と!だが食べ物商売に進む決心をしていた。だから、そのために日々を費やしていた。学校は地区外の町の学校までバスや電車で通っていた。当時から倶楽部活動はあり、担任からしつこく入部を進められたが、決して強制される物ではなかったので、私は余り参加してはいなかった。学校が終わるとアルバイトに精を出していたからだ。アルバイトには八百屋を選んだ。食べ物屋を目指すならば、直に食堂に入ればよかったのだろうが、あえて食材の八百屋を選んだ。何を経験しても無駄はないと考えたからだ。これは父の教えが大きく影響していた。父は文筆業を生業としていて、何時も人と遭い話をしていた。それと物凄い酒豪でもあった。晩年,病床についていても酒は手放さず、何かにつけ要求し、ストローでチュウ々とやっていたのを思い出す。私の記憶に残る父の姿は、警察の道場で柔道をやる姿や、家で合気道の型を練習する後ろ姿、和弓の弓を引く姿などが殆どだったろうか・・・一番嫌な思い出は、剣道をやらされた事だ。何処であつらえたのか、子供のからだに合わせた胴や面が支度してあり、ご丁寧に胴の裏には家紋と私の旗印まで漆で書かれていた。竹刀は大人用ではなく私のサイズに作り直されていたが、その竹刀を何百回も素振りするのが嫌で嫌でたまらなかった・・・しかし、日本刀には興味があり、父が手入れをする時には何時も傍らに正座をして眺めていた。当時の時代劇では、刀を自由自在に振り回すタチマワリが主流だったが、実際に目の前にした刀をあのように振り回す役者が不思議でならなかった。刀はかなり重いもので、それをチャンチャンバラバラと振り回すことなど考えられなかったのだ。第一あの繊細な刃のついた刀同士の刃と刃が当たれば、かなりの刃こぼれをおこすし、第一そんな接近戦など考えられなかったからだ。実際に私も真剣での素振りや立ち回りの型をやるが、あの役者の振りはやはり演劇なのだと、当時からブラウン管の役者を冷ややかに眺めていた。だが日本刀の姿は実に美しい物だ。16歳の元服式に「左陸奥」と銘が入った古刀を1本送られたが、この刀は実戦で使われた形跡が、峰にキズとして残っていた。前の所持者の姿を思い浮かべることは出来ないが、新刀とは違い古刀には神秘的な魅力があった。そんな家庭で生まれ育った私は、いつでも親に反抗的な態度を取っていたように覚えている。しかし父はやさしかった。私が学校をサボり、釣り三昧で金を稼ごうとも何も言わなかった。普通なら、首に縄をつけてでも学校に行かされたのではないか?その父の口癖はサブ!(私は三男坊で三郎貞裕が幼い頃の呼び名)阿呆と言うのは、自分に関係ない物には関心を示さず、アホズラをして見過ごしてしまうから「アホ」なんだ!何でも見て吸収しておけ、後で必ず役に立つ!だった。その言葉に私は従っていた・・・続く・・・ル・パスポートのホームページはこちらル・パスポートのホームページ 人気blogランキングへ
March 17, 2007
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私は体は余り丈夫な方でなく、芋掘りよりも体力を必要としない魚釣りで金を稼いでいた。くず鉄なども拾い集めるとそこそこに金にはなるのだが、一回に一人でヤット抱えられるだけの量を集めても、十円とか二十円しかならなかった。当時から銅はかなり高値で、私たちは銅の事を赤と言って区別していたが、それもそんなには集める事が出来ず止めてしまった。高度経済成長時代前には危ない仕事(?)が結構あって、大人は電線泥棒をやる人がいた。山道の余り人が通らない所を選び梯子を電信柱に掛けると、するするとサルのようにのぼり、電線を切る。落下した電線の端を三輪トラックの荷台に括りつけると、全速力で走るのだ。すると電柱に止めてあった電線がバン!バン!と言う音と共に引き抜かれる。ある程度走ったら、電線を手繰り寄せ、脱兎のごとく逃げ去るのだ。たいがい捕まっていたが・・・私も見張り番に誘われたのだが、これは丁寧にお断りした。余りにもリスクを負いすぎるからだ。夏は鮎釣りに精を出し、旅館に売り込んでいた。朝早く起き川に出かける。毎日通っていると川の様子を把握できるが、雨が降らなくなるとかなり条件が変わってくるので、これで釣果が大きく開く。鮎は水底の岩に付く苔を主食にしているので、水温ガ変わると当然苔の繁殖条件も変わり、浅く水の流れが無い所の苔は枯れてしまう。常に水温を計り、最高の条件の所を確保しなくては商売?にはならない。釣り方は、「友釣り」と言い、鮎の縄張り争いの習性を利用した高度のテクニックを要する釣りかただ。釣竿から伸びた糸に生きた鮎を付け、その鮎の尻尾に当たる場所に大きな鋭い針を仕掛けておく。囮の鮎を、鮎がいそうな場所に誘導して泳がせると、そこを縄張りにしている鮎が体当たりの攻撃を仕掛ける。尻尾の方から体当たりをするのだが、この時、仕掛けた針に鮎が掛かってしまい、釣り上げられるのだ。勿論針の大きさや釣り糸の太さ、囮鮎の誘導の仕方などで釣果は大きく左右されるが、学校をサボってまで川に通っていれば、嫌でも名人芸までになる。この鮎を生かして8~10キロ離れた湯元の旅館街に売り込みに行くのだ。幼い頃から電車やバスを使って遠くまで親の使いに出かけていたお陰か、旅館や食堂に売り込むのにも抵抗は無かった。だが、小さな生簀の中に生きた鮎をいれ、生かした状態で目的地まで運ぶのには苦労した。バスで運んだのでは、今のように簡易エア~ポンプなどは無く殺してしまう。仕方なく、川の中を水を交換しながら運ぶ事になる。大きな岩を避け、大きな流れを避け草原を抜けながら目的地に着く頃には、もうヘトヘトに疲れてしまう・・・旅館に着く頃には日はドップリト暮れ、家に帰るのは8時を廻っていた。だが、生きた鮎は人気が有り、一匹80円の値が付き結構良い稼ぎとなった。ちなみに弱った鮎や、死んだ鮎は50円にしかならなかった・そんなことが有り、旅館の調理場には良く出入りしていた。当時の旅館の料理は今とは違い殆どの物を仕込んでいた。特に印象が深かったのは、羊羹だった。板前が大きな鍋にはいった餡を、私の背の丈も有ろうかと言うほど大きな木のシャモジでかき混ぜ、アンを練っている姿だ。真夏の事、当時の調理場にはエアコンなどは入っていなかった。火を沢山使う調理場はまるで蒸し風呂の中のようであった。額から汗を流しながら、フツフツと吹き上がる餡を焦がさないように底からすくい上げるようにかき混ぜる姿は、まるで餡と格闘しているように見えた。子供の頃の色々な体験が今の私だったと思う・・・続く・・・ ル・パスポートのホームページはこちらル・パスポートのホームページ 人気blogランキングへ
March 16, 2007
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前回の続編子供が金を手にするのは、そう大変な事ではなかった。今は無くなってしまった職業に「屑屋」というのがあった。今でいえばリサイクルショップと言うのだろうか?昔のことで車ではなくリヤカーと呼ばれる台車を人が引いて町内を廻り、不要になった屑布や瓶類、金属片などを買い取り商売としていた業者だ。年配のおじさんが(余り若い人はやらなかったような気がする)リヤカーを引きながら「クズ~ィ、クズは有りませんか?」と声を掛けながら練り歩くのだ。この頃はまだ物売りが結構村々を廻っていた。例えば、朝早く納豆屋が廻ってくる。ナット、ナット~と最後が粘りつくような調子で引き伸ばす。私の家の前には6時丁度に通るので、目覚まし代わりになっていた。今のような発泡スチロールの箱では無い、ワラで筒状に包装してあるやつで、1本十円だったと思う。昼間は金魚屋が木のタライに金魚を入れ日中練り歩いていた。エ~キンギョ、キンギョ~えキンギョ!てな具合で練り歩く金魚屋の跡を子供がぞろぞろと付いて廻っていた。夕方は豆腐屋が自転車に木の箱を載せ、ラッパを吹いて売りまわっていた。丁度夕焼け蛾始まる頃に、家の前を通っていたのを覚えている。そうそう、たまにだがシジミ屋が来た。これは朝早くだったか?そんな時代で今のような消費経済ではなく、殆どの物がリサイクルされていて、捨てられる物などは無かった。だから、知恵と体を使えばコズカイ位は難なく稼げた時代だった。今から思えば当時の方がリサイクルが進んでいたのだろう。お酒の瓶などは全て回収され、また酒が詰まり店頭に並ぶ。回収しても破砕して原料にするのではなく、洗ってすぐに瓶として再利用するのである。牛乳などは紙パックではなく瓶で数段階の大きさがあり、全て回収され又詰められて廻ってきた。牛乳瓶の引き取り価格は確か3円~5円だったと思う。酒の一升瓶は10円位して、2~3本集めて酒屋や屑屋に持って行けば、子供には結構な収入になるし、第一酒屋に酒を買いにいくには、酒の瓶を持参してそれに酒を樽から計って入れてもらい帰ったものだ。そういえば味噌も計り売りで何匁と言う単位で買っていた。ビニールの袋などは無く、竹の子の皮や木を薄く削った板?状の物で包んでくれていた。山に入れば自然芋が沢山あり、体の大きな先輩はもっぱら芋掘りに精を出し、箱根湯元の旅館や当時でも有名だった蕎麦や「初花」などに売り込み、まとまった金を稼いでいた。芋掘りは結構重労働で、先ず藪に入り上空を見上げて芋の蔓を探す。次に蔓を下まで辿り、芋のありかを確認すると、そこに印しを付けてから鎌で廻りの草などを刈り取り足場を確保する。それから鍬や突きノミと言うシャベルを細く、肉厚にした鉄の道具で掘り進むのだ。条件が悪いと、石がゴロゴロと出て、掘り下げるノミの行く手を妨げるし、芋が真っ直ぐに伸びずに曲っている場合もあり、せっかく堀あげた芋にキズがつくことも有る・傷ついた芋は半額まで叩かれて買われるので,いかに無傷で堀上げるかが腕の見せ所となる。私は体は余り丈夫な方でなく、芋掘りよりも体力を必要としない魚釣りで金を稼いでいた。・ ・・続く・・・ル・パスポートのホームページはこちらル・パスポートのホームページ 人気blogランキングへ
March 15, 2007
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子供の頃の遊びや生活体験がいまの私の料理かもしれない。家の前に川があり、西の山は箱根山連邦、そして相模湾が見下ろせる。秋赤とんぼが現れる頃になると、山遊びに興じた。目の前の石垣山に登り、尾根を西へ向かうとやがて十国峠にたどり着く。山歩きは得意?と言うのはその頃からかもしれない。山に登るのに何も支度はいらない。殆ど手ぶら状態で、せいぜいポケットに折りたたみ式のナイフ(肥後の神?と言ったか)1本有れば半日位の山では事足りた。今なら水筒は必ず必要だし,携帯食料も少し持ち、甘い飴などをポケットに忍ばせ、更に簡易雨具、無ければ大きなゴミのビニール袋が最低限の持ち物となる。勿論大型のナイフ「剣ナタ」も腰にぶら下げて・・一般的に山には水が無い、特に山頂には!と言うのが普通だが、なに何処かしらに水源はあるものだ。もし水源が無くても、何か変わりになるものを口にすれば、のどの渇きは癒される。石垣山は昔山城があった場所で、通称「一夜城」と言う城跡が有る。その崩れた石垣の外れに「車井戸」と呼ばれる井戸が有る。小田原城が見渡せる山に一夜で城を築いた事で有名で有る城跡だ。この車井戸のラセン状に築かれた階段を降りると水の流れが現れる。水の流れと言ってもかすかに流れる程度だが、どんな日照りが続いても決して枯れる事は無く、今でも美味しい水が飲める。何でももう一つ井戸があると言う話だが、何年も探し回ったがとうとう見つける事が出来なかった。城を築くときには水が肝心で必ず水の確保から始まったと聞く。その井戸の水をタラフク飲み、尾根を散策箱根山に登る。植林の杉林を通リ抜けたり、雑木の林を歩いたり2時間も歩くと広い草原い出る。ここには野草や薬草がたくさん自生していて、たまに業者が採取に訪れる場所だ。子供の頃ここで大変苦い経験をした。悪がきが一本の草を差し出し、「この葉は甘いから噛んでみろ」というのだ・全町30センチ位だろうか、そんな甘い草があったかな?首を傾げながら口に放り込み噛む。暫くすると青臭さと共に苦味が口一杯に広がった!「ゲー!」と言って吐き出すと悪がきは、アッ!間違えた、こっちだよ!といって、その草の頭の部分を指し示す。草の先には小さな白い花が無数に咲いている。ぺッと唾ごと吐き出した後、言われた小さな花を噛み締める。と次の瞬間、前よりも数倍の苦味が口中に広がり、慌てて吐き出した。年上の悪がきは腹を抱えて笑い転げている。私が食わされたのは薬草の「センブリ」だと判ったのは、口中の唾を吐き出し、目を白黒させながらも何とか立ち直ったころだ。今ならイジメ、という事だろうが、そうではなく先輩が身をもって教えているのだ。こうして子供は山ではこんな物が有り、こうすると食べられるとか、これは金になる!と言うことを覚えて成長するのだ。お金と言うと、子供には汚い言葉だという大人もいるが、当時は「オコズカイ」などは殆どもらえず、お祭りやお正月ぐらいしか貰えなかった。」だが当時の子供の付き合いにも金は必要で,どうしても手に入れなければ、仲間の付き合いが途絶えてしまう。もっとも私の父は地元の子供と遊ぶのを極端に嫌い、なるべく町の子供や年上の者と付き合うように進めていたが・・・・子供が現金を掴むのはそう難しい時代ではなかった。チョッと頭を使い、体を使えばそれなりの金額は集められた。例えば鉄屑だ・今は鉄の値段が高騰して、鉄屑泥棒が横行していると言うが。昔も鉄は結構良い値段がしていた。今は無くなってしまった職業に「屑屋」という商売が有る・・・続く・・・ル・パスポートのホームページはこちらル・パスポートのホームページ 人気blogランキングへ
March 14, 2007
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私は小田原市の西側、旧東海道沿いで生まれ育った。南側には相模湾が望め、西側には箱根連山が連なるその麓で子供時代を過ごした。この地は気候風土に恵まれ、皇室の別荘予定地に選ばれる位で、となり村には旧海軍の病院がある位だ。だが両側を山に囲まれた谷間にある立地条件は、今の車社会に突入した高度成長期で一変した。私は入生田(いりゅうだ)という地名で生まれ、隣は風祭(かざまつり)という名でそれだけでも気候に恵まれた地だったと判断できる。それが谷間を国道一号線が通っているだけで、一変してしまった。昔では考えられない交通量に空気の浄化が追いつかず、都会のようによどんだ大気になってしまった。都会の人に言わせれば、ここの空気の方が綺麗!と言うが、子供の頃の澄み切った空はもうない。山の麓を一本の川が流れている。鮎釣りなどで有名な早川だが、昔と比べ水量が減り水質も随分と落ちたように思える。又ゴミの多い事!釣り客や水遊びに来る家族ずれの置き土産だが、川底には割れたビン類もありとても素足で入ることも出来ない川に変わってしまった。昔は今と違い、子供と親が一緒に過ごす時間は極端に少なかったが、子供達は元気で何時も悪がきのグループを作り、山や川に出かけては遊んでいた。夏、川に出かける時には、途中の畑から胡瓜をかっぱらい持っていく。川につくと、枝分かれした細い川を探し、そこを堰きとめてしまう。巾がせいぜい2メートルくらいの細だ。道具などは使わない。先ず川に石を投げ込み石の土手を築く。これだけで随分と水量が減るのだが、マダマダ水は流れている。そこに草などを運び、石の間に入れ漆喰状態にすると、殆ど完成する。更に泥を詰め込めば、30分もすると川底が現れるくらいになる。そこで鮎やウグイなどを捕まえるのだ。川底にわずかに残った水溜りに鮎やウグイが背中を見せながら泳いでいる。それを手掴みにするのだ。今子供会などのイベントに企画するマスの掴み取りに似ているが、こちらの方が何十倍も迫力に富んでいる。やがて魚も採り尽くされ、川底が乾いてくる頃になると、クライマックスのウナギ獲りが始まる。鮎やウグイと違い、ウナギは実にしぶとい!真夏の太陽に照らされた石はかなりの熱を持つが、その下に潜りジットしている。それを数人係で石を裏返すと、真っ黒なウナギの背中が現れる。だが、このウナギを素手で掴むには、ちょっとしたコツが必要だ。川に向かう時に畑から胡瓜を失敬したが、葉っぱも数枚もいでくる。この胡瓜の葉は表面に小さな刺が無数に生えていて、これでウナギを包むように掴むと、素手で掴むよりも簡単に取ることが出来るからだ。誰に教わるでもなく、ガキ大将から順次伝承された子供の知識だろう。魚が採り尽くされる頃、焚き火が用意されている。今なら子供が火遊びなんて!と目くじらを立てるところだが、当時は人家の側で焚き火が燃えていても、オイ!バケツに水を汲んで置けよ!と注意される位で、それほど怒られることも無かった。その焚き火で鮎を焼いて喰おうという訳だ。何人も集まると、物資調達の分担が自然に出来ていて、誰かしらが塩や味噌を持ってきていたし、美味くやれば握り飯を持ってくる奴もいた。川洲の藪で細い竹を切り出してきて、魚を焼く串を作り起用に魚を串焼きにする。チリチリと美味しそうに魚が焼ける頃、失敬してきた胡瓜を川底から引き上げ、宴会?が始まる。ウナギは丈夫でバケツの中で結構長時間生きているので、家にお土産だが、魚はすぐに死んでしまうし、川魚は特に痛みが速い。そこで川で食べてしまうのだ。その川も今や「どぶ川」とまでいかないが、かなり汚れて昔の面影はない・・・・・・続・・・ル・パスポートのホームページはこちらル・パスポートのホームページ
March 13, 2007
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子供の頃空気銃が買えない私はこんな方法でヒヨドリを獲っていた。ネズミをバネで挟み込んで獲るネズミ捕りを御存知だろうか?今でも金物屋に行けば置いてあるはずだが・・・あのネズミ捕り、当時は安かったように思う。あれを改造してヒヨドリを獲ろうと言う訳だ。このネズミ捕り、厚い板の上にネズミを挟み込む太い針金のバーがスプリングで固定してある。それを起こし、バーをフックで軽く抑える。そのフックにネズミの餌を差し込んでおくと、ネズミが餌に食いつく衝撃で、バーを止めてあるフックが外れスプリングの力でバーがバッチンとネズミを挟み込むという簡単なものだ。もうお判りと思うが、この仕掛けにヒヨドリの餌を刺し獲ろうと言う訳だ。だがチョッとした細工が必要だ。先ずネズミとヒヨドリでは体重が違うから、ノーマルの設定ではヒヨドリが餌を啄ばんでもフックは外れない。そこでフックとバーの引っかかりを最小限に緩めてやる必要が有る。角度が問題で今私が使っている猟銃のチューンナップと原理は全く同じだ。仕掛けをセットして、そこに餌のミカンの輪切りを差し込んでおく。余り軽くセットをすると、鳥が板に載る衝撃でフックが外れ逃がしてしまうが、重くすれば餌だけ食われて獲れないことになる。そこでギリギリの調整が必要となり、それを克服できる者だけがヒヨドリを手に入れる事が出来るのだ。先ずバーとフックの角度の調整と、接触部分にヤスリを掛け、更にオイルを塗り滑りやすくする。次に餌のミカンの輪切りを差し込んだ後の微調整をしてミカン畑の木の下に仕掛け、十数メートル先の草むらに身を潜め掛かるのをジット待つのだ。この時、餌のミカンをケチってはいけない、ヒヨドリは美味しいミカンしか突かないのだ。こうやって当時の子供達は銃が無くてもヒヨドリを獲る事が出来たが、今は狩猟法がありそんな事をやればすぐ御用となってしまう。昔は法が有ってないような物、そのくらいでは世間は黙認してくれた、良い時代だった。・・・続・・・ル・パスポートのホームページはこちらル・パスポートのホームページ 人気blogランキングへ
March 11, 2007
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山に入り、様々な食材を採取して更に盛り込む。それをお出しする時には、これは何処々の何でこの用にしました・・・と説明しながらお勧めするのだが、中には素晴らしいですね!山を散策できて・・!綺麗な山に入り、食材を採取するなんて・・・と羨む方がいらっしゃるが、山は決して綺麗でも素晴らしい物でもない。私が小学生の時分大分前になるがその頃の山は綺麗と言うより、自然がそのままで素晴らしかった。その里山で山菜や野草の勉強をしたのだが、タラの芽でもウドでも沢山あり、どちらかと言うと、採る人が少なく探す苦労も無く手に入った。あの頃は楽しかった。何が?とにかく自宅の裏山がミカン畑で一山越せば、林業に携わる人以外入り込まない里山や雑木の林が沢山あり、ススキの原や草原にはウサギが沢山いたからだ。今にして思えば、狩猟への関心はその頃芽生えたのだと思う。山に自生する草花や山菜を探し、これはアルカロイド(アク)が強いからこうしなくては食べられない!とか、鬼アザミの根っこはヤマゴボウと言い食べ方は云々と本を片手に散策、草原にウサギの糞を見つけると、これを獲る罠を仕掛けて過ごした。今ならウサギを獲るなら、猟犬を使い追い出してから鉄砲で射止めるが、そんなものが無いので罠を仕掛けた。罠は簡単な仕掛けで、針金を支度しカウボーイが使う投げ輪のような仕掛けを作る。勿論相手がウサギなので、輪の径は15センチ内の小さな物だ。これをウサギが通る道に仕掛けるのだが、輪を道に立てて端をしっかりした杭に結び付け地面に差し込んでおく。そして、そのまま放置して毎日様子を見に行くことも有れば、悪がきが集まれば大勢でウサギを追い出し、罠のほうに追い立てて獲る事も有る。追われたウサギは一生懸命に逃げ、運がよければ道に仕掛けた針金の輪をくぐりぬけようとするが、端が杭で地面に固定されているので、首に針金の輪が食い込む事になる。そうすればしめた物、暴れれば暴れるほど首が締まり、最後にはぐったりと横たわる事になる。これを仕掛ける条件は草がほどよく茂り、はっきりとウサギの道が出来ていて、丁度草のトンネル状態に道が出来ていなければ、効果はない。そのような場所を探すには根気が必要だが、なに子供時代は時間が無制限に有るから、こんな事も出来たのだろう。後は小田原はミカンの栽培が盛んだった(今もだが)ミカン山にはヒヨドリが住み着きミカンが熟れる頃になると、あちこちでピー・ピーギャーギャーとさえずりながら飛び交っていた。このヒヨドリ、ミカン農家にとっては害鳥で収穫間際になるとミカンを突付くこの鳥に困り果てていた。これも当時から美味しく食べられる物と認識していた。この鳥を取るにはよく空気銃を使ってた。当時の空気銃はおもちゃで子供の雑誌に広告が載っていて、誰でも許可無く買う事が出来た。確か8500円から9500円だったと思う。機構も簡単でバネの力で鉛弾を飛ばすもので弾速も遅く、飛ぶ弾が目視出来る位で、真っ直ぐには飛ばず右に左へと蛇行して飛んでゆく代物だが、当時の私には憧れのものであった。小学生では幾らオコズカイを溜めても手が出る代物ではなく諦め、身近な物を利用してこのヒヨドリを獲っていた・・・続く・・・ル・パスポートのホームページはこちらル・パスポートのホームページ 人気blogランキングへ
March 10, 2007
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一年中あちこちの山を歩いていると、いろいろな物を見つける。だが見つけてからと言って,すぐにメニューに加えるわけではない。なんと言っても口に入る物で、安全・安心、そして話題性や美味しい個性が無くては無理に乗せるだけの話で終わってしまうからだ。こんな例もあった。野生のホップだ。秋には無理やり時間を割き、あちこちの山へ収穫に向かう。一番近い山、丹沢は植林が進み里山が荒れている関係上なかなか茸の発生する場所を見つけるのが難しくなってきた。そんな話をすると、今まで採っていた場所は?と怪訝そうな顔をするが、自然での発生状況は刻一刻と変化をしていく。先にも書いたが、茸の発生条件は、先ず菌が繁殖しやすい樹種があることが最低条件で、次が湿度・温度・日照条件が揃わなければ発生しない。そんな場所探せば良いではないか!と考える方もいるが、私は商売で採取する。とても一本や二本採取していたのでは、時間の無駄になってしまう。そうなると大量に採取するには、条件の整った広い場所がある所をさがさなくてはならない。去年あった場所はと言うと、周りに草が繁殖したり、立ち木が成長したりで環境がドンドン変わり、これから条件を満たす場所以外は出向いても収穫量は確実に減るからだ。そのような理由で、暇さえあれば山を徘徊?しなくてはならない。勢い、地元丹沢山だけでは限界を生じ、富士山やその裾野まで足を運ぶ必要が有る。10月に入ってからだろうか、鉄砲の師匠と山中湖の山にアシナガ(茸)を探しに言った時、始めて登る山でろくな収穫も無くそろそろ帰り支度というときに、低木にからみつき、楕円形のはなを沢山見つけた。花はすでに枯れ、茶色く変色していたのだが、どこかで見たような物、首を傾げながら口に放り込み噛み締めると、ジワット苦味が広がった。もしかしてあれかな?少し採取して帰宅、図鑑を広げるとあった。間違いなくホップだった。その年は収穫できずに、一年後に採取してみたのだが、利用法が今一思い浮かばず、結局メニューに載せるようになったのは三年後だった。山に入り、くまなく散策を続けると色々な物が目に飛び込む。それらの利用法を考える時間が私は一番好きだ・・・続く・・・ル・パスポートのホームページはこちらル・パスポートのホームページ 人気blogランキングへ
March 9, 2007
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野菜のデザートと言えば、好評であったがやめざるえなかった物が有る。夏に出回る「ミョウガ」だ。これは丹沢山の野生のものを採取して使うのだが、やまの環境がここ十数年で変わり、採取が難しくなってしまったからだ。初夏に出回るミョウガは薬味などに広く使われるが、恐らくデザートに加工するシェフはそう多くは存在しないだろう。野生の物を採取するとなると、その手間暇だけでも大変な物だからだ。お客様に説明すると、「そう、ただで手に入るのですね」と言われる方がたまにいる。だが、タダヨリタカイモノハナシ!と言うコトワザがあるように、そこまで出かけ採取するには、下見が数回必要で、しかも山には私以外にも大勢の人が入り採取する。当然競争になるし、取り易い距離や地形にあるところはなかなか独占できない。勢い人が嫌がる遠くまで、しかも入りずらい地形のところまで足を運ばなくてはならない。それらを考えると決して安い物ではない無いのだが・・・さて採取したミョウガは泥などを良く洗い落とし、あく抜きを行なう。これは砂糖を溶かし込んだ水で軽く茹でこぼし、水を良く切り使用するのだが、あくまでもサットだ。ミョウガの繊細な個性を抜きすぎては、ワザワザ山まで出かけ、採取する意味がなくなるからだ。これを「ファー」に仕込むのが一番手っ取り早い。ファーとは粥を意味する言葉だが、余り硬くせず柔らかめに仕込んだ方が、ミョウガの歯ざわりを実感できる。それを何故やめざる得なかったのか、と言うと。丹沢山は今「山ヒル」の異常発生で山の頂上から里山までヒルに覆い尽くされているからだ。十数年前前までは、ヒルは特定の山奥に多く生息していて表丹沢や里山にはほとんどいなかったのだが・・・気候の変動やら植林の拡大、更にそれに伴なって鹿の異常なまでの繁殖などが要因だろうが、ここまで来るともう手の付けようが無く、山に入る時はこの吸血鬼にたかられるのを覚悟しなければならなくなったのだ。数匹なら嫌でも我慢は出来るのだが、ミョウガの生育条件で有る日陰山や沢沿いは雅にヒルの溜まり場!入れば全身を喰われ血だらけになってしまう。あるときは全身で21匹に喰われ、自宅で恐る恐る下着を脱ぐと全身真っ赤!パンツまで赤く染めリ、思わず「ヤバイ、始まった」と家内に叫び「馬鹿!」となじられた位だ。そんなことが続きミョウガだけはやめてしまった・・・続く・・・ル・パスポートのホームページはこちらル・パスポートのホームページ 人気blogランキングへ
March 8, 2007
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数年前の事だが・・・ある日デザートの切り替えの時期がきた。さて何か材料は?と見回してもこれと言った物が無いし、ありきたりの物を繰り返すのは嫌だし・・・ふと材料置き場を見回すと、青森産のゴボウが束ねてあった。何で何時仕入れたのか、余り記憶が無いのだが、新ではなく貯蔵品だ。確か新ゴボウの時はスープに仕立てたが・・・このゴボウ油との相性は抜群に良いし、加熱した時の香りはたまらない。そしてしっかりとした歯ごたえは、ゴボウの存在感を出してくれる。そこで、今有る材料を点検し、レシピを組み立ててみた。先ずゴボウ、それに合うのは醤油か味噌、甘味は砂糖だが単純すぎるから蜂蜜は?炒めるにはバターでは高熱に負ける。ではサラダオイルで先ず香りだしをするか・・ゴボウだけでは食感とフレンチスタイルに欠けるからナッツを加えるか?スタイルは日持ちを考えタルトに!と言う具合に組み立て、仕込んでみた。先ずゴボウはササガキに切り、水にさっと晒して水切りをする。長時間では個性が失われるからだ・次にサラダオイルで香りが出て、水分が飛ぶまで炒める。次は甘味だが砂糖と蜂蜜を入れる、砂糖だけで甘味をつけると、単純な味に仕上がってしまうからだ。そしてバターと生クリームを加え、ローストした野生の胡桃を加えてみた。最後に米味噌を加え、冷ましてからタルト生地に敷き込み焼いてみた。冷めてからカット、恐る恐る口に運んだが、これが行ける!歯ごたえはしっかりとあるし、甘味も程よいが少し減らすか?香りもゴボウと味噌!抜群!それから配合の手直しをし、現在のタルトが仕上がった。ナッツは数種類揃えた方が良かったのかも知れないが、野趣を強調したいので丹沢山の鬼クルミ一本で仕込んでいる、雅に和の材料で野趣豊かなフレンチのデザートが仕上がった事になる・・・続く・・・ル・パスポートのホームページはこちらル・パスポートのホームページ 人気blogランキングへ可愛いビーグル犬の子犬が生まれました里親を募集しています(無料)お引渡しは3月からですご連絡くださいlepasseport2000@yahoo.co.jpまでメールでご連絡ください今日の写真はオスです 残り3匹です
March 7, 2007
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冬霜が降りると大根が美味しくなる。エ!フレンチで大根?と思われる方が多いのですが、フランスでも大根は有ります。ただ、日本のような真っ白な大根ではなく、外側が黒く中が白いと言った具合ですが・・・私はこの大根を多用する。先ずサラダには白い部分を短冊に切り、葉物と合わせれば歯ごたえが楽しめるサラダになる。付け合せとしては大根の皮を厚めに剥き3センチ位に輪切りにし、米の研ぎ汁で軽く茹で鍋止めをして余分なアクを抜く。それを美味しいクールブイヨンか鳥の手羽先で取ったブイヨンで下味を染み込ませておく。冷蔵庫で結構日持ちがする。これを盛り付け寸前に隠し包丁を入れ少量のサラダオイルでコンガリト焼き、仕上げに赤ワインを振りかければ、立派な付け合わせが完成する。私は今の時期、魚のブリの付け合せとして仕込んでおく。言わば「フレンチブリ大根」だ・・・デザートにも活躍している。サイコロにカットした大根を小麦でまぶし、油でジックリと揚げると大根の余計な個性を取り去り、適度の大根の味が残るデザートが仕上がる。ソースはメープルシロップなどを煮詰め、アクセントとしてバルサミコ酢などを加えたものを振りかければ、美味しい大根のフリッターが完成、更にアイスクリームと組み合わせれば、誰もが喜ぶ一品になる。更に美味しい大根ならば、大根らしさをフルに発揮できる調理方が有る。ブラマンジェだ!これはご存知のとうり、「白い 食べ物」ということだが、大根で仕込むと実に美味しい。先ず大根の皮を厚くむく。次に荒めの下ろし金ですりおろす。次に美味しい水(これが決めて)の中に放し、米の研ぎ汁を加え軽く沸かして鍋止め、一晩おく。これをザルにあけ、又美味しい水に放してから漉し取る。後は牛乳を温めて大根を入れ、少量の砂糖で調味しゼラチンを加えてから冷やし、固まる直前に少量のホイップクリームで大根の角を取り、冷やし固めれば完成!このようにチョッと知恵を働かせ、手間隙を掛ければ美味しい野菜のデザートが完成する。とにかく日本の野菜は美味しい。何も外国の野菜を取り寄せて、アアでもないコウでも無いとやるよりも身近な食材で美味しいフレンチが完成する。以前デザートの材料が無くなり、思案に暮れていたときゴボウが目に入った。確かゴボウはキンピラが美味しかったな・・・と思い出し、いたずらをしてみた ・・・続く・・・ル・パスポートのホームページはこちらル・パスポートのホームページ 人気blogランキングへ可愛いビーグル犬の子犬が生まれました里親を募集しています(無料)お引渡しは3月からですご連絡くださいlepasseport2000@yahoo.co.jpまでメールでご連絡ください今日の写真はオスです 残り3匹です
March 6, 2007
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開店して30年が過ぎた。メニューも落ち着きをみせ,私の思うような形になってきた。先ずフレンチスタイルで有りながら、日本人がホッとして楽しめ、又フレンチを感じさせる料理と安心・安全を全面に出した形だ。又身近な食材で有りながら、その使い方で新しい食感を提供できた。例えば我々なじみの白菜があるが、和食では鍋に使うか漬物として利用するかだが、私は旬の真冬にこれを多用する。柔らかい葉はサラダにすると実に美味しい。甘味とかすかな苦味がどんな料理にも合う。これが有機野菜なら問題は無い。まず筋を避け手でチギリ、水に放してパリッとさせておく。これに合うドレッシングは柑橘系で色々な配合があるが、例えばグレープフルーツの果汁とオレンジの果汁、オリーブオイルとを合わせ、岩塩・胡椒で調味し、マスタードで味を引き締めればOK!白菜と貝柱やヒラメの薄切りを合わせ、先のドレッシングをタップリ掛ければ出来上がり。何とも簡単なレシピだが、これが結構美味しいのだ。白菜の白い茎は短冊に切り葉物と合わせれば実に美味しい。また、全体をザク切りにしフライパンで炒め下味を付けた後白ワインで蒸し上げると、立派な付けあわせが完成する。この後アサリなどの個性的な貝のフォンを絡ませれば、これだけで立派な一品なってしまう。デザートに使うには白菜を根元の茎を切らずに6等分に割る。根元が付いているので、バラバラにはならないから、水につけゴミを取り水切りをして置く。次にフライパンに少量のオリーブオイルを引き、全体を軽く火入れし、白ワインをかけてから、中温のオーブンに入れ、根気よくローストする。全体が狐色に変わる頃にはかなり小さくなっているが、白菜の甘味が凝縮されている。これをデザートに使うのだから、一ひねり必要だ。ソースだがバルサミコ酢を手鍋でワカシ濃縮、5分の1位まで詰まるとかなりトロミがでるので、これをソースとして白菜の上に糸掛けし提供するのだ。これで一皿完成させるには寂しいので、盛り合わせの一品として利用している。このように、野菜を多用したフレンチが完成した。次回は御馴染みの大根を利用した例を紹介しよう・・・続く・・・ル・パスポートのホームページはこちらル・パスポートのホームページ 人気blogランキングへ可愛いビーグル犬の子犬が生まれました里親を募集しています(無料)お引渡しは3月からですご連絡くださいlepasseport2000@yahoo.co.jpまでメールでご連絡ください今日の写真はオスです 残り3匹です
March 4, 2007
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自家製チーズは全部で8種類揃った事になる。それぞれに更なる工夫改良はは必要だとは思うが、とりあえずこれで終止符を打つ事にした。ここまでで開店してから30年を過ぎた。思えばよくここまで続いて来れた物だと、しみじみ考えさせられる。メニューもフレンチの装いをしているし、全て無添加自家製を達成できたたと思うが、只一つ続か無かった物があった。それはバターだ・・・製造自体はそれほど苦ではないが、副産物の処理と原価が掛かり過ぎ!と言う問題がどうしてもクリア出来なかったからだ。バターはご存知の通り牛乳から造られる。牛乳からは先ず生クリームを分離させる。これも簡単で、牧場から持ち帰った原乳を静置、比重差で脱脂乳とクリームとを分離させ、チュウブで脱脂乳だけを抜き取る。残るクリーム分は約4,5パーセントで100キロの原乳からは4,5キロ分離できる計算になる。そのクリームを冷やしながら攪拌(チャ-ニング)してやると、やがてバターの粒が出来る。更に冷水を加えて続けると、しっかりとしたバターの粒が出来る。これをバットに取り、ヘラで練りながら余分な水分を抜いてやれば、無塩バターが完成!と言うわけだが・・・問題はかなりのコスト高と、最初に残った脱脂乳をどうするかだ。2キロ強のバターを手作りすると、95.5キロの脱脂乳が毎回できる訳だから、それをどのように使いこなすか・・・そんな理由で中断してしまった・・続く・・・ル・パスポートのホームページはこちらル・パスポートのホームページ 人気blogランキングへ可愛いビーグル犬の子犬が生まれました里親を募集しています(無料)お引渡しは3月からですご連絡くださいlepasseport2000@yahoo.co.jpまでメールでご連絡ください今日の写真はオスです 残り3匹です
March 3, 2007
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今年の異常気象にはまいりました・・・愛犬の春が前倒しで来てしまい、子供が生まれてしまったのです犬種はアメリカンビーグル系なのですが、私は猟犬として飼っています薩摩ビーグルとプロットハウンドの血も少し入っている為白系も出ますが、性格はおとなしく、お子様がいても安心な犬種です今元気に歩き始めました猟犬として最適な犬ですが、ペットとして可愛がっていただける里親を募集しています条件は神奈川県の平塚市まで引き取りに来れる方です勿論料金は要りませんご希望の方はメールを下さい写真を送らせていただきます 村上ル・パスポートのホームページはこちらル・パスポートのホームページ 人気blogランキングへlepasseport2000@yahoo.co.jpまでメールでご連絡ください今日の写真はオスです 残り3匹です
March 2, 2007
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いよいよ試食!新しいタイプのチーズを開拓すべく試行錯誤を繰り返している。灰被りのチーズ、シンデレラ姫は良い結果が出た。あれで行けるはずで後はどこまで熟成させるか?チーズに対しての灰の量と手入れは?チーズは本来ワインと一緒に楽しむ物だが、ここの店の立地条件からは車での来店が大半を占める。こちらからはワインの勧めることは出来ない弱み?がある。ワインとチーズの相性は抜群で、お互いが良さを引き立てて「これぞフランスの食文化!」という気分にさせてくれる。勿論お食事前も食事中も、食後までワインがあれば申し分の無い時間と料理が楽しめるのだが、まだ私たちの生活レベルからは現実離れの感があり、それをお勧めするには無理がある。せっかくのフランス料理、本来の楽しみ方を味わっていただけたら、と思うのだが・・・愚痴を言っても仕方ない、現状で出来る限りのサービスを提供しなくてはならないジレンマと戦いながらの思考錯誤だ。当然チーズの熟成加減にも影響してくる。ワインを外して召し上がる方が大半となれば、チーズの熟成度も考えなくてはならない。それと、幾ら洋食に慣れてきたとはいえ、まだまだ真髄を味わってはくれない。そうなれば若目のチーズ、完熟前のチーズの方が個性が出きっておらず、やや淡白さが残る状態の方が無難と言うことになる。さて、いよいよ「マール」の試食を開始した。冷蔵庫からタッパ-を出し蓋を開けると、プ~ンと赤ワインの香りが・・・雑菌の混入を防ぐ為、ラップで指先を覆い円盤状のカードを取り出すと、白い生地がマバラに小豆色に染まっている。カードの表面はさらさらしていて、発酵の兆候は余り無いようだ。やはり温度管理が問題だと思うが、常温での発酵にはやや問題があり、この条件で時間の経過を見る事にした。まな板の上でカードを半分に切り断面を確認すると、まだ表面だけが小豆色に染まり中は白い。更に小さく切り口に放り込む・・チーズと言うよりはまだカードと言う感じで熟成した、とは呼べない代物だが、鼻から抜ける香りが何とも言えずこれは素人受けするな!と言う感じだ。食感は少しボソボソとした淡白さが残るが、これはこれでよしとするか?・・・・・・・続く・・・ル・パスポートのホームページはこちらル・パスポートのホームページ 人気blogランキングへ可愛いビーグル犬の子犬が生まれました里親を募集しています(無料)お引渡しは3月からですご連絡くださいlepasseport2000@yahoo.co.jpまでメールでご連絡ください今日の写真はオスです 残り3匹です
March 2, 2007
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今回は新顔のチーズ「マール」の試食の話を書こうと思ったのだが、次回に譲り山の有害鳥獣の話を書こう。山の野生の鳥獣類は絶滅に瀕している物は保護され、増えすぎ林業や農業などに被害を及ぼす物は狩猟や有害鳥獣駆除によって調整される。なぜ今このような話をするかというと、先月テレビの報道番組で丹沢山の鹿の被害状況が放映されたからだ。この日の夜は久しぶりに早めの帰宅で、テレビのスイッチを入れたときに映し出された人物が知り合いの顔で、耳を傾けたのだが・・・何でも鹿の食害による状況を説明、いかに鹿が増えたのか、と言う内容だったが、そこに登場した有る施設の責任者が、山の斜面を指差しもっともらしく説明していた。「あそこに鹿が見えるが、今まではこんな所には現れ無かった、いかに鹿が増えたか、対策が云々・・・」と言っていたが、実際の話そこは本人が鹿の餌付けを行なっている場所、しかも保護区で誰も追いかけなければ、当然昼間でも人目に触れるのは当たり前!それをいかにも近年鹿が増えているように話していた。この人はマスコミにはチョクチョク出演、その方面ではかなり有名な人だが、問題の餌付けも保護を目的に呼びかけ、全国からお茶のデガラシを集め餌付けをしていた。それを有る大学の先生に異議を唱えられた経緯が有る。それも十数年前の話だ。そして、鹿が増え出したのもその頃で、丹沢山全山の適正生息数の調査を行った結果、1400頭(?)位の数字が出、あわてて狩猟による駆除の期間延長を始めたくらいだ。何でも適正生息数は700頭台だとか・・・農業や林業従事者は異口同音に駆除を叫ぶが、駆除を決める行政の姿勢にも問題があるのではないか?そこまで変えたのは我々人間の勝手な開発が自然のバランスを変えたのだから・・・現在の丹沢山の鹿の生息数は2500から4500頭という曖昧な数字が出ている。それだけ増え、実数の把握が難しくなっているのが現状だ。しかもその内容のバランスが悪く、ほとんどがメスでオスはほんの一握りしかいない。狩猟期間は現行法でオスしか捕獲が許可されていないからだ。だがオス一頭いれば数十頭のメスに種付けが出来るから、確実に全体数は増えることになる。私も狩猟で鹿を撃ち、商売に繋げているのだが、色々な問題を考えさせられる・・・続くル・パスポートのホームページはこちらル・パスポートのホームページ 人気blogランキングへ可愛いビーグル犬の子犬が生まれました里親を募集しています(無料)お引渡しは3月からですご連絡くださいlepasseport2000@yahoo.co.jpまでメールでご連絡ください今日の写真はオスです 残り3匹です
March 1, 2007
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